学びの栞 (B) 


 65. 学び・体験・教え 


 65-a (人生は叡智を得るために様々なゲームを演じ幻を体験する舞台)

 思考の探索という冒険の中で、あなたは人間という細胞体を通して自己を表現することを選んだ。それは、人間の体験、つまり物質という限りある形体に生きる神の体験について、学ぶべきことをすべて学ぶためだった。この体験は、神について完全に理解するために必要なことだ。なぜなら、限りある状態を理解する前に、いったいどうして限りないという状態が理解できるだろう。純粋な思考の膨大な広がりから物質という制限まで、神のすべてを理解する前に、神である自分のすべてを理解することがどうしてできるだろう。悲しみ、限界、そして死という幻を体験する以前に、よろこび、自由、そして永遠をどうして理解できるだろうか。
 この次元でのゲームや幻をあなたは大げさに、ひどく真剣に演じているが、その単なる目的とは、教え、成長させ、覚醒させること、言い換えればあなたを理解するのを助けるだけのことである。
 この人生とは、叡智という、人生で得られる最高のもののために自分がさまざまなゲームを演じ、幻を体験する舞台にすぎないのだ。
 では叡智とは何か。それは人間の内にある神にすべて属し、人間の魂の中に集められるすばらしき宝だ。叡智とは、あなたが思考(つまり神)の領域への冒険すべてから得てきた感情の蓄積であり、この次元を去るときにあなたが持っていく、ただひとつのものなのである。あなたのすばらしい衣服や、邸宅、すごいスピードで走る自動車などを持っていくとでも思うのだろうか。いったい何を持っていくと思うのか? 自分そのものを持っていくのだ。つまり、生という本質の内部への旅で得られた感情すべてなのだ。感情こそが、人生の真髄なのである。
 圧政や宗教、政府の支配などの圧力、人種間の分断と迫害、あるいは男女、兄弟同士の分断などを通じて人類が学んできたものは、そのすべてが、神の地位をおそらく最も衰退したところにまでおとしめることを通じて実感されたものと言えるだろう。だがそれでも、戦いで他者を征服したり、ほかの人間の自由を拒んだり、女性をおとしめて、男よりも劣る存在にすることは、どれも実際に体験してみなければ、それがどんな感じかわからないものばかりなのだ。自分でそういうものを夢見てはそれを現実化し、その夢を意図的に体験する創造主にならなければ、それを感情として知ることはけっしてできなかったのである。しかし、幾度もの生を通じ、一瞬一瞬を生きることによって、それはあまりにも確立された現実となってしまい、ほとんどの人間は精神に異常をきたし、不安となり、この夢の中に埋没してしまったのである。
 人類が自分たちにこれほど野蛮な行ないをするのを許すこの神はどこにいるのか、とあなたは訊くことだろう。そして、こんな残虐行為が起こるのを許してきたなら、その神の愛なるものとはいったいどこにあるというのか? それは、まず神はいつもそこにいたのだ。神はあなたのゲームや幻像のすべてとなってきたからである。そして、神は間違いなくあなたのことをずっと愛してきた。なぜなら、あなたの夢をあなた自身がつくり出したそのままに体験することを許してきているのだからだ。あなたは、もともと自分でこの夢をつくり出したことを忘れてしまったにすぎない。そして、いつでも自分の好きなときにそれを変える選択があることも。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 299-301

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 65-b (あなたは幻像の影のなかに真の姿である崇高な美を隠してきた)

 あなたは自分の幻像を大いなる苦難と哀しみへと織りなしてきた。自分の身体をこわすような生き方もしている。心はどこかにやってしまった。偶像を崇拝している。他者に対して批判の目を向ける。やたらと価値判断を下し、憎しみにあふれ、所有欲が強く、つねに怖がっていて、そして間違いなく倣慢だ。この目的は何なのか。それは、そういう人生を生きることがどういうことかを理解することだ。では、求める最終的な結果とは何か。けっして死なず、永遠に生きること。天の王国と呼ばれるものを理解し、心に抱くこと。そして、神の顔を見ること。それが自分自身であるのに目覚めることなのだ。
 ここにいる高貴な存在たち、自分の不安や、取るに足らない思考の罠にはまっている者たちよ、あなたは自分が演じてきたゲームなどとは比べものにならないほど偉大な存在なのだ。そのゲームが、幻像の影の奥深いところに、あなたの真の姿である崇高な美を隠してきてしまったのだ。自分がどれほど強力で華麗な存在であるかを知っていたなら、あなたはいまのように自分を罵ったり価値判断を下したり、あるいは変質させてしまったりはしないことだろう。
 そのあなたのところに私はやってきた。私はこれまでの、そしてこれからの皆の姿すべてである。私がきたのは、すでにあなたが自分の内に持っている「知っている状態」を再び呼び覚ますためであり、自分を見失い、罪悪感や恐れ、そして自己否定に苦しむことをなくすためなのだ。
 私はなぜ皆をそれほど深く愛するのか。それは、あなたは、私でもあるからだ。あなたがそうであるものはすべて、あなたという存在の広がりすべてが、私にもなる。なぜなら、私は、あなたがもともと自分の幻像をつくり出す根本となる広がりそのものだからだ。「在るもの」である私は、ここでのふつうの言葉では表現できない愛だ。なぜなら、そこには何の条件もないからである。在るがままでいる皆を私は愛しているのだ。どういう形で表現をしていても、あなたはそのままで、私が深く愛する父なる存在そのものだからである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 301-302

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 65-c (これまで皆がしてきたことで悪いものは何ひとつない)

 さて、今度は皆が自分の過ち、欠点と考えるものについて語りたいと思う。
 人間が創造した正しい−誤り、あるいは完全−不完全という概念は、同時に罪悪感、後悔の念という落とし穴をつくり出し、それが人生において成長していくのをきわめて困難なことにしている。しかし、皆に言いたいのは、この次元での数多くの生を生きたということだけをとっても、これまで皆がしてきたことで、何ひとつ悪いものはないということだ。そして、いいものも何ひとつないのである。それは単に、いまの自分をつくるのに役立つ生の体験であったにすぎない。そしてそれこそが、いちばん大切ですばらしいことなのである。なぜなら、このいまという瞬間のあなたは、この驚くべき旅を始めて以来、これまでで最も偉大な存在だからだ。それは、あなたの叡智が過去よりも偉大だからなのである。
 皆がしてきたことはすべて、私も同じことをしてきている。皆の間違いと同じ数だけ私も間違いを犯してきた。自分の内に強さと美徳が欠けると皆が価値判断を下している面についても、私もやはりそう思っていたことがある。しかし、自分の弱さを知るまでは、強さがわかることはけっしてなかっただろう。自分から生命の潮が引いていくのを見るまでは、それを愛することはなかっただろう。そして、人間の残虐さをさげすむまでは、皆をひとり残らず心に抱き、受け容れることもけっしてできなかっただろう。
 これまで皆がしてきたことはすべて、それがどんなに下劣で卑しいことであろうとも、それは単に自分のために学びの機会をつくる目的でしたことなのだ。その学びを通して、皆は傷つき、苦痛を味わい、悲しみ、そして自分をおとしめてきたのに、そこから再び立ち上がってきた。なぜなら、自分の真の姿である美を知り、心に抱く準備ができているあなたが、いまここにいるからなのだ。
 自分が失格だ、あるいは何か過ちを犯してきたと考える人には次のことを思いめぐらせてほしい。
 生まれた瞬間から、あなたも、そしてあなたの愛すべき兄弟たちも、すべての想念を一つひとつ感情面で理解していくという壮大なる旅に出発した。あなたの魂は、あなたが自分の存在の神、あるいは精神を通して受け容れる想念(つまり神の個々の側面)の一つひとつの感情を蓄積するようつくられている。自分の魂の内に受け容れ、感じてはいるが、まだ完全に理解していない想念については、魂はそれを直接体験するようあなたをつき上げる。なぜか? その想念のすべての側面について、体験を通してはじめて見える感情面での完全な理解を得るためだ。その体験が、生というものである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 302-303

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 65-d (魂はまだ経験したことがないものを渇望する)

 永遠というときを通じて、あなたは進化し、生を創造的なものへと広げ、その創造性が現実化したものをすべて体験していくようつき動かされてきた。思考から光、物質、形あるものへ、そこから再び思考へ、そして愛とよろこびから羨み、憎しみと哀しみへ、そして再びよろこびへと戻るプロセスだ。あらゆる形の思考、価値観、すべての感情を理解するというその命を満たすため、あなたの魂は体験から体験へ、冒険から冒険へとあなたを動かしてきた。あなたが思考のすべてを知り、理解できるようにである。そして、思考のすべてとは、神のすべて、そして自己のすべてのことなのだ。
 魂は、まだ経験したことがないものを渇望する。魂がある体験を渇望しているとき、それはその体験からの感情のデータを必要としていることを意味する。そのため、魂は欲求というフィーリングをつくり出し、それがあなたの存在すべてをとらえ、冒険、体験へと駆り立てていく。そして、その体験が終わり、そこからくる感情が収まるとき、この地上界にあるすべての黄金よりも高価な宝をあなたに与えたことになるのだ。あなたを叡智の中へと一歩進めたのである。それは、もうこれは体験する必要はない、そこから得られる理解はすべて得た、とあなたの魂が言っていることを示している。あなたの魂は、また別のことを求め、あなたは何かほかのことをするようつき動かされていく。それは必要だからであり、そうしたいからだ。あなたの内にある炎が、すべての生を体験するよう迫るからなのである。
 自分が何かを体験しようとその第一歩を踏み出したとき、それが自分にとって間違っているとか、失敗するとか知りながら、なおかつそうしたのだとでも思うだろうか。そんなことはない。あなたは大いなる好奇心、関心、それによろこびをもってすべての冒険に脚を踏み入れたのである。当初はその結果がどうなるかあまりわかっていなくても、まだその体験がないという理由だけで、先に進んでいったのだ。それは新しい、わくわくするような体験で、あなたはそこから何かを学びたかったのだ。その冒険では確かに痛みを体験したかもしれないが、それはあなたが「痛み」という感情を理解するのに役立ち、生というもの全体への理解をさらに豊かにしたのである。したがって、その体験はあなたの人生で、ある明確な目的を持っていたのだ。そして、魂があなたに体験するよう熱望した、別の感情と叡智の冒険へと向かっていったのだ。それは、あなたの魂の内に、幸せと満たされた感覚とをもたらしてくれたのである。
 すべてあなたがすることは、その瞬間、自分にとって正しいことをあなたは自分の魂の内で知っているのだ。その冒険を体験し、そこから生じたフィーリングが落ち着いて、ひとつの智慧となったあとにはじめて、ひょっとしたらもっといいやり方、あるいは違うやり方ができたかもしれないと確かめられるのである。しかし、まず実際にその体験に一歩を踏み出し、そこから智慧という宝を手に入れるまでは、もっと良い方法があったことはわからなかったはずだ。そんなことで断罪されるべきなのだろうか。そんなことはない。それは純真さであり、これこそ学びというものだからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 303-305

