[生と死と霊に関する論文]


 Arthur Conan Doyle の
       Spiritualism について (補遺)

          
   

       ま  え  が  き

  前稿(Arthur Conan DoyleのSpiritualismについて) に引き続き、テキストとして、Arthur Conan Doyle; The New Revelation and the Vital Message: London, Psychic Press Ltd.,1981; を用い、Conan Doyle 死後の霊界通信については、Ivan Cooke ed.; The Return of Arthur Conan Doyle: Liss, Hampshire; The White Eagle Publishing Trust, 1985; から引用することにする。 Conan Doyle 自身の文とことばを再現させるために、本稿(補遺)でも、煩をいとわずできるだけ多く原文で掲げることにした。このうち、4〜6までの三つの章は前書から、7の章の霊界通信は後書からとっている。
  Conan Doyleは 1930年7月7日に71才でこの世を去ったが、それ以来今年で 66年、彼が使命感に燃えて人類のために広めようとしていた spiritualism は、その間にもさまざまな霊界通信により、また、最近の欧米における科学者、心理学者、精神科医等の臨死体験や退行催眠による実験研究で、着実にその真実性が裏付けられてきている。(1) 本稿では、そのような傍証のいくつかも、本文の理解に資するために、スペースと体裁を気にすることなくあえて挿入していくことにしたい。 


   4.

 前稿でみてきたように、Conan Doyleは、心霊主義を信ずるまでには長い間の懐疑の道のりを経ている。いろいろと心霊現象に立ち会ったりしながらも確信するには至らず、第一次世界大戦を迎えることになる。その頃の心境を彼は次のように書いていた。

4.1  When the war came it brought earnestness into all our souls and made us look more closely at our own beliefs and reassess their values. In the presence of an agonized world, hearing every day of the deaths of the flower of our race in the first promise of their unfulfilled youth, seeing around one the wives and mothers who had no clear conception whither their loved one had gone to, I seemed suddenly to see that this subject with which I had so long dallied was not merely a study of a force outside the rules of science, but that it was really something tremendous, a breaking down of the walls between two worlds, a direct undeniable message from beyond, a call of hope and of guidance to the human race at the time of its deepest affliction. (p.25)

  第一次世界大戦が始まると、人々は「いのち」を真剣に見つめ直し、自分はいったい何のために生きているのか、を考えさせられることになった。苦悩する世界の中にあって、毎日のように夢多き青春が花開く前に散らされていく悲報を耳にし、また、愛する夫や息子が一体どこへいってしまったのかもわからずに嘆き悲しむ妻や母親を見て、Conan Doyle は突然理解するのである。彼があれほど長い間優柔不断に接してきた心霊主義という問題は、科学では理解できないエネルギーがあるとかないとかの次元の低いものではなく、この世とあの世との間の壁を突き破り、この未曾有の苦難の時代に、人類に用意された霊界からの希望と導きの重大な呼びかけにどう応えていくか、というところにある。それは大変な可能性を秘めた大問題であることに彼は気がつきはじめたのである。
  これは同時に、心霊主義に対するConan Doyle の強い信仰のはじまりの表明でもあった。もし本当に、人間は死ぬことによってすべてが無になってしまうのであれば、短い人生に高邁な理想を掲げて隣人愛を実践していくこともないかも知れない。死の影に怯えながらも、刹那の快楽と栄華を求めて、自己本位のエゴむき出しの生涯を終えてしまうことにもなりがちである。孔子の説くような道徳律があっても、戦争で死んでいく者にとっては何の慰めにもならない。第一、戦争そのものが国際的な道徳の破壊にほかならないからである。それからの彼は、心霊主義こそは人間が研究すべきもっとも重要な問題であることを確信しながら、絶え間のない前進を続けた。
 Conan Doyleは次のように続ける。
 
4.2  The objective side of it ceased to interest, for having made up one's mind that it was true there was an end of the matter. The religious side of it was clearly of infinitely greater importance. The telephone bell is in itself a very childish affair, but it may be the signal for a very vital message. It seemed that all these phenomena, large and small, had been the telephone bells which, senseless in themselves, had signalled to the human race: "Rouse yourselves! Stand by! Be at attention! Here are signs for you. They will lead up to the message which God wishes to send." It was not the message not the signs which really counted. A new revelation seemed to be in the course of delivery to the human race, though how far it was still in what may be called the John-the-Baptist stage, and how far some greater fulness and clearness might be expected hereafter, was more than any man can say. My point is, that the physical phenomena which have been proved up to the hilt for all who care to examine the evidence, are in themselves of no account, and that their real value consists in the fact that they support and give objective reality to an immense body of knowledge which must deeply modify our previous religious views, and must, when properly understood and digested, make religion a very real thing, no longer a matter of faith, but of actual experience and fact. (pp.25-26)

  心霊現象の客観的な現象自体は、そのような現象が実際に起こることを確信さえすればすむことであり、それ以上、どうということはないと Conan Doyleは考えた。それよりもはるかに大切なことは、心霊現象が示唆している宗教的側面なのである。 電話のベルが鳴る仕掛けは子供だましの他愛ないものかも知れないが、それがときには極めて重大な情報を伝えてくれることがある。心霊現象は、それが大がかりなものであっても些細なものであっても、いわば電話のベルに過ぎない。しかし、その「電話」は、「目覚めよ、立ち上がって備えよ、神からの人類に対するメッセージへあなたを導いているのだ」と伝えているのである。そのメッセージこそが大切にされなければならない。
 今や、新しい啓示が人類にもたらされようとしている。心霊現象そのものの信憑性は、真剣に取り組んできた人々には疑問の余地なく完全に立証されてきた。そして、その現象の示唆するメッセージが、それまでの人生観を根底から覆し、生命の死後存続がもはや信仰の領域のものではなく、確固たる客観的事実になっていくであろうと、彼は確信していたのである。
  この「死期存続が確固たる客観的事実になっていくであろう」というConan Doyle の考え方を裏付けているもののひとつが、近年特に、欧米の多くの大学医学部教授たちによって発表されてきた「臨死体験」のリポートである。そして、その臨死体験研究の基礎を築いたのが、レイモンド・ムーディ博士 (Raymond Moody, M.D.)であった。(2) 少し脇道に逸れることになるかもしれないが、それらの一部にここで触れておくことにしよう。
  レイモンド・ムーディは、臨死体験を客観的に究明した最初の科学者であり、1975年に刊行された『かいまみた死後の世界』は全世界で1千万部のベスト・セラーを記録した。18もの博士号を持ち、末期患者を精神的に支えるターミナル・ケアでは世界の第一人者といわれるアメリカの精神科医 E.キューブラー・ロス(Elizabeth Kubler-Ross) とも、その頃に知り合って、研究情報の交換をしている。
  ムーディは、同書のなかでとりあげた、死後の世界の体験例に共通してみられる現象をパターン化して、つぎのようにまとめている。

  一人の男性が死に近づいている。肉体的苦痛が頂点に達したとき、医師が自分の臨終を宣告するのが 聞こえる。すると、耳障りな音が聞こえ始める。その音は、ワアーンという大音響だったり、ブーンと うなるような音だったり、さまざまである。同時に、長いトンネルの中をすごいスピードで通り抜けていくような感覚がある。このトンネルを抜けると、突然、自分が自分自身の物理的肉体を遊離したのが分かるが、まだ自分の物理的肉体のすぐ近くにいて、一人の傍観者として皆が自分を生き返らせようと動きまわっているのを見る。
 すぐに気持ちも平静になり、この奇妙な状態に慣れる。自分の「身体」はあるのだが、これは先刻脱け出てきた「身体」とは異なった性質のものであり、異なった力を備えるものである。間もなく、新しい局面が展開し始める。他者に出会うのである。すでに他界している親類や友人もいる。そして、いままで会ったこともないような、愛と温情に溢れる霊、すなわち、光の生命が出現する。光の生命は、自分の生涯の主な出来事をフラッシュ・バックし、質問を発するが、もちろん物理的音声を用いてではない。ある時点で、明らかに現世と来世の分岐点となっている境界、あるいは限界に近づくが、自分はまだ死ぬ時ではないことに気がつく。ここで、完全な喜び、愛、平和に包まれていたい、物理的肉体に戻りたくないと抵抗するが、結局、自分の物理的肉体に戻り蘇生する。自分はこの体験を他人に話そうとするのだが、それはたやすいことではない。まず、現世のものではないものを表現する適当な言葉がないのである。その上、この話をして、人の笑いの種にもなりたくない。しかし、この体験は、その後の自分の人生に大きな影響を及ぼしている。特に死について、また、死と人生との関わり合いについて、 以前とはまったく別の見方をするようになった。(3)

 日本でも最近、立花隆氏が臨死体験を調査研究してまとめている。氏によれば、臨死体験にも文化のずれがあって、たとえば、臨死体験者が一様に見る「光」の解釈も、日本人の場合はつぎのように、欧米人の場合と同じではないという。

 日本でも、トンネルの向こうに光が見え、トンネルを抜けるとまばゆいくらい明るい世界へ入っていくという点は共通している。しかし、その光は、人格的な存在ではない。意志をもって語りかけてきたりはしない。光それ自体が神と同一視されたり、愛と同一視されるようなこともない。日本人の場合は、光はそのえもいわれぬ明るさ、美しさなどにおいては超自然的だが、光はあくまで光であって、無機質の環境条件でしかないのである。(4) 

  立花氏は、臨死体験の調査研究にあたっては、日本国内のみならずアメリカにも出かけて、数多くの研究者と接触してきた。キュブラー・ロスにも会って、詳細な研究情報の収集をしている。(5) 臨死体験の文化によるずれについても、氏は直接彼女に率直な疑問を提示した。臨死体験が人間であるが故に万人に普遍的な体験であるとするなら、現象的にしろ、なぜ体験内容が違ってくるのか。民族や文化の違いは、死後の世界にも持ち越されるということか。死後の世界が普遍的なら、体験内容も同じになるはずではないのか、と聞いてみたのである。これに対して、キュブラー・ロスはつぎのように答えた。

  私はこう思うのです。臨死状態で体験するのは、死後の世界そのものではなく、生から死への移行過程なのではないか。臨死体験者というのは、死んでしまった人ではなく、生き返る人なのです。死後の世界に完全に移行した人ではないのです。いわば彼は、死後の世界においては、生まれたばかりのヘソの緒をつけた状態の赤ちゃんのようなものです。赤ちゃんはヘソの緒を切らない限り、本当の意味でこの世に生まれたことにはなりません。ヘソの緒を切らなければ、もう一度お母さんの胎内に戻ることだって可能なわけです。臨死体験者はそういうヘソの緒つきの死者なのです。ヘソの緒によってこの世とつながっている。だから戻ることもできる。本当の死を体験するのは、そのヘソの緒が切られてからなのです。それが切られたら、もうこの世には戻ってこれない。だから、臨死体験者が語っているのは、あくまでもヘソの緒つきの状態で、生と死の境界領域をさまよった時の体験なのです。
  では、その向こうには何があるのか。恐らく、臨死体験者が語る「光の世界」というのが、その向こうにあるものをかいま見た体験なのでしょう。その向こうが本当のところどうなっているかは、本当に死なないかぎりわからないことだと思います。いずれにせよ、その向こうの世界は、純粋にスピリチュアルなエネルギーに支配された世界なのでしょう。では、臨死体験が起こる境界領域はどういう世界なのかというと、心霊的エネルギーに支配された世界だろうと思うのです。われわれの住むこの世界は、よく知られているように物理的エネルギーで支配されています。結局この世とあの世とその境界の三つの世界はそれぞれに異なるエネルギーで支配された世界で、それぞれ異なるリアリティをもっているということです。いわゆる超常現象が起こるのは、心霊的エネルギーの世界です。それは、表現を換えれば、心霊的エネルギー世界のリアリティが、物理的エネルギーの世界では、超常現象と見なされるということです。
 心霊的エネルギーの世界では、物理的エネルギーの世界では考えられないようなことが起こります。心霊的エネルギーの世界では、現実のあり方が物理的世界とは全く変わっているからです。物理的世界では、存在は客観的で普遍的ですが、心霊的エネルギーの世界では、存在は客観的でも普遍的でもなく、主体によって作り出されるものです。現実は主観的なのです。臨死体験のリアリティは、体験者が作り 出しているリアリティなのです。だから、人によって体験内容がちがってくるのは当たり前なのです。(6)

  キュブラー・ロスは、そういう考え方は多くの臨死体験者に接しているうちに、徐々にわかってきたのだという。彼女はさらにつぎのように続けた。

  私はもともとサイエンティストとしてトレーニングを受けた人間です。物理的リアリティ意外のものに対しては疑いの目を向けるように訓練された人間ですから、サイキックな、あるいはスピリチュアルな世界について語ることには抵抗がありました。科学者とか医者は、そういう領域には足を踏み入れてはならないものとされていました。そういう領域の現象は、基本的に証明することも、確認することもできないことだからです。しかし、現実に体験者の話を次々に聞いていくと、逆に、そういう現象に目を向けようともせず、耳を傾けようともしないほうが科学者として誤りだと思うようになったのです。 そして、医者が幻覚とか精神異常といったレッテルを貼るだけで、それ以上相手にしない患者の話をま じめに聞いてみると、その中に無視しがたい真実があるということがわかってきました。(7)

  そして彼女は、そういうことが、本当に真実であるとわかったのは、自分自身も臨死体験をしたからだと、言ったのである。彼女の臨死体験を聞いてみることにしよう。

  正確な日付は覚えていないのですが、スイスに久しぶりに帰ってきて、妹と会ったときです。私は実は三つ子の三人姉妹の一番上なのです。妹二人はスイスに住んでいます。その時、ドイツの大学で四週間の集中講義をして、数日後には、カナダのモントリオールで開かれるホスピスに関する国際セミナーに参加することになっていました。その間の二日間を利用して、妹に会いに、チューリッヒにやってきたのです。三人で夜遅くまで楽しくおしゃべりして、その夜は、片方の妹のところに泊まりました。
  その翌朝、スーツケースを詰めて、部屋の掃除もすませ、あとは空港に行くばかりというところまで準備をととのえた上で、朝食のコーヒーに手をのばしました。それを一口すすって、タバコを一服したとたん、私は急に意識が薄れ、そのまま倒れてしまいました。あ、私は死ぬところなんだ、というのが直感的にわかりました。そのとき、私の目の前に妹がいました。私は、せっかく妹の前で死ぬのだから、自分の死のプロセスがどういう風に進行していくのか、逐一言葉にして彼女に伝え、エリザベス・キュブラー・ロスがいかに死んだかを、彼女に語り伝えてもらおうと思ったのです。そこで、大声で妹に、「ねえ、わたし死ぬのよ!」と叫びました。足先から体の上のほうに、熱い波のようなものが上昇してきました。この波が上まできたら、きっと私は死ぬと思いました。
  そのとき私はまだ自分の寿命がきているとは思っていませんでした。あと十年か十五年かは生きるだろうと思っていました。しかし、私は死を恐れてもいなければ、忌み嫌ってもいませんでした。死は、この世を卒業することだと思っていましたから、むしろ、喜び祝うべきことだと思っていました。だから、自分が死に近づきつつあるということが嬉しくて興奮しきっていました。そして、大声を出して早口で妹に、自分の心境や刻一刻変わっていく生理的感覚の変化などを、まるで競馬の実況放送でもやっているかのようにしゃべり続けました。とても暖かくていい気持ちだとか、とても嬉しい、大感激しているとか、自分の死の実況放送をしたのです。
 そして最後に、臨死体験の領域を飛び越えて、まるで、滑走するスキーのジャンプ選手のように身構えました。すると次の瞬間、私は、花でいっぱいの峠の山道に立っていました。それはスイスの山道でした。臨死体験では、必ず生と死の境界ともいうべき場所に出ますが、それがどういう場所になるかは、文化によって、個人によってまちまちです。川である場合もあれば、橋である場合もあります。私の場合はいかにもスイス的な峠の山道だったわけです。そこで、私は人生のパノラマ回顧も体験しました。私の人生のすべての行為、すべての言葉、すべての考えがよみがえりました。それから、その向こうに光り輝く光の世界があり、私はそこに一直線に飛び込んでいきました。そこは本当に安らぎと愛に満ちた世界でした。
  しかし残念ながら、次の瞬間、私は意識を回復していたのです。私の時はまだ来ていなかったのです。妹が真っ青な顔をして私をのぞき込んでいました。
  『私の実況放送、聞いた?』と聞くと、彼女はキョトンとして、私が発したのは、最初の、『ねえ、わたし死ぬのよ』 の一語だけで、あとは一言も言葉を発しなかったというのです。(8) 

