[生と死と霊に関する論文] 死と復活 ― イエス・キリストの場合 ― 1. イエス・キリストが実在していたことは、歴史的な事実である。これを疑うものはいないであろう。しかし、イエスの誕生がいつであったか、ということになると、その年月日はいまだに確定されていない。イエスが生まれた時から西暦が始まり、クリスマスが誕生の日だから、イエスは西暦元年十二月二十五日に生まれたと思うのは誤りである。 聖書には「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった・・・」(1)(マタイ2・1)という記述がある。これをひとつの根拠にすれば、ヘロデの統治期間は紀元前三七年から前四年で、この前四年にヘロデは死んでいるから、イエスが生まれたのは紀元前四年以前でなければならない。西暦元年との誤差を縮めたいとする無意識の願望に支えられてのことであろうか、イエスの誕生は西暦四年とする説もあるが、現在では、イエスの出生は紀元前六年というのがほぼ定説になっている。(2) イエス誕生の月日についても、同様に不明である。生誕を祝う儀式そのものは、二百年前後からしだいに行われるようになったといわれるが、はじめのころは、一月六日、三月二十一日(春分)、十二月二十五日のいずれかの日が選ばれていた。当時ロ−マ人のあいだでは、農神サタ−ンを祭る農神祭が盛んに行われ、この祭りの期間中は、奴隷も自由に主人の供宴に加わり、年齢男女階級の区別もなく、大騒ぎをして楽しんだ。これが十二月十七日から一月一日までの間である。このうち十二月二十五日は、冬至のあとで太陽がよみがえる一年の変わり目の日として、特に重要視された。そして三五四年以降、まずロ−マ教会がキリスト降誕祭を十二月二十五日と定めて行うようになったのがクリスマスのはじまりである。(3) このイエスの誕生日については、聖書にも触れられてはいない。ただ、ルカ福音書には、イエス誕生の夜、「この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」(二・八)という記述がある。この地方、ベツレヘムでは、家畜は三月に野に出し、十一月のはじめには連れ戻すのが普通であった。現在でも、十二月には野に羊は出ていない。このことからも、イエスの誕生の夜は、十一月以前ということになる。イエスの生誕を六月頃と推定している記録もあるが、正確には今もわからない。十二月二十五日でないことだけは確かで、結局いまだに不明ではあるが、その誕生が歴史的事実であることは動かせない。 つぎに、イエスが十字架にかけられ、死んだことも、歴史的事実である。これについても疑うものはいないであろう。イエスは、ポンテオ・ピラトがロ−マ総督をしている時、つまり二十六年から三十六年の間に、エルサレムで間違いなく処刑された。その死体が埋葬されたのも、エルサレムである。 このイエスの受難と死については、詳しく聖書に述べられているので、その概略だけはかなり正確につかむことができる。ただしそれでも、イエスの死亡日時まで特定できるわけではない。 もともとイエス自身は、何も書いたものを残さず、パウロの手紙を除いては、イエスの直弟子でその言葉や行動を記録しているものはいない。ただ、それらは語られ、筆記され、語録とされてはいた。いわゆるQ資料とよばれるものである。さらにイエスの思い出を直接に筆記させたと思われるのがマルコ福音書で、これはペテロの口述をマルコが筆記したと思われる。そしてマタイとルカの福音書は、このマルコ福音書とQ資料、および独立の別資料に基づいて、それぞれの福音書を記していった。 聖書は、全体として二十七の文書から成り、四福音書、使徒行伝、パウロの手紙十三、その他の手紙または手紙形式の文書八、それにヨハネ黙示録に分けることができる。これが「旧約」に対する新約聖書である。これらは紀元一世紀の中頃から二世紀の中頃の約百年に書かれ、場所はだいたい地中海東部の沿岸地帯、パウロの手紙はエ−ゲ海周辺とみられている。(4) これらの文書の著者は、しかし、歴史的にイエス伝を構成しようとしたのではなかった。イエスがキリストであることを論証し、かつ宣教するのが著作の目的であった。したがって、そこに描かれているイエスの姿は、史実的というよりは「宣教的」である。これが豊富な聖書の記述がありながら、そこから、史実的イエスを再構成することを難しくしているのである。 要するに、イエスの死亡の日時は聖書によっても不明で、誕生の日時と同様にいまだに確定されてはいない。ただ、ひとつの説として、アンニ・ジョ−ベル女史の「日程表」というのがある。(5) 彼女は、独自の調査によって、イエスの死亡に至る数日間の時間的経過を割り出したとされている。正確度についてはなお多くの留保をつける必要はあるが、ここでは、その「日程表」にしたがって、イエスの死亡日時は、紀元三十年四月七日、金曜日、午後三時ごろ、と推定しておく。そのころにイエスはゴルゴタの丘で死んだ。そのゴルゴタに至る道を、イエスはどのように歩んだいたのであろうか。 2. ヨハネ福音書では、イエスが逮捕されたのはユダヤ暦のニザンの月(いまの三月半ばから四月半ば)の十四日である。前述の日程表では、これは四月四日の火曜日に当たる。 その日、イエスは弟子とともにエルサレムへ入り、最後の晩餐をとった。その時のイエスには、これから自分に降りかかる受難の運命が手に取るようにわかっていた。それについては、マルコ福音書だけでも、三回にわたって、イエス自身の予告を記録している。つぎの順序である。 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、(6) 彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話さ れた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、イエスは振り返って、弟子 たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。(マルコ八・三一−三二) それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。(マルコ九・三〇−三二) さて、一同はエルサレムへ上がる途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとしていることについて語りはじめられた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上がって行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすだろう。また、彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう。