学びの栞 (B) 




 69. 冠婚葬祭・男女・性


 69-a (霊界の結婚は霊的親和感の極致でだけ行なわれる)

 霊界にも結婚ということがあるのだと知れば世間の人々は驚きを禁じえないだろう。
 霊界の結婚も男女の霊の間で行なわれる点では人間の結婚と少しも変わらないが、相当な相違があるのはもちろんである。霊界の結婚は霊的親近感、親和感の絶対的な極致でだけ行なわれ、人間の結婚の場合にしばしばあるような世間的な考えといった要素は全く混じることがない。これは霊がその本来の姿にかえった形でなされるのだから当然のことに過ぎない。したがって霊界の結婚は、同一の霊界の団体に属する霊の間でだけ行なわれ、他の団体の霊との間ではありえない。霊的親和感の極致は、ここに記した例でもわかるように、二人の男女の霊の頭上にダイヤモンドや金の輝きを放つ気体が現われることで表象される。このような男女の霊の間ではその霊的な心は全く一つになる。
 霊の場合も男は理性、知性にすぐれ、女は情にすぐれているのは人間の場合とよく似ている。そこで霊が結婚すると男の霊の理性、知性はそのまま女の霊に流れ入り、女の霊の情は男の霊の中にそのまま流れ入って、一つの人格(霊格)ができる。この霊格は男女の霊が別々の場合よりはるかにすぐれた霊格であり、結婚した男女の霊の幸福感も霊的な能力も霊界で求められる最高のものとなる。
 霊界でも男女の霊の結婚には饗宴をもよおし同じ団体の霊が沢山集まる。そのとき、集まった霊たちは饗宴の席の上空に、この世では想像もできない美しい少女の像が光り輝いて現われるのを見る。これは霊界の結婚の至福を示す表象として知られている。
 さいごに霊界の結婚がこの世の結婚と違う点を上げるとつぎのようなことである。
 まず結婚した男女の霊は霊界では二人の霊としてでなく一人の霊として扱われる。これは霊的な心の合体の完璧さを示すわけだが、そのほかにも霊界では結婚した男女はお互いの霊としての体もすべて相手の中に入ってしまって完全な一人の霊になってしまうことにもよる。
 また霊界の結婚には男女の霊の間の肉体上の結合ということはない。これは霊界の結婚の目的が二人の霊の悟りや幸福や理性、霊的能力の向上にあって、この世の結婚のように子孫の繁殖を目的としていないからだ。(訳者注)

 (注)スウェデンボルグによれば、人間界は霊界のために将来の霊を産み出すための繁殖の場なのだという。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.99-100

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 69-b (あらゆる魂には基本的に男女の区別はない)

 あらゆる魂、あらゆる実在には、基本的に性別はない。今までこの問題に触れてこなかったのは、この章でそれをお話ししたかったからである。だが何度も物質界の人生に転生してきたみなさんは、これまで男女どちらにも生まれたことがある。個人の性格の進歩のためには、いろいろな観点からこの世の人生を体験することが大切だからだ。
 ご存じのとおり、男女両性については一種の固定観念がつきまとっており、これは本質的な特性なのだと考えられている。男性は本来、女性にくらべて幾分か体力的にまさっており、攻撃的で外部志向が強い。女性はよりやさしく直観的で、感情が豊かである。しかしながら、各人には男性的な傾向と女性的な傾向が混在しており、これらの特性は両方ともバランスのとれた霊的性格を築き上げるためには欠かせないものなのだ。
 さて両性の肉体的な交わりは、女神によってみなさんの快楽と成長のために創造された特別な関係なのである。これは、人びとは互いに睦みあわねばならないという不朽の願いに基づくものであり、その目的は地上での魂同士の交流にある。言うまでもなくここでお話ししているのは、深く愛し合った二人の肉体的・感覚的な歓びとしての、理想的な形のセックスのことだ。
 しかしまた、魂の世界においてわたしたちは、セックスというものを非常に自由で偏見のない眼で見ている。ご存じのとおりわたしたちは、みなさんの本性に関して無知ではない。実のところ、愛し合うパートナー同士のセックスはすべて喜ばしいものなのである。性犯罪あるいは強要や打算のからんだ卑劣な行為はたしかに不幸なことだ。だが人びとが互いに抱く自然な欲望であるとか、ひとつになりたいという地上的な衝動といった本能的な欲求は、わたしたちからみなさんへの贈り物なのだ。それが必ずしも永続的な愛情を伴う場合ばかりではないことはわかっている。これらの結びつきには肉体的な充足だけでなく、それを越えたもっと大きな目的がある。パートナー双方が触れ合いを望み、互いが尊敬をもって相手に接するとき、二人の結びつきは実り多いものとなるのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.91-92

