学びの栞 (B) 


 61.真実・霊的真理


 61-a (あらゆるものは真実であり真実でないものなどはない)

 主よ、誰もが本当の真実を知りたいと願っています。でも、もしその本当の真実があるとしたら、それ以外のものはどうなってしまうのですか?意識の中に現実を持つものはどうなのでしょうか。
 本当の真実とは何だか知っていますか。そんなものはない、ということです。それがないということは、すべてが真実だということでもあります。
 主よ、あらゆるものは真実なのです。真実でないものなどありません。なぜなら、すべてのものは思考から発生したのであり、思考とは神のことだからです。そして神というのはつくり出されたひとつの思考ではありません。すべての思考の現実なのです。
 あらゆるものは現実です。あらゆるものは思考を通じて存在理由を与えられたのであり、それぞれが存在の目的を持っているからです。あなたが想像や空想と呼ぶものももちろん現実です。それもまた、目的を持った思考によって構築されているからです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 161-162

     
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 61-b (真実として受け容れたものはそれを現実として体験する)

 真実とは、あくまである人にとって、真実と見えることの謂れでしかありません。真実とは意見であり、態度であり、何かについての信念が創造的思考の中で絶対的なものになった姿なのです。でも、どんなことでもそれについての意見は皆違うし、場合によっては極端に異なることさえあるのです。それは、一人ひとりがこの人生だけでなく、以前生きたことのある生すべてから自分の魂の中に得てきた独自の体験や理解、誤解などにもとづいて意見をつくり上げてきたからです。ですから、ひとりの存在があることを真実と信じても、ほかはそう信じないこともあるわけです。この二人が互いに理解し合えないのは、相手の人間になったことがないために同じ体験の蓄積がないからです。
 では、どちらの真実が正しいのでしょうか。どちらも正しいのです。どちらも真実を表しているという意味において、正しいわけです。二人とも、自分の体験と理解によって見えるようになった真実を表現しているのですから。しかし、もしある人が、自分の真実だけが唯一正しいとするのなら、その人は限りある理解しか持っていないことになります。
 この夢の中にいるそれぞれの存在は、自分が叡智に向かって進化していく中で体験したいと望むどんな真実でも受け容れ、創造していきます。それは各々の体験と必要性にしたがって行なわれ、自己実現という目的のためのものです。そして、この体験をするために、それぞれ自分が信じたいと思うものを正しいとする真実を語る源を探し求めていくのです。ですから、この地上界に棲む神が、正確にはどれだけいるかわかりませんが、たとえば二十億とすれば、それと同じ数だけの独自の真実があることになります。なぜなら、一人ひとりの存在には、真実を違った形で創造する意志と権利があり、そうする必要性があるからなのです。
 つまり、あなたがある師の言うことを読んだり聞いたりするとき、それは知覚された真実です。その人が真実をどう見ているか、どう学んだか、どう創造したか、どう体験しているかなのです。ですから、あなたが十人の師のもとで勉強したのであれば、それぞれの真実が違いますから、当然かなりひどい混乱に陥ります。その内のどれかひとつの見方が、そのときたまたま自分が必要としているものに、ぴたりと合うことも充分考えられます。しかし、そのうちのどれがひとつしかない真実を語っているかを知ろうとして、それらをすべて比較して見てみると、すべてがすべて真実を語っていることに気がつくでしょう。そこで決めなくてはならないのは、いったいどの程度まで自分がその特定の真実になりたいと望むかです。というのは、あなたが真実として受け容れたものは、それが何であろうと、あなたが人生において現実として体験することになるからです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 163-165

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 61-c (あらゆるものに真実があり同時にその真実は成長する)

