[生と死と霊に関する論文]


 宇宙意識への覚醒*
 
    −RAMTHA研究序説(その2)−


  人間にとって死とはなにか。私たちが一般的に理解しているところでは、死んだあと葬式が行われ、遺体の腐敗が進まないうちに火葬場に運ばれて灰になる。そして、これで完全にいのちは消滅し、その人の一生は終わる。これは現実に、私たちのまわりで日常的にみられる光景だから、死んだら灰になって終わるというのは、私たちの頭の中にある生の終着点としての、きわめて現実的なイメージであるといえよう。
  しかしラムサは、私たちが一般的に考えがちであるそのような死は、大いなる幻影であるにすぎないという。一度創造されたいのちは決して消滅することはない。だから、人間にとっての死とは肉体だけの死である。肉体のうちに在り、それを操る本質の部分は、もしそれが望むならば、すぐにでもまた別の肉体に宿り、さらに生き続けていくというのである。それをラムサはさらに、次のように述べている。1)

   Life never ends. It is true that you can mutilate the body. You can hack its head off, disembowel it, and do to it every wretched thing you can. But you can never destroy the personality-self that lives within the embodiment. Contemplate for a moment how one could destroy, blow up, knife, or war against a thought? You cannot. And the life-force of all inhabited creatures, human or animal, is the unseen collective of thought and emotion, called the personality-self, that lives behind the mask of the body. (p.52)

  生命は決して終わることはない。確かに身体に危害を加えることはできるであろう。首を斬ることだろうが、内蔵をえぐり出すことだろうが、やろうと思えばどんな残酷なことでもやれないことはない。 しかし、その肉体の中に生きる人格=自己は、絶対に滅ぼすことができない。人格とは思考や感情である。思考や感情をいったいどのように破壊できるのか。考えてもわかることである。思考を爆破できるであろうか。刃物で刺すことができるであろうか。そもそも闘いを挑むことができるのか。それは不可能である。人間でも動物でも、地上に棲息するすべての生き物の生命力は、身体という仮面に覆われて生きている、つまり眼には見えない思考と感情の集合体なのである。

  肉体の中に生きる人格=自己は、ここではいのちと置き換えることができるであろう。このいのちは、実は滅びることがない。それが真実である。そして、それが真実であることを、ラムサは繰り返し訴えている。以下本稿では、そのラムサの教えについて、いのちの永続性を中心に考察していくことにしたい。


   3.

3-1  Who are you? Why are you here? What is your purpose and your destiny? Do you think you are merely a creature of coincidence, born to live in a wisp of time and then to be no more? Indeed? What makes you think you did not live before? Why now? And why you?
   You have lived upon this plane thousands of lifetimes, and you have come and gone like a fickle wind. You have warred and been warred upon. You have been king and servant alike. You have been sailor and captain. You have been conqueror and conquered. You have been everything there is in all of your historical understandings. Why? For the purpose of feeling, for the purpose of wisdom, for the purpose of identifying the greatest mystery of all times--you! (p.42)

  あなたは誰なのか?なぜいまここにいるのか?あなたの生きている目的と運命とはいったい何なのか?あなたは自分が単なる偶然の産物であり、ほんの短い時間だけこの世に生きて、つぎの瞬間には消滅するためだけのために生まれてきたと思うのだろうか?本当に?以前生きていたことなどはないと思うのはなぜか?なぜいま生きているのか?なぜ生きているのがあなたなのか?
  あなたはこの地上界に何千回と生きているのだ。まるで気まぐれな風のように、戻っては去っていった。あらゆる顔や肌の色、主義主張や宗教を体験している。戦争を仕掛け、仕掛けられ、王と召使いの両方を同じように生きてきた。船乗りや船長にもなった。征服者や被征服者にもなった。自分の歴史の理解の中にあるすべてのものにあなたはなった経験がある。それはなぜか?感じるため、智慧を得るため、そして、あなた自身というもっとも偉大な神秘を解き明かすためだ。

  本文を理解するためにも、ここではまず、人間の生まれ変わりについて考察しておきたい。「あなたはこの地上界に何千回と生きているのだ」という重大なメッセージを、どのように捉えていけばよいのであろうか。その手がかりとなる「証言」から見ていくことにしよう。
  たとえばコナン・ドイルは、「人間の魂が霊的な完成に近づくためには、どれほどの時間が必要かをよく考えて見れば、人間がたびたび生まれ変わることの必要性がわかるだけでなく、人生の些細な出来事ですら、大きな意味を持つことがわかるはずです」 と霊界通信で述べている。このことについては、別の稿でも詳しく述べてきた。2) また、この生まれ変わりは、仏教でもいろいろと取り上げられてきた。親鸞の弟子・唯円が書いたとされる『歎異抄』の第五段には次のような文章がある。

  親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりて助けさふらふべきなり。

  ここでは親鸞は、父母というのは自分の父母だけが父母なのではない。人間は何度も何度も生まれ変わるから、生きとし生けるものは、みんないつかの世で、父母であり兄弟であった。だから、念仏をとなえる場合でも、現世の自分の父母だけに対する孝養のつもりでとなえたことは一度もない、と言っている。
  親鸞にとっては、まわりの人たちすべてが、親であり兄弟でもあった。これは、前述のコナン・ドイルが、人類に残したメッセージのなかで、同胞愛の必要性を述べているのと同じであるが、それも、人間が何度も何度も生まれ変わっているからこその同胞愛であろう。この意味でも「人間の生まれ変わり」は、おそらく「人類皆兄弟」の同胞愛とともに、仏教の教えを支える根幹であるといってよいのかもしれない。
  真言宗では、「人身は受け難し、今すでに受く。仏法聴き難し、今すでに聴く。この身今生に向かって度せずんば、更にいずれの生に向かってかこの身を度せん」と礼拝文を唱える。これも、生まれ変わりの人間の姿を表したものといえるであろう。空海の、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生のはじめに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」も基本的には同じで、何度生まれ変わればいのちの真実がわかるようになるのか、いまの人生で真実を掴むべきだと、無明の闇から抜け出すことを教えているのである。
  この生まれ変わりが、科学の分野でも実証され始めたのは、最近3, 40年来のことである。欧米の大学医学部で、「退行催眠」という精神医学の治療法が発達してきたからであった。催眠というと、私たちは何となくトリックや奇術めいたものを連想しがちであるが、欧米の大学医学部で行われているのは、そういうものではない。医術としての催眠である。
  訓練を受けた医師の誘導によって、患者が心身をリラックスさせ、意識をある一点に集中させると、意識の奥に潜んでいた過去を思い出すことができる。それによって、過去に受けたこころの傷などを探ろうというものである。ただし、過去生にまで遡るためにはかなり高度な催眠技術が必要で、この治療法が、欧米でもひろく一般化されているわけではない。
  そのなかで、ヨーロッパの九つの大学の学位を持つイギリスのアレクサンダー・キャノン博士は、この退行催眠の研究者としては先駆者の一人である。被験者1,382人を紀元前何世紀というはるか昔まで退行させたという記録を持っている。そのキャノン博士も、初めのころは生まれ変わりを信じようとはしなかった。1950年に出した自分の著書の中で、彼はつぎのように述べている。

  何年もの間、生まれ変わりの説は、私にとって悪夢であり、それに反駁しようとできるかぎりのことをした。トランス状態で語られる光景はたわごとではないかと、被験者たちと議論さえした。あれから年月を経たが、どの被験者も信じていることがまちまちなのにもかかわらず、つぎからつぎへと私に同じような話しをするのである。現在までに1,000件をはるかに越える事例を調査してきて、私は生まれ変わりの存在を認めざるをえなかった。3)

