生と死と霊に関する論文


 信仰と救済


   1.

  いのちとは何か、私たちはどこから来たのか。死とは何か、生を終えてからはどこへ行くのか。むつかしい問題である。容易には理解できそうにない。しかし、よくわからないなりに、悩みつつ、苦しみつつ、考え続けていくうちに、無明の闇に射し込む、遠く幽かな一筋の光が感じ取れることがある。たとえば、次のような文に出会ったときである。『歎異抄』の第五段である。(1)

  親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりて助けさふらふぺきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を回向して、父母をも助けさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まず有縁を度すべきなりと云々。

  ここではじめに述べられているのは、父母兄弟とは何か、ということである。父母というのは自分の父母だけが父母なのではない。生きとし生けるものは、みんないつかの世で、父母であり兄弟であった。だから、念仏をとたえる場合にも、現世の自分の父母に対する孝養のつもりでとなえたことは一度もない、と親鸞はいう。思いきった表現であるが、まずこの部分だげをとりあげて、「一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり」を中心に考えていくことにしよう。

 これは、仏教のいわゆる輪廻の思想からきているが、輪廻とは、サンスクリット原語で「流れること」「転位」を意味した。「生死」とも訳され、輪廻転生などともいわれている。(2) 人間は迷いの凡夫の状態にある間は、善悪の業報に支配される。善業をなした者はその報いとして天上や人間などの善道に生まれて福楽を受けるが、悪業を犯した者はその報いとして、地獄・餓鬼・畜生などの悪道に生まれて痛苦を受けるというように、これらの五道(または修羅を加えた六道)に生死輪廻するとされている。インドではこの考えは、仏教以前の古ウパニシャッドですでに説かれており、それ以来今日に至るまで、一般的にひろく行われている思想である。(3)

  人間というのは、今も昔も、永遠の生命を信じたいという願望が強い。誕生はただの生物学的現象で、息を引き取るときには意識も死滅してしまうのだ、と主張する無神論者はいつの世にも存在したが、そのような唯物論的な考え方は、機械文明が高度に発達し、テクノロジー万能を謳歌する現代においても、決して多数派ではないといえるであろう。しかし、この永遠の生命に対する願望と、それを確固たるものとして奉持する信仰との間には、常に越え難い深く大きな断層があった。仏教でいう人間の「無明の闇」である。平安初期、『秘蔵宝鑰』(4) のなかで空海も、私たちは「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」と、この無明を諭した。そして空海は、さらに次のように説く。

  だれでも人はすき好んで生れてきたのではないし、死もまた人の憎み嫌うところのものである。しかし、それでも、われわれはなお、次々と生存をくり返して、六趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間.神々)という迷いの世界に輪廻し、次々と死をくり返しては、三途(地獄・餓鬼・畜生)の悪しき世界に沈んでいる。自分を生んだ父母も生の始源を知らず、その生を受けた自分も死の行方を知らない。過去をふりかえれぱ、きわめて暗く、その初めを見ることができない。未来を臨み見れば、まったく明らかでなく、その終わりを求めることができない。

  日、月、星辰は天空に輝くが、わが心は狗の眼のように真っ暗であり、中国の代表的名山といわれる 五岳に登っても、わが心は羊の眼のように迷っている。朝夕、あくせくと働いて衣食の牢獄につながれ、あちこち走りまわって名声や利益の穴に落ち込んでいる。しかもまだ、磁石が鉄を引きつけるように男 女が愛し合い、水晶が月光を受けて水を生ずるように、親子が親しみ合っている。だが、親子が親しみ合っているといっても、それが果して真実の親愛であるかどうかを知らず、また、夫婦が愛し合っているといっても、それが果して真実の愛情であるかどうかを悟っていない。これらのことは、水がよどみなく流れ、火がたえまなく燃え続けて一瞬もとどまらないように、実にはかないものである… (5)

 この「真実の親愛であるかどうかを知らず、真実の愛情であるかどうかを悟っていない」というのも、父母とは何か、兄弟とは何か、親子とは、夫婦とは、という間いかけに対する空海の一つの洞察である。自分の父母だけが父母なのではない。他人の父母も自分の父母である。自分の兄弟だけが兄弟なのではない。他人の兄弟もまた自分の兄弟である。自分の親だけを思い、わが子だけが可愛いというのは本当の親愛とは違う。自分の妻だけを大切にし、自分の兄弟だけを愛するというのも真実の愛情とはいえない。そして、そのことにいつまでも、いくたび生まれ死んでも気がつかないのが人間の「無明」なのであろう。この無明の暗闇の中から、人間はどうしたら抜け出すことができるのであろうか。


   2.

  そのひとつの方法は、平等心を持つ修行をはじめることだとチベット密教のラマたちは説いた。中沢新一氏は『虻の階梯』のなかで、それを次のように紹介している。

  まず自分の心を観察してみなさい。あたたは自分の友人や気にいった人々には愛着をおぼえ、いやな 奴や敵などには憎しみをいだいていることがすぐにわかるだろう。偏りのたい平等な心とは、敵に対す る怒りや憎しみを捨て、また近しい者たちへの不必要な愛着をも捨て去ることをいう。なぜ愛着や憎し みにこだわってはいけたいかというと、今あなたが愛着や惜しみをいだいているその者たちとあたたと の結びつきは、げっして固定したものではありえないからだ。

  わたしたちの心の連続体は、無限の過去から一度として途絶えたことはなく、輪廻にあってさまざま た生きものとして再生をくりかえしてきた。そうだとすれば、今あなたが怒りや憎しみをいだいている 者たちも、かつては一度たらずあなたをいつくしんでくれたものであったことがあるはずだ。また、あ たたが今愛着をおぽえているものたちも、かつてはあなたを傷つげ苦しめるものであったことがあるは ずである。(6)

  この引用文のあと、聖者カタヤーナの話が続く。昔、聖者カタヤーナは托鉢の遺すがら、男の子を膝にのせた一人の若い婦人を見かけた。その婦人はその時、魚を食べていたが、その魚を狙って犬が近づいてきた。すると彼女はその犬に向かって石を投げつけたのである。聖者カタヤーナは過去と未来を透視する力を持っていたために、そこに恐るべき光景を見通してしまった。つまり、彼女が食べている魚は、実は、前生における彼女の父親であり、それを狙っていた犬は、彼女自身の母親であったのだ。それだけではない。彼女が膝にだいて慈しんでいる子供は、前生で彼女をなぶり殺しにした敵であった、というのである。輪廻にある生きもの同士の結びつきというのは、本来いささかも固定したものではないということを、この話は象徴的に物語っている。(7)

  私たちは、生きものすべてに平等に愛をそそいでいかなけれぱならたい。しかし、この平等とは、生きものすべての単たる無差別、均質化を意味するものではたい。あらゆる存在は一瞬たりとも同じであることがなく、すべてが瞬時に彩をなし瞬時に消えていきつつ独自の個性に輝いている。その個性を尊重し、現れては消えていくひとつひとつの差異を理解しだから、すべてを大きな偏りのない慈悲のこころで包んでいくのである。私たちが望んでいることは、同じように他の生きものも望んでいるかもしれたい。私たちが嫌うものは、他の生きものだってやはり同じようにいやがっているであろう。結局、私たちと他のさまざまな生きものとは、その本質において、なんら変わるところはないのである。このような考えからチベット密教のラマたちは、憐れみの心の瞑想を深めることを、つぎの様に説いた。

