学びの栞 (B) 


 57. いのち・寿命・健康


 57-a [9-l] (あなたはいつまでも生きられる力を自分の内面に持っている)

 たったいまのこの瞬間にも、もし自分でそう選ぶなら、あなたは時間を完全に止めて、いまというこの瞬間の永遠の中に生きられるのです。だって、時間は幻なのではありませんか? いったい誰が時間を見たことがあるというのでしょうか? ここには大いなる欺瞞があります。皆は目に見えないものを信じるのは拒むというのに、時間だけは完全に崇拝し、その奴隷にまでなっているのですから。
 あなたはまったくそのままの状態で、自分の化身の老化のプロセスを逆転して若いときに戻し、いつまでも生きられる力を自分の内面に持っているのです。どうやってでしょうか? ただ自分の考え方を通してです。自分の肉体が老いて死ぬことを望まないならば、あなたの考え方を変えることです。身体は永遠に生きるのだ、と態度で示すのです。そうすれば、そのとおりになります。自分の人生から、身体の終焉を認めるようなものをすべて取り除くのです。そうすれば、身体は永遠です。自分の語彙の理解の中に「年老いた」という言葉があってはいけません。かわりに「永遠」という言葉を入れるのです。誕生日を祝うのをやめなさい。それは老化の過程に正当性を与えることになります。誕生を祝うことがよろこびをもたらすのであればそうすべきですが、それなら年を数える過程を逆転して、ひとつずつ若くなりなさい。死を当然のことと受け容れなければ、死が来たこともわからないでしょう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 117-118

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 57-b [2-g] (不死は死ぬという考えをなくしたときにはじめて達成可能になる)

 いつもいまを生きることです。このいまの瞬間のほかには、どんなものであろうと未来の存在を認めてはいけません。あなたの現在は、自分さえそれを許せば、永遠になるのです。自分があとどのくらい生きるかなどと考えをめぐらせてはなりません。あなたはずっと生き続けます。自分の身体の永続性のことを思うのです。そうすれば、そうなります。真実とはまさにそういうものなのです。
 主よ、自分を愛しなさい。身体を祝福してあげなさい。あなたの存在の盟主である魂に語りかけ、若さの酵素をもたらすよう命ずるのです。それだけでよいのです。身体は永久に生きられることを知りなさい。
 不死は、死ぬという考えをなくしたときにはじめて達成可能になります。人類全体がもし未来や過去に生きるのをやめ、この現在という、いま起きている瞬間の繰り返しの中に生きるようになり、生きるという考えが死よりも強いものになれば、死と呼ばれる茶番は消滅させられるでしょう。将来、それは必ず消滅します。なぜなら、時間はもはや存在しなくなり、ここで語ってきた叡智は、この地上に生きるすべての人にとって生きた現実となっているからです。そうなれば、死はまったく意味のない無の存在と化すのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 118-119

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 57-c[52-b] (歎異抄から学ぶいのちの優しさ)

 今までも何度か『歎異抄』に助けられてきましたが、このたびはまことに、なんと申しますか、開かずにはおれませんでした。読む力がなくてもただただ開いてみるというだけのような状態で開きました。実際読んでみる、という力が、長い間なかった。そのような状態が半年もつづいたのではないでしょうか。ある時、この5章の冒頭の言葉に全身を打たれる思いを覚えたものでした。
 「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」これが冒頭の言葉です。この言葉が頭の中にひびいた。非常に不思議な感じがしました。その時の私の精神状態は、恐らくただ子供のことで一杯だったと思えます。もう何を考えても、手遅れである。この世では何もしてやることができない。そのような思いで一杯だった。ならば、なおあの世へ向けて、してやることがないものかというようなことを、探していたのだと思われます。そして、念仏して、せめて供養でもという思いになっていたのではないかと思います。だから冒頸の言葉が、私にはまことに不思議にひびきました。同時に納得のいかない言葉としてひびきました。せめて供養なりと思っていたのに、そのような念仏を称えたことがないとおっしゃるのですから、そうです。つまり、もうおまえには子供のためにしてやれることは、何もないというふうに聞こえたわけです。「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」と言われているのです。おまえは、死んだ子のために何をしてやろうとしているのか、というふうにも聞こえます。何もしてやることはないんだというふうにも聞こえます。どうして私に、その言葉をそのまま聞き過ごすことができるでしょう。これが普通のことだったら、もう読むのをやめたかもしれません。だが、私は子供を死なせてしまった人間でした。まず身近なものを助けることができるだろうと言われているのに、わが子を助けることができなかった身として、どうしても問うてみないわけにはゆきませんでした。念仏とは何か。なぜ、親鸞はそのように言われるか、と。親である私に、何もしてやることがないとは、あまりにも、無情ではありませぬか、と。私はその理由を尋ねました。すると、その言葉に対する答えとして言われていました。
 「そのゆへは一切の有情ほ、みなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりて助さふらふべきなり」。
 私はしかし、この「そのゆへは」以降の理由を読みまして、いっそうわからなくなりました。平たい言葉で言いますと、ここでいわれているのは、一切の生きとし生けるものは、いのちとしてはみな生まれかわり生きかわりしている、そのときどきのいのちにおいてみるなら、父であり母であり兄弟である、ということでしょう。いのちとして等しいということ。いずれも、この次にめぐってくる生において、誰もが仏になって、他を助けてあげるものだからと、このように言われているのだと思います。これが私にはまことにわかりかねた。
 なぜか。私は自分の父や母や兄弟を知っております。ですから、これが自分の父や母や兄弟のこととして言われたのでしたら、すっとわかるわけです。しかしながら、生きとし生けるものと言いますと、庭の金魚も木も、そして虫たちも鳥たちも、あらゆる生きものすべてを指します。あの木たち、あの虫たち、蝶々たち、あの花や鳥たちが、すべて父や母や兄弟であるというふうに言われて、私にどうしてわかりましょう。わかりませんでした。その後、繰り返し考えをつめてまいりまして、今、私は自分がどうして理解できなかったのか、おぼろげながらわかる気がいたします。私の人間中心主義的なものの考え方が、この「一切の有惜は・・・・・・世々生々の父母兄弟なり」という教えを理解するのを妨げていたのです。つまり、いのちというものを、人間の立場からだけ見ていたのです。その限り、あらゆるいのちが、その根本においては平等であるということは、決して見えてこなかったのだと言えましょう。