  キャノン博士は、1970年代から1980年代にかけて、さらに何千人もの患者を退行催眠により治療してきたが、その業績の上にさらに研究を積み重ねてきたのが、カナダのトロント大学医学部の精神科主任教授を務めるジョエル・L・ホイットン博士である。
  ホイットン博士は、14歳ころから催眠家としての腕前を発揮してきたらしい。20代になってから、彼は次第に人間の生まれ変わりに関心を持つようになり、催眠技法に磨きをかけていったといわれている。
 深い催眠状態に入れる人たちは――それは人口の4〜10パーセントくらいといわれてるが――みな同じように、指図に従って誕生前の前世に戻れる、ということを発見したのは、彼がトロント大学の精神科主任教授になった頃である。「前世に戻ってください。・・・・・さあ、あなたは誰で、どこにいますか」。こう博士が言うと、催眠状態の被験者は、自分に関する別の時代、別の場所でのエピソードを詳しく話し始め、その時の自分の姿を再び演じてみることさえあった。
  このような催眠下の被験者を通じて、ホイットン博士は人間の生まれ変わりの理由を明らかにしていったのである。簡単にいえば、それは魂の修行をするために自ら選んで、この世に生まれてくるということである。
  人間は、いろいろと自分の修行に適した計画をたてて生まれてくるが、なかにはその計画が充分でない魂もあるようである。それを催眠下の被験者が博士に告げるときには、必ず不安そうな表情になる。一方、はっきりした計画を持った魂は、その計画が困難に満ちたものであっても、淡々としてそれを博士に語るという。そして、計画が決定されれば、あとはまた、生を受けてこの地上の肉体に戻ることになる。本節の「生きている目的と運命」とは「あなた自身という最も偉大な神秘を解き明かすため」というラムサのことばも、このことを言っているのであろう。
  つまり、人間の誕生は、この世での修行への出発であり、死とはまさにあの世への帰郷で、修行の苦しみから解放されて憩いの期間に戻ることにほかならない。死とは、だから、本当は悲しむべきことではないのであろう。逆に、修行とはいえ、時間と空間のない自由なあの世から、肉体をまとって物質界の拘束を受けるこの世に生まれることは一種の苦痛であるにちがいない。そのために、またこの世に生まれることに消極的な魂も少なくない、といわれている。
  ホイットン博士の被験者の場合、死んでから次に生まれ変わるまで最低10か月、最も長いものでは800年以上であるという。平均的には40年ほどになるが、その数値は、過去数百年の間に確実に縮まってきた。昔の世界では大きな地球上の変化はなく、今日ほど生まれ変わりの誘因が見られなかった。現代では、地球上の変革が相次いで、この世での新しい体験を待ち望んできた魂たちを誘い込むため、生まれ変わりの頻度が増えてきているのである。それが、世界の人口の急激な増加につながっているのだといわれている。
  ホイットン博士は、このような人間の生まれ変わりのありようを、自らの長年の研究と退行催眠による実証をとおして、つぎのように述べた。

  一番重要なのは、今回の人生で私たちがおかれた境遇は、決して偶然にもたらされたものではないということである。私たちは、この世においては、あの世で出生前に自ら選んだことを体現しているのである。私たち自身が、あの世で肉体を持たない状態の時に決定したことによって、今回の人生が決まる。そして、どのような潜在意識で人生を生きていくかによって、いわゆる運、不運も決められるのである。4)

3-2  Where do you think you came from? Do you think you are simply a wretched bunch of cellular mass that has evolved from a singular cell? Then who is it that peers so intently from behind your eyes? What is the essence that gives you your uniqueness and personality, your character and zest, your ability to love, to embrace, to hope, to dream, and the awesome power to create? And where did you accumulate all the intelligence, all the knowledge, all the wisdom that you display, even as a little child? Do you think you became what you are merely in one lifetime that is only a breath in eternity? (pp.42-43)

  あなたは自分がいったいどこからやってきたと思っているのだろうか?あなたは単にひとつの細胞から進化した細胞の集合体であるだけなのか?それなら、あなたの目の奥からじっと見つめているのは誰なのか?あなたにあなたの独自性や人格、性格、魅力を与えている本質とは何か?人を愛し、抱擁し、希望と夢を持ち、そのうえに創造するという偉大な力まであなたに与えているのはいったい何なのか? あなたが子供の頃にすでに見せていた知性、知識、智慧はどこで積み重ねてきたものなのか?永遠の中で見ればほんの一呼吸にしかならないいまの人生の中で、あなたはいまの自分になったと思っているのだろうか?

  ここでは、引用文の最後の、「永遠の中で見ればほんの一呼吸にしかならないいまの人生の中であなたはいまの自分になったと思っているのだろうか」という問いかけについて、検討を加えていきたい。
  私たちの社会では、常識的によく、胎児は「十月十日」で生まれる、などと言ったりする。しかし、「十月十日」で人間一人ができあがるのでは決してない。十月十日で生まれてくるようないのちの誕生の仕組みができあがるまでには、気の遠くなるような時間が必要であった。その時間をどのくらいの長さで捉えていけばよいであろうか。
  少なくとも、この地球上に生命が芽生えた35億年前からの時間を考えなければならないであろう。私たちの一人一人は、その35億年の生命進化の歴史をDNA に刻み込んで体内にもっているはずである。しかし、その生命が芽生えるための準備期間も考慮に入れると、やはり、地球誕生の46億年前に溯って考えるべきなのかもしれない。
  しかし、さらに視野を広げてみていけば、その地球も、銀河系のなかの小さな一つの惑星に過ぎない。その銀河系の直径はだいたい10万光年であるといわれている。中心部はアルジとよばれる年老いた星の集まりで、その周辺部には若い星々が群がっている。その星の総数は約2000億である。そして、その銀河系もまた、宇宙の中の1000億を越える銀河系の一つに過ぎない。このように見てくると、私たちのいのちの誕生を考えるのには、地球誕生の46億年前よりさらにずっと遡って、宇宙誕生のビッグバンまでの150億年の時間を考えるべきなのであろうか。
  150億年前にビッグバンで始まった宇宙は、強烈な光のもとに、時が刻み始め、猛スピードで膨張する空間に多量の物質が創成されたと考えられている。この世界のすべての存在の根元が、このエネルギーに満ち満ちた「真空」から生まれ出たのである。何も存在しない「無」の状態に詰め込まれた巨大エネルギーが爆発して、宇宙そのものが具体的な姿をとって立ち現れた。つまり「色即是空」なのである。私たちが、光を懐かしく感じるのは、ビッグバンの光が私たちの存在の原点であることを、どこかに記憶しているからかもしれない。5)
  宇宙が膨張を続けるに従い、諸々の物質の基本構造が形成されていった。物質間に働く力が、空間の膨張を振り切って、クォークから核子(陽子と中性子)へ、核子から原子核へ、そして原子核から原子へと、より単純な物質からより複雑な物質階層へと組織化していく過程である。こうしてまず、ミクロの世界の造形がなれたのである。
  やがて、原子の海から万有引力の働きで「銀河」が生まれてきた。ビッグバン後10億年の頃である。私たちが住む銀河系・天の川銀河もその仲間で、回転しているために円盤状になっているらしい。
 銀河の誕生とともに、ガスから星が次々と生まれてきた。星は核融合反応で輝いているから、いわば「元素製造機」である。やがて、寿命を終えた星は爆発して粉々に飛び散り、内部で製造してきた重い元素は、まわりのガスにかき混ぜられていく。銀河の営みとは、ガスから星が誕生する過程と、星が死を迎えてガスに戻る過程との組み合わせである。このようなガスと星の間の循環運動の中で、銀河はゆっくりと年老いていくのである。
  やがて、星で作られた重い元素が集まり、岩石惑星という新しいタイプの星を生み出すようになった。銀河系が生まれて約100億年後、こうしてこの地球が誕生したのである。銀河系が若い頃は、まだ重い元素が少ないから地球サイズの岩石惑星にまで成長できなかった。銀河系の老成があってこそ、生命を胚胎しうる地球を必然の存在としたともいえるであろう。
  言い換えると、岩石惑星たる地球は、そして炭素を主体とした元素で構成されている私たちの肉体は、ともに星の輝きの産物なのである。炭素も酸素も、鉄もアルミも、私たち周辺の水素以外のすべての元素は、星の輝きのなかで形成されたのだから。つまり、元素のレベルで見れば、私たちは星として輝いていたし、その輝きがあったからこそ私たちの存在へとつながっていったのだ。まさに、私たちは「星の子」なのである。夜空に星を見上げるとき、自然のうちに故郷を想起するのは、私たちがかつては星であった記憶がどこかに刷り込まれているからかもしれない。6)
  ここであらためて、宇宙の広さを見る視点についてもみておきたい。この宇宙の広さを測る物差しとして、私たちは光速を用いるが、これはもちろん、秒速で30万キロである。地球を一回りすると約4万キロでだから、1秒間に地球を7回半回る速さというのは、私たちにとってはものすごい速さに思える。しかしこれも、宇宙的な視野でみればたいしたものではない。月からの光が地球に届くまでの時間はわずか1.3秒、太陽からは8.3分である。これに対して、一番近くからの恒星からは4年、ベガからは25年、ある種の銀河からは何十億年もかかる。
 現在明らかになっているクエーサーという天体は、光度がわが銀河系全体の1万倍もあるといわれているが、このクエーサーのなかには、120億光年の彼方に位置するものもある。つまり、私たちは現代の望遠鏡で120億年前のクエーサーの姿をいま見ることができるのである。7)
  歴史家は古代ローマの様子をじかに眺めることは決してできないが、私たちは本当に過去を見て、かつての天体の姿を観測することができる。たとえば、現在私たちが見るオリオン星雲はローマ帝国末期のものであるし、肉眼でも見えるアンドロメダ銀河は200万年前の姿である。もし、このアンドロメダ銀河に宇宙人が住んでいて、今こちらを見るとすると、やはり同じ時間のずれで、彼らの見る地球は、200万年前の原始人の住む地球を見ていることになる。
  厳密に言えば、現在の世界の姿を見ることなどは決してできない。教室で私の講義を聞いている学生たちの姿は、1億分の1秒前の学生たちの姿である。光が学生のところから私の目に届くのにそれだけの時間がかかるのである。1億分の1秒というのは、通常私たちの意識ではとらえられないきわめて短い時間であるが、しかし、これも逆に、原子の尺度で見れば、非常に長い時間でもある。ここでも、極小は極大である。ただ、人間が1億分の1秒で消えてなくなってしまうようなことは、通常起こらないから、私たちは安心して、そこに相手の学生がいると仮定することができるのである。極大と極小、そして、永遠と瞬間、これらは結局、二つにして一つである。この視野の拡大とフレキシブルな視点を持つことが、生命の真理を探る上でも大切な一つのアプローチであるといえるであろう。