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 69-c (間違いを犯してそこから学ぶという自由もある)

 もしわたしたちがみなさんの性的活動を認めなかったら、みなさんの活動はさほど多くは行なわれなかったのではないだろうか? みなさんが感じる、身を焦がすような強い情熱の一部は、みなさんの直観を通じてこちら側からやってくる。みなさんは人生を楽しみ、同時代に生きる人びととの交流を楽しみ、その人たちのことを深く知るように、叱咤激励されているというわけだ。みなさんの領域での性的関係を通してのみ成し遂げることのできる、特別な親密さというものが存在するのである。
 「望まれない」赤ん坊や婚外関係などの場合にも、神の摂理が働いている。ご承知のとおり、性を通じての表現は人類の重要な自由のひとつであり、学ぶための機会なのだ。この領域では他のすべての領域と同じく、男性も女性も自分自身の体験を自由に創造することができる。間違いを犯して、そこから学ぶという自由もあるのだ。あらゆる人間の活動には、みなさんには理解できないけれども、世界の根底に横たわる高い目的がある。性交の目的はこの部類に属するものなのだ。みなさんはその意味を完全には知り得ないが、これはきわめて重要なもので、みなさんにはこれを探究する完全な自由があるのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.91-92

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 69-d (エイズは見境なく結びつく時代の終焉を象徴している)

 性の役割をめぐって、みなさんの社会では実際どのような態度でのぞむべきかについて、わたしの視点から見ていきたいと思う。両親にできる最良のことは、深い愛と尊敬をもって行なわれる性の営みがいかに喜ばしいものであるかを伝えることだ。そうすれば、若い人びとはすなおに直観に従って気配りし、他の人びととうまくやっていけるようになるだろう。情緒の成熟や妊娠、健康にかかわる問題は、家族のメンバーが共に参加して解決していくべきである。もし両親が愛情のこもった関心と同情を寄せてやれば、若者が不適切な関係に走ることはないだろう。
 今日問題になっているエイズに関しては、どなたも特に関心がおありのことだろう。その重要性は、単に性に関わる問題だけにとどまらない。みなさんはこれを、すべての親密な関係―明らかなものは性行為と、注射針あるいは血液の共有である―を見極め、注意する必要があることを象徴していると言うかもしれない。領域3にいる人びとは、新しい意識レベルへの跳躍の足掛かりとするために他者と結合することができるが、ちょうどこれと同じことが地上の人びとにも可能なのだ。事実みなさんには、同じ目的を持つ者同士が結びつくことでしか、この惑星上の重要な問題を解決することはできない。これは単に性的な結びつきのみならず、心や行動の連帯も含めての話だ。エイズは、主義主張を曲げて見境なく結びつく時代が終わったということ、つまり共同体・経済・政府同士が無差別に結束する時代の終焉を象徴している。みなさんが直面している危機は、人類絶滅の可能性をはらむものなのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.93-94

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 69-e (魂の身体は苦痛は感じず快楽だけを感じる能力がある)

