学びの栞 (B) 


 44. 神


 44-a (自分の内にある神に気づくこと以外に人類に救いの道はない)

 自分の内にある神なるものに気づくこと以外、人類に救いの道はない。あなたはこの気づきの種となるのだ。一人ひとりが自分の価値に気づき、そして自分の生命が永遠であることに気づくとき、あなたたちはひとり、またひとりと、無限の思考、無限の自由、そして無限の愛という意識の中に新しい存在として加わっていく。あなたが考えたこと、気づきを得たことはすべて、あらゆる場所に存在する意識体のレベルを向上させ広げていく。そして、わかったことを明確な意図をもって自分の人生の向上のために体現し、自分の生とするようになったとき、あなたはまわりにあふれているはかの人々のような凡庸な生き方に比べて、はるかに崇高な思考プロセスとスケールの大きい考え方、そして明確な意図をもった存在が、あなたの内にあるのを示すことができるだろう。
 今日、ときは有史以来、もっとも偉大な時代に到達している。困難で課題も多い時代だが、あなたはこの時代がもたらしてくれるものを見ることを全うすべく、今ここに生きることを選んだのである。あなたたちは皆、今度こそは生きているうちに神に会えると、何度も何度も繰り返し約束されてきた。それなのに、幾たびの生を経ても、自分が神を見ることをあえて許そうとしなかったのだ。この場所に壮麗な王国が出現するのをあなたは目の当たりにすることだろう。夢想だにしなかったような文明が現れてくる。そして新しい風が吹く。そして、あなたの生きるこの宇宙のエメラルドであり、神の棲みたもう家であるこの美しい場所に、愛と平和とよろこびが祝福を与えてくれることであろう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.12-13

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 44-b (「未知の神」は私のまわりすべてにあった)

 「未知の神」とはいったい誰なのか。それは私……そして夜の巣にある鳥たちであり、葦に凍てついた霜、朝焼け、黄昏の空だったのだ。それは太陽であり、月であり、子どもたちであり、その笑い声であり、なめらかな脚であり、流れる水、そしてニンニクと草と真鍮の香りだったのだ。それはつねに目の前にあったのだが、私がこの理解を得るのには長い時間がかかってしまった。「未知の神」は月や太陽を超えたところにあるのではなかった。それは私のまわりすべてにあったのである。この見方が新たに私の内に生まれてからは、私は人生を受け容れ、自分にとって大切なものを大事にし、生きるべき理由を見つけられるようになった。血や死や戦争の悪臭のほかにも、存在するものがあったのだ。生命というものが! それは私たちが思っていたよりも、はるかに偉大なものだった。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.29-30

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 44-c (わが全生涯の目的は神を見て神をわがものとなすにあり)

 産を失うも可なり、願わくは神の聖顔(みかお)を失わざらんことを。病に悩むも可なり、願わくは神の聖旨(みこころ)を疑わざらんことを。人に棄てらるるも可なり、願わくは神に棄てられざらんことを。死するも可なり、ねがわくは神より離れざらんことを。神はわがすべてなり。神を失うてわれはわがすべてを失うなり。われらに父を示したまえ、さらばたれり。わが全生涯の目的は、神を見、彼をわがものとなすにあり、その他にあらず。

  内村鑑三『一日一生』教文館、1986、p.18

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 44-d (ひとは神を知るためにこの世に生まれてくる)

 ・・・・・・江上波夫さんと御一緒したことがあったとき、山好き、肉好き、パン好きの私を見ていると、騎馬民族の典型を見るみたいですと言われた。北大の犬飼哲夫さんは、酒好き、動物好きの私に、アイヌの女のひとに似ていると言われた。どこから来て、どこへゆくのか、人生の旅も終わりに近く、仕残したことがあってはならぬと、毎日、試験問題を眼の前につきつけられた思いでいるのだが、これにも鍵がある。私には、突如として涙が溢(あふ)れかえった経験が幾つかある。高松塚古墳見学にゆこうとして、遠くに松の生えたその丘を望むなり、いきなり涙滂沱(ぼうだ)となったのは、出身民族にかかわることらしい。
 二十二歳の時、本間俊平という、秋吉台で免囚保護事業をしているプロテスタントのひとの講演が、本郷の東大に午前十時からあるのだが、私は学校の運動会で、明治神官外苑にゆかなければならなかった。控室で運動服に着替えていると、一天俄(にわ)かにかき曇って雷鳴とどろき、豪雨となって中止。私は、講演に行ったのだが、神は私のために、天から雷雨をよこして下さったと思い、号泣したいほどの感動に全身が震え出さんばかりであった。二十三歳のとき、芝白金三光町の聖心女子学院の教師となり、マザー・ラムという英国人から公教要理の講義を受けた。開口一番、ひとは何のために生まれましたか。神を知るためですねと言われたとき、大粒の涙が机の上にぼたぼた落ちて、そうだ、本当にそうだ、神を知るために生まれたのだと、全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。

  田中澄江「神を知るために」から 「朝日新聞」1991.3.11

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 44-e (神は在りて在るものすべてを愛する存在である)

 神はありとあらゆるものなのであり、すべてを呑み込む力だ。水面をなでる風であり、色づく木の葉であり、深い色合いのバラの純粋さなのである。神とは、抱擁し合う恋人たち、笑っている子ども、蜂蜜の色をした髪の光沢だ。それは朝に昇る太陽であり、夜にまたたく星であり、満ち欠けを繰り返しながら夜半の空をわたる月なのだ。神とは、ぞっとするような姿の昆虫であり、控えめに空を飛ぶ鳥であり、ひどく醜いミミズでもある。神とは、動きであり、色であり、音であり、光である。神は情熱だ。悲しみだ。在りて在るもの、存在するすべて、それこそがあなたが父なる神と呼ぶものであり、ひとつの全きものとしての森羅万象すべて、そして在りて在るものすべてを愛する存在なのである。
 神は、御座に鎮座し、生きることすべてに関してあれこれ善悪の判定を下すひとりの人格ではない。神とは、生きることそのものであり、この躍動する一瞬一瞬すべてなのである。それは在るものすべてが存在し続けている姿であり、その永続性なのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.51

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 44-f[54-j] (自分がどれほど美しいか、あなたはついぞ知ることがなかった)

 自分がどれほど美しいか、あなたはついぞ知ることがなかった。自分をしっかりと見たことがなかったからだ。自分が誰なのか、何者なのかを見据えたことがなかったのだ。神がどんな姿か見たいだろうか。鏡のところに行ってみよう。そうすれば、あなたは神と面と向き合っているのだ!
 自分は価値ある人間であることをまず知ることだ。あなたの真価を評価できる物差しなどない。あなたの美を描き出せる像もない。そして、あなたの世界に終わりもないのである。
 最も偉大な説法は、山上に立ったある師によってなされたものだ。そこに立つと、その師は聴衆に向かってこう言った。「神を見よ」それだけしか言う必要はなかった。神を見よ。なぜなら、一人ひとりが、限界も、望みも、病も、貧富も、よろこびも哀しみも、生命も、そして……その死も、すべてを創造していたのだから。
 神を見よ。それを覚えておくことだ。あなたは、すべてのものに宿るあの存在なのだから。いつの日にか、あなたも神を見ることだろう。自分に触れてみるとよい。ただそれだけでいいのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 83

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 44-g [9-m] (神なる本質を持ったあなたこそ崇高なる創造主である)

 天界に光をもたらしたのは誰か。花の美しさ、木々の勇壮さをつくり上げたのは誰なのだろうか。人間という、不可思議な謎と言える存在を創造したのは、いったい誰なのだろうか。それは、すべての生命の総体である神ではない。在るものすべてを創造したのは、自分たちも神々であり、すべてを愛する父なる存在の息子である、あなただったのだ。すべてをである。父なる存在とは、すべてのものが、そこからできている物質、思考体だ。しかし、思考する能力、感じる能力、それに自由な意志という神なる本質を持ったあなたこそが、この世界での崇高なる創造主なのだ。
 神は確かに思考の総体であり、在るものすべての源である。しかし、父なる存在そのものである思考から、すべての創造物の美と魔法を創造したのは、あなたたちだ。創造力と、崇高なる神性を通して、思考を受け容れ、保持し、その想念を思いめぐらす能力があなたにはある。そして、その知性を通して、あなたは在るものすべてをつくり出したのである。
 ここで何かひとつ空想してみてほしい。わくわくするような、スリリングな、気持ちが思わず昂まるような空想だ。今度は、その空想がもたらす感情をすべて、余すところなく味わい尽してみよう。そう、あなたの宇宙はこうしてつくられたのだ。人間はこうしてつくられたのである。すべてはこうしてつくられたのだ。
 わが愛する主たちよ、あなたはまさにすべての生命の創造主だ。皆は宇宙のみなし児などではないのだ。それどころか、宇宙を創造した側なのである!

