学びの栞 (B) 


 56. 人生の目的


 56-a [54-l] (あなたの人生の目的とは生きることを体験しそこから学ぶこと)

 さて、皆がこの次元にいるのは、いま宿っている化身の密度を通して神を探求するためだ。あなたのこの創造的進化を支えているのが生命というものであり、それは原子をそのあるべき領域に保ち、地球を宇宙の中に浮かばせているのと同じ「生命の力」である。その生命の力には、ひとつだけ法則がある。つねに進化、拡張、そして成長を続けるということだ。いつのときも、あなたの人生の目的とは、生きることを体験し、そこから学ぶこと、学んだものにさらに磨きをかけ、それを生命という法則の中に取り込んでいくことなのだ。
 あなたがいま生きているこの過程が「創造」だ。創造的な思考と戯れているのであり、智慧と叡智を手にして、自分という大いなる神秘を解明していくために、物質を通してそれを表現しているのだ。しかし、また同時に、この次元はすべて幻でもある。三次元の世界が現実そのものであると皆は考えている。そうではない。人間がしているゲームはすべて幻であり夢である。なぜなら、目の前のこの現実は夢とともに消し去ることもできるからだ。真の世界はあなたの内面にある。何かを感じるたびに出会う感情がそれなのだ。真の世界とは感情という観点から見てのみ存在し、論理によってではなく、愛に則って動いているのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 144-145

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 56-b [54-m] (人生という舞台は自分の幻をつくり出すための土台である)

 この世界は、もしあなたが自分の魂の内にある感情を通して知覚する目を持っていなければ、存在し得なかったものなのである。何もなくなってしまうのだ。この物質の天国は、すべてこの創造性の不思議な旅に参加する者たちの魂の内に感情を起こさせるためだけの目的で創造されたのである。いったいなぜなのか?それは、智慧という、生命の中でも最も崇高なもののためだ。智慧は知的な理解ではない。それはまさしく、体験から得られる、感情レベルでの理解なのである。
 人生という偉大なる舞台があなたの世界だ。あなたが自分の幻をつくり出すための土台なのだ。このすばらしき舞台は、自分が望むどんな現実であろうと、夢を現実化するかのごとく存在させられる機会を与えてくれる。なぜなら、神であるあなたには限りなき自由があり、どんな想念を持つことも、どんな感情を感じることもできるし、夢を現実化することもできるからだ。そして、その過程のどの時点においても自分の気持ちを自由に変えてかまわないのだ。
 この密度の高い次元に生きる理由は、その中に脚を踏み入れる者に対し、感情の中にある想念が変われば、すぐ現実がその後をついてくる点を証明することにあるのだ。このことが把握できたとき、このおそるべき創造力に気がついたときに、内面にある、自分が神であることを知っている部分と同調するプロセスが加速されるのである。だが、人間としての体験がなければ、これを知ることは不可能だ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 145-146

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 56-c [54-n] (この神の王国をさらに高め栄光を与えるのはあなたである)

 この人生はあなた自身が内面にしっかりと抱くべきものだ。熱き冒険とチャレンジあふれる豊かな人生なのだ。自分が成長し、なるべきものになるために自分が関わっていくべきことや、進化する機会を提供する開かれた扉を、まわりにあふれんばかりに与えてくれるのである。では、なるべきものとは何なのか? あなたがまさしく神であることを教えてくれる、すべての体験の蓄積だ。神だけが、物質界に自身の栄光を示すような創造物をつくり出す力を持っているのだ。
 あらゆるものに存在価値を与えるのはあなただ。人生という土台にさまざまなものを加えていくのはあなたなのである。この神の王国をさらに高め、栄光を与えるのはあなたなのだ。あなたはこのことを知らないが、それは自分が天使たちよりもいくらか低い存在だと考えてきたからだ。でもそんなことはない! まだあなたはわかっていないが、いずれすぐにわかる。もうすぐあなたに、さまざまな生命と虹と色が、本当の自分とは誰なのかを思い出せてくれるからだ。これが「覚醒の時代」というものだ。そうなったとき、ここでの生活はどんなものになるのだろうか。自分がまさに神の精神の一部だという気づきを開花させるのは、誰もが必要とする体験であることが当然となるだろう。これがわかった後は、どんな冒険が待ち受けているのだろうか。あなたは永遠を手にする。思考の無限性をすべて手に入れられて、物質や時間、空間、距離、そしてあなた自身をも含めた、すべての要素を再評価し、つくり直すことができるようになる。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 146-147

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 56-d [54-o] (この地上界への長い旅では常に神を知ることが目的であった)

 皆が立派な存在なのは、長い旅を経ていまの自分にたどりついているからだ。そして、想念から光へ、電磁場の分裂へ、固体物質へ、そしてこの地上界へと、この旅では、すべて在るものの内の神を知ることがつねにその目的だった。皆は全員、この旅を成し遂げたのだ。これは立派なだけでなく、なかなか勇気のあることと言わねばならないが、そこには多少の危険もある。偉大なる不滅の自己からこの物質界へ変容してくる過程では、自分のアイデンティティを見失い、生存だけにすっかりとらわれてしまう可能性が大きいのである。そして、ああ残念なことに、ほとんどの人間がそうなってしまっている。
 あなたは自分がいったいなぜ、私の言う、この謎めいたことにわざわざ耳を傾けようとしているかおわかりだろうか。それは、いま、私が話したことが真実であるのをあなたは知っているからであり、いまここにあるものすべてを最初に動かし始めた神性、その「知っている自分」に帰してくれる道を探し求めているからだ。自分の奥深い内面では、あなたは自分が物質の集まり以上のものであり、ただの肉体以上のものであること、神なる存在であることを知っている。そう、まさにあなたはそのとおりの存在なのだ。あなたがここにいるのは、このことに気づくためであり、自分の真の姿である神なる本質を受け容れ、原初の光や、あなたの存在の始まりに生命を与えてくれた思考の広がりは確かに存在することを、自分の内面で悟ることなのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 147-148

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 56-e [54-p] (あなたはまさしく生命そのものが存在する理由なのである)

 美しき存在であるわが主たちよ、あなたは風に生命を与えてくれた。太陽にいまいる場所にいるべき理由を与えてくれた。嵐の雲に対し、力を集めて地球に栄養を与え、その渇きを癒してくれる理由を与えてくれたのだ。あなたがそのことを知らないのは、神の其の姿である生命の愛よりも自分は低い存在だといつも考えてきたからだ。私はあなたたちが心から好きだ。私もあなたと同じ存在だったから。あなたの幻を生き、あなたの夢となった。そして私の行ったところに、あなたも行く。だが、まずこの人生をしっかりと受け容れるまで、自分自身を受け容れることで神を受け容れるまでは、そこに行くことはならない。
 わが存在の深淵より、私はあなたに敬意を表する。あなたは真に偉大なる存在だ。本当に愛され、必要とされているのだ。まさに大事な存在なのだ。あなたはまさしく、生命そのものが存在する理由なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 14

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 56-f [44-q] (この世に生きる最大の理由は神である自分を理解すること)

 皆の一人ひとりは、さまざまな理由のためにこの次元に生きている。しかし、最大の理由と言えば、すべての中で最も大きな神秘、つまり自己を理解するためだと言える。これは、私が神、あるいはあなたの内にある父なる存在として語っているものであり、あなたの存在のはじめにその存在理由を与えてくれたものであり、あなたが創造し進化してきた手段でもあり、そしていつかまたあなたがなっていくものである。
 あなたが神そのままになる、つまり自分の内にある神を完全に表現していくとすると、あなたがなろうとしているものはいったい何なのだろう。自分がなるべきものを判断する基準を与えてくれるような神とは、いったいどんな神なのだろうか。それを少し考えてみよう。
 私が愛する神、その僕である神、それを通してすべての神秘のはたらきがなされる神とは、生命の全体性が途切れなく続く姿のことだ。生命の王国が続いていくのは、永遠が続いていくことであり、そこでただひとつ存在するのはいまという瞬間だけである。この「いま」、この特定の瞬間には、神とは在るがままの姿でいるすべてのもののことだ。したがって、この「いま」では、神は在るものすべての「在るということ」になる。そして、これからやってくる無数の「いま」では、神はすべての生命が、それ自体よりもほんの少し先を行く形で脈打っている姿であり、鼓動しながら生き、感じ、広がり、そして進化しながら自己の存在を表現している姿なのである。
 神とはすべて存在するものの最終的な姿だが、境界もないし、始めもないし、終わりもない。それは並ぶもののない無限性なのである。神の「在るということ」は、現実の上にある現実であり、次元の上にある次元であり、宇宙の上にある宇宙なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 149-150

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 56-g (よろこびあふれる存在になるということが人生の目的)

