[生と死と霊に関する論文]


 Arthur Conan Doyle の Spiritualism について



          ま  え  が  き

  Conan Doyleはいうまでもなくイギリスの推理作家で、あの名探偵の象徴ともいうべき Sherlock Holmes の創作者である。推理小説というジャンルに初めて手を染めたのは Edgar Allan Poe であるといわれるが、それを確立させたのはConan Doyleであった。彼が打ち立てた推理小説のスタイルは、Agatha Christie をはじめとする以後の作家にも受け継がれ、今日に至っている。
  Conan Doyle は1859年5月2日に Edinburgh に生まれ、Edinburgh 大学の医学部で学んだ。1982年に Portsmouth で医師を開業したが、患者が少なく暇であったことが、小説の執筆に力を入れるきっかけになったといわれている。しかし彼には、もう一つ、熱心なspiritualism の研究家としての顔があった。晩年には文字どおり文筆家としての栄光に満ちた経歴さえ捨てて、数多くの国々へ講演旅行に出かけたり、論文を書いたりしてspiritualism の普及のために献身した。彼は1930年7月7日に71才でこの世を去ったが、死亡後も霊界通信で個性存続の証言を行ったりしている。そのspiritualism とはどういうものか。Conan Doyleは何を訴えようとしていたのか。本稿は、彼が使命感に燃えて人類のために広めようとしていたspiritualism の解説のこころみである。
  テキストとししては、Authur Conan Doyle; The New Revelation and the Vital Message: London, Psychic Press Ltd.,1981; を用い、Conan Doyle死後の霊界通信については、Ivan Cooke ed.; The Return of Arthur Conan Doyle: Liss, Hampshire; The White Eagle Publishing Trust, 1985; から引用することにする。*1) Conan Doyle自身の文とことばを再現させるために、この二書からできるだけ多くの要点を(前書を1.1のように 2数字で、後書を 1.1.1 のように 3数字であらわす)、煩をいとわず原文で掲げることにしたい。


   1.

1.1 When I had finished my medical education in 1882, I found myself, like many young medical men, a convinced materialist as regards our personal destiny. I had never ceased to be an earnest theist, because it seemed to me that Napoleon's question to the atheistic professors on the starry night as he voyaged to Egypt: "Who was it, gentlemen, who made these stars?" has never been answered.
   To say that the Universe was made by immutable laws only puts the question one degree farther back as to who made the laws. I did not, of course, believe in an anthropomorphic God, but I believed operations of Nature--a force so infinitely complex and great that my finite brain could get no farther than its existence. (p.12)

  Conan Doyleは1882年に医学生としての課程を終えた。その頃の彼は、他の若い医者と同じく、肉体や生命に関しては確信に満ちた唯物主義的概念を抱いていた。しかしその一方で、信仰的には神の存在を否定することはできないでいた。彼の頭の中には、あのナポレオンのエピソードの一つが消えないで残っていた。かってナポレオンは、エジプトへの航海中、お供をしていた数名の無神論の学者と夕食後の会話を楽しんでいた。夜空には降るような星が無数に瞬いている。その星を指さしてナポレオンは、「ところで諸君、あの星はいったい誰が作ったのかね」と尋ねたというのである。
  夜空に瞬く星を見て、大宇宙の神秘に思いを馳せ、神の存在を考える。これは多くの人が経験することであろう。たとえば内村鑑三も、かって神の存在に疑念をもったとき、「しかしてもし神なしとせば真理なし、真理なしとせば宇宙を支える法則なし、ゆえに我自身の存する限りは、この天この地の我が目前に存する限りは、余は神なしと信ずる能わず」と書いた。*2) しかし、Conan Doyleの場合は、もちろん、強い信仰があったわけではない。
  この大宇宙が不変の法則によって作られている、というのはわからないでもない。しかしそれなら、その不変の法則は誰が作ったのか。この問いかけには無神論者の誰もが答えられないであろう。そのことはConan Doyleにもよくわかっていた。それでも彼には、人間的な容姿をした神の存在などというものをま だ信じ切るまでには至っていなかった。大自然の背後にはおそらく知性を備えた巨大エネルギーが存在する。しかし、それはあまりにも巨大かつ複雑で、ただ存在するということ以上には説明のしようがない。それがConan Doyleにとっても、神なるものに対する理解の限界であった。かって、日本で心身統一法を創見したという中村天風は、一般庶民を教導するためのレトリックなのであろうか、神とか仏とかはないと断じ、それに代わる「宇宙霊」なるものの存在を説いているが、*3) Conan Doyleが漠然と感じていたのも、この宇宙霊のようなものであったのかもしれない。
  しかし、そのConan Doyleも、死後霊界へ移ってからは、確信を持って神について語るようになる。次のようにである。

1.1.1 We pause to consider that power of God which interpenetrates every moment of our life and being; to consider again the wonderful organization which exists and rules the natural kingdoms and the creative life in all nature, forever encouraging and unfolding the life of the plant, bird, beast and man. Consider again that the same creative force which without deviation holds the stars on their courses in the heaven; and which is ever causing birth and life, death and re-birth--in a sequence of life and death which runs like a rhythmic wave throughout all creation. Then ask yourself if you, if any of us can conceive even a tithe of the power of that Infinite Intelligence which creates this indomitable life-urge, and having brought it into being, sustains it through aeons of time.
   Then think again of our wonderful collective human life--indeed of your own individual human lives--of the power which supports you through all things, the power which is bringing to you--and also bringing you through--a series of physical-life experiences which are destined to weave some pattern of spiritual beauty and truth into the warp and woof of your inner being.
   If you could glimpse for one moment those gracious and wholly beautiful beings who live so harmoniously and tranquilly in the celestial spheres; if you could see their beauty of face and form, it would bring some conception of the wondrous inflowing life of the Christ-consciousness which has been working through aeons of time and through many recurring lives eventually to produce beings of such radiance. Let it be remembered that every man is step by step being thus gradually trained and unfolded, so that he also is developing his own illimitable mastership and Godhead.
   Think well, then; for every effort of man's mind, will and spirit, every action, every experience of his from the smallest to the greatest, goes to the creating of such a Man as this. Alas, when such realisation as these illumine one's understanding one is appalled...appalled at the ingratitude and selfishness of one's own inconstant heart! (p.130)

 《ここでちょっと立ち止まって、私たちの人生を生きていく瞬間瞬間を貫いている神の力について考えてみたいと思います。また、自然界およびあらゆる種類の創造的生命体を支配し、植物、鳥、動物、人間の生命を絶えず励まし、育んでくれる素晴らしい組織について考えてみましょう。
  それと同じ創造的な力が、無数の星々をそれぞれの軌道からそれないようにしていることに思いを馳せてみてください。その力はまた、あらゆる創造物の中を、リズムを持った波のように貫いている生と死の流れの中で、誕生と死、死と再生を作り出しているのです。そして自分自身にも聞いてみてください。この何者にも屈することのない生命力を創造し、現実化し、無限の流れの中を維持している無限の知性的存在の力を、ほんのわずかであれ、私たちは想像することが可能であろうかと。
  さらにまた、人間全体が持つ素晴らしい生命のあり方について考えてみてください。あらゆる面であなたを守ってくれている大きな力があるのです。あなたの内面的な生活の縦糸と横糸に、霊的な美しさと真実を織りこむべく運命づけられた一連の物理的な体験をあなたにもたらし、しかも、それを切り抜ける手助けをしてくれるその大きな力についても考えてください。
  天界で調和に満ちた静かな生活を送っている、優雅でこの上なく美しい存在を、あなたがほんの一瞥でもできれば、なんとすばらしいことでしょう。彼らの顔や形の美しさを見ることができれば、悠久の昔から数多くの人生を通して援助の手を差し伸べ、やがて、これほどまでに美しく光輝く存在を生み出したキリスト意識の不可思議な生命の流れがどんなものか、少しはわかるに違いありません。一人一人の人間は、一歩一歩訓練を受けて、花を開きつつある存在であり、やがて、無限の能力を発達させ神に近づいているのだということを、どうぞ忘れないでください。
  それだけに、じっくり考えてほしいのです。人間のこころ、意志、霊の一つ一つの努力、すべての行動、とるに足りない小さな体験から、もっとも素晴らしい体験にいたるまで、すべての体験は、このような神としての人間の実現に役立つことになるのだ、ということを。このように理解することによって、こころに光が射すとき、私たちは驚愕せざるをえません。人間のこころはいかに気まぐれで、感謝することを知らず、そしてなんとわがままなものであるか、と。》

1.2  Right and wrong I saw also as great obvious facts which needed no divine revelation. But when it came to a question of our little personalities surviving death, it seemed to me that the whole analogy of Nature was against it. When the candle burns out the light disappears. When the electric cell is shattered the current stops. When the body dissolves there is an end of the matter. Each man in his egotism may feel that he ought to survive, but let him look, as we will say, at the average loafer--of high or low degree--would anyone contend that there was any obvious reason why that personality should carry on? It seemed to be a delusion, and I was convinced that death did indeed end all, though I say no reason why that should affect our duty towards humanity during our transitory existence. (p.12)

  善と悪についてはどうか。これも確かに重要な問題ではあるが、わざわざ神の啓示を仰がなければならないほどのものではない。それは明々白々のことである。ところが、われわれのこの小さな個性が死後にも存在するかどうかの問題になると、大自然のどこを見渡してもそれを否定する材料しか見あたらないように思える。
  ローソクは燃え尽きると消えてしまう。電池を破壊すると、電流の流れは止まる。物体は溶かしてしまうと、その存在は終わる。人間だけがなぜ、肉体が朽ち果てても生き続けることがあり得るのか。それは一種の妄想ではないのか。そう考えて、Conan Doyleも死はやはりすべての終わりであると信じた。ただ、その死が、生き残っているものたちの執り行う祭祀や供養など、地上生活者のいわば義務として、なぜいつまでも影響を持ち続けているのかは理解できなかった。
 以上が、心霊現象に興味を持ち始めた頃の Conan Doyleの心理状況であった。要するに、死にもっともらしく意味付けするのはナンセンスであると考えており、詐欺的行為で霊媒が当局の摘発を受けたりするのを見聞きすると、まともな人間がなぜあんなものを信じるのだろう、というくらいにしか考えていなかった。
  このうち、善と悪の問題については、Conan Doyleは霊界へ移ってからも、いろいろと所信を送ってきている。次はその一例である。

 1.2.1 Hitherto men have conceived that good must always oppose evil. Nothing is farther from the truth. Evil is always an essential complement to that quality or condition man calls 'good', and without the existence of evil good could not evolve or exist. (p.132)
    Each is the complement of the other; both are necessary to the scheme of creation of the absolute. As certainly as night follows day and night, does evil balance good and good evil. This process of transmutation of good to evil, of evil to good is ever proceeding. In this fashion the great cycles roll onward through aeons of time, their eventual purpose being to help the soul of all humanity to attain perfect balance and perfect harmony. When attained at last, this perfect culmination always heralds yet another putting forth of God's energies for the creation of new worlds destined for the habitation of new races of men. The House of God is thus ever in process of enlargement to make ready for the Day when His children return from their wanderings in time and space.
    These are only some of the reasons which make it utterly impossible for the finite mind ever to comprehend eternity. Again we can only help you by suggesting that eternity is best represented by the great wheel which is never checked, never halted on its course.
    Yes, God is both good and evil; God contains both good and evil within Himself. It is only your conception of evil which is wrong. Therefore you must accept what we say. May we suggest that evil as man sees it is rather man's thought-concept of evil than its real self? (pp.137-138)

