学びの栞 (B) 


 75. 物質・物質世界・唯物主義


 75-a [51-j] (光の周波数を下げる、或いは減速すると固体物質になる)

 皆のまわりにあるものはすべて物質と呼ばれている。物質とは、父なるもののことだ。あらゆるものは神だからである。しかし、物質を創造した者、その姿を定めた者とは、最高の技能を持った職人であり、神々であるあなたたちなのだ。なぜなら、存在の始まりのときから、思考を通して思い描くことができた観念をすべて物質に創造していくという、明確な目的をもった知性があなたにはあったからだ。
 さて、すべての物質は光によって囲まれている。皆の世界にいる科学者たちも、光の周波数を下げる、あるいは減速してやると、どうも固体物質になるらしいとの感触を持ち始めている(そしてこの感触は正しい)。では、この光はいったいどこからやってきたのか? 思考である。つまり神だ。ある想念を持ち、感情の中にこれを抱くとき、その想念は光の波長を持つ波動へと拡大していく。
 光の分子の動きを遅くして、それを凝縮すると、プラスとマイナスの極がある電磁場、つまり皆が電気と呼んでいるものになる。想念を電磁場よりもさらに減速、凝縮させると物質になる。そして物質は、形体と呼ばれる分子・細胞構造体となる。そしてこの形体は、創造に必要な観念として魂が思い描いていた想念によって、ひとつの形に保たれているのである。
 すべてのものの創造過程は、まず速度がまったくないもの、つまり思考をもとに、それを速度のあるもの、つまり光へと拡大し、その光を減速して、これやあれや皆のまわりにあるものすべてを創造する、という形をとる。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 127-128

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 75-b[2-n](生命は終わることのない周期であり死という現実はない)

 これからやってくる新しい人間は、自分の呼吸一息一息が、心に抱く思いの一つ一つが、世界全体に影響を及ぼすことを知るでしょう。神の宇宙にあっては、究極的には死はけっして君臨することなく、人間がひとたび本来の自分を理解し、神を理解するならば、天においても地上においても、死という現実はありえないと理解するでしょう。
 新しき人間にとって、初めも終りも存在しないのです。なんとなれば、新しき人間は、生命は終わることのない“周期”であり、この周期は常に進化し、常に回転し、すべての人間の魂を周期の腕の中に永遠に抱擁してくれている、と理解するからです。もしひとりの人が一つの法則を破るならば、神の定めた一つの真実を犯すならば、すべての人間の幸福を脅かすことになるのです。
 世界がこのような救済を体験する前に、艱難辛苦を通して同胞との魂の絆の結合をはからなければなりません。現在あなた方の地球には、物質主義によってもたらされた大きな破壊が進行しているのが見えます。これは死にほかなりません。物質主義による死にほかなりません。そして、ついでにいえば、物質主義そのものの死の始まりでもあります。
 物質主義はそう簡単には死にません。かくて苦しみが訪れることになります。人間が物質の富の神をかくも長くかつ絶えず崇拝してきたのですから、これはしかたのないことです。人類が非常な苦痛を体験した後に訪れる新たなる始まり、霊的な悟りと理解が達成された、光に満ちた新しい時代の到来が、私たちには見えます。やがて人間の共同体における生活の霊的な基盤が確立されるでしょう。すべての芸術、文化、科学、国政、宗教の活動において、人間は天界の叡智によってインスピレーションを与えられ、導きを与えられることでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.281-282

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 75-c[65-m] (この世では私達は物からではなく人間関係から学ぶ)

 物に執着しないようになりなさい。三次元の世界では、私達は物を通してではなく、人との関係を通して学びます。この世を離れる時、物を一緒に持って行けないことは、誰でも知っています。
 私達が死に、魂が高い次元へ行く時、私達は自分の行ない、業績、思考、知識などを一緒に持って行きます。他の人とどのように交流したかは、私達が物質的に蓄積したものよりも、此べものにならないほど重要です。また、私達は生きている間に、物を得たり、失ったりします。死後の世界では愛する人々には会いますが、自分の所有物とは会いません。こうした考え方は、必要であればあなたの価値観を考え直す時の役に立つでしょう。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.97-98

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 75-d[9-zzc] (思考は純粋なエネルギーで創造につながっていく)

