学びの栞 (B)
43. 偶然・必然
43-a (この世界には事故や偶然といったものはない)
あなたは自分の身に起きることはすべて偶然だと考えているだろうか。それは知られたる真実とは違う。この世界には、事故や偶然といったものはない。そして、ほかの人間の意志や策略の犠牲者などという人間もいない。あなたに起きることはすべて、考えること、感じることによってあなたの人生にもたらされているのだ。それは、「もしこうなったら」という仮定の形、あるいは恐れという意識を通して空想されたか、何かはこうこうこうなると誰かほかの人間が言うのを、あなたが真実として受け容れてしまったものだ。あらゆるものは、思考と感情によって定められた意図的な行為として起きるのである。すべてのものがそうなのだ!
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.77
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43-b[36-e] (私たちは自分の選択によってこの地上に生まれてくる)
皆さん、物事には常に反対の側面があります。人間は地上においても、地上を去った後でも、自らの心と肉体による拷問に苦しめられるかもしれませんが、同時に、より高い世界に到達することもできます。そして実際に到達するのです。地上での生活に関して言えば、私たちは自分自身の選択によって肉体をもって生まれてくるのだ、と覚えておく必要があります。私たちに内在する選択の権利によって、私たちは地上におけるある状況に志願し、選択します。それは、私たちの本来の自己が、肉体をもった人生において最も貴重な体験をもたらしてくれるであろうことを知っているような状況です。
どんな人であっても、その誕生日、誕生の場所、誕生の状況・環境といったものが、単なる偶然であるなどとは考えないでください。これからその魂が進化する出発点となる、地上での生活のすべては、いずれは、はっきりとした、神の意思に基づいた計画と一致しなければなりません。神聖な計画を知り尽くしているがゆえに、イエス・キリストは次のように言われたのです。「一羽の雀が地に落ちるのも、神の知らないことではない。あなたの髪の一本一本がすべて神の知るところである」
これは真実です。すべての計画は神の御心にあり、神は常にあなたをその掌に置いておられるのです。
人間はあらゆる体験の中で、自分自身の勇気と努力によって生きていくことを学ぶ必要があります。人間は本来の自分を発見しなければならないだけでなく、自分自身の本性をコントロールしなければなりません。これをするまでは、人間は自分の霊がもっている、無限ともいうべき可能性を実現することはできません。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳) 講談社、1994年、pp.168-169
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43-c[23-zg](私達は両親を自分で選んでこの世に生まれる)
私たちの人生は偶然の行為や出来事の産物ではありません。人生は私達の学びと進化を高めるために、注意深く計画されています。
私達は両親を自分で選びます。普通はこれまでの転生で縁のあった魂を親に選びます。子供、青年、成人へと肉体的に成長しながら、私達は霊的にも進化してゆきます。肉体の死によって魂が体を離れたあとも、私達の学びは高次の次元、つまり、意識のより高い次元で続いてゆきます。今、終ったばかりの人生を回顧し、そこでの課題を学び、次の転生を計画するのです。学びは肉体の死によって終りはしません。
魂が肉体を去ったあと、私達は多くの意識段階を訪れます。大切な段階の一つは、学びの場で、ここで私達は今終ったばかりの人生を回顧します。すべての出会い、すべての人との関係を再体験します。また、自分が助けた人と傷つけた人、愛した人と憎んだ人、良い影響を与えた人とよくない影響を与えた人、そのすべての人々の気持ちを味わいます。その人達の感情を心の底から感じるのです。それがこの地上で肉体を持って生きていた間の私達の行動について、一瞬のうちに行なわれるフィードバックのようなものであり、非常に強力な学びの道具であるからです。私達は人との関係によっていろいろなことを学びます。だからこそ、自分がどのように人々と触れ合っていたかを理解するのが、とても大切なのです。
輪廻転生は、私達の現在の人間関係を説明し、明確にしてくれます。ずっと昔の出来事が、現在の人間関係に影響を与えていることがよくあるのです。過去生にあった根本的な原因に気がつくと、現在の人間関係を修復できます。気づきと理解は、強力な癒しの力を持っているのです。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、pp.23-24