  この後で、話は体外離脱にまで及んだ。立花氏が念のために、臨死体験のほかに、体外離脱をしたことがあるか、と聞いてみたのである。すると思いがけなく、彼女はつぎのように答えた。

 あります。何度もあります。好きなときに好きなように離脱できるわけではありませんが、十五年ほど前に、宇宙意識セミナーに出て、人間は誰でも体外離脱能力を持っており、訓練によってその能力を引き出すことができるということを学び、それができるようになったのです。そういうことができる人が、何千人、何万人といるのです。
 (体外離脱して)いろんなところへ行きます。その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、別の銀河まで行ってしまうこともあります。ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行って来ました。そこの人たちは、地球人よりずっと優れた文明を持っていて、「地球人は地球を破壊しすぎた。もう元に戻らないだろう。地球が再びきれいになる前に、何百万人もの人間が死ぬ必要がある」といっていました。(9)

  これがたとえば、一人の教養のない人間の言ったことであれば、あるいは、単なる幻想にすぎないと一笑に付すこともできるかもしれない。しかし、これを言っているのがキュブラー・ロスであるとなると、おのずからその重みが違ってくる。このような例はまだいくつもある。あのスイスの精神医学の巨人、C.G.ユングにも、彼が自ら書き記した体外離脱の証言があることを立花氏は紹介している。

  1944年のはじめに、私は心筋梗塞に続いて、足を骨折するという災難にあった。意識喪失の中で譫妄状態になり、私はさまざまの幻像を見たが、それはちょうど危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときに始まったに違いない。幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付き添っていた看護婦は、『まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした』といっていたが、彼女の付け加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。私は死の瀬戸際にまで近づいて、夢見ているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。
  私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるか彼方にはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光 に照らし出されて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のよう な濃緑の斑点をつけていた・・・・
 どれほどの高度に達すると、このように展望できるのか、あとになってわかった。それは、驚いたことに、ほぼ一五〇〇キロメートルの高さである。この高度から見た地球の眺めは、私が今までにみた光景の中で、もっとも美しいものであった。
  しばらくの間、じっとその地球を眺めてから、私は向きをかえて、インド洋を背にして立った。私は北面したことになるが、そのときは南に向いたつもりであった。視野の中に、新しい何かが入ってきた。ほんの少し離れた空間に、隕石のような、真黒の石塊がみえたのである。それはほぼ私の家ほどの大きさか、あるいはそれよりもう少し大きい石塊であり、宇宙空間にただよっていた。私も宇宙にただよっていた。」
 (ユングが宇宙空間で出会った黒い大きな石塊は、その中がくり抜かれて、ヒンズー教の礼拝堂になっていた。その中にユングは入っていく。)
 「私が岩の入口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり私はすべてが脱落していくのを感じた。私が目標としたもの、希望したもの、思考したものすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬燈の絵のように私から消え去り、離脱していった。この過程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものもいくらかはあった。それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあるような実感であった。それらは私とともにあり、私がそれらそのものだといえるかもしれない。いいかえれば、私という人間はそうしてあらゆる出来事からなりたっていた。私は私自身の歴史の上になりたっているということを強く感じた。これこそが私なのだ。「私は存在したもの、成就したものの束である」。(10)

  この最後の「わたしは存在したもの、成就したものの束である」は、実に示唆に富んだことばで、高級霊からの霊界通信を思い起こさせる。ユングは、このほかにも宇宙から眺めた地球の姿を詳しく述べているのだが、それは立花氏をも驚ろかせた。ガガーリンが宇宙から地球を見て、「地球は青かった」と言うまでは、誰も宇宙から地球を見れば青く見えることは知らなかった。それをユングは、ガガーリン以前にそれを書いていたからである。それでもなお、彼の体外離脱を否定するというのは、客観的に見てもかなりの無理があると言わなければならない。
  このあたりでまた、もとのConan Doyleに戻ることにしよう。死後存続はもはや信仰の領域ではなく、客観的事実になっていくであろうと彼は述べていたのであった。そして、そのような彼にとっては、次のような偏見や無知から来る反論も、もう恐れるに足るものではなかった。

4.3  There have always been two lines of attack by our opponents. The one is that our facts are not true. This I have dealt with. The other is that we are upon forbidden ground and should come off it and leave it alone. As I started from a position of comparative materialism, this objection has never had any meaning for me, but to others I would submit one or two considerations. The chief is that God has given us no power at all which is under no circumstances to be used. The fact that we possess it is in itself proof that it is our bounden duty to study and to develop it. It is true that this, like every other power, may be abused if we lose our general sense of proportion and of reason. But I repeat that its mere possession is a strong reason why it is lawful and binding that it be used.
   It must also be remembered that this cry of illicit knowledge, backed by more or less appropriate texts, has been used against every advance of human knowledge. It was used against the new astronomy, and Galileo had actually to recant. It was used against Galvani and electricity. It was used against Darwin, who would certainly have been burned had he lived a few centuries before. It was even used against Simpson's use of chloroform in child-birth, on the ground that the Bible declared "in pain shall ye bring them forth." Surely a plea which has been made so often, and so often abandoned, cannot be regarded very seriously. (pp.27-28)

  当時の心霊研究に反対している勢力に二種類あった。一つは、心霊現象は全部嘘であると決めてかかっている連中である。それはもう Conan Doyle によってこれまでに十分論破されてきたといえる。もう一つは、キリスト教からきているもので、spiritualism は神の領域を冒しているのでそこからは離れるべきだ、というものである。しかし、Conan Doyle には、はじめからほとんどキリスト教信仰はなかったから、そのような警告は何の意味も持たなかった。彼の考えはこうである。
 まず、心霊主義の能力が問題にされるが、もともと使ってはならない能力を神が授けるはずはない。むしろ、そういう能力があること自体が、その能力を正しく研究し発達させる義務があることの証明ではないのか。もちろん、他のすべての能力と同じくこの能力も、分別と良識を失えばその使用を誤ることがあるのは否定できない。 
  つぎに、このような「禁じられた知識」に対する反対は、聖書などのことばを根拠にして、これまでの人類の進歩をことごとく阻害してきたことも指摘されなければならない。そのためにたとえばガリレオは、地動説を撤回せざるをえなかったし、一九世紀の電気時代を招来したガルバーニの実験も、はじめは全く相手にされなかった。『種の起源』のダーウィンも、もう二、三世紀早く生まれていたら間違いなく火刑に処せられていたであろう。シンプソン博士がクロロホルムを使用して無痛分娩を行ったときには、聖書に、「痛みのなかで出産する」と書かれていることを理由に非難されるという愚かしいこともあった。結局、どれひとつとして、非難や反対が勝利を収めて事実が覆されたことはない。不真面目な言いがかりは、まじめに取り上げる価値さえないものである。
 このように述べて、Conan Doyle は spiritualism に対する確信をますます深めていった。キリスト教信仰を持たなかった Conan Doyle にとっては、spiritualism こそ、キリスト教を超えた宗教、真の宗教であった。

4.4  It has been asserted by men for whose opinion I have a deep regard--notably by Sir William Barrett--that psychical research is quite distinct from religion. Certainly it is so, in the sense that a man might be a very good psychical researcher but a very bad man. But the results of psychical research, the deductions which we may draw, and the lessons we may learn, teach us of the continued life of the soul, of the nature of that life, and of how it is influenced by our conduct here. If this is distinct from religion, I must confess that I do not understand the distinction. To me it is religion--the very essence of it. But that does not mean that it will necessarily crystallise into a new religion. Personally I trust that it will not do so. Surely we are disunited enough already. Rather would I see it the great unifying force, the one provable thing connected with every religion, Christian or non-Christian, forming the common solid basis upon which each raises, if it must needs raise, that separate system which appeals to the varied types of mind. The Southern races will always demand what is less austere than the North, the West will always be more critical than the East. One cannot shape all to a level conformity. But if the broad premises which are guaranteed by this teaching from beyond are accepted, then the human race has made a great stride towards religious peace and unity. (pp.32-33)  

  Conan Doyleが深く敬意を払っていた先生方、とりわけウィリアム・バレット卿は、心霊研究とは宗教と全く縁のないものだと主張していた。心霊研究家としては立派でありながら人間的には感心できない人もいることを考えれば、そういう言い方もわからないことではない。しかし、心霊研究の研究成果と、そこから導かれる推論、そしてそれが示している教訓は、魂の死後存続の事実や死後の世界の様子、そしてまた、それがこの世の生き方によってどう影響されるかについての情報なのである。それがどうして宗教と無縁でありうるのだろうか。Conan Doyle にとっては、spiritualism こそ、まさに宗教そのもの、宗教の真髄であった。
  といっても、Conan Doyle は、spiritualismが新しい宗教の体系を持つようになると考えていたわけではない。彼はむしろそういうふうにはならないと固く信じていた。いうまでもなく、地上人類は宗教的には多様に分離されている。そのなかで、ありとあらゆる宗教がさまざまなタイプの人間の心に訴える固有の体系を確立するような必要がもしあるとすれば、そのようなときにこそ、その共通の基盤としてspiritualism が統合的要素の働きをするであろうと考えていたのである。
  南方の民族は概して北方の民族よりも厳格さの少ないものを求める傾向があるし、西方の民族は東方の民族よりも常にものを見る目が厳しい。すべてを同列に考えてはならない。しかし、霊的教訓によって確認された宗教的大前提が広く受け入れられるようになれば、宗教界の調和と一体化へ向けて、大きな一歩を踏み出すことになると彼は考えていた。

4.5  The question which faces us, then, is how will this influence bear upon the older organized religions and philosophies which have influenced the actions of men. The answer is, that to only one of these religions or philosophies is this new revelation absolutely fatal. That is to Materialism. I do not say this in any spirit of hostility to Materialists, who, so far as they are an organized body, are, I think, as earnest and moral as any other class. But the fact is manifest that if spirit can live without matter, then the foundation of Materialism is gone, and the whole scheme of thought crashes to the ground.
   As to other creeds, it must be admitted that an acceptance of the teaching brought to us from beyond would deeply modify conventional Christianity. But these modifications would be rather in the direction of explanation and development than of contradiction. It would set right grave misunderstandings which have always offended the reason of every thoughtful man, but it would also confirm and make absolutely certain the fact of life after death, the base of all religion. It would confirm the unhappy results of sin, though it would show that those results are never absolutely permanent. (pp.33-34)

  そこで問題になるのは、これまで人類に影響を与えてきた伝統的な宗教と人生思想にこのspiritualism の新しい啓示がどのように影響を及ぼしていくかである。わかっていることは致命的な打撃を受けるものは一つしかない、ということである。それは唯物思想である。Conan Doyle はもちろん、きちんとした思想体系を持つ唯物思想にはじめから敵意を抱いていっているわけではない。ただ、魂が物質を離れて存在するという事実が確立された以上、唯物思想の根底が無くなったことになり、必然的にその思想体系は、崩れさってしまうことになると考えたのである。
  その他の思想についてはどうか。もし霊界からもたらされた教えを受け入れることになれば、伝統的なキリスト教思想は大幅に書き改められなければならないであろう。しかしそれは、spiritualism とキリスト教が正面衝突するという意味ではない。そうではなくて、キリスト教の本来の意味を正しく解説し発展させていくという意味での方向修正である。
  たとえば、spiritualism は、キリスト教の中で良識ある人間が理性的に考えて明らかにおかしいと思える誤りについては、それらを正していくことになるであろう。それはまた、死後の生命の存続の事実という宗教の絶対的基盤を改めて確認し、現実的なものにしていくことにもなる。罪悪にはそれ相当の罰が伴うのはその通りであるが、永遠の煉獄のようなものは存在しないことも明らかにされていくはずである。
  だから、このspiritualism の新しい啓示は、古い信仰を破壊するものではない。それは、すべての宗教における真摯な求道者にとっては、悪魔にそそのかされた油断のならない敵なのではなく、むしろ、強力な味方として、大歓迎されてしかるべきだと Conan Doyle はつけ加えるのである。(Thus this new revelation, on some of the most vital points, is not destructive of the old beliefs, and it should be hailed by really earnest men of all creeds as a most powerful ally rather than a dangerous devil-begotten enemy.)
  では、たとえば、キリスト教で修正されるべきなのはどういうところか。その点に焦点をあてて Conan Doyleの指摘をつぎにみていくことにしよう。

4.6  People are alienated because they frankly do not believe the facts as presented to them to be true. Their reason and their sense of justice are equally offended. One can see no justice in a vicarious sacrifice, nor in the God who could be placated by such means. Above all, many cannot understand such expressions as the "redemption from sin," "cleansed by the blood of the Lamb," and so forth. So long as there was any question of the fall of man there was at least some sort of explanation of such phrases; but when it became certain that man had never fallen--when with ever fuller knowledge we could trace our ancestral course down through the cave-man and the drift-man, back to that shadowy and far-off time when the man-like ape slowly evolved into the ape-like man--looking back on all this vast succession of life, we knew that it had always been rising from step to step. Never was there any evidence of a fall. But if there were no fall, then what became of the atonement, of the redemption, of original sin, of a large part of Christian mystical philosophy? Even if it were as reasonable in itself as it is actually unreasonable, it would still be quite divorced from the facts. (pp.34-35)

  大衆が教会に背を向けていく最大の理由は、率直にいって、牧師の説くことを信じなくなったからである。理性と良識が等しく反撥するのである。イエスによる身代わりの概念が納得できないし、そんなことで宥められるという神の概念がさらに納得しがたいのである。
  さらに、「罪の購い」だの、「子羊の血によって浄められる」などといった表現が理解できない。「人類が堕落した」ことが問題であるというのであれば、このような表現にもいくらかの意味があるかもしれない。しかし実際には、人類は一度も堕落などしてこなかった。人類は、穴居生活や放浪生活をしていた時代、さらにさかのぼって、類人猿から類猿人へと進化してきた時代を通して、連綿と続く途方もなく長い生命の歴史のなかで、ひたすら一歩一歩、進化向上を続けてきたのである。しかし、このように人類が一度も堕落などしていないとなると、いったい贖罪だの、救いだの、その他、キリスト教の謎めいた思想の大部分はどうなるのか、ということになる。神学体系の中ではいかようにも理屈づけできるであろうが、それはどう考えても、事実からはかけ離れているといわざるをえない。
  Conan Doyle はまた、キリスト教ではイエスの死を大げさに扱いすぎているという。信仰のために死ぬのは別に珍しいことではなく、どの宗教にも殉教者というのはいるのである。むしろ、イエスの偉大さと本当の教訓は、その日常生活にあったとみるべきである。聖書という限られた範囲の記録でみる限りでも、イエスのとった態度に見苦しいものは何一つ無い。人への思いやり、優しい慈悲心、ゆとりのある中庸性、穏やかな勇気、常に進歩的で新しいものを受け入れていく態度、それでいて自分が改めさせようとしていた旧式の考えに対しても必ずしも辛辣でなかった点などが、もっと強く認識されなければならない。
  要するに、キリスト教の核心は、イエスの死ではなく、イエスが見せた生き様の中での素晴らしい非凡さなのである。そのようなキリスト教の核心部分が、初期キリスト教時代にすでに失われてしまった。この点について彼はまた、つぎのようにいう。

4.7 When I read the New Testament with the knowledge which I have of Spiritualism, I am left with a deep conviction that the teaching of Christ was in many most important respects lost by the early Church, and has not come down to us. All these allusions to a conquest over death have, as it seems to me, little meaning in the present Christian philosophy, whereas for those who have seen, however dimly, through the veil, and touched, however slightly, the out-stretched hands beyond, death has indeed been conquered. (p.36)

  Conan Doyleは、spiritualism の知識に照らしながら新約聖書を改めて読み直してみた。そして、イエスの教えの肝心なところが、キリスト教の初期の時代にすでに失われてしまっていて、その後のキリスト教徒がそれについて何も知らずにいることを知り、深く考え込んでしまう。現代に伝えられているキリスト教思想では、死を克服するという大問題があまり意味を持つようには思えないのである。その問題は、spiritualism の霊媒現象を通して死後の真相をかいま見た者にとっては完全にクリアされているのにである。したがって、いまの多くのキリスト教徒たちには、つぎのような聖書に出てくる超常現象についても、その本当の意味を理解することが少ないといえるのかも知れない。

4.8  When we read so many references to the phenomena with which we are familiar, the levitations, the tongues of fire, the rushing wind, the spiritual gifts, the working of wonders, we feel that the central fact of all, the continuity of life and the communication with the dead, was most certainly known. Our attention is arrested by such a saying as: "Here He worked no wonders because the people were wanting in faith." Is this not absolutely in accordance with psychic law as we know it? Or when Christ, on being touched by the sick woman, said: "Who has touched me? Much virtue has passed out of me." Could He say more clearly what a healing medium would now say, save that he would use the word "power" instead of "virtue"; or when we read: "Try the spirits whether they be of God," is it not the very advice which would now be given to a novice approaching a seance?