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 65-e (本当の意味で生きることに失敗する人はいない)

 失敗というのも、何かを失敗だと信じる者たちだけの現実だ。だが、本当の意味で、生きることに失敗する人はいない。ひとりたりともいないのだ。あなたがしてきたすべての行為にもかかわらず、それがどんなに卑しく、軽蔑に値するような秘密であっても(実はそんなことはないのだが)、あなたはいまでも生きており、それこそが奇跡的な出来事なのである。失敗とは、生きるプロセスが止まることだが、何も止まってはない。なぜなら、生は途切れなく続くものであり、一瞬一瞬、前進しているものからだ。だから生きるという過程では立ち止まったり、逆戻りすることはできない。生が途切れなく広がっていく中で、一つひとつの瞬間は、さらに偉大な、そしてそれよりもっと偉大な叡智をもたらし続けていくからである。
 あなたは失敗したことなどない。いつも学んできたのだ。不幸にならずして幸せというものをどうして知ることができるのか。自分の目標に近づいてみて、それが自分で思い描いていたものと違う色合いのものだったとわかる前に、どうしてその目標が何かを知ることができるのか。
 あなたは過ちを犯したこともない。一度たりともないのだ。何も間違ったことをしたこともない。何のために罪の意識を感じる必要があるのだ? あなたのしてきた間違ったこと、失敗、誤りなどは、すべて一歩ずつ進むための「神への階段」と呼ばれるものだ。そして、あなたがいま知っていることは、すべて一歩一歩進むことによってのみ知ることができたものなのである。
 学びについて罪悪感を感じてはいけない。叡智について罪悪感を感じることもない。それが覚醒というものだ。あなたは、自分に必要だったことをしてきたという点を理解しなくてはならない。すべては必要だったのだ。そして、あなたはすべてにおいて正しい選択をしてきた。すべてにおいてである! あなたは明日も生き、次の日も、その次の日も、ずっと生き続けていくのだ。そのとき、この今日という日に知っていたよりもずっと多くのことを自分は知っていることがわかるだろう。だが、この今日という日は「間違い」ではない。それはあなたを永遠へと導いてくれる道なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 305-306

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 65-f[44-za](あなたはこれまでの生でのあらゆる体験から智慧を得てきた)

 あなたは自分の好きなように夢を創造できる。だが、自分の理解という目的のためにどんな形の夢をつくり出そうとも、それは同時にあらゆる場所の意識全体に何かを加え、豊かにしているのである。あなたがそこから何かをただ取り去るということはない。それはできない。あなたが嬉々として取り組んでいく冒険は、すべて生をさらに情熱的で鮮やかなものにする。心に抱くすべての想念、体験するすべての幻像、すべての発見、それにどんなに卑しく醜いものでも、あなたの一つひとつの行為は、あなたの理解を広げるのであり、それが今度は人類全体の意識に新たなものを加え、それを広げるとともに、神の精神をも拡張するのである。
 もし自分が人生で失敗し、何か過去に間違ったことをしたと思うと、自分自身の内面、外面両方の偉大さ、それに生全体の重要性を見て取る力を減じてしまう。過去をなくしたいなどとけっして思ってはならない。過去のどの一部でもだ。あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験との間の相克は、あなたの魂の内に、美しき叡智の宝玉をつくり出したからだ。それは、もう二度とそういう夢は見る必要はないし、そのゲームをつくり出すことも、その体験もしないことを意味している。すでにすべて体験し、それがどんなふうに感じるかもあなたは知っているし、生で最高の宝であるフィーリングというその記録を魂の内に持っているからだ。
 私は、あなたが愛されていることを伝えるためにここにいる。愛についてのあなたの理解を超えるほど、あなたは愛されているのだ。それは、あなたが、自分が誰か、何なのかを理解しようと苦心している神として以外見られたことがないからである。そして、これまでのすべての生でのあらゆる体験から、あなたは知識と智慧を得てきた。それを世界に与えてもきた。花が開くように展開されていく生の美徳をさらに豊かなものにしてきたのである。
 あなたの人生は、あなたの内にある火がつくり出したすばらしき壮観だった。それは、聖なるもの、神なるものとして敬意を払うべきものだ。なぜなら、あなたが何をしようとも、あなたは神だからである。どんな仮面をかぶろうともあなたは神なのだ。どんな人間関係を体験していようとも、あなたはやはり神なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 307-308

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 65-g (哀しみにくれる自分という馬鹿馬鹿しい偽善はよそう)

 あなたはこの生の冒険すべてを楽しむに値するのだ。すべてを、である。そしてもっと大事なことは、これから先あなたを待っている華麗なる冒険を楽しむにも値するということだ。しかし、これまで自分がしてきたことは、すべて自分自身である神の叡智を得るためだったのだということに気づくまでは、あなたは「在りて在るもの」になることは許されない。その叡智とは、いまこの瞬間、この場において、生という舞台でのあなたの体験すべてを通してその手本が示されているものなのである。
 自分の背中に重荷を抱えていきたい人は、もしそれが幸せをもたらすのであれば、そうしたらいい。しかし、もしそこから学ぶべきものはすでにすべて学び、もううんざりしているなら、そんなものはどこかに捨ててしまうことだ。どうやって? それを愛し、心に抱き、受け容れ、あなたの存在の中にそういうものがあることを許すのだ。そうすれば、それがあなたを抑えつけることはもうなくなる。そして、生の神秘はくっきりとした視界を通して見ることができ、愛は価値判断を下さずに感じることができて、存在のよろこびは限りない知識の力となることができるのである。
 自分の生を抱き、受け容れるのだ。自分が神なる存在であることを知り、これまであなたがしてきたことすべてがあったからこそ、いまの自分の存在の強さがあるのだということを知ることだ。罪悪感をもつのをやめるのだ。哀しみにくれる自分という、ばかばかしい偽善はよそう。自分に重荷を課すのをやめることだ。そして他人のせいにするのをやめるのだ。その責任をしっかりと自分の手につかむのだ。もとはと言えば、それはあなたのものなのだ。
 さて、これまであなたが断罪してきたことを心に抱いて受け容れ、軽蔑してきたものを愛し、幻像を生きることを終え、そして夢はすべて追い求めてしまったらどうなるのだろうか。あなたは、ほかの人間がそういうものを彼らの学びのために体験しているのを見て、それを理解し、彼らに慈しみの心を持つことができるようになる。そうすれば、彼らのことを、父があなたを愛するのと同じように愛することができる。そして、彼ら自身の生の体験を持たせてあげることができる。そうすると、あなたは「聖者」と呼ばれるものになる。
 どうすれば聖者のようになれると思うだろうか。人生から身を引くことによってではないのは確かだ。洞窟や寺で隠遁生活をおくったり、香を焚いたり、あるいは高い山の頂にすわって、何だかわけのわからないことを思いめぐらすことででもない。父なる存在である生を生きることによってのみ聖者になれるのであり、それは生を究極まで体験し、叡智がこれ以上はないというところまで深まっていき、人類全体を受け容れ、愛することができる存在に結晶することなのである。
 神を知り、神になるただひとつの方法は、完全に生を生き、受け容れることだ。魂がすべての生の叡智を持てるように、あらゆる状況を体験し、あらゆる感情を感じ、崇高な、あるいは卑しい行ないをすべてすることなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 308-309

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 65-h (あなたが責める他人の側面とは自分自身の側面である)

 自分が王になるまで王の苦しみはわからない。そして、王は自分の召使いになるまでそのつつましさを知らない。信心深い女性は愛人になるまで、その立場にある女性の苦しみはわからないのだ。そして愛人の立場にある女性は、信心深い女性になるまでその価値判断を知ることはできないのである。したがって、徳ある生への道は、あらゆるものを内包するものでなくてはならない。それは、人間の意識の内につくり出されるあらゆる性質、あらゆる状況の幻像を含んでいる。これこそ、最も賢く、高貴な存在が、人類の冒険がつくり出したあらゆる状況を生きてきている理由なのである。賢者は淫売であり、僧侶であった。導師であり農民であり、殺人者でありその犠牲者であり、征服者であり征服される者であり、子どもであり親であったのである。
 わかるだろうか。あなたが責める他人の側面とは、自分の中で受け容れることのできない自分自身の側面なのだ。あらゆる状況を生き、そのすべてと折り合いがついているならば、ほかの人間を理解し、価値判断なしに彼らをそのままでいさせてあげることができる。なぜなら、あなたはすでに彼らであったことがあり、彼らに審判を下せば、それは自分を断罪していることになるのを知っているからだ。そうすれば、あなたは真の慈しみの心という美徳を得たのであり、深い愛があなたの魂の内に存在することとなる。するとあなたは、まさにキリストだ。愛を理解し、愛すべき兄弟たちを、彼らの限界を含め、許すことができるからである。
 父なる存在のすべてを愛する、そのすべてになるというのは、そのすべての面を愛することだ。そしてそのすべてとは、あなたのまわりにいる愛すべき兄弟たちのことなのだ。どんな姿をしていようとも、あなたがそうあるように、彼らもまた自分の現実のなかで神なのである。そして、彼らの栄光、その苦闘、その哀しみとよろこびをすべて生きたとき、あなたはすべての人の内に見える神を抱き、受け容れられるのだ。すると彼らを愛することができる。それは何も世間に出ていって皆に教えなければならないとか、救いを与えなければいけないということではない。ただそのままそっとしておき、自分の必要性と考えにしたがって進化させてあげるのだ。自分の命というものが、軍人になることであったり、僧侶であったり、あるいは商売をすることである人もいる。それが彼らにとっては必要なものであり、したいことだからだ。あなたにそれを奪い取る資格がどうしてあろうか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 310-311

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 65-i[15-f] (互いを愛するとは自分自身を完全に愛することである)