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43-d[36-i] (私達は生まれる前に自分の人生の計画を立てている)
偶然でもなく偶然の一致でもなく、私達は私達の家族の一員として生まれます。私達は母親が妊娠する前に、自分の環境を選び、人生の計画を立てているのです。計画を立てる時には、愛に満ちた霊的存在に助けられます。そして彼らは私達が肉体に宿り、人生計画がひもとかれてゆく間、ずっと私達を導き守ってくれます。運命とは、私達がすでに選択した人生のドラマのもう一つの名前なのです。
私達は生まれる前の計画段階で、これからの人生に起こる主要な出来事や、運命の転換点を実際に見ています。そしてその証拠は、沢山存在しています。私を含めてセラピスト達が集めた、催眠状態ないし瞑想中に、または自然に、生まれる前の記憶を思い出した沢山の患者の臨床記録がそれです。私達が出会う重要な人々、ソウルメイトや魂の友人との再会、こうした出来事が起こる場所に至るまで、すべて計画されているのです。デジャヴユ、すなわち、初めての場所や出来事なのに、ここにいたことがある、この一瞬は知っているという感覚は、生まれる前に人生の下見をした時の記憶であると、説明することもできます。あらかじめなされた計画が、実際の肉体を持った人生で実現に至ったということなのです。
これはすべての人々にあてはまります。しばしば、養子や養女になった人々は、自分の人生計画は歪められてしまったのではないか、と考えます。しかし、答えは「ノー」です。養父母もまた、産みの親と同じように生まれて来る前に選ばれているのです。すべてのことには理由があり、運命の道には何一つ、偶然はありません。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、pp.70-71
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43-e[34-c] (九年間ずっと馬鹿にされ嘲られてきた私への予言 =3=)
ケンジントン宮殿からダイアナ妃の死の二週間前に電話があった理由は、二つあると思います。『魂の伴侶』はソウルメイトと愛についての本です。時と空間を超えたこの特別の関係を持つ二人の物語であり、過去生や向う側の次元で共に過し、今生再び、愛する人を見つけ出した人々の話です。二人は愛は永遠で絶対であることを学びます。愛は死によってさえも、終ることはありません。私達は常に愛されています。私達は決して一人ぼっちではありません。常に愛する人々と再会します。
ダイアナ妃はドディ・ファイドにソウルメイトのつながりを感じていたのではないかと、私は思います。彼女はまた、息子達や他の愛する人々に対しても、それを感じていたと思われます。多分、『魂の伴侶』はこの強い魂の結びつきを彼女が理解するために、役に立ったのでしょう。
もう一つの理由は、人生の重大な出来事について、私達はしばしば予感や強い直観を持つということです。多くの場合、こうした感情は自分自身、もしくは親しい人の間近の死に関係しています。予期せぬ死の直前に、何らかの方法で別れを告げたという人々の話は、枚挙にいとまがありません。
私の患者の一人に、コロンビアの飛行機事故でビジネスマンの夫を亡くした妊娠中の女性がいました。彼女はその事故の前の一カ月間毎日、飛行機事故で夫が死ぬ夢を見続けていました。もし、これが本当に偶然の事故であるのならば、なぜ、彼女は直前にこのように警告を受けていたのでしょうか?
もう一人のマイアミの女性は、ミシガン州の交通事故で弟を失いました。事故の数週間前、彼女は葬儀社に情報集めに行っていました。おそらく、ダイアナ妃もどこかで知っていたのです。
『魂の伴侶』は『前世療法』『前世療法2』と同様に、ソウルメイトと過去生だけの話ではありません。真実と神の愛についての本でもあります。また、死は存在せず、ただ生があるのみということ、私達の魂は永遠であり、決して傷つけられはしないということ、魂の姿や肉体に宿った状態で、私達は必ず愛する人々に再会することについても、書かれています。この三冊は人々をなぐさめるだけでなく、真実の本であるからこそ、希望の本なのです。『魂の伴侶』は愛する父の死について、ダイアナ妃の心をなぐさめたのかもしれません。彼女はまだ、父の死を悲しんでいたのでしょうか? 彼女が「なぐさめられ、心が穏やかになった」のは、父親に関することだったのでしょうか?
