学びの栞 (B) 


 70. 幽体・幽界・幽霊


 70-a[2-i](現代人の大半は死んでしまえば終わりであると思いこんでいる)

 現代人の大半は、死んでしまえばそれまでである、と肉体消滅によって人間の生活は終了する、と思いこんでいる。この考えほど、人間の神性を隠蔽するものはないのである。
 肉体が死ねば確かに肉体は人間の原形をとどめず、灰になってしまう。肉体という形は消滅し去る。肉体人間の眼の前から、その人の姿は永遠に消え去ってしまう。しかし、はたしてその人は再びこの肉体界に現われることはないのであろうか。
 肉体が消滅した、ということは、肉体細胞の分離をいうのである。肉体は何兆という細胞が種々の要素を仲介として組織体となっているもので、いいかえれば、分霊の放射した光波(念)が、宇宙の物質要素と結合して、創りあげたもので、分霊の光波(念)がそれらの物質要素に働きかけなくなれば、自然にこの組織体は解体してしまうのである。
 もっと端的にいえば、分霊が上衣である肉体をぬぎ捨てたのであり、着手のなくなった上衣は、もう必要がなくなって焼かれてしまった、といえるのである。
 上衣が破れたからといって、着手が滅びてしまった、という人はいない。ただ着手であり中味である分霊が、下着である幽体を着けたまま、別の界層に移転した、ということなのである。
 いいかえると、真の人間は死滅したのではなく、肉体界を離れた、のみである。私はこの肉体要素を魄(はく)とよんでいる。
 肉体を離れた分霊は、ある期間、幽界において生活する。ここの生活は、肉体界の波動より細やかな波動の世界で、大体肉体界と同じような生活を営む。ただしこの世界は想うことがすぐ現われる世界であって、肉体界のように、念じたことが、なかなか現われぬ世界とは違う。想うことが直ぐ現われるということは、ありがたいようでなかなかありがたくなく、よほど心が整い、浄まっていないと、非常に苦労するのである。何故ならば、肉体界においては、相手を憎んでいても、顔に現わさねば、なかなかわからないし、ちょっとだましても、すぐにはわからない。一生わからないこともある。しかし幽界においては、喜怒哀楽ともに、すぐにその結果が起こり、憎む人はすぐ憎みかえされ、だます人は、すぐにだましかえされる。憎み、悲しみ、恐れ、不正直、こうした想念は、すべて直ちに苦しみの種となり実となる。
 こうした体験を経て、肉体界から持ち越して来た悪想念、悪行為の習慣(業因縁)、これはすべて幽体に記憶されてあり、記録されてある。これらを浄めるべく努力することにより、その昔より、高い人格となり、よい因縁となって、肉体界に再生する。今度は以前より立派な生活が肉体界において、営まれるのである。かくして何度か再生し、悪想念、悪習慣を矯正して、やがて直霊と一つになってゆくのである。この幽界における分霊を霊魂といい、肉体界にいる期間を、魂魄(こんぱく)という。いいかえれば、霊とは神であり、神性であり、魂魄を因縁性とよぶのである。従って、分霊は、霊界に本住する神でありながら、因縁世界に降っては魂魄であるといえるのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.25-27

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 70-b[2-j](人間は肉体消滅によって失くなってしまうものではない)

 人間世界におけるすべての不安の根底は死の恐怖にある。
 いかなる種類の苦しみに直面したとしても、死への恐怖を超越した人にとって、その苦しみは、心の痛みにはならない。
 死ほど、人間の関心をそそる出来事は他にあるまい。
 死は人間にとっての終りなのか、転移なのか、この謎が解けることによって、人間の進歩は一段と早まるに違いあるまい。
 人間は肉体消滅によって失くなってしまうものではない。これは先章から私が説いていることなのである。
 死とは幽界(以後は霊界をも含めて)への転出なのである。肉体の死とは幽界への誕生なのである。
 死ぬことを往生といったのはこのことを昔の人は知っていたからなのである。
 肉体が死ぬ、ということは、その中の神につながる分霊が幽体をつけたまま、肉体を抜け出た後の状態をいうのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)p.51

