学びの栞 (B) 


 64. 運命・宿命


 
64-a[74-f] (人の一生は先天的に決定されているものであるか)

 人の一生は過去世の因縁によって、大体定まっているものであるが、その人が、守護霊、守護神に素直である場合、または善なる意志力の強い場合、祖先や父母が人を救っている場合、等の場合は、後天的に運命が修正される。
 私が常に人びとにいうのは、守護霊、守護神に、いつも感謝し、祈っていなさい、ということなのである。守護霊、守護神といっても眼に見えるわけではないから、そんなことといってしまう人はそれまでで、素直に感謝していれば、それは直接神への感謝になるので、自分の過去世から犯して来た、悪行為、悪想念などから割り出されて一度び定まっているその人の悪い運命も(善い行為、善想念による善い運命は、そのまま喜べることで、別にいうことはない)悪縁に触れず、その果の出ぬように、出ても、不幸が軽く済むように、導いてくれるので、そのまま、運命は修正されてゆくのである。これは、神に素直である人の救われの道である。
 意志力の強い場合、これも真理に素直であることが根底にないと、意志力だけでは、定まった運命のままに、一生を終ってしまう。
 善いといわれ、自分も善いと信じたことを、その意志力にものをいわせ、徹底してやってゆけば、運命は変わってゆく。
 祖先や父母が人を救っていた場合は、この救われた人びとの感謝の想念が、自然に、その子孫の因縁の現れを弱めてくれる。また、その救われた人が霊魂である場合は、霊界から直接応援して、守護霊のように、その人を導いてくれる。これは、その人の努力とは別個に、運命修正の力となる。
 その理を知らなくとも、人間は、愛と真の行いをして、人を救い、自己を裁くことをも止めれば、運命は善くなってゆくのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.81-82

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 64-b (姓名を変えたり方位学の方除けで幸福になったりするか)