ダイアナ妃は死ぬ直前に、私の本を読みました。このタイミングは偶然ではありません。彼女はソウルメイトについても学びましたが、魂について、もっと学んだはずです。彼女が向う側の世界で、輝く光と愛に満ちた言葉と信じられないほどの喜びによって迎えられたに違いないと、私は確信しています。
私は彼女の死を残念に思います。私の本が少しでも彼女を助けることができたら、と思うのです。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、pp.290-292
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43-f (人生に偶然はなく起こることは起こるべくして起こる)
こう考えてもらえばいい。わたしはずっと悪評につきまとわれてきた。いまでも、わたしを「死とその過程の女」とみなす人たちに追いまわされている。その人たちは、死と死後のいのちの研究に三〇年以上も費やしてきたわたしを死の専門家だと信じこんでいる。曲解というものだ。
唯一の明白な事実、それはわたしの仕事が生の重要性の研究であるということだ。
わたしはいつも、死ほど貴重な経験はめったにないといっている。それは日々をちゃんと生きていれば恐れるものはなにもないということでもある。
まちがいなくわたしの絶筆になるはずの本書によって、そのことがあきらかになるだろう。本書はまた、いくつかの新しい問いを提出し、もしかしたらその問いに解答を添えることにもなるかもしれない。
ここアリゾナ州スコッツデールにある自宅の、花に囲まれたリビングルームに座ってふり返ると、過ぎ去った七〇年がとてつもないもののように思われる。スイスで育った少女時代、いかに破天荒な未来を描いたとしても―かなり破天荒な未来を描いたつもりだったが―、自分が世界的に知られた『死ぬ瞬間』の著者として終わることになろうとは想像だにしなかった。人生の終幕について探究したその本のおかげで、わたしは医学と神学における激しい論争のまっただなかに放りだされることになってしまった。ましてや、あげくのはてに、「死は存在しない」ということを説明するためにわずかに残された時間を費やすことになろうとは、それこそ夢にも思ったことはなかった。
両親の推測によると、わたしはまじめに教会に通う、しとやかなスイスの主婦になるはずだった。ところが、いざ蓋をあけてみると、なんとアメリカは南西部に居を定め、この世よりははるかにすばらしく荘厳な世界の霊たちと交信する、依怙地な精神科医、物書き、講演者として終わろうとしている。現代医学は人びとに苦痛のない人生を約束する予言者にでもなったつもりらしいが、たわごとも甚だしい。わたしが知るかぎり、人びとを癒すものは無条件の愛しかないというのにである。
わたしの考えかたは、いくらか型破りなものかもしれない。たとえばわたしは、ここ数年のあいだで脳卒中の発作に六回見舞われた。そのうちの一回は去年、一九九六年のクリスマスの直後だった。主治医からは煙草とコーヒーとチョコレートをやめろと警告され、ついには懇願された。でも、わたしはまだそのささやかな快楽を享受している。なにが悪い? これはわたしの人生なのだ。
わたしはいつもそのようにして生きてきた。頑固に自説を曲げず、独立心が旺盛で、つまずきやすく、多少常軌を逸しているとしても、それがどうしたというのか? それがわたしなのだ。
人生の個々のできごとは、たがいに噛みあわないようにみえるかもしれない。
だが、わたしは経験をつうじて、人生に偶然などはないということを学んできた。
起こったことは、起こるべくして起こったのだ。
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998年、pp.11-12
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43-g[50-i] (自動車事故などでの突然の別離をどう捉えるか =1=)
いつかわたしたちは霊の故郷に帰ります。それは間違いありません。けれども、どのように現世を去り、どこへたどりつくか、それは個人によってさまざまです。たとえばヴェトナムで爆死したマイクのように、なんの前触れもなく悲劇的に肉体を離れていく魂もたくさんあります。しかし、残念ながら自動車事故で亡くなる人はもつと多いのです。霊界と現世を取り次ぐ仲介者として、わたしは事故で亡くなった人びとの思いをこれまでにもいろいろ受け取ってきました。なぜこのような痛ましい出来事が起きるのか、ここで説明しておきましょう。
まず第一に、偶然の事故というものはありません。こうした出来事は、因果という霊的法則、すなわち、カルマが直接に反映した結果なのです。次のような例を考えてみましょう。ある男がパーティーに参加し、自分の意志で酒を飲もうと決断した。やがて充分に酔いがまわり、そろそろ帰ることにして車で家路についた。同じころ、映画を見終わったカップルが家に帰ろうとしていた。酩酊した男の視野はぼやけ、対向車に気づいたときはすでに手遅れだった。彼はカップルの車に激突し、この男女は即死した。
