[生と死と霊に関する論文]


 Walsch: Conversations with God について
      
                        

        ま  え  が  き

  このConversations with God が、はじめて世に出たのは1995年のことで、Hampton Roads という小さな出版社からであった。大きな反響を呼び起こしたので、版権を買い取った大手の出版社 G.P.Putnam's Sons が翌年改めて本にしたところ、ベストセラーを続け、日本を含めて世界の20か国でも翻訳されてきた。今年の夏、たまたま訪れたカリフォルニアの本屋でも、この本はまだ書棚に並べられていたが、いまもよく売れているらしい。
  この本のタイトルには、"an uncommon dialogue" という副題がついている。「神との対話」というのだから、もとより「尋常ではない」が、このような本にわれわれはどのように向き合っていけばよいのであろうか。そもそも神なるものは存在するのか、という一般的な疑念がある。また、神が存在するとしても、神に語りかけることが出来るだけで、神と対話することは出来ない、という先入観もある。そういう疑念や先入観の前では、あるいはこの書も単なるフィクションとして、その重みを失うことになるかもしれない。それなのに、なぜあえて「神との対話」か。
  著者のウォルシュは、何か苦しいことや悩み事があるときには手紙を書くくせがあった。宛先のない手紙である。投函するわけではないが、書くことによって抑えられている気持ちを吐き出すことが出来る。それで手紙を書くのである。ところが、そのようにして悩みや怒りを書きなぐっていた彼の手紙のことばに、ある日突然、見えない大きな力が反応して、彼の手のペンが勝手に動き出した。改めて手紙の上で質問すると、それに対してまた見えない力の答えが返ってくる。それが1992年の春のことであった。それから「対話」が3年続き、その内容を「口述筆記」したものが本書になったのである。だからこれは、いわゆる「自動書記」によって綴られたものといってよいであろう。
  自動書記というのは、書いている本人が意識しなくても、ペンを持っている手が勝手に動いて字が綴られていくことで、特に珍しい現象ではない。巷には国内国外を問わず、自動書記によって書かれた本も数多く存在する。1) しかし、自動書記であれ何であれ、問われるのはやはり、述べられている中身であろう。それゆえにここでは、出来るだけ一般的な疑念や先入観にとらわれずに、述べられていることばそのものに焦点をあてていく。そのうえで、それらのことばがわれわれの理性に照らして納得できるかどうか、或いは、そこから人智を超えた何らかの真理を掴み取れるかどうか、を念頭に置きながら、検討を加えていくことにしたい。
 本稿で用いる原書は、Neale Donald Walsch: Conversations with God; book 1, G.P.Putnum's Sons; New York, 1996 である。なお、引用文の和訳については、サンマーク出版『神との対話』の吉田利子訳によるが、必要と思われる箇所には、適宜修正を加えていくことにしたい。


   1.

  ウォルシュに対して、神はまず、「わたしのメッセージは何百もの形で、何千もの機会に、何百万年にもわたって送られる。本気で耳を傾ければ、必ず聞こえるはずだ」 と語りかけた。そして、「過去、あなた方はわたしに語りかけ、祈り、取り次ぎ、懇願するだけだった。だが、いまこそわたしから語りかけよう」と続けた。これに対して、ウォルシュは言った。「だけど、これが本当に神からのコミュニケーションだと、どうしてわかるのですか?私の想像の産物かもしれないではないですか」 と。これに対して神は次のように答えた。

   What would be the difference? Do you not see that I could just as easily work through your imagination as anything else? I will bring you the exact right thoughts, words or feelings, at any given moment, suited precisely to the purpose at hand, using one device, or several.
   You will know these words are from Me because you, of your own accord, have never spoken so clearly. Had you already spoken so clearly on these questions, you would not be asking them. (p.6)

  たとえそうでも、それがどうだというのか。わたしなら、あなたの想像を通して働きかけられるとは思わないか。わたしは目的にぴったりの思考や言葉、感情を生み出すことができる。
  あなたが自分で考えたのでは、こんなに明快に語れなかったと考えれば、これが神との対話であることがわかるはずだ。さまざまな疑問について、自分でこんなふうに語ることができたなら、いまさら問いかける必要はなかっただろう。

  仮にこれらのことばが、聞いている者の想像の産物であるとしても、実はそ の想像そのものを通して神は働きかけられることを知らねばならない、と神はいう。しかしそれよりも、この、「自分でこんなふうに語ることが出来たなら、いまさら問いかける必要もなかっただろう」という答え方には説得力がある。
  しかし、神の「ことばを聞く」というのは、一般の常識では、絶無ではないにしても極めて希有のことであろうから、それだけに、その受け止め方もさまざまである。ウォルシュ自身が、迷い、疑い、訝しみながら、このような質問を発したのも無理ではないかもしれない。
  考えてみると、日本にも、このような「神のことば」がなかったわけではない。例えば、出口なお(1837-1918)の『おふでさき』(『大本神論』)などもそうである。大本の開祖、出口なおが神のことばを口にし始めたのは、1982年、57歳の時であった。なおは、狐つきとみなされて座敷牢につながれる。その孤絶した空間で彼女は神のことばを初めて書き記したのである。大阪大学教授の川村邦光氏は、この出口なおの『おふでさき』を近代に立ち向かう言葉として、20世紀の古典の一つにに数えている。2)
  人間にはあまりにもわからないことが多い。だからこそ悩みがあるのであり、知る努力をしながら少しずつ成長していくのであろうが、その際に大事なことは、おそらく、知らないことを自覚する謙虚さである。その謙虚さがあって初めて、真実を見る素直な目と真理を受け入れる柔軟なこころが備わってくるのであろう。
  われわれは、しばしば、自分が理解できることだけが正しく、理解できないことは間違っていると考えがちである。しかし、人間の成長とは理解できないことを理解できるようになることである。つまり、間違っていると思っていることを、間違いでないと知ることである。この意味でも、理解できないことを知るためには、自分が間違っているかもしれない、と考える謙虚さと柔軟性が必要になってくる。真理のことばを判断し、それを受け入れるためには、これは特に重要な基本的条件であるといってよいのかもしれない。
  そこで思い出されるのは、シルバー・バーチのことばである。シルバー・バーチというのは、ロンドンの「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」と名付けられた交霊会で、1920年代後半から50年あまりも地上の人間に教訓を語り続けてきた高位霊である。このシルバー・バーチは仮の名前で、地上時代の本名は、何度尋ねても本人は明かそうとはしなかった。「人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だとわかったら、私が述べてきたことに一段と箔がつくと思われるでしょうが、それはよくない錯覚です。前世で私が王様であろうと乞食であろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもよいのです。私の言っていることになるほどと納得がいったら真理として信じてください。そんな馬鹿な、と思われたら、どうぞ信じないでください。それでいいのです」と、答えてきたという。3) 
  真理のことばは、真理であるが故に本来矛盾を含まず、絶対的なものであろう。そしてそれは、おそらく単純明晰で美しいはずである。しかし、それが直截に真理のことばとしてこころにしみ通っていくかどうかは、受け手の受け止め方いかんにかかっている。われわれは、ウォルシュが記録した「神のことば」を前にして、結局はシルバー・バーチが言ったように、真理として納得できるかどうか、自分で判断していかねねばならないであろう。
 

   2.

