学びの栞 (B) 



 55. 事故・災害・障害


 55-a[19-f] (事故にはそれを体験することで学べる教訓がある)

 事故の原因は、犠牲者の前意識のなかに隠されているのでしょうか。それとも、人は自分ではどうにもできない災難の犠牲者にすぎないのでしょうか。じつは事故ですら、前意識の自己の深いところに、前もって作り出された不協和の結果なのです。これは非常に厳しい教えのように思われるかもしれませんが、よく考えてみれば、そうではありません。事故の犠牲者になる魂は、事故にはそれを体験することによってのみ学ぶことのできる教訓があることを、前意識において、十分に知っているのです。
 子供についても、きっと質問があるに違いありません。父親が酔っ払って欲情をおこし、その結果生まれたかわいそうな子供たちはどうなのか、と質問したいに違いありません。あるいは、病気の親から、病気をもって生まれた子供はどうなのかと。このような罪のない子供たちもまた、運命によって苦しみに満ちた人生を生きていかなければならないのかと。
 あるいは、狂気の肉体に閉じ込められた魂、生まれたときから病に犯された肉体に閉じ込められた魂はどうなのだろうか、という疑問を抱かれるかもしれません。このような疑問に対して、どうすれば納得のいく答えが得られるというのでしょうか。
 これらの場合にもまったく同じ答えが当てはまる、と私たちは答えたいと思います。人間の魂は自分に何が起きるか、ということについての予知能力を常にもっており、自らに提示された人生を受け入れることも拒絶することもできるのです。
 このような問題について、きわめて限られた洞察力しかもっていない人間にとっては、どのような動機によって、魂が苦難の人生を選択したのかを理解することは不可能であり、魂がどれほどの苦しみを体験しなければならないのかを垣間見ることすら不可能です。しかしながら、戦慄を覚えるほどの惨事が地上において行なわれているのを目撃した後ですら、人間が、善なるもの、神、宇宙の第一の源と呼んでいる、あの全能の存在の価値を判断してはなりません。たとえ、この存在が幼い子供たちが苦しむのに任せて、何もしないように見えるにしてもです。
 私たちがいるところでは、誰であれ価値判断をするということはありません。より広い視野から見ると、神はいかなる意味においても、復讐をしたり残酷であったりするようにはけっして見えないのです。私たちがいつも感じているのは、限りない愛であり、神の思いやりに満ちた知性であり、人間に対する永遠の慈悲心です。私たちに見えるのは、全智全能の父が、自分の子供が歩む道を自由に選択する意思の力を与えている姿です。苦しみの道であれ、喜びの道であれ、エゴを克服していく道であれ、すべての道は上昇を続け、やがては、完璧な宇宙の崇高な意識のもとに帰っていくのです。
 猫がネズミをもてあそんでいるのを見て、感傷主義者は身震いしてこう叫びます。「なんて恐ろしい、残酷なことをするんでしょう。自然は残酷さにみちみちている!」。一見そのように見えるかもしれません。しかし、そう見えるのは限られたヴィジョンしか持っていない人なのです。実際はそうではありません。さまざまな外観の背後には神の愛と理解があり、すべてのものに浸透しているのです。私たちのまわりに充満しているように見える苦しみは、神の崇高な調和と愛と美を、すべての神の被造物の意識に理解させるための手段を包み込んだものなのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.260-262

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 55-b (障害のある子にも神から特別な贈り物が授けられている)