  犯罪人が死刑になる直前(チベットでは重罪人は水死刑に処せられていた。だからここでは水につけら れる直前ということになる)、あるいは屠殺人の斧がみげんにふりおろされる直前の動物が、その時どん な苦痛をおばえるか、真剣に想像してみるのである。自分がその罪人や動物の立場だったらどうだろう。 助けを求めようにも助けてくれる者はたく、逃げようにも逃げるすべもない。次の瞬間には愛していた もの、美しいもののすぺてが消えていくのだ。あるいは死刑になろうとしているのが年老いた自分の母 親だったらどうだろう。水につけられ息がつまっていく時、母親の苦しみはいかぱかりであろう。屠殺 されようとしている動物も自分の母親である、あるいは前生で自分の母親であったものだ。悲しみをた たえて見開かれた目がこちらを見つめているではないか。(8)

  このような瞑想を、さらに人と動物の世界を越えて、地獄の住人や餓鬼の苦しみにまで広げていく。そして、彼らもまた私たちと異なるところは何もない、彼らの姿は私たち自身の姿なのだ、彼らは私たちの父であり母であった者たちにほかならない、ということを認識するのである。それは深い深い憐れみの心をよびおこすであろう。そして、そのあとには祈りだげがつづく。

  深い憐れみの心を瞑想する時には、腕のない母親が子供を川にさらわれた時のような気持ちをもてとも教えられてきた。子供の苦しさを思って母親は泣き叫ぶが、腕の次い哀しさ、水から子供を救いだすことはできない。それと同じように、数え切れない生きものたちが苦しみの川にさらわれ、輪廻の大海に押し流されていく。それを見たわたしたちは無量の慈悲心につき動かされるのだげれど、彼らを救う力はない。そんな時、あなたは心の底からラマと三宝に祈りをこめるしかない。あなたはもう泣きださんばかり、胸があふれてしまっている。(9)

  このように、私たちはやはり「腕のない母親」なのであろう。腕のない私たちは、ただ祈りをこめるしかない。祈りだけが続くのである。すべてが消え、残らず、祈りだけが私たちの実体になる。


   3.
 
  ここで私たちは、「一切の有情は、みなもて世六生々の父母兄弟なり」に続く親篶のことばに直面することになる。「いづれもいづれも、この順次生に仏になりて助けさふらふべきなり」は、どの人もとの人も、来世では自分が仏にたって助けてあげるぺき人である、とここでは表面的に一応の理解をしたうえで、後段に入る。ただし、この意味を掴み取るためには、その前にある第四段をも併せ読む必要があるであろう。そこでは次のように述べられている。

  慈悲に聖道浄土のかはりめあり、聖道の慈悲というは、ものをあはれみ、かたしみ、はぐくむたり、しかれども、おもふがごとく助けとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、犬慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するを云ふぺきなり。今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたげれぱ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと云々。

  この段のポイントは最後の二支であろう。「私たちが、この世でいくら他人に同情し気の毒に思っても、なかたかすぺてを助けおおせるものではない。そういう慈悲は所詮中途半端なのである。たとすれば、ただただ念仏することだけが、徹底した大慈悲心に通じる道である」と親鷲は言う。自力聖道門の慈悲心と他力聖道門の慈悲心を比べ、後者こそ弥陀の本願にかなう、真実の大慈悲心であることを強調しているのである。そしてこの文意は、第五段の後半に受け継がれる。

 「念仏が自力の善であるならば、わたしの念仏の功徳を回向して父母を助けることもできるであろう。しかし、よく考えてみると、自分の力に上る念仏ではたいのだから、自力で助けようというような考え方は捨て、急いで浄土に行って骨りを開き仏にたることだ。その上で、仏に備わっている自由自在の救済の力で、この輪廻の世界に苦しんでいる衆生を縁につながるものから救っていくことができる」というのがその大意であろう。つまり私たちは、自力であれぱあの腕のたい母親と同じである。水に落ちて泣き叫ぶ子供を計の前にしても救い上げることができない。救えるものがあるとすれぱ、それはただ他力の「祈りー念仏」だげであると、親鷲は説いているのである。そして、その念仏に徹することで、阿弥陀仏に自分のまわりの人々から、救っていただくことができる。

  この他力本願の思想は、それなりに理解できるであろう。しかしそれにしても、急いで浄土に行って、つまり「いそぎ仏になりて」は、ひとつのカベになりかねたい。これは、決して単たる「早く死んで」にはならないはずであるが、これをどのように受け止めていげぱよいのであろうか。私たちは悩み、さまよいたがら、同じく『歎異抄』の第九段にたどり着くことにたる。少し長いが原文をそのまま引用してみよう。

  念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜の心おろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふぺきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかぱ、親鷲もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありげり1よくよく案じみれぱ、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこぱぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこぱせざるは、煩悩の所為たり。しかるに仏がねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれぱ、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるたり。また浄土へいそぎまいりたき心のなくて、いささか所労のこともあれぱ、死なんずるやらんと、こころぼそくおぽゆることも、煩悩の所為たり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里すてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつげてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存知さふらへ。踊躍歓喜、のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなましと云々。

  この冒頭の質問は、弟子の唯円から出されたものである。唯円は、親鷲から直接教えを受けて、念仏の真実性に深く目覚めていたであろうことは、想像に難くない。その唯円が、「いくら念仏を唱えてみても、どうも天に舞い地に踊るというような全身の喜びが感じられない。それに、真実の楽園であるはずの浄土へも、早く行きたいという気持ちが起こらないのはどうしてなのだろう」と、率直な疑問を出しているのである。親鷲もそれに対して率直に言った。「実は私もそのことを不思議に思っていたのだが、そなたも同じであったか」と。

  唯円はたしかに親鴛の弟子なのだが、親鷲にとってはただの弟子ではない。ともに阿弥陀の弟子であるという自覚があった。それは、「親鷲は弟子一人ももたずそうろう」と第六段に述べられていることからも窺い知ることができる。阿弥陀の弟子としては絶体平等である、と考えている親鷲の唯円に対する答え方は、謙虚でやさしい。親鷲はこのように答える。

 「よくよく考えてみると、天に舞い、地に踊るほどの喜ぶべきことを喜ばないでいるからこそ、むしろ往生は間違いないと思ってよい。喜びを抑えて喜ばせないようにしているのが、煩悩のせいなのだ。仏は、はじめからそのことをよく知っておられたからこそ、私たちのことを『煩悩をもった凡夫』と言っておられるのであり、それ故にこそ、他力の悲願はこのような私たち凡夫のためのものであったと、私たちも納得して安心することができるのだ。それから、浄土に急いでいきたいと思わない一方で、一寸した病気にかかってもすぐ死ぬのではないか、と心細くなるのも煩悩のせいである」と。そして、さらに次のように続けるのである。

 「はるか遠い昔から今日に至るまで、生死を繰り返してきたこの迷いの世界は捨て難く、まだ見たこともない極楽浄土は恋しくないというのは、本当によくよく煩悩は強いものにちがいない。げれどもいくら名残惜しいと思っても、この世との縁が切れ、静かに生命の灯が消える時は、あの浄土へ行かざるをえなくなる。仏は、急いで浄土へ行きたいと思うことのできたいものを、ことのほか憐れんで下さっているのだ。そうあってみれぱなおさら、大慈大悲の仏の本願が頼もしく、往生は間違いたいと信じられる。逆にもし、天に舞い地に踊る喜びがあり、急いで浄土にも行きたいということであれぱ、その人には煩悩はないのであろうかと、かえって疑わしくたってしまうのだ」。


   4.