 感情にはものごとを引き寄せる力がある。あなたがたは、自分が最も不安に思うことを体験することになる。動物―あなたがたが劣った生命体だと考えている動物(動物の行動のほうが人間よりも正直で一貫性があるのだが)―は、あなたがたが怖がっていると、すぐに感づく。あなたがたがさらに劣った生命体だと考えている植物は、どうでもいいと思っている人間よりも、かわいがってくれる人間にずっとよく応える。
 これは、決して偶然ではない。前にも言ったとおり宇宙には偶然というものはない。壮大なデザインがあるだけ、信じられないような「雪の結晶」があるだけだ。
 感情は動いているエネルギーである。エネルギーが動くと、効果が表れる。大量のエネルギーが動けば、物質が創り出される。物質は凝集したエネルギーだ。動きまわり、押しあうエネルギーだ。長いあいだ、一定の方法でエネルギーを操作すれば、物質が得られる。(マスター)はすべて、この法則を知っていた。これは宇宙の錬金術だ。すべての生命の秘密だ。
 思考は純粋なエネルギーである。あなたがたが考えること、考えたこと、これから考えることはすべて創造につながる。思考のエネルギーは、決して死に絶えない。あなたがたの存在を離れて宇宙へと向かい、永遠に広がっていく。思考は永遠だ。
 すべての思考は、凝結する。すべての思考はほかの思考と出会い、信じがたいエネルギーの迷路で行き違い、言葉につくせないほど美しく、信じがたいほど複雑な、つねに変容しつづけるパターンを生む。
 エネルギーは似たものどうしが引きつけあう。そして(単純な言葉を使えば)似たエネルギーの「かたまり」をつくる。似たような「かたまり」がたくさん出会い、ぶつかりあうと、お互いに(これも単純な言葉を使えば)「くっつきあう」。こうして、考えられないほど彪大なエネルギーが「くっつきあう」と、物質ができる。
 こんなふうに、物質は純粋なエネルギーから創られる。それどころか、物質ができるにはそれしか方法がない。エネルギーがいったん物質になれば、反対の、あるいは似ていないかたちのエネルギーに破壊されないかぎり、物質としてとどまる。この似ていないエネルギーは物質に働きかけて、それを解体し、その物質を創りあげていたエネルギーを放出する。
 これが、あなたがたの原爆のもとになる理論の初歩的な説明だ。アインシュタインは、宇宙の創造の秘密を発見し、説明し、利用するのに、誰よりも(彼以前の時代も以後の時代も含め)近いところにいた。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.78-79

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 75-e (唯物主義という教義は人間を不幸にする)

 「死んだらすべてが消滅し、完全な虚無が待っているのみ」という考え以上に恐ろしい考えがあるだろうか? 健やかな愛も、知性も、向上も、苦労して身につけた知識も、すべてが打ち砕かれ、すべてが消滅する(!)というのであるから。
 もしそうなら、どうして、よりよい人間になるために努力をし、苦労して欲望を統御し、一生懸命、精神を豊かにする必要があるだろうか? 何の果実も得られないのだとしたら、どうして果樹を植えるのだろうか? 何を得たところで、明日には、それがまったく役に立たなくなるとしたら、あえて、それを得ようとするだろうか?
 もし本当にそうなのだとしたら、人間の運命は、動物のそれよりも、はるかに哀れむべきものとなってしまう。なぜなら、少なくとも、動物は、未来への恐れなど持たずに、いまを十全に生き、物質的欲望を満たして完全に満足しているからである。
 だが、われわれの心のどこかで、「そんなはずはない」とささやく声がする。
 死後が虚無であるならば、結局は、「いまさえよければいい」ということになる。論理的に考えても、待っているはずのない未来にかかずらうことはできないからである。
 「いまさえよければいい」と考えはじめると、当然、その次は、「自分さえよければいい」と考えることになる。まさしくエゴイズムの極致である。そして、そうなったときには、これも当然のことながら、自己信頼は失われる。
 そして、「生きているあいだだけが華だもの、やりたい放題をやって楽しまなければ損」ということになる。しかも、いつまで生きていられるかも分からないので、とにかく手っ取り早く楽しまなければならない。「とにかく楽しまなくちゃ。自分さえよければいいんだ」ということで、この世での幸福だけしか考えなくなる。
 世間体を気にすることは、多少はあるだろうが、それ以外に、こういう人々を思いとどまらせる要素はあるだろうか?
 法律は?
 だが、「法律に引っかかるのは、間抜けな人間だけ」と彼らは考えるだろう。そうして、法の網をくぐり抜ける算段をするに違いない。
 もし、反社会的な、極めて不健全な教義があるとすれば、それこそ、まさしく死後の虚無を中心にすえた「唯物主義」という教義だろう。なぜなら、そうした教義は、社会の基盤をなす連帯と友愛の絆を完全に断ち切ってしまうからである。

    アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
       幸福の科学出版、2006、pp.292-294

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 75-f(無神論者は神の存在を確信することができないだけである)

 さて、いま、何らかの緊急事態が起こり、一週間後に地球上のすべての人間が死に絶えることになったとしよう。しかも、「死んだら最後、いっさいが消えてしまう」ということになったとしよう。
 そうすると、この一週間のあいだに人間は何をするだろうか?
 みずからの向上のために、腰をすえて、じっくり勉強するだろうか? つらい思いを我慢して、正しい努力を続けるだろうか? 法律を遵守し、善を目指し、隣人を愛するだろうか? 権威の言うことに耳を傾けるだろうか? 何らかの義務を果たそうとするだろうか? 答えは、間違いなく「否」であろう。
 だが、そうしたことが全体のレヴエルで起こらなくても、日々、虚無主義の教義は、同じように、一人ひとりを侵しているのである。
 とはいっても、事態がそれほどひどくならないのは、「神を信じていない」と言う人々のほとんどが、心の底からそう思っているわけではないからである。神の不在を確信しているのではなく、神の存在を確信することができないだけなのである。虚無を恐れてはいるが、それが本当にあってほしいと願っているわけではないのだ。

   アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
     幸福の科学出版、2006、pp.294-295