  このあとウォルシュは、「あなたが本当の神なら私の目の前に現れて欲しい」と言う。神は「いま、そうしているではないか」と答える。「どこに?」とウォルシュ。「あなたが見るものすべてに」と神。ウォルシュは言った。「そうじゃないんです。私が言うのは、疑いの余地のない現れ方です。本当のあなた自身のかたち、姿で」。ウォルシュは、おそらく一般の人々が言うであろう様な言い方で、神に迫った。神はどう答えたか。

   That would be impossible, for I have no form or shape you understand. I could adopt a form or shape that you could understand, but then everyone would assume that what they have seen is the one and only form and shape of God, rather than a form or shape of God--one of many.
   People believe I am what they see Me as rather than what they do not see. But I am the Great Unseen, not what I cause Myself to be in any particular moment. In a sense, I am what I am not. It is from the am-notness that I come, and to it I always return.
   Yet when I come in one particular form or another---a form in which I think people can understand Me---people assign Me that form forevermore.
   And sould I come in any other form, to any other people, the first say I did not appear to the second, because I did not look to the second as I did to the first, nor say the same things---so how could it have been Me?
   You see, then, it matters not in what form or in what manner I reveal Myself\--- Whatever manner I choose and whatever form I take, none will be incontrovertible. (pp.9-10)

  それは不可能だ。わたしには、あなたがたが理解できる形も姿もない。わたしは、どんな形や姿になることもできるが、そうすれば誰もが、自分の見た形や姿が多くのなかの一つにすぎないと思わず、それこそが神の唯一の姿だと思いこむだろう。
 人は見えないものではなく、見たものをわたしだと信じる。しかし、わたしは偉大なる「見えざるもの」であって、ある瞬間の形や姿ではない。ある意味では、わたしではないものもすべてわたしなのだ。わたしは「わたしではない」ところからやってきたのだし、常にそこへ戻っていく。ところが、わたしがある形や別の形――ひとに理解できる形――をとると、ひとはそれが何時までも変わらぬわたしだと思いこむ。
  そこで、別のひとに別の形で現れると、最初の者は、二人目に現れたのは神ではないと言う。なぜなら、二人めに現れたわたしは、一人目に現れたわたしとは違う姿だし、別のことを言うからだ。だから、神のはずはないという。
  どのような形、方法で現れるかは重要ではない。どのような方法を選び、どのような形で現れようとも、疑いの余地がなくなることはありえない。

  したがって、かりに神が、全能の神、天と地の王者として姿を現し、それを証拠だてるために山をも動かして見せたとしても、あれは悪魔に違いない、という者がきっと現れることになる。結局、神の現れ方というのは、外からわかる形で、あるいは、外界の現象を通じて出現するのではない。人間の内的体験を通じてのみ神は現れるのである、という。
  この神のことばは、かってラムサがいった「未知なる神」のことを思い出させる。ラムサはつぎのように言っていた。

  「未知なる神」とはいったい誰なのか。それは私である。そして、夜の巣に憩う鳥たちであり、葦に宿る霜であり、朝焼け、黄昏の空だ。さらにそれは太陽であり、月であり、子供たちであり、その笑い声であり、白いなめらかな足であり、流れる水、ニンニクと革と真鍮の匂いだったのだ。それはいつでも私のすぐ目の前にあったのに、それを理解するのに長い時間がかかってしまった。「未知なる神」は、月や太陽を超えたところにあるのではなかった。それは、私のまわりのすべてにあったのである。この見方が私の内に新たに生まれてからは、私は人生を受け入れ、自分にとって大切なものをしっかりと守り、生きて行くべき理由も見つけられるようになった。血や死や戦争の悪臭のほかにも、それ以上に価値のある存在があったのだ。それがいのちなのだ。いのちこそ、私たちが思っていたよりはるかに偉大なものであったのだ。4)

  ラムサは、ひたすらに神を探し求めて、ついに神は自分のまわりのすべてにあるもの、そして結局は、自分の内にあるもの、自分自身が神であることに思い至る。彼は遂に神とは何かを知ったのである。それでは神自身は、自分の存在についてなんと言っているか、それを聞いてみることにしよう。

   This nothing which holds the everything is what some people call God. Yet that is not accurate, either, for it suggests that there is something God is not--namely, everything that is not "nothing." But I am All Things--seen and unseen--so this description of Me as the Great Unseen--the No-Thing, or the Space Between, an essentially Eastern mystical definition of God, is no more accurate than the essentially Western practical decription of God as all that is seen. Those who believe that God is All That Is and All That Is Not, are those whose understanding is correct. (p.24)

  あらゆるものを包み込む無、それをあるひと人は神と呼ぶ。だが、これも正確とはいえない。そうすると、無ではないあらゆるもの、それは神ではないことになってしまう。わたしは――見えるものも見えないものも含めて――「存在のすべて」だ。したがって、東洋の神話で定義される神、つまり偉大なる「見えざるもの」とか、無、空といった説明もまた、神とは見えるすべてであるという西洋の現実的な説明と同じく、不正確なことになる。神とは「存在のすべて」であって、同時に、「すべてでない」ものでもある。そう信じる者は正確に理解している。

