学びの栞 (B)
50. 業・カルマ・因果律
50-a [74-a] (人の一生は後天的に変わりうるか)
人の一生は過去生の因縁によって、大体定まっているものであるが、その人が、守護霊、守護神に素直である場合、または善なる意志力の強い場合、祖先や父母が人を救っている場合、等の場合は、後天的に運命が修正される。
私が常に人々にいうのは、守護霊、守護神に、いつも感謝し、祈っていなさい、ということなのである。守護霊、守護神といっても眼に見えるわけではないから、そんなことといってしまう人はそれまでで、素直に感謝していれば、それは直接神への感謝になるので、自分の過去世から犯して来た、悪行為、悪想念などから割り出されて一度び定まっているその人の悪い運命も(善い行為、善想念による善い運命は、そのまま喜べることで、別にいうことはない)悪縁に触れず、その果の出ぬように、出ても、不幸が軽く済むように、導いてくれるので、そのまま、運命は修正されてゆくのである。これは、神に素直である人の救われの道である。
意志カの強い場合、これも真理に素直であることが根抵にないと、意志カだけでは、定まった運命のままに、一生を終ってしまう。
善いといわれ、自分も善いと信じたことを、その意志カにものをいわせ、徴底してやってゆけば、運命は変わってゆく。
祖先や父母が人を救っていた場合は、この救われた人びとの感謝の想念が、自然に、その子孫の因縁の現れを弱めてくれる。また、その救われた人が霊魂である場合は、霊界から直接応援して、守護霊のように、その人を導いてくれる。これは、その人の努力とは別個に、運命修正のカとなる。
その理を知らなくとも、人間は、愛と真の行いをして、人を救い、自己を裁くことをも止めれば、運命は善くなってゆくのである。
五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
1988、pp.81-82
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50-b[25-e] (カルマ的つながりは必要性を宗教的に説明しているにすぎない)
―最近、私の人生に現れた二人の人がいるのですが、私の人生に関わった彼らの目的を知りたいのと、私たちはこれまでの生で一緒だったかどうかが知りたいのです。
彼らがあなたの人生に関わる理由は、あなたが彼らにそうしてほしいと望んでいるからであり、同時に彼らもそこにいたいからです。それ以上に偉大なる目的があるでしょうか?
―でも、私は彼らにいてほしいのかどうかわからないのです。もしかすると、何か互いのカルマ的つながりのためにそこにいるのであって、お互いに何か学ぶべきことがあるためなのではないかと思ったりしているのですが。
主よ、もしもその関係に何か足りないと感じているなら、ひょっとして過去生で一緒だったかもしれないというロマンチックな考え方は、いまの状態よりもあなたたちの関係をずっと素敵なものにしてくれるのは確かでしょう。でも、「カルマ的つながり」と呼ばれているものは、実はきわめて単純な「必要性」という言葉を、宗教的に説明しているにすぎないのです。ずっと続いていくあなたの多くの生を通じて、あなたはたくさんの人々とともにいる必要があるし、それを望み、楽しみたいのも確かです。でも、もし同じ友人が何度も何度も繰り返し現れたならば、それは実に凡庸で退屈、つまらないものとなってしまうことでしょう。もし彼らがいまそこにいるのなら、ひょっとすると、これに関して学ぶことは、とにかくもう一度一緒になり、やがては別々の道を行く必要があるのだと気づく、ということだけなのかもしれません。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 191-192
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50-c[25-f] (皆がカルマと呼ぶものは神の法ではない)
―なるほど。言わんとしていることはわかるような気がします。でも、カルマについてはもうひとつ質問があります。たとえば殺人とか強盗とか事故などがある人に起きるのは、過去生でした何かとのバランスをとるために、カルマを満たしているのだと教えられました。カルマの法則について、どう考えているか聞きたいと思います。
あなたに知っておいてほしいこと、そして皆にもわかってほしいことがあります。それは、皆が「カルマ」と呼ぶものは、神の法ではないということです。それを信じる人たちの法なのです。残念なことに、この理論を信じている人は山ほどいて、彼らは皆、完璧という幻想を得ようとして一生懸命骨を折っています。そして、ひとつの生でしたことは、どんなことでも、次の生に戻ってきてその代償を払わなければならないと信じているのです。自分に起きることはすべて、いつも「カルマを満たすため」になってしまうのです!主よ、でもこれは人の生についての説明としては、あまりに拙劣です。生には、もっといい説明をしてあげる価値があるのではないでしょぅか。カルマの法則は確かに現実ですが、それは信じる人たちにとってだけのことです。法で存在するのは、あなた自身が自分の世界で有効だとしたものだけなのです。真の意味で法を与えられる者は、個々の至高なる存在だけです。それは一人ひとりが責を受け容れる自我を持っているからであり、その人が真実と呼ぶもの、自分の存在における法としてつくり出すものは、何でもそのまま現実となるのです。こうして、多くの人間が、信念や、このように屈折した考え方を通して、自分たちのために、バランスの法則、あるいは「完全なるもの」の法則をつくり出したのです。
カルマを信じることを選ぶなら、もちろんあなたは自分のつくった法に支配されることになるでしょう。その信念に力を与えたからです。そうすると、もちろんそれはあなたの人生で効力を発します。そして、何度も何度も戻ってきては、この地上界での前生でした行為を取り消したり、それを称賛したりを繰り返すことになるのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 192-193
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50-d[25-g] (カルマは存在せず気まぐれな欲求だけが存在する)
