学びの栞 (B) 


 46. 霊界の生活

B46-a (美しい霊界の現実をいかにして地上へ伝えるか)

 私は言葉に表わすことができないほど美しい “天の世界” にいます。この現実を地上にいる私の友人たちに伝えることが私の最大の願望です。私がやってきたこの天国がどのようなものであるかを理解して初めて、これを分かち合うのが可能になることも私にはわかっています。このようなわけで、死後の生活についての真実を広く知らせたいという衝動をますます深く感じているのです。私が地上で生活をしていた間に、伝道者としての評判をある程度勝ち取ったと言えるのではないかと思います。私はこの仕事を地球の人々のために、今も続けていますが、私が地上にいたときに用いていたものとは異なる方法と手段を使っています。
 地球そしてそこに住む人々と本当の接触をすることは、なんと難しいのでしょう。私がかつて想像していたのとはすべてが違うのです。霊的な存在の真実の生活がどのようなものであるかについて、人間はまだ理解しておりません。神に感謝します。今、その真実を覆う霧が晴れ、これまで可能であるとは思われなかったような明確さで見えるようになっています。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル』(大内博訳)
   講談社、1994、p.160

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 46-b [27-a] (霊的真理に無知のまま霊界で眠り続ける無数の人たち)

 もしそこを見れば大きな悲しみをもたらすであろう次元について、ひとつだけ話しましょう。そこは、意識の第一、第二のレベルを表現している存在たちの次元です。そこは平野のような平らな場所です。そこには何があるのでしょうか。山々や川、草花や空が光の状態でいる姿はありません。何十億という存在が、その光の化身の形のままで、無限に続く列をなしている姿があるのです。彼らは眠りの状態でそこに横たわり、自分たちは死んでいるという幻影の中に生きているのです。なぜなら、この人たちは、墓場の先に生命はあり得ないと固く信じているからです。思考はいまでも生きていて、磁気を発し、衝動も持ち、活発なのに、そのエネルギーのレベルでは、自分が死んでいると思い込んでいるのです。でも、実はまだ本当に生きているのです。ひとつだけは覚えておくことです。どんなことであろうと、私たちが固く信じることは、それが真理であると自らを必ず納得させてしまうものなのです。そして、真理であると知っていることは、すべて現実の姿へと変容します。私たちの創造性、そして意志は、それほど強い力を持つものなのです。
 この次元にいる皆の多くは、自分が死ぬと、救世主が戻ってくるまでは、死んだ状態のままでいると教えられました。そして神の愛から断絶されるという恐れの気持ちから、この教えを真理として受け容れたのです。こうして、死を目前にしたとき、彼らは復活を待つ場所に行くのだと信じました。そのために、このレベルでは、自分よりも偉大だと信じている誰かによって復活させてもらうのを待つ存在が、何列にも何列にも並んでいるのです。私たちは彼らを目覚めさせようともしました。実際にひとにぎりの存在が目覚め、起き上がりました。しかしまた、彼らのほとんどは、何か悪魔のようなものが、自分たちを誘惑し、起こそうとするとも教えられてきています。これも、彼らは真実として知ってしまっていることです。そのため、誰が起こそうとしても、彼らは目覚めるのを拒むのです! 自分が生きていることに気づき、眠りから覚めるのに、まだ何千年とかかってしまうのかもしれません。本当に残念な教えだったと言えます。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 91-92

     
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 46-c (霊たちは自分に適した団体に属して永遠の生を送る)

 霊界には、後で述べるように無数の霊の団体がある。霊たちはすべて、自分にもっとも適した団体に属して永遠の生を送る。導きの霊が現われ、死者の霊と想念の交換を行なうのも、その死者の霊が、はたして導きの霊と同じ団体に属すべき性質を持っているかどうかを知るためなのだ。
 だから、この想念の交換によって同じ団体に属すべき性質を死者の霊がもっていると判断すれば導きの霊は、自らの手によって死者の霊を霊界(ただし、最初は精霊界だが)へ導いていく。また逆に、その死者の霊は、他の霊界の団体に属すべきものと思えば、死者の霊を肉体の中に置いたまま去ってしまう。このような時には死者の霊は、その後つぎつぎに現われる導きの霊により自己の将来属すべき団体が見きわめられるまで肉体の中に残って、霊の生を送っていることになる。つまり、この間は前項で述べたように「死者も考えている」わけである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.36-37

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 46-d[2-q] (人間が死んでまず最初に行く場所が精霊界である)

 この世の人間が死んで、まず第一にその霊が行く場所が精霊界である。人間は死後ただちに霊となるわけではなく、一たん精霊となって精霊界に入ったのち、ここを出て霊界へ入り、そこで永遠の生を送る霊となる。精霊が人間と霊の中間的な存在であるように精霊界も、人間の世、この世の物質界、自然界と霊界との中間にある世界なのだ。
 精霊界の広大さがどれほどのものであるかは私にも、あまりに広すぎて実はわからないくらいだが、日々何万、何百万という人間が肉体の生を終えて精霊界に入ってくることからだけでも、その広さは想像を絶する。
 精霊界はその広大な周囲を巨大な岩山、氷の山、どこまでも連なる峯々からなる大きな山脈に囲まれた中にある。その広さにおいては、この世に比べることのできるものとてないが、形と様相だけからいえば、山間にある大きな窪地だといってもよい。
 精霊界からは、その周囲を取りまく巨大な山脈の間のここかしこに霊界への通路があるのだが、この通路は精霊界に住む精霊たちの眼にはふつうは見えない。彼らが精霊界において霊界へと移転する準備が終わったときだけ眼に見えるようになるのだ。だから、精霊界に住む精霊たちは霊界が存在することすら知らず、彼らは、ちょうど、この世の人々がこの世だけが世界だと思っているのと同じように、精霊界だけを全ての世界だと思って生活している。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.42-43

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 46-e[2-r] (死んだと思ったのにまだ生きていることに驚く精霊)

 精霊界があまりに人間界と似ているため、自分は死んだと思ったのに、まだもとと同じように生きていることに驚く精霊も非常に多い。そして、この中には精霊界と人間界の類似に驚くものと、死んだと思った自分が生きている不思議さに驚くものの、二とおりがある。
 「われ死せるものと思いしにかくの如く生きてあり。こは如何なる不思議ぞ。わが死せると思いしは幻想なりしか? はたまた、いま生きてあること幻想なりしか?」
 このような精霊はきまって、こんな自問自答に自分の頭を悩ますのだ。このような精霊には霊界から来ている指導の霊(つまり精霊にとっては霊界の経験豊富な先輩である)が教えることがある。
 「汝、精霊なるを忘れまいぞ。汝、死せるというは肉体の人間として死せるなり。しかし肉体の人間として死して汝は精霊として生まれたるものなり。汝が死せるは事実なり、だが汝いま生きてあるもまた同じく真実なり、益なき妄想に迷うことなかれ、汝は精霊として生きてあり、こは万に一の偽りもなき真実なり」
 そして霊はおおよそつぎのように精霊に教えるのだ。
 人間はもともと霊と肉体の二つからできているものであり、肉体のみが人間と思うのは浅はかな間違った考えであること。そして肉体が死ぬと霊は精霊となって精霊界へ導かれ、そこで永遠の生の準備をすること。準備が終われば霊となって、霊界へ行き、そこで永遠の霊の生に入ること、したがって、いまはそのための準備期であること……等々といったことを説いて聞かす。
 だが、これに対しては、やはり驚きを示す精霊が多い。
 「われ、人間の世にありたるとき、その如きこと全く聞かず、また、われにその如きこと教え聞かすもの一人もめぐり会いたることなし。われ、初めて聞けることばかりなり。また、われ、その如きこと初めて聞きて眼の前、闇に閉されし思いと眼の前開ける思いと交々(こもごも)混じり合い、わが心騒ぐばかりなり。われ、世にありしとき愚かなりしや」つまり、人間は肉体が死ねば、それが全ての終わりだと思っていた。また霊界とか霊などということは聞いたこともなかった、だが現実にいま、こうして死んだと思った自分が生きているのを知れば、どうしても自分のそれまでの考えが浅はかだったのは認めざるをえない。だが、それにしても人間であったとき想像さえしなかったことばかりであるので心と頭は混乱するばかりである……というのがこの精霊の率直な感想なのだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.45-46

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 46-f (精霊界には山や川や森や家などこの世の全てのものがある)

 精霊界は、人間界とよく似ているところが多い。精霊たちは全て一つの人体(正確にいうとこの世の人間とは少し違う点があるが)をもっているし、顔つきも精霊となってしばらくの間は、この世の人間だったときとほとんど変らない。また精霊界には、この世にある全てのもの、例えば山や川、森や家などなんでもあるのだ。それに精霊たちは、人間の持つ全ての感覚も、そのままに備えている。ただ、感覚のうえで人間と違っているところがあるとすれば、人間にはありえない霊としての感覚をもっていることだ。そして、この霊的性格が次第に磨かれ、その性格が霊的な意味でだんだんに物質界的なものがなくなってくると彼らには霊界へ行く資格ができてくるのだ。精霊界は、このための試練や修業の場だといってよいだろう。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.48

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 46-g (精霊界から霊界に入って私が初めて見た壮大な景観)

 私の左手の方角のはるか遠方には天に届くばかりの氷の山々が峯をつらねて私の視界をさえぎっていたが、その峯々の高さといい長い長い山脈といい私がそれまで想像すらしたことのない巨大さと壮厳さをもっていた。この峯々が私の左手のほうの視界に見えるもっとも遠い景観だったが、そこまでの距離は、私にはこの世の地上に輝く星への距離よりもっと遠いようだった。峯々は私の視界の左手から中央のほうへ延び、ちょうど私の正面のあたりで終わっていた。そして、その山脈の端からはさらに遠くに青い水をたたえた海のようなものが広がっている。その広がりはどこまで続いているのか、遠くは私のその時の視力ではかすんで見えなかったのでわからなかった。
 海の右側には広大な砂漠のようなものが広がっており、その砂漠の中には岩山が、あるいは高く、あるいは低く、さまざまな形をしてそびえているのが見えた。砂漠が私の視界の正面から右手のはしの中央あたりで終わるとまたそこから山々が天に向かって吃立し始めていた。しかし、この山々は高さは、さっきの氷の山のように高かったが、もっとずっとおだやかな姿をしていた。山々には地上の山々と同じように樹木や草が生えているらしく緑色の姿をしていた。
 以上が私の視界の彼方に見える景観であったが、私とこれらの景観との間には、あるいは遠く、あるいは近くに実にさまざまな物が見られた。つまり、そこが霊たちの住む世界であった。
 その世界には河も丘も小さな山も、また草原も渓谷もあった。樹木のしげっている地域も、あるいは赤土の所も… つまり、この世にある全てのものは同じようにあった。そのうえ街のように見えるところもまた村のようなところもあり、そこには霊たちの住居があるいは軒を連ねて立並び、あるいはあちこちに散らばってあった。むろん霊たちの姿も沢山見られた。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.69-70

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 46-h (生まれ育った故郷に何万年ぶりかで帰ったような気持)

 彼は私を五つ、六つの町や村(これが霊界の団体であるのは後で知った)に連れて行った。町はこの世の町のように見えたが違っていたのは、一つの町なり村なりは、それぞれ全部の住居が町中または村中、石造なら石造、木造や土道なら木造や土造といったように同じ材料で、しかも同じような建て方でつくられていたこと。同じ町や村の霊の顔つきや性格には、たとえ顔つきの外形は異なっていても全員がどこか共通した性質をもっており、その相似はこの世の人間の親子兄弟姉妹よりもっと濃く親密さもそれ以上だったこと。それから、もうひとつ特に眼についたのは、どの町でも村でも円型に作られており、その中心にはもっとも権威と徳の高いらしい霊がおり、次第に円の外側に向かっていくにつれ少しずつ中心の者より劣っていくらしいことだった。
 私は、町や村を連れ歩かれた時のちょっとした小事件を二つほど記すことにする。
 ある町をたずねた時だ。この時は私は町に入る前から何か不思議にこの町は自分の町だという気がしていた。町に入ると霊たちが家の中や町角からどっと飛び出して来て私たちを取囲んだ。この霊たちの顔つきや様子に私は実は驚いた。なぜなら、どの顔も私がすでに何千年も前から知っていた親しい顔のような感じがしたからだ。また、彼らも私をさも親しい者のように迎えた。どの顔にも歓迎の喜びがあふれていた。私はなぜか心のなごむのを覚えないわけにはいかなかった。それは、まさに長年生まれ育った故郷に何万年ぶりかで帰ったような気持だった。
 もうひとつは別の村の中でのことだ。彼は私を連れて村の中を歩いていたが、見知った顔に合ったらしく、その霊と話をかわし始めた。私はその霊の後に回ってその霊の肩越しに村の様子を見回そうとした。するとその時彼の視線が強く光って私を見すえたように思った。つぎの瞬間、私はなぜかわからぬうちに地面に投げとばされていた。彼は私の手を取って起こしながらいった。
 「人(霊)の背後に回るは霊界ではもっとも非礼の行為なり。汝、以後気をつくべし」

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.73-74

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 46-i(霊界では性格の合う者だけが一緒に集まって生活する)

 霊界には無数の団体があり、これが一つ一つ町や村を形づくって一緒に住んでいる。霊界の団体の数は、おそらく数千億いやもっとになるかも知れない。霊界にこんなに多くの団体があるのは霊となって肉体の束縛を脱したあとは、人間がその本来の姿にかえり本当の霊的性格を取もどす結果なのだ。これは永遠の生を送る霊界では、霊は自分をいつわったりせず本来の性格にもどらなければ生き続けられないからだし、本来の性格の合う者だけが一緒に集まって団体を作って生活を送るのだから性格の多様さに応じて無数の団体ができることになる。一つの町や村が同じ住居だったり同じ雰囲気をもっているのはそこに住む霊の性格が全く同じだからだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.74-75

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 46-j (霊界の宮殿も町も光に満ちて霊たちの顔も至福に輝いていた)

 私は、この世にいたときにも今自分の眼の前にある光景ほど美しい物を見たことはなかった。そこは彼のいう上世界で私は、いまそこに連れて来られ大きな宮殿とそれを取囲む町へ来ていた。
 その宮殿は、この世の言葉ではとても表わすことのできない壮大で華美をきわめたものであった。また、これに比べることのできる立派な建造物はとてもこの世にはあり得ない。屋根は金の瓦でふいたと思われる光を放ちまた壁面や床は全て色とりどりの美しい宝石で作られているとしか思えない。宮殿の内部の部屋部屋や廊下などの装飾にいたっては言語に絶するすばらしさであった。
 宮殿の南側には、まさに楽園というべき庭園が開け、そこにある全てが宮殿と同じように光り輝くものばかりであった。庭園の中には銀のような樹木に金のように輝く果実がついていたり、花々の見事さは見るものを天にものぼらせる心地をさせるほどのものであった。
 宮殿の周囲の町には霊たちが住んでいたが、その町も霊たちの住居も宮殿に劣らず立派なものであった。住居には多くの室があり、奥の間、寝室などもあった。住居の周囲を囲む庭は花あり樹木ありで、また田んぼもあった。
 霊たちの住居は都会のように排列され、道々もまたよく整って美しい町を造っていた。
 霊たちの衣服も雪のように白く輝くものであった。
 宮殿も町も光に満ちて明るく霊たちの顔も至福に輝き、彼らの眼には高い理性と悟りを示す輝やきがやどっていた……。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.77-78

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 46-k (霊の生命と霊界の秩序の基礎になっている霊界の太陽)

 霊界の太陽はその光で霊界を照らし霊にものを見せ、またものを考える理性の基礎となっている。その熱は霊たちに生命を与えている。そして霊界の太陽は霊流という流れも霊界全体に放っていて、これは霊界の秩序を保ついっぽう、霊の霊的能力の基礎になっている。この霊流の存在こそは霊界と自然界(この世)の性質を全く相違したものにしている根源にほかならない。
 霊流には二種あって一つを直接霊流、一つを間接霊流という。直接霊流は太陽から各世界、各団体の個々の霊に直接注がれ霊的能力の基礎となっている。間接霊流は太陽から放たれたのち上世界を経て中世界へ、中世界を経て下世界へと流れ込む。また各世界の霊はそれぞれの世界に流れ込んだ間接霊流も直接霊流と合わせて受取っている。間接霊流はこのように霊界全体の各世界、各団体と全ての個々の霊をつなぎ、それら全てを秩序づけているものだ。もし間接霊流がなければ霊界は、ばらばらに分解し存在することすらできなくなるだろう。
 霊界の太陽は霊の生命と霊界の秩序の基礎なのだ。さっき出てきた団体の中心霊の力の基礎はこの霊流だし、また霊界の変わった礼儀も実はこの霊流の流れを乱さぬためのものである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.80-81

