80. 学問・科学・研究


 80-a (死への過程を見つめた『死ぬ瞬間』が世に出るまで =1=)

 信じがたいことだが、世の中には、わたしがとり組んでいるテーマについてわたしが知悉しているものだと、本気で考えた人たちがいるらしい。そんな人のひとりに、ニューヨークにあるマクミラン出版社の編集者、クレメント・アレクサンダーがいた。「死とその過程」セミナーについて書いた短い論文が、どういう経路をへてか、クレメントの手にわたった。クレメントはシカゴにやってきて、死が迫っている患者とのワークについて本を書く気はないかとたずねた。五万語の原稿とひきかえに七〇〇〇ドルを支払うという契約書にサインを迫られたときも、わたしは仰天して口がきけないほどだった。
 執筆に三か月の時間をくれればひき受けてもいいと答えた。マクミラン社に異論はなかった。しかし、編集者が去ってひとりになると、執筆時間の捻出法にあたまを悩ますことになった。子どもと夫の世話をし、病院でフルタイムの仕事をし、ほかにもいろいろな仕事があった。あらためて契約書をみると、そこにはすでに著書のタイトルが書きこまれていた。『死とその過程について』(邦訳は『死ぬ瞬間』、川口正吉訳、読売新聞社)。悪くなかった。マニーに電話をして朗報を伝えた。それから、自分が本の著者になることを想像しはじめた。現実感がなかった。
 だが、わたしに本が書けない理由があるだろうか? わたしのあたまのなかには無数の症例と観察記録が山と積まれているではないか。それから三週間、ケネスとバーバラが眠っている夜の時間を利用して、わたしはデスクに向かい、構想をねった。考えているうちに、死に瀕した患者たちが、いや、あらゆる種類の喪失に悩む人たちが、きまって似たような心理のプロセスをたどることに気がついた。それはじつにはっきりとしたパターンだった。はじめに起こるのはショックと否定、怒りと憤り、嘆きと苦痛である。つぎに神との取引がはじまる。意気消沈し、「なぜわたしが?」と問いはじめる。そしてついには他者から距離を置き、自己のなかにひきこもるようになる。その段階をへて、うまくいけば、やすらぎと受容の段階がおとずれる(悲嘆と怒りが表現できないときは、受容ではなく断念になる)。
 「ライトハウス」で会った親たちもそうした段階をへていることが、はっきりとみてとれた。かれらは盲目の子どもの誕生を喪失−−期待していた正常で健康な子どもの喪失―だと感じていた。ショックと怒り、否定と抑うつの段階を経過し、なんらかのセラピーの援助によって、最後には変えられないものを受容するという段階に到達するのだ。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.206-207

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 80-b  (死への過程を見つめた『死ぬ瞬間』が世に出るまで=2=)

 近親者を失った、あるいは失おうとしている人たちも、否定とショックではじまる同じ五つの段階を経過していた。「よりによって妻が死ぬなんて。子どもが生まれたばかりなんだ。そんなばかなことがあるか!」「いやよ! わたしが死ぬなんて」。否定は防衛であり、予期せぬ悲運に対処するときの正常で健全な反応である。否定することによって、人は人生の終わりを考え、それまでと変わらない人生にもどろうとする。
 これ以上否定しても無駄だとわかると、こんどは怒りが生じてくる。患者は「なぜこのわたしが?」と間いつづけるのをやめ、「なぜあの人じゃないの?」と問うようになる。家族、医師、看護婦、友人などにとっては、とくに対処がむずかしい段階である。患者の怒りはあたりかまわず、散弾のように発射される。いたるところに散弾の破片が飛びちり、だれもが被弾する。神をののしり、家族をののしり、健康な人すべてをののしる。それは「わたしは生きているんだ。そのことを忘れないでくれ」という叫びでもある。とりつく島のない怒りである。
 罪悪感を感じたり恥ずかしい思いをしたりせずにその怒りを表現することができた患者は、つぎに取引の段階に移行することが多い。「お願いです。この子が幼稚園に入るまで、妻を死なせないでください」そう祈ったかと思うと、つぎにはまた別の祈りをささげている。「この子がハイスクールを卒業するまで待ってください。その年齢なら、この子も母親の死に耐えられるでしょう」。この段階にある人たちの神との約束がけっしてまもられないことに、わたしは気づいている。かれらはそのつど賭け金をあげて、文字どおり神とかけひきをしているのだ。
 しかし、取引の時期は介護人にとっては対処しやすい時期でもある。怒りが残っているとはいえ、患者はもはや助言も聞けないほど敵意のかたまりになっているわけではない。また、抑うつはあっても、だれともこころを通わすことができないほどの状態ではない。たまに怒りの散弾銃を発射するが、まず被弾することはない。やり残した仕事を完了しようとする患者の援助には、いちばんいい時期なのだ。わたしのやりかたはこうだ。患者の病室に入っていく。怒りをぶつけてきたら正面から受けとめる。怒りの炎に油をそそぐ。怒りを外面化させ、思いのたけを吐露させてしまうのだ。そうすれば、憎悪はしだいに愛と理解に変わっていく。
 ある時点で、変化の大きさに耐えきれずに、患者がひどく落ちこんでしまうことがある。無理もない。ごく自然ななりゆきである。病状は否定しようもなく悪化していく。からだがいうことを聞かなくなる。やがては経済的にも逼迫してくる。そんなとき、患者はよく急激な衰弱をみせる。たとえば、乳房を失った女性は女らしさがなくなったことに悩んでいる。そうした悩みをオープンに、率直に、ずばりと話せる相手がいれば、患者はしばしばすばらしい反応をみせるものなのだ。
 もっているものも愛している人たちもすべてを失うのだと、そのことばかりを考えている患者の抑うつは対処がむずかしい。それはある種、静かな抑うつだ。その状態になると、あかるい面がどこにもみられなくなる。過去に見切りをつけ、はかりがたい未来をおしはかろうとするその心理状態を多少なりとも楽にするためのことばはいっさい耳に入らない。そんなとき、最良の援助は患者の悲しみを認め、祈り、やさしく手をふれ、そばに座っていることなのだ。
 患者が怒りを表現し、泣き、嘆き、やり残した仕事をやり終え、恐怖をみとめるという段階を経過すると、受容という最後の段階に到達する。幸福だというわけではないが、もはや抑うつもなく、怒りもなくなる。おだやかで瞑想的なあきらめのとき、やすらかな予期がおとずれるときである。身もだえるような苦闘の時期が終わり、はてしないまどろみへの欲求にとってかわる。ある患者のことばとして『死ぬ瞬間』で紹介した、「長い旅の前の最後の休養」である。
 本は二か月で書きあげた。書き終えて気づいたのは、はじめての講義の前に図書館でしらべたときに「そんな本があれば」と思った、まさにその本を自分が書いたということだった。最終原稿を郵便ポストに投函した。『死ぬ瞬間』が重要な本になるかどうかはわからなかったが、そこに書きつづった情報がひじょうに重要なものであることは確信していた。読者がそのメッセージを誤解しないでほしいと、痛切に願った。わたしが面接した末期患者たちは、身体的には病気が治ることはなかったが、感情的、精神的、霊的には、全員がすばらしい境地に達していた。実際のところ、それはほとんどの健康な人たちよりもはるかに満ち足りた心境だった。
 後日、臨終の患者から死についてなにを学んだのかと、くり返し聞かれるようになった。はじめは臨床的な説明で答えようと考えたが、それでは自分をいつわることになると気づいた。瀕死の患者たちが伝えてくれたのは、死にゆく人の心境の描写よりもはるかに有意義なものだった。衰弱がすすみすぎて、もう時間切れになる前に、かれらはやればできたこと、やるべきだったこと、やれなかったことについて、貴重な教訓を分かちあってくれた。人生をふり返り、死にかんしてではなく、生にかんして、真に意味のあることがなんだったのかを教えてくれたのである。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.207-210

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 80-c (死への過程を見つめた本『死ぬ瞬間』が世に出るまで=3=)

