学びの栞 (B) 



 78. 自殺


 78-a (自殺しても魂は不滅で後悔と罪の意識に苦しむことになる)

 人が自殺してまず気づくのは、自分が死んでいないということです。この世との絆をまだ引きずっているわけですから、ひどく重いという著しい違和感を感じます。人間としての存在は死んでも、不滅の魂は死なないのです。この魂は物質界と霊界のあいだで行き場を失ってしまいます― 生きてはいても、愛する人どころか誰とも交信できないのです。魂はみずから命を縮めてしまったことで罪の意識にさいなまれ、苦悩します。自分の運命を知り、もし今も生きていたらどれほど有益で意義のある人生を送っていることか、と思い知るのです。自殺に駆り立てられるほどの特異な体験をなぜしなければならなかったのか、霊となってみてその理由に気づきます。あとに残された人びとの悲しみと怒りもわかるようになります。そして、なによりも不幸なのは、宙ぶらりんの状態になっていることです。天界に行くこともできなければ、物質界に帰ることもできません。
 どっちつかずの“中間領域”で身動きが取れないまま、自分の恐ろしい行為を繰り返し思いだすのです。自分の死にざまを何度も何度も見ます。まるで不快な映画のようです。その映画館に閉じ込められていて、逃げ場はありません。
 自殺で死んだ場合、自分の行為を覚えている霊もなかにはいますが、多くは自分の死すら認識できないでしょう。一般に、こうした魂は自分の最後の死にざまを機械的に何度も繰り返します。自殺という行為は果てしなく循環する環となり、陰惨なものになりかねません。しかし、やがては、こういった霊も物質界での死に気づくときが来ます。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.156-157

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 78-b (霊的な観点から見れば自殺は間違いである)

 この地上は、ほかで体験しえない人間のさまざまな要素や諸相を経験する場所です。それは成長の場であり、その成長は決して容易ではありません。現在生きている人びとの大半は、生存を危うくするような不安にたえずさらされています。金融、雇用、あるいは、感情面、健康面での心配事に責めたてられているのです。こうした悩みにはしばしば自己破壊の感情がつきまといます。こんなことには耐えられない、死んだほうがましだ、と思うのです。
 多くの人が生きているあいだに少なくとも一度は自殺の衝動に駆られたとしてもなんら不思議はないでしょう。けれども、この感情は状況の変化によって生まれたり消えたりするのです。
 自己破壊の概念に取りつかれ、みずから命を絶とうと試みるタイプの人間は一般に次のカテゴリーに分かれます。

 一.抑制力の強い性格で、その抑制が効かない状況におちいったと感じる場合。
 二.非常に否定的な自己イメージを持つ人物。社会になんら貢献していないと感じ、自分が無価値な人間に見える。この地球には自分のような存在はないほうがいいと考える。
 三、致命的な病気にかかり、苦痛と死の不安に耐えきれない場合。
 四、精神的に病んでいるか、あるいは、生化学的アンバランスがある場合。

 ある種の感情や状況、もしくは、信念によって、みずから命を絶つことが最も正当な道だと考えてしまう場合は確かにあるでしょう。しかし、霊的な観点から見れば、それは間違っています。わたしたちにはそれぞれ生まれながらの運命があります。わたしたちのカルマ的運命はわずか一カ月の命かもしれませんし、三十五年、あるいは、八十年の命かもしれません。この地上に戻ってくる前のわたしたちは、新生と肉体的経験の強い願望で満ちあふれていました。そして、心霊的ネットワークに組み込まれたタイミングでこの現世に入ってきているのです。命を途中で絶つとわたしたちの肉体は存在しなくなりますが、この世との磁気的な絆はまだ働いていることを忘れてはいけません。あらかじめ運命として定められた物質界での時間を完了しないことには、この絆は切れないのです。聖書に書かれているとおり、「何事にも時がある」ということです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.154-156

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 78-c (自殺しても魂は不滅で後悔と罪の意識に苦しむことになる)