 話題をもとに戻して、当然出てくるもうひとつの質問に答えたいと思う。死後の世界のセックスはどうなっているのだろうか? あの地上の快楽は、見向きもされなくなってしまうのだろうか? 退屈で変化も進歩もない天国には、もう楽しみなどないのだろうか?―喜んでお答え申し上げよう。もちろん、こちらにも性の楽しみは存在している! このようにみなさんが大きな関心を寄せているもののうち、こちらへ来て断念せざるを得なくなるようなものは何ひとつない。しかし、こちらでの性的な交流はそちらとは大きく異なっており、その上ずっと楽しいものだ。たしかにみなさんの肉体はすはらしいもので、性的器官は敏感で大きな快楽をもたらしてくれる。だがこちらの領域3、4、5で行なわれる性的活動のしかたは、考え得る最高の性的快楽に匹敵すると思われる。
 その仕組みについて説明しよう。魂の身体は肉体よりずっと微細な素材でできている。この体は苦痛は感じず、快楽だけを感じる能力がある。この身体を構成している原子は、肉体のそれにくらべてはるかに希薄だ。二人の実在が性的な快楽あるいはエネルギーを交換しあうために結合したいと思えば、両者は身体同士を融合する。二人は互いに重なりあい、全身のエネルギーと感情を相手に送り込んで交換する。あらゆる細胞が相手の細胞と交流するのだ。こうすることで、すべてを焼き尽くすような電磁気的な興奮と快感が生じるのである。これはみなさんがご存じのオルガスムスをはるかに越えたもので、この結合によって魂同士は、物質界で行なわれうるよりもさらに親密に結びつく。このように、こちらの人びとも同じように楽しむのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.94-95

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 69-f (元気を出してほしい。あなたの生命は永遠なのだから)

 みなさんにはこれから先、大いに期待していただいて結構なのだが、だからといって、急いでこちらの世界にやってくるのは禁物だ。魂の領域での生活は、地上の体験に取って代ることはできない。地球の生活は、みなさんにとって測り知れぬほど貴重な勉強であり、学ぶ過程には喜びがある。元気を出してほしい。あなたの生命は永遠なのだから。肉体が死んでも、あなた自身は死にはしない。あなたの存在は永遠なのだ―星々のように、いやそれ以上に。
 さいごにひとこと、性に関する耳寄りなお話を……。さきほどジュディーから、わたしもセックスを楽しむのだろうかという質問があったので、イエスと答えておいた。だがそれが他の実在との間で行なわれるものではないという答えに、彼女はびっくりしていた。わたしが巨大な人格の統一体であるために、それはわたし自身の内部での交流であり、このエネルギーの交換は、自分の内部で創りだされるものなのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.95

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 69-g (私に性別はない。男性であると同時に女性でもある)

 わたしはみずから「アフ」と名乗り、女性形で語ってきた。これにはいくつか理由がある。アフと呼ぶのは、これが自分の名前だからではない。わたしが何者であるかは、みなさんの言語によって連想することは不可能なのだ。わたしの選んだAとFの二文字は、みなさんの世界とわたしの世界との結びつきを象徴している。アルファベットの最初の文字であるAは領域1の物質界の生活をあらわし、六番目の文字であるFは、わたしのいる領域6をあらわすものである。
 わたしの領域の実在は、ときどき領域3、4、5にいる人びとと直接に交流を行なっている。もしわたしが人間のような姿形で現れれば、多くの場合、これらの領域にいるわたしの生徒あるいは友人たちの役に立つ。よく女性の姿をとることがあるが、これはなかなか気分の良いものだ。だが本当は、わたしに性別はない。性を超越し、男性であると同時に女性でもある。わたしはみなさんの定義の枠を越えた、巨大な意識体として存在しているのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.96

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 69-h (地上世界の男女の差別は悲しむべき事態である)

 わたしが自分を女性形で呼ぶもうひとつの理由は、男性ばかり信用するという、みなさんの世界の恐るべき伝統の埋合わせをすることにある。これは悲しむべき事態である。なぜみなさんがたは、一方をもう一方より優位に置かねばならないのだろうか? 男性が女性より上だとか、ある人種のほうがすぐれているとか、ある国が他の国より立派だとか……。これは宇宙の隅々まで浸透している真理にもとる不条理である。人びとが心を開いてすべての生命が完全無欠であることを認め、生命の多様性の良さを認めるよう、祈っている。またすでに彼らの習慣となってしまったきびしい批判をやめるようにも祈っている。そのような批判をすれば、その人自身の発達に大きな支障をきたし、またそれが人生の苦しみを生み出す結果となるのだ。
 しかし、もしみなさんが他者をありのままに認め、彼らに本質的に備わった性質を批判しなければ、自然と他者を仲間として受け入れて尊敬する姿勢が生じ、ひいては人生とその大いなる目的とを受け入れる姿勢も生まれてくるのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.96-97

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 69-i (冠婚葬祭とは人間の魂を天国に導くことである) 

