学びの栞 (B) 


 50. 業・カルマ・因果律


 50-a [74-a] (人の一生は後天的に変わりうるか)

 人の一生は過去生の因縁によって、大体定まっているものであるが、その人が、守護霊、守護神に素直である場合、または善なる意志力の強い場合、祖先や父母が人を救っている場合、等の場合は、後天的に運命が修正される。
 私が常に人々にいうのは、守護霊、守護神に、いつも感謝し、祈っていなさい、ということなのである。守護霊、守護神といっても眼に見えるわけではないから、そんなことといってしまう人はそれまでで、素直に感謝していれば、それは直接神への感謝になるので、自分の過去世から犯して来た、悪行為、悪想念などから割り出されて一度び定まっているその人の悪い運命も(善い行為、善想念による善い運命は、そのまま喜べることで、別にいうことはない)悪縁に触れず、その果の出ぬように、出ても、不幸が軽く済むように、導いてくれるので、そのまま、運命は修正されてゆくのである。これは、神に素直である人の救われの道である。
 意志カの強い場合、これも真理に素直であることが根抵にないと、意志カだけでは、定まった運命のままに、一生を終ってしまう。
 善いといわれ、自分も善いと信じたことを、その意志カにものをいわせ、徴底してやってゆけば、運命は変わってゆく。
 祖先や父母が人を救っていた場合は、この救われた人びとの感謝の想念が、自然に、その子孫の因縁の現れを弱めてくれる。また、その救われた人が霊魂である場合は、霊界から直接応援して、守護霊のように、その人を導いてくれる。これは、その人の努力とは別個に、運命修正のカとなる。
 その理を知らなくとも、人間は、愛と真の行いをして、人を救い、自己を裁くことをも止めれば、運命は善くなってゆくのである。

  五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
    1988、pp.81-82

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 50-b[25-e] (カルマ的つながりは必要性を宗教的に説明しているにすぎない)

 ―最近、私の人生に現れた二人の人がいるのですが、私の人生に関わった彼らの目的を知りたいのと、私たちはこれまでの生で一緒だったかどうかが知りたいのです。

 彼らがあなたの人生に関わる理由は、あなたが彼らにそうしてほしいと望んでいるからであり、同時に彼らもそこにいたいからです。それ以上に偉大なる目的があるでしょうか?

 ―でも、私は彼らにいてほしいのかどうかわからないのです。もしかすると、何か互いのカルマ的つながりのためにそこにいるのであって、お互いに何か学ぶべきことがあるためなのではないかと思ったりしているのですが。

 主よ、もしもその関係に何か足りないと感じているなら、ひょっとして過去生で一緒だったかもしれないというロマンチックな考え方は、いまの状態よりもあなたたちの関係をずっと素敵なものにしてくれるのは確かでしょう。でも、「カルマ的つながり」と呼ばれているものは、実はきわめて単純な「必要性」という言葉を、宗教的に説明しているにすぎないのです。ずっと続いていくあなたの多くの生を通じて、あなたはたくさんの人々とともにいる必要があるし、それを望み、楽しみたいのも確かです。でも、もし同じ友人が何度も何度も繰り返し現れたならば、それは実に凡庸で退屈、つまらないものとなってしまうことでしょう。もし彼らがいまそこにいるのなら、ひょっとすると、これに関して学ぶことは、とにかくもう一度一緒になり、やがては別々の道を行く必要があるのだと気づく、ということだけなのかもしれません。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 191-192

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 50-c[25-f] (皆がカルマと呼ぶものは神の法ではない)

 ―なるほど。言わんとしていることはわかるような気がします。でも、カルマについてはもうひとつ質問があります。たとえば殺人とか強盗とか事故などがある人に起きるのは、過去生でした何かとのバランスをとるために、カルマを満たしているのだと教えられました。カルマの法則について、どう考えているか聞きたいと思います。

