学びの栞 (B) 


 71. 人類・歴史


 71-a (繁栄と滅亡を繰り返す人類)

 なぜ私の話が一五パーセントの人々にしか理解されないか。それには理由があるが、その前に少しふれておかなければならないことがある。
 かつて私は、次のような疑問をいだいてきた。

 @人類が地球上に誕生したのは、いまから約三〇〇万年前とされている。それから現在にいたるまで、人類の文明は三〇〇万年もかけて、原始時代の幼稚な文明から現代の華々しい科学文明へと、ほんの少しずつ進歩してきたのだろうか。
 A周知のように現在の文明は、ここわずか一〇〇年の間に異常な変貌をとげている。この物質文明は、人類にとって最初のものであろうか。
 B現在の文明がわずか一〇〇年あまりで開花したものであるならば、一〇万年もあれば、もっと発達した文明が過去にあってもよいはずではなかろうか。
 
 これらの疑問に対し、やがて生命体から明快な答えが得られるようになった。その答えとは、「実は、一〇万年以上も前に、人類は現在と同じ文明をもっていた。人類は、それまでにも何度か、発達した物質文明によって滅亡をくり返していた」というものである。
 これを裏付けるような調査結果がしだいに現れ始めた。
 いまから十数年前、京都大学と大阪大学が共同して、琵琶湖の湖底を二五〇メートルほどボーリングし、地層を調べたことがある。その結果、日本には、一一万年前、一八万年前、二五万年前、三五万年前に、それぞれ氷河期があったことが判明した。
 それに触発され、同じ頃にアメリカでも同様の発掘調査が行われた。しばらくして一一万年前の地層から、現在使われているコンピュータとほぼ同じコンピュータの一部、それに乾電池が発見されたという報告が、アメリカの学会から私のもとにもたらされた。それに伴い、コンピュータがあるくらいなら当時すでに自動車も飛行機も、原水爆もあったのではないか、という推測が芽生えてくるようになったのである。
 生命体は、はっきりとこういっている。「一〇万年以上も前の大昔も、いまと同じような物質文明が発達し、その結果、人類は滅んだ。ガソリンエンジンをつくって、石油を燃やし、空気を汚染してしまったことなどから、氷河期をまねいたのがその主な原因であった」と。事実、私の発明の多くは、その頃の人類が使っていたものの現世における再現にすぎない。
 現在の自然と文明の関係はどうであろうか。科学がそれほど発達していなかった頃は、動物が排出した炭酸ガスを植物が吸収して酸素に変え、その酸素を動物が吸うといったように、空気もきちんと循環していた。それが石油の大量消費などによって、一気に何万年分かの炭酸ガスを排出するようになり、空気がうまく循環できなくなってしまっている。それが現実の姿である。
 現代の科学技術は、単に便利でさえあれば、周囲にどういう悪影響をもたらすかということをいっさい考慮せず、環境を破壊するような道具や機械でも、委細かまわずどんどん生産し続けてきた。たとえば、なぜ初めからガソリンエンジンを使わない、空気を汚染しない車を発明しなかったのか。結局、現在の物理化学は、精神論を内に全く含んでいないからである。かつて滅んだ文朋も、まさにそうであった。
 こうして人類は、過去に四回も高度な文明を獲得し、そのつど、自ら生み出した科学によって滅んできたのである。

 政木和三『この世に不可能はない』サンマーク出版、1997、
        pp.122-125.

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 71-b (私たちの外側のパワーから真のパワーへ)

 私たちはこれまで何世紀にもわたって、個人的にも集団的にも野蛮な行為をくり返してきたが、その事実は、「パワーを外側のものだとする認識の下に横たわる恐れは、外側のパワーをいくら蓄積しようと、癒すことなど不可能である」ことの動かぬ証拠である。
 パワーを外側のものだとする認識がもたらすものは、痛み、暴力、破壊のみである。これは、テレビや新聞のニュースの助けを借りるまでもなく、私たちが個人として、またひとつの種として体験してきた数限りない苦悩をふり返るだけで、筒単に判明する真実である。
  私たちはこれまで、このようにして進化してきた。そしていま、そのような進化から離れようとしている。

 私たちのより深い理解、内なる理解は、別の種類のパワー、すなわち、この世に存在するいかなる形の生命をも愛するパワー、自分が出会ういかなる人間をも裁かないパワー、そして、どんなに小さな生命あるいは物事のなかにも意義と目的を見いだすパワーへと、私たちを導いていく。
 これが真のパワーである。このパワーを体験しているとき、私たちは自分の思考、感情、そして行動を、自分自身のいちばんハイレベルの部分と同調させている。そのとき私たちの人生は、熱意、目的、意義で満たされ、豊かであり、満ち足りている。苦い思考をまったくめぐらさず、恐れるものを何ひとつもたず、自分たちの世界と楽しく親密にかかわりつづけている。
 真のパワーは、その根っこを、私たちという存在の「いちばん深い源」のなかに置いている。真のパワーは、買うことも、相続することも、ため込むこともできない。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
    サンマーク出版、2003、pp.20-21