3-3  You think your parents created you? Your mother and father are your genetic parents, but they did not create you. In a greater understanding, they are your beloved brothers--and you are indeed as old as they are, for all entities were created in the same moment. All were born when God, the grand and magnificent Thought, contemplated and expand itself into the brilliance of Light. That is when you came to be; that is when you were born. Your true parent is God, the Mother-Father Principle of all life.
   You think your body is you? 'Tis not. Your body is only a cloak that represents the unseen essence that is your true identity: the collection of feeling-attitudes, called your personality-self, that lies within your embodiment. (p.43)

  あなたは自分を創造したのは両親だと思っているのであろうか。あなたの両親は、遺伝的な意味では確かに親ではあるが、あなたを創造したのではない。より大きな真実の意味では、彼らは愛すべきあなたの同胞だ。そしてあなたは彼らと同じくらい年を重ねてきている。なぜなら、すべてのいのちは同じ瞬間に創造されたからだ。すべては偉大で崇高な思考である神が、己に思いをめぐらせ、自分を拡大して輝ける光となったときに生まれたのである。あなたの本当の親は神なのだ。すべての生命の父母原理を体現する神そのものなのだ。
  あなたは自分の体が自分であると考えているであろうか。それは違う。あなたの肉体とは、あなたの真の姿である眼に見えない本質を包み込んでいるマントにすぎない。その真の姿とは、あなたの肉体のうちにある人格=自己という、感情や価値観の集合体のことだ。

  世間ではよく、親が子に向かって、「おまえを生んだのは私だ」というような言い方をする。しかしこれは、科学的あるいは確率論的にいって、正確ではない。人間誕生の過程を考えてみれば、親は共同作業で子を産むことはできても、一人一人の子を選んで産むことは決してできないからである。
  人間の誕生は、いうまでもなく、母親の卵子と父親の精子の結合によってもたらされる。数百万から選び抜かれた細胞から卵子は月に一つずつ放出されるが、その数は女性の一生のうちでわずか500であるにすぎない。その卵子を目指して放出される精子の数は一度に3億ともいわれる。しかし、その精子が抜きつ抜かれつの勝ち抜きレースを展開して、勝ち残ったわずか100前後が子宮の入り口までたどり着いても、そこに卵子がいるとは限らない。
 数百万の細胞の中から選び抜かれて育った卵子が、卵管を通って子宮に移動するまでの数時間だけが受精可能で、そこで無事に卵子とたった一つの精子が結ばれる確率は、ほとんど天文学的といってよいであろう。つまり、一つの勝者の精子が無事卵子と結合できるまでには、おそらく数十億あるいは数百億の敗者の精子が勝ち抜きレースから脱落する。この勝ち抜きレースの主役は一人一人の「子」であって、決して親ではない。親は、この勝ち抜きレースに誰が勝とうが誰が負けようが、その選択には全く無力なのである。
  このように、親は子を産むことができても、どの子を産むかを選ぶことはできない。選ぶのは、子の側でありえても、決して親ではない。そして、もし子の側にそのような主体的な選択の意志が認められないというのであれば、残された可能性としては、神の意志とでも考えなければならなくなる。それでは、真実はどうなのであろうか。ここで、霊界からの情報に耳を傾けてみることにしよう。
 
  人はみな永遠の存在である。腕に抱かれた幼子や赤ん坊も、星々と同じく大昔から存在している。意識は永遠であり、不滅なのだ。
  人は自分の人生の境遇を選択する。もしこちらの領域に来てみたなら、みなさんの世界に生まれ出る機会を切に待ち望む、数知れない仲間たちを目のあたりにするだろう。彼らは地上の喜びと豊かな環境を懐かしがり、切望している。また多くの人にとって、魂の領域自体も学ぶべきことは多いのだが、「地球学校」という意義深い領域にとってかわることはできない。 
  赤ん坊はすっかり成熟した完全に進化した魂であり、魂の領域では成人の姿をして見える。もし彼らの魂がこの世でさらに勉強するように駆り立てれば、彼らは、自分たちが入っていくのにふさわしい環境を検討し探す。彼らは母親を捜し、そして一種の宇宙の順番待ちのリストに登録する。家柄を慎重に調べ、適切な縁組みを探すのはわたしたちの領域にいる多くの者たちの仕事だ。そんなわけで、赤ん坊はみなさんの世界への新参者ではなく、おそらくその両親と同程度の年月を経ているのである。両親が子供から非常に多くのことを学ぶのも不思議はない。8)

  子供はこのように、霊的視点から見れば、自ら親を選んで生まれてくる。この点については、ラムサの教えも同じである。人は自ら親を選んで生まれてくるが、ほとんどの場合、人は自分の知っている親を選ぶ。前の生で子供や親であった存在たちである。ただ、この地上界 での自己表現の媒体を提供してくれるというだけの理由で、自分の知らない人を親に選ぶこともある。また、自分が戻りたいときに、そのための媒体がないこともよくあって、場合によっては自分にあった化身を見つけるのに何百年とかかることもある。しかし、本当の意味で、人の母親、父親であるものは一人としていない。すべての人間は、神という生命の父母原理の息子であり娘なのである。つまり、私たちの誕生は「神の意志」であり、本当の親は神なのである。9) さらに「神のことば」では、それはつぎのようになる。二つ並べて引用しておきたい。

  創造者が、「創造者である自分」を体験する方法は、ただ一つしかない。それは創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に、つまり霊の子供のすべてに、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
  あなた方の宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは、一部でいわれているように物質的な身体が似ているということではない。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。わたしたちは同じものでできている。わたしたちは「同じもの」なのだ。同じ資質、能力を持っている。その能力には宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。10)

  あなたは身体、精神、本質的ないのちである霊魂という三つの部分からなる存在だ。地上に生きている間だけではなく、いつも三つの部分からなる存在である。死ぬときには、身体も精神も捨てられるという説をたてる人たちがいる。だが、身体と精神は捨てられない。身体は形を変え、最も濃厚な部分は捨てられるが、外殻はつねに維持されている。精神もあなたともに生き、いのちと身体と一体となって、三つの次元、三つの面をもつエネルギーの固まりとなる。
  地上の人生に戻ることを選ぶと、あなたの聖なる自己はふたたび絶対的な次元を離れて身体、精神、本質的ないのちとよばれる三つに分かれる。あなたもほんとうはひとつのエネルギーだが、はっきり区別される三つの性格をもっているのだ。この地上での新しい物理的な身体に住まおうとすると、あなたのエーテル状の身体の振動数が低下し、目に見えないほどの急速な振動から、物質を生じてかたまりになる速度へと落ちる。この「実体」のある物質は、純粋な思考によって創られる。あなたの精神の働きの結果だ。三つの部分からできている存在の中の高度な精神という面の働きだ。物質はこの異なる無数のエネルギーがひとつの巨大なかたまりへと凝固したもので、実はあなたの精神が物質を動かす主だ。11)

3-4  Who do you think has created your life? Do you believe that a supreme being or forces outside of you have controlled your life? The truth is, you are the one who is wholly responsible for all you have ever done, been, or experienced. You, who have the power to create the magnificence of stars, have created every moment and every circumstance of your life. Who you are, you chose to be. What you look like, you created. How you live, you wholly designed and destined. That is the exercise and privilege, if you will, of being God-man. (p.45)

  あなたは、いったい誰が自分の人生を作ってきたと思っているのだろうか。自分以外の崇高なる知性、あるいは何かの偉大な力があなたの人生を支配してきたと思うだろうか。それはそうではない。本当は、あなたがしてきたこと、あなたの人となり、あなたが体験してきたこと、それらすべてはあなた自身に責任がある。無数の雄大な星を創造する力があるあなたは、自分の人生のあらゆる瞬間、すべての状況を創造してきたのである。どんな人間であるかは自分で選んできた。自分の容姿も自分で創造してきた。どういう生活をするかも、すべて自分で設計し決めてきた。それこそが神なる人に与えられた課題であり、特権なのである。

