学びの栞 (B)
58. 神の法則・宇宙の摂理
58-a[59-c] (種を蒔き一定の湿り気と太陽と温度があればなぜ芽が出るのか)
人間はこの宇宙を自動的に支配している法則と秩序について語るだけで満足し、太陽や惑星をそれぞれあるべき場所に維持している、強大な霊の力が存在しているという事実を探求しようとはしません。信心の深い人は神聖な計画や、すべての物にきちんとした秩序を与えている、愛に満ちた父なる神の存在について信頼を込めて語ります。しかし、自然に見られる法と秩序を支配し、保持して維持するための素晴らしい組織が霊界に存在しているということを考えようとはしないのです。
科学者たちは、こうした出来事は物質的存在の正常な営みの一部であると見なしがちです。そして一種の法則によって動いていると考え、その法則に名前をつけるだけで、なぜそうなるのかを理解しようとはしません。種を土の中に蒔き、一定の湿り気と太陽と温度があれば芽が出る、と彼らは主張するのです。それを聞いた人たちは、その結果を奇跡として見るのではなく、つまり、霊的な力の不可思議な現実化であるとは見なさず、ごく当たり前の出来事として受け入れるだけです。
これと同じように、一般の人たちは自分を支えてくれる自然のさまざまな営みを当たり前のことと見なし、自分たちの権利であるかのように考えています。その結果、自然のあらゆる現象の源である、妖精たちの限りない世話、愛情、忍耐に感謝しないのです。
人間を含めた、地上のすべての生命力の現実化の背後には、霊的な現実という素晴らしい世界があります。こうして、真実と愛が常にこの惑星に、そして宇宙に奉仕することが可能になっているのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.201-202
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58-b[44-zb] (人は無限の能力を発達させ神に近づいていく存在である)
ここでちょっと立ちどまって、私たちの人生を生きていく瞬間瞬間を貫いている神の力について考えてみたいと思います。また、自然界およびあらゆる種類の創造的生命体を支配し、植物、鳥、動物、人間の生命を絶えず励まし、開示してくれる、素晴らしい組織について考えてみましょう。
それと同じ創造的な力が、無数の星々をそれぞれの軌道からそれないようにしていることに思いを馳せてみてください。その力はまた、あらゆる創造物のなかを、リズムをもった波のように貫いている生と死の流れのなかで、誕生と死、死と再生を作り出しているのです。そして自分自身にも聞いてみてください。この何者にも屈することのない生命力を創造し、現実化し、無限の時の流れの中を維持している無限の知性的存在の力を、ほんのわずかであれ、私たちは想像することが可能であるかと。
さらにまた、人間全体が持つ素晴らしい生命のあり方について考えてみてください。いや、あなた自身の人間としての生活について考えてみてください。あらゆることについて、あなたをサポートしてくれる力もあります。あなたの内面的な生活の縦糸と横糸に、霊的な美しさと真実を織り込むことになるべく運命づけられた、一連の物理的な体験をあなたにもたらし、しかも、それを切り抜ける手助けをしてくれる力についても考えてください。
天界で調和に満ちた静かな生活を送っている、優雅で本当に美しい存在を、あなたがほんの一瞥でもできれば、なんと素晴らしいことでしょう。彼らの顔や形の美しさを見ることができれば、悠久の昔から、数多くの人生を通して援助の手を差し延べ、やがてかくも美しく光り輝く存在を生み出したキリスト意識の不可思議な生命の流れがどのようなものか、少しはわかるに違いありません。一人一人の人間は一歩一歩訓練を受け、花を開きつつある存在であり、やがて、無限の能力を発達させ、神に近づいているのだということを、どうぞ忘れないでください。
それだけに、じっくりと考えてほしいのです。人間の心、意思、霊の一つ一つの努力、すべての行動、とるに足りない小さな体験から、最も素晴らしい体験に至るまで、すべての体験は、このような神としての人間の実現に役立つことになるのだ、ということを。このように理解することによって、心に光がさすとき、私たちは驚愕せざるをえません。人間の心はいかに気まぐれで、感謝することを知らず、そしてわがままなものであるか!