  「存在のすべてであって、同時にすべてでないもの」は、どのように理解していけばよいであろうか。見えざるものは、見えるものと本質的には同じであって、「色即是空」であった。しかし、このラムサのように、「見えざるもの」を見るのはむつかしい。目に見えるものだけが真実で、見えないものは虚構である、とつい考えがちである。
  日本では、古来、「見えざるもの」とほとんど同じ意味で、「見えるものすべて」、森羅万象が神である、という考え方が、土着の信仰のなかにもあって、これは特に珍しいことではなかった。元来豊かな自然のなかに生きてきた日本人は、山川草木の背後にある見えざるものに対する畏敬の念をもつこととも無縁ではなく、そのような意味でも、日本人は、宗教感情が非常に強いのだという研究発表もある。5) ただ、モノとカネを中心にめまぐるしく流動する現代社会のなかでは、そういう「素朴な」考え方も片隅に追いやられて意識されなくなってしまっているだけなのであろう。たとえばこれを、同じく「見えない」霊の問題に置き換えて考えてみてもそのことがよくわかるような気がする。少し脇道にそれるが、ここで、霊魂の存在についての一般の反応にも、ちょっと触れておくことにしたい。
  霊魂は存在するか、しないか。この問題については、いままでにもいろいろと検討をしてきた。6) 公平を期するために、ここでもあえて異論をふくめていくつかの見解を紹介しておくが、たとえば、立命館大学・国際平和ミュージアム館長の安斎育郎氏の「調査」のようなものもある。最近、氏が京都周辺の仏教各派に霊魂の有無について照会したら、いろいろな宗派から返事が返ってきた。それによると、「霊は存在しない」(仏光寺・浄土真宗)から、「霊は実体を持った存在」(金剛峰寺・真言宗、延暦寺・天台宗)まで、大きな差があることがわかった。同じ真言宗系の寺院でも、「霊は実体を持った存在」、「霊は観念であって実体ではない」、「霊は存在しない」など多様性が見られたという。
  この結果について、安斎氏は、「結局、霊に関する見解は多様で、十三宗百四十派を超えるといわれる日本の仏教では、どの宗派のどの僧侶に出会うかによって、霊に関する理解に大きな差が生じることが示された」と述べている。そして、「たたり」についても、「あるはずがない」から「人間は前世における業の報いを受けて生きる」まで宗派の見解がいろいろと分かれていることを紹介した後、「仏教界はこの混乱をどう見るか?」と、締めくくっている。7)
  霊魂は目には見えないから、その存在を知るということは、もとより容易ではない。しかし、霊に深く関わっているはずの仏教界でさえ混乱しているといわれるのは、大きな問題であるといわれても仕方がないかもしれない。
  もっとも、この安斎育郎氏は、超自然現象を批判的に研究する「ジャパン・スケプティクス」という会の会長でもある。そして、「霊は存在しない」と主張する浄土真宗・仏光寺の僧侶とは、同じ会の工学博士でもある日野英宣氏である。日野氏は、「霊魂とは、煩悩が生む妄念妄想にすぎない。その作用は、自分自身が原因なのに霊に責任を転嫁する、未知への不安を霊に託して安心する、脅迫や報復の手段として悪用する、の三つに分類できる」とする。そして、「釈尊自身は、古代インドの輪廻転生観や霊魂存在説を否定されたが、その後、さまざまにねじ曲げられた。ブッダとは目覚めた人の意味であり、本来の仏教はそうした妄想からの自由を目指している」 とも述べている。8)
  この種の見解も、特に珍しいことではなく、いわゆる、知識人・文化人と称するような人に多いといわれている。いろいろな意見立場をもつことは自由であるとしても、僧職にある身で日野氏は、霊魂を否定して何故僧侶が勤まるのか、また、たとえば、般若心経の「是諸法空相・不生不滅・不垢不浄・不増不減」などをどのように理解しているのか、ちょっと聞いてみたい気もする。
  しかし、ここでも公平のために付け加えておくと、前記の安斎氏などはこの「不生不滅・不増不減」を、輪廻転生を含めて次のように考えている。人間は死んで火葬に付されれば、体を構成していた諸元素は原子や分子になってしまう。例えば、成人一人の体には炭素原子が7sほど含まれており、それは火葬によって二酸化炭素(炭酸ガス)の分子となり放出されていく。その数は、氏によると、およそ350兆個の1兆倍であるという。
  この二酸化炭素分子が、全地球上の高さ10qまでの大気中にかりに均等に拡散していくとする。そのうえで、ボストンでもリオデジャネイロでも網走でも、どこでも地球上の一地点で1リットルの風船に大気を封入したら、その中に火葬にされた一個人の体に由来する二酸化炭素分子は何個ぐらい含まれていることになるか。その数は、実に、66,000個にもなるそうである。
  それらの二酸化炭素は光合成で野菜や雑草に利用され、それを餌にした動物の細胞となり、さらにそれを食べた人間の体に利用される。つまり生まれ変わることになるのである。地球はその創世以来、原子は基本的に増えることも減ることもないのだから、地球は巨大なリサイクル工場として、「使い回し」をしているのである。そう考えると、「輪廻転生」を科学的に解釈したような気がして面白い、と氏は書いている。9) たしかに、これは科学的な真理であって、面白い。しかし、その「真理」は、実はもっと大きな真理のごく一部であるにすぎないといえないであろうか。
  さまざま見方があることを知るために、ついでにもう一つ、アメリカでの調査にも触れておきたい。ジョ−ジア大学のエドワード・ラーソン氏らが実施したアンケートによると、最先端の研究に携わる米国科学者の約40% が、神や死後の世界を信じているという。歴史学者のラーソン氏らは、「米国科学者名簿」から数学、生物学、物理、天文学の計1000人を無作為で抽出し、約600人から回答を得た。それによると、「神を信じる」が39%、「死後の世界を信じる」が38%にのぼった。同じアンケートは、1916年にも実施されていて、その時は、神、死後の世界は、それぞれ、42.51%の科学者が信じている、という結果であった。80年間で、信じる科学者の傾向はほとんど変わっていないという。10)
 

   3.

  神はさらに、啓示が要求されるなら、啓示は不可能だともいう。求めるのは、そこにないからであり、啓示を求めるというのは神が見えないからだ、というのがその理由である。それでは、啓示のみならず欲しいと思うものは求めることが出来ないことになる。そこで、ウォルシュは尋ねた。「何かを求めて祈るということは、実はそれを遠ざけることになるのですか?」

    This is a question which has been asked through the Ages--and has been answered whenever it has been asked. Yet you have not heard the answer, or will not believe it. The question is answered again, in today's terms, and today's language, thusly:
   You will not have that for which you ask, nor can you have anything you want. This is because your very request is a statement of lack, and your saying you want a thing only works to produce that precise experience--wanting--in your reality.
   The correct prayer is therefore never a prayer of supplication, but a prayer of gratitude.
   When you thank God in advance for that which you choose to experience in your reality, you, in effect, acknowledge that it is there...in effect. Thankfulness is thus the most powerful statement to God; an affirmation that even before you ask, I have answered.
   Therefore never supplicate. Appreciate. (p.11)

  それは太古から問われてきた。そして問われるたびに答えが与えられてきた質問だ。だが、あなた方は答えを聞こうとしなかったし、信じようともしなかった。
  その質問に再び、現在の用語、言葉で答えるとこうなる。あなたは求めるものは手に入れられないし、欲するものを得ることもできない。求めるというのは、自分にはないと言い切ることであり、欲する と言えば、まさにそのこと――欲すること――を現実に体験することになる。
  従って、正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である。現実に体験 したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いはかなうと認めることだ..........。感謝と は神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから。
 決して求めたりすがったりせず、感謝しなさい。

  考えるというのは創造的な行為であり、ことばも創造的な行為である。だから、思考とことばの二つが合一すると、大きな効果となって現実が生まれる。そのために、「欲する」と言えば、欲する状態つまり、「手に入らない状態」が現実になるというのである。
  それにしても、決して求めたりはしないで、感謝することはむつかしい。何かについて前もって神の感謝したのに、それが実現しなかったらどうなるか。きっと幻滅して腹を立てるであろう、とウォルシュが言うのも無理はない。神は答える。
 
    Gratitude cannnot be used as a tool with which to manipulate God; a device with which to fool the universe. You cannot lie to yourself. Your mind knows the truth of your thoughts. If you are saying "Thank you, God, for such and such," all the while being very clear that it isn't there in your present reality, you can't expect God to be less clear than you, and so produce it for you.
   God knows what you know, and what you know is what appears as your reality. (p.11)
 
  感謝は神を操る手段ではない。宇宙をごまかす仕掛けではない。自分にうそをつくことはできない。 自分のこころはごまかせない。口では、これこれについて神さまに感謝します、と言いながら、内心では願いが満たされていないことを信じていたなら、神はもちろんあなたが信じている通りにする。神はあなたの知っていることを知っている。あなたの知っていることがあなたの現実となるのだ。」

  神に感謝すれば実現するから、と便法的に感謝するのでは、実現しない。内心では実現しそうもないと思っている。それを神に感謝するということで、実現しようと思っても、内心の実現しそうもないと思っていることが現実となる、というのはわかるような気がする。いわば、純粋な真実の思考が現実になるということであろう。しかし、素直に純粋に神に感謝しているつもりでも、祈りがかなえられなかったという人は、世の中には決して少なくはない。それはどう考えたらよいか。それに対して神は、どんな祈りでも叶えられると断言する。祈りとは本来、これが現実であると認めることだから、という。では、それでも祈りが叶えられないというのはどういうことか。