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 121-122

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 44-h [9-o] (あなただけが父なる存在の完璧な複製である創造物である)

 神である父の最初の創造物となったあなたは、それぞれが神から生まれた神であり、父の息子であり、そして神の精神と呼ばれる崇高な知性の一部となったのである。神々であるあなたたちだけが、神から直接創造された存在だ。あなただけが、父なる存在の完璧な複製である創造物なのだ。それは、父なる存在が拡大した姿があなただからである。父なる存在のすべては、その愛する息子たちをすべて合わせたものの内に、無限に息づいているのである。
 父なる神とは、生命という強制的で思索的である思考のことだ。あなたの思考がじっとしてはいられないように、それはけっして立ち止まらない継続する過程である。思考、あるいは生命が永遠に向かって拡張を続けていくためには、それを続ける理由がなくてはならない。その理由が、あなたなのだ。あなたたちの一人ひとりが神の精神の一部となったのは、あなたを通して生命が永遠に拡張を続けるためだ。永遠とはけっして時間の単位ではない。なぜなら、永遠とは、この瞬間のことであり、現在という瞬間の継続性、永続性そのものであるからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 124

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 44-i [9-p] (思考はそれ自体について思索し広がっていって光になった)

 はじめにまず、思考がそれ自体について思索し、広がっていったときにどうなったか。それは思考の本質のなかでも光と呼ばれるものになったのだ。光が最初に創造されたのは、思考が行なわれ広がっていくとき、その波動は必ずある周波数、光を発する周波数のレベルまで下げられるという理由からだ。つまり、思索され、拡張された思考が降りていく最初の形態が光なのである。あなたの血筋は、この光の誕生のときまでさかのぼる。なぜなら、最初に思索の対象となった想念から生まれた光の分子が、それぞれがひとりの人間となり、神となり、息子となったからだ。こうして、創造の誕生のとき、すべては光の存在と呼ばれるものになったのだった。
 皆の誰もが、この同じ瞬間に創造され、存在するようになったのだ。過去に存在したもの、これから存在するもの、すべての存在は、神が自己について思索したこの瞬間に思考から光へと創造されたのである。思考から広がっていった光は、「思考の河」と呼ばれるすべての想念の流れ、つまり神の精神と隣り合わせに位置しており、その一部となったのだ。
 皆の一人ひとりがなった光とは、そのときもいまも、あなたそのものである知性であり、光という形に広がった神だ。この神なる光、あなたの最初にして永遠の身体であるものこそが、あなたの存在の精神、あるいは私が「あなたの存在の内にある神」と呼ぶものだ。あなたの精神は、まさに神、神の心なのであり、それも単一の存在としての、という意味合いのものだ。今日でも、あなたはこの原初の精神、原初の神なる自己を持っている。そしてあなたは、思考という、あなたの愛する父が思索をめぐらし、光へと広がったその瞬間に光の存在となったのであり、いまでも、この輝かしき原初の光体をそのまま内に有しているのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 125-126

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 44-j [9-u] (思考観念を用いて神々が乗る車両として人間は創造された)

 神々が自分の創造したものを直接体験し、しかも創造性の表現を続けるための手段として、物質界での存在をつくろうと決心したのは、食物連鎖がしっかりと確立されてからのことだった。それも、創造したものとしてではなく、自分自身として体験する媒体を、である。そのために、彼らは人間という化身をつくったのだ。
 思考は浸透性の周波数を持っている。つまり物質を通過してしまうということだ。そのために、光という形の思考であった神々は、花になることはできたが、その香りを嗅ぐことも、その本質を知ることもけっしてできなかった。彼らはちょうど、木々の間をそよぐのに、木そのものを感じたり抱きしめたりすることができないそよ風のようなものだった。石を通ってしまうことはできても、それを感じることはできなかった。思考は石という物質に影響されることがなかったからだ。その低いレベルの波動を感じる能力を備えていなかったのである。
 神々が花の香りを感じ、花を手に取り、身に飾るには、またその美を知り、そのあざやかさを体験するためには、物質界に存在して、花と同じ周波数で振動する媒体をつくらねばならなかった。このために、ほかのすべてが創造された後、人間という化身が創造された。神々が、物質体、あるいは「固体」、つまり思考が最も低次のレベルまで変換されたものを通じて、自分の創造物を体験し、また自分の創造性を表現していくという目的のためである。
 人間は思考観念を用いて、神々が乗る車両として創造された。それは個々の神々にとって、完璧な化身だった。魂を宿らせることができて、しかも神の精神で包むことのできる化身だったからだ。これで神は、花に触れ、その香りを嗅ぐことができたのだ。その体験は、神々の行ないの中でも至上の宝と言える「感情」として、魂の内に永遠に記録される。これで神々は、木を見てはこれに思いを馳せ、その香りを楽しみ、その美に触れることが可能になった。これで神々は、互いの姿を見て、触れ合い、抱き合い、そして話すこともできるようになった。互いに育み合い、観察し合い、完璧に自由でいられるようになった。神々は、今度は人間としての遊びの対象となる、まったく新しい冒険を手にしたのである。それは、目には見えないながらも大切な本質、感情というものを体験するためであった。
 こうして、固体の密度を持たない光の存在である神々は、自分の観念にあった密度をつくり出したのである。この化身という固体を通して、神々はいまひとつのレベルで自己を表現することが可能になったのだった。それは、想念が物質という形で投影され、出現するという次元だ。この過程で神々は、人類と呼ばれる細胞物体の知性という形で表れた単一の「神」、つまり神なる思考そのものとなったのである。こうして、彼らは神なる人間、人間なる神になった。人間というすばらしい形態で自己を表現する神、自分の内にあって、自分の父なるものの永遠への広がりを続けていく神を表現する人間となったのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 131-133

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 44-k [8-a] (凝縮した思考と集約された物質で人間は創造されてきた)

 最初の人間は、神々のある一団がいろいろな試みを繰り返して初めて誕生した。最初は男だけが創造されたが、それも目に見える形での性器を持っていなかった。それは体内にあり、自己複製(クローニング)というプロセスを用いて、自分で繁殖ができるのだった。最初の男性ばかりの化身たちは、皆一様に似たような姿をしていた。彼らは今日の皆の目から見れば、グロテスクと映るような下等な生き物だった。だが、当時の神々にとっては、彼らは美しかった。しかし脚があまり早くなかったために、いつもまわりの動物の餌食となった。そこで神々はいろいろ試し、長い時間をかけて手を加えて、やっと自分が完全に乗り移るに値するものをつくり上げたのだった。化身が完成すると、数多くの神々が、人生の探求という新しい冒険のために、大よろこびで化身に入っていった。
 神々が宿った化身は、きわめて危険な環境の中で生き、ほかの生き物と共存していくために、光の存在たちがいつも手を加えて改善してゆける力を持つようにつくられていた。神が感情という形で抱いた想念はすべて、一つひとつの細胞の中にパターンとして記憶され、自己複製のプロセスを経てもそのまま伝えられるように、この化身はつくられたのである。
 ずっと後になり、男をさらに完成させた形として「人間の子宮」、つまり女が創造されると、遺伝子の共有を通してこの化身に独自性を与え、それをさらに複雑化、高度化させることが可能になった。男はそれまでに得てきた叡智を自分の精子に持ち、女は卵子に持った。性行為を通じて両者の遺伝子パターンがひとつになり、親の学びや気づきを基盤とした、さらに偉大な存在が創造されるのであった。だが、そこで創造されるのは、さらに良い身体であって、精神ではなかった。
 神々が人間として生きることについての理解を深めるにつれて(生存がこのプロセスを必要とした)、原初の姿から身体をさらに完成させる働きは続き、それが「進化」と呼ばれるものとなり、皆の数え方で言うと、これが千五十万年以上続いたのだ。現在の皆の姿になるのに、それだけ長い時間がかかっているのである。
 あなたの身体はまだ若い。移動性の高い、立った姿勢の人間は、まだ千五十万年の年齢でしかないのだ。しかし、光の存在であるあなたは、いつのときにも存在していたのである。なぜなら、時間という概念がなかったというのに、思索する思考の始まりがいつだったのかを、いったいどうやって決めることができるのか? つまり、あなたはときの彼方からある古い存在なのだ。あなたがときを数えるのに使う用語でいうと、何十億年という間、あなたは電磁場の中での創造を続けていた。それから今度は、電磁場の波動を下げて物質にすることが、これまでと違う新たな冒険となった。
 こうして、何十億年という創造と探求を通じて、人間は、凝縮した思考と集約された物質でできた、生きて呼吸する生き物となったのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 133-135

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 44-l [52-a] (私たちは神との愛を通して互いにつながっているのである)

 私にとって、皆は愛する兄弟だ。私だけでなく、見えるもの見えないものを含め、すべての宇宙に在る、生命のすべてのレベルの、すべての存在と兄弟なのだ。私たちは皆、神という存在の恩寵、知性を通して、そしてそれよりもずっと大事な意味で、その愛を通して互いにつながっているのである。その神とはもちろん、あなたがどんなに破天荒なことをしようとも永遠にあなたを支え、維持していってくれるすばらしい思考のことだ。
 皆は全員が、かつては光を発する思考の片鱗だったのであり、それが永遠という途切れなきプロセスに向かって神が存在し続けていく姿になったのである。探求のためのさらに偉大な世界を建設するために、細部まで気を使い、多くの試みを重ねながら、あなたは物質という化身、あるいは別の言い方をすれば、「凝縮した思考」をつくり上げた。化身を通して、それまでとはまた違う次元の存在で自分を表現できたあなたは、神という思考パターン全体を探求できたのだ。この限りない創造性への冒険を通して、かつては形を持たない光だったあなたは、自分を人間という細胞物質へと生まれ変わらせたのである。その過程であなたは神なる人間になったのだ。それは、人間という生きた生命体を通じて表現される神の知性の姿なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 141-142