 人が自殺してまず気づくのは、自分が死んでいないということです。この世との絆をまだ引きずっているわけですから、ひどく重いという著しい違和感を感じます。人間としての存在は死んでも、不滅の魂は死なないのです。この魂は物質界と霊界のあいだで行き場を失ってしまいます― 生きてはいても、愛する人どころか誰とも交信できないのです。魂はみずから命を縮めてしまったことで罪の意識にさいなまれ、苦悩します。自分の運命を知り、もし今も生きていたらどれほど有益で意義のある人生を送っていることか、と思い知るのです。自殺に駆り立てられるほどの特異な体験をなぜしなければならなかったのか、霊となってみてその理由に気づきます。あとに残された人びとの悲しみと怒りもわかるようになります。そして、なによりも不幸なのは、宙ぶらりんの状態になっていることです。天界.に行くこともできなければ、物質界に帰ることもできません。
 どっちつかずの“中間領域”で身動きが取れないまま、自分の恐ろしい行為を繰り返し思いだすのです。自分の死にざまを何度も何度も見ます。まるで不快な映画のようです。その映画館に閉じ込められていて、逃げ場はありません。
 自殺で死んだ場合、自分の行為を覚えている霊もなかにはいますが、多くは自分の死すら認識できないでしょう。一般に、こうした魂は自分の最後の死にざまを機械的に何度も繰り返します。自殺という行為は果てしなく循環する環となり、陰惨なものになりかねません。しかし、やがては、こういった霊も物質界での死に気づくときが来ます。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.156-157

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 78-d[79-e] (自殺をすると魂は現世での体験をやり直すことになる)

 どんな行為にもいわゆる動機という強い力が働いています。単に自殺だけでなくあらゆる行動の決定的要因となるのがこの動機です。動機によって行動が現われます。わたしたちは動機に基づいて行動を起こします。たびたび述べているように、因果という自然の法則があります。言い換えれば、行動は動機の直接の結果です。
 不治の痛いにかかった病人や老齢者の場合、絶望し、家族に時間や金銭的な負担、心労をかけないために自殺したいと考える人がいます。こういう人びとは、自分の行為がもたらす霊的な側面に気づいていないのです。おそらく、家族のメンバーたちは物質界に来る前から、グループとしてのカルマを解消するために状況設定をしていたのでしょう。あるいは、彼らには病人の介護という体験が必要だったのかもしれません。なかには、介添えを受けた自殺は好ましいと主張する人もいます― それによって苦痛が終わり、尊厳のある死が迎えられるからです。しかし、いったい誰に神を演じることなどできるのでしょうか?カルマを消すために魂があえて不治の病いを体験していたかもしれないではありませんか? 現世での本来の時間を勝手に縮めてしまうと、何か貴重なことを学べるはずだったのか、そういった体験が新しい霊的段階に至るために必要だったのか、わからなくなってしまいます。
 いずれにしても、自殺という現象が起きると、魂はあらためて体験をやりなおし、別の転生に同じような病気を持ち越さねばなりません。ただし、前世でその一部を経験しているので、今度の病気は前ほど過酷ではないでしょう。普通、魂は二度とかからないために病気を完全に消化しなければならないのです。
 自殺は不適当な行ないですが、例外がふたつあります。

 一、精神異常や生化学的アンバランスのある個人によって自殺が行なわれた場合。このような状況では、本人が自分の決断を完全には理解していません。彼らが亡くなると、一種の施設″のようなところに入り、そこで精神状態が癒やされ、魂本来の適切な状態を取り戻します。
 二、第二の例外は、適切な時機が来る前に物質界に戻ってしまった魂で、本人がまだ未熟なためにレッスンを学びきれない場合です。自分ではそれなりの力があると思ってはいても、実際に地上に来てみるとどうも落ちつけません。こうした欠陥を持つ場合、死ぬ前にしばしば次のような言葉を言い残します。「ぼくは合わない」とか「わたしには今はふさわしくないと思う」といった言葉です。

 成長し、学習することが魂の本質ですので、克服や埋め合わせをするための特殊な状況をわたしたちはつねに人生に持ち込みます。現世にいるあいだは、肉体的、精神的、あるいは、感情的苦痛を体験するのがあたりまえで、自殺したからといってそうした苦痛が消えはしないのだとわかれば、間違いなく自殺は減るでしょう。わたしたち自身、それを学ばねばなりません。そして、特に若い人びとに自殺の“過ち”を教え、人生を充分に生きる責任について知らせなければならないのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.157-159

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 78-e (自殺者の全員が同じ過ちを繰り返すなと警告する)