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 70-c (幽界は大別して天界と人界と地界の三段階に分けられる)

 幽体は霊と肉体を結ぶ役目をもっているのであり、霊の念と肉体人間としての脳髄の想いとを、その体に録音しておく役目をもつのである。(この場合幽体を念体ともいう)
 肉体人間の死によって人間(霊)は幽体をつけたまま幽界において生活する。この幽界にも肉体界(現界)と等しく、種々な生活があり段階がある。その生活は幽体に蓄積されている想念の通りに実現されてゆく。この人の想念が憎しみに充ちていれば、憎しみに取りまかれた生活をする。愛深き想念ならば、愛深き想念の人びととともなる生活をする、というようになるのである。従ってその蓄積された想念の種々相であるように、幽界の段階は細かくいえば限り無いほどに分れているが、大別して、天界、人界、地界というように三段階に分けられる。
 この段階の上位は天界で、愛深き人、物質慾少なき人、執着少なき人、等々、神の心に近い人びとが住み、この界においてもさらに細かい段階がある。人界とは、この肉体界における普通人であり、平均点の人びとの圏であるといえよう。地界は、愛に背くもの、物質慾深きもの、執着強きもの、自我心強きもの、怠惰なるもの、等々、神の心、すなわち本源の心に遠いものが、その業因縁を消滅せらるるために住む世界である。
 人界、地界(注・この世界はお互いに幽体が見え合うのであって、その点肉体界と同じである。ただ肉体界よりすべてにおいて速度が早く、善悪とも、思うことがすぐ実現する)においては、業因縁の渦から脱しようと努力しながらも、肉体界以上に業因縁の渦は急速に回転するので(それは、念波の周波数が肉体界より細かいから)なかなか、その輪をぬけ出ることはできない。その渦の輪を抜け出すためには、一度、想念を停止すること、絶対の精神統一に入ること、すなわち、神にのみ心を集中して、いかに業因縁の念が自己の周囲を回転しても、見むきもしないことであって、その精神統一の深さに従って、蓄積された想念の消滅の仕方が違い、その度合によって、自己の住む圏(世界)が高くなるのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.52-53

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 70-d[49-f] (幽霊はなぜ現場″に現われるか =1=)

 世間にはよく幽霊屋敷といわれるものがある。幽霊を頭から否定する人々は、これは幻想であるとか、その屋敷の造作や庭の樹木の配置、そして昼間幽霊の出る幽霊屋敷では、その屋敷の太陽の光線の具合、夜なら月や星の明かりとの関係などが、人々に幽霊と思わせるものを見せるのだとかいった、もっともらしい理くつを付ける。これらは、いずれも全く根拠のないものだから、私はことさらに議論をしようとは思わない。私は、なぜ幽霊が出るのか、そして幽霊屋敷といわれるものにはひんぱんに幽霊が出現することがあるのかについて、もっと根拠のある説明をしようと思う。
 私は例によって一つの実例を上げて話を始めることにしよう。この幽霊屋敷はとくに有名なものだからイギリスでは多くの人々がベランダの幽霊として知っている。
 この屋敷はエディンバラ(英国中部の街)の街のはずれにあった二階建の建物だ。建物は相当大きく、広い庭には古くからの大きな木々がそびえ昼間でもひっそりと静まり返っているほどの静かな環境にあった。最初に幽霊の出現が知られたのは一七二〇年頃で、これを見たのは、その家に数十年も仕えていた下僕だった。彼は、ある夕方、建物の戸締りをして回っていたが、二階のベランダに面した部屋まで来たとき、ベランダに人影を見たので、声をかけようとして驚いた。
 その人影が十年ほど前に死んだ、この家の娘エレンだったからだ。驚いている彼にはもちろん、その幽霊は周囲の何物にも気づかぬ様子でベランダの向うの端のほうまで五、六メートル歩いて行くとふっと姿を消してしまった。
 このことがあってから、この屋敷にはエレンの幽霊が、しばしば現われ、しかも決まってベランダに現われるのでベランダの幽霊屋敷といわれるようになってしまった。その後、この屋敷には住む人がなくなってしまったが、一七四〇年頃になって、エレンの家族とは何の関係もなく、この噂も知らないハント氏という人が、この屋敷を買い取って改造して住むようになった。改造後の屋敷はもとの屋敷より庭の奥に造られ建物も小さかった。だが、このエレンと何の関係もなく、噂すら知らなかったハント氏の家族も、しばらくするうちエレンの幽霊を見るようになった。しかも、エレンの幽霊は改造前の屋敷の二階のベランダのあった位置に現われ、昔下僕が見たように、あたかもその昔のベランダの上を端から端まで歩いて行くように空中を歩いてからふっと消えるのであった。また、エレンの幽霊が周囲の様子には全く気付かないふうである点は同じであった。
 なお、付け加えておくと、このエレンは、厳格な紳士であった父親の許さぬ事情のため、ベランダで自殺したものであった。
 このようなことを霊の立場、霊界の側から説明すれば、そんなに難しくなく、また何にも不思議なことではない。私はすでに霊はその想念によってどこへでも自由に自分の体を移動させることができ、このため霊は空間とか距離という概念をもっていないことは述べた。また、この話の中にある同じ場所≠ノエレンが現われる点に注意してほしいと思う。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.209-211