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 46-l[9-zw] (人類は文字が無かった頃には霊界の文字を借りていた)

 霊界の文字は曲線が多いとさっきいったが私が霊界で最初に見たときは、何かエジプトの神聖文字かギリシャ文字との類似を感じるいっぽうで子どもが無意味に書きちらしたイタズラのような印象を受けた。そして文字と文字の間が繋がっていたり不揃いな間隔で離れていたり、無意味に曲がり方が大きかったり、逆に少なかったり、また同じ文字でも左側をふくらませたり、反対に右側を出っぱらせたりしているように思った。また曲線の曲がり具合は一つとして似ていず、これも、まだそこに多くの意味が含まれているのだとは知らなかった私には不揃いという印象を受けただけであったのを記憶している。
 なお、霊界の文字がエジプト神聖文字やギリシャ文字と類似した感じをいだかせる理由は、太古のさらに太古、まだ人類が文字を持たなかった頃には彼らは霊界の文字を借りて使っていたというから、その名残りが神聖文字のような古代文字に残ったのかも知れない。
 霊界の文字が霊界の言葉と同じように多くの意味を含む、その含み方はやはり言葉の場合と似ている。そして、また表向きの意味よりさらにその奥にそれを書いた霊の感情や意志、知性などさえ表わすうえでも言葉のときと似ているのである。つまり曲線や字の姿形、配置で文字の表面の意味以上のものを表わすと同時に、文章の中に含まれる語調(霊界の文字では、これは音楽のリズムのように音として耳に聞こえる場合さえある。つまり文字は聞こえる″のだ!)や文字の選び方の中にちゃんとこれらが自然に出てくるのである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.140-141

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 46-m[9-zx] (霊界の文字は習うことなく自由に読め自由に書ける)

 私は、まだ霊界に入ったばかりの霊を相手に他の霊が霊界の文字について彼に説明しているのを見たことがある。
 「汝、この文字を読まれよ」
 といってその霊は新しい霊に小さな紙片を示した。新しい霊は、霊界の文字はもちろんのこと自分はこの世にいた時にも字は読めなかったのだといった。だが紙片を見て彼は眼を丸くした。
 「われ、この文字を読めり。この不思議なにゆえなるか」
 すると、古参の霊は、その紙片を一たん取上げて、下におき、その上に自分の手をかざしたのち、もう一度紙片を新しい霊に示した。
 ……汝、霊界の文字を書くことも可能なり……
 新しい霊は、紙片にそう書かれてあるのを読みとった。つぎに彼は自分も同じように紙片の上に手をかざした。すると、その手は、さも自由自在といった様子で紙片の上を動き回った。むろん彼の場合にも字は書けていたのだ。
 霊界の文字はなにも習うことなく自由に読め、自由に書けるのだ。書く場合、霊たちの手は紙片の上を空で自由自在に無意識のうちに動き回る。するとそこに彼らの心の中にあるものが、その考えはもちろん感情の小さな動きまでもが字体や曲線の変化を伴った文字の中に、そのまま表わされてくるのである。
 なおさいごに言葉のことも含めて少しいっておくことがある。それは霊界には人間界にある言葉も文字も全てある。そのほかにも何百万という言葉や文字があり、これらは人間界の言葉や文字では表わせないということだ。なぜなら、霊界には人間界にない事物や人間には想像もできない複雑で微細な霊たちの感覚や心の動きがあり、これらは人間界にはそれと対応する言葉や文字がないからだ。
 言葉や文字の上からだけいっても人間界は霊界に遠く及ばない未発達の世界だといえるだろう。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.141-143

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 46-n[24-j] (私は霊界で多くの歴史上の人物と話をすることができた)

 私は霊界で多くの歴史上の人物や世にある時には知らなかった異国の人、アジアの人などにも会う機会がかなりあった。そして彼らと自由に談話をすることができた。人間の世では言葉の違いのため話を交わすことのできない人たちとも霊界では自由に話ができる。(訳者注)
 この中には話が数時間から数日にわたるものなどがあったが、いまとくに私の印象に強く残っているものを記そう。
 私は一人の霊と現代の教会関係者たちの霊に対する認識の足らないことについて話合った。
 彼はいった。
 「さればわれ、汝の言よりして近時教会者流は古代教会におけるごとき心明けく、悟り開かれたる人なきを知れり。宗教はもとアジアに起こりてのち数多の国々に伝えられぬ。アジアには悟りの人まだ多からん」
 私はそこで霊のことについて彼と語った。彼は、その言に喜ぶことひとかたでなく
 「汝の言語の一々に霊的意義を含めり、なんぞ現時の教会者流は、その意義を解さんか、われには不審多し」
 と首をかしげつつ嘆いた。そして、つぎのように続けた。
 「霊界、霊のことを世の人に知らしむべし、それ以外に世を救う途なし」
 彼との談話中、他の霊が割って入り邪説をさしはさむことがしばしばだったが、彼は、これも一切意に介さぬふうで、さらに語った。
 「かくいう霊多きこと別段怪しむに足らず、彼ら肉体の生涯にありしとき、このことにつき学者、教会者流などより誤まれる考えに感染したるによるなり。世に行なわれる誤まれる考えを一掃することなくば、彼らをして真理に近付けること難し、全て現時の学者、教会者流など限あれども見えず、まだ無学者の如し」
 私は彼の言に一々、相づちを打ったが、不思議に思ったのは、彼の言語の諧調のなかにどこか美しいラテン語の響きに似たものを感じたことだった。その後の談話中、彼はローマやカエサルのことも少しもらし、また彼は刺客により暗殺された者であることを語った。私は彼の顔つき、言語、話の内容や態度などから彼はシセロ(Cicero、106〜43 B.C. ローマの雄弁家、政治家、哲学者)だったと思う。

 (訳者注)スウェデンポルグは、生前人々に歴史上のどんな人物とも霊界で自由に交信できると公言。求められると人々の前でこれを実地にやってみせたため当時ヨーロッパ中に不思議な人物霊媒として有名になった。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.143-145

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 46-o[24-k] (私は数多くの顔見知りの人々と霊界で会った)

 私はこのほかにも古代の人々と語ったことがある。そのとき彼らは、私の正面にあたり遠く離れた位置にあったが、お互いに、顔を向けあうだけでお互いの考えを伝え合うことができた。彼らの考えがすぐれたものであることは、彼らと顔を向け合っているとき、私が美しい表象が彼らの頭上に現われるのを見たことだけでわかる。この表象は彼らが私に伝えようとしている彼らの心の中が視覚に映る形で外に現われたものだからだ。
 私は、また、その性質は理性的とはいえないが、心の無垢な異邦人(訳者注、中世ではヨーロッパ人は世界を二人種、つまりキリスト教徒とそれ以外の異邦人とに分けて考えた)に会ったことがある。彼は、キリスト教徒ではなかったが、ヨーロッパの神話中の悲しい話をしてやったところ、悲嘆やるかたなく、苦しみにたえぬ様子で、あたかも茫然として自失してしまったくらいだった。彼は無知だったが、そこに一種の無垢なものがあった。
 私は、ある朝、遠くから聞こえて来る合唱の声をきいた。そして、その声の中に、牡羊、黍の糯、黒檀の匕首などが見えて来たのを私は心の眼で見た。そして、同時に空に浮いている楼閣のようなものも私の心の中に現われて来た。私は、これらの表像から合唱の声の主が中国人であることを感じた。
 やがて彼らは近づいて来たが、やはり一団の中国人の霊であった。彼らは私をすぐ目前に認めるとともに、私に対し、心のうちに少し嫌悪の情を感じたようで、これは私にもすぐわかった。だが、これは、彼らが世にあった時、キリスト教徒は、彼らより不善の生涯を送るものと聞かされていたためだとわかった。
 彼らとも、中国のこと、アジアの国々のことなどにつき色々と話をしたが、いまは、その一々を上げるのは省略しよう。
 なお、以上のほかにも私は霊界で多くの人々に会った。中には歴史上に彼らの世にあった時の事情が知られており、その人格もわかっているので、私に、すぐその人と知れる人々も少なくなかった。また、私が実際に彼らの世にあったとき交際を結んだり、顔を見知っていた人々と霊界で会った例は数千を下らないくらい多い。彼らは霊界では顔つきもかわっていた者も多い。また反対に世にあったときと大して変わっていなかった者も多い。変わっていた者は、世にあったときに世間の礼儀や慣習、あるいは打算や計略により、彼らの人格の本性をいつわった外面を付けていたものである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.145-147

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 46-p[24-l] (全霊界の最長老にあたる太古の霊に会う)

 私は霊界で星雲の団体と霊たちが呼んでいる団体を訪ね太古の人の霊と会ったことがある。この団体は霊界の中でも特に他の団体とは、はるかにはなれた所にあり、そのもっとも著しい特徴は、この団体の霊たちの多くがまだ人間が人間になったかならないかといった太古のさらに太古の人間たちの霊であるということだとされている。そして星雲の団体と呼ばれる理由は、霊たちの霊視力によってもはっきりとは見えないくらい他の霊の団体とは離れた所にあること、そのため、この団体を眺めても一つの星雲のように空に浮かんだぼんやりとした、かたまりのようにしか見えないためである。
 この団体の中心の霊は太古の霊たちのうちでも最も太古の霊で、全霊界を通じての最長老にあたるため霊界のことについては全てのことに通じており、またとくに霊界のうちで過去に起こったことの全てが彼の記憶の中には刻み込まれているのである。そのうえ、この霊の霊的能力の秀れていることは霊界中の全ての霊とも彼がもし望みさえすれば同時に想念の交通を行ないうるほどだとさえ噂されている。
 私が訪ねたとき彼は同じ星雲の団体の霊たちに取囲まれ談笑していた。私が訪ねると彼は他の霊たちに席を開けさせ、私を自分のそばへ呼んだ。彼を取囲んでいた霊たちは皆私を歓迎するしるしに私のほうへ顔を向けたが、その顔つきにはどの霊も無垢と純朴さのしるしを現わしていた。彼の顔つきは、噂に聞く秀れた彼の霊能力から想像していたものとは違って、どこにも理性や知性の鋭さといったものは表面には現われていず、他の霊たちと同じように無垢で純朴で、まるで童心がそのまま顔になっているような穏やかさと平和の印象を与えるものであった。
 「汝は現代の霊ならん。ならば、わが霊界にて経験せし古来のことを語らん……」
 彼は、私が彼に聞きたいと思っていたことを先回りして語り始めた。彼は私に彼が霊界に入ってからの何百万年も前からのことについて色々話してくれたが、私はその中の話を二つ三つだけ記すことにしよう。
 ある時----それは何百万年前か何十万年前かは彼にも正確にはわからないといった----彼は霊界を影のようにさまよい歩く数人の霊を見たことがあった。この霊たちの様子がふつうの霊と変わっていたこと、それにそのような変わった様子の霊が数人も一緒になっていることが彼の注意をひいた。そこで彼はその霊たちにじっと視線をこらしてみた。すると彼には、この霊たちは一時的に自分らの肉体を離脱して人間界を離れ、しかも精霊界にもいくらもいず----おそらく全くいなかったといってもいい、単に精霊界を通り抜けてきただけというような形だったろうと彼はいった----霊界にいきなり入って来た者たちであることがわかった。しかも、彼らは近いうちに大きな洪水に見舞われて死ぬ人間の霊であることがわかった。
 彼の眼ははたして正しかった。それから幾らもたたないうちに何百万人という人間の霊が霊界に一度に来た。そして、その霊たちの中には、まだ人間界にいた時の記憶を残している者もいたので彼は聞いてみた。すると彼らはエジプトのナイル河の氾濫によって畑も家も流され死亡した者たちであることがわかったという。そして彼はいった。
 「初めに霊界に現われたる霊らは、とくに霊的開眼の進みたる者ならん。よって彼らは、洪水による死に先立ちてこれを予感し、彼らの霊肉体を離脱して霊界に現われたる者なり」
 彼は、この話に続けて人間界と霊界との関係に黄金時代、白銀時代、青銅時代が過去にあり、現在は鉄時代になっているのだといった。
 「かの数人の霊たちの如きこと近時は全くなし、こは鉄時代なるためなり。黄金時代はもとより過去の白銀時代等にはかなりしばしば行なわれし例なればなり……」

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.147-149

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 46-q[24-m] (霊界と人間界との関係は時代を経るにしたがって疎遠になった)

 黄金時代、白銀時代……とかいうことは私も初めて聞くだけにその意味が全くわからなかったが、彼はこのことをつぎのように説明した。つまり-----
 過去、とくに太古の人間がまだ直ぐなる心を持っていたころは、彼らの心は宇宙のことを全て直ぐなる心で素直に受け入れて生活していた。このため太古の人間たちの心は霊界や霊のことに関して近頃の人々よりはるかに開けていた。簡単にいえば太古の人々は霊的な生涯を送っていた。しかし、時代が進むにつれ人間たちの関心はもっと世間的なことや物質的なこと、それに外面的な知識や学問などという彼にいわせれば“程度の低い”ことに奪われるようになり、それにつれて霊界のことからは次第に遠ざかるようになっていった。霊界と人間界との関係は太古ほど緊密であったが、時代を経るにしたがって疎遠になり現在では、まるで離れ離れになってしまっている。そして人間たちは霊や霊界の存在にすら気付かなくなってきている。このことを太古は黄金時代、つぎが白銀時代、そして青銅時代、鉄時代と自分は呼んでいるのだ。これは霊界に新しく入ってくる霊たちと話をしてみると時代が下がるにしたがって霊的な眼ざめの程度が落ちていき、彼らに霊的な眼ざめの進歩をさせるのに余計な時間がかかることからも解る。
 私は彼の話と、私がさっき記したシセロの話に共通するもののあるのを感じた。彼は最後にいった。
 「彼の数人の霊たちは人間にある時すでにかなりの開眼をしおるものなり。よって彼らは自分の死を予知し、また死に先立ちその霊は肉体を離脱して霊界に入るを得たるなり」

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.149-150

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 46-r[24-n] (地獄界で凶鬼に会った一人の霊の話を聞く)

 大勢の霊たちが一人の霊の周囲を囲んで輪になって座っている。私も何だろうかと興味を持ったので近くへ寄って見た。すると、それは輪のまん中に立っている一人の霊が大勢の霊たちに話をしているのだった。熱心に耳を傾けている霊の聴衆たちの様子から、その話は非常に面白いらしく、また彼らがみな興奮を感じているのが私にもわかった。
 彼の話は、つぎのようなものであった。

