学びの栞 (B) 


 63. 霊・霊力


 63-a[27-c] (世間の学者や教会関係者の霊に対する認識の浅はかさ)


 霊は人間と同じように人体をそなえている。ただ霊界は人間界のように物質界の中にはないから霊のそなえている人体は人間のような物質的肉体という形骸はもっていない。しかし多くの人々が考えているように霊を何か空気やエーテルか精気のようなものだと思えばそれは間違いである。このことは、もう汝にはわかりきっているだろう。また霊には人間の肉体の機能に相当する眼、耳、鼻のような感覚も全てあるし、口や舌をもち言葉もしゃべるのは同じように汝にはもう説明するまでもないだろう。
 ここまでいったあと、彼はさらに言葉をついで、私が精霊界のところでいったと同じように世間の人々を誤らせている世間の学者や教会関係者の霊に対する認識の浅はかさについて非難した。そしてさらにつぎのようにいった。
 「いまわが云いしことのほか、霊には霊的感覚、霊的能力なるものそなわれり。これ人間にはなきものなり。されど、われ、いまはこのことは云わず、汝、霊界になれるにつれ自ら知るに至ることなればなり」
 彼はこういったあと微笑を含みながら、ついでにいい添えておくといった感じで、さっき彼が無限ともいえる遠い所から突然現われて私を怒らせたのも霊能力のひとつで霊界ではごく当り前のことなのだと弁解した。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.71-72

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 63-b (世界中に増えてきている低級な自然霊) 

 この世にはさまざまなたましいが存在します。人間のたましいは「人霊」、犬や猫のたましいは「動物霊」です。では、「自然霊」とは何かと言いますと、この世に姿を持ったことのない霊です。稲荷(狐)、竜神なども自然霊です。狐や竜と言っても、動物ではなく、そのような姿をとって人間の前に現れるエネルギー体と考えていただくといいでしょう。
 「自然霊」にも、高級なものから低級なものまであります。私たちが「神」と呼ぶのは超高級なエネルギー体です。「狐憑き」と呼ばれる霊障で人間を困らせていた狐霊は、低級な自然霊です。この低級な自然霊がいまや日本、いや世界じゅうに増えています。
 低級な自然霊が増えているのには理由があります。それは私たち人間が、物質に目を奪われ、自然霊界に対する感謝の心を忘れてしまったからです。それどころか粗末にするようになってしまい、そのため高級な自然霊はこの世から離れていき、未浄化な低級自然霊ばかりが残ってしまったのです。感動や感性に乏しい人の心は、低級な自然霊と感応して、容易に同化してしまいます。これが「人霊の自然霊化」ということです。
 人霊と自然霊の違いは、その増え方にあります。人霊は母親がお腹を痛めて子どもを生むことで増えます。そこには情愛といったものが存在します。しかし、自然霊は「分霊」といって、分裂することで増えていきますから、そこには情はありません。いいものはいい、悪いものは悪い、自か黒か、二つに一つといった判断を下すのが特徴です。
 昨今の殺人事件のニュースから感じるのは、この人霊の自然霊化です。ひと昔前の殺人事件は痴情のもつれなど、お互いの感情が動機となって起きたものばかりでした。ところが、最近の殺人は、「むしゃくしゃしたから」とか「誰でもよかった」というような通り魔的な犯罪が増えて、理由らしき理由を失っているのが特徴です。
 二〇〇四年に長崎県佐世保市で起きた小学六年生の女子児童が同級生によって殺害された事件は、インターネット上のトラブルが動機の一つではないかと見られています。もしこれがインターネットではなく、直接的な人間関係の中で生じた問題であれば、殺害にまではいたらなかったかもしれません。無機質な世界にばかりいると、自然霊と感応しやすくなります。これは「波長の法則」です。
 ITの世界では、ゲームにしてもリセットが簡単に出来てしまう。私は十年前に携帯型の、キャラクターを飼育する携帯ゲーム機が出た時に、警告を発していました。キャラクターの飼育に失敗したら、簡単に殺してやり直してしまいます。無機質でデジタルな遊びを続けることで生じる「リセット症候群」が人の命を大切に感じなくさせてしまうのです。
 また自分の人生も上手くいかなくなったら簡単にリセット、つまり自殺をしてしまえばいいという方向に向かいます。若い人たちがネットの世界で自殺志望者を募って、見ず知らずの者同士で集団自殺するのも、人霊の自然霊化の現象を表していると言えます。
 とは言っても、これからの社会をつくっていく子どもたちは、ITと無縁ではいられません。また、物質主義とも付き合っていかざるをえません。そういう社会に出て行くお子さんのために、親御さんはできるだけ「愛」を持って接して、「真善美」に子どもたちが触れるような機会をつくることが必要でしょう。