(マルコ一〇・三二−三四) ギリシア語原典からの翻訳の問題もあるが、ここで使われている「人の子」とはもちろん、イエス自身である。(7) イエスはわざわざ自分の「十二弟子を呼び寄せて」、「しかもあからさまに」自分の受難を予告したのである。それでも、その時の弟子たちには、まだイエスの言っていることがよくわかっていなかった。「彼らはイエスの言われたことを悟らず」、そのような受難が待ち構えていることを信じようとはしなかった。しかし、それはことごとく事実となって現れてくる。 イエスはいま、そのような受難を前にして、エルサレムで弟子たちと最後の晩餐の席に座っている。その時もイエスは、あくまでも優しく、いつものとおりもの静かであったろう。それでいてイエスは、それからの自分自身の逮捕に至る弟子たちの動向についても、すべてを見通していた。食事をしながら、イエスは言った。 「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互いに顔を見合わせた。弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。 その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者がそれである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。 席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが彼に、「祭りのために必要な者を買え」と言われたか、あるいは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思っていた。ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。(ヨハネ一三・二一−三〇) このようにイエスは、自分がユダに裏切られることをよく知っていた。このユダの裏切りを指摘する場面は、福音書によっては同じではないが、マタイ福音書の場合は、その指摘はもっと直接的である。その部分もここに書き添えておこう。 夕方になって、イエス十二弟子と一緒に食事の席につかれた。そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、私ではないでしょう」と言い出した。 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。そのひとは生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」。イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。(マタイ二六・二〇−二五) これだけはっきり裏切りを指摘されれば、「非常に心配していた」弟子たちの間には、ユダへの対応に大きな変化が起こったはずであるが、それについての聖書の記述はない。ともあれ、ここからユダは祭祀長のところへ行った。それはたしかにサタンのなせるわざであったろう。 善悪の間をはかなく揺れ動くこころの振り子は、ふとしたことから迷いを増幅させ、判断のバランスを大きく踏みはずしてしまう。人間というのは弱いもので、時には、相手のみならず自分をも裏切り、無意識のうちにサタンを招き入れてしまうのである。その時のユダがそうであった。ただ、細かい点をあげれば、そのサタンがユダに入ったのも、ルカ福音書では、最後の晩餐よりはかなり前になっている。 さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたらである。 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。 彼らは喜んで、ユダに金を与える取り決めをした。ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。(ルカ二二・一−六) しかし、このような些細な記述の相違はあまり重要ではないであろう。ここで注目しておきたいのは、イエスが自分の受難をも的確に見通していたことである。そのことについては、どの福音書にも基本的な矛盾はない。 これはイエスが極めて高い霊能力をもっていたことを意味する。霊能力という点からいえば、現在でも霊能力を備えた人間が少なからず存在するのは事実である。それらの霊能力者が、多少の予知能力や病気治癒能力を示すことがあるのも、事実として否定できないであろう。しかしイエスの場合は、人類の歴史を通じて、空前絶後の、偉大な霊能力者であった。 ユダが出ていった後の食卓で、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちにつぎのように言った。それは、イエスから弟子への別れのことばでもあるのだが、弟子たちは、まだそのことにも気がついてはいなかった。 「取って食べよ、これはわたしのからだである」。 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。(マタイ二六・二六−二九) 3. 最後の晩餐のあと、イエスは、オリ−ブ山へ向かいながら、これから自分の身に降りかかることに対して、弟子たちにこころの備えをさせておかねばならなかった。そこでまず弟子たちに、イエスが彼らといっしょにいることのできる時間は、そう長くはないことを告げた。父のもとへ帰るときが迫ってきて、弟子たちとも別れなければならない。「あなたがたはわたしを捜すだろうが」「あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない」(ヨハネ一三−三三)と言ったのである。それに対して、ペテロは問いかける。 「主よ、どこにおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。 イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。(ヨハネ一三・三六−三八) 「鶏が鳴く前」、すなわち翌日の早朝までには数時間しかない。その間に、主のためには命さえ捨てると誓っているペテロが、三度まで自分を否認するとイエスは預言したのである。これに対して、ペテロは力をこめて答えた。「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(マルコ一四・三一)。しかしペテロは、結局、イエスを否認することになる。 やがて一行は、山の麓のゲッセマニ(搾油所)着き、中に入っていった。そこで一夜を過ごすのである。弟子たちは疲れて、まもなく眠りこけてしまった。そのなかで、イエスだけはひとり彼らから離れて、一心に祈りを捧げていた。 「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。