 -----私はそのときフト人(霊)の話声を聞いた気がして眠りからさめ眼をうすく開けて何気なしにボンヤリとあたりを見回した。あたりはいつもより大分暗かったが私は自分がまだよく眼がさめていないのだと思って別段気にしなかった。しかし、すこしたって眼をこすって見たが依然としてあたりは暗いのだ。もうその頃には私の心はすっかり眠りからさめていたので、これは不思議なことだ、どうしたことだろうとちょっと不審を起こした。
 だが、つぎの瞬間、私はいままで見たこともない光景を眼にして心臓が止まるほど驚いた。闇の中、といってもうす明りはさしていたので、そのうす明りの光でみると大勢の霊たちが、いまちょうど諸君が私の周囲に輪になっているのと同じように輪をつくっていて、その真ん中に一人の体の大きい霊が立って、何やら大声でわめいているのだ。
 だが、これだけのことなら私も、心臓が止まるほど驚きはしなかったはずだ。
 私を驚かせたのは、ひとつは私が自分も知らぬ間に地下の大きな洞穴の中へ閉じ込められているらしいことがわかったこと、それとこれらの霊たちの顔つきや様子が、まさに千差万別どれもこれも違った顔つきをしているのだが、その顔つきが全部まるで話に聞いていた地獄の凶鬼を思わすような恐ろしく、怪奇な者ばかりだったことだ。私は地獄の凶鬼などは物語りの中の存在だと思っていたのに、いま眼のあたりに見たのだ。
 彼らの顔つきは、ある者は眼がくぼみ骸骨のような眼窩ばかりが暗い穴となっていて頬の肉は落ちていた。またある者は無気味な歯だけをむき出しニタニタといやらしくうす気味悪い笑いを顔面にただよわせ、ある者は顔の半分がそげて取れ半分だけの顔になっていた。また獣を思わせる顔つき、亡霊としか思えない姿の者などさまざまな怪奇な姿をしていた。この中でも特に恐ろしげだったのは輪のまん中に立ってわめき叫んでいる霊だった。彼は背丈も他の者の倍近くもあるように見えたくらい巨大で、その顔には、これまた顔いっぱいになりそうな大きな二つの眼をギラギラと光らせ、耳の近くまでさけたような大きな口から真赤な舌を蛇のように出して叫んでいたのだ。
 私の驚きや恐怖は諸君に説明しきれるものではなかったが、私は腹に力をこめ歯をくいしばって気持ちを取直し周囲を見た。するとやはり、ここは地下の洞穴のようだった。ただ普通の洞穴と違うのは、この洞穴がどこまで続いているのか奥行きが見当もつかない、あるいは無限の深さがあるのではないかという感じが何故とも知らず私には絶対の確信のように思われたこと、また、そのはるか奥に小さい、暗紅色の光がほのかに見えていたことだ。
 輪のまん中に立った霊は演説をしていたのだ。彼はおよそ次のようなことを云っていた。
 いまやお前たちは、地獄界の霊となったのだ。お前たちは地獄界で永遠の生を受ける幸せな者たちだ。つねに地上にある霊たちを誘惑し、彼らを暗き道へさそい込まねばならぬ。お前たちはそれによって、いよいよお前たちの永遠の生を祝すことができるのだ。お前たちの歓迎の印に、私はお前たちの一人一人と歓迎のあいさつを交わしてやろう。
 それから彼は怪奇な姿形の霊たちの一人一人と奇妙なあいさつを交し始めた。そして輪になった霊たち全員とのあいさつが終ると私のほうを指さして叫んだ。
 「汝ら、あれを見よ。あれも霊なるぞ。彼の姿形が如何に醜く見ゆるとも驚くなかれ。かの霊こんご汝らの僕として酷使されるべき霊に過ぎざればなり」
 そして彼はこんどは私に向かって叫んだ。
 「汝、この輪の中へ進み出よ、われら汝を検分すればなり……」
 私の恐怖と屈辱はこのとき最高頂に達した。だが、ちょうどこの時だった。
 霊界全体をゆるがすような地響きが起き、また山が崩れ大きな岩石が天から降ってくるような音がした。私が気が付いて見ると実際に山々がその頂きからくずれ、巨岩は山腹をがらがらと転げ落ちていく光景が私の眼の前に起こった。私は恐怖の叫びを上げた。
 「わが命これまでなり。われ山の下敷きとなって絶命す!」
 私が再び気がついた時、私は、いま諸君とこうして話をしているような霊界にもどされていた。あの山崩れは山陰に巣食う凶霊たちを私たちの団体の主霊が退治してくれた山崩れだったのだ。私は本当に危機一髪のところにいたわけだ。
 ここまで話すと彼はさもその時の恐ろしさを再び思い出すかのように身振りをしながらいった。
 「いま汝らに話せるは、わが見たる地獄界の様子なり。地獄界はまことに恐ろしくも不愉快なる所なり。汝ら心して地獄界に近寄ることすべきにあらず……」

 この霊の話は私自分にとっても初めて聞いた地獄界の実際経験談であった。私はその後霊界の経験を積むにつれ地獄界のことにも詳しくなったが、私はこの項以下の数項で、地獄界のさまざまについて記すことにしようと思う。
 なお最初にことわって置くが、私がこれから記す地獄界は、あくまで霊界の中の一つの世界(それは醜悪な世界だが)としての地獄界であって、宗教などが人々に恐怖を起こさせ、人々を善に導くための方便としているような仮空の地獄とは全く違うものだということだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.151-155

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 46-s[24-o] (霊に目覚めない者が死後自分の意思で地獄へいく)

 現世で悪いこと、不道徳な生涯を送った者は死後は地獄へ投げ入れられ、そこで永遠の罰を受ける。これは西洋も東洋も問わず世界中の宗教などが説いている地獄の教え″だから私がわざわざ取上げて紹介するまでもないことであろう。しかし、これは私に言わせれば宗教のうえでの必要から作った作り話で少しも根拠はない仮空の話である。
 私の記す地獄は、これとは全く違った地獄であり、その地獄は別に現世の悪業の報いとして投げ込まれる地獄でもなければ、また地獄に住むというサタン(悪魔の大王)やデビル(凶鬼)などにより永遠の苦しみを与えられるという地獄でもない。私の記す地獄はさっきも少しふれたように霊界の中の一つの世界として現実に存在する地獄であるからだ。
 人間の死後精霊となった者のうち、どんな者が地獄へ行くかを一口にいうと、つまりは霊に眼ざめず、霊界の存在が見えない精霊たちだということになる。だが、彼らとて宗教の説くように現世で悪業を重ねたために、神のようなものによって罰として地獄へ行くわけではない。彼らは彼らの欲するところによって自ら地獄へ行くに過ぎない。ただ、これら霊から真に眼ざめることのできない精霊の中には確かに現世で悪業を行なっていた者は全て含まれるから、その点では結果的、表面的には宗教の教えと同じことになるように見えるが実際の理由は、宗教のいうところとは全く違うのだ。
 地款へ行く精霊は、現世にあったとき、たとえば物質的欲望、色欲、世間的名誉欲とか支配欲などといった人間の外面的、表面的感覚を喜ばすことばかりに心を用い、本当の霊的なことがらを極端にないがしろにした者である。これらの者は霊的事物には全く眼が開かれなかったため、精霊界に入ってもやはり開かれない者が多い。このようなわけで彼らの精霊としての心は霊界の太陽の光や霊流を自分の内部に吸収することができない。そして精霊界にどんなに長い期間いても彼らは霊界の太陽の光や熱の与える幸福や霊的理性の輝きを感ずるようにはならず、逆にその間に、地獄界の火に心をひかれ、地獄界の凶霊たちに親しみを感ずるようになる。この結果として彼らは、自分の希望するところにしたがって、その自然の凶霊的な心の命ずるままに地款界へ入って行くのである。これは人間でも似た者同士が集まるのと理由は全く同じなのだ。
 地獄界の凶霊は霊界の光や霊流から霊としての喜びや幸福を感ずることができない代わりに、自分の欲望を満足させることを喜ぶ。これらの欲望は、他の凶霊を支配したり、他の霊に悪業を働いたり、あるいは他の霊の賞賛を得たりしたいといった人間でいえば外面的、物質界的な低級な欲望ばかりだが、それにしても幾ら低級な欲望とはいえ、これを満足させることは彼らには喜びであることは間違いない。そこで、彼らは、これらを彼らの“光”として永遠の生を送ることになる。
 霊界の霊は、自分たちの生命の源も幸福の源も全て霊界の太陽にあることを知っている。そこで、彼らは自分が本当は自分の主ではなく、太陽こそが主であり、その太陽が霊界に行きわたらせている霊界の秩序にしたがって生を送ることこそがもっとも正しい霊の生だと知っている。これに対し、地獄界の霊の生命の源は、彼ら自身の欲望であり、この欲望が彼らの光なのだ。そこで彼らにとっては主は自分自身であり他に何の主の存在も認めないことになる。地獄界が争いの場であり、苦と汚れに満ちた場になるのは、彼らの一人一人が自分を最上の主だと考えているためにほかならない。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.157-159

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 46-t[24-q] (霊界のどこへ行くかは死後の自分の意志で選択する)

 私は霊界には上、中、下の三世界があり、そのほかにも地下の霊界″ともいうべき地獄界という世界のあることはすでに記した。霊界のことを記す最後に私は人々のもっとも大きな関心事に対する答えを書いておくことにしよう。人々のもっとも大きな関心事は、人間のときの生涯と死後にその人間の霊の行くことになる霊界の世界との間には何かの関係があるのか、あるとすればどんな関係があるのかということであろう。私はこれにはつぎのように答えよう。
 -----関係があるのかなどといったものではない。人間の時の生涯がそのまま死後、彼が永遠の生を送るべき世界をほとんどきめてしまうのだ。
 このように私がいうと人々には、それは宗教などの教えによっていいふるされたこと、宗教の教義のように宗教上の方便であって仮空のことを私もいっていると考えられてしまいそうだ。しかし、私のいうのは表面的には似ており、また結果的にも宗教の説く所と重なり合う部分はあっても根本的には宗教の説く所とは全く違ったものだ。このことはさきの地獄界の所でも少しふれたので人々には理解されるだろう。つまり宗教の説く所は、その宗教の教義に合った正しい生涯を送れば死後その報酬として幸福な世界に入ることができる反面、その宗教の教義に合わない誤った生活を送れば、その罰として地獄に入れられ、永遠の罰を受けることになるというものだ。しかし、霊界で霊たちが幸福な世界に入るのも、また逆に地獄界に入るのも別に人間のときの生涯の報酬や罰として入るのではない。それは人間のときの生涯において彼の霊的な内心が霊界のどの世界にもっともよく対応すべきものになっていたかということにより、死後の彼の霊自身が自分の意志によって、自分の世界を自由に選択するのである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.168-169

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 46-u[24-r] (霊界のどこへ行くかは死後の自分の意志で選択する =続=)

 このことをもっと簡単にわかり易くいうとつぎのようになる。
 霊界の上世界は中世界より明るい光に満ちた世界だ。しかし、明るい世界に住むには人間の例でいえば彼の眼がその光に耐えられる、その光に合うものでなければならない。もし彼の眼がそのような明るい光の強さに耐えられないものとすれば彼はもう少し暗い世界を自分で選ぶことになるだろう。これと同じことで、上世界に住むには霊の霊的な心の窓、つまり霊流を受け入れる窓がそれだけ開かれていなければならないことになる。もし、中世界や下世界の霊流に合うだけの霊流の窓をもった霊が上世界に入れば彼はその霊流の強さや光りの明るさに耐えられず苦痛を感ずることになり霊的な永遠の生を全うすることができなくなる。
 要するに霊的な霊流の窓の開け具合が彼の住む死後の世界を決めるのであるが、その窓の開け具合は人間だったときの生涯においてどれだけ霊的な心を開いたかということの結果なのだ。
 では、どのような人間の生涯が霊的な窓を開いた生涯であり、どのような生涯が開かない生涯なのか?ここへ来て人々はまた一つの疑問にぶっからざるを得ない。それは霊とか霊的な窓とか、霊的に眼の開けた人間の生涯などといっても霊に関することは、あまりに深遠すぎ、また高い境地であって人間には考えることすらできないものだというような考えが一般になっているためだ。しかし、私にいわせればこのような考え自体が、すでに「直ぐなる心」を失いかけた人人の誤まった感覚に過ぎないのだ。なぜなら、人間はもともと肉体を持った物質界だけに属するものではなく霊界と物質界の両方に属する存在であるから霊的なことを考えることは少しも困難ではないからだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.169-170

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 46-v (新しい霊界での生活に適応していく =1=)

 ぜひ覚えておいてほしいのは、新しくこちらにやってきた旅人が身体を持たないわけではない、ということだ。ざっと調べてみれば、彼は自分が肉体をまとっていたときと同じような姿をしていることに気づくだろう。五体はもとどおり満足で、見慣れた服まで着ている。とはいえ、いつもとはっきり違う点もいくつかある。身体は以前と同じようでも、感じがまるきり違うのだ。
 こちらでの身体は地上のものにくらべて、より微細な素材からできており、痛みや病気、不快感、疲労、飢えなどの感覚はない。わずかな不快感すらなく完全に自由なので、新しくやってきた者はみな爽快感をおぼえる。すっかりくつろいだ身体はしなやかで意のままに動かせるし、頑丈だし、快適そのものだ。
 くだんの友が最初におぼえることのひとつに、移動のしかたがある。彼は今までのように足をつかって動きまわることができないのに気づくだろう。自分の想念を用いて好きな所へ行くことを彼は学ぶのだ。多くの人はこれを脈動する動きとして体験する。魂の領域では、あなたが心に思い描いたことはそのまま、しかも瞬時に体験されるのである。(物質界での人生も同様に想念に対応しているが、想念が物質的なかたちをとって現われるまでに時間がかかることが多い)。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.37-38

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 46-w (新しい霊界での生活に適応していく =2=)

 さて、くだんの友は自分自身の「死」―つまり自分の肉体の死―を目撃した。彼女はなつかしい友に迎えられ、新たに見つけた魂の身体を使ってどのように動きまわるかも教わった。彼女はすでに一瞬のうちにすぎさった一生を回顧し終え、地上での所業の評価も済ませている。さて、これで仕事や活動をうまく行なったり新しい生活の場を理解するための準備は整った。
 あたりを見まわした新顔はどんなことに気づくのか―それをお話しするために、ふたたび個々のケースをいくつか見ていくことにしよう。体験は多種多様で、たとえそれぞれが一般的な体験であっても、その違いはじつに大きいからだ。
 人生でなすべき仕事をほぼ終え、高齢などによって自然死を迎えた善良な人物の場合を例にとろう。こちらの領域に入ると、この人物は大きな喜びに遭遇するだろう。願わくばこの女性が、宗教で教えるところの例の「天国」なるものに期待などしていなければいいのだが……。というのは、そのような場合にはこちらの生活に順応するのが困難となる可能性があるためだ。だがもしそのような人であっても、広い心とみずみずしい感性をもち、ものごとにとらわれない考え方ができるならば、死後生に対して抱いていた夢や希望どおりの世界―あるいはそれ以上にすばらしい世界―が立ち現われるだろう。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.38-39

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 46-x (新しい霊界での生活に適応していく =3=)

 眼をやると、そこにはこの上もない美の世界がある。この世界では光が隅々にまでゆきわたり、あらゆるものに光がみなぎっている。光は、太陽のような外部の光源から照らしだされるものというより、むしろ内なる源から発される光、つまり内なる光明と生命力の放射である。したがって影や暗闇はない。そこここに見慣れたものがあるが、どれもみなさんの世界のものとは違って興味はつきない。たとえば建物は、たいてい美しい大理石のような材料でできており、内なる光と清らかさに輝きわたって見るも楽しいものだ。こちらには建物を汚し老朽化させる塵やほこりは存在しないため、どこもきれいで新しい。物質でできているように見える環境全体は、住む人の想念や要求に応じたものであると同時に多少永続性もあり、住民全体の希望にあわせて創りだされる。建物を例にとると、急に現れたり消えたりするわけではなく、ここに住む多数の魂が改築や移築を決めるまではそのまま残される。
 もちろん自然のままの田園もある。ここの住人が、地球の美と調和と神秘の真価を高く評価しているからである。だがこちらの母なる自然は、みなさんがたの地球の自然とは驚くほど違っている。土の感触は心地よいものであらゆる植物の生命をはぐくむが、手足も汚さず家などを汚染することもない。土は独特の黄金色で燦然と七色にきらめき、神秘的である。これが実際にこちらにやってきて最初に受ける印象である。まことに不思議な世界で、あたり一面には神秘的で華麗な色彩がある。空は無数の虹がかかったようにほんのりと明るく、田園地帯の湖は生命力と美に輝いている。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.39-40

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 46-y (新しい霊界での生活に適応していく =4=)

 ここの住民のほとんどが古代ギリシア・ローマふうの服を選んで着ていると知ったら、みなさんはおそらく笑うだろう。地上では見たこともない美しい織物でできた優美な長い白のローブも虹色に光り輝いている。白いローブというと少々信じがたいかもしれないが、それがこちらではあたりまえになっている。新顔は最初、これまで地上で着ていた服装をしていることが多いが、やがてそんなみすぼらしい服は捨て、いまお話ししたような衣装をまとうのである。もちろん衣装部屋に行って着替える必要はない。そのようなローブを着たいと思うだけで自然に身なりは整う。
 だがこちらでの体験には、すべて一定の限界がある。ひとつは、ぜいたくな宝飾品をいつでも創りだせるわけではない、ということだ。装身具はこちらでも愛好されているが、魂の成長によってそれを「獲得した」人びとが身につけるものなのだ。指導者はよく美しいが簡素なローブにすばらしい宝石をつけてあらわれ、髪や衣服には真珠や金を飾っている。地上の多くの人びともネックレスや指輪やビーズで飾った衣服やベルトなど、宝飾品の美しさに魅力を感じているが、こちらでもひきつづき同じように美を賞賛し、楽しんでいる。この領域では、美はさらに豊かに具現されている。なぜなら、想像できうるかぎりの最高に美しい品を物質化することに何の妨げもないからである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.40-41

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 46-z[51-o] (新しい霊界での生活に適応していく =5=)