   When it is said that a prayer has not been answered, what has in actuality happened is that the most fervently held thought, word, or feeling has become operative. Yet what you must know---and here is the secret---is that always it is the thought behind the thought---what might be called the Sponsoring Thought---that is the controlling thought.
   If, therefore, you beg and supplicate, there seems a much smaller chance that you will experiecne what you think you are choosing, because the Sponsoring Thought behind every supplication is that you do not have now what you wish. That Sponsoring Thought becomes your reality. (p.12)

  祈りが叶えられないというときは、実は、最も強く信じている思考や言葉、感情が作用している。あなたが知っておかなければならない大切な秘密は、思考の陰には常にもう一つの思考、「思考を支える思考」とでもいうべきものがあって、それが思考をコントロールしているということだ。つまり、何かを求めたり、願ったりしたら、望んだことが叶う可能性は非常に小さい。なぜなら、欲求を陰で支えている思考というのは、望みが叶っていないという思いだから、そちらのほうが現実になるのだ。 

  例えば、私は世間的な成功がしたい、と考える。または、資産家になりたいと願う。そうすると、私は、世間的な成功もすることはなく、資産家にもならない、ということである。つまり、この場合の私は、成功したい私である。或いは、資産家になりたい私である。それが祈りによって現実となり、成功したい、資産家になりたい私が体験される。成功したい、資産家になりたい私とは、成功していない私であり、資産家でない私である。それが現実となって体験されるということなのである。だから、人生で何かを体験したければ、それを「欲しい」と思ってはいけない。それをきっぱりと「選び取る」のである。
  イエスは、そのことをよく知っていて、自分が祈ることが実現しないとは決して考えなかったのであろう。例えば、あのラザロ再生の奇跡である。イエスはあの奇跡を起こすときも、奇跡が起こることを前もって神に感謝している。そしてイエスは、本当に死んだラザロをも生き返らせた。それを聖書はこう伝えている。

  イエスは目を天に向けられて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞きくださったことを感謝します。 あなたがいつでもわたしの願いを聞き入れてくださることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。 こう言いながら、大声で 「ラザロよ、出てきなさい」 と呼ばれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって帰らせなさ い」(ヨハネ11:41-44)

  このようにイエスは、まず神に対する感謝のことばから祈りを始めている。そしてわれわれはここでも、この「あなたがいつでもわたしの願いを聞き入れてくださることを、よく知っています」 ということばの重みをかみしめなければならないのであろう。祈りのなかでもっとも力強いのは、「神は必ず求めるものを与えてくれる」という信念である。それが何よりも大切な祈りの条件なのである。そして、その信念があれば、そもそも、神に求める必要はないのだ、ということもわかってくるのであろう。その神に対する信念がある時にはじめて、祈りは感謝の祈りになる。求めるのではなく、望みが叶っていることを素直に感謝するようになるのである。
 神は、信念が大切なことを、こうも言った。
  
   Faith. If you have but the faith of a mustard seed, you shall move mountains. You come to know it is there because I said it is there; because I said that, and have said to you in every conceivable way, through every teacher you can name, that whatsoever you shall choose, choosing it in My Name, so shall it be. (p.12)

  けし粒ほどの信念があれば、山を動かすことが出来る。わたしがあると言えばあることがわかるだろ う。あなたが求めもしないうちに応えてあげるとわたしは言っている。あなたが選ぶこと、わたしの名で選ぶことは叶えてあげると、わたしはあなたが尋ねるより前に、あらゆる方法で、あらゆる教師を通 じて、言ってきた。

  このことばについても、イエス・キリストは、「あなた方の父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ6:8) と言っている。そしてイエスは、だから、こう祈りなさい、と祈り方をも教えている。聖書のなかで、イエスが祈り方を具体的に述べているのは、マタイ(6:9-13) だけである。11) しかし、さまざまな人生において、われわれが切実にこころから祈っても、それがすべて叶うわけではないのも事実であろう。われわれは、あまりにも迷いの多い存在である。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道はあなたがたの道よりも高く、わが思いはあなたがたの思いよりも高い」と、イザヤ書(55:8-9) にも記されているとおりである。この大きなギャップをどのように乗り越えていけばよいのであろうか。
  例えば、内村鑑三もかつて、愛する家族の死に直面して、信仰にさえ迷いを来したことがあった。内村は必死に神に祈り、そしてその祈りは遂に聞き入れられずに、家族は苦しみながら死んでいったのである。彼は、愛する者を失って以来数ヶ月間、祈ることさえもやめてしまった。内村は、神はなぜ自分の祈りを聴かれなかったのか、なぜ愛する者の命を奪ったのか、という深刻な疑問に悩み苦しむのである。彼はそれをつぎのように述べている。

  しかれども彼は死せざるものにして余は何時か彼と相会することを得るといえども彼の死は余にとって最大不幸なりしに相違なし、神もし神なれば何故に余の祈祷を聴かざりしや、神は自然の法則に勝つ能わざるか、或は祈祷は無益なるものたるか、或は余の祈祷に熱心足らざりしか、或は余の罪深さが故 に聴かれざりしか、或は余を罰ぜんがためにこの不幸を余に降せしか、これ余の開かんと欲せし所なり。 12)

  苦しみ悩み、理解し、そしてまた懐疑にぶつかる。例えば、キリスト教には数々の奇跡があったはずである。熱心な祈りによって不治の病が治った例も決して少なくはない。それならば、彼が彼の愛する者を死に至らしめたのは、彼の祈りが熱心さに欠けていたからか。もしそうなら、彼は彼の愛する者を彼の不熱心の故に見殺しにしてしまったことにさえなる。しかし、彼は必死に祈ったのである。熱心のあらん限り、祈りに祈ったのである。そして、その祈りは聞き届けられなかった。これをどう考えるか。内村は次のように信じた。

  ああ神よ、爾は我らの有せざるものを請求せざるなり、余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛する者を取り去れり、父よ、余は信ず、我らの願うことを聴かれしに依て爾を信ずるは易し、聴かれざるに依てなお一層爾に近づくは難し、後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けし ものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならば爾必ず我の祈祷を聴かれしなら ん。13)

  ここまで神への信頼が深められれば、あとは、感謝と喜びがあるだげである。神は決して、罰として艱難を下すことはない。このような大試練に彼が耐え得ることを知っているがゆえに、神は彼の願いを聞き届けなかったのである。彼の祈りが不熟心であったからではなく、むしろ十分に熱心であったが故に、神はこの苦痛を彼に与えた。彼はそれを神に感謝するのである。そして、長い悲しみと苦しみの果てに内村は、つぎのような光明の世界に辿りついた。

  余は余の愛するものの失せしによりて国も宇宙も――時にはほとんど神をも――失いたり、しかれど も再びこれを回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と壮宏とを加え、神には一層近きを覚えた り、余の愛するものの肉体は失せて彼の心は余の心と合せり、何ぞ思きや真正の配合はかえって彼が失 せし後にありしとは。
  然り余は万を得て一つを失わず、神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。
  余の得し所これに止まらず、余は天国と縁を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何時かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眠に就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼 がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽みによく戦い終えしのち心嬉 しく逝かんのみ。14)

  ここでまたもとへ戻って、祈りの意味をもう一度確認しておきたい。神に対して祈る場合、神に対する信頼が何よりも大切である。そのときに祈りは感謝になる。それに、祈りの内容は神はすでに知っているのであった。それでも何故祈るのか、それを、シルバー・バーチはかつて、つぎのように述べたことがある。

  私は祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑えがたい気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部に向けて探照の光を当てる行為であると考えております。本当の祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。われわれの心の中に抱く思念は神は先刻ご存じなのです。要望 は口に出される前にすでに知られているのです。
  なのになぜ祈るのか。それは、祈りがわれわれのまわりに存在するより高いエネルギー に波長を合わせる手段であるからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して、精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態におくことになるのです。わずかな時間でも心を静かにしていると、その間に より高い波長を受け入れることができ、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意 したことになります。
  利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄遣いをしているにすぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をよりいっそう役立てたいという真摯な願 いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、そ のときの高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになり ます。15)
 

   4.
 