私は、カルマ、あるいは完璧という概念を認めませんが、それは、私がそうしたものをひとつの限定要素として見ており、何かの結果得られるよろこびとは考えないからです。カルマという制限された状況を通じ、完璧をめざして躍起となっている人たちは、その目標を得ることはけっしてないでしょう。なぜなら、ひとつのカルマを満たしていても、それは同時に新たなカルマをつくり出すことになるからです。そして、受け容れる側ではなく、つねに義理を負う側に身を置き、そこに安住することになるので、幾度の生を経たとしても、「在るということ」の状態、神の状態にはけっしてなれないのです。完璧というものはありません。あるのは、「在るということ」だけです。生の「在るということ」では、一瞬ごとにあらゆるものが変化し、進化していきます。ですから、完璧な状態というのは、けっして達成されはしないのです。
私が認めるのは「在るということ」だけです。そこには、自己、つまりは神が進化していくのを抑えてしまう法律や理想は、まったく存在しないのです。「在るということ」の叡智では、自分のしたいこと以外、人生でしなければならないことは何もありません。カルマの教えを受け容れるならば、それは自分の経験のためにするあなた自身の選択であり、創造であるのです。しかし主よ、あなたは同時に限られた力と仕返しという幻想をつくり出してしまったことも知るべきです。カルマと呼ばれるものを受け容れるとそういう運命になり、自分自身の限定された考え方による囚われの身となるのです。
あなたは自由な魂であり精神なのです。あなたはその瞬間、自分の好きな真実、現実、あるいは幻想を、自由に創造し体験できるのです。そして、いつの瞬間にも、自分が望めばあなたはこの夢をあらためて創造し直すこともできます。あなたにはそれをする限りない力があるからです。
カルマは存在しません。欲求は存在します。そして欲求はとても気まぐれです。いつの瞬間にも、それが望むときに何でもできるし、何にでもなることができるのです。そしてそれは、何かになっている真っ最中に心変わりをすることもあり得るのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 193-194
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50-e[25-h] (あなたが自分の運命を支配し自分の人生を創造している)
殺人、事故や強盗などは、懲罰ではありません。以前あなたがしたことへの「償い」ではないのです。それは、思いをめぐらした思索の結果、あなたの手で創造されたものであり、思索された体験なのです。それは永遠のものでも永遠の状況でもありません。ですから、より大きな叡智の中では、それはひどいことではないのです。振り返ってみると、すばらしい師でもあるのです。
あなたは、一万人もの無実な人々が殺されるのを見て、こう言うかもしれません。「何とひどい惨状だ。この残虐行為に、なぜ天使たちは涙を流さないのか? なぜ神の栄光を謳い上げたりできるのか?」と。それは、天使たちは生命がいつか終わると信じて自分を限定することがないからです。殺された者たちは、さらなる学びと体験、つまり私が冒険と呼ぶもののために、直ちに皆が「天国」と呼ぶ場所にとどめられます。そして、あなたはその一万人の死体を埋葬し、その死に涙を流すかもしれませんが、神は泣くことはありません。明日がいつも必ずやってくるのはこのおかげなのです。
誰があなたの運命をつくり出していると思いますか? 多くの人々は、ひとつの至高の存在が皆を操り、すべてのことを起こしていると信じています。そう信じていれば、自分自身の人生の責任という肩の荷を降ろすことができるからです。しかし、あなたが自分の運命を支配しているのです。あなたが、この瞬間に考え感じることによって、あなた自身の人生のあらゆる瞬間を創造しているのです。あなたが学ぶべきことはただひとつ、この瞬間、このいまこそが、まさに永遠そのものなのだということです。それは途切れなく続いているのだということです。そしてこのいまという瞬間の継続性の中では、あらゆる瞬間がまったく新しいものなのです。それは昨日にとらわれているわけではありません。あなたが明日のことを夢見て現実化していくためにつくり出したのは、まさにこのいまなのです。つまり、この瞬間、あなたは何でも好きなことができる自由があるのです。それが父なる存在のあなたへの愛なのです。それが、一瞬一瞬を新しく創造していく力と自由という、父が与えてくれたものなのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 194-195
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50-f[25-i] (あなたは過去の行為について償いをする必要はない)
誰も過去に支配されている人はいません。一瞬前だろうが、千年前だろうが、あなたがしたことについて償いをしなければいけないなどということはありません。いつのことについてもです。ある行為をした瞬間、あなたはひとつの理解を得たのであり、そこで学ぶべきことへの気づきを得たのです。
過去は、そのときに体験されたいまという瞬間にすぎず、もうここにはないのです。現在との関連と言えば、あなたがすでにそこから学べることをすべて学んだということだけです。つまり、あなた自身の内奥の思考過程と、明確な目的を持った計画にしたがって自分の力を最大限に発揮してこの瞬間を創造する智慧を過去はあなたに与えてくれたのです。
主よ、でもその過去はもう終わっているのです。それはもうここにはありません。過去は、智慧としてのみ、このいまの瞬間あなたの内面に生きているのです。過去のおかげで得られたのはそれなのです。だからこそ、このいまという瞬間のあなたは、これまでの人生で最も偉大なのです。なぜなら、このいまという瞬間、あなたは過去のいまよりも、「知っているという状態」にさらに深く進んでいるからです。この瞬間のあなたは、あなたの知識の蓄積すべてなのです。体験を通じて得られた知識、生という美徳を通じて得られた体験すべてであるのです。そして、自己を表現するすべての瞬間を、あなたは新たにつくり出しているのです。それは、感情の世界へ、そしてすべての体験の中で真珠のごとく光る智慧へと分け入っていく新しい冒険なのです。
実際に存在しているのはいまだけなのだと気づくと、あらゆる瞬間に、自分の魂の内にあるフィーリングが強く求める冒険を生き、偉大なる智慧にむかって自分を広げていくために、これまでないような体験をどんどんしていくという生き方をどうしても選ぶようになります。