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 75-g(無神論が社会全体を覆ったとしたら社会は確実に崩壊する)

 絶対的な無神論者は、ほんの一握りにすぎず、無神論は、唯物主義から力を得ているとはいえ、常に反対意見にさらされている。
 しかしながら、絶対的な無神論が社会全体を覆ったとしたら、社会は確実に崩壊するであろう。そして、それこそが、虚無主義が狙うところであるのだ。
 もし虚無主義が真理であるならば、それがどのような結果を招くとしても、信じざるを得ないだろう。それが真理である以上、それに反する、どのような考え方も、それが惹起するであろうどのような悪しき思想も、それを消滅させることはできないからである。
 ところで、懐疑主義、猜疑心、無関心が、宗教の努力があるにもかかわらず、日々、地歩を固めていることは、無視するわけにはいかない。もし宗教が無神論に対して無力であるとすれば、それは、今日の宗教に何かが欠けているからであろう。そして、このままでいけば、宗教は、そのうち完全に無力になるに違いない。
 信じる前に、まず理解することを人々が望む、この十九世紀にあっては、宗教の教義が、明白な事実に基づいて説明される必要があるだろう。また、実証科学の知見と教義の内容が一致する必要もあるだろう。もし、宗教が「白」と言い、事実が「黒」と言うならば、盲信よりも事実を取るのが当然なのである。

   アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
     幸福の科学出版、2006、pp.294-295

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 75-h (様々な子どもの問題の根底にある物質主義的価値観)

 今の子どもたちは物質主義的価値観に取り囲まれています。それこそが様々な子どもの問題の根底にあるというのが私の考えです。物質主義的価値観とは、客観的にわかる「物質」−例えば、お金、地位、名誉、学歴など物質的な豊かさをもたらすもの――に至上の価値を置くことです。この対極にあるのが、人間の本質はたましいであるとする「霊的価値観」あるいは「精神的価値観」です。
 この世は物質界ですから、一〇〇パーセント霊的価値観になってしまったら、肉体を維持することもできなくなってしまいますし、生きていられません。物質主義的価値観を持つからこそ、人はたくさんの「経験」と「感動」をして成長しているのだと思います。問題はその物質主義的価値観に比重を置きすぎてしまうことです。今の日本は、まさにそのような状態になっています。
 もっとも、これは今に始まったことではありません。太平洋戦争後、日本は豊かさを求めて、目に見える物質的に価値のあるものを追い求めるようになりました。見渡す限り焼け野原で物質が乏しい時代でしたから、このことは仕方がなかったにしても、以降、物質主義が日本の社会に浸透していきます。戦前の日本人は目に見えないものを信じる感性、人智を超えた力を敬う感性がありましたが、そうしたものも失われていったのです。
 物質主義的価値観を軸に、戦後の世代を分析すると以下のように説明ができると思います。
 「幸せ」を物質的豊かさにあるとした戦後の時代に働き盛りだった人たちは「物質信仰世代」と呼べるでしょう。中心となるのは昭和一桁から昭和十年代生まれです。
 その後に来るのが「団塊の世代」。高度経済成長時代に新入社員として入社し、バブルの時期には中堅社員として活躍。地位、名誉、お金こそ生きがいとしてきた人も少なくありません。「物質信仰世代」の最後に当たる人たちで、日本の物質経済を支えてきました。
 次が「物質信仰世代」の子どもたちで、中心となるのは昭和三十年代生まれ。物質を与えることこそ、子どものためだと思っている親たちに彼らは育てられました。偏差値を基準にしたり、マニュアルで行動したりする世代の始まりでもあります。物質欲は持っていても、自分なりの価値観や判断力、主体性が育つ機会がありませんでした。彼らは「主体性欠如世代」と言うことができると思います。
 そして、主体性欠如世代の子どもたちの世代を「無垢世代」と呼ぶことができます。物質が溢れるようになった昭和五十年代以降の子どもたちのことを指します。特に「主体性欠如世代」の親は未熟なままなので、子どもたちの「どうして」という問いに、「テレビで言っているから」「みんなが言っているから」という答えしか出せません。回りの大人たちが確固たる指導ができないでいるので、ある意味で、彼らには枠にはまらない伸び伸びとしたところがあるのが、「無垢世代」と呼ぶ所以です。

  江原啓之『日本のオーラ ―天国からの視点―』新潮社、2007、pp.17-19

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 75-i (物質信仰の世の中に起こるいじめの問題)

 いじめにしても同じことです。物質信仰の世の中になると、体力、知力、経済力、組織力といった物質的な「力」が基準になります。「力」の信仰を持った子どもたちは、力がない者には価値を置きません。体力のない者を平気でいじめるようになります。また、たとえ知力が少々あろうとも異端と見なされれば、グループでたった一人がいじめられます。この場合、数が「力」となるのです。
 「たましいは永遠である」ことは書きましたが、人がなぜこの世に生まれてくるかと言えば、たましいを向上させるためなのです。たましいを育むために、必要なのは「愛」や「真善美」という価値観です。こうした価値観よりも「力」に至上価値が置かれるようになってしまっています。
 そのいい例が、やはり先に触れた堀江貴文氏でしょう。氏は「人の心はお金で買えるのです。女はお金についてきます」と言っています。これはまさに物質主義的価値観を象徴した言葉であり、そこには「愛」も「真善美」も感じられません。堀江氏の言動に見られるのは、お金を稼ぐ話、何かを買った話、何かを食べた話といったものばかりで、無機質で物質的です。ライブドア問題は、稼ぐためには何をしてもいいという堀江氏の物質主義的価値観が生んだと言えます。
 「愛」や「真善美」よりも「力」に価値を置いた社会は、子どもたちを残虐化させるばかりではなく、子どもたち自身の命も危険にさらすことになります。