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.209-210
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58-c (宇宙の法則は完璧で物質を完璧に機能させる)
それでは、その法則に従えば、わたしはもう困ったことにはならずにすむのですか。そういうことをおっしゃっているのですか?
あなたの言うような「困った」ことにはならないだろう。どんな状況でも、それを問題だとは考えなくなるだろう。恐れおののくような状況にはぶつからないだろう。すべての心配や疑い、不安に終止符が打たれるだろう。あなたは空想のなかのアダムとイヴのように暮らすだろう。絶対の領域で身体から切り放された霊としてではなく、相対的な領域で身体をもった霊として暮らすだろう。それでもあなたはあらゆる自由と喜びと平和を味わい、いずれ霊としての智恵と理解と力が備わるだろう。充分に自分らしさを実現して生きられるだろう。
それがあなたがたの魂の目標である。身体をもっているあいだに、自分らしさを充分に実現すること、真の自分にふさわしい存在になること、それが目的である。
それが、わたしの計画、わたしの理想なのだ。わたしは、あなたがたを通じて自分を実現しなければならない。それによって、概念が体験となり、わたしは自己を体験的に知る。
宇宙の法則は、わたしが定めた法則だ。それは完璧な法則で、物質を完璧に機能させる。
雪のひとひら以上に完璧なものを見たことがあるだろうか?その精妙さ、デザイン、対称性、ひとつひとつが雪の結晶としてあるべき姿を保ちながら、同時に個性的でもある。まさに神秘的ではないか。あなたがたは、この自然の驚くべき奇跡に驚異の念をいだくだろう。雪の結晶についてこれだけのことができるわたしなら、宇宙についてどれほどのことができると、あるいはできたと思うか。
最も大きな物質から最も小さな分子まで、その対称性、デザインの完璧さに思いをめぐらせてみても、あなたは真実を把握することはできないだろう。その真実を垣間みているいまでさえ、その意義を想像することも、理解することもできない。だが、意義があること、それがあなたがたの理解力をはるかに超えた複雑で特別なものであることはわかるだろう。
シェイクスピアはいみじくも言った。
「天と地のあいだには、おまえの哲学では及びもつかないことがあるのだ」と。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.63-64
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58-d (どうすれば自然の法則を知ることができるのか)
それでは、どうすれば自然の法則を知ることができるのですか。どうすれば、学べるのですか?
学ぶのではなく、思い出すのだ。
どうすれば、思い出せるんですか?
まず、静かにすることだ。外の世界を静かにさせて、内側の世界が見えてくるようにしなさい。この内側を見る力、洞察力こそあなたが求めるものだが、外部の現実に心をわずらわせていては決して得られない。だから、できるだけ内側へと入っていきなさい。内側へ入らないときには、内側から外の世界と向かいあいなさい。つぎの放言を忘れないようにして―。
「内側へ入っていかなければ、からっぽで出ていかなければならない」
このモットーを実感するために、一人称でくり返してごらん。
「内側へ入っていかなければ、わたしはからっぽで出ていかなければならない」
あなたはこれまで、からっぽだった。だが、これからもそうである必要はないし、過去にだって、違う在り方はできた。
あなたはどんなふうにでもなれる。できないこともないし、手に入れられないものもない。
それは現実にしてはすばらしすぎる約束のように思えますが。
神の約束なら、それが当然ではないか? わたしがすばらしくない約束をすると思うのか?