 この地上界での生において、あなたがここにいる目的とは何だろうか。多くの人々は、あるタイプの人間になる、あるいは特定の職業につくことが絶対であると教えられ、必ずそうなるよう家族や社会からきちんと見守られて育つ。何とひどいことだろう。あるいは人類にとって自分が偉大なる師、救世主、あるいは治療者としてここに送られたと想像する人たちがいる。まあ何と高貴なことよ。さらに、神に近づくという、詳細まで誓っている聖なる道、狭き道を一歩ずつ進むためにここにいると感じている人たちがいる。何と退屈な。
 この地上界にやってくるときには、まだ誰も目的は持っていない。父なるものは、あなたにもほかの誰にも、人生はこうなるべきだという指示を与えてはいないのだ。ただし、それにはひとつ例外がある。それは父からあなたへのただひとつの望みであり、存在のあるべき姿の究極を教えている。それは、よろこびあふれる存在になるということだ。よろこびが、あなたにとって何を意味しようとも、である。大切な神なる存在の内面にいるあなたが、幸せでよろこびにあふれていればいるほど、あなたは神に近い姿にあり、すべての生命と調和がとれているのだ。
 幸せになること、よろこびにあふれることは、父のあなたに対するただひとつの望みである。それはまさしく、感情の中で最も偉大な価値を持つものと言える。よろこびを理解し、よろこびそのものになるのは、どの次元にいようと、どんな叡智を達成した者であろうと、すべての人類に神が与えたただひとつの運命の道なのである。よろこびと幸せの状態に戻れば、それは神の状態に戻ることだからだ。よろこびが、父そのものだからである。父とは、いつのときもよろこびの中にある「在るということ」なのだ。
 最も醜悪なものから最高の美まで、父はあなたに何でも好きなものを創造できる力を与えた。あなたがよろこびを理解することを求めていく過程で、父は何でもあなたが望む姿となるだろう。では、父はあなたの行動や自分の欲求を満たすことについて審判を下すのだろうか。いや、そんなことはけっしてない。それが父から息子、ひとつの生命の流れから別の生命の流れへの愛なのだ。父がただひとつだけあなたにしてほしいこととは、それが何であろうと、とにかく幸せになり、よろこびにあふれるために必要なことだ。それが父を知り、父そのままの姿になれるただひとつの道だからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.200-201

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 56-h (人生の目的であるよろこびとは何か)

 よろこびとは何なのか。よろこびとは、まったく邪魔の入らない動きの自由のことだ。価値判断のない表現の自由だ。恐れや罪悪感のない存在のことだ。よろこびとは、自分が、自分自身の条件で人生を創造していることを知っている状態なのである。在るがままでいることを許されている自己の荘厳な姿のことだ。それがよろこびなのだ。
 なぜ、よろこびがすべての存在の状態の中で最も偉大なのであろうか。それは、人がよろこびの状態にあるとき、その人は神そのものである流れとともにあるからだ。その流れの中では、嫉妬や怒りや反感、あるいは戦争などが存在する余地はない。よろこびの状態にあるとき、人を憎んだり、囚われの身にしたり、あるいは傷つけたりするのはむずかしい。幸せでよろこびあふれる状態にあるとき、あなたはすべてのものに見られる神を愛しているのである。
 よろこびが高じた状態にあるとき、あなたはまわりのあらゆるものと平和を保つことができる。生きることがよろこびであるときには、反感を持ったり、不安になったり、恐れや怒り、あるいは何かが足りないと感じることはない。よろこびの状態にあるとき、人は満たされて全きものとなり、生命と叡智、そして創造性が、まるで激しい流れの川のように内面からあふれ出してくるのだ。よろこびの状態にあるとき、人は内面からつき動かされ、最高の偉大さを示し、深い感情を感じる。
 よろこびの状態では、空は最も美しいバラの色となり、雲は燃えるような赤で飾られ、鳥は木々に歌うという朝焼けのごとく、生きることが熱情にあふれ、強烈なものになる。よろこびにあれば、人は年老いていくことをやめ、永遠に生きる。人生はもはや重荷ではなく、いくら求めても求め足りない驚くべき冒険となるからだ。よろこびが目に見えるとき、あなたは自己という自分の世界とひとつになっている。そのような状態では、あなたはユートピアを見つけているのだ。
 よろこびにあふれた状態には、どうしたらなれるのだろうか。もし自分がそう望めば、人生のあらゆる瞬間が、よろこびを表現する機会と自由を与えてくれるのだと知ることによってである。そして、幸せやよろこびや、あるいは神から自分を離してしまう価値のあるものなど、何ひとつないのを知ることによってなのである。そんなものは何ひとつないのだ。何があっても自分を完璧に愛することだ。自分を愛するとき、それは神を愛しているのだから。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 201-203

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 56-i[15-d] (人生において自己に対する愛ほど偉大な愛はない)

 人生において自己に対する愛ほど偉大な愛はない。それよりも偉大な愛はないのだ。自己を抱き、受け容れるという、その場所から自由が存在していくからである。そして、よろこびが生まれるのはその自由からなのだ。よろこびが生まれてはじめて、神を見ること、知ること、心に抱くことができるようになる。最も偉大で深く、意味のある愛とは、肉体の中にあって、動き、思索し、創造し、許し、そしてただ在るこの偉大な生き物である純粋で無垢な自己に対するものだ。どんな自分でもその在るがままを愛するとき、すべての顔、すべてのものの内にあるもの、つまり私が愛する偉大なる本質を、あなたも知ることができる。あなたは神が愛するように愛するのだ。すると、愛することがとても簡単になる。許すことが簡単になる。そしてすべての生命に神を見ることが簡単になるのである。
 自分の在るがままを愛するとき、不可能なこと、手の届かないことは何もなくなる。自分を本当に愛するとき、人は自分の笑いの光の中だけに生き、よろこびの道だけを歩むようになる。自分に恋するとき、その光、そのまとまった力、幸福、底抜けの明るさ、その楽しそうな状態が全人類へと広がっていくのだ。そしてあなたの驚くべき存在の内面に愛があふれるとき、いろいろ不快なことがあるこの世界が美しくなり、生きることは意味を持ち、よろこびにあふれた状態になり、そのよろこびは、あなたという存在のよろこびを通じて、すべての生命を高揚させ、その栄光をたたえ、あなたの存在が純粋であることを謳い上げるのである。
 自己への愛のため、自己を満たすために生きること以上に偉大な人生の目的はない。それを成し遂げるためには、人生に飛び込み、自分に幸せをもたらすことをすることだ。それによってのみ可能になる。たとえそれが何であってもである。それはまちがっているとか、あなたのために良くないなどと、いったい誰が言えるのか? 神はそんなことは絶対に言わない。神はあなたが向かっていくあらゆる方向そのものであり、あなたのすべての体験がもたらす結果でもあるからだ。ほかの人間にどう思うか訊ねたりもしてはならない。あなたの人生を悩ませてきたのと同じ制限を持っているというのに、他人がよろこびについていったい何を知っているというのだ。
 父なる存在は、あなたがよろこびあふれる人間になるよう迫っているようなものだ。あなたが心を開いてそれを受け容れるのを、いつもすぐそばで待っている。「求めよ、さらば与えられん」というのは、そういう意味なのである。いつのときにもよろこびを持つというのは、実は単純なことなのだ。そして、あなたはそれに値することを知ってほしい。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 203-204

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 56-j[15-e] (幸せで喜びにあふれた時あなたは神に近いところにいる)

 よろこびは、よろこびを生む。「迫られている」よろこびを受け容れるとき、それはこれから訪れるあなたの将来の日々のよろこびをさらに高め、あなたの心を開いてもっと多くを受け容れられるようにしてくれる。だからこそ、いつのときも自分を愛するのが絶対に必要なことなのだ。それができれば、これから先の自分の「ペース」が決まるのである。何が自分を幸せにするかを自分に訊ね、それが何であっても、自分のフィーリングが告げるままに実行することだ。自己への愛、そしてそのよろこびのために生きるとき、その陶酔と高揚の瞬間はすべてあなたの存在の魂に記録される。そして今度は、それがこれから先、さらに多くの幸福とよろこびの瞬間をつくり出していくのである。
 幸せでよろこびにあふれたとき、自分を愛し、在るがままの自分でいるときを多く過ごせば過ごすほど、あなたはすべての生にある神の力に近いところにいる。求めるものが、すべて自分を幸せにするため、という状態で人生を生きるなら、あなたは最も偉大な運命に向かって生きていることになる。そして奇跡的なことを成し遂げるだろう。自己と神に対する愛のすばらしい見本となるのである。偉大なる美、すばらしき神秘である自分自身を体験し、理解することができるだろう。最終的には、驚くなかれ、あなたは神の顔を見ていることになるだろう。それが自分自身であることに気づくことによって、である。するとあなたは、さらに偉大な新たなる叡智の中で、もうひとつ別の永遠の生という体験へと向かっていくのだ。
 私の生きた時代、私たちはアトランティア人に「魂なき者」と呼ばれていた。そのとき、私たちが何を探し求めたか、おわかりだろうか。それは少なくとも「目的」ではなかった。自分たちにはないと言われた魂を探し求めたのだ。私はみじめな野蛮人で、人間を憎んでいた。しかし、よろこびというものを知ってから、そして自分がそれに値するのだと知ってからは、すべての生命を維持し、育み、すべての生命そのものである本質となったのである。
 父なるものへと導いてくれるたったひとつの道とは、とにかく何であっても、それが自分のよろこびであると自分で決めたことなのだ。そこへ到達する道はそれだけなのである。それがあなたを神という故郷へと帰してくれるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 204-205

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 56-k[23-n] (あなたは何故この人生を選んで生まれ変わってきたか)

 ―肉体に戻ってくると決めたのは、自分だというのは本当ですか。

 ほかに誰がそれを決めてくれるというのでしょう。

 ―それでは、なぜ私はこの時代、この場所を選んで帰ってきたのか教えてもらえますか?