あなたがこの地上界に戻ってきたのは、何か自分が思い出せないようなことを「解決する」ためでもないし、誰もそれが何だかわからないような、「自分がすべきこと」をするためでもありません。それなのにあなたは完璧を求めるように言われているのです! いつも混乱している状態にいたら、いったいどうして何かを達成できるというのでしょうか。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 195-197
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50-g[36-c] (あなたは自分で選んでこの地上に戻ってきた)
あなたがここに戻ってきたのは、自分でそれを選んだからであり、自分で選んだ身体を通してやってきたのです。あなたの母親の卵子と父親の精子から、この「創造する幻」という次元で自己を表現するために自分の身体をつくり出したのです。前にしたことの帳尻を合わせるためにここに戻って来たのではなく、固体という存在を通して進化し、この次元での体験から得られる感情の中で自分を完成させるためなのです。
あなたがここにいるのは、それがどんなところであろうと、自分がいたいからそこにいるのだ、ということを学ぶためです。叡智を学び、生の場でそれを実践するために、あなたはここにいます。この人生で(また、これから自分が望むだけ繰り返す幾度の人生でも)、あなたがここにいるのは、この幻を生き、魂が叡智という命を満たすのに必要なすべてを体験するためです。そして、この次元での体験から豊かな感情を得たとき、あなたはもはやここに戻る必要もないし、そう望むこともなくなります。そして、自分がいつここでの体験を全うしたのかを判断できるのはあなただけです。ほかに誰もいません。
主よ、あなたは神になるためにここにいるのです。そして神になるためには、自分の存在からすべての法律、すべての宗教的な教義、すべての儀式的な慣行を取り除き、思考過程を限りないものにしなければならないのです。自己表現の無限の自由、けっして死ぬことのない身体、そして存在の平穏とよろこびを望めば、あなたがいま生きている生は完全に無限のものであることを知るでしょう。それをあなたが知ったとき、生は無限になるのです。なぜなら、自分の存在の中で真実として知ったこと、望むことはすべてそのとおりになるからです。あなたが自分の世界で受け容れる必要のある法は、これだけです。
自分は永遠の存在であること、これまでも失敗は何ひとつないこと、そしてこれまであなたがおかしたたったひとつの間違いとは、何か間違いをしたと信じたことだということを知りなさい。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 197-198
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50-h[42-j] (時には魂は最も忌み嫌うものに生まれ変わって愛を学ぶ)
特定の人種や宗教に次の転生で生まれて来るための最も確実な方法は、その人種や宗教を公然と差別することです。憎しみはあなたをそのグループへと運ぶ急行列車なのです。時には魂は、最も忌み嫌うものになることによって、愛を学びさえします。
カルマは学びであって、罰ではない、ということを覚えておくのは、とても大切です。両親をはじめとして、私達が出会う人々は、自由意志を持っています。彼らは私達を愛し、助けることもできれば、私達を憎み、傷つけることもできます。彼らの選択はあなたのカルマではありません。彼らの選択は、彼らの自由意志の現れです。彼らもまた、学んでいるのです。
魂は時には、特別に厳しい人生を選びますが、これは自らの霊的な成長を促進するためか、または同じように困難な人生を生きている他の人々を助け、導き、元気づけるための行動です。困難な人生は罰ではなく、むしろチャンスなのです。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、p.86
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50-i[43-g] (自動車事故などでの突然の別離をどう捉えるか =1=)
いつかわたしたちは霊の故郷に帰ります。それは間違いありません。けれども、どのように現世を去り、どこへたどりつくか、それは個人によってさまざまです。たとえばヴェトナムで爆死したマイクのように、なんの前触れもなく悲劇的に肉体を離れていく魂もたくさんあります。しかし、残念ながら自動車事故で亡くなる人はもつと多いのです。霊界と現世を取り次ぐ仲介者として、わたしは事故で亡くなった人びとの思いをこれまでにもいろいろ受け取ってきました。なぜこのような痛ましい出来事が起きるのか、ここで説明しておきましょう。
まず第一に、偶然の事故というものはありません。こうした出来事は、因果という霊的法則、すなわち、カルマが直接に反映した結果なのです。次のような例を考えてみましょう。ある男がパーティーに参加し、自分の意志で酒を飲もうと決断した。やがて充分に酔いがまわり、そろそろ帰ることにして車で家路についた。同じころ、映画を見終わったカップルが家に帰ろうとしていた。酩酊した男の視野はぼやけ、対向車に気づいたときはすでに手遅れだった。彼はカップルの車に激突し、この男女は即死した。
この場合、死とは、酒を飲むという男の決断が招いた結末であり、結果です。男の酩酊状態が事故を引き起こしました。彼のせいでカップルの命が散りました。これはカルマ的状況です。カップルが死んだので、別の転生でこのバランスを取らねばなりません。言い換えれば、わたしたちの行動には、現世もしくは別の転生において、ポジティブにしろネガティブにしろ同質の報いが返ってくるということです。因果の法則は全宇宙の普遍の法則であり、カルマ的行動や神の恩寵によってあらゆる体験に解決がもたらされます。
一見して偶然の事故に見えるものも、あるいは、自然災害でさえ、必ずしも見た目どおりとはかぎりません。物事の基本にはカルマ的責務があるうえに、一個の魂、あるいは、集団としての魂が物質界に入る前には霊的な契約を結んでいるのです。この世で起きることはすべて霊的計画の一部です。生とは、体験を通して学ぶことです。充実した生を学ぶために個々の魂はそのすべてを体験しなければなりません。自然の二元性を学ばねばならないのです。ネガティブなものを体験してこそポジティブなものの真価がわかるのです。