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 44-m[8-d] (人間という形の神にならない限り神の絶対性は理解できない)

 人類として、皆は自分たちが未開の存在だと思っているのだろうか。目に見えない世界にいる者に比べて、自分たちが劣ると考えているだろうか。そんなことはない。いま皆は自分の永遠の思考プロセスをすべて理解するという、とてつもない冒険に足を踏み入れている。人間という形の神にならない限り、神の最終的な絶対性ともいうべきものを理解することは、けっしてできない。それは誰にも不可能なのである。なぜなら、神の王国は、光から電磁場へ、そして物質へ、形体へと拡張していく性質のものだからだ。つまり、神とは、思考の中の高い波動であるだけではなく、固体物質という、密度が最も高く、波動もいちばん低い思考の形でもあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 142-143

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 44-n[8-e] (人類であることは一つの特権であり神なる生き方にほかならない)

 まだこれから神なる人間になる必要がある存在は、神としての完全な体験を持っていないそれに思いを馳せ、すべての生命から叡智、智慧を得ることができない。この次元に旅した者たち、この次元の目を見張るような世界の一部となるとともに、それを進化させた者たち、山々を動かし、色をつくり出し、荘厳なるモニュメントを創造した者たちだけが、愛やよろこびや創造の精妙さを理解できるのだ。この旅人たちだけが、あなたもその一員であるこの存在たちだけが、永遠を理解し、それを追い求める気持ちを理解したのである。彼らこそ、すべての生命のために永遠というものを創造した張本人だからだ。物質の次元がある限り、生命が無限の創造性へと途切れなく続いていくことを可能にしてくれるからなのだ。だからこそ、男であること、女であること、人類であることは、まさしくひとつの特権であり、誉れである。これはまさに神なる生き方にほかならない。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 143

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 44-o[8-f](人類は天使よりもずっと進化した存在である)

 皆が「天使」と呼ぶ言葉がある。このような神なる存在になりたいと願う者が皆の中にもたくさんいる。だが、天使でいることには大きな短所がある。彼らはまだ人間として生きていないために、理性のバランスというものがない。これから最終的には神の化身として人間になる存在ではあるが、いまだ単なるエネルギーの存在にすぎないのだ。それに、彼らには人類に対する情けや慈しみの念といったものがない。実際にあなたになってみるまでは、目に見えない世界に生きる存在に、どうしてあなたのことが完全にわかるであろうか。人類は天使よりもずっと進化した存在だ。天使たちには、人間という限界のある形で生きる神についての理解がない。このために、人間のよろこびや哀しみなど、人類についての理解に限りがあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 143-144

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 44-p [8-g] (人類の一員となることはそれだけで聖なる体験である)

 人類の一員となることは、それだけで聖なる体験である。なぜなら、人類になるとき、あなたは神のすべてを体験しているからだ。人間になってはじめて、天界の王国全体を網羅する領域へと旅したことになるのである。
 したがって、人間になることで、あなたは自分をおとしめたわけではない。これは絶対に理解しておく必要がある。もし、これまで人間になったことがなければ、完璧な形や天界に入ることはけっしてできないからだ。生命のレベルに降りたことがないのに、いったいどうして天界に昇華することなどできるのだ?
 あなたの内に燃える全能の神というこの火、それを理解するために人間になるのは、充分その価値があり、また賢い選択でもある。すべての生命はこの火でできているのだ。そして、人類と呼ばれるこの物質界での知性を通してそれを体験すれば、神とはいったい何なのかについて、完全な視野を与えてくれる。そして、神の何たるかをすべて完全に理解できたとき、内面、外面の宇宙や、物質、肉体、愛、よろこび、哀しみ、それらがすべて理解できたときに、あなたは父なる存在そのものになるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 144

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 44-q[56-f] (この世に生きる最大の理由は神である自分を理解すること)

 皆の一人ひとりは、さまざまな理由のためにこの次元に生きている。しかし、最大の理由と言えば、すべての中で最も大きな神秘、つまり自己を理解するためだと言える。これは、私が神、あるいはあなたの内にある父なる存在として語っているものであり、あなたの存在のはじめにその存在理由を与えてくれたものであり、あなたが創造し進化してきた手段でもあり、そしていつかまたあなたがなっていくものである。
 あなたが神そのままになる、つまり自分の内にある神を完全に表現していくとすると、あなたがなろうとしているものはいったい何なのだろう。自分がなるべきものを判断する基準を与えてくれるような神とは、いったいどんな神なのだろうか。それを少し考えてみよう。
 私が愛する神、その僕である神、それを通してすべての神秘のはたらきがなされる神とは、生命の全体性が途切れなく続く姿のことだ。生命の王国が続いていくのは、永遠が続いていくことであり、そこでただひとつ存在するのはいまという瞬間だけである。この「いま」、この特定の瞬間には、神とは在るがままの姿でいるすべてのもののことだ。したがって、この「いま」では、神は在るものすべての「在るということ」になる。そして、これからやってくる無数の「いま」では、神はすべての生命が、それ自体よりもほんの少し先を行く形で脈打っている姿であり、鼓動しながら生き、感じ、広がり、そして進化しながら自己の存在を表現している姿なのである。
 神とはすべて存在するものの最終的な姿だが、境界もないし、始めもないし、終わりもない。それは並ぶもののない無限性なのである。神の「在るということ」は、現実の上にある現実であり、次元の上にある次元であり、宇宙の上にある宇宙なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 149-150

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 44-r[22-d] (銀河系だけでも百億個の太陽がありこの地上だけに生命があるのではない)

 ここにはほんの小さな銀河があるにすぎない。そしてもし皆が、自分たちがそこに存在するただひとつの生命であると考えているなら、それは倣慢であると言わざるを得ない。皆の住む銀河系だけでも百億個の太陽があり、それぞれの太陽には生命を維持している惑星があるのだ。
 いったいどのくらいの数の太陽系が存在しているかを伝えられる数の単位は存在しない。大小あらゆる惑星、そこに生息する生命をすべて数えあげられる数字も存在しない。数はないのである。もし無限というものを理解したいと願うなら、時間や距離や単位を超えて考えられるように、頭の中をプログラムし直す必要がある。さらに大きな現実では、そういうものは存在しないからだ。
 神はただ在る。始まりとはいつのことだったのか? そんなものはなかったのだ。神はつねに在ったのだ。思考、宇宙、空、テルスター(telstar)を維持し、それに生命を与える。テルスターが何か知っているだろうか。光を物質に変容させ、それを宇宙に噴き出して星団をつくるものだ。ではテルスターはどこからきたのだろうか。思考、空、宇宙空間、見わたせば星と永遠が見える偉大なる空(くう)からだ。神の最も完璧で限りない存在としての姿を思い描きたければ、宇宙空間という終わりなき永遠を思い描くとよい。宇宙空間こそが、あなたの目にするものすべてを取り囲み、在るものすべてを維持し、その存在を確立してくれるものだからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 150-151

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 44-s[22-e] (終わりのない宇宙をいったいどう知覚すればいいのか)

 皆、宇宙空間のことを、まるで何もない場所であるかのように語る。しかし、すべてのものをしっかりとその公転軌道に固定しているのは何なのだろうか。虚無空間に皆の惑星である地球を浮かばせているのは何か?百億個の太陽を有する皆の銀河を支えているのは何か?何がすべての物質の通過を可能にしているのか?よく考えてみれば、光が移動するときはいったい何の上を通っていくのか? これがすべて、あなたが「何もない」と言う場所で起きているというのだろうか。百億個もの星と、その太陽系を維持できるその「何もないもの」をぜひ見せてはしい。
 神はあるレベルでは、すべてのものを構成する物質だ。別のレベルで言えば、異なる次元にある時間の流れであり、並行した宇宙を創造する時間の歪曲(タイムワープ)である。さらに別のレベルでは、物質を支える光という周波数帯だ。そして何よりも大きなレベルでは、あなたを現在の位置に保っている「何もないもの」、つまり思考であり、宇宙空間の永遠なのである。
 神とは生命すべてであり、脈打ち、広がり、進化し、永遠へと途切れなく続いていく。それは、過去にあったものの存在を可能にする「在るということ」であり、いま在るものの永続性であり、これからやってくるものの可能性である。生命を与える動きであり、定まった目標や理想に到達するのではなく、思考から光へ、そして物質へと、つねに生命を創造し続けている限りない思考プロセスなのである。神とはすべての物の本質部分であり、それがある意図を持った動きの中でつねに変化し、創造し、広がり、そして存在する姿なのである。
 すべてを包括し、何よりも力を持ち、つねに進化を続け、動き、存在し続けていくものの姿を、いったいどうすれば認識できるというのだろか。このいまの瞬間の神が、次の「いま」には同じものではないというのに、どうして「これが神である」と示すことができるのか。終わりのない宇宙をいったいどう知覚すればいいのであろうか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 151-152

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 44-t[54-r](神そのままになるということはあなたそのままになるということ)