 この時代、この場所での生を体験するためです。

 ―でも、ここに戻ってきて達成すべき何か特別な目的、ここに帰ってくる理由があったのでしょうか。

 主よ、「特別な目的」というのが、人生を体験するという特権のことなのです。

 ―ということは、それは何でもかまわないと言うのですか。

 何でもかまいません。でもそれは、特定の何かではありません。あなたは、ただ人生を体験するために帰ってきたのです。あなたが「あなた」を選んだのです。あなたではいけませんか? そんなことはないでしょう。あなたはこの時期を選びました。いけませんか? いまはすはらしい時代です。生は花開き、あなたも花開いている時代です。
 生きるということがどうも見過ごされ、あまり感謝もされない体験となってしまっていて、皆、生きること以外の何かを探している状態になっているようです。でも、あなたがここにいるまず第一の大切な理由は、単に生きることなのです! この生で達成できる最も栄光に輝くことといえば、まずこの生を全うすることなのです。これは真実ではありませんか? どんな大王だろうと、まずはじめに王になるための人生がなかったらどうなるでしょうか。王になるのは彼の目的ではなかったのです。そうなったのは、これはなかなかおもしろそうじゃないかと彼が決めたからにすぎません。いちばん大事なことは、王になれる時点まで彼が生きたということでしょう!
 あなたがこの人生で達成できる最も偉大なことは、まずそれを全うするということです。おそらくこれはあなたが聞きたいと思っていることではないかもしれませんが、死期が近づいたとき、この答えがよくわかります。
 皆、存在するための理由が必要と思っています。「おお主よ」と彼らは私に言います。「私の運命は何でしょうか? この人生での目的とは何でしょうか?」。そこで私は答えます。「生きることです!」。すると皆、困ったような顔をして、あまりうれしそうには見えません。何かとても込み入った計画― 大いなる山の頂に立ち、まわりには鳥がさえずり、黄金の衣に包まれた自分が人類の救世主となるような、そんな答えを聞きたがっていたからです。
 主よ、あなたの目的とは、単に生きることです。それから先どうなるかは、この人生でのあなたの美と、生の広がり、成長への貢献の延長なのです。生きることそのものが最も重要なのだと気づき、生きることを通じて言わば「点数を稼ぐ」のだとわかったとき、自分がここにいるのはそれを望み、そうしたいからだと気づいたとき、そしてさらに、ここが自分という存在にとって戻ってくるのに居心地の良い場所だと思っていることに気づいたとき、すべては何も言わずとも理解できるはずなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 206-207

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 56-l[23-o] (この地上に生まれてきたのはここで自己を表現したかったから)

 皆この次元にやってくるのは、ここで生き、ここで自己を表現したいからです。それがすべての人間にとっていちばん大切なことなのです。それがあなたの内に棲む父なるものにとってもいちばん大切なことです。存在が始まってから後に起きることは、何か特定のものにならなければいけないという性質のものではなく、人生のすべての瞬間に、自分がなれる最高のものになるということなのです。それが「創造」です。そして、あなたは必ず創造をしていきます。あなたの内にある神が、そうするようあなたをつき動かすからです。
 あなたがここにいるのは、何か特定の運命のためではなく、生きるためであり、生きている一瞬一瞬に、あなたの創造性あふれる自己が、そしてあなたの魂が強く求めることをしていくためなのです。それがわかれば、創造という領域ではあらゆることすべてが可能になります。言葉では言いつくせぬような世界や人生を創造することができます。自分の命を満たすことができるのです。この明白な自由を持つのを許したとき、あなたは何でも自分が好きなものになることができるのです。そして、自分がそれをすべて体験するのに値するのだとわかったとき、あなたは光り輝き、いつでも好きなときに、何でも好きな望みを満たすのにその光を使うことができるのです。
 皆の次元において最も覚醒した人々の中に、なぜ、ただ施しを受けて生きる放浪者として生きる人がいるのか知っていますか? それは彼らがその瞬間だけに生き、そのとき生きるのに必要なことだけをして、次の場所へと移っていくからです。彼らは数多くの場所に行き、多くのことを見たり、実際にやったり、さまざまな人々に会ったりしてきました。こうして彼らは多大な知識を得るとともに、人間の心についてさまざまな角度からの理解を得てきたのです。彼らはそのままの状態できわめて覚醒した状態にあり、そのままでとても幸せなのです。思うままに生きる自由を自分に許したからなのです。「主よ、でも彼らには何の目的もありません」とあなたは言うかもしれません。彼らの目的とはその瞬間に生きることであり、自分がしたいと思うときに何か新しいこと、冒険的なことに集中することなのです。
 主よ、人生は牢獄となるようにつくられているのではありません。色あざやかでチャレンジにあふれ、数多くのエピソードと冒険が体験できる創造性と自己表現の場となるようにつくられています。そういう体験は、必ずよろこびをもたらすのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 208-209

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 56-m[23-p] (この人生での体験を決定するのは私たちの判断である)

 ―でもラムサ、私は小さいときから、いつもこの場所から離れたいという気持ちがあり、自分の故郷はここではなく、何かほかの場所にあるのではないかと思ってきたのですが。

 それはそのとおりで、確かに別の場所があるのです。生はさまざまなレベル、さまざまな場所で途切れなく続くものです。それはひとつの真実です。
 でも、いまひとつの真実を話します。もし本当にここにいたくないのなら、あなたはここには戻らなかったことでしょう。あなたの存在の内にある生命の力は、さまざまなことを学び、そこから幸福を得るために人生を体験すべくここにいるのです。自分はここに来た何か「高次の存在」で、やってきてはじめてこれがひどい場所であるとわかったのだと思いますか? 「高次の存在」は、どこにいようとも幸福を見いだすものです。
 この次元が困難な時代を迎えるとき、確かにここでの生を少しは耐えやすくしてくれるでしょうから、ほかの場所に行くことを思うのもいいのかもしれません。でも最後は、どこにいようとも、それをどんなものにするかは、自分の選択なのだと私たちは気づくことでしょう。良いも悪いも、幸福も不幸も、わくわくするのも凡庸にするのも、人生の体験を決定するのは私たちの態度であり、判断でしかないのです。
 ここは存在するのにはすばらしい場所です。主よ、そのことがわかれば、あなたは賢き女性になります。別の場所があるのを知っている以上に偉大な美徳とは、この人生を自分の手にとって、それをできるだけすばらしいものにしていくことです。そのあらゆる部分を体験し、それを最高に楽しむことなのです! そうすれば、あなたの存在はこの人生で満たされるようになります。この次元を去るというとき、わざわざここに戻ってこないと体験できないものはもう何もなくなるのです。
 ひとつの方向しか向いていない生き方をし、社会的に受容されるという理由だけでその生き方を続けている人たちは、死に際して苦悩と後悔にさいなまれます。あれをしておくべきだった、これをやるべきだった、あの人を愛しておけばよかった、この人と結婚すべきだった……。こういったすべての「しておけばよかった」ことが、その人をこの場所に戻し、それがすべて満たされるまで「今回はできる」ことを体験させるのです。すべて満たされると、もうここに戻ってくることはありません。

 ―でもそうすると、私はその「しておけばよかった」があったから戻ってきたことになるわけで、それがいったい何だか、いまの私にはわからないのです!