 『ライフ』の記者は大学で行なっている「死とその課程」セミナーについて特集記事を書きたいといってきた。わたしは大きなため息をついた。いうべきことばがみつからないときに、でてくるのはため息しかなかった。メディアの力についてなにも知らず、おまけに理解者がいないことに屈託していたわたしは、記者の申し出に「イエス」といった。わたしの仕事が人びとに知られるようになれば無数の人のいのちの質を変えることにつながるかもしれないという予感もあった。
 記者といっしょに取材の日程をきめると、わたしはセミナーに協力してくれる患者を探しはじめた。セミナーの当日はたまたまゲインズ牧師が出張で不在の予定だったので、患者探しはいつもにましてむずかしい作業になった。『ライフ』のことを聞きつけたゲインズ牧師の上司がしゃしゃりでてきた。その上司は野心的ではあったが、患者探しの戦力にはならなかった。
 どんよりと曇ったある日のこと、わたしは放心状態でがん病棟の廊下を歩いていた。ドアが半びらきになっている部屋になにげなく目をやった。ほかのことに気をとられ、患者探しをしていることさえ忘れていたわたしの目は、はっとするほど美しい娘の顔に釘づけになった。その顔をみればだれもが立ちどまってしまうほどの美貌だった。
 娘の目に吸い寄せられるようにして、病室に入っていった。名前はエヴァ、二一歳だった。女優になってもおかしくない黒髪のその美人は、白血病で死をむかえようとしていた。それでもなお、エヴァは快活で社交性に富み、夢をえがき、冗談をいい、あたたかいこころをもっていた。婚約もしていた。「ほら、みて」指輪をみせながらエヴァはいった。エヴァにはまだ未来があったのだ。
 しかし、エヴァは自分の容体については正確に把握していた。死んだら埋葬させずに、医学校に献体してもらうといっていた。そして、自分の病状を認めようとしない婚約者に腹を立てていた。「あの人は貴重な時間を無駄にしてるのよ」とエヴァはいった。「なんのかんのいっても、わたしはもう長くないんですもの」。かぎられた時間をせいいっぱい生きたい、まだまだ新しい体験をしたい、エヴァがそう考えていることを知って勇気づけられた。セミナーに参加してくれるかもしれないと思い、その話を切りだしてみた。すでにセミナーのことを聞き知っていたエヴァは、ぜひ参加したいと答えた。死の床にある患者からこんな質問をされたのははじめてだった。
 「白血病でも参加資格があるの?」
 むろん問題はなかった。しかし、その前に『ライフ』の取材のことを知らせておく必要があった。
 「すてき!」エヴァはいった。「やってみたいわ」
 ご両親に相談したほうがいいのでは、とわたしは忠告した。
 「その必要はないでしょ」エヴァがいった。「もう二一歳よ。自分できめられます」
 たしかにそのとおりだった。金曜日、わたしはエヴァを乗せたストレッチャーを押して面接室に入っていった。ふたりとも、髪形のカメラ写りを気にしている、ただの女になっていた。セミナーがはじまるとすぐに、わたしの勘の正しさが証明された。エヴァはうってつけの被験者だった。
 まず第一に、ほとんどの学生と同世代だった。死が老人だけのものではないことを端的にわからせてくれた。また、エヴァの容姿がことば以上のものを語ってくれていた。白いブラウスとツイードのスラックスに身をつつんだエヴァは、カクテルパーティーにいくところかと思うほどに輝いていた。しかし、実際には死が間近に迫っていた。その現実をみつめるエヴァの率直さが参加者の胸を打った。「生存率が一〇〇万にひとつであることはわかっています」エヴァは告白した。「でも、きょうはそのひとつのチャンスについてお話したいのです」
 そう前置きして、エヴァは病気についてではなく、生きていられたらどうなるかについて話しはじめた。話題は学校、結婚、子ども、家庭、そして神にまでひろがっていった。「子どものころは神さまを信じていました。いまはわかりません」エヴァは素直にそういった。子犬がほしいこと、家に帰りたいことなど、そのときの気持ちをありのままにしゃべりつづけた。エヴァはためらうことなく、なまの感情をさらけだした。マジックミラーのあちら側でエヴァとわたしの言動を記録している記者やカメラマンの存在は、ふたりともまったく気にしていなかった。エヴァとわたしには事態が順調に進行していることがわかっていた。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.211-214

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 80-d  (死への過程を見つめた本『死ぬ瞬間』が世に出るまで=4=)

 『ライフ』の特集号は一九六九年の一一月二一日に発売された。わたしがまだ雑誌をみていないうちから病院に電話が殺到しはじめた。だが、エヴァの反応が心配だった。その日の夜、自宅に何冊かの雑誌が送られてきた。翌朝、早い時間に病院に駆けつけ、『ライフ』をエヴァにみせた。掲載誌が病院の売店にならび、にわか名士にされる前にみせておきたかったのだ。ありがたいことに、エヴァは記事を気に入ってくれた。ただ、世間のきれいな娘と同じように、自分の写真うつりには満足していなかった。「いやだわ、写真はあまりよくないじゃない」とエヴァはいった。
 病院側はわたしたちほど有頂天になっていたわけではなかった。その日、最初に廊下ですれちがった医師はあざけるように笑い、下品な口調でこういった。「また宣伝用の患者探しですかな?」。管理職のひとりは「死ぬことで病院が有名になった」とわたしを非難した。「われわれの評判は患者が治ることにあるんだぞ」管理職はいった。『ライフ』の記事はほとんどの病院スタッフにとって、わたしが患者を食いものにしていることの証明にすぎなかった。なんにもわかっていなかったのだ。一週間後、病院側は医師に協力禁止を命じることで、わたしのセミナーをつぶしにかかってきた。つぎの金曜日、わたしはほとんど空席の会場に立つことになった。
 面目はまるつぶれだったが、マスコミの力で動きだした事態を病院側がすべて無にすることはできないはずだった。ともあれ、わたしはアメリカで最大の、もっとも影響力のある雑誌に登場したのだ。病院の郵便受けはわたしあての手紙であふれ返った。わたしと連絡をとりたいという人たちからの電話で、交換台はパンク寸前になった。わたしはほかのマスコミからの取材を受け、ほかの大学での講演さえひき受けた。
 著書の『死ぬ瞬間』が出版されると、世間の関心はさらに高まっていった。著書は国内外でベストセラーになり、事実上、アメリカのすべての医学校や看護学校が重要な本であることをみとめた。ふつうの人たちも、いつのまにか「死の五段階」について議論しはじめていた。著書がそれほど熱烈に世にむかえられ、自分自身が有名人の仲間入りをすることになろうとは夢にも思っていなかった。皮肉なことに、その本を完全に無視した唯一の場所は、わたしが勤務する病院の精神科だった。それは、どこかほかに職場を探す必要があることを示す、あまりにも明白な徴候だった。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.214-215

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 80-e (死への過程を見つめた『死ぬ瞬間』が世に出るまで=5=)

 周辺の状況は一変したが、主要な関心事が真の教師としての患者にあることは変わらなかった。とりわけ、『ライフ』に登場した娘、エヴァのことが気になっていた。大晦日に病室をおとずれ、エヴァがいないことに気づいたとき、その心配は極限に達した。退院し、ほしかった子犬を手に入れたと看護婦から聞いて、ほっと胸をなでおろした。しかし、看護婦の話はまだ終わっていなかった。エヴァはその後、容体が急変して、いまはICU(集中治療室)に入れられているというのである。わたしはあわててICUに走った。待合室にエヴァの両親がいた。
 両親は、瀕死の患者の家族によくみられる、あの無力で悲しげな表情を浮かべ、待合室に座っていた。病院のばかげた面会規則が、愛娘につき添うことを禁じていた。ICUの規則によって、指定された時間内に、わずか五分の面会しかゆるされていなかったのだ。怒りがこみあげてきた。娘のそばにいて、支えになり、たがいに愛しあうのも、きょうが最後になるかもしれないではないか。待合室にいるあいだに娘が死んでしまったら、どうするつもりなのか?
 医師であるわたしはエヴァがいる部屋に入ることができた。ICUのなかで、エヴァは裸のままベッドに横たわっていた。天井からは異様にあかるい光が照射されていたが、エヴァにはその光を調節することも、そこから逃げることもできなかった。生きた姿のエヴァに会えるのはこれが最後であることはすぐにわかった。エヴァにもわかっていた。口はきけなかったが、わたしの手をにぎり、手で「ハロー」といった。そして、天井を指さした。照明を消してほしかったのだ。
 エヴァのなぐさめと尊厳をまもることしかあたまになかった。わたしはすぐに自分で照明のスイッチを切り、エヴァのからだをシーツでおおいなさいと看護婦に命じた。信じがたいことに、看護婦はためらいをみせた。余計な口だしをするなという態度にもみてとれた。看護婦は「なぜですか?」といった。なぜですって?わたしは激怒し、自分でシーツをかけた。
 哀れにも、エヴァはその翌日、一九七〇年一月一目に亡くなった。エヴァを延命させられなかったことはしかたがなかった。だが、病院で、寒さと孤独のなかで死んでいった、その死にかたには耐えられなかった。わたしの仕事はすべて、そうした状況を変えることに向けられていたはずだった。家族を廊下や待合室に残したまま、たったひとりで死んでいくなど、エヴァのみならず、だれにとってもありえないことだった。病院でなによりも人間の欲求が最優先される日がくることを、わたしは胸に思い描いた。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.215-216