  高史明『いのちの優しさ』 ちくま文庫、
    1987, pp.154-156 

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 57-d (私自身が死ぬ日をつぎのように予告する)

 この手記のさいごに私は、ジョン・ウェスレーというある教会の牧師に送った手紙のことを記しておく。わざわざこのような私信を私がここに記すのは、この中に私は私の最後の交霊術の結果を入れてあるからだ。この結果は、厳格にいえば私の死後でなければその正しさが証明されないのであるが、私は私の死後それが証明されるのを確信している。
 私はジョン・ウェスレーにつぎに記すような手紙を送った。彼は、それまでは私の見知らぬ人であったのだが、私は霊としての知覚で彼に手紙を送るべき必要のある事がらを知ったからである。
 「私は、あなたが霊界において私に会いたいと希望していることを知った。また私は一七七二年(来年)三月二九日に、この世を捨て本当に霊界の霊となることに前々から決まっているので、このことも併せてお知らせしておくことにする」
 彼からは、つぎのような驚きを込めた返信が来た。
 「私は有名な霊媒であるあなたのお名前をかねて聞き知っています。私はあなたからの手紙を友人たちの面前で開きました。しかし、私が霊界であなたに会いたいと希望しているのが、会ったこともないあなたにどうしてわかったのかと、一同その不思議に非常に驚いています」
 私は彼の霊からの交信により、彼の希望を私の霊的知覚で知ったのだが、これは生者の霊との交信であり、私にとっても数少ない例であった。それはともかくとして、私の生者の霊との交霊術はこの部分についてはウェスレーからの返信で正しさが証明されたわけだ。
 私がこの世に残すものは、現世の用を果たし終えた、この私の肉体のほかには、この手記があるだけである。だが、この手記を書き終えた私には、もはや現世に思い残すこととて何もない。
 私がウェスレーへの手紙で示した私の死の日の予言もやがて私の死後において、その正しさが証明されるであろう。(註)

  スウェデンボルグは、この予告どおり、1772年3月29日に他界した。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.233-234

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 57-e (人間の命の始まりと終わりには定められた時機がある)

 たとえば人工呼吸器のような延命装置によって生きつづけている場合、ここにもやはり神聖な意図が働いているとわたしは信じます。どんな病気や健康上の危機に見舞われたときでも、成長や進歩があり、そこから個人も社会も学ぶことができるのです。医学の躍進や技術革新もこうした成長の一部です。あらゆる発見はそれに適応した時機にもたらされます。人間の自我が政治的経済的利得にこれほど支配されていなかったら、おそらく、ほかにも驚異的な進歩や発明が現実のものになっていたかもしれません。
 しかし、人類には偉大な知識が与えられていて、生産性豊かで質の高い生活を営むための道具を生みだすことができます。一世紀前にはこの世に知られていなかった特効薬とか予防接種も含めて、現代の医学技術によって多くの命が救われてきました。科学はみずからの業績、とりわけ、人間の命の質を維持できる能力に誇りを持つべきでしょう。キーワードは質″です。医学の専門家たちはここで神を演じているのではありません。たとえ演じたくてもできないでしょう。わたしは機械にすがった延命治療の是非を問うつもりはありませんが、次のようなことを指摘しておきたいと思います。
 以前から何度も述べているように、命の始まりと終わりには定められた時機があります。肉体から離れるべきときが来れば霊は自然に離れていくものだ、とわたしは固く信じています。科学がみずからの能力をいくら過信しょうとも、どれほど多大な努力をしようとも、全宇宙を統べる偉大なタイムレコーダーを止めることはできません。繰り返しになりますが、魂は可能なかぎりの状況を体験しようとするものです。延命装置につながっていることで魂は科学になんらかの貢献をし、次世代のための偉大な発明に寄与するのかもしれません― それは単に医学にとどまらず、ほかの分野にもおよぶかもしれないのです。こうした状況をわたしたちは魂の観点から見なければなりません。たぶん、魂はこのような特定の体験をすると承知のうえで転生してきたのでしょう。家族のメンバーや友人たちが愛と共感を身につける機会になるのですから。忘れないでください。魂は愛の受容と命という聖域の認識について学ばねばならないのです。
 道義的判断と同じで、個々の魂はそれぞれこの種の決断をしなければなりません。何度も申しあげますが、魂とは唯一無二の存在で、それぞれ異なった霊的欲求を持ち、自己の成長に最もふさわしい体験をしなければなりません。そこには正しい答えも間違った答えもないのです。こうした問題に関して他者の決断を批判するのではなく、その体験とレッスンを霊的観点から考慮することこそわたしたちの務めなのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.190-192

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 57-f[2-zd ] (あなたは死にたくても死ねないのである)

 堂々と働いて生きていたその尊い生命が最後にはウジ虫のエサになることで終わる、という考えをもった人間からどうして価値あるものが生まれてこよう。どうして精神の向上が得られよう。豊かな生活がどうして送れよう。
 私は人間の不幸せもストレスも心配も病気もみな、そうした理解の欠如から生まれていると確信している。あなたは永遠に不滅なのである。永遠に生き続けるのである。死にたくても死ねないのである。
 この事実を受け入れさえすれば何もかもが一変する。永遠に生き続けるという視点から見ると、何もかもが違って見えてくる。かりに今一つの問題を抱えているとする。それを百年後に振り返ったらたいしたことに思えなくなっているであろう。まして二、三千年後に別の世界でのびのびと生活している時に振り返ったら、バカバカしくて話にならないことであろう。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、p.57

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  57-g (死後も生き続けることを知ったら人生思想が一変する)

