学びの栞 (B) 


 79. 人間の自由意志・動機 


 79-a[74-g] (指導霊からの援助と進むべき道を選ぶあなたの自由意志)

 あなた方は気がついていないようですが、皆さんは、毎日の生活を営むなかで、目に見えない友達によって一歩、一歩導かれ、手を貸してもらっているのです。彼らがあなたのためにしてくれることに気づいているとしても、それは当然のことだと考えています。
 この友達とは、人間の魂の世話をするために降りてきて、ときには何年間にもわたって、いや、一生にわたって、魂の中に神聖な火花を起こそうとしている指導霊のことです。彼らはどんな困難に直面してもひるむことなく、ばらばらになってしまった人間の生活の断片を元に戻そうとして、絶えず努力しています。人間の魂のなかに、ほんのわずかであれ、キリストの意識を目覚めさせようとして頑張っているのです。
 彼らは地上に住む人間をこのようにたえず援助するかたわら、地上よりもさらに低いアストラル界の下のほうにも降りていって仕事をしています。アストラル界の上層部にも行きます。人間存在の最も低いレベルから最も高いレベルまで、人間に対する彼らの超越的な愛と援助が浸透しているのです。
 それでは、人間の自由意思の力はどうなるのだ、という疑問を皆さんは持つかもしれません。人間は欲望の程度によって判断されるのか、成功によってか、それとも失敗によって判断されるのかと思われるかもしれません。なぜなら、人間の日常生活の外面的な枠組みに対してさえ、この強烈な力が働いているとすれば、人間は何かの大きなゲームの駒、あるいは、操り人形に過ぎないからです。
 しかし、事実は異なります。たしかに、人間の内面的な生活に対するこのような手助けが、偉大な愛の存在である神によって命じられてはいますが、それによってほんのわずかであれ行動する際の自由意思が、人間から失われるということはありません。
 なぜなら、あなた方は常に選択をしているからです。上昇する道を進むか、それとも、下降する道を進むか。外部の出来事に対して肯定的に反応するか、否定的に反応するか。あるいは、建設的な行動をとるか、破壊的な行動をとるか。下降する道を選択したときにのみ、苦しみや苦難を通して、その選択ないしは決定の“結果”を体験することになるのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、pp.207-208

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 79-b[64-c] (人間には運命と自由意思による選択の両方が存在する)

 自由意思は存在し、同時に、運命も存在します。ここにおいて、人間は自由意思対運命という問題に直面することになります。これはなんと大きな、そしてまた、一見したところ解決不可能に思われる問題でしょうか。まさにこれは不可解な問題です。そして、人間は神の知識に徐々に近づくことによって、初めてこの間題に対する理解が得られるのであって、けっして知的な理解によって達成できるものではないと知ったとき、自由意思と運命の問題は明らかになってきます。人間には、運命と自由意思による選択の両方が存在しているのです。
 一人の人間についていえば、運命とはその人が一生涯のうちに体験しなければならない、そして体験することになるであろう、一連の物理的な体験を意味します。自由意思とは、その人の日常的な物理的生活を構成しかつ支配する、一連の状況、環境、境遇に対して、霊的にどのように反応するかということです。
 与えられた境遇に対応する中で、より優しく、かつ親切な人柄になっていけば、人生もその人に対してより優しくなっていくでしょう。逆に、恨みを持ち、同胞に対して厳しく無慈悲な行動をとる人間になれば、過酷な出来事を自分自身に引きつけ、因果の法則にしたがって、そのような厳しい状況を現実化することになるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、pp.208-209

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 79-c[44-zc] (神の手は子供を迎え入れるべく常に開かれている)

 本当の幸せは自分で獲得するしかないのと同じように、肉体の健康・調和も自分で獲得しなければなりません。しかし、神について学ぶためには苦しみの炎を通っていかなければならないということはありません。人は、穏やかな心と喜びを通して、もつと簡単に神を発見することもできるのです。これは、神に向かう究極の道と言えるかもしれません。というのは、人はこの道を歩もうとするときには、まず自分を否定し、自己を克服しなければならないからです。
 しかし、道は誰にでも開かれています。ここで再び、善と悪、肯定的と否定的、苦しみと喜びという問題が出てきます。左の道を行くか、右の道を行くか、それは個人の自由です。人間は自らの願望によって父なる神のもとに帰ることができますが、それは自らの罪を転換させることによってもできます。父なる神の手は、子供を迎え入れるべく常に開かれているのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.274-275