この場合、死とは、酒を飲むという男の決断が招いた結末であり、結果です。男の酩酊状態が事故を引き起こしました。彼のせいでカップルの命が散りました。これはカルマ的状況です。カップルが死んだので、別の転生でこのバランスを取らねばなりません。言い換えれば、わたしたちの行動には、現世もしくは別の転生において、ポジティブにしろネガティブにしろ同質の報いが返ってくるということです。因果の法則は全宇宙の普遍の法則であり、カルマ的行動や神の恩寵によってあらゆる体験に解決がもたらされます。
一見して偶然の事故に見えるものも、あるいは、自然災害でさえ、必ずしも見た目どおりとはかぎりません。物事の基本にはカルマ的責務があるうえに、一個の魂、あるいは、集団としての魂が物質界に入る前には霊的な契約を結んでいるのです。この世で起きることはすべて霊的計画の一部です。生とは、体験を通して学ぶことです。充実した生を学ぶために個々の魂はそのすべてを体験しなければなりません。自然の二元性を学ばねばならないのです。ネガティブなものを体験してこそポジティブなものの真価がわかるのです。
この真理を理解した魂は、自然災害や飛行機事故の体験を了承し、そうした方法で肉体から離脱することを認めます。これは意識的な決断なのでしょうか? いえ、それはありえないと思います。わたしたちの自我は自分の肉体にそんな恐ろしい危害を加えようとはしないでしょう。災害や事故を次のように見ることもできます。こうした魂は過去生から持ち越したカルマを完了しようとしているのかもしれない、と。すると、次のような疑問も出てきます。この事故や災害は他者を救う道なのだろうか? つまり、この人物の死によって家族や親しい友人はどんな影響を受けるのか? 彼らはそのおかげで深い愛を知り、人生に感謝するのではないだろうか? 愛する人の死は残された者にかけがえのない霊的成長をもたらすのだろうか? こういった事柄は霊性に関わる問題なので、わたしたちの理性では理解できません。わたしたちの人生は、推測すらおよばない巨大な構図の一部にすぎないのだ、とだけ申しあげておきましょう。
ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
中井京子訳、光文社、1998、pp.101-103
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43-h[56-s] (人生の体験というのはすべて目的があって生じている)
みなさんの体験というものは、すべて目的があって生じたものだ。これは大切な問題であり、しかもみなさんの文明ではたいてい無視されてしまっている問題である。人生には、その一日一日に意味がある。あなたがたの魂は、たえずバランスをとり、成長していくために努力を続けている。この宇宙に偶然というものはない。むろん、大多数の人びとは偶然としか思えないできごとの裏にひそむ真実に、気づいてはいないのだが。体験には、自分の人生のめざす方向や信念が関わっている場合もあれば、自分のエネルギーや決意を阻むさまざまな問題、あるいは前世の体験が関わっている場合さえある。
ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』片桐すみ子訳
人文書院、1996、pp.16-17
43-i[65-q ] (魂はどんな人生を経験するかを前もって選択しているのか)
いや、ちがう。それでは出会いの目的が損なわれてしまう。現在という栄光ある時に、経験を創り出すこと、したがって自らを創り出すことが魂の目的なのだから。だから、どんな人生を経験するのか、前もって選びはしない。
だが、経験を創り出すためのひとや場所、出来事は選ばれ、条件や環境、そしてチャレンジや障害、機会と選択肢も選ばれている。パレットの色、道具箱のなかの道具、作業場の機械は選ばれているのだ。それで何を創るかは、あなたがたの仕事だ。それが人生というものだ。
魂が何を選んでも、あなたがたには限りない可能性が開けている。あなたがたが限られたものと呼ぶ肉体に宿る魂にはどんなことも可能だ。ただあなたがたには、魂の課題が理解できないし、魂の意図もわからない。
だから、あらゆるひとと条件を祝福し、感謝しなさい。そうすることで、神の創造物の完璧さを認め、神への信頼を示しなさい。神の世界ではいきあたりばったりに起こることは何もないし、偶然もない。世界は、あなたがたが運命と呼ぶ気まぐれな選択に翻弄されてはいないのだ。
雪の結晶が完璧ならば、あなたがたの人生のすばらしさにも同じことが言えるとは思わないか?