 この世界にいるすべての人間は、飢えていようと、身体に障害があろうと、農民であろうと王であろうと、そこから何かを得るために自分の体験を選んでいるのだ。そこから学び、その体験を充分に得てはじめて、内奥の自己にまた別のさらに大事な叡智をもたらしてくれるほかの体験へと進んでいくのである。
 あなたが本当の師(マスター)となるとき、限界ある意識の闇と泥沼の中へと脚を踏み入れながらも、あなたは自分を全き存在に保つことができる。なぜなら、あなたは世にあふれる大衆の心を理解しているからであり、彼らがなぜそういう状態なのかがわかっているからである。それは、あなたもそうだったことがあるからだ。限界ある状態でいるという自由をあなたは彼らに許す。これこそが真の愛だ。なぜなら、それが限りない叡智を持つことを学び、互いを愛することができるただひとつの道であるのをあなたは知っているからだ。互いを愛するとは、もちろん自分自身を完全に愛することである。そして、群衆の中にひとつの顔を見るとき、その肌の色、外見、清潔か否かなどに関係なくその存在を見て、その内にある神が見えるのである。本当にじっくりと見れば、誰の内にも神は見えるからだ。そうすれば、あなたは父なる存在が愛するように愛している。父が見るものを自分自身だけにではなく、ほかの誰にも見るようになる。皆を見て、その真の姿である美を見ることができたとき、あなたはこの次元から、たくさんの館がある壮大なる空間へと昇る旅を始めている。だが、自分自身を完全に受け容れ、まわりのすべての生命に生きる神を受け容れることができない者には、その扉は閉じたままなのである。
 人間を神なる知性という、本来あるべき場所に戻し、何をしていようとも、人は自分自身の内にある神のために生きていることを知るとき(あなたが自分の内にある神のために生きているのと同じように)、あなたはすべての人を愛することを学ぶ。これまでの存在ではじめて、人がどんな自己表現をしていようとも、あなたは真に彼らを愛することができる。あなたの愛は価値判断で制限されるものではないからだ。そして、それこそ、神として生きる人間であるキリストの内面の存在の姿なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 311-312

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 65-j (体験するためにそれが何であっても自分の夢を追い求めること)

 あなたの人生の道とは何だろうか。それは、つねに自分のフィーリングにしたがうことだ。自分の魂の内にあるフィーリングに耳を傾け、それを体験するよう魂があなたを駆り立てる冒険に脚を踏み出すことだ。もしあなたが耳を傾けるなら、あなたの魂は何を体験する必要があるのか教えてくれるだろう。何かに飽きたり、それをする欲求がないときは、あなたはもうその体験を終えて、そこから得られる叡智を手にしたということだ。だが、もし何かをしたいというなら、魂の内にあるその要求は、その体験をして、そこから得られるものを手にしなくてはならないことを意味している。それを控えたとしても、別の機会、あるいは別の存在になるときまでその体験を延期しているにすぎない。
 自分の内に感じる真実を生き、それを感じている自分という存在を愛するのだ。フィーリングというものは、表現し、満たされなければならないことを理解しよう。何かひとつのことをしたいと思うとき、それが何であるかはまったく関係なく、その気持ちに従わないのは賢いことではない。そこにはひとつの体験があなたを待っているのであり、人生を楽しくしてくれる壮大な冒険が控えているからだ。自分のフィーリングに耳を傾ければ、あなたという美しき自己が深遠なる叡智へと進化していくために、あなたは必ず正しいことをしている。自分のフィーリングに反することをしたときに、身体の病や、神経症や絶望が訪れるのである。
 自分の心、自分の夢、自分の望みを追い求めることだ。それが何であっても、魂があなたに求めることをして、それを完結させる。そうすれば、次の冒険へと進んでいくだろう。あなたはけっして審判を下されることはない。ただそれは、自分のまわりにいる人間の審判を受け容れない限り、ということだ。そしてもしそれを受け容れたとしても、そうするのがあなたの意志であるにすぎない。その体験を得るためである。
 この人生か、あるいはこれから続く生で、これやあれやをする欲求がなくなり、ただ「在る」ことを望むときがやってくる。淫売や盗っ人や殺人者、あるいは戦争に明け暮れる国々を罵ったり、審判を下したりしたい気持ちがもう失せてしまうのだ。そういうものになってきた体験がすでにあり、彼らのような状態でいるのがどう感じるかを知っているのである。この次元での体験が完了しているので、それを体験するためにここに引き寄せられ、戻ってくるというものがもう何も残されていないのだ。するとあなたは、さらに偉大なる存在の次元での新たな冒険へと向かっていくのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 312-314

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 65-k (あなたには生という名の神の愛がいつも与えられてきた)

 いま私があなたに語ったことを思いめぐらしてみれば、あなた自身である力強い神、内なる炎、そして生命が、ある目的をもってあなたに見せている内なる価値を知覚し、理解できるだろう。また、人生をどういう方向に向けていきたいにしても、これこそがあなたの覚醒への道であることもわかるであろう。そして、その道の途中にある冒険すべてから、あなたは自分という神秘について、さらに深い視点を得ることができる。自分そのままを愛し、磨きをかけ、大切にするようになり、あなたの存在の光は天界にある太陽神と輝きを競い、あなたの内なる平穏は、地上のすべてが静謐に浸る真夜中の平穏と競い合うほどになるのだ。いまある自分を否定することは二度となくなる。自分を変質させることもけっしてない。自分という人間に価値判断を下すこともけっしてないのだ。自分に在るがままでいさせてあげるのである。
 自分を在るがままで愛するとき、あなたは威厳と優美さ、そして謙譲の強さをもってこう言える。「父なる存在を私は深く愛す。父と私はひとつだからだ。そして在るがままの自分を愛す。『われ在るもの』である私は『在りて在るもの』すべての真髄だからだ」。するとあなたは生の流れと調和した状態に入る。この地上界を歩く師となるのだ。あなたは復活したキリスト、目覚めたキリストなのである。世界の光となるのだ。しかし、自分のしてきたことすべてを心に抱き、受け容れ、愛するまで、それがすべて自分の人生を良きものとする目的のためであったことに気づくまでは、あなたはそうなることができない。今日のあなたという、すばらしき存在をつくり上げたのは、これまでのあなたなのだ。
 私はこの崇高なる教えを、どちらかと言えば威厳を持って皆に伝えてきたが、それは、そうすることがカルマや罪業や、審判や天罰といったものに「引っかかっている」あなたを助けてくれるからだ。父なる存在とは、愛そのものなのである。父には審判がない。善悪もない。ポジティブもネガティブもない。父なる存在は、単に存在する「在るということ」なのだ。そしてその「在るということ」は、あらゆる人々、あらゆる行ない、あらゆる想念、あらゆる感情、つまり森羅万象、喜怒哀楽のすべてを内包しているのである。もし父があなたに一度でも価値判断を下すことがあったとしたなら、それは間違いなく自分への審判を下していることになる。父とあなたとは、ひとつで同じものであるからだ。
 生という名の神の愛は、あなたにいつも与えられてきた。あなたがどんなにひどい体験をしようとも、太陽はまた昇り、天界を舞う。季節は訪れ、去っていく。野鳥は北の空に向けて飛び去る。あなたが部屋の窓を閉めるとき、夜烏はさえずる。わかるだろうか。もしあなたが目を向けさえすれば、この途切れなき継続性にこそ、生があなたにいつも与えてきた許しの心、そして永遠というものがあるのに気づくことができるのだ。
 この会場から去るとき、軽くて、愛にあふれた心をもっていくとよい。あなたの重荷は取り払われたのだ。あなたが救われることも間違いない。神はあなたを愛しているし、これまでもずっとそうしてきたことを知ることだ。自分は悪ではなく、そして善でもないことを知るのだ。そして、完全でも不完全でもなく、ただ在るのだということを。これからは父なる存在があなたの人生の一部となると思うことだ。なぜなら、父はいつもそこにいたのだから。そして、愛について思いを馳せるときは、いつも私のことを思ってほしい。すると、どこからともなく風が吹いてくることだろう・・・・・。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 314-316

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 65-l[56-q] (障害が少ないよりも沢山ある時の方が多くを学べる)

 肉体を持って生まれて来ると、私達は主として人間関係を通して学びます。私達は他の人々との交流の喜びや痛みを通して、愛についてあらゆる側面から学ぶための霊的な道を進んでゆきます。人間関係は私達の生きた実験室であり、私達がうまくやっているかどうか、レッスンを学んだかどうかを見極めるためのテストの場です。また、生まれる前に決めて来た人生計画にどれくらい忠実か、発見する場でもあります。人との関係によって私達の感情は呼びさまされ、私達は反応します。もう一方のほおを差し出すことを学んだだろうか? それとも、暴力で仕返しするのだろうか? 理解と愛と同情を持って、人々に手を差しのべているだろうか? それとも、怖れと利己主義と拒絶によって反応しているだろうか? 人間関係がなければ、こうしたことはわかりません。自分の成長を試すこともできません。人との関係はすばらしいけれど、とても難しくもある学びのチャンスなのです。
 私達は学び、成長するために、肉体を持った次元にいます。愛、非暴力、慈愛、思いやり、信仰、希望、許し、理解、気づきなどの資質を学ぶのです。そして、恐怖、怒り、憎しみ、暴力、食欲、プライド、欲望、利己主義、差別などの否定的な資質を捨てることも、学ばなければなりません。
 私達はこうした課題を、主に人間関係を通して学んでゆくのです。
 障害となるものが少ないよりも沢山ある時の方が、多くを学ぶことができます。困難な人間関係や多くの障害や悲しみに満ちた人生は、魂の成長にとって最も大きなチャンスなのです。霊的な成長を促進できるように、あなたはわざわざ、より困難な人生を選んだのかもしれません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.92-93

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 65-m[75-c] (この世では私達は物からではなく人間関係から学ぶ)

 物に執着しないようになりなさい。三次元の世界では、私達は物を通してではなく、人との関係を通して学びます。この世を離れる時、物を一緒に持って行けないことは、誰でも知っています。
 私達が死に、魂が高い次元へ行く時、私達は自分の行ない、業績、思考、知識などを一緒に持って行きます。他の人とどのように交流したかは、私達が物質的に蓄積したものよりも、此べものにならないほど重要です。また、私達は生きている間に、物を得たり、失ったりします。死後の世界では愛する人々には会いますが、自分の所有物とは会いません。こうした考え方は、必要であればあなたの価値観を考え直す時の役に立つでしょう。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.97-98

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 65-n (私達は他人に救われるのでなく自分で自分を救うのである)