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 80-f (2万人の患者から導き出された死後の生の真実 =1=)

 死後の生に対するわたしの研究はますます勢いがついていた。一九七〇年代の前半だけでも、ムワリムとわたしは約二万人の患者に面接をした。患者の年齢は二歳から九九歳まで、文化的にもエスキモー、アメリカ先住民からプロテスタント信者、イスラム教徒まで、多種多様だった。そのすべての症例の臨死体験には共通性があり、体験の真実性を強く示唆していた。
 それまでのわたしは、死後の世界などまったく信じていなかった。しかし、データが集まるにつれて、それらが偶然の一致でも幻覚でもないことを確信するようになった。自動車事故で医学的に死亡が確認されたある女性は、生還する前に「主人に会ってきた」と証言した。その女性はのちに医師から、事故の直前に、夫が別の場所で自動車事故を起こして亡くなっていたことを知らされた。三〇代のある男性は、自動車事故で妻子を失い、失意のあまり自殺したときのことを証言していた。やはり死亡が確認されたが、その男性は家族に再会し、みんな元気そうであることを知って、生還してきた。
 死の体験にはまったく苦痛がともなわないこと、二度とこちら側に帰ってきたいとは思わなかったことも、すべての症例に共通する体験だった。かつて愛した人、愛された人たちと再会し、あるいはガイド役の存在と出あったあと、かれらは世にもすばらしい場所に到達して、もうもとの世界には帰りたくないと感じる。ところが、そこでだれかの声を聞くことになる。「まだその時期ではない」という意味の声を、事実上、すべての人が聞いていたのである。五歳の男の子が母親に死の体験のすばらしさを説明しようとして絵を描いている場面は、いまでもよく覚えている。男の子は光り輝くお城を描いて、「ここに神さまがいるんだよ」といった。それから、あかるい星を描き足した。「ぼくがこのお星さまをみると、お星さまが『おかえり』っていったんだ」

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.245-246

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 80-g (2万人の患者から導き出された死後の生の真実 =2=)

 こうした驚くべき発見の数々からみちびきだされたのは、さらに驚くべき科学的結論、すなわち、従来のような意味での死は存在しないという結論だった。どんな定義になるにせよ、死の新しい定義は肉体の死を超越したところまで踏みこまなければならないと、わたしは感じていた。それは、肉体以外のたましいや霊魂といったもの、いのちにたいする高度な理解、詩に描かれたもの、たんなる存在や生存以上のなにか、死後も連続するなにかを吟味しなければならないということでもあった。
 死の床にある患者は五つの段階を経過していく。そして、そのあと、「地球に生まれてきて、あたえられた宿題をぜんぶすませたら、もう、からだをぬぎ捨ててもいいのよ。からだはそこから蝶が飛び立つさなぎみたいに、たましいをつつんでいる殻なの」というプロセスをへて……それから、人生最大の経験をすることになる。死因が交通事故であろうとがんであろうと、その経験は変わらない(ただし、飛行機の衝突事故のような、あまりに唐突な死の場合は、自分の死にすぐには気づかないこともある)。死の経験には苦痛も、恐れも、不安も、悲しみもない。あるのはただ、蝶へと変容していくときのあたたかさと静けさだけなのだ。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.246-248

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 80-h (2万人の患者から導き出された死後の生の真実 =3=)

 面接のデータを分析して、わたしは死亡宣告後の経験をいくつかの特徴的な段階にまとめた。

第一期‥まず最初に、肉体からぬけだして空中に浮かびあがる。手術室における生命徴候の停止、自動車事故、自殺など、死因のいかんにかかわらず、全員が明瞭な意識をもち、自分が体外離脱をしている事実にはっきりと気づいている。さなぎから飛び立つ蝶のように、肉体からふわっとぬけだすのだ。そして、自分がエーテル状の霊妙なからだをまとっていることに気づく。なにが起こったのかは明噺に理解している。その場にいる人たちの会話が聞こえる。蘇生を試みる医師チームの人数を数えることも、つぶれた車から自分の肉体を救出しようとしている人たちの姿をみることもできる。ある男性は自分を轢き殺して逃げた車のプレートナンバーを覚えていた。自分の死の瞬間にベッドサイドで親族がいったことばを覚えている人はたくさんいる。
 第一期で経験するもうひとつの特徴は「完全性」である。たとえば、全盲の人もみえるようになっている。全身が麻痺していた人も軽々と動けるようになり、よろこびを感じる。病室の上空で踊りはじめ、それがあまりにたのしかったので、生還してからひどい抑うつ状態になった女性もいる。実際、わたしが面接した人たちが感じていた唯一の不満は、死んだままの状態にとどまれなかったということだった。

第二期‥肉体を置き去りにして、別の次元に入る段階である。体験者は、霊とかエネルギーとかしかいいようのない世界、つまり死後の世界にいたと報告している。ひとりで孤独に死んでいくことはないのだと知って、安心する段階でもある。どんな場所で、どんな死にかたをしようと、思考の速度でどこにでも移動することができる。自分が死んで、家族がどんなに悲しむだろうかと思ったとたんに、一瞬にして家族に会うことができたと報告する人は数多くいる。たとえ地球の反対側で死んでも、その事情は変わらない。救急車のなかで死亡した人が友人のことを思いだしたとたんに、仕事場にいるその友人のそばにきていたと報告する人もいる。
 この段階は、愛した人の死、とりわけ、とつぜんの悲劇的な死を嘆き悲しんでいる人にとっては大きななぐさめになる時期でもあるということがわかった。がんなどでしだいに衰弱して死をむかえる場合は、患者も家族も死という結末にそなえるだけの時間がある。しかし、飛行機の衝突事故はそうはいかない。飛行機事故で死んだ本人も、最初は残された家族に劣らず混乱している。ところが、この段階に入ると、死んだ人もなにが起こったのかを解明するだけの時間がもてるようになる。たとえば、TWA八〇〇便の事故で亡くなった人たちは、海岸でおこなわれた葬儀に家族といっしょに参加していただろうと、わたしは想像している。
 面接をした全員が、この段階で守護天使、ガイド― 子どもたちの表現では遊び友だち―などに出あったことを覚えている。報告を総合すると、天使もガイドも遊び友だちも同一の存在であり、つつむような愛でなぐさめてくれ、先立った両親、祖父母、親戚、友人などの姿をみせてくれる。その場面は生還者たちに、よろこばしい再会、体験の共有、積もる話の交換、抱擁などとして記憶されている。