 自分という個性が死後も生き続けることを知ったら、その日から人生思想が一変してしまう。生き方、考え方、他人への態度、物的財産についての考え方、要するにこの地上における生活全体についての考え方が百八十度転回する。その後の人生のあり方について霊界通信にその拠り所を求めるようになるのはいたって自然なことである。かくして霊媒現象の二次的な利用価値は、霊的思想の普及ということになる。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988、pp.77-78

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 57-h (工場製品の大量摂取が昨今の病気の主な原因)

 英国は世界でも最大の白砂糖の消費国であるが、関節炎の患者の数も世界一であるのは偶然ではない。両者には関連があるのである。
 精白された小麦粉とパンの大量消費は胃の疾患と関連がある。小麦の皮、胚乳、胚芽といった事実上栄養となるもの全部が取り除かれているのである。
 今日のパンはまるで化学工場製品となってしまっている。蒸した白いパン生地をさらに白く見せるために漂白粉を入れ、長もちさせるために保存料を添加する。こうした工場製品″の大量摂取が昨今の病気の主な原因となっている。ビタミン類、アミノ酸、微量栄養素、そしてそれ本来の風味までが、複雑な製造工程の中で完全に取り除かれている。
 見た目を良くするために着色料を使用する。口あたりを良くするために甘味料や香料や粘稠剤を使用する。
 最後に出来上がった製品は見栄えがするし、事実おいしいかもしれない。また食卓にのぼらせるにも確かに手間がかからない。が、健康には良くないのである。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988、pp. 136-137

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 57-i (人間の食生活に入り込んでいる化学薬品の脅威)

 朝食用のセリアル食品(オートミール、コーンフレーク等)が毎朝大量に消費されている。主婦はちゃんと栄養をとらせたつもりで夫を仕事へ見送り、子供を学校へ送り出す。
 が実を言うと、たいていのセリアルは、そのセリアルを詰めている箱のボール紙よりも栄養価が低いのである。製品工程で食品としての価値がすべて取り除かれているので、栄養価を増すために合成ビタミン類を添加しているものもある。
 インスタントのマッシュポテトも同じである。じゃがいもは冬期のビタミンCの供給源である。インスタント食品にはもはやビタミン類は残っていない。
 母親の中には便利さとか体形を崩さないためとか、その他もろもろの女性特有の利己主義から、母乳を飲ませないでミルクで育てている者がいる。
 そのミルクを出す乳牛はストロンチウムをたっぷり含んだ大地で育った草を食ベている。その草には殺虫剤がばら撒かれている。さらに飼料の中には乳量を増すためのホルモン剤や他の薬品が混入されている。
 これでは、そのミルクを通してどれほど多くの化学薬品が赤ん坊の体内に入っていくことであろうことか。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 137-138

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 57-j (ほとんどの病人は自分で自分を病気にしている)

 健康も一つの能力である。努力によって立派なものにすることができるものである。もちろん先天的な疾病はある。が、それは例外に属する。ほとんどの病人は自分で自分を病気にしているのである。
 病気を治し元気いっぱいの健康体を回復したければ、そのために全身全霊を込めなくてはいけない。そのためには食生活を変え、人生思想を変え、心の持ち方を変え、ライフスタイル全体を根本から変えなければならないかもしれない。その気になるかどうかはあなた自身が決めることである。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 138-139

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 57-k (あなたは健康になるためにどうするべきか)

 私のもとを訪ねる人がよく「健康になるのでしたらどんなことでもします」と言う。が、本気でそう言っている人はきわめて少ない。
 タバコを止め、アルコールを断ち、肉、加工食品、砂糖、白パン、精白小麦粉を摂取しないようにし、代わって果物、野菜、豆類、純正なセリアルによる食養生をしたら、すぐに快方へ向かいはじめるはずである。
 また紅茶もコーヒーも止めて、ミネラルウォーターだけにしたら、永年蓄積した不純物が除去される。さらに生活習慣を改めて一日に二、三マイル歩くようにし、車やバスに乗らないようにし、なるべく屋外に出て、たとえば庭いじりのようなことをすることである。
 次に、感情が病気の主な原因となっているから、日常生活における心掛けを変え、新しく霊的思想を摂取して、精神安定を確保する必要がある。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、p. 139

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 57-l (明るく楽しいふりをすることで自分を健康へ導いていく)

 人体の制御機能は心の姿勢に反応する。腹を立てると脈拍が増す。血圧が上がる。アドレナリンが血中へ送り込まれる。傷を負った時に備えて凝血度を高めるためである。さらに筋肉が緊張する。かくして全身が戦いと防御と逃走に備えるのである。
 恐怖心を抱くと冷や汗をかき、喉が渇き、時には一時的なマヒが起きることすらある。身体上には何の危害もないのに、それだけの反応が瞬時に起きるのである。つまりそうした生理反応を起こさせたのはあなたの心の姿勢である。そしてまた、その警戒態勢を解除させるのも、安堵という心の姿勢の変化なのである。
 このように、あなたの身体の反応をコントロールするのは心の姿勢一つなのである。そこで私が発見した秘密を披露しよう。
 それは、たとえ偽りであることを承知の上でも、明るく楽しいふりをすることによって、健康へ導くことができるということである。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 141-142

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 57-m (一時間であなたを幸せで健康に変えていく方法)

 怒りと心配が緊張と病気を生むように、楽しさと楽観的な心の姿勢は健康と鎮静をもたらしてくれる。だから、取り越し苦労やみじめな思いをせずに、何でもいいから自信と愉快を表わすものを表現していれば、たとえ内心ではそのふり、そのマネをしているだけであることを知っていても、生理がそれに順応してくれるのである。
 おやりになってみるとよい。今なさっていることを中止して、この場でそれを実行してみられるとよい。これから一時間だけは幸せこの上ない人間が見せる態度を全部表現してみるのである。
 まず、にっこり笑ってみよう。今度は声に出して笑ってみよう。次に何か歌ってみよう。会う人ごとに今日はとても気分がいいこと、すてきな一日であること、世の中は素晴しいところで、これほど楽しい思いをしたことがないことをロにするのである。それを一時間だけやってみるとよい。
 本当にそうだと信じていなくても構わないのである。そういう態度を装うのである。すると身体の制御機能が反応を示すようになる。
 オヤ、この人間は幸せで健康なんだ。血圧を上げる必要はなさそうだ。余分な酸素もアドレナリンも酸も防御体制も必要ないみたいだ。ならばこれ以上よけいな化学成分を出すのはよそう。そして、そろそろ正常な状態に戻そう
 そう判断する。そしてその通りに働くのである。すると一時間もすると気分が良くなってくる。これまで病気にさせていた不調和状態を、今度は健康を保つ調和状態に変えてくれるからである。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 142-143