 主よ、それは生きるということです! もしそれではあまりに単純すぎるというのなら、何か生きる理由を自分でつくり出し、心からそれを追い求めなさい。でも、それを満たしてしまったら、今度は何のために生きるのですか?また別の理由、そしてまた別の、また別の、と永遠に続いてしまうわけです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 209-211

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 56-n[23-q] (本当に生きるとはどういうことかがわかること)

 ―すると、このために戻ってきたという特定のものはないわけですね。今回も私が成就できないかもしれないものとか……。

 美しき主よ、叡智というのは蓄積された感情のことです。この次元に来るそれぞれの存在が他と異なっているのはこのためなのです。すでに体験し理解したことは、もう体験しません。なぜなら、もうしたいとは望まないからです。これからまだ理解すべきこと、あるいは自分の命を満たし、智慧を与えてくれると約束することには、あなたはいつも惹かれていきます。それがあなたを誘い、わくわくさせ、神秘の心をくすぐり、そして惑わせるからです。自分を在るがままにして、存在の内から湧き出る欲求、フィーリングに耳を傾ければ、すばらしき自己を、さらなる偉大な叡智と永遠のよろこびへと拡大していくのに必要なことは、あなたはいつも体験していることでしょう。
 さて主よ、あなたの困惑について、ひょっとすると助けになるかもしれない知恵について、お話しましょう。もし存在の理由を必要としているならば、それは永遠というときを通じて、あなたが「在るもの」としてその瞬間だけを生きるということです。それは、「自己への愛」と呼ばれるものです。自分への愛は永遠へと続いていきますが、これやあれになるといった目的は、この生の間に満たされ、次はただ別のものがそれにとって替わるだけのことです。いつのときもあなたとともにあるのはこれしかない、というものは何でしょうか。それは自分をもっと豊かにし、さらに偉大な叡智と自分への深き愛へと広げてくれるものです。つまりそれは、最も厳しい目であるあなた自身の目から見て、自分を最も偉大な人間にしてくれることをしていく、ということなのです。これは永遠に続くものです。主よ、あなたこそが人生の目的なのです。
 これやあれやをしなければならないとか、自分の運命はこうだああだなどと考えることを皆が超越して、その瞬間だけを生き、余計なものを取り払って、在るということに集中するようになれば、それまでとは比べものにならないほどの大いなる幸せと自由を発見します。それは、生の真の状態への解放であり、本当に生きるとはどういうことかがわかることなのです。
 それこそが、あなたの目的です。在ることです!

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 211-212

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 56-o[13-e](すべての人間の究極的な目標は神の意識の状態に到達すること)

  私たちが理解しなければならないのは、すべての人間の究極的な目標は、神の意識の状態に到達することであるということです。この意識に到達したときには、個性は縮小し、吸収されます。人間の個性は普遍的な存在と真に一体となってしまうために、自らをゆだねるなかで、神という力強い存在の一つの脈そのものになってしまいます。そのとき、自我は消滅します。これはまさに究極的な状態であり、私たちが目指しうる最高の状態です。
  しかしながら、これは、個としての人間が神にすっかり吸収されてしまって、自分の意思と知性を駆使して、全体から自分を遊離させ、独立した知性として自らを具現できないということではありません。
 ふつうの人は、この吸収という考えにしりごみするということは私たちも承知しています。これまで人間は自らの個性、人格の発達に努めてきたのですから、無理もありません。しかし、すべての魂はやがて、自分自身を手放し、一つの普通的な生命体と一体になる覚悟をしなければなりません。
 なぜなら、そうすることによってのみ、人間はより偉大な存在になることができるからです。これが、「父と私は一体である」とキリストがいった意味なのです。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.240-241

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 56-p[15-i] (真に偉大な人間は無限にして永遠の力に身を任せる)

 人間は、人生の目的は自己の個人的な利益の追求にほかならないという、誤った信念をもち続けてきました。人生において成功をおさめ、兄弟に打ち勝ちたいと望むなら、どのような犠牲を払ってでも、他人よりも優れた人にならなければなりません。このような生き方は、あらゆる点で、同胞愛という宇宙の法則に対して罪を犯すことになります。自分自身のためだけの利益を追求する人は、すべての霊的な法則を破ることになります。人類全体が同じような生き方を選択し続ければ、結果は病める肉体、病める心、混沌と戦争しかありません。
 真に偉大な人間とは、自分自身の欲望を追求する代わりに、無限にして永遠の力に身を任せる人です。それぞれの人間の魂は、本来の自己を見出すために自己を失わなければなりません。自分の力によって力と達成がやってくるという誤った考えをもっている間は、神を見出すことはできません。
 人間の魂が上昇し、自己中心主義のもったいぶった衣を脱ぎ捨てるとき、最も難しい試験に合格しなければなりません。自己という概念をすべて脱ぎ捨てなければならないのです。そのとき、魂は真っ暗闇の、一見破滅そのものにしか見えない深淵に直面するのです。気がくじけそうになる魂を支えてくれるのは、ただ一つの希望です。それは身をまかせ、降伏し、すべてを捨て、自我のすべての残滓を犠牲にすれば、神という名で呼ばれる、無限にして永遠の愛と一体になれるという希望です。
 このような降伏はけっして自己の消滅ではありません。自己の拡大です。というのは、人間の魂がその地点にまで到達すると、神への愛は圧倒的なものとなり、願うことはただ一つ、神と一体になりたいということになります。そして、その愛が神を自分にひきつけることになり、神性を自らのなかに包み込むことにさえなるのです。すると、すべての人間は神のように見えるようになります。なぜなら、すべての人の中に神が住んでいるのが見えるからです。
 宇宙的な同胞愛を理解する人は、「すべてを捨て、私の後についてきなさい」(キリストの言葉)を文字通り実行することになるでしょう。神そのものである宇宙的な無私を発見するために、すべてを断念し、自分を無にし、自分を放棄しなければなりません。この崇高な瞬間に、人は神と一体になるだけでなく、自分自身と一体になり、すべての生きとし生けるものと一体になるのです。これこそが贖罪です。つまり、神と一体になることなのです。
 人間の同胞愛とはこのことです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.282-284

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 56-q[65-l](障害が少ないよりも沢山ある時の方が多くを学べる)

 肉体を持って生まれて来ると、私達は主として人間関係を通して学びます。私達は他の人々との交流の喜びや痛みを通して、愛についてあらゆる側面から学ぶための霊的な道を進んでゆきます。人間関係は私達の生きた実験室であり、私達がうまくやっているかどうか、レッスンを学んだかどうかを見極めるためのテストの場です。また、生まれる前に決めて来た人生計画にどれくらい忠実か、発見する場でもあります。人との関係によって私達の感情は呼びさまされ、私達は反応します。もう一方のほおを差し出すことを学んだだろうか? それとも、暴力で仕返しするのだろうか? 理解と愛と同情を持って、人々に手を差しのべているだろうか? それとも、怖れと利己主義と拒絶によって反応しているだろうか? 人間関係がなければ、こうしたことはわかりません。自分の成長を試すこともできません。人との関係はすばらしいけれど、とても難しくもある学びのチャンスなのです。
 私達は学び、成長するために、肉体を持った次元にいます。愛、非暴力、慈愛、思いやり、信仰、希望、許し、理解、気づきなどの資質を学ぶのです。そして、恐怖、怒り、憎しみ、暴力、食欲、プライド、欲望、利己主義、差別などの否定的な資質を捨てることも、学ばなければなりません。
 私達はこうした課題を、主に人間関係を通して学んでゆくのです。
 障害となるものが少ないよりも沢山ある時の方が、多くを学ぶことができます。困難な人間関係や多くの障害や悲しみに満ちた人生は、魂の成長にとって最も大きなチャンスなのです。霊的な成長を促進できるように、あなたはわざわざ、より困難な人生を選んだのかもしれません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.92-93

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 56-r (人々の苦しみを癒すために手を差しのべ共感と同情を持て)

 人生の重要な二つの目的は、贖罪と内なる平和です。贖罪と私が言う時、それは自由になることを意味しています。贖罪とは、私達が行動と神の恵みによってカルマを克服するということです。贖罪への道は沢山あります。償いが終ると、私達は魂の運命を取り戻します。
 ここで言う贖罪とは、キリスト教で言う意味ではなく、肉体の生と死のサイクルからの解放と悟りのプロセスを意味しています。これはゆっくりとしたプロセスであり、私達を霊的な故郷へとまっすぐに導いてゆきます。自由になったあとで、贖罪への道を歩んでいる人々を助けるために、肉体の次元へまた戻る選択をする魂もいます。
 贖罪は苦しみからではなく、愛から生まれます。私達の心が愛に溢れる時、そして、その愛が他の人々へ流れてゆく時、私達は贖罪のプロセスにいます。カルマの負債を支払い、消しているのです。私達は究極の愛である神の胸へと、引き戻されてゆきます。
 内的な平和を達成するだけでは不十分です。修道院や苦行の体験はゴールへの手段であって、ゴールそれ自体ではありません。チベットの洞穴にすわり、平静な状態に達するのは見上げたことですが、それは最初の基本にすぎません。肉体の次元に生きるということは、肉体的な行動を必要とします。人々の苦しみを癒すために手を差しのべ、彼らが道を行くのを助けなさい。共感と同情を持ちなさい。地球とその住民、その社会を癒しなさい。学び、そして教えなさい。
 そのプロセスを行なえば、あなたは内的な平和を得るでしょう。たとえ洞穴の中で過す暇がなくなったとしてもです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.198-199