 大勢の人から質問を受けます。自殺した人物の遺骸はどうすればいいのか、と。遺骸はただの抜け殻です。外へ抜け出たとたんに魂はもはや抜け殻にはなんの愛着も感じません。着古した服のようなものです。自殺や悲劇的な事故の場合、遺体を火葬にすることが大切です。魂がまだこの世に未練を残していたとしても、火葬ならすばやく遺体が処分され、霊も物質界とのつながりを感じなくなるでしょう。そのほうが新しい状況を受け入れやすくなります。
 自殺にはそれぞれに異なる事情がありますから、この間題には単純な解決法などありえないことをまず理解してください。しかし、恐ろしい過ちを犯した人びとを助ける手だてはあります。そうした死者たちにはわたしたちの思いをこめて話しかけるしか方法はありません。まず、相手に想念を送り、物質界に戻ろうとして無駄なエネルギーを使うのはやめなさいと語りかけます。彼らもすでに肉体から離れていることにきっと気づくでしょう。次に、愛と平穏と許しの念を伝えます。このような美しい思いを伝えることで、悩める霊たちも慰められ、自分の置かれた状況に対する認識を深めるにちがいありません。
 自己破壊という行為の裏にはさまざまな理由があるわけですが、しかし、その結果はすべて同じです。わたしはいろいろな霊と交信していますが、今日までひとりとして、自分の決断に満足しているとか、ふたたび同じ行為を繰り返すだろうと語った霊はいません。むしろ、まったくその逆です。自殺者は自分の魂に対して犯罪を犯したという後悔の念を一様に持っています。全員が口をそろえて、同じ過ちを繰り返すなとほかの人びとに警告するのです。自殺行為によって彼らの霊的進歩は遅れ、そんな自分をなかなか許せなくて苦労しているのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.159-160

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 78-f (自殺は一生をかけて積みあげた多くの善を棒に振る)

 つぎはもうひとつの暴力による死、自殺だ。他人の命を奪うのと同じく、自殺にも心の迷いが関わっている。自殺行為によって、一生をかけて積みあげた多くの善を棒に振ることになるので、こちら側にいるわたしたちはいつも、そのような結論に達した者の人生を見ては心を痛めている。自殺には情状酌量の余地はまったくない。高次の魂はつねに当人の最大の利益を考えているから、意識的にみずからの命を奪おうと決めることは、心のより深い部分から生まれる直観とは相容れない。もしある人にとって死ぬことが最善であれば、病気やはっきりとした事故というかたちで自然に死ねるよう、魂が「取り計らう」のである。これはみなさんの世界ではきわめて理解しがたいことかもしれないが、すべてのできごとには目的がある。不幸なできごとには、人間の意志を行使した結果生じるものもある。あらゆる事件の背景には、人間を理解し学ぶという偉大な目的があるのだ。多くの死はある意味で、地上に残った人びとに対して劇的な効果をもたらす教訓なのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.45

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 78-g[36-s](生まれる前に設定したコースから横道にそれる例)

 自殺全体のどれくらいが憑依なのかは私にはわかりませんが、自殺することを生まれる前に設定してくることは、まずありません。自殺したということは、生まれる前に設定したコースから「横道」にそれてしまったということになります。
 自分ではこの方向に行こうと、生まれる前に設定していたにもかかわらず、違う道へと行ってしまって死んでしまったということです。途中で設定とは違う方向に進むことも、多々あるんです。
 死産とか幼くして死んでしまう子もいますが、これもそういうシナリオを設定した上で生まれているわけです。そういう子供の場合には、その親に対して何らかの気づきを与えたい、親自身に変わってほしいと子供が思っている場合が多いようです。
 その他にも「ほんのちょっとだけ人間をやってみたい」という地球外知的生命体もいますから、幼くして亡くなる原因は実にさまざまです。地球外知的生命体のケースは、物質世界をほんの少しだけ味わってみたいということでしょう。(坂本政道)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
     (徳間書店、2012、p.91)

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 78-h (戦争で自らの命を絶った人たちの場合) 

