学びの栞 (B) 


 75. 物質・物質世界・唯物主義


 75-a [51-j] (光の周波数を下げる、或いは減速すると固体物質になる)

 皆のまわりにあるものはすべて物質と呼ばれている。物質とは、父なるもののことだ。あらゆるものは神だからである。しかし、物質を創造した者、その姿を定めた者とは、最高の技能を持った職人であり、神々であるあなたたちなのだ。なぜなら、存在の始まりのときから、思考を通して思い描くことができた観念をすべて物質に創造していくという、明確な目的をもった知性があなたにはあったからだ。
 さて、すべての物質は光によって囲まれている。皆の世界にいる科学者たちも、光の周波数を下げる、あるいは減速してやると、どうも固体物質になるらしいとの感触を持ち始めている(そしてこの感触は正しい)。では、この光はいったいどこからやってきたのか? 思考である。つまり神だ。ある想念を持ち、感情の中にこれを抱くとき、その想念は光の波長を持つ波動へと拡大していく。
 光の分子の動きを遅くして、それを凝縮すると、プラスとマイナスの極がある電磁場、つまり皆が電気と呼んでいるものになる。想念を電磁場よりもさらに減速、凝縮させると物質になる。そして物質は、形体と呼ばれる分子・細胞構造体となる。そしてこの形体は、創造に必要な観念として魂が思い描いていた想念によって、ひとつの形に保たれているのである。
 すべてのものの創造過程は、まず速度がまったくないもの、つまり思考をもとに、それを速度のあるもの、つまり光へと拡大し、その光を減速して、これやあれや皆のまわりにあるものすべてを創造する、という形をとる。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 127-128

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 75-b[2-n](生命は終わることのない周期であり死という現実はない)

 これからやってくる新しい人間は、自分の呼吸一息一息が、心に抱く思いの一つ一つが、世界全体に影響を及ぼすことを知るでしょう。神の宇宙にあっては、究極的には死はけっして君臨することなく、人間がひとたび本来の自分を理解し、神を理解するならば、天においても地上においても、死という現実はありえないと理解するでしょう。
 新しき人間にとって、初めも終りも存在しないのです。なんとなれば、新しき人間は、生命は終わることのない“周期”であり、この周期は常に進化し、常に回転し、すべての人間の魂を周期の腕の中に永遠に抱擁してくれている、と理解するからです。もしひとりの人が一つの法則を破るならば、神の定めた一つの真実を犯すならば、すべての人間の幸福を脅かすことになるのです。
 世界がこのような救済を体験する前に、艱難辛苦を通して同胞との魂の絆の結合をはからなければなりません。現在あなた方の地球には、物質主義によってもたらされた大きな破壊が進行しているのが見えます。これは死にほかなりません。物質主義による死にほかなりません。そして、ついでにいえば、物質主義そのものの死の始まりでもあります。
 物質主義はそう簡単には死にません。かくて苦しみが訪れることになります。人間が物質の富の神をかくも長くかつ絶えず崇拝してきたのですから、これはしかたのないことです。人類が非常な苦痛を体験した後に訪れる新たなる始まり、霊的な悟りと理解が達成された、光に満ちた新しい時代の到来が、私たちには見えます。やがて人間の共同体における生活の霊的な基盤が確立されるでしょう。すべての芸術、文化、科学、国政、宗教の活動において、人間は天界の叡智によってインスピレーションを与えられ、導きを与えられることでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.281-282

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 75-c[65-m] (この世では私達は物からではなく人間関係から学ぶ)

 物に執着しないようになりなさい。三次元の世界では、私達は物を通してではなく、人との関係を通して学びます。この世を離れる時、物を一緒に持って行けないことは、誰でも知っています。
 私達が死に、魂が高い次元へ行く時、私達は自分の行ない、業績、思考、知識などを一緒に持って行きます。他の人とどのように交流したかは、私達が物質的に蓄積したものよりも、此べものにならないほど重要です。また、私達は生きている間に、物を得たり、失ったりします。死後の世界では愛する人々には会いますが、自分の所有物とは会いません。こうした考え方は、必要であればあなたの価値観を考え直す時の役に立つでしょう。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.97-98

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 75-d[9-zzc] (思考は純粋なエネルギーで創造につながっていく)