  ここでもう一度、「祈り」の問題に戻ろう。法華経の開経である『無量義経』(10) のなかにも、この親鷲の「他方本願」に類する文がある。「未だ六波羅密を修行する事を得ずと雄も六波羅密自然に在前す」である。まだ六波羅密の修行をすることができたいでいても、この経をこころから唱えていれば、その功徳によって六波羅密はおのずから備わってくる、というのである。

  六波羅密とは、菩薩が悟りを得るために行じなげれぱたらたい六つの修行のことで、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧である。昔から精神力にすぐれた多くの仏道修行者が、あるいは千里万里をも遠しとせず法を求め、あるいは常人の及ばぬ難行苦行の修行を重ねたりしてきたが、それでも成仏を遂げることは決して容易ではなかった。それを例えば日蓮は、この『無量義経』にならって、「妙法蓮華経の五字を受持するならば自然に仏の因果の功徳が譲り与えられる」と説く。すなわち私たちは、過去において六波羅密に代表される仏道修行を何も行ぜず、仏法にかたう何らの善根を積んでいなくとも、妙法五字を信愛して題目を唱えでいけば、それだけで成仏への因行と果徳が加わり、仏界への道が開けるのである。ここでも.「腕のない母親」の持ちうる可能性がポジティヴな展望として説かれている、といえるであろう。

  ここでなお、それでは祈りさえすれぱよいのか、念仏を、あるいは題目を、唱えてさえしていれぱ救われるのか、というような疑問の前に立たされることになるかもしれない。そのような疑問に対する答えは、すでに示してきたいくつかの引用文においてさえ、自明の理として含蓄されているはずであるが、私はまだ、私自身のことぱでそれに答えられる立場にはたい。ここでは、次のような、坂村真民氏の信仰と実践の記録をひとつ紹介するだげにとどめておきたい。(11)

  氏は、愛媛県松山市に住む詩人である。明治42年熊本に生れたが幼くして父を亡くし、母の手ひとつで育てられる。多感な少年時代に伊勢の神宮皇学館で学んだことが、氏のその後の思想形成に大きな影響を与えたという。氏には、「念ずれば花ひらく」というつぎのような詩がある。

  念ずれば
  花ひらく
  苦しいとき
  母がいつも口にしていた
  この亡とぱを
  わたしはいつのころからか
  となえるようになった
  そうしてそのたび
  わたしの花がふしぎと
  ひとつひとつ
  ひらいていった

  坂村氏によれば、信仰というのは要するに「疑うな」ということである。「疑えば花開かず、信心清浄なれば、仏を見たてまつる」という仏典のことぱがあることを知った氏は、このことぱをみずから捜すべく、大海のように膨大な大蔵経に取り組み、三度読んで三度とも、見つげることができなかった。それでも諦めずに苦闘しているうちに、やっと、大蔵経を解釈した「外」のなかの「十住昆婆沙論」にあることがわかる。念ずれば、大海の中に落ちた真珠でも拾えるのだということを、氏はさらに確信したというのである。

 海はすべての生きものを産み出すから「うみ」という。だから海から産まれたあらゆるものは、「悉皆有仏性」で私たちと同じく仏性をもっている。これは地上のあらゆるものにも及んで、山川草木も例外ではない。このような考え方から、坂村氏は「あいさつ」と題するつぎのような詩も書いた。

  タンポポが
  咲いていたら
  タンポポさん
  こんにちはと
  こえをかげて
  通ってゆこう
  どんなにか
  よろこぶだろう
 
  どろをかぶり
  みちのぺの
  ふまれるところに
  かたまって咲いている
  タンポポたちに
  せめてわたしだけなりと
  あいさつをしてゆこう

 自然と人間とはもともとひとつであって、人問にとって大切なことは、自然のこころがわかることだと、坂村氏は言う。現代人の不幸は、科学万能の現代社会の病理のなかで、人間と自然が乖離してしまっていることである。すべての生きものと共存することを忘れ、自然のいのちにも気がつかず、「念ずれば花ひらく」と聞いても、心ない人は、「そんなぱかなことがあるものか」と、頭から受けつけない。「いくら念じても花なんか開くはずがない。そんなのは迷信にきまっている」などと極め付ける。「お前そんなにいうたら、ここで念じてみよ、花が開くか?」たどと椰楡もする。坂村氏は「それでは花は開きませんわな」と嘆くのである。

 氏はこの「念ずれば花開く」の石碑を日本各地に建ててきて現在は百基になっているという。私もたまたま、京都の知恩院境内でこの石碑をみかけたことがある。大きな半円形の自然石に刻み込まれたまろやかな八字の字体が、この緑がかった石全体にほのかなぬくもりを与えているような気がした。この「念ずれば花開く」のこころをひろめる運動は、坂村氏にとっては、つぎのように「八字十音の誓願」であった。

  念ずれば
  花ひらく
  八字十音の誓願を
  タンポポの種のごとく
  流布さぜんがために
  日夜心身を砕くぺし
  そのほかに
  求むぺからず
  望むべからず

  このような氏の信仰と実践を支えてきたのは、一遍上人に対するひたすらな敬仰であった。定期的に詩集「べるそな」を出していた氏は、その土地の「遊行上人」一遍に強く惹かれるようになって、一遍上人の生まれた古刹に詣でる。そこで一遍にならい、詩集によって念仏のこころをひろめていく誓いをたてたのであった。

  一遍上人は鎌倉時代中期の僧である。一二三九年、伊予(愛媛)の豪族河野通広の子として生まれ、十五歳の時、父の命により出家した。三十六歳の時、故郷の伊予の家を捨て、妻も子も財も捨てて行脚の旅に出る。それから十六年間、北は東北から南は九州に至るまで、日本各地を放浪し、乞食をしながら念仏を説き続けた。(12) その時に配り歩いたのが「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」と書かれた念仏札である。これがいわゆる賦算で、念仏札は極楽行きの切符ともいうべきお守りと考えてよいであろうか。そのお守りを二十五万余配ったところで、一遍は五十一歳で死ぬ。そのような一遍の姿を、氏は、「一遍智真」と題する次のようだ詩であらわした。

  捨て果てて
  捨て果てて
  ただひたすら六字の名号を
  火のように吐いて
  一処不住の
  捨身の一途さが
  わたしをひきつげる
 
  六十万人決定往生の
  発願に燃えながら
  踊り歩いた
  あの稜々たる旅姿が
  いまのわたしをかりたてる

  芭蕉の旅姿も
  よかったにちがいたいが
  一遍の旅姿は
  念仏のきびしさとともに
  夜明けの雲のように
  わたしを魅了する


  痩手合掌
  破衣跣の彼の姿に
  わたしは頭を下げて
  ひれ伏す

  このように坂村氏が深く心服していた一遍の「六十万人決定往生」の願いをこめた賦算は、一遍が死んだ時、三十五万人分残されていたことになる。その三十五万人分の賦算を坂村氏は、従来の「べるそな」に代わる新しい詩集「詩国」を出すという形で引き継ぐことにした。南無阿弥陀仏のこころを詩集に託して、毎月ひとりで、千二百人に郵送を始める。そしてもう二十七年になるのだという。疑わない信仰のあり方を、このようにして坂村氏は、倦まず弛まず、説き続けてきたのであった。


   5.