 これまでに建物や地上のものに似た環境、衣服や宝石などについて述べた。この魂の領域の「戸外」のようすについて、もう少しお話ししょう。牧歌的な田園地帯には美しい樹木や潅木や薮や牧草地があり、生えている草木には病気も欠陥も皆無だ。天候に痛めつけられることがないため、木はみなすくすくと伸びている。どの葉もきずひとつなく、季節に左右されずに生育する。地面の多くは青々とした草でおおわれ、「都市」の地域へとつづく、やわらかで豪華なじゅうたんのような散歩道となっている。
 不思議なことに、新参者の多くにとって花々は最大の歓びとなっている。それは花々が、地球という領域からやってきたみなさんには想像できないほど美しいためだ。地上でいちばん美しい花も、こちらの花にくらべれば形なしだ。生育中の花は想像力が及ぶ程度の色をしているが、生育期をすぎてからはたとえようもない美しい色となる。どの花も完璧で、人と出会ったときに感じるような個性や生気を発散している。(単にこちらの領域では、みなさんの世界にいるときに比べて、宇宙の法則が一層明らかになるだけのことである)。
 すべてのものに生命と意識がある、という不変の法則は、みなさんにとっては驚くべきことかもしれない。そちらの科学者たちは、原子や分子の構造を研究してすでにこのことを知っている。だが一般にはこの基本法則は知られていない。ご存じのとおりあらゆる生きものには当然生命があるが、その生命力は、あなたの予想をはるかに越えるものなのだ。ところが、それ以外のものにも、生命と意識はあるのだ。たとえば岩は一見したところ、生命のない何の変哲もない大きな塊に見えるが、実はそうではない。岩は大宇宙の一部として生命を持って呼吸しながら変化しており、わずかではあってもたいへん重要な意識の一部が賦与されている。みなさんの世界の形あるものすべてについても、同じことがいえる。
 こちらでは森羅万象を通じてこの法則を見たり感じたりすることができる。この世界をかたちづくるどのようなものでも、それと向かい合えば「心が通う」のである。たとえば愛らしい花だが、花には息をのむほどの美しさがあり、どの花びらからも脈打つ生命が感じられる。花を手にとれば、そこから流れ出る活力と優しさのエネルギーが感じられる。
 花は女神からの贈り物で、こちらの住民はそれを手に入れては楽しんでいる。しかし、こちらですべての生命を与える者とされている女神は、そちらの教会や寺院で話して聞かされるような「神」とは全然違う。その違いについてはのちほど触れる。忘れてはならないのは、魂の領域一帯には愛と助力と喜びのオーラがひろがっており、こちらに住む者はみなそれを感じ取って限りない喜びと慰めを得ている、という点である。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.41-42

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 46-za (霊界で住む領域はどのように分かられているか)

 みなさんの三次元の地球には、比較的移動の自由がある。旅行する意志と余裕さえあれば、遠い国へでかけて異なった文化や民族を訪ねることができる。わたしたちの領域では、ある意味で制約はさらに大きい。意のままに別の領域へ行くことができるとは限らないのである。動きを妨げる垣根や壁があるわけではないが、自然の法則が働いて類は友を呼び、たいてい似た者同士で集まってしまうのだ。
 もっと具体的に説明したほうがわかりやすいかもしれない。わたしたちの側からは、地球は領域1と呼ばれている。実際に領域1は、あらゆる形態をとった物質界の生命と関わりあっている。ご推察どおり、この宇宙にはみなさんと同じような生命の存在する惑星は他にもたくさんある。
 領域2は、さきほど簡単に触れた、怒りや苦しみや混乱に対処しようと試みる悩める者たちによって作り出された、より暗い場所のことだ。もし諸宗教でいう地獄のようなものがあるとすれば、これらの区域がそれにあたるだろう。だがこれらも永劫に存在しつづけるわけではない。希望と進歩向上の機会は、あらゆる魂に開かれているのだ。(ちなみに「地獄」は熱いところとされているが、これらの区域は熱くなく、不気味に冷たい)。
 領域3は光と美の諸領域のうちの最初の界層で、みなさんのほとんどが死後この領域へやってくる。これは前章の最後で述べた、喜びと意義と美の世界である。領域は全部で七つあり、その最高に位置するのが神、女神、ヤハウェ、アラー、ブラフマン、グレイト・スピリット、あるいは「全存在を包括するもの」の領域である。
 領域に番号や名前をつけたのは、各領域問の移動が自動的には行なわれないことを明確にするためだ。自分の属する領域よりもさらに高い領域を探険するには、訓練を積んだ上で道案内役のガイドを獲得しなくてはならない。「より低い」領域へは誰でも意のままに行くことができる(ただし領域2から領域1の物質界へは移動できない)。領域3から領域2を訪問する者もまた、ガイドに付き添ってもらい、不幸な体験をしたり自分の属する位階を剥脱されたりしないように守ってもらわなくてはならない。
 簡単に言えば、これが宇宙の限界である。限界は各自の魂の内部で形成され、すでになしとげられた成長もつぎに着手すべき成長も、これらの限界によって定められる。肉体をまとっているときと同じように、魂の領域においても限界は存在するのだ。これらの限界は目的にかなったものであり、限界が最良の道を探し出すための助けとなるのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.46-48

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 46-zb[2-za] (生命は決して滅びることはなく意識も永遠である)

 死は意識の停止であってその先は無だ、と想像する人もあるが、そうではない。また、あなた自身が神もしくは何らかの存在と融合し、あなたの人格そのものが失われてしまうということもない。死は、みなさんがご存じの地上の生活よりも、多くの点でもっと精彩に満ちたものだ。あなたの意識は文字どおり拡張し、以前にも増して「あなた」らしくなる。肉体を離れた後にこの意識の持続を体験することによって、爽快感とあふれんばかりの豊かさの感覚がもたらされる。またこれらの領域には完璧な安心感がみなぎっており、ここでは誰もが、何ひとつ滅び去るものはないと悟るのである。
 みなさんの世界では核兵器の脅威に多くの人が気づいている。大量破壊兵器の生産や使用に反対する大規模な運動が当然あってしかるべきだ、と考えるのももっともなことだ。だがわたしは、この問題について二、三付け加えたいと思う。人類は神ではない。人類には地球を創造することも破壊することもできない。原子の力が巨大なのは事実だ。だが意識の力はすべてにまさっている。みなさんの世界には、それを見守る神(女神)が存在している。わたしも、みなさんを上から見守っているより小さい女神たちのひとりだ。わたしがいるのは領域6で、領域7には神(あるいは女神)が存在する。わたしはこの最高の領域と接触しており、この広大な領域を完全とはいかないまでもほぼ理解している。そしてわたしはメッセージをいくつか託されてきている。このメッセージは、すべての人に慰めを与えることになるはずだ。
 生命は決して滅びることはない。たとえ女神自身が望んだとしても、女神には一個の生命たりとも破壊することはできないだろう。宇宙の不変の法則は、意識という巨大な力に基づくものだからだ。
 意識は永遠不滅である。ゆえに、心も永遠不滅だ。たとえ核による破局、極度の汚染、森林伐採、その他の大変動によってみなさんの世界が破壊され、地上に生物がもはや生存できなくなったとしても、成長のために物質界に生まれ出ようとするみなさんの魂には、新しい世界が与えられることだろう。みなさんの住む地球の他にも多くの惑星があり、何百万という膨大な数の惑星には、すでにみなさんとよく似た生き物が暮らしている。現在みなさんの世界がその住民たちによって脅威にさらされているのとほとんど同じような仕方で略奪された世界は、これまでにもかずかず存在してきた。
 どうか気を取り直してほしい。一人ひとりがこの時代の狂気と戦うことは、人類全体にとって望ましいことだ。絶望することはない。人間には、人類を滅ぼすだけの力はない。人類には宇宙で一番安全な居場所がある。この地球こそが、とどまるべき場所なのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.49-50

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 46-zc (霊界でも全くの善人もいなければ完全な悪人もいない)

 こちら側へやってきてから出会う新しい環境について、もう少しお話ししておこう。
 領域2と領域3について論じるにあたって、あたかもこちらではものごとの黒白がはっきりしており、人間の善悪に応じて領域3あるいは領域2へ行くかのような話に聞こえないよう願っている。ご承知のとおり物質界においてもものごとは黒か白かにはっきり分けられないものだが、肉体を離れてからもやはり同じことだ。まったくの善人もいなければ、完全な悪人も存在しない。人はみな、それぞれの要素を少しずつ持ち合わせているのだ。人には一定の持ち味、すなわちその人全体としての性質があり、それがその人物を他人と識別する特徴となっていることは周知のとおりである。
 もし全体的に見て隣人に対して理解や共感を示し、彼らを助けようと努めた人なら、その人はこちらでの良い暮らしという報いをうけるだろう。
 一方、これまで自分は周囲の人の求めや望みに耳を貸してこなかったと考える人びとがいたとすれば、彼らは光と美の領域に入る前に何らかの勉強をしなければならない。結局は真に善良な心の持ち主であったとすれば、彼らはこれまでの地上での態度の間違いをすぐに悟る。彼らがこちらへきて急速に進歩をとげることは可能であり、そのような彼らを見てみなうれしく思うのである。
 しかしながら、灰色と黒の区別は存在する。もし彼らの過ちがきわめて大きかったり、利己的で人を顧みず、その上わざと他人に苦痛を与えたとすれば、こちらへ到達する道は遠く険しい。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.50-51

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 46-zd (苦悩する魂には援助の手が数多く差し伸べられる)

 わたしは地上の人びとに、ぜひとも宇宙の法則に関する大切なことがらを理解してもらいたいと思っている。これらのことを話すにあたって、それゆえ善良であれと読者をおどし、恐怖心を植え付けるつもりはない。悩める人びとや混乱した人びとへの穏やかな警告として宇宙の法則をお話ししているのだ。悪行は決して簡単に忘れ去ることはできない。宇宙には真の正義が存在するが、この正義を裁量するのは各人の意識であって、宇宙警察隊があるわけではない。たとえあったとしても、こちらにいる悟った者たちはそのような仕事などしないだろう。わたしの領域の者はみな他者を援助し、善行を行ない、美を創造して楽しみたいと思っているのだ。
 苦悩する魂には援助の手が数多く差し伸べられる。しかし彼らを罰しているのは彼ら自身の心なのだ。申し上げておきたいのは、生涯ずっと悪いことばかりしている者などひとりもいない、ということだ。誰もが今後とも善良さを保ちつづけ、成長し発展していきたいと心から願っているのである。
 どう見ても邪悪で他人に危害を加える者も、確かに少なくない。それは彼らの考えが混乱しているためなのだ。彼らには文字どおり、自分のしていることがわかっていない。ほとんどの場合これらの心惑える者たちは自分の心の歪みに気づいており、それを正そうとしている。自分の生命やこの世界の真実についてまったく無知な彼らは、憎むべき存在でも呪うべき存在でもなく、燐むべき者たちなのだ。彼らは他人に対して働いた悪業のために、自分の意志でみずからに苦闘を強いているのである。
 心惑える魂は自分の手で醜悪と苦痛の世界を創りだし、そこで孤独のうちに苦しむのだ。魂の世界では、悟りを深めた者たちは、このような不幸な者たちに援助や洞察力を与えようと願わないかぎり、彼らとは決して接触しない。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.52-53

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 46-ze (宇宙のなかの悲惨な一隅に住むことになる者)

 宇宙の悲惨な一隅は、そこに住む者の混乱した想念がさまざまであるように、その現われ方も変化に富んでいる。だが領域2に特有の環境もいくつかある。ごく単純で不快度の低いのは、薄汚いあばら屋のように見える環境だ。このような場所にいるのは、そちらにいたときに、他人に心を開くことより自分のために富や名声をたくわえることに興味を持っていた連中だ。彼らは自分がまったく孤独だと感じている。生前他の人びとに心を閉ざしてきた彼らは、この領域で孤独という報いを刈り取っているわけだ。自分自身の想念の貧弱さという問題に気づいて心を開くまで、彼らは孤独のままでいる。だがいったん心を開いて助けを受け入れれば、急速に進歩できる場合が多い。
 異常なケースでは、他人に多くの苦痛を与えた人間―たとえば地上にいる間に狂暴なやりかたで人殺しをした男の場合はどうだろうか。この男は非人間的な心の持ち主であり、人間の魂のすぐれた資質は何ひとつはぐくんでこなかった。彼もまた、死後に自分の播いた種を刈り取ることになる。
 彼は自分の姿が、人間とは似ても似つかぬ形をしているのに気づくだろう。彼は爬虫類か醜い獣の姿で、慰めも楽しみもなく、水草のからみつく冷たい沼地をはいずり回ることになるかもしれない。これがあなたにとって地獄か煉獄の話に聞こえたなら、おそらくそれは正解ではないだろうか。けれどもここで問題なのは、この男のこちら側での現実が、彼の地上での行動目標や所業が卑劣だったことが原因で創りだされたという点だ。彼はふたたび二本足で立つまで― つまりもう一度人間となる準備ができるまで― 気の遠くなるほど長い間、ずっと這いつくばって歩くことだろう。それから彼は自分で、過去に他人に対して犯した罪をあがなうための新たな機会と手段とを手に入れることだろう。
 成長は確約されている。なぜなら意識は永遠であり、最終的にはどの意識の小片も自分自身を知り、真理を知り、光の領域を旅することになるからだ。わたしからみなさんに伝えたいことは、宇宙には永続性があり、宇宙全体には永遠の大いなる善が浸透し、すべての創造物、そして星々の間を旅するあらゆる生命の微細な小片にとって希望と喜びがあるということなのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.53-54

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 46-zf (善良な心の持ち主は死後必ず光と美の世界へ行く)

 死ぬときに善良な心の持ち主だった人は必ず、さきに述べた領域3へ行く。いくつかのケースでは、かつて高次の領域に住んでいた者もあるが、物質界で生活する必要上かつての記憶が限定されてしまっているので、これらの人びとはさらに旅をつづける前に心を広げ、多くのことを「思い出す」必要がある。
 この話の教訓は、職業的地位や富、学歴、人種、性別、年齢、宗教、霊的発達の度合いなど、いかなる尺度によっても人を計って見下してはならない、ということである。重要なのは、老若男女誰もがかけがえのない人間であること、どの人生にも各人が取り組むべき内なる目標があること、そして自分と他人とでは目標も目標達成のための方法や手段も、大きく違うことを理解することだ。
 「汝の隣人を愛せ」とは、すばらしい忠告である。人間はまた自己を尊重し、自分自身のアイデンティティーを尊重する必要もある。自分を尊重することができれば、他人にも寛大になれるはずだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.54-55

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 46-zg (イエス・キリストがいま住んでいる領域)

 こちらの世界の各領域について、もう少しお話ししておこう。通常領域4に住んでいる者のうち少数ではあるが、地球にやってくることを選んだ者がいる、とわたしはジュディーとの私的な会話の中で漏らしたことがある。彼らは意識の上では自分たちの宇宙的な経歴を記憶していないが、わたしたちの眼から見ればそれははっきりと見て取れる。領域5から来た者も、地球の全人口の割合からすればごくわずかながら存在している。これらの領域の現実がどのようなものかは定義しにくいが、各界層ごとの違いとは、どれだけ大きく意識を拡大することができたかの違いをあらわす、と言っておくだけで十分だろう― 意識というものは、他の意識と結合することによって文字どおり拡張するのだ。このように意識が拡大するにつれて、ますます真理の理解も深まるのである。
 これらの事実を視野に置いて説明しよう― イエス・キリストとして知られる人物をはじめ歴史に名を留める何人かは、地球を中心とした意識圏以外の世界からやってきた。キリストは実際に領域6に存在していた人物で、今日なお領域6に住んでいる。彼の意識はあまりに巨大で普通の人間と比較することさえできなかったのである。このより大きい意識の持ち主には、人類には通常利用できないような力の源泉からパワーを引き出すことが可能だった。このパワーこそは彼の世界に住む人びとに奇跡の目撃を可能にさせたものであり、また彼が同時代の人びとに信頼され彼の教えが信用されたのもこのパワーのためだった。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.55

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 46-zh (霊界へ行って深い後悔をひき起こすこともある)

 大多数の人が死後に出会う新しい国、領域3に話を戻そう。第一章で一応その興味深い点を垣間見たが、こんどは細部にわたって説明していきたい。
 領域3の自然環境は息をのむような美しさで、これまであなたが地上で楽しんできたどんな美をも超越している。それでいて、少しもけばけばしさは感じられず、見る者の眼に完全に調和して美しい。こちらでは色や感触に対する知覚力が地上にいたときよりはるかに拡大しているにもかかわらず、飾りたてたように見えたり魅力に乏しく思われたりするものはひとつもない。この領域にやってくる者は誰もが、そのえも言われぬ美しきと調和と感動的な完璧さを見て畏敬の念に打たれる。あたかも地上で遭遇するような否定的要素がすっかり取りのぞかれ、地上の美と喜びが百倍も増したかのように感じられるのである。
 だからといってこちらの人びとが至福の状態で歩きまわっているわけではない。死後もあなたはいつもの自分と何ら変わらず、そこには今になって理解できるようになった、多くの深遠な真理が存在するだけなのだ。これらの真理が、人びとの心に深い自責の念や後悔をひき起こすこともある。なぜなら生前の状況に黒白はつけられないために、このすばらしい領域に住む権利を得ながらも、かつて自分が地上で犯した誤りをはっきりと悟っている人びとが数多く存在する。もし地上にいたとき彼らの誤った態度が他人に苦痛を与えたとすれば、後悔は一層強いものとなるのである。
 ひとつ例をあげてみよう。ある女性が豊かな暮らしをしており、家族や親しい仲間たちに対してはごく親切だったとする。しかし他ならぬこの善良で親切な人物に、人種(あるいは国籍、経済状態、学歴など)で人を差別して優越感を抱く傾向もあったと仮定してみよう。彼女は地球の住民の全階層に対して、冷たく無関心な行動をとったわけだ。こちらへ来て視野の広がった彼女は、自分の偏狭さをはっきり自覚して後悔し、過去の誤りを正す方法はないだろうかと捜す。この新たな衝動に応じる道はたくさんある。こちらでの仕事のいくつかは彼女にとって助けとなるだろうし、彼女が過去の誤りを克服したいと願って地上にふたたび生まれることを決定する時も、いずれやってくるだろう。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.56-57

