学びの栞 (B) 


 42. 善と悪・罪・憎しみ


 42-a. 復讐してはならない

 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が復讐する」と書いてあるからである。(ローマ12章17-19)
 「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、はかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。
 「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

  (マタイ5章38-48)

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 42-b[25-b] (すべてを包含する宇宙から見ると悪というものはない)

 ―でもラムサ、もし法律がなかったら、誰かが自分の内にある悪を表現して悪いことをしてしまうのをどう防ぐのでしょうか。

 よく聞きなさい。すべてを包含する宇宙から見ると、悪というものはありません。人間は魂が邪悪であると記されていますが、そうではありません。人間の魂は神なるものです。なぜなら、その魂、そして人間の存在そのものすべてが神だからです。もしそれが神でないとしたら、それはいったいどこからやってきたというのでしょうか。
 父なるもの、存在自体の管轄外にあるものはないのです。ひとつとしてありません。悪である、間違っていると誰かが判断した想念や行為は、意識の中では生きているものです。そしてもし意識の中で生きているなら、それは間違いなく神の精神の一部なのです。すべては神の一部ですから、もし何かひとつが悪であると言うなら、それは神もまた悪であると言っていることになります。神は悪ではありません!でも、神は善でもないのです。なぜなら、善というものの境界を定めるためには、悪、あるいは邪悪なものという考えに対比して判断しなければならなくなるからです。
 神は善でも悪でもありません。神は悪でないのとまったく同じように善でもないのです。そして神は完壁でもありません。父なるものはただ在るのです。すべての生命の「在るということ」であり、自身を知るためによろこびを得るということ自体のよろこびのために生きる「いまという瞬間の表現」なのです。そしてこの生の本質には、その壷をいいとか悪いとか、邪悪とか神なるものとか、あるいは完全か不完全かとかを判断することによって、ただ在るという状態から脱して何か他のものに変容するということはできないのです。
 神が世界を見下ろして、「これは邪悪だ」と言うことができたらどうなるかわかりますか?意識というもの全体、つまり、表現する必要があるものを表現しているすべてが、生の流れから消滅してしまうのです。もしこれが起きたら、生とその途切れない広がりが存在しなくなります。もともと創造を可能にしている自由意志が存在しなくなるからです。しかし、神は、完全に無限の「在るということ」、そしてその分かつことのできない全体性なのです。ですから、神は、制限を課すような限られた見方で自分自身を見つめることはできないのです。もしそれができたとしたなら、あなたはここにいることも、自分や自分の兄弟を判断するといったひとつの選択肢を体現していることもなかったでしょう。
 主よ、善も悪もないのです。あるのは「在るということ」だけです。「在るということ」では、すべてのものは、その部を満たしたかどうかだけで見られます。その魂が叡智の中で自己を満たしていくために必要な感情面の体験だけについて見るのです。あなたがこれまでしてきたことはすべて、たとえそれをどんなに美しいもの、あるいは卑しいものとあなた自身が判断してきたとしても、それはただ知るということのためだけにしてきたことなのです。何かを学ぶために、自分の魂と情熱に押されてしたことなのです。それを実際にしてみることによって、はじめてあなたはそれをすることの価値に気づき、またその価値を確かめることができて、そこから何かを得られたのです。それは邪悪でもないし、よこしまなことでもありません。それが神になるために必要なことなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 183-185

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 42-c[25-c] (もし善と悪があると信じるのならそれはあなたの真実である)