 姓名をただ変えただけで運命が良くなる、ということはない。
 姓は祖先の歴史(因縁)を現わし、名は、その人の過去世の因縁を現わしているので名を観て、その人の性格や、過去の運命を当てたりすることはできる。しかし、その姓名のひびきだけが、その人の運命を造ってゆくのではない。何の何某とつけられた姓名の、その何某とつけられる前、即ち生まれる前に、すでに今生の運命を現わしてゆく素因があるので、その素因が、何がしという姓をもつ家に、何某という名をつけられるように生まれてくるのである。その名が、苦を造ってゆくのではなく、その名が、その人の過去世からの因縁、即ち、過去世においていかなることをし、いかなる想念をもって生きていた人間であったか、ということを示しているのである。
 であるから、その過去世の、その人の因縁、つまり、行為の習慣、性格の傾向等々を素にして、今生の運命を推察してゆくことができるのである。それが姓名学なのである。しかし、それは、あくまで推理であって、できあがっている運命を見るのではない。確定しているものをいうのではないので、当たることもあろうが、当たらぬことも多い。姓名学は、その姓名と、生まれ年月日を加えて観なければならぬことになっているので、生まれ年月日さえも聞かず、姓名だけで、人の運命を示々するようなことは、非常に悪いことである。生まれ年月日を加えて、その道の達人が観た場合でも、それは、あくまで、過去世の因縁の現れから推理を下しているに過ぎないので、その人が、過去世の因縁として現わしている名前そのものを変えたとしても、その人の過去世からの悪因緑、つまり、性格の短所、生き方の欠点を修正してゆかなければ、到底、姓名学だけで、運命を良くすることはできないのである。
 私が姓名判断に、一番不満を感じるところは、大体の姓名判断者は、運命の欠陥をまず突くことなのである。この姓名では、何年何月頃大病する、とか、結婚運が悪いとか、はては短命だとかいい切る人が多いのである。それは、お前の因縁は、こうなんだから、名前を変えなければ、その悪因緑の通りになるのだ、と、その人の心の中に、その人の悪因縁(悪い運命)を深く認識させてしまうようなもので、その人の運命を、過去世の因縁に縛りつけてしまうことになるのである。それは一種の強迫観念を植えつけることになるので真の救済からは、ほど遠い方法なのである。まして、よほどの達人でないかぎり、過去世の因縁から姓名のひびきを通して、真の未来を予見することは困難なのであるから、まずまず姓名学は、出産児の名前をつける時ぐらいにしておいたほうがよいのであろう。名前など変えなくとも、自己が、自己の長所、短所をよく識って、その長所を伸ばすことに真剣になることによって、運命は変わってゆくのである。まして、真の信仰に入った人などは、そうした姓名学の範疇から超越してしまうのである。
 私の姓名五井昌久は、どの姓名学で観ても、総格十九格または二十格(熊崎式)の空っぽ数といって、非常な悪い運命をもっている。他、井と昌と合わせた主運数というのが、十二格で、これまた悪く、それに陰陽の配列も凶であって、善いところは、昌久という名前だけである。これを綜合的に説明すれば、青年期までは非常に恵まれるが、後半年以下は、何をやっても、途中挫折し、悲運に悲運がつづくということになっているそうである。それに、両親、兄弟の縁薄く、常に孤独である、という、おまけもつくのである。ところが、私の運命は、まるで、この説とは反対で、青年期まではほとんど常識的にいう、恵まれた、という環境ではなかったが、幸いに、いまだに両親とも健在で兄弟姉妹、五人が無事でいる。その上、私の運命は、青年期から急上昇して、今日にいたっているのであって、孤独とはおよそ反対な、賑やかな日常生活である。
 これは姓名学が誤りであるのか、私が、姓名学的因縁の境界を超越し得たのか、どちらかであるに違いない。とすれば、もし悪い姓名であっても、心さえ変えれば、その運命は変えられる、ということになる。ともあれ、人間は、自己の運命に暗い影を投ずるような教えや、暗示を離れ、ひたすら、明るい、希望ある生活に飛びこめるような団体や、教えに導かれるようにすべきである。
 汝の運命を、汝のうちにある神に一任すべし、と私はいいたい。人事を尽くした時、神はその人の運命を展いてくれるにきまっているので、いろいろ恐れおののいて、自己の運命を覗いて見たりしてはいけない。自己に荷せられたる運命なら、いさぎよく受けよう、という勇気こそ、その人の運命を切り展く、最大の力なのである。人間よ勇気を持て、である。
 次に、方位方角のことであるが、それはやはり、種々の研究の結果、学問体系をもって、権威づけられているもので、否定し得るものではない。従って方除したら、自己の運命を改善できる、と信じたらやればよいのであるが、私は、そうした学問や教えによって、人間が、自己の行動に臆病になり、いちいち、そうしたことによって自由を縛られて行動するようになることを恐れる。偉大な仕事をした人たちが、いちいち方位方角を調べて、仕事をしていたか、というと、そうではなさそうである。自己が自己の信念のもとに、全力を尽くして突き進む時、おのずから、自己の運命を展き得るような、方位方角に、神(守護神、守護霊)が自己を導いて下さるのである。自己を信じることのできぬ人は、毎日数多く、守護霊、守護神の加護を心に念じて、行動していれば、自然に自己の運命に信念がついてくるものである。
 神常に我れと倶にあり、という信念を自己の心に植えつけることのほうが、姓名学や、方位学よりも、先きにならなければ、その人は救われの道に入り得まい。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.100-103

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 64-c[79-b] (人間には運命と自由意思による選択の両方が存在する)

 自由意思は存在し、同時に、運命も存在します。ここにおいて、人間は自由意思対運命という問題に直面することになります。これはなんと大きな、そしてまた、一見したところ解決不可能に思われる問題でしょうか。まさにこれは不可解な問題です。そして、人間は神の知識に徐々に近づくことによって、初めてこの間題に対する理解が得られるのであって、けっして知的な理解によって達成できるものではないと知ったとき、自由意思と運命の問題は明らかになってきます。人間には、運命と自由意思による選択の両方が存在しているのです。
 一人の人間についていえば、運命とはその人が一生涯のうちに体験しなければならない、そして体験することになるであろう、一連の物理的な体験を意味します。自由意思とは、その人の日常的な物理的生活を構成しかつ支配する、一連の状況、環境、境遇に対して、霊的にどのように反応するかということです。
 与えられた境遇に対応する中で、より優しく、かつ親切な人柄になっていけば、人生もその人に対してより優しくなっていくでしょう。逆に、恨みを持ち、同胞に対して厳しく無慈悲な行動をとる人間になれば、過酷な出来事を自分自身に引きつけ、因果の法則にしたがって、そのような厳しい状況を現実化することになるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、pp.208-209