  聖書のなかには、現代でいう浮揚現象、一陣の風、霊的能力、超常現象といったものが実に多く出てくる。それを読んでいると、最も重大な中心的課題である死後の生命の存続と死者との交信は、聖書が書かれた当時は間違いなく知られていたのであろう。「ここの者たちは信じる心を持たないから不思議現象は起こさなかった」などということばに見られるイエスの考えは、心霊研究によって明らかにされている心霊法則と完全に一致しているといえる。
  また、病気の女性がイエスの体に触れたとき、「いまわたしに誰か触りましたね?わたしのからだから力が抜け出ていきました」とイエスは言ったと書かれているが、この力なるものは、現代の心霊治療家が”霊力”と読んでいるものと同じであるに違いない。さらに、「まずそのスピリットの本姓を試せよ」という戒めなどは、安易に霊能者を頼りにする無知な人間に対する格好のアドヴァイスといえるかもしれない。
  Conan Doyleがこのような言い方をしているのは、いうまでもなく、霊媒を通してスピリットから受け取る通信が、常に純粋な霊的通信であるるとは限らないからである。高級なスピリットからの通信であっても、それが霊媒という人間の意識中枢を通過する以上は、百パーセントの純度を保つことはまずありえないと考えてよい。したがって通信の純粋さは、どこまで霊媒の潜在意識を排除できるかにかかっている、といえるであろう。(11)  
 

   5.

5.1  Why was this tremendous experience forced upon mankind? Surely it is a superficial thinker who imagines that the great Designer of all things has set the whole planet in a ferment, and strained every nation to exhaustion, in order that this or that frontier be moved, or some fresh combination be formed in the kaleidoscope of nations. No, the causes of the convulsion, and its objects are more profound than that. They are essentially religious, not political. They lie far deeper than the national squabbles of the day. A thousand years hence these national results may matter little, but the religious result will rule the world. That religious result is the reform of the decadent Christianity of to-day, its simplification, its purification, and its reinforcement by the facts of spirit communion and the clear knowledge of what lies beyond the exit-door of death. (pp.77-78)

  人類は、なぜ第一次大戦のような、あんな悲劇を体験させられたのであろうか。万物の創造主が新しい民族の連帯関係を作り上げるために、地球上の全人類を坩堝の中に入れて混ぜ返し、極端に疲弊させているのだと考えるような浅はかな人間もいるようである。しかし、この戦乱の原因とその目的は、そんなものよりもはるかに深遠なのである。本質的には宗教的なものであり、政治的なものではない。小さな国家間の争いなどを超えたもっと深いところに大戦の意味がある。
  このような国家間の政治問題の帰結は、これから千年もたてば、もうその意味は殆どなくなってしまっているだろう。そして逆に、宗教的意味の重要性が世界的に広がっていることであろう。その宗教的意味とは、今日の退廃的なキリスト教の大改革である。新しい形による霊的交流と、その結果として得られた死後の明確な実相を取り入れることによって、複雑に絡み合った現在の教団組織を思い切って簡素化し、不純な人工的教義を取り除き、活性化していくことである。Conan Doyle はこのように述べたあとで、さらに次のように言い切った。

5.2  The shock of the war was meant to rouse us to mental and moral earnestness, to give us the courage to tear away venerable shams, and to force the human race o realise and use the vast new revelation which has been so clearly stated and so abundantly proved, for all who will examine the statements and proofs with an open mind. (p.78)

  大戦によるショックは、われわれ人類に精神的ないしは道徳的に真摯になることを促し、勿体ぶった宗教的見せかけの仮面をはぎ取る勇気を与え、そうして、壮大な新しい啓示を真に理解して取り入れざるを得ないように仕向けるためだったのだ。偏見のない心の持ち主であるならば誰でも、近代 spiritualism が収集した証拠と霊界通信が、質量ともに文句のつけようのないものであることに納得がいくはずである。Conan Doyle はこのように述べて、spiritualism という名の新しい啓示そのものの真実性について絶対的な自信を持ちながらキリスト教の改革をつぎのように説いていった。

5.3  The first is that in the Bible, which is the foundation of our present religious thought, we have bound together the living and the dead, and the dead have tainted the living. A mummy and an angel are in most unnatural partnership. There can be no clear thinking, and no logical teaching until the old dispensation has been placed on the shelf of the scholar, and removed from the desk of the teacher. It is indeed a wonderful book, in parts the oldest which has come down to us, a book filled with rare knowledge, with history, with poetry, with occultism, with folklore. But it has no connection with modern conception of religion. (p.80)

  まず、現在の欧米人の宗教思想の根幹となっている聖書には、生命ある新約と生命なき旧約が同居していて、後者が前者を汚染している事実が指摘されなければならない。これはたとえば、ミイラと天使が同棲しているようなもので、どう考えても不自然である。
  旧約聖書は宗教学者の手にゆだねられているうちは害は少ないが、それが教えを説く者や指導する者の手にゆだねられては、明快な思考も筋の通った教えも不可能になる。確かに一冊の書物として読むときは素晴らしい本である。最古の物語もあり、豊富な知識が盛り込まれており、歴史あり、詩歌あり、オカルトあり、伝説ありで、読む者を飽きさせない。しかし旧約は、現代的な意味での宗教とは全く無縁である。
  彼はさらに続けてつぎのようにも述べる。

5.4  Two contradictory codes have been circulated under one cover, and the result is dire confusion. The one is a scheme depending upon a special tribal God, intensely anthropomorphic and filled with rage, jealousy and revenge. The conception pervades every book of the Old Testament. Even in the psalms, which are perhaps the most spiritual and beautiful section, the psalmist, amid much that is noble, sings of the fearsome things which his God will do to his enemies. "They shall go down alive into hell." There is the keynote of this ancient document--a document which advocates massacre, condones polygamy, accepts slavery, and orders the burning so-called witches.(p.80)

 君臨するのは特殊な民族の「神」で、これがまたひどく人間的で、怒ったり嫉妬したり復讐したりする。それが旧約聖書の全編にゆきわたっている。そのなかで最も霊的で美しいとされている詩編でさえ、その「神」が仇敵に仕返しをする恐ろしい話を歌っている。大量虐殺をそそのかし、一夫多妻を大目に見、奴隷制度を認め、いわゆる魔女を焼き殺すことをも命じる「神」である。
  この理不尽な掟を口実にして、過去にどれほど多くの残虐が行われてきたことか。特に宗教戦争においてそうであった。みな旧約聖書からの思いつきだったのである。新約聖書のほうが重んじられている Conan Doyle の時代でさえも、キリスト教の教えは、どぎつい旧約聖書によって光を曇らされていると彼は考えていた。
  Conan Doyleはこのように、キリスト教批判を続けていくが、もちろん、そのように批判してきたのは、彼ばかりではない。古来、さまざまな分野の学者、研究者のみならず、聖職者の中からさえも、現われては消え、消えては現われていた。最近の日本でも、例外ではない。つぎに引用するのは、その一例である。
  この筆者は,神学を学んだ聖書研究の専門家とされているが、キリスト教を批判してこう述べている。

  キリスト教は長い間、自ら「愛の宗教」であるという専売特許的自己宣伝をしてきたし、多くの人々もキリスト教と聞けば、それが「愛の宗教」と思っているようだ。確かにキリスト教も「愛」を説いてはいる。だが、およそ真っ当と言われる宗教で「愛」や「慈悲」を説かない宗教などないのであるから、このテーマは当然のことながらキリスト教の専売特許ではない。むしろキリスト教で際立っているのは、一方で「愛」を説きながら、他方で異端狩り、異教徒狩り、ユダヤ教徒狩り、魔女狩り、異端裁判、宗教裁判、宗教戦争、植民地主義化の残虐な過程への荷担などにおいて果たした恐るべき役割である。キリスト教を他の宗教から際立たせているのは、「愛敵」の実践などではなく、イエスという人物こそが、唯一絶対で最後的なメシア・キリストであり、そのことを信じることが救済の唯一絶対の条件であると 主張するということにおいてである。実際、キリスト教の中心的な教えは「愛」ではないし、イエス 自身もそういう言い方はしていない。(12)   

  この「キリスト教が果たした恐るべき役割」 に対する批判は、まさに、Conan Doyle の批判と軌を一にする。彼はそのためにこそ、声を大にして改革の必要を叫んできたのであった。しかしこれは、spiritualism に基づくConan Doyle の批判とはもともと異質のものである。この批判はつぎのように続くが、表現の仕方の問題があるにしても、これはspiritualism とは全く無縁であることを示している。

  近代以降の歴史的・批判的研究をきちんと踏まえたならば、伝統的・正統的なキリスト教という宗教を、イエスが作ろうとしたことは考えられないし、そもそもイエスの十字架上の血があらゆる時代のあらゆる人々の罪を償うためのものであったとか、そのイエスが三日目に死人のうちから復活したというようなことが 歴史的事実として生起したなどということを、認めることはできない。そういうことを実体的・史実的事実だなどというのは、端的に迷信にすぎないと言えよう。近代プロテスタンティズムに発する長い探求をまともに受けとめれば、そういうことは当然のことである。そういう認識は、あまりにも当たり前の話であって、史実的事実としては、そういうことはありえないということを、牧師であろうと神学者であろうと、正直かつ明確に承認すべきであると思う。(13)  

5.5  The second is less important, as it is a shifting of the point of view, rather than an actual change. It is to be remembered that Christ's life in this world occupied, so far as we can estimate, thirty-three years, whilst from His arrest to His resurrection was less than a week. Yet the whole Christian system has come to revolve round His death, to the partial exclusion of the beautiful lesson of His life. Far too much weight has been placed upon the one, and far too little upon the other, for the death, beautiful, and indeed perfect, as it was, could be matched by that of many scores of thousands who have died for an idea, while the life, with its consistent record of charity, breadth of mind, unselfishness, courage, reason, and progressiveness, is absolutely unique and superhuman. (p.81)

  キリスト教において、認識が改められなければならないと Conan Doyle が考えるもう一つの点は、前者ほどは重要ではない。ほんの少し、視点を変えるだけのことである。
  よく知られているとおり、イエスが地上で生活したのは、聖書の記述から推定するかぎり、わずか33年であり、捕縛から処刑、そして蘇りまでは一週間足らずにすぎない。それにも関わらず、 総体的に見て、キリスト教の中心はその悲劇的な”死”にあり、死に至るまでの美しい生涯にはあまり重点をおかれていない。どちらも大切ではあるが、すでに4-6 で引用したように、Conan Doyle は、キリストの死に様よりも生き様にもっと重点をおくべきだと考えていた。
  確かにイエスの死は美しく、感動的である。しかし、真理のために身を犠牲にした例は、なにもイエス一人ではない。それに匹敵する例を歴史の中に拾えば、何十人でもあげることができる。しかし、イエスの生き様――その生涯を一貫して流れる隣人愛、心の広さ、無私の心、勇気、理性的判断力、進歩性などに焦点を当てたとき、そこには超人的ともいえるほどの群を抜いた人物像が浮かび上がってくるのである。
  Conan Doyleは、イエスほどの高級霊がこの地上に降誕した本当の目的は、人類に魂を鼓舞する手本として人類に教え示すことにあったと考えていた。イエスの最後は確かにその気高い生涯にふさわしいものであり、有終の美を飾ったといえるかも知れない。しかし、人類の宗教にとっての永続性のある基盤を残してくれたのは、イエスの生き様であった。もしも人類が、イエスの生き様を、日常生活における行為と宗教の規範として仰いできていたのなら、後世に生じた宗教戦争も、個人同士の敵対感情も、宗教的派閥の対立による悲劇も、全面的には回避されなかったにせよ、少なくとも最小限にとどまっていた、と彼は主張する。
  イエスの生涯を煎じ詰めれば、当時の伝統的宗教であったユダヤ教を強健な常識と勇気を持って糾弾し、儀式典礼の無意味さを白日の下にさらし、それに代わる霊的真理を説いたということに尽きるであろう。もしもイエスが、童子のごとき素直さでユダヤ教を信奉していたのなら、キリスト教は生まれなかった。イエスは、当時の伝統的宗教の間違いを指摘し、聖職者階級の堕落を糾弾したのである。キリスト教徒たちは、その点に思いを馳せ、勇気を持って新しい啓示である spiritualism に耳を傾けるべきではないか。イエスは一度たりとも、自分のもたらした啓示がすべてであり最終的なものであるとは言っていないのである。

5.6  In regard to the Old Testament I have never seen the matter treated in a spiritual communication. The nature of Christ, however, and His teaching, have been expounded a score of times with some variation of detail, but in the main as reproduced here. Spirits have their individuality of view, and some carry over strong earthly prepossessions which they do not easily shed; but reading many authentic spirit communications one finds that the idea of redemption is hardly ever spoken of, while that of example and influence is for ever insisted upon. In them Christ is the highest spirit known, the son of God, as we all are, but nearer to God, and therefore in a more particular sense His son. He does not, save in most rare and special cases, meets us when we die. Since souls pass over, night and day, at the rate of about 100 a minute, this would seem self-evident. After a time we may be admitted to His presence, to find a most tender, sympathetic and helpful comrade and guide, whose spirit influences all things even when His bodily presence is not visible. This is the general teaching of the other world communications concerning Christ, the gentle, loving and powerful spirit which broods ever over that world which, in all its many spheres, is His special care. (pp.84-85)

 以上述べてきた旧約聖書の問題は Conan Doyle の個人的見解であるが、キリストの実像とその教えの本質については、霊界通信でもたびたび取り上げられているテーマである。霊界通信は、通信霊がいま霊界で置かれている位置によって視点が異なるし、さらには、地上時代に吹き込まれた信仰が先入観となって根強く残っていることもある。しかし,そういう点を考慮したうえで信頼のおける通信を読んでみて、第一にいえることは、キリストによる罪の購いなどというものは全くといってよいほど説かれていないということである。
  キリストが地上人類として空前絶後の最高級霊の降誕であることは霊界通信の中でも異口同音に認められている。その意味では確かに神の子と呼ぶにふさわしいが、われわれも同じく神の子であり、ただ、キリストのほうがより神に近い存在であったというにすぎない。
  Conan Doyle はここで、「われわれも神の子」という言い方をしているが、これは、彼のきわめて鋭い洞察である。たとえば、1926年11月23日生まれの現代インドの聖者、サイ・ババもよくそういう言い方をする。ここでちょっと立ち止まって、サイ・ババの誠実な信者であるオーストラリアの一作家がこの点について述べていることに、目を向けてみよう。
 