 父はあなたというすばらしい存在の内面以外のところにはけっして認められない。それを試みることさえ、自分に無理な要求を課すことになる。なぜなら、もともと自分の内面から発するものを語ろうというのに、自分の外を見ようとしても、始まらないからだ。神の姿を認められるただひとつの道とは、自分の内面にある父の姿を見極めることだ。何よりもまず、それはとても気分のいいことではないか。限りない創造という複雑なものを理解することから、自分自身の人生、思考過程、そして「在るということ」、すべての「いま」に意識を戻すことができるのである。
 父を知覚し、理解し、感情面で知るためのただひとつの方法は、あなた自身が誰なのかを理解し、感情を通してそれを知ることである。そうすれば、あなたは神を知ることができる。そしてこう言うことができるようになる。「私は父なる存在とは誰なのかを知っている。私と父はひとつであり、私は自分自身が何者なのかを知っている」
 神そのままになるということは、あなたそのままになるということなのだ。自分が単に自分の「在るということ」でいられるとき、あなたには終わりもなく、限界もなく、創造性と選択あふれる存在となれるのだ。あなたはすべてを許容するようになり、動きそのものとなり、静謐であり、よろこびなのだ。純粋なエネルギーであり、力強い方向性であり、全身すべての感情であり、思考であるのだ。自分の存在すべて、自分の呼吸すべてをかけて存在し、自分を愛し、自分の美徳が生活の中に入ってくるのを許す。これがまさしく神そのままに生きるということなのだ。
 とにかく、ただ自分でいることだ……「在るということ」だけでいるのだ。存在のレベルでは、あなたはすべてでもある。神になるとは、こう語ることだ……「私は在るものなり」。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 153

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 44-u[54-s] (神はあなたと一つであり別の存在なのではない)

 あなたの神なる意志のほかに、「神の意志」なるものは存在しない。もし神が、生きるということを、ただひとつの表現方法しかないような、凡庸なものにしたかったのなら、あなたを存在させることはなかっただろう。自分の明確な目的を持った独自性を表現できるように、あなたに意志を与えもしなかっただろう。
 「神の意志」と呼ばれているものは、自分の兄弟たちを統治し、支配するために、人間の手によって創造されたものである。その教えを信じて、神の意志が自分のものとは別にあると考えてしまうと、つねに「彼の意志対自分の意志」という対立に明け暮れることになる。なぜなら、あなたが、あることをしたいと願い、それをしなくてはと感じているのに、「神の意志」は、そうしてはならぬと言うかもしれないからだ。
 神はあなたと別の存在なのではない。神とあなたとは同じひとつのものなのである。あなたの意思はまさに神の意志なのだ。あなたがしたいと思うことは、まさしく「神の意志の領域」と呼ばれるものであり、神の意志そのものなのである。したがって、あなたはけっして自分の運命と対立しない。なぜなら、運命は最初から決まっているわけではないからだ。それは、すべてあなた自身が決定していくものなのである。あなたが思うことはすべて、これからやってくる瞬間を創造しているのだ。あなたのこの瞬間は、まさにほんの少し前のあなたの思考の産物なのである。それが神の科学というものだ。父なる存在が、その意志であなたのために決めることといえば、自分の魂の内にあるさまざまな感情にしたがって、人生の全体をすべて体験すべし、ということだけなのだ。なぜか? あなたがよろこびとは何かを知り、神があなたに、そしてすべての生命に対して持つ無条件の愛を知るようになるためだ。
 もし、あなたが、どうも神と折り合いがよくないと感じているなら、もしかしたら、神について、あなたのもつイメージをつくり直すべきなのかもしれない。というのは、もしあなたが神と闘わねばならないのなら、その神は無条件の愛とは言えないからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 154-155

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 44-v[54-u](神こそがあなたの夢を実現する基盤なのだ)

 にぎやかな出生の瞬間から、父は皆の一人ひとりに、純粋で無条件の契りを与えた。それはこういうものだ。あなたが考えるもの、望むもの、何であろうとも父はそれそのものになる。その契りはいまもあり、これからもずっと変わらない。その契りを通して、皆の一人ひとりが父なるものすべてを踏襲する後継ぎとなったのだ。このようにして、父は自分そのものである人生すべてをあなたが理解し体験できるように、その瞬間までの自分をすべてあなたに与えるのである。父こそがあなたの夢を実現する基盤なのだ。だが、夢を紡ぐのはいったい誰なのだろうか。あなただ。では、あなたの夢はいったい何でできているのか。想念、神、生命だ。
 神そのものである想念すべてをもとにして、あなたはどんな真実だろうと、価値観だろうと、望み、願いだろうとそれを創造することができる。自分の思考過程で創造するどんな真実でも、価値観でも、父そして人生は必ずそのとおりになってくれる。そしてあなたが望むどんな想念、理想であろうとも、父なるものは、自分自身でもある物質を通じてこれを具現化し、あなたがそれを体験できるようにしてくれるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 156-157

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 44-w[15-c] (自分の思考をどう使おうと神の愛はけっして変わらない)

 あなたへの神の愛の例として、ある神によって生命連鎖の中に長い生命を与えられた蛇という生き物を見てみよう。この生き物は、さまざまな筋肉と骨がある長く細い身体を持つ。動きは非常にすばやく、とても大きい頭部には、ただひとつの防御手段である、皮膚を破るほどの力を持つ牙がある。噛みつけばわずかのうちに大きな体格の人間でも倒すことができるが、逆にどんな人でも蛇を斬ったり、わけなくつぶしてしまうこともできる。
 さて、二人の神を考えてみよう。最初の神は科学的な心を持っていて、蛇をすばらしい生き物として見ている。脚もないのに動きは大変すばやいし、皮膚には美しい色と模様を持ち、どこまでも続くとさえ思われるような華麗な骨格があるからだ。別の神がやってきて、蛇はぞっとする下等な生き物だと言う。噛まれれば危険だし、人間を殺すことができるのだから、ひどい生き物だというわけだ。
 すべての生命の「在るということ」である父なる存在にとっては、すべてのものは在るがままの状態で純粋だ。すべては父そのものである生命の表現という意味においては、純粋無垢な存在なのである。何かを美しいとか、下等だ、醜いなどとするのは、その対象へのそれぞれの見方なのである。父なる存在である思考をもとにして、対象に思いをめぐらし、変えていくという創造的な力を持っている私たち神々だけが、本来は真に純粋で無垢なものを、ただ存在する以上の何かであると判断を下してしまうのだ。
 神の最高の創造物であるあなたに、この蛇に対して自分の好き勝手な判断を下し、意志を行使する権利を与えるほどの神の愛(蛇という生命の実体もこれだが)とは、いったいどれほど偉大なものであろうか。生命の力が持つあなたへの愛は、あなたが思考を通して願うものなら何にでもなろうというほど深いのだ。父なる存在は、何でもあなたが望むものになる。あなたが変えたいと望むとおりの姿にさせてくれる。父そのものである生命は、下等で醜悪、卑しいものにも、最高峰の美にも、あなたが見たいと願うものそのままになるのだ。
 さて、この父なる存在が、何でもあなたが知覚し願うものになるということ、それもあなたの思考過程のおもむくままにそうなるのは、驚くべきことではないだろうか。そう、これこそ愛というものだ。
 自分の思考はどう使おうとかまわない。父なる存在のあなたへの愛はけっして変わらないからだ。神そのものである人生を、あなたがどれほど下等で卑しいものと見ようが、それは神にとっては神そのもの、自分そのものでしかかいのだ。それでも神であり、純粋であり、愛されているものなのだ。この約束はゆるぎないものである。父なる存在は、それ自身では価値判断を下すことがまったくないからだ。父はただ在るのみである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 157-159

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 44-x[54-v] (どこで神に挑戦しようともあなたは必ず愛されている)

 あなたと神の間の愛に条件はない。もし神があなたの思考を検閲したり、神自身である生のすべてを体験するのを妨げたとしたら、神を永遠に広げていくという自由が、あなたにはなくなってしまうだろう。
 神は、自分のしたいようにする完璧な自由がある状態のあなたを愛している。あなたの意志は彼の意志だからだ。それが神とその息子たち、そして神と神自身の間の契りなのだ。あなたが何をしようとも、どこで神に挑戦しようとも、あなたは必ず愛されている。神はあなたが望むとおりのことをさせてくれる。あなたが途切れない存在であり、何者もあなたを神から切り離すことはできないことを知っているからだ。父なる存在は、あなたの生命の原動力を取り上げることができるような、自分より高次の存在をつくったりはしていない。だからあなたはつねに存在していく。ここでの人生が完了すれば、またさらに別の機会がある。自分の好きなように創造する自由が……。
 この人生、そしてこれからやってくる人生を、あなたは自分の意志にしたがって生きていくだろう。そして、その自由をあなたに与えたのは、あなたを愛する存在、あなたの父、全能の神、すべてを愛する者と呼ばれる存在なのである。
 あなたは自由な存在なのだ。意志という力と、愛という能力によって。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 159

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 44-y[9-zn](あなたは身体の中に永遠に生きていける力も持っている)

