学びの栞 (B) 




 69. 結婚・男女・性


 69-a (霊界の結婚は霊的親和感の極致でだけ行なわれる)

 霊界にも結婚ということがあるのだと知れば世間の人々は驚きを禁じえないだろう。
 霊界の結婚も男女の霊の間で行なわれる点では人間の結婚と少しも変わらないが、相当な相違があるのはもちろんである。霊界の結婚は霊的親近感、親和感の絶対的な極致でだけ行なわれ、人間の結婚の場合にしばしばあるような世間的な考えといった要素は全く混じることがない。これは霊がその本来の姿にかえった形でなされるのだから当然のことに過ぎない。したがって霊界の結婚は、同一の霊界の団体に属する霊の間でだけ行なわれ、他の団体の霊との間ではありえない。霊的親和感の極致は、ここに記した例でもわかるように、二人の男女の霊の頭上にダイヤモンドや金の輝きを放つ気体が現われることで表象される。このような男女の霊の間ではその霊的な心は全く一つになる。
 霊の場合も男は理性、知性にすぐれ、女は情にすぐれているのは人間の場合とよく似ている。そこで霊が結婚すると男の霊の理性、知性はそのまま女の霊に流れ入り、女の霊の情は男の霊の中にそのまま流れ入って、一つの人格(霊格)ができる。この霊格は男女の霊が別々の場合よりはるかにすぐれた霊格であり、結婚した男女の霊の幸福感も霊的な能力も霊界で求められる最高のものとなる。
 霊界でも男女の霊の結婚には饗宴をもよおし同じ団体の霊が沢山集まる。そのとき、集まった霊たちは饗宴の席の上空に、この世では想像もできない美しい少女の像が光り輝いて現われるのを見る。これは霊界の結婚の至福を示す表象として知られている。
 さいごに霊界の結婚がこの世の結婚と違う点を上げるとつぎのようなことである。
 まず結婚した男女の霊は霊界では二人の霊としてでなく一人の霊として扱われる。これは霊的な心の合体の完璧さを示すわけだが、そのほかにも霊界では結婚した男女はお互いの霊としての体もすべて相手の中に入ってしまって完全な一人の霊になってしまうことにもよる。
 また霊界の結婚には男女の霊の間の肉体上の結合ということはない。これは霊界の結婚の目的が二人の霊の悟りや幸福や理性、霊的能力の向上にあって、この世の結婚のように子孫の繁殖を目的としていないからだ。(訳者注)

 (注)スウェデンボルグによれば、人間界は霊界のために将来の霊を産み出すための繁殖の場なのだという。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.99-100

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 69-b (あらゆる魂には基本的に男女の区別はない)

 あらゆる魂、あらゆる実在には、基本的に性別はない。今までこの問題に触れてこなかったのは、この章でそれをお話ししたかったからである。だが何度も物質界の人生に転生してきたみなさんは、これまで男女どちらにも生まれたことがある。個人の性格の進歩のためには、いろいろな観点からこの世の人生を体験することが大切だからだ。
 ご存じのとおり、男女両性については一種の固定観念がつきまとっており、これは本質的な特性なのだと考えられている。男性は本来、女性にくらべて幾分か体力的にまさっており、攻撃的で外部志向が強い。女性はよりやさしく直観的で、感情が豊かである。しかしながら、各人には男性的な傾向と女性的な傾向が混在しており、これらの特性は両方ともバランスのとれた霊的性格を築き上げるためには欠かせないものなのだ。
 さて両性の肉体的な交わりは、女神によってみなさんの快楽と成長のために創造された特別な関係なのである。これは、人びとは互いに睦みあわねばならないという不朽の願いに基づくものであり、その目的は地上での魂同士の交流にある。言うまでもなくここでお話ししているのは、深く愛し合った二人の肉体的・感覚的な歓びとしての、理想的な形のセックスのことだ。
 しかしまた、魂の世界においてわたしたちは、セックスというものを非常に自由で偏見のない眼で見ている。ご存じのとおりわたしたちは、みなさんの本性に関して無知ではない。実のところ、愛し合うパートナー同士のセックスはすべて喜ばしいものなのである。性犯罪あるいは強要や打算のからんだ卑劣な行為はたしかに不幸なことだ。だが人びとが互いに抱く自然な欲望であるとか、ひとつになりたいという地上的な衝動といった本能的な欲求は、わたしたちからみなさんへの贈り物なのだ。それが必ずしも永続的な愛情を伴う場合ばかりではないことはわかっている。これらの結びつきには肉体的な充足だけでなく、それを越えたもっと大きな目的がある。パートナー双方が触れ合いを望み、互いが尊敬をもって相手に接するとき、二人の結びつきは実り多いものとなるのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.91-92

