学びの栞 (B) 


 77. 暴力・殺人・戦争


 77-a (殺人者に対しては慈悲の情を持つことを学べ)

 殺人者や、人をあやめてしまう者に対して慈悲の情を持つことを学びなさい。なぜなら、殺生というひとつの征服を終えると、彼らには感情面でこれに向き合い、消化していくという大変な作業が控えているからです。それには何千年もかかることがよくあります。殺された者は、次の瞬間に新しい身体を持ちます。殺した側は、この行為をけっして忘れることはできないのです。

 『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 94

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 77-b[44-zf] (何千年もの間誤解されてきた神と神の名による戦争)

 あまりにも長い年月、何百年も何千年もの間、神と宗教は誤解され、歪められ、人類によって意識的に操作されてきました。平和と愛と慈悲の究極のシンボルである神の名が、数知れない戦争、殺人、大量虐殺を行なうために、利用され続けています。二十一世紀が始まっている今日でさえ、「聖なる戦い」は中世の疫病のようにこの地球をむしばんでいます。戦争が「聖なるもの」であり得るでしょうか? これは矛盾する言葉、真反対の言葉をつなげたもの、絶対的な罪、そして、人を惑わすための表面的な理由づけです。
 神は平和です。神は愛です。私達は神のイメージに創造され、神は私達の心の中にあるということ、そして、私達もまた、平和の存在であり、愛の神性そのものであることを、私達は忘れているのです。あるのは唯一の神、私達すべての中にある神だけですから、唯一の宗教しかあり得ません。私達はお互いに愛し合わなければなりません。愛こそ、故郷への道だからです。それでなければ、愛のレッスンを学び取るまで、私達は何回も何回も、同じ学年をくり返すはめに陥ってしまうでしょう。
 恐怖を手放し、他の宗教の人々を自分と同じ人間であり、天国への道を歩む同志だと思うことによってのみ、私達は真に無条件の愛に満ちた存在になれるのです。私達はみな同じものです。同じボートを漕いでいるのです。多くの転生をくり返すうちに、私達はすべての宗教、すべての人種を経験しています。魂には人種も宗教もありません。魂は愛と慈悲だけしか、知らないのです。
 私達はみな同じものであり、お互いの間には、本当は少しも大切ではない表面的な違いだけしかないとわかれば、道をゆくすべての人々を、その人が自分のようであってもなくても、振り返って助けることができるようになるでしょう。
 様々な宗教の表面的な儀式や習慣の下まで掘り下げてみると、そこには驚くほど同じ考え方や概念、忠告が見つかります。言葉そのものも、信じられないほどに似ています。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.327-328

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 77-c (人間はどこまで残虐になれるか 強制収用所跡で学ぶ =1=)

 人に愛と慈悲を語るわたしがいのちの意味にかんして最大の教訓を学んだのは、人間性にたいする最悪の暴虐がおこなわれたある場所をおとずれたときのことだった。
 ボランティアが建てた校舎の落成式に出席したあと、わたしはルシマを発った。そして、ヒトラーが各地につくった悪名高い死の工場のひとつ、マイダネックに向かった。どうしても強制収容所を自分の目に焼きつけておきたかったのだ。この目でみればなにかが理解できるかもしれないという気がしていた。
 マイダネックの悪評は知っていた。そこはあの母親が夫とー二人の子どもを失ったところだった。そう、マイダネックのことは知りすぎるほど知っているつもりだった。
 しかし、実際にいってみると、なにかがちがっていた。
 その広大な敷地の門という門は破壊され、出入りは自由になっていた。だが、三〇万人以上が殺された陰惨な過去は、身も凍るような姿でその痕跡をはっきりととどめていた。鉄条網、監視塔、それに、男たち、女たち、子どもたち、家族たちが最後の時間をすごした殺風景な収容棟がそのまま残っていた。貨物列車が打ち捨てられていた。貨車の内部をのぞいてみた。ぞっとするような光景だった。ある貨車にはドイツに輸送され、冬季用の布地になるはずだった女性の毛髪が山と積まれていた。別の貨車には人びとがそれぞれの思いで肌身離さずもち歩いていた眼鏡、宝石、結婚指輪、装身具などが山積していた。子ども服、赤ん坊の靴、おもちゃが積まれている貨車もあった。
 貨車から降りると、身ぶるいが起こった。いのちはこれほどまでに残酷になれるものなのか?
 まだ空中に漂うガス室の死臭、あのたとえようのない臭いが答えだった。
 でも、なぜ?
 どうやってそんなことが?
 想像もつかなかった。不信感で胸をつまらせながら、収容所を歩きまわった。そして自問した。
 「男も女も、どうしてこんなことができたのだろう?」。建物に近づいていった。「確実におとずれる死を前にして、人はどのようにして、とくに母親と子どもたちはどんな心境で、最後の日々を生きていたのだろうか?」。建物の内部には五段になった木製の狭い寝棚がぎっしりと並んでいた。壁には名前やイニシャル、いろいろな絵が彫りつけられていた。どんな道具を使ったのだろう? 石片か? 爪か? 近づいて子細にながめた。あちこちに同じイメージがくり返し描かれていることに気づいた。
 蝶だった。
 みると、いたるところに蝶が描かれていた。稚拙な絵もあった。精密に描かれたものもあった。マイダネック、ブーへンヴァルト、ダッハウのようなおぞましい場所と蝶のイメージがそぐわないように思われた。しかし、建物は蝶だらけだった。別の建物に入った。やはり蝶がいた。「なぜなの?」わたしはつぶやいた。「なぜ蝶なの?」
 なにか特別な意味があることはたしかだった。なんだろう? それから二五年間、わたしはその問いを問いつづけ、答えがみいだせない自分を憎んでいたものだ。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.89-90