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 56-s[43-h] (人生の体験というのはすべて目的があって生じている)

 みなさんの体験というものは、すべて目的があって生じたものだ。これは大切な問題であり、しかもみなさんの文明ではたいてい無視されてしまっている問題である。人生には、その一日一日に意味がある。あなたがたの魂は、たえずバランスをとり、成長していくために努力を続けている。この宇宙に偶然というものはない。むろん、大多数の人びとは偶然としか思えないできごとの裏にひそむ真実に、気づいてはいないのだが。体験には、自分の人生のめざす方向や信念が関わっている場合もあれば、自分のエネルギーや決意を阻むさまざまな問題、あるいは前世の体験が関わっている場合さえある。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』片桐すみ子訳
    人文書院、1996、pp.16-17

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 56-t[2-y](死に際してどのようなことが起きるのか =3=)

 あなたの知っている「自己」とは、あなたの存在全体からみればほんのわずかな部分にすぎない。物質界で生活してゆく上でもっとも有利なように、自己はごく狭い範囲に限定される必要があるのだ。だが死ぬと同時に、あなたがた一人ひとりの機能は飛躍的に拡大する。たとえてみれば急に千里眼の持ち主となってテレパシーが通じるようなもので、他人の考えを簡単に読み取ったり、多くのことを直観的に理解したりすることができるようになるのだ。まさかと思うだろうが、いったん肉体というわずらわしいものを脱ぎ捨ててしまえば本当にそのような状態になる。あなたは現実に周囲の人びとの考えを読み取ることができる― それも一切言語に頼ることなく。想念の伝達は言語を介さず、普遍的に理解される心の言語によって行なわれる。要は、周囲の人の考えや感情、人柄がすっかりわかってしまうということなのだ。
 もうひとつの重要な変化は、「覚醒」という驚くべきプロセスである。いましがた終えたばかりの人生の主目的は何だったのか、またその目的に向かって精力を傾注できたかどうかが一瞬のうちに明らかになる。こちら側からの自己評価や自己判定を見たなら、きっとみなさんは驚き悲しむことだろう。こちらへやってきて「目覚め」、自分が文字どおり人生という的を射そこなったことに気づく者は多い。彼らは本来の目的を忘れたり脇道にそれたりしてしまったのだ。だからといって、うまく目的を果たした者や本来進むべき方向に忠実だった者が少ないわけではない。しかし、こちらへの到着後ただちに自分が生前いかに盲目だったかを知って衝撃を受ける者を、わたしたちはあまりにも多く眼にしている

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.30-31

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 56-u[2-z] (人が死ぬとどのようなことが起こるか =4=)

 間違った方向に進んでしまう者も多々あるが、それでもなお、賢明で直観力のすぐれた多数の者たち―すなわち有意義な社会変化を創りだす手助けをする人びと―がすでにあなたがたの世界にきている。だが、自分の人生の大切な仕事から大きく逸脱してしまい、こちら側へきてからいつまでも悔やんだり幻滅を感じている者があまりにも多いので、それについて気づいたことをお話ししておきたいのだ。こちらでは時間が意味をなさないとはいえ、彼らは一生を回顧したあとも、当初の決意を立てなおし、自分の失敗を評価し、地上の状況を調べ、次の人生に登録するなど、長い間骨の折れる仕事をせねばならない。
 ところで人生の評価は、こちら側でなされる努力のほんの一部にすぎない。とはいえ、これは自分自身の魂とその成長を直視するという、死後はじめての、しかももっとも影響力の大きい体験のひとつなのだ。これがあまりにも強烈な体験であるために、多くの人はそれ以後の多くの転生―もし転生すればの話だが―において、再びこれまでのように人生に無関心でいるようなことはしない。自分への失望が非常に大きかった人は、次の人生においては目標に対して多大な意欲を持ち、目的を達成するために情熱をかたむけることだろう。しかし、進むべき方向を間違えて本来の目的から外れる危険もつねにつきまとっている。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.31-32

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 56-v[10-n] (霊界で自分が死ぬまでの一生を振り返る =1=)

 みなさんの世界にどれだけ挫折者が多いかという見本を、ひとつお目にかけよう。仮にある女性が、微妙な人間関係の分野の能力を発達させるという、特殊な目的のもとに生まれてきたとしよう。この人生の主たる目標が、人とのコミュニケーションだったとする。それにふさわしい背景はこのようなものかも知れない―過去生でこの人物は、他人に幻滅を感じるあまり自分の殻に閉じこもってしまい、自分の理想とする相手との交際も拒んだ。一見したところ社会でふつうに暮らしているようには見えても、彼女は世捨て人に近い人間となっていた……。
 この不幸な体験から、この人物は次の転生では一転して周囲の人との交際に力を注ぐよう促されるかもしれない。今ならさしずめマスコミ関係の会社のトップの地位につく、といった設定がおあつらえ向きだろう。ところで世間には通念―いわゆる「人生の真理」とされるような観念―というものが数多くあり、そのせいで人びとは往々にして、自分自身の内なる目的に到達する努力を思い止まりかねない。人生に立ちはだかる障害とは自分を強めてくれる手段であり、自分の能力を試すために必要な道具なのだということは、普通はあまり理解されていないものだ。ときにはそれが、何かをあきらめるときの言い訳に使われることもある。さきに想定した人物は、はじめに人との交流に励む決心をしたわけだが、いずれはこの決心を阻む障害に直面することがあるかもしれない。彼女が出会うかもしれない障害をあげてみよう。
 第一番のネックとなるのは金銭的な損失で、みなさんの文明のあらゆる階層にわたる多くの人びとが世俗の誤った通念のほうを信じ、内なる叡知に従うことを放棄している。つまり拝金主義が横行していると言ってもいいだろう。拝金主義に陥ったとき「神は死んだ」という言葉は真実となる―なぜなら金儲けは誰にとっても、最終目的とするにふさわしいものではないからだ。仕事のため、また必要なサービスや製品の供給のために金銭を得る必要があることはわたしも否定はしない。金銭は本来は悪いものではない。事実わたしたちの側から見ても、その重要性は明らかだ。金銭はエネルギーの一形態であり、建設的にも使えれば浪費することもできるのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.32-33

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 56-w[10-o] (霊界で自分が死ぬまでの一生を振り返る =2=)

 くだんの人物が直面する第一の難関は、金銭上の問題かもしれない。仮に運命の女神が彼女の決心を試すために、自分ひとり食べていくことすらおぼつかない薄給の仕事を続けざるを得ないような立場に、彼女を置いたとしよう。彼女には少なくとも次のような三つの選択肢がある。
 @ 自分や家族の生活を犠牲にしても仕事を続ける。
 A 仕事をやめ、もっと給料の高い仕事を捜す。
 B 現在の仕事の範囲内でもっと豊かになる。
 仕事の世界では、真に心を満たしてくれるもの、自分を表現するに値するものが何であるかを探求し、知ることが大切だ。金銭的な豊かさ自体が最終目的なのではない。豊かさは、霊的な意味で果たさねばならない仕事から生じた、副産物であるべきなのだ。
 ここでひとこと触れておかねばならないのは、こちら側からはこの種の決断を一心に見守っており、人びとがよりよい決断をくだせるようさかんに働きかけを行なっている、ということだ。くだんの友は孤立無縁ではなく、彼女がりっぱに自己実現を果たせるようにこちら側から送られる信号を、直観を通じてひんぱんに受信しているのだ。もっとも彼女はあなたがたの世界からも、実生活が貧しいことについてあれこれ言われることだろうが……。
 正しい決断がくだされたときには、こちらには応援団がいて、くだんの友がすばらしいバレーの演技を終えでもしたかのように大喜びで拍手喝采を送る。彼女は終始助けを受けた結果、自分が正しい決断をくだしたという確信を強める。彼女は物質面において犠牲を払ったり危険をおかしたりすることを要求されるかもしれないが、理性を働かせるだけでなく自分の心に従うことによって、物質的な要求も十分満たされることだろう。世間で言うところの豊かさではないかもしれないが、もっと普遍的な基準による豊かさを得るのだ。くだんの友にはなにひとつ不足はないことだろう。彼女は食物も住む家も、仲間も生きがいも手にするだろう。解決のための真の鍵とは、内なる声に忠実であることなのだ。
 この例によって説明したいのは、みなさんの人生の根底に横たわる構造であり、死の直後に明らかになることがらなのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.33-34

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 56-x[10-p] (霊界で自分が死ぬまでの一生を振り返る =3=)