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 69-c (間違いを犯してそこから学ぶという自由もある)

 もしわたしたちがみなさんの性的活動を認めなかったら、みなさんの活動はさほど多くは行なわれなかったのではないだろうか? みなさんが感じる、身を焦がすような強い情熱の一部は、みなさんの直観を通じてこちら側からやってくる。みなさんは人生を楽しみ、同時代に生きる人びととの交流を楽しみ、その人たちのことを深く知るように、叱咤激励されているというわけだ。みなさんの領域での性的関係を通してのみ成し遂げることのできる、特別な親密さというものが存在するのである。
 「望まれない」赤ん坊や婚外関係などの場合にも、神の摂理が働いている。ご承知のとおり、性を通じての表現は人類の重要な自由のひとつであり、学ぶための機会なのだ。この領域では他のすべての領域と同じく、男性も女性も自分自身の体験を自由に創造することができる。間違いを犯して、そこから学ぶという自由もあるのだ。あらゆる人間の活動には、みなさんには理解できないけれども、世界の根底に横たわる高い目的がある。性交の目的はこの部類に属するものなのだ。みなさんはその意味を完全には知り得ないが、これはきわめて重要なもので、みなさんにはこれを探究する完全な自由があるのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.91-92

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 69-d (エイズは見境なく結びつく時代の終焉を象徴している)

 性の役割をめぐって、みなさんの社会では実際どのような態度でのぞむべきかについて、わたしの視点から見ていきたいと思う。両親にできる最良のことは、深い愛と尊敬をもって行なわれる性の営みがいかに喜ばしいものであるかを伝えることだ。そうすれば、若い人びとはすなおに直観に従って気配りし、他の人びととうまくやっていけるようになるだろう。情緒の成熟や妊娠、健康にかかわる問題は、家族のメンバーが共に参加して解決していくべきである。もし両親が愛情のこもった関心と同情を寄せてやれば、若者が不適切な関係に走ることはないだろう。
 今日問題になっているエイズに関しては、どなたも特に関心がおありのことだろう。その重要性は、単に性に関わる問題だけにとどまらない。みなさんはこれを、すべての親密な関係―明らかなものは性行為と、注射針あるいは血液の共有である―を見極め、注意する必要があることを象徴していると言うかもしれない。領域3にいる人びとは、新しい意識レベルへの跳躍の足掛かりとするために他者と結合することができるが、ちょうどこれと同じことが地上の人びとにも可能なのだ。事実みなさんには、同じ目的を持つ者同士が結びつくことでしか、この惑星上の重要な問題を解決することはできない。これは単に性的な結びつきのみならず、心や行動の連帯も含めての話だ。エイズは、主義主張を曲げて見境なく結びつく時代が終わったということ、つまり共同体・経済・政府同士が無差別に結束する時代の終焉を象徴している。みなさんが直面している危機は、人類絶滅の可能性をはらむものなのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.93-94

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 69-e (魂の身体は苦痛は感じず快楽だけを感じる能力がある)

