学びの栞 (B) 


 48. 公平・不公平


 48-a (
神は善事をなしている者に決して不幸を与えない

 ―私は努めて愛の行ないに励み、感謝の気持で日々を過しているつもりですが、次から次へと病気や不幸が絶えませんが、この場合、いったいどうしたらよいのでしょう。

 善事をしつづけながらも、なかなか不幸な出来事が消えぬような人もたくさんある。しかし、これは憂うべき事態ではなく、その人自身や、一家一族の進歩してゆく姿なのである。それは、過去世から蓄積されてある、その人または、祖先の悪因縁が、その人の時になって、表面にはっきり現われ、次々と消え去ってゆく姿だからである。人間には、肉体の世界以外に、幽界、霊界の世界があるのだから、一番苦しみの軽い肉体界で、過去世の蓄積された業因縁をでき得るかぎり消滅し去っておいたほうが、その人や、その人の祖先、または子孫のためにも幸福である。従って、善事をなせばなすほど、不幸な出来事が、より多く現われる場合もある。しかし、それは真の不幸ではなく、潜在していた不幸が、いち早く現われたに過ぎず、その不幸が、より長く潜在していて現われぬと、その人自体が現在味わっている不幸の何層倍かの不幸になって、やがて現われてくるのである。であるから、どんな不幸が現われようと、この現れによって、自分及び、祖先の業因縁が完全に消え去ってゆくのである、と堅く信じなければならない。神は善事をなしている者に、決して不幸を与えるわけがないのである。絶対にないことを私は明言する。従って、その人は、自己の想念や、行為を、よく内省して、どう考えても自己の想念、行為に間違いなし、と信じられたら、そのまま、業の消えてゆく姿である、これから必ず良くなる、と断乎として思うべきである。その勇気こそ、その人を救い、その人の周囲を救う祈りなのである。
 といって、今生で、あまり不幸に会わぬ人は、幽界で必ず苦しむか、というと、そうではない。過去世に善行をたくさん積んであった人は、今の現世で、あまり不幸に会わぬことになる。たいして才能もなさそうな人が、意外な金力に恵まれ、名実ともに幸福な生涯を終る場合もある。これらは、過去世の善因緑の結果であるから、幽界に行って苦しむ、とは限らない。現象の人間は、過去世の因縁、プラス、現在の想念、行為がその人の運命を定めるのであるが、これが、また未来の運命とも深い関係をもつことになるのである。ただ、人間の真の姿は霊であって、業因縁に捉われるような者でなく、自由自在であると観じ、いかなる業因縁の動きにも、超然としていられる心境になれば、現象の不幸は忽然と消え去って、再び現われなくなるものである。そして、その人は業因縁の輪廻を超えた神の世界に入り得るのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.95-96

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 48-b[19-g] (不公平な出来事に抗議してもなんの役にも立たない)

 明らかに不公平と思われる出来事に抗議したり、問題にしたりしても、なんの役にも立たないように思われます。そのような病気の原因は、病気にかかっている人の親切でやさしい性質よりも、ずっと深いところに根ざしているのです。その原因は、病んでいる人の現在の人生を越えたところに起因しており、その根っこは現在の人生の外面的な部分に見出すことはできないのです。
 熱と同じように、苦しみは洗浄の先駆けとなるものであり、一つの過程の終りを告げるものでもあります。懐疑論者は人が昼も夜も苦しむのを見て、感傷主義者が猫に掴まったネズミを見て示すときと同じ反応を示すかもしれません。彼らは、病気に苦しむ人がやがてもたらすことになる、がっしりとした根や美しい花などというものを考慮に入れようとはしません。
 したがって、懐疑論者は、人間の内部にうごめくより豊かな生命力の根源については無知のままであり続けるでしょう。この内なる生命は、病気や苦しみを通して耕された土壌に、元気よく、美しく芽を出すことになるのです。懐疑論者は人間存在の表面だけを見て、表面のみを知るにとどまるでしょう。人間の魂の真の生命は、懐疑論者に見えることはありません。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.262-263

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 48-c[13-s] (人間は生まれながらにして霊的進化の程度に差がある)

 いかなる社会においても、精神的・物質的に持ちものに多い少ないの差があるのはやむを得ないことである。完全な平等を夢見るのは間違いである。その理想は人間が生まれながらにして霊的進化の程度と能力と体力に差があるという事実を無視している。
 機会の均等は可能であろう。が、その機会をどう生かすかは本人の健康と体力と知力と想像力、それに、それまでに開発した霊的意識の程度にかかっている。
 ある人は健全な身体と明晰な頭脳を具えているが、霊性の点では至って貧弱で、血のしたたるようなステーキを食べ、色事が大好きで、他の人間や動物の問題には無関心で、ましてや生きる目的だの来世だのはどうでもよいことである。
 一方、生まれつき身体が不自由で家も貧しく、視力または聴力といった大切な機能が欠けているが、霊性は成熟しており、生命の尊厳に目覚め、幅広く徳積みに励む人もいる。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 125-126