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 64-d[73-a] (本当は誰でも自分の一生の運命を予知できる)

 私はこの手記の最後に記すように一七七二年三月二九日に、この世を捨て霊界へと住み家を変えることになっている。人々は私がこのように自分の死の日(私からいえば単にこの世に肉体を捨て霊の世界へ移ることに過ぎないが)を何年も前から知っていることは不思議でしかたがないだろうし、なかには今は私のいうことを信じない人々も少なくないだろう。
 私は、人々には誰にでも本当は自分の一生の運命を予め知ることができるのだということをこの章で記すことにしよう。私は例によって、自分の生涯を二〇歳のときに予言していたある男の例を上げて、このことを説明してみよう。
 彼はフランスの農夫だった。彼は二〇歳のときすでにつぎのように自分の生涯の運命を語っていた。
 ----彼にはこの二年後の七月二十日、ある友なる者が西から現われ、その者は彼の五十二歳の六月まで彼とー緒にいるだろう。小さな友がこれに続いて三人現われるが、そのうち天は彼の三十五歳の半ばに彼に涙を与えるだろう。また彼は二十九歳の秋に水の底に彼の家が沈むのを見るに違いない。彼は三十二歳の春には、南十字星がよく光るのを見ることになるであろう-----。
 彼は自身の“予言”どおり、二十二歳の七月に彼の村から西方にある村の同じ農村の娘を妻にし、妻は彼の五十二歳のとき世を去るまで一緒に暮らした。子供(小さい友)は三人生まれ、そのうち一人は彼の三十五歳の時に病死し彼に“涙を与えた”。彼の村は彼の二十九歳のときに大きな洪水に見舞われた。彼の家は予言どおりに水の底に沈むことはなかったが農作物は“水の底に沈み”全滅の被害を受けた。また、彼はこの洪水後三年あとの三十二歳の時には、遺産相続人のない親類の土地を相続したが、この土地は小高い丘の南向きの斜面の土地だったのだ。
 私は彼も私同様にある程度の「死の技術」を持っていたのだと思う。死の技術によって彼も時には霊界へ入ることができたのである。
 霊界の霊同士の間では、想念の交換中にその霊の人間であったときの一生やその後にその霊が霊界で送るべき永遠の未来の霊の“一生”のことが、すべてこと細かに描かれた絵巻として相手の眼に見えることがあるということは私はすでに前に記した。この絵巻は霊でも自分の絵巻あるいは、その霊に眼に見える形の表象によって教えてもらうことはいたって簡単にできる。
 そこで、もし人が、ある程度の死の技術を身につけて霊界に入り他の霊と自由に想念の交換を行なえるとすれば、死んで霊となる以前に自分の人間としての一生の未来を知ることは、たやすくできることになるわけだ。私は彼もこの方法で自分の未来を知り、それを予言として人々に語っていたのだと思う。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.189-191

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 64-e  (天命は絶対で宿命は相対的なものである)

 今の人達は自分がある程度努力して、この努力が実らないと、それを運命だと思ってしまう。たとえば病のときでも、一所懸命手を尽くしても治りが遅いと、“運命”だと思ってしまう。あるいは、事業を盛り返そうと一所懸命努力しても、自分の思うとおりにならないと、これもまた“運命”だと思ってしまう。こうして何もかも運命だと、片付けてしまうのだけれども、人間の力では、どうにもしようがない運命というものは、たくさんあるものではない。
 自分の思慮が足りないか、あるいは力が足らないかの理由で運命が開けないことを、いわゆるどうすることも出来ない運命だと決めてしまうのは軽率極まりない話である。運命には二種類あることを知らないのだ。すなわち天命と宿命というものがある。
 天命は絶対で、宿命は相対的なものである。もっと判りやすくいうなら、天命というものはどうすることも出来ない。女が女に生まれ、男が男に生まれたのを、女が男になり、男が女になりたいといっても、どうしても、そうはいかない。これは天命だからである。この現代に生まれるのも天命なら、昔に生まれたのも天命。また末の世に生まれるのも天命だ。これはどうともすることは出来ない。
 しかし、宿命というのは、人間の力で打ち開いて行くことが出来るものである。

  中村天風『運命を拓く』講談社、1994年、pp.136-137

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 64-f (常に心の中に感謝と歓喜の感情をもつこと)