  このような疑いのない信心のありかたを、もう一度『歎異抄』に戻って、第二段のなかでみてみることにしよう。ここには親鷲の激しい、捨て身の、思いきった信仰の告白がある。

  をのをの十余ケ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たずねきたらしめたまふ御こころざし、とへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をも知りたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからぱ、南都北嶺にも、ゆゆしき学匠たち、おほく座せられてさふらふなれぱ、かのひとびとにも遇ひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におひては、ただ念仏して弥陀にたすげられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生ずるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべらん、総じてもちて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行もはげみて仏になるべかりげる身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはぱこそ、すかされたてまつりてという後悔もさふらはめ。いづれの行もおよぴがたき身なれば、とても地獄は一定のすみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさぱ、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならぱ、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならぱ、親鷲がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふか。せんずるところ、愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々。

 「皆さんが十余力国を越え、命がけの旅を続けてはるぱると、関東からこの京都まで私を訪ねてこられた目的は、ただただ極楽往生の道を教えてほしいと考えてのことでしょう」と親鴛は切り出す。「命がけの旅を続けて」とは容易ならざることであるが、この段全体の意味をよく理解するためにも、ここでちょっと立ち止まって、その背景についてみておきたい。

 かつて親鴛は、常陸の国を中心に下総、下野、武蔵だとの関東諸国に他力本風の念仏を説いてまわっていたことがあった。その後親鴛は、一二三五年、六三歳の頃、関東を去って京都に帰ったのだが、残された関東の信徒たちの間には、やがて信仰に対する考え方の相違から正統派と異義派との対立がおこり、その対立は年をおって激しくなっていった。『歎異抄』第一〇段にも述べられているとおりである。(13) そこで、信心に迷いを来した人たちが、あらためて親鴛から直接教えを受けるため、関東の常陸の国から東海道十余ヵ国(常陸、下総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江、山城)をはるばるとこえて、京都へやってきたのであった。

 東海道といっても、鎌倉時代であったから、江戸時代の東海道五十三次などよりよほど不便で危険も多かったにちがいない。その命がけの旅をしてきた信徒たちを前にして、親鸞のことばは続く。「あなたがたは、私が念仏以外に往生極楽への道を知っているだろうとか、いろいろと経典以外の教えにも通じているだろうとか勝手に考えているようだが、それはとんでもない誤りである。それを教わりたいというのであれぱ、奈良や比叡山にすぐれた学僧が大勢おられるのだから、そういう人たちに会って往生の道を詳しくお聞きにたれぱよいのだ」。

  この信徒たちを突き放すように激しいことぱにも親鸞の信仰に対する厳しい姿勢がうかがわれるが、ここであえて南都(奈良の興福寺、東大寺)や北嶺(比叡山の延暦寺、三井寺)の「すぐれた学僧」に言及しているのは、実は、彼らの僧侶としての学識・実践を認め、敬意を払っているからなのではない。当時の比叡山延暦寺や奈良の興福寺をはじめとする等々には数多くの学僧がいても、仏典の真髄を把握し、仏道を真に実践できるものは極めて少ないことを親鸞は十分に知っていた。彼自身が比叡山における修業に見切りをつけ、山を下りて以来、南都、北嶺からは異端視され迫害をうけてきた苦い体験をもつ。ついには越後国へ流されもした。その親鸞が、彼らに会って往生の道を聞け、と言っているのは、おそらく精一杯の皮肉で、実際は、彼らに聞いても往生の道など聞けるはずがない、と言いたかったのであろう。

  そしてその後に、親鶯は率直にそして強いことばで、彼自身の入信のいきさつを告白する。「私は、ただ念仏をとなえて阿弥陀仏に助けていただくだけだと、法然上人に教えていただいたことを信じるのみである。そのほかはたにもない。念仏をとなえれば、本当に浄土に行けるのか、それとも地獄に落ちるのか、そんなこともどうでもよい。かりに、法然上人に騙されて、念仏したあげくに地獄に落ちたとしても、私は決して後悔はしないであろう」と。

 ずいぶん思いきった表現である。関東からはるぱる命がけの旅を続けてやってきた信徒たちは、いま固唾をのんで親鷲の顔を見守っている。この緊迫した雰囲気のなかで、真剣な信徒たちの眼差しを前にした親鸞は、赤裸々な自分自身の姿をさらけ出して、信念を披瀝しなければならなかった。まかり間違えば師としての信を失いかねず、仏道の教えにも疑問を抱かせることにもなりかねないことぱである。そのようなことばを、確固たる信仰の証しとして信徒のこころに直裁にしみ込ませていったのは、おそらく親鸞のその時の気迫であったにちがいない。

  彼はさらに続ける。「そのわけは、念仏よりほかの修業を励んで悟りを開けるはずであったのが、念仏に打ち込んだために地獄に落ちたというのなら、その時は師に騙された、という後悔もあるかもしれない。しかし、私はどのような修業もできない身だから、どうせ私には地獄がはじめから定められた行き場所なのだ」と。そして、最後をつぎのように結んだ。「阿弥陀仏の本願が真実であるならば、釈尊の教えにも嘘はない。釈尊の教えが真実であるなら、善導大師のお解きになったことにも誤りはない。善導大師のお解きになったことが真実であるなら、どうして法然上人の言われることが虚言でありえようか。そしてまた、法然上人の言われることが真実であれば、この親鸞の言うことも空ごとであるはずがない。これがつまり、私の信心なのだ。この上は、念仏を信じようが、捨てようが、それはあなたがたの勝手である」。信仰とはこういうものだと、親鷲が血を吐くようなことばで述べた真心からの告白であった。
 

   6.

 以上述べてきた仏教思想における信仰と救済の問題に関連して、つぎにひとつのエピソードを紹介しておきたい。花田正夫『歎異抄』に収められている白井成允氏の求道記である。

  先生は若いころ母君を亡くされた。それまでは、死とはローソクの火が消えたようなものというふう に無の見におちておられたが、それ以来死後が問題になり、第二高等学校に入ってから、そのことについて土井晩翠教授に質問されたところ、キリスト教を学ぶように勧められた。以後、聖書に親しまれたが、「信ずる者は救われる」との言葉に行き詰まられた。それというのも、自分はこれから真剣に求め て行げば信じることもできようが、亡き母は信じることができない。その母への救いの道が絶無なのに失望されたのである。

  やがて、東京大学で倫理学を学ぶようにたられたが、その問題が解けず、三好愛吉博士に苦衷を訴えられたところ、博士は「それでは仏教を聞きなさい。自分は禅宗によっているが、君の性格からは真宗が適していると思う。近角常観師に聞きなさい。ただし師は同じたとえをくりかえし話されるが、それがいつも新しく聞けるようになるまで聞きなさい」とのことであった。これから真宗を聞法し始められたが、『歎異抄』の第五段に接して、そこに亡き母上も救われ得る道のあることを知り、それには自分自身が信をえて、はやく浄土のさとりを開かせていただげる身にならねぱならぬと、生涯の行くべき道は定まった。(14)