  《これまでのところ、人々は、善は常に悪と対決しなければならないものと考えてきました。しかし、 これほど間違った考え方はありません。悪は、人間が”善”と呼ぶ資質ないしは状態を補足する大事なものであり、悪がなければ善は進化することも存在することもできません。 
  善と悪はそれぞれがお互いを補っているのであって、絶対なるものの創造計画のためには、どちらも必要なのです。昼のあとに夜が続き、夜のあとに昼がやってくるのと同じように、悪は善のバランスをとり、善は悪のバランスをとるのです。善から悪、悪から善への変質の過程は絶え間なく進行していま す。
  このようにして、善と悪の巨大な輪が無限ともいえるほどの時間にわたって回転を続けているわけで すが、その究極の目的は、すべての人間の魂が完全なバランスと調和を達成するように手助けすること です。この目的が達成されると、新しい種類の人間が住むことになる新しい世界の創造に向けて、神の エネルギーが 放出されます。このように神の家は、常に拡大することによって、神の子供たちが時間 と空間の中をさまよった後に帰ってくる日のために備えているのです。
  永遠とは何なのか、限りある人間の頭でそれを理解することができないのは、このような理由もある からです。永遠とはけっして止まることなく回り続ける、巨大な車輪であると考えれば、一番わかりや すいのではないでしょうか。
  そうです、神は善と悪の両方なのです。神自身のなかに善と悪を含んでいるのです。あなた方が悪について持っている概念が間違っているだけのことです。したがって皆さんは、私たちの言葉を受け入れ なければなりません。人間が悪と見ているものは、実際には悪そのものではなく、人間が悪について抱 いている概念であると考えてみてください。》

1.3  This was my frame of mind when Spiritual phenomena first came before my notice. I had always regarded the subject as the greatest nonsense upon death, and I had read of the conviction of fraudulent mediums and wondered how any sane man could believe such things. I met some friends, however, who were interested in the matter, and I sat with them at some table-moving seances. We got connected messages. I am afraid the only result that they had on my mind was that I regarded these friends with some suspicion. (p.12)

  そんな折りにConan Doyleは、たまたま、その「あんなもの」に関心を持っている複数の知人に出会うことになる。そして誘われるままに交霊実験に参加した。その時にはテーブル通信が行われた。*4) 彼の目の前で、確かに、どうやら意味の通じるメッセージが綴られた。それでもその交霊会は、結果的にはConan Doyleの猜疑心を掻き立てることにしかならなかった。
  メッセージは時として長文のものが綴られることがあり、偶然に意味が通じるようになるということは、とても考えられない。そうすると、誰かがテーブルを操っていたことになる。その誰かとは誰か。テーブルの周りにいたのはConan Doyleと彼の知人たちだけである。当然Conan Doyle以外の知人の誰かということになる。しかし、その知人たちは、どう間違ってもConan Doyleを騙すような人たちではない。かといって、あれだけのメッセージが意識的操作なしで綴られるわけはない。混乱しながらも猜疑心だけはどうしても拭い去ることができなかった。

1.4  About this time--it would be in 1886--I came across a book called The Reminiscences of Judge Edmunds. He was a judge of the U.S. High Courts and a man of high standing. The book gave an account of how his wife had died, and how he had been able for many years to keep in touch with her. All sorts of details were given. It seemed to me an example of how a hard practical man might have a weak side to his brain, a sort of reaction, as it were, against those plain facts of life with which he had to deal. Where was this spirit of which he talked? Suppose a man had an accident and cracked his skull his whole character would change, and a high nature might become a low one. With alcohol or opium or many other drugs one could apparently quite change a man's spirit. The spirit then depended upon matter. These were the arguments which I used in those days. I did not realize that it was not the spirit that was changed in such cases, but the body through which the spirit worked, just as it would be no argument against the existence of a musician if you tampered with his violin so that only discordant notes could come through. (p.13)

  その頃、それはConan Doyleの記憶では多分1886年のことであるが、彼は偶然、『エドマンズ判事の回想録』(The Reminiscences of Judge Edmunds)という本を手に入れた。著者のエドマンズ氏は、 当時、ニューヨーク州最高裁判所の判事で、高い人望を得ていたが、同時に心霊現象の解明に意欲を燃やしていた心霊研究家でもあった。*5)
  当初は、心霊現象をトリックとみなして、それを暴く目的で交霊会に参加したのであるらしい。しかし、どのように考えても真実としか思えない現象を体験させられて、その真相解明に乗り出したのがspiritualismに深入りするきっかけとなった。だが、判事という仕事がら、世間の眼はやがて批判的になり、「エドマンズ判事は、裁判の判決のことまで霊能者にお伺いをたてている」といううわさまで聞かれるようになる。彼はそれを弁明するために、「世に訴える」Appeal to the Publicという釈明文を新聞紙上に掲げたりもしたが、批判はおさまらず、結局、法曹界から身を引いて自由な立場でspiritualismの普及に努めたという人物である。
  そのエドマンズ氏の本の中に、亡くなった夫人が交霊会に出てきて、エドマンズ氏と語り合うということが長期間にわたって続いたという話が紹介されていた。その内容は実に細かく具体的で、Conan Doyleは大いに興味をそそられはしたが、それでもまだ、spiritualismに対する懐疑的な態度は崩れないでいた。これは、どんなに有能で実務的な人間でも一面では弱点を持ち合わせている好例であろうと、Conan Doyleは考えた。つまりエドマンズ判事の場合は、日頃のどろどろした人間関係を裁く仕事の反動として、そういう霊的なものへの関心が誘発された、と勝手に解釈していたのである。
 そもそも、エドマンズ氏のいう霊とは、いったい人体のどこにあるというのであろうか。交通事故で頭蓋骨を強打すると、性格が一変してしまうことがある。才気煥発だった人が急に愚鈍になったりもする。またアルコールや麻薬その他に中毒すると、性格が変わってしまう。このように霊的なものもやはり物質に左右されてしまうのだ。はじめのうちは、Conan Doyleもそのように割り切っていた。実際に変わるのは霊ではなくて、その霊が操っている肉体器官なのだという認識は彼にはまだなかった。たとえば、バイオリンの名器も、弦が切れてしまえばいかなる名手も音が出せなくなる。それをもってその名手も死んでしまったことにならないのと同様である。

1.5  I was sufficiently interested to continue to read such literature as came in my way. I was amazed to find what a number of great men--men whose names were to the fore in science--thoroughly believed that spirit was independent of matter and could survive it. When I regarded Spiritualism as a vulgar delusion of the uneducated, I could affect to look down upon it; but when it was endorsed by men like Crookes, whom I knew to be the most rising British chemist, by Wallace, who was the rival of Darwin, and by Flammarion, the best known of astronomers, I could not afford to dismiss it. (pp.13-14)

  その後、Conan Doyleは、spiritualism関係の本を、片っ端から読み始めるようになった。そして驚いたことは、実に多くの学者、特に科学界で権威をもった人たちが、霊と肉体とは別個の存在であり、死後にも存在し続けることを完全に信じ切っていることであった。無教育な人間が信じているというのであれば、それこそ無教育のなせる業であると冷笑してもおられようが、英国第一級の化学者であるWilliam Crookes、Darwinのライバルである博物学者のAlfred Wallace、世界的な天文学者のCamille Flammarion などといったそうそうたる学者によって支持されているとなると、簡単に見過ごしてしまうわけにはいかなかった。その大学者の彼らはどのようにspiritualismと関わってきたのか、ここでちょっと、その足跡をたどっておくことにしたい。*6)

  William Crookes は、タリウム元素の発見、クルックス放電管の発明などで世界的な名声を博した純粋に科学畑の人物である。1863年に英国学士院会員に選ばれ、1897年にナイト爵位を受けたほか、英国学士院をはじめとして化学協会、電気技師協会、英国学術協会の会長を歴任したりしている。
  そのCrookes が心霊現象に関心を持ち始めたのは1869年のことであった。その重大さを予感してのことであろうか、1871年に本格的な調査・研究に入ることを宣言する一文を発表した。「近代科学の光に照らしてspiritualism を検証する」と題したものである。その中で彼は次のように述べた。

  まだ何一つ理解していない課題について、見解だの意見だのといった類のものを私が持ち合わせているはずがない。いったいどういう現象が起きるのか、どういう現象は起きないのかといったことに関し ては、一切の先入観を持たずに研究に入りたい。が、同時に、油断なく判断力を働かせた上で間違いな いと確認した情報は、広く世間の知識人にいつでも提供するつもりである。なぜなら、われわれ人間は まだ知識のすべてを手にしてはおらず、物理的エネルギーについても、その深奥を研め尽くしていない と信じるからである。

  しかし、この一文は、次のように締めくくられていた。「科学的手段を次々に採用していけば、spiritualism の愚にもつかない現象を、魔術と魔法のはきだめに放り込んでしまう学者が続出することになろう。」 一応世間体を気にして、こういう書き方をした、というのでなければ、Crookes もこの段階では、何かありそうだが、まだ信じ切れない、むしろ、その虚偽の仮面をはぎとることで自分の疑問を解決しておきたい、という気持ちもあったのかもしれない。
  当時のジャーナリズム界は、Crookes のこの声明を大歓迎し、これですべてが片づく、と確信した。ところが、その期待は見事に裏切られることになる。公表された実験報告の内容が、完全に百パーセント、心霊現象を肯定するものであったからである。英国学士院は失望して、その報告記事の掲載を拒否した。しかし、別の学術季刊誌 Quarterly Journal of Science がそれを連載し、後に Researches in the Phenomena of Spiritualism という単行本になって出版された。この本は一躍有名になり、以来、心霊現象の科学的研究は Crookes に始まるといわれるようになった。Crookes より27才下であったConan Doyleは、そのような Crookes の研究についてもよく知っていたのである。
  Alfred Wallace の場合は、早くから心霊現象に興味を持ち、1878年には Miracles and Modern Spiritualism を出版している。Conan Doyleがまだ医学生であった頃である。彼のspiritualism 研究は、高名な学者としてはあるまじきこととして、所属の博物学会からも強い批判を浴びていたが、それに対して彼は、この本のまえがきのなかで、つぎのように述べていた。

  学会の知友が、私の妄想だと決めつけているもの(spiritualism)について、みんながその理解に大い に戸惑っていること、そしてそのことが、博物学の分野で私がもっていた影響力に致命的なダメージを 与えたと信じていることを、私は十分に承知している・・・
  私は14才の時から、進歩的思想を持つ兄と起居を共にするようになり、その兄の感化を受けて、科学に対する宗教的偏見や教派的ドグマに影響されないだけの確固としたものの考え方を身につけること になった。そのために、心霊研究というものを知るまでは、純然たる唯物的懐疑論者であることに誇り と自信を持ち、ボルテールとかシュトラウス、あるいは今なお尊敬しているスペンサーといった思想家 にすっかり傾倒していたのである。したがって、初めて心霊現象の話を耳にした時も、唯物論で埋め尽 くされていた私の思想構造の中には、霊とか神といった、物質以外の存在を認める余地はまるでなかったといってよい。
  しかし、事実というのは頑固なものである。知人宅で起きた原因不明の小さな心霊現象がきっかけと なって、生来の真理探求心が頭をもたげ、どうしても研究してみずにはいられなかった。そして、研究 すればするほど現象の実在を確信すると同時に、その種類も多種多様であることがわかり、その示唆するところが、近代科学の教えることや、近代哲学が思索しているものから、ますます遠ざかっていくこ とを知ったのである。
  わたしは「事実」という名の鉄槌に打ちのめされてしまった。その霊的解釈を受け入れるか否かの問題より前に、まずそうした現象の存在を事実として認めざるを得なかった。前に述べたように、当時の 私の思想構造のなかには、そうしたものの存在を認める余地はまるでなかったのであるが、次第にその余地ができてきた。それは決して先入観や神学上の信仰による偏見からではない。事実を一つ一つ積み重ねていくという絶え間のない努力の結果であり、それよりほかに方法はなかったのである・・・・・

  残りの一人、Camille Flamarionは1842年にフランスで生まれた。3人のなかでは一番若く、Crookes より10才、Wallace よりは19才下である。彼は早くから心霊現象に関心を持ち、1865年には Unknown Natural Forces と題する本を出版している。しかし彼は、この時点ではまだ、あくまでも物理的エネルギーの作用と考えており、霊の実在は信じていなかった。心霊現象も何とか理論をこじつけて説明しようとしていた。その後、イタリア人女性霊媒の Eusapia Paladinoを自宅に呼んで実験会を催したりしていくうちにだんだんと霊魂説を意識し始めるようになる。そして、他界する2年前、1923年には心霊研究協会(Society for Psychical Research) の会長に就任したが、その時には霊魂説を完全に認めていた。会長就任の講演では、彼はこう述べている。