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 77-d (人間はどこまで残虐になれるか 強制収用所跡で学ぶ =2=)

 建物から外にでた。のしかかるマイダネックの重みにつぶされそうだった。そこへの訪問が、じつは自分のライフワークへの準備であったことなど、気づくはずもなかった。そのときはただ、人間が他の人間にたいして、とりわけ無邪気な子どもたちにたいして、かくも残虐になれることの理由を理解したかっただけだった。
 そのとき、ひとり思いにふけっていた静寂が破られた。わたしの胸中の問いに答える、おだやかで自信に満ちた、若い女性の透きとおった声がすぐそばから聞こえた。近づいてきた声のもちぬしはゴルダという名前だった。
 「あなたも、いざとなれば残虐になれるわ」ゴルダがいった。
 反論したかった。だが、衝撃のあまり、声にならなかった。「ナチス・ドイツで育てられたらね」ゴルダが追い打ちをかけてきた。
 大声で否認したかった。「わたしはちがうわ!」。わたしは平和主義者だった。平和な国家で、良心的な家庭に生まれ育った。貧困も飢えも差別もなく育ってきた。ゴルダはわたしの目からそのすべてを読みとり、説き伏せるようにいった。「自分がどんなに残虐になれるものかがわかったら、きっとあなたは驚くでしょうね。ナチス・ドイツで育ったら、あなたも平気でこんなことをする人になれるのよ。ヒトラーはわたしたち全員のなかにいるの」
 議論する気はなかった。ただ理解したかった。ちょうど昼食どきだったので、ゴルダとサンドイッチを分けあって食べた。目もさめるような美しい女性で、年齢はわたしと同じぐらいにみえた。学校や職場で会っていたら、すぐにも友だちになっていたような人だった。昼食を食べながら、ゴルダはそれまでのいきさつを語ってくれた。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、p.91

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 77-e(人間はどこまで残虐になれるか 強制収用所跡で学ぶ =3=)