 真の教師と偽物とを区別する鍵は、あなたの直観的な知恵に従うことです。その教えは正しいと感じられますか?彼らは愛に満ち、思いやりがあって、暴力的でなく、怖れを減らしてくれますか? すべてのグループ、すべての人々を、同じ運命の道を行く神聖な魂として、平等に見ていますか?人はすべて平等であり、私達は同じボートを漕いでいるのだと、教えていますか?道をあなたに指し示すことはできても、あなたを霊的な悟りへと「連れてゆく」ことはできないと、認めていますか? あなたの目的地に辿り着くことは、あなただけにしかできません。なぜならば、私達の故郷への旅は内への旅、自分自身への帰還だからです。
 グルは私達に技術や方法を教えることができます。生と死、霊的次元に関する私達の理解を深めることもできます。怖れや障害を取り除く手助けもできます。私達に入口を指し示すこともできますが、その入口を通らなければならないのは、私達自身です。
 天の王国は本当に私達の内にありますから、喜びも幸せもすべて私達自身の中からやって来ます。私達は誰か他の人に救われるわけではありません。真の愛を体験し、悟ってゆくに従って、私達は自分自身を自分で「救う」のです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.254

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 65-o[13-h] (あなたは不死の存在で学ぶためにこの地上へやってきた)

 もつと霊的になりなさい。より多くの時間を、祈りと、与えること、他の人を助けること、愛することに使いなさい。ボランティアをし、気前よく与え、愛を表現しなさい。プライド、エゴ、利己主義、怒り、罪悪感、虚栄心、野望を捨てなさい。物をため込む、心配する、過去や未来ばかり考える、他の人を傷つける、暴力を振うなどの時間を、もっと減らしなさい。
 自分の直観的な知恵に照らし合わせずに、誰かの考えを受け入れてはいけません。それは愛、親切、平和、そして結びつきを強めるものですか? それとも、分離、分派、憎しみ、自己中心主義、暴力を助長しますか?
 あなたは不死の存在です。そしてこの地球上に学ぶために、賢くなるために、神のようになるために、やって来たのです。ここで学んだことを、あなたは死んだ時に一緒に持ってゆきます。それ以外のものは、何一つ持ってゆくことはできません。とても簡単なことなのです。天の王国はあなたの内にあります。グルを求めるのはやめて、あなた自身を見つけて下さい。やがて、あなたは自分の本当の故郷を見つけるでしょう。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.259-260

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 65-p[36-o] (生まれる時には過去を忘れることが絶対に必要である)

 さいごに、みなさんが記憶を失っていることについて触れておこう。地球環境に入りこむとき、みなさんは自分がどこからやってきたのかを意図的に忘れてしまうが、この忘却は人間の体験には絶対必要なことなのだ。人間は自分のことを真剣に考えるように創られているのである。人生とは偉大で高貴なプロセスであり、そこには学びの道具としての途方もなくすばらしい可能性がある。各個人にとって、人生は一種のテストなのだ。もし前もってテストの問題を知ってしまったら、試験勉強にしっかりと身が入らないことだろう。このように、課題を完全に理解してないからこそ必死に試験勉強に取り組めるのではないだろうか。人生でも同じことだ。人生のすべての学課を吸収するためには、こちら側からあらかじめ知識を得たり十分理解していない情報を押しつけられることなく、ひとつの人生だけに焦点を合わせることが一番なのだ。
 地球はテストのための場、それも非常にすばらしい場所である。みなさんは誰もがみずから選んで地上にいるのであって、この地球が創造されたのも、みなさんの喜びのためであり、また願いを満足させるためなのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.25-26

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 65-q [43-i] (魂はどんな人生を経験するかを前もって選択しているのか)

 いや、ちがう。それでは出会いの目的が損なわれてしまう。現在という栄光ある時に、経験を創り出すこと、したがって自らを創り出すことが魂の目的なのだから。だから、どんな人生を経験するのか、前もって選びはしない。
 だが、経験を創り出すためのひとや場所、出来事は選ばれ、条件や環境、そしてチャレンジや障害、機会と選択肢も選ばれている。パレットの色、道具箱のなかの道具、作業場の機械は選ばれているのだ。それで何を創るかは、あなたがたの仕事だ。それが人生というものだ。
 魂が何を選んでも、あなたがたには限りない可能性が開けている。あなたがたが限られたものと呼ぶ肉体に宿る魂にはどんなことも可能だ。ただあなたがたには、魂の課題が理解できないし、魂の意図もわからない。
 だから、あらゆるひとと条件を祝福し、感謝しなさい。そうすることで、神の創造物の完璧さを認め、神への信頼を示しなさい。神の世界ではいきあたりばったりに起こることは何もないし、偶然もない。世界は、あなたがたが運命と呼ぶ気まぐれな選択に翻弄されてはいないのだ。
 雪の結晶が完璧ならば、あなたがたの人生のすばらしさにも同じことが言えるとは思わないか?

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.67-68

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 65-r[43-j] (神はなぜ人の苦しみを放置しておくのか)

 でも、イエスだって病む人を癒しました。そのひとたちの条件がそれほどに「完璧」なら、どうして、イエスは癒したのですか?

 イエスは、そのひとたちの条件が完璧でないと思ったから癒したのではない。そのひとたちの魂がプロセスの一環として癒されることを求めていると気づいたから、癒したのだ。彼はプロセスの完璧さを見抜いていた。魂の意図を見抜き、理解していた。精神的、肉体的な病人のすべてが完璧さに欠けると考えていたなら、イエスは地上のすべての病人を一度に癒したはずではないか? イエスにそれができたかどうか、疑うのか?

 いいえ。疑いはしません。できたと思います。

 よろしい。それでは、なぜイエスはそうしなかったか? どうしてキリストは、ある者を苦しませておいて、ある者を癒すことを選んだか? そもそも、神はなぜ苦しみを放置しておくのか? その疑問は昔からあるし、答えはいつも同じだ。完璧だというのはプロセスのことであり、すべての人生は選択されたものだ。その選択に介入したり、疑問をもったりするべきではない。まして、非難するべきではない。
 では、どうするべきか。魂がより高い選択を求め、実行するように見まもり、助けてやることだ。
 ほかのひとたちの選択に注目しなさい。だが、決めつけたり、批判したりしてはいけない。彼らの選択はいまの時点では完璧だということを知っておきなさい。そして、彼らが新しい選択、異なる選択、より高い選択をしたいと思ったときには、助けてやれるようにそばにいてやりなさい。
 ほかのひとの魂によりそい、一体になりなさい。そうすれば彼らの目的や意図がはっきりわかってくる。イエスも、彼に癒されたひとたち、そして人生に影響を与えられたひとたちの魂と一体になった。イエスは彼のもとへきたひとたちのすべて、あるいは差し向けられたひとたちのすべてを癒した。勝手な判断で癒したのではない。そんなことをしたら、宇宙の聖なる法則を踏みにじることになっただろう。
 それぞれの魂に、それぞれの道を自由に歩ませなさい。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.68-69

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 65-s[11-g] (ものごと自体には正邪はなくそれは主観的な判断による)

 それでは、求められなければ誰も助けてはいけないのですか? そうではないでしょう。でなければ、インドの飢えた子供を、アフリカで苦しんでいる大衆を、いたるところにいる貧しいひとや、しいたげられたひとを助けられなくなります。あらゆる人道的な努力ができなくなり、すべての慈善が禁じられることになります。個人個人が絶望して助けてくれと叫ぶのを、あるいは国民が援助を乞うのを待って、それからでなければ、明らかに正しい行為も許されないというのでしょうか。

 答えは問いのなかにあるではないか。ものごとが明らかに正しいのなら、それをするがいい。だが、何かを「正しい」と考え、何かを「間違っている」と考えるのは、一方的な決めつけだということを覚えておきなさい。ものごとは、あなたがそう言うから、正しいとか間違っていることになるのであって、それ自体には正邪はない。

 そうなんですか?

 「正しい」とか「間違っている」とかは、ものごとの本質ではなく、個人の主観的な判断だ。その主観的な判断によって、あなたは自らを創り出す。個人的な価値観によって、あなたは自分が何者であるかを決定し、実証する。
 その判断をくだせるように、いまのような世界が存在している。世界が完璧になったなら、自分を創造するプロセスとしての人生はそこで終わってしまう。明日、訴訟がなくなれば、弁護士はやっていけなくなるだろう。明日、病気がなくなれば、医師もいらなくなる。明日、疑問がなくなれば、哲学者もいらない。

 それでは、明日、問題がなくなれば、神もいらなくなるんですね!

 そのとおり。あなたの言うとおりだ。創造を通じて存在するわたしたちすべてにとって、もう創造することがなくなる。ゲームは続いたほうがいいのだ。すべての問題を解決したいと言っても、すべての問題が解決してなくなればいいとは思わないだろう。そうしたら、何もすることがなくなってしまう。あなたがたの産業界と軍部はこのことをよく知っている。だから、戦争をしない政府を樹立しようとする試みに強く反対する。
 医学界もこのことをよく知っている。だから、奇跡的な新薬や治療法に、まして奇跡そのものの可能性に、断固として抵抗する。自分たちの存立がかかっているからだ。
 宗教界もこのことをよく承知している。だから、不安や批判、報復というものを含んでいない神や、彼らの信仰とは違った信念をもつ人間という考え方に、一丸となって攻撃を加える。
 あなたこそ神であるとわたしが言ったら、宗教はどうなるか? あなたは癒されると言ったら、科学と医学はどうなるか? あなたがたは平和に暮らすだろうと言ったら、和平仲介者はどうなるか?
 世界は完成された、改善の必要はないと言ったら、世界はどうなるか。
 改善にたずさわる修理工はどうなるだろうか?
 世界は基本的には二種類の人びとから成り立っている。あなたの欲するものを与えるひとと、操作するひとだ。ある意味では、欲するものを与えるひと、肉屋やパン屋、ロウソクづくりなども、操作するひとだと言える。何かが欲しくなるというのは、どうしても必要だと思うようにしむけられるということだから。それが昂じて中毒になると、際限なく欲しがるようになる。欲望が中毒に変わらないように注意しなさい。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.70-71

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 65-t[12-g] (必要なのは自分が現実の創造者であることを知ること)