  江原啓之『日本のオーラ ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.20-21

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 75-j (物質主義に溺れてはならない金銭問題)

 お金というのは、細菌に似ています。私たち人間はある程度の細菌を体内に持っていないと生きていけません。しかし、細菌は必要だけれども、増えすぎてしまえばかえって身体に問題が生じることもあります。細菌はほどほどに必要なのです。お金もそれと同じで、それがないと生きていけないけれど、必要以上に持つと身を滅ぼすことになりかねません。
 どれだけ細菌を持っていることが適当であるかは人によって違います。お金もどれだけ必要なのかは、その人のカルマ、何を学ぶべきかによっても違います。
 つまり、稼いでいる収入の額や、所有している財産の額は問題ではないのです。重要なのは、お金のために、自分のたましいを売っていないかどうか。分かりやすく言えば、自分さえ儲ければいいという物質主義的価値観に溺れているか、それとも社会還元をきちんと考えているかがポイントでしょう。要するに、物質主義的価値観から生まれる思いである「小我」と、より大きな「無償の愛」から生じる「大我」のバランスが取れているかどうかということになります。
 何も社会貢献や慈善事業とまでいかなくても、ちょっとしたことで人のためにお金を使うことは、スピリチュアル的には「カルマ落とし」にもなるのです。言い換えれば、「細菌落とし」。細菌が多くなりすぎると、病気になってしまうから、細菌を落とすわけです。
 国の税金も、ある意味では、国家が「カルマ落とし」を肩代わりしてくれていると言えるかもしれません。税金の使い道に異論がある方もいるかもしれないけれど、それでも社会福祉など有効に使われている部分は否定できないでしょう。

  江原啓之『日本のオーラ  ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.75-76

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 75-k  (物質的に豊かになっても幸せになれないのはなぜか) 

  18世紀の産業革命により製品は機械でつくられ、このころから、人間の知恵と努力は、いかに欲しいものを手に入れるか、効率よく欲望を満たすか、この一点に向けられてきたといってもよかろう。
 とくに二十世紀の人類は、物質さえ豊かになれば幸福になれると信じ、物質文明の繁栄を謳歌してきた。同時に人間の欲望も肥大化してゆく。商品が多く生産される「豊かな社会」ほど、消費者はパソコンがほしい、壁掛けテレビがほしい、新車もほしい、とより多くを欲しがるようになる。これをアメリカの経済学者ガルブレイスは依存効果とよんだ。
 科学の進歩はめざましく、歩きながら誰とでも会話ができる。「ケータイ」は小学生ですら耳にあてている。腕時計も持てなかった時代が信じられない。電子レンジで、どれだけ料理の手間がはぶけるようになったことか。コンビニATMの登場で、二十四時間いつでも預金や払い戻しが可能になった。自宅の「インターネットバンキング」で、銀行に行かなくても残高照会や振り込みができる。口から飲み込んで肛門まで、内臓の状態をリアルタイムで送信する、超小型コンビユーターが開発されたというからありがたい。
 たしかに世の中、便利になったが、「ああ、幸せだ」という実感がわかないのは、なぜだろうか。欲しいものを次から次へと獲得しているが、際限なくひろがる欲望に、どこまで走っても満たれず、渇しているといえよう。
 日本をはじめ先進国で自殺者が増加し、異常な犯罪や悲惨な事故が多発している。新潟での九年間の少女監禁などは、犯罪史上、例を見ない凶悪事件だ。二十八歳男の、殴打やスタンガンによる暴力にも、悲鳴さえゆるされなかった九歳の少女は、自分の腕や毛布にかみついて耐えたという。
 平成十二年は、少年の暴走も加速した。主婦を殺害した少年は、「人を殺す経験がしたかった」とうそぶいた。それを聞いて、「先を越された」とくやしがった十七歳の少年は、バスを乗っ取り一人を惨殺、五人に重軽傷を負わせ、長時間乗客を恐怖にたたき込みながら、「何か悪いことでもやったというのか」と供述したという。十五歳の男子生徒が、友人一家の皆殺しを計画し、サバイバルナイフで三人を刺殺、残り三人にも重傷を負わせた、と聞くにいたっては言葉をのむよりほかはない。

   高森顕徹監修『なぜ生きる』一万年堂出版、2013、pp.109-111

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 75-l (物質的価値観にしがみついている人たち)