 あらゆるものに真実があるのです。同時に、すべてのものには成長という過程があります。一つひとつの瞬間に真実も成長するからです。神は完璧な状態にあるのではなく、つねに成長し何かになりつつある過程にあるのはこのためなのです。それぞれ人が持つ叡智は進化を続け、さらに限りない真実を内包していくようになります。そして、一瞬一瞬のその叡智がどんなものであろうと、それがその人から見た真実、知る真実になるのです。
 たとえば花を考えてみましょう。花は咲く前につぼみであるというのは真実でしょうか。確かにそうです。では花が咲いてしまったら、それはもはやつぼみではないから、嘘をついていたということになるでしょうか。そんなことはありません。それは、進化を続ける真実という状態なのです。それでは花びらが落ちてなくなってしまったら、花は嘘つきだということになるのでしょうか。つぼみ、花、花びらが散った花、この状態の変化は何なのでしょう? その真実がさらに進化した姿なのです。
 あなたが聞いたり読んだりする教えの中で、法を教えるもの、人間を限定するもの、「在るということ」を善と悪に分けるもの、あるいは神が、存在するものすべての「在るということ」ではなく、ある単一の存在だと教えるものは、それを自分の真実として受け容れ、世界に与える必要性を感じている者たちから出てくるものです。主よ、それは彼らの真実で、必ずしも間違ってはいないのです。しかし、さらに偉大な、さらに進化した真実では、どんな形であっても、生というものが限られていると教える者は、ほかに比べて理解が進んでいるとは言えません。神は限られた存在でしょうか。もしそうだとしたら、生というものは途切れないものではなくなり、あなたには混乱するという選択さえなかったことでしょう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 165-166

     
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 61-d (何が真実かを知ることは何が真実と感じるかを知ること)

 私が教えていることはまさにひとつの驚くべき真実です。なぜなら、神に法なしなどと言う者がどこにいるでしょうか。そう言ってしまうと、もう誰も神を使って他者を支配し、隷属させることはできなくなるからです。父なるもの、至高なる意識は、法や審判や終焉などの限界がまったくない存在なのです。あなたが自分の真実の道を進み、この無限の叡智を受け容れれば、父なるものの真の姿である、愛やよろこび、途切れなき継続性というものを本当に理解し、体験できるのです。
 誰でも、自分が望み、自分に許すだけの知識しか持てないのです。そして、あなたの次元での知識のほとんどは、恐れや生存や、対立する見解などにもとづいたものです。善悪の判断を下し、人々を分断するためにあるのです。人間は「堕ちた」存在であり、そこに神性などはないという見方にもとづいています。主よ、でも人間は神なのです。ですから、人に審判を下すということは、神に審判を下すことです。人間に制限を課するのは神に制限を課することなのです。自分の神性から人間を引き離すことは、神から神性を奪ってしまうことになるのです。
 もしある師の言うことを読んだり聞いたりして、それがあなたの思考過程を制限してしまうなら、それはまさに父なるものの思考過程をも制限しているのです。何が語られるか、それがどう語られるかに耳を傾けなさい。もしそれが制限を課し、分断するものであるならば、それはまだこれからもっと制限のない叡智へと進んで行かねばならない存在からの、限られた真実なのです。
 これらの師たちから黙っていても学んでしまうのは、あなただけが自分の最も偉大なる師であるということです。なぜなら、あなたはすべてのものの中で何が自分に最もいいかを知っているからです。皆自分の生を生き、自分の観点から真実を評価するのに忙しいというのに、どうして他人のことがわかるでしょうか。自分の道を満たしていくために、どんな体験が必要なのかを魂の内に知っているのは、あなただけなのです。自分の真実を与えられるのはあなただけです。なぜなら、真実というのは自分で確立し、自分でその正当性を決めるものだからです。そして真実は、科学的、知的な理解の中に見出すことはできません。それよりも、感情という意味での理解を通してわかるものなのです。真実は、ある種のフィーリングであり、知っているという状態なのです。それは知的なものではありません。何が真実かを知ることは、何が真実と感じるかを知ることなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 166-167

     
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 61-e(最も偉大なる現実とは感情であってそこにすべての真実がある)

 主よ、あなたが事実と呼ぶもので証明できるものは何ひとつありません。なぜなら、事実というものは、人類の理解と叡智が進化し、変化するにつれて変わっていくからです。あらゆるものは推測なのです。現実は思考と感情を通してつねに進化し、創造されるからです。事実なるものは、集合意識、つまり人類全体によって感情の内に抱かれた思考の集合体が、現在この瞬間において物質化した姿でしかありません。
 証明とは、フィーリング、感情にあります。それが、もともと事実というものを現実に存在させたのです。
 最も偉大な現実、偉大なる真実とは何でしょうか。それは、事実、ではありません。事実を現実として、思考において真実として受け容れたときに感じるフィーリングなのです。これが真の事実です。最も偉大なる現実とは、感情なのです。そこにすべての真実があるのです。
 主よ、あなたが何を信じることを選ぼうとも、それはそうなります。ですから、これからはあなたが自分にとって何が適切か、何を信じたいと願うのかを選んでいくのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 168

     
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 61-f (限られた理解のレベルでの真実もまた真実である)

 ― たとえば、ほとんどの人が地球は平らだと信じていたとき、もしある船の船員の半分は地球が丸いと信じ、半分は平らだと信じていたとして、その船が出帆したとしたら、船はいったいどうなるのでしょうか?