 わたしは、冠婚葬祭業とは究極の芸術産業であると考えている。結婚式にしろ葬儀にしろ、冠婚葬祭とは人間の魂を天国に導くことにほかならない。そして、そこでは花というものが非常に重要になってくる。わたしはかつて『ロマンティック・デス』という死の本を書いたが、そこで天国を垣間見たという人々の体験、すなわち臨死体験をかなり詳しく調べた。
 多くの臨死体験者の報告では、彼らの大半が美しい花畑を見たと証言している。光のトンネルを抜けた後、丘一面に咲き乱れる色とりどりの花に囲まれたというのである。
 アメリカのニュージャージー州のある若い男性は、臨死体験の報告の中で、一言でいうと天国はこの世を完全な状態にしたところであるとして、次のように語っている。

 「天国のあらゆるものが、この世の最も美しいものの物質を備えていると思います。人間は神の姿を模しているという感じがありますが、私はさらに、この世はある意味で天国に似せてつくられたと言いたいのです。ですから、この世に咲いている美しい花は天国の完全な花を摸しているわけです」

 もともと、エデンの園は天国に存在するガン・エデンという楽園を模して神が地球上につくったというが、いずれにしても天上に属する花の一部がこの地上にも表出しているのだと思えてならない。そうでないと、ただならぬ花の美しさはとても理解できない。花は、この世のものにしては美しすぎるのである。結婚式や葬儀の会場に大量の花を飾るのは、式場を天国に見立てるためである。花によって、そこには天国の波動が満ちるのである。
 そして冠婚葬祭の中でも、葬儀というセレモニーこそはARTそのものだといえる。なぜなら葬儀とは、人間の魂を天国に送る「送儀」であり、人間の魂を天上に引き上げるという芸術の本質をダイレクトに行なうものだからである。芸術とは、天国への送魂術なのである。
 人は芸術作品に触れて感動したとき、魂が天国に一瞬だけ飛ぶ。絵画、彫刻、文学、映画、演劇、舞踊といった芸術の諸ジャンルは、中継地点を経て天国に導くという、いわば間接芸術である。ベートーヴェンは「音楽こそは直接芸術である」と述べたが、わたしは送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりうると確信している。

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.125-126

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 69-j (自分自身の理想の葬儀を具体的に思い描くことが大切)

 一条 高齢者の中には「死ぬのが怖い」という人もいますが、死への不安を抱えて生きることこそ一番の不幸です。不安を解消するには、自分自身の理想の葬儀を今、具体的に思い描くことが大切だと思います。
 矢作 自分の葬式をイメージすることで死が怖くなくなる?
 一条 はい。それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬儀をイメージしてみてください」といつも言います。
 矢作 自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことですか?
 一条 葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれを想像するといいでしょう。親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、今生きているときにすべきことがわかります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。そして、「その弔辞の内容を具体的に想像してください。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言います。
 そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」と言われ、子どもたちからは「心から尊敬していました」と言われる。自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そのイメージを現実のものにするには、その本人は残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないのです。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。
 よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。人生最後のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生の幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。
 「太陽と死は直視できない」と言ったのは箴言家のラ・ロシュフーコーですが、自分の葬儀を考えることで、人は死を見つめ、生の大切さを思うのではないでしょうか。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。

   矢作直樹・一条真也『命には続きがある』PHP研究所、2013、pp. pp.143-144

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 69-k (埋葬は文化のシンボルであり墓は文明のシンボルである) 

 わたしには、埋葬とは「文化」のシンボルであり、墓とは「文明」のシンボルであるように思える。ヒトが人間になった大きな契機として埋葬行為があったことは明らかだが、ピラミッドや古墳に代表されるように、墓づくりは建築技術の進歩とも密接に関わって文明の発展に寄与してきた。文明としての「墓」について、高間氏は次のように述べている。

 「最近の考古学調査からは、農耕がはじまる前から、人々は定住生活に移っていたらしいとわかってきている。じわじわと人口が増え、狩猟採集に適した土地を占有しようという動きが出ていたのだろう。その占有の根拠が『昔からここで暮らしていた』という事実であり、その事実をわかりやすく周りに示すのが先祖の墓というわけだ。このときから、死は個人や家族の死という意味だけでなく、共同体の一員の死という側面を色濃くもつようになった、といえるだろう」

   一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.55-56

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 69-l (死は決して不幸な出来事ではない)