(マタイ二六・三九) この祈りは、二度、三度と繰り返される。苦しみもだえながら、「その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ二二・四四)ほど祈りに祈ったのである。そして最後に言った。 「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。(マタイ二六・四二) 重苦しい時が流れた。やがて暗やみの中を、ユダに先導された神殿警備兵とロ−マ兵の一団が近づいてくる。(9) イエスのところまで来ると、ユダがまずイエスの肩に手をかけて頬に接吻した。これは中近東ではいまも続いている平安の挨拶である。この挨拶を合図に、警備兵たちはイエスに飛びかかった。その騒ぎに目を覚ました弟子たちは、イエスを守ろうとして警備兵たちとの間でちょっとした乱闘になった。 ペテロが身につけていた漁業用の短刀を引き抜き、敵の一人、祭司長のしもべでマルコという男の耳たぶを切り落としたりしたが、イエスは声を上げてその反抗を押し止めた。一瞬のうちに乱闘はおさまり、イエス一人だけが警備兵たちに囲まれて大祭司カヤパの屋敷へ引き立てられていった。弟子たちは、そのイエスを見捨てて四散してしまった。 ユダは預言された通りイエスを裏切った。そして一旦イエスが逮捕されてしまうと、弟子たちはその師を見捨てて、散り散りに逃げ去ってしまった。イエスを裏切ったユダといい、肝心な時に師を見捨ててしまったほかの弟子たちといい、イエスの弟子たちはなぜこのように弱い存在であったのか。そしてこの弱い点では、あのペテロも例外ではなかった。 イエスが神殿警備兵とロ−マ兵の一団によって捕らえられたとき、興奮したペテロは短剣を抜いて敵に、切りかかったりしている。その時のペテロは、たしかに命がけではあったろう。しかし、イエスに制止され、目の前で起こった重大な事態をのみ込んでいくにつれて、ペテロは腰くだけになってしまった。大勢のものものしい武装兵の姿は、忽ちペテロの恐怖心をよびおこし、彼はその場からやみくもに逃げ出してしまう。そして、その他の弟子も皆同じ様に、「イエスを見捨てて逃げ去った」(マルコ一四・五〇) のである。 4. しばらく暗やみの中に逃げ隠れしていたペテロは、冷静さを取り戻すと急にイエスの安否が心配になってくる。あれほど慕っていた師を、肝心のときに見捨てて逃げてしまうとは。決して起こってはならないことが起こってしまった。ここでも人間の弱さは、善悪の間で揺れるこころの振り子をきわどいところで悪に傾け、彼自身まったく予期していなかった破廉恥を行わしめたのである。慚愧の念にかられながら、ペテロは、イエスの後を遠くから追い始めた。 イエスを縛り上げた兵たちの一団は松明の火をあかあかと掲げながら、城の方へと動いて行く。城内に入ると祭司長カヤパの公邸へとイエスを曳いて行った。四月四日の夜は更けていく。暗やみの中で、やがてペテロもイエスが引き立てられいるその中庭へ入り込んだ。それをマタイ福音書はつぎのように記している。 さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒に座った。 ・・・ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。するとペテロはみんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。 するとすぐ、鶏が鳴いた。ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。(二六・五七−七五) このように、マタイ福音書では、ペテロはイエスの弟子である事を悟られないようにして、ひとりでこっそり公邸に庭に忍びこんだのである。だから、弟子であることが暴露されそうになったときには、事実を激しく否定して逃げ出さなければならなかった。マルコ、ルカもこの点では変わらない。しかし、ヨハネ福音書だけはこれとは違った書き方をしている。公邸の中庭に入っていくのはペテロだけではないし、入り方も異常なのである。つぎのようになっている。 シモン・ペテロともうひとりの弟子とが、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いであったので、イエスと一緒に大祭司の中庭にはいった。 しかし、ペテロは外で戸口に立っていた。すると大祭司の知り合いであるその弟子が、外に出て行って門番の女に話し、ペテロを内に入れてやった。(ヨハネ一八・一五−一六) この記述は奇妙である。「この弟子」とは他ならぬヨハネであるという説もあるが、それはともかくとして、このような時になぜイエスの弟子がイエスと一緒に大祭司の中庭へ入っていくことができたのか。しかもこの弟子は、中に入りながら一旦外へ出て、「門番の女に話し」そこに立っていたペテロを中へ引き入れているのである。 師のイエスは、いわば反逆罪に問われて裁かれようとしている。そのイエスと行動をともにしてきた弟子たちも、当然捕らえられて同じように罰を受けるのが普通である。だからこそそれを恐れて、弟子たちはすべてが逃亡した。ペテロがイエスの弟子であることを三度まで否認したのも、それを認めれば罪に問われるからであった。それなのに「この弟子」だけは、なぜ咎められもせず、楽に大祭司の邸に入り、しかも門番の女とも親しく話をすることができたのか。 これは推理するほかはない。しかし、その時の前後の状況からひとつの可能性として考えられることは、ペテロは逃げ隠れしている仲間たちを代表してカヤパの邸に赴き、その弟子を仲介として大祭司とある妥協を行ったのではないか、ということである。ペテロはイエスの逮捕という現実に愕然として、当然予想される弟子たちへの追求をなんとか避けるために大祭司との妥協を思いついた。そのために官邸の中庭まで入り込んだのではないか。 イエス逮捕の知らせを受けて、官邸には、イエスを裁くためにユダヤ衆議会の祭司や議員たちが集まっていた。そのなかで、ペテロもイエスの弟子たちの代表者として衆議会の裁きを受け、その席上でイエスを否認することを「激しく誓った」と考えられるのである。つまり弟子たちは、すべてイエスを否認することを大祭司に誓約し、ヨハネ福音書に書かれている仲介者の弟子のとりなしで、その後の追求捕縛をまぬかれることができた。そのように考えることができないであろうか。ルカ福音書には、つぎのように書かれた部分がある。 主は振り向いてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。(二二・六一−六二) これは、この妥協の状況を間接的に表現したものともとれないことはない。このイエス否認という裏切り行為によって、ペテロと弟子たちはイエスを見捨て、そのことによって自分たちの命を守ろうとしたのである。