 平らだと思っていた者は、船から身を投げてしまったのです(間違っていたとわかるよりも、死を選ぶとは!)。丸いと思っていた者は旅を続けたのです。わかりますか?
 世界が平らだと固く信じていた者たちは、その端まで行って違う発見をしようとはけっしてしませんでした。それは、平らだと確信していたからです。丸いと信じていた者は、ぐるぐる回ったのです。彼らは地球が丸いと確信していたのです。しかし彼らはそれが完全な球体でないことは知りませんでした。それはちょっと上下に押しつぶされたような形をしています。両側にふくらんでいて、上と下が、比較的平らな形をしていて、中が空洞です。しかし、中が詰まっていると固く信じている人たちは、そうではないとはけっして知ることがないでしょう。なぜなら、内部に入っていってそれとは違うことを発見しようなどとは考えてもみないからです。それは、彼らが限られた理解のレベルにあるからです。けれども、それもまた真実なのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 168-169

     
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 61-g (あらゆるものは真実であり同時に真実であるものは何もない)

 私が誰にも言うのはこういうことです。師や宗教から学べるだけ学びなさい。その教えに飽きて、もう意味をなさなくなるまで学び続けるのです。そうしたら、今度は自分の魂の内で正しいと感じる答えを求めるのです。あなたの魂は何が真実かを知っています。そして、自分が感じるフィーリングを通してあなたにそれを知らせてくれるのです。真実が正しいと感じるとき、それはあなたの魂がよろこびにあるということです。なぜなら、最大の真実とは無限の自由であり、自分が望むどんな真実でも体験させてくれるものだからです。
 真実というのはひとつの制限なのです。何かが真実だと言うとき、それは真実でないものの存在を示しています。でも、さらに大きな叡智の中では、真実も真実でないものもなく、ただ途切れなく進化し続ける生の「在るということ」があるだけなのです。生だけがただひとつの現実であり、そこからすべての真実が発生してくるのです。真実は、あなたが抱くあらゆる思考によって、この一瞬一瞬ごとに進化し、創造されているからです。ですから、いつでもあなたは考えを変えてほかのことを思えるし、それはそれでどちらも真実なのです。どちらも本質であり、感情という面での理解では、どちらもひとつの選択だからです。
 生と選択肢、これ以外に現実はありません。あらゆるものは真実であり、また同時に何も真実はないこと、そして、在るということだけがあることを理解すれば、自分が思ったとおりに真実を知覚できるのです。そして、それはあなたが絶対的なものと認めている間だけ、真実としてとどまります。その真実を認めなくなり、正当性を与えるのをやめれば、それはもはや現実ではなくなってしまうのです。だからこそ、この地上界は、創造する現実の次元なのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 170-171

     
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 61-h (誰もあなたに自分の神なる自己について教えることはできない)

 あなたが人生でつくり出す現実、それが何であろうとも、あなた自身も変わることができるのを知ることです。あなたを至高の存在にしているのは、自分の望みどおりに何でもできるし、何にでもなれるのを知ること、それにいつでも好きなときに自分の気持ちを変えてもかまわないのを知ることなのです。
 幸せな気持ちになるのにどれくらいの時間がいるでしょうか。あなたがよろこびのことを思うだけの時間です。するとあなたはたちまち幸せに輝きはじめます。絶望するのにはどうでしょうか。絶望のことを思うだけで、あなたはすぐ絶望に沈んでしまいます。ここには、どんな隠された真実があるのでしょう? この二つの感情のどちらにもいつでもなり得るということであり、好きなときに自分を表現する道を変えられるということです。父なる存在は、これだけの自由をもってあなたを愛してくれているのです。自分の存在の内面でこの真実を知ることができれば、あなたは自分の限界を超えて神なるものになります。ほかの者たちが法や道徳や理想などによって支配されているときに、あなたは自由な存在になれるのです。なぜなら、あなたは自分自身の真実だけで自分を律するようになるからです。
 在るがままの自分でいなさい。ラムサや釈迦やイエシュアや、ほかのどんな師にもしたがうのでもなく、です。誰もあなたに自分の神なる自己について教えることはできません。彼らは自分の神を教えられるだけなのです。天命を満たすためには、あなたの在るがままの姿、あなた独自の自分にならなくてはいけません。誰かほかの人間の生き方にしたがって生きようとすると、あなたは絶対に自分にはなれないでしょう。自分が誰なのか、そして自分の内にあるこの炎は何なのかを理解するただひとつの道は、感情で理解する真実を通してなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 171-172