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 79-d[64-g] (運命と自由意志は共存し常に互いに影響し合っている)

 人は誰もが人生の計画を持っていますが、私達はまた、自由意志も持っています。私達の両親も、私達が出会う誰もかも、それは同じです。私達の人生も彼らの人生も、肉体を持っている間に私達が行なう選択によって影響を受けますが、運命の転換点はやはり、やって来ます。私達は会うように計画して来た人々と出会い、生まれる前に計画したチャンスや困難に直面します。しかし、そのような出会いをどう扱うか、私達の反応やそれに続く決断は、自由意志の表れです。運命と自由意志は共存し、常に互いに影響し合っています。この二つは矛盾するものではなく、補完し合っているのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.71-72

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 79-e[78-d] (自殺をすると魂は現世での体験をやり直すことになる)

 どんな行為にもいわゆる動機という強い力が働いています。単に自殺だけでなくあらゆる行動の決定的要因となるのがこの動機です。動機によって行動が現われます。わたしたちは動機に基づいて行動を起こします。たびたび述べているように、因果という自然の法則があります。言い換えれば、行動は動機の直接の結果です。
 不治の痛いにかかった病人や老齢者の場合、絶望し、家族に時間や金銭的な負担、心労をかけないために自殺したいと考える人がいます。こういう人びとは、自分の行為がもたらす霊的な側面に気づいていないのです。おそらく、家族のメンバーたちは物質界に来る前から、グループとしてのカルマを解消するために状況設定をしていたのでしょう。あるいは、彼らには病人の介護という体験が必要だったのかもしれません。なかには、介添えを受けた自殺は好ましいと主張する人もいます― それによって苦痛が終わり、尊厳のある死が迎えられるからです。しかし、いったい誰に神を演じることなどできるのでしょうか?カルマを消すために魂があえて不治の病いを体験していたかもしれないではありませんか? 現世での本来の時間を勝手に縮めてしまうと、何か貴重なことを学べるはずだったのか、そういった体験が新しい霊的段階に至るために必要だったのか、わからなくなってしまいます。
 いずれにしても、自殺という現象が起きると、魂はあらためて体験をやりなおし、別の転生に同じような病気を持ち越さねばなりません。ただし、前世でその一部を経験しているので、今度の病気は前ほど過酷ではないでしょう。普通、魂は二度とかからないために病気を完全に消化しなければならないのです。
 自殺は不適当な行ないですが、例外がふたつあります。

 一、精神異常や生化学的アンバランスのある個人によって自殺が行なわれた場合。このような状況では、本人が自分の決断を完全には理解していません。彼らが亡くなると、一種の施設″のようなところに入り、そこで精神状態が癒やされ、魂本来の適切な状態を取り戻します。
 二、第二の例外は、適切な時機が来る前に物質界に戻ってしまった魂で、本人がまだ未熟なためにレッスンを学びきれない場合です。自分ではそれなりの力があると思ってはいても、実際に地上に来てみるとどうも落ちつけません。こうした欠陥を持つ場合、死ぬ前にしばしば次のような言葉を言い残します。「ぼくは合わない」とか「わたしには今はふさわしくないと思う」といった言葉です。

 成長し、学習することが魂の本質ですので、克服や埋め合わせをするための特殊な状況をわたしたちはつねに人生に持ち込みます。現世にいるあいだは、肉体的、精神的、あるいは、感情的苦痛を体験するのがあたりまえで、自殺したからといってそうした苦痛が消えはしないのだとわかれば、間違いなく自殺は減るでしょう。わたしたち自身、それを学ばねばなりません。そして、特に若い人びとに自殺の“過ち”を教え、人生を充分に生きる責任について知らせなければならないのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.157-159

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 79-f[44-zh] (人間には自分自身の運命を決める自由が与えられてきた)