この裏切りを条件にして、ユダヤ衆議会は、その後当分の間、イエスの弟子たちの存在を黙認し、咎めもせず、裁きもせず、放任することになった。それ以外には、イエスだけが捕縛されて弟子たちには追求の手が伸びていかなかった不思議な理由は考えられないのである。 イエスを否認し、師を裏切ることで弟子たちは助かり、その代わりイエスは全員の罪いっさいを背負わされる生贄の子羊となった。弟子たちはすべて、自分たちの命を守るためとはいえ、屈辱的な妥協をしてしまったことに、言い知れぬ悲しみを感じていたであろう。深い罪悪感と慚愧の念に苦しめられ、いくら「仕方がなかったのだ」と自己弁護しても、こころの傷は癒えなかった。「外へ出て、激しく泣いた」のは、ペテロのみならず、そういう弟子すべての悲痛な感情を表現したものととるべきかもしれない。 5. 四月四日の深夜から召集されたユダヤ衆議会では、イエスはほとんど沈黙を守っていた。ユダヤ法の規定で、すべての有罪の認定には、少なくとも二人もしくは三人の証人が必要とされていたが、イエスに対しては多くのものが偽証を立てた。しかしそれらの偽証は互いに一致せず、イエスの有罪を確定することはできなかった。どうにでもイエスを死刑にしたい大祭司のカヤパは、焦れてきて、イエスの前に進み、聞き質して言った。「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。イエスはそれでも何も答えようとはしなかった。(マルコ一四・六〇−六一) 大祭司カヤパはさらに突っ込んで、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」(マタイ二六・六三)と迫った。これは、信仰の根幹にかかわる重大な質問である。避けては通れない。イエスははじめて口を開いた。 「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗ってくるのを見るであろう」。(マタイ二六・六四) 「あなたの言うとおりである」は、マルコ福音書では「わたしがそれである」となっている。ここでイエスは、厳然として自分が神の子であることを、相手の言い方を通じて認めたのである。イエスを有罪にするための口実を求めていたカヤパたちには、この一言で充分であった。激怒したカヤパはイエスの衣を引き裂いて言った。 「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。 すると、彼らは答えて言った。「彼は死に当たるものだ」。それから、彼らはイエスの顔につばをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った。「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。(マタイ二六・六五−六八) こうしてイエスには死刑が宣告された。日は変わって、四月五日の朝を迎えようとしていた。この最初の裁判が終わって、翌日、四月六日の早朝、カヤパらによる二回目の裁判で死刑を確認した後、彼らはイエスを、ロ−マから派遣されていた総督ピラトに引き渡した。イエスの裁判で、実質的な司法権を持っていたのは大祭司カヤパであったが、実際にユダヤを支配していたのは、ロ−マであり、政治権力を握っていたのはロ−マから派遣されていた総督ピラトである。そこでカヤパたちは、イエスに対する死刑判決を実効あらしめるために、ロ−マ総督の判決をも求めて、自分たちの行為を民衆の前に正当化しようとしたのである。 イエスは総督ピラトの前に立たされ、ここでも審問を受けることになった。ピラトはイエスに尋ねた。 「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは、「その通りである」とお答になった。そこで祭司長たちは、イエスのことをいろいろと訴えた。ピラトはもう一度イエスに尋ねた、「何も答えないのか。見よ、あなたに対してあんなにまで次々に訴えているではないか」。 しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答にならなかった。(マルコ一五・二−五) 大祭司カヤパとその一派は、自分たちの裁判では、イエスをユダヤ教を冒涜した罪人として裁いていたのだが、ロ−マ総督ピラトの前では、イエスをユダヤの王を詐称した政治的扇動家として告発していた。ユダヤ王の詐称は、ロ−マ帝国に対する反逆でもある、という理由である。 当時は、ロ−マの権力による圧制の下で人々は苦しんでいた。農民は地主であるロ−マ貴族に搾取され、商人や労働者は、ロ−マ帝国に高い税金を納めなければならなかった。そのような圧制をカムフラ−ジュするために、ロ−マ人は、ユダヤ人にユダヤ教を信仰することを許し、傀儡政権としてユダヤ人の王を擁立していたのである。 だからロ−マにとっては、ユダヤ王の詐称もさることながら、このようなロ−マの圧制を打ち破ろうとする民衆のエネルギ−というものは、常に大きな脅威であった。その脅威を押さえるためには、ロ−マ軍はどのような手段でも講ずるであろう。カヤパたちがイエスを政治的扇動家としてのロ−マ総督ピラトのところへイエスを引きだしたのには、そのようなもくろみもあったのである。 しかしピラトは、イエスになんの罪も認められなかった。イエスの言う「ユダヤ王」が政治的な意味を持つものでないことも見抜いていた。それにイエスは、権力そのものを認めてはいなかったが、武力でロ−マに反抗しようとしていたわけではない。むしろイエスは、反抗しようとする民衆を精神的な教えで導くことにつとめ、少なくとも表面的には、無抵抗主義に徹していた。それはロ−マにとっても都合のよい態度であった。 そこでピラトは、イエスがユダヤ王「ヘロデの支配下のもの」であることを確かめたうえ、ちょうどその頃エルサレムにいたヘロデのところへイエスを送りとどけた。ユダヤ王ヘロデにイエスの処置を一任したのである。イエスのことを聞き知っていて、イエスが奇跡を行うのを見たいと望んでいたヘロデは喜んでイエスに会った。しかし、イエスはいろいろな質問にも何も答えず、沈黙を守ったままであった。ヘロデもまた、イエスを有罪にする根拠を見いだすことができず、もてあました彼は、イエスをもとのピラトのところへ送り返してしまった。 四月七日、金曜日になった。イエスの最後の日である。ピラトは祭司長たちと、役人たちと民衆とを呼び集めて言った。 「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当たるようなことはしていないのである。だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。(ルカ二三・一四−一六) しかし、祭司長たちと彼らに扇動されていた民衆は納得しなかった。「その人を殺せ。バラバを許してくれ」と一斉に叫びはじめた。 当時、過越しの祭りには、総督が囚人一人を特赦するならわしがあり、誰を特赦するかについてはユダヤ人の意向が尊重されていた。