この真理を理解した魂は、自然災害や飛行機事故の体験を了承し、そうした方法で肉体から離脱することを認めます。これは意識的な決断なのでしょうか? いえ、それはありえないと思います。わたしたちの自我は自分の肉体にそんな恐ろしい危害を加えようとはしないでしょう。災害や事故を次のように見ることもできます。こうした魂は過去生から持ち越したカルマを完了しようとしているのかもしれない、と。すると、次のような疑問も出てきます。この事故や災害は他者を救う道なのだろうか? つまり、この人物の死によって家族や親しい友人はどんな影響を受けるのか? 彼らはそのおかげで深い愛を知り、人生に感謝するのではないだろうか? 愛する人の死は残された者にかけがえのない霊的成長をもたらすのだろうか? こういった事柄は霊性に関わる問題なので、わたしたちの理性では理解できません。わたしたちの人生は、推測すらおよばない巨大な構図の一部にすぎないのだ、とだけ申しあげておきましょう。
ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
中井京子訳、光文社、1998、pp.101-103
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50-j[2-u] (自動車事故などでの突然の別離をどう捉えるか =2=)
致命的な衝撃を受けたとき、愛する人は苦痛を感じたのだろうか、とよく依頼人に質問されます。ほとんどの場合、霊は記憶を失って覚えていません。つぶれた車体を見て、どこの気の毒な人が亡くなったんだろうと思ったりするそうです。命のない物体と化した自分の姿に気づいて、そこで初めてその体験を自覚するのです。
霊が自分の死を理解すると、最初はかなり動揺し、狼狽します。なにしろ、死んだという実感がまだないのですから。事故死の場合、霊体は文字どおり肉体の外へ放りだされますが、身内や親しい友人、あるいは、ガイドがすぐそばにいて、死という転移を無事に終えられるように助けてくれます。
そのおかげで、霊の姿となって命が続いていることにすぐ気づきます。自分の霊体に目をやり、これまでの肉体とそっくりだとわかるでしょう。時には病院で目覚める霊もいるかもしれません。ただし、それは現世の病院ではありません。親戚や親友が歓迎に訪れ、事故で亡くなったことを教えてくれるでしょう。
どんな死もそうですが、特に突然死の場合、霊には新しい環境に順応するための援助と理解が必要なのです。ありがたいことに、そうした霊を助けてくれる美しい魂たちがいます。現世にあてはめれば、ソーシャルワーカーやセラピストにあたる魂です。彼らと同じように、霊的ヘルパーたちが不慣れな環境に新しく入ってきた霊を精神的に援助します。
職業柄わたしは遺族の話を聞きますが、子供に先立たれることくらいつらい体験はないと親御さんたちがしばしば口にします。わが子の死に覚悟ができている人はいないでしょう。両親は自分たちのせいで子供を死なせてしまったと嘆き悲しみます。まるでわが子の死に責任があり、その気になれば死を防ぐことができたと言わんばかりです。しかし、その力があるのは神だけです。
ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
中井京子訳、光文社、1998、pp.103-104
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50-k[66-a] (私達は一時だけ人生の体験のために霊界から離れている)
カルマの思想は誤解されることもある。こんなことを言う人があるかもしれない。
「なるほど、あの人が苦しむことになっているならば、どうして自分がその邪魔などする必要があろうか」
このような論法が人に手を貸さない口実として使われるようだが、これは間違いである。この世の人生において理由なく苦しむ人はいない、ということは事実だが、助けを要する人への慈悲の心を学び、同情心をつちかうことも、また必要なことなのだ。おそらくこのことは、万人にとって最大の課題であろう―人間の魂とは、もともと成長したり他者との連帯を求めて奮闘したりするようにできているものだ。わたしたちはみなひとつの魂の共同体であり、ともに同じものに属しているのである。
わたしたちはみな宇宙の中でつながっているので、当然想念もこちらの領域からそちらの領域へとつながっている。みなさんはほんの一時だけ、物質界での人生を体験するために魂の領域を後にしてきたのだ。しかもみなさんは、意識にのぼらないレベルでこの領域とかかわりあっている。その一例が、夢を見ている状態である。眠っている間、人びとは自分たちの完全なる自己・完全なる魂へと結びつけられており、情報が開示されるのである。睡眠時間は過去に学んだことを身につけ、記憶する時間である。眠りには癒しの力があり、心の健康や情緒を健全に保つために欠くことができない。睡眠中に多くの直観的な知恵が脳のある場所へと移され、意識の心は情報をその場所から引き出して利用するのである。このように自然のプロセスによって、こちらの世界からそちらへと助けが与えられるのである。
ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.22-23
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50-l[6-y] (世界のあらゆる事象は因果の法則によって関係しあっている)
「原因があるから結果が生じる。結果には必ず原因がある」。
仏教では、人間、物質、出来事、宇宙・・・・・あらゆる事象すべてがこの法則で成り立っていると考えています。
これをいま目の前にある花でたとえてみましょう。植物は種から芽が出て成長して、やがて花を咲かせます。これを因果の法則に当てはめると、種が「因」となり、花という「果」が生じたということになります。
これは人間だって同じことです。あなたは突然この世界に誕生したわけではありません。あなた自身にも当然因があります。
生物学的に捉えれば、直接的な因は両親の卵子と精子になります。それでは両親の因はというと、そのまた両親の卵子と精子になる。
こうやって因をたどっていくと、人類の祖先にまでたどり着いてしまいます。さらに進化の歴史を逆流して、動物の起源、そして生命の源まで還元し、ついにはこの世にある物質を生み出したビッグバンまで到達することになります。そして、このビッグバンにも、何らかの因が存在するはずです。