 神ではなく、人間が人間に審判を下すのです。人間は、その創造性を駆使して善悪のバランスを編み出し、自分の同胞たちから表現の自由を奪ってきました。宗教的な教義や政府の定めた法律に従わない者に対する刑罰への恐れは、もう長い間、国家を支配し統率するための剣として使われてきました。そして、もし皆の言葉で「邪悪」と呼んでいるものがあるとしたら、それは存在の内にある神を表現する自由を人から奪ってしまうことです。そして、自分の同胞に対してこれをするたびに、実は、自分にも同じことをしているのです。それもさらに深い影響を受ける形で同じことが起きます。なぜなら、他の人間に対して下す審判や制限は、自分の意識の内面でもやはりひとつの法となるからです。その法によって、あなた自身も自分に限界を設け、自分に審判を下すことになるからなのです。
 人間は魂が邪悪なわけではありません。悪の保護下に生きてはいますが、大きな枠組みのなかでは悪というものはないのです。人間に自分の好きなものを思考から創造させるという選択を可能にしている生の場があるだけです。それだけが存在する現実なのです。この現実において神は、迷信、教義上の信念や、きわめて限定され、せばめられた人類の考え方を通して、悪という幻想の存在を許しているのです。悪を長い間観察し、判断し、期待し続けたことによって、確かに悪は人の現実の中に存在していますが、それはその人の現実だけのことです。その人が信じるようにその世界もなるのですから。
 法で存在するのは、自分の人生においてあなた自身が創造し、効力を発するとしたものだけです。もし善と悪があると信じることを選ぶのなら、それはあなたの真実であり、それはそれで間違ってなどいません。でもひとつ覚えておいてほしいのは、それがあなたの現実であり、私のものでも誰のものでもないことです。もしそれが確かにあなたのものならば、もともとあなたの意見の中で形づくられたのですから、そのすべてがあなたに属していることになります。その意見を持っている限り、それは確実に現実のものであり続けます。それを信じなくなれば、現実でもなくなるのです。ただ単にそういうことです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 185-186

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 42-d[25-d] (命を奪われた者はまた何度も何度もこの地上へ戻ってくるのです)

 さて主よ、あなたが悪と思っているものは何か教えてください。悪いものとは何だと理解していますか?

 ―そうですね、それは善の反対だということでしょう。でも、ふつうはやはりほかの人に危害を加えることが悪だと思っています。

 そうですか? それがなぜ悪なのでしょうか。

 ―たとえば誰かが私の娘に危害を加えたとすると、それは悪です。なぜかといえば……もし娘が死んだりしたら……。

 それは悪についてのあなたの判断ですね。でも、死ぬということがなぜ悪なのですか。

 ―ということは、あなたは人を殺すことさえ悪ではないと思うわけですね。

 そのとおりです。それは、ひとつのものが終わるという考えで自分に限界をつくることはしないからです。何ひとつとして、消滅するものはないのです。ひとつもありません! すると、もしある人が死ぬと、その死で失われたものは何でしょうか。
 父なる存在は、その在るということ、それに途切れなき生の永続性において、すべてが存在できるという保証を危うくするような、自分より偉大な存在など何ひとつつくり出してはいません。父が創造したものには、何ひとつとして消滅するものはないのです。それはすべて永遠に生き続けます。ですから、あなたの子どもも、消滅するのではありません。神の生命を消滅させられるものは何もないからです。