 ドイツで生まれたゴルダが一二歳のとき、会社にいた父親がゲシュタポに拉致された。それが父親との永遠の別れだった。戦争が勃発するとすぐに、残された家族全員と祖父母がマイダネックに強制連行された。ある日、衛兵から行列にならぶように命令された。死出の旅へとつづく行列だった。ゴルダ一家は全裸にされ、ガス室に追いやられた。一家は悲鳴をあげ、嘆願し、叫び、祈った。しかし、一家には希望も尊厳も、生存へのチャンスもあたえられなかった。
 ガス室の扉が閉まり、ガスが噴射される直前に、衛兵は一家をむりやり扉の隙間からなかに押し入れた。ゴルダは一家の最後尾にならんでいた。奇蹟か、神の配慮か、扉はゴルダの目の前で閉められた。扉の前は全裸の人たちであふれていた。衛兵はその日の割り当てを早くこなすために、じゃまなゴルダを外につき飛ばした。ゴルダは死亡者リストに記載され、その名前を呼ぶ人はだれもいなくなった。めったにない見落としのおかげで、ゴルダのいのちは救われた。
 嘆いている暇はなかった。すべてのエネルギーが生存めために費やされた。ポーランドの冬の寒さに耐え、食べ物をみつけ、麻疹どころか風邪にもかからないように警戒しなければならなかった。ガス室への連行を避けるために、地面や雪に穴を掘って、そこに隠れた。収容所が解放される場面を想像しては勇気をふるい起こした。生き残って、目撃してきた野蛮を未来の世代に伝えるために、神が自分を選んだのだと考えることにした。
 「二度とできないわ」とゴルダはいった。筆舌につくしがたい冬の厳しさを、ゴルダは驚異的な忍耐力で生きぬいた。力がつきそうになると、目を閉じて、仲間だった少女たちの絶叫を呼び起こした。収容所の医師から実験用のモルモットにされた仲間、衛兵や医師に凌辱された仲間を思い返しては、自分にいい聞かせた。「生きて、世界中に伝えるのよ。あの人たちがやった非道をみんなに伝えるためには、どうしても生きのびなければならないの」。連合軍が到着する日まで、ゴルダは憎悪をかきたてながら、生き残る決意を新たにしていた。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.92-93

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 77-f (人間はどこまで残虐になれるか 強制収用所跡で学ぶ =4=)

 収容所が解放され、門があけられたとき、ゴルダは怒りと悲しみのきわみで麻痺状態におちいっていた。せっかくの貴重な人生を憎しみのヘどを吐きながらすごすことが虚しく思えてきた。
 「ヒトラーと同じよ」とゴルダがいった。「せっかく救われたいのちを、憎しみのたねをまきちらすことに使ったとしたら、わたしもヒトラーと変わらなくなる。憎しみの輪をひろげようとする哀れな犠牲者のひとりになるだけ。平和への道を探すためには、過去は過去に返すしかないのよ」
 マイダネックであたまに浮かんだ疑問のすべてにたいして、ゴルダはゴルダの流儀で答えてくれた。わたしはマイダネックにくるまで、人間の潜在的な凶暴性について、ほんとうにはわかっていなかった。だが、貨車に山積みされた赤ん坊の靴をながめ、微かなとばりのように空中に漂う死の異臭を嗅ぎさえすれば、人間がどれほど残虐になれるものかは容易にみてとれた。それにしても、あれほどの悲惨な経験をしながら憎しみを捨て、ゆるしと愛を選んだゴルダのことは、なんと説明すればいいのだろうか?
 ゴルダはその疑問にこういって答えてくれた。「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、わたしも生き残った甲斐があるというものよ」
 わたしは了解し、別人になってマイダネックをあとにした。人生を最初から生きなおすような気分だった。
 医学校に入りたいという気持ちは変わらなかった。しかし、人生の目的はすでにきまっていた。未来の世代がもうひとりのヒトラーをつくりださないようにすること、それが目的だった。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.93-94

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 77-g[25-j] (いかなる場合でも人が人の命を奪うのは間違いである)