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 57-n (人は自分の寿命を決めて生まれてくる)

 人は生まれる前に、自分の人生の長さを決めてきます。いつ、どうやって死ぬのかも、すでに決まっているのです。
 つまり寿命とは、もって生まれた「宿命」なのです。
 「宿命」と「運命」は違います。宿命は、生まれる前に決まっていて、自分では変えられないもの。たとえば、生まれたときの性別、国籍、家族環境などを指します。
 一方、運命は、自分の手で切り開けるもの。たとえば、どんな容姿に生まれるかは宿命ですが、その容姿をどう磨いていくかは運命です。誰でも努力しだいで、魅力的な容姿にすることはできるのです。
 宿命と運命、この二つは分けて考えてください。
 人の寿命は、運命ではなく、宿命です。
 自分の力で変えることは、基本的にはできません。
 ただし、例外はあります。たとえば、マザー・テレサのように、まったく自分を捨てて人のために尽くす生き方ができるようになった人は、定められた寿命よりも長く生きることができます。
 でも、それは「生きている」というより、使命のために「生かされている」というほうが正確でしょう。自分のことを中心に考えるわがままな気持ち(小我)を完全に克服して、人のため、全世界のために尽くそうとする気持ち(大我)だけの人間になれたときに生じることです。誰にでも起きることではありません。
 反対に、寿命を縮めることは簡単です。
 たとえば、自殺は宿命ではありません。自ら決めてきた寿命を自らの手で縮める行為であり、これは運命です。自分の力で変えられるものです。自殺するかしないかは、あらかじめ決まっていることではないのです。

    江原啓之『天国への手紙』集英社、2007、pp.30-31

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 57-o (命の長短によって幸せ不幸せが決まるわけではない)

 幼くして亡くなった子どもを見ると、多くの人が「かわいそうに」と涙します。百歳を超えた大往生であれば、「長生きできてよかったね」と言います。それは一般的にみればごく自然な感情でしょう。
 けれど、よく考えてみてください。命が短かったからといって、イコール不幸でしょうか。長かったからといって、イコール幸せでしょうか。
 若くして亡くなったなら、多くの人生経験を積むことはできませんでしたが、周囲にたっぷり愛され、庇護される喜びを味わえたでしょう。はつらつとした若い肉体のままで死ねるのは、ある意味では幸せです。「もっと生きたかった」と悔やむ思いは出てきますが、そのせつなさを味わうこともまた学びなのです。
 長く生きれば、それだけ多くの経験を積むことができますが、老いて体の自由や経済的なゆとりを失い、子や孫の心配をしながら生きることは、大きな試練ともいえるのではないでしょうか。その意味では、みんな平等なのです。
 命の長短によって、幸せ不幸せが決まるわけではありません。
 死後の世界の存在を明確に理解していれば、これは自然にわかることです。
 「死後の世界なんてない」「この世だけがすべて」と思っていれば、確かに若くしてこの世を去った人は「かわいそう」かもしれません。けれど、たましいは今生一度きりで消滅してしまう存在ではないのです。
 今回、短命を選んで生まれてきたのは、短い命だからこそ学べることがあるからです。長命を選んで生まれてきたのは、長い命だからこそ学べることがあるからです。
 学びの内容は違うでしょう。でもそれは、たとえば三十分の芝居のテーマと、三時間の芝居のテーマは違う、というだけのこと。どちらにも感動と経験と学びがあります。ただその種類が違うだけです。
 今回、短命を選んだたましいは、来世では長命を選ぶかもしれません。長く生きることによって得られる感動と学びを欲するからです。今回、長命だったたましいは、次は短いなかで得られる感動と学びを求めて、短命を選ぶかもしれません。
 そうやって、人はあらゆるパターンの人生を生きるのではないでしょうか。
 すべてのパターンを経験したたましいは、とても豊かになるはずです。あらゆる人の気持ちが理解できるからです。
 現世を見てもそれがわかります。いろんな人の気持ちが理解できるやさしい人は、何度も再生をくり返してきているのです。かつて自分も同じように悩み苦しむ人生を生きた前世がいくつもある。だからこそ、多くの人を理解できるし、やさしくなれるのです。
 もちろん、生まれるときは過去世のすべてを忘れてきているわけですが、たましいの記憶のなかに呼び起こされるものがあるのでしょう。
 そういう人は、誰に教わらなくても、死後の世界の存在、たましいの存在を信じることができます。命の長短によって幸不幸が決まるわけではないことも、経験しているからこそ、すんなり理解できるのです。
 いずれにしろ、人の命は長くても百年。それは永劫に続く時間の流れのなかで見れば、ほんの瞬く間にすぎません。
 そのなかで長い短いといっても、ほとんど違いはないといえます。百年生きたとしても、おそらくあっという間です。
 時間の長短は問題ではないのです。そのなかでどういう経験と感動をし、愛を学んだか。たましいを磨いたか。それによって人生の質は決まるのです。

    江原啓之『天国への手紙』集英社、2007、pp.33-35

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 57-p[17-zu] (延命治療では寿命が延びているわけではない)