 ―江原 その前にうかがっておきたいことがあります。あなた(雑誌記者)はあの世の存在を信じていますか?
 ―いや……。正直言ってあまり信じてはいませんね。
 ―江原 最初にお話ししておくと、あの世の存在を信じていない人にスピリチュアルな真理をいくら説明しても、すぐに理解するのは難しいと思います。最近は、私の講演などに足を運んでくださる男性の方も増え、スピリチュアルなことに関心を持たれる方が多くなったと実感していますが、やはり、最初のころは、目に見えない世界のことには半信半疑の男性が多かったのは事実です。女性はそのあたり柔軟で、目に見えない世界やあの世の存在も素直に受け止めてくださる方が多いように感じます。
 ―あの世を信じろって、霊の存在を信じろってことですか。テレビでも江原さんは「オーラ」や「前世」が視えると言っていますね。
 ―江原 あの世や霊の存在を信じなさいと強要することはしません。信じる・信じないは個人の自由ですから。ただ、私たちが霊的な存在であることも、あの世があることも、霊的な真理です。そして霊視ができるのは、確かに私が備えている技能です。そのことをひけらかすつもりはありませんが、小学生ぐらいから人のオーラが視え、皆のオーラがまぶしくて黒板が見えないほどでした。父の死もハッキリと感じていた。死が近くなると人のオーラは真っ黒になるんですよ。
 ―そうなんですか! 私も視えたら信じられるのに……。
 ―江原 いや、第一章でも言いましたが、重要なのは視えるかどうかではありません。感じることです。あの世の存在を感じることができれば、生き方が大きく違ってきますから。つまりスピリチュアリズムとは、あの世の存在を前提とした一つの思想なんですよ。
 ―あの世か……。でもやはり、我々にとっては「現世での幸せ」がいちばん大事だと思うんですが。
 ―江原 幸せって?
 ―えーと、健康であるとか、やりたい仕事に就いて出世するとか、よき伴侶に恵まれるとか。
 ―江原 それは「物質的価値観」による幸せです。
 ―一章でもたびたび出てきましたけど、何なんですか、それ。
 ―江原 目に見える物質だけに支配された価値観のことです。スピリチュアリズムが説く幸せというのはまるで逆で、「失う恐怖」から自由になることなんですよ。
 ―意味がわかりません。
 ―江原 人の試練は、持っているものに対する執着心から発している。地位や名誉、財産、健康、そして愛する人……。でも現世は修行の場で、修行を終えてこの世から卒業するのだと考えることができれば、執着心からも解放されるんです。
 ― いやしかし、物質への執着心を捨てることなど不可能ですよ。おカネ欲しいし、出世もしたいです。奥さんも美人に越したことはないし……。
 ―江原 そうでしょうね。日本のサラリーマンのように帰属意識の強い人は、特に仕事への執着というのはなかなか捨てられない。実は僕には視えるんですが、電車には背広を着たサラリーマンの霊がたくさん乗っているんですよ。亡くなってからも会社に通っている。いかに会社とか仕事に依存していたかを物語っています。

   江原啓之『江原啓之 本音発言』講談社、2007、pp.102-105

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 75-m(人間は霊を理解するにはあまりにも物質的でありすぎる)

 あらゆる宗教は、死後に天国と地獄が存在することを認めているが、「どうすれば地獄に堕ち、どうすれば天国に行けるのか」という点、さらには、「地獄では、どのような苦しみを受け、天国では、どのような喜びを得るのか」という点に関しては、それぞれ異なった見解を持っている。
 そこから、ある場合には、互いに矛盾するような見方も生じ、「神を讃えるには、どうすべきであるのか。そして、地獄を避け、天国に行くには、どのようにすべきであるのか」という点に関して、さまざまに異なった考え方が生じているのである。
 すべての宗教は、それが発生した時点では、人間の、精神的、知的進化の度合いを問題としていた。しかし、いまなお、人間は、純粋に霊的なことがらの持つ意味を理解するには、あまりにも物質的でありすぎるために、宗教的な義務のほとんどを、心と関係のない物質的なことがらの成就に置きがちである。
 だが、しばらくのあいだは、そうした外面的な形式の問題で満足していても、やがては、そこに虚しさを感ずるようになってくる。そして、宗教がそうした虚しさを埋めることができないと、彼らは、宗教を捨てて哲学へと向かうのである。
 もし、宗教が、原則として、人間の限られた知性にふさわしいものであり、なおかつ、人間の精神の発達に対応しつづけることができたとしたら、おそらく無神論者は存在しなかったであろう。というのも、信ずるということは、人間には本性として与えられており、知的な必要性と調和したかたちで、霊的な糧が与えられさえすれば、人間は、信仰を持つように、もともとできているからである。人間は、「どこから来て、どこへ行くのか」を知りたがる存在なのである。

    アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
        幸福の科学出版、2006、pp.296-297

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 75-n(霊実在論は魂の実在と死後の世界の存在を証明してきた)