 一条 わたしには、子どものころからどうしても気になっていたことがありました。それは、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と言うことでした。わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
 矢作 「ご不幸」というのは無意識の内にわたしたちは死を不幸な出来事だととらえているということですね。「言霊」というように、言葉には力があります。わたしたちは死を不幸なことにしてしまっているわけですね。
 一条 もし「死が不幸なこと」なら、どんなに素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福を感じながら生きても、最後には不幸になる。誰かのかけがえのない愛する人は、不幸 なまま、その人の目の前から消えてしまう。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのか。
 わたしは、そんな馬鹿な話はないと思いました。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。
 死は決して不幸な出来事ではありません。愛する人が亡くなったことにも意味があり、愛した人が残されたことにも意味があるのだと確信しています。そして、人が亡くなっても「不幸があった」と言わなくなるような葬儀の実現をめざしています。
 矢作 死が不幸なら、「ご冥福を祈る」というのはおかしくなりますね。
 一条 まさに、その通りですね。でも、「死は不幸ではない」と考えているわたしでも、やはり小さなお子さんの葬儀では胸が締め付けられます。小さな棺に向かって泣き崩れるお母さんを見ていると、思わずもらい泣きをしてしまいます。
 矢作 それは日ごろから、子どもといえど死と隣り合わせだという意識を持っていることが重要ではないでしょうか。「無明」という言葉を噛みしめてしまいます。

   矢作直樹・一条真也『命には続きがある』PHP研究所、2013 (pp.58-59)

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 69-m (宗教にとって葬儀が一番重要である)

 作家、元外務省主任分析官の佐藤優氏は、宗教に造詣の深いことで知られる。その佐藤氏に『サバイバル宗教論』という著書がある。クリスチャンにして同志社大学神学部の出身である佐藤氏が、「危機の時代における宗教」をテーマに行なった連続講義をまとめた本だ。聴講しているのは、禅宗寺院の最高峰である臨済宗相国寺の僧徒たちである。
 同書は「宗教」についての本だが、佐藤氏は「そもそも宗教にとって重要なものとは何か」と問う。そして、それは「葬式」であると喝破し、以下のように述べている。
 「宗教にとって一番重要なのは葬式に携わることです。『葬式仏教』としばしば揶揄されますが、大きな間違いです。葬式をする宗教というのは最も強いからです。結婚式は多い人でも三回ぐらいです。二回目からは大体式はやらない。それに対して、死にかかわる儀式は、日本人の霊性からすれば、五〇年、地域によっては一〇〇年にも及びます。日本のキリスト教会も、日本人の霊性を反映したあり方をしています。不思議なことに、死んで七日目に記念会というのがあって、四九日目にも記念会をよくやります。『初七日』とか『四十九日』という発想は、キリスト教からはどうひねっても出てこないはずなのですが。さらには、三年目にも記念会があり、七年目にも記念会があって、五〇年たつとその後はやらない。これはやはり日本の精神的な伝統の中に入ってキリスト教が機能していて、仏教に合わせた形での行事になっているからだと思うんです」
 この「宗教にとって一番重要なのは葬式に携わること」「葬式をする宗教というのは最も強い」といった言葉には、佐藤氏の豊かな教養がそのまま表現されているといえよう。

    一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.145-146

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 69-n (結婚は本人同士だけではなくお互いの守護霊も関わっている)

 結婚は、本人同士だけではなく、お互いの守護霊も大いにかかわります。といっても守護霊が相手を選ぶわけではありません。
 あなたが出会う人というのは宿命で決まっています。そしてその縁を深めるかどうかはあなた次第。あなたがつくる運命です。
 さらに結婚となるとあなたのカリキュラム、そして相手のカリキュラムが合っているかがポイントになります。まるでパズルのピースがハマるように、お互いのカリキュラムがピタッと合って、結婚になる。その瞬時の判断をするのが守護霊なのです。
 それを表現するならまさしく『縁組み』。そう言うとどこかの神社で縁結びの神様が一堂に会して相談をするような場面を想像してしまうかもしれませんが、そうではありません。霊的世界は思念で通じ合える世界です。守護霊もスーパーコンピューターのように瞬時に何もかもわかってしまうので、相談や会議といった人間的な作業にはなりません。

