学びの栞 (B)
52. 人類は互いに兄弟
52-a [44-l] (私たちは神との愛を通して互いにつながっているのである)
私にとって、皆は愛する兄弟だ。私だけでなく、見えるもの見えないものを含め、すべての宇宙に在る、生命のすべてのレベルの、すべての存在と兄弟なのだ。私たちは皆、神という存在の恩寵、知性を通して、そしてそれよりもずっと大事な意味で、その愛を通して互いにつながっているのである。その神とはもちろん、あなたがどんなに破天荒なことをしようとも永遠にあなたを支え、維持していってくれるすばらしい思考のことだ。
皆は全員が、かつては光を発する思考の片鱗だったのであり、それが永遠という途切れなきプロセスに向かって神が存在し続けていく姿になったのである。探求のためのさらに偉大な世界を建設するために、細部まで気を使い、多くの試みを重ねながら、あなたは物質という化身、あるいは別の言い方をすれば、「凝縮した思考」をつくり上げた。化身を通して、それまでとはまた違う次元の存在で自分を表現できたあなたは、神という思考パターン全体を探求できたのだ。この限りない創造性への冒険を通して、かつては形を持たない光だったあなたは、自分を人間という細胞物質へと生まれ変わらせたのである。その過程であなたは神なる人間になったのだ。それは、人間という生きた生命体を通じて表現される神の知性の姿なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 141-142
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52-b [57-c] (歎異抄から学ぶいのちの優しさ)
今までも何度か『歎異抄』に助けられてきましたが、このたびはまことに、なんと申しますか、開かずにはおれませんでした。読む力がなくてもただただ開いてみるというだけのような状態で開きました。実際読んでみる、という力が、長い間なかった。そのような状態が半年もつづいたのではないでしょうか。ある時、この5章の冒頭の言葉に全身を打たれる思いを覚えたものでした。
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」これが冒頭の言葉です。この言葉が頭の中にひびいた。非常に不思議な感じがしました。その時の私の精神状態は、恐らくただ子供のことで一杯だったと思えます。もう何を考えても、手遅れである。この世では何もしてやることができない。そのような思いで一杯だった。ならば、なおあの世へ向けて、してやることがないものかというようなことを、探していたのだと思われます。そして、念仏して、せめて供養でもという思いになっていたのではないかと思います。だから冒頸の言葉が、私にはまことに不思議にひびきました。同時に納得のいかない言葉としてひびきました。せめて供養なりと思っていたのに、そのような念仏を称えたことがないとおっしゃるのですから、そうです。つまり、もうおまえには子供のためにしてやれることは、何もないというふうに聞こえたわけです。「親鸞ほ父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」と言われているのです。おまえは、死んだ子のために何をしてやろうとしているのか、というふうにも聞こえます。何もしてやることはないんだというふうにも聞こえます。どうして私に、その言葉をそのまま聞き過ごすことができるでしょう。これが普通のことだったら、もう読むのをやめたかもしれません。だが、私は子供を死なせてしまった人間でした。まず身近なものを助けることができるだろうと言われているのに、わが子を助けることができなかった身として、どうしても問うてみないわけにはゆきませんでした。念仏とは何か。なぜ、親鸞はそのように言われるか、と。親である私に、何もしてやることがないとは、あまりにも、無情ではありませぬか、と。私はその理由を尋ねました。すると、その言葉に対する答えとして言われていました。
「そのゆへは一切の有情ほ、みなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりて助さふらふべきなり」。
私はしかし、この「そのゆへは」以降の理由を読みまして、いっそうわからなくなりました。平たい言葉で言いますと、ここでいわれているのは、一切の生きとし生けるものは、いのちとしてはみな生まれかわり生きかわりしている、そのときどきのいのちにおいてみるなら、父であり母であり兄弟である、ということでしょう。いのちとして等しいということ。いずれも、この次にめぐってくる生において、誰もが仏になって、他を助けてあげるものだからと、このように言われているのだと思います。これが私にはまことにわかりかねた。