  このエピソードによれば、亡くたった肉親を救う道は、その肉親がキリスト教信者でないかぎり、キリスト教にはなく仏教にある。キリスト教では自己救済は可能であるが、仏教的決意味での故人救済は教徒の期待可能領域外にある、ということになる。これは、どこまで妥当するのであろうか。以下、このように対比されているキリスト教に目を向けてみることにしたい。まず聖書のなかから、「救い」に関連する教えを抜き出してみよう。すぐ目につくのが、次のようなことぱである。

  神はそのひとり子を賜わったほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさぱくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさ ぱかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである…御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないぱかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。   (ヨハネ 3章 14-18、36)

  よくよくあたたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。 (ヨハネ 5章24)

  この、キリスト教でいう「神1わたしをつかわされたかた」は、超越神であって、「はじめに神は天と他とを創造された」と『創世記』の冒頭に述べられているように、天と地をも超越した存在である。そのために、人間との間には大きな断絶があり、その断絶を埋めるのが「神のひとり子」「御子」のイエス・キリストであった。これが、仏教の「仏」とは本質的に相違する点である。仏教では、仏と人間との間には無隈の距離はあるが、決して断絶はない。それどころか、その無限の距離を人間がたゆみたく歩み続けて、ついには仏になることを教えているのが仏教であるといえよう。

  キリスト教の神は、唯一絶体であるから、その教えには純粋にして無条件な心服が要求される。そして、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる」者だけが「永遠の命」を受けることになるのである。聖書に啓示された神のことばは、だから、神理としてそのまま受け入れなけれぱならない。その呼びかけは次のように、聖書の至る所に、ちりぱめられている。

  それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べること ができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはたい。岩を 土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家 を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけ ると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。 (マタイ7章 24-27)

 「大乗経典」「小乗経典」を問わず、ほとんどすべてが「如是我聞」ではじまる仏教経典とは、この呼びかけの点でも基本的に相違している。仏教経典では、釈迦がどのように語ったか、ということよりも、自分がどのようにその教えを聞いたか、が重視されているからである。

  また、キリスト教は「神はそのひとり子を賜わったほどにこの世を愛して下さった」とあるように、本質的には「愛の宗教」である。ただしこの「愛」は、日本語としては現代語としての「愛」であって、古語としての日本語では、これは「愛着、執着、愛執」で、必ずしもプラスのイメージをもつものではなかった。日本語の「愛」はもともと欲望の一形態であって、本質的には自己愛である。この「愛」はしばしば、「憎しみ」と背中合わせであり、「愛」が深ければ深いほど、そのなかに「憎しみ」を可能性として包含してしまっている。だから、仏教では「愛」を否定し、「愛」よりできるだげ離れることを理想としてきた。「愛より憂いが生じ、愛より怖れが生ず。愛を離れたる人に憂いなし、なんぞ怖れあらんや」と『法句経』にも説かれている。(15) 仏教が「愛」ということばを使わず、「慈悲の宗教」といわれるゆえんである。

  しかし、もとよりキリスト教の愛には、このようた仏教的な「愛」の陰も曇りもない。イエス・キリストは、教えの一切を愛に集約して、神を愛し、人を愛し、ひたすらに愛に徹することを説いた。繰り返し繰り返し聖書のなかにあらわれる次のようなキリスト自身の愛の言葉に、いささかでも感動を覚えない者がいるであろうか。

  すべて重荷を負うて苦労している者は、わたLのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者だから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくぴきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 (マタイ11章 28-30)


   7.

  ここで、前章のはじめにあげた二つの引用のなかの、「永遠の命」についても触れておかなければならないであろう。「永遠の命をもつ」または「受ける」というのは天国に生きるということにほかならない。「命にあずかる」「死から命に移って」というのも、同じことである。天国は聖書ではほとんど、神の国(Kingdom of God)と書かれているが、これは永遠の世界であって、終わることがない。

  仏教ではすでにみてきたように、輪廻の世界があって、人聞は死ねぱまた、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人のいづれかに生まれ変わることにたる。この輪廻の輸から外れた永遠の世界が煩悩や繊れから解放された浄土または仏国土である。キリスト教の天国は、いわば、この浄土または仏国土に例えられるであろう。

  ただ、浄土、仏国土は仏の数だけ存在するのに対して、神の国はあくまでも一つである。神の国はこの世の終わりに完成するとされていて、その時、神を信じる者は復活する。死から甦って神の国に生き、ふたたび死ぬことはない。つまり、神を信じる者だけが救われる一方で、「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」のである。冒頭に紹介したエピソードのなかで、「自分はこれから真剣に求めて行げば信じることもできようが、亡き母は信じることができたい。その母への救いの道が絶無なのに失望」したのも無理からぬことであったかもしれない。

  しかし、その「母」とはいったい何であったか。「兄弟」とは何であるか。それを、ふたたび、聖書のなかでも探っておくことは、あながち意味のないことではないであろう。これらについてのイエス・キリストのことばは、つぎのような場面にあらわれている。

  さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。 (マルコ3章 31-35)

  すでにみてきた『歎異抄』の、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり」を彷彿とさせる感動の場面である。このイエス・キリストは、後にゴルゴタの丘で十字架につげられてからも、十字架の上から同様の言葉を繰り返した。

  さて、イエスの十字架のそぱには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。イエスは、その母と愛弟子とがそぱに立っているのをごらんになって、母に言われた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。 (ヨハネ19章 25-27)

  この「婦人よ、ごらんたさい」は、日本語訳としてもあまりよくなじまない。英訳の、King James   Version では、"Woman, behold thy son!" となっていて、「女よ、見なさい。これがそなたの子だ」とでもするほうが、日本語としては少しは自然のようだ気もする。ともあれ、これからまさに死刑が執行されようとしているその時に、自分の母親に対して「女よ」と呼びかけているイエス・キリスト。それは絶望の中での粗野の響きであったか。そうではないであろう。その声は無限の愛と威厳を帯びて、あたたかく、やさしく、母のこころに伝わっていったにちがいたいのである。

  結局、残された問題は、信仰だけである。親鸞が「よきひとの仰をかふむりて、信じるほかは子細なきなり」と言っているように、イエス・キリストのことばを無心に受け入れることができるか。そして、「たとひ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」というように宣言できるまで、聖書と一体になりきれるか。ほかならぬその信仰を、聖書のなかで、イエス・キリストは飽くこともなく熱心に語りかけているのである。

  イエスは彼らに言われた、「わたしが命のバンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。しかしあなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためで はなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせることで ある。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そしてわたしはその人々を終わりの目によみがえらせるであろう」。 (ヨハネ6章 35-40)

  そしてまた、より直接的には、兄の死を悲しんでいるベタニアのマルタに、つぎのように言ったりもした。

  わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。 (ヨハネ 11章25-26)

  これに対してマルタは、「主よ、信じます」と答える。そしてマルタは、その兄ラザロが死からよみがえるのを目の前で見ることになる。このような信仰は、イエス・キリストが十字架につけられたあとも、煉原の火のごとく広がっていった。そしてこの、ガリラヤで発生したユダヤ教の一分派とでもいうべきキリスト教は、紀元六四年にはあの皇帝ネロの迫害を受けるまでになる。イエス・キリストの処刑が紀元三〇年とされているから、この迫害は、イエス・キリストの教えがわずか三四年で、ローマ帝国の首都にまで及んでいたことを示している。(16)