  ここでまた、神の言う思考の創造力に戻ろう。一般的には、ある一つの目標に向かって一心に努力を続けていれば、やがて努力は報いられる、というのはよくいわれることで、わからないでもない。しかし、その目標に到達したいという思考が大きな創造力を持っているということに気がつくのは容易ではない。しかもその創造力は、根本的な「思考を支える思考」に純粋に反応して創造力を発揮する、とあればなおさらである。しかし、霊界の高位霊はしばしば、同じように、この思考の創造的な力を強く訴える。例えば、ラムサもそうであった。ラムサは、それをつぎのように述べているが、この場合の思考も、「思考を支える思考」ということになるのであろうか。

  あなたは全くあなたの考えるとおりの存在である。あなたが考えることはすべて人生でそのまま現実になっていくのだ。性交を空想すれば、あなたはその誘惑を体験することになるだろう。惨めな状態 を思いめぐらせば、そのようになってしまう。不幸を考えれば、あなたは不幸になっていく。喜びを想定すれば、喜びがやってくるだろう。ある才能を思えば、それはすでにそこにあるのだ。
  では、未来はどのように創造されるのだろうか。思考を通してである。明日というものはすべて、今日この日のあなたの思考によって設計されている。それが感情面でのどのような目的のためであろうと、あなたが抱く思考や空想などは、身体の内部にある気持ちを生じさせ、それは魂の内部に記録される。 そして、その気持ちが今度は、あなたの人生の様々な状況についての前例となる。つまりそれが、魂に記録されているのと同じ感情を作り出す状況、それがマッチするような状況にあなたを引きつけていく のである。また、あなたが口にする言葉は、すべてあなたの将来を創造するということも知るべきだ。 なぜなら、言葉とは、思考によっていのちを与えられた、魂の内にある感情を表現した音であるからだ。16)

  ラムサによれば、神が最も至高な形で表れたものが、思考である。父なるもの、人間が自分の人生を創出する舞台、すべてのものの生命の力、そういうものも、広い意味では思考である。思考こそが、過去、現在、未来を通じて存在するすべてのものの究極的な創造主であるからだという。
  すべてのものは、独特の形とパターンを持っているが、それをつないでいるのも思考である。われわれの身体の分子構造,細胞組織を互いにつなげているのは壮大な神の思考である。だから、われわれは神の思考によって、一つにまとまった体を持っていることになる。この思考なくしては何一つ存在し得ず、物質さえ存在することはない。17)
  前述のラムサは、われわれ人間とは、もう何十億年と生きてきた不滅の存在であると、われわれに語りかける。すべての思考である神が自分について思いをめぐらし、己を光の輝きにまで高めた瞬間からわれわれ人間はずっと存在してきた。そして、われわれの一人一人がその光となり、神の精神の一部となったと、説くのである。それを神自身はどのように言っているか。

    My divine purpose in dividing Me was to create sufficient parts of Me so that I could know Myself experientially. There is only one way for the Creator, and that is to create. And so I gave to each of the countless parts of Me (to all of My spirit children) the same power to create which I have as the whole.
   This is what your religions mean when they say that you were created in the "image and likeness of God." This doesn't mean, as some have suggested, that our physical bodies look alike (although God can adopt whatever physical form God chooses for a particular purpose). It does not mean that our essence is the same. We are composed of the same stuff. We Are the "same stuff"! With all the same properties and abilities---including the ability to create physical reality out of thin air. (pp.25-26) 

  自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、沢山の部分を創って自分を体験的に知ることだった。創造者が「創造者である自分」を体験する方法は、ただ一つしかない。それは、創造することだ。そこで、 わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてわたしが持っているのと同じ創造力を与えた。
  あなた方の宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せられて創られた」というのは、そういう意 味だ。これは、一部で言われているように物質的な身体が似ているということではない(神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。 わたしたちは同じものでできている。私たちは、「同じもの」なのだ!同じ資質、能力を持っている。 その能力には、宇宙からの物質的な現実を創出する力も含まれている。

  このことばは、とりもなおさず人は神の子であることを述べたものであり、このことについては古来、多くの聖人、霊能者などからも繰り返し言われてきた。「宇宙からの物質的な現実を創出する力」を与えられていることも、例えば、サイ・ババはその生き証人ともいえる。しかし、これらのことについては、いままでも他の原稿でたびたび触れてきたので、ここでは取り上げない。18) ここでは、思考の創造力に関連して、思念のエネルギーについても少しだけ付け加えておくことにしたい。
  思考に創造力があるというのは、理解されにくいが、同様に、思念にもエネルギーがあるということも物質世界では理解が容易ではない。しかし、霊の世界ではそのエネルギーは現実のものとして感知されるのが普通のようである。これにはいろいろな資料や証言があるが、
  そのうちのひとつ、1912年にタイタニック号とともに北大西洋に沈んだイギリスの評論家、ウイリアム・ステッドからの霊界通信をみてみることにしたい。
  ステッドによると、生前から親密な間柄だった者のことを強く念じると、その念は生き生きとした活力のあるエネルギーとなり、電波と同じように宙を飛んで、間違いなくその霊に届くという。たとえば、地上のA という人物が、すでに他界したB という人物のことを念ずると、B は瞬時にしてその念を感じ取る。霊界では、感覚が地上時代よりもはるかに鋭敏になっているので、地上から送られてきた思念は、電流のような思念流となって、直接的に関知される、というのである。
  霊界に行って間もない頃はまだ通信を受け取る余裕はないが、しばらくして霊界の生活に慣れてくると、思念を受けとったBは、その回答のようなものを「発信者」のA に宛てて印象づけられるようになる。ただ、A はそれをB からのものとは気づかないことが多い。多分、ふと自分でそう考えたのか、あるいは一種の妄想くらいにしか思わないかもしれない。しかし、実際は、意念を集中して念じ続けると、その思念は必ず相手に通じて、その場に来てくれる。例えば835年に亡くなった平安時代の高僧空海は、その臨終の際に、悲しむ弟子たちを前にして、「私に会いたければ、『遍照金剛』と呼ぶがよい、そのとき私は必ずその人とともに在るであろう」 といっている。空海はこの思念のエネルギーの実在をすでに知っていたのであろう。
  ステッドは、人間がこころで念じたものはすべて相手に伝わっているので、想念の持ち方が大切だと述べている。そのすべてが霊界へ届き、善きにつけ悪しきにつけ影響を及ぼすからである。ただ、想念は必ず、それを送った本人に戻ってくるものであるらしい。霊界ではその影響から意図的に逃れることはできるが、ただひとり、想念を発した地上の本人は、その影響から逃れることは出来ないという。19)
    

   5.