 ではつぎの例に移ることにしよう。
 ある人物の場合は金銭的な問題がネックとなるかわりに、自分の才能が原因となって仕事がうまくいかないかもしれない。腕をみがくのは並大抵のことではなく、満足いく結果に到達するためには一心に勉強し、多大な努力を振り向けねばならないことを彼は思い知らされるだろう。これもまた、明らかな試練のひとつである。この場合もし十分にエネルギーを投入せず質の高い仕事をしなければ、彼はチャンスを逸することになる。典型的なケースとしては、会社をくびになったり、事業主の場合なら破産して事業を撤退せざるを得なくなったりするだろう。
 これらは多くの人びとが関わる可能性のある、ごく一般的な障害だ。では珍しいところで、首尾よくいきすぎる体験というのはどうだろうか? 皮肉なことだがこれもまた、人びとが自分の価値観にこだわるために直面する困難のひとつである。金儲けに成功したり有名になったりすることも、やはり試練となりうるもので、最終目標に到達することを阻むものなのである。不幸なことにみなさんの世界では、一般に巨万の富や名声を手に入れることはたいそう名誉なことだと思われている。だが魂の成長という基本原則からすれば、これは事実ではない。成功によって権勢を帯びることも、単に試練にすぎないのだ。もちろん、名声が真の功績や人を助けた結果生じることは少なくない。だが狡猾な商法や資源の誤用、私利私欲のための資源の濫用などの結果、富や権力がもたらされることもまた多いのだ。もし仕事に成功し、その成功をさらに大きな善行やより高い理想を成就するために利用できるなら、その人生の目的は本当に果たされたことになる。
 要するに新たに「死んだ」人の魂は、こちらに到着するとまもなく、さきほどお話ししたような具合に自分の人生を評価し、及第したかどうか判定しなければならない。もし合格点に達していなければ、どのような態度が妨げとなったのかを調べて誤りを正すために真剣に検討に取りかかるのである。
 援助の手は絶えず差し伸べられる。くだんの旅行者があたりを見まわすと、そこにあるのはまったくの見知らぬ世界ではないにしろ、これまで期待していたような神々しい天国とは全然違う世界である。半分人間で半分鳥の姿をした羽のはえた天使などというものは存在しない―もっとも、天使のイメージは、もはや重力や肉体的な限界に妨げられることのない魂をあらわすのにふさわしい象徴ではあるが。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.34-35

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 56-y[10-q] (霊界で自分が死ぬまでの一生を振り返る =4=)

 これまでの話からおわかりのように、この世の人生全体だけでなく魂の領域での生活においても、魂を成長させ、理解を深め、目的を達成する、ということが基本なのである。どの魂も、さらに知識を深めたいと切望している。一歩前進するごとに報いがあり、さらに成長するための努力目標ができる。こちらの領域でもみなさんの領域でも、進歩を達成したからといってそれに甘んじて歩みを止めることは決してない。どの段階においても、それを越えればまたつぎの目標があらわれて、前方へと手招きするのである。
 というわけで、新たに死んだ人物は自分の一生を回顧し、所業を判断したり失敗を評定したのちに、成長の助けとなるつぎの体験に引き寄せられていく。望めば思いどおりに先生や教室―ただし霊界版の先生や教室だが―も見つかるだろう。似たような体験をした人や同程度の発達をとげた人びとの仲間に入るよう、導かれるかもしれない。そうすれば互いに助けあうことができるからだ。もし大きな過ちを過去に犯したことがあったり、プライドが高くて仲間に入れない場合は、みずから心貧しい状況を作りだし、しばらくのあいだ心の狭さのために自縄自縛の状態に置かれるかもしれない。この境遇はじつにみじめに思えるかも知れないが、心を改めて援助を受け入れられるようにならないかぎり、状況を克服することも改善することもできないだろう。こちら側にいるわたしたちの眼から見ればそのような魂の貧しさは一目瞭然なので、彼らが自尊心が高すぎて助けを求められないでいるのがいかにも皮肉なことに思われる。彼らがいくら同情やあわれみを誘っても、求めがなければ救いの手を差し伸べることができないのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.36

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 56-z (人生の目的は富の蓄積ではなく人格の成長にある)

 みなさんの人生の目的は、人格の成長にある。これは必ずしも富の蓄積や利己的な目的の追求といった、自分の利益を追求することではない。みなさんの本来の目的は、お忘れかもしれないが、人格を成長させることなのだ。人格の成長は、本来の自己を深め、本来の自己を周囲の人びとと分かちあうことによって行なわれる。皮肉なことだが、真の自己発見とは、他人に自分を惜しみなく捧げることによってのみ達成されるのだ。
 人びとの間で起きてきた「アイデンティティーの危機」の多くは、彼らが、自分の人生を創りだす自分の心の内部にしか眼がいかないために生じたものだ。もし自分がどのように他者に奉仕できるかを理解すれば、自分の人生に対処するにあたって危機に陥らずにすむだろう。道は開けているのだ。
 一方、どのようにすれば本来の自己になれるかを理解するには、あなた自身の経歴を探ることが重要だ。みなさんがたの文明世界に暮らすほとんどの人には、子供時代に一定の転換点があったはずだ。転換点にきたとき、彼らは本来の自分というものを放棄してしまい、他人からこうあって欲しいと思われるような人間、つまり他者に認められる人間になろうと決断したのだ。こうしてお話ししている一語一語はすべて、読者を目覚めさせ、今生の人生の目的を思い出し、理解してもらうためである。経験を積んだ霊的存在であり、より視野の広い肉体を持たない魂として、わたしはみなさん一人ひとりにお願いしたい―あなた自身の幸福、そして世界の幸福のために、どうか自分の内奥からの直観のささやきに耳を傾けてほしい。心の声を聞き、その声に忠実であってほしい。最初に感じた衝動や利己的な動機は疑ってみることだ。考え抜いてから行動に移そう。そうすれば、どんな自己満足よりさらに大きい喜びと霊的な報酬がもたらされることだろう。人のために尽くせば、あなたは想像以上の大きな平和と歓びを味わうことだろう。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.98-99

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 56-za[23-zm](人生の目的は快楽をむさぼることではない)

 わたしが禁欲主義者のような生活を勧めているとは考えないでいただきたい。あなたはすでに「上のほう」のわたしたちが、みなさんの生き生きとした性の快楽を全面的に肯定しているのをご存じであろう。これと同じく、美しい庭を世話することであろうと、おいしいものを食べること、美しく着飾ること、この世の果実を享受することであろうと、みなさんが世界の美に喜びを感じるのを見ることであれば、それはわたしたちにとっての喜びなのだ。このように安心して人生を楽しむ保障があってこそ、自分自身を大切にし、みずからをはぐくみ愛そうという気持ちも生まれてくる。泉の水が干上がっていては、他人に水を与えることはできない。
 人生が一回かぎりしかないというのは間違いだ。したがってみなさんの目的は、できるかぎりの快楽をむさぼることではない。あなたは幾度も繰り返し生を享け、この世の転生を終えるころには光り輝く霊的存在となるはずだ。前途の道程の長さに、絶望しないでほしい。
 行動や思想が立派だからといって地上で称賛される必要はない。あらゆる行動、あらゆる動機はすべて宇宙の広大な領域に記録されており、みなさんは嘘偽りのない、あるがままの存在として判断される。他者からの注目や尊敬を求めるのではなく、私利私欲ぬきで誠実に他の人びとを豊かにするよう努力しながら、地道に人生に取り組んでいこう。あなたは今生でも来世でも、自分の魂に満足することによって十分に報われることだろう。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.99-100

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 56-zb (人生とは発見ではなく創造のプロセスである)

 愛に支えられた行動をとれば、自分はほんとうは何者か、何者になりえるのかという、栄光に包まれた経験ができるとおっしゃいました。そのことを、もう少し詳しく説明してくれますか?

 あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなたがた、そして生きとし生けるものすべての目的は、できるかぎりの栄光を体験する、ということだ。
 話したり、考えたり、行動したりするのもみな、この目的のためだ。魂がすることはほかになく、魂が望むこともほかにはない。
 この目的のすばらしいところは、決して終わりがないことだ。終わりとは限界であり、神の目的にはそんな境界線はない。できるかぎりの栄光を体験できたら、その瞬間にもっと偉大な栄光を想像するだろう。栄光を体験すればするほど、もっと大きな栄光の可能性が開けるし、その可能性が開ければ、あなたはさらに栄光を体験できるようになる。
 最高の秘密は、人生とは発見ではなく創造のプロセスだということだ。
 あなたがたは自分を発見するのではなく、自分を新たに創造していく。だから、自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうではなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.36-37

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 56-zc (私たちは何かを学ぶために生きているのではない)

 人生は学校ですか?

 いや。

 何かを学ぶために、生きているのですか?

 ちがう。

 それでは、何のためにこの世に生きているのですか?