 まさしく、そうした時期に、霊実在論が登場し、猛威を振るう無神論の濁流に抗して、断乎として強固な堤防を築こうとしている。霊実在論は、目で見ることができ、手で触ることができる明白な証拠を示して、魂の実在と死後の世界の存在を証明した。
 それゆえに、伝統的な宗教にも、通俗的な哲学にも満足できず、疑いの持つ苦さに心をさいなまれていた人々が、あれほどの熱意を持って、霊実在論を信奉するようになったのである。
 霊実在論は、事実の裏づけを持っており、論理的な推論に基づいている。ゆえに、それを論理的に打ち負かそうとしても不可能なのである。
 人間は、死後の生命の存続を本能的に信じている。しかし、今日まで、それを証明する決定的な証拠を得ることができなかったために、さまざまに想像力をめぐらせて、いろいろな考え方を発明してきたのである。
 死後の生に関する霊実在主義の理論は、想像力によって勝手につくり出されたものではなく、物理的な事実の観察から導き出されたものである。そうした事実は、今日、いくらでも、われわれの目を通して観察することができる。
 さまざまに分かれていた意見は、事実の観察によって、やがて統一され、仮説に基づくものではない一つの確信にまでまとめ上げられることになるだろう。
 魂の死後の運命に関する見解が統一されれば、さまざまな宗教間での抗争が徐々に姿を消し、宗教同士で寛容の精神が発揮されるようになり、やがて、最終的には、数多くの宗教が統合されることになるであろう。

    アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
        幸福の科学出版、2006、pp.297-298

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 75-o (唯物論と唯心論との対立)  

 ヘーゲルの弟子でありマルクス=エンゲルスに影響を与えた哲学者フォイエルバッハは、観念論を批判し人間学的唯物論を唱えてきた。その最後の著作である『唯心論と唯物論』においても、古代や中世の哲学者たち、神学者たち、近世におけるデカルト、スピノザ、ライプニッツ、マルブランシユ、カント、フィヒテ、ヘーゲルといった哲学者たちを取り上げ、彼らを批判しながら論を進めている。
 「唯心論」とは、存在の根拠を精神に求める思想であり、「唯物論」とはそれを自然に見い出す思想である。両者の対立の歴史は古い。ヘーゲル左派の思想家として出発し、後に実在の根拠を個物に求める独自の人間主義的唯物論に至ったフォイエルバッハは、次のように述べる。
 「唯心論は他の生活・未来の生活のために規定され考慮された霊魂論(心理学)であって、現在の生活のために規定され考慮された霊魂論(心理学)ではない。心は、死後に肉体なしに実存することができるために、肉体のなかにあってすでに肉体性なしに考えられている。肉体の死から独立な生活に対する願望は肉体から区別された存在者の父である。不死と非身体性とは同一物である」(船山信一訳)
 唯心論は「スピリチュアリズム(Spiritualism)」の日本語訳である。
 スピリチュアリズムは「心霊主義」とも訳されるが、要するに人間の不滅の霊魂が存在すると考える立場だ。そして、この思想の先駆者といえば、なんといっても古代ギリシャのプラトンであった。プラトンは、イデア論に代表されるように観念論の先駆者でもあったが、後にそれはドイツのカントが大成させることになる。
 フォイエルバッハは、『唯心論と唯物論』で以下のように唯心論を批判している。
 「心――少なくとも唯心論の心――から説明され導き出されることができるのは、もっぱら死の後の生活であって、死の前の生活、いいかえれば実際の生活・現在の生活・すなわち思惟および感覚ではない。(そしてわれわれがここで問題にしているのはもっぱら唯心論の心であってカントの懐疑的な心ではない。ちょうどそれと同じように、人々は一般に唯心論の心からはただ神学へ推論することができるだけであって、人間学へ推論することができず、ただ神々を引き出し且つ作り出すことができるだけであって、人間たちを引き出し且つ作り出すことができない)」(船山信一訳)
 そして、フォイエルバッハは「肉体をもっている精神は、人間であり且つ人間と呼ばれる。肉体をもたない精神は、神であり且つ神と呼ばれる」と喝破する。フォイエルバッハは、実在の根拠を個物に求める独自の人間主義的唯物論を高らかに謳いあげているのだ。

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.42-43

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 75-p(「共同幻想論」とは「唯物論」に対するアンチテーゼである)

 日本でも、唯物論を根本的に否定する思想が誕生した。
 一九六〇年代の新左翼運動において教祖的存在とされ、独自の思考に根ざした文化・社会批評によって「思想の巨人」と呼ばれた吉本隆明の「共同幻想論」である。
 二〇一二年三月一六日に亡くなった吉本の代表作である『共同幻想論』は、当時の教条主義化したマルクス=レーニン主義に辟易し、そこからの脱却を求めていた全共闘世代に熱狂して読まれ、強い影響を与えた書物だ。
 「共同幻想論」とは唯物史観すなわち「唯物論」に対するアンチテーゼにほかならなかった。
 吉本は、何よりも日本人の「こころ」を追求した。そして、『共同幻想論』では『古事記』や『遠野物語』などの日本人の「こころ」の琴線に触れる書物を取り上げた。
 『古事記』からは初期国家における共同幻想、『遠野物語』からは村落社会の共同幻想の姿をあぶり出している。『共同幻想論』は非常にラディカルな問題提起の書なのだが、その「序」には次のように書かれている。
 
 「ここで共同幻想というのは、おおざっぱにいえば個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界を意味している。いいかえれば人間が個体としてではなく、なんらかの共同体としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している」