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 71-c (五感型人間から多感覚型人間への進化)

 私たちは五感型人間から多感覚型人間へと進化しつつある。私たちの五感は、一体となってひとつの知覚システムを形成し、物理的現実を認識するようにつくられているが、多感覚型人間の知覚は、その物理的現実の先まで広がっている。それはいうなれば、「私たちの物理的現実を一部とする、より大きな力学システム」にまで延びているのである。
 多感覚型人間は、私たちの物理的現実が進化のより大きな枠組みのなかで果たしている役割と、私たちの物理的現実を創造し保持している力学を認識し、正しく理解することができる。これを行えるのは、五感型人間には見ることのできない領域内においてである。
 私たちのもっとも根源的な価値観の源が存在するのは、この不可視の領域内である。この不可視の領域の観点から眺めると、崇高な目的のためにみずからの命を犠牲にした人たちの動機が、手に取るほどわかるようになる。たとえば、ガンジーのパワーが説明可能になり、キリストの思いやりに満ちた行動が完璧に理解できるようになる。それは、五感型人間にはとうてい行えないことである。
 過去に生きた、あるいはいまを生きている偉大な教師たちのすべてが、多感覚型人間である。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
    サンマーク出版、2003、p.22

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 71-d (私たちの種は畏敬の念を失い倣慢になってしまった)

 私たちの種は倣慢になってしまった。私たちはいま、地球を好き勝手に使うことのできる所有物であるかのように考え、その考えにしたがって行動している。地球に住むほかの生命体のニーズ、あるいは地球じたいのニーズは無視するいっぽうで、自分たちのニーズは意欲的に満たすことに努め、その過程で、地球の陸地を、海を、大気を汚染してきた。
 私たちは、「自分たちには意識があるが、宇宙にはそれがない」ものと思い込んでいる。また、「自分たちの存在は、この生涯で終わってしまう。よって、他人に対しても宇宙に対しても、自分たちは何の責任も負う必要がない」と考えている。
 畏敬の念をもつ人間にとって、自分の友人、仕事仲間、町、国家、あるいは惑星を不当に利用することなど、絶対に行えないことである。畏敬の念をもつ種にとって、身分制度、児童就労、神経ガス、あるいは核兵器などは、絶対につくり出さないものである。よって、畏敬の念をもつ人間、あるいは種にとっては、こういった行為によってつくられる類いのカルマを蓄積するということも、絶対にありえないことである。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、pp.48-49

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 71-e(人類は思想と信仰を修正していくチャンスが常に与えられている)

 一人の霊的天才がいて、彼を通じて啓示がもたらされる。彼の霊的覚醒の度合は信奉者のそれをはるかに超えている。そこで彼は同じ神の恩恵を同胞と分かち合いたいと思って布教活動を開始する。
 その啓示は霊界からもたらされていた。ということは、それ以前に計画があったということである。人類の進化を見守っている霊界の指導者が、その時代の理解力に応じたものを届ける計画を立てる。
 新しい啓示は必ず平均的理解力を一歩超えたものが与えられる。そこでその受信者としてふさわしい人物を選び、養成し、鍛えた上で、従来のものより進んだ霊的真理を送り届ける。かくして人類はいつの時代にも自分の思想・信仰を再点検して修正していくチャンスが与えられているわけである。
 モーゼ、プラトン、ゾロアスター、仏陀、孔子、ソクラテス、イエス、マホメット、こうした人物はそのチャンスの提供者だったのである。
 彼らの説いた教えは例外なく一つの源流から出たものであるから、本質的にはみな同じである。違うのは程度と表現だけである。それは民族、文明、環境の違いに由来するものであろう。いつの時代にも民族の霊的覚醒の度合と受け入れ能力が重要な決定的要素となる。言い換えれば、啓示されたものはその民族の進化の程度に応じたものだったということである。
 今私は“だった”という過去形を使用したが、“である”と言うべきだった。以上述べた過程はもう終わってしまったわけではないからである。永久に終わらないであろう。人類も進歩している。進歩するにつれて新たな指導者が出現するであろう。人類の進化に断絶はないのである。
 私は、いつかは伝統的キリスト教による束縛が解かれて、新鮮な霊的真理の風が吹き込む時代が訪れるものと期待している。真実の霊的自我に目覚めることは人間の生得の権利だからである。
 それなしに地上生活は何の意味も目的もないことになる。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 107-108