  人間は霊の属性である未知の能力をもっており、複体(肉体と霊体をつなぐ接着剤のようなもの)と いうのを所有している。思念は肉体を離れて存在することができるし、霊的波動が大気を伝わり、われ われはいわば見えざる世界の真っ直中に生きているようなものである。肉体の崩壊後も霊的能力は存続 する。幽霊屋敷というのも確かにある。死者がこの世に出現することは、例外的で希ではあるが事実である。テレパシーは、生きている者どうしだけでなく、死者と生者との間にも可能である。

1.6  It was all very well to throw down the books of these men which contained their mature conclusions and careful investigations, and to say "Well, he has one weak spot in his brain," but a man has to be very self-satisfied if the day does not come when he wonders if the weak spot is not in his own brain. For some time I was sustained in my scepticism by the consideration that many famous men, such as Darwin himself, Huxley, Tyndall and Herbert Spencer, derided this new branch of knowledge; but when I learned that their derision had reached such a point that they would not even examine it, and that Spencer had declared in so many words that he had decided against it on a priori grounds, while Huxley had said that it did not interest him, I was bound to admit that, however great they were in science, their action in this respect was most unscientific and dogmatic, while the action of those who studied the phenomena and tried to find out the laws that governed them, was following the true path which has given us all human advance and knowledge. So far I had got in my reasoning, so my sceptical position was not so solid as before. (p.14)

  これらの高名な学者の調査研究や著作に、Conan Doyleが大きな関心を抱いていたのは間違いない。もとよりそれらが、いくら著名な学者による徹底した研究の末の結論であるとはいえ、「可哀想に、この人たちも脳に弱いところがあるのだな」と、一方的に軽侮のまなざしを投げかければ、それはそれですむのかもしれない。だが、もしその「脳の弱さ」が、本当は彼らにではなくて、ほかならぬ自分自身にあるのだとしたら、ということまでは当時のConan Doyleには思い浮かばなかったようである。彼はまだしばらくの間は、spiritualism を否定する立場の学者たち、たとえば、 Darwin, Huxley, Tyndall, Spencerなどの名前をいい口実にしては、懐疑的立場をとり続けていた。
  ところが、実はそうした否定論者は、ただspiritualism を嫌っているだけで、まるで調査も研究もしたことがないことがわかってくる。Spencerはいわゆる常識論で否定しているにすぎないこと、そして、Huxleyに至っては、興味がないというだけの理由しか持ち合わせていなかったのである。Conan Doyleは、こんな態度こそまさに非科学的であると思わざるを得なかった。非難は受けていても、みずから調査に乗り出し、あくまでも研究者としての真理追究の手をゆるめなかった人たちこそ正しい学者の態度であると、当然のことながら考えた。この時点で、Conan Doyleは、spiritualismに一歩近づいたといえる。彼の懐疑的態度は、以前ほど頑固なものでなくなっていた。

1.7  Then there came an incident which puzzled and disgusted me very much. We had very good conditions one evening, and an amount of movement which seemed quite independent of our pressure. Long and detailed messages came through, which purported to be from a spirit who gave his name and said he was a commercial traveller who had lost his life in a recent fire at a theatre at Exeter. All the details were exact, and he implored us to write to his family, who lived , he said, at a place called Slattenmere, in Cumberland. I did so, but my letter came back, appropriately enough, through the dead letter office. To this day I do not know whether we were deceived, or whether there was some mistake in the name of the place; but there are the facts, and I was so disgusted that for some time my interest in the whole subject waned. It was one thing to study a subject, but when the subject began to play elaborate practical jokes it seemed time to call a halt. If there is such a place as Slattenmere in the world I should even now be glad to know it. (p.15)

  そのようなときに、Conan Doyleは何人かの仲間と開いた交霊会で、不可解な経験をする。しかもそれは、彼にまたspiritualismにたいする懐疑を抱かせる性質のものであった。
  会場では出席者の意志とは無関係に、長くて細かい内容のメッセージが送られてきた。発信者は自分の名前を綴り、かつてこの世に生きていた時には、商品販売で旅まわりをしていてと告げた。ところが彼は、ついこの間の Exeter 市の劇場の火事に巻き込まれて焼死してしまったのだという。ついては Cumberland 州の Slattenmereというところに自分の家族が住んでいるので、このことを知らせたやってほしい、という依頼であった。メッセージで伝えてきた火事の状況などは、正確に事実と一致する。そこでConan Doyle はさっそく手紙をしたためて、いわれたとおりの住所へ発送した。しかしその手紙は、配達不能の付箋がつけられて、郵便局から送り返されてきたのである。住所の聞き間違いであったのか、それとも騙されたのか、Conan Doyleにもわからなかった。

1.8  I was in practice in Southsea at this time, and dwelling there was General Drayson, a man of very remarkable character, and one of the pioneers of Spiritualism in this country. To him I went with my difficulties, and he listened o them very patiently. He made light of my criticism of the foolish nature of many of these messages, and of the absolute falseness of some. "You have not got the fundamental truth into your head," said he. "That truth is, that every spirit in the flesh passes over to the next world exactly as it is, with no change whatever. This world is full of weak or foolish people. So is the next. You need not mix with them, any more than you do in this world. One chooses one's companions. But suppose a man in this world, who had lived in his house alone and never mixed with his fellows, was at last to put his head out of the window to see what sort of place it was, what would happen? Some naughty boy would probably say something rude. Anyhow, he would see nothing of the wisdom or greatness of the world. He would draw his head in thinking it was a very poor place. That is just what you have done. In a mixed seance, with no definite aim, you have thrust your head into the next world and you have met some naughty boys. Go forward and try to reach something better." That was General Drayson's explanation, and though it did not satisfy me at the time, I think now that it was rough approximation to the truth. (pp.15-16)

  その当時彼は、Southsea で医院を開業していた。たまたまその町に、Drayson 将軍という傑出した人物が住んでいて、その将軍はイギリスのspiritualismでは先駆者の一人といわれていた。Conan Doyleは、ある日、将軍を訪ねて自分の迷いを打ち明けた。将軍はじっと彼のことばに耳を傾けたあと、次のように言った。

 《 要するに人間は、この世からあの世に行っても性格は変わらない。だから、あの世にもくだらない人 間は沢山いるのである。ちょっとくらい小窓から首を出してのぞいてみたぐらいでは、霊界のことはわからないだろう。交霊会でも、きちんと目的を持ってもっと高いものを求めなければならないのだ。》

  ここで、その当時のConan DoyleやDrayson将軍を取り巻く心霊主義研究の環境について少しふれておきたい。
  当時の心霊主義者の大部分が軽信ということで悪名高かったため、比較的慎重な心霊研究者も、科学サークルの間で怒りを買ったり、懐疑を抱いていた科学者に研究を認めてもらえないことがしばしばであった。一部の例外を除いて、心霊研究者たちも複雑で厳しい研究という領域に侵入する素人とみなされていたのである。
  当時、英国の科学は、素人紳士の手を離れて学問・産業の両分野で正統な「職業」になろうとしていた。そのため、正統な訓練を受けた科学者は心霊協会のような団体が不愉快であったことは容易に想像できる。もちろん、心霊主義と心霊研究が、近代科学がようやく身を引き離した魔術とオカルトを再び導入するのではないかという恐れもあったろう。さらに、彼らのような人々を認めると科学の平俗化がおこり職業的科学者の研究がおとしめられてしまうという懸念もあったかもしれない。
 心霊主義者の科学が実験機器よりも旅芸人の娯楽実演に近いとみなされたのも無理はないことである。実際、心霊主義者たちは誰にでも実演可能な科学、その発見が説教会の聴衆にも容易に理解できる科学を信じた。19世紀後半の英国の科学者が、英国の専門的科学教育の機会拡大に誇りを抱いていたのとは対照的に、心霊主義者たちは、選ばれた少数者の科学という考えを強く拒否したのであった。
  それゆえに、心霊主義者から科学研究者と認められたものを、職業的科学者が拒絶するという事態は許しがたかった。1876年、Spiritualist Newspaper誌は科学者の心霊主義批判を攻撃して、「英国の科学者は、物理学を基盤とする偏狭な僧侶制に足をふみいれつつある好例である」と述べた。このような心霊主義者の反撃に加わっていたのが、この Drayson 将軍であった。1884年、彼はこう述べている。

  《ほんの二、三週間ぞんざいに研究しただけで、どうして科学者は、自分よりはるかに包括的で厳しい 研究を重ねた研究者をないがしろにしてまで、喜々として心霊主義を酷評できるのであろうか。このよ うな人々の精神が、事実の蒐集・検証を経ずして理論の組立を許すのであれば、どんな科学の分野であっても、果たしてそのような人々に結論を出す能力があるのであろうか。》*7)

1.9  About 1891, I had joined the Psychical Research Society and had the advantage of reading all their reports. The world owes a great deal to the unwearied diligence of the Society, and to its sobriety of statement, though I will admit that the latter makes one impatient at times, and one feels that in their desire to avoid sensationalism they discourage the world from knowing and using the splendid work which they are doing. (p.21)
   From this period until the time of the War 1 continued in the leisure hours of a very busy life to devote attention to this subject. I had experience of one series of seances with very amazing results, including several materialisations seen in dim light. As the medium was detected in trickery shortly afterwards I wiped these off entirely as evidence. (p.23)
   But the War came, and when the War came it brought earnestness into all our souls and made us look more closely at our own beliefs and reassess their values. In the presence of an agonized world, hearing every day of the deaths of the flower of our race in the first promise of their unfulfilled youth, seeing around one the wives and mothers who had no clear conception whither their loved one had gone to, I seemed suddenly to see that this subject with which I had so long dallied was not merely a study of a force outside the rules of science, but that it was really something tremendous, a breaking down of the walls between two worlds, a direct undeniable message from beyond, a call of hope and of guidance to the human race at the time of its deepest affliction. The objective side of it ceased to interest, for having made up one's mind that it was true there was an end of the matter. The religious side of it was clearly of infinitely greater importance. (p.25)

  Conan Doyleは1891年に心霊研究協会に入会した。この協会は、心霊研究を目的としてバレット卿の提唱により1882年2月20日に設立されたものである。研究の対象及び目的は、つぎのように要約され、それらの結果は「英国心霊研究協会雑誌」(S.P.R.誌)上に定期的に報告されている。

 1. 一般に認められている知覚様式とは別に、ある人の心が他の人へ及ぼす
  影響について、その性質と 範囲の調査をすること。
 2. 痛みに対して無感覚といわれる、催眠術やメスメリック的入神の形態、霊
  視および類縁の現象を研 究すること。
 3. 敏感者とよばれる生体に関するライヘンバッハの研究を再検討視、また、
  そのような生体が、既知 の感覚器官のもっている高度な感覚を超えた知
  覚力を有するか否かを研究すること。
 4. 臨終時の幻に関する、あるいは幽霊屋敷の問題に関する有力な報告を
  厳密に調査すること。
 5. 一般にspiritualism的といわれている種々の物理的現象を調査し、それら
  の原因と一般法則を発見す ること。
 6. 以上に関係する現存の資料を蒐集し照合すること。

  現在までに、事実として確証が得られている事柄は、@ 思念(思想、思考)伝達の可能性、A 死と幻との関連性、B 催眠状態の存在、といわれている。死後個性の存続の問題については、協会としては集合的見解は出さないという態度を堅持してきている。協会発足当初は、スピリチュアリストと研究者は等しく委員会で代表を送って運営していたが、種々の理由、特に死後個性の存続を認めるか否かが問題となって以来、協会は一時分裂状態になってしまったことがあったが、そのことが一因となっているようである。初代の会長はシジウイック教授で、その後の会長としては、バルフォア教授、ジェイムス教授、クルックス卿、マイヤース、ロッジ卿、バレット卿、リシェ教授、ベルグソン教授等々、世界的な碩学が名をつらねている。*8)
  その心霊研究協会の会員になってからは、Conan Doyleは、協会が所有する調査研究の報告書を次から次へと読んでいった。やがて1914年に第一次世界大戦が始まり、それが1918年に終わる頃まで、Conan Doyleは心霊現象の研究に余暇のすべてをつぎ込んでいった。交霊会にも引き続きしばしば参加して、驚異的な現象をいくつも見ていくことになる。一方、巷では、戦争の悲劇に嘆き悲しむ人々が増えていた。毎日のように、夢多き青春が次々に戦場で散らされていく現実の中で、それら若者の魂がどこへいってしまうのかもわからず、泣き崩れている戦死者の妻や母親たちの姿をみているうちに、Conan Doyle のspiritualism にたいする考え方は、やがて、少しずつ変わっていった。このことについて、後にConan Doyleは、霊界からの通信で次のように述懐している。