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 61-i (あなたは永遠に向かって途切れなく続く存在である)

 在るがままの自分を深く愛しなさい。そして自分の内にある神に耳を傾けるのです。その神は、微妙な声で語りかけてきます。それは、フィーリングと呼ばれるものなのです。フィーリソグは、もしそれに耳を傾けるならば、あなたの真実を語り、あなたの覚醒への道を教えてくれるでしょう。自分の内に感じる真実を生きなさい。その真実を生き、体現し、あなたの栄光を示すのです。それができたとき、あなたは自分という観点から人生を評価し、生き、そして理解したことになるでしょう。それがどんな視点を生もうとも、それはつねにすべて正しいものになります。あなたが自分の師になることです。自分自身の救世主に、主に、そして神になるのです。
 このあまりに単純明快なことに思いをめぐらせば、すべてを理解できる自由へとあなたを解放してくれるでしょう。そうすれば、何が真実で何が違うのかとか、何が現実で何が幻かなどを判断することに、もはやとらわれなくなるのです。宗教的な教義や信念にまつわる法から離れ始め、ほかの人間の真実になろうとするのをやめるとき、あなたは自分に欠けている知識や叡智を満たすことができるよう自分自身を自由に表現し、自分の魂が求めることを自由に体験できるようになるのです。すると、体験と感情を通して、あなたは自分自身のペースで、一瞬一瞬、神になるのです。では、あなたの時間はどこで終わるのでしょうか。終わりません。なぜなら、あなたは永遠に向かって途切れなく続く存在だからです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 172

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 61-j[11-f] (あなたは天の王国への鍵を自分の内に持っている)

 より偉大なものになることを求めるとき、もしそのお手本となるような偉大さをこの地上界に探そうとするなら、あなたがなれるものは、どんなにがんばってみてもこの次元にあるものでしかない。人間の限られた思考を超えるというのは、膨大なる叡智を持つ、目に見えない何かがあるのではないかと思いめぐらすことなのである。
 それが誰の口から出たかに関係なく、真実にはつねに心を開いておくことだ。そして、自分のフィーリングをガイド役とするのである。賢者は、たとえ盲目であったとしても、何が正しいか自分の魂の内で知っている。真実とは、あなたが踏みつける一本の草にもあるのだ。それは子どもの笑い声の中にある。乞食の眼の中にある。それはあらゆる場所に、あらゆるものに、すべての人々に、すべての瞬間にあるものなのだ。これを知らぬ者は神をも知らない。なぜなら、神は在るものすべてそのものであり、たとえ一本の草であっても、ほんのわずかな瞬間のつぶやきであっても、在るものすべての源から自分を引き離すことはできないからだ。賢くなることを学ぶのだ。それがどんな形でやってこようとも、真実に耳を傾け、自分はそれを受け取るに値することを知るのだ。
 天の王国は自分の内にあると知る者は賢き存在だ。どんな想念でも、それを思い、魂の内に感じる力があるあなたは、天の王国への鍵を自分の内に持っている。それは感情という宝だ。感じることを学ぶのだ。神を完全に知るというのは、一つひとつの想念を完全に感じとることなのである。神であるその想念が、自分の存在の核、つまりあなたの存在の魂の内で感じられるまでそれを感じるのだ。
 自分の脳を直ちにすべて活動させたいという無理な望みをしてはいけない。想念をひとつずつ、体験をひとつずつ重ねながら脳を開いていき、それぞれの想念があなたの内で固まっていくようにするのだ。
 何よりも大切なのは、自分を在るがままにさせてあげることだ。ただ在ることによって、あなたはすべてであるからだ。単に自分の「在るということ」そのもの、「我は在る」という本質であるとき、あなたは生命全体と同じ線上に並んでいる。そのときのあなたは、人間としての断絶した自分を、神とひとつである自分へと変容させたのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 297-298

