学びの栞 (B) 


 62. 天使・妖精


 62-a(天使の世界は人間の進化の連鎖とは離れて存在する)

 私の友人である皆さんが、いつか、森の中を歩いているときに、数知れない小人たちが草花のために働いているのが見えるようになってくれたら、と私は心から願っています。そんなとき、彼らはあなた方を無視しているように見えるかもしれませんが、彼らは夢中で、地上の生命体の一部である彼ら自身の世界を一生懸命に作っているのです。
 一つ思い出しました。人間としての路線を通して進化したのではなく、自然界の路線に沿って進化を遂げてきた天使たちのことです。彼らは地球と接触を保っています。
 天使の中には、ときとして、彼らが奉仕の対象としている人に、ある種の知識を授けたり、特別な力を与えて何かを達成する手伝いをするために、人間と深い絆で結ばれるものもいます。例えば、天使たちは儀式が行なわれる宗教的な行事に魅力を覚えます。
 これはおとぎ話ではありません。私は事実を語っているだけです。というのも、私自身、儀式や神聖な集いが行なわれているときに、天使がその場にいるのを何度も見たことがあるからです。
 生と死の天使についての漠然とした知識も多少は伝わっています。皆さんは、このような天使は、かつて人間であった存在が進化を遂げた姿であると考えるかもしれません。しかし、それは間違いです。天使の世界は、人間の世界とは別に、人間の進化の連鎖とは離れて存在し、人間の肉体をもって生まれたことのない魂によって形成されています。
 これらの魂は独自の発達の過程を経て進歩を遂げてきた存在であり、すべての存在に恩恵をもたらす創造的奉仕の法則に基づいて行動しています。音楽の天使もそのような存在です。(ちょっと話を中断しますが、小人たちはそれぞれが小さな音楽の音色を持っていて、それが一緒になると力強いメロディーとなり、崇高な自然のハーモニーを奏でるのです)

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、pp.202-203

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 62-b (人間と天使は兄弟の関係にあることが理解されるときが来る)

 やがて、人間と天使は、兄弟の関係にあるということが理解されるときが来るでしょう。そのような目標に向かって、創造と進化が進行し、神のすべての被造物の間に完全な理解と調和をもたらそうとしているのです。
 これは絶対にできることです。あなた方も一なるもの。私たちも一なるもの。すべてのものは一体なのです。人間も、二回目の死を体験し、生まれ変わって、この事実に目覚め、永久に進歩を遂げていくであろう悟りを体験するとき、これがわかるはずです。このとき人間は生まれ変わって、生命のすべての王国にいる兄弟姉妹たちと与え合い、奉仕し合い、宇宙とまさに一体になるという意識の拡大を経験することになるでしょう。そして、人間の魂は神と一体となり、自我を消滅して初めてキリストを見いだすことになるでしょう。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.203-204

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 62-c[51-l] (あなた自身も庭に出て妖精を探してみてください)

 存在のいかなる局面といえども、人間よりも限りなく高いところにあると考えてはいけません。自然界であれ、アストラル界であれ、霊界であれ、天界であれ、みな同じことです。すべての存在局面はあなた自身の意識の中に存在しています。これらの世界は、人間の息が届くところよりも近いところに位置しています。私たちが心の中に深く受けとめ、人生の中で身をもって生き抜かなければならない一つの教訓は、天国は自らの中に存在するという真実です。
 この王国に入るために、大袈裟な知的探求は必要ではありません。必要なのは、幼児の純朴な心だけです。ですから、あなたの子供に妖精のことを教え、話してください。あなた自身も庭に出て、妖精を探してみてください。そして、妖精もその一部である、自然の普遍的な生命と一体になってみてください。
 最後に、もう一つの考えを話したいと思います。単純さ、これが鍵なのです。単純であること。生命は複雑ではありません。無知なるものだけが(大胆な言い方かもしれませんが、これは事実です)物事を複雑にしているのです。生命はその単純さにおいて偉大であり、その偉大さにおいて単純です。それだけのことです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、pp.204-205

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 62-d (神秘体験は準備さえできていればそれを体験する =1=)