 ―あなたは、ほんとうに殺人でさえも間違ったことではない、悪ではないというのですか。

 そのとおりです。
 主よ、生は途切れなく続くものです。それはずっとずっと続いていくものなのです。そしてこの瞬間から次の瞬間へと生の場で自己を表現していく中で、私たちには人生の一つひとつの瞬間を幸福で満たす機会が無限にあります。しかし、自分の生の時間をどう満たすことを選ぼうとも、それは必ず、その人の意志と望み、そして自分の存在にとっていいと見たことにしたがったものとなるのです。もし、ある瞬間に、ひとりの存在が他の命を奪うことを選んだとしたら、次の瞬間、その人は強烈な罪悪感と自分に対する審判、そして、その行為が必ず自分のところにはね返ってくるという恐怖の念のもとで生きることになります。ですから、その人間のこれから先の時間はけっして安寧なものではありません。自分の行ないを許さない限りは……。
 この命を奪った者を忌まわしく思い、審判を下し、罵る人もたくさんいることでしょう。でも、私はこの他人を殺めた人間を愛します。愛さない、ということがどうしてできるでしょうか? この人間が、神の摂理、生、そして神の驚異の中には入っていないとでも言うのでしょうか。いいえ、主よ、そんなことはありません。
 命を奪われた者は、また何度も何度も戻ってくるのです。生とは永遠だからです。それは継続するのです。それは、ただひとつ永遠であるものですが、また同時にすべてのものでもあります。もし私がこの行ないを憎悪し、命を奪った者に審判を下したとしたら、それは自分に審判を下していることになるのです。その人はすでに自分自身に対する審判をつくり出しています。自分の行為については自分の価値判断のもとにあり、これから先、自分自身の思考と感情の世界で、それに直面し、対処していかなくてはならないからです。
 私はその行ないを憎悪しません。それを論証し、理解し、そして超越したのです。命を奪う者の行為を断罪すれば、私はそれより偉大な存在ではなくなります。これだけは確かです。そして、私の人生はその審判によって影響されるようになるのです。なぜかと言えば、「偉大なる在りて在るもの」である私が、自分の一部をわが存在から切り離してしまったことになるからです。すると私はもはやひとつの全き存在ではなくなってしまうのです。わかりますか?
 このようなものを目にするとき、そこではひとつの命が満たされるという過程が起きているのです。一瞬一瞬ごとに、私たちには、自分が何かに駆られるような形、あるいは目覚めさせられるよぅな形で自分の命を満たすことができるという選択があります。これは私たちが選ぶことなのです。これだけが人間が持っている「共和国」なのです。自分の内面奥深くにある共和国です。政府は法律や規則にしたがって大衆を治めようとするでしょう。しかし、ある存在の内面にある静謐な思考過程の中ではたらく意志を治めることは絶対にできないのです。それができるのは、その存在自身だけです。そしてその人間は、自分の感情の状態にしたがい、個々の瞬間のバランスをとって生きていくのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 186-189

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 42-e[9-w] (善悪はなくあらゆるものは智慧を与えるひとつの体験である)

 聴衆の皆さんに向かって、私はこう言います。あなたより偉大な師はいません。そして一人ひとりがそれぞれの人生に責任を持っているのです。私たちは思考の中で物事をする存在なのではないのですか。そして、私たちの思考がさらに進化するのは、それが実体をもったときではないのでしょうか。
 人を牢獄に入れ、これ以上小さくて暗く、汚らしい穴ぐらはないという場所に押し込めることはできても、その心、その思考を閉じ込めることは絶対にできません。身体はどんなに押さえつけられていても、思考はそのまま活動を続けるのです。そしてその人間は、思索を通して自分を納得させ、自分に教え、そして、自分に審判を下すこともするのです。
 私は善も悪も認めません。認めるのは生だけです。もしある存在が、いま、ひとりの存在を殺めんとするなら、あるいは単にそう思うことによって、自分の魂の内でその殺人行為をしようとするなら(それはどちらも変わらぬことです。なぜなら、考えたことはすでになされていることと同じなのです。思考の中で他の存在を真っ二つに斬ったことのない人などひとりとしていません)、どちらの場合も、何らかの目的で、ある理解を得るために、それを行なう必要があったのです。ぜひわかってほしいのは、この命を奪われた側の者も、その犠牲者ではないということです。彼もまた、もしかしたら、真っ二つに斬られるかもしれない、あるいは暴行されるかもしれない可能性に思いをめぐらしたのです。そして、思いをめぐらしたために、またそれがひどく恐ろしいものであったために、相手の殺意を自分のところまで引き寄せてしまったのです。こうして、暴行をはたらく必要があった者と、(それを理解するために)暴行される必要のあった者が、その体験のために同じところに引き寄せられてきたのです。
 神という叡智では、悪であるものは何もありません。あらゆるものは、智慧を与えるひとつの体験なのです。これがあなたへの私の答えです。そして、人間がもはや自分の同胞たちから非難されなくなり、自分の存在は悪ではなく、神そのものなのだと気づくとき、そして神という名の生の流れによって自分の存在はすべて愛され、支えられているとわかったとき、自分の価値、自分の大切さを理解するのに、わざわざ戦争や強姦や殺人、あるいはそれに類するようなことを体験する必要はなくなるのです。
 人間が、法律だの計画だの規則だのといったものにあふれた、この限定された意識から自分を解き放つとき、そこに存在そのもののよろこびと平穏を見いだし、それが自分自身を、そして全人類を愛することを可能にしてくれるでしょう。そしてすべてが、自分の意図を反映した流れを自由につくるようになるのです。そうすれば、その人は神と同じ愛を体現するようになります。そして、神であるもの、つまり、すべての生命を育み、支えていく基盤となるのです。そうでありますように―