 反キリストとは、変性自我のことであり、その王国は社会意識だ。それは限りなき思考を許さないものであり、その教義は恐怖であり、審判であり、生存なのである。キリストとは、自分の内にある父なる存在の力、美、愛、そして限りなき生をすべて表現している人間のことだ。自分は神なる存在であることを悟り、教義や預言や恐れを超越して、その悟りをそのまま体現して生きる人間のことなのだ。そういう人間は、社会意識を超えたところに、神という無限の活力があることを知っているからである。
 反キリストとキリストは同じ寺院を分かち合っている。その寺院とは、あなたのことだ。すべてはあなたの内面にある。あなた自身である神が、キリストと反キリストのどちらの存在も許すからだ。限界と無限の両方の存在を許すのである。
 「ハルマゲドン」という預言のことを耳にしたことがあるだろうか。何のことはない、あなたは自分の人生でそれをずっと生きてきているのだ。ハルマゲドンとは、神の実現と、反キリストの容認との間の戦いのことであり、反キリストとは限りない思考が限りない表現を求めてあなたの脳の中に入るのを許さないでいる変性自我のことだ。それは、社会意識と限りない「知っている状態」との間の戦争なのである。それがハルマゲドンだ。自分の外で起きる戦闘ではなく、内面のものなのだ。自分の内に湧き上がるキリストと、支配を続ける変性自我との対立なのである。したがって、この預言は確かにこの時代に実現していることになる。
 神になるというのは、限りなき「知っている状態」、限りなき存在となることだ。人間のままでいるというのは、さらに偉大な知識へ自分の心を開こうとしない、限られた生き物であることだ。理論を受け容れながら、生きるということを実践しない者、師であるよりは教えられる者、探求者よりは庇護される者であることなのだ。
 あらためて言おう。あなたには知るのが可能なことはすべて知ることができる力がある。それに、望むものは何でも実現させる力を有している。もしそれがあなたの望みであるなら、自分の身体の中に永遠に生きていける力も持っている。だが、そのすべてに対し、変性自我は「だめだ」と言う。そのために、あなたは人間とは何かについてはよく知っているというのに、神は謎に包まれたままなのである。

 『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 271-273

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 44-z[20-l](自分を愛すれば愛するほどあなたの脳は開いていく)

 ここにいる人たちは皆、物質という限られた形態で神について学ぶことでは、その能力いっぱいまで成長してきたと言える。地上界でのたくさんの生を通じて、自分の創造性の産物であるこの天国のあらゆる要素を体験してきている。その体験を通して、社会意識という、動物の群れのごとき現実に生きる神なる人間の限られた思考の価値観については、知るべきことはすべて学んだのである。恐れや不安、悲しみや怒り、強欲についてはもう学んだのだ。嫉妬、憎しみ、戦争についても学んだ。死についてもすでに学んでいる。自分自身と、自分の神なる「源」との断絶についても、もちろんもう学んでいる。そして、その源は、この地上界という、「在るということ」が目を見張るような形で見られる場において、あなたがその最終のレベルで神を体験できるように、すべての冒険を通じてあなたを愛し、支えてきてくれた。
 無限の状態に戻り、よろこびと存在の自由を体験するためには、あなたは自分をひとつにしているものに再びならなくてはいけない。身体というやっかいな荷物があるので、それになるただひとつの道は、第七のチャクラである脳下垂体をフルに活動させ、社会意識をほんの少しだけ越えたところにある限りなき思考を脳が受け取れるようにすることである。それが、自分の「知っている状態」を限りない神の叡智へと広げる方法なのだ。神の叡智とは、その存在そのものであり、在るがままでその存在を許し、愛しているもののことであり、つまるところ、それは思考の総体なのである。
 では、この小さなすばらしい分泌腺に、そのホルモンの流れを使って脳の眠っている部分を目覚めさせるには、いったいどうすればいいのだろうか。それは、単に望むことを通じてなのだ。キリストになるということは、父なるものを知りたいと望み、神のようになるのを望むことだ。すべての想念が、自己の現実となるのを許すことを願うことだ。あらゆる瞬間、自分がなってきたものすべてを愛しみたいという望みなのである。自分そのままの「在るということ」になりたいという望みなのだ。
 自分の在るがままをすべて愛することが、なぜ大事なのだろうか。そうすると、あなたは直ちに社会意識を超越するからだ。するとあなたは、自分が受容されるかどうかというレベルを超える。審判を超え、時間という幻影を超えるのである。あなたは自己の命を満たすためだけに生きるようになる。自分の内なる声だけに耳を傾けるようになるのだ。そして、よろこびの道だけをたどる。その道にこそ、すべて在るものについて「知っている状態」が待っているのだ。
 さて、あなたは私にこう言うだろう。「でもラムサよ、それではまったく利己的なのではありませんか?」と。そう、まさにそのとおりだ! しかし、利己的というのは、利神的なのだ。あなたの内にあるこの神のために生きるすべての瞬間、そして心に抱いたあと、手放すことのできたすべての幻影、そして自分のよろこびと光を見つけるためにあなたがすることは、すべてあなたという存在から発して大きな意識の流れに入り、人類全体に栄養を与えるのである。自己への愛(これはまさに神への愛ということだ)だけのために生きるようになったとき、あなたは社会意識の密度の中に神を浸透させていく。すると、あなたは愛する兄弟たちが自己へと戻る道に光を当てることができる。それは、彼らを愛する父のもとへと返してくれるただひとつの道なのだ。
 自分を本当に愛し、自分は神をそのまますべて受け容れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父とひとつであることを知りたいと望むとき、あなたは一輪のすばらしい花として咲き始める。それが、脳の能力を解放し、神の心にあるすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。

 『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 274-276

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 44-za[65-f](あなたはこれまでの生でのあらゆる体験から智慧を得てきた)

 あなたは自分の好きなように夢を創造できる。だが、自分の理解という目的のためにどんな形の夢をつくり出そうとも、それは同時にあらゆる場所の意識全体に何かを加え、豊かにしているのである。あなたがそこから何かをただ取り去るということはない。それはできない。あなたが嬉々として取り組んでいく冒険は、すべて生をさらに情熱的で鮮やかなものにする。心に抱くすべての想念、体験するすべての幻像、すべての発見、それにどんなに卑しく醜いものでも、あなたの一つひとつの行為は、あなたの理解を広げるのであり、それが今度は人類全体の意識に新たなものを加え、それを広げるとともに、神の精神をも拡張するのである。
 もし自分が人生で失敗し、何か過去に間違ったことをしたと思うと、自分自身の内面、外面両方の偉大さ、それに生全体の重要性を見て取る力を減じてしまう。過去をなくしたいなどとけっして思ってはならない。過去のどの一部でもだ。あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験との間の相克は、あなたの魂の内に、美しき叡智の宝玉をつくり出したからだ。それは、もう二度とそういう夢は見る必要はないし、そのゲームをつくり出すことも、その体験もしないことを意味している。すでにすべて体験し、それがどんなふうに感じるかもあなたは知っているし、生で最高の宝であるフィーリングというその記録を魂の内に持っているからだ。
 私は、あなたが愛されていることを伝えるためにここにいる。愛についてのあなたの理解を超えるほど、あなたは愛されているのだ。それは、あなたが、自分が誰か、何なのかを理解しようと苦心している神として以外見られたことがないからである。そして、これまでのすべての生でのあらゆる体験から、あなたは知識と智慧を得てきた。それを世界に与えてもきた。花が開くように展開されていく生の美徳をさらに豊かなものにしてきたのである。
 あなたの人生は、あなたの内にある火がつくり出したすばらしき壮観だった。それは、聖なるもの、神なるものとして敬意を払うべきものだ。なぜなら、あなたが何をしようとも、あなたは神だからである。どんな仮面をかぶろうともあなたは神なのだ。どんな人間関係を体験していようとも、あなたはやはり神なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 307-308

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 44-zb[58-b] (人は無限の能力を発達させ神に近づいていく存在である)

 ここでちょっと立ちどまって、私たちの人生を生きていく瞬間瞬間を貫いている神の力について考えてみたいと思います。また、自然界およびあらゆる種類の創造的生命体を支配し、植物、鳥、動物、人間の生命を絶えず励まし、開示してくれる、素晴らしい組織について考えてみましょう。
 それと同じ創造的な力が、無数の星々をそれぞれの軌道からそれないようにしていることに思いを馳せてみてください。その力はまた、あらゆる創造物のなかを、リズムをもった波のように貫いている生と死の流れのなかで、誕生と死、死と再生を作り出しているのです。そして自分自身にも聞いてみてください。この何者にも屈することのない生命力を創造し、現実化し、無限の時の流れの中を維持している無限の知性的存在の力を、ほんのわずかであれ、私たちは想像することが可能であるかと。
 さらにまた、人間全体が持つ素晴らしい生命のあり方について考えてみてください。いや、あなた自身の人間としての生活について考えてみてください。あらゆることについて、あなたをサポートしてくれる力もあります。あなたの内面的な生活の縦糸と横糸に、霊的な美しさと真実を織り込むことになるべく運命づけられた、一連の物理的な体験をあなたにもたらし、しかも、それを切り抜ける手助けをしてくれる力についても考えてください。
 天界で調和に満ちた静かな生活を送っている、優雅で本当に美しい存在を、あなたがほんの一瞥でもできれば、なんと素晴らしいことでしょう。彼らの顔や形の美しさを見ることができれば、悠久の昔から、数多くの人生を通して援助の手を差し延べ、やがてかくも美しく光り輝く存在を生み出したキリスト意識の不可思議な生命の流れがどのようなものか、少しはわかるに違いありません。一人一人の人間は一歩一歩訓練を受け、花を開きつつある存在であり、やがて、無限の能力を発達させ、神に近づいているのだということを、どうぞ忘れないでください。
 それだけに、じっくりと考えてほしいのです。人間の心、意思、霊の一つ一つの努力、すべての行動、とるに足りない小さな体験から、最も素晴らしい体験に至るまで、すべての体験は、このような神としての人間の実現に役立つことになるのだ、ということを。このように理解することによって、心に光がさすとき、私たちは驚愕せざるをえません。人間の心はいかに気まぐれで、感謝することを知らず、そしてわがままなものであるか!

