学びの栞 (B) 


 59. 奇跡


 59-a奇蹟のみを喧伝する宗教には邪しまなものが多い

 先覚者釈尊は、自己の肉体を超越して本源の光に達した時、自己そのものが、光明身そのものであることを悟ったのであり、それ以来、自由自在に神の力を駆使して、数多の奇蹟を行い、その弟子たちも、霊界の守護神の力を借りて、それぞれの神通力を発揮した。
 仏教学者は釈尊の偉大さを、その哲学的な説教におき、その奇蹟の面は、釈尊の偉大さを称えるための一つの物語的に解釈している向きが多いが、あの奇蹟があったればこそ、仏教哲理が現在のように拡がったのであり、この点、キリストの奇蹟も真実のものであることを私は明言する。
 奇蹟なき宗教は、あまりに広まらないし、人間を魅力しない。といって奇蹟のみを喧伝する宗教には邪しまなものが多い。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)p.49

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 59-b (イエス・キリストが五千人の人々に食事を供した奇跡)

 マスター・キリストが五斤のパンと二匹の魚で五〇〇〇人の人々に食事を供したことについて、真実ではないと疑う人たちがたくさんいます。そのような奇跡をキリストはいったいどうやって実現したのか、と彼らはたずねます。キリストは意識を普遍的実在まで上げ、思いを神と一体化させ、霊的な原子を自分の思いに引きつけ、原子の振動のスピードを緩め、その原子がどういう物質界の形をとるか決めることによって、これを行なったのです。こうして、五〇〇〇人の人々に食事を与えられたのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、p.197

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 59-c[58-a] (種を蒔き一定の湿り気と太陽と温度があればなぜ芽が出るのか)

 人間はこの宇宙を自動的に支配している法則と秩序について語るだけで満足し、太陽や惑星をそれぞれあるべき場所に維持している、強大な霊の力が存在しているという事実を探求しようとはしません。信心の深い人は神聖な計画や、すべての物にきちんとした秩序を与えている、愛に満ちた父なる神の存在について信頼を込めて語ります。しかし、自然に見られる法と秩序を支配し、保持して維持するための素晴らしい組織が霊界に存在しているということを考えようとはしないのです。
 科学者たちは、こうした出来事は物質的存在の正常な営みの一部であると見なしがちです。そして一種の法則によって動いていると考え、その法則に名前をつけるだけで、なぜそうなるのかを理解しようとはしません。種を土の中に蒔き、一定の湿り気と太陽と温度があれば芽が出る、と彼らは主張するのです。それを聞いた人たちは、その結果を奇跡として見るのではなく、つまり、霊的な力の不可思議な現実化であるとは見なさず、ごく当たり前の出来事として受け入れるだけです。
 これと同じように、一般の人たちは自分を支えてくれる自然のさまざまな営みを当たり前のことと見なし、自分たちの権利であるかのように考えています。その結果、自然のあらゆる現象の源である、妖精たちの限りない世話、愛情、忍耐に感謝しないのです。
 人間を含めた、地上のすべての生命力の現実化の背後には、霊的な現実という素晴らしい世界があります。こうして、真実と愛が常にこの惑星に、そして宇宙に奉仕することが可能になっているのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.201-202

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 59-d[73-g] (この世には人類科学の範疇を飛び超える出来事がある)

 大本教(正式には大本)の開祖である出口なおの「お筆先」が京都府亀岡市の教団本部にあります。
 美術館みたいな感じで展示してあるわけですが、それを見た時は驚きました。読み書きのできないなおがわずか二七年の間に、新聞紙程度の大きさの半紙に二〇万枚、書いたわけです。ずーっと、二七年間。
 これが後の『大本神諭(教典)』ですが、あれを目にすると、人間のやることじゃないとわかります。
 ある意味で常識を超えています。常識を超えると普通は見えません。そこにあっても。多分あれは、そういう感覚なのかなと思います。
 出口なおの娘婿・出口王仁三郎が書いた『霊界物語』も、実に八三冊もあるのですが、その執筆スピードを例えて言えば、一日で三〇〇頁分の書籍を仕上げ、それを毎日毎日、こうワーツと書く形式です。それも自動書記で、ぶ厚い本八三冊分。人間業ではありません。
 その事実を論理思考でどう考えても、これは人のやっていることではないなという結論に向かうわけです。
 出口なおに至っては、字を書けない人だったわけですから。
 そういう事実が日本中に、世界中にあるわけですから、それらをより精査することで、「この世」には人類科学の範疇を飛び超える出来事があるのだという「共有知識」が明確になるのだと思います。(矢作直樹)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.169−171)