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.67-68
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43-j[65-r] (神はなぜ人の苦しみを放置しておくのか)
でも、イエスだって病む人を癒しました。そのひとたちの条件がそれほどに「完璧」なら、どうして、イエスは癒したのですか?
イエスは、そのひとたちの条件が完璧でないと思ったから癒したのではない。そのひとたちの魂がプロセスの一環として癒されることを求めていると気づいたから、癒したのだ。彼はプロセスの完璧さを見抜いていた。魂の意図を見抜き、理解していた。精神的、肉体的な病人のすべてが完璧さに欠けると考えていたなら、イエスは地上のすべての病人を一度に癒したはずではないか? イエスにそれができたかどうか、疑うのか?
いいえ。疑いはしません。できたと思います。
よろしい。それでは、なぜイエスはそうしなかったか? どうしてキリストは、ある者を苦しませておいて、ある者を癒すことを選んだか? そもそも、神はなぜ苦しみを放置しておくのか? その疑問は昔からあるし、答えはいつも同じだ。完璧だというのはプロセスのことであり、すべての人生は選択されたものだ。その選択に介入したり、疑問をもったりするべきではない。まして、非難するべきではない。
では、どうするべきか。魂がより高い選択を求め、実行するように見まもり、助けてやることだ。
ほかのひとたちの選択に注目しなさい。だが、決めつけたり、批判したりしてはいけない。彼らの選択はいまの時点では完璧だということを知っておきなさい。そして、彼らが新しい選択、異なる選択、より高い選択をしたいと思ったときには、助けてやれるようにそばにいてやりなさい。
ほかのひとの魂によりそい、一体になりなさい。そうすれば彼らの目的や意図がはっきりわかってくる。イエスも、彼に癒されたひとたち、そして人生に影響を与えられたひとたちの魂と一体になった。イエスは彼のもとへきたひとたちのすべて、あるいは差し向けられたひとたちのすべてを癒した。勝手な判断で癒したのではない。そんなことをしたら、宇宙の聖なる法則を踏みにじることになっただろう。
それぞれの魂に、それぞれの道を自由に歩ませなさい。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.68-69
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43-k[55-c] (偶然というものはないし事故は起こるべくして起こる)
でも、わたしはあのトラックにひかれることを選んだのではない! あの強盗に襲われることを選んだのではない、あの精神異常者に強姦されることを選んだのではない。ひとはそう言うでしょう。そう言えるひとが、世の中には確かにいるんです。
あなたがたはみんな、根本のところで、強盗に盗みの欲求、あるいは必要性を起こさせる原因を生み出している。あなたがたひとりひとりが、強姦を可能にする意識を生み出している。あなたがたが自らのなかに犯罪の原因を見いだしたとき、ようやく犯罪の温床となる原因の治療を始めることができる。
飢えた人びとに食物を、貧しい人びとに尊厳を与えなさい。運に恵まれていないひとに機会を与えなさい。大衆が群れて怒る原因となる偏見に、より良い明日へのささやかな約束によって終止符を打ちなさい。性的エネルギーに関する無意味なタブーや制約を捨て、人びとがその真のすばらしさを理解するように、適切な方向にエネルギーを向けるように助けてやりなさい。そうすれば、盗みや強姦がない社会に向かって大きく前進するだろう。
いわゆる「事故」というもの、曲がり角の向こうから疾走してくるトラックや、空から降ってくるレンガについては、出来事を大きなモザイクの一片として受けとめる術を覚えなさい。あなたがたは、それぞれ自分を救済する計画を実践するために、この世にやってきた。救済といっても、悪魔の誘惑から自分を救うという意味ではない。悪魔などというものはないし、地獄も存在しない。あなたがたは、真の自分を実現しないという忘却の淵から自分を救おうとしているのだ。