  この布教の中心になっていた一人は、多くの迫害にもひるまず、不屈の活動を続けていたバウロであった。彼は生前のイエス・キリストには会っていない。しかも最初は、彼自身がキリスト教徒へのあくなき迫害者でさえあった。キリスト教徒の迫害に向かっていたそのパウロが、ダマスコ郊外で突然一筋の光りに打たれ、復活したイエス・キリストのことばを聞く。この事実は、彼にとって生涯動かすことのできない確信であった。この事実によって彼は回心し、その後は一層の勇猛心をもって今度はイエス・キリストの教えを説き続けたのである。彼にとっても、信じることは「救い」であった。彼のローマ人への手紙にはこうある。
 
  自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あたたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからであ る。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はたい。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいたくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。 (ローマ10章 9-15)

 パウロにとっては、自己の救済を他者に及ぼしていくのが使命であった。「わたしには、ギリシャ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果たすべき責任がある」と述べ、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である」(ローマ1章 14、16)と続けている。そして、つぎのようにも説いた。

  愛には偽りがあってはならない。悪は憎しみ退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなざい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、艱難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き なさい。互いに思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。 自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して 善を図りなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。私自身が復讐する」と書いてあるからである。むし ろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいげたい。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12章 9-21)

  パウロは、このように愛と救いを説きつづげて、最後にはネロの迫害で処刑されたと考えられている。その伝道の足跡は、実に二万キロにおよび、それはそのまま、愛と救いを広めるためのイエス・キリストの足跡でもあった。そして、その救いの手はここでも、神を信じられる者だけに差し伸べられているといってよいであろう。

 結局キリスト教には、他者救済はあっても、仏教の追善供養的な意味での故人救済はない。使徒行伝には「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16章31)があるが、この「あなた」と「あなたの家族」とはパウロとシラスを捕らえた獄吏とその現在の家族である。獄吏が彼らに「わたしは救われるために、何をなすべきでしょうか」と聞いたのに答えたことばであって、パウロとシラスはそれから、「彼とその家族一同とに、神のことばを語って聞かせた」と書かれている。「あたたの家族」とは、この場合も明らかに、故人ではたい。このように、聖書の教えは、基本的には過去と断絶して、現世と未来に向けての自己救済の道を示したものと考えて差し支えないであろう。そこで最後に、その自己救済の一例として、内村鑑三を取り上げてみることにしたい。


   8.

  内村鑑三は一八六一年東京に生まれた。札幌農学校でクラーク博士のキリスト教伝道の影響で入信し、周知のごとく、無教会主義キリスト教の創始者となった。彼の主張は、キリスト教の福音主義の原理は、「律法の行為によらず、信仰による」というものである。信仰を重視するが故に、キリスト教徒は、教会に通わたくとも、また洗礼などの聖礼典を行わなくとも、ただ信仰によって救われるという「無教会主義」を提唱したのである。「私は私の信仰の絶体的自由を得んがために、教会なるものとは、いずれの教会を間わず、何の関係をも持ちません。また私はかならずしも聖書がこの信仰を伝うれぱとて、その威権に伏して、私の理性にそむいて、この信仰をいだくのではありません」と、内村はその著書『キリスト教問答』の中で述べている。(17)

  内村には、いわゆる「第一高等中学校不敬事件」があった。明治二十四年(一八九一年)一月、教育勅語奉戴式で明治天皇の署名に敬礼したかったことから、国中をあげての非難と圧迫を受け、国賊呼ばわりされるなかで二月には第一高等中学校を辞職したのである。その心労から、妻の嘉寿子は発病して四月一九目に死んだ。内村はその二年前、別居中の前妻浅田タケとの離婚手続きが完了し、嘉寿子と結婚したぱかりであったから、その死は内村にとってよほどの痛恨事であったに違いない。それに、後年には、その後再婚した静子との間に生まれた、二女ルツ子を失うという不幸も加わる。これらの体験が彼の信仰のなかで、どのように「救い」に結びついていったか。それをここでは、彼の著書『基督信徒のたぐさめ』により辿っていくことにしたい。

  もっとも彼は、この本の自序のなかで、「この書は著者の自伝にあらず」と断っている。「著者は苦しめる基督信徒を代表し、身を不幸の極点に置き、基督教の原理を以て慰めんことを勉めたるなり」とも言っている。しかし、本書が書かれたのはおそらく事件の翌年で、本書に述べられている大部分の艱難辛苦は、事件とともに実際に彼の身にふりかかっていたことであった。事実を裏付けにして書かれているだけに、ほとんど自伝であると考えてもよいであろう。(18) ここで取り上げるのは、その第一章「愛するものの失せし時」である。このなかで彼は、愛するものを失った悲嘆の始まりを次のように書いた。

  生命は愛なれば愛するものの失せしは余自身の失せしなり、この完全最美たる造花、その幾回となく余の心をして絶大無限の思想界に逍遥せしめし千万の不滅燈を以て照らされたる蒼穹も、その春来るごとに余に永遠希望の雅歌を歌いくれし比翼を有する森林の親友も、その菊花香しき頃巍巍として千秋に聳え常に余に愛国の清を喚起せし芙蓉の山も、余が愛するものの失せてより、星は光りを失いて夜暗く、鶯は哀歌を弾じて心を傷ましむ、富嶽も今は余のものならで、かつて異郷に在りし時、モナドナックの倒扇形を見、コトバキシの高さを望みし時、わが故郷たらざりしがゆえにその美と厳とは反て、孤独悲哀の情を喚起せしごとく、この世は今は異郷と変じ、余はなお今世の人なれどもすでにこの世に属せざるものとなれり。(19)

  生きてはいても、死んだも同然の身になってしまった、と嘆くのであるが、この時の苦痛は、愛しているものを失ったからだけではない、と内村は言う。「この世は、いつかは去るべきものなれば今これを失うも三十年の後に失うも大差なかるべし」と、自分自身のいのちをも見つめて、死ぬこと自体には一応の達観を示している。

  人間が生を受けてから死ぬまでの生物学的な命は、いくら引き伸ばしてみたところで、せいぜい百年である。たいていは七十年八十年に至らぬままに終わる。この僅かぱかりの時の流れの中で、仮に三十年と八十年とを比べてみるのであれば、その差は極めて大きく、その大きな差は、そのまま深い絶望的な悲しみの差となって跳ね返ってくることであろう。しかし、内村にとっては、この世の命はその後に続く永遠のいのちへの出発点でしかなかったはずである。永遠のいのちからみれば、その出発点での、三十年、五十年の差は決して大差ではない。おそらく小差でさえないであろう。その差は限りなく零に近い。

  愛する者を失った内村の苦痛は、むしろ、自分の必死の祈りが神に聴かれなかった(と思った〉ことにあった。そこで彼は、懐疑の悪鬼に襲われ、信仰の立つべき土台をも失ってしまうのである。ついには、「余は基督教を信ぜしを悔いたり、もし余に愛なる神ちょう思想なかりせぱこの苦痛はなかりしものを、余は人間と生まれしを歎ぜり、もし愛情ちょうものの余に存せざりしならば余にこの落胆なかりしものを、ああ如何にしてこの傷を癒すを得んや」と、キリストを信じたことさえ後悔するようになる。実際に彼は、愛する者を失って以来数か月間、祈祷することもやめてしまった。(20)