  心配というのは、最悪の精神活動のひとつである。非常に自己破壊的な憎悪のつぎに悪い。心配は何の役にも立たないエネルギーの浪費である。それどころか、身体を傷つける生物化学的反応のもとで、消化不良から冠動脈血栓にいたるまで、さまざまな障害を引き起こす。心配するのをやめれば、すぐにでも健康状態はよくなる。心配するのは、神とのつながりを理解していないからである。
  そして、不安は、精神的、肉体的健康に悪影響を及ぼす。不安とは増幅された心配である。心配、憎悪、不安はすべて、これらから生まれる気がかり、苦々しさ,短気、貪欲、不親切、批判、非難などともに、細胞レベルで身体を攻撃する。そうなったら健康を保つことはできない。病気はすべて、まず精神のなかで創られるものなのである。そしてまた、不安や恐怖は、似たエネルギーを引き寄せる。感情というのは、動いているエネルギーである。だから、不安に思っていると、その不安のエネルギーが別の不安のエネルギーを引きつけ、不安が増大するのである。
  一方、愛は究極の現実である。それが唯一であり、すべてである。愛を感じるということは神を体験することである。至高の真実のなかでは、存在するすべては愛であり、存在したすべて、これから存在するであろうすべても愛である。
  不安や恐れは愛の対極である。そして、われわれが暮らす物質的な領域では、不安に根ざした思考が一つの物質的な場を生みだし、愛に根ざした思考がもう一つの場を生み出す。いままで地球に生まれてきた聖人たちは、この二つの場のうちの愛だけを選択してきた人たちである。あらゆるときにあらゆる環境で、彼らは愛を選択した。自分たちが殺されても、殺害者を愛した。迫害されても、迫害者を憎まなかった。愛、それが真理なのである。不安と愛、これら二つの感情について、神はつぎのように述べた。

    Every human thought, and every human action, is based in either love or fear. There is no other human motivation, and all other ideas are but derivatives of these two. They are simply different twists on the same theme.
   Think on this deeply and you will see that it is true. This is what I have called the Sponsoring Thought. It is either a thought of love or fear. This is the thought behind the thought behind the thought. It is the first thought. It is prime force. It is the raw energy that drives the engine of human experience.
   And here is how human behavior produces repeat experience after repeat experience; it is why humans love, then destroy, then love again: always there is the swing from one emotion to the other. Love sponsors fear sponsors love sponsors fear......
   ...And the reason is found in the first lie---the lie which you hold as the truth about God---that God cannot be trusted; that God's love cannot be depended upon; that God's acceptance of you is conditional; that the ultimate outcome is thus in doubt. For if you cannot depend on God's love to always be there, on whose love can you depend? If God retreats and withdraws when you do not perform properly, will not mere mortals also? (p.16)

  ひとの思考も行動もすべて、愛か不安か、どちらかを根拠としている。ほかの考えはすて、この二つから派生したものだ。単なるヴァリエーションで、同じテーマが変化したものにすぎない。
  よく考えてみれば、これが真実だということがわかるだろう。これが、「支える思考」とわたしが呼 ぶものだ。愛という考えか、不安という考え。そのどちらかが、すべての思考の陰にある。この二つは 最初の思考、最初の力だ。人間の存在というエンジンを動かしている生のエネルギーだ。
  ひとが何度も何度も同じ経験を繰り返す理由もここにある。ひとが愛し、つぎに破壊し、そしてまた愛するのもそのためだ。常に一方の感情から他方の感情へと揺れ動くからだ。愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その愛がまた不安を支える............。
  原因は最初の誤りにある。神の真実に対する誤り、神を信頼しないという誤りだ。だから、神の愛を頼れない。神が条件付きであなた方を受け入れると思う。究極の結果が不確かだと思う。神の愛が常に存在すると信じられなくて、いったい誰の愛を信頼できるのか。あなたが正しく行動しなかったら、神は見捨て、手を引いてしまうとすれば、神ならぬ身の人間を頼れるはずがない。

  例えば、「あなたを愛している」と口にした瞬間に、相手が同じことを言ってくれるかと心配になる。そして、相手の同じことばを聞いたら、今度は、その愛を失うのではないかと不安になる。そこで、あらゆる行動が「失う不安」に対する自衛反応になっていく。われわれはどうすればよいのであろうか。その悩みを救えるのは、自分が何者かを知ることである。「あなたがたは神が創造したなかで一番すばらしい、優れた存在であることを知っていれば、決して不安にはならないはずだ」と神は言うのである。
  人々は、自分が何者かを知らず、だめな存在だと考えがちである。そしてそのように思わせたのは、人々が無条件で信じた人たち、母親と父親である。親が、こうしてはいけない、ああしなければいけない、などというのを聞いて、子供たちは、それらが神のメッセージの基準に合わないときでもそれを受け入れた。そして、愛とは条件付きであると思いこむようになった。無条件に愛されるというのがどんなことかを忘れてしまった。そのうえで、世間で見いだす愛を基準にして、神の愛も同じようなものだと思うようになった。親の役割を神に投影し、親のように善いか悪いかを判断して、褒美を与えたり罰したりする神を想像するようになったのである。このように、愛についての考え方を間違えれば、人々は純粋な愛を体験できない。純粋な愛そのものである神を知ることも出来ない。
  不安は、縮こまり、閉ざし、引きこもり、走り、隠れ、蓄え、傷つけるエネルギーである。愛は、広がり,解放し、送り出し、とどまり、明るみに出し、分け合い、癒すエネルギーである。不安だから、身体を衣服で包むのであって、愛があれば裸で立つことも出来る。不安があるから、もっているもののすべてにしがみつき、かじりつくが、愛があれば、もっているすべてを与えることができる。不安はしっかりと抱え込み、愛は優しく抱きとる。不安は掴み、愛は解放する。不安はいらだたせ、愛はなだめる。不安は攻撃し、愛は育む。このように、不安と愛は常に両極にある。それはわかるような気がする。しかし、やはり、何か決断しようとすると不安が勝ってしまうことのほうが多い。それはなぜか。神の答えはつぎのように明快である。

   You have been taught to live in fear. You have been told about the survival of the fittest and the victory of the strongest and the success of the cleverest. Precious little is said about the glory of the most loving. And so you strive to be the fittest, the strongest, the cleverest---in one way or another---and if you see yourself as something less than this in any situation, you fear loss, for you have been told that to be less is to lose.
   And so of course you choose the action fear sponsors, for that is what you have been taught. Yet I teach you this: when you choose the action love sponsors, then will you do more than survive, then will you do more than win, then will you do more than succeed. Then will you experience the full glory of Who You Really Are, and who you can be.
   To do this you must turn aside the teachings of your well-meaning, but misinformed, worldly tutors, and hear the teachings those whose wisdom comes from another source.
   There are many such teachers among you, as always there have been, for I will not leave you without those who would show you, teach you, guide you, and remind you of these truths. Yet the greatest reminder is not anyone outside you, but the voice within you. This is the first tool that I use, because it is the most accessible. (pp.19-20)