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 61-k[5-c] (人間と霊との関係はどうなっているか)

 人間界が霊界の終極点であるのと全く同じ理由で人間は霊の終極点である。また、人間の生命の継続と霊の増殖という両面で人間と霊が“協力関係”にある存在だということはいまふれたとおりだ。だから私は、ここでは、いままでこの手記の中で述べて来たことを簡単にまとめてみよう。
 人間は物質界に属する肉体と霊界に属する霊からできている。そして肉体、物質界に属するものは、肉体自体をはじめとして眼や耳、鼻などの肉体的感覚などがある。だが、これらの働きを本当の一番深い所で支配し、生命そのものを肉体に与えているのは、霊界に属し、霊界の太陽の霊流を受けている霊なのだ。霊の働きが人間に自覚されることは普通はめったにないが、人々が時に話題にする自分でもなぜとはわからない不思議な霊感″とか霊的知覚″などというものは、霊の働きにやや近いものである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.229

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 61-l[5-d] (肉体の人間と霊はどっちが本質的なものか)

 この問題に対する答えは、この手記をいままで読んできた人々には、もはや云う必要もないほど明らかであろう。肉体の人間に生命そのものを与え、これを支配している霊が主人公であることはいうまでもないからだ。そこで私は、角度を少しかえ例もまじえて人々にもっと解り易くこのことを説明してみることにする。
 例は、人々にもっとも解り易い、さっき私のいった霊界とこの世の境界線上に起こるものを取上げよう。
 あなたが、もし幽霊を見たとしよう。また親しい人の死の知らせを、珍らしい夢とか昼間の幻影のようなもので知ったとしよう。この瞬間あなたは、どこにいたのかといえば、あなた自身、私のいう境界線の上にいたのだ。あなたは、幽霊が、この世に現われたのだと思うかも知れない。また、死の知らせも、あなたの眼や耳といった肉体の感覚を通じて受け取ったものと思うかも知れない。
 だが、このことは前にも少しふれたように全くあなたの思い違いに過ぎないのだ。あなたは幽霊を見た瞬間や死の知らせを受けた瞬間には肉体的には死んで、一瞬の間霊となっていたからこそ、その霊の眼によって幽霊が見えたり、死の知らせを受取ったりできたのだ。あなたは一瞬間霊の世界へ入ったということなのである。
 では、この境界線を逆に霊の側から見てみよう。霊界から物質界、人間界に入るとき、霊はその境界線の上で霊的に死ぬだろうか? もし霊的に死ぬとすれば、霊は物質界の存在そのものに変わらねばならない。だが、こんなことはないのだ。霊にとっては境界線も何もなく、物質界に属する人間の肉体に宿るとしても、霊には、そこもまた霊界なのだ。境界線は単に人間が肉体の死という側面、あるいは同じことだが肉体の生という世界から見た場合に存在するものに過ぎず、霊や霊界の立場から見れば、そのようなものは全く存在しないし、存在することを考えることすらできないのである。
 このことから人間にとってもまた、霊がその本質的な存在であり、肉体は非常に例外的なものに過ぎないのは誰にも明らかにわかるだろう。霊界とこの世を一つに含めた大きな一つの世界の中では、この世は一つの例外であり、霊界の一変種に過ぎないといってもよい。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.229-231

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 61-m[5-e] (なぜ人間には霊のことがわからないのか〉