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 189-191

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 42-f (悪がなければ善は進化することも存在することもできない)

 すべての存在の局面に光の天使と暗黒の天使が住んでいることを、私はすでに説明しました。この事実が何を意味するか、おわかりでしょうか。たぶん、皆さんはこれまでは、すべての暗黒の天使は地獄に落ちてそこに住みつき、一方、光の天使は天界の最も高い所まで引き上げられ、神の右手に座っているといったふうに想像してきたのではないでしょうか。これはまったく真実からほど遠い考えで、このために、人間は何世紀もの間、善と悪について誤った考えを抱くという結果になったのです。
 知性に溢れた存在たちからなるこの二つの軍隊、皆さんがそう呼びたければ、光の天使と暗黒の天使は、共に手を取り合って仕事をし、一緒に進化する存在であり、お互いになくてはならない存在なのです。そのことに皆さんを目覚めさせることが、今夜の私の使命です。この事実をしっかりと把握して初めて、善と悪の性質について明確に理解できるようになるでしょう。
 これまでのところ、人々は、善は常に悪と対決しなければならないものと考えてきました。これほど間違った考えはありません。悪は、人間が善″と呼ぶ資質ないしは状態を補足する大事なものであり、悪がなければ善は進化することも存在することもできません。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、p.213

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 42-g (人間が悪と呼ぶものも神の一部である)

 次のことを強調しておきたいと思います。人間が悪と呼ぶものも神の一部であり、人間が神と呼んでいる宇宙の知性は、それ自身のなかに善と悪を含んでいるのです。
  こんなことを言えば大騒ぎになるかもしれませんが、私としては、自分自身が真実であると知っていることをありのままに伝えるしかありません。私たちは一人一人がそれぞれの努力によって、完全にバランスのとれた生活を達成し、暗黒が光を消すことのないように努力し、善と悪が私たちを支配するのではなく、善と悪を私たちの僕にして、わたしたちのあり方の中に完璧な法則を作り出していかなければならないのです。
 今まさに、この法則のバランスは崩され、暗黒の力によって世界が覆われようとしています。地球は今、自己を調整して、道徳的なバランスを見いだし、それを維持していかなければなりません。その上で、善悪を超越した完全なバランスを追求しなければなりません。というのは、善と悪を人間の僕にするというのが神の命令があるからでず。
 現在のところは、善と悪は神の僕として、神の完璧な計画を実現すべく働いているのです。善悪が人間の僕となることこそ究極のあり方です。人間一人一人が自分の物質的な生活、そして個人的な思いに支配された生活よりも高いところに引き上げられたとき、初めて、生命とは一つの巨大な全体であることがわかるでしょう。そのとき、生命とは神の包括的な一つの全体であり、善と悪、白と黒にはそれほどの違いがないということが理解されるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.215-216

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 42-h (善と悪はお互いを補っていてどちらも必要である)

 善と悪はそれぞれがお互いを補っているのであって、絶対なるものの創造計画のためには、どちらも必要なのです。昼の後に夜が続き、夜の後に昼がやってくるのと同じように、悪は善のバランスをとり、善は悪のバランスをとるのです。善から悪、悪から善への変質の過程は絶え間なく進行しています。
 このようにして、善と悪の巨大な輪が無限ともいえるほどの時間にわたって回転を続けているわけですが、その究極的な目的は、すべての人間の魂が完全なバランスと調和を達成するように手助けすることです。この目的が達成されると、新しい種類の人間が住むことになる新しい世界の創造に向けて、神のエネルギーが放出されます。このように神の家は、常に拡大することによって、神の子供たちが時間と空間の中をさまよった後に帰ってくる日のために備えているのです。
 永遠とは何なのか、限りある人間の頭でそれを理解することができないのは、このような理由もあるからです。永遠とは、けっして止まることなく回り続ける、巨大な車輪であると考えれば、一番わかりやすいのではないでしょうか。
 そうです、神は善と悪の両方なのです。神自身のなかに善と悪を含んでいるのです。あなた方が悪について持っている概念が間違っているだけのことです。したがって皆さんは、私たちの言葉を受け入れなければなりません。人間が悪と見ているものは、実際には悪そのものではなく、人間が悪について抱いている概念であると考えてみてください。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、p.221