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 70-e[49-g] (幽霊はなぜ現場″に現われるか =2=)

 では、もっと詳しく説明することにしよう。実はエレンが人々にすぐエレンであると認められること(霊となったエレンの顔つきに大きな変化はないことを示す)また、エレンが幽霊となってしばしば現われることからしてエレンの霊は、まだ霊界へは行かず、この世と霊界の中間である精霊界にいたのだ。そして、精霊界にいる死後まだ間もない霊たちと同じようにエレンの霊的な心の状態は、まだ人間界にいたときの記憶がかなり残っていたのである。私がしばしば記したように、霊たちの記憶の中に残るのは、まだ、その霊が肉体にあったときの記憶でも、その心の本当の内部である霊の表面、霊の平面において記憶されたことのみであり、たとえば表面的な知識といったものは全て消滅してしまうものである。このような知識などは、人間がその肉体的な感覚、目、耳、鼻などによって知ったものに過ぎず、その人間の肉体のうえの記憶に止まり霊にまでは達していないためだ。
 だが、特異な例外的な場合には、人間界の記憶でも普通は霊の平面にまで達しないはずのものが、霊の平面にまで達し、この記憶が死後もかなり残存することがある。これは、例えばエレンの場合のように自殺とか、あるいは殺人のような死に方で死んだ霊の場合はその最後の場面や場所の記憶といった物質界的な記憶でもこれが霊の平面にまで達するようなことがある。(東洋の仏教徒の間で「想いが残る」というような表現で表わしているのも、このことだと思われる)
 したがって精霊としてのエレンの想念にはまだかなりこの世にあったときの物質界的なものが混じっており、エレンは、この想念が精霊的な想念の中に起ってくることがある。そして、そのようなときにはエレンはこの想念によって霊界の中を自分も気付かぬまま移動し、その想念の場所---この例ではベランダに(この世も霊界の一部分に過ぎないことはすでに述べた)現われることになるのだ。エレンの霊が死後相当の時間を経てもまだ霊界へ行かず、いまだに精霊界にいるというのも、彼女の霊(精霊)としての想念の中に物質界の桎梏を脱し切っていないものが少し残っていることを示している。
 なお、エレンばかりでないが、幽霊が全て周囲の状況に全く気が付かない様子で行動するという理由は、すでに述べたように、まだ物質界の桎梏を完全に脱し切っていないといっても、幽霊たちはすでに霊であり、霊には物質界のことは眼に入らず、彼らには物質界の存在することが解らないからに過ぎない。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.211-213

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 70-f (幽霊など厄介な霊がいる場合の対処の方法)