 このことについては、私はこの手記の中でおりにふれ人間は物質界の中にあり、その考えも物質界的であるため霊のことが解らないのだといって来た。確かに、この言葉に間違いはないのだが、私は、ここでは、もう一歩つっ込んだ話を二つの立場からしよう。
 どんなに遠く離れた所からも鳥は間違いなく自分の巣に帰ることができる。花は季節がくれば正確に花を咲かせ実を結ぶ。また、少しの知恵さえあると思われない蜂が人間も及ばない精巧な巣をつくり統制のとれた集団的生活を送る----。このことはよく考えてみれば大きな不思議である。ここには自然界の知恵が背後に働いていることを誰でも感じないわけには行かない。
 人間が霊界や霊のことがよく解らないのも実は肉体的な存在としての人間が自然界の知恵に動かされているためだ。もし、人間が霊の存在、その永遠性を本当に確信をもって信じられるように全ての人々ができていたらどんなことになるか? おそらく多くの人々はその肉体的、自然的生命を全うすることなく自ら命を断って霊界へと入ってしまうに違いない。自然界は、その不思議な知恵によって人間に自然的生命を全うさせるため霊や霊界の存在と永遠性を、その死の瞬間まで人間の眼にふれさせないようにしているのである。
 人間が霊のことを知らない理由はもう一つある。また、この理由は同時に霊が人間の存在を知らずにいることと表裏の関係にある。
 人間は霊と肉体との二つの要素からできているが、もし人間がつねに自分の肉体に住む霊の存在を意識し、その霊に支配されているのだと思っていたらどんなことになるか? 自由を何よりも欲する人間は必ず、自分を支配しようとする霊と対抗し、ここに両者の闘争が起きる違いない。
 また人間の中に住む霊は、そのことを全く知らない。彼らには自然界の存在である人間の肉体は見えない。そして、その結果霊は、人間そのものも自分だと思っているのだ。これは、人間が霊の存在に気づかず、自分の全体は全て自分のものと思っているのと同じなのだ。霊は人間の中に住んでいることに気付かず、全てが自分だと思いつつ、人間の肉体に生命を与え、その考えや思いを無意識のうちに支配しているのだ。ここには霊界と自然界の二つを一つに合わせた大きな世界の知恵が働いているのだ。なぜなら、霊の中には凶霊というものもあり、この霊は自分と関係のあるものの生命や思考に破壊を及ぼすことをつねに狙っている。もし、この霊が人間の肉体に住んだ場合に凶霊に、それが自分自身でなく、人間というものの肉体であることが解るとすれば直ちに、その肉体に害を及ぼすからだ。しかし、凶霊といえども、人間を自分そのものと思っている限りはやはり、それを自分として大切にしこの肉体に生命を与える働きをするのである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.231-233

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 61-n (私達は不滅の存在で本当は傷つくことはない)

 お金は中立的なもので、良くも悪くもありません。お金で何をするかが、大切なのです。お金で貧しい人々のために食料や衣類を買うこともできるし、お金を利己的に、無駄に使うこともできます。その選択は私達のものであり、そこからいつかは何かを学ばなければなりません。
 お金と安心は同じものではありません。安心は内からだけしか得られません。安心は霊性の持つ特質であり、地上的なものではありません。お金は地上的なものです。ここを離れる時、お金を持ってはゆけません。
 もし、それが必要な学びや運命であれば、私達は一夜にしてすべてを失うこともあります。安心とは内なる平和や、私達の真の本質は何か知っているところから、生まれるものなのです。私達は本当は傷つくことはありません。なぜなら、私達は永遠に不滅の存在だからです。物質的な体ではなく、霊的な存在だからです。私達は常に愛され、守られているからです。そして一人きりではないからです。神や愛に溢れた精霊の軍団がいつも私達を守っているからです。誰でもみな、同じ本質からできているからです。だから、怖れる必要はありません。実は、この真理こそ、安心と喜びの秘密なのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.148

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 61-o[6-k] (すべての世界的な宗教には真理が含まれている)

 何世紀にもわたって、キリスト教や他の諸宗教の真の教えといっしょに混乱した教義までが受け入れられるようになってしまったのは嘆かわしいことだ。だが特に申し上げておきたいことは、すべての世界的な宗教には真理が含まれている、ということである。それらのうちひとつとして他の宗教から抜きん出て真実度の高いものはない。本書でわたしたちが関心を持っているのは、個々の人びとに手を差し伸べ、内なる声に耳をかたむけるよう告げることなのだ。真理はあなた自身の心の中にある。あなたの心の奥深くからやってくる直観が、物質界で知りうるもっとも偉大な真理へとあなたを導いてくれる。誰にでも、このように深遠な真理を自分のものとする道は開かれているのだ。人にはそれぞれ魂があり、この魂が宇宙の叡知を伝えてくれる。耳をすませて聞いてほしい― ただそうするだけでいいのだ。
 とはいえ耳を傾けること自体にも、ある程度の訓練と理解が必要だ。まず最初に、真理があなた自身の心の中にあることを認めなくてはならない。つぎに、さしせまった日常の雑事に関するとめどないイメージだとか独り言などの雑念を一掃する努力をしなければならない。こうした雑念を断ち、心の内から聞こえてくる声に耳をかたむけてみよう。答えは必ず得られるはずだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.56

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 61-p[15-t] (物質的な領域には不安と愛という二つの在り方しかない)

 法則は非常に単純だ。

 @思考は創造につながる。
 A不安や恐怖は似たエネルギーを引き寄せる。
 B存在するすべては愛である。


 待ってください、その三つめにはびっくりしてしまう。不安や恐怖が似たエネルギーを引き寄せるなら、どうして存在するすべてが愛だということになるんですか? 