      江原啓之『守護霊』講談社、2017、 p.82

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 69-o (葬儀は何のためにあるのか) 

 一条 一般にお葬式には、社会的な処理、遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理の四つの役割があるとされています。
 「社会的な処理」については、われわれはみんな社会の一員であり、一人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、死の通知が必要です。社会の人々も告別を望み、その方法がお葬式です。もともと人間の死には、生理的な死と社会的な死の二つがあり、その二つが組み合わさって初めて一つの死が完成するのです。生理的な死は病院が、社会的な死は葬祭業者が担当します。
 矢作 わかりやすいですね。
 一条 「遺体の処理」については、生命を失ったからだを放置できないという厳然たる事実があります。人間は呼吸と心臓が停止した瞬間から遺体となり、たちまち腐敗していきます。旧石器時代においてすら、すでに遺体に対して何らかの措置がなされた形跡が見られることからいっても、土の中に埋めるとか、火で燃やすとかの遺体の処置は人類の発生とともにはじまったとされています。最近はもっと踏み込んだことも考えられていて、弔った人類、あるいは種族だけが生き残ってきたと思います。
 矢作 先ほど言われていた、死者から生存のための情報を入手し、さまざまな恩恵を受けていたという話ですね。
 一条 「霊魂の処理」については、お葬式が死者を生者の世界から分離し、新しい世界に再生させるための通過儀礼であるということです。これが古今東西のお葬式に宗教が関わるようになったゆえんです。死者の霊魂をどのような手段で新しい世界に送り込むのか、死者の霊魂をどのように受けとめ、どんな態度で臨むかということです。すなわち、お葬式とは霊魂のコントロール技術であるといえます。
 矢作 霊魂のコントロールというのはとても面白い考え方だと思います。葬儀というかたちの中でそこに関わる方々の思いを集中させることで、たしかに霊魂にその思いが伝わり安心して他界していかれることでしょう。
 一条 わたしも、基本的に霊魂の存在を信じています。通夜でロウソクの灯が不自然に揺れることは珍しくないですし、葬儀ではいろいろなかたちでそういう現実を見ることがあります。葬儀のときに、死んだはずのおばあちゃんが「あそこにいるよ」と、幼い子どもたちが騒いだこともありました。
 矢作 医療現場よりも、そうした経験がいろいろおありでしょう。
 一条 「悲しみの処理」は、生者のためのものです。残された人々の深い悲しみや愛情の念を、どのように癒していくかという処理法のことです。
 矢作 グリーフケアですね。
 一条    そうです。お通夜、お葬式、その後の法要などの一連の行事が、遺族にあきらめと訣別をもたらしてくれます。仏式による葬儀や法事の内容は、じつはブツダの生涯をなぞったものなんです。臨終の直後に枕経を読んでもらう。戒名をつけてもらう。通夜をして、納棺、告別式、茶毘、法要そして納骨と進む仏式の一連の儀式は、じつは死者が出家して悟りを求めて修行の旅に出るスタイルになっています。
 一条 さらに、葬儀の意味について考えたいと思います。
 愛する者を失った遺族の心は不安定に揺れ動いています。そこに儀礼というしっかりしたかたちのあるものを押し当てると、「不安」をも癒すことができます。
 親しい人間が消えていくことによる、これからの生活における不安。その人がいた場所がぽっかりあいてしまい、それをどうやって埋めたらよいのかといった不安。残された者は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。これは非常に危険なことなのです。人間はどんどん死んでいきます。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に一つの「かたち」を与えることが大事であり、ここに葬儀の最大の意味があるのです。
 では、この「かたち」がどのようにできているかというと、昔のお葬式を見てもわかるように、死者がこの世から離れていくことをくっきりとした「ドラマ」にして見せることによって、動揺している人間の心に安定を与えるのです。ドラマによって「かたち」が与えられると、心はそのかたちに収まっていき、どんな悲しいことでも乗り越えていけます。
 つまり、「物語」というものがあれば、人間の心はある程度、安定するものなのです。逆にどんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもグラグラ揺れ動いて、愛する肉親の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。

    矢作直樹・一条真也『命には続きがある』PHP研究所、2013、pp.162-168

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 69-p (葬祭業というのは一種の交通業であり旅行業である) 