 さて、「天上の」私たちは何度も何度も同じ悲嘆の声を聞いてきた。
 「もし天に神が存在するなら、地上にはなぜそのようなつらいことが起きるのだろう」
 天に向かってこう叫ぶ人びとがつらい苦痛や絶望に悩んでいることは事実だろう。この問いに答えるために、心からの共感をこめて、ささやかな真理をお教えすることにしよう。すなわち、人間には自分自身の運命の方向を決める自由が与えられてきた、ということなのだ。これは天からの贈り物である。この自由こそは、人間の本質をあらわすのにもっともふさわしい表現であるが、また人類には、誤りを犯したり悪事をはたらいたりする自由もある、という意味でもあるのだ。そのような体験を妨げる神(あるいは女神)とは誰なのだろう?
 「それではいったい、罪のない犠牲者の場合はどうなのか」
 こんな声もあるようだが、それにはこうお答えしておこう。もし誰かが潔白であるというのなら、すべての人は― 無邪気にも人生の真の意味や自分たちの大きな思い違いに気づかない犯罪者や独裁者さえも― 潔白だということになる。その上いわゆる犠牲者は、本当に不運な事故にあった罪のない者というわけではない。もしみなさんが各人の生まれ持った心理的な基盤という複雑な仕組みを理解しさえすれば、その秘密は明らかになることだろう。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.17-18

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 79-g (あなた方が選んだから世界は今のような状態なのである)

 それでは、世界にはいつまでも問題があるだろうとおっしゃるのですか? いつまでも問題があることのほうを、あなたは望んでいるのですか?

 わたしは、世界がいまのようであるのは―雪の結晶が雪の結晶として存在するように―はっきりと意図された結果だと言っている。あなたがたが、そういう世界を創り出したのだ。自分の人生を創り出したように。
 わたしが望むのは、あなたが望むことだ。あなたがたがほんとうに飢餓を終わらせたいと思った日に、飢餓はなくなるだろう。そうするための力はすべて与えてある。その選択をするための道具を、あなたがたはすべてもっている。だが、そうしなかった。できないからしないのではない。世界は明日にでも飢餓を終わらせることができる。あなたがたが、その選択をしないのだ。
 毎日四万人が死ぬのには、やむをえない理由があるのだと、あなたがたは言う。だが、そんな理由はない。あなたがたは毎日四万人が餓死するのを止められないと言いながら、一方では毎日五万人の新しい命を誕生させている。それを、あなたがたは愛だという。それが神の計画だという。そんな計画は論理的でもなく、根拠もない。まして、同情とは何の関係もない。
 あなたがたが選んだから、世界はいまのような状態なのだ。あなたがたは組織的に環境を破壊しておいて、いわゆる天災を神の残酷ないたずらだ、自然の厳しさだと言う。だが、自分にいたずらを仕掛けているのはあなたがた自身であり、残酷なのはあなたがたのやり方だ。
 自然ほど優しいものはほかにない。そして、自然に対する人間の仕打ちほど残酷なものもほかにない。それなのに、あなたがたは手をこまねいて、全責任を否定している。自分たちの過ちではないとあなたがたは言うが、それもあたっている。過ちではなく、選択の問題だからだ。
 あなたがたは、明日、熱帯雨林の破壊を止めることができる。地球をまもるオゾン層の破壊を防止しようという選択ができる。地球の精巧な生態系への攻撃をやめようという選択ができる。雪の結晶を元に戻そうと努力すること、あるいは少なくとも容赦なく溶けていくのをくい止めようと努力することができる。だが、あなたがたはそうするだろうか?
 同じく、明日すべての戦争を終わらせることができる。簡単に、たやすく。いま必要であり、これまでも必要だったのは、全員が心をひとつにすることだけだ。だが、人間どうしの殺しあいを終わらせるという基本的で単純なことでさえ、全員が同意できないのに、どうして天がこぶしを振りまわして、あなたがたの人生に秩序をもたらしてくれるなどと期待するのか。
 わたしは、あなたがた自身がしないことは何もしない。それが法則であり、預言だ。
 世界がいまのようになったのは、あなたがたのせいだ。あなたがたが何かを選択した、あるいは選択しなかったせいだ(決意しないというのも決意のひとつだから)。
 地球がいまのようになったのも、あなたがたのせい、あなたがたが何かを選択した、あるいは選択しなかったせいだ。
 あなたがた自身の人生がいまのようになったのは、あなたがたのせい、あなたがたが何かを選択した、あるいは選択しなかったせいだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.71-73

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 79-h (意図は何らかの結果と一体となって存在する原因である)