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.209-210

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 44-zc[79-c] (神の手は子供を迎え入れるべく常に開かれている)

 本当の幸せは自分で獲得するしかないのと同じように、肉体の健康・調和も自分で獲得しなければなりません。しかし、神について学ぶためには苦しみの炎を通っていかなければならないということはありません。人は、穏やかな心と喜びを通して、もつと簡単に神を発見することもできるのです。これは、神に向かう究極の道と言えるかもしれません。というのは、人はこの道を歩もうとするときには、まず自分を否定し、自己を克服しなければならないからです。
 しかし、道は誰にでも開かれています。ここで再び、善と悪、肯定的と否定的、苦しみと喜びという問題が出てきます。左の道を行くか、右の道を行くか、それは個人の自由です。人間は自らの願望によって父なる神のもとに帰ることができますが、それは自らの罪を転換させることによってもできます。父なる神の手は、子供を迎え入れるべく常に開かれているのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.274-275

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 44-zd[15-n] (神と愛について語り宇宙的な視野でものを見る)

 精神科医が神や愛について語るのを聞くのは、奇妙に思えるかもしれません。しかし、魂の心理療法の基本は、自分自身の神性、魂の本質、肉体に宿ってここに存在している其の目的を知ることであるからには、私は神と愛について語る必要があるのです。そうすることによってのみ、私達は宇宙的な視野でものを見ることができるのです。
 愛なくして、神なくしては、何もありません。
 神は私達の崇拝を要求しません。神は私達の理解をはるかに超えたものであると知っているのに、私達は人格化した神に、しがみついています。
 神に性別はありません。これも人格化の一つです。
 神は宗教を持ちません。私達はみな、心の中でこのことを知っています。
 神に人種はありません。
 神はすべてです。想像も及ばない知恵と力、そしてあらゆる資質を持つ、愛に満ちたエネルギーです。私達はみな、神から創られています。神は私達一人ひとりの中にあり、私達の存在の実体だからです。
 氷は水になる可能性を秘め、水は水蒸気になる可能性を秘めていますが、神は水蒸気を超えた存在です。
 神は目に見えず、知ることもできません。それでも、すべての物になる可能性を持っています。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.325-326

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 44-ze (神を知らない信心深い男についてのジョーク)

 よく知られたジョークに、こんな話があります。ある時、信心深い男が洪水で生命の危険にさらされました。水位は急速に上昇し、彼は家の屋根の上に避難せざるを得なくなりました。それでもまだ、水は増え続けました。
 ついに、警察のポートが屋根から彼を救うためにやって来ました。
 「ボートに乗って下さい」と警官が叫びました。
 「いやです」と彼は答えました。「私はずっと、信心深く思いやりのある男として、生きてきました。神が私を守って下さいます」
 「馬鹿なことを言わないで、ボートに乗りなさい」と警官が答えました。「水はまだ増していて、そこでは危険です!」
 男は拒否し続け、ボートはあきらめて行ってしまいました。
 水は本当に増え続けました。あと二回、救助ボートが戻って来ましたが、二回とも、男はボートに来るのを拒否しました。
 「神が私を守ってくれます」と自信満々で男は言い張りました。
 間もなく、洪水が家全体を呑み込みました。男は溺れて死んでしまいました。
 天国で、彼は神に会いました。神が救ってくれなかったのを怒って、男は大声で文句を言いました。
 「私は一生の間、ずっと、信心深い男でした。すべての戒律を守ってきました。慈善事業に沢山寄付しました。それなのに、私が一回だけ、お願いした時に、あなたは私を見捨てたのです!」
 「でも、私は三回もボートを送ったのだよ」と神は説明しました。「なぜ、お前は乗らなかったのだね?」

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.326-327

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 44-zf[77-b] (何千年もの間誤解されてきた神と神の名による戦争)

 あまりにも長い年月、何百年も何千年もの間、神と宗教は誤解され、歪められ、人類によって意識的に操作されてきました。平和と愛と慈悲の究極のシンボルである神の名が、数知れない戦争、殺人、大量虐殺を行なうために、利用され続けています。二十一世紀が始まっている今日でさえ、「聖なる戦い」は中世の疫病のようにこの地球をむしばんでいます。戦争が「聖なるもの」であり得るでしょうか? これは矛盾する言葉、真反対の言葉をつなげたもの、絶対的な罪、そして、人を惑わすための表面的な理由づけです。
 神は平和です。神は愛です。私達は神のイメージに創造され、神は私達の心の中にあるということ、そして、私達もまた、平和の存在であり、愛の神性そのものであることを、私達は忘れているのです。あるのは唯一の神、私達すべての中にある神だけですから、唯一の宗教しかあり得ません。私達はお互いに愛し合わなければなりません。愛こそ、故郷への道だからです。それでなければ、愛のレッスンを学び取るまで、私達は何回も何回も、同じ学年をくり返すはめに陥ってしまうでしょう。
 恐怖を手放し、他の宗教の人々を自分と同じ人間であり、天国への道を歩む同志だと思うことによってのみ、私達は真に無条件の愛に満ちた存在になれるのです。私達はみな同じものです。同じボートを漕いでいるのです。多くの転生をくり返すうちに、私達はすべての宗教、すべての人種を経験しています。魂には人種も宗教もありません。魂は愛と慈悲だけしか、知らないのです。
 私達はみな同じものであり、お互いの間には、本当は少しも大切ではない表面的な違いだけしかないとわかれば、道をゆくすべての人々を、その人が自分のようであってもなくても、振り返って助けることができるようになるでしょう。
 様々な宗教の表面的な儀式や習慣の下まで掘り下げてみると、そこには驚くほど同じ考え方や概念、忠告が見つかります。言葉そのものも、信じられないほどに似ています。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.327-328

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 44-zg (私たちの心の奥にいる神を信じ天国の存在を信じる)

 八歳のときに巨大な手を体験し、幼い日々をカトリック・スクールで過ごして以来、わたしはずっと霊的な探求の旅に出ています。その旅の途中で、神の存在を信じるか、天国と地獄を信じるか、としばしば問われてきました。霊との交信を続け、何百冊もの書物を読破した結果、わたしは現在のところ、次のような結論に達しています。
 まず第一わたしは神を信じます。わたしたちはすべて神なのだと信じています。これはどういう意味か?  つまり、わたしたちはみんな神の姿に似せて創られたわけです。わたしがお話ししているのは、人間としての特性ではなく、あくまで、霊的特性のことです。外見はそれぞれ違ってみえても、中身は同じなのです。人の霊性に気づけばその人物の中に宿る神の光が見えるようになります。そして、わたしたちすべてがまったく同じなのだとわかります。わたしたちは神の火花でできています。地を這う最も下等な生物でさえ、同じ神の火花でできています。邪悪な悪人もやはり同じ神の火花でできているのです。邪悪な存在は神であることから最も遠いところにあるかもしれません。神はあらゆる点で完全です。神は創造性そのものです。みずからの神性を追究しさえすればわたしたちは誰もが完全なのです。しかしながら、わたしたちの大多数は“自我”や人間である部分に固執するあまり、自分の真実の姿にはなかなか近づけないのです。
 神はどこにいるのか? わたしならこう答えます。あなたのなかですよ、と。あなたの心の奥の奥にいるのです。神はあなたという実在にほかなりません。神は生そのものです。神は天上からわたしたちを見おろす人物ではありません。これまでに偉大な神の光を体現した人びとがたくさんいましたが、それと同じ神の火花がわたしたちひとりひとりのなかにあるのです。神はわたしの光であり、あなたの光であり、すべての人が同じ光を宿しています。程度の違いはあるかもしれません― ひときわ明るい光もあれば、ほの暗い光もあるのです。
 第二に、わたしは天国を信じます。天国とはこの物質界の反対側の世界で、視覚的にも音響的にも物質界と非常によく似ていますが、ただし、もっと鮮やかで色彩豊かです。天国では庭を散歩したり自転車に乗ったりボートを漕いだりできます。それどころか、その資格さえあれば、天国ではなんでも好きなことができるのです。しかし、わたしたちの多くはキリスト教的な天国の概念を詰め込まれてきました。わたしはしばしば自問したものです。イスラム教徒やユダヤ人は死んでからどこへ行くんだろう? もちろん、キリスト教の天国ではありません! 要するに、それぞれの宗教にはそれぞれの教義に基づく天国と地獄があるのです。
 天国には数多くの階層があるとわたしは信じています。わたしたちはこの世での思考や言行や行為に応じてそれぞれの階層に行くのです。同じ霊的レベルに達した人びとは同じ天国のなかで共存していくでしょう。さらに霊的認知の進んだ人はもっと高い階層に行き、未発達の魂は低い階層に行くのです。その資格を獲得するまでは高い階層には行けません。ただし、高い階層にいる魂は低い階層へ行くことができるので、認知の低い魂を援助するために下の階層へ移る場合はけっこうあります。では、邪悪な人びとはどこへ行くのでしょう? 彼らは天国にしろ地獄にしろ、この世での言行や思考や行為に基づいたそれぞれの場所に行きます。霊的認知度が同じレベルにあるほかの魂と共存するのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.51-53