何千年ものあいだ、人びとはほんとうにしてはすばらしすぎる、というばかばかしい理由で神の約束を信じなかった。そして、もっと小さな約束、もっと小さな愛を選んだ。神の最も高い約束は最も高い愛から生じる。あなたがたは完璧な愛を考えられず、完璧な約束も考えられない。それに、完璧な人間も考えられない。だから、自分自身すら信じられない。
こうしたことを信じられないというのは、神を信じられないということだ。神を信じれば、神の最大の贈り物である無条件の愛と、神の最大の約束である無限の可能性が信じられる。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.65-66
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58-e (摂理は自ら体験することによって認識していくほかはない)
生命が永遠に続くからには、その働きは摂理に従わねばならない。それが避けがたい宿命である。その摂理は実に入り組んでいる。が、絶対に片手落ちということがない。中断するということがない。修正されることもない。破棄されることもない。絶対不変なのである。
摂理は数多く存在する。といっても、それは聖なる書に書き記されているわけでもなく、石の平板に刻まれているわけでもない。あなた自ら体験することによって認識していくほかはない。
M.H.テスター『現代人の処方箋』近藤千雄訳
(潮文社、1988)p.40
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58-f (因果律がどのように働くかは自分で理解しないといけない)
因果律がどのように働くものかは自分で理解しないといけない。すでに得心なさっている方もいるであろう。類は類を呼ぶ″の摂理を立証する体験の数々をよく反省してみられるとよい。これまでの出来事を振り返ってみて果たして自分が蒔いたタネを刈り取っている″かどうかを考えてみるとよい。過去から学び、未来のために活用することである。
自然の摂理の作用には絶対にしくじりというものがない。人間はその多くを犯す。つい侵犯してその結果を見せつけられるまでは、その存在に気づかないものである。もしも疑念を抱いた時は、愛は摂理の成就なりという基本原理を思い出すことである。摂理の理解をいっそう身近かなものにしてくれるのは同胞への愛であり、全創造物への愛であり、生命そのものへの愛である。
M.H.テスター『現代人の処方箋』近藤千雄訳、
(潮文社、1988)p.41
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58-g (宇宙の摂理の存在を人々は遥かなる昔から感じていた)
生命の有り様、宇宙の原理を沈思すれば、我々人間を含めた「存在の総体」は、驚くべき神秘に満ちているということはすでに述べてきた通りです。考えれば考えるほど、あらゆる存在(物質だけでなくそれを取り巻く空間や時間を含めた総体)とその生々流転の理は不思議というよりほかなく、我々はそれらの総体の輪郭さえ措くことができません。
人間は、事物事象のメカニズムを解明していくことはできるかもしれません。けれども、それらの事物事象が、どうしてそのように在るのかという根本について解明することは難しいでしょう。そして人間は、我々を取り巻く森羅万象が解明されればされるほど、すべてが完璧にできていることを思い知るのではないでしょうか。その完璧さは、人間が考える科学的論理や善悪の倫理を遥かに超えた、まさしく摂理の業としか思えないようなものです。
この全的な創造とその運用を司る大設計者、すなわち摂理の存在を感受できるのは人間だけであり、人々は遥かなる昔からその存在を知っていました。最初の宗教は、摂理の存在を知覚したところから始まったはずです。また、現代を生きる我々も、それを心の奥深いところでは感受しているのではないかと思います。
そして、摂理の意思、すなわち万物と万象の「調和」を感じるのではないでしょうか。存在するものにはすべて意味が付加されており、それらはすべて関連し合っている。あらゆる存在は奇蹟としか思えないほどの完全なシステムとして在る。そのシステムが不全を起こしそうになった時、すなわち調和が乱れた時に、復元ないしは排除の力が働く。これこそが摂理の意思である、と私は考えています。
原初の人々は、自分たちが生まれ生きて死んでいく世界、自分たちを取り巻く自然に対して素朴な畏怖と畏敬の念を抱き、そこに創造主の存在を直観しました。そして、同時に霊的現象や霊能者を通して霊魂の存在をも感じ取り、畏れ敬うようになりました。
このように遥か昔から、人々は神(摂理)と霊魂を不離の存在として感受してきたのです。
矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.194-195
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58-h (私たちは摂理によって永遠の生命を生かされている)
人の一生は一瞬の夢にも似た儚く短いものです。だからこそ、人は現世に執着するのかもしれません。愛する人の死を悼み、自分の死を怖れる。その気持ちはよくわかります。しかし摂理、霊魂の永遠に思いを重ねつつ、今に没頭すれば、肉体の死を恐れることなく勇気を持って生きることができるのではないかと私は思います。