 人間が同じ人間の命を無理やり奪ってしまうことくらい恐ろしい行為はありません。破壊的で忌まわしい行ないです。決して許されることではないでしょう。殺人の場合、正義の鉄槌を下さねばならないという重みが加わります。社会から悪党を排除するのだからどんな残忍な行為も正当化されるのだ、という信じがたい考えかたがあります。しかし、これは真実とは言えません。しかも、迅速な処刑によって税金の無駄づかいが防げるという論理をこれに加えれば、死刑という制度は安易に受け入れられてしまいます。
 そうです、人が人の命を奪うことは間違っています。どんな状況下においても、たとえそれが死刑でも、過ちは過ちです。少し冷静になって、この間題を感情的にではなく霊的観点から考えてみてください。宇宙とはわたしたちの理解をはるかに超えた大きな存在です。この間題に限らずあらゆる行為について、わたしたちもそろそろ霊的な眼で見るようにしなくてはいけません。神はそのはかりしれない知恵によってあらゆる命にリズムを与えています。太陽は昇って沈み、惑星は太陽の周囲を回転し、潮は干満を繰り返します。そして、それぞれの魂には始めと終わりがあるのです。このリズムによって、魂にはこの現世を去ってふたたび霊の世界に戻る時機が自然に定められているのです。そして、すべてを包括しているのはただひとり、神のみです。
 魂が自然に肉体を離れるのではなく、定められた時間よりも前に無理やり肉体から引き離されると、霊的な結果が生じます。自殺の場合は、本来の期限が来るまで魂のマグネティツクな流れが現世の大気のなかに残されます。死刑によって霊が肉体から追いだされた場合は、犯罪者の人格が処刑前のまま少しも変わらずに残ります。その霊があちら側に行くと、たいていは進化が不充分で霊的法則をまったく知らないために、恐怖に怯えつつ、しかも、怒りを抱いているものです。こうした魂は同類の魂たちと一緒に低次元の幽界を果てしなくさまよいつづけます。一般に、このような苦悶する魂は憤怒と憎悪を心にかかえ、自分たちの早すぎる死を恨んで復讐を求めます。地上を徘徊して心の弱い人間を捜し、他人を殺したり傷つけたりするようにそそのかすのです。なんだか、映画みたいでしょう?でも、本当なのです。
 最善の方法は、刑務所のシステムを通して彼らを更生させ、神聖な命について教育することです。現実にそぐわない安っぽい夢物語に聞こえるでしょうが、魂本来の時間を無視して命を奪えば、改心と更生の機会を完全に失ってしまうのです。しかし、神の光を見て変わるにはほんの一瞬の時間で足ります。そうやって更生した人物がいつの日か誰かを助け、他人の命を奪おうとする行為を未然に防ぐかもしれません。成長と啓発への扉はたえず開けておかねばならないのです。
 死刑によってわたしたちは暴力を普及させています。行為の結果について何も考えないまま安直にスイッチを入れるのはやめましょう。霊がもたらす結果を理解することでわたしたちの信念を改め、あわてて死刑を認めないように考えなおそうではありませんか。わたしたちの社会には、未発達の悩める魂を援助する霊的かつ倫理的責任があるのです。彼らを昨日のごみのように扱うのはやめましょう。
 わたしは決して殺人を容認しているのではありません。人が他人の命を奪うのは、その人物が自身の神性を充分に自覚していないためなのです。自分が神そのものであることを完全に把握していれば、他人を殺すことなど選択肢のひとつにすらなりません。いったい誰が人を裁けるというのでしょう? 神の真似事ができるほど命の法則をわたしたちは知り尽くしているのでしょうか? わたしたちはそこまで強大な力は持っていません。ここでもまた、心を大きく開いて、理非の分別がある霊的な観点から物事を見るように努めなければならないのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.188-190

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 77-h (暴力によって命を奪われた人の場合 =1=)

 こんどは別のタイプの死―暴力によって命を奪われた場合―をみてみよう。周知のとおり、命を奪われる状況はさまざまだ。暴力による死をとげてこちらへやってくる人すべてが最初から困難な問題を抱えているとは限らないが、多くの人が問題を持っている。本書の冒頭でも述べたように、この宇宙には偶然というものはない。したがって暴力行為の犠牲者は、ある意味で自分への敵対行為を誘発したことになる。その誘因となるものは、ときには前世の報いであり、またあるときにはその人が抱く恐怖とその人の現実との関係を際立たせるためのこともある。
 ほとんどの場合、暴力による死を経験した人は、こちらで生活するにあたって心理的な調整のために並々ならぬ努力を必要とする。彼らにとってまず不利なのは、突然死んだために心の準備をしていなかった点だ。こちらへ来てからは、地上に残してきた打ちひしがれた家族への心配という重荷まで加わる。犯罪の犠牲者はほとんどといっていいほど人間の行為に関して誤った観念を持っている。彼らの多くは前世で同じような行為を犯してきた者なのだ。戦争を犯罪と同等に扱うわけではないが、もちろん戦闘による犠牲者に関してもこの事実は変わらない。みな同じ法則がはたらくのである。自分が他人に与えたものを相手から受け取るのだから納得する他はないだろう。これは逆の意味での一種の黄金律〔「人からして欲しいことを自分も人にせよ」というキリストの山上の垂訓の一節〕であり、黒色律と呼んでもいいかもしれない。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.43-44

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 77-i (人を殺害する正当な理由などあるはずがない)

 それでは、殺害するというのは間違ったことなんですか?