1.9.1  During the many years I spent in spreading the gospel of Spiritualism my dominant thought was to bring comfort to the bereaved. As a man filled with warm human love for my fellow creatures, having a family which I adored, I sympathised intensely with those left lonely. My dominant thought was to give assurance o those poor folk that those whom they had loved and lost were neither dead nor far away, but so close that they could commune with them, and that they were living on in a condition of peace and joy. Don't you understand that to me at that time this seemed so urgent and vital a realisation that all else in comparison faded into insignificance? (p.153)

  《私が長い年月にわたって心霊主義の福音を広げようとしていたとき、私の主な関心事は愛する人を亡 くした人々に慰めをもたらしたいということでした。同胞に対する人間的な暖かい愛に満ち満ちている 一人の人間として、私は死者の後に残された人々に心から同情しました。
  そうして悲しんでいる気の毒な人たちに、彼らが失った人々は死んだのでもなければ、どこか遠くに行ってしまったのでもなく、非常に近いところにいて、連絡をとることさえできるのだということ、そ して、彼らはやすらぎと喜びの中で生活しているのだとわかってもらうこと、それが私の最大の関心事 だったのです。当時の私としては、これは本当に大切な悟りとでもいうべきもので、これに比べれば、 他のことは、さほど重要ではなかったということがおわかりいただけるでしょうか。》

  そしてさらに繰り返して、愛する家族は霊界にいて今も生きている。決して死んではいない。だから、もし霊界の家族と接触しようと思えば、お互いに連絡をとることもできるのだということを、熱心に付け加えている。

1.9.2  Can you think of anything more joyful, more comforting than to find that soul again, to know that a lost father, mother, husband, wife, brother, sister, or child, can still commune across the gulf? It is true, very wonderfully true! (p.154)

 《 愛する者との再会ほど喜びに満ち、こころを慰めてくれるものがあるでしょうか。いまは亡き父、母、 夫、妻、兄弟、姉妹、子供と再びこの世とあの世との壁を越えてこころを通わせられるということを知 るほど、こころからの喜びがあるでしょうか。それは本当のことなのです。素晴らしいことに本当のこ となのです。》

1.10  It was the message not the signs which really counted. A new revelation seemed to be in the course of delivery to the human race, though how far it was still in what may be called the John-the-Baptist stage, and how far some greater fulness and cleaness might be expected hereafter, was more than any man can say. My point is, that the physical phenomena which have been proved up to the hilt for all who care to examine the evidence, are in themselves of no account, and that their real value consists in the fact that they support and give objective reality to an immense body of knowledge which must deeply modify our previous religious views, and must, when properly understood and digested, make religion a very real thing, no longer a matter of faith, but of actual experience and fact. (p.26)

  大切なことは、物質科学が未だに知らずにいるエネルギーが存在するのかしないのか、の問題ではなく、この世とあの世との間の壁を突き崩し、人類に用意された霊界からの希望と導きの呼びかけに答えることである。心霊現象そのものが大事なのではない。現象そのものの真実性は、真剣に spiritualism に取り組んできた人には一点の疑念の余地もないまでに立証されているが、それ自体よりも、その現象が示唆しているものが、それまでの人々の人生観を根底から覆し、生命の死後存続という宗教的課題が、もはや信仰の領域のものではなく、確固たる客観的事実となってしまうに違いないということが大切なのである。Conan Doyle の関心は次第に霊界からの啓示に向かっていった。
  このConan Doyleが事実として確信していた死後の存続問題に、初めて、宗教、哲学以外の実証的方法を用いて取り組んでいたのが、心霊研究協会を頂点とする心霊科学であった。心霊科学の方法は、心霊現象の収集と霊能者による実験である。これは基本的には現在も変わっていない。実験装置がエレクトロニクス化したり、霊能者の概念が拡がったり、数量化が取り入れられたりしただけである。しかし、この Conan Doyle の時代の研究で重要なのは、資料の収集もさることながら、霊媒による死者との交流の記録である。Conan Doyle自身、この霊界通信に深くのめり込んでいった。*9)


   2.

2.1  The physical basis of all psychic belief is that the soul is a complete duplicate of the body, resembling it in the smallest particular, although constructed in some far more tenuous material. In ordinary conditions these two bodies are intermingled so that the identity of the finer one is entirely obscured. At death, however, and under certain conditions in the course of life, the two divide and can be seen separately. Death differs from the conditions of separation before death in that there is a complete break between the two bodies, and life is carried on entirely by the lighter of the two, while the heavier, like a cocoon from which the living occupant has escaped, degenerates and disappears, the world burying the cocoon with much solemnity but taking little pains to ascertain what has become of its nobler contents. (p.100)

  Spiritualism思想の根幹をなす個性の死後存続を具体的に理解する上で基本となるのは、死後も肉体に相当する何らかの身体をそなえているという事実である。材質は肉体よりもはるかに柔軟であるが、細かい部分まで肉体と同じであるという。
  むろんそれは地上時代から肉体とともに成長していたもので、肉眼では見えないが、肉体と同じ形態を持ち肉体と完全に融合して存在している。けれどもこの両者は、肉体の死に際してーーあるいは条件次第では生きている間でもーー離ればなれになり、両者を同時に見ることもできる。生前と死後の違いは、死後は両者を結びつけている生命の糸が切れて、それ以後は霊的身体だけで生きていくという点である。肉体は、あたかもさなぎが出ていったあとの抜け殻のように、やがて分解して塵となって消える。これまでの人類は、その抜け殻を手厚く葬ることに不必要なほどの厳粛さを求め、肝心の”成虫”のその後の事情については、実にいい加減な関心しか示さなかった。

2.2  It is a vain thing to urge that science has not admitted this contention, and that the statement is pure dogmatism. The science which has not examined the fact has, it is true, not admitted the contention, but its opinion is manifestly worthless, or at the best of less weight than that of the humblest student of psychic phenomena. The real science which has examined the facts is the only valid authority, and it is practically unanimous. I have made personal appeal to at least one great leader of science to examine the facts, however superficially, without any success, while Sir William Crookes appealed to Sir George Stokes, the Secretary of the Royal Society, one of the most bitter opponents of the movement, to come down to his laboratory and see the psychic force at work, but he took no notice. What weight has science of that sort? It can only be compared to that theological prejudice which caused the Ecclesiastics in the days of Galileo to refuse to look through the telescope which he held out to them. (pp.100-101)

  そのことの責任をいまさら科学の怠慢ときめつけてもしかたのないことだろう。しかし、肉体の死をもって生命の終わりとする唯物的生命観は、宗教以上に無謀な独断であった。決して少ないとはいえない不思議な現象をまじめに調査しようとはしない科学が、死後の存続の事実を認めようとしないのは当然のこととしても、それに代わって科学が主張する説は、お粗末きわまるものばかりである。
  その科学界にあって思い切って調査と研究に手を染めた学者たちは、事実上、全員一致で霊魂説を主張している。ウィリアム・クルックス博士は、そのうちの一人である。そのクルックス博士の研究報告書は、前述(1.5)のように、王立協会(英国学士院)の事務局長ジョージ・ストークス卿が協会の機関誌に掲載することを拒否した。博士は、ぜひ一度自分の実験室へ来てよく見ていただきたいと要望したが、それに応じることなく、拒否の態度を固持した。
  Conan Doyle自身も、ある科学界の大御所に検証を願い出たことがあるが、応じてはもらえなかった。こうした頑迷な態度をとる科学界にどれほどの存在価値があるのであろうか。ちょうどガリレオの時代のローマ・カトリック教会が、ガリレオの差し出した望遠鏡をのぞくのを拒否したのと同列である。

2.3  It is possible to write down the names of fifty professors in great seats of learning who have examined and endorsed these facts, and the list would include many of the greatest intellects which the world has produced in our time--Flammarion and Lombrose, Charles Richet and Russel Wallace, Willie Reichel, Myers, Zollner, James, Lodge, and Crookes. Therefore the facts have been endorsed by the only science that has the right to express an opinion. I have never, in my thirty years of experience, known one single scientific man who went thoroughly into this matter and did not end by accepting the Spiritual solution. Such may exist, but I repeat that I have never heard of him. Let us, then, with confidence examine this matter of the "spiritual body," to use the term made classical by Saint Paul. (p.101)

  ざっと調べただけでも、まじめに心霊現象を検証して、その実在を是認した学者は50人を超える。これらの調査結果を公表する権利を堂々と行使した学者たちによって、いまや心霊現象の真実性は完全に実証されたと断言してさしつかえない。しかも、過去30年にわたるConan Doyle自身のspiritualism 研究で確認した限りでいえば、正面からこの分野の研究に取り組んで最終的に霊魂説を受け入れなかった学者は一人もいなかったのである。もちろんよく探せば、そういう人もどこかにいたのかも知れない。しかし、Conan Doyle自身はそういう人のことを耳にしたこともなかった。Conan Doyle が聖パウロのいう霊的身体に関する霊界通信を自信をもって分析していこうとするのは、こうした真実に基ずく事実が背景にあるからである。

2.4  When a man has taken hashish or certain other drugs, he not infrequently has the experience that he is standing or floating beside his body, which he can see stretched senseless upon the couch. So also under anaesthetics, particularly under laughing gas, many people are conscious of a detachment from their bodies, and of experiences at a distance. I have myself seen very clearly my wife and children inside a cab while I was senseless in the dentist's chair. Again, when a man is fainting or dying, and his system in an unstable condition, it is asserted in very many definite instances that he can, and does, manifest himself to others at a distance. These phantasms of the living, which have been so carefully explored and docketed by Messrs. Myers and Gurney, run into hundreds of cases. Some people claim that by an effort of will they can, after going to sleep, propel their own doubles in the direction which they desire, and visit those whom they wish to see. Thus there is a great volume of evidence--how great no man can say who has not spent diligent years in exploring it--which vouches for the existence of this finer body containing the precious jewels of the mind and spirit, and leaving only gross confused animal functions in its heavier companion. (pp.101-102)

 体外遊離という現象がある。気がつくと自分の肉体の側に自分が立っていたり、すぐ上のあたりを漂っていたりする。また、自分の知らない間にもう一人の自分が遠く離れたところへ行って見聞きしたことが事実であったという体験もある。
 最近では、モンロー氏の体外離脱が知られているが、それによると、移動はゆっくりであったり、光速以上のスピードを出したりすることもあるらしい。物資、例えば壁、鉄鋼板、コンクリート、土、海洋、大気、更には放射線の中さえまでも、何の努力もせず、何の影響も受けず動きまわることができるという。
  ドアを開ける手間もかけずに隣の部屋へ入ったり、3000マイル離れた友人を瞬時に訪ねることもできる。興味が湧けば、月世界、太陽系、更には銀河系をも探索することが可能であると述べられている。*10)
  Conan Doyleも、歯科医院で麻酔をかけられ昏睡中に、妻と子供たちが車に乗っているところを鮮明に見て、あとでそれが事実であったことを確認している。
 また、気絶しかかっている時とか死にかかっている時に、遠くにいる人にその姿を見せたという話は実に多い。これを ”生者の幻影”などとよぶが、マイヤースとガーニーが蒐集して分類しただけで数百例を数える。そのような遠隔訪問を睡眠中に意識的に行い、特定の場所を決めて行って来ることの出来る人もいる。こうしたおびただしい霊は、人間が肉体以外に、目には見えないもう一つの身体をもっていることを裏付けているといえるであろう。