 あなたに知っておいてほしいこと、そして皆にもわかってほしいことがあります。それは、皆が「カルマ」と呼ぶものは、神の法ではないということです。それを信じる人たちの法なのです。残念なことに、この理論を信じている人は山ほどいて、彼らは皆、完璧という幻想を得ようとして一生懸命骨を折っています。そして、ひとつの生でしたことは、どんなことでも、次の生に戻ってきてその代償を払わなければならないと信じているのです。自分に起きることはすべて、いつも「カルマを満たすため」になってしまうのです!主よ、でもこれは人の生についての説明としては、あまりに拙劣です。生には、もっといい説明をしてあげる価値があるのではないでしょぅか。カルマの法則は確かに現実ですが、それは信じる人たちにとってだけのことです。法で存在するのは、あなた自身が自分の世界で有効だとしたものだけなのです。真の意味で法を与えられる者は、個々の至高なる存在だけです。それは一人ひとりが責を受け容れる自我を持っているからであり、その人が真実と呼ぶもの、自分の存在における法としてつくり出すものは、何でもそのまま現実となるのです。こうして、多くの人間が、信念や、このように屈折した考え方を通して、自分たちのために、バランスの法則、あるいは「完全なるもの」の法則をつくり出したのです。
 カルマを信じることを選ぶなら、もちろんあなたは自分のつくった法に支配されることになるでしょう。その信念に力を与えたからです。そうすると、もちろんそれはあなたの人生で効力を発します。そして、何度も何度も戻ってきては、この地上界での前生でした行為を取り消したり、それを称賛したりを繰り返すことになるのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 192-193

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 50-d[25-g] (カルマは存在せず気まぐれな欲求だけが存在する)

 私は、カルマ、あるいは完璧という概念を認めませんが、それは、私がそうしたものをひとつの限定要素として見ており、何かの結果得られるよろこびとは考えないからです。カルマという制限された状況を通じ、完璧をめざして躍起となっている人たちは、その目標を得ることはけっしてないでしょう。なぜなら、ひとつのカルマを満たしていても、それは同時に新たなカルマをつくり出すことになるからです。そして、受け容れる側ではなく、つねに義理を負う側に身を置き、そこに安住することになるので、幾度の生を経たとしても、「在るということ」の状態、神の状態にはけっしてなれないのです。完璧というものはありません。あるのは、「在るということ」だけです。生の「在るということ」では、一瞬ごとにあらゆるものが変化し、進化していきます。ですから、完璧な状態というのは、けっして達成されはしないのです。
 私が認めるのは「在るということ」だけです。そこには、自己、つまりは神が進化していくのを抑えてしまう法律や理想は、まったく存在しないのです。「在るということ」の叡智では、自分のしたいこと以外、人生でしなければならないことは何もありません。カルマの教えを受け容れるならば、それは自分の経験のためにするあなた自身の選択であり、創造であるのです。しかし主よ、あなたは同時に限られた力と仕返しという幻想をつくり出してしまったことも知るべきです。カルマと呼ばれるものを受け容れるとそういう運命になり、自分自身の限定された考え方による囚われの身となるのです。
 あなたは自由な魂であり精神なのです。あなたはその瞬間、自分の好きな真実、現実、あるいは幻想を、自由に創造し体験できるのです。そして、いつの瞬間にも、自分が望めばあなたはこの夢をあらためて創造し直すこともできます。あなたにはそれをする限りない力があるからです。
 カルマは存在しません。欲求は存在します。そして欲求はとても気まぐれです。いつの瞬間にも、それが望むときに何でもできるし、何にでもなることができるのです。そしてそれは、何かになっている真っ最中に心変わりをすることもあり得るのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 193-194

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 50-e[25-h] (あなたが自分の運命を支配し自分の人生を創造している)

 殺人、事故や強盗などは、懲罰ではありません。以前あなたがしたことへの「償い」ではないのです。それは、思いをめぐらした思索の結果、あなたの手で創造されたものであり、思索された体験なのです。それは永遠のものでも永遠の状況でもありません。ですから、より大きな叡智の中では、それはひどいことではないのです。振り返ってみると、すばらしい師でもあるのです。
 あなたは、一万人もの無実な人々が殺されるのを見て、こう言うかもしれません。「何とひどい惨状だ。この残虐行為に、なぜ天使たちは涙を流さないのか? なぜ神の栄光を謳い上げたりできるのか?」と。それは、天使たちは生命がいつか終わると信じて自分を限定することがないからです。殺された者たちは、さらなる学びと体験、つまり私が冒険と呼ぶもののために、直ちに皆が「天国」と呼ぶ場所にとどめられます。そして、あなたはその一万人の死体を埋葬し、その死に涙を流すかもしれませんが、神は泣くことはありません。明日がいつも必ずやってくるのはこのおかげなのです。
 誰があなたの運命をつくり出していると思いますか? 多くの人々は、ひとつの至高の存在が皆を操り、すべてのことを起こしていると信じています。そう信じていれば、自分自身の人生の責任という肩の荷を降ろすことができるからです。しかし、あなたが自分の運命を支配しているのです。あなたが、この瞬間に考え感じることによって、あなた自身の人生のあらゆる瞬間を創造しているのです。あなたが学ぶべきことはただひとつ、この瞬間、このいまこそが、まさに永遠そのものなのだということです。それは途切れなく続いているのだということです。そしてこのいまという瞬間の継続性の中では、あらゆる瞬間がまったく新しいものなのです。それは昨日にとらわれているわけではありません。あなたが明日のことを夢見て現実化していくためにつくり出したのは、まさにこのいまなのです。つまり、この瞬間、あなたは何でも好きなことができる自由があるのです。それが父なる存在のあなたへの愛なのです。それが、一瞬一瞬を新しく創造していく力と自由という、父が与えてくれたものなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 194-195