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 48-d (生まれた時からお金に不自由しない人もいる不公平)

 (雑誌記者)― 江原さんは貧乏生活から見事に抜け出したわけですが、世の中そう甘くない。「どうして自分はカネに縁がないんだ」と嘆いている人は多いと思います。
 江原 そういった発想自体が間違っています。そもそも、お金のあるなしで人と自分を比べでも仕方がないでしょう? 金銭感覚というのはさまざまで、一〇〇万円を大金だと思う人もいれば、一億円あっても足りないと思う人もいるわけですから。
 ― でも不公平じゃないですか。生まれた時からお金に不自由しない人もいるわけで。
 江原 ではお聞きします。それが本当に幸せなことと言えるでしょうか? お金をめぐる骨肉の争いの話をしましたが、お金持ちにはお金持ちの試練がある。そもそもスピリチュアリズムの真理では、子どもは親を選んで生まれてきます。貧しい家庭に生まれた子どもには、お金のありがたさを学ぶとか、貧しさをバネにたましいを磨く課題があると言えるんです。貧乏であることは、何も恥ずかしいことではないんですよ。
 ― しかし一生報われず、貧乏暮らしというのも切ないものです。
 江原 そういう人は、お金で苦労しているとはいえ、試練の度合いが中途半端なのかもしれません。徹底的に苦労した人というのは、成功したい! という念力が強い。テレビ番組では芸能界の方々を霊視する機会も多いのですが、小さいころは食事もままならないほど貧乏だったと話す人は、決まって情熱を示す赤いオーラを強烈に放っているんです。
 ― あー、オーラは視えないけど、それはなんとなく頷けますね。
 江原 厳しいことを言うようですが、貧乏がつらいのにその生活から脱することのできない人は、本人に責任があると思います。病気で働けない人は別ですが、貧しいのが嫌なら働けばいいんですから。
 ― しかし、「働けど働けど」ということもあるじゃないですか。「じっと手を見る」みたいな。
 江原 それは高望みをするからです。食べていければそれでいいじゃないですか。立派な家に住みたいとか、海外旅行に行きたいなど、贅沢を望んだり他人が持っているものを羨んだりするから苦しくなる。
 ― だって羨ましいですよ。おいしいご飯食べて、いい車に乗って。
 江原 でも考えてみてください。お金をたくさん持てば、その分の苦労もあるんです。先ほどの骨肉の争いもそうだし、お金だけあって使い道がなければ寂しい人生でしょう。物事は一面だけを見てはいけません。たとえ贅沢ができなくても、分相応な暮らしの中でどれだけ幸せを見出せるかが大切です。
 ― 分相応の暮らしですか……。
 江原 ええ。身の丈以上を欲するとそれもカルマになります。そもそも貧しいと思うかどうかは、心の問題ではないでしょうか。幼いころに父を亡くしたこともあって、わが家は決して裕福ではありませんでした。けれど母親は「ウチは貧乏だから」とは絶対に言わなかった。たとえば夕食のおかずがメザシ一本だったとして、「今日もメザシだけ?」と思うんじゃなくて、「このメザシ、おいしいー!」と思えるか。その違いが大きいんです。
 ― なるほど。貧乏に対するコンプレックスは親の教育次第だと。
 江原 そう思います。普段は質素でも、給料日にはすき焼きを食べたりして、これがすごくおいしかった。幼いころの楽しい思い出です。毎日、豪勢な食事をしていたら、あの幸福感を味わえなかったと感謝しています。

  江原啓之『江原啓之 本音発言』講談社、2007、pp.204-206

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 48-e (この世の生活で他人を羨むことは無意味である)

 この世を生きるたましいという意味では、「この人は気の毒だけれど、この人はそうでもない」という差はありません。カリキュラムが違うだけで、全員が同じです。
 見た目でかわいそうだという決めつけを、あなたはしていませんか?
 「あの人は幸せそうなのに、私は不幸」というように比べていませんか?
 たとえ幸せそうに見える人がいたとしても、あなたはその人の人生すべてをつぶさに見続けているわけではありません。一瞬の「よい時」だけを見ているにすぎないのです。それより前も、これから先も見ないで、「幸せ」と決めつけられるわけもないでしょう。
 人には「肉の年」と「たましいの年」があります。肉の年とは現世での実年齢のこと。たましいの年とは前世も含め、どれだけたましいが経験と感動を積んでいるかの度合いです。
 ですから肉の年では大人といえるような年齢でも、たましいの年は幼稚園児ぐらいということも珍しくありません。幼稚園児に向かって「あの子たちって、毎日、お遊戯ばっかりしていてズルい」というのは大人げない発言。たましいの年が幼ければ、お遊戯でさえ精一杯の学びなのです。
 つまり、肉の年ではなく、たましいの年で見た、その年齢にふさわしい段階が、それぞれにあるということ。そういう意味でも、人と比べることがいかに無意味かがわかります。
 また、見た目ではわからないのがたましいの年。肉の年ではわからない、学びとカリキュラムが誰にでもあり、みんなが精一杯生きているのです。 

    江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、pp.139-140