それは民衆の人気を得たいとするロ−マの巧みな統治政策のひとつであった。イエスに罪のないことを知っていたピラトは、この慣例を利用してイエスを釈放しようとしたのである。ところが民衆は、イエスではなくて、バラバを釈放せよと言いはじめた。 バラバというのはユダヤの独立運動をしていて、民衆の支持が厚い革命家であった。ロ−マの圧制に苦しみながら、キリストの出現を期待していた民衆は、イエスがその奇跡を起こす力でユダヤをロ−マから独立させてくれるのではないかと、現世的な希望を託していたこともある。しかし、イエスの教えがあまりにも精神的で、現実ばなれしたものであることをみてとると、大きな期待は失望と憎しみに変わっていった。純粋に革命家として立ち上がり、民衆の期待に応えようとしてロ−マに対する国家反逆罪の嫌疑で逮捕されていたバラバのほうへ、その時の民衆のこころが惹かれていたのも、無理からぬことであったかもしれない。 専横な総督ピラトも、予想を越えた、あまりに多い祭司や民衆の声を無視することはできなくなった。イエスにはなんらロ−マ帝国に危害を及ぼすような意図はみられないと内心では思いながら、民衆の圧力に屈して、ついにイエスの死刑に同意してしまったのである。 このように、ロ−マ総督ともあろう者が、なぜ群衆に譲歩せざるをえなかったのか。これは、彼の地位が決して安定したものではなかったことがその一因である。当時のロ−マも一種の派閥政治であり、ピラトはロ−マ皇帝側近のセヤヌスという人物の系列に属していたが、そのセヤヌスの地位が脅かされており、紀元三十一年には処刑されている。(10) その当時のピラトは、不安定な地位を維持しながら、現地での民衆の騒動に巻き込まれることを警戒していた。社会的暴動が起こるようであれば、総督はその統治能力を疑われ、罷免されることもまれではない。彼としては、無実であることはわかっていても、イエス一人が処刑されてそれで平穏が保てるなら、処刑もやむを得ないと思ったのかもしれない。ピラトはバラバを釈放し、そして遂に、イエスを十字架につけることを許した。 6. ピラトの官邸から四百メ−トルほど離れたところに、その形状からゴルゴタ(されこうべ)とよばれる丘がある。その丘の上で、イエスは二人の盗賊を左右にして、真ん中の十字架に釘付けにされた。四月七日、午前九時であった。その時、十字架の上からのイエスの最初のことばが語られる。 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ二三・三四) 死に向う極限状態の中で激痛と意識の混濁に耐えながら、いまイエスは「彼らをおゆるしください」と父なる神に祈っているのである。自分を十字架に架けた者たちを、自分を嘲笑する民衆を、そして、最後の瞬間には自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちを、許す。許して下さい、と祈る。これはイエスが最後に示した「奇跡」であった。 十字架の周囲の人々は、死刑執行人を含めて、このことばをどのように聞き取ったであろうか。自分を殺そうとしている者を許すとは。一瞬自分たちの耳を疑ったに違いない。そしてこのことばは、逃げ去った弟子たちにも、処刑場にいた女たちから伝えられたであろう。彼らはいっせいに強い衝撃を受けたはずである。 師イエスは、自分を見捨てた弟子たちに、恨みや憎しみのことばを一度も口にしなかったばかりか、その弟子たちをも許し、祈った。これは彼らにとってありうべからざる事態であった。まったく予想もしなかったイエスの愛のことばに、弟子たちは愕然とし、激しく驚愕するなかで、深い悔恨と羞恥に打たれ、はじめてイエスを理解していなかったことに気がついたのかもしれない。それはまことに、神の子のことばであった。 この「奇跡」のことばの後六時間、息が絶える午後三時までの間に、イエスは言語に絶する苦痛に絶えながら、とぎれとぎれに十字架の上からことばを発している。四つの福音書は、それらのなかから、この最初のことばのほかにさらに六つを記録している。時間的にはおよそつぎの順序である。 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 そして言った、「イエスよ、あなたが御国(みくに)の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 ここで、イエスの第二のことばが発せられる。信じる者は救われるのである。イエスの愛は、犯罪人のこころをも優しく包み込んだ。 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカ二三・三九−四三) そのイエスの十字架のそばには、イエスの母マリアと、母の姉妹と、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアとが、たたずんでいた。ヨハネ福音書では、ヨハネもそばにいることになっている。イエスは、母と愛弟子のヨハネがそばに立っているのを見て、第三のことばをまず母に向かって発した。 「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。(ヨハネ一九・二六−二七) この、はじめのことばは、やはり、「女よ、見なさい。これがそなたの子だ」とでも訳すほうがいいと思うのだが、これは、母と子という通常の家族的枠組みをはるかに越えて、母親の中にすべての女性と言う人間を見る全人類的発想で呼びかけているのである。(11) それはイエスの人類愛の表現にほかならない。母マリアにも弟子のヨハネにもそのことはよくわかっていたであろう。その時以来、この弟子ヨハネは、イエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ一九・二七) やがて十二時になった。陽はまだ高いのに、あたりには急に異様な暗さが支配しはじめた。その暗さは三時までつづく。その時イエスは、大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだ(マタイ二七・四六)。四度目の発声である。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味で、ヘブル語である。(12) 死期が迫っていた。イエスは口中渇きをおぼえて、「わたしは、かわく」(ヨハネ一九・二八)と言った。五度目の言葉で末期の水を求めたのである。警備の兵たちはぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口元に差し出した。しかしその時のイエスの欲したものは、末期の水だけではなかったであろう。弟子たちにも裏切られ、逃げられ、民衆からも見放されて、孤独のうちにいま死んでいこうとしている。