 感情にはものごとを引き寄せる力がある。あなたがたは、自分が最も不安に思うことを体験することになる。動物―あなたがたが劣った生命体だと考えている動物(動物の行動のほうが人間よりも正直で一貫性があるのだが)―は、あなたがたが怖がっていると、すぐに感づく。あなたがたがさらに劣った生命体だと考えている植物は、どうでもいいと思っている人間よりも、かわいがってくれる人間にずっとよく応える。
 これは、決して偶然ではない。前にも言ったとおり宇宙には偶然というものはない。壮大なデザインがあるだけ、信じられないような「雪の結晶」があるだけだ。
 感情は動いているエネルギーである。エネルギーが動くと、効果が表れる。大量のエネルギーが動けば、物質が創り出される。物質は凝集したエネルギーだ。動きまわり、押しあうエネルギーだ。長いあいだ、一定の方法でエネルギーを操作すれば、物質が得られる。(マスター)はすべて、この法則を知っていた。これは宇宙の錬金術だ。すべての生命の秘密だ。
 思考は純粋なエネルギーである。あなたがたが考えること、考えたこと、これから考えることはすべて創造につながる。思考のエネルギーは、決して死に絶えない。あなたがたの存在を離れて宇宙へと向かい、永遠に広がっていく。思考は永遠だ。
 すべての思考は、凝結する。すべての思考はほかの思考と出会い、信じがたいエネルギーの迷路で行き違い、言葉につくせないほど美しく、信じがたいほど複雑な、つねに変容しつづけるパターンを生む。
 エネルギーは似たものどうしが引きつけあう。そして(単純な言葉を使えば)似たエネルギーの「かたまり」をつくる。似たような「かたまり」がたくさん出会い、ぶつかりあうと、お互いに(これも単純な言葉を使えば)「くっつきあう」。こうして、考えられないほど彪大なエネルギーが「くっつきあう」と、物質ができる。
 こんなふうに、物質は純粋なエネルギーから創られる。それどころか、物質ができるにはそれしか方法がない。エネルギーがいったん物質になれば、反対の、あるいは似ていないかたちのエネルギーに破壊されないかぎり、物質としてとどまる。この似ていないエネルギーは物質に働きかけて、それを解体し、その物質を創りあげていたエネルギーを放出する。
 これが、あなたがたの原爆のもとになる理論の初歩的な説明だ。アインシュタインは、宇宙の創造の秘密を発見し、説明し、利用するのに、誰よりも(彼以前の時代も以後の時代も含め)近いところにいた。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.78-79

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 75-e (唯物主義という教義は人間を不幸にする)

 「死んだらすべてが消滅し、完全な虚無が待っているのみ」という考え以上に恐ろしい考えがあるだろうか? 健やかな愛も、知性も、向上も、苦労して身につけた知識も、すべてが打ち砕かれ、すべてが消滅する(!)というのであるから。
 もしそうなら、どうして、よりよい人間になるために努力をし、苦労して欲望を統御し、一生懸命、精神を豊かにする必要があるだろうか? 何の果実も得られないのだとしたら、どうして果樹を植えるのだろうか? 何を得たところで、明日には、それがまったく役に立たなくなるとしたら、あえて、それを得ようとするだろうか?
 もし本当にそうなのだとしたら、人間の運命は、動物のそれよりも、はるかに哀れむべきものとなってしまう。なぜなら、少なくとも、動物は、未来への恐れなど持たずに、いまを十全に生き、物質的欲望を満たして完全に満足しているからである。
 だが、われわれの心のどこかで、「そんなはずはない」とささやく声がする。
 死後が虚無であるならば、結局は、「いまさえよければいい」ということになる。論理的に考えても、待っているはずのない未来にかかずらうことはできないからである。
 「いまさえよければいい」と考えはじめると、当然、その次は、「自分さえよければいい」と考えることになる。まさしくエゴイズムの極致である。そして、そうなったときには、これも当然のことながら、自己信頼は失われる。
 そして、「生きているあいだだけが華だもの、やりたい放題をやって楽しまなければ損」ということになる。しかも、いつまで生きていられるかも分からないので、とにかく手っ取り早く楽しまなければならない。「とにかく楽しまなくちゃ。自分さえよければいいんだ」ということで、この世での幸福だけしか考えなくなる。
 世間体を気にすることは、多少はあるだろうが、それ以外に、こういう人々を思いとどまらせる要素はあるだろうか?
 法律は?
 だが、「法律に引っかかるのは、間抜けな人間だけ」と彼らは考えるだろう。そうして、法の網をくぐり抜ける算段をするに違いない。
 もし、反社会的な、極めて不健全な教義があるとすれば、それこそ、まさしく死後の虚無を中心にすえた「唯物主義」という教義だろう。なぜなら、そうした教義は、社会の基盤をなす連帯と友愛の絆を完全に断ち切ってしまうからである。

    アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
       幸福の科学出版、2006、pp.292-294

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 75-f(無神論者は神の存在を確信することができないだけである)

 さて、いま、何らかの緊急事態が起こり、一週間後に地球上のすべての人間が死に絶えることになったとしよう。しかも、「死んだら最後、いっさいが消えてしまう」ということになったとしよう。
 そうすると、この一週間のあいだに人間は何をするだろうか?
 みずからの向上のために、腰をすえて、じっくり勉強するだろうか? つらい思いを我慢して、正しい努力を続けるだろうか? 法律を遵守し、善を目指し、隣人を愛するだろうか? 権威の言うことに耳を傾けるだろうか? 何らかの義務を果たそうとするだろうか? 答えは、間違いなく「否」であろう。
 だが、そうしたことが全体のレヴエルで起こらなくても、日々、虚無主義の教義は、同じように、一人ひとりを侵しているのである。
 とはいっても、事態がそれほどひどくならないのは、「神を信じていない」と言う人々のほとんどが、心の底からそう思っているわけではないからである。神の不在を確信しているのではなく、神の存在を確信することができないだけなのである。虚無を恐れてはいるが、それが本当にあってほしいと願っているわけではないのだ。

   アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
     幸福の科学出版、2006、pp.294-295

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 75-g(無神論が社会全体を覆ったとしたら社会は確実に崩壊する)

 絶対的な無神論者は、ほんの一握りにすぎず、無神論は、唯物主義から力を得ているとはいえ、常に反対意見にさらされている。
 しかしながら、絶対的な無神論が社会全体を覆ったとしたら、社会は確実に崩壊するであろう。そして、それこそが、虚無主義が狙うところであるのだ。
 もし虚無主義が真理であるならば、それがどのような結果を招くとしても、信じざるを得ないだろう。それが真理である以上、それに反する、どのような考え方も、それが惹起するであろうどのような悪しき思想も、それを消滅させることはできないからである。
 ところで、懐疑主義、猜疑心、無関心が、宗教の努力があるにもかかわらず、日々、地歩を固めていることは、無視するわけにはいかない。もし宗教が無神論に対して無力であるとすれば、それは、今日の宗教に何かが欠けているからであろう。そして、このままでいけば、宗教は、そのうち完全に無力になるに違いない。
 信じる前に、まず理解することを人々が望む、この十九世紀にあっては、宗教の教義が、明白な事実に基づいて説明される必要があるだろう。また、実証科学の知見と教義の内容が一致する必要もあるだろう。もし、宗教が「白」と言い、事実が「黒」と言うならば、盲信よりも事実を取るのが当然なのである。

   アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
     幸福の科学出版、2006、pp.294-295

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 75-h (様々な子どもの問題の根底にある物質主義的価値観)

 今の子どもたちは物質主義的価値観に取り囲まれています。それこそが様々な子どもの問題の根底にあるというのが私の考えです。物質主義的価値観とは、客観的にわかる「物質」−例えば、お金、地位、名誉、学歴など物質的な豊かさをもたらすもの――に至上の価値を置くことです。この対極にあるのが、人間の本質はたましいであるとする「霊的価値観」あるいは「精神的価値観」です。
 この世は物質界ですから、一〇〇パーセント霊的価値観になってしまったら、肉体を維持することもできなくなってしまいますし、生きていられません。物質主義的価値観を持つからこそ、人はたくさんの「経験」と「感動」をして成長しているのだと思います。問題はその物質主義的価値観に比重を置きすぎてしまうことです。今の日本は、まさにそのような状態になっています。
 もっとも、これは今に始まったことではありません。太平洋戦争後、日本は豊かさを求めて、目に見える物質的に価値のあるものを追い求めるようになりました。見渡す限り焼け野原で物質が乏しい時代でしたから、このことは仕方がなかったにしても、以降、物質主義が日本の社会に浸透していきます。戦前の日本人は目に見えないものを信じる感性、人智を超えた力を敬う感性がありましたが、そうしたものも失われていったのです。
 物質主義的価値観を軸に、戦後の世代を分析すると以下のように説明ができると思います。
 「幸せ」を物質的豊かさにあるとした戦後の時代に働き盛りだった人たちは「物質信仰世代」と呼べるでしょう。中心となるのは昭和一桁から昭和十年代生まれです。
 その後に来るのが「団塊の世代」。高度経済成長時代に新入社員として入社し、バブルの時期には中堅社員として活躍。地位、名誉、お金こそ生きがいとしてきた人も少なくありません。「物質信仰世代」の最後に当たる人たちで、日本の物質経済を支えてきました。
 次が「物質信仰世代」の子どもたちで、中心となるのは昭和三十年代生まれ。物質を与えることこそ、子どものためだと思っている親たちに彼らは育てられました。偏差値を基準にしたり、マニュアルで行動したりする世代の始まりでもあります。物質欲は持っていても、自分なりの価値観や判断力、主体性が育つ機会がありませんでした。彼らは「主体性欠如世代」と言うことができると思います。
 そして、主体性欠如世代の子どもたちの世代を「無垢世代」と呼ぶことができます。物質が溢れるようになった昭和五十年代以降の子どもたちのことを指します。特に「主体性欠如世代」の親は未熟なままなので、子どもたちの「どうして」という問いに、「テレビで言っているから」「みんなが言っているから」という答えしか出せません。回りの大人たちが確固たる指導ができないでいるので、ある意味で、彼らには枠にはまらない伸び伸びとしたところがあるのが、「無垢世代」と呼ぶ所以です。