 愛は究極の現実だ。それが唯一であり、すべてだ。愛を感じるということは、神を体験することだ。至高の真実のなかでは、存在するすべては愛であり、存在したすべて、これから存在するであろうすべても愛である。絶対の領域に入るとき、あなたがたは愛のなかへ歩み入る。
 相対性の領域は、わたしが自らを体験するために創り出したものだ。このことは、もう説明した。だからといって、相対性の領域が現実になるわけではない。それはあなたがたとわたしが自分を体験的に知るために工夫した、そしていまも工夫しつづけている、創られた現実だ。
 だが、この創られた現実はほんとうに現実的に見える。現実的に見せて、ほんとうに存在すると思わせるのが目的だからだ。この方法によって、神は自分以外の「べつの何か」を考案した(厳密な意味ではこれは不可能なのだが。なぜなら、神、すなわちわたしは「すべて」であるから)。
 「べつの何か」、つまり相対性の領域を創造することで、わたしは、あなたがたが神であると言われるだけではなく、神であることを選択できる環境を創り出した。その領域で、あなたがたは概念ではなく創造行為として、神格を体験できる。
 不安や恐れは愛の対極である。これが第一の両極。相対性の領域を創ったわたしは、まず自らの対極を創り出した。さて、あなたがたが暮らす物質的な領域には、二つの在り方しかないと言った。不安と愛である。不安に根ざした思考が、ひとつの物質的な場を生む。愛に根ざした思考がもうひとつの場を生む。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.81-82

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 61-q[15-u] (真実や真理はいままでもあらゆる所で示されてきた)

 要するに〈マスター〉とは、愛だけを選択したひとたちである。あらゆる時に、あらゆる環境で、彼らは愛を選択した。自分たちが殺されても、殺害者を愛した。迫害されても、迫害者を愛した。
 このことを理解するのは非常に難しいだろうし、まして見習うことはできにくいだろう。だが、〈マスター〉はすべてそうしてきた。哲学はどうでもいいし、伝統も、宗教もどうでもいい。すべての〈マスター〉は愛だけを選んだのだ。
 あなたがたはそんな例をはっきり見てきた。大昔から何度も何度も、目にしてきた。あらゆる時代、あらゆる場所で、それは示されてきた。あなたがたの人生のなかで、いつも見せられてきた。宇宙はあらゆる設定を利用して、この真実をあなたがたの前に差し出してきた。歌や物語、詩、踊り、言葉、動き、動く絵つまり映画、そして、本と呼ぶ言葉の集りを通じて。
 その真実は最も高い山頂から声高に叫ばれ、最も低い場所でささやかれてきた。人類のあらゆる経験の回廊に、この真実がこだましている。答えは愛、それが真理だ。だが、あなたがたは聞こうとしなかった。
 いま、この本にめぐりあったあなたは、神が数えきれないほどの回数、数えきれないほどの方法で語ってきたことを、もう一度語ってほしいと言う。それでは、もう一度 ―ここで― この本のなかで語ろう。今度はあなたは耳をかすだろうか。ほんとうに聞こうとするだろうか。
 何があなたをこの書物に導いたと思うか? どうして、あなたがこの本を手にすることになったと思うか? わたしが自分のしていることに気づかないとでも思うのか?
 宇宙には偶然などというものはない。
 わたしは、あなたの心の叫びを聞いた。あなたの魂の探求を見た。あなたがどんなに深く真実を求めているかを知っている。あなたは苦しみのなかで叫び、喜びのなかで叫んだ。限りなく、わたしを求めた。わたしに現れてくれ、説明してくれ、真実を明かしてくれと呼びかけた。
 そこでわたしはいま、こうしてやさしく、誤解しようのない言葉で答えている。簡単で、混乱しようのない言葉で答えている。平凡な、惑わされようのない言葉で話している。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.82-83