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 42-i (善も悪も共に神に仕えるという意味で同一のものである)

 善を求めたり、悪を求めたりしているものは、真実の人間の一つの反射に過ぎないということがわからないでしょうか。それは単なる外面的な自己にすぎず、神のイメージに似せて作られた内面的な自己としての人間は、善悪ともに神に仕えるという意味で、同一のものであることを知っています。
 人間は自分のまわりを見回し、無知や残虐、悪徳が横行しているのを目撃して、悪が現実に存在することを否定するのは不可能であると主張します。この結論は誤った前提に基づいています。どんな人であれ、兄弟を価値判断するための、いかなる手段をもっているというのでしょうか。人の意見というものは、大体において、生きている時代の価値観、あるいはたまたま住んでいか国の慣習に基づいているのです。ある時代にはよしとされたことが、次の世代では、あるいは別の国では、まったく邪悪であるとされたりすることがよくあります。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、p.222

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 42-j[50-h] (時には魂は最も忌み嫌うものに生まれ変わって愛を学ぶ)

 特定の人種や宗教に次の転生で生まれて来るための最も確実な方法は、その人種や宗教を公然と差別することです。憎しみはあなたをそのグループへと運ぶ急行列車なのです。時には魂は、最も忌み嫌うものになることによって、愛を学びさえします。
 カルマは学びであって、罰ではない、ということを覚えておくのは、とても大切です。両親をはじめとして、私達が出会う人々は、自由意志を持っています。彼らは私達を愛し、助けることもできれば、私達を憎み、傷つけることもできます。彼らの選択はあなたのカルマではありません。彼らの選択は、彼らの自由意志の現れです。彼らもまた、学んでいるのです。
 魂は時には、特別に厳しい人生を選びますが、これは自らの霊的な成長を促進するためか、または同じように困難な人生を生きている他の人々を助け、導き、元気づけるための行動です。困難な人生は罰ではなく、むしろチャンスなのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.86

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 42-k (怒りは私達の体の中に有害な化学物質を作り出す)

 怒りは有害で無益な感情です。そして理解と愛によって解消できます。
 否定的な感情を理解し、その原因が明らかになると、その感情の背後にあるエネルギーが減少し、時には消滅します。怒りを感じた時の健全な反応は、何が怒りの原因か探し、可能であればその状況を変え、そのあと怒りを手放す、というものです。
 私達はみな、つながっています。私達はみな同じです。私達はみな、同じボートを漕いでいるのです。
 私達の怒りの下には、しばしば悲しみが隠されています。怒りは私達の弱さや絶望を守る上塗りのようなものでもあるのです。恋をしている人々が怒りを感じることがいかに少ないか、気がついていますか?彼らはまったく違ったリズムの中にいるように見えます。そして、怒りはこのリズムではありません。愛のリズムは怒りのそれとは違う種類であり、怒りや絶望のエネルギーは愛のリズムとは共鳴しません。
 怒っている時、私達は体の中に有害な化学物質を作り出し、それは胃壁や血圧、心臓や頭の血管、内分泌腺、免疫システムなどに悪影響を与えます。怒りの原因を発見し、その原因となっている状況を変えることができれば、私達はもっと健康になるでしょう。
 しかし、身体と心への深刻な影響にもかかわらず、私達はやはり怒りをしっかりと握りしめています。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.133

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 42-l (悪というのはあなたがたがそう呼ぶだけである)