 人はさまざまな形でこの世を去っていきます。眠りながら静かに息を引き取る人もいれば、みずから命を絶つ人、そして、なんらかの事故に巻き込まれる人もいます。わたしたちはこの地上界に入るずっと以前に死の道筋を選ぶわけですが、暴力的な非業の死ほど痛ましいものはないように思われます。なにしろ、まだ肉体の形を取っているわたしたちにはこのうえない衝撃が加わるわけでしょうから。
 多くの場合、暴力的に、あるいは、唐突にこの世を去った人は、死のプロセスが実際に起きたことを自覚していません。外傷があまりにもだしぬけに起きるため、霊体が文字どおり肉体の外へ放りだされてしまうのです。自分の置かれた状況に気づかないまま何年も取り残される霊もいます。その間、霊は現世で慣れ親しんだ場所を徘徊するでしょうし、自分は夢遊病の状態にあるけれどまだちゃんと生きているのだと信じているかもしれません。この霊の現象は“迷える魂”と呼ばれ、もっと一般的な表現を使えば、いわゆる“幽霊”です。その霊が当惑し、悲嘆に暮れ、不安をかかえている場合は、ポルターガイストという現象に類別されます。幸いなことに、あちら側の世界からたくさんの霊たちがこうした迷える浮遊霊の救出に乗りだしてきます。
 厄介な霊がいる場合にはいくつか対処の方法があります。ここでぜひ忘れないでいただきたいのですが、そうした霊が持つ力やコントロールはあなたの対応によって変わります。左右するのはあなたなのです。それをつねに忘れないでください。ポルターガイストの場合、ほとんどの霊は自分の死を自覚していませんので、まずそれを念頭に置いてください。しかも、個々の霊はそれぞれに死の状況が異なります。家のなかで最も障害が起こりやすい領域に行くとよいでしょう。このエネルギーの除去にかかる時間は事例によって違ってきます。始める前に自衛のための儀式を行なったほうがよいと思います。あなたの霊的ガイドや守護天使に協力を求めましょう。直感的な作業を始める前に必ずやっておくべきです。
 最初に、特定した領域の波動を高めることによって家や部屋のなかにひとつの雰囲気を生みだします。心霊音楽や宗教曲を流してこの雰囲気をととのえましょう。「われらが父よ」や「アヴエ・マリア」、聖歌、あるいは、霊的バイブレーションが高い歌や音楽でけっこうです。次に、周囲の空気を清浄にしてその場所を清めます。部屋のなかでセージを焚くと完璧です。同じ効果のある香りとしてはほかにフランキンセンスとミルラがあります。この三種類の香気はきわめて高い周波数に感応し、邪悪なエネルギーを祓い清めてくれます。三番めに、可能なかぎりの自然光を入れましょう。ブラインドを引きあげ、カーテンを開けましょう。そして、最後に、迷った霊まで届くように瞑想をすることが大切です。その霊が見えるか、感じられるか、それは重要ではありません。すでに別の次元に移っていることを霊に知らせ、その親や祖父母の霊に頼んで次の次元まで導いてもらいなさいと告げるのです。こちら側の現世にとどまっている必要はないのだからと何度も繰り返して諭し、隷属感とは無縁の霊界へ移ったほうがはるかに幸せなのだと言い聞かせましょう。こうした呼びかけはくれぐれも愛と同情をこめて行なってください。状況の程度に応じて数日で浄化できるときもありますし、何週間もかかる場合もあります。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.91-93

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 70-g (憑依現象は普通の健康体には起こらない)

 憑依というか、別の何かが身体に入ってくるという現象は現実にあります。
 そういう現象は本当にあるんですが、普通に意識がしっかりしていると、別の存在は私たちの中には入りづらいことも事実です。ちなみにへミシンクを聞いている時に、変なものがやってくることはあります。その場合はすぐに、自分自身が光っているというイメー ジをするんです。バーッと光を出しているイメージを持つことで、そういう変なのは身体に入れなくなって出ていくケースが多いようです。そもそも普通の健康体には入れないと思います。
 こちらが精神的に悩んでいたり、何か弱っていたりすると、その際を見てフッと入られる可能性があります。私はないのですが、そういう体験をした人はいます。
 これはうちの会社のトレーナーの経験談ですが、不動産を探していた時、ある物件に行ってからすごく具合が悪くなってしまったそうです。どうも変だなと思ったら、後でわかったのは、その不動産物件というのが元病院で、そこに入った途端にすごく冷たい感じがしたそうですが、その時に何かが自分の中にスッと入ったらしいのです。
 で、これはちょっとまずいぞということで、自分のガイドに相談したところ、風呂に塩をたくさん入れて二十数日間、毎晩入りなさいと言われたそうで、それを続けていたらある晩、何かが足の先から出て行って、具合が良くなったと話していました。
 その病院にいた怨霊だか何だかはわかりませんが、変なものが入ってしまったわけです。憑依されたのでしょうね。
 普通に健康であれば、そういう存在は入れないはずですが、どうも意識面で何らかの問題を抱えていると入りやすいようです。つまり狙われるみたいです。
 向こうは見てわかるみたいです。こいつはちょっと入りやすいとかね。
 何事もポジティブに考えているとか、自分自身が光っているようなイメージを持つとか、そうすると、全然心配ないようです。(坂本政道)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.89−91)