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 61-r (霊的真理を理解して生きていれば人生に不幸はなくなる)

 霊的真理を理解して生きていれば、人生に不幸はなくなります。自分を磨いてくれる「試練」はあっても、「不幸」はないとわかるのです。
 私はつねづね、人生で一番の幸せとは「恐れるものがないこと」だと思っています。
 この世で言う幸せは、物質的な幸せばかりです。成功すること、名誉やお金を得ること、健康で長生きすること、美しさや若さがあること、すてきな恋人がいること、家族とにぎやかに暮らしていること。これらはすべて、いつ失ってしまうともわからない、はかない幸せです。
 本当の幸せは、これらを失うことをも恐れないことです。もしこれらを失っても不幸と思わない、強い心を持っていることです。こうした強さは、霊的真理を本当に理解してこそ持てるのです。
 もっとも、そこまで達観することは、この世に生きている人間である限り、きわめて難しいことです。しかし、一歩ずつ学びながら、その境地に近づいていくことはできます。そのために私たちの人生はあるのです。
 こうした霊的視点をふまえたうえでも、人生になにか「不幸」なことがあるとすれば、それは、人が試練に遭っているときに抱く「感情」ではないかと思います。
 たとえば交通事故で大切な人を亡くしたとします。そのときに加害者に対して湧く憎しみ、故人に対する哀れみ、遺された寂しさ、「こんなことが起きなければ」という悔しさ。こうした感情が、もっとも苦しく、不幸なものではないかと思うのです。
 霊的真理をあるていど理解している人でも、生身の人間である限り、こうした感情にさいなまれてしまうものです。とても切ないことですが、そこで葛藤すること自体が、その人のたましいをまた一段と輝くものへと磨き上げるのです。
 死そのものは不幸ではありません。もといたあの世へ、たましいが里帰りするというだけのこと。それは霊的視点から見れば、むしろ喜ばしい出来事です。
 そしてまた、どのように不幸に見える死も、自殺などの一部の例外を除いては、本人が「宿命」として決めてきた寿命であるということを、静かに受け容れたいものです。

   江原啓之『人間の絆』小学館、2007、pp.165-167

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 61-s(一度結ばれた魂の絆は死も分かつことができない)

 人はみな、一人で生まれ、一人で死んでいきます。どんなに深い絆で結ばれた人とも、死の時期は別々です。
 そのため人は、人生において「死別」を幾度も経験することになります。愛する人に先立たれる。愛する人を遺して自分が逝く。これを避けて生きることは誰にもできません。
 死別は、数ある試棟のなかでもっともつらい出来事の一つではないかと思います。今まさに、大切な人を喪った悲しみに暮れている人も多いことでしょう。
 そういう人にこそ理解していただきたいのが霊的真理です。
 肉体が朽ちてもたましいは永遠に生き続けること。この世がすべてではなく、死後に帰る「あの世」こそが私たちのたましいのふるさとであること。そして一度結ばれたたましいの絆は、死をもっても分かつことができないこと――。
 こうした真実を知っているのと知らないのとでは、悲しみの癒え方がまったく違ってくると思うのです。
 この世がすべてだと思うと、人生で味わう苦痛というのは本当に耐えがたいことばかりです。わけのわからない災難に次々と見舞われ、右往左往するだけが人生だとさえ思えてきます。
 しかし霊的真理の視点を持つと、どんなときも自分は決してひとりぼっちではなく、どんな苦しみや不幸に思える出来事にも前向きな理由があるのだとわかります。
 すべての出来事の究極の目的は、私たち自身のたましいの成長と、私たちが本当の幸せを得ること。そのために霊的法則という、愛に満ちた神秘の働きが、とてつもない規模で作用しているのだとわかると、人生に大きな信頼と安堵感を持てるようになるのです。
 死別との向き合い方も変わります。故人のたましいは今も生きていて、あの世で幸せに暮らしているとわかりますから、深い悲しみも乗り越えられるのです。
 故人はあの世から私たちを見守っているのだから、遺された自分の人生に勇気をもって立ち向かおう。今も二人を結んでいる目には見えない絆をいつまでもあたためよう。そう思えてくるのです。

    江原啓之『人間の絆』小学館、2007、pp.164-165