  自分の人生は誰が創り上げてきたか。ラムサによれば、それは自分である。私たちは自分の人生のすべてを選んでいる。両親、生まれた祖国、生活環境なども含めてである。同じく私たちは自分の人生の日時を選び、本当の自分を知るのに最適の過不足のない完璧なチャンスが得られるよう、人や出来事や環境を創造し続けている。
  したがって、魂が達成したい目標が理解できれば、私たちが人生の道を歩んでいくなかで誰も「不利」 な立場にはいることはない。たとえば、魂は障害のある身体で、あるいは抑圧的な社会や厳しい政治的、経済的環境の中で仕事をしたいと願うかもしれない。自分が設定した目標を達成するのに必要な環境を創り出すためだ。だから、物理的な意味では「不利」 な立場に置かれているように見えても、形而上学的には的確で完璧な環境を自ら選んでいるということになるのであろう。12)
  このような魂の選択を理解しなければ、私たちはしばしば、いのちの意味についても重大な誤解を犯してしまうことになりかねない。ひとつの例をあげてみよう。
  医学発達の歴史の中で、1970年代に入ると、超音波による胎児診断で、出生前に胎児の先天的な病気の可能性についても診断できるようになった。たとえば、先天性心疾患をともなうダウン症が判明した場合には、その胎児を出産するかしないかという生命の選択も可能になったのである。神戸市の保険課では、わざわざ対策室まで設けて、「不幸な子供を産まない運動」を始めた。
  これに対して、障害者の団体が強く反発した。障害を持って産まれてくる子をはじめから「不幸な子」と決めつけてしまっているのは偏見以外のなにものでもない、という理由であった。これはきわめて正当な反応であって、霊的次元で見れば、障害を持って生まれることを人為的に阻害するのは、そのように生まれることを「自分で設計し決めてきた」魂に対する非情な抹殺行為になってしまう。
  障害を持って生まれてくれば、たしかに、周囲の偏見にさらされるだけではなく、不自由や、生活への重圧等にも耐えていかねばならないであろう。しかし、それが障害を持って生まれてくることの本来の意味なのである。同時にそれは、まわりの人たちに、いのちの真実に目ざめさせ、人間愛のありかたを体得させる貴重な機会を提供することにもなるのであろう。神戸市は、強い反対にあって、4年でこの対策室を廃止したが、それは当然のなりゆきであった。
  さてここで、「どんな人間であるかは自分で選んできた」の意味の検討に移ることにしよう。自分とは結局自分が思ったとおりの人間でしかない。つまり、自分自身の思考が自分自身を創り上げていくのである。それをラムサは、つぎのように述べている。

   You are precisely what you are thinking. For everything you think, you will become in feelings within you. If you ponder a fantasy of copulation, your being will become enticed. If you ponder misery you will have misery. If you ponder joy you will have it. If you ponder genius it is already there.
   How is your future created? Through thought. All of your tomorrows are designed by your thoughts this very day. For every thought you embrace, every fantasy you have, for whatever emotional purpose, creates a feeling within your body, which is recorded within your soul. That feeling then sets a precedent for the conditions in your life, for it will draw to you circumstances that will create and match the same feeling that has been recorded in your soul. And know that every word you utter is creating your days to come, for words are only sounds that express the feelings within your soul that have been given birth through thought. (pp.45-46)

  あなたは全くあなたの考えるとおりの存在である。あなたが考えることはすべて人生でそのまま現実になっていくのだ。性交を空想すれば、あなたはその誘惑を体験することになるだろう。惨めな状態を思いめぐらせば、そのようになってしまう。不幸を考えれば、あなたは不幸になっていく。喜びを想定すれば、喜びがやってくるだろう。ある才能を思えば、それはすでにそこにあるのだ。
  では、未来はどのように創造されるのだろうか。思考を通してである。明日というものはすべて、今日この日のあなたの思考によって設計されている。それが感情面でのどのような目的のためであろうと、あなたが抱く思考や空想などは、身体の内部にある気持ちを生じさせ、それは魂の内部に記録される。そして、その気持ちが今度は、あなたの人生の様々な状況についての前例となる。つまりそれが、魂に記録されているのと同じ感情を作り出す状況、それがマッチするような状況にあなたを引きつけていくのである。また、あなたが口にする言葉は、すべてあなたの将来を創造するということも知るべきだ。なぜなら、言葉とは、思考によっていのちを与えられた、魂の内にある感情を表現した音であるからだ。

  幸福を思い描くのにはほんの一瞬しかかからないが、私たちはそのとき、体全体で喜びを感じることができる。誰も友達になってはくれないようないやな人間を心の中で思い描くのも、やはり一瞬のことであるが、そうすれば、すぐにでも自分への憐憫と哀しみを感じることであろう。すべては一瞬である。泣くのを 止めて、大喜びで笑い転げるのにも一瞬しかかからない。周りは何も変わってはいないのに、何が、誰が、私たちをこのように変えているのか。それは、私たち自身である。
  私たちは、私たちが考えるとおりのそのままの存在である。自分の人生を作り上げてきたのも私たち自身にほかならない。自分をレベルが低いと考えれば考えるほど、私たちは実際にそうなっていく。自分に知性があることを認めてやらなければ、さらに愚かになっていくことだろう。同様に、自分を美しいと思わなければ、私たちは卑しくなっていく。それは、自分がそう決めているからだ。
 「あなたはいったい何者か」とラムサは問いかける。その存在の静寂の中に、考え、創造し、そして自分がなりたいと望むものなら何にでもなっていける力を持つ神−−それが私たちだと彼はいう。この瞬間の私たちは、自分が選んだそのままの姿であり、それを阻むものは何もない。私たちは、すべてに法則を与えるものであり、自分の人生とそこにある状況を創造するものでもある。そのようなすべてを超える智慧をもった知性でありながら、この生、そしてその他の多くの生で、このことに気づかずに生きてきた。それが私たちだと、彼は直言する。その力強く美しい彼のことばは、さらにつぎのように続いていく。

   Every thought you have ever embraced, every fantasy you have ever allowed yourself to feel, all the words you have spoken, have all come to pass or are waiting to come to pass. For thought is the true giver of life that never dies, that never can be destroyed, and you have used it to create every moment of your life, for it is your link to the Mind of God.
   For ages, entities have tried to teach you this truth--through riddles, through songs, through writings--but most of you have refused to realize it, because few have wanted to have the responsibility for their lives on their own shoulders. But the way this kingdom works is that everything you think, every attitude you hold toward yourself, the Father, life, will become--from the vilest and ugliest of things, to the most exquisite and supreme of things, for only you know the difference, the Father knows only life. So you get what you speak. You are what you think. You "am" what you conclude. (p.46)

  あなたが考えたこと、空想したこと、あるいは語ったことは、すべてすでに起こったか、これから起こるべく待機している。いったいどうやってすべては創造されると思うか。それは思考を通して創り出されるのだ。思考こそが真に生命を与えるものであり、決して死ぬこともなく、破壊することもできないものなのだ。あなたはそれを使って、自分自身に生命をもたらした。思考こそが、神の精神とあなたとをつなぐ絆であるからだ。
  時代を通じ、さまざまな存在がこの真実を皆に教えようとしてきた。謎かけを通して、歌を通して、そして書き物を通して。だが、ほとんどの人間はこれに気づくことを拒んできた。自分の人生に対する責任という重荷が自分の肩にかかってくるのを望む者など、ほとんどいなかったからだ。だが実際には、あなたが考えること、あるいは、自分について、父なる存在について、また人生そのものについてのあなたの価値観はすべてその通りになる、というのがもののあり方なのだ。最も卑しい醜悪なものから、かけがえのない美しさをたたえたものまでもそれは同じことである。なぜならその違いを知るのはあなただけだからだ。父なる存在は、生命しか知らない。だからあなたは、自分の語るものを手にする。あなたは、あなたの考える自分そのままなのだ。自分でこうと結論を下したものが、自分なのである。

  感情にはものごとを引き寄せる力がある。だから、私たちが体験することは、私たちの感情がもたらしたものといってよいのであろう。この意味では、感情とは動いているエネルギーである。そしてこのエネルギーが大量に動けば、物質が創り出される。物質とは凝縮されたエネルギーなのである。私たちは、自分が考えること、考えたこと、これから考えることのすべては終局的には創造につながっていくことを知らねばならない。13)


   4.