 静かに、我が心に「心に憎しみはないか、怒りは、悲しみは、嫉みは、悶えは・・・・・」と問うてみよう。
 そして、少しでも消極的な気持ちが、心の中にあるならば、それは自分を宇宙霊の力から遠ざけて、くだらぬ宿命を招き寄せる種を蒔いているのと同様の人だ。
 宇宙には因果律という法則が厳として存在している。だから、そういう心持ちでいる人は、いつまで経っても本当の安心立命は出来はしない。美しくしておくべき心の花園に、自分から汚物を振り撒いて歩いているようなことをして、それを、「天命だ。あるいは逃げ能わざる、せっぱつまった業だ」などと考えている人があるなら、結局その人は人生を、寸法違いの物指しで測っているのと同じような結果を、作っているようなことになる。
 だから、良い運命の主人公として活きていきたかったら、何を措いてもまず、心を積極的にすることに注意深くし、始終自分の心を監督して行かなければならない。
 宿命統制にもう一つ必要なことがある。それは常に、心の中に感謝と歓喜の感情を、もたせるよう心がけることである。
 習慣として、何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。この心がけが、宿命統制にすこぶる効果があるということがわかるなら、宿命統制ということが、さほど困難でないと悟れることと思う。まことに、この真理こそ絶対である。

  中村天風『運命を拓く』講談社、1994年、pp.146-147

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 64-g[79-d] (運命と自由意志は共存し常に互いに影響し合っている)

 人は誰もが人生の計画を持っていますが、私達はまた、自由意志も持っています。私達の両親も、私達が出会う誰もかも、それは同じです。私達の人生も彼らの人生も、肉体を持っている間に私達が行なう選択によって影響を受けますが、運命の転換点はやはり、やって来ます。私達は会うように計画して来た人々と出会い、生まれる前に計画したチャンスや困難に直面します。しかし、そのような出会いをどう扱うか、私達の反応やそれに続く決断は、自由意志の表れです。運命と自由意志は共存し、常に互いに影響し合っています。この二つは矛盾するものではなく、補完し合っているのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.71-72

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 64-h (人生は学校教育と似ていて何時卒業するかも分かっている)

 人生は学校教育とよく似ている。いつから新学期が始まるかが分かっている。どういう教科を何時間習うかも分かっている。春・夏・秋・冬の休暇もあらかじめ決まっている。そしていつ卒業するかも分かっている。これを天命とか宿命とかいっている。そのワクの中で自由意志が許されている。つまりその間にどれだけ学ぶかは、ひとえに本人次第だということである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.72-73

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 64-i (不運だと思うことが起こってもそれは偶然ではなく必然である)


 (運と霊的世界が関係あるのを理解するには)私たちが「たましいを成長させるためにこの世に生まれてきた」ということを覚えておかねばなりません。いろいろな問題に直面するのはもちろん、様々な経験と感動を重ねることは、たましいの成長のためであり、大切な学びです。
 例えば、あなたが不運だと思うことに遭遇したとしましょう。それはどこかから降ってきた災いでも、偶然でもなく、必然。あなたにとって必要な出来事だから起きたことです。あなたが不運だと思うその出来事から学び、たましいを成長させたのであれば、それは結果的に幸運だったと言えるでしょうし、運を拓いたと言えます。
 現世に生きる私たちは、肉体も含め、霊的世界にはない物質を通しての学びが多いものです。肉体があるから病気になるのであり、肉体を養うためにお金を稼がねばならず、そのための仕事やそこでの人間関係にも悩みます。そんな人生で起きる問題を、ただ「不運だ」で片付けてしまうのはもったいないこと。それは不運に見せかけた幸運の種かもしれないのですから。

    江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、pp.27-28

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 64-j (自然災害や戦争は宿命ではなくて運命である)