 キリスト教の(マスター)たちは、このことを理解していた。たとえば、十字架にかけられてもイエスは動揺せず、それどころか十字架を予期していた。イエスは歩み去ることもできたのに、そうしなかった。イエスはどの時点でも、プロセスを停止させることができただろう。現にその力をもっていた。だが、そうしなかった。彼は人類を永遠に救済するために、十字架にかかることを選んだのだ。
 「見よ、わたしが何をなしえるかを」と彼は言った。真実を見なさい。そして、あなたがたにもそれが、それ以上のことができるのを覚えておきなさい。わたしは、あなたがたが神であると言ったではないか。だが、あなたがたは信じない。自分を信じられないなら、わたしを信じなさい、と。
 イエスは憐れみ深かったから、誰もが天国にこられるように―自己を救済できるように―と願い、ほかに方法がないなら、イエスを通してひとが天国にこられるように、世界に衝撃を与えることを願ったのだ。彼は人類の悲惨と死を打ち破った。あなたも同じことをするかもしれない。
 キリストの最も偉大な教えは、あなたがたが永遠の命を得られるだろうということではない。あなたがたには永遠の命があるということだ。あなたがたは神のもとで兄弟となるだろうということではない。あなたがたは兄弟だということだ。あなたがたは求めたものを与えられるだろうということではない。すでに与えられているということだ。
 必要なのは、それを知ることだけだ。あなたがたは自分の現実の創造者だ。そして人生はあなたがたが予想するようにしか、展開しない。
 考えることは、現実になる。これが創造の第一歩である。父なる神とは考えだ。あなたがたの考えは、すべてのものごとを誕生させる親である。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.75-76

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 65-u[19-i] (あなた方は他人の体験で自分を創りあげてしまっている)

 あなたは「自分の価値観に従いなさい」と言われたが、同時に、わたしたちの価値観はすべて間違っているとも言った。そこをわかるように説明してください。

 あなたの価値観が間違っていると言ったのではない。しかし、正しいとも言わなかった。それは、ただの判断だ。評価すること、価値を決めることだ。しかも、たいていの場合、その決定はあなたがたではなく、誰か他人が決めている。あなたの親かもしれない。宗教かもしれない。教師、歴史家、政治家かもしれない。
 あなたが真実だと思っている価値判断のなかで、体験にもとづいたものはごくわずかしかない。あなたがたは体験するためにこの世に生まれ、その体験を通じて自分を創りあげるはずだった。ところが、他人の体験から自分を創りあげている。
 罪というものがあるとすれば、これがそうだろう。他人の体験で自分を創りあげてしまうことだ。
 それが、あなたがたが犯してきた「罪」である。ひとりひとりが犯してきた罪だ。
 あなたがたは自分で体験するまで待たず、他人の体験を(文字どおり)福音として受け入れ、実際の体験をするときには、すでに知っていると考えていることをなぞる。
 そんなことをしなければ、まったく違った体験ができるのに。その体験は、教師や情報源のほうが間違っていると教えてくれるかもしれない。だいたいあなたがたは親や学校、宗教、伝統、聖書を間違っていると考えたがらない。だから、教えられたと思うことを受け入れて、体験のほうを否定する。
 人間のセクシュアリティに対するあなたがたの態度を見ればよくわかる。
 誰でも、性的体験が人間の行為のなかで最も愛すべきで、胸躍る、力強い、昂揚する、新鮮で、エネルギッシュで、前向きで、親密で、一体感のあるものだと知っている。
 それなのに、あなたがたは他人が考え出した性に関する判断、見解、考えのほうを受け入れる。その他人は、自分が得になるから同じ判断をさせたがるのだ。
 そういう見解、判断、思考は体験と真っ向から対立するのに、あなたがたは教師が間違っていると考えるのがいやだから、間違っているのは体験のほうだと自分に言い聞かせる。その結果、あなたがたは真実を裏切り、そのために、破壊的な影響が生じている。
 金銭についても、同じことだ。大金をもつたびに、あなたはうれしくなった。大金を受けとれば喜び、使うと楽しくなった。それは悪いことではない。それ自体が悪であること、本質的に「間違っている」ことは何もない。だが、この問題でも、ほかのひとの教えが深くしみこんでいるから、他人の「真実」を認めて、自分の体験を否定する。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.88-89

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 65-v[16-o] (あなたは自分が知っていることを知らないだけである)

 とにかく、わたしには天国がいま、ここにありえるのかどうか疑問ですし、天国を経験したこともありません。

 知らないことは経験できない。そして、あなたはいま、ここで「天国」を経験していないから、それを知らない。悪循環だ。知らないことは経験できない―その術をまだ見いだしていない―し、経験できないことは知ることができない。
 悟りとは、経験していないことを知ること、それによって経験するということだ。知ることによって経験への扉が開かれる―そして、たぶんわかっているだろうが、逆もまた真である。
 実際には、あなたがたは経験しているよりずっと大きなことを知っている。ただ、自分が知っていることを知らないだけなのだ。
 たとえば、あなたがたは神がいることを知っている。だが、それを知っていることを知らないかもしれない。そこで、あなたがたは経験を待ってうろうろしつづける。ところがその間ずっと、経験しているのだ。しかし、そうとは知らずに経験している。それではぜんぜん経験していないのと同じだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.135

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 65-w (誘惑とはネガティブなカルマが引き起こす疑似体験である)

 誘惑とは何だろう?
 誘惑とは、物理的に出現したならばひどく不快なものとなりかねない、ネガティブなカルマの体験をスキップさせてくれる、宇宙からの思いやりに満ちた贈り物である。
 誘惑とは、いうなれば、ネガティブなカルマが引き起こす体験の本番並みリハーサルであり、もしあなたがそれを利用したならば、あなたの特定の欠点が、ほかの魂たちと共有する大きなエネルギー場のなかにあふれ出ることなく、あなたの個人的なエネルギー場のなかで排除されて癒されることになる。
 それはある種の疑似体験であり、もしあなたが、それを通じて自分のネガティブな性質を見ることができたならば、その性質は、新しいネガティブなカルマを創造する前に、あなたから効果的に取り除かれることになる。あなたは、その疑似体験に反応することで、それに気づくことで、それを実際には体験しなくても、自分自身を浄化することができるのである。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.151

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 65-x (あなたの今の体験は調和のとれた存在になるための旅である)

 自分自身を、癒しを求めている魂として、癒されるべきことをいくつも抱えた存在として眺めることだ。そして、同じようにして生きているほかの無数の人々が存在することを忘れないことだ。その意味でも、あなたは孤独ではない。
 人間がいま体験していることは、ひとことで言えば、調和のとれた存在になるための旅である。よって、あなたは、自分以外のあらゆる人たちを見て、彼らもまだ調和がとれていないのだと安心することができる。彼らもまた、その途上にあるのである。もし彼らが完全に調和のとれた状態にあるとしたら、肉体をもっていまここにいない。いい換えるなら、あなたには、この地球上だけで何十億もの仲間がいるのである。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.168

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 65-y (あなたがいずれは歩む道であるとしたらなぜ待つのか)

 あなたはいずれ、より高いレベルの道を歩みはじめることになる。そして、たとえその旅の始まりを、一日後、あるいは一週間後、あるいは七つ先の人生まで延ばすことにしたとしても、それはそれで結構なことである。あなたの見えない教師たちは、すべての物事を時間を超えた観点から眺めている。
 誰もがいずれは意識の道を歩むことになるのである。そのことを知っているのは、あなたにとって大きな安らぎのもとである。しかしながら、もしそれが、あなたがいずれは歩むことになる道であるとしたら、なぜ待つのだろうか?
 とはいえ、その旅の準備が完全に整ったと感じるまで待つことが賢いことであることも、ないわけではない。そして、たとえ待つことにしたとしても、恥じることは何ひとつない。
 宇宙は、けっして裁くことがない。あなたはいずれ、真のパワーで満ちることになる。あなたはいずれ、人間としての体験、地球学校、空間と時間と物質からなる学習環境を超えて、進化していくことになる。
 あなたは、進化せずにはいられないのである。この宇宙の万物が進化する。問題は、どの道を通って進化するかだけである。それを選択するのはあなたであり、どんな選択のなかにもつねに智恵が存在している。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、pp.171-172

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 65-z (あなたが進化すれば人類全体も進化する)

 もしあなたが、責任ある選択を通じて意識的に進化することを決断したとしたら、それはあなた自身の進化のみならず、あなたが属している人類という集団のいかなる側面の進化にも貢献することになる。ようするに、あなたの決断によって進化を遂げるのは、あなたばかりではなく、人類全体なのである。
 もしあなたが、愛と思いやりに満ちた世界を望んでいるならば、まずあなた自身が愛と思いやりに満ちるべきである。この世界から恐れをなくしたいならば、まずあなた自身が恐れなくなることだ。それは、あなたが世界に与えることのできる価値ある贈り物である。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.177

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 65-za (一枚の絵に譬えられる人間の一生)

 人間の一生も一枚の絵である。日常の出来事の一つ一つが一本の線であり、失敗から学ぶことが新たな色彩を加える。人をよろこばせる行い、楽しくさせる人間味、笑い、情愛、哀れみ、理解、こうしたものは黄金色であり、いぶし銀であり、純白である。
 反対に非寛容、貪欲、好色、大食、嫉み、悪意などは青ざめた色、灰色、どす黒さを添える。
 そうしたものがすでにあなたの日常での出来事への反応の仕方に表われており、また人相にも出ている。二十歳の顔は神から授かった顔であり、四十歳の顔は自分でこしらえた顔である。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp. 170-171

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 65-zb[13-t] (人生には浮き沈みがあり、すべてに学ぶべきレッスンがある)

 人生には浮き沈みがあり、大きなものに一瞬のうちに流されることもある。そんな中でも足を地につけ、希望をもつことができるのだ。ありとあらゆるところ、すべてに学ぶべきレッスンがあるということにつきる。災難に闇雲にひきずりこまれるのではない。良い経験にせよ、悪い経験にせよ、多くの経験をし、その意味を理解することによって偉大な魂になっていく。楽しい、うっとりするようなときも人生には用意されており、そこにもやはり学ぶべきレッスンがあるのだ。

  ゴードン・スミス『なぜ、悪いことがおこってしまうのか』
    (ノーマン・テイラー・邦子訳)ナチュラルスピリット、2011、p.232

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 65-zc (自然と触れ合うことで生命エネルギーをチャージする) 

 基本的には、自分が生まれつき自然に持っている良心に従えば大きな間違いはなく、何か小さなことでも自分が良いと思うことを行えばいいし、外的な評価を気にして何か大それたことを考える必要もないと私は感じています。
 自分が幸せになりたいと願うのと同様、みんなにも幸せになって欲しいと思うことは当たり前であり、自然なことです。自他同然ですから。それを私たちは良心と呼んでいるのであり、あるいは「思い合い」と呼んでもいいでしょう。
 恨みとか憎しみとか怒りとか、どんなに激しい葛藤があっても、心の隅にはどこか相手との和解を望んでいたり、でも自分からそれを切り出せないような自分自身への歯がゆさというか葛藤があったりと、人間はいろいろ思い悩みながら生きていると思います。
 それでも仲良くしたいという思いこそ、すなわち良心です。
 ちなみに生命エネルギーは大自然から受け取るエネルギーで増幅します。都会に住んでいると心が荒んだり、寂しくなったり、ストレスが増幅するのは、自然環境が極端に少ないからです。周囲への思いやりも減少を続け、気がつくとおかしなものに憑依されます。
 だから定期的に自然と触れ合えることが理想です。
 触れ合うことで、生命エネルギーの枯渇分をチャージできるのです。(矢作直樹)

    矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
       (徳間書店、2012、p.231)

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 65-zd (自分の内側の満足のために「大いなるすべて」とつながる)

 上の世界に行くと当たり前なのは、自分が「大いなるすべて」とつながることによって満足していますから、他者に対していくらでもゆとりを持って接してあげられます。
 従って、上の世界では利他が当たり前です。
 自分が内面的にハッピーですから、外に求めることがありません。他者に何かを分け与えるとか、人に何かいいことをしてあげるというのは、まったく当たり前のことであり、それは自分が常に嬉しいから自然とそうするわけです。
 今私たちがいる第三密度と呼んでいるこの世界は、「大いなるすべて」ともつながっていませんし、お互いにつながっていないし、満足もしていませんから、ほとんどの人間は常に内側が寂しい状態です。街を歩いても皆の顔は比較的、暗いです。どこかギスギスしています。
 「この世」の場合、一部を除いて大半の人が、他者に自分が持っているものをあげられないわけです。内側がハッピーではないからです。
 それは「この世」の限界で、本当の意味で利他を理解するには上の世界に移行する必要があります。自分の内側が満足するためには「大いなるすべて」とつながる必要があるのです。そこで初めて、真の意味での利他が完成します。
 だからと言って、つまり「この世」にいるからと言って利他を意識しないのは、まったくの間違いです。かぎられた世界観があるにせよ、利他をやろうとすることで自分の限界が見えたり、自分が思った以上に利己的だとわかったりと、そこにはさまざまな「気づき」が発生します。
 そしてそれが、上の世界に行く手掛かり、手助けになります。
 だからこそ、矢作さんが言われたように自分ができる範囲で、それがとても小さく、ささやかであっても、まず自分が今できることをやるのが一番正しいと私も思います。
 「この世」にいる段階で利他をすることは、決してムダではありません。むしろありがたいことです。仏教的に言うと、いわゆる功徳を積むことになるわけで、向こうの世界へと上がる効果があるのだという言い方をするわけです。そういう功徳というか善行を積むということをやることによって自分のことがよりはっきりと見えます。
 私たちがこちらの世界で経験することは、いろいろな意味で利他の気づきを与えてくれるものです。当然ですが、経験しないと気づきません。ですから特に若い人たちに言いたいのは、もっといろいろな経験をしてくださいということです。
 何もしないでじっとしていると、気づきは生まれません。
 失敗してもいいのです。むしろ、どんどん失敗しましょう。
 その失敗をすることで生まれる学びは、他に代えられないほど貴重なものなのです。(坂本政道)

    矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
       (徳間書店、2012、pp.241-243)

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 65-ze (日常の経験と感動から深く内観し学び取っていく)

 戦争も人殺しも、悪いに決まっています。けれども、繰り返しになりますが、人間は愚かなことに、経験してみないとそれが本当に悪いことだとはわからないのです。病気の辛さは、風邪一つ取ってみても、罹ってみないとわからないのと同様です。
 経験と感動という観点から言えば、平時と戦争中では違います。戦時下では、お米の一粒、お水の一杯、それだけで感動することがあるかもしれません。子どもの勉強ができなくても、無事でいてくれるだけで感謝するでしょう。私たちが平和な時代であっても、同じ気持ちでいればいいのですが、残念ながら人間は未熟です。今の日本を見ても、お水の一杯やお米の一粒に感謝していた気持ちが忘れ去られ、何処そこのミネラルウオーターでなければ嫌だとか、平気で食べ物を粗末に扱うとか、そのようなことをしている人が多くなってはいないでしょうか。
 しかし、人間には「想像力」が与えられています。たとえ平時であっても、個々の生活のレベルで、戦時中と同じような体験や感動に思いを馳せることは決して不可能ではないはずです。日常の中でのシンプルな出来事は、実は大きな戦争とは地続きであるということ、その意識だけは持つようにしてください。個人個人が、日常の経験と感動から、いかに深く内観し、学び取っていくか。「戦争という経験」をしないですむためには、それが何よりの方法かと思われるのです。

   江原啓之『日本のオーラ  ― 天国からの視点 』新潮社、2007、p.68

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 65-zf (毎日生きていること自体が修行である)

 雑念や邪念を祓うためと称して、修行などの行事やイベントに参加する方もいると思います。最近は座禅などにも幅広い層が参加して、ちょっとしたブームだそうです。私がこういう方々に伝えることがあるとすれば、それは「無理しなくていいのですよ」ということです。
 ヨガの世界に「カルマヨガ」というのがあります。慎み深い考えと行動によるヨガという意味です。もともとヨガは修行という意味を持ちますが、その中でも日常の静かで慎ましやかな生活そのものが最も重要なヨガであるということを指します。
 多くの人は修行(修業も)という言葉に、心身の苦痛を伴う厳しいものという思い込みがあると思います。でも、私たちがこの世で、この世界で毎日生きていること自体が修行なのです。生きていると楽しいことやうれしいことばかりではありません。辛いこと、嫌なこと、恨めしいこと、むしろそちらのほうが多いこともあります。どうして自分がと、しだいに自分を責めてしまう人も多いでしょう。でも、それを乗り越えなければいけないことも事実です。これこそ本当の修行です。
 それがカルマヨガであり、本当の修行とは自分だけを助けるわけではなく、世間で生きるということに目覚めることです。世間で生きるとは、好きか嫌いかは別にして他者と関係し合いながら生きること、つまり他者を生かしながら自分も生かすということであり、自利・利他の発想を体感することとも言えます。これこそ本当の意味での修行です。
 メディアが喧伝するさまざまなブームが気になり、「何かやらなくては」と慌てなくてもいいのです。個人差はありますが、自分にとって何が大切なのか、それがわかる時が必ずやってきます。大切な人との別離や何らかの失敗が、逆に成功のきっかけに気づかせてくれるかもしれないし、あるいは転職や起業といった節目、節目において気づくことがあるはずです。そのちょっとした気持ちに気づくことで思考や行動が変わります。

   矢作直樹『悩まない―あるがままで今を生きる』ダイヤモンド社、2014、
        pp.107-108

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 65-zg[43-l]  (人生ではすべて自分に必要なことが起こる) 

 実際、ぼくも自分の人生を振り返ってみると、とてもつらい病気の時期がありました。先がまったく見えず、ベッドの上で毎日、苦しい発作に耐える毎日でした。
 今になってみれば、人生に起こったすべてのことは、今の自分になるために必要だったのだという気がします。本当に苦しかったけれど、それは通らなければならない道だったのです。病気を通して、「自分を大切にすること」と感謝することを学んでいたのです。
 何事にも時があります。病気で動けない時期であっても、その時には、それが人生のすべてでした。
 何事にも無駄はありません。私たちは一瞬、一瞬の出来事から、とてもすばらしいことを学んでいるのです。
 「人生に起こってくることはすべて、『本当の自分』が何かを学ぶために引き寄せているのだ」と考えれば、どんなことが起きても、それを前向きに受け取ることができます。
 「すべては良きことのために」
 この言葉さえマスターしてしまえば、人生は楽に生きられます。
 どんな大波がやってきても、見事なサーファーのように、波に乗ることができるのです。
 これこそ、「宇宙の流れに乗って、森羅万象の中で、ダンスすること」なのです。
 今、人類は今までに体験したことのない時代を迎えています。私たちの一人ひとりの目覚めの時です。あらゆるできごとが私たちを目覚めの方向に持っていきます。どんな天変地異もどんな災害も、人類は乗り越えていくでしょう。
 すべては大丈夫です。
 すべてはあなたの目覚めにかかっています。
 宇宙は私たちの覚醒をその壮大なプログラムの中に想定しているのです。だから、安心して進みましょう。
 「本当の自分は何者か」を探求しながら、意識を広げていきましょう。
 「すべては良きことのために」起こっていることが、きっと見えてくるはずです。安心していればいいのです。
 自分に優しく、そして人々に優しくすればよいのです。
 「野の花のように美しく咲きなさい。そして、人々に愛を与えなさい」という聖フランチェスコの言葉に、微笑みが浮かぶ毎日です。

   山川紘矢『輪廻転生を信じると人生が変わる』
      ダイヤモンド社、2009, pp.218-220

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 65-zh (我欲をコントロールすることを学ぶ) 

 我欲をいかにコントロールするか。
 私たちの生における、大事な学びの一つです。
 お金、出世、結婚、名誉・地位、生きているといろいろな我欲が頭をもたげる瞬間と出会います。自分の我欲だけではなく、他人の我欲を見せつけられる場面にも遭遇します。
 サラリーマンの世界ではそれが顕著です。出世すると「自分は偉いのだ、何でもできる立場にいる」と勘違いし始める人が大勢います。個人レベルでも、自分の配偶者や子息が名の知れた会社にいるとか、地価の高そうな場所に家を建てた、子どもや孫が難関校に入ったなどと自慢する人は、皆さんの周囲にもいるかもしれません。自慢は我欲の最もわかりやすい表出です。
 正直、そういう自慢を一生懸命にされても困りますが、「人の振り見て我が振り直せ」という言葉の通り、見せつけられたことに逆に感謝することはできます。
 しかし我欲そのものは否定しません。我欲はエネルギーですから、何をやるにも必要な基礎的存在です。
 必死に勉強してあの高校へ、あの大学へ行きたいというのも我欲です。頑張って仕事をこなし、出世したい、年収をもっと上げたいというのも我欲です。できれば条件の良い人と結婚したいというのも我欲です。利己的で自分本位な感情ですが、私たちのほとんど全員が何らかの我欲を握り締めていることも事実です。
 そして我欲があるからこそ、私たちは皆、これまで何とか頑張って来られました。だから我欲を全否定するつもりはありません。
 しかし我欲は「学びのための手段」であり、目的ではありません。
 あくまでも手段です。我欲は自己実現のツールであり、自己実現そのものは人生の大切な学びですが、では何のために自己実現するのか。仮に自己実現したら、その先にあるのは何かを考えて欲しいのです。
 そのときに、出世は自分のためであると同時に社会のためだと考えることができれば、自分が社会のためになるには、世間の役に立つには、どうすればいいのかを想像し始めます。すると出世や収入の増加が、目的から手段へと変わります。
 そう、出世も収入増も方便(目的達成のための仮の手段)なのです。
 生きることは手段であり、生きて学ぶことが目的です。
 生きることは自分の学びのためであると同時に、この時代を一緒に生きている人と分かち合う、調和し合うためでもあります。
 手段に溺れず、目的を持つこと。これが我欲をコントロールする、一つの方法です。