   江原啓之『日本のオーラ  ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.23-25

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 63-c (霊の世界は真理ではないという主張と反論)

 江原 「江原批判と言えば玄侑さん」という位置づけにされてしまって、なんだかお気の毒でもありますね(笑)。それに取材する側がどういう聞き方をしているのか、という疑問も湧いてきます。玄侑氏の発言から都合のいい部分だけを抜粋して作っているのではないかと考えることもできるのですが……。
 ― いや、週刊誌のコメントはそうかもしれませんが、月刊誌の記事は玄侑さんも納得して出しているものでしょう。玄侑氏の主張をあえて一言でまとめるとしたら、「霊の世界は文化であり、真理ではない」ということになるでしょう。(単純なほどありがたいという気持から江原氏を支持するのは理解できる。ただ、あくまでも、これは文化の一つだという余裕が必要だと思う。それを飛びこえて、テレビや本で、「これが霊的真理だ」といわれると、「ちょっと待って、それは真理ではなくて、文化の一つでしょう」と言いたくもなるのである)(「文芸春秋」二〇〇七年五月号)
 江原 これは聞き捨てならない発言です。
 ― おっ、それはなぜですか。
 江原 霊の存在を曖昧にするなら、葬式、戒名の命名、お賽銭やお守り、お払い、お焚き上げ……。そのすべてが悪質な霊感商法だということになってしまうではありませんか。人々は文化だからお葬式をあげるのでしょうか? お墓参りをするのでしょうか? 霊の存在を信じているからこそ、高いお金を支払ってでも供養したいと考えている人もいるのではありませんか?
 ― 確かにそれはそうですね。
 江原 実際に戒名というものに対しては、何十万円、中には百万円以上も請求する僧侶がいて、ずいぶんと暴利をむさぼっているなと常々思っていました。スピリチュアリズムの観点では、戒名の階級によってあの世へ早く行けるとか、あの世での地位が高くなるなどありえないので。当然、お賽銭は千円より一万円のほうが願い事が叶いやすいなどということもありません。それがまかり通るなら、神様仏様は金銭の多寡で働きを変える小我な存在ということになってしまいます。僧侶であっても現世で生きている限り、報酬を得ることは構わないと思いますが、それにしても良識的な価格があるだろうと呆れます。これまであえて問題提起をしてこなかったのは、高いお金を払うことで心安らかに前向きな気持ちになる人がいるならば、それはそれでいいのだと考えていたからなんです。ただ、こうして真っ向から批判されると、反論しないわけにはいきません。
 ― 玄侑さんのほかにも、霊の存在を否定する僧侶は大勢いるとお考えですか?
 江原 私は既存宗教を否定しているわけではないんです。宗教界には篤実な人も大勢います。玄侑氏も科学では解明できない超常現象を体験したことがあるとのことで、霊の存在を否定なさっているわけではありません。しかし残念ながら、悪徳商法と言われても仕方がないような根性の宗教関係者にも、私はたくさん会ったことがあります。
 ― 私もキャバクラで女を口説きまくるお坊さんや、フェラーリを乗り回す若い「二代目僧侶」を知っています。
 江原 霊の存在を受け止め、真摯な動機で宗教活動をなさっているのであれば、その報酬を何に使おうと構わないとは思います。しかし宗教に従事する以上は、やはり慎み深くあるべきなのです。なぜなら宗教法人は税金を納めなくてよいという優遇措置を国から受けているのですから。「霊や死後の世界は文化だ」と宗教従事者が言うなら、宗教法人法を改める必要があると思います。
 ― どのように?
 江原 文化だというのであれば、歴史ある建造物や仏像、美術品としての彫刻など日本の誰もが認める文化財のあるところだけ、宗教法人法を適用して保護すればいい。「文化」を振りかざして税金を優遇されては、真面目に納税している一般の方々は納得できないでしょう。霊の存在を信じず、ビジネスとして宗教をやっている方々からは、優遇措置をなくしてキッチリ税金を取るべきです。そしてそのお金を福祉に回せばよいのです。

  江原啓之『江原啓之 本音発言』講談社、2007、pp.58-61