 霊的視点からいうと、延命治療には意味はあまりありません。
 今は医療技術が発達していますから、肉体を永らえさせる方法はたくさんあるでしょう。けれど、それはただ肉体が機能している、というだけで、たましいはもう肉体を離れたがっているのです。
 人は肉体とたましいが重なって生きています。二つをつないでいるのは、肉眼では見えないシルバーコードと呼ばれる霊的物質です。霊視すると薄い半透明のコードのようなものに視えます。死ぬときは、このシルバーコードが切れて、肉体からたましいが離れるのです。西欧の伝説に出てくる死神が大きなカマを手にもっているのは、そのカマでシルバーコードを断ち切るためだといわれています。
 延命治療をしているときは、シルバーコードはつながったまま、たましいがふわりと浮かんでいる状態です。ふるさとに戻ろうとしているたましいに、足かせをつけて引っ張っているようなものなのです。
 延命治療をして、何日か命が永らえたとしても、寿命が延びているわけではありません。厳しいようですが、回復する見込みはほとんどないのです。現世側から見ても、霊的世界の側から見ても、将来的な発展性は少ないのではないでしょうか。
 延命治療をする理由は、ただひとつ。残される側の執着です。
 本人が望んで延命治療をしているケースは、ほとんどないでしょう。残される側が、なんとか助かってほしい、死んでほしくない、そう思ってしまうから、もう無理だとわかっていても、できる限りの手を尽くすよう病院側に頼んでしまうのです。民間治療にすがって、何も食べられない病人に大量のサプリメントを飲ませたりする場合もあります。
 医療側も、末期だとわかっていると、もう家族を止めません。それが患者の負担にしかならないとわかっていても、気のすむようにさせてしまうのです。また、「少しでも長く生き延びさせることが医者の腕」と考えている人も少なくないかもしれません。
 けれど、くり返しますが、死は決して不幸なことではありません。定められた寿命が来たというだけのこと。亡くなる本人にとっては安らぎなのです。
 残された人は、その人と自分とのかかわりを噛みしめ、その死が伝えようとするメッセージに耳を傾けながら、命の終わりを、旅立ちのときを、ただ静かに見つめてください。
 むやみに執着することは、相手を本当に愛していることにはなりません。
 その人がいなくなる喪失感と寂しさに、自分が耐えられない、というだけなのです。それは相手への愛ではなく、自分への愛です。
 相手を愛しているつもりが、結果的に苦しめるだけになる。それは残される側が望んでいることでもないはずです。
 あきらめる、ということ。
 それは一見、冷たいように見えますが、実は相手のことを本当に思いやる愛です。その冷静さと強さが、残される側の人々に求められているのです。

     江原啓之『天国への手紙』集英社、2007、pp.46-48

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 57-q (無理に医療などで延命を図ることをどう考えるか)

 霊魂は不滅である、つまり人は死なないとしたら、なぜ医療が必要なのでしょうか。この世がこの世限りなら、いつ死んでもよいはずです。あるいは、もし人の生があの世まで続くなら、どうせ行くあの世にいつ行ってもよいと思う人もいるのではないでしょうか。だとすれば、無理に医療などでこの世の生を伸ばそうとする必要はないのでしょうか。
 そもそもこの世での人生の目的のひとつは、仕事、ボランティア、近所付き合い、家庭など、形や場を問わず、自分のできる利他行為をしていくことだと私は考えています。また、私のように医療に従事する者は、現在自分ができる最善の医療によって、患者さんの寿命を全うする手伝いをすることだと思っています。
 いうまでもなく、医師の第一義的な使命は患者さんの病気や怪我を治すことにあり、そのための治療方法、また医療機器や新薬の評価・研究を怠ることはできません。ただ、その一方で死期の迫った患者さんに対してどのような終末期を迎えてもらうか、ということも極めて重要だと考えています。かつては、自分自身やみくもに少しでも長く患者さんを生かすことだけを考えていた時期もありましたが、誰にでもやってくる「死」をいかに穏やかに迎えていただくことができるかということも、とても大切な役割だと現在は考えています。また、治療の甲斐なく患者さんの救命が不可能となったときに、緩和医療についてご家族にどのタイミングでどのような伝え方をすればよいか、今では自分なりに確信が持てるようになりました。
 今の西洋医療は、怪我や急性期の病気の治療を得意としていますが、慢性期の病気についてはまだまだ不十分です。むしろ、医療とともに医食同源的な意識を持った生活が大切です。今の高齢化社会を考えると、「老」に「病」はつきものですが、「病は治すもの」という発想で、薬だけで適正な状態を維持しようとするのではなく、食生活へも目配りをして、不要な薬を服用しないようにする必要があるのかもしれません。

   矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.215-216

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 57-r  (豊かな生と死の手がかりを掴んでいくために) 

 現在、医療技術は日進月歩で進歩し、それなりの成果をあげています。しかし、最先端の治療を施しても、寿命が来れば人は死ぬ(この世を去る)。あたりまえといえば、あたりまえのことです。
 けれども、このあたりまえのことを、忘れているのではないかと思われる人を目にします。日々の医療現場でも、病院に来れば死なないと思っている人、医療に一〇〇%を求める人、寿命という言葉を知らないのではないかと思われる人、そういった人が少なからず見受けられるようになりました。
 人が病気になる原因として、体質、ストレス、生活習慣など、様々なことがいわれています。しかし、救急医療の現場で、日々人の生と死に立ち会う我々医師にとっても、本当のところはわかりません。情けないことながら、わからないことだらけというのが実情です。人は必ず死ぬ、長時間にわたって呼吸や心臓が止まったり身体がひどく損傷したりすると死ぬ、その程度のことしか確実にいえることはありません。ましてや、人の本当の寿命など我々医師にわかるはずもありません。
 生来の持病、不治の病、夭折、事故、流産、自死。人の死には様々なかたちがありますが、どうして自分が、どうして彼(彼女)が、という死に対してある種の理不尽さ、不条理感を一般の人々が抱くことについては、私にも理解できます。ただ、生命というものの複雑さや不思議さを思い、「生きる」ことと同時に必ずやってくる「死ぬ」ことについて、我々人間はもっとしっかりと見つめることが必要なのではないでしょうか。我々は、死を想い、生きることの意味、人間の存在意義を理解することによって、豊かな“生”と“死”ということについての手がかりをつかむことができるのではないか。
 以上のような認識のもとに、生命は我々が考えるほど単純ではないこと、医療でできることはごく限られていることを一般の人々に理解していただき、自分の命を人任せにせず自分自身で労ってほしいという思いをささやかながら述べてみたいというのが、本書を執筆する最初の動機でした。
 なお、本書で紹介した霊魂についての様々な事例については、なかなか信じることができないかもしれません。ただ、私としては頭から先入観をもって否定するのではなく、そんなこともあるのかもしれないな、といった程度の思索のゆとりを持っていただければ、と思うのです。
 実のところ、本書のモチーフは極めてシンプルなものです。人間の知識は微々たるものであること、摂理と霊魂は存在するのではないかということ、人間は摂理によって生かされ霊魂は永遠である、そのように考えれば日々の生活思想や社会の捉え方も変わるのではないかということ、それだけです。そして、それを繰り返しているに過ぎません。そのため、くどく感じられる読者もいらっしゃるかもしれません。ご容赦ください。
 なお、現在の日本では自死よりも孤独死の方が多い、そして孤独死がどのように扱われるか、という現実を読者のみなさんに知っていただきたかったため、亡き母には申し訳ないと思いながらも、あえて遺体発見後から検視・検案を経て埋葬されるまでの過程を詳述したことをここに記しておきたいと思います。

    矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.219-221

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 57-s (永遠に生きることが私たちの宿命である)

 私たちの肉体は、私たちの魂が操作している物質です。
 ご当地キャラが何かと話題ですが、あれと同じく、いわば「着ぐるみ」です。この世は物質世界ですから、肉体という物質をまとって生活することが必要なのです。その肉体が何らかの原因で朽ち果てると、魂は着ぐるみである肉体から離れて私たちが元いた場所へと帰還する。
 これが「魂は永遠に生き続ける」というしくみです。
 著作活動を続けていて、ひとつわかったことがあります。
 それは、こうした事実を女性は世代を問わず、割とすぐに受け取ることができるけれど、男性は世代を問わずなぜか受け取るのが難しいということでした。
 永遠という概念が、文字で見る印象以上に実感としてとらえにくいものですから、右脳(直観)が優位な女性と、左脳(論理)が優位な男性では、意識面での乖離が生まれてしまうのだろうと感じます。
 しかしながら、魂が永遠のものであるというしくみを理解できないと、私たちがこの世で感じる多くのストレス、例えばお金、仕事、恋愛、友人関係、家庭などにおける悩みごとは、いつまで経っても解消しにくいのではないでしょうか。
 今悩んでいることは、もしかしたら前の生(前世)で自分が積み残してしまった、クリアできなかった課題ではないのか? 少しだけそう考えることができれば、私たちはそのストレスに悩みながらも、課題を解決するために立ち向かうことができます。
 ちなみに魂が永遠のものであるからといって、今回の生を軽んじることは許されません。今回の生は今回限りです。二度と同じ内容の生はありません。今、皆さんが演じている「役割」も、次回の生では全く違うものとなります。
 さらに今生での自分の学びを終えないまま人生を終えると、次の生に課題として積み残されます。
 ここで、私たちが知るべき事実が二つあります。
 それは「自分も他人も、いろいろと学ぶために生まれた」という事実、そして「この世の誰にも他者の学びを邪魔する権利はない」という事実です。
 人生はたった一度きりであるという考え方も、そろそろやめたほうが良いでしょう。魂という根源的な存在を認めることができれば、すぐに理解いただける真理だと思います。
 永遠に生きる。さまざまな存在に見守られて生きる。それが私たちの宿命なのです。

    矢作直樹『見守られて生きる』幻冬舎、2015、pp.4-6

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 57-t (私たちは「誕生と死」を何度も行き来している)

 誕生と死、これは「こちらの世界、あちらの世界」と言い換えられます。
 両者には、それぞれ役割があります。
 生とは私たちのこの世での誕生を意味しますが、誕生が始まりで死が終わりという考え方は間違っています。魂の流転を理解できれば、生が永遠であることがわかります。ですから本来、死という考え方は存在しません。
 死とはこの世での肉体死を意味しますが、肉体の死は魂の死ではありません。単に肉体という名の着ぐるみを脱ぐ、一つのプロセスです。肉体が滅びることで、私たちはあちらの世界に戻ることができます。
 するとあちらの世界では、私たちの帰還=誕生というイベントになります。私たちはこの世での生活を終えると、あの世で「再誕」するしくみです。
 これは 「入り口と出口」をイメージすると良いでしょう。
 自分が入ろうとする建物の入り口は、建物の内側からは出口ですが、そのドアは同時に「外への入り口」です。内と外という言葉はユニークです。要は自分がどちらに視点を置いているのかによって、そこが内側だったり外側だったりします。私たちは、生まれたり死んだりということを何度も繰り返していますから、誕生というドアを出たり入ったりしているのです。
 誕生してこの世を生きるということには、いろいろな経験をするという目的があります。
 毎日を生き切る、執着を手放す、他人や自然や神様に日々感謝する。
 生きるということは死ぬことを前提とした、自分自身の壮大な物語です。

   矢作直樹『見守られて生きる』幻冬舎、2015、pp.16-17

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 57-u (子どもに先立たれた親の深い悲しみ) 