 国の犯した戦争で爆弾を投下され罪なき人たちが一斉に亡くなる、大きな地震の被害に遭ってその土地に住む多くの人が亡くなる・・・・・・。
 このような場合も、魂はそういうことが起こるかもしれないことを理解して、何とかそうならないように努力しよう!と、その土地を選んで生まれてきています。
 戦争や自然災害は必ず起こるという宿命ではなく、それを回避することも可能な運命です。
 神界もグループ・ソウルも、宇宙も自然も動物も人も、すべてつながっています。
 どこかで、自然を破壊すればそのカルマはやがてその人に必ず返ってきます。
 そして、どこかで憎しみ合ってキレやすくなると、そのエネルギーは自然にも影響して、地熱が上がり、火山は噴火する、人が何も信じられなくなって家族愛さえ薄れるようになると、地を揺るがす地震が起こる、人の心が欲にまみれて傷つけ合い、心が通わなくなるとそのカルマや波長は自然へ伝わり、自然が傷つきます。傷ついた自然は自らの傷を治そうとして、津波や洪水が起こります。ということは、平和を愛して戦争を起こさないようにする、地球温暖化防止に努めて自然災害をなくす努力苦るなど、私たちの行動、想い、言葉で運命はいくらでも変えられるのです。
 こうして一人ひとりが優しさを持ち、戦争や自然災害を回避できれば、そのときに寿命にあたる方たちは各々の学びにふさわしい場所で、寿命を迎えることでしょう。
 私たちの努力でいかようにも未来は変えられることを、どうか胸に刻んでいただければうれしいです。

   美鈴 『あの世を味方につける行き方』扶桑社、2010年、pp.52-53

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 64-k (現世だけでなく霊的世界の視点から自分の運命を考える)

 多くの人は、宝くじに当たることを良運と思うでしょう。しかし大金が当たってその後の人生が不幸になった人の話は枚挙にいとまがありません。
 これが、身勝手なことをインスタントに望んでしまうという課題をクリアするために、運ばれてきた運だとしたら? 単純に良運とは言えないのではないでしょうか。
 また、離婚する夫婦は、最初から離婚など予想せずに結婚するはずです。結婚したときは、「いい人と出会えて運がよかった」と思っても、結果的に離婚となれば、「その相手との出会いは不運だった」となるのでしょうか?
 結婚というものに憧れて相手をよく見ていなかった幼稚さや、妄想で結婚してしまった安易さがあったとしたら、その短所は前世からやり残した課題。それが離婚という形で浮き彫りになっただけのこと。しかし自分の短所を知り、改善することで自分が成長したなら、結婚も離婚もたましいの視点から見れば運がよかったと解釈できるのではないでしょうか。
 前世というたましいにおける過去のよい行い、悪い行い、それらを清算するために運がやってくるとしたら、幸運と見せかけた不運、不運と見せかけた幸運、様々にあることでしょう。ですから、現世だけでなく霊的世界の視点も持たなければ、本当の意味で運は読み解けないのです。

    江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、 pp.35-36

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 64-l (家系の因縁によって運ばれてくる運命)

 家系や家族はたましいの学校ですから、校風とも言うべき傾向があります。その傾向が家系の因縁です。
 よく「うちは短命家系なの」「うちの家系は離婚が多いよね」「女系だから」などと言ったりします。工業科や商業科の学校があるように、あなたが離婚の多い家系に生まれたのならば、「離婚・結婚科」がある学校にあなたは入学した(生まれた)と言えるかもしれません。そうすると離婚や結婚にまつわるテーマを学びますから、自分で不運と思うような離婚問題に直面するかもしれません。だからといって、必ずしも離婚するとは限りません。離婚が多い家系でも、それを反面教師にして幸せな家庭を築く道も選べます。
 つまり、家系の因縁はあなたを不幸にするものではなく、あくまで課題のひとつにすぎません。それがわかっていれば離婚問題に直面したとしても不運とは言い切れないでしょう。自分にやってきた運を読み、そこに含まれている課題をクリアしながら、未来を幸せに変えていくことは可能です。

    江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、 pp.37-38

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 64-m  (今のあなたは前世の延長線上に生きている)

 前世の悪因縁とは、自分が前世で蒔いた悪い種と言えるでしょう。
 乱暴な言葉遣いで人を傷つけたり、ブレイボーイな振る舞いでたくさんの女性を泣かせていたというのも、その一例。
 「前世のことなど記憶にないし、わからない」と思うかもしれませんが、自分がどんなことをしてきたかは、自分がいつの時代の誰かといった具体的な前世を知らなくてもだいたい想像がつくのではないでしょうか。
 なぜなら、前世は自分自身。自分の長所や短所は、前世から引き継いだものだからです。
 そういう意味では、霊能者に前世を視てもらうまでもなく、今のあなた自身を見つめれば、前世もわかります。今のあなたは前世の延長線上に生きているのですから。