  江原啓之『日本のオーラ ―天国からの視点―』新潮社、2007、pp.17-19

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 75-i (物質信仰の世の中に起こるいじめの問題)

 いじめにしても同じことです。物質信仰の世の中になると、体力、知力、経済力、組織力といった物質的な「力」が基準になります。「力」の信仰を持った子どもたちは、力がない者には価値を置きません。体力のない者を平気でいじめるようになります。また、たとえ知力が少々あろうとも異端と見なされれば、グループでたった一人がいじめられます。この場合、数が「力」となるのです。
 「たましいは永遠である」ことは書きましたが、人がなぜこの世に生まれてくるかと言えば、たましいを向上させるためなのです。たましいを育むために、必要なのは「愛」や「真善美」という価値観です。こうした価値観よりも「力」に至上価値が置かれるようになってしまっています。
 そのいい例が、やはり先に触れた堀江貴文氏でしょう。氏は「人の心はお金で買えるのです。女はお金についてきます」と言っています。これはまさに物質主義的価値観を象徴した言葉であり、そこには「愛」も「真善美」も感じられません。堀江氏の言動に見られるのは、お金を稼ぐ話、何かを買った話、何かを食べた話といったものばかりで、無機質で物質的です。ライブドア問題は、稼ぐためには何をしてもいいという堀江氏の物質主義的価値観が生んだと言えます。
 「愛」や「真善美」よりも「力」に価値を置いた社会は、子どもたちを残虐化させるばかりではなく、子どもたち自身の命も危険にさらすことになります。

  江原啓之『日本のオーラ ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.20-21

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 75-j (物質主義に溺れてはならない金銭問題)

 お金というのは、細菌に似ています。私たち人間はある程度の細菌を体内に持っていないと生きていけません。しかし、細菌は必要だけれども、増えすぎてしまえばかえって身体に問題が生じることもあります。細菌はほどほどに必要なのです。お金もそれと同じで、それがないと生きていけないけれど、必要以上に持つと身を滅ぼすことになりかねません。
 どれだけ細菌を持っていることが適当であるかは人によって違います。お金もどれだけ必要なのかは、その人のカルマ、何を学ぶべきかによっても違います。
 つまり、稼いでいる収入の額や、所有している財産の額は問題ではないのです。重要なのは、お金のために、自分のたましいを売っていないかどうか。分かりやすく言えば、自分さえ儲ければいいという物質主義的価値観に溺れているか、それとも社会還元をきちんと考えているかがポイントでしょう。要するに、物質主義的価値観から生まれる思いである「小我」と、より大きな「無償の愛」から生じる「大我」のバランスが取れているかどうかということになります。
 何も社会貢献や慈善事業とまでいかなくても、ちょっとしたことで人のためにお金を使うことは、スピリチュアル的には「カルマ落とし」にもなるのです。言い換えれば、「細菌落とし」。細菌が多くなりすぎると、病気になってしまうから、細菌を落とすわけです。
 国の税金も、ある意味では、国家が「カルマ落とし」を肩代わりしてくれていると言えるかもしれません。税金の使い道に異論がある方もいるかもしれないけれど、それでも社会福祉など有効に使われている部分は否定できないでしょう。

  江原啓之『日本のオーラ  ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.75-76