  インタビューの部屋から姿を見せたサイ・ババは、庭にいる私たちに向かって歩いていた。私のすぐ 横には若いインド人がいた。彼はサイ・ババが横を通り過ぎようとした瞬間、「あなたは神ですか」と 突飛な質問を投げかけた。
  自分自身ではなかなか解けない疑問を、直接本人から聞いてみようとしたに違いない。突然質問され たサイ・ババは、この男を見つめてゆっくりと、 
 「神はあなただ」と言った。
  当時私は、神は私たち自身の中に存在するというサイ・ババの教えを少しずつ理解し始めていた。サイ・ババはこの若い男が質問したのをよい機会とし、すべての人間の中に神が宿っていることを改めた説いているような気がした。サイ・ババが説くように、私たちは皆、神聖な意志の子供たちであり、その意味では私たち全員が神の化身である。しかし、通常私たちはそのことに全く気がついていない。 
  一方、私たちがある人を指して神の化身と呼ぶとき、彼は自分の持っている力の大きさを理解し、すべての源である神聖な意志の存在にも気がついている。神の化身と呼ばれる人々は神聖な意志に導かれた生活を営み、神である証明となる行いをする。その行動は神の意志から生まれ、通常人間が見せるような身勝手で自分の利益だけを考えたものではない。すべての神の化身の行いは人類の幸福を目的としている。神の化身は人間の魂を高めるために地上に降りてきた。彼の知力は深く、行動の目的も普通の人間のそれとは異なる。そのため、私たちにとってその行動は、一見不可解であり、時にはその意味を 取り違えてしまうこともある。
  私たちの人生の目的は自分の中に存在する神との結合であり、その目的を果たした時、神の化身を理 解し、同じような行動をとることができるのかもしれない。自分の中の神の声に注意を払わない現在の 自分から、神を意識した人間になることができるのだ。(14)  

  このサイ・ババの存在についてはspiritualism 理解の上でもきわめて重要なので、また折に触れて引用していきたい。ここでまた、Conan Doyle に戻る。
 死後、そのキリストの霊にお目にかかれるのは、ごく希なことであるらしい。昼となく夜となく、数え切れないほどの人々が他界していることを思えば、それは当然のことかも知れない。そのうち、われわれも他界するわけだが、仮にお目通りが叶えられたとしたら、キリストはたとえようもなく優しい、同情心に溢れた力強い指導者であると同時に、親しみ深い先輩霊のひとりでもあるであろう。そのキリストの霊的影響は、姿が見えなくとも、地上の全存在に及んでいるのである。


   6.

6.1  It is stated in the second chapter of the Acts of the Apostles, that they, the Christian leaders, were all "with one accord" in one place. "With one accord" expresses admirably those sympathetic conditions which have always been found, in psychic circles, to be conductive of the best results, and which are so persistently ignored by a certain class of investigators. Then there came "a mighty rushing wind," and afterwards "there appeared cloven tongues like unto fire and it sat upon each of them." Here is a very definite and clear account of a remarkable sequence of phenomena. Now, let us compare with this the results which were obtained by Professor Crookes in his investigation in 1873, after he had taken every possible precaution against fraud which his experience, as an accurate observer and experimenter, could suggest. He says in his published notes: "I have seen luminous points of light darting about, sitting on the heads of different persons" and then again: "These movements, and, indeed, I may say the same of every class of phenomena, are generally preceded by a peculiar cold air, sometimes amounting to a decided wind. I have had sheets of paper blown about by it..." Now is it not singular, not merely that the phenomena should be of the same order, but that they should come in exactly the same sequence, the wind first and the lights afterwards? In our ignorance of etheric physics, and ignorance which is how slowly clearing, one can only say that there is some indication here of a general law which links those two episodes together in spite of the nineteen centuries which divide them. (pp.135-136) 

  「使徒行伝」第2章 の冒頭に、ペンテコステの日に使徒たちが " 一つの場所" に "こころを一つにし て" 集まったとある。心を一つにするということは、心霊実験会で最高の現象が見られるときに欠かせ ない条件の一つである。さらに続けて"激しい風が吹き"そのあと"舌のようなものが炎のように分かれて現れ、一人ひとりの頭上にとどまった" とある。これは物理実験で見られる現象と全く同じである。
  Conan Doyle は、このあと、1873年に行われたクルックス教授の実験会での現象を紹介して次のようなクルックス教授のことばを引用している。

  いくつかの発光性の固まりがすごい速度で飛び交い、出席者の一人ひとりの頭上に降りた・・・・こうした現象が発生するときは、前もって一種独特の冷たい空気が漂い、ときにはそれが強烈な風となることもあった。机の上に置かれた書類が吹き飛ばされたことが何度もある。寒暖計を見ると数度も温度が下がっていた・・・

  これは、現象そのものが似ているだけではなく、先ず冷たい風が起こり、それから光が発生するという順序も同じである。心霊的法則というものは、聖書の時代から1800年を隔てても変わることがないことを示している、というのがConan Doyle の分析である。

6.2  In a previous section of this essay, I have remarked that no philosophical explanation of these phenomena, known as spiritual, could be conceived which did not show that all, however different in their working, came from the same central source. St.Paul seems to state this in so many words when he says: "But all these worketh that one and the self-same spirit, dividing to every man severally as he will." Could our modern speculation, forced upon us by the facts, be more tersely stated? He has just enumerated the various gifts, and we find them very close to those of which we have experience. (p.137)

  この本の中でConan Doyleは、こうした現象の合理的説明は、現象がどういう形態を取るにせよ、それを起こしているのは同じ根源から発する霊力であるとしか考えられない、と述べている。これに類する表現はパウロにもある。「これらはすべて、この唯一無二の霊力を活用したものであり、霊能者一人ひとりに割り当てられているのである」ということばである。これは、全く同じことをいっていると見てよいであろう。近代 spiritualism では、そのことを明確な事実によって証明してくれているが、パウロの表現はそれを裏打ちしているようで実に見事である。

6.3  Then we come upon the working of miracles, which we should call the production of phenomena, and which would cover many different types, such as apports, where objects are brought from a distance, levitation of objects or of the human frame into the air, the production of lights and other wonders. The comes prophecy, which is a real and yet a fitful and often delusive form of mediumship--never so delusive as among the early Christians, who seem all to have mistaken the approaching fall of Jerusalem and the destruction of the Temple, which they could dimly see, as being the end of the world. This mistake is repeated so often and so clearly that it is really not honest to ignore or deny it. (pp.137-138)

  聖書の中で”奇跡”と呼ばれている現象、たとえば、遠くから物品を引き寄せたり、物体および人体を浮揚させたりするのもみな霊力の仕業である。さらには”予言”もある。もっとも、これは正確に当たるものもあるが、気まぐれで人を惑わすこともないわけではない。その一番いい例が、初期キリスト教時代におけるエルサレムの陥落とエホバの神殿の崩壊の予言で、当時の人はそれを地球の終末と信じたのであった。現代に至るまでにも、いい加減な予言が繰り返されており、したがってこれが無視されたり否定されたりしても、とやかくいえる筋合いではない。

6.4  Thus the phenomena associated with the rise of Christianity and those which have appeared during the present spiritual ferment are very analogous. In examining the gifts of the disciples, as mentioned by Matthew and Mark, the only additional point is the raising of the dead. If any of them besides their great leader did, in truth, rise to this height of power, where life was actually extinct, then he, undoubtedly, far transcended anything which is recorded of modern mediumship. It is clear, however, that such a power must have been very rare, since it would otherwise have been used to revive the bodies of their own martyrs, which does not seem to have been attempted. For Christ the power is clearly admitted, and there are little touches in the description of how it was exercised by Him which are extremely convincing to a psychic student. In the account of how He raised Lazarus from the grave after he had been four days dead--far the wonderful of all Christ's miracles--it is recorded that as He went down to the graveside He was "groaning." Why was He groaning? No Biblical student seems to have given a satisfactory reason. But anyone who has heard a medium groaning before any great manifestation of power will read into this message just that touch of practical knowledge, which will convince him of its truth. (pp.138-139)

  このように、聖書のなかの心霊現象と spiritualism の現象は非常に似通っているのであるが、聖書の現象では一つだけ本当に奇跡としかいいようのないものがある。ヨハネ11章の死者の生き返らせた話である。もしも、間違いなく”死んだ”人間を生き返らせたのだとしたら、これに類する現象は近代 spiritualism には見あたらない。(15)  
  しかしキリストには、それすらやってのける霊力があったのであろう。ただ、死んで 4日もたったラザロを生き返らせたその箇所をよく読んでみると、心霊学の知識のある人には納得できることがひとつある。墓に降りていくときのキリストが”うめいていた”とある。これは聖書学者も合理的な解釈ができずにいるところのようであるが、心霊実験会に出席したことのある人なら、何か大きな現象が起きる時には、霊媒がうめき声をあげるのを知っているはずである。
  ところで、キリストは12人の弟子を選ぶときに何を基準にしたのであろうか。キリストを慕う者は数え切れないほどいたはずである。その中からわずか12人を選んだ。その選定基準は何であったのであろうか。Conan Doyle はそれを、つぎのように考えた。
  先ず、知性と教養を基準にしたのでないことは、その12人のなかでも傑出し ていたペテロとヨハネでさえ”無学で無知”と表現されているところからも明らかである。ユダという裏切り者がいたことからも、徳性の高さであったともいえない。しかも12人の弟子のすべてが、キリスト受難の際には逃げ隠れて、非業の死の現場にも姿を見せていないのである。彼らはそのとき師を見捨てていた。また、崇拝の念の強さでもなかった。キリストへの崇拝の念なら、他の無数の信奉者たちもその強さにおいて負けてはいなかったかも知れない。しかしそれにもかかわらず、ここで一人を選び、あそこで二人を選ぶというふうに弟子を指名していったところをみると、何か基準があったことは間違いないであろう。それは何か。それは霊的能力であったと、Conan Doyleはつぎのようにいう。

6.5  Is it not at least possible that this gift was psychic power, and that Christ, as the greatest exponent who has ever appeared upon earth of that power, desired to surround Himself with others who possessed it to a lesser degree? This He would do for two reasons. The first is that a psychic circle is a great source of strength to one who is himself psychic, as is shown continually in our own experience, where, with a sympathetic and helpful surrounding, an atmosphere is created where all the powers are drawn out. How sensitive Christ was to such an atmosphere is shown by the remark of the Evangelist, that when He visited His own native town, where the townspeople could not take Him seriously, He was unable to do any wonders. The second reason may have been that He desired them to act as His deputies, either during His lifetime or after His death, and that for this reason some natural psychic powers were necessary. (pp.140-141)

  それは、霊的能力であったとみてまず間違いないであろう。地上人類としては最高といえる霊的能力を発揮したキリストは、たとえ程度においては劣っていても、同じ霊的能力を持っていた者を身の回りに置いておきたかったはずである。それには、二つの理由が考えられる。
  一つは、近代の心霊実験会でもそうであるが、ひとつのサークルができると、霊媒自身の能力にさらにパワーが付加されるという事実がある。サークルのメンバーのオーラの調和が、より大きなパワーを生み出すのである。キリストがそうした雰囲気に左右されていたことを物語る事実として、キリストを快く思っていない生まれ故郷に帰ったときには、何一つ驚異的な現象を見せることができなかったことが、聖書にも述べられている。
  もう一つの理由は、自分の在世中か死後のいずれであるかは別として、キリストは多分弟子たちに自分に代わって同じ仕事をしてほしかったのではないか。それには当然、霊的能力が不可欠であった。
  こうして選ばれた弟子たちのなかでも、特に霊媒的素質が強かったのはペテロとヨハネとヤコブのようであった。キリストが何か大きな霊的現象を起こすときには、この三人が呼ばれているのはそういう理由からであろう。たとえば会堂司のヤイロの娘を生き返らせた時がそうである。「ルカ」 8章にはつぎのように書かれている。(40-56)

  イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ち受けていたのである。するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。彼に十二才ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた。
  ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果たしてしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。イエスは言われた、
 「わたしにさわったのは、だれか」。
 人々はみな自分でないと言ったので、ペテロが
 「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。しかしイエスは言われた、
 「誰かがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。
 女は隠しきれないのを知って震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったことを、みんなの前で話した。そこでイエスが女に言われた、
 「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。  

 これが、すでに述べたイエスの霊力を示す箇所である。このあとさらに、つぎのように続く。ここで、ペテロ、ヨハネ、ヤコブが選ばれるのである。
 
 イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、
  「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った。しかし、イエスはこれを聞いて会堂司に向かって言われた、
  「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。
  それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた、
  「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」。
 人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、
  「娘よ、起きなさい」。
  するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずをされた。両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた。(16)   

6.6  Again, in the case of the Transfiguration, it is impossible to read the account of that wonderful manifestation without being reminded at every turn of one's own spiritual experiences. Here, again, the points are admirably made in Jesus of Nazareth, and it would be well if that little book, with its scholarly tone, its breadth of treatment and its psychic knowledge, was in the hands of every Biblical student. Dr. Wallace points out that the place, the summit of a hill, was the ideal one for such a manifestation, in its pure air and freedom from interruption; that the drowsy state of Apostles is paralleled by the members of any circle who are contributing psychic power; that the transfiguring of the face and the shining raiment are known phenomena; above all, that the erection of three altars is meaningless, but that the alternate reading, the erection of three booths or cabinets, one for the medium and one for each materialized form, would absolutely fulfil the most perfect conditions for getting results. This explanation of Wallace's is a remarkable example of a modern brain, with modern knowledge, throwing a clear searchlight across all the centuries and illuminating an incident which has always been obscure. (pp.141-142)

  A. ウオーレス博士に 『ナザレのイエス』 という著書がある。この中で述べられている有名なキリストの変貌と、モーゼとエリヤの物質化現象についての解釈は実に合理的である。山頂という場所がまず理想的であった。空気が清浄である上に、邪魔が入る心配がない。お供をしたペテロとヨハネとヤコブが眠気を催したというのは、霊的なエネルギーが引き抜かれるからで、spiritualism の交霊会でもよくあることである。顔の変容と衣服の光輝も心霊実験では別に珍しい現象ではない。幕屋を三つ建てたというのはキャビネットのことで、キリストとモーゼとエリヤのためであった。不思議に思われる話も、こうして霊的原理に照らして考えてみると容易に理解できるようになる。
  このキリストの変貌は、マタイ17章、マルコ9章のほか、ルカ9章につぎのように記されている。 (28-36)

  これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる間に、み顔の様が変わり、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。ペテロとその仲間の者たちは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た。
  このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、
  「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
  彼がこう言っている間に、雲がわき起こって彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。すると雲の中から声があった、
  「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。
  そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、その後だれにも話さなかった。 

6.7  There are many other small points which seem to bring the story of Christ and of the Apostles into very close touch with modern psychic research, and greatly support the close accuracy of some of the New Testament narrative. One which appeals to me greatly is the action of Christ when He was asked a question which called for a sudden decision, namely the fate of the woman who had been taken in sin. What did He do? The very last thing that one would have expected or invented. He stopped down before answering and wrote with his finger in the sand. This He did a second time upon a second catch-question being addressed to Him. Can any theologian give a reason for such an action? I hazard the opinion that among the many forms of mediumship which were possessed in the highest form by Christ, was the power of automatic writing, by which He summoned those great forces which were under His control to supply Him with the answer. (p.142)

  Conan Doyleが、特に感動するのは、ユダヤ教の狂信者たちがイエスを試そうとして、姦淫を犯した女性を連れてきた場面でのイエスのとった態度である。
  「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と尋ねられたイエスは、すぐには答えとうとしないで黙ってその場にしゃがみ込み、何やら指先で地面に書き始めた。さらにしつこく質問されて、やおら身を起こしたイエスは、あの有名なことばを述べたのである。
  「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
  イエスがなぜこのような返事の仕方をしたか、とても神学者には説明できないであろう。Conan Doyle はその理由を、あの時イエスは自動書記で背後霊団からの通信を受けていたのだ、と推量する。イエスといえども生身の人間である。人類として希にみる霊的能力を持っていたとはいえ、それを四六時中行使していたわけではない。この例のように、不意をつかれた形で難問をぶつけられたときには、間をおいて、背後霊団からの助勢を受けていたのである。(17)  