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 44-zh[79-f] (人間には自分自身の運命を決める自由が与えられてきた)

 さて、「天上の」私たちは何度も何度も同じ悲嘆の声を聞いてきた。
 「もし天に神が存在するなら、地上にはなぜそのようなつらいことが起きるのだろう」
 天に向かってこう叫ぶ人びとがつらい苦痛や絶望に悩んでいることは事実だろう。この問いに答えるために、心からの共感をこめて、ささやかな真理をお教えすることにしよう。すなわち、人間には自分自身の運命の方向を決める自由が与えられてきた、ということなのだ。これは天からの贈り物である。この自由こそは、人間の本質をあらわすのにもっともふさわしい表現であるが、また人類には、誤りを犯したり悪事をはたらいたりする自由もある、という意味でもあるのだ。そのような体験を妨げる神(あるいは女神)とは誰なのだろう?
 「それではいったい、罪のない犠牲者の場合はどうなのか」
 こんな声もあるようだが、それにはこうお答えしておこう。もし誰かが潔白であるというのなら、すべての人は― 無邪気にも人生の真の意味や自分たちの大きな思い違いに気づかない犯罪者や独裁者さえも― 潔白だということになる。その上いわゆる犠牲者は、本当に不運な事故にあった罪のない者というわけではない。もしみなさんが各人の生まれ持った心理的な基盤という複雑な仕組みを理解しさえすれば、その秘密は明らかになることだろう。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.17-18

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 44-zi (神が話しかける特別な人、特別な時間はあるのか)

 すべてのひとは特別であり、すべての時は黄金である。他よりも特別なひと、特別な時というものはない。多くのひとは、神が特別な方法で、特別なひとにだけコミュニケートすると信じている。そのために、自分で神のメッセージを聞く責任はないと思っている。ましてメッセージを受けとる責任(これは、ただ聞く″のとはべつのことだ)はないと考えて、いつもほかのひとの言葉ばかり聞いている。神の言葉は誰かほかのひとが聞いていると決めつけ、そのひとたちの言うことを聞いているのだ。
 神の言葉を聞いたというひとたちの言うことを聞いていれば、自分で考える必要はなくなる。
 大半のひとがわたしのメッセージに背を向けている最大の理由は、そこにある。自分自身が神のメッセージを受けとったと認めれば、自分で考え、実行する責任が生じる。他人の解釈を受け入れているほうが(たとえその他人が二〇〇〇年前の者であろうとも)、いまこの瞬間にも受けとっているかもしれない神のメッセージを解釈しようと努力するより、はるかに楽で安全だ。
 だがわたしはいま、新しいかたちの神とのコミュニケーションへ、あなたを導く。双方向のコミュニケーションだ。この方法へ導いたのは、じつはあなたのほうだ。わたしがいま、こうしてあなたのもとを訪れたのは、あなたの呼び声に応えたからだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    吉田利子訳、サンマーク出版、1997、p.19

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 44-zj (間違っていると思えても神の言うことに耳を傾けるべきか)

 間違っていると思うときには、とくに耳を傾けるべきだ。何でも自分が正しいと思っていたら、どうして神と語る必要があるのか。
 自分が知っているすべてをもとに進み、行動すればよろしい。しかし、人間は時が始まって以来、ずっとそうしてきたことを忘れるな。その結果、世界がどうなったかを見てごらん。明らかに、あなたがたには何かが欠けている。理解していないことがある。あなたがたは、自分が理解したことだけを正しいと思っている。なぜなら、あなたがたにとって「正しい」というのは、自分が同意したことをさす言葉だから。したがって、自分が理解できないことは、はじめのうちは「間違っている」と感じる。
 前進するには、「わたしが『間違っている』と思ったすべてがほんとうは『正しい』としたら、どうだろう?」と自分に問うしかない。すぐれた科学者は、そのことをよく知っている。研究がうまくいかないとき、科学者はすべての前提を捨てて、一からやり直す。偉大な発見はすべて、「正しくない」ことを恐れない意志と能力によってなしとげられた。いまここで必要なのはそれだ。
 自分はもう神を知っていると思うのをやめなければ、神を知ることはできない。神の言葉はすでに聞いたと思うのをやめなければ、神の言葉は聞こえてこない。
 あなたがたが自分の真実を語るのをやめなければ、わたしの真実をあなたがたに語ることはできない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    吉田利子訳、サンマーク出版、1997、pp.20-21

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 44-zk (どうして神は本当の姿かたちを現さないのか)

  それは不可能だ。わたしには、あなたがたが理解できるかたちも姿もない。わたしは、どんなかたちや姿になることもできるが、そうすれば誰もが、自分の見たかたちや姿が多くのなかのひとつにすぎないとは思わず、それこそが神の唯一の姿だと思いこむだろう。
 人は、「見えないもの」ではなく、見たものをわたしだと信じる。しかし、わたしは偉大なる「見えざるもの」であって、ある瞬間のかたちや姿ではない。ある意味では、わたしではないものもすべてわたしなのだ。わたしは「わたしではない」ところからやってきたのだし、つねにそこへ戻っていく。ところが、わたしがあるかたちやべつのかたち―ひとに理解できるかたち―をとると、ひとはそれがいつまでも変わらぬわたしだと思いこむ。
 そこで、べつのひとにべつのかたちで現れると、最初の者は、二人めに現れたのは神ではないと言う。なぜなら、二人めに現れたわたしは、一人めに現れたわたしとは違う姿だし、べつのことを言うからだ。だから、神のはずがないと言う。
 どのようなかたち、方法で現れるかは重要ではない。どのような方法を選び、どのようなかたちで現れようとも、疑いの余地がなくなることはありえない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
   (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.23-24

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 44-zl[56-zd] (存在のすべてであるものは無でもある =1=)

 また、わからなくなりました。あなたがご自分を経験したんですか?

 そう。では、こう説明しようか。

 まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。ほかには何もなかった。
 その、「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」―あるのはそれだけで、ほかには何もないから。ほかに何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じだった。
 これが、時のはじめから神話が語りつづけてきた、「すべてであって/無である」ということだ。
 さて、「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。なぜなら、「存在するすべて」であることの絶対的なすばらしさを概念的には知っていたが、体験的には知りえなかったから。そこで、自らを体験したいと激しく望んだ。すばらしいというのは、どんな感じなのか、知りたがった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「すばらしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「存在のすべて」は、すばらしくないとはどういうことかわからなければ、すばらしいとはどんなものかを知ることができなかった。否定があってはじめて、肯定があるからだ。
 ここまでは、わかっただろうか?

 たぶんわかったと思います。続けてください。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.39-40

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 44-zm[56-ze] (存在のすべてであるものは無でもある =2=)

 よろしい。
 「存在のすべて」が知っているのはただひとつ、「ほかには何もない」ということだけだった。外側に比較対照するものがなければ、いつまでも自らを知ることはできない。「存在のすべて」には、そんな比較対照の基準がなかった。比較対照の基準が何かあるとすれば、それは内部にしかない。これが「すべてであって/ない」こと、「わたしであり/わたしでない」ということだ。
 だが、「存在のすべて」は、自らを体験的に知ろうとした。
 このエネルギー ―純粋な、見えず、聞こえず、観察できず、したがってほかの誰も知りえないエネルギーは、自分のすばらしさを体験しようとした。そのためには、自分のなかにある比較対照の基準を使わなければならないと気づいた。
 そこでいみじくも考えた。一部は全体よりも小さいはずだ。それなら自らを分割すれば、それぞれの部分は全体よりも小さいのだから、残る全体を振り返って、すばらしさを知ることができるだろう。
 そこで、「存在のすべて」は自分を分割した。栄光の一瞬に、「これであるもの」と、「あれであるもの」とになった。はじめて、「これ」と「あれ」が分かれた。しかも、どちらも同時に存在している。また、「どちらでもないもの」も存在している。
 こうして、突然に三つの要素が生まれた。ここにあるもの。あそこにあるもの。そしてここにもあそこにもないが、こことあそこが存在するためには存在しなければならないもの。つまり、あらゆるものを包みこむのは無である。空間を包含するのは、非空間である。部分を支えるのは全体である。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.40-4

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 44-zn (神は悲しみや笑いのなかにも苦さ甘さのなかにもいる)

 わたしは生まれてからずっと、神への道を探してきました―。

 それは知っている。

 ―それがいま、見つかっても、信じられないんです。こうして書きとめながら、自分で書いているような気がする。

 そのとおりだ。

 でも、神とのコミュニケーションとは、こんなものではないと思います。

 神の来臨らしい鐘の音や笛の響きを聞きたいのか?聞かせてやってもいいが。

 だって、おわかりでしょうけれど、この本を冒涜だと言うひとがきっといますよ。あなたがそんなに物わかりがよくて賢明だと、とくにそう言われそうだ。

 ひとつ説明しておこう。あなたは、神が姿を現す方法はひとつしかないと思っている。そういう考え方は、非常に危険だよ。そう考えていては、あらゆるところに神を見ることはできない。神の現れ方はひとつしかないとか、語り方はひとつしかない、神の在り方はひとつしかないと思っていると、毎日わたしを見ていても気づかないだろう。たとえば、一生、神を求めつづけても、「彼」を探していたのでは、「彼女」を見つけることはできない。
 冒涜と深淵のなかに神を見ることができない者は神の半面しかわからないのだ、と言われてきた。これは偉大な真理である。
 神は悲しみのなかにも笑いのなかにも、苦さのなかにも甘さのなかにもいる。すべての奥に聖なる目的がある―したがって、すべてのなかに聖なる存在がある。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.84-85

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 44-zo (神は何も嫌いはしないし反感ももたない)

 以前、「神はサラミ・サンドイッチである」という本を書きはじめたことがありました。

 あれはとてもいい本になっただろうに。インスピレーションを与えたのはわたしだ。どうしてあれを書かなかったのかね?