 自分が何者であるかを思い出すため、そして創りなおすためだ。
 わたしは、何度もくり返して語ってきた。だが、あなたがたは信じなかった。それはそれでいい。あなたがたが真の自分になぞらえて自分自身を創り出さなければ、真の自分にはなれないのだから。

 ちょっと待ってください、わからなくなりました。人生は学校かというところまで戻りましょう。おおぜいの教師に、人生は学校だと聞かされてきました。それを否定されたのですから、正直に言うとショックです。

 学校とは、知らないことを教わりたいと思うとき、行くところだ。すでに知っていて、その知識を体験したいというときに行くところではない。
 (あなたがたの言う)人生とは、概念として知っていることを体験的に知る機会だ。何も学ぶ必要はない。すでに知っていることを思い出し、それにもとづいて行動すればいい。

 よく、わからないのですが。

 それでは、はじめから説明しよう。魂―あなたがたの魂―は、知る必要のあることはすべて知っている。隠されていることは何もないし、知らされていないこともない。だが、知っているだけでは、充分ではない。魂は体験したがっている。
 自分が寛大であることを知っていても、寛大さを示す何かをしなければ、概念にすぎない。親切であることを知っていても、誰かに親切にしなければ、自意識があるだけだ。
 自己についての偉大な概念を偉大な体験に変えたい、それが魂の唯一の望みだ。概念が体験にならないかぎり、推測にすぎない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.37-39

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 56-zd[44-zl] (存在のすべてであるものは無でもある =1=)

 また、わからなくなりました。あなたがご自分を経験したんですか?

 そう。では、こう説明しようか。

 まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。ほかには何もなかった。
 その、「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」―あるのはそれだけで、ほかには何もないから。ほかに何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じだった。
 これが、時のはじめから神話が語りつづけてきた、「すべてであって/無である」ということだ。
 さて、「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。なぜなら、「存在するすべて」であることの絶対的なすばらしさを概念的には知っていたが、体験的には知りえなかったから。そこで、自らを体験したいと激しく望んだ。すばらしいというのは、どんな感じなのか、知りたがった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「すばらしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「存在のすべて」は、すばらしくないとはどういうことかわからなければ、すばらしいとはどんなものかを知ることができなかった。否定があってはじめて、肯定があるからだ。
 ここまでは、わかっただろうか?

 たぶんわかったと思います。続けてください。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.39-40

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 56-ze[44-zm] (存在のすべてであるものは無でもある =2=)

 よろしい。
 「存在のすべて」が知っているのはただひとつ、「ほかには何もない」ということだけだった。外側に比較対照するものがなければ、いつまでも自らを知ることはできない。「存在のすべて」には、そんな比較対照の基準がなかった。比較対照の基準が何かあるとすれば、それは内部にしかない。これが「すべてであって/ない」こと、「わたしであり/わたしでない」ということだ。
 だが、「存在のすべて」は、自らを体験的に知ろうとした。
 このエネルギー ―純粋な、見えず、聞こえず、観察できず、したがってほかの誰も知りえないエネルギーは、自分のすばらしさを体験しようとした。そのためには、自分のなかにある比較対照の基準を使わなければならないと気づいた。
 そこでいみじくも考えた。一部は全体よりも小さいはずだ。それなら自らを分割すれば、それぞれの部分は全体よりも小さいのだから、残る全体を振り返って、すばらしさを知ることができるだろう。
 そこで、「存在のすべて」は自分を分割した。栄光の一瞬に、「これであるもの」と、「あれであるもの」とになった。はじめて、「これ」と「あれ」が分かれた。しかも、どちらも同時に存在している。また、「どちらでもないもの」も存在している。
 こうして、突然に三つの要素が生まれた。ここにあるもの。あそこにあるもの。そしてここにもあそこにもないが、こことあそこが存在するためには存在しなければならないもの。つまり、あらゆるものを包みこむのは無である。空間を包含するのは、非空間である。部分を支えるのは全体である。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.40-41


 56-zf[10-s] (毎日あなた方は自分を創造するために生きている)

 人生は創造であって、発見ではない。あなたがたは、人生に何が用意されているかを発見するために毎日を生きているのではなく、創造するために生きている。自分ではわかっていないだろうが、あなたがたは、一瞬一瞬、自分の現実を創造している。私はくり返し、そう話してきた。
 どうしてそうなるのか、どんなふうに創造しているのかをまとめてみよう。

@わたしは神の姿をかたどり、神に似せて、あなたがたを創造した。
A神は創造者だ。
Bあなたがたは三つが一体になった存在だ。その三つをどう呼んでもいい。父と子と聖霊でもいいし、精神と身体と霊でもいいし、超意識と意識と無意識でもいい。
C創造とはその三つの部分から生ずるプロセスである。言い換えれば、あなたがたの創造には三つの段階がある。創造の道具は思考、言葉、行為だ。
Dすべての創造は思考から始まる(「父から生じる」)。すべての創造はつぎに言葉になる(「求めなさい、そうすれば与えられるだろう。話しなさい、そうすれば成就するだろう」)。すべての創造は行為によって成就される(「言葉はひととなって、わたしたちの間に住まわれた」)。
Eあなたが考えるだけで言葉に出さなくても、ひとつの段階での創造だ。考えて言葉にすれば、もうひとつの段階での創造になる。あなたが考え、語り、行動すると、具体的な現実になる。
Fほんとうは信じていないことを考えたり、語ったり、行動したりすることはできない。だから、創造のプロセスには信念、つまり知るということが含まれる。絶対的信頼だ。願うだけでなく、確実にそうなると知っていなければならない(「あなたは信仰によって癒される」)。したがって、創造行為には、つねに知識が含まれる。何かを身体で理解し、まるごと確信する、「完全に受容する」ということだ。
Gそこまでわかっていれば、強い感謝の気持ちが生まれる。感謝せずにはいられない。それがたぶん、創造の最大の鍵だ。創造が具体化する前に、創造に感謝することだ。願いは当然かなえられると信じることだ。そう信じてもいいどころか、信じたほうがいいのだ。それこそが悟りの確実なしるしだ。すべての〈マスター〉はあらかじめ、ことが成就すると知っていた。
Hあなたが創造するすべて、創造したすべてを祝福し、楽しみなさい。一部でも否定すれば、自分の一部を否定することになる。あなたの創造の一部としてどんなものが現れようとも、それを自分のものとし、祝福し、感謝しなさい。非難しないように努めなさい(「非難するなんて、とんでもないことだ」)。非難するのは、自分を非難することだからだ。
I自分が創造したなかで、楽しめず、祝福できないものがあったら、選びなおしなさい。新しい現実を呼び出しなさい。新しいことを考え、新しい言葉を口にし、新しいことをしなさい。立派にやり直せば、世界はあなたについてくるだろう。「わたしが生命であり、道だ。ついてきなさい」と言いなさい。

 これが神の意志を「天国と同じく、地上にも」実現させる方法だ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.124-125

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 56-zg (自分の天命を探りそれに従って生きることが根本的な責務)

 あなたの地上人生には目的がある。いや、あらゆる生命体に存在の目的がある。あなたの送るべき天命のパターンは自分では分からないかもしれない。一生涯分からないまま終わる人が多い。が、実はその天命を探りそれに従って生きようとすることがこの世での人間の根本的な責務なのである。
 たいていの不幸、たいていの挫折、たいていの病気はその天命を知らないか、ないしは間違ったことを天命と思い込んでいることから生じている。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp.38-39

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 56-zh (私たちの人生は無作為に当てがわれるものではない)

 人生は無作為に当てがわれるものではない。れっきとした目的がある。その全体像は見出せないかもしれない。多分あなたもそれは死ぬまで無理であろう。が、計画というものは間違いなく存在する。それを少しでも多く悟ることである。そしてそれに素直に従って生きることである。肝心かなめは、そうした努力の中で得られる霊的進化なのである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』近藤千雄訳、(潮文社、1988)p.39

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 56-zi (仕事をすることの意味と人間関係からの学び)