6.8  It is at least possible, though I admit that under modern conditions it has not been clearly proved, that a medium of great power can charge another with his own force, just as a magnet when rubbed upon a piece of inert steel can turn it also into a magnet. One of the best attested powers of D.D. Home was that he could take burning coals from the fire with impunity and carry them in his hand. He could then――and this comes nearer to the point at issue――place them on the head of anyone who was fearless without their being burned. Spectators have described how the silver filigree of the hair of Mr. Carter Hall used to be gathered over the glowing ember, and Mrs. Hall has mentioned how she combed out the ashes afterwards. Now, in this case, Home was clearly able to convey a power to another person, just as Christ, when He was levitated over the lake, was able to convey the same power to Peter, so long as Peter's faith held firm. (pp.143-144)

  まだ厳密に検証されたわけではないが、霊能者のパワーが一時的に、普通の人に転移されることがあるのはなぜか。また、どれくらいの時間その霊能力の転移は可能なのであろうか。spiritualism 史上、最高最大の評価を得ているスコットランド生まれの米国人D.D. ホームという霊媒がいた。(18) 彼の霊能のなかで、もっとも多く実験されたものの一つに、燃え盛る石炭を素手で握ってみせる現象があるが、その燃え盛る石炭を列席者の頭の上に乗せても、全く火傷はしなかった。カーター・ホールという人が銀髪をかきわけて、そこへ真っ赤に燃えている石炭をおいてもらう実験を何度か試した記録が残っているが、彼の妻の証言によると、髪の毛一本も焦げていなかったという。この場合、ホームは超能力パワーを一時的にホール氏に転移させたことになる。
  これと同じような話は、聖書にもでている。キリストが水の上を歩いてやってくるのを見て、ペテロが 「私にも歩かせていただけませんか」と言うと、キリストが「では来なさい」と答える。ペテロが歩いてみると確かに歩けた。しかし、キリストの直前まできたところで、強い風が吹いて、それで急にこわくなった。すると、とたんに水中に沈みかけたのである。とっさにキリストが手を差し伸べて救い上げ、「まだまだ信じる心が足りない。なぜ疑ったのか」と言った。(19) 
  このいわば「貸し与えたパワー」の持続については、聖書の中で、キリストを中心とするサークルの者が、70人ばかりの信徒に悪霊を追い出す仕事を言いつけて送り出した話、また、新しい信徒が修行の旅に出るに際して、”浄めてもらう”ためにエルサレムのキリストのもとへ戻ってこさせた話などが考えられる。
  その時に、キリストは頭に手を置いたり、頭上で空を切ったりしてパワーを注ぎ込んだのではないか。現在、聖職位を授与する儀式で主教たちがやっているのがそれで、本来は霊的パワーを注ぎ込むのが目的であったはずである。それが、時の経過と共に風化し、形式だけが残ってしまったのである。

6.9  Enough has been said, perhaps, to show the reader that it is possible to put forward a view of Christ's life which would be in strict accord with the most modern psychic knowledge, and which, far from supplanting Christianity, would show the surprising accuracy of some of the details handed down to us, and would support the novel conclusion that those very miracles, which have been the stumbling block to so many truthful, earnest minds, may finally offer some very cogent arguments for the truth of the whole narrative Is this, then, a line of thought which merits the wholesale condemnations and anathemas hurled at it by those who profess to speak in the name of religion? (pp.144-145)

  これで、イエス・キリストによる奇跡といわれるものが、近代 spiritualism の現象と原理的には全く同じであることが理解できるはずである。spiritualism というのは、決してキリスト教に取って代わろうとするものではないどころか、イエス・キリストの言動について今日まで語り継がれてきたものが驚くほど正確であること、さらには、これまで真面目な求道者にとって大きな”躓きの石”となっていた奇跡的現象が、spiritualism により真実性に富むものであることも証明される形になったのである。そのspiritualism がなぜ、キリスト教を代表する人たちによって非難と憎悪の的にされなければならないのであろうか。
 このようなConan Doyle の慨嘆に関連して、ここでもつけ加えておきたいのは、キリストの起こした奇跡は、現代でもインドの聖者サイ・ババが起こしてきた、あるいは、日常的に起こしつつある奇跡と共通しているということである。アイスランド大学の心理学教授ハラルドソン博士は、科学者の目でそれらの現象を検証するためにサイ・ババを訪れ、実際に目撃した記録をつぎのように紹介した。

  サイ・ババが一度に一人ないし複数の者に、一口ずつ菓子類その他の食べ物を――熱いものも冷たいものも、個体のものも液体のものも、自家製のものも工場製のものも――取り出したことは、数え切れないほどある。こうした出来事については、サイ・ババのもとに二、三日滞在したか、何回か個人的に面会した者の事実上全員から報告されている。私も、食べ物をこのように取り出す場面を数回見ているし、取り出された食べ物を何回か口にしたこともある。食べ物を取り出したり何倍にも増やしたりという現象を、キリストもサイ・ババも同じように起こしたとされているが、キリストよりもサイ・ババのほうが、はるかに頻繁に観察されているのである。(20)  

6.10  Can the most optimistic apologist contend that this is a satisfactory outcome from a religion which has had the run of Europe for so many centuries? Which has come out of it worst, the Lutheran Prussian, the Catholic Bavarian, or the peoples who have been nurtured by the Greek Church? If we, of the West, have done better, is it not rather an older and higher civilization and freeer political institutions that have held us back from the cruelties, excesses and immoralities which have taken the world back to the dark ages? It will not do to say that they have occurred in spite of Christianity, and that Christianity is, therefore, not to blame. It is true that Christ's teaching is not to blame, for it is often spoiled in the transmission. But Christianity has taken over control of the morals of Europe, and should have the compelling force which would ensure that those morals would not go to pieces upon the first strain. It is on this point that Christianity must be judged, and the judgment can only be that it has failed. (pp.148-149)

  いくらのんきな護教論者でも、今回の世界的動乱を、何世紀にもわたってヨーロッパを席巻してきたキリスト教による満足すべき所産であるなどと主張することはできないであろう。プロテスタント、カトリック、ギリシヤ正教、いずれも似たり寄ったりで、人類の福祉に大きな役割を果たし得なかった。むしろ、暗黒時代の残虐行為や悪行、不道徳から西洋世界を救ったのは、キリスト教などより、古い高度な文明と行政上の制度のおかげではなかったであろうか。
  世界大戦はキリスト教とは無関係に起きたものだ、だからキリスト教が非難されるいわれはない、などという弁解は許されない。確かにキリストの教えは間違っていない。キリストが説いた正しい教えが歪められてしまっただけなのである。(21) その歪められた教義の上に築かれたキリスト教が、暗黒時代を経て今日に至るまで、西洋世界の道徳を支配してきた。本来ならばその道徳観が、戦争への発展の歯止めになってしかるべきであった。しかしそれは、もろくも失敗したのである。キリスト教の価値が批判されるのは、まさにこの点においてである。
 

   7.

  以上で、Conan Doyleの生前の原文から離れる。以下は、彼の死後、霊界通信によって送られてきたメッセージである。霊界へ行ってからわかったことも多く、生前の霊界についての考え方にも修正を迫られたこともあったようであるが、それだけに彼は一層こころを込めて、霊界の実相を伝えようとしている。そのかれの語ることばに耳を傾けてみよう。

7.1  While we are here we would leave yet another thought to mature in your minds. On the plane of consciousness we have called the universal, which means the allness of all life, man can control the elements, and create at will by filling his consciousness with the universal creative life-force. This is the secret of which the Masters make use; by operating in accord with that universal vibration they overcome (or rather control) all the material elements around them. With equal facility they control not only the material but the astral and mental elements in their respective spheres.
   It can be done by a Master who can by an effort of his spiritual will-power (not the will-power of his physical mind) raise and so quicken his vibrations as to attract the atoms of any of these differing planes to himself. When they have accumulated, he gradually lowers or slows them down until they become no longer spiritual but physical atoms, to be formed into whatever article or substance he desires.
   Many people question the truth of the feeding of the five thousand people with five loaves and two fishes, asking how the Master Jesus could accomplish this miracle. It was done by raising his consciousness to the Universal, by holding his thought at-one with God, and by thus attracting to that thought the spiritual atoms, slowing them down, and determining what particular form of matter those atoms should take. Thus he fed the five thousand. (p.121)

 《霊界で普遍的実在(すべての生命体の全体)と呼ばれている意識の局面では、人間は物質の構成要素をコントロールすることができ、普遍的実在の創造的な生命力で自己の意識を満たすことによって、自由自在に物体を創造することができるのです。これこそ高級霊たちが活用している秘密の方法なのです。普遍的実在の波動と一体となって動くことにより、彼らを取り巻くすべての物質的な要素を克服乃至はコントロールすることができます。それと同様に、物質界の要素だけではなく、アストラル界、霊界の要素をも容易にコントロールすることができるのです。
  物質界の頭脳の意志力とは異なる霊的な意志力によって、自らの振動を早め、さまざまな局面の原子を引きつけることのできる高級霊であれば、物体の創造は可能です。引きつけられた原子が集まったところで、徐々に振動のスピードを緩め、霊的なレベルから物質界の原子のレベルまで下げることによって、自分が望むどのような物でも作り出すことができるのです。
  イエス・キリストが5斤のパンと2匹の魚で五千人の人々に食事を供したことについて、真実ではないと疑う人がたくさんいます。そのような奇跡をキリストはどのようにして実現したのか、理解できないのです。あの時、キリストは意識を普遍的実在にまで上げ、思念を神と一体化させました。それにより霊的な原子を自分の思いに引きつけ、原子の振動を緩めて、その原子がどういう物質界の形を取るかを決めることにより、パンと魚の物質化を行ったのです。このようにして、五千人分の食事が与えられました。》

7.2  Man speaks and thinks complacently of a law and order which automatically functions to govern his universe, but without seeking any deeper understanding of the mighty spiritual power which holds the sun and planets on their courses. The religious man speaks trustingly of a Divine Plan and of a loving Father Who orders all things aright; but he fails to take into account the marvellous organization existing in the spiritual spheres for the control, retention and maintenance of the law and order he sees in nature.
   Men of science are apt to regard these happenings as a normal part of material existence by reason of laws which they name but can never understand. They affirm that if a seed be planted in the earth and given certain conditions of moisture, sunshine and warmth, the seed will become a plant. The rest of men accept this outcome, not as a miracle, not as a wonderful manifestation of divine power, but as a commonplace happening; much as collective man accepts the general routine of nature which support him as a matter of course, and almost as a matter of right; thus refusing to pay tribute to that infinite care, love and patience which is the Causation of all.
   Behind every manifestation of the life-force on the earth, the human included, broods the great world of Spiritual Reality. Truth and Love thus ever serve this world and universe. (pp.124-125)

  《人間は、この宇宙を自動的に支配している法則と秩序について語るだけで満足し、太陽や惑星をそれぞれあるべき場所に維持している、強大な霊の力が存在しているという事実を探求しようとはしません。信心深い人が、愛に満ちた父なる神を信じ、神聖な計画やすべての物に整然とした秩序を与えている神の力について語ることはあります。しかし、自然に見られる法と秩序を支配し、維持するための素晴らしい組織が霊界に存在していることについては考えようとはしないのです。
  科学者たちは、自然の出来事は物質的存在の正常な営みの一部であると見なしがちです。そして、自然は一種の法則によって動かされていると考え、その法則に名前をつけるだけで、なぜそうなるのかについては理解しようとはしません。彼らはただ、種を土のなかに蒔き、一定の水分と太陽と温度があれば芽が出る、と主張するのです。そしてそれを聞く人は、その種蒔きの結果を奇跡として見るのではなく、言い換えれば、霊的な力の不可思議な現実化であるとは見なさず、ごく当たり前のこととして受け入れてしまうだけなのです。
  霊界の真実を知らない多くの人々は、自分を支えてくれている自然のさまざまな営みをごく当たり前のことで、あたかも自分たちの権利でもあるかのように考えています。その結果、自然のあらゆる現象の根源にある妖精たちの限りない奉仕、忍耐、愛情に感謝することもしようとはしないのです。
 人間を含めた、地上のすべての生命力の現実化の背後には、霊的な現実という素晴らしい世界が広がっています。こうして、真実と愛が、常にこの惑星に、そして宇宙に、奉仕することが可能になっているのです。》

7.3  There will come a time, friends, when the brotherhood of men and of angels will be better understood. To such an end as this the whole of creation and evolution labours that it may bring about complete understanding and harmony between al of God' creatures.
Why not? You are one, and we are one--all is united in reality. Man will realise this when he has passed the Second Death, and is reborn to a realisation which dawns and afterwards grows within him for evermore; reborn to that expansion of consciousness which realises once for all that in the giving and serving of his brothers and sisters in all kingdoms of life the man becomes at-one with the Universal. Within that understanding the soul grows to become at -one with God, and loses itself only to find in its submission Christ the Lord.
   Do not imagine that any one plane of existence, be it of nature, or of the astral, mental or heaven worlds is spaced far above man somewhere in an illimitable heaven. All of them are waiting to be found within your own consciousness. Nearer are they than breathing to man. The one lesson we all have both to absorb in our hearts and live out in our lives is that the kingdom of heaven is within. (p.126)

  《やがて、人間と天使は兄弟の関係にあることが理解されるときがくるでしょう。そのような目標に向かって、創造と進化が進行し、神のすべての被造物の間に完全な理解と調和をもたらそうとしているのです。これは必ずできることです。あなた方も一なるものであり、私たちも一なるものであって、すべてのものは一体なのです。人間も、二回目の死を体験し、新しい生のなかでこの事実に目覚め、永久に進歩を遂げていくであろう悟りを体験するとき、このことがわかるはずです。このとき人間は生まれ変わって、生命のすべての王国にいる兄弟姉妹たちと与えあい、奉仕し合い、宇宙とまさに一体になるという意識の拡大を経験することになるでしょう。そして、人間の魂は神と一体となり、自我を消滅して初めてキリストを見いだすことになるのです。
  存在のいかなる局面といえども、人間より限りなく高いところにあると考えてはいけません。自然界であれ、アストラル界であれ、天界であれ、皆同じことです。すべての存在局面はあなた自身の意識の中に存在しています。これらの世界は、人間の息が届くところよりも近いところに位置しています。私たちが心の中に深く受けとめ、人生の中で身をもって生きていかなければならない一つの教訓は、天国は自らの中に存在するという真実です。》

7.4  When people express loathing at the thought of any future reincarnation into a mortal existence, this indicates a closed mentality. It would seem that a shutter has come down on a section of their spiritual mind, as though a dark curtain hangs between the seeming outer realities that possess them and their own inner and deeper intuitive knowledge of reality. When one reviews life and examines closely the length of human experience which is necessary before the soul of man can draw near to its spiritual completion, one must recognise not only the necessity for man to incarnate again and again, but the tremendous importance of even the smallest detail in his life. (p.141)

  《将来、再び肉体をもって生まれてくるという考えに対して、非常な嫌悪感を口にする人がいますが、これはその人の気持ちが閉ざされていることを示しています。それは、霊的な心の部分にシャッターが降りているてしまっているのです。ちょうど、自分がおかれた仮装の現実と、現実についての内面的なより深い洞察力をもった直感との間に、黒いカーテンが掛かっているようなものといってよいでしょう。
  人間の生活をよく観察し、人間の魂が霊的な完成に近づくことができるために、どれほどの時間が必要かをよく考えてみれば、人間がたびたび生まれ変わることの必要性がわかるだけでなく、人生の些細な出来事ですら、大きな意味を持つことがわかるはずです。》

