学びの栞 (B) 



 45. 地位・財産・権力


 45-a (地位、名誉、財産などには本質的な価値はない)

 ここで一点だけ繰り返しておきます。あらゆる物事が宇宙の意思から創られています。たとえ目には見えなくてもその意思は存在します。以前にも述べましたが、宇宙には因果という普遍の法則があり、それはわたしたちの世界に命を吹き込むエネルギーの流れによく似ています。言い換えれば、命の条件を生みだすのはわたしたちの思考です。自分という存在の真実を具現できる人はめったにいるものではありません。わたしたちは思考の力を誤用しがちです。真実を説く人びとですら、彼らが唱道する神の哲学に恥じない行動はなかなかできないようです。無条件に神を愛する理想を分かち合うために思考を活かすのではなく、妄執や偏見にエネルギーを振り向けてしまうのです。
 この現世で神を演じることに汲々としている人びとがあまりにも多すぎるように思われます。なかには物質的な力を利用して他人をコントロールし、支配しようとする人もいます。自我とは、自己の利益につながる権力を貪欲に求めるものです。それはどこでも見つけることができます― 企業の会議室や政府の委員会室、あるいは、教会の説教壇。権力と並んで、相当量の物質的な富が特別な価値をもたらすという信念があります。これは周知の事実ですが、他の人間を搾取することによって利益を得た人や今もなお利益を追求する人びとがいます。結局のところ、銀行にどれだけの預金があるか、どれだけ大きな家に住んでいるか、何台の車を持っているか、わたしたちの価値や真価はそんな物差しでは決して測れないわけですが、それに気づくか否かはひとえにわたしたち個人の判断にかかっているのです。向こう側の世界に移ったとき、ただひとつ問われるのは、どれだけ豊かな愛を心に蓄えているかということです。
 わたしたちはすべて同一です。神は特定のグループを区別して選んだりはしていません。それに気づきさえすれば、わたしたちは理解と共感を高め、あらゆる人びとを神の宇宙的エネルギーの一部として見ることができるでしょう。肌の色や人種、性別、社会的性差に基づく偏見や憎悪から解放されるのです。神は無限です。思考に限度があるのは人間だけなのです。憎悪や偏見、不寛容によってわたしたち自身がエイズを蔓延させてしまったのだと、わたしは個人的に信じています。今日、わたしたちの世界がおちいっている倦怠感や調和の欠如といった現象は、まさにこの誤った思考によって生まれたのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.128-129

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 45-b(正しい慈愛で分け与える賢さがあればお金は向こうからやってくる)

 人は間違った場所で富を探してしまう。神やエンジェルやもろもろの神にお金を願う。しかし、地球での裕福さは地球からいただくものであることに気がついて欲しい。それがどこにあるのかを探し続けるのが私達の使命なのだ。
 お金を扱うベストな方法をお教えしよう。ふたつ口座を持つこと。ひとつは物質的な口座、もうひとつはスピリチユル口座。そして両方をバランスよく保つこと。出版社へイハウスに最初に関わったとき、創立者のルイーズ・ヘイが私に言ったことを忘れない。「あなたが富を正しい慈愛で分け与える賢さがあれば、お金は向こうからやってくる。まず心にぴたりとくる使い方を勉強しなさい」
 あなたが霊的に成長していけば、物質的なものはだんだん必要なくなってくる。反対にあなたが与えるほうになるであろう。他の人を幸せにするためにお金を使うようになるのだ。汲めども尽きぬエネルギーの井戸をもちなさい。

  ゴードン・スミス『なぜ、悪いことがおこってしまうのか』
    (ノーマン・テイラー・邦子訳)ナチュラルスピリット、2011、pp.145-146

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 45-c (財産のある家に生まれることが幸せとは限らない)

 財産のある家に生まれた、お金持ちと言われる人のなかには、何でも手に入るがゆえに「夢も何もない」という人が少なくありません。「何をしても楽しくない、何を手に入れても、うれしくない。することがない」、美味しいものを目の前にしても、「いつでも食べられるから、逆に食べたいと思わない」と言うのです。
 海外には、名門の家柄に生まれ、働く必要がないほどお金持ちの人がいます。そういう人たちはみな、チャリティー活動をしています。慈善団体の理事長をしていたり、チャリティーパーティーを開催したりして、社会福祉などに貢献するという生きがいを見出しているのでしょう。
 人は何もしなくていいほど満たされすぎると、逆に不幸を感じるのです。

     江原啓之『運命を知る』 PARCO出版、2017、P.75

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 45-d (金銭的財産とは違う本当の価値あるものを見つけていく)

 人間と生まれてこの世を生きて行くのは一体何のためか……ほとんどの人は、こうしたことを真剣に考えたこともなく、ただなんとなく目先のことだけに追われて暮らしています。
 ただ単にお金を儲けて財産を作るということだけが人間の目的ではないはずだと、どなたも理屈では立派に考えているのですが、どうも、とことんまでの体験をさせられないうちは、どこに人間の本当の価値があるのかなかなか掴ませていただけないようです。
 そして結局は、やれ土地だ、建物だ、金だと、そんなことのために相変わらず目の色を変えて動き回り、まるでそれらのことを追求する行動自体がそのまま人生であり人生の目的であるかのようになってしまっています。
 それらの経済性物質は、この世では確かに無いよりはあった方がいいという、それなりの価値を見せてくれるでしょうが、しかし、所詮はそれだけのもので、この世を離れる時に一緒に持って行けないのは勿論、肉体消滅後の自分の本来の魂の生活にはなんの価値もない泡みたいなものです。
 肉体があった頃あれほど夢中になって掻き集めたいと頑張って来たのに、死んでみたら急に無価値な物になってしまうので、生きて来た自分の人生そのものが一体何だったのかと、後悔したり反省したりで苦しくなってしまうのです。
 死後の後悔と反省が死者をどれほど苦しめ、結局は子孫に頼らざるを得ない哀れな姿となることは、もう十分に理解なさったところです。これは何としても避けたいものです。
 そのためにも生きてこの世にある間に、こんな金銭的財産とは違う本当の価値あるものが何か、人生の中で一生懸命見つけて行かねばなりません。
 それにしても、お金とか財産とかだけが人間の値打ちと思っている人の多いことにはあらためてびっくりしてしまいます。

    萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、1994、pp.214-215