 同書は、「禁制論」「憑人論」「巫覡論」(ふげき)「巫女論」「他界論」「祭儀論」「母制論」「対幻想論」「罪責論」「規範論」「起源論」の一一の論考から成っている。いずれも興味深い内容であるが、なかには人類学や民俗学からみて、すでに無効になっている引用文献や考え方も少なくはないようだ。しかし、その着眼点および発想はまったく古くなっていないといえよう。
 たとえば、「他界論」には次のように書かれている。

 「いうまでもなく共同幻想の〈彼岸〉に想定される共同幻想は、たとえひとびとがそういう呼びかたを好まなくても〈他界〉の問題である。そして〈他界〉の問題は個々の人間にとっては、自己幻想か、あるいは〈性〉としての対幻想のなかに繰込まれた共同幻想の問題となってあらわれるほかはない。しかしここに前提がはいる。〈他界〉が想定されるには、かならず幻想的にか生理的にか、あるいは思想的にか〈死〉の関門をとおらなければならないことである。だから現代的な〈他界〉にふみこむばあいでさえ、まず〈死〉の関門をくぐりぬけるほかないのである」
 
 最後の「起源論」では、次のように〈国家〉の起源に言及している。

 「はじめに共同体はどんな段階にたっしたとき〈国家〉とよばれるかを、起源にそくしてはっきりさせておかなければならない。はじめに〈国家〉とよびうるプリミティヴな形態は、村落社会の(共同幻想)がどんな意味でも、血縁的な共同体から独立にあらわれたものをさしている。この条件がみたされたら村落社会の(共同幻想)ははじめて、家族あるいは親族体系の共同性から分離してあらわれる。そのとき(共同幻想)は家族形態と親族体系の地平を離脱して、それ自体で独自な水準を確定するようになる」

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.45-47

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 75-q (今の資本主義はこのままでは潰れる)

 二〇年も前から言っていることですが、結論から言うと、今の資本主義は、このままでは潰れるでしょう。なぜ潰れるのかについては、人間がどういう存在であるかを考えれば自ずとわかります。
 今、私たちはここにいます。この建物があるのは、この土地があるからです。土地は、日本という国土があるからで、日本の国土があるのは、地球があるからです。もし今、空気が五分間なくなったら、人間は生きられない。食べる物は十分にあっても、空気がなくなったら生きられない。
 このように、人間というのは、狭い、限られた条件の中でしか生きられない、非常に限られた存在だと言えます。その限られた存在である人間が、自由競争をすることでいいものができるというのが資本主義の考え方なのですね。
 資本主義社会における自由というのは、無制限な自由なんですが、そんなことが人間にできるわけがない。そこがもう、資本主義が一番に間違えているところです。今、お話ししたように、人間は一人で生きることはできません。親がいなかったら人は生まれないし、社会を作らないと人は生きていくことができないのです。ですから、個人性と社会性が両立するような社会でないとだめなのです。
 ところが、今の社会には、自分さえよければいい、という考え方が強いようですね。生きる目的が、自分が金儲けをしたいとか、自分がいい生活をしたいというだけだと、ほかはどうでもよくなってしまう。企業も国家も、同じです。アメリカのブッシュ前大統領はよく、「国益」と演説の中で繰り返されていたが、日本も中国も、まず国益が優先することに変わりはないようです。
 しかし、そういう考え方は、「物の原理」に従っている自己保持にすぎないのです。物の原理というのは、最終的には潰れて壊れるのです。物の原理だけに従っていると、自分さえよければかまわない、相手はどうなってもいい、極端に言えば、殺してもいいと思うようになってしまいます。
 ところで、アメリカ・カリフォルニアに私が創立し、カリフォルニア州政府より正式に認可されている大学院大学のCIHS(カリフォルニア人間科学大学院大学)で、数年前にヨガのワークショップを開いたとき、参加されていた神経生理学会の医者の方たちの一人が、「サルも人間と同じように、おいしいものがあればちゃんと土の中に隠して、腹が減ったときに食べようと考えます」という意見を述べました。
 で、私は、「人間はそんなとき、そんなことをしている自分を恥ずかしいと、反省することができる。しかし、サルには反省することなんかできないでしょう」と答えました。人間は反省することができ、反省して自分というものを知ることができる。それが人間なのでして、人間とサルとはまったく違うわけです。
 ところが人間は、自分という存在を超えて自分を見ることができるから、一方では嘘をつくこともできる。人をだますこともできる。つまり、人間だけが悪いことができるのであって、サルは悪いことをしません。そこをよく考えなければいけない。
 もう一つ、今の資本主義が潰れるのは当たり前だと私が思うのは、カネと物とが一対一で対応していない経済なんて成り立たないからです。これは稲盛さんがよくおっしゃっていることですが、私は非常に優れた信念だと思います。つまり、物を作ることもしないような人たちが、毎日、インターネットで株式投資に精を出して、安くなったら買う、高くなったら売る、それで簡単に一億円とか二億円といったお金を稼いでいる。仮想の世界と現実との区別がつかないような世の中というのは、滅び″に向かうのが当たり前なのです。
 人間は悪いことをするものです。そこに欲が絡むと、さらに悪くなる。人間は自由な能力を無制限に持っているわけではないのに、持っているように錯覚しているのが今の資本主義なのです。そんな資本主義が潰れるのは当たり前です。
 先ほどのお話にあったように、今から数十年後に人類が増えすぎて食料が足りなくなってしまったら、これはもう滅びるしかありません。地球温暖化もそうですね。一万年ほど前に氷河期が終わった後、地球全体の平均気温が上がっていったわけですが、今はその頃とよく似ています。そのうえ、そこへ、人間がCo2をたくさん出すものだから、自然の変化だけなら緩やかだった温暖化のスピードがどんどん激しくなっている。これから先は、いつ、どうなるか、学者にだって予測がつかないと言われています。
 第二次世界大戦中、師範学校の学生だった私は、戦争末期に海軍の予備学生として特攻隊に入隊したのですが、その時代は、白いご飯一膳を食べるのさえ難しかった。大変な時代だったのです。稲盛さんにもそういう記憶がおありと思いますが、そういう経験をまったくしたことがない人たちが、いくらいろいろ考えても、考えるだけでは人間は生きられないと思います。どんなに小さな物でも、人間はまじめに働かないと、作ることはできないのです。
 人間の能力には限界があるのだから、個人だけでは生きられない社会を、みなが和を持って、助け合って生きていくのが本当の姿です。そして、人間が霊的に成長すればするほどわかるようになりますが、愛、これが、人を助けるように働くのです。(本山)