詩編四二には、「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う」とあるが、これがその時のイエスの本当の「渇き」であったのかもしれない。イエスは兵たちの差し出したぶどう酒を口に含めると、「すべてが終った」(ヨハネ一九・三〇)と六度目のことばをつぶやき、そして、首をたれ、息を引き取った。 マルコ、マタイ両福音書には、イエスが最後に大声を出して、息絶えた、とあるが、それをルカ福音書だけは「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(二三・四六)と最後の七番目のことばを記述している。これは、詩編三五・五節にある「わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました」と同じである。イエスは、自分のたましいを神にゆだねて死んだ。四月七日、午後三時であった。 7. 四月七日金曜日は安息日の前日で、日没とともに過越節の大安息日が始まることになっていたから、十字架上の不吉な死体はできるだけ早く取り除かねばならなかった。しかしそうはいっても、イエスに同情する好意を公衆の面前で示すことは、危険であった。肝心のイエスの弟子たちも、まだ逃げ隠れしたままである。 エルサレムから一五キロほど北西にアリマテアの町があって、その町出身のヨセフという富裕な人物が、見るに見かねて、大胆にも総督ピラトのところへ行き、イエスの死体を引き取るための許可を求めた。ヨセフは、総督によって承認されていたユダヤ衆議会の議員であったが、ひそかにイエスに心服していたので、イエス裁判の評議にも判決にも加わっていなかった。その彼が、自分の地位と財産を利用して、総督に請願したのである。波風が立たないようにするためには、相当の金銭を使うということもあったのかもしれない。 ヨセフの願い出を聞いた総督は、百卒長をよんでイエスが死んだことを確認してから、死体を渡すように命じた。ヨセフはイエスの死体を包むために高価な亜麻布を買い入れ、ゴルゴタの刑場へと急いだ。イエスは十字架から下ろされ、香料を入れた亜麻布で包まれた。それが当時のユダヤ人の埋葬の習慣であった。 ゴルゴタの地は墓の多いところで、イエスの死体は、近くの、岩を掘って作った新しい墓に運ばれ安置された。その入り口には、人が入れないように大きな石を置いた。その埋葬の場所に立ち会っていたマグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスが納められた場所を見届けて帰った。(マルコ一五・四七) 埋葬の翌日は、四月八日の土曜日で安息日であった。ユダヤ人の習慣として、安息日には日没まで、買い物も墓参もできない。マグダラのマリアたちは日が暮れてから、イエスにつける香料などを買い求め、夜明けを待っていた。 一方、この日の大祭司カヤパやユダヤ教の長老たちは、何となく不安で落ち着かなかった。予定通りに信仰の敵、イエスを死罪に処したはずなのに、こころにやすらぎがない。彼らはイエスの生前の預言を急に強く思い出していた。安息日であるにもかかわらず、彼らは集合して、総督ピラトに面会を求めて、つぎのように言った。 長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、「三日の後に自分はよみがえる」と言ったのを、思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと弟子たちがきて彼を盗み出し、「イエスは死人のなかから、よみがえった」と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。(マタイ二七・六三−六四) ピラトは彼らに「番人がいるから、行ってできるかぎり、番をさせるがよい」(マタイ二七・六五)と答えた。そこでカヤパたちは、イエスの墓所へ行き、入り口の石にしっかりと封印をして、ロ−マ総督づきの兵たちをその場に残し、墓の番をさせた。一日が静かに暮れていった。 四月九日、日曜日。安息日が明けて、マグダラのマリアたちは、イエスの墓へ向かった。そこで異変を発見する。彼女たちが墓に着いてから何が起こったか。その状況については、マタイ福音書の記述がくわしい。 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたにこれだけ言っておく」。(二八・二−七) 女たちは恐れながらも大喜びして、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていく。その途中で彼女たちは、はじめて復活したイエスに会った。マタイ福音書が、復活したイエスを描いているのは、一度だけで、つぎのような場面である。 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいただいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるだろう、と告げなさい」。(二八・九−一〇) マルコ福音書では、墓場でイエスの遺体を捜している女たちに、真白な長い衣を着た若者がイエスの復活を告げるところで終わっている。実際にイエスが顕われた記録は、福音書追加部分(十六・九以下)に記載されているだけである。最初はマグダラのマリアに、つぎはエマオへ行く二人の弟子に、それからエルサレムで弟子たち十一人が食卓を囲んでいる時の三回である。 この「真っ白な長い衣を着た若者」というのは、ルカ福音書では、「輝いた衣を着たふたりの者」となっている。この「ふたりの者」は、女たち(ここでは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤ)につぎのように言う。 「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガラリヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。(二四・五−七) これらのことを聞いた女たちは、墓から帰ると、いま聞いたばかりの一切のことを、イエスの弟子たち十一人や、その他の人々に報告した。つまり弟子たちは、ゲッセマネにおけるイエスの逮捕以来、逃げ隠れていたのだが、この時には、ゴルゴタからはそう遠くないところに固まって身をひそめていたことになる。 はじめのうち弟子たちは、女たちからこのような話を聞いても、それを信じようとはしなかった。ペテロ自身も、墓が空になっていることを聞いて、それを確かめるために、一度は走って墓まで行き、中へはいり込んで、亜麻布だけがそこに残されているのを見てはいる。しかし、「事の次第を不思議に思いながら帰って行った」(ルカ二四・一二)だけであった。「エマオへ行くふたりの弟子」の話しは、ルカ福音書では詳細に記述されているが、そこでも弟子たちは、復活したイエスをはじめのうちは認めることができなかった。 