    江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、p.58

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 64-n (自分が今の家に生まれたことには意味がある) 

 運を拓くための第1ステップは、なぜ自分がこの家に生まれたかを見つめることです。どうしてこの家系に生まれたのか。この家族なのか。そこには絶対に無駄はありません。ですから感情に溺れて、「こんな家に生まれてきたくなかった!」と自分が被害者のように思っているうちは、運は拓けないのです。
 その家に生まれたことには意味があります。必ずあるのです。あなたにぴったりの家なのです。「こんな家」と思うような不都合なことこそが、あなたにとってまさに必要な学びであること。それを冷静に受け止めることが第1ステップです。
 例えば、あなたが「こんな家に生まれてきたくなかった」と思う理由に「父のことが大嫌いなんです」という気持ちがあるとしましょう。でも、周囲から見れば、「あなたとお父さんって、性格がとても似ているよね」ということも。人は自分の嫌な面を指摘されると腹が立つように、自分の嫌いな部分を鏡で見せられるのがイヤで父親を嫌ってしまうのです。逆を言えば、その嫌いな部分と正面から向き合い、短所を直すために、それがよく見えるようにとこの父の元に生まれたのではないでしょうか。
 何度も申し上げますが、家系や家族はたましいの学校です。同じテーマを学び合う生徒として、ご先祖様や家族がいるのです。
 まずはその事実を受け入れるのが第1ステップです。

     江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、pp.125-126

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 64-o[36-zg] (子どもの虐待死は社会全体の責任である)

 私は最近、こんな質問をよく受けます。
 「親に虐待されて死ぬ子どもたちは、そうなるのが必然だったのですか?」
 「虐待を受けている子どもたちも、親を選んで生まれてきたというのですか?」
 いつも私がテレビ番組や著書で、「子どもは親を選んで生まれてくる」「この世に偶然はなく、すべては必然です」と語っているからそう聞くのだと思います。
 そういう質問の裏には「そんなひどい親を選ぶ子どもがいるわけないでしょう?」という私への反論も秘められているのだと思います。しかし私の言葉は変わりません。やはり、すべての子どもが親を選んで生まれて来ています。わが子を虐待するほど未熟な人格を持った親を選んだ。それはその子のたましいが決めた「宿命」なのです。
 しかし、親が子どもを死に至らしめるまで虐待をエスカレートさせるかどうかは「運命」です。親本人や、親戚など身近なまわりの人たちがどう考え、どう行動するのかによって、その子の「運命」はいくらでも変わってくるのです。
 子どもはまた、生まれる地域、国、時代も「宿命」として選んでいます。あたたかい絆がとうに失われた都会的な地域社会、殺伐とした今という時代も、それを承知のうえで、選んで生まれてきています。
 しかし、生まれた地域の人たちが、虐待にまったく無関心を決め込むのか、あるいは手を差しのべて救い出すかどうかは「運命」です。日本という国が、今というこの時代が、虐待の問題にどんな対策を講じるかも「運命」です。
 要するにどういうことかというと、虐待されて死ぬところまでは、その子の「宿命」ではなかったということです。虐待死は「必然」などではありません。食い止めるタイミングや方法はいくらでもあったはず。その子の命を助けられなかったのは、親だけでなくまわりの人たち、ひいては社会全体の責任なのです。
 子どもに対する虐待は、まるで最近の風潮のように取りざたされていますが、昔から子どもに暴力を振るう酒乱の親などいくらでもいました。今の親が未熟だからというばかりではありません。しかし昔は、そういう子どもをかくまってくれる家が近所にいくらでもあったのです。地域の人たちがこぞって、酒乱の親をいさめてくれることもあったでしょう。そういう社会では、幼い子どもが虐待死するという悲劇はまず起きなかったのではないでしょうか。
 子どもは両親のもとにだけ生まれてくるわけではありません。地域社会の子でもあるし、国の子でもあるし、地球の子でもある。すべてのたましいは究極的には一つのまとまりです。子どもはそれらすべての大きな愛を信頼して生まれてくるのです。
 しかし最近は、社会全体がそれに応えられなくなっています。子どもの虐待死は、みんなが反省しなければならない、悔しい悲しい事件ばかりなのです。

     江原啓之『人間の絆』(小学館、2007、pp.205-207)