4-1  Do you think that things happen to you simply by chance? There is no such things as an accident or a coincidence in this kingdom--and no one is what is termed a "victim" of anyone else's will or designs. Everything that happens to you, you have thought and felt into your life. Either it has been fantasized in what-ifs or in fears, or someone has told you that something would be, and you accepted it as truth. Everything that happens, happens as an intentional act that is ordained through thought and emotion. Everything! (p.46)

  あなたは、自分の身に起こることはすべて単なる偶然によるものと思っているだろうか? 実は、この世界には、事故や偶然というものはない。それに、ほかの誰かの意志または策略による犠牲者などというものもいない。あなたに起きることはすべて、あなたが考えること感じることによって、あなたにもたらされたものだからだ。もしこうなったらという仮定の形、あるいはいろいろな怖れという意識を通して空想されたか、あるいは誰か他の人の言ったことをあなたが真実として受け入れてしまったから、それは起こるのだ。あらゆるものは、思考と感情によって定められた意図的な行為として起きるのである。すべてのものがそうなのだ。

  この「人生には偶然はない」ということを、繰り返し述べている一人が、キュブラー・ロスである。彼女はシカゴ大学精神科医学部の教授として勤め、末期ガン患者をどのようにして看護するかというターミナル・ケアの世界的権威として知られてきた。
  彼女は、スイスの典型的な中流家庭に三つ子の長女として生まれた。生まれたときの体重は900グラムしかなく、顔は醜く、毛も生えていなかったという。「三つ子の一人として、両親もがっかりするような醜い子に生まれたのは悲劇であった。しかし、こんな900グラムしかなかった私でもいきる価値はあるのだ。そのことを一生かけても証明しなければならない、と漠然と感じながら、私は必死に努力した」と彼女は述べている。そして、つぎのようにも書いた。

  私がいまのような仕事をするためには、そんなふうに生まれ育つ必要があったのです。でも、そのことを理解するのには50年かかりました。人生には偶然というものがありません。いつ、どこで、どんなふうに生まれてくるかということすら偶然ではありません。私たちが悲劇と思っているものも、私たちがそれを悲劇にするから悲劇なのであって、私たちはそれをチャンスとか成長のための好機とみなすことだってできるのです。そうすると、悲劇だと思っていたものが、実は私たちに対する激励、つまり人生を変えるために必要なヒントであったことがわかってきます。14)

  しかし、人生には「誰かの意志または策略による犠牲者などというものもいない」 は、どう受け止めていけばいいのであろうか。ラムサの教えはこうである。たとえば、殺人、事故、強盗なども、私たちが思いをめぐらした思索の結果、私たちの手によって創造されたものであり、思索された体験である。そして、それは永遠のものでも永遠の状況でもない。より大きな叡智のなかではそれらはけっしてひどいものではなく、むしろすばらしい師であることも振り返ってみるとわかってくる。15)
  仮に、1万人の無実の人々が殺される場合でも同じである。殺されたものたちは、永遠の生命の中でさらなる学びと体験の機会が与えられる。そして、あのナチスによって大量虐殺された500万ともいわれるユダヤ人たちも、神の視点からみれば、ヒトラーの意志による犠牲者ではない。ヒトラーは確かに、私たちの「狭い」視点で見れば重大な過ちを犯した。しかし、このような重大な過ちでさえ、神と宇宙の視点で見れば、つぎのような見方で捉えられるのである。

  ヒトラーが犯した過ちは、彼が死に至らしめた人々をなんら害することも、侵すこともなかった。あの人々の魂は、地上の束縛から解放された。さなぎから蝶が解放されるように。残された人々が彼らの死を悼むのは、彼らの魂がどんな喜びへと分け入っていたかを知らないからだ。死を経験したら、誰も死を悼んだりはしない。彼らは時ならぬ死をとげたのだから「間違っている」と言われるが、それは、宇宙では起こるべきでないことが起こりうるといっているのと同じだ。宇宙で起こることはすべて、完璧に起こるべくして起こっている。神は過ちを犯してはいない。16) 

  少し脇道にそれるかもしれないが、現在までの人類の歴史を遠く遡っていくと、私たちは奇跡的な「偶然」がいくつもいくつも重なりあって私たちに至っているいるのを見ることができる。たとえば、そのひとつが、アフリカで二足歩行をはじめたといわれるヒトの起源である。
  フランスの人類学者で、コレージュ・ド・フランスのイブ・コッパン教授によれば、1,500万年以上も前、人類発祥の地といわれるアフリカでは、ほとんどが森林で覆われていて、何種類もの類人猿が住んでいた。ところがその後、谷の陥没とそのまわりの隆起が起こり、大地溝帯が形作られはじめた。「グレートリフトバレー」と呼ばれるアフリカ大地溝帯である。これは、山脈と山脈に挟まれた深い谷で東アフリカを南北に貫いている。中東からエチオピア、ケニア、タンザニアへと続く東部地溝帯と、ウガンダから南下する西部地溝帯からなり、総延長は6,000キロにも及ぶ。
  この大地溝帯の「偶然の」出現は、アフリカ東西の環境に大きな違いをもたらした。西側は相変わらず多雨湿潤だが、東側は山脈に遮られて雨が少なくなり、800万年前頃を境に、徐々に乾いた草原が広がるサバンナになっていったのである。果実などが豊富な熱帯雨林に比べ、森のないサバンナでは類人猿はすみにくい。類人猿の姿は少しずつ消えていった。
  こうして大地溝帯ですみかを南北に分断された類人猿の集団は、東西それぞれに違った進化を進めて運命を分けた。西では森で暮らすチンパンジー、ゴリラに、そして、森がなくなった東では、サバンナという新しい環境に適応するヒトという種に変わっていったのである。17) その後さらに500万年余のあいだに様々な種類の人類が淘汰され、現生人類にたどり着いたといわれるが、それが私たちの祖先である。生物学的に見ても、その間、一度もいのちの連鎖が断ち切られることなく、現代にまで続いている奇跡を思うと、もうそれは「偶然」では測りきれない。そもそも、私たちの祖先が、アフリカの西ではなく、東にいたことの意味は何であろうか。
  このアフリカでの運命の岐路からさらにはるかに遡ると、約35億年前の地球にはじめて生命が生まれた時点に行き着く。そして、その生命を宿した地球そのものは46億年前に誕生した。しかし、太陽系、銀河系、宇宙とさらに遡っていくと、150億年前、あるいは120億年前といわれる宇宙の始まりにまで関心が及ばざるを得ない。宇宙、銀河系、太陽系、地球といういわば生命の揺りかごのなかで、現在に至るまで連綿として絶えることなく続いてきた私たちの生命の系譜は、これも奇跡的な「偶然」の連続の所産であろうか。
  (3-2)でも触れてきた宇宙のはじまりのビッグバンは、1940年代に米国の物理学者ジョージ・ガモフによって唱えられた。宇宙は、超高温高密度の小さな状態から、大爆発によって急激に膨張したという考え方である。遠くの銀河などの観測から、いまも宇宙は膨張を続けていることが天文学者たちによって確認されている。
  気体が膨張すると温度が下がるのと同じ仕組みで、宇宙の温度は宇宙の大きさに反比例する。時間を遡っていくと、宇宙の大きさがゼロになる時点で温度と密度は無限大になる。この状態は、現在の物理学の法則や科学理論では手も足もでない。
  最新の実験装置で、宇宙が始まった1兆分の1秒(10のマイナス12乗)後に相当するエネルギーの世界を垣間見ることができるようなった。しかし、実験という手法でさかのぼれるのはこのあたりが限界であるらしい。宇宙の種が急膨張するのは、宇宙の始まりの10のマイナス36乗後というきわめて短い時間からといわれているから、宇宙の始まりや、「その前」に何があったかなど、知るすべはない。結局、過去のある時点で「神の一撃」があり、ある大きさやエネルギーを持った宇宙が生み出された、としておくしかなかった。科学はここで神に「下駄を預けた」のである。18)
  ここでもう一度、本文に立ち戻る。ラムサは、「あらゆるものは、思考と感情によって定められた意図的な行為として起きる」といっているように、思考の重要性を繰り返し強調している。彼によれば、自分の人生のありようも、すべて自分の思考の結果ということになるが、これについては次のようなことばもある。

    When you realize that you have the power to think yourself into ignorance, disease, and death, you will also realize that you have the power to become grander--simply by opening yourself up to a more unlimited thought flow, which allows you to have greater genius, greater creativity, and life forever. When you realize that the god who created the body in the first place is the power that sits within you, then your body will never age or become diseased, nor will it ever perish. But as long as you hold on to your beliefs and limit your thinking, you will never again experience the unlimitedness that gave glory to the morning sun and mystery to the evening sky. (p.49)