 −条 わたしは、フューネラル産業、つまり葬祭業というのは一種の交通業であり旅行業であると思っています。「あの世」という目的地は、浄土、天国、ニライカナィ、幽世(かくりよ)などなど、さまざまな呼び方をされます。わたしはまとめて心の理想郷という意味で「ハートピア」と呼んでいますが、ハートピアへ行くには飛行機、新幹線、船、バス、タクシー、それにロケットと数多くの交通手段があるのです。それが、さまざまなお葬式です。新幹線しか取り扱わない旅行代理店など存在しないように、魂の旅行代理店としての葬祭業も、お客さまが望むなら、あらゆる交通機関のチケットを用意すべきです。
 矢作 たしかにそういう自由さはあってもいいですね。精神の部分ではなく、あくまでも交通機関の選択であるということですね。
 一条 そうです。二〇〇四年、北九州市に「北九州紫雲閣」という日本最大級のセレモニーホールをオープンさせましたが、そこではあらゆるスタイルのお葬式を行うことが可能となっています。従来の仏式葬儀はもちろん、本格的な神殿と教会も設け、神葬祭およびキリスト教式もできます。また、海洋葬、樹木葬、宇宙葬、月面葬をお望みの方には、そのお世話をさせていただきます。もちろん、音楽葬、ガーデン葬、その他もろもろのスタイルのお葬式もすべて可能です。ぜひ、その中から故人にふさわしいお葬式を選んでいただきたいと思います。
 わたしが以前から提案している「月への葬魂」もプランの一つとしてエントリーしています。どのお葬式が正しいということはありません。いわば、お葬式の百貨店、お葬式の見本市のような場所です。
 わたしは、セレモニーホールの本質とは、死者の魂がそこからハートピアへ旅立つ、魂の駅であり、魂の港であり、魂の空港であると思っています。その意味で、「魂のターミナル」をめざしているのかもしれません。
 矢作 病院で死ぬこともさることながら、死んで送り出されていくところが、初めて行く場所というのもさみしいですね。
 一条 おっしゃる通りです。ですから、普段からカルチャー教室や食事会などが開かれる 思い出のある場所から送ってさしあげたいと思っています。そのセレモニーホールには、お元気なアクティブ・シニアの方々のためのカルチャーセンターやパーティー会場も併設しています。いわば、高齢者用の複合施設ですね。
 昔は人が一人亡くなったら大変でした。葬式がお寺から、家から、葬祭会館に変わったということで、ある意味便利になったわけです。その反面、死を社会から遠ざけてしまった。セレモニーホールというシステムを生み出した責任を感じています。
 今、血縁や地縁を復活させるということで「隣人祭り」というのも開いています。近所の人たちなどと交流を図る場で、孤独死がすこしでも減ってくれればと思っています。

    矢作直樹・一条真也『命には続きがある』PHP研究所、2013、pp.183-185

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 69-q  (仏式葬儀はグリーフケアの文化装置である)

 日本には死別の悲嘆を癒すグリーフケアの文化装置がある。それは、仏式葬儀における一連の死者儀礼のプロセスである。大切な人が亡くなると、まず、通夜がある。遺体のそばに遺族や親戚や知人が集まり、亡き人との別れを惜しむ。そして通夜の翌日には告別式があり、思い残すことがないようにさらに別れを惜しむ。
 通夜・告別式といった葬儀の後も、初七日、四十九日法要、一周忌、三回忌、七回忌、一三回忌と、供養が営まれる。これらのしきたりは、遺族の悲しみの心を癒す先人の知恵である。
 自身はクリスチャンである高木慶子氏も、仏教の供養は悲嘆の中にある人の心を癒してくれる見事なグリーフケアとなっていると指摘し、『悲しんでいい』で次のように述べている。

 「法要のたびに親戚が集まることは、『亡き人のことを忘れてはいません』『残された家族のことをみんなで心にかけています』という思いをご遺族に伝えることになるのですね。大切な人を失った方にとって、忘れてほしくないことは二つあるのです。それは、悲しみを負った自分自身の存在と、故人の存在です。亡き人への追悼のことばは、そのままご遺族への癒しになるのです」