つまり、自分自身の存在を含め、この世界のあらゆる事象が、はるか昔から続く連続性の中にあり、因果の法則によって関係しあっているのです。
ただし、生物は意識と肉体の両方によって成り立っています。そのため、肉体の因が卵子と精子であるように、意識にも因があると仏教では考えています。意識だけが突然この世界に生じるというのは論理的ではなく、因果の法則にも反しています。
ただし、肉体や意識がそのままの状態で受け継がれていくわけではありません。あくまで因は果の発生を引き起こすもの、促すものです。たとえば両親の手が子どもの手になるわけではなく、両親の卵子と精子が種となり、肉体という果を生み出しているということです。
意識も、そのまま意識が転移するのではなく、生物が意識を持っていたありよう、その本質的な念やエネルギーのようなものが、他の生物に転移すると考えられます。
もちろん一般的には、意識は生まれたときに誕生し、死ぬときには消滅してしまうように思われています。でもそれは、私たちが認識できているごく表層的な意識に過ぎません。それは生物に意識が宿るということの本質ではないのです。
肉体が死んで別の物質に分解されるように、意識の本質は生命全体のサイクルのなかへ戻る。そして別の生命の意識を生み出す素となっているのです。
これが「輪廻」です。輪廻とは、意識における因果のシステムなのです。始まりも終わりもない、本質的な連続性がそこにはあります。
ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.156-158
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50-m[6-z] (因果の法則の三つのルールと行為が引き起こす因果)
「因果の法則」には三つのルールがあります。この三つが満たされていない状況では因果の法則は成り立ちませんし、反対に満たされていれば因果は成立することになります。
第一のルールは、「因がないところに果は生じない」というものです。
たとえば、何もない場所に突然花が咲くということはありません。種があったから花が咲いたのです。
もしこのルールを宇宙の起源に当てはめると、絶対的存在が宇宙を創造したり、「完全な無」から宇宙が生み出された、という説は否定されることになります。逆にこれを認めるとすれば、宇宙誕生の瞬間だけは因果の法則を超越したということになりますが、なぜその時だけ法則が破られたのかという論理的な説明はまだ誰もできてはいません。
第二のルールは、「不変から果は生じない」というものです。不変のもの、永遠のものは何の変化も起こさないため、因にも果にもなりえません。無常であるからこそ物質は変化し、新しい何かの因となるのです。
第三のルールは、「因には果を生み出す素質がある」というものです。全く無関係の原因から結果は生じません。因の中に潜在的な可能性がなければ、因果は成立しないのです。それは、果と同種の性質を持っていたり、強い関係性があったりということです。
たとえば花の因は種でしたが、いくら別のものを土の中に植えても花は咲いてこないということです。花という果を生み出す可能性、素質がない限り、それは因になり得ないのです。
因果が当てはまるのは、形のあるものばかりではありません。
「行為」にも因果の法則が成り立ちます。たとえば誰かの行為によって何か新しいことが生じた場合、その行為が「因」、起こったことが「果」ということになります。
しかし、行為を行うのは、あくまで命を持つ生き物だけです。物質である場合、自ら行為をすることはありえないので、行為による因果も起こりません。そのため、物質の因果関係はシンプルで明確なものが多い。たとえばある物質が化学変化を起こして別の物質に形を変えるといった自然現象がこれに当たります。はるか昔、地球にまだ生物がいなかった頃は、きっとこの因果関係だけで世界は動いていたのでしょう。
一方で、命あるものには行為が伴います。しかもそこには、色々な意志や感情が入り交じり、様々な人やものに影響を与えてしまう。そのため、因果関係に行為がからむと、その関係性は急に複雑になります。
また、「行為」と一口で言っても、人間の場合は「三つのパターン」に分けられます。「運動」による行為、「言葉」で何か伝える行為、そして「心」をはたらかせる行為です。
この三つの内、「心」における行為が非常に重要です。なぜなら、この心のはたらきがその人の意志や動機となって、新たな行動を起こさせたり、他人に発する言葉を生んだりするからです。
たとえば誰かを助けるという行為を行うのは、その前に「その人のためになりたい」という心のはたらきがあったからです。逆に相手に意地悪な言葉を投げたときには、前から心の中で「この人のことが嫌いだ」という思いが渦巻いていたのでしょう。
このように、因果は「心」によって、しくみがかなり異なってきます。特に人間は心のはたらきが強いので、因果に与える影響もかなり大きいといえます。
ちなみに、草木や花などの植物は「行為」を起こすことがあるのでしょうか。
植物もただの物質とは違って生物ですし、感覚に近いものが備わっているという考え方もあるようです。しかし物事の良し悪しを区別したり、幸せや苦しみを感じたりというような「心」は持っていません。ですから、動物がするような「行為」はないと言っていいでしょう。
植物が花を咲かせたり実をつけたりと、ある種の変化を遂げたとしても、それは感情や意志に基づいているものではありません。花が咲くのは、植物そのものに組み込まれたはたらきのためです。色や形の違いも物質的な差異に過ぎず、そこに意志があるわけではない。植物は、物質と似たような単純な因果で廻っていると言っていいでしょう。
ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.159-162
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50-n (自分に起こることは過去に自分がした行為の結果である)
因果の三つ目のルールにあったとおり、果は同じ性質の因によって引き起こされます。よい因はよい果を引き起こし、悪い因は悪い果を引き起こします。
実はこの因果のはたらきは相手に影響を与えるだけでなく、自分自身にも同様の影響を与えているのです。