  しかし、内村にとって、どうしても疑いきれないのがイエス・キリストの死よりの復活であった。キリストの肉体そのものは朽ち果てたかもしれないひキリストの死体を包んだ麻衣は土になってしまったかもしれない。だが、「彼の心、彼の愛、彼の勇、彼の節ああもしこれらも肉とともに消ゆるたらぱ、万有は我らに誤謬を説き、聖人は世を欺けり、余は如何にして如何なる体を以て如何たる処に再び彼を見るや知らず」と、否定しようにも否定できない信仰が残る。そしてそこでまた内村は、では神はなぜ自分の祈りを聴かれなかったのか、なぜ愛する者の命を奪ったのか、という深刻な疑問に立ち返るのである。彼は問う。

  しかれども彼は死せざるものにして余は何時か彼と相会することを得るといえども彼の死は余にとって最大不幸なりしに相違なし、神もし神なれば何故に余の祈薦を聴かざりしや、神は自然の法則に勝つ能わざるか、或は祈祷は無益なるものなるか、或は余の祈祷に熱心足らざりしか、或は余の罪深きが故 に聴かれざりしか、或は余を罰せんがためにこの不幸を余に降せしか、これ余の聞かんと欲せし所なり。 (21)

  苦しみ悩み、理解し、そしてまた懐疑にぶつかる。そのようた内村にどこからか告げる細い声が聞こえる。それは、「自然の法則とは神の意なり。雷は彼の声にして嵐は彼の口笛たり、黙り、死もまた彼の天使にして彼が彼の愛する者を彼の膝下に呼ぱんとする時遣し賜う救使なり」という、厳粛な真理の声であった。「死もまた神が、神の愛する者を膝下に呼ぼうとする時に遣わし賜う救使」であるとは、内村が信仰のぎりぎりのところで捉えた、あるいは捉えざるをえなかった理解であったといえるのかもしれない。しかし、それでもなお迷いは続く。


   9.

  キリスト教には数々の奇跡があったはずである。熱心な祈りによって不治の病が治った例は決して少なくはたい。それならば、彼が彼の愛する者を死に至らしめたのは、彼の祈祷が熱心さに欠けていたからか。もしそうなら、彼は彼の愛する者を彼の不熱心の故に見殺しにしてしまったことにさえなる。しかし、彼は必死に祈ったのである。熱心のあらん限り、祈りに祈ったのである。そして、その祈りは聞き届けられなかった。これをどう考えるか。内村は次のように信じた。

  ああ神よ、爾は我らの有せざるものを請求せざるなり、余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛する者を取り去れり、父よ、余は信ず、我等の願うことを聴かれしに依て爾を信ずるは易し、聴かれざるに依てなお一層爾に近づくは難し、後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならば爾必ず我の祈繭を聴かれしならん。 (22)

  ここまで信仰が深められれば、あとは、感謝と喜びがあるだけである。神は決して、罰として艱難を下すことはない。このような大試練に彼が耐え得ることを知っているがゆえに、神は彼の願いを聞き届けなかったのである。彼の祈りが不熟心であったからではたく、むしろ十分に熱心であったが故に、神はこの苦痛を彼に与えた。彼はそれを神に感謝するのである。そして、最後に残された「忍ぶべからざる一事」は、彼の愛する者が何ゆえに不幸にして短命であったか、という問題だけであった。

  愛のためには自己を忘れて身を捧げる純白なこころの持ち主である。それでいて、一日も心痛のない日はなく、生まれてから短命で死ぬまで、不幸艱難が続いた。死ぬ時には非常な苦痛をさえ味わっている。聖書には、この世は神を敬う者のために造られた、とあるのに、この最も神を慕っていた者が最もわずかにこの世を楽しんで死んでいったのはなぜか。この理解しがたい事実の中に、どのような神の深い意図が隠されているのか、と内村は思い悩む。

  この問題に対する答は二つだけである。ひとつは、神たるものは存在しないということ。そして、もうひとつは、この地球に勝る世界が義人のために用意されているということ。そのどちらであろうか。

 もし神が存在したいとすれば、真理はない。そして、真理がなければ、宇宙を支える法則もなくなる。法則がないのであれぱ、宇宙も自分自身も存在理由がありえないことになってしまう。だから、自分自身が存在している限りは、また、天と地がこうして目の前に広がっている限りは、神がないと信じることはできない。結局、答は、この世に勝る未来の世界があるから、ということしかない。そう内村は結論した。それでも、そのように納得できただげで、彼の気持ちが安らいでいたわげではなかった。彼は、彼の強い信仰心とは別に、彼が失った者のことを思う度に、耐え難い後悔の念に駆られるのである。彼はその苦しみを、次のように告白した。

  余は余の失いしものを思うごとに余をして常に断腸後悔ほとんど堪ゆる能わざるあり、彼が世に存せし間余は彼の愛に慣れ、時には不興を以て彼の微笑に報い、彼の真意を解せずして彼の余に対する苦慮を増加し、時には彼を呵責し、はなはだしきに至りては彼の病中余の援助を乞うに当ってーーたとい数月間の看護のために余の身も精神も疲れたるにもせよーー荒らかなる言語を以てこれに応ぜざりし事ありたり、彼は渾て柔和に渾て忠実なるに我は幾度か厳格にして不実なりしや、これを思えば余は地に恥じ天に恥じ、報ゆべきの彼は失せ、免を乞うの人はなく、余は悔い能わざるの後悔に困められ、無限地獄の火の中に我が身で我が身を責め立てたり。(23)

  このような苦しみと後悔にさいなまれたがら、ある日、彼は彼が失った者の墓に詣でる。墓を清め、花を手向けて、祈りを捧げようとしている時、どこからか、墓の中からなのか、天の上からだのか、次のように彼に語りかける幽かな声を聴いた。

  汝何故に、汝の愛するもののために泣くや、汝なお彼に報ゆるの時をも機をも有せり、彼の汝に尽せ しは汝より報を獲んがためにあらず、汝をして内に顧みざらしめ汝の全心全力を以て汝の神と国とに尽さしめんがためなり、汝もし我に報いんとならぱこの国この民に事えよ、かの家なく路頭に迷う老婦は我なり、我に尽さんと欲せば彼女に尽せ、かの貧に迫められて身を恥辱の中に沈むる可隣の少女は我なり、我に報いんとならぱ彼女を救え、かの我のごとく早く父母に別れ憂苦頼るぺきなき児女は我なり、汝彼女を慰むるは我を慰むるなり、汝の悲歎後悔は無益なり、はやく汝の家に帰り、心思を磨き信仰に進み、愛と善との業を為し、霊の王国に来る時は夥多の勝利の分捕物を以てわが主と我とを悦ばせよ。(24)

  この含意するところは、故人救済とは違うかもしれない。しかし私は、このようなキリスト教の愛のなかにも「信じるものだげが救われる」を越えたその可能性と希望を見いだす。死別したあとでは、愛する者に尽くしたいと思っても、もう尽くすことができない、というのではたい。尽くしたいと思えば、尽くす時間も機会もある。まわりのさまざまな人々は、すべて愛する者の分身であり、その分身のなかに愛する人は生きている。だから、肉身においても愛する者は決して死んではいないのである。それが、イエス・キリストの教えでもあった。ともあれ、そのことを理解した内村は、終局的には失ったものはなにひとつないことに気がつく。それは、長い悲しみと苦しみの果てにたどりついた光明の世界であった。内村は「愛するものの失せし時」を、次のような感動のことばで結んだ。