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 50-f[25-i] (あなたは過去の行為について償いをする必要はない)

 誰も過去に支配されている人はいません。一瞬前だろうが、千年前だろうが、あなたがしたことについて償いをしなければいけないなどということはありません。いつのことについてもです。ある行為をした瞬間、あなたはひとつの理解を得たのであり、そこで学ぶべきことへの気づきを得たのです。
 過去は、そのときに体験されたいまという瞬間にすぎず、もうここにはないのです。現在との関連と言えば、あなたがすでにそこから学べることをすべて学んだということだけです。つまり、あなた自身の内奥の思考過程と、明確な目的を持った計画にしたがって自分の力を最大限に発揮してこの瞬間を創造する智慧を過去はあなたに与えてくれたのです。
 主よ、でもその過去はもう終わっているのです。それはもうここにはありません。過去は、智慧としてのみ、このいまの瞬間あなたの内面に生きているのです。過去のおかげで得られたのはそれなのです。だからこそ、このいまという瞬間のあなたは、これまでの人生で最も偉大なのです。なぜなら、このいまという瞬間、あなたは過去のいまよりも、「知っているという状態」にさらに深く進んでいるからです。この瞬間のあなたは、あなたの知識の蓄積すべてなのです。体験を通じて得られた知識、生という美徳を通じて得られた体験すべてであるのです。そして、自己を表現するすべての瞬間を、あなたは新たにつくり出しているのです。それは、感情の世界へ、そしてすべての体験の中で真珠のごとく光る智慧へと分け入っていく新しい冒険なのです。
 実際に存在しているのはいまだけなのだと気づくと、あらゆる瞬間に、自分の魂の内にあるフィーリングが強く求める冒険を生き、偉大なる智慧にむかって自分を広げていくために、これまでないような体験をどんどんしていくという生き方をどうしても選ぶようになります。
 あなたがこの地上界に戻ってきたのは、何か自分が思い出せないようなことを「解決する」ためでもないし、誰もそれが何だかわからないような、「自分がすべきこと」をするためでもありません。それなのにあなたは完璧を求めるように言われているのです! いつも混乱している状態にいたら、いったいどうして何かを達成できるというのでしょうか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 195-197

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 50-g[36-c] (あなたは自分で選んでこの地上に戻ってきた)

 あなたがここに戻ってきたのは、自分でそれを選んだからであり、自分で選んだ身体を通してやってきたのです。あなたの母親の卵子と父親の精子から、この「創造する幻」という次元で自己を表現するために自分の身体をつくり出したのです。前にしたことの帳尻を合わせるためにここに戻って来たのではなく、固体という存在を通して進化し、この次元での体験から得られる感情の中で自分を完成させるためなのです。
 あなたがここにいるのは、それがどんなところであろうと、自分がいたいからそこにいるのだ、ということを学ぶためです。叡智を学び、生の場でそれを実践するために、あなたはここにいます。この人生で(また、これから自分が望むだけ繰り返す幾度の人生でも)、あなたがここにいるのは、この幻を生き、魂が叡智という命を満たすのに必要なすべてを体験するためです。そして、この次元での体験から豊かな感情を得たとき、あなたはもはやここに戻る必要もないし、そう望むこともなくなります。そして、自分がいつここでの体験を全うしたのかを判断できるのはあなただけです。ほかに誰もいません。
 主よ、あなたは神になるためにここにいるのです。そして神になるためには、自分の存在からすべての法律、すべての宗教的な教義、すべての儀式的な慣行を取り除き、思考過程を限りないものにしなければならないのです。自己表現の無限の自由、けっして死ぬことのない身体、そして存在の平穏とよろこびを望めば、あなたがいま生きている生は完全に無限のものであることを知るでしょう。それをあなたが知ったとき、生は無限になるのです。なぜなら、自分の存在の中で真実として知ったこと、望むことはすべてそのとおりになるからです。あなたが自分の世界で受け容れる必要のある法は、これだけです。
 自分は永遠の存在であること、これまでも失敗は何ひとつないこと、そしてこれまであなたがおかしたたったひとつの間違いとは、何か間違いをしたと信じたことだということを知りなさい。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 197-198