たとえば、よい行いをして誰かを幸せにしたとき、そのよい影響が本人にも残る。逆に、悪い行いをしたときは、必ずその悪い影響が本人にもたらされます。行為の影響、行為の持っていた力というのは、そのまま自分にも残り続けるのです。
これを仏教では「カルマ」(漢字では「業」)と言います。本来は「行為」そのものを表すサンスクリット語ですが、仏教では少し違う使い方をします。その行為にこめられた力、はたらき、性質、そういったものを指して使うのです。
そして自分に残ったカルマは、いずれ自分の身に必ず結果を生み出します。
自分が起こした因によって新しい果が生まれ、それがまた因となって新しい果が生まれて……と、因果はずっと連続していきます。そして、その影響の連続はやがて自分の方へと廻りめぐってきて、自分の身にも果を生じさせるということです。
つまり悪い行いをして悪いカルマを持っている人には、いずれ悪いことが起こるでしょうし、よい行いをしてよいカルマを持っている人には、その力によってよいことが起こるのです。結局自分に起こることは、過去に自分がした行為の結果ということです。これを「因果応報」といいます。
ただし、因果応報がすぐに成立するというものではありません。そのため、「悪いことをしても平気だった」「いいことをしても報われない」と考えるようになり、因果に対して疑問を持ってしまう人もいるようです。
現実には、果として何かが起きるときには、因だけではなく様々な要素や条件の影響を受けます。逆に言えば、そうした要素や条件が整わなければ、因があっても結果は生じてこないのです。
因果に影響をあたえる条件や要素のことを「縁」といい、因と縁が揃ったときに初めて結果が生じることを「縁起」といいます。これを花にたとえるなら、たとえ種という因があったとしても、水や空気や温度がなければ花は咲かないのと同じです。
物質の因果は単純なしくみでしたが、人間だとそうはいかないということです。「悪いことをしたので、悪いことが起きました」というような単純なしくみではないのです。
因となりうる行為はこの世に無数にありますし、たくさんの要素や条件が絡み合っています。たとえば現代における環境問題や近代化の弊害は、その因だけでも膨大にあり、過去から少しずつ積み上げられてきたものです。
そのため因果のしくみは非常に繊細かつ複雑で、人間が正確にそれを予測したり把握したりすることは不可能なのです。全てを見通せる「一切智」があれば正確に言い当てられるでしょうが、俗世にいる私たちには無理なことです。
ただし、しくみのありようは複雑でも、因果やカルマの原理原則は変わりません。よい因にはよい果が、悪い因には悪い果が生じます。一度してしまった行為は、決して取り消すことができません。同じように一度背負ってしまったカルマが、勝手に消えることはありません。その人に深く根付き、積み重なっていきます。そして来るべきときに同じ性質の結果を生み出す力となるのです。要素や状況が整いさえすれば、必ず結果が生じます。
ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.163-166
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50-o (死んでも消えないカルマをどうすればいいのか)
因果の法則やカルマの影響は、死後も変わることがありません。輪廻はこれを反映した考え方なのです。
人の死後、意識が新しい命に移る際にも、何に生まれ変わるかは偶然では決まりません。因果の法則に従い、意識に残るカルマによって必然的に決まるのです。さらにそのカルマは本人が死んでも消えることはなく、新しい生命にも引き続き受け継がれていくと考えられています。
煩悩が強く、悪い行いを続けた人であれば、その悪いカルマがより卑しく苦しい来世を呼び寄せます。逆に煩悩をなくそうと努め、正しい資質を身につけた人は、よりよい生を受けることとなる。
また、心の鍛錬が進んでいる人ほど、来世へ意志が伝わりやすいと考えられています。自分の前世の記憶をはっきりと持っている人がまれにいますが、それは強い意識の連続であり、自らの選択によって生まれ変わったことの現れだと考えられます。
それでもやはり生き物は、自分で来世を選んだり、輪廻をコントロールしたりすることはできません。あらゆる生物が廻りめぐる輪廻の中、どれほど脆く弱い生物に生まれたとしてもそれを無条件に受け入れるしかないのです。
とはいえ、私たちは日々生きていく中で、多かれ少なかれ悪い行いをしてしまうものです。そうやってたまった悪いカルマは、一体どうすればいいのでしょうか。
その答えは、少しでもよい行いをしてよいカルマの力を増やすようにするしかありません。
悪いカルマをそっくり取り除いたり、何かで消したりすることはできません。それでもよいカルマが増えれば、それによってよい出来事が引き起こされ、悪い出来事が起こる条件を遠ざけるようになります。その内に悪いカルマは少しずつ軽減し、やがて相殺できるようになるでしょう。
過去に悪い行いをしてしまったら、新たによい行いをすること。そうすれば、悪いカルマを、新しいよいカルマで減じることができ、よい縁起を増やすことにもなります。これをいつも心がけてください。
たとえどんなに悪い行為をしてしまっても、そしてどんなに悪い出来事が身に降りかかっても絶望してはいけません。新たによい行いをすれば、少しずつでもよい方向へと向かうはずです。そして必ず将来を変えることができるでしょう。
ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.166-168
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50-p(なぜ東日本大震災は起こってしまったのか)
今回、日本の方からこのような質問を頂きました。
「東日本大震災は、あまりに悲惨な大災害でした。地震だけではなく、津波にも襲われ、原子力事故も起きました。これもやはり因果なのでしょうか。私たちはそんなに悪いことをしたのでしょうか」
たしかに、震災がこの世に生じた事象である限り、必ず因があります。
直接的な地震発生のメカニズムは、すでにある程度解明できているでしょう。地球そのものの活動は、カルマと関係のない物質的な因果関係で起こるからです。
しかし、「震災」という出来事全体、災害全体で考えた場合、物理のメカニズムだけではない複雑な因果がはたらいています。