    矢作直樹『見守られて生きる』幻冬舎、2015、pp.102-104

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 65-zi (自分を見つめるというのはどういうことか)

 「(自分を見つめる)というのがどういうことか、わからない」という質問を受けたことがあります。
 私はこう、お答えしました。
 「自分で自分の(いいところ探し)をしてみてはいかがですか」と。
 自分で自分がわからなくなってしまうのは、自分の「あら探し」をするからです。
 そうではなくて、自分で自分の中をずっと見つめて「こんないいやつだったんだ」というのを探していく。
 「自分で自分を見つめる」というのは、「いかに自分で自分に惚れるか」ということではないでしょうか。
 私は、自分のいいところ、好きなところを二百個くらい書き出せます。自分で、「すごくいいやつだな」と思っています。他の人の評価は関係ない。だれが何と思っていてもかまいません。私には、このようないいところがある、というのを二百個書き出せるようになると、人生をいじいじ考えないですみます。
 人間は、だれでも未熟です。もともとろくなものではなく、大したものではないのですから、その大したものではない部分を探しても無意味です。あら探しをすれば、たくさんあることでしょう。
 私自身もたぶんあら探しをしたら、二百個や三百個は書けると思いますが、そういうことを考えないことにしています。
 「大したものではない」と思いながら、「でも実は、結構いい奴かもしれない」と、自分がいつのまにかいとおしくなる。それが、自分探しになるように思います。

   小林正観 『すべてを味方 すべてが味方』三笠書房、2009、pp.98−99

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 65-zj(あの世に帰ると誰もがこの世で苦労を経験できる有難さに気づく)

 「仕事がものすごく好き」という人は男女問わずいるでしょう。「大変なことも多いけれど、やりがいがある」と。
 それはたましいの本質を考えても事実なのだと思います。
 壁にぶつかりもがき苦しみ、ようやく突破したときの充実感に満ちた気持ちは、大小あれど誰でも経験したことがあるのではないでしょうか。大変な仕事にやりがいを感じるのはそういうことでしょうし、苦しいとわかっているのにマラソンや登山をしたり、傷だらけ、汗まみれになってもママさんバレーをしたりするのだって同じです。やっているとき、あるいはその先にある楽しさや充実感を、ちゃんとたましいのどこかでわかっているからです。
 つまり、「なんでこんな苦労しなきゃいけないの」と文句を言っているあなた自身が、実は「あぁ、苦労というものをしてみたい」と望んで現世に生まれてきたのです。
 あの世に帰ると誰もが、苦労を経験できるありがたさに気づきます。けれどもそれを待つまでもなく、今、あなたが俯瞰した視点でたましいの実相に触れれば、現世で生きることの楽しさに気づけるはずです。 

     江原啓之『守護霊』講談社、2017、p.71

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 65-zk (私たちには人生の様々な体験を学びに変える使命がある)

 私が命の不思議さを痛烈に実感したのは、臨床現場での数多くの学びのほかに、自分自身が生死にかかわる体験をしたということが大きいと思います。
 小学校三年生の時でした。父の後をついて神奈川県の江の島に自転車で行った帰り道、私は車にはね飛ばされました。頭から道路に落ちたせいかその後の記憶がなく、退院時には主治医が「小学校を卒業するまでに亡くなるかもしれない」と母に告げました。どうやら頭の中のねじが何本か外れたようです。その時の母の厳しい表情は今でもよく覚えています。その後、吐き気やめまいがしばらくは残りましたが、私自身は現在も元気に生きています。
 さらに激しい体験があります。
 今から三五年ほど前の一九七九年、私は登山中、二度(三月と一二月)にわたってかなりの距離を滑落しました。一度目は比高一〇〇〇メートル、ゆうに東京タワー三つ分の距離を落ちたにもかかわらず、私は助かりました。この滑落状況は助かるものではないし、助かっていいわけがないのだと当時の私は思いましたが、それでも私自身はこうして生きています。ちなみに二度目の滑落後、私は「もう山には来るな」というこだまのような不思議な声を開きました。
 ひょっとしたら私は小学三年生で遭った交通事故で死んでいるはずの人間だったのかもしれません。普通に歩いている時に転んでそのまま亡くなる人もいますから、自動車にはねられて地面に叩きつけられた私がなぜ生き残ったのかわかりません。山での二度の滑落も、常識で考えると死んでいたでしょう。自分が生き残った理由はやはりわかりませんが、仮にそこで何か大きな力が働いたとするのなら、それは「おかげ=御蔭」という言葉に象徴される超力だと感じるのです。
 私たちを生かしてくれる大いなる存在、大いなる意思のおかげによって、私たちは今日も朝日を浴び、ご飯を食べ、帰って寝る家があり、皆と語らえるのだと、私はつくづく感謝します。
 降霊によって亡き母と再会できたのも、霊媒役の友人の力はもちろんのこと、その後ろに控えている目には見えない大きな「おかげさま」の力が働いたことによるものであると感じています。私は、肉体とは別に魂があると表現しますが、魂レベルでは私たちは皆つながった存在だと思っています。それが「おかげさま」のベーシックな部分であり、もちろん亡くなった方もそこに参加しています。肉体は魂の乗り物であり、まるで着ぐるみのような存在です。重くて動きづらく、時には捨ててしまいたい衝動に駆られることもあるでしょう。
 それでも私たち人間には、肉体を伴う人生で得る様々な経験を学びに変える使命があります。この人生を大いなる存在から賜ったからこそ、おかげさまで人生を楽しんでいますとご報告することは、私たちに与えられた使命なのです。

     矢作直樹『おかげさまで生きる』幻冬舎、2014, pp.14-16

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 65-zl (人生ではどんな失敗も回り道も無駄ではない)

 人生には無駄はありません。
 どんな失敗も、回り道も、あなたに学びと成長の機会を与えてくれる、経験と感動です。だとすれば、私たちがすべきことはただひとつ。努力だけです。努力をしていれば、あとは導きのままに歩めるのだと思います。
 受験で失敗し、希望の大学に入れなかったことがコンプレックスになる人もいるでしょう。でも、そのコンプレックスが自分を奮い立たせる力になることもあります。あるいはそのコンプレックスがなければ倣慢な自分になって、そこから先の努力さえしなくなるかもしれません。
 そういう意味では、コンプレックスは向上心の源といえるのではないでしょうか。
 進路・受験について述べた際、「学閥などによって活動の場に制約が出る場合もある」と申し上げました。確かにそのようなことは現実にありますが、逆にそれをバネに、「日本でそのような制約を受けるならば、もう思い切って世界に挑戦しよう」と、海外に活動の場を求める人もいます。もちろん努力もしてのことですが、その思い切った行動が功を奏して、世界的な活躍をしている人も芸術の世界ではいるのです。
 もちろん、夢を追いかけて叶わないこともあるでしょう。でもその過程で努力し、得た経験は自分の大切な財産です。

    江原啓之『守護霊』講談社、2017、pp.107-108

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 65-zm (挫折を経験して人間としての幅も奥行きも広くなる)

 一〇代後半の若者にとって、入試に落ちるというのは大変な問題です。同年代の友だちは大学へ行っているのに自分は予備校だということで、肩身の狭い思いもしているはずです。親の期待にこたえられなかったという罪悪感もあるでしょう。目標を達成できなかった自分に対する嫌悪感もあると思います。
 何を隠そう、私も大学時代、二年の教養課程のあと、医学部へ進むための試験に落ちたことがあります。翌年も医学部を狙うなら、一度大学を退学しないといけません。ほかの学部なら進級できましたし、翌年受けても受かる保証はありませんでしたから、もう医学部はあきらめようと悩んだこともあります。どうにか翌年には合格しましたが、あの浪人の期間は、気持ちも落ち込むし、プレッシャーもあるし、大好きな映画を観てもまったく感動しませんでした。
 自分の人生を振り返って、あのとき試験に落ちてなかったら、きっと嫌な大人になっていたのではないかと思います。挫折を知らない人は、何でも思い通りになると勘違いし、自分が正しいと思うことを人に押し付けてしまいがちです。まるで数学の問題を解くように人の気持ちを理解しようとしますから、こころの機微を感じ取ることができにくくなります。そういう人が、まわりから慕われるような大人になれるでしょうか。ましてや、医者が相手にするのは、病気で苦しむ患者さんです。苦しみや悩みを抱えた人の気持ちがわからない人は、医者には向いていません。相手のこころの傷やコンプレックスを想像できるのは、自分も挫折し、人間としての幅も奥行きも広くなったからです。だから、私は予備校生たちに、「挫折しておめでとう!」 と声をかけているのです。

      帯津良一 『いつでも死ねる』幻冬舎、2017、pp. 24-25

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 65-zn (病気の治癒には心の持ち方が非常に大きなウエイトを占める)

 こころの状態がからだにも影響を与えるといわれるようになったのは、それほど古い話ではありません。精神神経免疫学というこころとからだのことを研究する学問が登場したのが一九七五年です。私は一九七六年に東大の第三外科から駒込病院に移りましたが、そのころは、こころのことなど、考えてもみませんでした。いい手術をすれば、がんは克服できるものだと信じ切っていました。しかし、先見の明があるというか、変わり者というか、駒込病院に河野友信先生という方がいて、彼は一生懸命に、こころと病気のことを研究しておられました。私は、河野先生のことは知っていたし、お話をお聞きしたこともありましたが、こころの領域など私には無関係だと決めつけ、ほとんど興味をもちませんでした。その後、倉敷の伊丹仁朗先生が、がんの患者さん七人と一緒にモンブランに登頂したことが大きな話題になったことがありました。「生きがい療法」という心理療法の一環として山に登ったのです。それが一九八七年。このあたりから、がん治療にはこころという側面からもアプローチする必要があるということが、徐々に知られていったように思います。
 私の場合は、一九八二年に川越に病院を設立し、中国医学を取り入れたことから、患者さんの顔色や生活習慣をしっかりと診るようになりました。そこから、何となくこころの在り様が見えてきて、こころの領域にも足を踏み入れないといけないと、心理療法を治療に取り入れるようになりました。今では、がんになってしまうのも、治癒するのも、こころが非常に大きなウエイトを占めていると私は確信しています。