 靖国神社に祀られている祭神で、自決で亡くなった方々といえば、神風特攻隊や人間魚雷の乗組員のような兵士たちを思い浮かべるかもしれません。しかし、沖縄のひめゆり学徒隊も祀られています。ご存じのように、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒らで編成された看護隊で、二百余人が戦火で亡くなりました。彼女たちの中には、敗色濃厚になった後に、集団自決をした人たちもいました。他にも樺太の電話交換手だった九名の女性が祀られています。日本が降伏した後、八月二十日になってソ連軍は樺太の真岡市を攻撃。彼女たちは職場を放棄せず、最後まで本土と連絡を取り続け、敵の迫ってくる中で「みなさん、これが最後です。さようなら」の声を最後に、自らの尊い命を絶ちました。
 こうして亡くなった方々については、「自殺」であるとは、言えません。自ら命を絶つ行為は同じであっても、たましいの視点でみたときに大切なのは、「動機」だからです。
 現代人の自殺の「動機」の多くは、苦難からの「逃げ」であることが多いのではないでしょうか。しかし、先の特攻隊やひめゆり学徒隊の人たちは、死にたくて死んだのではありません。特攻隊であれば「国を守るため」「家族を守るため」に死んでいったわけですし、ひめゆり学徒隊であれば「辱めを受けるぐらいだったら、自ら命を絶つ」という思想が日本にあったわけです。その時代的な背景の中で死なざるを得なかったのと、「自殺」とではまるで意味が違います。
 すでに述べたように、亡くなったたましいが浄化できるかどうかは、どれだけ現世に執着を持つかによります。一般的な自殺は、自分の都合しか考えない「小我」によるものが多いと言えますが、特攻隊にしてもひめゆり学徒隊にしても、献身的な意識、自分の身を捧げる意識がまず先にありました。先の戦争における多くの人たちの自決は、「大我」に近い動機によるものであり、自らに執着することなく亡くなった方が多いのではないでしょうか。ですから、自殺したたましいのように未浄化となってさまようことも少ないのです。
 実際、私も沖縄に行って、ひめゆり学徒隊が自決した壕も見に行きましたが、未浄化のたましいは視ませんでした。

    江原啓之『日本のオーラ  ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.54-55

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 78-i (いま求められている死に向き合う心構え)

 昔の僧侶のなかには、自分の死期を悟ると身辺を整理し、遺書をしたため、断食状態に入る者たちがいた。比叡山延暦寺などに、そうした記録が残されている。
 平安・鎌倉期の高僧伝や往生伝によると、僧侶たちは断食に入る前に、まず五穀断ち、十穀断ちといった精進を行う。その後、完全な断食に入るが、最初は水だけは飲む。やがて水も断ち、さらには睡眠も断つ。
 一週間から十日ほど経つと、幻覚を見るようになる。阿弥陀如来が来迎して、僧侶の頭を撫でることもあるという。そうした幻覚体験の翌日に、多くの僧は静かに息を引き取るらしい。一種の宗教的自殺とも言える見事な往生の仕方である。
 また、岩手県遠野に伝わる神話や伝承などを集めた柳田国男の『遠野物語』には、こんな逸話が紹介されている。
 村のはずれに蓮台野という土地があり、六十歳を過ぎた者はみんなそこに追いやられる。命のあるうちは、日中は里に下って農作業を行い、日が暮れると蓮台野に戻る。
 彼らが朝、里に下ることを「ハカダチ」と言い、夕方、里から戻ることを「ハカアガリ」と言う。そうした暮らしのなか、いつしか見かけなくなる老人も出てくるだろう。それでも「ああ、あのじいさんは蓮台野にいるよ」と言うだけで、それ以上は追求しない。じつに合理的で、したたかな仕組みのように思う。
 自らの死を見つめ、それを静かに迎え入れる覚悟を決める。まさに人生五十年時代の死の作法だったと言える。
 では、人生八十年時代の死の作法とは、どのようなものか。近代医療では、寿命が尽きた人にも延命治療を施す。延命治療を行わない場合は、モルヒネを使って痛みを軽減させるなかで、やがて死に至らしめる。
 断食による死も、幸福な幻覚体験のなかで静かに死んでいく。その意味で断食もモルヒネも、一種の安楽死である。断食は、「食べたい」という欲望をコントロールする究極の作法で、断食による死は「生きたい」という欲望をコントロールする究極の死の作法と言えるだろう。
 二十一世紀に生きる我々は、エネルギーや食に対する欲望をどうコントロールするかという段階に来ている。人間の欲望は始末に困るもので、限界がない。今の文明生活を維持するには電力が必要で、原発やむなしという話にもなる。
 食の問題もそうで、食べるモノが十分にあっても、「もつとたくさん食べたい」「もっとおいしいものが食べたい」となる。果ては、老衰で食べられなくなり、本来は死ぬはずの老人に胃ろうで無理やり栄養を送り込み、長生きさせようとする。
 いまや「死」につくのは、自分で意識しないと、できないことになりつつある。歳をとれば死に支度をすることが大事で、それには何を捨て、何を断ち、何から離れるかを考えなければならない。(山折)

  渡辺和子・山折哲雄ほか『人は死ぬとき何を思うか』PHP、2014、pp.179-181

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 78-j (仏教徒にとっては良い動機による自殺は認められる) 