    本山博・稲盛和夫『人間の本質』PHP研究所、2009、pp.21-26

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 75-r (物質主義的価値観が世の中を変えてしまった)

 すべての元凶は、今のこの世にはびこっている物質主義的価値観です。
 物質主義的価値観とは、物質的な豊かさや、便利さ、効率性を至上のものとして崇める価値観のことです。
 この対極にあるのが、心やたましいを重んじる、精神的価値観、霊的価値観です。これはやさしさやあたたかさ、ゆとり、真善美といった、目には見えないけれど、人間の心を本当に豊かにしてくれるものを大切にする価値観です。
 日本人は、もともとは、精神的価値観をとても大切にする人たちでした。自然の力、科学を超えた大いなる力に畏敬と感謝の念を抱いて暮らしていたのです。
 たとえば子どもを叱るとき、昔の人は「お天道さまが見ているよ!」と言ったものです。また、言葉の持つエネルギーを「言霊」といって、非常に大切にしました。お正月に玄関に神のよりしろとしての門松を飾るなどの風習のなかにも、目には見えない大いなる力への敬いの心が息づいています。
 ところが戦後の日本人は、精神的価値観をすっかり置き去りにして、物質主義的価値観のとりこになってしまいました。そして目覚ましい経済成長を遂げてきた結果、日本は世界的な経済大国になり、モノと情報があふれ返るなかで、私たちは今ここに生きています。
 しかし、それで本当に私たちは豊かになったのでしょうか。便利な道具がこれだけ増えたのに、なぜこんなに私たちは日々忙殺され、心も満たされないのでしょう。

    江原啓之『人間の絆』(小学館、2007)pp.189-190

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 75-s (身体だけが自分と思っていると人間の実態・真理は永久に見えない)

 人間を物質としての身体としてだけ見ていると人間というものの実態・真理は永久に見えません。
 まず、なんでも目で見ればわかるとする人間の知恵の過大評価を捨て去ることです。
 それなのにどうして人間はこうも思い上がってしまったのでしょう。自分がちっぽけな存在でしかないとはっきり堂々と言える人が、果たしてどれほどいるのでしょうか。
 ですが人間は、自分が重い病いに冒されてこのままでは死ぬぞという恐怖を体験しますと、私が死神の恐怖で人生の転機を迎えたように、誰でも自分の身体はどうもただ単に物質的幸福を追求するだけのものではなさそうだということを賢明に悟ります。今生きている身体がどれほど大切かがよくわかります。
 再び健康を取り戻したなら、今までとは打って変わって一日一日をわが魂のために大事に生きて行こうと心からそう思うものです。
 まして、人間の知恵の代表選手みたいな医学や科学からこれは治らないとされていた病気から奇跡的に助かったりすれば、この人は心の底から大自然の法則の中に自分が生かされているのだということを実感出来るでしょう。
 自分が自分の力で生きているのではなくて、何かによって生かされているのだということがわかったら、もう人間世界の「理屈」の無意味さが痛いほどよくわかるはずです。自分がどんどん素直になって行きます。
 こういったことを知るのに学問はまったく不要です。
 書物には何も書いてありません。書物というものの持つ科学的世界とは、むしろ正反対の目を持たなくては霊的真理・魂を知ることは出来ません。ましてや人間によって作られ人間によって伝えられて来た形骸化した宗教的作法や形の中には何もありません。
 子供たちに「勉強々々」と強いるのも、物質的効果だけを目標にした親が、たかだか人間が考えて作った学問ごときにとらわれてしまっているだけのことです。
 人間死んだら何も無い、死んだら一切が終りだとうそぶきつつ、それでも長生きしたいと悶えているような、そんな人だったらそれこそもう終りにしたらどうかと思います。

       萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、1994、pp.94-96