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 46-zi (霊界でも望めば食べものを楽しむことができる)

 さてここで、こちらの世界で行なわれている仕事に触れておこう。「永遠の死後生」とはゆったりとくつろいで音楽を楽しむ国である、というように想い描いている人がたいへん多いので、仕事という言葉は、いわゆる魂の世界について述べる際には場違いな感じがするかもしれない。一般に考えられているこのようなイメージは、それが音楽の純粋な本質や、感情表現の手段である音楽の有効性を象徴するものであるだけに、なかなかうまくたとえたものだと感心させられる。確かにこちらには美しい音楽があり、それを聞いたときに受ける感覚的・情緒的な衝撃は言葉で表しがたいものだ。だがみなさんの世界の多くの人が音楽には大して興味を持ってはいないように、こちらでも音楽活動にたずさわって時間を費やす人はさほど多くない。一般的法則として、みなさんがこれまでの人生で打ち込んできた関心事は、こちらの領域でもひきつづき表現され探求される。こちらでの学習の機会、創造性をつちかったり成長したりする機会は、ことのほか大きい。
 地上にあってもこちらにはない仕事は、当然ながらたくさんある。実際に書き並べてみたら膨大な数にのぼるだろう。少し考えればおわかりと思うが、肉体を維持したり物質界との交流に関わる仕事はどれも、こちらではすっかり変わっているか、存在していないかのいずれかなのだ。魂の身体に食物は必要ない。したがって農業や食料品店、料理からレストランにいたるまで、無数の地上的な仕事は不必要になる。しかし園芸はこちらでも大いに愛好されており、実のなる樹がいろいろあってその果実はとても喜ばれている。ご参考までに、ごちそう好きの人のためにお話ししておこう。人間はあらゆる存在の段階において、かなりの程度まで自分自身の望む環境を作り出す。もし食物がほしいと願えば、そのエネルギーが別の方面に向けられるまで、あなたはこちらでも食物を楽しみつづけることができるのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.58-59

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 46-zj (霊界では興味のある趣味などを楽しむ機会がはるかに多い)

 こちらの領域での仕事は、地上でおなじみのものと似てその種類はさまざまだ。地上では不可能な活動や夢想だにできないような活動が可能となるため、仕事の数はそちらよりさらに多くなる。多くの地上的な仕事―たとえば金銭のようにこちらでは不必要なものを扱う仕事―は、たしかに必要がない。銀行家、投資アナリスト、保険会社なども除かれる。
 とはいえ、こちらで好まれ、しかもより自由で新しい意味あいを帯びた仕事を二、三あげておこう。あらゆる種類の芸術が心から楽しまれており、特に音楽は万人に喜ばれている。作曲家には時間の制約や肉体の衰えなどの地上的な制約がないので、彼らは思いのままに腕をふるっている。かつて地上で有名だった作曲家の多くはこちらでも仕事を続けており、往時の傑作を上回る作品をたくさん生み出している。また演奏家や声楽家も、こちらの楽器や霊的な声による表現を用いたより広い機会に恵まれているのである。
 教育もあらゆる分野に欠くことのできないものである。多様なレベルでのさまざまな目標のための学習を行なうことができ、また奨励されている。もちろんこれはまったくの自由意志にもとづくもので、学ぶ者も教える者もこの上ない楽しみを感じている。ご想像のとおり多くの者が地球や地球の真の歴史(みなさんの歴史の本に書かれていることとは全然違う)、地球の未来、わたしたちの領域とそちらの領域との交流方法など多岐にわたって学んでいる。
 社会福祉の仕事には、お察しのとおり人気がある。死ぬ前に患っていた長く重い病気や心理的不安などのせいでこちらへきてから混乱し、身も心も弱ってしまった人びとは多い。彼らのもとには新旧の心やさしい友人たちがやってきて、調整して健康になれるよう一心に手助けをする。地上と同じくこちらにも、他人を助けることに最大の喜びを感じる者たちはたくさんいるのである。
 このように領域3にやってくる人びとは、たいてい肉体をまとって暮らしていたときと同じ興味を持ちつづけている。こちらの環境では興味のあることを表現する機会が以前とは比べものにならないほど豊富だと知って、彼らは喜ぶ。もしあなたが地上で無味乾燥なつらい仕事を行なってきたとしても、こちらではあなたの意識下の望みが実現するので、仕事はこれまでとは逆に喜ばしいものとなるのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.59-60

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 46-zk (地上の善人が経験することになる霊界の生活 =1=)

 わたしたちの世界に関しては数々の誤解があるようだ。多くの人びとはおろかにも、死ねば意識は消滅してしまうという誤った考えを受け入れている。だから地上の生活や健康に不満を抱く人びとから、こんな捨て鉢な声が聞こえてくるのだ。
 「そうさ、死んで意識がなくなってしまうほうがよっぽどましさ」
 この霊的な素朴さに、こちら側にいる多くの者は失笑を禁じ得ない。
 こちらに天国があると思っている信心深い人びとにしたところで、多くはただ漠然と、面白くも何ともない世界を期待しているだけではなかろうか。徳の高い魂がハープをつま弾きながら唄い歩くという幻想には、とても魅力など感じられそうにない。そんなことを考えつくこと自体、面食らってしまう。死後の存続について考えるにあたり、日頃慣れ親しんできた自分の人格のさまざまな側面が存続するかどうか誰もが疑念を持つものだが、果たして歌やハープで楽しんだことのない人間が、わざわざそんなことをして楽しむ必要などあるだろうか? この世の快楽も自分の熱中してきたことも、すべて諦めなくてはならないのだろうか? 実生活での楽しく愉快な営みは、永久に失われてしまうのだろうか?
 当然のことだが、そう考えてきた人びとはこちらに実際やってきてびっくりする。そこは至福に満ちた一種の「天国」であるが、新しくやってきた自分はといえば、完全無欠でも神々しくもない、もとのままの自分なのだ。こちらではしばしば地上で関心を持っていたことがらに一心に専念することができ、これまで想像できなかったほど満足な結果が得られる。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.61-62

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 46-zl (地上の善人が経験することになる霊界の生活 =2=)

 みなさんの世界の関心事である仕事について、いろいろな例をあげてお話ししていこうと思う。だが読者は、食物を捜したり隠れ家を作って人生の大半を暮らしてきたような原始社会の人びとが、いったいどんな仕事をするのか不思議に思われるかもしれない。少々本題からは外れるが、そのような原始時代の人びとは多くの場合、地上にいたときに芸術― 絵を措く、龍や土器を作る、歌や踊りを作って演じる、物語を語るといった― に情熱を傾けてきた。彼らはこちらでも同じような活動を続けている。実際に彼らは「進歩した」文明世界からやってきた人びとと、実にすばらしい交流を行なう。この交流でお互い同士欠けたところをみごとに補いあうのである。みなさんの社会では人間の心の論理的な部分が異常に発達してきたのに対し、彼らの社会では直観の部分が開花してきた。双方ともに相手からたくさんのことを学べるというわけだ。こちらではこのように、多くの人びとの間で盛んな交流や活発なコミュニケーションが行なわれているのである。
 念頭に置いてほしいのは、基本的な魂すなわちそれぞれの人格の心には、人種や性別や国籍といった人間の作りあげた垣根は存在しない、ということだ。人類はみな兄弟姉妹というが、これはただの空虚な掛け声ではなく、普遍的な真理としての重みを持つ言葉なのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.62-63

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 46-zm (地上の善人が経験することになる霊界の生活 =3=)

 さてあなたは死後にどんなことをして暮らしたいと思っているだろうか。こちらの世界のことが大体わかってきたところで、たぶん長い休暇をとってあちこち見物して楽しむのではないだろうか。だがしばらくすると遊んでばかりいるのも少々不安になり、何か有益な活動に専念したくなるものだ。もしあなたが地上にいたときに建築関係の仕事にたずさわってきており、この領域の建物にすっかり興味をそそられたとする。さて、こちらにはあなたにふさわしい仕事はあるだろうか?
 もちろんある! だが持ち前の能力を発揮する前に、長期にわたる訓練が必要だ。こちらの建築方法は地上のやり方とは大分違う。工事に必要な道具、たとえばシャベルやトラクター、ハンマー、釘などは使わない。板もコンクリートもトラックも鋼鉄の梁もクレーンもいらない。ここでのあらゆる活動は本来、心の力を使って行なうものだからである。わたしたちの「物質的な」大殿堂の建設でさえ、心の働きに基づいて行なわれる。だがそのためには教育や知識、研究、設計が不可欠であり、これらに心の働きが加わってはじめて建造物は完成するのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.63

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 46-zn (地上の善人が経験することになる霊界の生活 =4=)

 完成までのプロセスを見てみよう。まず最初に注意を払わなければならないのは、その建物の使用目的だ。ある理由で新しい建物が必要だということが大多数の者によって決定されると、「高次の」領域の相談役の意見を聞いて合意を得る。建築家と立案者たちとの問で意見が一致したところで、設計図の作成がはじまる。図面は、実際の紙や鉛筆、製図板、定規を使わなくても、決められたとおりに作りだされる。それから建築家たちと設計者たちは、一片の木材も一本のハンマーも持たずに建設現場に集合する。彼らはただ心を集中させることによって、自分たちがすでに決めた設計上の諸要素を具体的な形にするための「想念の型枠」を建てるのだ。この想念の型枠は、霞でできた建物のようにうっすらと見えるだけだが、眼をこらせば十分見ることができる。彼らはこの霞のような鋳型のまわりを歩き回って、それが意図された目的にかなう要求どおりのものかどうか比較検討して調べる。必要な箇所は調整を行なう。するとこの型枠は、しっかりとした内容のそなわったものとなるのだ。これで最終的な形が完全だと全員が納得すると、彼らは心の力を使って高次の領域の魂たちに呼びかけ、生命の息吹を送ってもらう。これは、ミケランジェロの有名な壁画に描かれた神の指先〔システィナ礼拝堂の天井画『天地創造』で、神は土から創造されたばかりのアダムに指先を触れようとしている〕の象徴するものにたとえられるだろう。形が創造され仕上げが終わっても、生命力が加わらなくては本物とはなり得ないのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.63-64

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 46-zo (地上の善人が経験することになる霊界の生活 =5=)

 これで事実上、建物は生きたものとなる。建物が鼓動したり脈打ったりするわけではないが、おぼろげな輪郭がはっきりして、頑丈な形と実質がそなわるのだ。仮の姿である最初のもや状の型枠は消え去り、美と輝きと脈動が合体して新しい作品が形づくられるのである。仕事は完了し、建物はできあがった。美しく完璧なその姿は時を経てもそこなわれることがないので、こちらでは建物は想像以上に長持ちする。建て替えは変更を希望する者が多いときにだけ行なわれる。
 建築家がこの過程で感じる喜びを、ご想像いただけるだろうか?  地上の労働につきものの骨折り仕事は皆無だ。管理責任はないし、事務所も電話も事務用晶の調達もいっさい不要、設計図や完成見取り図に手間取ることもない。この仕事に必要なのは、もっとも純粋な形での創造性と才能だけなのだ。その報酬であり最終的な成果であるすばらしい作品は、予算や建築法規や資材・天候などの制限に妨げられることなくできあがる。そしてこの成果がもたらしてくれるのは、とてつもなくすばらしい満足なのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.64-65

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 46-zp(地上の善人が経験することになる霊界の生活 =6=)

 こちらには、建築家の仕事のようにドラマチックで満足のいく仕事が他にもたくさんある。たとえば庭づくりや園芸だ。当然この分野も、地上で知られているものとは大いに異なるが、得られる満足感は何百倍も大きい。花ひとつ育てるにも、土に種をまくところからはじめるのではない。最初に想念の種をまくのだ。庭づくりを志す人びとは、こちらの魂の領域の不思議なやり方に対処できるよう、弟子入りして修業を積むのである。
 まず庭師とその弟子は、いろいろな花のいわば青写真のようなものを調べる。こちらの品種は思いのほか多種多様だ。研究を重ねたのち、彼らは空の植木鉢に注意を集中する。心のなかに徐々に花のイメージを形づくっていくのだ。そして植木鉢の上方の空間に、心の力を使ってその形を刻み込む。建造物がまず影のような形で出現するのと同じように、試しに創った最初の花も、うっすらとその姿をあらわす。これが想念の型枠である。彼らは型枠が完全かどうか、あらゆる角度から調べる。時には欠陥があって修正が行なわれることもある。独創的な庭師は、最初の労作を解体してまたはじめからやりなおしたりもする。しかしこれで完璧だと決まれば、花はしっかりと中身の充実した、色彩豊かな物質の形をとることを許される。そのときの花は一見完全のようだが、本物ではない。この段階ではまだ生命が欠けているのだ。そこで想念の力を使って、生命力を与えてくれるように高次の領域に呼びかけると、ただちに生命力が送られてくる。花には脈動するすばらしい生命力が注ぎこまれて満ちあふれ、天上の芳香を放ちはじめる。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.65-66

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 46-zq (地上の善人が経験することになる霊界の生活 =7=)

 こちらの花々はみな枯れもしおれもしない点が変わっている。求められる間じゅうずっと咲きつづけるのだ。公共の場所や個人の家のまわりの魅惑的な庭に、花や木々をあしらう庭園デザイナーや景観デザイナーもいる。地上にいたときと同じく、余暇に園芸を趣味として楽しむ人は多い。あなた自身の庭を創りだそうと思えば、いつでも多くの人が手助けして仕事の秘訣を教えてくれる。
 さいごに花の性質についてひとこと触れておこう。地上の品種の多くは、一本の茎にたくさんのつぼみをつけ、一度にひとつずつ開花していく。この領域では、一本の茎についている花は全部がいちどきに開花する。花は朽ちずに人びとの心を楽しませ、またこの領域の生命の象徴のひとつともなっている。花が不朽であるように、魂も不老不死を保ち、四季を通じて咲きつづけるのだ。人間にとっては、新たに学んだり新しい関係を築き上げることが成長と活力につながり、ひいては能力を増大させてくれる。このプロセスの楽しさとすばらしさを万物も感じとり、感謝するのである。
 こちらの庭づくりの喜びも同様である。花々は「自然」によって創造されるのではなく、想念と意識の力から生命力が生まれることを知っている、ごく普通の住民の手によって創り出される。「上のほう」から与えられる実際の生命力はつねに手に入れることができ、必ず与えられるのである。
  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.66

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 46-zr (地上の善人が経験することになる霊界の生活 =8=)

 みなさんが関わる可能性のあるもうひとつの仕事は、コンピューターのプログラミングだ。こちらのコンピューターは、データベースあるいは想念の記録の集積のように自動的に組織化され、情報を必要とする人びとからの問い合わせに応じる。これは公文書保管所とも呼ばれている。こちらには非常に強力な「図書館」システムがある。情報がどのような形をとるかは、その使いかた次第だ。こちらには多くの書物もあるが、人びとは自分が希望する一定の情報の「プリントアウト」にもアクセスできる。地上と違って、ハードウエアというものは存在しない。単に機械や道具類がいらないためだ。必要なのは知りたいという願望だけであり、願えば手に入るのである。
 地上の歴史について書かれた本を読んで楽しむ人も多い。これらの書物には歴史的事件にまつわる真相がすべて収録されているので、地上の歴史書よりもはるかに興味深い。そこには歴史上の事件ばかりか事件の因果関係までがすべて解きあかされ、当事者たちの心の深層にひそむ動機のかずかずがちりばめられている。みなさんが学校で習う歴史とは大きく異なり、そこには人間の本質にかかわる幾多の教訓がひそんでいるのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.66-67

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 46-zs (地上の善人が経験することになる霊界の生活 =9=)

 また宇宙に存在するあらゆる魂に関する大量の記録もある。これらはアカシックレコードと呼ばれることもある。記録はもちろん物質として存在するわけではないが、一種の宇宙のマイクロフィルムのようなものを介して利用できる。宇宙には想念パターンによって創り出された記録がきおくされているのである。これらの記録は、いわば霊的な図書館科学の専門家のような仕事をすることを選んだ人びとの手で利用に供される。この情報を検索するには一定のことを理解していなければならず、また前もって所定の訓練も必要だ。これらの専門家の任務は、他の人びとの調査研究を支援することにある。
 かなりの量の記録が、みなさんの世界の生と死のプロセスに関するものだ。また新しくこちらへやってくる人びとの多くは、亡くなった友達や家族がどうしているかを知りたがっている。友人たちが肉体に戻ったのか、別の領域へ旅立ってしまったのか、あるいは近くにいて行動をともにできるかどうか知るには助けが必要だ。この記録の保持に関しては機械的でなく、暖かく血の通った、行き届いた管理が行なわれている。ここではいたるところに生き生きとした友情と仲間意識が浸透しているのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.67-68

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 46-zt(地上の善人が経験することになる霊界の生活 =10=)

 仕事は他にもまだたくさんある。たとえば芸術作品はこちらでも心ゆくまで鑑賞されているが、地上の芸術家の作品にしばしばつきものの、実利ばかりを狙った不純な動機が付随することはない。これらの芸術作品のほか、地上の傑作のオリジナルのすべてをそろえた楽しい美術館もある。このオリジナルを前にしたら、地上の実物などすっかり見劣りしてしまうことだろう。なぜならオリジナルは、芸術家の真の意図をそのまま表わしているからだ。物理的な形をとるために作品を妥協の産物とせざるを得ないような事態は、こちらでは無縁なのだ。これらの美術館では、芸術家が作品を制作しようとした動機や衝動を解明しており、面白いばかりか有意義でもある。
 作曲に関してはすでに述べたが、楽器の製作者の仕事について付け加えておこう。こちらでは楽器も、他のすべてのものと同じく心の力を用いて創り出される。こちらの楽器は思いのほか多彩だ。演奏時に発される音色は何とも言えない天上の響きを感じさせるもので、コンサートにやってくる人びとの割合もそちらの世界よりはるかに多い。さらに驚くべきことは、音楽によって動く画像が創り出されることだ。演奏の間、華麗な色彩が美しく躍動する姿が徐々にはっきりと浮かび上がってきて、聴き手であり観衆でもある人びとは音と色彩の饗宴に魅了されるのである。開演時に仮の形をとっていた色と形は、コンサートの進行につれて次第にその強さを増していく。色と形の変化は間断なくつづき、演奏終了後も音楽に表現された創造の美の名残であるかのように、しばらくの間余韻をとどめている。「天界の音楽」の楽しさや感動は、きっとみなさんには想像もつかないことだろう!