 私たちの多くにとって、責任を負わせられるということは、捕らわれることにも等しい。そこで私たちは、可能な限り責任を回避しようとする。しかし責任からは永遠に逃れられない。
 あらゆる行動、思考、フィーリングが、意図によって動機づけられている。意図は、何らかの結果と一体となって存在する原因である。もし私たちが何らかの原因にかかわったとしたら、私たちがその結果とかかわらないことは不可能である。このようなきわめて深いレベルで、私たちは、自分のすべての行動、思考、フィーリングに関する責任を負わせられている。
 私たちは、自分の意図の果実のすべてを、みずから食べなくてはならないのである。よって、自分のさまざまな意図を認識するとともに、どの意図がどんな結果をつくり出すかを整理し、自分がつくり出したい結果につながる意図を選択することは、賢いことである。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
    サンマーク出版、2003、pp.34-35

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 79-i (あなたには何ものにも代えがたい自由意志が与えられている)

 あなたには何ものにも代えがたいものが与えられている。自由意志である。意志には大きな力がある。自然に逆らったことをさせ、間違った道を歩ませ、敢えてあなたにとって正しくない方角へ努力を向けさせる力がある。
 同時にそれが正しい生き方、霊的進歩、愛といったものへ向けられると、この世にこれほど強力なものもない。そのいずれを選ぶかは、何ごとにおいても同じであるが、あなた次第である。他人を咎めてはいけない。すべては自分で選んだ、その結果なのである。あなた自身に責任があるのである。あなたが他人の犠牲になることは絶対にない。あなたがあなたの魂の主人であり、あなたの運命の支配者なのである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』近藤千雄訳、
    (潮文社、1988)pp.41-42

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 79-j (丹波哲郎が霊界真理を伝えるようになった動機) 

 (雑誌記者)― 丹波さんといえば、「あの世ブーム」の仕掛け人。ヒットした映画『大霊界』シリーズを思い出します。
 江原 私が丹波さんに初めてお目にかかったのは七年ほど前でした。その時に、自分は戦争中に体調を崩し戦地に行けなかったが、終戦した途端に元気になり、役者として世に出ることができた。その奇跡的な体験を経て霊的なことに目覚めたと話しておられました。
 ― えー、それって「自分は生き延びられて良かった」という物質的価値観にも聞こえるんですけど。
 江原 まったく違います。大切なのは動機だって言ってるでしょう。丹波さんは、自分が生かされたのは霊界の宣伝マンという役割を担っているからだと信じていたんです。そうでなかったら、役者として成功してから霊界の啓蒙などしませんよ。ヘンな人だというレッテルを貼られるのが目に見えているのに。いずれにしても、丹波さんの残した業績は大きい。丹波さんが「あの世」についての下地を作ってくださったからこそ、今の私もあるのだと感謝しています。
 ― ちょっと待ってください。丹波さんの啓蒙によって、あの世の存在を信じるようになった日本人がいると江原さんは思っているんですか。
 江原 ええ。
 ― そんなの一人もいませんよ!
 江原 それはあなたが信じていないからでしょう。ハナから信じていない人に、誰も「実は私、あの世の存在信じてるの」とは言いませんよ。だから、周りが皆自分と同じだと思っている。それは倣慢な考え方です。そして、想像力がない。
 ― いやいや、少なくとも自分の友人には一人もいません。
 江原 それも「波長の法則」かもしれませんよ。少なくとも、あなたの知らないところで丹波さんの言葉を信じた人はいます。その背景に、丹波さんの明るいキャラクターが人々に愛されたこともあるでしょう。なにしろ大我な心の持ち主で、どんな人とも分け隔てなく接し、「自分にかかわる人は一人残らず幸せにしたい」が口癖でした。無邪気な人でもありましたね。葬儀の最中もお棺の上に腰掛けてニコニコしてらっしゃいましたよ。
 ― ――出た! それこそオカルトの世界じゃないですか。
 江原 後日聞いた話ですが、私の後に弔問にいらした美輪明宏さんも「あら、お棺の上に座ってらっしやるわ」とおっしゃったそうです。丹波さんのマネジャーの方が「江原さんも同じことを言ってました!」と仰天したそうです。

    江原啓之『江原啓之 本音発言』講談社、2007、pp.222-224