 わたしはまた毎週一回、半日をシカゴの「盲人のためのライトハウス(灯台)」で盲目の子どもや両親たちとすごしていた。あたえることよりもあたえられることのほうが多い仕事だった。
 そこで会った人たちは、おとなも子どももともに、運命がもたらした試練と苦闘していた。わたしはそこで運命の対処法を学んだ。かれらの人生は悲惨と勇気、落胆と達成のはざまを疾走するジェットコースターのようなものだった。わたしは晴眼者のひとりとして、たえず「自分になにができるか」と問いかけていた。わたしの仕事はおもに「聞く」ことだったが、それ以外にも、チアリーダー役をつとめ、いのちをじゅうぶんに開花させ、豊かに、幸福に生きる可能性を「見る」ように盲人たちを励ました。人生は悲劇ではなく、挑戦すべき課題だった。
 それはときに、あまりにも重い問いだった。想像以上に多くの子どもたちが盲目のまま生まれ、あるいは水頭症として生まれたために植物状態とみなされ、死ぬまで病院ですごしていた。不毛の人生というしかなかった。希望も援助もみつけられない両親たちも同じだった。盲目の子どもを生んだ親たちの多くが、死にゆく患者と同じ反応の諸段階を経過していくことにわたしは気づいた。受容するにはあまりにも厳しい現実だった。しかし、受容する以外に道があるのだろうか?
 九か月の正常な妊娠期間をへて、確実に健康な赤ん坊を生むはずだった母親がいた。ところが分娩室でなにかが起こり、娘が盲目で生まれてきた。母親は絶望の淵につき落とされた。それは正常な反応だった。だが、援助を受けてこころの傷を癒した母親は、やがて娘のハイディーが教育を受け、専門職につくことを望むようになった。健全な、目をみはるほどの回復ぶりだった。
 不幸なことに、その希望が非現実的だと主張する医療の専門家と出あうことになった。専門家はハイディーを施設に入れるようにすすめた。家族は途方に暮れた。しかし、施設に連絡する前に、運よく「ライトハウス」の助けを得ることができた。わたしはそこでその母親と出あったのである。
 もちろん、わたしに奇蹟を起こすことなどできるはずもなかった。娘の視力を回復させることはできないが、母親の悩みに耳をかたむけることはできた。必死に奇蹟をもとめていた母親は、やがて、どんなに厳しい障害のある子どもにも神から特別な贈り物が授けられているというわたしの話に耳をかたむけるようになった。「期待をぜんぶ捨てるのよ」わたしはいった。「お嬢さんを神からの贈り物として愛し、抱きしめるだけでいいの」
 「それから?」母親がたずねた。
 「そのうちに、神がお嬢さんに授けられた特別な贈り物が姿をあらわすわ」
 どこからそんなことばがでてきたのか、自分でもわからなかったが、わたしはそう信じていた。母親は希望を新たにして帰っていった。
 それから何年もたって、新聞を読んでいたわたしはハイディーにかんする記事をみつけた。ライトハウスで会ったあの赤ん坊が元気だったのだ。元気どころか、りっぱに成長し、将来を嘱望されるピアニストになって、はじめてのリサイタルをひらこうとしていた。批評家はハイディーの才能を激賞していた。わたしはすぐに母親を探しだし、会いにいった。母親は胸をはって、ここにくるまでの苦労を語った。懸命に育てているうちに、ハイディーはとつぜん音楽の才能を発揮しはじめた。「まるで花がひらくようでした」母親はそう語り、わたしの励ましのおかげだと礼をいった。
 「あの子を拒絶するのはかんたんだったでしょう」母親はいった。「みなさんからそうしろといわれました」
 いうまでもなく、わたしはこうした感動的な瞬間のことを自分の子どもたちに伝えた。けっしてあきらめてはならないことを学んでほしかったからだ。人生に保証はない。だれもが難問に直面する。直面することによって学ぶようにできているのだ。生まれた瞬間から難問に直面する人たちもいる。すべての人のなかでもいちばん特別な人たちだ。その人たちはいちばん大きなケアといつくしみを必要としているが、いのちの唯一の目的が愛であることを思いださせてくれるのもその人たちなのだ。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.204-206

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 55-c[43-k] (偶然というものはないし事故は起こるべくして起こる)

