学びの栞 (B) 


 72. 能力・教育


 
72-a ( 人の能力の差はどのようにして現れるか)

 今生の能力は、すべて過去世の経験、勉強が土台になっているので、過去世において、数学なら数学をよく勉強した人は、今の世で、数学に秀で、音楽をよく学んだ者は、音楽に秀でる。天才といわれる人は、皆、過去世において、その道を極めた人で、六歳でピアノの天才、とか、八歳で、専門家はだしの画を描くなど、ということはみな過去世において、真剣に、その道を学んだ人たちなのである。
 観相家や、手相観等が、この児は、何々が適職ですよ、などというのは、人相や手相に、その児の、過去世の経験が現われているからである。私ほそれを、霊覚で、直覚的に教え指導するのである。
 今生には、過去世の経験が非常に大事であるので、今、正に死期にある人が死ぬまで、勉強や研究をしている姿は尊く、また来生のために非常に役立つものなのである。
 いかなる道の成功も、一朝一夕でできるものではなく、過去世の過去世からの、努力、研究、経験が、土台となって、ものをいうのであることを、私どもは忘れてはならぬのである。過去世を考えずに、この人間世界を見廻わした場合、これほど、不平等、不均衡、不公平な世界はないので、虚無主義者や、刹那享楽主義者や、
階級闘争主義者が出てくるのも無理はないのである。
 しかし、その人たちは、神の意志や、業の法則から見た場合、実に不幸な人びとといわなければならない。人間は一時一分一秒も、ゆるがせにせず、自己を高め深める経験、勉強をなすべきである。その他に、自己を救う道はないので、青年が、真の人間のなんたるかを識らずに、また、識ろうともせず、ただ、いたずらに、主義、主義と叫んで業因縁の渦に巻きこまれてゆくことは、実に哀れな気がするのである。
 社会、国家、人類を、真に愛し、思うならば、まず、自己を高める勉強に全身を打ちこみ、真の人間のなんたるかを、うすうすでもよいから知って、それから活動したとしても、決して遅くはない。人生は悠久なのである。

  五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
         1988 、pp.84-85

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 72-b (死の病は最優秀な生徒に最難問の宿題を与えるのと同じ)

 一九六九年のはじめ、思いがけないところから支持票が舞いこんできた。セミナーを主催して四年目に入ったその年、近くにあるシカゴ・ルーテル神学校から使者がやってきた。論争をしかけにきたのかと思った。ところがさにあらず、教授会に参加してほしいという依頼の訪問だった。当然のことながら、わたしは自分の宗教嫌いもふくめ、ありとあらゆる理由をのべたてて、その申し出が見当ちがいなものであることを相手に説得しようとした。しかし、神学校の使者はゆずらなかった。「神学を教えていただきたいとお願いしているのではありません」その人はいった。「神学ならわたしたちの得意とするところです。でも、あなたなら、宗教用語を使わずに、真の聖職者とはなにかについて教えていただけると確信しています」
 異論を唱えるのはむずかしかった。というのも、瀕死の患者にとって聖職者の役割とはなにかを、神学の専門用語を使わずに語る教師がいるとすれば、それはわたしにとっても望ましいことだと思ったからだった。ゲインズ牧師と神学生たちを除けば、聖職者とつきあった経験はほとんどなかった。病院づきの牧師と話したいと申しでた患者のほとんどが失望に終わっていることは、むかしからよく知っていた。「あの人たちはただ聖書のことばを棒読みしてるだけよ」そんな評価をくり返し聞かされていた。ようするに、対処の方法を知らない牧師たちは真の疑問をたくみに回避して、聖書のなかの都合のいい部分の引用でその場をしのぎ、そそくさと逃げだしていたのである。
 それは事態を悪化させることにしか役立っていなかった。リズという一二歳の少女のケースがその典型だった。わたしがリズに会ったのは、ルーテル神学校で教えたあと何年もたったころだったが、その時点でもまだ典型といってもいいほど、事態は変わっていなかった。がんの末期にあったリズは自宅にもどり、家族に看とられることになった。わたしは自宅を訪問して、ゆっくりと衰弱していくリズの看病に疲れていた母親、父親、三人の弟妹の手助けをしていた。骸骨のようにやせ細り、腫瘍でおなかだけが異様にふくらんでいたリズは、自分の容体を知っていたにもかかわらず、最後まで死ぬことを拒絶していた。「どうして死ねないの?」わたしはたずねた。「だって、天国にいけないんですもの」。リズの目に涙があふれた。「司祭さまもシスターたちも、世界中のだれよりも神さまを愛していない人は天国にいけないっていったわ」。リズは泣きじゃくりながらわたしの耳もとに口を近づけて、こうささやいた。「ロス先生。わたしはママとパパを世界中のだれよりも愛しているの」
 涙をこらえながら、わたしは神がなぜこの過酷な課題をリズにあたえたのかについて、寓意的な説明を試みた。それは学校の先生がいちばん優秀な生徒にいちばんむずかしい宿題をあたえることと同じだといった。リズは理解し、こういった。「神さまがほかの子どもにこれ以上むずかしい宿題をだすなんて、考えられないわ」
 その対話は功を奏し、リズは数日後、ようやく死を受容することができた。しかし、宗教にたいする信頼を失わせるような、そうしたケースはあとをたたなかった。
 ルーテル神学校の使者がきたときの時点に話をもどそう。初回の講義は、使者がきてからわずか二週間後におこなわれた。講堂は満員だった。講義をはじめる前にわたしの宗教観にかんする質問がでることを予期したが、だれからも質問はなかった。講義がはじまってからは、その質問がでる心配はまったくなくなった。というのも、わたしは学生たちに、かれらの罪の概念について質問することからはじめたからだ。「罪悪感と恐怖感を助長する以外に、なにかいいことがあるのかしら?」
 「せいぜい精神科医を儲けさせることぐらいでしょ!」笑わせることで、わたしは自分もまた悪魔の使いを任じている者であることを学生たちに知らせた。
 何回目かの講義では、聖職者としての人生にたいする自己の責任について検討するようにと、学生たちを挑発してみた。すべての宗教が基本的には同じ知恵を伝えようとしているにもかかわらず世界がかくも異なった、ときにはたがいに対立する宗教教団や教派を必要としてきたことの理由について論じるのがむずかしいと感じる人は、将来、かなり苦労することになると思ったからだった。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.187-189