  不安を抱えて生きるように教えられているからだ。あなたがたは適者生存、一番強い者が勝利を得、一番利口な者が成功すると聞かされてきた。一番愛らしい者の栄光については、ごくわずかしか語られ ていない。だから、いろいろな方法で、あなたがたは適者になろう、一番強くなろう、利口になろうと必死になり、どんな状況でも、少しでも劣っていれば負けてしまうという不安に怯える。子供のころか らずっと、劣った者が負けると言い聞かされてきたためだ。あなたがたはもちろん、不安に支えられた行動を選択する。これもそう言われてきたからだ。
  だが、教えてあげよう。愛に支えられた行動をとれば、生き延びるだけでなく、勝利するだけでなく、 成功するだけでなく、それ以上のことができる。そのとき、自分はほんとうは何者か、そして何者にな りうるのかという、栄光に包まれた経験ができるだろう。そのためには、善意ではあるが間違った教師たちの教えを退け、別の種類の知恵を持った人たちの教えに耳を傾けなければならない。そういうすぐれた教師は、昔もいまもたくさんいる。わたしは、真実を教え、導き、思い出させる人たちなしに、あなたがたを放っておきはしない。しかし、一番偉大な教師は、外にいる者ではなく、あなた方のこころ の声である。それがわたしの使う第一の道具だ。

  神は愛が存在するためには――そして純粋な愛である自分を知るためには――対照となるものが存在しなければならないことを知っていた。正反対のものが存在する必要があった。そこで神は、偉大なる極――愛の絶対的対極にあるもの、愛でないあらゆるもの――を創りあげた。それが現在、不安と呼ばれているものだ。不安が存在した瞬間、愛もまた、体験しうるものとして存在しはじめた。愛とその対極、この二元性が、人間のさまざまな神話で言われる悪の誕生、アダムの堕落、悪魔の反抗などである。
  われわれは、純粋な愛を人格化して神と呼び、恐るべき不安や恐怖を人格化して悪魔と呼んだ。ある人々は、この愛と不安を中心とした神話を完成させようとして、天使軍と悪の戦士、善の力と悪の力、光と闇の戦いのシナリオを付け加えた。この神話は、人間が魂の深いところで気づいてはいても、頭では把握しけれなかった宇宙的な出来事を、自分たちなりに理解して語ろうとする、人類の昔の試みであった。


   6.

  人生の目的は何か。それは、人間関係から学ぶこと、困難や病気から学ぶこと、そして最後には、死から学ぶこと、という考え方がある。だから、人生とは、そういう学びのための学校なのだという言い方がされる。しかし、神の目から見れば、学校といういい方は、正しくはない、という。
  学校とは知らないことを教わりたいと思うとき、行くところである。すでに知っていて、その知識を体験したいというときに行くところではない。そのことは理解できる。しかし、われわれの魂は、知る必要のあることはすべて知っている。われわれの魂に隠されていることは何もないし、知らされていないこともない。ただ、知っているだけでは十分ではないから、体験が必要になってくるだけである、と神は言うのである。
  例えば、自分が寛大であることを知っていても、寛大さを示す何かを行動で表さなければ、寛大さはただの概念であるにすぎない。親切であることを知っていても、誰かに親切にするという行為がなければ、親切の自意識があるだけである。だから、自己についての偉大な概念を偉大な体験に変えたい。体験こそが魂の大いなる希望であり、そして、人生の唯一の目的とは、多くの栄光を体験することにあると、つぎのように述べている。
 
   There is only one purpose for all of life, and that is for you and all that lives to experience fullest glory.
   Everything else you say, think, or do is attendant to that function. There is nothing else for your soul to do, and nothing else your soul want to do.
   The wonder of this purpose is that it is never-ending. An ending is a limitation, and God's purpose is without such a boundary. Should there come a moment in which you experience yourself in your fullest glory, you will in that instant an ever greater glory to fulfill. The more you are, the more you can become, the more you can yet be.
   The deepest secret is that life is not a process of discovery, but a process of creation. You are not discovering yourself, but creating yourself anew. Seek, therefore, not to find out Who You Are, seek to determine Who You Want to Be. (p.20)

  あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなた方、そして生きとし生けるものすべての目的は、できる限りの栄光を体験する、ということだ。
  話したり、考えたり、行動したりするのもみな、この目的のためだ。魂がすることはほかになく、魂が望むこともほかにはない。
 この目的のすばらしいところは、決して終わりがないことだ。終わりとは限界であり、神の目的にはそんな境界線はない。できる限りの栄光を体験できたら、その瞬間にもっと偉大な栄光を想像するだろ う。栄光を体験すればするほど、もっと大きな栄光の可能性が開けるし、その可能性が開ければ、あなたはさらに栄光を体験できるようになる。
  最高の秘密は、人生とは発見ではなく創造のプロセスだということだ。あなた方は自分を発見するのではなく、自分を新たに創造していく。だから、自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうではなくて、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい。

  ラムサは、この神の言う栄光を「よろこび」として表現する。よろこびとは何か。それは、全く邪魔の入らない動きの自由のことである。価値判断のない表現の自由であり、恐れや罪悪感のない存在である。よろこびとは、自分が自分自身の条件で人生を創造していることを知っている状態なのである。在るがままでいることを許されている自己の荘厳な姿のことである。
  なぜ、よろこびがすべての存在のなかで最も偉大なのであろうか。それは、人がよろこびの状態にあるとき、その人は神そのものの存在とともにあるからである。神とともにあるとき、嫉妬や怒りや反感、あるいは戦争などが存在する余地はない。よろこびの状態にある時、人を憎んだり、退けたり、あるいは傷つけたりするのはむずかしい。幸せでよろこびあふれる状態にあるとき、その人は神を愛していることになる。
  よろこびの状態のとき、まわりのあらゆるものと協調し平和を保つことができる。生きることがよろこびであるときには、人に反感を持ったり、不安になったり、恐れや怒り不満を感じることはない。よろこびの状態にあるとき、人は満たされて全きものになり、生命と叡智と創造性が内面からあふれてくるのである。20)
  それでは、そのよろこびにあふれた状態には、どうしたらなれるのであろうか。もし自分がそう望めば、人生のあらゆる瞬間が、よろこびを表現する機会と自由を与えてくれるのだと知ることによってである。そして、幸せやよろこびや、あるいは神から自分を引き離してしまう価値のあるものなど、何一つないことを知ることによってである。何があっても自分を完璧に愛することである。自分を愛するとき、人は神を愛することになるのだから。ラムサは、自己への愛のため、自己を満たすために生きること以上に偉大な人生の目的はない、と断言する。21)
  しかし、このような栄光やよろこびの意義を理解できずに、人生のなかで、悲しみや苦しみを体験することも少なくはない。これはどう考えたらよいのであろうか。誰も悲しみは苦しみは望まない。しかしそれでもわれわれは、おそらく、それらの体験が必要であるときにそれらを体験する。だから、これらの体験も広い意味では、人生の目的であるといえるかもしれない。
  例えば、事故なども起こるべくして起こる。世の中には偶然というものはなく、何事もたまたま起こったりすることはない。生命の要素があるときにある方法でぶつかり、ある結果を引き起こす。それをわれわれは、自分たちなりの理由で、その結果を不運と呼ぶかもしれないが、魂の課題という点から考えれば、不運ではない。個々の事故や出来事は、真の自分を創造し、経験するために、われわれ自身によって呼び寄せられるものだ、と神は言うのである。22) ラムサもこの点については同様に、次のように述べている。

