莫大な資産を子孫に残すのは有害無益である  (2011.12.24)


 「人並み外れた大財産や名誉は、幸福そのものではない。身のため子孫のため、有害無益である」。 ― これは、貧しい生まれでありながら刻苦勉励して東大教授になり、「科学的投資」によって一代で莫大な資産を築き上げた本多静六博士(1866〜1952)の言葉である。

 博士は、1927(昭和2)年の東大定年退官を期に、莫大な全財産を匿名で社会に寄付して自分の信念を実践した。「公園の父」と称される日本最初の林学博士で、日比谷公園や明治神宮をはじめ、北海道の大沼公園や福島県の鶴ヶ城公園、埼玉県の羊山公園、長野県の臥竜公園など、明治期以降の日本の多くの大規模公園の開設に携わった人物として知られている。

 定年退職後も、博士は、「人生即努力、努力即幸福」のモットーのもとに、常に働きながら学ぶという簡素な生活を崩さず、85歳で亡くなるまで1日1頁の原稿執筆を続けて、370冊余りの著作を刊行した。その博士は、さらに、つぎのような言葉も残している。

  「私が平凡愚劣の生まれつきをもって、しかも、なおかつ割合に幸福感謝の長い人生を享楽し得たのも、ひとえにこれ、早くから自らの人生計画を立てて、実行に努力してきたおかげである。」

  「人間は活動するところ、そこに必ず新しい希望が生まれてくる。希望こそは、人生の生命であり、それを失わぬ間は、人間は無駄には老いない。」

  「人生は生ある限り、これすべて、向上への過程でなくてはならない。社会奉仕への努力でなくてはならない。もし老人のゆえをもって、安穏怠惰な生活を送ろうとするならば、それは取りも直さず人生の退歩を意味する。」



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   私の散歩道に咲いていたコスモスの花  (2011.12.14 )


 淺川の土手のほとりに咲いていたコスモス。
  2011年10月18日の夕方、筆者撮影。
  この地点から、空気の澄んでいる日には
  左前方に富士山も見える。


  私の住んでいるところから、10分くらい北へ歩くと、一級河川の淺川に出ます。この川は、東京都八王子市にある高さ857メートルの陣場山に源を発して東へ流れ、八王子市を通り日野市まで来て、総延長30.15キロの地点で多摩川に合流しています。護岸をコンクリートで固めてしまうのではなく、ヨシなどの植物によって水の勢いを抑えて水質を浄化する取り組みをするなど、都市に残された貴重な自然環境を守る配慮がなされているようです。鷺やカルガモもよく現われ、きれいな水のなかには、川遊びの子供たちがアブラハヤと呼んでいる小魚などが群れて、40センチもあるような鯉が何匹もゆっくり泳いでいるのを見かけることもしばしばです。

 私は、最近では、この淺川のほとりへ毎日のように散歩に出かけるようになりました。賑やかな道路を通って浅川に出たところで、全長200メートルほどの淺川大橋にぶつかりますが、その下は、大半が河川敷で、水は川の一部を狭く浅く流れているだけです。ヨーロッパなどには見られない典型的な日本の川の姿です。

 その橋を渡り終わったところで、左に折れ、川の土手の上を西へ向かって歩き始めます。空気が澄んでいる日には、そのあたりから富士山を遠望することができますので、それが散歩の一つの楽しみです。300メートルほど歩くと暁橋にぶつかりますが、そこを横断したすぐのところには、ついこの間まで、コスモスが可憐に咲き続けていました。

 ここに載せた写真は、10月の18日に撮ったものですが、11月の下旬から少しずつ花が落ち始め、12月に入ってからは、ほとんどが散ってしまいました。それでも、三つ、四つの花が、少し元気はなかったものの健気に咲き残っていたのが、昨日、13日には、とうとう、みんな消えてしまったのです。急に愛惜の気持ちがこみ上げてきて、可憐に咲いていた2か月前の姿をここに留めておきたくなりました。

 このコスモスは、もちろん、このまま死に絶えてしまったのではないでしょう。来年にはまたこの場所に、多分これ以上の、多くの花を咲かせることになるはずです。誰かに見られても見られなくても、可憐なこのコスモスは、薔薇のような華麗さもなく向日葵のような強い個性とも無縁で、ただ素直に、そして、ひたすらに純粋に、大自然の摂理に従っていのちを繋いでいるようです。