     帯津良一『いつでも死ねる』幻冬舎、2017、pp. 60-61

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 65-zo (こころの切り替えで免疫力も上がり治癒につながる)

 五年生存率が三〇%だと言われて落ち込んでいる患者さんがいました。高い数字ではないですから、患者さんが落ち込むのもわかります。しかし、落ち込んだままだと、免疫力が低下して、間違いなく治らないほうの七〇%に入ってしまいます。ここは大きな分かれ道でもあります。
 さて、どうアドバイスすればいいかと思案していると、ひとりの患者さんのことがぱっと頭に思い浮かびました。進行したがんの患者さんで、やはり五年生存率は三〇%と言われて、すっかり落胆していた方です。がんばってやっていた気功からも足が遠のいてしまいました。ところが、あるときから、また気功に出てくるようになりました。顔つきもがらっと変わっています。何かあったの? と聞いてみると、彼はニコニコしながら、こう答えたのです。
 「五年生存率が三〇%と聞いて、一〇人のうち三人しか助からないのかとがっかりしました。でも、あるとき思ったのです。一〇〇人だったら三〇人か。少ないな。でも、一〇〇〇人だと三〇〇人だよな。一〇〇万人だったら三〇万人だ。一億人だったら三〇〇〇万人も助かるじゃないか。そう思ったら、自分も三〇%の中に入れる自信が出てきました」
 この考え方には、私も感服しました。あきらめないというのは、ただ「あきらめないぞ」とがんばるのではなく、この患者さんのようにちょっと視点を変えてみるということが大切なことです。この患者さんは、五年生存を楽々クリアし、今でも元気に気功に励んでおられます。
 そんな話をしてあげると、落ち込んでいる人の顔もぱっと変わります。「また、がんばってみます」と、気功にも通うようになりました。そうしたこころの切り替えで、免疫力も上がるし、三〇%に入る可能性も高まってくるのです。

    帯津良一『いつでも死ねる』幻冬舎、2017、pp. 62-63

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 65-zp (人生に不幸はない。あるのは自分に必要な学びだけである)

 私たち人間は、肉体だけの存在ではありません。肉体と霊魂が重なり合った状態で現世を生きているのです。車にたとえれば肉体は乗り物であり、たましいはドライバー。たましいこそが人間の本質であり、肉体や肉体に指令を出す脳をもたましいがコントロールしています。死はたましいが肉体から離れることを意味しますが、死を迎え、肉体が消えても、たましいがその営みにピリオドを打つことはありません。たましいはあの世へ戻り、霊的存在として永遠に生き続けるのです。
 たましいが現世だけのものであると考えると、必ず「苦しいことばかりで、何のために生きているのだろう?」という虚しさに行き当たってしまいます。また、人生の中で誰もが抱く恐れを克服することが困難になってしまうでしょう。恐れとは「自らの死に対する恐れ」「愛する人との別離の恐れ」「物質的なものを失う恐れ」のこと。これらはすべて、たましいの存在を信じないことから生じる恐れです。
 自分の肉体が消えたり、愛する人に会えなくなっても、たましいが永遠である限り、絆が途絶えることはありません。あの世へ帰れば必ず再会できる。そのときに恥ずかしくない生き方をしよう、と考えることが生き抜く強さへと繋がります。
 また、物質に執着して生きたところで、あの世に持ち帰ることができるのは「経験」と「感動」だけ。
 私たちは一つでも多くの経験を積み、喜怒哀楽という感動を通してたましいを磨くことを目的に生まれてきました。そのことを忘れ、学歴や富、名誉などにとらわれていると、他者と自分を比べたり、人の目ばかりを気にして自由に羽ばたくことができません。
 パーフェクトであるならば生まれてくる必要がないのですから、人はみな未熟であって当然なのです。ゆえに失敗はつきものですが、どんな経験にもすべて意味があります。人生に不幸はなく、あるのは学びだけだととらえることができれば、前向きに歩んでいくことができるでしょう。

        江原啓之『前世』 徳間書店、2010、pp.30-32

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 65-zq (人間の本質は悲しみであると知ることで心は癒されていく)

 人間は、だれしもが、こころの奥の方にかなしみとさみしさをもって生きています。それが、生きる土台です。かなしみやさみしさの上に、私たちは喜びや明るさといった家を建てます。だから、表面上は、喜びに満ちあふれ、明るく生きていても、少し掘り下げていくと、そこにはかなしみが顔を出してくるのです。
 これは私にとっての大発見でした。かなしみが人間の本質だとわかれば、とても生きるのが楽になります。だれしも、つらいこと、苦しいことに直面して、落ち込んだり、悩んだりします。しかし、かなしみが人間の本質だと知っていれば、多少は落ち込んだとしても、あるところで歯止めがききます。そして、自分に起こるかなしい出来事をきちんと受け止められるようになれば、人のかなしみにもこころを向けることができるようになるのです。
 作家で写真家の藤原新也さんは「かなしみの中に人を癒す力がある」と書いていますが、自分の中のかなしみ、人のこころの奥にあるかなしみに思いを馳せられる人は、すてきな癒し手になれるのです。
 あきらめない気持ちというのは、明るく前向きに生きることとダブります。しかし、明るく前向きな気持ちというのは、とてももろいもので、ちょっとネガティブな出来事が起こると、がらがらと音を立てて崩れてしまいます。ですから、あきらめない気持ちだけをもっていても、からだやこころは癒されていきません。
 それに加えて、執着しない、こだわらない気持ち、つまり「いつでも死ねる」という思いをもつことが必要だとサイモントン博士は言っていますが、人間の本質はかなしみであると知ることで、からだやこころは癒されていくのです。
 自分の中にあるかなしみに目を向けてください。かなしくてけっこう。さみしくて十分。それが人間の本質なのですから。かなしみが本質であることを知ってしまえば、何があっても動じることはありません。

    帯津良一『いつでも死ねる』幻冬舎、2017、pp. 76-77

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 65-zr (亡くなっていった患者さんたちから教えられたこと)

 これまで、千人を超える患者さんの死に立ち会ってきました。できるだけ静かにこころを落ち着けて、「道中、ご無事で――」と、お見送りしてきました。私がお見送りした方は、亡くなってしばらくすると、例外なくすばらしい顔つきになります。私は、その安堵の表情を見て、死後の世界を確信しました。彼らは、いのちの故郷である虚空へ帰るのです。だから、あんなにも安心しきった顔になるのです。死は決して怖いものではないということを、私は、亡くなっていった患者さんたちから教えられました。
 患者さんだと冷静に見送れるのに、家族が亡くなったら取り乱してしまうというのは、私としては受け入れがたいことです。しかし、頭で想像しているのと、実際とは違います。長年連れ添い、苦労ばかりをかけた家内です。懐かしい思い出や不憫な気持ちがこみ上げてきて、はらはらと涙を流す可能性もないわけではありませんでした。もし、そういう情けない姿をさらけ出す自分がいたとしても、そのときはそのときで、謙虚に自分の末熱さを受け入れるつもりでした。
 私は、家内の亡骸を見ながら、「向こうへ行ったら真っ先に謝らないといけないな。それまで、少し待っていてほしい」と、こころの中で語りかけました。やがてあっちの世界で会えるんだということが、このときすっと自分の腹に収まった気がします。すっと気持ちが楽になりました。海外旅行に出かけて行くのを空港で見送ったという感じになり、かなしみが込みあげてくることはありませんでした。
 「道中、ご無事で!」
 ほかの患者さんたちを見送るときと同じセリフを、家内にも言うことができました。

    帯津良一『いつでも死ねる』幻冬舎、2017、pp. 147-149

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 65-zs (自分に起こるのはすべて必要なことで無駄はひとつもない)

 生まれてきた意味、そして今を生きている意味、運を拓く意味をしっかりと理解すれば、あとは自分の手で道を切り拓いていくだけ。そこに必要なのは意志力でしょう。意志を強く持って、自らで変えていかないと人生は変わらないのです。
 山登りの道はひとつではありません。この道が違っていると思ったら、わかるところまで引き返し、別の道を行きましょう。無理に突き進んでも迷うだけ。戻る勇気を持ち、新たな道を探すという手間を惜しんではいけないのです。
 人生には必要以上の悪いことも、よいことも起こりません。人生に起こることはすべてあなたにとって必要なこと。無駄はひとつもないのです。その経験と感動の積み重ねが、あなたのたましいを輝かせます。
 たましいの視点は極めて常識的です。理不尽さや不条理は、そこにありません。だから安心して自分の運命を切り拓いていきましょう。

    江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、p.252

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 65-zt (私たちは自然や周囲の人々の助けの中で生かされている)

 東京帝国大学医学部出身の塩谷信男医師(1902〜2008)は、2002(平成14)年に100歳になられたとき、『100歳だからこそ、伝えたいこと』(サンマーク出版)を上梓された。
 その中で「百年生きて言えることは、いつも明るく、前向きに、愚痴をこぼさず感謝の気持ちをもって“こうなるんだ”と断定的に思い込むと、100%実現する」と述べておられる。
 私たちは、1人で生きていけるものではなく、自然や周囲の人々の助けの中で生きている、というか生かされている。
 よって、自然(太陽、月、空気、水など)や神(造物主)への感謝、父母や先祖への感謝、教え、導いてくださった先生や師匠への感謝、何かと助けてくれ心の支えになっている兄弟姉妹をはじめ、周りの人々への感謝。そして、周囲の植物や生命がないと思われている物体などにも感謝の念をもつことは、心の安寧をもたらし、副交感神経がよく働いて、ストレスがとれ、白血球の力も増し、病気の予防や改善に役立つことが科学的に証明されている。
 「病気」に罹った場合、「病気」は私たちのそれまでの生活習慣の誤りを指摘しているのだからと、むしろ「病気」に感謝して、これまでの生活習慣を反省すれば、免疫力が増して、病気は治りやすくなる。
 同様に、自分にふりかかってきた「悪い(ように見える)こと」もむしろ「ありがたい」 と思うとよいだろう。
 「悪いこと」の後は、耐えて努力をしていれば「良いこと」が起こるものだし、「悪いこと」が起こったとき、謙虚に反省すると、これまで自分の至らなかった点もおのずと見えてくるものだ。
 ともかく、自暴自棄にならず「人事を尽くして天命をまつ」の心境でたゆまぬ努力をしていれば、必ず事態は好転し、「起こることはすべてよし」「苦あれば楽あり」という結果になるものである。

    石原結實『死んだらどうなる』ビジネス社、2018、pp.142-144