 冒涜だと感じたからです。少なくとも、恐ろしく的外れじゃないかと思ったからです。

 「すばらしく」的外れだという意味だろう! 神が、いかにもそれらしく「神々しく」なければならないと、どこから思いついたのか? 神は上昇であり下降。炎暑であり酷寒。左であり右。そして的確であり的外れなのだよ!
 神は笑えないと思っているのか? 神にはおもしろいジョークがわからない? 神にはユーモアがない? とんでもない、ユーモアを編み出したのは神だよ。
 わたしと話すときは、ひそひそと話さなければならないか? 俗語や荒っぽい言葉を使ってはいけないと思っているのか? 親友と話すように、わたしと話してかまわないのに。
 わたしが聞いたことがない言葉がひとつでもあると思うか? わたしが見たことのない光景がひとつでもあると思うか? わたしが知らない音があるとでも思うか?
 わたしがあるものを嫌い、あるものを愛する、そう思っているのかな? 言っておくが、わたしは何も嫌いはしない。反感をもたない。すべては生命であり、生命は贈り物だ。言葉にならない宝物、聖なるもののなかの聖なるものなのだよ。
 わたしは生命だ。生命はわたしだから。生命のすべての面に、聖なる目的がある。どんなものにも神が理解し、肯定した理由がある。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.85-86

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 44-zp[19-j] (神には欠けているもの必要なものは何もない)

 だいたいあなたがたは、「もし神が法に厳格に従うことを望むなら、どうして法が破られる可能性などをお創りになったのか」という、あたりまえの質問をしようとしない。もちろん、彼らは、神があなたがたに「自由な選択」をさせようとなさったからだ、と教える。だが、一方ではなく片方を選んだら責められるというなら、自由な選択とは言えない。あなたがたの意思ではなく、誰かべつの者の命令によって選択するのなら、「自由意思」とは言えない。あなたがたにそう教えた者は、神を偽善者にしている。
 あなたがたは、神は赦してくださる、情け深いと教えられる。だが、「正しい方法」で赦しを願わなければ、適切な方法で「神のもとへ」おもむかなければ願いは聞き届けられないから、叫んでもむなしいだけだと言われる。適切な方法がひとつしかなければそれもいいが、宗教の数だけ「適切な方法」が存在する。
 そこで、ほとんどのひとは、おとなになってからの人生の大半を「正しい」礼拝方法、正しい神への従い方、正しい仕え方を探し求めて過ごす。ところが皮肉なことに、わたしは礼拝を求めていない。あなたがたの従順は必要ないし、仕えてもらう必要もない。
 そうしたことは昔から支配者が人民に求めてきた態度だ。支配者は、ふつうはきわめて自己中心的で、不安定で、専制的だ。そんなものは神の戒律ではない。そんな戒律が偽物で、神の必要性や欲求とは何の関係もないことに、世界がまだ気づかないというのは不思議なくらいだ。
 神には何も必要ではない。「すべて」、それが神だからだ。欠けているもの、必要なものは何もない。それが神という存在なのだ。
 神が何かを必要とする―それが手に入らなければ、怒って相手を罰すると考えるなら、あなたがたはわたしよりもずっと小さな神を信じることになる。あなたがたは劣った神の子だということになる。
 わが子たちよ、もう一度、はっきりと言う。わたしには必要なものはない。わたしは何も求めない。だからといって、わたしに欲求がないわけではない。欲求と必要性は同じではないからだ(同じだと思っている者が多いが)。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.90-91

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 44-zq[19-k] (神は欲求を実現させるために完璧なシステムを創った)

 欲求とは、すべての創造のはじまりである。最初の考えである。魂のなかの偉大な感覚である。それは神であり、つぎに何を創造するかの選択である。では、神の欲求とは何か。
 第一に、栄光のなかでわたし自身を体験することを願った。わたしが何者であるかを知ることを願った。あなたがたを、そして宇宙の世界すべてを創り出す前には―それは不可能だった。
 第二に、あなたがたに「自分で選んで創造し、体験する」という力を与えて、真の自分を知って体験させようと願った。
 第三に、生命のプロセスのすべてがたえまない喜びと創造の体験であり、終わることのない拡大で、一瞬一瞬が充分に満たされることを願った。
 欲求を実現させるために、わたしは完璧なシステムをつくりあげた。そのシステムはいまも働きつづけている。いま、この瞬間にも。あなたがたとわたしとのたったひとつの違いは、それを知っているかどうかだ。あなたがたがすべてを知った時には(その時はいつきてもおかしくない)、あなたがたも、わたしと同じように感じるだろう。大きな大きな喜びと愛と受容と祝福と感謝を感じるだろう。
 この五つは神の姿勢である。あなたがたもこの五つを実践すれば神性が得られることを、この対話のなかで教えてあげよう。短い質問なのに、ずいぶん長い答えになった。
 そう、自分の価値観に従いなさい。それが役に立つと思うあいだは。ただし、その価値観が役に立っているかどうか、最も気高く、すぐれた考えを体験する場を与えてくれているかどうか、思考と言葉と行動を通じて、点検しなさい。
 価値観をひとつずつ検討しなさい。外の光にあててみなさい。世界に向かって、自分が何者か、何を信じているかを、ためらわず、はっきりと言いきれるなら、あなたは幸せだ。この対話をこれ以上つづける理由はないだろう。なぜなら、あなたは自分を―自分のための人生を―創り出していて、改善の必要がないのだから。あなたは完璧に到達した。この本は閉じてよろしい。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.91-92

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 44-zr[4-k] (なぜ神の声は聞くことができないと考えるのか)

 どうして、神と対話できることが狂気のさただと思うのか? 祈りを信じてはいないのか?

 信じています。でも、それとこれとは違う。わたしにとって、祈りはいつも一方通行でした。わたしが神にお願いする、神は黙っている、というように。

 神は一度も祈りに答えなかったか?

 少なくとも、言葉によっては答えてくれませんでした。そうでしょう? 人生には、これはきっと祈りへの答えだと思うようなことがいろいろありました。でも、神は一度もわたしに話しかけはしなかった。

 そうか。それでは、あなたが信じている神―何でもできる神―は、話すことはできないわけだ。

 もちろん神は話せます。神が望めば。ただ、神がわたしなんかに話そうと望まれるとは思えません。

 あなたが人生でぶつかるすべての問題の根はそこにある。あなたは、自分が神に話しかけられるほどの価値があるとは思っていない。
 だが、神が話しかけてくるほどの価値はないと信じていたら、神の声を聞こうとか、聞きたいとかも考えられないではないか。よいか、わたしはいま奇跡を行っている。あなたに話しているだけでなく、この本を手にとり、これらの言葉を読むひとすべてに話しかけている。
 そのひとりひとりにわたしは話している。そのひとりひとりが誰だか、わたしは知っている。誰がこれらの言葉への道を見つけるかも知っているし―(わたしのほかのコミュニケーションと同様に)聞いて理解することができるひとも、聞くだけで何もわからないひとがいることも知っている。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.95-96

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 44-zs[5-i] (すべての魂が神から直接やってきている)

 魂には始まりも終わりもない。しかし、古い魂と新しい魂は存在する。どちらも真実である。すべての魂が、神から直接やってきている。しかし、魂が個別に形づくられる過程は千差万別である。このどちらも真実である。あなたが魂を理解しようとしてパラドックスにぶちあたるのは、始まりという概念をもつ思考形態を採用しているときだけである。
 「存在するすべて」は、それ自身を意識の個人的な一滴に形づくることができる。あなたは、「存在するすべて」の一部である。よって、これまでつねに存在してきた。しかし、あなたであるその個人的なエネルギーの流れが形づくられる瞬間があった。
 海を神だと考えてみよう。それはこれまでつねに存在してきた。つづいて、カップを手に取り、それをその海の水に沈めてみる。するとその瞬間、カップのなかの水は個別の存在になる。しかしそれは、つねに存在してきた。そうではないだろうか? あなたはあるとき、カップのなかのエネルギーになった。しかしそのエネルギーはなおも、元からある不滅の存在の一部でありつづけてきた。
 あなたはこれまで、つねに存在してきた。なぜならば、あなたは神、あるいは神の知性そのものであるからだ。ただし神は、それ自身のパワーを縮小して小さな粒子群に分散し、いくつもの個体としてその姿をあらわしている。
 その個体、その粒子のパワーは、強度の面では大幅に規模が縮小してはいるものの、質的には全体のパワーと何ら変わるものではない。それはなおも全体のパワー同様に不滅であり、創造的であり、表現力豊かである。たんにエネルギーの強度が、ずっと小さな粒子にふさわしいものに下げられている、というだけのことである。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、pp.202-203