  私は善も悪も認めません。認めるのは生だけです。もしある存在が、いま、一人の存在を殺そうとするなら、あるいは単にそう思うことによって、自分の魂の内でその殺人行為を犯そうとするなら、どち らの場合も、何らかの目的で、ある理解を得るために、それを行う必要があったんです。ぜひわかってほしいのは、この命を奪われた側の者も、その犠牲者ではないということです。彼もまた、もしかしたら殺されるかもしれない、あるいは暴行されるかもしれない可能性に思いをめぐらしたのです。そして、思いをめぐらしたために、またそれがひどく恐ろしいものであったために、相手の殺意を自分のところ まで引き寄せてしまったのです。こうして、暴行をはたらく必要があった者と、それを理解するために暴行される必要があった者が、その体験のために同じところへ引き寄せられたのです。
  神という叡智では、悪であるものは何もありません。あらゆるものは、知恵を与える一つの体験なの です。23)

  よく知られているように、この世では必ず正義が勝つとは限らない。悪が幅を利かし、善なるものが苦しむということも決して珍しいことではない。しかしそれは、時間的空間的に閉じこめられたこの世という限られた視点からの観察である。おそらく、宇宙の真理のなかでは、因果律は一分の狂いもなく正確にはたらき、天秤は必ず平衡を取り戻すものであろう。神の視点では、あるいは、われわれの最も望まざることが、われわれの真摯な祈りの答えであることもあるのかもしれない。
  例えば、シルバー・バーチも、悲しみの体験にはつぎのような意味があることを教えてくれている。

  悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れたとき、一番よく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているため に、それを目覚めさせるのにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があるといえるのです。24)
  人生の目的は栄光を体験することにあると神は言い、ラムサも自己を満たしよろこびを体験することが人生の目的であると言う。しかし、われわれはしばしば、栄光の代わりに苦しみを、そして、よろこびの代わりに悲しみを体験する。これも無明の闇に生きる人間の弱さか。


                        −−2000年10月15日−−


  

    * On Walsch's Conversations with God
  
  1) 例えば、フィンランドの医師ラウニ・キルデ博士の『死は存在しない』という本などもそうである。 評論家の立花隆氏が、彼女にインタビューして聞き出した話によると、この本が書かれた背景には興味深い事実があった。彼女の従兄にソルヴェーグという名の医科大学教授がいた。ソルヴェーグは、51歳のときに心筋梗塞で亡くなったという。ところが1979年に、その従兄が、瞑想中のキルデ博士に 「1981年にお前は本を書くことになる。 それはベストセラーになり、世界各国で翻訳されるようになるだろう」と伝えてきたのである。
  キルデ博士は、初めはそのことをとても信じられなかった。彼女は自分には文章を書く力はないと 思っていたし、それに、フィンランドは人口500万の国である。フィンランド語で書かれた本で、それまで、外国語にまで翻訳された本はなかった。しかし、従兄の言ったことは現実になった。本当に それから2年後、彼女は本を書いて、ベストセラーになり、世界各国で翻訳されることになったので ある。それが『死は存在しない』である。「それは、本当に信じられないことでした。1981年のある日、突然、書きなさいという命令が下ったのです。そして、ペンを取ると、猛烈な勢いで自動書記がはじまり、24時間で本を一冊書いてしまったんです」と彼女は語っている。立花隆『臨死体験・上』 文芸春秋社、1994、p.180. 
  日本でも、たとえば「幸福の科学」を主宰している大川隆法氏の本などがそうで、彼の代表作のひとつである『太陽の法』の初版本には、「ペンを握る筆者の手は、まるで生きもののごとく勝手に動 き・・・・・・わずか10日あまりで、1冊を書き上げたことになります」と述べている。
  2) 「朝日」1999.2.26.
  3) 武本昌三『生と死の彼方に』(文芸社)2000, p.301参照。
  4) ラムサ『真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.29-30.
  5) 例えば、文部省統計数理研究所が行っている国民性の調査がある。所長の林知己氏は、「意外に思われるかもしれないが、日本人が豊かな宗教感情の持ち主であることは、30年間の調査を通して得た 確固たる結論である」と述べている。氏の調査によれば、「宗教を信じるか」との問いに「はい」と 答えるのは、平均的に30%前後である。しかし、「宗教的な心は大切ですか」と聞くと、かなりの人が「はい」と答える。「宗教を信じている」人と、「宗教的な心は大切」だと思っている人を合わせると、全体のほぼ80%にもなるという。「朝日」1988.6.25. なお、1996年に神社本庁が行った全国の成人男女2000人を対象とする意識調査では、「何か信仰している宗教はありますか」という問いに対して、信じていない(49.5%)、仏教(38.7%)、神道(3.8%)、創価学会(3.4%)、わからない(2.9%)、キリスト教(0.9%)、その他(0.8%)となっている。「朝日」1997.1.28.
  6) 武本昌三「Arthur Conan Doyle の Spiritualism について」、など。
  7) 「朝日」2000.9.13. たとえば、佐藤愛子『こんなふうに死にたい』(新潮文庫)は小説家の彼女が霊に関する実体験をまとめたものである。佐藤氏は、「私がこれから語ることを、おそらく読者の大半はナンセンスだというだろう。なぜなら現代に生きる大部分のは、目に見るもの、耳に聞こえるもの、科学的に分析実証できるものしか信じないからだ。かつての私もその一人であった」とこの本の中で書き出している。しかし彼女は、長い霊体験との関わりを通じて、だんだん霊について理解を 深めるようになっていく。そして、その彼女を導いたのが、「優れた霊能力者」といわれる美輪明宏氏である。氏は、この本の最後に「霊を受け入れる柔和質直な心」という文を載せている。美輪氏には霊がはっきり見えるわけだから、「霊なんかあるわけがない」と広言する人などは、殊更に愚鈍にみえるようである。実は、そのような人は、物事をよく知っているつもりの、科学者、医者、学者、文化人・知識人といわれる人たちのなかに多いらしい。美輪氏は、それらの人たちこそ無知で蒙昧であると、次のように非難している。
  通常の医者や科学者は、超常現象や己の無知なる部分を認めれば沽券にかかわる、それらを否定することこそ立派な科学者で常識ある人間だと思いこんでいる。この姿こそ小心翼々とした哀れむべき根性である。頑迷ということは愚か者だということである。「超常現象なんてあるわけはありません」 とそれに対する勉強も研究もせず何の知識もない癖に頭から否定してかかるのが傲慢なる愚者の発言であり、「この世の中には自分が知らない事はまだまだ山の様にあります。私には知識も経験も無いのでわかりません」と発言する人が聡明で謙虚な人なのである。(同書、p.153)
  8)「超能力に科学の目」「朝日」1997.5.6による。
  9) 安斎育郎「錯誤の世界」「朝日」'00.8.28.
 10) 「朝日」1997.4.4.
 11) 天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。マタイ(6:9-13)
 12) 内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』岩波書店、1983年、p.16.
 13) 内村鑑三、前掲書、p.22.
 14) 内村鑑三、前掲書、pp.27-28.
 15) シルビア・バーバネル編『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)潮文社、1987、pp.198-199.
 16) ラムサ、前掲書、pp.76-77.
 17) ラムサ、前掲書、pp.54-55参照。
 18) 武本昌三「Arthur Conan Doyleの Spiritualismについて(補遺)」など。
 19) エステル・ステッド編『ブルーアイランド』(近藤千雄訳)ハート出版、1992、pp.92-94参照。
 20) ラムサ、前掲書、p.202参照。
 21) ラムサ、前掲書、p.204.
 22) Walsch:(pp.51-52参照。)
 23) ラムサ、前掲書、pp.189-190.
 24) アン・ドゥーリー編『シルバー・バーチの霊訓』(近藤千雄訳)潮文社、1988、p.55.