 子どもに先立たれた親は、かつて経験したことのないほどの深い悲しみと、奈落の底に突き落とされるつらさを味わうといわれています。
 「自分が代わってやりたかった」
 「あの子のためにもっとできることがあったのではないか」
 「なぜ、わが子だけがこんな目に遭わなければならないのか」
 身を切り刻むような思いが、さまざまに胸をよぎるでしょう。あとを追いたくなることすら、あるかもしれません。十分に悲しむことに反対ではありません。でも本当のところは死んだたましいも向こうの世界で大丈夫なのです。亡くなった子どもは周りの人に、「そんなに悲しまないでください」といつもメッセージを送っています。私たちは死から命の大切さ、愛の尊さなど、いろいろと学んでいるのです。同じ体験をした者同士が集まり、悲しみを話し合うことも大きな癒しになるでしょう。輪廻転生を知れば、死を前向きに捉えることができるかもしれません。人の死は周りの人をスピリチュアルな世界に導く大きな役割を持っているようです。
 死は単なる肉体からの卒業だ、だから怖れなくていい、というのはたましいの真理ですが、無理に感情を抑える必要はありません。本当につらいのなら、何年だって泣いていても、いいのです。食事ものどを通らず、仕事はおろか、息をする気にもならないほどの悲しみもあるのが現実だと思います。涙も涸れ果てるほど泣くだけ泣いたら、きっと、人生っていったい何なのだろうと考えるようになるでしょう。新しい道が開けるかもしれません。
 そして、やがて、必ず気づくことでしょう。
 あまりにも早く終わってしまったわが子の人生だけれど、それは決して無駄なものではなかった。7歳で死んだ子どもは7年間を、18歳で死んだ子どもは18年間を、最大限に生き抜いたのだと。神様からのすばらしい贈り物だったのだと。あの子はもしかしたら、天使が自分の親に大切なことを学ばせるために生まれてきて、そしてまた故郷に帰っていったのかもしれないと思えるようになるかもしれません。
 「可哀想な子だった」と悲しみ続けていれば、その子の人生そのものが可哀想になってしまいます。
 亡くなった子どもが、自分たちの人生に登場してくれたことに意味を見出し、子どものたましいは、確かに今生を生き抜いた尊いものであったと親が確信するようになれば、子どもの短い一生は光り輝くものとなるはずです。
 人の死に出会うことによって、私たちは、観念的ではなく、心の深い場所で、人生の本当の意味を知ることができるのではないでしょうか。それは同時に、生きることの大切さも目覚めさせます。すべての死は大切なものを遺した人々に与えてくれます。

   山川紘矢『死ぬのが怖いあなたに』イースト・プレス、2011、pp.29-32

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 57-v (また生まれ変わるのだから何歳で死んでも間違いではない)

 おかしな言い方かもしれませんが、生き物は皆、死亡率100パーセントです。この世に生を受ければ、その先には必ず死があります。
 ただ、寿命を終えたら、その人の存在が無になるかというと、そうではないのです。死とは、肉体という衣を脱ぐことにすぎません。たましいは永遠の存在ですから、いつかまた別の肉体に宿り、この世に生まれてくると決まっているのです。
 つまり、死は一つの通過点と思ったほうがいいということです。死んだら消えてなくなるわけじゃない、また生まれ変わることができるんだ、と思うと、何だかワクワクしませんか?
 さて、「健康で長生きするのが一番幸せ」とよくいわれます。
 確かに、死ぬ間際まで元気に自分の好きなことができたら、とても幸せだと思います。しかし、人工的に命を永らえさせるのは、いかがなものでしょうか。
 延命治療と称して、たくさんのチューブを通し、生かされている状態って幸せだと思いますか? 僕には、幸せとはとても思えません。体じゅうからチューブが伸びたスパゲティ症候群″になって死ぬのは、僕ならごめんです。
 本人が、「できるだけ長く生きたいから、たとえ意識がなくなっても、どんなに苦しそうでも、あらゆる手を尽くしてほしい」と言っているなら話は別かもしれませんが、無理に延命するのは、周りの者のエゴのような気がします。
 自然に命尽きるまで生きる。それでいいと思います。
 たましいに終わりはないのです。いつかまた生まれてくるのだから、何歳で死んだって間違いではないと知りましょう。

   山川紘矢『死ぬのが怖いあなたに』イースト・プレス、2011、pp.110-113

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 57-w (人はみんなそれぞれに自分で寿命を決めて生まれてくる)

 寿命をまっとうして死を迎えることは、怖いことではありません。ひとつの学び舎を卒業するだけのこと。
 亡くなってからも“自分”はずっと続きます。死ぬこととは、肉体がなくなるだけで、個性も記憶もクセも想いも全部そのまま。死んでも無″になるわけではありません。
 人はみんなそれぞれに自分で寿命を決めて生まれてきますが、その寿命がいつ来るかはわかりません。明日かもしれないし、1年後、10年後かもしれない……。
 寿命を迎えたときは「あぁ〜、とてもいい人生だった。つらいこともたくさんあったけど、それ以上に良いこと、良い出会いもあった。もうやり残すことはないから、後のことはこの世の愛する人に託して、あの世に帰ろう」と思いたいですね。
 だからこそ、「明日、寿命が来るかもしれない!」と思って生きると、「今日、一日を無駄にせず、後悔しないように一生懸命生きなくっちゃ!」って思えるのです。
 「死を考える」なんて縁起悪い! という方もいらっしゃいますが、縁起の悪いことなんて何ひとつありません。
 命あるものには、必ず死が訪れますし、死があるから今日という一日を精一杯生きようと思えるのです。死を意識することで、生がキラキラ輝き出すのです。

    美鈴 『あの世を味方につける行き方』扶桑社、2010年、pp.44-45

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 57-x(死を迎えるまでほどよく健康に気をつかうのが重要である)

  健康を維持すれば、死が遠ざかる。そのように思い込んでいる人がいるだろう。しかし、健康の延長線上に、当たり前だが、不死が存在するわけではない。良くある誤解だが、健康だからといって病気にならないわけではないのである。
 いわゆる生活習慣病と呼ばれているような、高血圧や高脂血症・糖尿病等は、運動をするとか、食生活に気を付けるとかといったような健康維持法で病状の悪化を防ぎ、進行を遅らせたりすることも出来るだろう。しかしながら、たとえばがんの場合は、適度な運動をし、食生活に非常に留意してもなるときはなってしまう。実際、健康には自信があったのに突然進行がんと診断され、落ち込んでしまっている人を私は少なからず見てきた。一方で、病弱なのにここまで生きられたのは奇跡とおっしゃる方も少なくないのだ。普段健康であるか、あるいは病弱であるかが、必ずしも寿命に影響しないことがわかる。そしでまた、これを言ってしまうと身も蓋もないのだが、どれだけ喫煙し飲酒をしてもがんにもならず肝臓を痛めもせず寿命を全うする人もいれば、たいして暴飲暴食もしていないのに糖尿病になったり、喫煙を一切していないにも関わらず肺がんになったりすることもある。
 要するに持って生まれた体質の影響も受けるため、けして環境因だけで人は病気になるのではない。そして病気になるか否かは、もちろん病気になりやすい生活習慣というものはあるものの、最終的には運に左右されるのである。
 結局、人は必ず死病に犯されるときが来る。健康を保っていても、死病に犯されるのを妨げることは出来ない。
 もっとも、だからと言って、健康に気をつかわなくで良いと言っているわけではない。健康には気を付けているほうが良いだろう。しかしどれだけ健康を保とうと120%以上の努力をしたとしても、人は必ずいつか死ぬということなのだ。ゆえに、「ほどよく」健康に気をつかうのが重要と言えるだろう。