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 70-h (普通の人間の姿をしてセミナーに参加した幽霊)

 私の会社は主に土日を中心としてヘミシンク・セミナーを開催しているのですが、数あるセミナーでも、ちょっと忘れがたい出来事があります。
 午前一〇時からスタートするセミナーだったのですが、九時半ころに「ピンポーン」とチャイムが鳴りました。うちの会社はマンションに入居しているので、総合玄関で、カメラで相手の姿を確認してドアオープンの認証をするという、よくあるシステムです。ドアを開けて中に入れたのですが、その際、事務の女性がその方の姿を確認していました。管理人さんも見ています。ところがその人はエレベーターに乗ったのです。うちはスタッフも来訪者もエレベーダーには乗りません。すぐ上の階だからです。でもその人は乗ったみたいで、おまけにいつまで経っても来ません。
 あれ、どうしたのかな、どこ行っちゃったんだろうと、みんなで探しに行きました。
 管理人も見ているし、事務担当者も姿を見ています。モニターでも確認しています。しかし結局、その人が来ることはありませんでした。
 セミナーが開催されている間、その人の自宅に電話をしても誰も出ません。午後六時に終わり、事務の女性が再度、自宅に電話したんですよ。すると奥様が出ました。こちらが理由をお話しすると、奥様いわく「え?…‥あの、うちの主人、亡くなっていますけど」。
 その人、実はセミナーの二カ月前に亡くなっていたんですね。
 亡くなっていたのだけれど、そのまま申し込みがキャンセルになっていなかったのです。
 うちで開催するワークショップは小さなマットレスをいくつも敷いて、その間をカーテンで仕切り、ヘミシンクを寝て聞く形です。興味深かったのは、後で参加者に聞いた話では、どうも部屋を真っ暗にして聞いている最中、空いているはずの場所に誰かがいるような気配がしていたらしいのです。その場所の両隣の参加者は、ゴソゴソと音がしたのを聞いています。
 カーテンで仕切られていますから見えませんが、てっきりそこに誰かいるのだろうと感じていたそうですよ。死んだ人がヘミシンクを聞きにくるというのは、私も経験がありません。もう死んでいるのに、向こうの世界を体験してどうするのかという疑問は残ります(笑)。
 幽霊という存在はスーッと現れてフッと消えますよね。しかしこの時は違います。しっかり物質化というか、言うなれば普通の人間の姿をしていたのです。複数の目撃者もいます。よほど思いが強かったのでしょう。(坂本政道)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
     (徳間書店、2012、pp.148−149)

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 70-i  (自分で憑依に気づいて浄霊する方法)