 話題をもとに戻して、当然出てくるもうひとつの質問に答えたいと思う。死後の世界のセックスはどうなっているのだろうか? あの地上の快楽は、見向きもされなくなってしまうのだろうか? 退屈で変化も進歩もない天国には、もう楽しみなどないのだろうか?―喜んでお答え申し上げよう。もちろん、こちらにも性の楽しみは存在している! このようにみなさんが大きな関心を寄せているもののうち、こちらへ来て断念せざるを得なくなるようなものは何ひとつない。しかし、こちらでの性的な交流はそちらとは大きく異なっており、その上ずっと楽しいものだ。たしかにみなさんの肉体はすはらしいもので、性的器官は敏感で大きな快楽をもたらしてくれる。だがこちらの領域3、4、5で行なわれる性的活動のしかたは、考え得る最高の性的快楽に匹敵すると思われる。
 その仕組みについて説明しよう。魂の身体は肉体よりずっと微細な素材でできている。この体は苦痛は感じず、快楽だけを感じる能力がある。この身体を構成している原子は、肉体のそれにくらべてはるかに希薄だ。二人の実在が性的な快楽あるいはエネルギーを交換しあうために結合したいと思えば、両者は身体同士を融合する。二人は互いに重なりあい、全身のエネルギーと感情を相手に送り込んで交換する。あらゆる細胞が相手の細胞と交流するのだ。こうすることで、すべてを焼き尽くすような電磁気的な興奮と快感が生じるのである。これはみなさんがご存じのオルガスムスをはるかに越えたもので、この結合によって魂同士は、物質界で行なわれうるよりもさらに親密に結びつく。このように、こちらの人びとも同じように楽しむのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.94-95

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 69-f (元気を出してほしい。あなたの生命は永遠なのだから)

 みなさんにはこれから先、大いに期待していただいて結構なのだが、だからといって、急いでこちらの世界にやってくるのは禁物だ。魂の領域での生活は、地上の体験に取って代ることはできない。地球の生活は、みなさんにとって測り知れぬほど貴重な勉強であり、学ぶ過程には喜びがある。元気を出してほしい。あなたの生命は永遠なのだから。肉体が死んでも、あなた自身は死にはしない。あなたの存在は永遠なのだ―星々のように、いやそれ以上に。
 さいごにひとこと、性に関する耳寄りなお話を……。さきほどジュディーから、わたしもセックスを楽しむのだろうかという質問があったので、イエスと答えておいた。だがそれが他の実在との間で行なわれるものではないという答えに、彼女はびっくりしていた。わたしが巨大な人格の統一体であるために、それはわたし自身の内部での交流であり、このエネルギーの交換は、自分の内部で創りだされるものなのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.95

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 69-g (私に性別はない。男性であると同時に女性でもある)

 わたしはみずから「アフ」と名乗り、女性形で語ってきた。これにはいくつか理由がある。アフと呼ぶのは、これが自分の名前だからではない。わたしが何者であるかは、みなさんの言語によって連想することは不可能なのだ。わたしの選んだAとFの二文字は、みなさんの世界とわたしの世界との結びつきを象徴している。アルファベットの最初の文字であるAは領域1の物質界の生活をあらわし、六番目の文字であるFは、わたしのいる領域6をあらわすものである。
 わたしの領域の実在は、ときどき領域3、4、5にいる人びとと直接に交流を行なっている。もしわたしが人間のような姿形で現れれば、多くの場合、これらの領域にいるわたしの生徒あるいは友人たちの役に立つ。よく女性の姿をとることがあるが、これはなかなか気分の良いものだ。だが本当は、わたしに性別はない。性を超越し、男性であると同時に女性でもある。わたしはみなさんの定義の枠を越えた、巨大な意識体として存在しているのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.96

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 69-h (地上世界の男女の差別は悲しむべき事態である)

 わたしが自分を女性形で呼ぶもうひとつの理由は、男性ばかり信用するという、みなさんの世界の恐るべき伝統の埋合わせをすることにある。これは悲しむべき事態である。なぜみなさんがたは、一方をもう一方より優位に置かねばならないのだろうか? 男性が女性より上だとか、ある人種のほうがすぐれているとか、ある国が他の国より立派だとか……。これは宇宙の隅々まで浸透している真理にもとる不条理である。人びとが心を開いてすべての生命が完全無欠であることを認め、生命の多様性の良さを認めるよう、祈っている。またすでに彼らの習慣となってしまったきびしい批判をやめるようにも祈っている。そのような批判をすれば、その人自身の発達に大きな支障をきたし、またそれが人生の苦しみを生み出す結果となるのだ。
 しかし、もしみなさんが他者をありのままに認め、彼らに本質的に備わった性質を批判しなければ、自然と他者を仲間として受け入れて尊敬する姿勢が生じ、ひいては人生とその大いなる目的とを受け入れる姿勢も生まれてくるのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.96-97