     大津秀一『死ぬ時に人はどうなる』致知出版社、2010、pp.127-129

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 57-y (人智を超えた力によって私たちは生かされている)

 医師になってから三〇年余り、私は様々な現場を経験しました。
 麻酔科を皮切りに内科、救急・集中医療と、今振り返ってもその時の現場ごとに様々な葛藤があると同時にたくさんの学びがありました。学びは多岐にわたりますが、その中で最も印象的なもの、それが「生と死の境目は誰にもわからない」という事実でした。
 救急には毎日のように、重篤な患者さんが運ばれてきます。意識がある、会話ができる方ならいざ知らず、大半は意識がなく、場合によっては心肺停止状態で担架に乗せられてやって来ます。交通事故、殺傷事件、自殺未遂、脳卒中、心筋梗塞、もちろん急変による転院搬送もあります。状況は様々ですが、その状態で救急医療の現場にできることは限られています。当然、目の前の患者さんの容態を厳密にチェックしながら、どのやり方が適当かを迅速に考えるわけですが、残念ながら助からない人も大勢います。泣き叫ぶ家族に説明をしながら、完全ではない医療に葛藤し、しかし悩んでいる暇もないほど次の患者さんの救命に即座に対応しなければならない時もある、それが全国の救急医療の現場です。
 人間は常温で二〇分間、心肺停止状態なら助かることはないと考えられます。ドラマや小説の世界では、奇跡の生還などと脚色されたりすることがありますが、現実の医療の世界では、そんなことが頻繁に起こるはずはありません。人が社会復帰できるくらい、後遺症もなく助かる時間の限界は一〇分間と言われます。その一〇分間に、生と死の境目があるのです。
 しかしながら皆が皆、きっちりと一〇分間で決着するわけではありません。
 心肺停止から八分間で亡くなる人もいれば、一二分間が経過しているにもかかわらず戻ってくる(蘇生する)人もいます。
 これが命の不思議であり、生と死の境目は誰にもわからないという言葉の深意だと思います。
 私はいずれの宗教にも帰依していませんが、こうした現場をたくさん見てきた者として言わせていただくと、生と死の境目は神のみぞ知るボーダーラインだと感じます。それは私たちの目には見えない「大いなる存在」の領域で起きている現象であり、何か人智を超えた力によって私たち人間が生かされている、あるいは見守られている証拠であると感じざるを得ません。人間を常に見守る大いなる存在を、私は神=摂理と呼んでいますが、それは創造主、普遍意識、真理、愛、大いなるもの、自然、大宇宙など様々な言葉で表現されてきました。
 人それぞれに生きる目標や価値観が違うように、生きようとする力も人それぞれです。そして、一〇〇人いれば一〇〇通りの死があります。医療現場にいると、それが理屈ではないことがわかります。
 だからこそ、生かされていることへの感謝の心が大切です。

    矢作直樹『おかげさまで生きる』幻冬舎、2014, pp.10-12

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 57-z (覚悟を持って生きているかどうかが試される時) 

 人は困った時に本性が出ます。
 救急の現場では誰よりも自分の家族の治療を先にして欲しいと要求し、臨終の席では 「なぜ助けてくれなかった」と家族が医師を責め立てます。普段はおとなしい、特に毒を吐くわけでもない普通の方が、まるで人が変わったようになった現場をたくさん経験しました。
 それでも、しかたがないことはしかたがないのです。
 二〇一三年九月中旬、たった一人の弟が他界しました。五六歳でした。
 その前月の八月初旬、ふと一年以上ぶりに弟から連絡がありました。しかも「兄貴、がんらしい」と言うのです。よく聞くとどうも末期のようです。私は急いで東大病院に来させて検査をしました。その結果、やはりどうにも手の施しようがない状態でした。なんともまあ随分、我慢したものです。
 がん末期の治療ポイントは緩和です。肝臓がパンパンに腫れて強い痛みのあった弟は、最期まで大変だったと思います。私への連絡から一カ月と少し後、静かに他界しました。長患いしなかったことが、せめてもの幸いだったかもしれません。
 教師だった弟は一〇代から陸上(長距離)を続け、親の葬儀の時にも「ちょっと走ってくる」と走りに行くようなスポーツマンでした。幼い頃に風邪で病院へ行って以来、一度も病院に行ったことがないような健康優良児だった弟でも、最期は老衰でというゴールを手に入れることが叶いませんでした。
 母と似たところがあり、決めたことをずっと続ける実直な人間でした。自分の死が近いと直感した時、彼自身もしかたがないと腹を決めたのかもしれません。
 人生は選択次第だから、弟も別の選択をしていたら病勢は変わったかもしれません。しかし「たら・れば」という発想は、やはり現実的には通りません。どういう選択をしたにせよ、その選択に迷いを持たないことが大事です。仕事をして、スポーツもやり、パートナーもいて、その結果としてこうなった、それならしかたがないというのが日本人らしい覚悟だと思うのです。
 京都の本能寺で、側近の明智光秀の軍勢に囲まれた織田信長は「是非に及ばず」と言い遺したそうです。この言葉はしかたがないと同義です。
 人生の岐路に立たされた時、是も非も及ばない状況に自分が直面した時、しかたがないという言葉が発動されるか否か。
 私たちが覚悟を持って生きているかどうかが、試される瞬間です。

    矢作直樹『おかげさまで生きる』幻冬舎、2014, pp.55-57