第三期‥守護天使にみちびかれて、つぎの第三期に入っていく。そのはじまりはトンネルや門の通過で表現されるのがふつうだが、人によってそのイメージはさまざまである。橋、山の小道、きれいな川など、基本的にはその人にとっていちばん気持ちのいいイメージがあらわれる。サイキックなエネルギーによって、その人自身がつくりだすイメージである。共通するのは、最後にまぶしい光を目撃することだ。
 ガイドのみちびきで近づいていくと、その強烈な光となって放射されているものが、じつは、あたたかさ、エネルギー、精神、愛であることがしだいにわかってくる。そして、ついに了解する。これが愛なのだ。無条件の愛なのだ。その愛の力は途方もなく強く、圧倒的だったと、生還者たちは報告している。興奮がおさまり、やすらぎと静けさがおとずれる。そして、ついに故郷に帰っていくのだという期待が高まってくる。生還者たちの報告によれば、その光こそが宇宙のエネルギーの、究極の本源である。それを神と呼んだ人もいる。キリストまたはブツダと呼んだ人もいる。だが、全員が一致したのは、それが圧倒的な愛につつまれているということである。あらゆる愛のなかでもっとも純粋な愛、無条件の愛である。何千、何万という人からこの同じ旅の報告を聞くことになったわたしは、だれひとりとして肉体に帰りたいと望まなかったことの理由がよく理解できた。
 しかし、肉体にもどった人たちは、異界での体験がその後の人生にも深遠な影響をあたえていると報告している。それは宗教体験とよく似ていた。そこで大いなる知恵を得た人たちもいた。予言者のような警告のメッセージをたずさえて帰還した人たちもいた。まったく新しい洞察を得た人たちもいた。それほど劇的な体験をしていない人も、全員が直観的に同じ真理をかいまみていた。すなわち、その光から、いのちの意味を説明するものはただひとつ、愛であるということを学んだのである。

第四期‥生還者が「至上の本源」を面前にしたと報告する段階である。これを神と呼ぶ人たちもいる。過去、現在、未来にわたる、すべての知識がそこにあったとしかいえないと報告した人たちも多い。批判することも裁くこともない、愛の本源である。この段階に到達した人は、それまでまとっていたエーテル状の霊妙なからだを必要としなくなり、霊的エネルギーそのものに変化する。その人が生まれる前にそうであったような形態としてのエネルギーである。人はそこで全体性、存在の完全性を経験する。
 走馬灯のように「ライフ・リヴュー」(生涯の回顧)をおこなうのはこの段階である。自分の人生のすべてを、そこでふり返ることになる。その人が生前におこなったすべての意思決定、思考、行動の理由が逐一あきらかにされる。自分のとった行動が、まったく知らない人もふくめて、他者にどんな影響をあたえたのかが、手にとるようにわかってくる。ほかにどんな人生を送ることができたのかも示される。あらゆる人のいのちがつながりあい、すべての人の思考や行動が地球上の全生物にさざ波のように影響をおよぼしているさまを、目の前にみせられる。
 天国か地獄のような場所だ、とわたしは思った。たぶん、その両方なのだろう。

 神が人間にあたえた最高の贈り物は自由意志による自由選択である。しかし、それには責任がともなう。その責任とは、正しい選択、周到な、だれに恥じることもない、最高の選択、世界のためになる選択、人類を向上させるような選択をするということだ。生還者の報告によれば、「どんな奉仕をしてきたか?」と問われるのはこの段階である。これほど厳しい問いはない。生前に最高の選択をしたかどうかという問いに直面することが要求されるのだ。それに直面し、最後にわかるのは、人生から教訓を学んでいようといまいと、最終的には無条件の愛を身につけなければならないということである。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.248-252

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 80-i (2万人の患者から導き出された死後の生の真実 =4=)

 こうしたデータからわたしがひきだした結論は、いまでも変わっていない。それは、富んだ人も貧しい人も、アメリカ人もロシア人も、みんな同じ欲求をもち、同じものをもとめ、同じ心配をしているということだ。事実、わたしはこれまでに、最大の欲求が愛ではないという人に出あったことがない。
 真の無条件の愛。
 結婚したふたりのなかに、助けを必要としている人にたいする、ちょっとした親切のなかに、それをみることができる。無条件の愛はみまちがえようがない。こころの底で感じるものならほんものである。それはいのちを織りなすありふれた繊維であり、たましいを燃やす炎であり、精神にエネルギーをあたえるものであり、人生に情熱を供給するものである。それは神と人とのつながりであり、人間同士のつながりである。
 生きている以上、だれもが苦しい目にあう。偉大な人もいれば、無価値にみえる人もいる。だが、どんな人でも、わたしたちがそこからなにかを学ぶべき教訓である。わたしたちは選択をつうじてそれを学ぶ。よく生き、したがって、よく死ぬためには、自分に「どんな奉仕をしているか?」と問いかけながら、無条件の愛という目標をもって選択すればそれでじゅうぶんなのだ。
 選択は自由であり、自由は神にあたえられたものだ。神があたえた自由は、成長する自由、愛する自由である。
 いのちには責任がつきまとう。わたしはお金が払えない瀕死の女性の相談を受けるかどうかを選択しなければならなかった。たとえ仕事を失うことになっても、わたしは自分のこころがそうしろと告げるままの選択をした。わたしにはそれでよかった。ほかにも選択の余地はあったのかもしれない。人生は選択肢に満ち満ちている。
 人生は洗濯機のなかでもまれる石のようなものだ。粉砕されてでてくるか磨かれてでてくるか、けっきょくは、それぞれの人が選択している。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.252-253

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 80-j (地上の科学の発達も霊界から援助されている =1=)

 みなさんは、科学が今世紀から二十二世紀にかけての先進諸国の新しい宗教であると言うかもしれない。しかし、こう問いかける人びとも多いのだ。
 「科学はわたしたちに、どんな幸福をもたらしてくれただろうか? さまざまな発明発見は核のテクノロジーを生み出す結果となり、今日、未曾有の脅威が人類にもたらされたのはそのせいではないか」
 申し上げておきたいのは、人類が一丸となって理性の道をたどることを「先進」諸国が決定した、ということだ。このような決定がなされた背景には、こちら側からのやさしい励ましがあった。物質界に起きるあらゆるできごとの陰には、それを裏から支える不可視の領域からの超自然的な概念というものが存在してきたことを頭に入れておく必要がある。前にもお話ししたように、宇宙に偶然というものはない。科学の発達もまた、偶然ではないのだ。科学には目的がある―それは、人間の助けとなって、他の手段では学ぶことのできないある種の教訓を学びとらせるという目的だ。再度申し上げておくが、心の直観的な部分は、多くの「未開」社会において発達をとげてきた。みなさんがたの文明においては、この直観的な部分には眼を向けず、論理思考のプロセスを発展させることばかり追い求めてきた。あなたがたの科学は、そのような歩みを実証するものだ。
 しかし、科学者たちにも直観はそなわっている―もっとも、彼らは直観というものを認めないかもしれないが。現代の科学の発達の陰には例外なく、わたしたちの領域からの承諾と支援があると言っても過言ではないだろう。だからといって、地上の科学者たちのみごとな成果をけなすつもりは毛頭ない。わたしたちの根本的な問題を説明する一例を用いて、みなさんの領域のあらゆる活動はこちら側の援助を受けて行なわれる、ということを強調したにすぎない。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.71-72

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 80-k (地上の科学の発達も霊界から援助されている =2=)

 科学の進歩はどのようにして起きたのだろうか? こちら側のわたしたちの間にも多くの科学者がおり、彼らもまた宇宙の真理を発見するための研究や理論構築、実験などを行なっている。ご想像のように地球の科学者に比べ、彼らには幅広い選択権がある。こちらではいくつかの部門にわかれて科学的な研究が行なわれ、わたしたちが知覚するような全宇宙を研究する者もあれば、より専門的な研究を行なう者もいる。多くの科学者は、地球と地球の人びとを支援する技術の開発に研究範囲を絞っている。研究から成果が得られ、それが地球の科学者たちと分かちあうにふさわしいものだと考えられた場合には、所定の手続きがはじまる。
 最初に科学者たちはその見解と研究内容を、カウンセラーたちやこちらのもっと高い界層の権威と議論する。地球の住民はすでに情報を受けとる準備ができた、との合意に達したとき、はじめて研究成果を地上の科学者たちに伝えることが許されるのだ。情報伝達はいくつかのチャンネルを通じて行なわれる。科学情報の多くは、夢を通じて伝えられる。情報は脳の一部に吸収され、のちに「直観」のひらめきとなって利用される。また直接個人に向けて想念が発信されることもある。地上の科学者にしてみれば、単に突然新しい角度から問題を解決してみる気になったり、吟味しなおして百八十度方向転換してみてはどうだろう、と思い立つだけのことかもしれない。直観的なひらめきに素直に従う科学者のほうが、長足の進歩をとげやすい。
 こちらからそちらへと科学の謎を解く鍵や情報が分け与えられるということは、この情報が必ずしも人類の幸福のためにだけ使われることを意味するとは限らない。しかし進歩は、万人の福利のために利用されることを願って与えられるのだ―このことを、どうか理解してほしい。過ちを犯すことも、エネルギーを濫用することも人類の自由だ、ということをわたしたちは承知している。また人類が生存していく上で、この自由は不可欠なものだ。単に情報が誤用される可能性があるからといって、わたしたちはそのような自由を与えずにおくつもりはない。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.72-73