今回の震災でも、地震の衝撃が去った後に、巨大な津波が襲ってきて街全体がのみこまれたり、原発事故による放射能汚染が日本中に広がったりと、災害は二重三重に重なりました。多くの人が家族を亡くされたり、家を失ったり、住む場所を追われたりしました。被災の状況は人によって様々でしょうが、それぞれ色々なことで傷つき、不安になり、苦労をされたことでしょう。
これほどの震災となると、その大きさと複雑さゆえ、因果関係を単純に読み解くことは大変難しいことです。カルマは長い時間をかけて積み重なって巨大化し、因や縁が非常に複雑に絡まりあいながら、様々な条件がついに揃ってしまった。それがあの三月十一日だったのです。ある因は津波の被害となり、ある因は原発事故となり、そうやって様々な被害が次々引き起こされてしまいました。
だからといって、被災者の方が特別に悪いカルマを抱えていたかというと、決してそうではありません。このように強大でめったに発生しない出来事は、個人のカルマで引き起こされるレベルではなく、社会全体としてのカルマ、世界共通のカルマのレベルの出来事です。大勢の方が一度に同じ類の苦しみを味わったということがその現れでしょう。
その因は、規模が大きいだけではなく、はるか昔何世代も前から積み重なっていたものでもあります。そう考えれば人類全体の因果応報といえます。たとえば、自然を破壊し、コントロールしようとしたことが影響しているのかもしれないし、物質的に豊かな生活を求めすぎたことが影響しているのかもしれない。
ただどれだけ考えたところで、何が因であるかを私たちの頭で理解することは不可能です。
ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.169-171
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50-q (人間が起こしたことは人間が解決できる)
自分たちの行いを見つめ直し、よい方向へと自分を奮い立たせていく。それこそが大事なことなのです。どれほど苦しいことが起きても、どれほど困難な問題が起きても、人間はきっと乗り越えられる。私はそう強く信じています。
なぜなら、人間に降りかかる物事の元をたどれば、ほとんどの原因は自分たちで生み出したものだからです。人間が生み出したものが因となり、廻りめぐって果となり、そしてまた人間を苦しめているだけなのです。
自分たちが生み出した問題だからこそ、それを解決できるのも人間です。私たちはそれを解決できる力を既に持っている。もう私やあなたの手の中にもあるのです。
たとえば、日本で過去に起こった困難を思い浮かべてみてください。第二次大戦では空襲で街が次々と焼け野原になり、ついには原爆まで落とされました。大都市が一日にして完全に破壊されてしまうという、それはとてつもない悲劇でした。
しかしながら、日本はその絶望の淵から立ち上がりました。焦土の灰から新しい国家を再び築き上げたのです。
今の発展したこの日本は、決して、空から降ってきたものではありません。当時の日本人が決してくじけず、本当に勤勉に働き一生懸命努力したからこそ成し遂げられた結果です。
こうして復活を遂げた日本のみなさんですから、今回も同じように復興を遂げ、さらに良い国づくりをなさる力がある、そう私は信じています。かつての戦争を知らない若い方には特にそれを信じて欲しい。かねてより、日本人は大変勤勉な国民性と強い精神力を持っているのです。
震災を元に戻すことはできません。悲しいことですが、すでに起きてしまったことです。もちろん震災に限らず、みなさんの周りにはたくさんの苦難や困難があふれているでしょう。
でも、その事実に悲しんだり怒ったりし続けるのではなく、この苦難を必ず乗り越えようという意志に変えていってください。そしてその決意や自信をもって苦難に立ち向かってください。その姿勢によって現実的なビジョンを見通すことができ、問題解決の糸口にたどりつけるでしょう。
また、一生懸命努力して再び立ち上がることができたならば、それはみなさんの強い自信になるはずです。人はよき方向、正しい理由に基づいて行動しているときに強い信念を持つことができます。これは悪い行いをしているときには決して生まれないものです。
そうして、日本が国家としてよりよく、より強くなったとき、同時に日本のみなさん一人一人の心も前より正しく強くなっているはずです。
ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.171-174
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50-r (「因果応報」の原理は人を罰するためのものではない)
因果応報とは、善いことをすれば善い結果(報い)を得、悪いことをすれば悪い結果(報い)を得る、自分の行ないが自分に結果をもたらすということです。ただ、因果応報という言葉には、罰を受けるという意味合いが含まれてしまっていますが、もともとはそうではなかったと思います。
「自分が発したものを自分が受け取る」という原理の目的は、自分が体験する内容を見て、自分の行ないの軌道修正をしていくことです。
たとえば、何か悪い体験をしたら、それはどこかで何か悪いことをしたに違いないと反省し、以後の行動を慎むのです。そういうふうに気づくための原理です。けっして人を罰するためのものではありません。
ただ、ここで注意すべき点は、体験をどう受け止めるかはそのときの自分次第だということです。
たとえば、事故に遭うという体験をしたとします。これは過去に何かネガティブな行ないをした結果が、自分にそういう形で返ってきたということです。
ここで、この事故に遭うという体験を悪い、いやな体験と受け取るか、そうではなく、もっとポジティブに受け取るかで、その先が大きく変わってきます。
ポジティブに受け取るとは、事故に遭うということは過去に何かネガティブなことをしたに違いないと気づき、気づかせてくれてありがとうと感謝する、そういう受け止め方を言います。
ネガティブに感じて反応してしまうと、この原理に従って、またネガティブな結果を導くことになります。逆にポジティブに感じれば、次はポジティブな結果を導くことになります。
坂本政道『死ぬ前に知っておきたいあの世の話』
ハート出版、2016、pp.48-49
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50-s (霊的に目覚めた人には土地や場所のカルマも見える)