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 50-h[42-j] (時には魂は最も忌み嫌うものに生まれ変わって愛を学ぶ)

 特定の人種や宗教に次の転生で生まれて来るための最も確実な方法は、その人種や宗教を公然と差別することです。憎しみはあなたをそのグループへと運ぶ急行列車なのです。時には魂は、最も忌み嫌うものになることによって、愛を学びさえします。
 カルマは学びであって、罰ではない、ということを覚えておくのは、とても大切です。両親をはじめとして、私達が出会う人々は、自由意志を持っています。彼らは私達を愛し、助けることもできれば、私達を憎み、傷つけることもできます。彼らの選択はあなたのカルマではありません。彼らの選択は、彼らの自由意志の現れです。彼らもまた、学んでいるのです。
 魂は時には、特別に厳しい人生を選びますが、これは自らの霊的な成長を促進するためか、または同じように困難な人生を生きている他の人々を助け、導き、元気づけるための行動です。困難な人生は罰ではなく、むしろチャンスなのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.86

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 50-i[43-g] (自動車事故などでの突然の別離をどう捉えるか =1=)

 いつかわたしたちは霊の故郷に帰ります。それは間違いありません。けれども、どのように現世を去り、どこへたどりつくか、それは個人によってさまざまです。たとえばヴェトナムで爆死したマイクのように、なんの前触れもなく悲劇的に肉体を離れていく魂もたくさんあります。しかし、残念ながら自動車事故で亡くなる人はもつと多いのです。霊界と現世を取り次ぐ仲介者として、わたしは事故で亡くなった人びとの思いをこれまでにもいろいろ受け取ってきました。なぜこのような痛ましい出来事が起きるのか、ここで説明しておきましょう。
 まず第一に、偶然の事故というものはありません。こうした出来事は、因果という霊的法則、すなわち、カルマが直接に反映した結果なのです。次のような例を考えてみましょう。ある男がパーティーに参加し、自分の意志で酒を飲もうと決断した。やがて充分に酔いがまわり、そろそろ帰ることにして車で家路についた。同じころ、映画を見終わったカップルが家に帰ろうとしていた。酩酊した男の視野はぼやけ、対向車に気づいたときはすでに手遅れだった。彼はカップルの車に激突し、この男女は即死した。
 この場合、死とは、酒を飲むという男の決断が招いた結末であり、結果です。男の酩酊状態が事故を引き起こしました。彼のせいでカップルの命が散りました。これはカルマ的状況です。カップルが死んだので、別の転生でこのバランスを取らねばなりません。言い換えれば、わたしたちの行動には、現世もしくは別の転生において、ポジティブにしろネガティブにしろ同質の報いが返ってくるということです。因果の法則は全宇宙の普遍の法則であり、カルマ的行動や神の恩寵によってあらゆる体験に解決がもたらされます。
 一見して偶然の事故に見えるものも、あるいは、自然災害でさえ、必ずしも見た目どおりとはかぎりません。物事の基本にはカルマ的責務があるうえに、一個の魂、あるいは、集団としての魂が物質界に入る前には霊的な契約を結んでいるのです。この世で起きることはすべて霊的計画の一部です。生とは、体験を通して学ぶことです。充実した生を学ぶために個々の魂はそのすべてを体験しなければなりません。自然の二元性を学ばねばならないのです。ネガティブなものを体験してこそポジティブなものの真価がわかるのです。
 この真理を理解した魂は、自然災害や飛行機事故の体験を了承し、そうした方法で肉体から離脱することを認めます。これは意識的な決断なのでしょうか? いえ、それはありえないと思います。わたしたちの自我は自分の肉体にそんな恐ろしい危害を加えようとはしないでしょう。災害や事故を次のように見ることもできます。こうした魂は過去生から持ち越したカルマを完了しようとしているのかもしれない、と。すると、次のような疑問も出てきます。この事故や災害は他者を救う道なのだろうか? つまり、この人物の死によって家族や親しい友人はどんな影響を受けるのか? 彼らはそのおかげで深い愛を知り、人生に感謝するのではないだろうか? 愛する人の死は残された者にかけがえのない霊的成長をもたらすのだろうか? こういった事柄は霊性に関わる問題なので、わたしたちの理性では理解できません。わたしたちの人生は、推測すらおよばない巨大な構図の一部にすぎないのだ、とだけ申しあげておきましょう。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.101-103