 でも、わたしはあのトラックにひかれることを選んだのではない! あの強盗に襲われることを選んだのではない、あの精神異常者に強姦されることを選んだのではない。ひとはそう言うでしょう。そう言えるひとが、世の中には確かにいるんです。 

 あなたがたはみんな、根本のところで、強盗に盗みの欲求、あるいは必要性を起こさせる原因を生み出している。あなたがたひとりひとりが、強姦を可能にする意識を生み出している。あなたがたが自らのなかに犯罪の原因を見いだしたとき、ようやく犯罪の温床となる原因の治療を始めることができる。
 飢えた人びとに食物を、貧しい人びとに尊厳を与えなさい。運に恵まれていないひとに機会を与えなさい。大衆が群れて怒る原因となる偏見に、より良い明日へのささやかな約束によって終止符を打ちなさい。性的エネルギーに関する無意味なタブーや制約を捨て、人びとがその真のすばらしさを理解するように、適切な方向にエネルギーを向けるように助けてやりなさい。そうすれば、盗みや強姦がない社会に向かって大きく前進するだろう。
 いわゆる「事故」というもの、曲がり角の向こうから疾走してくるトラックや、空から降ってくるレンガについては、出来事を大きなモザイクの一片として受けとめる術を覚えなさい。あなたがたは、それぞれ自分を救済する計画を実践するために、この世にやってきた。救済といっても、悪魔の誘惑から自分を救うという意味ではない。悪魔などというものはないし、地獄も存在しない。あなたがたは、真の自分を実現しないという忘却の淵から自分を救おうとしているのだ。
 あなたがたは闘いに負けるはずがない。失敗するはずがない。だから、闘いというよりは、単なるプロセスと言うべきだ。だが、それを知らなければ、いつももがいていなければならないと感じるだろう。人生は闘いだと信じ、闘いを中心に宗教をうちたててしまうかもしれない。その宗教は、闘いこそがすべてだと教えるだろう。だが、それは間違った教えだ。プロセスの進行は闘いではない。身をゆだねていれば、いずれは勝利が得られる。
 事故は起こるべくして起こる。生命の要素があるときにある方法でぶつかり、ある結果を引き起こす。あなたがたは、自分なりの理由で、その結果を不運と呼ぶかもしれない。だが、魂の課題という点から考えれば、不運ではないかもしれない。
 もう一度念を押しておこう。偶然というものはないし、なにごとも「たまたま」起こったりはしない。個々の出来事や冒険は、真の自分を創造し、経験するために、あなたがた自身によって呼び寄せられるものだ。(マスター)はみんな、それを知っている。だから、神秘な(マスター)たちは、人生で(あなたがたが言う)最悪の出来事にぶつかっても動揺したりはしない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.73-75

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 55-d (自然災害の犠牲者もすべて苦しみから解放され自由になっている)

 地球は常に変動しており、ときには地殻から揺るがすほどの動きを示すこともあります。それが自然災害と呼ばれるもので、多くの人命が失われ、生活が物質的にも精神的にも破壊されてしまうのです。あまりの理不尽さに「なぜ私が」「どうして私達が」と思われるのは当然でしょう。しかしそれは地球の自然活動の一部であり、人類始まって以来起こり続けたことで、おそらく地球最後の日まで繰り返されることです。
 私達は霊的存在であるがゆえに、肉体は滅びても、生命は続きます。魂や意識は決して死にません。地上界で起こる自然災害が決して偶然に起きているのではないと認識されている高次の霊世界へとのぼっていきます。肉体の世界で感じた痛みや苦しみは意識が飛び越えた瞬間、消えていきます。
 これを心に留め、私は断言します。今回の惨劇で命を失ったあなたがたの愛する人達はすべて安全な場所にいて、この地上界で味わった苦しみや悲しみから解放され自由になっています。