 自分で憑依に気づいて浄霊する方法があります。
 基本的には、常に高い波長で生きていることが、憑依を招かないためにもっとも大切なことなのですが、私たちはみんな未熟です。前向きにがんばれる日もあれば、ネガティブなことばかり考えて、やる気を失ってしまう日もあるでしょう。そんな日が続くと、同じようにネガティブな霊を呼び寄せてしまいます。
 そうなると、鏡を見るのがイヤになります。それがひとつのチェックポイントなのです。自分の顔がなんとなくイヤだとか、怖いと思うようになったら要注意です。周囲からも「人相が変わったみたい」と言われることもあります。
 ですから、毎日、鏡を見る習慣をつけてください。漠然と見るのではなく、今日の自分の波長はどうか、確認する意味で、しっかりと見つめてほしいのです。
 憑依している側も、鏡を見ることでハッと気づく場合があります。
 極端な憑依を受けている人を浄霊するときは、私は鏡を見せるようにしています。未浄化霊は、憑いている相手を自分だと勘違いしていますから、鏡を見せると驚くのです。
 以前、若い女性に憑いていた霊が鏡を見て、「違う。私のほうがかわいい!」と言ったので、あきれたことがありました。憑かれたほうは、踏んだり蹴ったりです。憑依されて体調は悪いし、行動はエスカレートするし、そのうえ未浄化霊に「私のほうがかわいい」とまで言われるのですから。
 ともあれ、そんなふうに鏡を見せることで、霊の側も自分が憑依しているだけ、ということに気づけるので浄化できるのです。
 憑依されると、怠惰になる、という特徴もあります。掃除をするのが億劫になったり、お風呂に入るのがイヤになったりします。ですから、憑依されないようにするためにも、毎日、清潔を心がけ、部屋をきれいにしておくことは必要なのです。
 たとえ憑依されたとしても、怖がることはありません。
 自分の思い、行動、言葉を反省すればいいのです。人を妬んだり、恨んだりしていないか。何かに執着しすぎていないか。
 そういうネガティブな心の在り方がエスカレートする前に、自分の未熱さに気づくことです。生きている側が気づけば、憑依している側も同時に気づいて浄化していきます。
 そのためにも、霊的真理を学び、理解することは大切です。それだけでも、浄化につながるのです。

  江原啓之『天国への手紙』集英社、2007、pp.224-226

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 70-j (憑依は波長の法則で起こる) 

 幽現界にいるこうした未浄化の霊が他の人の肉体に乗り移ることを「憑依」と言います。憑依をやたらと恐れる人がいますが、先にサラリーマンの霊の話を出したように、実際には憑依といっても些細な霊であることが多いのです。強烈な悪霊みたいなものが憑依することはめったにないので、安心してください。
 なぜ、憑依という現象が起きるのでしょうか。これは以前にも言いましたが、「波長の法則」です。つまり「類は友を呼ぶ」という法則で、あなたの周りには、あなたと同じ波長を持っている人が集まってくるのだと説明しました。「私の周りにはロクな人がいない」とグチっている人は、その人自身がロクでもない人だから、ということになります。霊の場合もそれと同じことが言えます。
 喫茶店で似たもの同士の主婦が集って、他の奥さんの悪口を言っていたりします。同じ波長を持っている人同士が集まっているわけで、こうした奥さん同士は互いに「憑依」していると言えるわけです。生きている人間同士でも、このような共依存関係になっている場合は、憑依と言っていいと思うのです。
 そう考えると、生きている人間か死んだ後の霊であるかの違いはあれ、憑依というのは決して特別なことではないし、恐れることもないわけです。
 ですから、憑依というと、未浄化の霊が悪意で取り憑いているかのように思われるかもしれませんが、そうではないのです。「波長の法則」で霊を引き寄せているだけ。憑く霊が悪いのではなく、憑かれる方が悪いのです。先のサラリーマンの霊で言えば、同じように悩んでいるサラリーマンにも、憑かれる理由はあるのです。
 誰でも「なぜ、あのとき、あんなことを言ってしまったんだろう」と後悔した経験があるかと思います。普段は絶対に言わないことを、もののはずみで口にしてしまった――そのような場合も、だいたいは憑依であることが多いものです。
 酒乱で暴れるようなケースも、憑依だと判断していいことがあります。お酒をある一定量を超えて飲むと、意識が薄れてきますが、あれは非常に軽いレベルのトランス状態です。そうなると、酒乱気味の人は、酒場へ来ている酒乱の霊に憑依されやすくなってしまうのです。本人に酒乱の気があるところへ、酒乱の霊からも憑依されるわけですから、二乗に酒乱になってしまう。その結果、人に暴力を奮っていたり、酷いことを言っていたりする。気がつくと、まったく覚えていなくて、迷惑をかけた人に頭を下げて回るといった人も、短い時間ですが憑依されていたと言えるのです。

  江原啓之『日本のオーラ  ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.47-49