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.68-69

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 46-zu (地上の善人が経験することになる霊界の生活 =11=)

 こちらでの仕事の話をつづけると、こちらでは看護や医療関係の仕事はかなり代表的なものだが、そちらとの違いは相当大きい。魂の身体は、物質である肉体よりも精妙な素材でできており、しかも物質のような広がりを持っている。この身体はひとりでにもとの姿に戻り、ときにはひとりでに生じることすらある。これは、より高い領域へ進む者たちが最終的にこの「アストラル」体を捨てることを意味する。もはやそのような形で意識を表現する必要はなくなるのだ。だが領域3にいる人びとや領域4と領域5にいる人びとさえ、使い慣れた身体をまとうほうが気楽で便利だと考えている。
 新しくこちらの世界へやってくる人びとは、適切な「医療」処置を要する健康上の問題をかかえている。処置といっても、たいていは「看護婦」からこの世界についての説明や指導を受ける程度のことにすぎない。こちらではじめて眼をさました者の多くは、身体が弱ったのかそれとも病気や欠陥でもあるのだろうかと思い込み、魂の身体にも同じょうな疾患を作り出してしまう。彼らはこちらの領域のことをやさしく教えられ、元気になる手助けをしてもらうのである。
 老化も処置の必要な部類に属する。指摘しておかねばならないのは、本書を手にしているみなさんは誰もが肉体の中に「アストラル」体を持っている、ということだ。夢を見たり「肉体を離脱する」旅が生じるときに体を抜け出すのが、このアストラル体である。
 肉眼には見えないこの身体は実際に存在し、平均五〇〜六〇グラムほどの重ささえある。
肉体の老化とともに、このアストラル体にも同じような特徴がみられるようになる。ときには手足を切断した場合などの例外もあるが、この場合アストラル体がまだ無傷の状態であるため、手足を失った人は自分の四肢が存在しつづけているように時折「感じる」ことがある。
 老齢のために死んだ人びとは、最初にこちらへ到着した時点ではたいてい今まで通りの年老いた身体をまとっている。だが時がたつにつれて自分をうまく操作できるようになり、若々しいころの活力に満ちた状態を取り戻していく。同様に乳幼児として死んだ者もやがて青年となり、望むかぎりその状態でいられる。当然、地上へ戻って新しい肉体とアイデンティティーを獲得する者も多い。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.69-70

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 46-zv (霊界の中層部から上層部へ向かって =1=)

 こちらに来たばかりでまだ完全に肉体を脱した状態からはほど遠い魂は、地上と同じような環境に合わせた身体を持っている。実際この領域の住人たちに尋ねたとすれば、地上では感じたこともないほど活気に満ちていると答えるだろう。これは彼らの理解力、すなわち彼らの自己理解が増したためである。各人の世界が拡大したのだ。
 ほとんどの人は地上に転生していくまで、もっぱら領域3にとどまる。だがこの領域は限界のある世界ではない。広大で美しく、発展性があるのだ。しかもかなたの世界を一瞥したいと願う者には、その機会も与えられる。
 みなさんにも同じように、領域3から先の世界を垣間見ていただきたいと思う。とはいえこれはあくまでもただの一瞥でしかない― これからお話ししようとしていることがらは、みなさんが完全に理解することのできないものだからだ。
 すでにこれまで何度も、肉体の死後も生き残る人格についてご想像願ったわけだが、ほとんどの人は自分の肉体と自分自身とをあまりに同一視しているため、肉体をもたない自分など想像もつかないことだろう。しかしこちらでは当然のことながら、みな魂が永遠のものであり形あるものは束の間の存在でしかない、ということを知っている。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.76-77

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 46-zw (霊界の中層部から上層部へ向かって =2=)

 すでにお伝えしたように、領域3では地上と同じような生活がひきつづき営まれている。もちろん大きな違いもあるが、類似点は多い。今では意のままに身体を変化させられるとわかっていても、ほとんどの者は自分の身体と自分とを同一視している。彼らの世界は明らかに物質的なもので、息をのむほど美しい自然の景観や建物などに囲まれている。しかもこの領域特有の雰囲気は、誰もがはっきりと感じ取れるものだ。他者との純粋な結びつきの大切さ、存在に歓びを見いだすことの大切さを、ここの空気は物語っている。慈愛に満ちた神の意識が、あらゆるものにみなぎっているのである。
 魂が霊的な進歩をとげるにつれて、彼らはこのレベルを越えて先へと進んでいく。魂の成長にあわせて、最初の兆候があらわれる。みるからに物質的な周囲の世界に対して徐々に興味を失いはじめれば、それは前進の準備がととのった兆候だ。同時に、心には歓び―他者を愛するときに感じられる、こちら特有のはちきれそうな幸福感―が次第に深まってくる。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.77

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 46-zx (霊界の中層部から上層部へ向かって =3=)

 これらの領域での成長パターンのうち、意識の合体について説明するのはむずかしい。たとえてみればこれは性的な体験のようなもの、といえるだろうか。
 ちなみにこの領域には、まだ性的な快楽が存在しているが、これはみなさんが体験するものとはまったく違って、はるかに楽しいものなのだ! この意識の合体は、すでに愛情と理解とによってしっかりと結ばれた、いわゆるプラトニック・ラブの間柄にある二人を結びつける性感にも似たものだ。地上では、肉体を結合することによって大きな歓びが体験される。頂点のオルガスムスは快感と達成感の入りまじった恍惚感である。両者を比較しても平行線をたどるばかりなので、こう言いかえてみよう―意識同志が密接に結合することによってさらに強烈な恍惚感が得られ、より多くのことを知ることができ、その上永続する愛が頂点に達するのだ。意識の合体とは心と心・魂と魂の結婚であり、めざす方向も興味も目標も、何もかもがひとつに結ばれる。この合体はみなさんの想像の域をはるかに越えたもので、感情の深淵にまで達する、深い満足をもたらしてくれる。
 これは、成長の歓びなのだ。子供から大人へと成長するにしたがって、一人ひとりが驚くべき成長をとげる。ひとつ成長するたびごとに、つぎつぎと叡知と洞察力が花ひらく。その歓びを、きっとあなたは感じてきたことだろう。魂はこちらでもひきつづき成長をつづける。その速度は、子供が大人に成長する速さをも凌駕するものだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.77-78

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 46-zy (霊界の中層部から上層部へ向かって =4=)

 みなさんにとってこの話は興味深いと同時に、きわめて難解でもあることだろう―そこで、ここまでの話をいったんまとめてみよう。魂に準備ができると、その魂は他の意識と合体して新しい領域へと進む。この合体にはいくつか特徴があって、まず合体した個の部分は、自分の個性がまだひきつづき存在していることを知っている。個としての本質は決して滅びることはないのだ。しかし今は、より大きな全体となった親密な一体感が存在している。全体の中の個々の部分は、他の部分それぞれと互いに親密に結びついている。これはじつに興味深いことで、新しい体験の世界、すなわち経験のゲシュタルト〔心理学用語。多くの経験が有機的に統合されてひとつの形態をなすもの〕が創造されるのである。
 これをつぎのように考えることもできる。もし現在自分のことにだけ焦点をあわせているあなたの心が、別の二人の人物の人生も完璧に知っているとしよう。つまりあなたは同時に三人であり、個人としての自分を知っており、しかもあなたの敬愛する他の二人のことも知っているわけだ。あなたは今や、彼らの人生で体験される現実をも理解することになる。
 こう言えばうまく類推できるだろう―意識同志が合体すると、その活力はすばらしいものとなる。合体によって他者に対する理解が限りなく拡大していく。合体のために知的なことがらに対する理解力が増し、知的活動も盛んになる。たとえてみれば映画が三本同時に上映されており、たとえその内の一本を一心に見たとしても、三本とも理解してしまうようなものだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.78-79

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 46-zz (霊界の中層部から上層部へ向かって =5=)

 このように、合体後のあなたはまだ自分自身の個性を保っている。個性は神聖で侵されることなく、永久に守られるのだ。しかしあなたはまた、意識の拡大による刺激も受ける。意識の拡大自体が新しい世界を開いてくれるからだ。行動したり交流したりする能力が増すにつれ、あなたの活動と願望は何倍にも広がっていく。多くの実在は、長期間この状態にとどまって興味ある新たな活動を行なう。だがそれは何よりも、他の魂たちの助けとなりたい、まだ宇宙の大いなる真理を理解していない人びとに教えたい、という共通の願いがあるためである。合体して大きくなったゲシュタルトはさまざまな形をとることができ、直観によって生徒たちの求めにすぐさま答えられるため、人を教える能力にすぐれている。
 形をそなえた身体は、今では折にふれて用いるだけのものとなり、意のままに放棄してもさしつかえない。この意識―この活力に満ちた魂のことを、人格と呼ぼうと実在と呼ぼうとかまわない―には、自分のアイデンティティーとしての単一の身体や単一のイメージはもはや不要である。実際これだけ巨大化した知性にとって、身体はあまりに制約が大きすぎるのだ。姿形のない、思考力や知覚力、体験したり理解したりする力を依然としてそなえた、「人格の本質」と呼べるようなものとして存在するのである。この意識は同時にさまざまな形をとって現われることもできれば、姿を消すこともできる。必要とあれば即座に移動でき、似たような存在を瞬時に見分けることも可能だ。身振りや声や表情といった便宜上必要な身体的イメージは一切使わずに、喜びとユーモアをまじえて仲間と容易に理解しあい、心を通わせることができるのである。
 この現実を伝えようと試みるのがいかに困難か、おわかりと思う。みなさんにとってはあまりにも荒唐無穂な謡であろう。わたしの主なねらいは、これから先みなさんが体験し理解していくことがどれだけ変化に富み、いかに広範囲にわたるものであるかを示すことにある。今後とも生に倦み、存在の罠に落ちる必要はないのだ。あなたがたは仲間たちといっしょに翼をひろげて、この大いなる宇宙に飛翔することを約束されている。みなさんを心からいつくしみ、飛翔の手助けをしてくれる神と、そのもとにいる女神や神々あるいは「天使たち」が存在することを知ってほしい。わたしたちもまた、大切なみなさんの成長を願っている。目標に向かって前進を速めてくれるのは何よりも他者への愛であり、他者への愛こそが、最大の喜びと、心を豊かにしてくれる深遠な体験をもたらしてくれるのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.79-80

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 46-zza (霊界の中層部から上層部へ向かって =6=)

 愛とは、意味のない使い古された空虚な言葉ではない。宇宙の真実の姿を表現するのに一番ふさわしい言葉―それが愛なのだ。なぜなら魂同士の活動や魂のエネルギーを伝えてくれるのは愛だからだ。愛は、崇高な力と栄光をもたらしてくれる。愛は偽ることはできず、またその必要もない。人生のさまざまな局面や友人あるいは家族に対し、誰もが愛を感じるものだ。深遠な真理に向かって心を開くにつれて、他者への愛は広がっていく。これこそが嘘偽りのないまことの愛であり、この愛は、みなさんの世界でもこちらでも感じ取られ、真価を認められることだろう。あらゆる想念や感情は各領域に記録される。愛は不滅なのだ。
 意識の拡大は、高次の領域で体験することのほんの一部にすぎない。これらの領域が実際どのようなものか、言語を通じて表現するのは至難の業だが、最善をつくしてこの広大な世界のことを伝えたいと思う。領域4と5では、意識はなお拡大しつづける。そこに住む者たちは、地上の魂ばかりでなく領域3に住む者たちとも常に交流を行なっている。また彼らは領域2にいる不幸な者たちの進歩も見守っている。
 領域4と5の「進歩した」魂の中には、物質界にふたたび生まれ変わろうと決心する者たちもいる。このような転生が行なわれるのは、たいてい自分自身の成長のためというより、他人を助けたいという願望によるものだ。もっとも、他人を助けた結果、必然的に成長は速まることになる。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.80-81

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 46-zzb (霊界の中層部から上層部へ向かって =7=)

 領域4と5に存在する意識がどのようなものであるかは、すでにこの章でお話ししたとおりだ。そこでは意識の拡大と似通った心の持ち主の人格同士が合一し、その結果さらに大きい統一体、すなわちより大きな知的存在が誕生する。自己の拡大にともなって自己表現と自己実現の機会が大きくなることは、これらの場所に住む者たちにとって、すばらしくまた喜ばしいことである。人びとは他の人びとを指導することに興味をおぼえる。指導は一人ひとりに付き添って見守りながら直接行なう方法がとられる。これについてはすでにあちこちに書かれており、この現象に対する専門用語もいくつかある。みなさんの中には、自分を見守って感化してくれる、こちら側の「魂の案内人」が存在することを知っている人もいるだろう。この魂の案内人は「オーバーソウル」とも呼ばれるが、この言葉のほうがいくぶん正確だ―これは一種の世話役をつとめる高位の自己なのだから。
 しかし、魂だとかオーバーソウルと言っても、これが幽霊のたぐいではないことを忘れないでもらいたい。そこに座っている肉体を持つあなたと、何ら変わりない現実的な存在なのである。事実、どちらかといえばあなたよりもっと本物なのだ。彼らの現実は想像以上に生き生きとして活力に満ち、多彩で、感情豊かだからである。別にみなさんを見くびっているわけではない。わたしは地上で肉体を持って存在しているみなさんに、深い愛と敬意を捧げながらじっと見守っている。しかし同様にみなさんも、肉体を持たない存在が実在するということに対して心を開くべきではないだろうか。みなさんが存在していく上で、肉体は必要のないものだ。肉体があるせいで、あなたがたは多くの点で減速させられてしまい、最大限の生を生きることができないでいる。
 地上での人生はこのような二つの世界の関わりあいを土台にして成り立っている。最良の自己をめざしてあなたを駆り立てるもの、それはあなた自身のオーバーソウルだ。このオーバーソウルこそがあなたの直観の源であり、善行を積みたい、向上したい、という願望の原動力なのだ。このオーバーソウルは、あなた自身の魂なのである。この惑星上の人間はみな十分に進化した魂の持ち主ばかりだ。たとえ混乱し苦悩する人びとは多くても、誰もが豊かな叡知の源泉を開いて利用しうる、直観というすばらしい宝物を手にしているのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.81-83

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 46-zzc (霊界の中層部から上層部へ向かって =8=)