  余は余の愛するものの失せしによりて国も宇宙も― 時にはほとんど神をも― 失いたり、しかれども再びこれを回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と壮宏とを加え、神には一層近きを覚えたり、余の愛するものの肉体は失せて彼の心は余の心と合せり、何ぞ思きや真正の配合はかえって彼が失せし後にありしとは。

  然り余は万を得て一つを失わず、神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。

  余の得し所これに止まらず、余は天国と縁を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何時かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眠りに就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽みによく戦い終えしのち心嬉しく逝かんのみ。(25)

  内村はもとより非凡の人であった。死については生理学から学び、詩人の哀歌のなかに読み、伝記作家の記録にも見てきた。動物学実験室で死体解剖をし、生死の理由を研究もした。時には、死について、あるいは死後の世界について、公衆に対し講演をしたこともある。また時には、人が死ぬと、聖書のことばを引用し、勝れた人の死に様を語ったりして死者を悲しむものを慰めようとし、それでも何時までも嘆き悲しんでいるものがあれぱ、こころひそかに、その人の理解の浅いことを批判し、薄い信仰を嘆いたりした経験ももつ。

  彼自身は、生死の問題は超越できると考えていた。死は生あるものの避くべからざる命題であって、生物界連続のための必然である。いにしえの賢者、英雄で従容として死につき、感謝して世を去っていった人たちも少なくはない。内村は、自分もそのような死に方ができないはずはたい、と自信をもっていた。

  なによりも彼には強い信仰心があったのである。復活の希望ももつことができた。だから、死そのものは彼にとって、決して忌まわしいものではなかったはずである。「もし余の愛するものの死する時には余はその枕辺に立ち、賛美の歌を唱え、聖書を朗読し、かつて彼をしてその父母の安否を問わんがため一時郷里に帰省せしむる時賛美と祈祷とを以て彼の旅出を送りし時、暫時の離別も苦しげれどまた遭う時の悦を楽み、涙を隠し愁懼を包み、潔く彼の門出を送りしごとく彼の遠逝を送らんのみ」と彼は本当に思っていたことであろう。

  しかし、その彼にしてもなお、現実に愛するものを失ってみると、その死のもたらす悲しさ、痛さ、苦しさ、深さに圧倒されてしまうことになる。生きながらにして死人と化した内村に、医師は興奮剤と催眠薬とを与えた。だが、何の効きめもなかった。友人は転地と旅行を勧めた。これもいまでは苦痛となり、自然の風景そのものが厭わしい対象でしかない。牧師の慰めも、友人のいたわりも、すべて恨みを引き起こすだけであって、ただ、「愛するものを返せ」と荒熊のように乱れる。

  その内村を立ち直らせたものは、やはり彼の信仰であった。信仰しかなかった。この場合、信仰とは、真理の眼で死をみつめることにほかならない。いわば、世俗的な無知と誤謬からの脱却である。そして彼は、愛するものの死が、決してトータルな剥奪ではなく、「万を得て一つを失わしめない」神の配剤であることを体得するに至る。

 「余も何時かごの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眠りに就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば」と彼は最後に書いた。そして、愛するものにまた会って語り合うことを楽しみに、いそいそと、「心嬉しく逝かんのみ」と言い切っている。彼はその時、光の中を歩み始めたのである。その内村の姿が、いまの私には、まぶしい。

                           (1990.10.8.)




 

 (1)『歎異抄』の原文は、増谷文雄編『日本の仏教思想・親鴛』
  摩書房(1985年)、高史明『歎異抄』 光村図書(1984年)等か
  らとった。書によって、章、条、段と異なっているが、ここで
  は「段」で統 一する。
 (2) 中村元ほか『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年、837頁
 (3) 中村元ほか『バウッダ』小学館、1987年、181頁
 (4) ひぞうほうやく、3巻。空海の著作、『十住心論』10巻の引
  用文を省き、重要な文に加筆したもの、 十住心の思想を説
  く。中村元ほか『岩波仏教辞典』676頁参照。
 (5) 東京大学仏教青年会『仏教聖典』大蔵出版、1987年、
  13-14頁
 (6) 中沢新一ほか『虹の階梯』平河出版社、1989年、
  178-179頁
 (7) 前掲書、179頁
 (8) 前掲書、181-182頁
 (9) 前掲蓄、182頁
(10)『無量義経』1巻、南斉の曇摩枷陀那舎訳(481年)、三品
  に分かれ、法華経の序論に相当する内容をもつ。中村元
  ほか『岩波仏教辞典』790頁参照。
(11) 坂村真民「念ずれば花開く」NHK放映(1988年5月8日)に
  よる。
(12) 一遍の信仰の核心は阿弥陀信仰であるが、ひたすら念
  仏を唱えようとする衆生の努力によって、阿弥陀如来の救
  いにあずかれると説く法然、阿弥陀如来の救いを信じる心
  がおこったとき救いが決まると説く親鸞に対し、一遍は、救
  いは衆生の努力や阿弥陀如来のカによるのではなく、名号
  そのものにあると説き、ひたすら名号を唱えれば、阿弥陀
  如来と衆生と名号とが渾然一体となり、そこに救いの世界
  があると教えた。そこには、他力念仏の一つの極致が見ら
  れる。今井雅瞭「一遍」『世界大百科事典』平凡社、
  1988年、432夏
(13) 親鸞の子の善鸞が、親鸞帰洛のあと、関東において親
  鸞の教義をねじまげた説をひろめ、しかも慈信(善鸞)一人
  に、夜、親鸞が教えたるなり」と称して、一部の門弟たちと
  とも異説を唱えたのがきっかけであったといわれている。
  善鸞は、父親鸞が生涯をかけて自ら信じ、これを人に教え
  てきた弥陀の本願を根底から否定し、自分の説く念仏の
  救いこそ、親鸞の本当の気持ちであるなどと言った。この
  結果、信心の動揺が関東の各地で始まり、ついに親鸞は
  1256年、善鸞を義絶した。笠原一男『親鸞』日本放送出版
  協会、1987年、190-195頁ほか参照。
(14) 田村実造『歎異抄を読む』日本放送出版協会、1988年、
  114-115頁から再録。
(15) パーリ仏教5部のうちの小部に属するスッタニパータと
  ともに現存経典のうち最古の経典といわれている。423の
  詩から成り、テーマごとに26章に分けられている。この引
  用文のような仏教教理を 示すのに重要なことばがこの中
  には多<みられる。水野弘元『仏教要語の基礎知識』
  春秋杜、1989年、90-91頁ほか参照。
(16) 山本七平『聖書の常識』講談杜、1985年、308-309頁
  参照。
(17) 内村鑑三『キリスト教問答』講談杜、1981年、71頁。
(18) 著者の否定にもかかわらず、この書が自伝であるという
  ことは、出版当初からいわれていたことであった。同書の
  解説にもそのことが述べられている。
(19) 内村鑑三『基督信徒のなぐさめ』岩波書店、1983年、
  16頁。以下、引用語句、引用文は、すべて第 1章からの
  ものである。煩雑をさけるため、引用個所は主な引用文
  についてのみ示すことにする。
(20) 前掲書、17頁。
(21) 前掲書、19-20頁。
(22) 前掲書、22頁。
(23) 前掲書、25頁。
(24) 前掲書、26頁。
(25) 前掲書、27-28頁。