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 50-j[2-u] (自動車事故などでの突然の別離をどう捉えるか =2=)

 致命的な衝撃を受けたとき、愛する人は苦痛を感じたのだろうか、とよく依頼人に質問されます。ほとんどの場合、霊は記憶を失って覚えていません。つぶれた車体を見て、どこの気の毒な人が亡くなったんだろうと思ったりするそうです。命のない物体と化した自分の姿に気づいて、そこで初めてその体験を自覚するのです。
 霊が自分の死を理解すると、最初はかなり動揺し、狼狽します。なにしろ、死んだという実感がまだないのですから。事故死の場合、霊体は文字どおり肉体の外へ放りだされますが、身内や親しい友人、あるいは、ガイドがすぐそばにいて、死という転移を無事に終えられるように助けてくれます。
 そのおかげで、霊の姿となって命が続いていることにすぐ気づきます。自分の霊体に目をやり、これまでの肉体とそっくりだとわかるでしょう。時には病院で目覚める霊もいるかもしれません。ただし、それは現世の病院ではありません。親戚や親友が歓迎に訪れ、事故で亡くなったことを教えてくれるでしょう。
 どんな死もそうですが、特に突然死の場合、霊には新しい環境に順応するための援助と理解が必要なのです。ありがたいことに、そうした霊を助けてくれる美しい魂たちがいます。現世にあてはめれば、ソーシャルワーカーやセラピストにあたる魂です。彼らと同じように、霊的ヘルパーたちが不慣れな環境に新しく入ってきた霊を精神的に援助します。
 職業柄わたしは遺族の話を聞きますが、子供に先立たれることくらいつらい体験はないと親御さんたちがしばしば口にします。わが子の死に覚悟ができている人はいないでしょう。両親は自分たちのせいで子供を死なせてしまったと嘆き悲しみます。まるでわが子の死に責任があり、その気になれば死を防ぐことができたと言わんばかりです。しかし、その力があるのは神だけです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.103-104

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 50-k[66-a] (私達は一時だけ人生の体験のために霊界から離れている)

 カルマの思想は誤解されることもある。こんなことを言う人があるかもしれない。
 「なるほど、あの人が苦しむことになっているならば、どうして自分がその邪魔などする必要があろうか」
 このような論法が人に手を貸さない口実として使われるようだが、これは間違いである。この世の人生において理由なく苦しむ人はいない、ということは事実だが、助けを要する人への慈悲の心を学び、同情心をつちかうことも、また必要なことなのだ。おそらくこのことは、万人にとって最大の課題であろう―人間の魂とは、もともと成長したり他者との連帯を求めて奮闘したりするようにできているものだ。わたしたちはみなひとつの魂の共同体であり、ともに同じものに属しているのである。
 わたしたちはみな宇宙の中でつながっているので、当然想念もこちらの領域からそちらの領域へとつながっている。みなさんはほんの一時だけ、物質界での人生を体験するために魂の領域を後にしてきたのだ。しかもみなさんは、意識にのぼらないレベルでこの領域とかかわりあっている。その一例が、夢を見ている状態である。眠っている間、人びとは自分たちの完全なる自己・完全なる魂へと結びつけられており、情報が開示されるのである。睡眠時間は過去に学んだことを身につけ、記憶する時間である。眠りには癒しの力があり、心の健康や情緒を健全に保つために欠くことができない。睡眠中に多くの直観的な知恵が脳のある場所へと移され、意識の心は情報をその場所から引き出して利用するのである。このように自然のプロセスによって、こちらの世界からそちらへと助けが与えられるのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.22-23