学びの栞 (B) 


 67. 産児制限・妊娠・育児


 67-a (産児制限についてはどのように考えればよいか)

 産児制限の問題は、宗教的な大問題として、現今まではほとんどの宗教家が絶対反対の立場を採っており、近来一部の宗教家が、賛成を唱え初めているが、全体を通じて、まだまだ反対の立場を採る宗教家が多いのは、やはり、霊魂の進化を妨げ、神の意志に惇るものとしての、反対なのである。
 ところで私は、この産児制限については、他の宗教家のように、特別神経質になってはいない。何故ならば、この肉体世界の人間のほとんどが、いまだ神の真の意志や、人間の本体を、知っていない今日、いくら、子供は神から来るので、自分たちの都合のために制限をするなどということは、その精霊の進化を阻害し、神の意志に惇るものである、といったところで、現実に、少ない収入で七人も八人もの子供がある上、また妊娠しては大変だと、恐れる夫婦や、血統的に悪い子供が生まれるであろうことを予想される妊娠に対して、前記のような言葉で、自然に逆らわぬことを教えたとしたら、その人たちを判断に迷わせ、恐れさせるだけで、人間の自由性を縛ることになり、かえって神の真意に惇ることになるのである。
 夫婦間の性行為は、ただたんに子供を生む、というだけの目的ではなく、夫婦間の愛の交流であり、想念の交流であって、お互いの長所短所が、この行為によって、より良く交ぜ合わさり、お互いを調和せしめ、高め合う行為なのである。子を生む、ということは、その一部の目的なのである。
 子を生むことだけが目的ならば、定期、定期に欲情をもよおすように、人間も創られていなければならぬはずである。
 私は、妊娠以前の産児制限を、悪行為であるとは、決して思っていない。ただし、その制限によって、その家庭を、より幸福のほうに切り開いてゆくことを切望しているものである。また、なた、もう一つ上の望みは、産児制限などせずとも、自分の家庭は、ちょうど自分に必要な子供だけでき、立派に育ってゆくものだ、ということを確信できるような、精神的悟道に入ってもらいたい、と世の人びとに望んで止まぬものである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.80-81

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 67-b  (妊娠も現世で学ぶカリキュラムのひとつである)

 妊娠も、この現世で何を学ぶのかというカリキュラムのひとつです。
 カリキュラムは人それぞれに違います。ですから子どもがいる学び、子どもを持たない学び、子どもがいる苦労、いない苦労、両方がありますし、すべての学びは光と闇。闇がなければ、光もわからないように、どちらも大事なのです。
 「自分は子どもをどうしても授かれず、子どもがいる人がうらやましい」という悩みはよくありますが、隣の芝生は青く見えるように、自分とは違う芝生がいい芝生のように思えるだけのこと。現状を受け入れられるかどうかは、いかに想像力を持てるかです。
 人の不幸というのは、その想像力がないことから始まるのではないでしょうか。子どもがいる人は、いない人の苦労を、いない人は、いる人の苦労を想像してみてください。

     江原啓之『守護霊』講談社、2017、p.86

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 67-c (聖書に書かれている処女懐妊とはどういうことか)

 キリストは処女懐妊だという言葉があります。馬小屋で生まれたということが伝説的に書かれています。皆さん一人一人も処女懐妊です。処女懐妊でない人は、この世に一人もおりません。私達は肉体関係をもつことによって、生命を作るのではありません。生命とは、もともとあるものであり、初めなきものであり、終わりなきものです。・・・・・肉体関係とは命を創るのではなく、命の乗り船、すなわち馬を作るようなものです。

     知花敏彦『コズミック・バイブル』たま出版、1994、p.368

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 67-d (子どもというのは母親を通して生まれた“神”である)

 子どもというのは、お母さんを通して生まれた“神”です。
 ですから、ホントは「親のもの」ではありません。
 子どもは、その親を選んで生まれてきただけなのです。
 そのことがわかっていないと、親というのは、子どもを「私物化」してしまいがちです。
 自分の思い通りにならないと、子どもに対してものすごく怒ったり、子どものことをコントロールしようとしたり、子どもがやりたがっていることを、「そんなことしちゃダメよ」となんでもかんでも抑えつけようとするのです。
 親は子どもより「経験」があるので、「そんなことをすると失敗する!」とか、「そんなことすると苦労する!」というのがわかるんですよね。
 でも、子どもは、それをしたいのです。
 失敗したとしても、苦労したとしても、それを経験したいのです。
 親が子どもに教えなくてはいけないのは、最低限のマナーだけです。
 例えば、「車の窓からモノを捨てちゃいけないよ」とか、「弱い者いじめはしちゃいけないよ」とか。
 あとは、子どもに何でも経験させて、その経験から学ばせる。
 それが、神的な「子どもの育て方」です。
 子どもの欲求をずっと抑えつけていると、思春期になったあたりで、ドカン!と爆発します。
 「経験したいのに、させてくれない!」というジレンマが爆発するのです。
 その爆発が、外に向かうときは、親に対して暴れたり、怒鳴ったりします。
 その爆発が、内に向かうときは、ひきこもりになったり、精神的な病気になることもあります。
 どちらも、「自分に経験をさせてくれない親を困らせたい!」という思いから、起きていることです。
 ですから、親は、子どもの「経験したい!」という欲求を、なんでもかんでも抑えつけてはいけません。
 「この子は、それが経験したい“神”なんだ」と思って、なんでも経験させてやることです。
 その経験で、子どもが失敗しても、苦労することになっても、いいのです。
 どんな経験も、すべて糧となって、その子の「魂の成長」に役立つことになるのです。

      斎藤一人『神様に上手にお願いする方法』
         K.Kロングセラーズ、2014、pp.67-70