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 80-l (地上の科学の発達も霊界から援助されている =3=)

 みなさんの多くはこう尋ねるかもしれない。
 「では、どうしてわれわれの手に核のテクノロジーが与えられたのだろう? 人間がまず手始めにやったことといえば、恐ろしい戦争の道具を作り出すことだった。核実験場や核生産工場周辺の環境を破壊し、広島や長崎の惨事を生み出すという過ちを、われわれは犯してしまった……」
 このように問われたなら、わたしたちは次のように答えるだろう―人間はこの技術を使って不幸や破壊や核による殺戮を生み出すよう運命づけられていたわけでも、予定されていたわけでもない。事実、そのようなことが起きないように、また原子力が平和のために利用されるように心から望まれていた。原子力にはそのような可能性があるものなのだ。
 人びとにはそうした強力なテクノロジーを使いこなす準備ができているとわたしたちは信じていたが、これが人間の魂にとって非常な重荷となるかもしれない、とも考えていた。そして、可能性はすでに現実となっている。思い起こしてほしい。千年あるいは二千年前、核のテクノロジーはまだ地球には導入されていなかったが、それは人びとにその準備ができていなかったためなのだ。もしそうなっていればたちまち兵器が使用され、地球は破壊されていたことだろう。みなさんの地球は、まだ核兵器を手にした狂人たちによる破壊は免れている。ただし、その瀬戸際に立たされることになるかもしれないが。しかしこれは、この時代に対するすばらしい霊的な試練だと考えることもできる。みなさんは一日も早く霊的に賢くなる必要がある! 核兵器はみなさんがたの魂の成長を強力に推し進めることになるだろう。もしそのように考えるなら、核の脅威もすばらしい助けとなりうるのだ。
 多くの科学の発達や核開発が行なわれるより前に、地球の住民たちは互いに孤立感を深めあうばかりだった。今やこのように孤立化することは不可能となった。みなさんがたの結びつきは抜き差しならぬほど緊密化しているからだ。人類は、一国の健康や福祉が他の国々の健康と福祉に依存しているかのように身を処さねばならない。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.73-74

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 80-m (地上の科学の発達も霊界から援助されている =4=)

 核兵器の存在と核による破局の可能性は、世界平和をめざす組織や真の世界政府の創設を強力に推し進めることだろう。これまで悲惨な争いがつづいてきたにもかかわらず、戦争は避けがたいものである。戦争から不変の価値のあるものは何ひとつ生まれはしない。この時代に戦争が始まれば、みなさんを養ってくれる大地が破壊される可能性もあるのだ。このようなことが起きないよう、わたしたちは切に願っている。実は、今回〔本書は一九八二年に書かれた〕わたしが話をしにやってきた理由のひとつは、歴史上かつてないようなこの危機的な時期にみなさんを励まし、はっきりとした考えを持ってもらいたいと考えたためなのだ。
 わたしのいる領域から、わたしたちは世界を創造している。わたしの眼には、人間の生命を有する何百万もの惑星が映っている。単に宇宙が広大無辺であるという理由から、この世界に対するわたしたちの感性が麻痺してしまったわけでは決してない。宇宙のどの部分もみな尊いものだ。みなさんの生命は貴重であり、みなさん一人ひとりの生命をわたしたちは気にかけている。みなさんの幸福を考え、みなさんを助けて、人生で最大の業績をあげられるよう促してくれている多くの魂たちがこちら側にいると知ったら、あなたがたは心を動かされることだろう。みなさんをいかに支援するべきか決めるために、こちらでは活発な交流が行なわれているのである。
 みなさんは決して孤立無援ではない。どうかそのことを知って安心してほしい。みなさんの心の奥底にある考えも心からの望みも、わたしたちにはわかっている。またいかなる意味においても、みなさんはこちらの者たちに支配されてはいない。一人ひとりがみな主体性を持った存在なのだ。覚えておいてほしいのは、真理と叡知はいつでも手にすることができる、ということだ。その経路となるのは、あなた自身の心―すなわち直観だ。心の促しに従えば、必ずあなたにとって最良の道が見つかるはずだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.74-75

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 80-n (何らかのかたちで死後の生を信じている人たちの割合)

一九九〇年秋のギヤラップ世論調査によると、ヨーロッパの人口の約半数、アメリカでは半数をかなり超える人々が、何らかのかたちで〈死後の生〉を信じている。またその大半は、霊姿や亡霊を見たなどの何らかの個人的な超常体験があったと主張しているのだ。
 ジョージ・ギヤラップ・Jr博士は、アメリカのプリンストンにある本部でこう語った。
 「人間には不思議なことが起きているんです。ひじょうに多くの人が超常現象の実在を信じているだけでなく、何らかのかたちで実際に体験してもいます。びっくりするようなデータが出ていますし、ほかの国でも同じ傾向が見られるんです。これまで超常現象についてはきちんとした調査が行なわれたことがありませんでした。しかしこの世紀が宇宙という外なる空間の探究にささげられたのなら、つぎの世紀は内なる空間、すなわち心の世界の探究にささげなければならないでしょう」

  J・アイバーソン『死後の生』(片山陽子訳)
    NHK出版、1993、p.136

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 80-o (死んだ妻や夫と接触した経験についての調査)

 一九七一年にウェールズ中部のある農村地域で行なわれた調査では、配偶者に先立たれた人に、死んだ妻や夫と接触した経験があるかどうかをたずねたところ、驚いたことに約半数が、そうした経験があると答えている。調査を行なったW・デーウィ・リーズ博士は、『ブリティシュ・メディカル・ジャーナル』誌に「やもめ暮らしに起きる幻覚について」と題してこの結果を発表している。
 調査の対象となった人は三〇〇人で、一地域内の配偶者を亡くした男女の八一パーセントに当たる。リーズ博士が問題にしたのは意識がはっきりしているときに幻を見たという体験だけで、夢で配偶者に会った、あるいは「心の眼」で姿を見たといった報告はふくめていない。接触があったかどうかはっきりしない場合も除外している。調査結果によると、亡き配偶者の霊姿を見ることが最も多いのは、「幸福な結婚生活をおくつていた未亡人」ということになる。その中には、夫がつねに自分と一緒にいると感じている人が一五人もいた。リーズ博士は、こうした幻覚はやもめ暮らしにごくふつうに起きる現象と考えなければならないと述べている。ということは、未亡人の二人に一人は、夫の霊が訪ねて来ることを期待していていいのである!
 夫や妻に先立たれた人々がそういう活発な精神生活をおくつていることが、なぜこれまで知られなかったのだろう? リーズ博士はその答も発見した。それはたんに話さないからだ。面接調査に応じた未亡人の中に、その体験を医師に話したことのある人は一人もいなかった。かろうじて一人が牧師に話していただけだった。秘密にしておく理由はほとんど一つ。話してばかにされるのが嫌だったからだ。それは医師や聖職者への、いやおそらくは私たちすべての態度への告発のように思われる。
 一九七一年以来、全国的な規模でさらに三例の調査が行なわれ、未亡人の二人に一人は亡き夫と接触をもっているというリーズの統計が裏づけられた。ほとんどの人が「夫がそこに来ていると感じ」、七人に一人は実際にその姿を見、そうとう多数が声を聞き、少数ではあるが言葉を交わした人もいたことがわかった。実際に体にさわったと感じた人もいた。

  J・アイバーソン『死後の生』(片山陽子訳)
    NHK出版、1993、pp.136-137

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 80-p  (人は死ぬ時何を見るのか)