 そのいのちの繋がりを、私は来年もまたここへ来て、その可憐さを愛でながら確認することになるのかもしれません。或いは、これも大自然の摂理で、そういうことにはならないのかもしれません。花を落として枯れ草のように弱々しく身を縮めているコスモスの姿を眺めながら、私は、ふと、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」という、初唐の詩人、劉挺芝の詩の一節を思い出したりしていました。




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   皆既月蝕とオリオン座のベテルギウス       (2011.12.12)


  先月末には、山梨県の八ヶ岳で3日間を過ごしました。高原のホテル屋上に設置されている大型天体望遠鏡で星空を観測できるというので、楽しみにしてでかけたのです。しかし、生憎、3日とも、夜空には薄い雲が広がって、天体望遠鏡で星空を観測することはできませんでした。オリオン座のベテルギウスも、よく見てみたいと思っていましたが期待はずれで終わってしまいました。

 一昨日、12月10日の夜は、雲も少なく皆既月蝕がよく見られると聞いて、午後10時ごろに家をでて、歩いて10分ほどの淺川という広い川の河川敷から空を見上げていました。ほとんど真上に近い角度ですから、見上げていると首が痛くなります。それでも、1時間ほどは皆既の状態を見続けていました。皆既月蝕といっても真っ暗になるのではなく、濃いオレンジ色で影のようになってはいますがはっきりと月の姿が見えました。ご覧になった方も多いと思いますが、不思議な色の不思議な光景です。

 そのオレンジ色の月のすぐ左下のほうに、オリオン座の三ツ星もよく見えました。ミンタカ(Mintaka)とアルニラム(Alunilam)、アルニタク (Alnitak)の三つです。私が子どもの頃に見た映画で、恋人同士がこの三ツ星を見上げながら、「あれは、愛情と友情と誠実を表しているのだ」と言っていたのを思い出します。そして、あのベテルギウスが三ツ星の左上方に、右下方のリゲルと対角線上に並んで、はっきりと見えていました。リゲルが白く輝いているのに対して、ベテルギウスが赤っぽい色を放っているので、日本では、源氏の旗色の白と平家の赤の対比から、ベテルギウスを平家星、リゲルを源氏星と呼んでいるようです。

 ベテルギウスの平家星が赤っぽい色で輝いているのは、これが赤色超新星といわれるゆえんですが、この星は、直径が太陽の1000倍もあるといいますから、とてつもなく大きな星です。しかも、この星は、或るオーストラリアの研究者によると、2012年に超新星爆発を起こして終末を迎え、地球にとって2つ目の太陽となる可能性があるともいわれているのです。しかし、ベテルギウスは、随想 (80) にも書きましたように、640光年彼方にありますから、おそらく、もう爆発しているのでしょう。爆発の状況が地球から見えるのに640年かかるわけですから、本当のベテルギウスは、多分、あそこではもう消滅しているはずです。

 私は、光速ではたった1.3秒という至近距離で、いま皆既月蝕の現象を見せているオレンジ色の月と、その消滅しているはずのオリオン座ベテルギウスの赤っぽい星の色を、対比して仰ぎ見ながら、改めて大宇宙の神秘についていろいろと考えさせられていました。私たちが死後還ることになる霊界を理解するのには、この大宇宙を見るのが一番の近道かもしれません。皆既月蝕が1時間近く続き、それが終わって、月の光が端から明るく輝き始めるのを見届けて、私は夜の道を家へ引き返しました。



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    幼稚園のクリスマスキャロルの会で   (2011.12.08)


 昨日、孫が通っているカトリック系幼稚園で、クリスマスキャロルの会がありました。園児達が賛美歌などを歌った後、「歌のプレゼント」として幼稚園の先生方からの「クレド」の合唱も行なわれました。クレド[credo]というのは、ラテン語の「われ信ず」の意で、日本語の歌詞はつぎの通りです。


    「クレド」

 I.  成功を収めるため 神に力を願ったのに
    弱くなってしまった 謙遜を学ぶように
    偉大なことをするために 神に健康願ったのに
    病気になってしまった 神の心に適うように
    私の願いは何一つ叶えられなかったけど
    希望したすべてのことを 私は受けた

 2. 幸せになるために 神に富を願ったのに
    貧しくなってしまった 生きる厳しさ知るように
    弱い人を助けるために 神に権威を願ったのに
    無力になってしまった 神に頼ることを学ぶように
    神は私に必要なこと 何もかも知っておられる
    希望した全てのことを 私は受けた

 3.  人に尊敬されるために  神に手柄を願ったのに
    ただ失敗に終わった 思い上がらないように
    聖なる人になるために 神に徳を願ったのに
    罪の醜さに泣いた 神の愛の深さ悟るように
    私の姿は変わらない 弱く何も出来ないけれど
    喜びに満ちあふれて 私は歌う