あなたがたは闘いに負けるはずがない。失敗するはずがない。だから、闘いというよりは、単なるプロセスと言うべきだ。だが、それを知らなければ、いつももがいていなければならないと感じるだろう。人生は闘いだと信じ、闘いを中心に宗教をうちたててしまうかもしれない。その宗教は、闘いこそがすべてだと教えるだろう。だが、それは間違った教えだ。プロセスの進行は闘いではない。身をゆだねていれば、いずれは勝利が得られる。
事故は起こるべくして起こる。生命の要素があるときにある方法でぶつかり、ある結果を引き起こす。あなたがたは、自分なりの理由で、その結果を不運と呼ぶかもしれない。だが、魂の課題という点から考えれば、不運ではないかもしれない。
もう一度念を押しておこう。偶然というものはないし、なにごとも「たまたま」起こったりはしない。個々の出来事や冒険は、真の自分を創造し、経験するために、あなたがた自身によって呼び寄せられるものだ。(マスター)はみんな、それを知っている。だから、神秘な(マスター)たちは、人生で(あなたがたが言う)最悪の出来事にぶつかっても動揺したりはしない。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.73-75
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43-l [65-zg] (人生ではすべて自分に必要なことが起こる)
実際、ぼくも自分の人生を振り返ってみると、とてもつらい病気の時期がありました。先がまったく見えず、ベッドの上で毎日、苦しい発作に耐える毎日でした。
今になってみれば、人生に起こったすべてのことは、今の自分になるために必要だったのだという気がします。本当に苦しかったけれど、それは通らなければならない道だったのです。病気を通して、「自分を大切にすること」と感謝することを学んでいたのです。
何事にも時があります。病気で動けない時期であっても、その時には、それが人生のすべてでした。
何事にも無駄はありません。私たちは一瞬、一瞬の出来事から、とてもすばらしいことを学んでいるのです。
「人生に起こってくることはすべて、『本当の自分』が何かを学ぶために引き寄せているのだ」と考えれば、どんなことが起きても、それを前向きに受け取ることができます。
「すべては良きことのために」
この言葉さえマスターしてしまえば、人生は楽に生きられます。
どんな大波がやってきても、見事なサーファーのように、波に乗ることができるのです。
これこそ、「宇宙の流れに乗って、森羅万象の中で、ダンスすること」なのです。
今、人類は今までに体験したことのない時代を迎えています。私たちの一人ひとりの目覚めの時です。あらゆるできごとが私たちを目覚めの方向に持っていきます。どんな天変地異もどんな災害も、人類は乗り越えていくでしょう。
すべては大丈夫です。
すべてはあなたの目覚めにかかっています。
宇宙は私たちの覚醒をその壮大なプログラムの中に想定しているのです。だから、安心して進みましょう。
「本当の自分は何者か」を探求しながら、意識を広げていきましょう。
「すべては良きことのために」起こっていることが、きっと見えてくるはずです。安心していればいいのです。
自分に優しく、そして人々に優しくすればよいのです。
「野の花のように美しく咲きなさい。そして、人々に愛を与えなさい」という聖フランチェスコの言葉に、微笑みが浮かぶ毎日です。
山川紘矢『輪廻転生を信じると人生が変わる』
ダイヤモンド社、2009, pp.218-220
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43-m (すべての出来事は偶然に起こるのではなく、それぞれに意味がある)
人との出会いは偶然ではありません。書物との出会いも偶然ではありません。すべての出来事は偶然によるものではなく、すべて、意味があります。なぜなら、この世は地球学校であって、そこでは学ぶべきレッスンを学び、与えられた課題をこなしていくためにあらゆる事柄が神界にて、一人一人の生徒に向けて、慎重にデザインされた上で、この世に生起されているからです。たとえば人と人とが出会う場合でも、これは偶然にバッタリと出会ったようにみえても、実はそうではなく、おのおのの内なる先生すなわち内在の神同士が前もって相談し合い、慎重にセットし、準備していたのです。ですから、鋭敏な人は、人と会う前に感知して、夢でその人と出会う場面を見る、ということがあるのです。