2.5  It is exactly what we should expect to happen, granted the double identity. In a painless and natural process the lighter disengages itself from the heavier, and slowly draws itself off until it stands with the same mind, the same emotions, and an exactly similar body, beside the couch of death, aware of those around and yet unable to make them aware of it, save where the finer spiritual eyesight called clairboyance exists. How, we may well ask, can it see without the natural organs? How did the hashish victim see his own unconscious body? How did the Florida doctor see his friend? There is a power of perception in the spiritual body which does give the power. We can say no more. (p.104)

 ここで、死の床での自然死の場合を例にして、死の現象をみつめてみよう。
 死期が近づくと霊体が肉体から離れる。その時は何の痛みも苦しみもない。そして、肉体とそっくりの形を整えて、自分の死の床の側に立つ。意識も感情も記憶も肉体に宿っていた時そのままである。危篤の知らせを聞いて集まった家族や知人の姿が生前そのままに見えるし、泣き声や話し声が全部聞こえる。しかし、そこに立っている自分には誰も気がついてくれない。
  肉眼がないのになぜ見えるのであろうか。Conan Doyleが歯科医院で昏睡状態になっている間に妻子を見た体験についてもそれはいえるし、フロリダの医師が卒倒している間に友人宅を訪ねた体験についてもそのことはいえる。しかし、こればかりは、霊的身体にそういう視力がそなわっているからとしかいいようがない。とにかく見えるのである。

2.6  Having then got in touch with our dead, we proceed, naturally, to ask them how it is with them, and under what conditions they exist. It is a very vital question, since what has befallen them yesterday will surely befall us to-morrow. But the answer is tidings of great joy. Of the new vital message to humanity nothing is more important than that. It rolls away all those horrible man-bred fears and fancies, founded upon morbid imaginations and the wild phrases of the Oriental. We come upon what is sane, what is moderate, what is reasonable, what is consistent with gradual evolution and with the benevolence of God. (pp.110-111)

 死んだと思っていたわれわれの先輩が実は今でも生きていて、その一部の人たちと連絡がとれたことが間違いのない事実であるとすると、次の関心は、霊界では彼らは今どうしているか、どういう環境のもとで暮らしているかということであろう。これはわれわれにとっても大問題である。死はいずれわれわれに例外なくやってくる問題であり、もしかしたら、明日にでも彼らのところへ行くことになるかもしれないからである。
 嬉しいことに、これまで得た便りは愉しいことばかりである。人類へのメッセージとしてこれほど重大な意味を持つものはないであろう。いたずらに恐怖と幻想の世界へ閉じこめてきた想像の産物でしかない天国と地獄などは、どこにも見られない。いずれも健全であり、穏当であり、段階的進化の大原則や、神の恩寵にも適っていて、理性が納得するものばかりである。
 しかし、死後に迎える生活が幸せに満ちたものであるといっても、その目的とするところは、自我の内部に潜在している霊的資質を発達させることにある。行動派の人は行動で、知的才能に勝れた人は知的才能で、芸術・文学・演劇・宗教その他、おのおのが神から授かった才能を発揮するための仕事に勤しまなければならない。
  霊界には落伍者のような者はいないのであろうか。
  霊界通信の中には、幸せなスピリットが従事している仕事の中に、迷える不幸なスピリットを更正させることが含まれる、と述べているものもある。そういう場合、彼らは「降りていく」という表現を用いて、低界層のスピリットに自分たちと同じレベルの波動の生活に耐え得るだけの霊性を身につけさせるように援助するのだという。ちょうど学業の遅れが目立つ下級生を上級生が面倒を見てやるようなものかもしれない。*11)
  Conan Doyle はこのあとで、熱心な研究者の呼びかけに快く応じてくれるのは、当然のことながら、死後に幸せを見いだした者に限られると述べている(p.126)。親和力の原理から言っても、こちらが敬虔な宗教心をもって臨めば、それに応じてくれるのも敬虔な宗教心に富むスピリットのはずだからである。このようにしてみてくれば、愉しい幸せな霊界の生活の中にも、やはり一種の「厳しさ」はあるのであろう。Conan Doyleはさらに、霊界へ移ってからは、次のように訴えてきている。

2.6.1  Yes; teach the people about communion with the spirit world, but for God's sake teach them the truth. Do not offer them a fool's paradise by telling them that everything will be lovely there. I can assure you that the life after death is a serious matter, not to be regarded lightly, not a subject to be glossed over as with a varnish paint. For when a man passes from his physical to an astral condition he has to face the fruits of his past life on earth. There can be no more backsliding then, for life has to resolve itself into a forward march. (p.112)

  《霊界との交流について教えを広めて下さい。しかし、お願いですから、真実を教えてください。天国 ではすべて薔薇色で素晴らしいなどと言って、幻の喜びを与えたりしないことです。これは私が保証し ますが、死後の生活は真剣に取り組まなければならないもので、軽々しく扱ったり、うわべだけの美し さでごまかせる問題ではありません。人間が物質の世界からアストラル界へと移行するとき、地上で送 った生活の成果に直面することになるのですから。ここから逆戻りすることは許されません。人間は自 らを変容させて前進していかなければならないのです。》

2.7  The truth of what is told us as to the life beyond can in its very nature never be absolutely established. It is far nearer to complete proof, however, than any religious revelation which has ever preceded it. We have the fact that these accounts are mixed up with others concerning our present life which are often absolutely true. If a spirit can tell the truth about our sphere, it is difficult to suppose that he is entirely false about his own. Then, again, there is a very great similarity about such accounts, though their origin may be from people very far apart. Thus though "non-veridical," to use the modern jargon, they do conform to all our canons of evidence. A series of books which have attracted far less attention than they deserve have drawn the coming life in very close detail. (p.111)

 地上生活のすべてをわれわれが知ることが難しいように、霊界の生活をすべてを語り尽くすことは不可能である。しかし、人類史上これほど具体的に語られたものはほかに見あたらない。
  このように判断する大切な根拠は、霊界からのメッセージのなかに、自分たちの世界のことばかりでなく、われわれの地上世界についての正確な情報が含まれているということである。地上世界のことを正確に伝えている者が、自分たちの世界についてだけは偽りの通信を送ってきているとは考えにくい。
  そして、もう一つの重要な根拠は、無数の霊能者を通じて送られてくる情報に驚くほどの共通性があるということである。正真正銘のレッテルを貼る審査基準というものは存在しなくても、人間の常識的判断基準に照らしてみたとき、そのすべてに適っている。そして、多くの一連の霊界に関する本が、その霊界についての細部にわたる情報を詳しく伝えてきているのである。

2.8  Of all these accounts the one which is most deserving of study is Raymond. This is so because it has been compiled from several famous mediums working independently of each other, and has been checked and chronicled by a man who is not only one of the foremost scientists of the world, and probably the leading intellectual force in Europe, but one who has also had a unique experience of the precautions necessary for the observation of psychic phenomena. The bright and sweet nature of the young soldier upon the other side, and his eagerness to tell of his experience is also a factor which will appeal to those who are already satisfied as to the truth of the communications. For all these reasons it is a most important document--indeed it would be no exaggeration to say that it is one of the most important in recent literature. It is, as I believe, an authentic account of the life in the beyond, and it is often more interesting from its sidelights and reservations than for its actual assertions, though the latter bear the stamp of absolute frankness and sincerity. (pp.112-113)

  これらの本の中で、研究に値するもっとも優れた本は『レーモンド』であろう。この本の価値は、当時の有名な霊媒、それもたった一人ではなく数人を通して個別に入手した情報を、当時のヨーロッパの知性を代表する世界的な科学者が細かくチェックした上で編纂されているという点にある。霊界の聡明な息子と、必死に真相を求める地上界の父親との、真剣でしかも愛情あふれる交霊は、初めて霊的なものにふれる人はもとより、すでに交霊というものの実在を信じている者にも改めて感動を与えずにはおかない。
  これは、人類にとってのもっとも貴重なドキュメントであり、もしかしたら近代における最も重要な文献の一つであるといっても過言ではないであろう。とにかく死後の世界の実在を扱ったものの中でも、とりわけ信頼度の高いものであることは確かである。それも、一方的に霊界側から主張してきたものと違いーーそういうものも率直さと真摯さとがあって、それなりに良さがあるのであるがーー一見何でもないような事柄を時間をかけて一つ一つ押さえていく手法が用いられていて、かえって説得力がある。
  著者のオリバー・ロッジ卿は科学者であると同時に哲学者でもあったが、早くから死後の個性存続を信じていた。息子のレーモンドが戦死したあと、レーモンドからの霊界通信が次々と正確さを証明されるにいたって、卿の個性存続への確信は揺るぎないものとなった。例えば、レーモンドの戦地での写真にまつわる次のようなエピソードがある。*12)
  レーモンドが戦死したのは、1915年 9月14日である。それから 2週間後に開かれたピーターズという霊媒による交霊会で、ムーン・ストーンと名乗る支配霊がこう述べた。

  《お子さんが戦死される前に立派な写真を撮っておられますね。二枚・・・いや三枚。二枚は一人だけ のポートレートで、もう一枚は他の将校たちといっしょのもので、お子さんはそのことをしきりに告げ てほしがっておられます。その一枚には、ステッキを手にした姿で写っているそうです。》
 
  この時点でのレーモンドの軍服姿の写真は、戦地へ赴く前に撮った前向きと横 向きの二枚のポートレートがあるのみで、グループで撮ったものがあることをロ ッジ家の人たちは知らなかった。そこで関係者を通して調査してもらったところ、その事実に間違いないことが明らかになった。そして12月になってその写真が送り届けられてきた。同じ頃、戦地から届けられたレーモンドの遺品を片づけていた母親が、戦場日誌の中に、「写真撮影、8月24日」という記載を見つけた。ロッジ夫人は、その時のことをサイン入りでこう証言している。

  《4日前(12月6日)、私は戦地から届けられたレーモンドの遺品の中にあった日誌をめくっておりま した。縁に血がついており、その血でページとページがくっついている箇所もありました。その時ふと、 そのページに”写真撮影”とあるのを見つけて驚きました。日付は8月24日となっておりました。私 はそのことを、その日の日記にこう書き入れました。「12月6日。初めてレーモンドの日記を読み、"写 真撮影、8月24日”の記録を確認」と。 1915年12月10日  メアリ・ロッジ》


   3.

3.1  Now....let us try to follow what occurs to man after death. The evidence on this point is fairly full and consistent. Messages from the dead have been received in many lands at various times, mixed up with a good deal about this world, which we could verify. When messages come thus, it is only fair, I think, to suppose that if what we can test is true then what we cannot test is true also. When in addition we find a very great uniformity in the messages and an agreement as to details which are not at all in accordance with any preexisting scheme of thought, then I think the presumption of truth is very strong. It is difficult to think that some fifteen or twenty messages from various sources of which I have personal notes, all agree, and yet are all wrong, nor is it easy to suppose that spirits can tell the truth about our world but untruth about their own. (p.39)

  Conan Doyleは、霊界からの啓示により、死後の実相について次第に確信を持つようになった。死後の実相については、霊界からの通信にあまり矛盾はない。問題はそれがどこまで正確かということである。Conan Doyleは、太古から地球上の各地で語り伝えられてきた死後の世界の概念と比較して、細かい点ではいろいろと相違しても、霊界からの通信がことごとく一致しており、そこに一貫性が認められる場合には、それを真実と受け取ってよいという。たとえばConan Doyle自身が個人的に受け取った通信の数は20種類ほどであるが、それらがことごとく同じことをいっているのに、それがすべて間違っているとは考えにくい。それらの通信の中には、この地上時代のことに言及したものが少なくなく、それらは調査の結果、間違いなく正確であると証明されているものが多い。その場合、過去の地上生活に関する通信は正確であっても、現在の霊界についての通信だけは虚偽である、とするには無理がある、と彼は言うのである。そして、彼が確信を持っている死後の世界の実相を次のように描いている。

3.2  The departed all agree that passing is usually both easy and painless, and followed by an enormous reaction of peace and ease. The individual finds himself in a spirit body, which is the exact counterpart of his old one, save that all disease, weakness, or deformity has passed from it. This body is standing or floating beside the old body, and conscious both of it and of the surrounding people. At this moment the dead man is nearer to matter than he will ever be again and hence it is that at that moment the greater part of those cases occur where, his thoughts having turned to someone in the distance, the spirit body went with the thoughts and was manifest to the person. (p.40)