なぜか。私は自分の父や母や兄弟を知っております。ですから、これが自分の父や母や兄弟のこととして言われたのでしたら、すっとわかるわけです。しかしながら、生きとし生けるものと言いますと、庭の金魚も木も、そして虫たちも鳥たちも、あらゆる生きものすべてを指します。あの木たち、あの虫たち、蝶々たち、あの花や鳥たちが、すべて父や母や兄弟であるというふうに言われて、私にどうしてわかりましょう。わかりませんでした。その後、繰り返し考えをつめてまいりまして、今、私は自分がどうして理解できなかったのか、おぼろげながらわかる気がいたします。私の人間中心主義的なものの考え方が、この「一切の有惜は・・・・・・世々生々の父母兄弟なり」という教えを理解するのを妨げていたのです。つまり、いのちというものを、人間の立場からだけ見ていたのです。その限り、あらゆるいのちが、その根本においては平等であるということは、決して見えてこなかったのだと言えましょう。
高史明『いのちの優しさ』 ちくま文庫、
1987, pp.154-156
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52-c[15-g] (同胞愛以外の生き方は選択肢として開かれていない)
人々と国々のあいだの同胞愛の必要性をここで再び強調したいと思います。というのは、人類全体が進化のスピードをあげ、すべての生命を常に支えている宇宙的な霊の力の中で人類全体が息づき、活動し、存在しているのだということを理解して初めて、人類は滅亡から自分自身を救うことができるのですから。
希望を失わないでください。人生における価値観が一八〇度転換する日がくることは確かです。人生の状況も、それに応じて変わればよいのですが。人類は今、非常な苦しみと窮乏を経験しようとしています。それは、人間の命を真に生かしてくれる、より大きな真実を探求するためです。
この単純な真実を語ることは、なんとも簡単なことのように思われます。この真実は、至るところに、あらゆるものの中に存在しているのですから。しかし、世俗的な心にとって、この真実を見てとるのは、なんと複雑で難しいことでしょうか。にもかかわらず、霊界にいる私たちは皆、ついにこの真実を理解するに至り、宇宙の同胞愛を感謝の気持ちで信頼し、その愛を分かち合い、一緒に安らかに生活しているのです。
同胞愛以外の生き方などというものは、世界が歩むべき道の選択肢として開かれてはいないのです。現在、世界の国々は疑惑と恐怖心の中で存在しています。誰も譲ろうとせず、お互いを恐れています。ビジネスの世界では、一人一人が自分の分け前を確保しようとして、同胞と戦っています。このような生き方は、人間をどこに導いていくのでしょうか。安定でもなければ、永続的な繁栄でもないことは確かです。それどころか、文明がこれまで一生懸命築きあげてきたものすべての崩壊につながることでしょう。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.279-280
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52-d[15-h] (自らを傷つけることなく他人を傷つけることはできない)
気を取り直して勇気を出しましょう。いつの日か、人類の心が高貴なる気高さを達成するときがやってきます。人間の心を高みに引き上げてくれる、真の同胞愛のヴィジョンに目覚めるときがやってきます。そのとき、人間は悟るはずです。すべての命、分自身の命も他のすべての人々の命も、一つの巨大な愛の心のなかに存在するのだということを。そして、自分の肉体としての生命は、その巨大な愛の心で息づいているのだと悟ることでしょう。そのとき、自らを傷つけることなく他人を傷つけることは不可能であると知るでしょう。人を憎み、戦うべく戦争に行くというのは自分自身との戦いに赴くことにほかならないのですから。他人を殺すことは、殺人者にとって霊的な死にほかならないのです。“剣を抜くものは剣によって死す”とは、このような意味です。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.280-281
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52-e[53-h](私達はみなお互いにつながり合っている同じものである)
ある時、とても衝撃的でしかもわかりやすいイメージによって、人は自分達を別々の存在だと思っているが、本当は、私達はみな、互いに永遠につながっているのだということを、はっきりと見せられました。まず、小さな四角い氷で一杯の大海原が見えました。四角い氷は一つひとつ別個で、お互いの間にははっきりとした境界があります。それでも、みんな同じ凍りそうな水に浮かんでいました。すぐに水が暖かくなり、四角い氷は溶けました。みんな水なのです。どの四角い氷も、海の中の他の四角い氷とつながっていました。そして熱がさらに加えられ、水は沸騰し始め、水蒸気に変わりました。間もなく全部が音もなく、目にも見えない水蒸気になりました。でも、水蒸気は、かつて水だったもの、四角い氷だったものを含んでいます。氷、水、水蒸気の間の唯一の違いは、分子の振動エネルギーだけなのです。
人間は自分自身を、四角い氷のように、物質的に分離したものと考えています。しかし実は、私達はみなお互いにつながり合っている、同じものなのです。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、p.320
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