  人間は十月十日で生まれる、などといわれる。しかし、十月十日をかければ人間がひとり出来上がるわけでは決してないであろう。この小宇宙にも比せられる精妙無比の人体構造に魂が宿ってこの世に生を受けるまでには、恐らく、何百万年はおろか、何千万年、何億年の準備期間が必要だったのであり、少なくとも、地球上に生命が芽生えた35億年前、あるいは地球誕生の46億年前までさかのぼって考えるべきなのかもしれない。その、気の遠くなるような生命の歴史の積み重ねは、生物学的にみても、人間ひとりひとりの遺伝子 DNA のなかに間違いなく刻み込まれている。霊的な完成に近づくためには、どれほどの時間が必要かを考えてみよ、という Conan Doyle の霊界からの指摘は、十分に根拠があると受け取るべきであろう。 この霊的向上と転生に関して、きわめて優れた霊界通信の一つをここに引用しておきたい。1978年12月17日以来、アメリカで行われてきた「公開チャネリング」による高級霊からのメッセージである。(22)  

  あなたは誰なのか? なぜここにいるのか? あなたの目的と運命はいったい何なのか? あなたは自分が単なる偶然の産物であり、ほんの短い時間ここに生きて、次の瞬間には消滅するためだけに生まれてきたと思うのだろうか? 本当に? 以前ここに生きていたことなどない、と思うのはなぜなのか? なぜいま生きているのか? なぜあなたはあなた自身なのか?
  あなたはこの地上界に何千回と生きているのだ。まるで気まぐれな風のように、戻ってきては去っていった。あらゆる顔や肌の色、主義主張や宗教を体験している。戦いをしかけ、しかけられ、王と召使いの両方を同じように生きている。水兵にも船長にもなった。征服者にも征服される者にもなってきた。自分の歴史の理解の中にあるすべてのものにあなたはなった経験がある。なぜか? 感じるため、智慧を得るため、そしてあなた自身という最も偉大なる神秘を解き明かすためだ。
  あなたは自分がいったいどこからやってきたと思っているだろうか。単にひとつの細胞から進化した細胞の集合体なのか。ならば、あなたの目の奥からじっと見つめているのは誰なのか。あなたに独自性や人格、性格、魅力を与える本質とは何か。愛し、抱擁し、望みを持ち、夢を見る能力、そして創造するというとてつもない力を与えるのはいったい何なのか。あなたが子どもの頃にすでに見せる知性、知 識、智慧はどこで積み重ねてきたものなのか? あなたは、永遠から見ればひと呼吸にしかすぎない今生の間だけでいまの自分になったと思っているのだろうか?
  あなたは、膨大な時間の中で繰り返し繰り返し生きることを通じて、いまの自分であるすべてになってきたのだ。そしてその生の一つひとつから智慧を得て、あなたという独自の美しい存在をつくり出してきたのだ。永遠という時間のほんの一瞬の間のためだけに創造されるにしては、あなたはあまりにも美しく、あまりにもかけがえのない存在である。
 自分を創造したのは両親だと考えているのだろうか。あなたの母親や父親は、遺伝という意味では親だが、あなたを創造したのではない。さらに大きな意味での真理では、彼らは愛すべきあなたの同胞だ。そしてあなたは、やはり彼らと変わらぬほどの年を重ねた存在だ。なぜなら、すべての存在は同じ瞬間 に創造されたからだ。すべては、神、つまり壮大で崇高なる思考が、己に想いをめぐらし、わが身を拡大して輝ける光となったときに生まれたのである。あなたの親とは神のことだ。すべての生命の父母原理である神なのだ。(23)

  きわめて格調の高いこのようなメッセージは、長々と続く。そのなかでラムサは、転生の始まりについても述べているが、それもつぎに引用しておこう。

  神々は、身体という形を通して自分の創造性を体験してみたいという願いから、物質という制限ある世界へ入っていった。しかし、神々がこの次元で、人間として、限界という新しい世界観を体験したと き、知らないうちにこの肉体の体験から抜けられなくなっていたのである。最初の化身の死を体験した それぞれの神は、空と呼ばれるものに入っていった。この空は、実際にある場所で、光のひとつの次元だが、「すべてを知る神」の意識、叡智のレベルでもなければ、物質の次元に戻ったわけでもなかった。神はもはや無限の思考という次元に戻ることはできなかった。限界という価値観を、自分の思考過程のなかにあるひとつの変容として持つようになってしまったからである。
  自分が生の過程で進化し続けるために、またこの物質界という遊び場がすばらしい体験だったことも あって、神は早くここに戻りたくてしかたがなかった。そのため、自分自身の子どもの種を通して、神は別の化身の中に戻ってきたのである。物質次元で自己表現を続けるため、また、前の生で自分の思考 過程を変えるのを許してしまった限りある想念をすべて融和させるためであった。しかし、この次元の物質的な面をもっと多く体験し始めるにつれて、神はさらなる変容を体験し、限界の中にどんどん深入りしていった。こうして、この「見る次元」での転生のサイクルが始まったのである。(24) 

  この転生について、さらにラムサは、つぎのように続ける。

  皆、誰もがこの地上界では多くの生を体験している。三万回の人もいる。一万回の人もいる。あるいは二回だけの人もいる。それだけ生き、死んでいるのだ。そして、この次元での生は夢であり、ゲームであり、生の冒険での幻にしか過ぎないのに、それはあなたをひどく汚してしまった。数多くの生を生きている間に、家族から、社会から、あるいは政府の権力から、自分は卑しい存在であり、神は自分の手の届くところにはないと繰り返し言われたために、思考過程の中でそれが確固たる現実になってしまっているのだ。
  今日でも、皆のほとんどは自分が神であることをいまだ知らないでいる。自分の内に、すべてを知り、すべてになる力があることを知らずにいるのである。だからこそ、教師や宗教や他の誰にでも自分の人生を支配させ、真実を解釈してもらっているのだ。地上の時間で、もうすでに長い間繰り返し語られてきた単純な真理を、他人の考えがわざわざややこしくし、混乱させるのを許してしまってきたのである。 それは、父なる存在、天の王国はあなたの内にあるという真理のことだ。これより偉大な真理がどうしてあり得ようか。しかし、これを知らない皆の多くは、神とつながり、覚醒するためには、教義や、いわば「機構」的なもの、儀式や祈りやお経や断食や瞑想が必要だとまだ思っているのだ。が、こういうことをすればするほど、あなたは自分の魂に、まだ自分は自分がなろうとしているものになれておらず、神の愛、そして自分が求めている叡智からは遠いことを確信させてしまうことになる。なぜなら、それを達成するために、こんな苦労をしなければならない状態にあるからだ。(25)    

  さらにラムサは、この地上からの質問も受けた。その質疑応答の場で、この転生とその意味について、質問者につぎのように答えている。

 生まれ変わりは確かに真実です。でもそれは単に、生に対する見方が身体が死ぬことを許したために、一つの身体を置いて、ここかあるいはこの物質次元のどこかの場所で、別の身体を取り上げるだけのことです。
 なぜここに戻ってくるのでしょうか。それは、戻ってきたいからです。あなたは自分がここに戻ってこさせられる、自分がどの次元にいようとも、そこから追い出されて化身に戻り、産道を通る苦労やまわりの自我に完全に依存するという苦労をただ繰り返すだけだと思うのですか?
 ここにあなたを送りだした宣告などありませんでした。あなたに自分の意志に反することをさせられる人は誰ひとりいないからです。ここに戻ろうと決意したのは、あなたです。あなたが再びこの次元で自分を表現したいと望んだのです。ですから、もしあなたが自分のみじめな状況を誰かのせいにしようとするのなら、自分の目をしっかりと見据えなければなりません。自分のよろこびも、自分の存在も、自分の悲しみも、あるいは素晴らしい人生も、すべてはあなた自身にその責任があるのです。本当に、そろそろこれを皆が知るべき時期にきています。
 この地上界に生まれ変わることを強いられる人は誰もいません。しかし、気の遠くなるほど長い間ここに生きていると、人間はこれが存在のすべてだと思い始めてしまうのです。そして自分の身体を失い、感情的な執着から離れ、いろいろあったおもちゃがなくなってしまうと、もうすぐに大急ぎでここに戻ってきたくなります。ここがただひとつの天国だと思ってしまうからです。だからこそ、その人にとっては実際にそうなるのです。
  あなたがここにいるただ一つの理由とは、あなたが、ここにいたいからです。あなたの存在の内に、ここで満たすべき何かがあるからです。その何かとは、よろこびや悲しみ、憐れみや怒り、あるいは苦痛など、自分がこの幻影の次元で体験したいと思うものを何でも表現する必要性のことです。それを自分で好きなだけ体験するためなのです。それに飽きたりつまらなくなったりしたら、自分の見方を変えて、何かほかの感情を体験するのです。事実はそれほど単純なものです。
  ユートピアが、苦痛や悲しみや、地獄のような状況と並んで存在することはあるのでしょうか。もちろんあります。わずかな考え方の違いがそれを隔てているだけなのです。
  あなたがここに戻ってきたのは、神を体験し、自己について理解し、「在りて在るもの」 の本質を生きるためです。そしてその、「在りて在るもの」 の本質は、あらゆる人のすべてを内包しています。あらゆる見方、考え方、感情、性格、それにあらゆる状況を網羅しているのです。それは神という思考の領域で創造されるものであり、すべて幻影なのです。
  あなたは自分がなぜいまの自分なのかわかりますか? それはほかの役割はもうほとんど体験してきていて、今回はいまの自分を体験しているからです。なぜ飢えた子どもではなく、いまのような裕福な人間に生まれてきたのでしょうか。それはあなたが裕福な人間になりたがっていた、飢えた子どもだったことがあるからです。だからいまはそうなったのです。なぜあなたは家族を養うためにパンを焼くパン職人ではないのでしょうか。それはあなたがパンを焼いて家族を養っていたパン職人だったことがあるからです。そして今度は、パンを彼から買うほうの存在になっているのです。 
  この世界のすばらしいところは、それが途切れなく続いていて、変えることもできるし、何でも好きな役になれることです。そして、生命の場で進化していくにつれて、自分の内面にとって最も重要な学びを与えてくれる幻を演ずるための舞台を提供してくれる局面へと、あなたは進んでいくのです。そしてその舞台では、王様にも乞食にも、愛する者にも愛される者にも奴隷にも自由な人間にもなれる自由があなたにはあるのです。そこでは、自分の魂がその命を満たすために必要な叡智を提供してくれる幻 なら何でも可能なのです。(26)     

  以上、長々とラムサのことばを引用してきたが、ここでまた、 Conan Doyle の霊界通信に戻ろう。

7.5  Now to try to define what we mean by the cosmic Christ.
    He is little understood today even by spiritually developed and intellectually advanced people, and there still lingers a pathetic confusion of thought concerning the divinity or deity of Jesus of Nazareth. The orthodox churches are guilty of almost as much materialism in their teaching as is Spiritualism, because they have seized on the physical aspect only of that wondrous presentation of the Infinite through the Initiate Jesus Christ, defying the Nazarene himself and failing to recognise the infinite love and wisdom which manifested through him; failing to realise how tiny a conception is theirs of that mighty force--of that life ever more abundant known as the Son of God, the Son of the infinite and universal Being. (p.145)

  《それでは、宇宙的なキリストとは何か、定義してみたいと思います。 
  霊的に開けた人であれ、知的に進んだ人であれ、キリストを本当に理解している人は今日ほとんどいません。そして、ナザレのキリストの神性についての理解が、いまだに混乱しているという悲劇的な状況があります。
  物質主義に陥っているという点では、正統派のキリスト教会は、心霊主義教会と同じくらい有罪です。というのは、イエス・キリストを通して提示された無限の神の存在の物質的な側面だけを利用し、キリストを神に祭り上げることによって、キリストを通して示された無限の愛と叡智を認識することができなかったからです。神の御子、無限にして普遍的な存在の御子として知られている、あの生命体に潜む強大な力についての自分たちの理解がいかにわずかなものであるか、彼らは理解できなかったのです。》

7.6  There was a time when I also rejected the saving grace of Christ; and as I was led into Spiritualism I believe that it helped me to become a little less materialistic. Gradually I began to see the light and beauty revealed in the life of the Nazarene. At first, I accepted him as a wonderful prophet, seer and medium; as a noble brother and comrade to wayfaring man. Truly, he is the great brother of all humanity; but the quality of his brotherhood cannot be reconciled with any prevailing idea that he is merely a man much as ourselves. All is a question of degree; of the degree that Christ lives in us and we in him. Let us always remember that even this manifestation through the body, soul and mind of Jesus was limited and partial; but surely it was enough to teach and to convince mankind that God is a God of love? By the example of his own life Jesus Christ demonstrated that the one way to eternal life and the Kingdom was through him; through man's identifying himself with his divine grace, his magnificent thought and tenderness, his transcendent love and mercy, which is the one saving grace for poor humanity. (pp.145-146)

  《私自身も、キリストの魂救済の恩寵をしりぞけたことがありました。心霊主義に導かれてからは、その私も、物質主義にとらわれる度合いが少しは緩和されたと思います。それからは徐々に、キリストの生涯を通じて示された光とその美しさが見えるようになりました。私は最初、キリストをすぐれた予言者、予見者、洞察者、霊媒として受け入れました。旅ゆく人間にとっての高貴な兄弟、仲間としてキリストを受け入れたのでした。
  確かにキリストは、人類全体にとっての偉大な兄弟です。しかし、その兄弟の意味は、キリストも我々と同じ人間であるにすぎないという一般的な考え方と一緒にできるものではありません。すべては程度の問題なのです。キリストが私たちの中に住んでいるのと同じ程度に、私たちは彼の中に住むことになります。
 キリストの肉体、魂、心を通して為された表現は、限定されたものであり、部分的なものにすぎないことを忘れてはなりません。しかし、それでも、神とは愛の存在に他ならないということを見せるには十分でした。自らの生涯を模範として、イエス・キリストは、永遠の命と神の王国への道は彼を通して到達することが可能であることを教えたのです。キリストの神聖な恩寵、壮大な思いと優しさ、哀れな人間にとっての救いの恵みともいうべき超越的な愛と慈悲、それらと一体化することによって、人は永遠の生命に至ることを示されたのでした。》

7.7  A prevalent cause of disease is the sufferer's inability to relax. Most of you, unconsciously or consciously, live taut and tense, in both your waking and your sleeping hours. When you fall asleep with a tense mind, unconsciously your finger, elbow and knee joints, the spinal column and all such bony parts, retain a corresponding tensity. This is often because much the same condition prevails during the daily life. The tension of the body is due to a mental condition of fear, worry, suppressed emotion or suppressed desire. Hence during sleeping or waking a hold-up occurs at the various centres of the sufferer's psychic bodies.
   If people would learn from childhood the importance of relaxation by making it a habit, thus going through daily life restfully, in harmony with themselves, with others and with God, they would retain that vital and perfect rhythmic flow round and through their psychic and physical bodies. This flow by its very nature carries away all waste matter, which is cast off or eliminated, and caught up by the universal to be absorbed and transformed into fresh power. (pp.162-163)

  《病気になるもっとも多い理由は、リラックスできないということです。あなた方のほとんどが、意識的にも、無意識的にも、糸がぴんと張りつめたような緊張した生活を送っています。これは、目を覚ましているときばかりでなく、眠っているときも同じです。緊張した心のまま眠りにつくと、あなた方の指、肘、膝、脊髄、その他の骨の部分が、心のあり方に応じた緊張を保ち続けるのです。それは、日中の緊張状態が生活を支配していることの反映です。
  肉体の緊張は、恐れ、心配、抑圧された感情、押さえられた欲望といった心の状態によるものです。それが、眠っているときであれ、目を覚ましているときであれ、病気の人の霊体のさまざまな中枢にエネルギーの停滞を生じさせることになるのです。
  子供の時からリラックスすることの大切さを学び、それを習慣にして、毎日の生活をゆったりと、自分自身のみならず、ほかの人たち、そして、神とのこころの調和を保ちながら生活していけば、霊体と肉体のなかをエネルギーが何の滞りもなく、リズムをもって流れるようになるでしょう。この流れは、その本来の性質によって、すべての廃棄物を運び去り除去してくれます。それはやがて、普遍的な宇宙によって吸収され、新しいエネルギーへと転換されていきます。》