  死ぬという現象には痛みを伴わず、いたって簡単である。そしてそのあとでは、想像もしなかったや すらぎと自由を覚える。やがて肉体とそっくりの霊的身体をまとっていることに気付く。しかも地上時代の病気も障害も完全に消えてしまっている。その身体で、抜け殻の肉体の側に立っていたり浮揚していたりする。そして、肉体と霊体の双方が意識される。それは、その時点ではまだ物的波動の世界にいるからで、その後急速に物的波動が薄れて霊的波動を強く意識するようになる。

  地上時代の病気や障害が完全に消えることについては、Conan Doyleは別のところで(pp.123-124)、また繰り返して述べている。要するに霊界へ移れば、地上時代の肉体の障害のすべては消滅する。手足は戻り、視力も戻り、知的能力もその人本来のものが取り戻せるのである。障害を受けているのは肉体だけで、霊的身体は決して傷つくことがない。完全無欠である。
  第一次世界大戦で多くの若い兵士が手足を失ったりしたが、これは大きな朗報というべきであろう。彼はその当時行われた Abraham Wallace 博士主催の交霊会で、出現したスピリットが最初に述べたことばが、「左手がちゃんとあるよ」であったことをその一例として挙げている。
 同じことが痣や同様の異常部分、盲目、その他ありとあらゆる障害についてもいえる。それらは決して永遠に背負わされる十字架ではなく、やがて訪れる霊界ではすべてが消滅するのである。そして誰もが完全な本来の健康体になる。数多くの霊界通信で、このことについては矛盾はなく、すべて一致して確認されている。

3.3  In most cases I imagine that the dead man is too preoccupied with his own amazing experience to have much thought for others. He soon finds, to his surprise, that though he endeavours to communicate with those whom he sees, his ethereal voice and his ethereal touch are equally unable to make any impression upon those human organs which are only attuned to coarser stimuli. It is a fair subject for speculation, whether a fuller knowledge of those light rays which we know to exist on either side of the spectrum, or of those sounds which we can prove by the vibrations of a diaphragm to exist, although they are too high for mortal ear, may not bring us some further psychical knowledge.
   Setting that aside, however, let us follow the fortunes of the departing spirit. He is presently aware that there are others in the room besides those who were there in life, and among these others, who seem to him as substantial as the living, there appear familiar faces, and he finds his hand grasped or his lips kissed by those whom he had loved and lost. Then in their company, and with the help and guidance of some more radiant being who has stood by and waited for the newcomer, he drifts to his own surprise through all solid obstacles and out upon his new life. (pp.40-41)

  大部分の死者は、思いも寄らなかった環境の激変に戸惑い、家族のことなど考えている余裕はないであろう。自分の死の知らせで集まっている人たちに語りかけても、また、体に触っても、何の反応もないことに驚く。霊的身体と物的身体の間にはあまりに大きな波長の違いがあるからである。
  光のスペクトルには人間の視覚に映じないものが無数にあり、音のスペクトルにも人間の聴覚に反応しないものが無数にあるということまではわかっている。その未知の分野についての研究がさらに進めば、いずれは霊的世界への道に通じることになるのであろう。
  死んだあとしばらくして、自分の亡骸の置かれた部屋に集まっている肉親・知人を認める。そのほかに、どこかで見たことのある人たちで、しかもすでに他界してしまっているはずの人たちもいることに気がつく。それらの人々は、亡霊という感じでは決してなく、生身の人間と少しも変わらない生き生きした感じで近寄ってきて、手を握ったり頬に口づけをしたりして、こころからの歓迎をしてくれるのである。
  その中に、見覚えはないのだが、際だって光輝にあふれた人物がいて、側に来て「私についてきなさい」と言って出ていく。ついていくと、ドアから出ていくのではない。壁や天井を簡単に突き抜けていってしまうのである。
  この「光輝にあふれた人物」らしき存在については、後にConan Doyle自身が、「死亡」後に体験することになる。彼はそれを次のように伝えた。

3.3.1  When I left my body I found that I could not free myself from the entanglements of earth for a considerable period, yet it is impossible to describe the exact 'geography' of my position. I felt strangely linked with the place of my birth and early years, so that I could not escape either to return nor yet to advance to that heavenly plane which I knew existed, and must be quite near. Truly I was tied, and all my hopes of communicating with my friends were frustrated......
  And then I seemed to be picked up, as it were, by a ray of light. A power unknown came to my aid, giving me understanding of my true state, and subsequently learned that this ray of light was a projection of love and power from the Brotherhood. It proved of inestimable value to me and brought a clear vision of the actual state of life which exists immediately after death. (pp.105-106)

  《私の魂が肉体を離れたとき、かなり長い間、私は地上とのしがらみから自分自身を解放することができませんでした。それでいて、自分がどこにいたのか、その場所を明確に説明することもできません。生まれた場所や幼年期を過ごした場所と奇妙に連結している感じがして、その場所から逃げて戻ることもできなければ、天の局面に進むこともできませんでした。*13)
  その時の私には、天の局面が存在することはわかっていました。しかもかなり近くにあるとわかっていました。しかし事実上、私は縛られていたのです。そのため、友人と連絡をとりたいという望みは、すべて叶えられませんでした。 
  それから、まるで一条の光に持ち上げられるような体験をしました。どこの誰とも知れない力が助けに来てくれて、私がどのような状態に置かれているのかを理解することができました。そして、後で知ったのですが、この光はポラレ・ブラザーフッドが愛と力を投射してくれたものでした。この光は私にとって、計り知れないほどに大切なものであることがわかりました。そして、死後に存在する現実の生命の状態について、明確なヴィジョンを与えてくれました。》

 つぎにこの項で述べられている「死者との再会」について、もう少し詳しく、今度は霊界に移ってからのConan Doyle が語っていることに耳を傾けてみよう。

3.3.2  Are we indeed destined to enter into some formless condition and to live in it for ever? No, I can assure you that there is indeed a special sphere in the spirit world, an almost heavenly place in the upper astral regions, far more beautiful than the Summerland of the Spiritualist, a sphere where souls unite once more. Mark, this is a place for the reunion of all grades of human life, which includes any incarnate souls which can soar thither from the earth. It is the sphere (or place) of family reunions, which might be described as family gatherings, where all souls which are bound one to another by living and vibrate love can meet and greet one another. Note, however, that these reunions do not necessarily continue for overlong. We on this side and you on yours have duties to which we must all return when the call comes. Ours may be joyful; yours you may think of as sullen, grinding and laborious. Nevertheless men in all grades of life have to return to the particular condition of environment to which they are suited or to which they have adapted themselves. (pp.118-119)
   There can be no separation in spirit--no separation. Do you understand the implication of this? It must be very difficult, but try to get this idea of spiritual affinity; for although there may be work to be accomplished by the two on different planes of life, there is always one point at which loving souls may find their contact, although possibly only at given intervals. At times you yourselves can reach a high spiritual range of consciousness. True, you may fail to sustain your contact and fall, as it were, with a crash. Nevertheless you have had your moment. Surely to go to the spirit land for a space cannot be expected to make a man into an angel for ever?
   How can I even make you understand the love and bliss souls here experience when a last they reach their beloved? What joy it is to know that the separation--a real and sad separation--can never again be their lot; although they must perforce sometimes go their separate ways to service and to labour. With what relief must they realise that separation as they once knew it has died forever in the arms of love! (p.120)

  《私たちは、形が何もない状態の中に入っていき、そこで永遠に暮らすことになるのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。私が保証します。霊界には本当に素晴らしいところが用意されているのです。これは心霊主義者がいうサマーランドよりもはるかに美しいところで、ここですべての魂がもう一度再会することになっています。
  こころに銘記してください。ここはあらゆるレベルの人間の生命体が再会するための場所です。ということは、地上で肉体を持った人間もここに上昇することができるのです。それは、家族の再会の局面で、ここで家族が一緒に集い、生き生きとした愛情の絆によって結びついた人たちが再会し、挨拶を交 わすことができるのです。
  しかし、注意してほしいですが、この再会は必ずしも長い時間続くものではありません。こちらの世界にいる私たちも、そちらの世界にいるあなた方も、召集がかかったときにはそれぞれの任務に戻っていかなければなりません。私たちの任務は喜びに満ちたもので、あなた方の任務は、辛く、骨が折れるものだとあなた方は感じられるかもしれません。でも、さまざまな生命の段階にある人間は、それぞれに適した、あるいは、それぞれが適応した特定の状況、ないしは環境に戻っていかなければならないのです。
  霊の世界では別れはありえません。この意味が理解できるでしょうか。非常にわかりにくいかもしれ ませんが、霊の相性というこの考えを理解するように努めてください。二つの魂には、人間の生命体の異なったレベルでの任務がそれぞれに課されているかもしれませんが、愛し合う魂が接触できるポイントが必ずあります。ある程度の時間がかかってもです。
  魂が愛する者たちと再会したときに体験する愛の深さと喜びを、いったいどうすればあなた方に伝えられるでしょうか。本当に悲しい別れであったものが、もはやそれが、自分に与えられた運命ではないと悟るのは何という喜びでしょうか。愛し合う魂は、ときにはそれぞれの任務を果たすために、やむを得ず別々の道を歩まなければならないとしても、それは別れではないのです。これまで考えていたような別れが、愛の腕の中で永遠に消滅するのを知って、本当に胸をなでおろすのです。》

3.4  The reports from the other world are all agreed as to the pleasant conditions of life in the beyond. They agree that like goes to like, that all who love or who have interests in common are united, that life is full of interest and of occupation, and that they would by no means desire to return. All of this is surely tidings of great joy, and I repeat that it is not vague faith or hope, but that it is supported by all the laws of evidence which agree that where many independent witnesses give a similar account, that account has a claim to be considered a true one. (pp.42-43)

  死後の生活は、全体としては、地上の生活と比べものにならないほど明るく愉しいものであるらしい。それはすべての通信が一致して述べていることである。「類は類をもって集まる」で、似た性格の者、趣味の共通している者、同じような才能を持つ者が集まって生き生きと過ごしており、今更地球に戻りたいとは全く思わないという。このような情報を大きな喜びとして受けとめない人がいるであろうか。しかも、繰り返すが、これは単なる信仰や願望から生まれた理想郷なのではない。一つや二つではない実に多くの証人が、ただ一つの、全く同じ事実を証言しているのである。
  それでは、Conan Doyle自身の場合はどうであったか。生前この地上に生きていた場合と霊界へ移ってからでは、死後の生活の認識が変わったかどうか。それをここで、彼自らのことばで聞いてみることにしよう。以下に引用するのは、Conan Doyleが死後送ってきた霊界通信のはじめの部分である。前項で引用した混乱状態から抜け出した後のことと思われる。
 
3.4.1  I find myself in an unspeakably beautiful 'heaven world'. I desire above all things to be able to bring such a reality as this home to my friends; but I also realise only too well that it can be shared only if they can understand the nature of the heaven to which I have gone. All this has made me feel a deeper urge to spread the truth concerning the after-life.
    I believe that during my earth-life I have already won something of a reputation as a missionary. I carry on this work still for the people of earth, but by different ways and means from those which I used to follow. How difficult it is to make a true contact with the earth and its people! All is so different from what I once anticipated. A true conception of the real life of the spirit has yet to dawn upon man. Thank God, the mists begin to thin, so that I can see with a clearer vision than once seemed possible.....
    With all the strength of my newly-released spirit I desire to reveal to my new friends that new man which is Doyle. I am no longer concerned with the many trivialities of the old earth-life, or of earthly affairs, except in so far as these affect the spiritual development of the person concerned--not, alas, that I can greatly help the individual save by telling him about the foundation of the spiritual life. Yes, yes; the old Doyle seems to be passing, but I will prove to you that while I die yet I live again! Yes. But there are no trimmings left on a man when he has passed the Second Death. Only his purified spirit remains after that supreme experience... Oh, that second awakening! Then was I conscious of only one thing; of only one thing!--and that was the wonder, the infinitude, the allness of God's love for me and for all men. (pp.95-97)