  思考によって自分を無知や病気や死へと追いやる力が内面にあると気づくとき、さらに大きく広がる限りない思考の流れに自分を開いてやるだけで、あなたは、自分にはもっと偉大なものになる力があることにも気づくだろう。その流れがさらに大きな才能と、創造性と、永遠の生命とを持たせてくれるのである。もともと人間の肉体を創造した張本人である神とは、実は、あなた自身の内面に宿っている力のことであると気づくとき、あなたの肉体は、もはや老いることも病気になることも、消滅してなくなることもなくなる。しかし、自分の信念に固執し、思考に限界を課している限り、朝の太陽に輝きを与え、黄昏の空に神秘を与えた永遠を経験することは、決してないことだろう。

4-2  You have disbelieved in the greatest gifts of life; and because of that, you have not allowed a more unlimited understanding to occur. Life upon life, existence upon existence, you became so immersed in the illusions of this plane that you forgot the wonderful fire that flows through you. In ten and one-half million years you have come from being sovereign and all-powerful entities, to where you are utterly lost in matter; enslaved by your own creations of dogma, law, fashion and tradition; separated by country, creed, sex and race; immersed in jealousy, bitterness, guilt and fear. You so identified yourselves with your bodies that you entrapped yourselves in survival and forgot the unseen essence that you truly are--the God within you that allows you to create your dreams however you choose. Immortality you have openly rejected; and for that, you will die... and return here, again and again and again. Thus, here you are again, after ten and one-half million years of living here... And yet you hold on to your disbeliefs. (pp.48-49)

  あなた方は人生における最高の贈り物を信じようとはしなかったのだ。 そのために、より広大な無限の理解力を持てなくなってしまった。幾度も幾度も生を繰り返し、この世での存在を繰り返す中で、あなた方はこの地上界での幻影にあまりにもどっぷりと浸かりすぎたため、自分の中に輝いているすばらしい炎を忘れ去ってしまった。1,050万年の間にあなた方は全能で至高の存在から、物質界で自分の存在を完全に見失うところまで来てしまっている。自分で作り出した教義や、法律や流行や伝統などの奴隷となり、国家や信条、性別、人種の違いで分断され、その結果、嫉妬や苦しみ、罪悪感と恐怖心に苛まれるようになってしまった。自分の肉体が本当の自分自身であると勘違いするようになったために、命を長らえることだけにすっかりとらわれてしまい、自分が選んだままに夢を実現させてくれる内なる神というあなた方の本当の姿、眼に見えない本質をすっかり忘れてしまっている。不死などは、全く頭から否定してしまった。そのおかげであなた方は死ぬ。そして、また戻ってくる。それを何度も何度も繰り返す。その結果、あなた方はいま、またもここにいるのだ。1,050万年もここに生きてき たというのにである。それでもまだあなた方は、自分の疑念から目が覚めない。

  科学者たちが、人間の歴史を100万年、あるいは長くてもせいぜい200万年と考えてきたのに対し、ラムサはそれをここでは1,050万年といっている。ラムサのその根拠にまず触れておきたい。
  考古学者たちは、発掘したものを放射線分析にかけ、それを基に年代を決めたりしているが、発掘物に放射線活動を与えているものは太陽である。しかし、太陽からの光は、科学者たちが考えているほど長い期間この地球上に直接当たってはいなかった。太陽からの光が、この惑星を取り巻く大気中の水分に当たったとき、光線は分散され、分散した光があらゆるところに注がれていた。そのため、今日のように、放射線を浴びていたものはなかった。それなのに、直接の太陽光線が実際よりも長い間、地上に届いていたと信じて疑わない学者たちは、発掘物の放射線活動分析から、人間がいつ存在しはじめたかを推定しているのである。19)
  要するにこの1,050年の間に、人間は「全能で至高の存在から、物質界で自分の存在を完全に見失うところまで来てしまっている」というのである。
  人間は、自分に繰り返しいわれたことは、それがどんなに偏向した考えであっても、それを受け入れることによって最後にはそれが確固とした現実になる。もしある人に、神は自分以外のところにあり、おまえは魂が卑しく邪悪なのだと繰り返せば、この想念はその人間の魂の記憶に確固とした概念として刻み込まれ、それを変えるのはきわめて難しくなる。まさにそのことこそが、この地上界で何千年にもわたって起きてきたことなのだ。
  私たちはみな、誰もがこの地上界では多くの生を体験している。そして、この次元での生は夢であり、ゲームであり、生の冒険での幻であるにすぎないのに、それは私たちをひどく汚してしまった。数多くの生を生きている間に、家族から社会から、宗教から、あるいは政府の権力から、私たちは卑しい存在であり、神は私たちの手の届くところにはないと繰り返しいわれてきたために、思考過程の中でそれが確固たる現実になってしまっているのである。
 今日でもまだ、私たちのほとんどは自分が神であることを知らないでいる。自分のうちにすべてを知り、すべてになる力があることを知らずにいるのである。だからこそ、教師や宗教や他の誰にでも、自分の人生を支配させ、真実を自分に代わって解釈してもらっているのである。この地上で長い間繰り返し語られてきた単純な真理をも、他人の考えがわざわざ理解し難くし、混乱させるのを許してきてしまった。その真理とは、父なる存在、天の王国はほかならぬ私たちの中にあるという真理のことである。
  その真理を知らない私たちの多くの者は、神とつながり覚醒するためには、宗教の教義や、祈り、断食、お経、瞑想などが必要なのだとまだ思い続けている。しかし、こういうことに囚われれば囚われるほど、私たちは魂に、自分がなろうとしている者にはなれておらず、神の愛や叡智からは遠く離れていることを確信させてしまうことになるのである。20)
  この私たちの無明の状態に関連して思い出されるのは、『歎異抄』第9条である。このなかで親鸞は、極楽という壮麗無比な素晴らしい世界があっても、そこへ急いで行きたいと思わないのは、よくよく煩悩が深いからであるにちがいない、と言った。「あなた方はこの地上界での幻影にあまりにもどっぷりと浸かりすぎたため、自分の中に輝いているすばらしい炎を忘れ去ってしまった」というラムサのことばもまた、このような人間の浅からぬ煩悩の姿を言ったものといえるのかもしれない。
 無明と煩悩に満たされた世界には光が射し込まない。その世界の暗さを、かってラムサと同じように、人類に向かって救済のメッセージを送り続けたシルバー・バーチと名乗る高級霊は、つぎのように描いた。

  私はいつもあなた方のこの世界に帰ってくると、なんともいえない空しさを感じてしまいます。いや、空しさということばだけではまだ私の気持ちは表現できません。あなた方の世界にはまったく光がなく、生気もありません。なにか重苦しく、灰色で活力に欠けているのです。あなた方の世界というのはいわば古びたクッションのようなもので、バネはすべてこわれ、たるみきっています。どこにでも陰鬱な雰囲気が支配していて、輝くような喜びに満ちたこころの人はほとんどいません。こころはすっかり、霊から離れてしまっています。だから、生きる喜びを感じている人は少なく、どこにでも見られるのは絶望と無関心だけです。おそらくそのことにもあまりにも慣れすぎて、気がつかないのでしょうね。
  私の住む世界では、すべてが色どり豊かに輝いています。こころは生きる喜びにあふれ、人々はすべて楽しい仕事に打ち込んでいます。芸術活動も盛んで、人々はいつも他の人に奉仕することを考えています。自分のもっているものはもっていない人に分かち与え、知らない人には教え、こころの暗い人を導いていこうとしています。善行のための熱心さと喜びと輝きに満たされているのです。
  人間の一人一人は神の分身であり、神のもつ限りない大きな可能性を分け与えられています。誰もが、この世で生きていく困難を乗り越えていくための霊感と能力を自分のなかに持っているのです。この永遠の事実について知っている人は少ないし、自分自身の素晴らしい優れた才能を引き出すことのできる人も多くはありません。そして、多くの人々は、この地上の生活と同じように、というよりももっと現実味のある、霊界の生活の豊かな色彩や優しさを楽しむことができるはずなのに、無味乾燥な地上の生活のほうを好んでしまうのです。
  私は自分が見てきた霊界と、いま帰ってきたこの地上の世界とを比べてみてありのままを話しています。本当は、あなた方の世界は、霊界の太陽の光の影であるにすぎません。この世界はいわば殻であって現実ではないのです。物質の世界には、もともと正真正銘の現実などはありえないのです。物質の存在自体が霊の作用によるものだからです。物質というのは、そもそも、現実の霊世界が出すひとつの波動の表現であるにすぎません。
  この地上の世界の人々が、もし私たち霊界の人間が知っていることを知ることができたなら、意気消沈することもなければ、うなだれていることもないでしょう。人々はみんな生気を取り戻すでしょう。それは、あらゆる力の根元が霊にあり、霊界の永遠の富を手に入れることのほうが、苦労や心配の種になる多くの物質的なものよりずっと大切であることを理解し始めるからです。
  私は本当に多くの人々が、この地上で、自分たちのエネルギーを使うに値しないさまざまなことで悩んだり恐れたり心配したりするのを見てきました。力を入れるべき場所を間違っているのです。見当違いの努力をしているのです。いつかは改められなければなりません。21)