 『愛する人を亡くした人へ』『のこされたあなたへ』『葬式は必要!』など一連の著書で、わたしは「葬儀こそは最大のグリーフケアである」と訴えてきたので、高木氏の発言には大いに共感した。ネアンデルタール人が七万年も前から花の上に死者を置いて葬儀をしていたことがわかっている。配偶者や子ども、家族が死ねば人の心にポッカリ穴があき、そのまま放っておけば、きっと自殺の連鎖が起きることだろう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなる。葬儀という「かたち」は人類の滅亡を防ぐ知恵なのである。
 結婚式も同様で、結婚式があったからこそ、人類は結婚という営みを続けてきたという見方もできる。いわば、冠婚葬祭という文化装置が人類滅亡を防いできたのである。冠婚葬祭業に携わる者は大変な使命を担っているのだ。

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.299-301

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 69-r (葬儀は人類の精神的存在基盤である)

 死は多くの人々にとって悲しい出来事である。でも、死は決して不幸ではない。なぜなら死が悲しいのは、「死」そのものの悲しさではなく、「別れ」の悲しさだからである。人間にとって最大の悲しみとは、じつは自分自身が死ぬことよりも、自分がこの世で愛してきた者と別れることではないだろうか。特に自分という一人の人間をこの世に送り出してくれた父や母と別れることは、そのときの年齢によっても多少の違いはあるだろうが、人生の中でもっとも悲しい出来事の一つであろう。したがって、どんなに宗教に対して無関心な人間でも、自分の親の葬式を出さないで済ませようとする者は、まずいない。仮に遺言の中に、「自分が死んでも葬儀を出す必要はない」と書いてあったとしても、それでは遺族の気持ちが収まらないし、実際にはさまざまな理由によって、葬儀が行なわれることが普通である。
 ブッダに葬儀(実際は、シャーラブージャー)を禁じられた弟子の出家者たちも、自分自身の父母の死の場合は特別だったようだし、ほかならぬブッダ自身、父の浄飯王や、育ての母であった大愛道の死の場合は、自らが棺をかついだという記述が経典に残っている。それは葬儀というものが、単に追善や供養といった死者自身にとっての意味だけでなく、死者に対する追慕や感謝、尊敬の念を表現するという、生き残った者にとってのセレモニーという意味を持っているからなのである。
 ブッダが亡くなったのは、紀元前四八〇年前後の夜のことだとされている。まだ悟りきっていない弟子たちは号泣し、すでに悟っている弟子たちは無常を観じてじっとこらえていた。葬儀は遺言によりマルラ人の信者たちの手によって行なわれた。七日間の荘厳な供養の儀式の後、丁重に茶毘に付したという。
 ブッダは、決して葬儀を軽んじてはいなかったはずだ。もし軽んじていたとしたら、その弟子たちが七日間にもわたる荘厳な供養などを行なうはずがないではないか。なぜなら、それは完全に師の教えに反してしまうことになるからである。
 それともマルラ人たちは本当にブッダの教えに反してまで、荘厳な葬儀を行なったのであろうか。教えに従うにせよ、背いたにせよ、マルラ人たちは偉大な師との別れを惜しみ、手厚く弔いたいという気持ちを強く持ったことだけは間違いない。
 ブッダが葬儀を禁じていなかったのならば、日本仏教は後ろめたさを感じることなく堂々と葬儀を行なってよろしい。逆に、わたしは日本仏教の最大の強みは葬儀にあると思っている。
 「成仏」というのは有限の存在である「ヒト」を「ホトケ」という無限の存在に転化させるシステムではないだろうか。ホトケになれば、永遠に生き続けることができる。仏式葬儀には、ヒトを永遠の存在に転化させる「永遠葬」としての機能があるのだ。
 また、日本仏教の本質は「グリーフケア仏教」であると思う。たとえば、年忌法要というのはじつによくできている。年忌法要そのものが日本人の死生観に合ったグリーフケア文化となっているのである。もちろん、日本仏教もこのままでいいとは思わない。日本仏教の現状にはさまざまな問題点もある。今後、葬儀のスタイルもさまざまに変わっていくだろうが、原点、すなわち「初期設定」を再確認したうえで、時代に合わせた改善、いわば「アップデート」を心がける努力が必要である。
 もともと、約七万年前にネアンデルタール人が死者に花を手向けた瞬間からサルがヒトになったともいわれるほど、葬儀は「人類の精神的存在基盤」とも呼べるものなのである。

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.329-331