  Conan Doyle は、霊界からみていて、人間の病気の原因をこのように述べているが、前述のラムサは、さらにその病気の発生を根元的にさかのぼって示してくれている。ラムサは、病気は人間の心に芽生えた恐怖の力の影響によるものであるとして、次のようにいう。

  この地上界で人間が存在しはじめた頃、まだ自分が神であることを知っていた頃、人は同じ化身に何千年もの間生き続けたが、身体に不滅の力を与えたのは、人間が「あるがまま」の状態で表現していた無限の思考の純粋性であった。
  人間、神なる人間は、この次元での最初の生の体験の最中にも、すでに自分が神であることを忘れはじめていた。なぜか。それは、この物質界という素晴らしい遊び場を心から愛したからであり、この次元を体験し、ここで創造していくことだけが大事なことになってきたからだ。そして、この場所で自分の創造性を表現することを探求する過程で、(また、それを可能にしてくれた手段である媒体を維持していくために) 限りなき思考過程を体現する華麗な生き物である人間は、生存や、嫉妬、そして所有欲という限りのある想念の体験を始めたのである。
  人間の存在、そしてその魂と精神は永遠の存在だ。それは決して変えられない。だが、神々が自分のために大地の土から創造した化身は、そこに宿る有限の存在の想念に影響されやすい。人間が受け容れ、自分が感じることを許す想念は、すべて身体に表出する。この化身は人間の世界の最終の部分であり、そこに宿る神の思考過程によって維持されているからだ。
  神なる人間が生存という価値観を体験し始めたとき、それは身体の中にある永遠の生命の流れに点火する思考の力を少し弱め始めたのだ。こうして、身体がうまく機能しなくなってきた。身体がうまく機能しなくなるにつれ、それは人間が自分の脳で理性的に考える能力も衰えさせた。理性的に考える力を失うにつれて、人間の意識を恐怖が支配し始めたのである。恐れという要素が人間の思考過程の中でひとつの価値観となるにつれて、化身のほうは、恐怖の力とその影響をこうむり始めた。それが病気であり、死なのだ。(27)     

  このように格調の高いラムサのことばの響きは、同じくいまは霊界にいるConan Doyle のことばの響きと、どこかで同調しているように思える。たとえば、つぎのようなことばである。

7.8  Does the cause of an accident lie hidden in the pre-conscious mind of its victim; or is the person merely the victim of some cruel mischance? Even accidents are results of inharmony previously created deep within the pre-conscious self. This may seem a hard doctrine, but on examination is not so; any soul falling victim to accident knows well in its pre-consciousness that it has a lesson only to be learned by undergoing such an experience.
   Soon somebody will be asking us about children; about poor little sufferers who have been born as the result of drunken lust, or from diseased parents. Are we to conclude that these innocents have been doomed by fate to undergo a life of suffering? What about souls that are imprisoned in the body of a lunatic, or in bodies corrupt with disease from birth? How can questions such as these find any rational answer?
   We reply that the same law applies: the soul of man always possesses for knowledge of what is to happen, and power to accept or reject the kind of life which is offered to it. (pp.163-164)

  《事故の原因は、犠牲者の前意識のなかに隠されているのでしょうか。それとも、人は自分ではどうすることもできない不慮の災難の犠牲者にすぎないのでしょうか。実は、事故ですら、自分自身の前意識の深いところにすでに作り出されていた不調和の結果なのです。これは非常に厳しい教えのように思われるかもしれませんが、よく考えてみると、そうではありません。事故の犠牲者になる魂は、事故にはそれを体験することによってのみ学ぶことのできる教訓があることを、前意識のなかで、十分に知っているのです。
 子供についてもきっと質問があるのではないでしょうか。父親が酔っぱらって欲情し、その結果生まれた哀れな子ども達はどうなのか、知りたいと思われるでしょう。また、病気の親からその病気をもらって生まれてくる子供はどうなのか、そのような罪のない子供たちもまた、運命によって苦悩に満ちた人生をいきていかなければならないのか、聞いてみたくなるでしょう。あるいは、狂気の肉体に封じ込められた魂、生まれたときから病魔に犯されている肉体に閉じこめられた魂はどうなるのか、と疑問を抱かれるかもしれません。このような疑問に対して、どうすれば納得のいく答えが得られるというのでしょうか。
  これらの場合にも、全く同じ答えが当てはまる、と霊界にいる私たちは答えたいと思います。人間の魂は、自分に何が起きるかということについて予知能力を常に持っており、自らに提示された人生を受け入れることも拒絶することもできるのです。》 (28)     

  事故にはそれを体験することによってのみ学ぶべき教訓があることを犠牲者は前意識のなかで知っている、という Conan Doyle のことばは重い意味をもつ。そして、彼の言う不調和とは、しばしば、前意識の中での深い愛のひろがりと、行為に至るまでの心の迷いの葛藤でもあるのだ。そして、それを敢然と自分で選ぶ。
  一般的に言っても、自分がどのような生をうけ、どのような境遇にいてどのような行動をとるかということは、すべて自分の責任である。その仕組みが「真実」であることは、現代の欧米における精神医学での研究データによっても裏付けられているといえよう。たとえば、カナダのトロント大学医学部精神科主任教授である J.L. Whitton博士は、退行催眠による患者の治療のなかで、中間生(あの世)の記憶をよみがえらせた被験者の証言を数多く分析した結果、つぎのように結論づけている。

  一番重要なのは、今回の人生で私たちがおかれた境遇は、決して偶然にもたらされたものではない、ということである。私たちは、この世においては、あの世で出生前に自ら選んだことを体現しているのである。私たち自身が、あの世で肉体を持たない状態の時に決定したことによって、今回の人生が決まる。そして、どのような潜在意識で人生を生きていくかによって、いわゆる運、不運も決められるのである。
  たとえ、現状がいかに困難な境遇にあっても、その境遇にわが身をおいたのは、ほかならぬ自分自身なのだ。人間はそれぞれ、試練や苦難の中にこそ、学び成長するための最大の機会がある、ということを理解した上で、その試練や苦難を自ら探し出していくのである。(29)   

7.9  Let us take heart; in days to come we shall see humanity ennobled. There will presently dawn a vision of true brotherhood to uplift man's heart. He will then know that all life--his own and that of everyone else--is contained within one stupendous Heart of Love; and he will recognise that even his physical life pulses with its beating. He will know that he cannot hurt his brother without suffering a corresponding injury himself; for to hate or go to war with any man or nation is to go to war with himself. To slay another man is spiritual death to the slayer. That is why it is said that those who draw the sword must surely perish by the sword.
   The new man to come will know that he can draw no breath, think no thought, without reaction throughout the world. He will know that death can never ultimately reign in God's Universe; that when man once understands himself and God, neither heaven nor earth can hold aught for him of death. (p.177)

  《気を取り直して勇気を出しましょう。いつの日か、人類の心が気高く高貴になるときがやってきます。人間の心を高尚にしてくれる真の同胞愛に目覚めるときがくるでしょう。その時、人間は悟るはずです。自分自身の命も他のすべての人々の命も、一つの巨大な愛の心の中に生きているということを。そして、自分の肉体としての生命は、その巨大な愛の心で息づいていることをも。
  さらにまた、他人を傷つけるということは、自らを傷つけることだと知るでしょう。人を憎み、戦うために戦場に行くというのは、自分自身との戦いに赴くことなのです。他人を殺すということは、殺人者にとって霊的な自殺にほかなりません。”剣を抜くものは剣によって死ぬ”とは、このような意味です。
  これからやってくる新しい人間は、自分の呼吸の一息一息が、心に抱く思いの一つ一つが、世界全体に影響を及ぼしていくことを知るでしょう。神の宇宙にあっては、究極的には死は決して君臨することなく、人間がひとたび本来の自分を理解し、神を理解するならば、天においても地上においても、死という現実は決してあり得ないこともわかってくるはずです。》

7.10  Man's bitter travail, his evolution, his progress, will bring him some day to such an end as this; he strives ever forward to the time when there will be but one brotherly thought prevailing, one pure harmony, one selfless desire and pure love abroad in the world. Never, never will man become established in aught but his own sorrow so long as he seeks for personal gain or supremacy.
   Only one true religion exists, only one Reality behind all form, belief, sect, creed and ceremony. This is a universal religion, neither bound nor circumscribed by geographical limitations, convention or prejudice. It has but one name. That name can be understood by any and every man, white, black, yellow or red; by every woman and child; by animal and by bird, by tree and flower, and every creature instinct with the breath of life. The religion of true brotherhood has put one meaning and one name, and that is Love. (p.179)

  《人類の耐え難い苦しみ、進化、向上によって、やがて神と一体となる目的は達成されるでしょう。同胞愛の思いやりだけが世界を支配し、一つの純粋な調和に満たされ、無私の願いと清純無垢な愛が世界に満ちていくその日まで、人類はたゆむことなく努力していくことでしょう。自分自身の利益と優越を求め続ける限り、人間は悲しみから逃れられないのです。
  世界にはただ一つの真実の宗教が存在します。あらゆる形態、信念、宗派、信条、儀式の背後に、ただ一つの絶対的な実在があります。それは宇宙的な宗教で、国境や慣習、偏見によって束縛されることも限定されることもありません。名前はただ一つで、その名前は、すべての存在が理解できるものです。白人、黒人、黄色人種、女性、子供、動物、鳥、木や花、生きとし生けるものすべてが理解できます。その真の同胞愛の宗教の意味はただ一つ、名前もただ一つ、それは愛です。 》

 人間はその生存の長い歴史を通じて、常に宗教とは深い関わりを持ってきた。さまざまな信仰、さまざまな教条をそれぞれに生の拠り所にして、短い人生を駆け抜けては死んでいった。宗教とはいったい何なのか、いったい、どうして、宗教なるものがうまれたのか。宗教を改めて考えてみるために、ここでもう一度、霊界からのラムサの声に耳を傾けてみよう。

 人間としての神々が、もはや自分が神なるもの、不滅なものであること、そしてすべての力、すべて の知識は自分の内にあるということを知らない状態になったとき、彼らはまわりの存在の自我に対して脆弱になった。ほどなくして、神秘的な力と計り知れない知識の源を通じて、自分たちだけが神について理解していると語り、自分たちをほかの人間よりも高い地位に置こうとする存在が現れてきた。人間はもうすでに恐れおののく動物の群れのような存在となっていたため、これらの預言者や霊能者、そしてその託宣は、来るべき滅亡と恐怖の預言を流布し、そうすることによって彼らは自分たちの権力を強めようとしたのである。そして預言者の語ることに人々が特に注意を払わなければ、彼らは罵りと永劫の罰という脅迫を用いたのだった。
  こうして地上界には宗教が生まれ、人間をその内なる美と、その永遠の神性からさらに遠くへと離してしまったのである。宗教は大変賢かった。剣を持って人々を治め、支配する必要などなかったのだ。神は自分の手の届くところにはなく、すべての知識、すべての力も自分の内にはないのだという教えを永遠のものとして固めてしまうだけでよかったのである。
  魂は永遠の記憶を持っている。それは、すべての生のすべての体験を記憶しているのだ。人間が繰り返し言われることは、それがどんなに偏向した考え方であっても、最後には確固とした現実となる。人間という、真理を求めるこのか弱き存在は、何よりもまず受け容れてもらうことを願い、そのためにはどんなにばかげたことにでも耳を傾けてしまうものなのだ。もしある人間に、神は自分以外のところにあり、おまえは魂が卑しく邪悪なのだと繰り返し言えば、この想念はその人間の魂の記憶に確固たる概念として刻み込まれ、これを変えるのはきわめてむずかしくなる。まさにこれこそが、この地上界で何千年にもわたって起きてきたことなのだ。多くの単純な存在たちが、ひとつの生から別の生へと戻ってきては、またもこういった教えのもとに集まってきたのである。そして、彼らは自分たちが邪悪であり、神は自分の存在以外のところにあると信じるよう、あまりに強く条件づけられてしまったために、自分は神なるものなのではないと絶対的な知識として知るようになり、神を知るたったひとつの道、神のところへ戻るたったひとつの道は、預言者や僧侶や、宗教団体を通じてのものだと信じてしまっているのだ。(30)

 このようにして、神から人間へと、だんだん遠ざかる過程でさまざまな宗教が生まれてきた。しかし、それらの宗教は人間を救えなかった。Conan Doyle のメッセージは、それらのさまざまな宗教から、唯一無二の宗教に帰ることを訴えている。それが愛の宗教である。それはすなはち、人間が神への復帰の道を目指すことにほかならない。


      あ  と  が  き

  以上で、Conan Doyle の spiritualism についての紹介をひとまず終える。Conan Doyleの原文は、見ての通り、あまり平易なものであるとはいえない。彼は名探偵シャーロック・ホームズが活躍する一連の作品で世界的な名声を博したが、このspiritualism の著作では、当然のことながらその読者層は、シャーロック・ホームズシリーズの読者層と同じであることが想定されているわけではない。spiritualism の認知を社会的に広く受けるためには、訴えるべき相手は自ずから限られてもいた。その中のひとつとして、Conan Doyle の意識に終始強くあったのは、ほかならぬキリスト教界の神学者であり、聖職者であり、熱心な一般信徒たちであったといえるであろう。その意味で、本稿でもその少なからざる部分を Conan Doyle のキリスト教批判で埋めてきた。
  しかし、その批判というのは、決して対立のための批判ではないであろう。たとえば、本文の (6.9) でも触れているように、イエスによる奇跡現象は、近代spiritualism の現象と原理的には全く同じであることを熱心に説き続け、むしろ、キリスト教との協調を強く訴えようとしていたのである。「そのspiritualism がなぜキリスト教を代表する人たちによって非難と憎悪のまとにされなければならないのか」というConan Doyle の慨嘆は、恐らく彼だけのものではないであろう。
  Conan Doyle は、「死んで」からも、あの世からspiritualism のための通信を送り続けてきた。本稿では7の章にまとめてあるとおりである。このConan Doyle からの通信を仲介したのが、アメリカの「ミネスタ」と呼ばれる著名な心霊主義者で、彼女は女流作家でもある。(31) 彼女は生まれながらの超能力者で、透視や未来を予見する能力のほか、病気を診断し癒す才能なども身につけていた。ミネスタは生前のConan Doyle には会っていない。1930年の夏、しきりにミネスタに会いたがっていたConan Doyle は彼女を自宅に招待していたが、その面会が実現する直前、1930年7月7日に、彼女はConan Doyle の訃報を受け取ってしまったのである。これは二人にとっても心残りであったに違いない。Conan Doyleが、この世では会うことのできなかったミネスタを自分の霊界通信の仲介者として選んだのも、決して意味のないわけではないであろう。英語の原文からも判断できるが、この通信の「純粋度」もそれだけに、極めて高いものと考えられるのである。
  ともあれ、Conan Doyle は自分に与えられた人類に対する使命を自覚して、その生涯をspiritualism に捧げた。この使命のために、彼は自分の得たもののすべてを、富、安逸な生活、世間の承認と名声をも擲とうとした。貴族の地位を提供しようという申し出も拒否した。この人気のない、たったひとつの信念のためにである。その彼は、生きてspiritualism を説き、「死んで」もなお、spiritualism を説き続けている。
  彼の遺体が、イギリスのSussex州、Crowborough に近い自宅の庭に横たえられたとき、世界中の彼の作品愛読者、友人、知人等からの美しい花々が特別仕立ての列車で運ばれてきた。それらの花々はひろい庭をいっぱいに覆い尽くしたという。Conan Doyle の葬儀は盛大であったが、それは一般的な意味での葬儀ではなかった。しめった雰囲気とは無縁の、明るく静かな大規模のガーデン・パーティであった。数多くの参列者は、ほとんど喪服も着てはいなかった。
  彼のよき理解者であったジョン・ディクソン・カー氏は自分の著書『サー・アーサー・コナン・ドイルの生涯』を、つぎのことばでむすんでいる。(32)  
   「彼の墓碑銘を書くなかれ。彼は死んではいない」