  ゴードン・スミス『なぜ、悪いことがおこってしまうのか』
    (ノーマン・テイラー・邦子訳)ナチュラルスピリット、2011、pp.294-295

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 55-e (世界では何故さまざまな天変地異が起こっているのか)

 今、世界で起きているさまざまな天変地異は「人類の集合意識」が起こしている部分もあると、私自身は考えています。集合意識を代表するような存在がいます。ここ一〇年ほど、世界中で大地震や気候の大幅な変動が続いていますが、これらも相当前からプランニングされていると思います。
 アセンションの一環としてそれらを起こして、みんなの気づきを促そうというわけです。
 それによって気づく人も大勢いますし、気づかない人も大勢います。東日本大震災でも、かなりの日本人、あるいは他国の人たちの意識変化が見られました。価値観というか考え方というか、行動の方向性も含めて変わった人が多かったと思います。思いやりの気持ちが生まれ、実際にそれを行動に移した人が大勢います。
 ボランティアに行ったり、あるいはボランティアに行かないまでも義援金を寄付したりしたわけです。日本全体で被災地をサポートしようという思いやりの心が生まれ、何かしようというふうに思ったわけです。
 被災地やそこに近いところでは、例えば物にせよ、時間にせよ、労働にせよ、かぎられたものを分かち合おうという思いが強く発生しました。
 もう一つ、重要な意識変化があります。
 それは、自然との共存が重要なのだということに、多くの人が気づいたことです。
 それまでは原子力でオールオッケーと考えていたのですが、いや原子力では難しいのではないか? ダメでしょう、というような意識変化です。
 もっと自然と共存できるような生き方にスイッチしなくてはならないのだと、多くの日本人が、いや世界の人々が思い始めました。ですから今、日本の多くの方がこれを機に原子力依存をやめたい、別の発電方法に切り替えたいと主張しています。自然にとって害がない方向に行きたいと思っているのです。(坂本政道)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.138−139)

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 55-f (地震だけでなく、経済、政治的な変動も世界中で多発する)

 二万人近くの死者・行方不明者と、あと被災された方も含めると数十万から一〇〇万人以上の人々が直接もしくは間接的な被害に遭われているわけですが、彼らもそこを通していろいろなことに気づいたと思います。
 特に亡くなった方々は、この大震災が起きることを転生してくる前から知っており、意図的にこの人生を選んで生まれた尊い方々だと思います。自分が犠牲になることで、大勢の人に気づきの機会を提供するという目的を持って生まれてきているのです。
 みなさん、かなり意識の高かった人たちだと思いますが、この人生をあえて選び、還って行ったということです。
 こういう話をすると不謹慎だと怒る人がいますが、これまで繰り返し転生した背景を考えると、私はむしろ、今回の人生を選択した崇高な魂に敬意を表します。
 彼らは彼らなりのプランがあり、今度はもっと上のレベルの世界に行くのだと思いますが、問題はこの世界に残された人たちです。
 その家族とか、被災者とか、それ以外にも日本人全体が、どういう気づきを得るのかということです。
 大勢の方々が、実にさまざまな気づきを得られたと思います。次に進むための出来事だったと思うし、意図的に上のほうがプランニングしていたのだと、私は感じます。
 そしてこういう現象は、今後も定期的に起きます。
 もちろん日本だけでなく、これからは世界の多くの地域や国で起きます。それは東日本大震災と同様、気づきを促す方向で起きます。
 ただし、地震は地殻変動が大きく影響しますので、もちろんそれ以外の理由でも起きます。アセンションするためには、地球自身が大きく変化する必要があります。地球が変わるためには多くの場所に溜まったストレスが大きく発散される必要があります。その発散の結果として地震があちこちで起きることも多いと思います。
 それプラス、人類の「気づき」を促すために起きるものもたくさんありますから、地震だけでなく、経済的な変動や政治的な変動といったさまざまな意味での地殻変動が、今後一〇年間くらいは世界中で起きると考えられます。(坂本政道)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.138−139)