  《私は言葉に表すことができないほど美しい”天の世界”にいます。この現実を地上にいる私の友人た ちに伝えることが私の最大の願望です。私がやってきたこの天国がどのようなものであるかを理解して初めて、これを分かち合うのが可能になることも私にはわかっています。ですから、死後の生活についての真実を広く知らせたいという衝動をますます強く感じているのです。
 私は地上で生活していた間に、伝道者としての評判をある程度勝ち取ったといえるのではないかと思 います。私はこの仕事を地球の人々のために今も続けていますが、私が地上にいたときに用いていたも のとは異なる方法と手段を使っています。
 地球そしてそこに住む人々と本当の接触をすることは、なんと難しいのでしょう。私がかつて想像し ていたのとはすべてが違うのです。霊的な存在の真実の生活がどのようなものであるかについて、人間 はまだ理解しておりません。神に感謝します。今、その真実を覆う霧が晴れ、これまで可能であるとは 思われなかったような明確さで見えるようになっています・・・
 新たに解放された精神の力すべてを行使して、新しい友達に、生まれ変わったドイルを見てもらいた いと思います。私は昔の地上での生活や出来事のこまごました問題には、もはや関心がありません。そ うしたことが、関わりのある人の霊的な発達に影響を及ぼす場合は別ですが。とはいえ、その場合で も、霊的な生活の基礎となるべきものについて話をすることを除いては、その人を助けてあげることは できません。
 たしかに昔のドイルは死につつあります。しかし、皆さんに証言しますが、私は死んでもなお生き続 けているのです。それは間違いありません。しかし、二度目の死を体験した人には、よけいな飾り物は何もありません。その崇高な体験の後では、純化された精神だけしか残らないのです。あの二度目の目覚めの素晴らしさ! それは、神の私に対する、そしてすべての人間に対する愛の奇跡、その愛の無限性、その愛のすべてでした。》 

3.5  In connection with the general subject of life after death, people may say we have got this knowledge already through faith. But faith, however beautiful in the individual, has always in collective bodies been a very two-edged quality. All would be well if every faith were alike and the intuitions of the human race were constant. We know that it is not so. Faith means to say that you entirely believe a thing which you cannot prove. One man says: "My faith is this." Another say: "My faith is that." Neither can prove it, so they wrangle for ever, either mentally or in the old days physically. (p.43)

  ところで、このような死後の生命の問題は、信仰の領域に属していると考えられるのが普通である。ただ、信仰というものは、本来、個々人が主観的に身につけているものであり、それはそれなりに敬意を払うべきものではあっても、それが集団体制のもとで強制されると両刃の剣になる。人類の直感力が均一で、すべての人間が一致して同じものを信仰するのなら問題はないであろうが、現実にはそうはいかない。もともと信仰とは、証明はできないが自分はこう信じる、ということである。したがって、別々の人間が互いに違ったことを信じても、それはそれぞれに証明はできないわけだから、自分の信仰に固執すればどうしても争いになりかねない。特に権力者と弱者との間でなら、一方は力ずくででも自分の信仰を押しつけようとするであろう。それが人類の歴史の中で、多くの悲劇を生み出してきた。
  しかし、今は時代が違う。証拠のないものを押しつけることは良識が許さなくなった以上、現象をよく観察し、理性的に判断して、誰もが納得する共通の結論に到着しなければならない。spiritualism のよいところはそこにある。その主張の根拠が教本だの伝説だの直感だのといったあやふやなものではなく、交霊会や実験会で得た科学的資料だからである。そこはいわば、この世とあの世の交流点であり、古い伝統的信仰とは全く別の、しかも、最新の二つの世界の協力による情報と現象を根拠にしたものなのである。
  では、そうした通信が異口同音に教えてくれているのはどのような世界か。それをつぎにまとめてみよう。

3.6  All agree that life beyond is for a limited period, after which they pass on to yet other phases, but apparently there is more communication between these phases than there is between us and the Spiritland. The lower cannot ascend, but the higher can descend at will. The life has a close analogy to that of this world at its best. It is pre-eminently a life of the mind, as this is of the body. Preoccupations of food, money, lust, pain, ets., are of the body and are gone. Music, the Arts, intellectual and spiritual knowledge, and progess have increased. The people are clothed, as one would expect, since there is no reason why modesty should disappear with our new forms. These new forms are the absolute reproduction of the old ones at their best, the young growing up and the old reverting until all come to the normal. (p.45)

  死後といっても、その直後と、しばらくしてからでは、かなりの違いがあるらしい。つまり、死後の世界にも段階的な広がりがあり、死の直後の体験が一通り終わると、さらに次の異なる世界が広がってくる。といっても、前の階層とその次の階層との間では、地上界と死後の世界との間よりも、通信連絡は容易であるという。低い階層から高い階層には行けないが、高い階層から低い階層へは意のままに行けるようである。
  生活形態は、基本的には地上生活と同じで、霊的身体による主観と客観の生活であるが、霊体をはじめとして環境を構成している成分が、物質に比べてはるかに意念の影響を受けやすく、その人の個性と思想が環境に反映されているという。食事や金銭、痛みといった肉体に付随していたものはなくなり、精神的なもの、芸術的なもの、思想的なもの、霊的なものが大勢を占め、それだけ進歩も早いことになる。衣服は実質的には不要なのであるが、地上時代の習慣と、つつましさと美的センスがその人特有のものを身につけさせている。また老若といった地上特有の違いが消えて、老いが若さを取り戻し、若さが成長して大人らしくなり、皆それぞれの霊性を表現した容姿になるのだという。 

3.7  People live in communities, as one would expect if like attracts like, and the male spirit still finds his true mate though there is no sexuality in the grosser sense and no childbirth. Since connections still endure, and those in the same state of development keep abreast, one would expect that nations are still roughly divided from each other, though language is no longer a bar, since thought has become a medium of conversation. How close is the connection between kindred souls over there is shown by the way in which Myers, Gurney and Roden Noel, all friends and co-workers on earth, sent messages together through Mrs. Holland, who knew none of them, each message being characteristic to those who knew the men in life. (p.45)

  最大の特徴は親和力が強く作用することで、類は類をもって集まるのたとえの通り、性格の似通った者同士で共同社会を形成しているという。男女の関係も地上時代の肉体上の性による結びつきではなく、あくまでも愛という精神的なものによって一緒の生活を送ることになる。したがって、地上のような子供の出産はない。親和力が基本になるのであれば、当然予想されることとして、民族的な差異も大雑把ながらに存在している。しかし、意念が伝達手段になっているために、言語の違いが障壁になることはないようである。地上時代に共同研究者であったマイヤース、ガーニー、ノエルの3人が死んだあと、その3人をまったく知らなかったホランド夫人を通して送ってきた通信をみても、そのことがよくうかがえるのである。
  このうちマイヤースは、地上時代にspiritualism の研究に打ち込んで、膨大な資料を残していた。しかし、まだ確固とした結論を出すことができない状態で他界した。その彼は、死後、霊界で勉強したことを、女流作家で霊能者でもある Jeraldine Cummins の腕を使って The Road to Immortality という有名な霊界通信を送ってきている。その中には、たとえば次のような類魂の説明がる。

  《私が地上生活をしていたときにも、私はもちろんある一つの類魂に属していた。が、自分以外の他の魂と、またすべてを養う霊とは、ことごとく超物質の世界に置かれてあった。もし諸子がこころから霊的進化の真相を掴もうとするならば、ぜひこの類魂の原理を研究し、また理解してもらいたい。この類魂説を無視したときに、到底解釈しえない難問題が沢山ある。なかんずく、最大難件の一つは現世生活の不公平、不平等なことで、これは各自の生の出発点において、すでに宿命的に定められている。これを合理的に説明すべく、古来かの全部的再生説が唱えられていたのであるが、類魂説はさらに一層合理的にこれを説明する。これによれば、現世生活は自分の生活であって自分の生活ではない。換言すれば、自分の前世とは、畢竟自分と同一系の魂の一つが、かつて地上に送った生涯を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎づけることにもなるのである。 *14)》 

3.8  One thing is clear: there are higher intelligences over yonder to whom synthetic chemistry, which not only makes the substance but moulds the form, is a matter of absolute ease. We see them at work in the coarser media, perceptible to our material senses, in the seance room. If they can build up simulacra in the seance room, how much may we expect them to do when they are working upon ethereal objects in that ether which is their own medium? It may be said generally that they can make something which is analogous to anything which exists upon earth. How they do it may well be a matter of guess and speculation among the less advanced spirits, as the phenomena of modern science are a matter of guess and speculation to us. If one of us were suddenly called up by the denizen of some sub-human world, and were asked to explain what exactly gravity is, or what magnetism is, how helpless we should be! (p.47) 

  死後の世界にも、地上の物質に相当する「もの」が存在することは間違いないらしい。それを生み出す合成化学のようなものがあって、それを専門としている高級霊がいるらしい。彼らにとってはその操作はいとも簡単で、その片鱗は物理実験における物質化で見せてくれている。ただ、それがいかなるメカニズムで行われているかとなると、その専門のスピリットには分かっていても、一般のスピリットに説明を求めるのは酷であろう。われわれも引力とは何か、電気とは何か、磁気とは何かを子供から訊ねられれば困るのと同じである。
  オリバー・ロッジの『レーモンド』のなかで、レーモンドが死後の環境の物質構成について説明しているところがある。レーモンドは、自分なりの物理学を述べているが、それはあくまでもその時点でのレーモンドの置かれた階層での話であって、それより上での階層では、また別の違った物理学が存在しているかも知れないのである。『レーモンド』には、例えば、つぎのように書かれ箇所がある。

  「ぼく(レーモンド)が今一番伝えたいと思うのは、こちらへ来て最初に置かれた環境のことです。 最初のうちは頭の中が混乱していました。でも、一つ有り難かったことは、環境が地上と同じように実質があって固いということで、そのおかげで早く環境に馴染むことができました。
  ぼくにとって今の一番の課題は、そうした環境が物理的に何で構成されているかということです。まだ本当のことはわかっていないのですが、一つの理論は持っています。といっても、これはぼく自身が考え出したものではなく、折りにふれて聞いていたことから結局はこうではないかと推論しているのに過ぎませんが・・・
  よく、霊界の環境は自分の思ったことが具象化したものだという人がいますが、これは間違っています。ぼく自身もそう考えた時期がありました。例えば建物も花も木も大地もみな意念によって造られたものだと考えるわけです。むろん、これにも半分の真理はあるのですが、それで全部が片づくわけではありません。つまりこういうことです。 
  地球から一種の化学的成分がひっきりなしに上昇していて、これが上昇するにつれて、いろいろと変化して霊界に定着し、それが霊界に実質性を与えるというわけです。むろん今ぼくが置かれている環境について述べているだけですが・・・でも、地球から何かが放射されて、それが霊界の木や花に実質感を与えていることには確信をもっています。それ以上のことはまだよくわかりません。目下勉強中というところです。まだ時間がかかるでしょう。*15)

3.9  Now let me epitomize what these assertions are. They say that they are exceedingly happy, and that they do not wish to return. They are among the friends whom they had loved and lost, who meet them when they die and continue their careers together. They are very busy on all forms of congenial work. The world in which they find themselves is very much like that which they have quitted, but everything keyed to a higher octave. As in a higher octave the rhythm is the same, and the relation of notes to each other the same, but the total effect different, so it is here. Every earthly thing has its equivalent. Scoffers have guffawed over alcohol and tobacco, but if all things are reproduced it would be a flaw if these were not reproduced also....
   This matter is a detail, however, and it is always dangerous to discuss details in a subject which is so enormous, so dimly seen. As the wisest woman I have known remarked to me: "Things may well be surprising over there, for if we had been told the facts of this life before we entered it, we should never have believed it." (pp.122-123)