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互いに語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互いに語り合っているその話はなんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都で起ったことをご存じないのですか」。 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆の前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当たらないので、帰ってきましたが、そのとき御使があらわれて、「イエスは生きておられる」と告げたと申すのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果たして女たちが言ったとおりで、イエスは見当たりませんでした」。(ルカ二四・一三−二四) 実は、この部分の話は後になって作られた逸話だという説もないわけではない。(13) しかし、これが仮に「逸話」だとしても、このような話が作られるには、それなりの体験的事実があったのではないか。体験的事実があったからこそ、それを核にして、このような話が作られたとも考えられるのである。 イエスは、確かに話しかけてきた。その時のイエスは霊体として現れているのであって、そのイエスが生前通りのことばを使うのは、霊能力の世界では、別に不思議なことではないのかもしれない。ただ、霊体が見えるためには、見るほうにも霊波動を受け止めるだけの能力が必要である。(14) イエスの弟子たちは、おそらくみんな、多少なりともそのような霊能力の持ち主であった。イエスは、自分の復活にまだ気がつかない弟子たちに、その霊能力の弱さを感じ取ったのであろうか。「エマオヘ行くふたりの弟子」の話は、つぎのようなイエスの慨嘆で続けられる。 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モ−セやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った。「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互いに言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」。そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間があつまっていて、「主はほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。(ルカ二四・二五−三五) 8. ルカ福音書では、イエスが現れるのはエマオ途上とエルサレムに弟子たちが集まっていた時の二回であるが、これはマルコ福音書の追加部分(一六・九以下)の場合と同じである。エルサレムでは、復活したイエスは弟子たちの不信仰と心のかたくななことを責めた(マルコ一六・一四)。これについても、その記述は、ルカ福音書のほうがくわしい。エマオから帰ってきた「二人の弟子」が、復活したイエスのことを報告している場所に、そのイエスが姿を現わす。ここではイエスの霊体が単なる霊ではないことが強調されている。 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。そして「やすかれ」と言われた。彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。こう言って手と足とをお見せになった。彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスがここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚のひときれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉はこうであった。すなわち、モ−ゼの律法預言書と詩編とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そしてその名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた(ルカ二四・三六−五一) ヨハネ福音書では、イエス復活の記述はもっとも多く四度におよんでいる。まず墓場でマグダラのマリヤに、エルサレムでは弟子たちの前に二度、さらにガリラヤでペテロらの前にという順序である。 エルサレムでは、最初にイエスが現われた時、十二弟子のひとりで、デドモとよばれているトマスだけはその場にいなかった。そのトマスは復活したイエスが弟子たちの前に現われた話しを聞いてもそれをうけつけようとはせず、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ二〇・二五)と言い切っていた。そのトマスがほかの弟子たちといる時に、イエスは再び姿を現わす。 八日ののちイエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスが入ってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手をみなさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである」。(二〇・二六−二九) このようなイエス復活の記述は、四福音書のほかに、使徒行伝とコリント前書にもある。それらの証言を列挙するまでもなく、イエスはやはり預言通りに復活したのである。すでに見てきたように、マグダラのマリアたちが訪ねてみると、イエスの墓はたしかに空になっていた。これは歴史的事実であるといってよいであろう。ただし、墓が空であったということが、イエス復活の確実な証拠であると言うことはできない。異論もあるし、ためにする中傷もある。マタイ福音書ではつぎのように、ユダヤ教の側では、イエスの弟子たちが遺体を盗み出して甦りという虚偽の宣伝をしている、と風聞を流したことも伝えているのである。 女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、「弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ」と言え。万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。 そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人 の間にひろまっている。