 アフトンへの道すがら、奇妙なかたちをした小さな家の前にさしかかった。ポーチに立っていた女性が車のほうに走ってきて、狂ったように手をふりはじめた。緊急事態だと察したマニーが車をとめた。みたこともない女性だったが、話を聞いてみると、その日わたしがどこに泊まる予定かを知っていて、そのホテルに向かうとちゅうでわたしをつかまえるべく待っていたことがわかった。そしてわたしを家のなかに誘った。「とてもたいせつなものをおみせしたいんです」と女性はいった。
 おかしな話だったが、驚きはしなかった。逃げる手は心得ていた。そのころには、見知らぬ人に声をかけられて長話を聞かされる、どうしても聞きたいことがあるといわれて居座られるといったことには慣れっこになっていた。いつも親切をこころがけているわたしは、その女性に素っ気なく「二分だけよ」 といった。女性はうなずき、わたしを家に案内した。狭いが快適そうなリビングルームに入ると、その女性はテーブルのうえの写真を指さした。「これです」女性はいった。「みてください」。一見すると、ただのきれいな花の写真だった。しかし、よくみると、花弁のうえにちっぽけな生き物が座っていることがわかった。人間のような顔があり、二枚の翼があった。ふり向いて女性の顔をみた。女性はうなずいた。「これって、妖精よね?」わたしはいった。心臓が高鳴っているのを感じた。
 「どう思われます?」女性が答えた。
 あたまで考えるより本能で感じたほうがいいときがある。そのときがそれだった。わたしはその時期、あらゆるものにたいしてこころをオープンにしていた。ほとんど毎日のように、だれもみたことがない世界につうじるカーテンがひらかれつつあるような気がしていた。これがその証拠だった。大いなる転換点のひとつだった。いつもならコーヒーを一杯所望して、その女性と話しこむような場面だった。しかし、車には家族が待っていた。質問をしている時間はなかった。写真をありのままにみとめることにした。
 「正直に答えましょうか、それとも儀礼的に?」わたしはたずねた。
 「もういいんです」女性はいった。「それがあなたの答えだとわかりましたから」
 帰ろうとしてドアに向かったわたしの手に、女性がポラロイドカメラをにぎらせた。そして裏口まで案内し、よく手入れされた庭園に招き入れて、好きな花の写真を撮るようにいった。早くすませてそこをでようと考えていたわたしは、写真を一枚撮り、印画紙をひきだした。しばらく待つと、由画紙に別の花の妖精が姿をあらわした。驚愕している自分がいた。どんなトリックを使ったのかと推理している自分がいた。そして、もうひとりの自分は、そそくさと女性に礼をいい、マニーと子どもたちのところにもどっていった。家族にあの人はだれかと聞かれたが、適当な話をでっちあげて答えた。悲しいことに、家族にもいえないことがどんどんふえていた。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.257-259

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 62-e (神秘体験は準備さえできていればそれを体験する =2=)

 ひとりになると、すぐに妖精のことを考えはじめた。子どものころから童話では妖精の話を知っていたし、いまでも植物や花に話しかけてはいるが、妖精の実在を信じていたわけではなかった。にもかかわらず、妖精の写真をみせてくれたあの奇妙な女性のことがあたまから離れなかった。強烈で挑発的な証拠物件だった。自分でもポラロイドカメラで同じことができたという事実も見逃せなかった。もしトリックなら、恐ろしくよくできたトリックだった。しかし、なぜかいんちきだとは思えなかった。
 シュウォーッ夫人の訪問以来、説明できないからという理由で無視することはできないと考えるようになっていた。臨死体験の研究も、人には守護天使または守護霊がついているという信念を裏づけている。ポーランドの戦場でも、マイダネックの収容棟でも、病院の廊下でも、わたしは自分よりもはるかに力のあるなにものかにみちびかれていると感じたことが何度もあった。
 そして、こんどは妖精?
 神秘体験をする準備さえできていれば、人はそれを体験する。こころをオープンにしてさえいれば、その人独自の霊的な出あいがあってもおかしくないではないか。
 ホテルの自室にもどっていくときのわたしほど、こころをオープンにしている人はいなかったかもしれない。手をふれないと約束した禁断の木の実、マニーの友人のカメラをもって、わたしはレンタカーを借り、森のはずれの草原に向かって走っていった。小高い緑の丘の前に、ひらけたところをみつけた。マイレンのわが家の裏手にあった、少女時代の隠れ家を思わせる風景だった。フィルムは三枚残っていた。
 三枚。一枚目は、目の前の丘を撮った。丘の向こうには森がみえていた。二枚目を撮る前に、わたしは挑むような声でこう叫んだ。「もし守護霊がいるのなら、そして、わたしの声を聞いているのなら、つぎの写真に姿をあらわしてちょうだい」いい終わって、シャッターを切った。三枚目は撮らなかった。
 ホテルにもどり、カメラを鞄にしまうと、その実験のことはすぐに忘れてしまった。およそ一か月後、とつぜんの衝撃で記憶がよみがえることになった・・・・・・・

 ・・・・・・もしこの目でみていなかったら、とても信じることはできなかっただろう。一枚目には緑の丘と森が写っていた。二枚目もまったく同じ風景だったが、前景に、背が高く筋肉質で、ストイックな顔をした先住民の男の姿がだぶっていた。男は胸の前で腕を組んでいた。その写真を撮った瞬間、男はまっすぐにカメラをみつめていた。思いつめたような表情だった。冗談のかけらもなかった。
 わたしは陶酔感を感じていた。こころのなかで宙返りをしていた。その二枚の写真は宝物として、生涯たいせつにしようと思った。立派な証拠物件だった。不幸なことに、それは一九九四年の火事で、ほかの写真、日記、備忘録、本などといっしょに焼失してしまった。だが、そのときのわたしは、飽かずに写真をながめていた。そして、「やっぱり、ほんとうだったんだ」とつぶやいていた。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.259-261