 さかのぼって説明しよう。何にせよ「間違った」ことは何もない。「間違っている」というのは相対的な言葉で、あなたがたが「正しい」と呼ぶことの対極を示しているだけだ。
 では、「正しい」とはどういうことか? あなたがたは、ほんとうに客観的に判断できるだろうか? それとも「正しい」とか「間違っている」というのは、あなたがたが貼るレッテルで、あなたがたが勝手に決めているだけなのか?
 あなたは何をもとに決めているのか、教えてほしい。自分自身の経験か? そうではない。多くの場合、あなたがたはほかの誰かの決定を受け入れている。昔のひとや年上のひとたちのほうがよく知っているだろうと考えている。日ごろ、自分自身の理解をもとに、何が「正し」く、何が「悪い」かを決定しているひとたちはほとんどいない。
 重要なことになると、ますますその傾向が強くなる。重要なことであればあるほど、誰かべつのひとの考えに従いがちだ。
 そう考えると、あなたがたが人生のある領域をコントロールする力を完全に失ってしまった理由も、人生経験のなかでぶつかる疑問も理解できる。
 その領域や疑問には、魂にとってとても重要な課題が含まれている。神の本質、真のモラルとは何か、ほんとうの現実とは何か、戦争や医療、中絶、安楽死をめぐる生と死の問題、個人の価値観やその構造、判断の実体などだ。こういう問題のほとんどを、あなたがたは放棄し、他人まかせにしている。自分で判断をくだしたくないのだ。
 「誰かが決めるだろう! わたしはついていけばいい、それでいいんだ!」とあなたがたは叫ぶ。「何が正しく、何が間違っているか、誰かが教えてくれるだろう!」。
 宗教にこれほど人気があるのも、そのためだ。どんな信仰であろうと、堅固で一貫していて、信者に対する期待が明快で厳しければ、それでいいのだ。そういう宗教が与えられれば、ひとは何でも信じてしまう。どんな奇妙な行動でも信念でも、神への信仰にされる可能性があるし、そうされてきた。それが神の道だと彼らは言う。神の言葉だと。
 その言葉を受け入れるひとたちがいる。そのひとたちは喜んで受け入れる。そうすれば考える必要がなくなるから。
 さて、殺害について考えてみよう。何かを殺す正当な理由などがあるだろうか? 自分で考えてごらん。偉いひとに教えてもらったり、むずかしい情報を与えられたりする必要はないことがわかるだろう。自分で考え、どう感じるかを見つめてみれば、答えはおのずと明らかになり、あなたはそれに従って行動するだろう。それが、自らを権威として行動するということだ。
 他者を権威として行動すると、わけがわからなくなる。国家は政治的な目的を達するためにひとを殺してもいいか? 宗教は教義に従わせるためにひとを殺してもいいか? 社会はルールに違反した者を殺してもいいか?
 政治的矯正法として、宗教的説得法として、社会問題の解決策として、殺害という行為は適切か?
 さて、誰かに殺されそうになったら、あなたは相手を殺せるだろうか? 愛する者の命をまもるためにひとを殺せるだろうか? あなたが知りもしない者をまもるためにはどうか?
 殺されそうになって、ほかの方法では身をまもれないとき、自衛のためにひとを殺してもいいか?
 殺意のないひと殺しと計画的な殺人とは違うのか?
 国家は、政治的な課題を達成するための正当なひと殺しもある、と信じるようにしむけるだろう。権力機構として存続するために、国家はその言葉を信じさせる必要があるのだ。
 宗教は、自分たちが定めている真実を広め、教えを維持し、まもらせるためには、ひと殺しもやむをえない、と信じるようにしむけるだろう。権力機構として存続するために、宗教はその言葉を信じろと命じる。
 社会は、ある種の違反行為(その行為が何かは時代によって変わってくるが)を犯した考を罰するためには死刑も必要だ、と信じるようにしむけるだろう。権力機構として存続するために、社会はその言葉を受け入れさせなければならない。
 あなたはこうした主張が正しいと思うか? 他者の言葉をあなたは受け入れるか? あなた自身はどう思うのか?

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.206-208