稲盛 本山先生はよく、場所にもカルマがあるとおっしゃいますね。過去に戦争や殺戮があった場所に行くと、昔の武者の姿が見えたり、新たな史実がわかったりするというわけですね。また後に、それが歴史的事実として立証されたということなどを、いろいろなケースでうかがっています。実際、そういうときに、先生はどのようにして、私たちには見えないものを認識されているのでしょうか。
なぜそれをお聞きしたいかと言いますと、たとえばテレビなどを見ていると犯罪が起こった場所に霊能者が行って、ここではこんなことがあったとか、殺された人はこういう状況だったというようなことを霊視して、それが犯罪の摘発に効果を上げたということがあります。そのようなときの霊能者は、まざまざと詳細に状況を説明するわけです。人間が遭遇したもの、思ったものは脳細胞の中に意識として存在しますが、同時にそれはこの宇宙空間にも浮遊していると理解していいのではないでしょうか。
本山 そういう場所へ行くと、二〇〇〇年前であろうと四〇〇〇年前であろうと、どんな戦いがあったのか、どんな楽しいことがあったのかを感じることができます。そこには人間のさまざまな念がひっついています。それは時間とか空間とか、われわれが生きている物理的な次元ではありません。その土地にひっついているが、時間には関係ないんです。その恨みが解けないかぎり、何千年でも何万年でも土の魂の中に記憶として染み付いているんですね。
霊的な次元で目覚めた人には、そういう霊の姿が見えるのです。さらに、そういう次元をはるかに超えた人は、「ここではこういうことが起きた」ということが直感できます。その人が殺されたときに身につけていた服とか、殺された状態とか、血が出ている状態とか、そんなものが何重にも見えるのです。ただ、霊能者のレベルが低い場合は、霊の姿は見えるし、恨みの感情もある程度はわかるのですが、いつ、誰に、なぜ殺されたのかという細かいことは、もう一つはっきりしない場合が多い。そこが霊的な能力の違いです。
以前、京都の丹波篠山へ行ったときのことをお話ししましょう。ここは出雲を支配している民族と大和朝廷に属している物部の一族との血みどろの戦いがあった土地ですが、出雲族の長を祀る、大和の石舞台をごく小さくしたような古墳の前へ行くと、さまざまなものが見えました。
で、私は、約二〇〇〇年近い前のでき事だと感じたのです。出雲族は物部の人たちに殺され、恨みの気持ちの中に落ち込んでいました。その恨みを解く人が現れないかぎり、何千年経ってもそこから離れられないわけです。
そこで、そのときの同行者みんなでお祈りをしました。すると、それまで雲一つなかった真っ青な空に、出雲族の長が現れたかと思うと、たちまち真っ黒な雲がむくむくと湧き出て雹が降ってきたのです。私がその霊に、「今はもう時代が変わって、出雲の人たちも大和の人たちも仲良く暮らしています。時代が変わったのだから、恨みの気持ちを超えて、みなが仲良く暮らせるようにしてほしい」
と伝えると、わかってくれたようで、もとどおりの天気になりました。でも、こういうことは体験してみないとわからないんですよね。
本山博・稲盛和夫『人間の本質』PHP研究所、2009、pp.85-88
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50‐t (自分に起こるすべての出来事には意味がある。起こったことに感謝せよ)
すべて自分の身に振りかかってくること、身辺に起こる出来事にはちゃんとした意味があります。宇宙はすべて、神のふところの内にあります。したがって、宇宙には、秩序、公平、正義、愛があります。私たちは神の内にあって、すでに救われています。カルマとはこらしめではなく、むしろめぐみであり、父なる神から子なる神である私たち一人一人へ向けての愛のムチ≠ナす。これにより、私たちは人生軌道を修正され、過ちに気づき、正しく神の御許へと導かれ、成長していくのです。この世は地球学校です。私たち一人一人はそこに登録された生徒の一人一人なのです。ここで神は愛する者を訓練します。へブル人への手紙にもそのようなことは記されています。
カルマが解けるまでには、たしかに時間がかかりますが、いつかは必ず解けてゆくと信じて待つのです。信じて疑わず、静かに解けゆくのを待つわけです。一方では本務を尽くし、祈りと無条件の許しと信仰と忍耐との実践を通して、カルマが解けるのを促進してまいります。
私たちは皆、神のふところの内にあってすでに救われています。
起こったことを喜びなさい。起こらなかったら、カルマは解けぬまま、あなたの内に残っていたのですから。今、起こったということは、もう起こっても十分なほどにあなたの準備が整い、カルマの果を身に受けるための内的力を獲得したのです。カルマがいよいよ起こっても静かに受けとめて、そこから学ぶべきレッスンを学べるほどの成長にまで達し、その事象から理解を得られるところに至れた、と宇宙が判断してくれたのです。
起こるとは、カルマが解けて消えていくプロセスであり、起こったということは、カルマが出られるまでにあなたが来れたという証拠です。神は偏り見るお方ではありません。神は常に公平であり、私たちの誰をも裏切るようなことも見捨てることもなさりません。神はいつも、愛と知恵のまなざしでもって、私たち一人一人を見ておられます。じっと見守って下さり、そつやおちどが決して神の側にはありません。いまだかつてあったためしも一度だってないのです。
一時的に悪くなるようなことがあっても、疑わず、うろたえず、信じて一貫した態度を取り続けていきましょう。
「人事を尽くして天命を待つ」が私たちの態度であるべきです。つまり、やるべきことを一生懸命行なっていって、その結果にとらわれない、というあり方です。いいことも悪いと思われることもすべての結果を、喜んで淡々と受け入れていきます。信じてなるがままに受け入れます。そうして安心しておればいいのです。なぜなら、神がたしかにおられ、神は全知全能でかつ慈愛に満ちた方であって、私たちはその子であり、すべての生起する事象は父なる神さまが、子である私たちのために起こして下さっているのですから。
何も心配はいりません。取り越し苦労は不要です。喜びと感謝が私たちにはあるのです。すべてが完全です。すべては良好です。すべて、順調です。すべて、OKです。そうして、神の大事業は大歓喜、大感謝をもって終わることでしょう。
浅野 信『ニューエイジの到来』たま出版、1992、pp.93-95
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