このような地球学校の仕組みに気づくにつれて、意味が尚一層出てきます。そうして、共時性その他の現象が頻繁に身辺に起こり始めたり、必要な本をさっと書店で買えるようになったり、必要な情報や物品はグッドタイミングで手もとに届けられたり、お金の収支が絶妙なまでに合い始めたりします。もともと意味のある地球学校ではあるのですが、その構造と意図或いは仕組み、成り立ち、目的に対する自覚と認識がひとたび生じ始めると、身辺に起こる事柄は尚一層意味のあることが多くなり、霧がはれたように人生も読めてきて、洞察力が増し、達観できるようになってくるのです。
浅野 信『ニューエイジの到来』たま出版、1992、pp.97-98
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43-n (人生に偶然はなく、すべては必然である)
守護霊は私たちの自主性を重んじているので、手とり足とり面倒を見てくれるわけではないけれど、どんなときもちゃんと見守ってはいます。
そして肝心要のときや危機一髪というときには、手をさしのべてくれます。そのことも私は自分自身の経験から実感しています。
やはり二十代はじめのころのことです。
心霊について日々学びを深めていた私は、ある冬の寒い日、日本の心霊学の世界ではかなり著名な審神者である故大西弘泰先生の講演会に出かけました。大西先生にお会いするのはこの日が初めてで、どんな先生が壇上に立たれるのか、どんなお話をされるのか、心から楽しみにしていました。
会場は都内でしたが、たまたま前夜から埼玉の友だちの家に泊まっていたので、電車をいくつも乗り継ぐ必要がありました。
東京まで出て山手線に乗り、あと二駅で、会場のある駅に向かう私鉄への乗り換え駅だというとき、思いがけない事態が起こりました。大雪のために山手線が止まってしまったのです。私は地団駄を踏みました。講演開始時間が迫っており、気持ちは焦るばかりです。
なんとしてでも行きたい。山手線がだめなら遠まわりでも地下鉄に乗って行こう。そう閃いた私は、大急ぎで地下鉄に乗り換え、目的の駅に着きました。やれやれと思ったところでわかったのは、乗り継ぐべき私鉄も止まっているということでした。
そこへ昌清之命のメッセージが聴こえてきました。
「焦ってはいけない。すべては必然。成るように成る」
時計を見ると、講演時間はもう半分以上すぎています。それでも私は、「すべては必然」だし「成るように成る」のならば、と心を落ち着けました。そして最後の数分でも聞ければと、線路に沿って歩き始めたのです。雪を踏みしめて黙々と、大西先生に会いたい一心で。
会場にたどり着くと、講演はもうとっくに終わっている時間でした。さすがにもう誰もいないだろうと思いつつ、私はなかへ入っていきました。するとそこにはまだ数人の聴講生と、なんと大西先生本人がいるではありませんか。
「ああ、雪のなかを来てくれたんだ。大変だったね」
先生はやさしい笑顔で、私に声をかけてくれました。全身雪にまみれ、息を切らして立っている私に声をかけずにいられなかったのかもしれません。
それから私は、ずいぶん長い時間、先生と一対一で話をすることができました。雪にまみれて何キロも歩いたことが、私の姿を目立たせてくれたおかげです。
さらに言えば、この日に大雪が降り、電車が止まったことが幸いしたのです。もし晴れていて電車も通常どおりに動いていたら、私は会場に座る聴講生のひとりにすぎなかったでしょう。
その後も大西先生とのご縁は続きましたから、霊的世界が演出する出会いの不思議を思わないわけにはいきません。
いまではテレビのレギュラー番組を通じても有名になった定番フレーズ「人生に偶然はありません。すべては必然です」という言葉は、この日の昌清之命のメッセージと、私自身の実感にも裏づけられているのです。
江原啓之『人生に無駄はない』新潮社、2008,pp.136-138
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