4-3  What happens when you have decreed yourself to perish from this place? Well, the body dies, but you who think in the silentness behind your eyes, always live. When you leave this plane, if you choose to die, the true you will not be buried into the ground and go to the worm and then to ash. You are ongoing with the wind. Where you go is where you came from, and there you decide what you wish to do upon your next adventure-- for that is what this all is. And you shall return here, however many times you desire to return, until you reclaim your identity as God. Then you are off on a grander adventure, indeed, in another heaven, another place. (pp.49-50)

  自分がこの地上界から消滅すると決めこんで死ぬとき、一体なにが起こるのだろうか。もちろん肉体は死ぬが、あなたの目の奥で静寂の中で思考している存在はずっと生き続ける。もしあなたが死ぬと決めてかかったとしても、この地上を去るとき、真のあなたは地中に埋められ、朽ち果てて灰になってしまうわけではない。あなたは風とともに存在し続けるのである。あなたの行く先は、あなたがそこからやってきた元の場所だ。そこであなたは、この次の冒険でなにをしたいかを決める。つまり、すべては冒険なのだ。そしてあなたは、あなたが神としての自分の真性をを手にするまで、何回でも望むだけこの地上界に戻ってくることになる。それからあなたは、別の天界、別の場所でのさらに壮大な冒険へと乗り出していくのだ。

  「自分がこの地上界から消滅すると決め込んで死ぬとき」、何が起こるのであろうか。生命科学者の柳沢桂子氏によれば、死んだ遺体がもし火葬場に運ばれることもなく地中に埋められたら、遺体はつぎのような課程を経ていわゆる「土に帰っていく」状態になるという。22)

  呼吸が停止し、心臓が弛緩したまま止まると、やがて体中の筋肉も弛緩し始める。体内にある汚物は体の外に流れ出てくる。目はどんよりと開かれ、瞳孔は拡大する。遺体は、筋肉の弛緩が4〜5時間続いた後、やがて硬直する。血液の循環が止まり、酸素が供給されなくなり、アデノシン三リン酸が分解されて、筋肉が収縮したままになるので硬直するのである。
  死語24時間経つと、遺体のいろいろな部分に鬱血した血液が死斑となって表れる。やがて遺体の硬直は消え、腐敗が始まる。まず、屍臭がたちはじめ、死体はふくれあがり、ウジがわく。つづいて、緑色の斑点が表れ、次第に遺体全体に広がる。
  これは、腸のなかに生息していた細菌が繁殖して遺体を分解し始めたためにできたものである。その後、死体は水分を失い、皮膚は乾いて皮革のようになる。
  血液が循環しなくなって最初に死ぬのは神経細胞である。大脳皮質の細胞は、心臓の拍動が泊まってから7〜8分後壊死をおこす。視床下部の神経細胞はやや長く、75分以上生きている。引き続き、肝臓、腎臓、腺細胞が変性していく。最後まで生き残るのは皮膚の細胞で、死語2〜3日は生きている。髪、その他の毛、爪は死後もしばらくはのび続けてから崩壊する。やがて臓器は、悪臭を放つどろどろのものになって、頭蓋、胸郭、骨盤内を満たす。肝臓は第3週頃に、心臓は5〜6ヶ月めに消滅する。
  体の内部にすんでいた細菌、カビ、ウイルスなどの寄生生物の餌食になった遺体は、つぎに外から入り込む生物によって食い荒らされる。ダニ類やムカデなどの多足類、クモ、昆虫、野ネズミなどが饗宴に加わる。
  化学的にみると、体の中の水分は、なかに溶解している塩類や細菌とともに地中に染み込んでいく。炭水化物は、アルコール、ケトン、有機酸に分解されて地中に入る。その一部は、炭酸ガスやメタン、水素にまで分解されて大気中に放散される。一人の成人の死体が放散するガスの量は5立方メートルにもなる。脂肪は、アンモニアを沢山含んだ低級脂肪酸に分解されて悪臭を放つ。タンパク質は鎖状の長い分子であるが、短く切られてアミノ酸になる。その一部は、各種アミンやアンモニアになり、さらに硝酸、亜硝酸に酸化される。
  最後まで残るのは骨である。骨はカルシウムを失い、雨水に溶けて消失する。骨がなくなるまで普通4〜5年かかるが、場所によっては数百年もかかることがあり、歯が数千年も残っていることもある。

  以上は、生物学的な一面から見た死の考察である。死のすべてがこのようなものであるとすると、一般的に、死または死にかかわることを「穢れ」と受け止め、これを忌み嫌って、葬儀式などにおいても「清め」の意味で塩が用いられたりするのもわからぬわけではない。23) 
 しかし、もう少し別の視点から、死をミクロとマクロの世界の中で捉え直してみるとつぎのような見方も可能になってくる。
  私たちの寿命は、受精の瞬間から時を刻み始める。産声をあげる10ヶ月も前から、私たちはいわば死に向かって歩み始めるのである。しかし、その歩みは、はじめから崩壊へ向かっているのではない。一個の受精卵は60兆個の細胞に増え、人間という小宇宙を形成する。
  死は生の終着点のように思われているが、果たしてそうであろうか。死は生を支え、生を生み出す。受精の際には、沢山の精子が死に、残された一つの精子によって生命が誕生する。死は、生と同じようにダイナミックであり、生命の歴史の中では、生と死は同じ価値を持つ。生きている細胞より死んだ細胞の方がずっと多いという意味において、生命の歴史とは死の歴史であるといえないこともない。死によってこそ生は存在するのであり、死を否定することは生を否定することになるのである。
  多細胞生物にとっては、生きるとは、少しずつ死ぬことである。私たちは死に向かって行進する果てしなき隊列である。36億年の間、書き継がれてきた遺伝情報は、個体の死によって途絶える。個体の死は36億年の時間に終止符を打つ。そして、生殖細胞に組み込まれた遺伝情報だけが生き続ける。
  一方、私たちの意識する死は、人間の神経回路のなかにある死である。それは、意識の中の死であり、心理的な死である。それは、36億年の歴史とは無関係な感情であり、むしろ静的なものである。24)
  しかし、これもまた、生物学的な肉体の死ではあっても、いのちの死ではない。このような透徹した死生観をもさらに越えて、私たちは、いわば「目に見える死」だけに捕らわれることなく、目に見えないいのちの実相についても心の目をひらいていかねばならないことをラムサは教えているのである。


4-4  You are loved greater than you have ever imagined, for no matter what you do, you will still live. So why have you worried? Why have you fought? Why have you diseased yourself? Why have you sorrowed yourself? Why have you limited yourself? Why have you not enjoyed the spelendor of the sunrise, the freedom of the wind and the laughter of a child? Why have you not lived instead of struggling?
   You are going to live, again and again. Your seed is perpetual; it is forever. Despite all your disbeliefs, no matter how greatly you limit your kingdom, no matter how much you worry and despair, there is one thing you will never do away with--and that is called life! No matter how blind and unaccepting you are, you will always have life, for that is the value called God--and that is you. (p.50)

  あなたは自分の想像をはるかに超えて愛されている。というのも、なにをしようとあなたは生き続けていくからだ。それなら、なぜこれほどまでに心配してきたのか?なぜ争ってきたのか?なぜ自分を病気にしてきたのか?なぜ悲しみに打ちひしがれてきたのか?なにゆえに自分に限界を課してきたのか?なぜ日の出の荘厳さを、風の自由を、そして子供たちの笑い声を楽しまなかったのか?なにゆえに、苦労ばかりせず、生きることをしてこなかったのか?
  あなたは何度も何度も生きる。あなたのいのちは永遠不滅の存在なのだ。あなたがどんなに疑念を持とうと、自分の世界を限定しようと、どれほど心配し絶望しようとも、あなたには決して消せないものがある、それがいのちというものだ。
 あなたがいかに盲目で、真理を受け入れようとしなくても、いのちだけは必ず持ち続ける。それが神と呼ばれるものの持つ貴重な特性だからだ。そしてその神とはあなたのことなのだ。