 あなたがたが創り出すものはすべて―思考も、品物も、出来事も、それにどんな経験も―神の計画のなかにある。神の計画のもとで、あなたがたは望むものを何でも創り出すことができる。その自由に、神が神であることの体験がある。あなたがたを創り出したのはこの体験のためだし、生命そのものを創り出したのもそのためだ。
 悪と言うが、それはあなたがたがそう呼ぶだけだ。だが、その悪だってわたしは愛する。悪と呼ぶものを通じて、あなたがたは善を知り、神の業を行うことができるからだ。わたしは寒さも暑さも愛している。右も左も愛している。すべては相対的である。すべては、あるものの一部である。
 わたしは「善」を愛しているのと同じように、「悪」を愛している。このことが理解できれば、あなたがたは神を理解できるだろう。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.86-87

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 42-m[19-h] (自分の価値観があなたの人生の骨組みになっている)

 でも、わたしは善と悪が存在すると教えられて育ちました。善と悪は対立すると教えられてきました。神の目には、あるものはまずい、いけない、受け入れられないと教えられてきました。

 神は何でも「受け入れる」。存在するものを神が受け入れないはずはない。拒否するというのは、その存在を否定することだ。何かがいけないと言うのは、それがわたしの一部ではないと言うことである。そんなことはありえない。
 だが、あなたは自分の信念をもち、自分の価値観に従いなさい。それはあなたがたの親の、そして親の親の価値観だから。友人の、そして社会の価値観だから。自分自身の価値観があなたの人生の骨組みになっている。それを失えば体験の布目がばらばらにほつれてしまう。ただ、価値観をひとつずつ検討しなさい。ひとつずつ、見なおしなさい。家を解体するのではなく、レンガをひとつずつ調べ、壊れていて、もう家の構造を支えられなくなっているものはとり替えなさい。
 善悪についてのあなたがたの考え、それもあなたがたをかたちづくり、創造する思考のひとつだ。その思考を変える理由はひとつしかない。あなたがたが、「そう考えている自分」では幸福ではないときだけだ。
 あなたが幸福かどうか知っているのは、あなただけである。あなただけが、自分の人生について―「これはわたしの創造物である。わたしはとても満足している」と言うことができる。
 あなたの価値観が自分に役立つなら、大事にしなさい。これがわたしの価値観だと言い、まもるために闘いなさい。だが、闘うといっても、誰も傷つけないように気をつけなさい。傷つけることは、癒しにはつながらない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.87-88

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 42-n[3-d] (「右の頬をぶたれたら左の頬を出せ」は医学的にも賢明)

 さて古来“聖賢の戒め”の中には今日の精神科医が言っていることと驚くほど一致するものが多い。たとえばこの“怒り”がそうである。
 医学的にみても、腹を立てると生理的にロクなことは生じない。血圧が上がる。脈拍が増え動惇が激しくなる。血中の凝血因子が増える。アドレナリンという物質が血液中に送り込まれて、全身の新陳代謝に緊急事態が生じるのである。
 怒りがおさまると、それが正常に戻る。が、その間にどれだけの危険が発生していることか。高血圧がまず危険である。動脈の圧が上がるのは危険である。それをくり返していると死にもつながりかねない。
 また凝血因子がくり返し血中に送り込まれていると、いわゆる血栓症となる。右の頬をぶたれたら左の頬を出せ、というのは、倫理上からだけでなく医学的にも賢明なのである。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988、p. 121

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 42-0{76-f} (動物殺害を止めれば霊的自覚の水準は高まり始める)

 食習慣が変わり、動物を血祭りに上げることを止めることによって、霊的自覚の水準が高まりはじめるであろう。そして西洋文明諸国の食事が質素になれば、世界の食料事情も良くなることであろう。
 大食については弁護すべき要素は何一つない。許されてよい理由は一つとして見出せない。大食の習慣がなくなることによって、餓死する可能性のある何百万もの人が生命を救われる。自分は美食を食らいながら飢餓国へお金を寄付するなどという行為は、人間の尊厳を侮辱するものである。
 われわれは何とかして食習慣を改める必要性を世界へ向けて訴えないといけない。“罪”という用語は少し古くさくなってきたが、この大食に関するかぎりはピッタリである。
 大食はまさに“死に至る罪”である。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 124-125