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 59-e[29-zg] (スピリチュアル・ヒーリングで劇的に病気が治った症例)

 『人は死なない』にはほとんど書きませんでしたが、すでにスピリチュアル・ヒーリングで劇的に病気が治った症例はいくつもあります。中国地方にいる某物理学者の方は、数年前にがんを患い、その後、腸閉塞を起こしたりして調子が悪かったそうですが、知人のヒーラーのところに行った途端、治ってしまったというのです。皮膚科でも取ったほうがいいと言われたがんが、ヒーリングを受けた一週間後、自然にポロッと落ちてしまったそうです。皮膚科の先生が相当驚いたそうですが、それは驚くのは無理もありません。
 そんな劇的な体験をしたのが物理学者だったものですから、ご自身も相当な感銘を受けたようで、次から次へと学校や物理学界で宣伝したそうです。
 他にもがんで手術をしようかと悩んでいたその先生の教え子の女子大生は、ヒーリング後にがんが消えてしまったそうで、当然がんが消えたその証拠も画像で残っているわけですが、その結果、彼女は手術しないで済みました。
  スピリチュアル・ヒーリングは、別に稀なことではありません。(矢作直樹)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.173-174)

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 59-f  (気功で治されたパーキンソン病)

 最初の受講から少したった平成六年の十月、私は中健次郎先生の北京気功ツアーに参加しました。そのときの参加メンバーは、私の他に七〇歳代のAさん夫妻、三人の医者を含めその他九名でした。ツアーでは、四泊五日の滞在中に四人の先生に指導を受けましたが、どの先生もその道の最高レベルの方々でした。ここでは、そのうち特に印象に残った二人の先生の指導について述べてみます。
 まず、外気功の大家である黄震寰先生。航空工学の教授で六一歳とのことでしたが、見た目には四〇歳代にしかみえない。黄先生は、最初に踊りのように流れる気功の演武を披露された後、三人のお弟子さんを相手に対気を行いました。お弟子さんたちは、それこそ黄先生の体に触れるか触れないかくらいのタイミングで飛ばされていました。試しに私は、そのコロコロと飛ばされていたお弟子さんの一人と対気をしてみましたが、手刀一押しであっという間に飛ばされてしまいました。中健次郎先生のときと同じで、まるで岩と対峠したようでした。
 もう一人は、外気治療の第一人者である李和生先生です。李先生は、ツアーに参加したパーキンソン病を患っている七〇歳代の男性Aさんに、実際に治療を施されました。先生が右手をAさんの両足裏から一〇センチメートルほど離し、団扇で風を送るようにハタハタと扇ぐような動作を一五分ほど続けると、Aさんは鼾をかいて寝入ってしまいました。いっしょに日本から付き添ってきた奥さんによると、この病気になって以来、こんなふうに熟睡するのをみたことがないとのことでした。我々は、その後約一時間ほど先生の授業を受けましたが、その間Aさんはずっと眠ったままでした。
 さて、我々が驚いたのは、Aさんを起こしたときです。それまでAさんはパーキンソン病特有の動作が硬くて歩幅が小さいよちよち歩きだったのが、若干のぎこちなさはあるもののほぼ普通の滑らかな歩行ができるようになったのです。Aさんの奥さんは、涙を流して喜んでいました。私はというと、それまでの臨床医学の知識が邪魔をして俄かには信じがたく、その現象をどう理解してよいのかわかりませんでした。
 李先生は、パーキンソン病になった理由は本人の頑固で怒りっぽく奥さんに対して感謝の念を示さない生き方にある、だから神罰があたったのだとAさんを諌めていました。まあ、今さらそう言われても人の性格はそう変わらないでしょうが。
 ともあれ、目の前で起きた現象は私にとって本当に驚きでした。もっとも、中先生によると、このレベルの気功治療ができるのは、中国でも一億人に一人くらいだそうですが。
 気功の原理は、いまだ解明されていません。気功が自然科学のさらなる進歩によって解明できるものなのか、あるいはまったく別次元の原理に属するものなのかということもわかっていません。一部の基礎研究によると、様々な波長の波が出ているといわれていますが、それが気功のすべてを説明できるわけでもないし、その波がなぜ出るのかについてもまったくわかっていないのが実状です。
 このように多くの人が可視化、体験できる現象でさえ、現在の医学知識ではそう簡単に解明はできません。ただ確実にいえることは、現に「それはある」ということです。

    矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.36-38