 超心理学者のカーリス・オシス博士とエルレンドゥール・ハラルドソン教授は、この領域の二五年におよぶ研究成果を『人は死ぬ時何を見るのか』(原題At the Hour of Death 笠原敏雄訳、日本教文社一九九二年)にまとめ、一九七九年に出版した。二人はインドとアメリカの病院で同じ調査を行ない、両方の国で同じ現象が起きていることを発見した。インドでもアメリカでも、死の床にある人を霊が迎えに来ており、霊の多くは死んだ近親者の姿をしていた。調査した八七七人の患者のうち、両国でほぼ半数ずつ、合計五九一人にこの体験が起きていた。薬物による幻覚の可能性はまったくなかった。ちなみにイギリスの統計によると、死の床にある人が霊姿を見ることは、病気でないふつうの人の場合の三倍も多いのだ。
 病院の調査では、インドとアメリカで体験にいくらかの違いがあることがわかった。アメリカでは死んでいく患者を迎えに来た霊姿の大半が女性で、亡くなった母親のことが多かったが、男性優位社会のインドでは、たいてい男性だった。また特殊な宗教的人物の霊姿もたまに見られたが、本人の信仰と霊体験にはつながりがないように見えた。実際、死後の世界があるとは考えていない患者が、何十人も、あの世からの迎えに出会っていたのである。
 霊姿を見た人には明らかな変化が観察された。死は暗く、ときには苦痛の大きい体験であるが、霊姿の訪問を受けた人の七二パーセントという圧倒的多数が、心が晴れ晴れとして、よろこんで向こうに行くという気持ちになっていた。当然ながら誰もが旅立ちたいわけではなく、少数ながら助けを求めて声を上げる人もいた。迎えについて行くことに抵抗を示す人は、アメリカ人よりインド人患者のほうに多かった。アメリカ人で、まだあの世へ行く覚悟ができていないと言った人は、たった一人だった。

   J・アイバーソン『死後の生』(片山陽子訳)
     NHK出版、1993、pp.138-139

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 80-q (生まれ変わりが認められた第14代ダライ・ラマ)

  今日その農家の末っ子は第十四代ダライ・ラマである。私は彼に約五〇年前、(生まれ変わりの) 捜索隊の一行が彼の両親の農場を訪れ、彼に試験をしたときのことをおぼえているかとたずねた。

 静かな朝だった。夜明け前だったと思う。無理やり起こされて、何か高い台座のようなものに乗せられた。下に一人の僧がいて、その顔が今でもまぶたに焼きついている。まるくて力強い眼だった。フクロウの眼のようだった。
 台所で一行の先達が召し使いのふりをしていたことをおぼえている。私はその男がセラ僧院から来た僧だと知っていた。彼は太ってはいなかったから、いつも体が冷たかった。赤ん坊の私の手に、冷たい手がさわったことをおぼえている。それからテストがはじまって、確かステッキと小さな太鼓が出てきたと思うが、あまりはっきりしない。

 ダライ・ラマに(死〉とはどんなものかをたずねた。

 それは着物をとり替えるようなものだ。内側にあるもの、かたちのない意識は変わらない。ただ古い衣が捨てられて、新しいものに変わるだけだ。

    J・アイバーソン『死後の生』(片山陽子訳)
    NHK出版、1993、pp.243-244

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 80-r (科学者が考える死後の生の可能性について)

 フェンウィック博士は、科学がつぎの曲がり角を曲がったときは、宇宙は実質的、物質的な場所なのではなくて、「愛や意識や、そういう心的なもの」で構成された場所だということになるのではないかと推測する。死後の生の可能性について彼にたずねると、はるかにオーソドックスな科学にもとづいた答が返ってきた。

 あなたが科学的質問をしておられるのなら、つまり遺伝子や遺伝形質や脳や身体などを考えておいでなら、そういうものは明らかに生き残りません。主観的な経験について言っておられるのなら、それは非科学的な質問ですから、答も非科学的なものになるでしょう。個人的な経験が、たとえどんなかたちであれ、絶対に存続しないという理由はないんです。私たちが存続しないと考える唯一の理由は、それを現代科学とまったく不適当に結びつけているからです。そこを切り離してやると、個人的経験のある部分は、脳よりもっと広い範囲におよぶかもしれないということが、そうとうの可能性をもってきます。いずれにしても証拠があるわけではありませんが、現在行なわれている研究のいくつかは、おそらく何らかのかたちで死後生存の可能性はこれまでより高いという結論にいたるだろうと思っているんです。

  J・アイバーソン『死後の生』(片山陽子訳)
    NHK出版、1993、pp.295-296

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 80-s[5-l] (自分は魂をもっていることを知らなくてはならない)

 心理学(サイコロジー)のそもそもの意味は、「魂に関する学問」である(サイコ=霊魂。ロジー=学間)。しかし、そうであったことは、これまでに一度もない。心理学はこれまで、パーソナリティーに関する学問でありつづけてきた。
 心理学は、五感型パーソナリティーの知覚をベースとしているために、魂を認識することができないでいる。そしてそのために、パーソナリティーの価値観や行動の下に横たわる力学を理解できないでいる。
 私たちの医学は、肉体的な健康や病気の背後に横たわる魂のエネルギーを無視して肉体を癒そうとしているために、根本的な癒しには到達できないでいる。同じように心理学も、パーソナリティーの体験の背後にある魂の力を無視してパーソナリティーを癒そうとしているために、もっとも深いレベルでの癒しにいたれないでいる。
 自分の心と肉体を育み、発達させるためには、まず第一に、「自分は心と肉体をもっている」ということを知っていなくてはならない。同じように、もっとも深いレベル、すなわち魂レベルで癒されるためにも、「自分は魂をもっている」ということを知っていなくてはならない。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、pp.210-211

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 80-t (科学によって解明できない領域など存在しないのか) 

 科学の対象は、当然のことながら「すべて」ではありません。
 「断続平衡説」を提唱した米国の古生物学者スティーヴン・J・グールドは、この四半世紀にわたって、科学と宗教は一つになるのでも対立するのでもなく、非干渉でありながらも互いに敬意を持って共存すべきだと説いてきました。つまり、科学は経験的な領域をカバーし、宗教は本源的意味と道徳的価値の問題の上に広がり、両者は重なり合うことなく棲み分けているというわけです。
 また、「インテグラル思想」を提唱した米国の思想家ケン・ウィルバーは、人間の内面性が軽んじられ実証されたもののみが真実であるという近代科学の物質主義的世界観に席巻された現代社会を、批判を込めて「フラットランド」と名付けましたが、実にうまいネーミングです。
 ウィルバーは、人間の体、心、霊魂についての探求にあたって、肉の目(自然科学に代表される外的物質世界を認識する経験主義的視点)、理知の日(哲学、論理学、心理学といった知と心について考察する合理主義的かつ主観的視点)、黙想の目(霊性という超越的リアリティについて考察する神秘主義的視点)という三つの目が必要であり、それらがバランス良く発達することの大切さを力説しています。そして、この三つの視点で得られる領域はそれぞれ独立していて、これを同列に議論するのは根本的な誤りであるとし、その誤りを「範疇錯誤(カテゴリ・エラー)」と呼びました。
 哲学者エマヌエル・カントも「科学がいつか死後の意識の存続や死後の生を証明できるという考え方自体が誤っている」と言い、霊性の領域は人間の理性、認識力を超えていて検証できないものであることを強調しています。
 その他現代の学者では、国際ヒトゲノム計画の責任者フランシス・コリンズ(現在米国衛生研究所所長)が、「進化論的有神論」という言葉では先入観が入り過ぎて、信仰と科学の統合を表現するには適切でないと考え、ギリシャ語で生命を表す「バイオス」とキリスト教で神と同義に使われる「ロゴス(言葉の意)」を組み合わせて、「バイオロゴス」という概念を提唱しています。なお、コリンズは、「人生の意味とは」「人間の死後には何があるか」といった科学では対処できない問いに対する答えとして「神」の概念を使っています。
 日本では、遺伝子工学をいち早く用いて高血圧に関わる因子の一つであるレニンの遺伝子解読(DNAの塩基配列を決定すること)を行った村上和雄筑波大教授(当時)が、極微小のDNAがたった四種類の塩基A、T、G、Cの組み合わせによる三〇億もの塩基対でできているという精妙さに、その背後に大智を越えた大きな力を感じて、その力を「サムシング・グレート」と呼びました。
 ともあれ、近現代における自然科学は飛躍的な進歩を遂げ、人類はその多大な恩恵を享受していることは確かです。しかしその反面、我々は科学への過信からその本質を誤解するようになっていないでしょうか。
 私には、現代の人々は、自然科学本来の領域を忘れ、あたかも科学的方法論によって解明できない領域など存在しないと考えるようになってきているのではないかと思えて仕方がありません。

    矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.44-47

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 80-u (霊の存在を確信していた科学者たち)

 イギリスでは、「霊の存在を科学的に証明するために」として、英国心霊研究会がつくられ、錚々たる科学者が、歴代会長を務めた。
 その中にはウイリアム・クルックス(タリウム元素の発見、放射線測定器の発明)、ジョン・ストラット(アルゴン元素の発見、ノーベル物理学賞を受賞)、シャルル・リシエ(血清療法の先駆者、ノーベル生理学・医学賞を受賞)……等々がいる。
 これは「科学者も、科学を究めれば、霊や神の世界に踏み込まざるを得ない」という証左である。
 科学が霊について考究するずっと以前に、神からの啓示を受けたイエス・キリストや釈迦などの偉人たちが「肉体は滅んでも霊魂は生き続ける」という共通の思想、認識の宗教をそれぞれに起こしている。
 キリスト教では「イエス・キリストを信じると、永遠の生命(霊の生命)が授けられる」としているし、仏教でも死ぬことを「往生(往って生きる)」「他界する」「あの世へ行く」などと表現し、霊が他のところ(霊界)へ行って生き続けることを示唆している。
 古代エジプトでは、死んでいったん肉体を離れていった霊魂が戻ってこられるようにと「ミイラをつくった」という。

    石原結實『死んだらどうなる』 ビジネス社、2018、pp.20-21

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 80-v (臨死体験者の激増が科学者達を死後の世界の探究に向かわせた)

 死後の世界を様々に説く宗教の対極には、神も魂も人の想像の産物で、肉体の死で人の存在は終わる、とする無神論者や唯物論者がいる。現代医学も、人は心臓と脳の働きが止まったら存在しなくなる期間限定の生命体、という理解を前提としてきた。
 しかし、冷静に考えてみれば、死後の世界が存在しないという説に証拠や科学的根拠があるわけでもなく、そう信じることも、信仰とあまり変わらないような気がしてくる。
 結局のところ、人が死んだらどうなるのか、という問いは永遠に解けない謎で、死んでみなければ分からない。古今東西を問わず、人類の大半は、そう諦めてきたのではないだろうか。
 ところが、近年になって、まだ諦めるのは早い、死の真相は究明できるかもしれない、という期待が高まっている。
 その大きな理由は、瀕死の状態から脱し、「死んであの世に行って戻ってきた」と、死後の世界の体験を克明に語る人が激増したことにある。いわゆる、臨死体験者と呼ばれる人たちだ。
 様々な臨死体験の話が流布されるようになり、欧米ではこの数年、ブームと呼んでもよいほど臨死体験への関心が再燃している。試しにグーグルで「Near Death Experience」と検索すると関連サイトは約3300万件、YouTubeでは約30万件。アマゾンの本の検索でも805件と出た。
 無名の人たちの臨死体験本が次々とベストセラーになり、それらの著者は国際的なセレブとなっている。臨死体験のユニークな体験例やその真偽はテレビのニュースやトークショー、ドキュメンタリーでも頻繁に紹介されている。
 かつては死んで帰ってきたといった体験を語る人は稀で、臨床の場では、もっぱら死が迫り心身が混乱した人の戯言か幻想であるとして切り捨てられていた。
 しかし、体験者の数が激増し、その内容に共通性が高く、また「死後に現実の世界が観察できた」とする証言と状況証拠が一致する報告例も多いことから、臨死体験は人の生と死の境界で発生する現象と認めるべきだと考える科学者や医師がとくに欧米では増えている。少なくとも現代医学が常識としてきた人間の死の定義について見直し、さらに死後の世界の有無についても真摯に検証すべきではないか、という動きが出てきたわけだ。
 その一方では、欧米でも、死後の世界など絶対に存在しない、そんな研究は似非科学だという見方も根強いのは確かで、どういうわけか、死生観は超能力や超常現象などと同様に、見解が大きく二分されるテーマのようだ。

    エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあるのか』
      ―臨死体験と意識の科学の最前線―  扶桑社、2016、pp.4-6

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 80-w (日本における生まれる前の記憶をもつ子どもたちの研究)

 自分が生まれる前の記憶をもつ日本の子どもたちの研究例もある。
 これは、産婦人科医の池川明博士が、自分の子どもが胎内にいたときの記憶や生まれる前の体験を語ることを心配した親に相談されたことから始まった研究で、中部大学の言語学者で、タツカー博士の所属するバージニア大学医学部知覚研究室の客員研究員でもあった大門正幸教授が、アメリカの学会誌に2014年に発表した「中間生の研究」だ。
 研究対象とした子どもたちの記憶が、この世に赤ちゃんとして生まれる以前、つまり前世と現世の中間の記憶であることから、「中間生の研究」と名づけられたのだ。
 日本では、中間生を語る子どもたち自身の証言を集めた「神様との約束」という映画も各地で紹介され、とくに幼児をもつ母親の間で関心を集めているようだ。
 概要を説明すると、そうした子どもたちに共通する記憶は、生まれる前には神様や仏様と一緒に天にいて、地上の様子を見ながら、自分の親、多くの場合は母親を選んで、そのおなかに入った、ということだ。そしてその時に子どもたちが見たという光景が、現実にあったことと一致している。
 子どもたちのなかには、自分が前世でどんな家族と暮らしていたか、どんな仕事をしていたかまで覚えている子もいる。
 子どもたちの記憶でとくに興味深い点は、複数の子どもたちが、天国には反省室という真っ暗な部屋があったと語っていることだ。
 前世で悪いことをしたという記憶があり、それを後悔している魂は、自ら真っ暗な部屋に入って反省する。そして前世の悪事の償いになるような贈り物を母親にあげるために再度、この世に生まれてきた、と子どもたちは言うのだ。
 もちろん、中間生を覚えている子どもは日本人だけではない。私は母親を選んで生まれてきたことを覚えているというアメリカの13歳の少女から話を聞いたこともある。
 意識の科学に関わるアメリカの研究者の学会で大門教授が中間生の研究発表をすると知り、親子で聴講に来ていたのだ。
 この少女は、自分が魂として天界にいて、そこからは、地上の現実がテレビを見るように見下ろせたことを覚えている。屋根のないアパートを上から見ているような感じで、壁を隔てて何組かの男女が暮らしている光景が見えた。なかで、言い争いしている男女が目にとまった。その女性がなぜか気に入ったので、その女性から生まれることにしたという。
 自分の娘が生まれる前に見たという光景が、自分が妊娠した頃に住んでいた部屋の様子に合致していたことから、母親は娘の言うことが戯言ではないと思った。少女の父親と言い争いが絶えなかったのも事実で、結局、その男性とは別れた。子どもをもつことも計算外で、予期せぬ妊娠でシングルマザーとなった女性は、いまでは娘をもったことが人生最大の収穫だと思っている。
 娘が言っている中間生が事実だと考えた母親は、同様の体験をもつ親子の情報を求めて、大門教授の発表を聞きに来た、ということだった。
 日本の理研脳科学総合研究センターの客員研究員でもあったピーター・フエンウィツク博士は、日本の科学者は、欧米の科学者以上に臨死体験研究に懐疑的だったと語っているが、中間生の研究に関しては、日本の研究者がリードしていくことになるのかもしれない。

     エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあるのか』 
        ―臨死体験と意識の科学の最前線― 扶桑社、2016、pp.238-241

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 80-x (霊魂は死なないで残るという霊魂観形成の歴史的経緯)