 なぜ賢明なオーバーソウルともあろうものが、暗黒の領域 2に転落するような重大な過ちを犯そうとする者をみすみす見逃すのだろうか、とわたしの秘書は不思議がっているが、答えは簡単だ。決断は、それぞれが自分で下すものだからだ。彼らには決断の自由がある。彼らが利己主義や倣慢、憎しみ、野卑の道を選べば、みずから苦悩をひき起こすことになる。だが彼らの魂そのものは善良なのだ。このあたりは説明しにくいところだが、あなたがた一人ひとりは、その魂が全体の中に統合されて必要不可欠な部分を構成している、一個の完全な人格なのだ。しかもあなたは、自分の魂から分離してその叡知から離れ去ることができるという点で、独立してもいるのである。もしあなたが領域 2に住んでいたとしても、善良で賢明なあなたの魂は高次の領域に住みつづけ、あなたに受け入れる気持ちさえあれば叡知を送り届けようとしてくれているのだ。領域 2にいる者は、もし望めば自分で自分自身の小さな地獄を作り出すこともできる。他人に対する謙遜や悔俊や感謝の念という教訓を自分が本当に学び終えたと感じるまで、彼はそこにとどまりつづけるのだ。このように、魂はあなたの一部であると同時に、あなたから離れてもいるのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.83

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 46-zzd(霊界の中層部から上層部へ向かって =9=)

 本題にもどろう。領域4あるいは5に存在するオーバーソウルは、領域3の友を助けるだけでなく、地上にいる何人かの自分を見守るためにも、多大な配慮と多くの時間を費やしている。地上の人格を複数形で語ったのは、通常オーバーソウルが同時に守っている地上の生命の数が、四ないし六個だからである。意外に思われるかもしれないが、これは至極当然なことなのだ。この段階になると意識は今までよりさらに拡大しているから、いちどきに大量の刺激や情報を処理することができる。たとえてみれば、端末をいくつも接続した強大なコンピューターネットワークが、単体のパソコンなどよりはるかに高性能なのと同じことだ。ただしこれは決してコンピューターなどではない―それは、大きな人格であるオーバーソウルが、活力と慈悲深い愛情に満ちあふれた存在だからだ。
 あなたの魂もしくはオーバーソウルは、あなたを見守ると同時に何人もの地上の人びとを見守っている。このため、個人としてのあなたにとって特に好都合なことがある。つまりあなたは常時、他の地上の体験とつながっている、ということなのだ。あなたは無意識下で他の体験を察知しているのだ。この現象は「分身の人格(counterpart personality)」と呼ばれてきた。それによってあなたのユニークさや正当性がそこなわれることはない。睡眠中や直観のレベルで自分の体験を補ってくれるような豊かな地上の体験が得られるのも、このためなのである。あなたの夢の多くは、あなたの分身である人格との情報のやりとり、もしくは隠れた事実について情報交換を行なう方法なのである。あなたと分身は実際の友人同士かもしれないし、二人は地球の反対側に住んでいるかもしれない。これは豊かで多彩な創造性と、みずからを完全に知りたいという欲求がそなわった意識の働きの一例なのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.83-84

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 46-zze (霊界における至高の領域とはどんな所か =1=)

 至高の領域とは、これまでにお話ししてきた魂のたどる旅のめざすところ、すなわち意識の到達しうる最遠圏であり、叡知とエネルギーと意志の貯蔵所である。究極の成長をとげたとき、あなたはどこへ行くのだろうか? 道は領域6、そして領域7の世界へと向かっていく。
 領域6に住むわたしなら、この世界のことは簡単に説明できるとお思いであろう。だがこの領域を思い描くのはきわめて困難であるため、説明するにあたっては問題が生じる。この世界はみなさんの通常の識別能力― みなさんは一個の肉体と結びついているので意識を集中できる範囲は非常に狭い―をはるかに越えたもので、理解できないからだ。ともあれ、わたしたちの世界をせめて垣間見ていただけるように、最善をつくすとしよう。
 わたしの考えを翻訳して伝えるには、言葉そのものが不適当だ。つまり言語は単語を順番に組み合わせながら直線的に進行していくので、いちどきにひとつの概念しか表わせない。わたしの現実では、いちどきに莫大な量の概念が伝達される。あなたにはわたしがあまりに巨大すぎて、想像すらつかないことだろう。以前、わたしの意識はあなたの百倍に相当する、とジュディーに語ったことがあるが、実際はそれよりはるかに巨大だ。しかも彼女は、自分の自己の全体像を把握するに至っておらず、みなさんにとっても自己というものは謎であろう。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.85-86

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 46-zzf (霊界における至高の領域とはどんな所か =2=)

 前の章で意識の合体についてお話しした。このような意識の結合は、わたしの領域でも至高の領域においても、引き続き行なわれている。これはわたしたちの存在の一部なのだ。だがわたしたちは、領域 4と5に住む実在にくらべて単により大きな意識の集合体であるばかりでなく、質的な違いがある。この違いが、わたしたちのさらに広範囲にわたる活動に反映されているのだ。
 たとえば地上のジュディー・ラドンに原稿を書き取ってもらっているこの瞬間、わたしは他方で別の多くの人びととも接触している。その上、数多くの他の惑星上で行なわれている諸活動も見守っているのだ。現在わたしは自分の精力のほとんどをみなさんの銀河系に振り向けているが、そのほかにもたくさんの者たちのことを熟知しており、彼らはわたしの影響力を感じとっている。今こうして行なっているような交流や観察、情報のやりとりなどに加えて、みなさんにはまったく理解できないような活動も行なっている。物質界や、みなさんが物質界について感知していることがらだけが宇宙のすべてなのではない。単にみなさんの宇宙と波動のレベルが異なるだけの、みなさんに知覚できない物理的な「別の」宇宙も無数に存在している。つまり、わたしはこの宇宙の女神ではあっても、最高位の神ではない、ということなのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.86

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 46-zzg (霊界における至高の領域とはどんな所か =3=)

 最高かつ最大の意識のゲシュタルトは、わたしの理解をはるかに越えた存在だ。たとえそのような存在であっても、彼らとともにわたしは活動し、彼らから助けを得ている。彼らは現に実在する巨大な人格であり、領域7に存在している。彼らのことをひとまとめにして、グレイト・スピリットあるいは神、女神、「全存在を包括する存在」と呼ぶことができるだろう。彼らはこの宇宙をすみずみまで知りつくしており、宇宙で起きるあらゆることがらを知覚することができる。
 わたしが領域7の住人のことを複数形で呼ぶのは、種々の別個の部分を知っているためだが、このために、ひたすら一神論を信じている人たちの中には混乱をきたす人もあるかもしれない。わたしは複数形で表現したが、みなさんには、これまで信じてきたとおりの解釈をしていただいて一向にかまわない。なぜならこの至高の領域の住人たちを、単一の神と呼ぶこともできるからだ。各部分は他のあらゆる部分を理解しているのである。
 さて、領域6と7で分担されているけれども、他の領域では行なわれない活動―それは「創造」だ。この語を括弧つきで表わしたのにはわけがある。これは新しい生命の創造という、唯一この領域だけで行なわれる重要な概念なのだ。たとえばみなさんにとっての創造は絵画や文章を創りだすことであり、領域3での創造はそれより広い意味の、花や建物の想念の型枠を創造することだった。しかしここでの創造は、それよりさらに大きな意味での創造、すなわち世界を創造することなのである。思い描いてみてほしい―わたしたちは自分たちの願望と知識とを用いて、世界を創造する。そこには肉体を持った生命が、そしてその生命を維持し必要を満たすものが存在している。無数の星々がちりばめられた銀河のかずかずを、新しい意識の広漠たる広がりを、わたしたちは生み出すのだ……。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.86-87

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 46-zzh (霊界における至高の領域とはどんな所か =4=)

 みなさんは気づいておられないようだが、あなたがた自身も、別の意識を創造している。実は地上の人間のほとんどは、超古代に存在した人類の強力な想念によって「創造された」のである。女神は、あなたがたすべての生命を維持するための、さらに大きな構造を創りだし、今なお創造をつづけている。創造に終わりはない。
 一部の学説で言われているのとは違って、ビッグバンというものは存在しなかった。また宇宙が収斂して最後はブラックホールとなることもない。あらゆる区域で成長と変化をとげながら、発展はつづく。宇宙は永遠に広がりつづけるのだ。この膨大な知識をわずかな言葉に詰め込んで伝えるのはとても無理なのだが、かつて物質というものがなかった―すなわち物理的な世界が存在しなかった―ことは事実だ。神が存在し、意識と人格の広大無辺の領域があった。物質世界が創造されたのは、神が自ら創りだしたものにより大きな機会を与えようと望んだ結果なのだ。この創造はいたるところで一斉に行なわれたのであって、一個の高密度の物体の爆発によって生じたのではない。わき出るエネルギーと物質の流れが存在していたのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.87-88

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 46-zzi (霊界における至高の領域とはどんな所か =5=)

 領域7に関して興味深い点が二つある。肉体を持って地上に存在しているみなさんには、おそらく自分たちから女神に直接働きかけるつもりはあまりないのではなかろうか。誤解しないでいただきたい―女神はみなさんの祈りを聞いている。しかし、あなたがたを守り導くすぐれた魂が多数おり、彼らがみなさんの世話をしてくれることを女神は知っている。女神には直接働きかけねばならない理由はない。優秀な教師としっかりした父兄がいる学校の校長のように、女神はみなさんに奉仕する多くの守護者がいることを承知しているのだ。みなさんの世界では多くの奇跡が起きているが、みなさんはそれにほとんど気づいていない。こういったできごとをみなさんは偶然だとか幸運だとか呼んでいるけれども、それはこちらで注意深く画策されたものなのだ。大切なのは、あなたがたが決して孤独ではないことを理解することだ。みなさんの心の奥底までわたしたちは知っており、至高の存在もみなさんのことを知っている。
 この至高の領域の話をするにあたってもうひとつ興味深いのは、生命と意識とがみなさん一人ひとりを元気づけ、さらに成長と理解を深めるよう永遠に誘いかけてくれている、という点だ。魂として永久に存在しつづけるわたしたちには、自分たちや仲間たちとのすばらしく豊かな喜びがある。わたしたちは天上にいる天使ではない。「上」どころか、次元こそ違え、実はあなたのすぐそばにいる。そちらからわたしたちの姿を見ることはできなくても、こちらには見えているのだ。キリスト教が伝える天国の姿は、見当ちがいもはなはだしい。どうやら天国とは死ぬほど退屈な場所とみえる。わたしだったらそんな場所に閉じこめられて死にそうになるのはまっぴらだ。魂の領域の住人はみな、あなたと同様に―ことによるとあなた以上かもしれないが―すぐれたユーモアのセンスの持ち主ばかりだ。わたしたちのユーモアは決して辛辣でもなければ人を傷つけるようなものでもない。わたしたちの間では、愉快な皮肉の応酬など、生き生きしたやりとりがさかんに交わされている。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.88-89

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 46-zzj (霊界における至高の領域とはどんな所か =6=)

 もしあなたが死後、永遠に眠っていたいと思っても、残念ながらそうはいかない。お望みとあらば、しばらくの間は眠っていてもいいが、それから先は起きて生活を進めていかなくてはならないのだ! 生活は常に愉快でやりがいがあり、言葉に尽せないほどの楽しみに満ちている。自分の自我もしくは人格が消滅してしまうのではないかと心配することはない。しかしあなたは変化しつづけることだろう―ちょうど今と同じように。この変化は開きはじめた花にも似て、自然で美しいものなのだ。
 魂の領域での成長について、わたしの秘書がずばりこう聞いてきた―「神もまた変化と成長をつづけるのだろうか? それとも領域7というのは、ずっと高校三年生か大学院に留まっているようなものなのだろうか?」―そうではない。たとえ神にとってさえ、成長は永遠につづくのだ。もちろん神の成長は巨大なスケールで行なわれ、想像を絶するものだ。すでにお話ししたように、意識の合体は領域7でも継続的に行なわれる。したがって他のすべての領域と同じく、至高の領域においても新たな創造感覚、新たなアイデンティティー、新たな理解がひきつづき加わるのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.89-90

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 46-zzk(多くの魂は霊界で自分を見つめ直し再び再生をくり返す)

 私たちが生きている現世は、「現界」です。人が亡くなると、たましいは「幽現界」へ行きます。ここは、現界と重なり合うように存在するスピリチュアルな世界です。
 たましいは幽現界にしばらくとどまり、自分の死を受け入れて、現世への執着を断ちます。これができないと、未浄化霊としていつまでもここにいることになります。
 自分の死を受け入れて、執着を断ったたましいが次に行くのは「幽界」です。
 ここはとても広く、さまざまな階層(ステージ)に分かれています。この世にとてもよく似た下層部から、天国のように美しい上層部(サマーランド)までを含みます。
 幽界のどの階層に行くかは、生きている間のたましいのレベルによって違います。
 たとえば、人を妬んで悪口を言ったり、足を引っ張ったりするのが日常茶飯だった人は、同じような人ばかりが集まる下層部に行きます。
 そこには、仏教で「地獄にある」といわれているような針山や血の池などはありません。けれど、低いレベルのたましいばかりが集まっているので、まさしく「地獄」といえるでしょう。その周辺はどんよりと曇っています。
 反対に、人のために尽くし、霊格の向上に努めてきた人は、明るく美しい上層部に行きます。いわゆる「サマーランド」と呼ばれる、とてもさわやかなところです。
 そこを抜けると、「霊界」に行きます。ここが、私たちのガーディアン・スピリット(守護霊)などの高級霊がいる世界であり、たましいのふるさとなのです。
 その上には、神の領域である「神界」が広がります。
 私たちは、なかなか神界へは行けません。そこまで霊格を向上させられる人はほとんどいないのです。多くのたましいは、霊界で自分を見つめ直し、再びたましいの修行を求めて現世へと再生をくり返します。
 「現界→幽現界→幽界→霊界→神界」と高まっていくスピリチュアル・ワールドの階層を、頭に入れておいてください。

  江原啓之『天国への手紙』集英社、2007、pp.62-64

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 46-zzl (死んだあと霊界へ行くまでの状況) 

 中川 霊界の規則では、死んだら直接霊界へ行くことになっています。霊界の下にある幽界という世界は地上界と重なり合っているため、死んだ霊がウロウロしているということがよくあります。
 その霊には二種類あり、まず一つは、死んだら終わり、死後の世界など絶対に信じないという人の霊です。
 実際には死んでいるのですが、自分で自分を見ると肉体はあるし、自分は生きているので、死んだのか生きているのかわからないというものです。これを浮浪霊といいます。今どうなっているのか、どこへ行ったらいいのかわからず、迷っているのです。
 二つ目は、交通事故や戦争などで瞬間的に死んだ人の霊です。あっという間の出来事だったため、自分が生きているのかどうか、よくわからないのです。交通事故で衝突したところまでは覚えているのですが、見てみると車は大破していても自分は五体満足で血も流れていない。「ああ、奇跡的に助かった」と思い、死んだことに気が付きません。しかし、110番したくても電話がなく、何とか知らせようとウロウロしているという霊です。
 小林 死後の世界を信じない人には、社会的地位の高い人もいるのですか。
 中川 いいえ。ほとんどいません。死後の世界を知らないで成功するという人は、まずいませんね。死んだら終わり、死後の世界などないという人は、自分の力だけで行けると思っていますから、たとえ一時的に成功したとしても長続きしないのです。
 ですから、成功している人はほとんど、死後の世界について、ある程度情報を持っていると思います。
 魂が肉体から離脱したときが(本当の)死なのですが、何万例に一回くらい、その抜け出た魂が肉体に舞い戻ることがあります。それを臨死体験と言います。
 普通、肉体から離れた魂は、長くて1週間くらい、その部屋か家にいます。後ろ髪を引かれる思いでなかなか離れられないのですが、その間も、自分が死んだというはっきりした自覚はありません。なぜなら自分自身が完全な姿でいるわけですから。
 そしてベッドの上には自分の遺体があり、「よく似た人が死んでいるな。どうなっているのだろう。もしかしたら私は死んだのかなあ」と半信半疑でいます。よくわかっている人の場合は、その日のうちに霊界へ行きますが、あまり自信のないものは、しばらくウロウロしています。
 とはいえ、遺体も焼かれてしまいますから、1週間以上そこにいるということはまずありません。
 三次元と四次元の間には、次元の壁というものがあります。肉体を離れた魂が、その壁を通り抜けて四次元に行く場合もありますが、およそ半分は、気が付いたときにはもう霊界に来ているということです。
 壁を抜ける体験の中には、まるで掃除機の大きなホースに吸い込まれるようにして行くというものもあります。
 肉体を離れた魂は、その波動の高さにより、まず霊界へ行くか地獄界へ落ちるか、どちらかに分かれます。
 魂の波動は、心の波動が反映したものですから、心の波動が高い人は魂の波動も高く、心の波動が低い人は魂の波動も低いのです。
 地獄界というのは非常に波動の低いところで、宇宙のブラックホールのようにそこへ吸い込まれて落ちてしまいます。

  小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.147-150

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 46-zzm (地獄界とはどういうところか) 