(二八・十一−一五) イエスの復活は、だから、あくまでも間接的な証言による事実ということになる。そして、間接的な証言による事実であるがゆえに、復活については、長い歴史の中で常に、否定と反論がつきまとってきた。復活は単なる神話であって、弟子たちの誤解から発した空想の産物にすぎない、とする極論もないわけではない。 (15) しかし、ここで問題になるのは、そのような否定や反論では、あの人間的に弱かったイエスの弟子たちが、イエスの死後、一転して強い信仰を持ち、熱烈な使徒になっていった事実の説明がつかないということである。しばしばイエスから信仰の不十分さを諌められていた彼らが、深く目覚めて一斉に立ち上がり、文字通り生命を賭して師の教えを広めていった「奇跡」についても説明がつかない。 たとえば、周知のように、パウロはかって、熱烈なユダヤ教徒としてパリサイ派に属し、キリスト教徒迫害の先頭に立っていた。その彼がキリスト教徒を迫害するためにダマスコへ向う途中、復活したイエスの声を聞き、あくなき迫害者から使命感に燃えた宣教者へと百八十度の大転向をとげる。この「大転向」は歴史的事実である。そしてそれは、「復活したイエスの声」を聞くことがなければありえなかった。彼もまた、イエス復活の生き証人なのである。ここでは最後に、そのパウロが、イエスの復活に疑問を投げかけた信者たちに対してあたえた、「コリント人への第一の手紙」のことばに耳を傾けておきたい。 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者 が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教もむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。(一五・一二−二〇) パウロがこうして、切々と訴えているように、イエスは間違いなく復活した。それはたしかに、間接的な証言による事実であるかもしれない。しかし、ここでまた繰り返すが、この復活によって、それがあったからこそ、あの弱かったイエスの弟子たちは、はじめて深い信仰に目覚め、捕らえられても、投獄され鞭打たれても、そしてやがて殉教の死を遂げても、決してイエスを信じることをやめようとはしなかったのである。 イエスが処刑されたのが紀元三十年で、弟子たちはその時から命を賭けてイエスの教えを広めはじめ、原始キリスト教の母胎を築きあげていった。そして、そのあと紀元六十四年にはもう、あの歴史に残る皇帝ネロのキリスト教徒迫害が起こっている。イエスの死後わずか三十四年で、ガリラヤに発生したユダヤ教の一分派ともいうべきキリスト教が、遠く離れた帝国の首都ロ−マにまで進出し、皇帝ネロの弾圧の対象となる程までに影響力のある宗教団体になっていたのである。旅行にも通信にも制約があり、マスコミもない当時としては、これは驚くべき現象と言わなければならない。 イエスの教えは、その後も、時代を越え国境を越え、人種・言語・文化の相違をも越えて、燎原の火のごとく世界に広がっていく。ほかならぬその歴史的事実こそ、イエス復活の最大の証しであるといえるのかもしれない。イエスは死に、そして、そのことによって、生きたのである。 = 一九九二年一〇月一五日 = 注 (1) 以下、聖書の引用はすべて、日本聖書協会の『口語訳 聖書』による。訳文の文体にはついていけない部分もある が、そのまま引用していく。 (2) 西暦を作ったのは、スクテヤ人の修道僧ディオニシウス・ エクシグスである。彼が五三三年に、キ リスト紀元のはじま りを確定しようとした時、大きな誤りをおかした。紀元前一年 と紀元一年の間 にゼロ年を挟むのを忘れ、ロ−マ皇帝アウ グストスと次のティベリウス帝との共同統治期間の四年間 を見過ごしてしまったりした。山本七平『聖書の常識』 講談社、一九八五年、二五〇−二五一頁 参照。 (3) 『世界原色百科辞典』小学館、一九七九年、第二巻、 三一二頁。 (4) 山本七平、前掲書、二四四頁。 (5) 山本七平、前掲書、二七二頁。 (6) 「よみがえる」とは、復活であって再生ではない。再生は、 この地上の生にもう一度戻ることで、人間が生まれ、成長し、 老い、死んでいく自然の過程のなかに再びくみ込まれること である。復活 とは、永遠の生への誕生であって、もともとユダ ヤ教の信仰からきたものである。 (7) 新約聖書においては、イエスによる自己の呼称としての 「人の子」がほとんどで、意図的な使用で ある。新約聖書 中、八五回の用例があるが、そのうち八〇回までがイエス 自身を指す。『聖書辞典』新教出版社、一九八九年、 三九〇頁参照。 (8) ユダはイエスの高弟のひとりで、金銭目当ての裏切りと は考えにくい。イエスは弟子のうちとりわ けペテロやヨハネ を愛していた。このペテロとヨハネに対する嫉妬心がユダの イエスに対する愛を 憎しみに変えたのかもしれない。 (9) ヨハネは十八章三節でスペイラの語を使うことにより、 彼らがロ−マ兵士二百人であったことをわれわれに告げて くれる。なぜならスペイラは、コホルスの三分の一にあたり、 コホルスとは六百人編成の駐屯ロ−マ兵分隊を意味したか らである。犬養道子『新約聖書物語』新潮社、一九八九年、 四五四頁参照。 (10) 山本七平、前掲書、二七九頁。 (11) 武本昌三「信仰と救済」『跡見学園短期大学紀要』 第二十七集参照。 (12) これは旧約詩編第二二の冒頭のことばで、絶望のことば なのではない。多くの研究者が指摘するように、これは、神 の壮大な救済の確かさをほめたたえる勝利の賛美歌として 聞き取らなければならない。新井智『聖書・その歴史的事 実』日本放送出版協会、一九八八年、二〇三頁など。 (13) 遠藤周作『キリストの誕生』新潮社、一九八一年、 三九頁。 (14) 五井昌久『聖書講義』白光出版、一九八八年、 五二六頁参照。 (15) たとえば、三田誠広『英雄伝説・イエスと釈迦』講談社 、一九八九年、七二−七五頁。 この著者は、 つぎのように言う。一応、 そのままに引用しておこう。 マグダラのマリヤは、イエスに悪霊を追い払ってもらった女 である。悪霊に憑かれるというのは、 強度のノイロ−ゼのよ うな状態で、イエスの暗示で一時的には回復していても、興 奮したり、幻覚 を見たりする体質は変わらないはずである。 イエスの残酷な処刑の現場に立ち会ったりすれば、ふたた び幻覚を見ることも十分にありうるだろう。 弟子たちが、マリヤの目撃談を信じなかったのは、当然と言 うしかない。名前の記されていない二人の弟子の話も、同様 に、最初は信じられなかった。だが、その種の談話は、噂とな り、人から人へと伝わっていくものだ。死の直前まで、宗教教 団の教祖として大群衆を率いていたイエスにまつわる噂だか ら、時をおかずに広い範囲に伝わり、「復活」の神話が、揺る ぎのない事実として、多くの人に信じられるようになったのか もしれない。 |