 中世までの「霊魂」についての考え方は、プラトン的な霊魂観だったといえるだろう。『旧約聖書』創世記がもととなり「霊魂は神によって創造され、受胎の時に肉体に吹き込まれ(霊肉一致)、生きた人間となる。そして死ぬ時は肉体を離れ神のもとに帰るが、肉体はもとの土に還るに任される」というのが基本的な考え方だった。この考え方は、東方においてはオリゲネス(Origines)によって、また西方においてはアゥグスティヌス(St.Augustinus,354-430)によって広められていった。こうして、霊魂は非物質的な実体として、キリスト教者の間で確立していく。
 しかし十二世紀の中ごろから、イスラム圏経由でアリストテレスの学説が紹介され、主に中世スコラ学派の間で、霊魂と肉体との関係について、より精微な考察がなされるようになる。その代表がトマス=アクィナスだった。
 彼はアリストテレスの影響を受け、霊魂を形相、肉体を質料と考えた。そして、人間とはこの質料形相論的結合だと解釈した。「質料」はマター(matter)で、実体をつくっている材料、「形相」はフォーム(form)で、その実体をまさに現にあるとおりのものにするもののことだ。だから、肉体は質料、つまり材料であり、霊魂はそれに形を与える形相ということになる。質料と形相との関係は、例えば机を考えてみるとよくわかると思う。机が木でできているなら、木が質料ということになる。だが、同じ質料の木を使って、柱や椅子もつくることができる。だから、机を椅子や柱ではなく机とするためには、机の型が必要だ。この机を机としているものが「形相」ということだ。現実的な実体は、この二つの要素が分かち難く結びついている、というのがアリストテレスの考え方だった。
 トマスはこの考えを受け継ぎ、質料である肉体と形相である霊魂とが結合したのが人間である。だから、死ねば質料である肉体は土に還るが、その形相である霊魂は残り、従って不滅であるとした。そしてこの考え方は、現代のカトリック教会の考え方ともなっているが、常識的に考えても、最も無理のない考え方ではないかと、私は思う。『旧約聖書』では、神が泥をこねて、それに息、つまりスピリットを吹き込んでアダムという人間をつくったことになっている。この「土」が、トマスのいう質料ということになる。そして、土に形を与えたものが霊魂。つまり神の息ということだ。アリストテレスは、植物的霊魂や動物的霊魂は植物や動物が死ねば消える。だが、人間の理性的霊魂は、肉体が滅びても死滅しないかもしれないと考えた。この理性的霊魂を『旧約聖書』の「神の息」と考えれば、トマスのいう、質料形相論的結合の意味がわかるのではないかと思う。土(質料)と神の息、霊魂(形相)とが結合して人間はつくられた。「質料」をギリシャ語で「材木」を意味するhule (後にhulo) で示し、「形相」をギリシャ語の「形」を意味するmorpheで示し、その合成語で「質料・形相の一体化」を示すhylomorhic unionという難しい単語が、聖トマス=アクィナスの哲学の本質を示す哲学用語になっている。この意味はやさしく言えば、だから、死ねば肉体(hylo)は土に還るが、その肉体を生ける結合体にしていた霊魂(morphe)は死なないで残る、ということになる。

     渡部昇一 『語源力』 海龍社、2009、pp. 213-215

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 80-y (ヘーゲルが説いた死者埋葬の倫理)

 孟子とほぼ同じことを述べた思想界の超大物が一八世紀のドイツに出現した。その人物の名は、ゲオルグ・ヘーゲル。いうまでもなく、近代哲学における最高の巨人である。
 ヘーゲルの哲学はこれまでマルクス主義につながる悪しき思想の根源とされてきた。しかし、わたしは、ヘーゲルほど、現代社会が直面する諸問題に対応できる思想家はいないと思っている。たとえば、彼は大著『精神現象学』において、次のように死者について述べている。

 「この最後の義務こそ完全な神の錠であり、個人にたいする共同体の積極的な行動である。愛を超えるような共同体的広がりをもつ他のすべての行為は、人間の錠に属するものであって、自然発生的な共同体(家族)に現実にとりこまれた状態にある個人を、そこから脱出させようとするものである。ところで、すでに見たように、人間の正義の内容と力は、現実の意識的な共同体秩序――民族全体――にあり、神の正義と錠の内容と力は、現実の彼岸にある個人――死者――にあるのだが、といって死者は無力なのではない。死者の力は純粋に抽象的・一般的な、元素にもどった個たることにあって、かつて元素たることを脱却して、みずから民族の現実の一員たることを意識していた個人が、その掟でもあり土台でもある純粋に抽象的な元素へともどっているのだ」(長谷川宏訳)

 ヘーゲルは、共同体と人間の関係について徹底的に考えた人であった。社会制度と個人のあり方をみたとき、共同体には大きく二つのものがある。一つは「国家(ポリス)」という公共的で明確な法律を持った共同体。もう一つは、血縁で結ばれた私的な共同体、つまり「家族」である。ヘーゲルによれば、国家は男たちのつくりあげる共同体だ。男は家族の中で育つが、成年になると公共的なものに眼を向け、そこにアイデンティファイする。自由と共同性を実現した「人倫の国」こそが、ヘーゲルにとっての国家である。
 では、家族のほうはどうか。家族は、男女が結びつき、愛し合う場所であり、愛の結晶である子どもを育てる場所である。国家の側からすれば、家族の機能とは「子どもを立派な公民として育て上げる」ということにつきるだろう。しかし、家族の最大の存在意義とは何か。ヘーゲルは、家族の最大の義務を次のように明らかにした。

 「抽象的な自然の運動を補って、それに意識の運動をつけくわえ、自然の行為に介入し、血縁の死者を破壊から救いだすこと、もっと適切にいえば、破壊されて純粋な存在となることが避けられないものとすれば、破壊の行為をみずから引きうけることである。
 それによって、死んだ共同の存在が自分のうちに還ってきて自立した存在となり、ただ個物としてある無力な死体がみんなに認められた個人となる。死者は、その存在がその行為や否定的な統一力から切り離されるから、空虚な個物となり、他にたいして受動的に存在するものでしかなくなって、すべての低級な理性なき生物や自然の元素の力の餌食となる。理性なき生物はその生命ゆえに、自然の元素はその否定力ゆえに、いまや死者よりも強いものとなっているのである。無意識の欲望や元素の抽象的な力に基づくこうした死者凌辱の行為を防ぎとめるのが家族であり、家族はみずから行為を起こすことによって血縁者を大地のふところに返し、不滅の原始的な個たらしめる。それによって、死者は共同世界の仲間に引きいれられるので、この共同世界は、死者を思うさま破壊しようとする元素の力や低級な生物を配下におさめ、その力を抑制するのである」(同訳)

 家族の最大の義務とは、「埋葬の義務」である。どんな人間でも必ず死を迎えるが、これに抵抗することはできない。死は、自己意識の外側から襲ってくる暴力といえるが、これに精神的な意義を与えて、それを単なる「自己」の喪失や破壊ではないものに変えること。これを行なうことこそ、埋葬という行為なのである。家族は死者を埋葬することによって、彼や彼女を祖先の霊のメンバーの中に加入させる。これは「自己」意識としての人間が自分の死を受け入れるためには、ぜひとも必要な行為なのである。
 ヘーゲルは『精神現象学』において、「死」の問題に正面から取り組んだ。死の恐怖を知ることによって、「自己」の意識がめばえる。死を廃絶してしまうことはできない。できるのは、ただ死に「意味」を与えることだけである。だから、死者を弔うという制度が発生するのは必然的なのである。
 ヘーゲルは言う。国家のために戦って死んだ男たちを埋葬するのは女たち、すなわち家族の役目である、と。もし、埋葬されずに死骸が鳥や獣の餌食にされるならば、それは死者にとっても、遺された家族にとっても、耐えがたいことなのである。家族の執り行なう埋葬が「死」に意義を与えてくれるのである。
 このように、孟子と同じく、ヘーゲルも「埋葬の倫理」というものを力説した。あらゆる宗教や哲学が肉親を弔うことの重要性を説き、古今東西、親が死んで、葬式を出そうと思えば出せるのに、金がもったいないからといって出さなかった民族も国家もまったく存在しない。そんな前代未聞の存在に日本人がなってしまったら、これはもう世界の恥どころではなく、人類史上の恥である。わたしは、日本人が人類社会からドロップアウトすることを死に物狂いで食い止めたいと思う。

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.319-322