 中川 地獄は、「覚めない夢」というのが一番近い感覚でしょう。地獄界は光のない世界です。波動が非常に低い場合は、気が付いたときには 一寸先も見えない真っ暗な所にいます。もう少しましな人は、たいてい、野原で横になって寝ており、目が覚めると周囲1mくらいは見えるのですが、その先は暗くて見ることができません。
 あるいはもう少し上だと、30〜40m先までは見えるなど、波動の高さによって段階があります。ちょうど海が、海底に近いほど暗く、海面に上がるにつれて明るくなるというのに似ています。
 真っ暗闇に落ちた人は、非常に波動が低いので、まず100年か200年はそのままの状態で抜けられないでしょう。しかし、周囲1mくらいが見えるという場合は、100年くらいしたら上にあがれる可能性はあります。生前にした過ちの一つ一つを反省し、お詫びし続けるのです。
 四次元は時間のない世界ですから、100年といっても、一生懸命にやればそれほど長くは感じないと思います。なぜかと言うと、反省しお詫びをしていくと、だんだん周りが明るくなってきて励みがつくからです。これを、ずっと先が見えるようになるまで続けるのです。
 このような情報を持っていればよいのですが、知らないと「どうなってるのだろう、どうして暗いのだろう、だめだな」と言って、ますます暗闇に入ってしまう可能性もあります。
 また、地獄界は暗い上に悪臭がします。仏教で先祖を供養するときに、まず灯明をあげるというのは暗いからで、臭いのでお香をたきます。そして花を供えますが、花は霊的な光を発しているのです。
 霊的な人が見たら、花から光が出ているのがすぐにわかります。有能な画家はその光《オーラ》を描いているので、生きた花に見えます。そうでなかったら、いくら精巧に描いても造花をスケッチしたように見えます。
 ですから、光を出すために花を供えるわけですが、霊界という世界は、花が咲き、よい香りがして光に満ちあふれています。
 つまり、霊界には線香やろうそくなど必要ないのですから、仏教の習慣というのは地獄界に落ちた人を供養する作法であるようです。下手をすると地獄霊を呼ぶことがありますから、あまりしない方がよいように思います。
 それと、燃える火というのは地獄界にはありますが(火の山や、火炎地獄など)、光にあふれている霊界では、火はあまり必要ないようですね。
 小林 線香やろうそくの火というのは悪臭を消す力があるようですね。死んだ人が、ある程度親切で、明るく素直な人であれば、霊界に行くのですか。
 中川 そうです。普通は霊界に行くようになっています。

  小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.151-153

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 46-zzn (「三途の川」を渡ったあとで起こること)

 波動の比較的低い霊、あるいは死んだら終わりと思っている霊は幽界へ行き、さらに低い霊は地獄界へ行きます。そして死んだら霊界へ行くのだという一般の知識を持った霊は、ほとんどの場合、案内人が現れて霊界の入口まで行きます。
 案内人は、キリスト教徒ならばエンジェルのかたちをした霊人、仏教徒である日本人などの場合は、かすりの着物を着た20歳代くらいの男性か、白い着物を着て髭を生やしたおじいさんです。
 お互いに何も言わなくても意思が通じていて、そのまま霊界の入口まで連れていってくれます。
 俗に言う三途の川は、本当の川ではなく霊界との境のことだと思います。別の表現で言えば、三次元と四次元の境です。この“川”を渡るとき、溺れはしないかとためらったりせず、絶対に渡れると確信して、目をつむって飛び越えれば渡ることができます。
 そして、これを一度渡ってしまえば、もう帰ることはできません。臨死体験というのは、その渡る手前で三次元世界に戻ってきた場合をいいます。
 四次元世界へ行ったときに、人によっては両親や曾祖父など、ごく近い先祖が迎えに来ている場合もありますね。
 それ以外に、諸天善神より少し下(会社でいえば課長クラス)の霊人が来て、いろいろと指導をします。波動の高い魂と低い魂に分けて、別々の道場へ連れていき(実際に道場があるわけではないのですが、そのような夢を見させて)、先生が霊界の心得を話します。
 つまり、ここは魂の世界であり、あなたたちは何をしなければならないか、ということを何日かにわたってゆっくり教えるのです。
 なかには、ある程度波動が高い霊でこのような予備知識がある場合は、道場に入らずに、いきなり、自分の波動の範囲内で好きなところへ行けるというものもあります。そして、例えば花の好きな霊は花を栽培するとか、将棋の好きな霊は将棋を指すとか、動物の好きな霊は山羊や羊を放牧するなど(実際にやっているわけではないのですが)、自分の好きなことを仕事とし、仕事を通して魂を向上させています。
 その何十年か何百年かの間に輪廻転生の準備をしたり、諸天善神になる出世コースを選ぶなどします。
 諸天善神になるためには、何回も輪廻転生しなければなりませんが、輪廻転生するかどうかは、自分の魂ではなく、上の方で決めます。
 輪廻転生したくないと言って、100年、200年そのままの霊もあるようですが、その場合は諸天善神にはなれず、万年平社員のようなものです。
 しかし、もともと魂は向上するようにできていますので、ほとんどの魂は目覚めて諸天善神になって、一生懸命に修行するようですね。(中川)

  小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.155-157

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 46-zzo (幽界や霊界へ行ったり来たりする)

 小林 中川さんは幽界や霊界と行ったり来たりできるのですか。
 中川 肉体は三次元にいて、意識だけが幽界や霊界に行くのです。熟睡の一歩手前の状態になりますから、楽な椅子に座り、ひっくり返らないようにします。電話などの音も聞こえなくなります。
 霊界というのは、昔の士農工商のように縦の組織が厳格に決まっているところです。これは波動のレベルによって決められているので、私が瞑想するときも自分の波動に合致したところへ行きます。
 自分の波動はコントロールをすれば、低い場所へは行けますが(地獄界を見ることはできますが)、自分の波動より高いところへは行けないのです。
 小林 守護霊は、「霊団」だと言う方もおられますが。
 中川 いいえ、守護霊は一人です。生まれたときから死ぬまで、その人に専属で付いています。
 それから、指導霊というのがあります。その人が専門職を持つ場合に、守護霊とは別に付く霊です。例えば、医者には医者の指導霊が、絵かきには絵かきの指導霊が、音楽家には音楽家の指導霊がそれぞれ付いているのです。
 プロとアマチュアの違いは、指導霊が付いているかいないかにあります。プロには指導霊が付きますが、アマチュアには付かず、そのことをよく知っているという程度にとどまります。
 守護霊や指導霊という言葉は、万国共通ではありませんが、はかに名前がないので、わかりやすいように仮にそう呼んでいるのです。ただ、双方とも人間ではなく、霊であることは事実です。
 守護霊はその人の要求を察知し、必要と思えば指導霊を連れてきます。いくら本人が要求しても守護霊が必要でないと判断すれば、指導霊は付きません。
 小林 指導霊は替わることもあるのですか。
 中川 はい、替わることが多いですね。専門職を持つ本人の要求を満たすために付く霊ですから、その要求が変われば指導霊も替わります。
 一生同じ職業である場合はそれほど替わらないと思いますが、それでも、守護霊のようにぴったり付いているわけではありません。ある程度指導をして本人の技術が上がり、目的を達したと思えば帰っていきます。
 あるいはさらに高いレベルの指導霊と入れ替わるということもあります。ですから、名人や達人と呼ばれる人は、おそらく2〜3回、指導書が高いレベルに替わるのだと思います。
 小林 普通の職人と、名人や人間国宝と言われる人たちとでは、指導霊のレベルが少し違うということですね。
 中川 そのようです。
 小林 霊界と交流していて、何か分かったことがありますか。
 中川 私は生まれる前、霊界の菩薩界にいて、菩薩として仕事をしていたらしいのです。人間は死ぬと霊界へ行くことになっていますが、中には幽界でウロウロしていて来ないもの(浮浪霊)もおり、それらの霊を集めて、霊界へ上げるという仕事を何百年とやっていました。
 ただ、異次元では強制するということは一切なく、本人の意志を尊重しますので、わかるまで教育はしますが、わからないものはそのまま置いておきます。
 時には地獄界まで行き、そこから上げるということもありました。
 地獄界というのは、非常に波動の低いところです。宇宙のブラックホールのようで、波動が低いために光が伝わらず真っ黒の「もや」に包まれたような世界です。
 そこに落ち込んだ魂は、低い波動の持っている情報の世界に入ります。その情報とは、非常な苦しみとか、死の苦しみといったものですが、例えば、火の山地獄や血の池などは実態はないのに、本人の想念がつくり出したものです。
 怖い夢を見て永遠にその夢から覚めることがないという世界なのです。
 一説によると、地獄界というのは地下10kmにあるらしいのです。そして地上から80 kmくらいの間に幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界の順で層をなし、地球を取り巻いています。
 これらは波動の世界であり、上に行くほど波動が高くなります。ですから、異次元世界は地球と一緒にあるのです。
 幽界というのは、「人間は死んだら終わりだ」と思っている人が行く世界です。場所は人間が生きているのと同じところで、行動も思想もほとんど瓜二つです。
 その上の霊界は、「死んだら行く場所がある」という情報を持っている人が、そのままここへ来ます。情報のない人は、しばらくわかるまで幽界にいますが、わかったらすぐに上がってきます。
 如来界までは、もと人間であった魂が行く世界であり、魂の波動が上がれば自動的に上の世界に行くようになっています。これは、生まれ変わりの回数そのものには関係ありません。生まれ変わって波動を上げる人もいますが、あまり変わらない人もいますので。
 如来界の上には太陽界というのがあります。これはもと人間ではなく、宇宙を創造した神々のエネルギーや意識の世界です。

  小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.197-201

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 46-zzp(霊界では次の転生のための準備をして新たな努力目標を立てる)

 霊界での生活こそが、霊の本来の生活であり、最終的な生活であって、霊体は決して滅びることがない。肉体に宿った状態というのは、一時的な、仮の姿にすぎない。地上での仕事を通して実現された進化の成果は、霊界において刈り取られる。そして、霊界においては、次の転生において解決すべき課題のための準備をし、新たに遂行すべき努力目標を立てる。
 もちろん、霊界での生活を通じても、霊は向上できる。地上では獲得することのできない特別な知識を得ることができるからである。地上で身につけた考え方を変える必要もある。
 肉体に宿っての生活と、霊としての生活は、それぞれ関連しており、ともに進歩のために必要とされる。だからこそ、代わる代わる、その二種類の生活を繰り返すのである。
 以上のようにして、霊は徐々に進化していき、ついには至福の状態に至る。
 しかし、最終的な至福に至る前であっても、その境涯に応じた幸福感を味わうことは可能である。それは、ちょうど、人間が、幼年期、少年期、青年期に、それなりの楽しみを感じ、最終的には成人としての確固たる楽しみを得るようになるのと同じである。

   アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
      幸福の科学出版、2006、pp.304-305

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 46-zzq(霊界では霊格に応じて仕事と使命が与えられる)

 至福の状態にある霊たちは、伝統的なキリスト教において、しばしば言われてきたように、「何もせずに瞑想ばかりしている」というわけではない。霊界においては、それぞれの境涯に応じて、霊たちは忙しく活動している。もっとも、いくら活動したからといって、地上におけるように疲れるわけではないが。
 高級霊界においては、すべてが燦然と輝いている。それは、いかなる人間的な言語によっても表現不可能であり、どれほど豊かな想像力をもってしても思い描くことはできない。
 そこには、すべてを真に深く知ることの喜びがある。苦痛はいっさい存在せず、心は完全な安らぎに満たされ、何ものによっても、それが乱されることはない。至純の愛が、すべての存在を結びつけており、意地悪な者がいないので、いやな思いをすることはあり得ない。すべてを神の視点から見ることができ、また、数々の神秘が明かされる。
 さらに、さまざまな使命が与えられ、それを遂行する幸福を味わうことができる。
 最高の霊域にいる霊たちは、ある場合には、救世主として、または、神の意を体現する者として、神の意志を伝え、さらに、それを実現すべく働くのである。大いなる使命を果たし、惑星の創造にかかわり、宇宙の調和のために、みずからを捧げるが、そうした栄えある仕事は、完成の域に達した霊にしか任されない。最高の次元に達した霊たちだけが、神の秘密に参入することを許されており、神の考えを直接受け取って、人間たちに伝えることができるのである。

   アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
      幸福の科学出版、2006、pp.305-306

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 46-zzr(最も重要な使命はそれを遂行し得る霊に神から委ねられる)

 霊たちが与えられる権限は、その進化の度合い、保持する光の量、能力、経験、そして、「至高の主から、どれだけ信頼されているか」による。能力に見合わない特権や待遇は、いっさい存在しない。すべてが、厳密な公正さによって測られるのであり、ごまかしは、いっさい通用しない。
 最も重要な使命は、それを必ず遂行し得る霊に、神から委ねられる。神は、絶対に失敗しないと思われる霊にしか、そうした使命を任せない。また一方で、神の監督のもとに、最高大霊たちが会議を開き、地球規模の問題を解決するために協議するのである。そうした中には、他の惑星にかかわる霊たちもいる。
 さらに、それよりも下の段階の霊たちに、霊格に応じて、順次、より容易な仕事が任されていく。それは、たとえば、諸民族の進化にまつわる仕事、家族、あるいは個人を守護する仕事、大自然の作用への介入から、微細な生物の調整まで、さまざまなレヴエルにわたる。地球という広大な生活空間を調和あるものとするために、能力、適性、意志に応じて、無数とも言える仕事があるからである。
 そして、そうした仕事は、熱心に願い出た霊に委ねられるが、全員が喜びをもって受け止める。というのも、常にみずからを高めようとしている霊にとっては、そうした仕事こそが進化のよすがとなるからである。
 高級霊たちに委ねられる大いなる使命のほかに、あらゆる段階の仕事があり、それは、難易度に応じて、さまざまな境涯の霊たちに委ねられる。したがって、各人が、それなりの使命を与えられて、同胞たちのために、それを遂行することになる。
 たとえば、一家の父親であれば、「子供たちを向上させる」という使命を与えられるであろうし、天才的な人間であれば、「社会に新たな要素を投じて進化を促す」という使命が与えられるであろう。
 たとえ失敗しても、個人のレヴエルにしか影響を与えないような使命において、しばしば、失敗、違反、放棄などが生じることがあるが、全体に影響を及ぼすような使命は、まず完遂されるのが普通である。

   アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
     幸福の科学出版、2006、pp.306-307

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 46-zzs (あの世へ帰ってからも私たちの切磋琢磨は続く)

 私たちが死んであの世へ帰ると、あの世の入口では、自分自身と縁のあるたましいが必ず出迎えてくれます。これが、あの世での最初の「面会」です。自分より先に死んでいった人たちのなかから、もっとも親しかった人、もっとも心を許せる人、大好きな人が先頭を切って出迎えてくれるのがふつうです。
 その後も、会いたいたましいとはいつでも面会することができます。そのときのお互いの関係は基本的にはこの世にいたときと変わりません。ただ、この世という場所で会うのとはわけが違います。「じゃあ呑みに行こう」とか、「みんなで集まって遊ぼう」といった俗っぽいものではないのです。
 あの世に行くと、そこはもう物質界ではないので、意識が変わります。たとえばこの世のようにお金を得る必要がありません。ということは働く必要がないから、人に対する競争意識もなくなります。社会的立場もありません。だから自然体で向き合えるのです。
 低い階層には、まだ現世的な意識を持ち続けているたましいが多いので、人に負けたくないという情念も残っていますが、一定以上に浄化されたたましいの階層では、素のままでつき合えるようになります。
 そもそもあの世は、嘘や秘密が通用しない世界です。テレパシーでお互いの心のなかまで見え見えなので、隠し立てが利きません。だからもう飾る必要もなく、開き直ってざっくばらんに語り合えます。
 この世のことにたとえると、同じ会社を退職した同僚と久しぶりに会うようなもの。勤めていた当時は立場があったため、言えないこともあったし、競争意識や見栄もあった。けれど、退職した今となってはそんなものはもう関係ありません。遠慮もタブーもなく語り合えます。
 「あのとき実はさ……」と本音も言い合えます。あの世でかつての友だちなどと面会するのは、これとよく似ています。
 あの世に帰ったたましい同士のつき合いは、とても気楽なものです。ともに人生をただふり返り、あのときはこうだったよね、ああだったよね、こうすればよかったかな、などと会話しながら、内観を助け合います。
 先にあの世に帰ったほうが、あとから来たほうにアドバイスすることもあります。二人のうち波長の高いほうが、上の階層の様子を相手に教えることもあります。すると下の階層にいるほうは、自分もがんばって早く浄化向上し、上に進もうと思うものです。
 このように、あの世に帰ってからも、たましい同士の切磋琢磨は続くのです。絆が永遠ということは、切磋琢磨も永遠に続くということにほかなりません。

   江原啓之『人間の絆』(小学館、2007)pp.183-185