                     ー 1996年10月15日 ー



 

 * " On Arthur Conan Doyle's Spiritualism - a supplement - "
                by Shozo Takemoto

 *1 ) 今年の夏、私のところへ献呈の辞をつけた一冊の本が送られてきた。飯田史彦氏の著書『生きがいの創造』(PHP研究所、1996年)である。副題に、「生まれ変わりの科学が人生を変える」とあるように、死後の生命や、生まれ変わりについて、主として欧米の学者の科学的研究成果を整理・統合してまとめたものである。この本は出版と同時に大きな反響をよび、ベストセラーの一つとして現在 も版を重ねつつある。
  飯田氏は、福島大学経済学部経営学科の助教授で「人事管理論」を研究している若手の学究である。昨年の9月、氏は「生きがいの夜明けーー生まれ変わりに関する科学的研究の発展が人生観に与える影響についてーー」と題する研究ノートを福島大学経済学界『商学論集』(第64巻第1号)に発表したが、この種の研究ノートが大学の紀要に掲載されたのは、私の知る限り初めてである。氏は、新著のあとがきの中で、つぎのように述べている。
  本書の執筆は、経営学者としての私にとって、決して得になる行為ではありません。悪意をともなう批判や中傷ばかりでなく、善意による忠告も、私を待ち受けていることでしょう。しかし、私にとっては、目先の損得勘定や、経営学者としての序列など、もはや眼中にありません。本書で整理統合した科学的知識を、人々に広く知らしめることの方が、とるに足らない私の個人的評価よりも、はるかに重要で価値の高いものだと確信しているためです。(同書、p.331)
 *2) 死後の世界を確信したムーディは、古今東西に共通してみられる「死者のと再会」の文献、遺跡を 調べ、古代ギリシアの手法にヒントを得て、鏡を媒介して死者を呼び出す「鏡視」の手法を確立した。 現在、米国アラバマ州に死者との再会を実践する「精神の劇場」を主催している。その手法を確立するまでの、実験の一端を彼はつぎのように述べている。
  わたしは鏡視実験をまだ一度も行わないうちから、この実験で死者に会える確率はごくわずか、お そらく十人に一人くらいだろうと予想していた。また、死者に会えた被験者はだれもがその”現実味 ”を疑い、自分の体験は”本当にあったこと”なのか単なる”想像”なのか,判断しかねるだろうと思っていた。しかし実際の結果は当初の予想とは驚くほど違っていた。ほんの十回ほど実験しただけで、死者の幻像を見るという人類共通の体験は再現可能なものとわかったのだ。そのとき被験者とな った十人のうち、五人が死んだ親族の姿を目にした。施設を改良し、わたしの腕が上がってからは、さらに成功率が高まった。それでも最初の頃の実験を思い返すと、いまだに驚異の念を禁じえない。
Raymond Moody & Paul Perry; Reunions--Visionary Encounters with Departed Loved Ones--『死者との再会』(宮内もと子訳)同朋社出版、1994年、p.113.
 * 3) Raymond Moody: Reflections on Life After Life; 『続・かいまみた死後の世界』(駒谷昭子訳)、評論社、1989年、pp.10-11.
 *4) 立花隆『臨死体験・下』文芸春秋、1994年、pp.73-74.
 *5) キュブラー・ロスは自分が死後の生存を確信するに至った過程をつぎのように語っている。
  《私は、ここ数十年間、死にゆく患者さんたちと共に過ごしてきました。この仕事を始めた頃は、正直言って私自身も死後のいのちなどまったく興味がなかったし、死の定義についてもはっきりしたものは何も持っていませんでした。死についての科学的定義を調べてみると、死はただ肉体の死としてのみとらえられていることがわかります。あたかも、人間はただ単に(蝶の衣に過ぎない) マユとしてしか存在しないかのようです。私はそのことに少しの疑問も持たない医師や科学者の一人でした・・・
  懐疑的で、ほとんど信じていなかった私は、死後のいのちについて特別興味もわかなかったのですが、頻繁に起きる現象を観察するにつれて感銘をうけざるを得なくなり、どうしていままで誰も、死の真実を研究しなかったのだろうと思うようになりました。
 人間がこの世に誕生してから4,700万年になりますが、そのうちの最近700万年は現在のような存在になり、神への意識も現れました。毎日、世界中いたるる所で人々が亡くなっています。しかし、人間を月へと送って安全に戻ってこさせることのできるこの社会で、間の死を定義する努力はしてきませんでした。おかしいとは思いませんか。》 Elisabeth Kubler-Ross: On Life after Death;『死後の真実』伊藤ちぐさ訳、日本教文社、1996,pp.80-83.
  別のところで、Kubler-Ross はつぎのようにも言っている。
  《昔のほうが、もっと人々は死の問題に事情が通じていて、天国や死後のいのちを信じていました。 肉体が死んでしまった後にもいのちが存在することを本当に知る人がどんどん少なくなったのは、 おそらくここ百年ほど前からでしょう。でもいま、私たちはニューエイジにいます。おそらく私たちは、科学と技術と物質至上主義から、純粋で本物の霊的な時代へと移行したようです。これは、信仰という意味ではありません。霊性という意味です。霊性とは、私たち個人を超えたずっと大きな存在、この宇宙を創造し、いのちを創造した存在があるという気づきであり、自分がその存在のかけがえもなく大切で意義のある一部であって、そうした存在の発展に大きく貢献できる、という気づきです。
  私たちはみな、いのちの源泉から、いや神から生まれたときに、神性という面を授かりました。それは、私たちが文字どおりその源泉の一部を内に持っているという意味です。つまり、それが私たちに永遠なる英知を与えてくれるのです。多くの人が感じ始めているとは思いますが、自分の肉体は単に住居や神殿、あるいは私たちの言うマユにすぎず、死という移行を迎 えるまでの何カ月か何年かの間、住むところなのです。そこで、死にゆく子ども達やその兄弟たちに説明するときに使う象徴的な言葉を使って言うと、死が訪れるとき、私たちはマユから出て、チョウのようにもう一 度自由になるのです。》 Kubler-Ross: ibid., pp.79-80.
 *6) 立花隆『臨死体験・上』文芸春秋、1994年、pp.429ー430.
 *7) 立花隆、ibid., pp.430-431.
 *8) 立花隆、ibid., pp.431-433.
 *9) 立花隆、ibid., pp.439-440.
*10) 立花隆、ibid., pp.51-54.
*11)『コナン・ドイルの心霊学』(近藤千雄訳)新潮社、1992、p.90参照。
*12) 高尾利数『イエスとは誰か』日本放送出版協会、1996、pp.275-276.
*13) 高尾利数; ibid.,pp.25-26.
*14) Howard Murphet: Where the Road Ends;『最後の聖者サイババ』(秦隆司訳)、たま出版、1996、 pp.89-91.
* 15) ここで、このキリストの奇跡に関連して、現代インドの聖者、サティア・サイ・ババのことにも 触れておく必要があるだろう。サイ・ババは世界の宗教界のみならず、心霊研究者にとっても特に 関心の高い物として広く知られている。サイ・ババの聖者としての名声は、超常的な驚嘆すべき物理現象がその周辺で頻繁に起こることから高まっている。そして、洋の東西を問わず、何百万と いうサイ・ババ信者は、サイ・ババを神の化身と呼んでいるのである。サイ・ババの起こす現象の中には、テレパシー、透視、予知、念力などのような、西洋の概念と 軌を一にするものもあるが、物質化によって何もないところから液体や物品を取り出したり、遠隔地に出現させるといわれる現象については、奇跡としか思えないようである。
  そのサイ・ババの研究者の一人に、アイスランド大学心理学教授のErlendur Haraldsson博士がい た。彼は「サイ・ババの超常現象の科学的研究」と銘うった著書で、現象を調査研究した報告をまとめているが、その中には、死者の蘇りに関する調査報告も 2例含まれている。つぎはそのひとつである。
  《1950年代初頭、ラグクリシュナは、プッタパルティ滞在中に、排尿不能なほど重症の胃の病気に罹ったうえ、他にも合併症が幾つか発生した。翌日には気を失い、重体に陥った。そして、翌朝 の11時頃、完全に意識不明となった。ラグクルシュナ夫人によれば、呼吸や心拍をはじめ、生命徴候が全く見られなくなったため、付き添っていた家族は、ラグクリシュナが間違いなく死亡したと思ったという。
  翌朝にはもう体は冷たくなっており、20時間以上も明確な生命徴候を示さなかった。ところがサ イ・ババは、何ともないので心配はいらない、と言ったのである。ようやく自分の部屋から降りてくるとサイ・ババは、ラグクリシュナの身体が横たわっている部屋から全員を立ち退かせてドアを閉じ、一、二分の間ラグクリシュナと二人だけになった。サイ・ババがドアを開けると、部屋の外に立ちすくんでいた家族たちの眼に、ラグクリシュナがベッドの上で起きあがっている姿が飛び込んできた。「みんな、あんまり仰天したものですから、そこにしゃがみこんでしまいました」。ラ グクリシュナ夫人は、話をこのように東洋的にしめくくった。》 Erlendur Haraldsson & Sjodur til rannsokna: Miracles Are My Visiting Cards; 笠原敏雄訳『サイ・ババの奇跡』技術出版、1993、p.331.
*16) ほかに、マタイ9章、マルコ5章に同様の記述がある。
*17) ヨハネ8章(1-9)は、つぎのとおりである。
  イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたの で、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫を している時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った。「先生、こ の女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じま したが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続 けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけとなり、女は中にいたまま残された。
*18) Daniel Dunglas Home(1833-1886)で、彼の衝撃的な霊能現象に一度接すると、頑迷と言われた批評 家すら、一夜にして彼の信者にさせられたという。ブルーアム卿、ブルースター卿、ブラウニン グ、リットン卿、サッカレイ、トロロープ夫妻、ナポレオン三世、バーヴァリア王、ナポリ王、ド イツ皇帝、オランダ女王等が彼の霊能現象に立ち会った。彼の現象には、多くの研究者がかかわり合ったが、特にアデア卿、クルックス卿による研究が知られている。クルックス卿はホームとは数年間にわたり親密な交友関係にあったが、詐術らしい事実を発見したことは一度もなかったと明言 している。
  彼の特筆すべき点は、霊媒として30年近くを公衆や研究者の面前に身をさらしながら、 一度も報酬を得たことがなかったことで、信頼のおける理性的な人であれば、喜んで実験の要請に応じた。今日知られている心霊現象で彼にできないものはないほどで、それもすべて最高の形で見せることができた。それらの主なものを要約すると、@大震動、A実験時気温の低下と冷気現象、Bピアノのキーボードを閉じたまま演奏したり、希望する曲がなんでもアコーディオンで演奏された、C霊手の物質化、D物品浮揚(ホーム自身も自由自在に浮揚した)、E燃え盛る火の中 に頭や手を差し入れても焼けただれたり傷ついたりしないという耐火現象、F身体の伸長・縮小現象、等が知られている。春川栖仙『心霊研究辞典』東京堂出版、1990、pp.296-297参照。
*19) この箇所は、マタイ伝ではつぎのように記されている。
  それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向 こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。イエスは夜明けの四時頃、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたで したか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と 言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。(14章:22-31)
*20) Erlendur Haraldsson: Miracles Are My Visiting Cards; 『サイ・ババの奇跡』(笠原敏雄訳)、技術出版、 1993、p.314.
*21) 近藤千雄氏によると、1886年に History of the First Council of Nice (第一回ニケーア公会議の歴史) というのが出版され、識者の間で大きな反響を呼んだ。325年に開かれたその会議は、足掛け4カ月にも及び、新しい宗教を作り出すための福音書の改ざんと教義の創作が進められた。その第一回 の裁決で、1800名の司教のうち1500名が反対したことに激怒した時の皇帝コンスタンチヌスは、衛兵を呼び入れて反対派を連れ出させ、親皇帝派300名のみで”満場一致”の裁決を行った。”その血をもって罪を洗い流し給う”イエスを救世主とする「キリスト教」の誕生であった。
  それ以後コンスタンチヌスは、ローマ帝国の国威による弾圧と拷問によって、ローマ教会に絶対的権威をもたせ、それを楯に、世界史に悪名高い暗黒時代を招来することになる。この真相が明らかになったのは、その会議で追放処分にされた司教たちの日記や書簡、告発文書などが歴史家の手によって偶然発見されたのがきっかけである。ミルは『自由論』のなかで、「ローマ皇帝のなかで最初のクリスチャンとなったのがマーカス・アウレリウスでなくコンスタンチヌスであったことは、全歴史の中の最大の悲劇である」と述べているという。『コナン・ドイルの心霊学』新潮社、 1992、pp.236-237参照。
*22 ) これは、ラムサと名乗る高級霊からのもので、川瀬勝氏によれば、ラムサがこのメッセージを託 した相手は、J.Z.ナイトという女性である。もともと彼女は、このような「超常現象」的なものには縁のない存在で、「生まれたときには特別の星が輝くことはなかったし、ごく普通に学校へ行き、仕事で成功し、結婚して子供を生んだ」という人生を送っていた。1977年のはじめのある日曜日の午後、キッチンに夫とふたりでいた彼女のところに、突如として絹のような衣をまとい、深い目を たたえた背の高い光輝く人物が現れる。それがラムサとの運 命的な出会いであった。Ramtha『新・ 聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.326-328参照。 
*23) Ramtha、ibid.,pp.71-72.
*24) Ramtha、ibid.,p.215.
*25) Ramtha、ibid.,pp.218-219.
*26) Ramtha、ibid.,pp.235-237.
*27) Ramtha、ibid.,p.214.
*28) Conan Doyleは、この点について、「子ども達は、病気や苦しみ、あるいは健康や幸せ、その他もろもろの人間生活を構成し、かつ人格の形成に資する人生の浮き沈みを体験する覚悟を資てこの世に生まれてくる」と、このあとでもつぎのように繰り返している。
   We again suggest that the child comes prepared to undergo certain experiences which may take form as illness or suffering, or as health and happiness, and all the various fluctuations which go to mould human life and character. (p.174)
*29) Whitton, J.L. & Fisher, J., Life between Life, Dell Publishing Group, 1986.片桐すみ子訳『輪廻転生』人文書院、1989、p.115参照。
*30) Ramtha、ibid.,pp.216-217.
*31) 「ミネスタ」というのは”母”という意味で、彼女の背後につく高級霊、ホワイト・イーグルが命 名したものである。幼名はグレースといった。ミネスタは、毎週日曜日に、Spiritualismのためにほぼ20年間にわたって説教をし、透視と予見の能力を発揮しながら、多くの人々にspiritualism のメッセージを伝えていった。
  ロンドン、ウエスト・ミンスターのスミス広場にステッド・ボーダーランド図書館というのがある。 タイタニック号と運命を共にした有名なジャーナリスト、W.T.ステッドの娘のエストラ・ステッドが 中心になって運営されており、この図書館は、ロンドンにおける心霊主義運動の重要な拠点の一つで あった。そして、この図書館から 2,3百メートル離れたヴィクトリア通りのウエストミンスター修道院に面したところに Conan Doyleの心霊書店があり、これは彼の長女のメアリーが経営していた。ミ ネスタは、これらのステッド図書館、心霊書店に出入りしているうちにメアリー・コナン・ドイルと 親しくなっていった。
  Conan Doyleは、ミネスタが心霊主義の仕事をしていることや、背後霊のホワイト・イーグルのことを聞き、しきりにミネスタに会いたがっていた。1930年の夏、Conan Doyleは病床にあったが、ミネスタは見舞いかたがた、週末に初めて彼の家を訪問することになっていた。と ころが突然、断りの知らせがあり、続いて訃報が届いたのである。結局、二人はこの世では一度も会 うことはなかったが、spiritualism の共通の強い絆で結ばれていたと考えるべきであろう。Ivan Cooke, ed.; The Return of Arthur Conan Doyle: The White Eagle Publishing Trust; Hampshire, England; 1985, pp.13-17参照。
*32) Ivan Cooke; ibid., pp.28-31参照。