 池上: 仏教徒にとって、焼身自殺をするということにはどういう意味があるのでしょう? たとえば、キリスト教徒やイスラム教徒にとっては、自殺をするということは地獄に堕ちることを意味していますが、仏教徒にとってはどういう意味があるのでしょうか?
 ダライ・ラマ法王: 焼身自殺もひとつの行為です。ひとつの行為が悪い行ないなのか、よい行ないなのかを決める境界線は、その行為をしたときの心の動機によって決まります。
 その人が真撃な気持ちで仏教のことを考え、チベット人の人権を守ろうと考えてしたのなら、それはよい心の動機になります。そのような動機によって焼身自殺をしたのであれば、それはよい行ないになるのです。
 しかし、憎悪や怒りなど、中国人に対する強いネガティブな感情に基づいてされたとしたら、その行為は悪い行ないになります。これが仏教的な判断の根拠です。
 なぜそのような行為をしたのかという目的も重要です。もし、仏教のため、正義のために行なったのなら、それはよい行ないであり、単なる嫌悪や、相手に恥をかかせようとするなど、他の人をひどい目にあわせる目的でしたのであれば、悪い行ないになります。
 池上: ということは、よい動機による自殺は認められるということでしょうか?
 法王: はい。認められます。
  中国のあるお寺の僧院長を務めている中国人もそう言っています。焼身自殺が、宗教的に見て、仏教のために真摯な心の動機によってされたなら、それはよい行ないであると彼も述べていますが、中国政府はそれに対して制約を与えています。
 池上: ということは、最近行なわれているチベット人による焼身自殺は、よい行ないだと認められることになるのでしょうか?
 法王: そうとは言えません。今お話しした通り、同じ行ないであっても、一人ひとり心の動機が異なっているからです。もし誰かが、非常に強い怒りや憎しみによって自殺したのであれば、それは悪い行ないになってしまいます。

    池上彰『仏教って何ですか?』飛鳥新社、2014、pp.191-192

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 78-k (自殺に失敗して教えられた大きな教訓)

 過酷な自然条件のなかで堂々と生きている動物たちに比べて、人間はどうしてこんなに我が儘に物質的な快楽だけを求めるのでしょう。
 もっと苦労して下さい。苦労によって人間が何なのか、幸福とは何なのかがよく見えて来ます。
 私は今毎日のようにさまよう死者たちに語りかけ、そして成仏をしていただいています。17年前に自殺をして今もなおこの世をさまよっているはずだったこの私がです。これは何度考えても不思議な巡り合わせで、ただただ御仏に感謝申し上げるしかありません。
 まったくあの時に自殺が成功していたら私はどうなっていたでしょう。考えただけでも恐ろしくなります。
 錆びたカミソリの刃が手首の上を走っていたら、あの壁に浮かんだ恐ろしい顔も見ることがなかったでしょう。そして、おそらく手首の痛さと出血におののきながら、そのうちに意識が薄れて行って数分後には間違いなく肉体の終焉を迎えたことでしょう。
 肉体は茶毘にふされ埋葬されて形を消しますが、私の魂なる生命の意識体は生きています。妻子はもちろんのこと姉たちや甥姪にまで意識を通わせて、永遠に未解決の世界を彷徨することになるのは間違いありません。
 「私は確かに自殺したはずなのだが、こうして自分でいろいろ意識を働かせているところをみると、どうも私はまだ生きているらしい。どうしてなんだ、どうなっているんだ」
といった具合にです。
 なにしろ生きている人間としての体験しか持っていませんので、意識だけの世界に来てしまうと何もわからないので不安でたまりません。しきりにあわてふためくだけです。
 こんな自分の様子が手にとるように想像出来ると、本当にこれが現実のことでなくてよかったとつくづく思います。
 私にはこうして自分のことのように死者の立場を思い描くことができますので、毎日のご供養でも一生懸命に死者たちに話をしています。
「あなたが死んだことは夢でも何でもありません。本当にあなたは死んで肉体は消滅してしまっているんですよ。そして魂で今は生きているんですよ」と。
 本来なら私こそ死を自覚出来ずにさまよっているはずなのに、まったく逆の、成仏していただく立場に立ってこうして生きているのですから、不思議を通り越して有り難いという思いで一杯です。
 心から実感します。生きていてよかったと。
 そして、私は確かに生かされているのだと。
 それにしても死に直面して教えられたものは実に大きなものでした。

     萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、1994、pp.92-93