人は、今生を生きているうちは、生きることを懸命に考えなければなりません。なぜなら、我々は摂理によって創られた自然の一部であり、摂理によって生かされているからです。したがって、自分の体はまず自分自身で労り、よりよい状態を維持するように努力しなければなりません。あらゆる思索、創造する力、精神活動は、いうまでもなく体の状態と不可分です。第二章で登場したBさんの言葉にもあるように、「人は自分に与えられた身体を受け入れ、その声を聴き、精一杯活かすことで、感謝の気持ちを持って生きていかれる」、これは真理だと思います。
人はみな理性と直観のバランスをとり、自分が生かされていることを謙虚に自覚し、良心に耳を傾け、足るを知り、心身を労り、利他行をし、今を一所懸命に生きられたらと私は思っています。そして、「死」を冷静に見つめ穏やかな気持ちでそれを迎え、「生」を全うしたいものです。
寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味で「人は死ぬ」が、霊魂は生き続ける、という意味で「人は死なない」。私は、そのように考えています。
矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.217-218
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58-i (私たちは大自然の中で生かされている)
中川 小林さんの体は誰のものだと思いますか。
小林 常識的には自分のものでしょうが、完全に自分のものとも言えないですよね。自分では把握できていないものがほとんどですから。
中川 そうなんですね。自分のものと言えるのは、自分の意思でコントロールでき、自分で管理できるもののことでしょう。ところが、内臓臓器や血管を考えれば分かりますが、何一つ自分の思いどおりになるものはありません。全ては自動的。精密なコンピューターによって管理されていると言えます。
生命でさえ、自分では思うようになりません。自分以外の何かが、自分以外のどこかで生命をコントロールしています。
人間は自分の力で生きていると思っていますが、大きな間違いです。人間だけでなく動物も植物も、自分で生命をコントロールできているものは一つもありません。よく言われる言葉ですが、何ものかによって「生かされている」というわけです。
小林 人間は、眉に縦皺を寄せる、俗に言う「眉間に皺」というものですが、そうすると老化する、老化物質が出るようになっているらしいのですね。笑顔になると老化物質は止まる。
同様に、うなずくとか、首を縦に振るとかすると免疫力がアップして病気をしにくくなる一方、首を横に振ると免疫力を壊す、破壊するというようになっているようです。「前向きで肯定的」であれば、若さや健康が保てる、維持できるようになっているらしいのです。
全てが同じ方向でつくられていることを考えると、何ものかの意思によって人間が組み立てられているような気がしてなりません。
中川 何ものかと言えば、宗教でいう「天地創造主」でしょう。
「天地創造主」などというと「宗教じゃないのか」と言われそうですが、現代物理学の最先端にいる人たち、例えば湯川秀樹博士や宇宙飛行士などは「宇宙は実に美しく、みごとに調和している。偶然にこんなものができることはあり得ない。このようにしている何かがあるに違いない」と言います。
彼らの高度な知性をもって判断すると、そういう結論になるのですね。
偉大な英知とは、宗教の神ではありません。大自然を、完璧な法理・法則で支配している宇宙エネルギーと宇宙意識のことです。
小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.92-94
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58-j (自分と似たものを引き寄せるという引き寄せの法則)
あなたはある感情を抱き、同時にそれとは異なることを考えたり、話したりすれば、それを受け取るのを期待することはできない。どう感じるかが、あなたの引き寄せるものを左右するからだ。にこやかに笑いながら、幸せな言葉を使えば、それは実際にあなたが感じていることなので、強力な引き寄せの作用点となる。だが、太っていると感じているのに、やせた状態を引き寄せることはできない! 貧乏だと感じているのに、裕福さを引き寄せることはできない! 孤独だと感じているのに、伴侶を引き寄せることはできない! それは法則に背くのだ!
その法則とはなんだろう? 「引き寄せの法則」である。自身と似たものを引き寄せるという法則だ。
自分の欲しいものを引き寄せるために必要なのは、感じ方を変えるということ。あなたは欲しいものや、自分でいいと思っているものを引き寄せられるようになる前に、自分自身を心地よい状態にもつていかなければならない。
エスター・ヒックス&ジェリー・ヒックス『引き寄せの法則の本質』(菅靖彦訳)
ソフトバンク クリエイティブ株式会社、2008、pp.110-111
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