  いろいろと比較検討した結果まとめられた霊界に関する情報で、完全に一致しているのは、死後の世界は幸せに満ちているということである。二度と地球へ戻りたいとは思わない、というのが一般的である。先に死んでいった肉親や知人が出迎えてくれて、以後ずっと生活を共にしていることが多い。といって遊び暮らしているわけではなく、性格と能力にあった仕事に従事しているのである。
  生活環境は地上とよく似ているが、すべてが一定の高い波動に統一されており、リズムが同じなので、違和感というものは感じない。全体としては地上環境とはまるで違っている。しかし、地上に存在するものは何でも存在する。アルコールや煙草まであるというと嘲笑する人がいるが、何でも複製できると言っていながら、アルコールや煙草を作れないと言うのは矛盾であろう。
  アルコールを嗜む話は、前述の『レーモンド』のなかにも出ていて、物議をかもしたことがあるらしい。しかし、聖書の『マタイ伝』26章29節でイエスが述べていることば、「私の父の国であなた方と共に新たに飲むその日まで、私は今後決してぶどうの実からこしらえたものを飲むことはしない」というのも、いわばアルコールを嗜む話である。
  もっとも、こんなことは些細なことのうちに入る。そして、こうした途方もなく大きな問題、それも全体としては曖昧さの拭いきれない問題を扱う中で、些細なことにこだわるのは危険である。かつて私の知っているある女性がこんなことを言ったことがある。「来世のことが不思議に思えるのは当たり前ですよ。私たちだって、もしも生まれる前にこの世の事情を語って聞かされていたら、さぞかし不思議に思えて信じられなかったかもしれません。」
  「二度と地球へは戻りたくはない」と思わせる霊界から地球を眺めればどのように見えるか。これにもいろいろな霊界通信がある。その中から一つ、シルバー・バーチと名乗る古代霊からのメッセージをつぎに挙げておくことにしよう。*16)

  《あなた方の地上世界は、実際は霊界の太陽の光の影であるにすぎません。あなた方の世界は、いわば殻であって、現実ではありません。物質の世界には正真正銘の現実などあり得ないのです。物質の存在自体が霊の作用によるものだからです。物質というのは、そもそも、現実の霊世界が出す一つの波動の表現であるにすぎません。
  あなた方の世界には、光が乏しく生気もありません。何か重苦しく、灰色で活力に欠けているのです。いわば古びたクッションのようなもので、バネはすべて壊れ、たるみきっています。どこにでも陰鬱な 雰囲気が支配していて、輝くような喜びに満ちたこころをもった人はほとんどいません。こころはすっかり霊から離れてしまっています。だから、生きる喜びを感じる人は少なく、どこにでも見られるのは絶望と無関心だけです。おそらく、そのことにもあまりにも慣れすぎてしまって、気がつかないのでしょう。
  私の住む世界では、すべてが彩り豊かに輝いています。こころは生きる喜びにあふれ、人々はすべて楽しい仕事に打ち込んでいます。あらゆる芸術が栄え、人々はいつも他の人のために奉仕することを考えています。自分の持っているものは持っていない人にわかち与え、知らない人には教え、こころの暗 い人を教え導いていこうとしています。善行のための熱心さと喜びと輝きに満たされているのです。
  人間の一人一人は神の分身であり、神の持つ限りない大きな可能性を秘めています。誰もがこの世で生きていく困難を乗り越えていくための霊感と力を自分自身の中に持っているのです。この永遠の真理について知っている人は少ないし、自分の持っているすぐれた才能を引き出すことのできる人も多くはありません。
  この地上の世界の人々が、もし私たち霊界の者たちが知っていることを知ることができたなら、決して、意気消沈することもなければ、うなだれていることもないでしょう。人々はみな生気を取り戻すでしょう。それは、あらゆる力の根源が霊にあり、霊界の永遠の富を手に入れることの方が、苦労や心配の種になる多くの物質的なものよりずっと大切であることを理解しはじめるからです。
 私は、本当に多くの人々が、この地上で自分たちのエネルギーを使うに値しないさまざまなことで悩んだり恐れたり心配したりするのを見てきました。力を入れるべき場所を間違っているのです。見当違いの努力をしているのです。いつかは修正されなければなりません。》 *17)

  以上、Conan Doyle の生前の文と死後のことばを中心に、補完的な解説を含めてそれらを交差させてきたので、叙述に一貫性が欠けていたかもしれない。ここでは最後にまた、Conan Doyleのことばを引用して、ひとまずこの稿を終えることにしたい。

  《何度も繰り返しますが、私たちは死後の世界で今現在、生きています。これを本当に人類に理解してもらいたいのです。人間は死後も生き残るだけではなく、すべての生命の背後には普遍的かつ創造的な神の力が働いているということ、そして人間がこの神の力を認識し、すべての生きとし生けるものとの同胞愛に生きる気持ちを持つまでは、人間は決して永続的なこころの安らぎ、幸せ、調和を見いだせな いことをどうぞ理解してください。》 (p.152)

                      ー 1995年10月14日 ー



   

 *1) この二書は、筆者が1991年にRochester在住中、London
    で入手した。これらのうち The New Revelation and the
    Vital Message
については、1992年に初訳が出た。近藤千
    雄訳『コナン・ドイルの心霊学』新潮社、がそれである。
     また、The Return of Arthur Conan Doyle も、1994年に
    初訳が出されている。それが、大内博訳『人類へのスーパ
    ーメッセージ』講談社、である。本稿の訳文はその多く をこ
    の二書に負うている。なお、前書の扉には、つぎのような
    献辞が書き込まれている。「この上なく重大な事実の真実
    性を証言するために、1848年のハイズビル事件以来70年
    にわたって嘲笑と世間的不遇をものともしなかった、道義
    的勇気にあふれる多くの人々にこの書を捧げる。
    1918年3月、A.C.ドイル」
 *2) 内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』岩波文庫、1983, p.24
 *3)中村天風『運命を拓く』講談社、1994, pp.30-34
 *4) Table Turning(Table Tapping). もっとも単純で素朴な霊
    界との交信方法。これを行う場合、通常、出席者達はテー
    ブルを囲んで、その上に両手を指先がふれる程度に軽くの
    せる。出席者のなかに霊能者 がいると、やがてテーブル
    が動く兆 しが現れる。さらにそのテーブルが傾いて、一本
    の脚でフロアを 叩き始める。そこでモールス信号のような
    符丁を決めて問答を取り交わす。単純な方法であるため、
    高度な内容のものは受け取れない。田中千代松編『新・
    心霊科学事典』潮文社、1984、p.139参照
 *5) Judge Edmunds(1816-1874). ニューヨーク州議会の議
    長を勤めたこともあったが後にニューヨーク 州最高裁判
    所判事になった。心霊現象の解明に意欲を燃やした心
    霊研究家で、アメリカのspiritualism に一時代を画した人
    物。彼は、自分の体験や転向ののいきさつを繰り返し語
    り続けた。1853年8月6日の「ニューヨ ーク・ヘラルド」紙
    に寄せた投書の中で、彼は次のように述べている。
     「私は最初、こうした現象は詐術だと考え、それを暴い
    て公表するつもりで調査を始めた。ところが 調べていくう
    ち、それとは逆の結論に達して、この結果を人々に知ら
    せることはやはり非常に重大な 義務だと感じるようにな
    ったのである。これが私が調査結果を発表している主な
    理由である。主なと書いたのは、他にも私を大きくつき動
    かした原因があるからだ。それは、人々を必ずより幸福
    にし、高めることになると信じる知識を知ってもらいたい
    という熱望である。」 田中千代松、ibid.,pp.265-266
    参照。
 *6)近藤千雄訳『コナン・ドイルの心霊学』新潮社、1992、
    pp.57-61参照。
 *7)Janet Oppenheim『英国心霊主義の台頭』(和田芳久
    訳)工作社、1992、pp.263-264参照。
 *8)春川栖仙編『心霊研究辞典』東京堂出版、1990,
    pp.29-30参照。
 *9)田中千代松編『新・心霊科学事典』潮文社、1984、
    p.87参照。
*10)Robert A. Monroe『魂の体外旅行ー体外離脱の科学』
    (坂場順子訳)、日本教文社、1992、p.3参照。 ニューヨー
    クの放送プロデューサーであったモンロー氏は1958年の
    体外離脱体験により人生観が一 変し、その経緯を前作
    『体外への旅』にまとめた。1973年より、ヴァージニア州で
    「モンロー応用科学研究所」の所長をつとめている。最近
    行われた調査によると、人口の全体の25パーセントの人
     間が、少なくとも1回はこのような経験をしているという。
*11)Conan Doyleによると、生命と意識の進化は、アストラル
    界(幽界)、精神界(霊界)、天界(神 界)へと上昇してい
    く。
      地上の局面というのは、いわば、より密度の濃いアスト
    ラル界であって、欲望、強い性欲、憎悪、恨みなどに満た
    されている。その地上の局面の上にアストラル界があっ
    て、それは三つに分けられる。地上にもっとも近いところ
    が第6局面で、そこはまだ、貪欲、自己中心的思考、自
    我が強く、人に愛情を持てないレベルであ る。その上が、
    第4-5局面で、普通の人は死後、この場所で目覚めると
    いわれている。さらにその上にあるのが第1-2-3局面で
    ある。ここは、魂が休息し、自分に目覚め、さらに上昇す
    る意欲を促 される所とされている。
      ここから、サマーランドを経て、魂は第二の死を体験し
    て精神界(霊界)に入っていく。精神界で は、人間はさら
    に魂の成長を遂げるまでそこに留まり、その成長を達成し
    た後、それまで の旅路で身 につけた霊的能力と叡智を
    もって天界(神界)へ移っていく。
      天界では、人間の魂そのものもほとんど天使的な状態
    になっており、天使的な存在と共に生活し、 彼らと同じよ
    うに光か輝いている。この天界で初めて人間の魂は本来
    の資質を意識するようになり、人間の自我は、自らを神の
    一部とみなすようになるという。
     The Return of Arthur Conan Doyle, pp.108-110.
*12)近藤千雄、ibid., pp.185-187による。
*13) それからしばらくして、Conan Doyleの誕生日に、霊界か
    らの通信が送られてきている。そのなかで、 個人の誕生
    日や、誕生地には重要な意味があることを、つぎのように
    語っている。
     「今日は私の誕生日でしたね。誕生日は私にはもう関係
    ないだろうと思われるかも知れませんが、地上と私とのつ
    ながりは、誕生日には特に強くなるのです。霊が地上に肉
    体を持って生まれた日は、そ の霊にとっては常にエネル
    ギーに満ちた日で、それは良くも悪くも利用することができ
    ます。誕生日、死亡した日、その他人間の魂に影響を及
    ぼすような出来事が起きた日には、その体験があったそ
    の場所にその霊の波動が生じるのです。」
     The Return of Arthur Conan Doyle p.100
      さらにまた、つぎのようにも述べている。
     「どんな人であっても、その誕生日、誕生の場所、誕生
    の状況・環境といったものが、単なる偶然 であるなどとは
    考えないでください。これからその魂が進化する出発点と
    なる地上での生活のすべては、いずれは、はっきりとした
    神の意志に基づいた計画と一致しなければなりません。神
    聖な計画を知り尽くしているが故に、イエス・キリストはつぎ
    のように言われたのです。”一羽の雀が地に落ちるのも、
    神の知らないことではない。あなたの髪の一本一本がす
    べて神の知るところである”。これは真実です。すべての
    計画は神の御心にあり、神は常にあなたをその掌におい
    ておられるのです。」 ibid.,p.101.
*14)Geraldine Cummins(浅野和三郎訳)『永遠の大道』
    潮文社、1993、pp.70-71.
*15) 近藤千雄、ibid., p.110 による。
*16)シルバーバーチというのは、今からほぼ3000年前、イエス
    ・キリストよりも 1000年も前にこの地 球上で生活したこと
    のある霊、という以外は、地上時代の姓名も地位も民族も
    わかっていない。その霊言集が最初に出版されたのは19
    38年であるが、シルバーバーチは1920年から実に半世紀
    にわた って、地上のわれわれに語り続けた。その期間の
    長さからいっても、霊言の質の高さからいっても、人類史
    上空前絶後であるといわれている。
    近藤千雄『霊的人類史は夜明けを迎える』ハート出版、
    1993、pp.233-237参照。
*17) Tony Ortzen, ed., The Seed of Truth- More Teachings
    from Silver Birch
-, Psychic Press, London, 1989,
    pp.19-20 を訳出。