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 72-c (真のパワーで満ちた人間は謙虚さを備えている)

 真のパワーで満ちた人間は、謙虚さを備えている。しかしそれは偽の謙虚さ、つまり、他人にへつらうことで自分を卑下することではない。それは、すべてのパーソナリティーと彼らの行動のなかに具象化した魂を見、その美しさに敬意をあらわしている人間のもつ、威厳に満ちた謙虚さである。
 それはまた、あらゆる形態の生命に対する畏敬の念を抱いている人間がしめす、無害性でもある。あなたは地球を気づかっているだろうか? 地球に害を与えたことのない人間は、まさしく謙虚な人間である。
 無害性とはどういうものなのだろうか?
 それは、いかなる生き物にも害を与える必要のないほどに、強いことである。そうなのだ。もしあなたがほんとうに謙虚な人間であるならば、有能で、パワーに満ちており、危害を加えることを通じてパワーをしめそうなどというアイデアは、あなたの意識のなかに入り込むことさえない。真の謙虚さなくして、あなたがこの種のパワーをもつことはできない。なぜならば、それは、周囲の状況や人々に敬意をあらわさないと感じると、あなたから離れてしまうからである。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、pp.247-248

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 72-d (いただいた才能は誇らずに感謝すべきである)

 人間が誇りにするものは、そのほとんどが頂戴したものである。見事な絵を描く才能、すばらしい詩を作る才能、名曲を作る才能はみな授かりものである。
 もっと俗っぽいものになると、商売人は蓄積した財産を、女性は料理の腕を、ファッションモデルはすらりとした容姿を、スポーツマンは健康な体格を誇りに思う。あなたは何を誇りに思っておられるであろうか。
 いただいたものは誇らずに感謝すべきである。与えることをせずに、ただ貰ったものだからである。それに、われわれが自慢するものはすべて、この短い地上生活での人生にしか関係のないものばかりである。
 自分が手にした好運、富、知能、想像力、教育と同じものをもっともっと立派な目的に使用する人がいるかもしれないことを考えてみる必要があろう。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、p. 112

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 72-e (子供によい影響を及ぼす最も強力な手段は模範を示すこと)

 子供によい影響を及ぼす最も強力な手段は、模範を示すことである。いかに生きるべきか、問題をいかに処理するか、喜びや苦しみをどのようにすれば分かち合えるか、等々を親自らが範を垂れる場が家庭であり、そこに愛という崇高なる力が働いていることを見届けることができる。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、p. 145

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 72-f (賢明な人間は失敗から学ぶ)

 成功から学ぶのなら誰にでもできる。賢明な人間は失敗から学ぶのである。人間は誰しも失敗を犯す。それから学ぶのである。その中に教訓を見つけようとする心掛けが大切である。まずいことになったら、その中から良いものを見つけ出すのである。それが教えている教訓を探し出すのである。それも、われわれが人生と呼んでいる進化のための大学″の一課程なのである。
 所詮、人生は教育なのである。それがいつから始まるかは分かっている。いつ終わるかも分かっている。途中の過程もおおよそ分かっている。学校と同じである。その間で何をし、何を学び、どう振舞うか、またどれだけのものを身につけるかは、あなた次第である。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、p. 151