 最近ネットのデイトレードで株の取引をして何億円と稼ぐ人たちが現われました。今という時代は仕事やお金に関わる価値観が非常に変りつつあるように思えます。
 仕事をするということは、どういう意味を持っているのか、考えたことがありますか。簡単に言えば、まず肉体を養うためです。古く時代を遡れば、仕事とは狩猟や農耕をすることでした。時代は変っても、仕事の目的とは結局のところ、食べていくためであり、肉体を養うことであるのに変りはありません。
 そして、仕事をすることのもう一つの目的が、実は人間関係を学ぶためなのです。考えてもらえれば分かると思いますが、私たちが好むと好まざるとに拘らず、人とつき合わなければいけないのは、職場だけです。主婦であれば家庭が職場となるでしょう。いわば二十四時間の在宅勤務。他の人間関係の場合、親子関係が嫌であれば、成人してから、自立・独立すればいい。友人だって、気に入らなければ距離を置けます。しかし、職場だけは辞める以外には、嫌な上司や部下とも付き合わなければいけません。主婦も嫌な舅や姑がいたりすることもあれば、夫の顔を見たくなくなることもあるでしょう。それでも家庭を維持していかなければいけないのは、会社と同じことです。
 もちろん、職場が嫌で仕事を転々とする人もいますが、それが出来るのは、経済的に余裕がある人です。それでも、ある程度の年齢になって転々としていたら、一からやり直すことになります。給料だって減り、家族を養っていくことに影響が出てしまうでしょう。ヘッドハンティングなどで給料が上がる場合もあるでしょうが、職場が嫌で仕事を辞めてしまうような「逃げ」の転職の場合では、まずそのようなことは考えられません。
 多くの人は、どんなに嫌な職場で、人間関係が苦手でも、身体を養うためには辞められないのが実情でしょう。理不尽なことがあっても耐えていくことで、人間性が磨かれるのです。この世で人間を成長させる場は職場にしかありません。お金をもらえるうえに、人間性まで高めてくれる――、こんな一石二鳥の、ありがたいことはないではありませんか。
 女性の中には「職場で仲のいい人ができない」という悩みを抱える人がよくいるのですが、職場は友達をつくる場所ではありません。本当の友達は外で作ればいいだけの話です。同様に、「楽しい職場につきたい」と話す人が多いのですが、楽しいところには、お金を払って行くべきで、お金をもらったうえ、楽しく働きたいというのは、少しずうずうしくはありませんか。そう考えれば、オンとオフとの切り換えも上手になるはずです。
 また、職場において、たいして仕事も出来ないのに、上司のウケがよく出世する人もなかにはいるかもしれません。それでも、その人を批判することはできません。この世の物質社会では要領の良さは限度問題ではありますが、個性の一つですから。努力の方向のベクトルが正しいか否かは別にしても、世渡りの上手い人は、上手い人なりの努力はしています。
 ゴマスリや世渡り上手も、そこに溺れなければいいのです。酒と一緒で飲んでも飲まれるな。演じている自分を冷静に見ている客観性があれば、問題ありません。要はたましいさえ売らなければいいのです。大切なのは「仕事をするために生きているのではなくて、生きるために仕事をしている」と思うこと。何のために生きているかと言えば、それはたましいを成長させていくため。その視点を忘れてはいけません。それが「たましいの視点」です。その「たましいの視点」がないままに、物質のために生きている人が多くはないでしょうか。何のために仕事をするか、その意味合いを哲学していけば、全ては自分の成長のためであって、仕事に悩むこともないのです。
 ですから、私はネットで商売していたり、ネットの株取引で膨大な利益を上げていたりする若い人がいると聞いても、いいとも悪いとも思わないのです。ある意味で、ものすごく気の毒なケースもあるからです。ネット上でマネーゲームをやって、お金を得ても、それは自立した引きこもりというだけで、いくらお金という物質を得ても、その物質を生かしきれない。結局、もてあますしかないわけです。
 何度も言っていますように、私たちがこの世に生を受けたのは「経験」と「感動」をするためです。例えば、ネットの世界で何億円と稼いでいる人でも、その人にはその人なりの悲しみがあるかもしれないわけです。
 そういう人たちに対して、「あいつらはおかしい」とか、「何十億円も稼ぎやがって」とか、世間の人たちはどうしても裁きたくなる傾向があるようです。しかし、裁いてはいけません。なぜなら、その人の人生を生きているわけではないので、その人の辛さが分からないからです。

   江原啓之『日本のオーラ  ― 天国からの視点 』新潮社、2007、pp.69-73

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 56-zj (この世にやってきた子どもたちの使命) 

 時代の変化に伴い、新しいタイプの子どもたちが増えていると実感することがあります。「何のために生まれてきたの?」と訊ねると、「地球を変えるため」「このままだといけないから、社会を変えないといけないから」と多くの子どもが答えるのです。
 両親や周りの大人たちが戸惑うほど独自の感覚を持って生まれてくる子どもたちが増えていますが、そんな子どもたちと出会った大人たちのカルチャーショックときたら、相当のものです。意味不明だとお手上げ状態になることもあります。
 でも、そんな子どもたちの声に耳を傾けると、大人が見過ごしている社会の綻びに気付かされるものです。学習障がいや自閉症などの子どもたちは、閉塞感漂う教育システムに対して一石を投じるために生まれてきた可能性があります。
 成し遂げるべき課題があってやってくる子どもたちが、天命を全うできるかどうかは、周りにいる大人たちに委ねられています。
 子どもたちが、ミッションを成し遂げるまでの道のりは平たんではありません。共に歩むおかあさんもたいへんです。何度も倒され、何度も傷つき、何度も諦めそうになります。
 でも、私たちに必要なのは、倒されない強さや傷つかない強さよりも、そのたびに立ち上がる粘り強さだと思います。挫折や苦悩を糧にして、さらに輝きを増すことを魂は望んでいます。
 私たちが生きる意味を知りたいと思うのは平穏なときではありません。試練に遭遇し、自身が生まれてきた意味を問い直すとき、私たちはこの世に生まれてきた真の目的を天命として知るのかもしれません。
 では、魂は、なぜ何度も転生をくりかえすのでしょう。それは、過去生や現世でやり残した課題があるからと考えられます。いろいろな経験もしたいのでしょう。
 神様に与えられた天命や自分自身で決めた使命がありながら、それを果たせずに、道半ばで人生の幕を閉じることはよくあることです。人生は試練の連続。そう簡単にミッションを成し遂げることはできません。
 でも、肉体を離れた魂は、中間生で少し休憩をして、再び別の肉体に宿りこの世に降りてきます。さまざまな経験を重ねながら少しずつ魂が磨かれていきます。そして、何度目かの転生を経て、天命を全うしていくのです。
 来世で使命を果たすために現世がある。そう思えれば、困難も、つらい出来事も勇気を持って乗り越えることができるような気がしませんか。(池川)

  池川明・大門正幸『人は生まれ変われる』(ポプラ社、2015、pp.171-173)

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 56-zk (私たちはなぜこの世に生まれてきたか)

 なぜ私たちはこの世に生まれてきたか。
 それは前世でやり残した課題をクリアするため。今までのたましいの歴史において、自分の短きところである短所は補い、長きところである長所は伸ばし、たましいをより磨こうと決意して生まれてきています。そのための課題となるカリキュラムを自分でちゃんと決めているのです。
 そして、私たちはカリキュラムを一番よく学べる学校として家系や家族を、自らで選びます。例えば、自分に何かしら学ぶべき課題があって、そのために酒乱の父親がいる家庭を選んでくるといったこともあるでしょう。
 前世の因果に、家系の因縁もあって、現世に生まれてきているのが、今の私たちです。
 そして今の自分の運は、「前世の因果」「家系の因縁」という成分を含んで、因縁果として運ばれてくる運というわけ。ですから、学ぶべき課題として自分を成長させるような運が運ばれてくることもあるのです。

     江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、pp.33-34

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 56-zl (人間はみんな魂のなかに「大我」を持っている)

 人は、人とかかわるために生まれてきます。人と切磋琢磨しながらたましいを成長させることが、人生の一番の目的なのです。
 ところが昨今、あらゆる場面で、人間同士の絆が変質してしまっているように思えてなりません。自分さえよければよく、人との絆を大切にしない。相手に求めるばかりで、自分から与えるということをしない。人を恐れ、人ときちんと向き合うことができない。そんなふうに、一人ひとりが「小我」のかたまりになってしまっているのです。
 そもそも、自分自身と向き合う時間さえほとんどないのが現代人だとはいえないでしょうか。来る日も来る日も、ただ日課をこなすことで精いっぱいで、まるで濁流に押し流されるようにして生きている。みんなが忙しすぎるのです。
 情報も多すぎます。あの情報、この情報にふりまわされてはみんなが右往左往。自分のたましいの声に耳を傾けることなど、どんどん後回しになっています。電車のなかでも、レストランでも、街を歩きながらでさえ、携帯電話の画面から目を離せない人たちをよく目にしますが、彼らはいったいいつ自分の心と向き合っているのでしょうか。
 物騒きわまりない世相からも、たえずわが身を守らなければなりません。他人を思いやるのはそのあと、ゆとりがあったときにといったていどになりがちです。
 人間ですから、みんなたましいのなかに「大我」を持っているのです。どんなに見失いそうになっても、「神」のエネルギーは、ちゃんと自分のなかにあるのです。
 しかし今の時代、自分を正常に保つことにエネルギーの大半を奪われ、「大我」が発揮されにくくなってしまっているのです。

    江原啓之『人間の絆』(小学館、2007)pp.188-189