  大昔の人間は死をもっと身近な問題として捉え、天国や死後の生を現代よりははるかに強く信じていたと思われる。肉体が死んだ後にも生はあるとこころから信じている人がどんどん減っていったのも、ここ百年くらいのことではないであろうか。しかし、いままた人類は、地球破壊と人類滅亡のカウントダウンがささやかれる一方で、霊性の夜明けを迎えようとしている。
  宗教や信仰とは直接結びつかなくても、私たちより何か偉大なもの、宇宙を創り上げ、生命を創造した何かが存在し、私たちはその重要で不可欠の一部であるという意識が、少しずつではあるが着実にこの地上に広がっていくであろう。キュブラー・ロスも「私たちはみな、源から、すなわち神から生まれたとき、神性の一部をあたえられた。だから、文字通りの意味において、私たちはその源の一部を自分のなかに持っているのである。また、そのために人間が不滅であることを多くの人々が気づき始めたのである」と述べている。25)
  そのキュブラー・ロスが、旅先での体外離脱体験のなかで「神を認めた」エピソードについて書いている。つぎに引用してみよう。

  錯覚ではなかった。横になったままからだを観察していると、もっと不思議なことが起こった。目をやった先のからだの部分が、片っ端から信じられないスピードで振動し始めた。振動はその部分の基底層にまでひろがっていた。どこに目をやっても、無数の分子のダンスが見えた。
  そのときはじめて、自分が肉体から抜け出してエネルギーになっていることに気づいた。目の前に、この世のものとは思えないほど美しい蓮の花の群落が広がった。花はスローモーションのようにゆっくりひらいていた。ひらくにつれて輝度を増し、色彩が豊かに、精妙なものになっていった。無数の蓮の花がじわじわと寄り集まり、ついには巨大な、息をのむほどに美しい、一つの花に変わった。
  その巨大な蓮の花のなかをとおりぬけて光と一体になりたいという衝動にかられた。抗しがたい引力に吸い寄せられて、光に近づいていった。その霊妙な光こそが長く苦しい旅の終着点だという確信があった。みじんも急ぐことなく、自分の好奇心に感謝しながら、わたしはその振動する世界のやすらぎと美と静けさを堪能していた。
  視野はどこまでもひろがっていながら、草の葉から木製のドアまで、細部にわたってその分子構造の自然な振動がみてとれた。畏怖を感じながら、万物にいのちが、神性が宿っているさまを眺めていた。そのあいだも、わたしは蓮の花をとおりぬけ、光に向かってゆっくり移動し続けていた。そしてついに、光とひとつに溶けあった。あたたかみと愛だけが残った。100万回の長いオーガズムも、そのときに味わった愛の慈悲深さとこまやかさにはおよばなかった。それから、ふたつのことばが聞こえた。ひとつは「神を認めます」という、自分の声だった。ふたつ目はどこからともなく聞こえてきた、「シャンティー・ニラヤ」という意味不明のことばだった。26) 

  無明の暗闇のなかで、神の愛を語るのはむつかしい。それはまだ、自分が誰であるかもわかっていないからであろう。「人間は死んでも死なない、死というものはないのだ」というのも神の愛である。キュブラー・ロスは、その神の愛を人々に知らせるために、患者の臨死体験の実例を2万件も集めたりして、人間のいのちの永遠を訴えてきた。このことについては別のところで述べてきたので触れない。27)
  ここでは、最後に、もう一度、「神のことば」を引用して、この稿をしめくくっておきたい。

  あなた方は決して死なない。生命は永遠だ。あなた方は不死だ。決して死なない。ただ、かたちを変えるだけだ。本来はそれすらも必要なかった。かたちを変えると決めたのはあなた方で、わたしではない。わたしはあなた方の身体をいつまでももつように創った。あなたは本当に、神が最善をつくしても 60年か、7, 80年で壊れるような身体しか創れないと考えるのか?その程度が、わたしの能力の限界だと思っているのか?
  あなた方の素晴らしい魂は、物質的な身体の中で、相対的な世界で得られる経験を通じて、真の自己を知る機会を手に入れることになっていた。そこで、物質を創るために猛スピードの振動(考えのかたち)の速度が落とされた。そのようにして創られた物質のなかには、あなた方の物質的な身体も含まれている。
  生命は、あなた方が何十億年とよぶ一瞬のあいだに、一連の段階を通って発達した。そして、聖なる瞬間がやってきて、あなた方は海という生命の水から陸地へ上がり、いまのようなかたちをとるようになった。あなた方は決して死ぬはずではなかった。あなた方の物理的なかたちは、すばらしく便利なものとして創られた。精神によって創り出された現実を経験できる栄光ある乗り物、魂のなかで創造した自己を知るために創られたすばらしい道具だった。魂が思いを抱き、精神が創造し、身体が体験する。これで循環は完結する。魂は自らの体験のなかで自分を知る。
  あなたの身体は精神と魂のためにあり、あなたはわたしの精神と魂のためにある。わたしはすべてを、あなたを通して経験する。あなたはわたしの身体である。28)

                        -- 1998年10月14日--



 

 * Awakening to a Macrocosmic Awareness 
   -- An Introduction to the Teachings of Ramtha (2) --

 1) 本稿でも引き続き、Steven L. Weinberg ed., RAMTHA, Sovereignty, Inc., Bellevue, Washington(U.S.A.), 1986, をテキストとして用いる。
 2) 武本昌三 "Arthur Conan Doyle の Spiritualism について" および "補遺" など。
 3) Joel L.Whitton and Joe Fisher; Life Between Life, Doubleday, 1986, New York., 片桐すみ子訳『輪廻転生』人文書院、1989年、p.93.
 4) ibid., p.115.
 5) Hubert Reeves et al.,『世界でいちばん美しい物語』(木村恵一訳)筑摩書房、1989, pp.210-211参照
 6) ibid., p.213.
 7) Quasarはquasi-stellar radio source(準恒星状電波源)を短縮したことばで、準星ともいわれる。1950 年代末に強い電波の放射源として確認され、1980年の終わりまでに確認されたクエーサーは数千個に上る。この「120億年前のクエーサー」というのは、1991年にパロマ天文台で発見された。このよう に遠い天体から地球に届いたエネルギーから判断すると、一部のクエーサーは銀河2000個分以上のエネルギーを作り出していることになるという。Microsoft Encarta Encyclopedia (1998), Microsoft Corporationによる。
 8) Judy Laddon, Beyond the Veil, The English Agency Ltd., 1987. 片桐すみ子訳『輪廻を超えて』人文書 院、1997年, pp.18-19.
 9) Ramtha; p. 69.
10) Neale Donald Walsch『神との対話』(1)(吉田利子訳)、サンマーク出版、1997, p.43.
11) Neale Donald Walsch; ibid., p.43.
12) Neale Donald Walsch; ibid.,(2)pp.203-204参照。
13) Neale Donald Walsch; ibid., (1), p.78参照。
14) Elizabeth Kubler-Ross; Death Is Of Vital Importance, Station Hill Press, 1995, 鈴木晶訳『死ぬ瞬間と臨死体験』読売新聞社、1997, p.20-21.
15) Ramtha; pp.129-130.
16) Neale Donald Walsch; ibid.,(2), p.71.
17)「われら以外の人類」『朝日新聞』1998.9.25
18) ただし、1980年になって、米国の物理学者アレキサンダー・ビレンケン博士や、英国のスティーブ ン・ホーキング博士は、「単に物質がないだけでなく、その入れ物である空間さえも存在せず、時間 さえもない無の状態から、ある確率できわめて小さな宇宙が生まれる」と、宇宙の種は神の創造がな くとも「無」から生まれうるとの説をとなえるようになった。「宇宙、始まりの前」 『朝日新聞』1996.9.25.
19) Ramtha; p.90.
20) Ramtha; p.147.
21) Tony Ortzen, ed., The Seed of Truth - More Teachings from Silver Birch -, Psychic Press, London, 1989, Chapt 1, (武本昌三訳)より。
22) 柳沢桂子『われわれはなぜ死ぬのか』草思社、1997、pp.10-11による。
23) ただし、最近ではこのような見方は正されつつある。日本の仏教界でも、「仏教の教えでは、生と死 は切り離せない。死者を穢れたものとする清め塩は、都合の悪いことは遠くへ追いやろうとする自分中心の心が生んだ迷信に過ぎない。仏教本来の教えに基づく宗教儀式に立ち返るのが目的」であると して、葬儀の清め塩も廃止するなど、「死は穢れ」を否定する考え方が広がり始めている。「朝日新聞」 1998年9月8日。
24) 柳沢桂子, ibid., pp.201-202による。
25) 鈴木晶訳、ibid., p.153.
26) Elizabeth Kubler-Ross; The Wheel of Life, Whilliam Morris Agency, Inc., New York, 1997. 上野圭一訳『人 生は廻る輪のように』角川書店、1998、pp.291-292. なお、「シャンティー・ニラヤ」とは、サンスクリットで、「安らぎのついの住みか」を意味するこ とばである。キュブラー・ロスは、このあと創設したヒーリング・センターの名称にこの名を用いた。
27) 武本昌三「いのちを慈しみ、明日に向かって生きる」こすもすセミナー講演集、1998, など。
28) Neale Donald Walsch, ibid.,(1), pp.263-267.