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  30年を経ても受信できたポケットラジオ   (2011.11.10)

  
  潔典が中学生の頃から使っていた
 ナショナル・パナソニックのポケットラジオ
   ( 札幌にて筆者撮影 2011,11,01)

 このH.P.の「身辺雑記」16 (2004.08.16) に「時の流れが止まっていたかのように」 という一文を載せてあります。かつて長男の潔典が使っていたラジオ、ゲームウォッチと私がアメリカで潔典たちの最後の写真を撮ったコニカのカメラについて写真付きで説明してありますが、どういうものか潔典に関係するこのようなラジオや時計やカメラは、異常なほど、電池が長持ちするのです。

 小さなおもちゃの時計(ゲームウォッチ)は、毎日12時15分にメロディーを奏で、画面の人形が踊るのを11年以上も続けましたし、2004年の時点で、トランジスタ・ラジオはその22年前と同じように大きな音で受信できました。ところが今度、札幌の自宅で潔典の机を整理していたら、このトランジスタ・ラジオよりもさらに古いと思われる上の写真のような小さなポケットラジオが引き出しの奥から出てきたのです。

 スイッチを入れてボリュームを上げますと、大きな音で放送が流れ出して驚きました。霊界の潔典が戯れているのではないかと疑いました。潔典は、1981年以降はこの部屋に入っていないので、このラジオは電池は交換していないのに、30年後でも受信できたということになります。いつか機会があれば、専門家にこのラジオを見せて、30年以上も続いている電池の耐久性について聞いてみたいものと思っています。



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  マックレィン陽子さんの訃報に接して     (2011.11.06)


 私がマックレィン陽子さんの死亡を知ったのは一昨日、11月4日の「朝日新聞」夕刊によってである。「夏目漱石の孫」とあって、写真入で11月2日の深夜(日本時間 3日夕)に米オレゴン州の自宅で脳内出血により死亡したことを伝えていた。オレゴン大学名誉教授で享年87歳である。彼女はオレゴン大学時代の私の親しい友人で、私より6歳上であった。

 1957年9月にオレゴン大学に留学した私は、そこでオレゴン大学をその前年に卒業して大学の付属美術館で働いていた陽子さんに出会った。当時はまだ海外渡航は自由化されておらず、日本からの留学生も私を含めて6名しかいなかったから、すでに大学の町ユジーン(Eugene) に住み込んで結婚もしていた彼女の存在は私たち留学生にとっては貴重であった。私たちは、何度も、彼女の家でのパーティに招かれ、夫君で町の中学教師であったロバート・マックレイン (Robert McClain) とも親しくなっていた。

 陽子さんは漱石の孫で、彼女のユジーンの自宅には漱石の写真や漱石全集などが揃っていた。彼女は、作家の松岡譲と漱石の長女・筆子の次女である。妹の末利子さんは、作家の半藤一利氏夫人で、夏目純一氏(バイオリン奏者)、夏目伸六氏(随筆家)は叔父にあたる。漫画家として活躍中の夏目房之介氏は、彼女の従弟である。

 私は、1959年に大学院を終了して帰国したが、彼女は、その後大学院へ進んで、1967年に修士号をとった。1973年に私が文部省在外研究員として再び渡米し、オレゴン大学の客員教授であったときには、彼女はオレゴン大学の東アジア言語文学部 (the Department of East Asian Language and Literature) で日本語を教えていた。私は外国語教授法の研究で、彼女のクラスを一学期間、聴講させてもらったこともある。

 1973年から1975年にかけてのオレゴン州ユジーン滞在の時には、妻・富子と長女・由香利、長男・潔典がいっしょであったので、私たち家族は陽子さんの家族と、家族ぐるみの付き合いになった。陽子さんの一人息子のケン(Ken) は、その頃はまだ小学生であったが、その後スタンフォード大学へ進み、結婚して生まれた長男には、ミドルネームを漱石から取り、Alejandro (Alex) Soseki McClainと命名している。陽子さんの初孫である。

 私がフルブライト上級研究員として1982年に三度目の渡米をしたときには、私はアリゾナ大学にいたので、文通はしていたが陽子さんと会う機会はなかった。その後、1983年に私はノース・カロライナ大学へ移り、その年の9月1日(日本時間)に、あの事件に遭遇して帰国してからは、彼女との文通も途絶えていた。そして、いま、二十数年を経て陽子さんの訃報に接している。気さくな人柄で学生たちからも慕われていた彼女の冥福を、こころから祈るばかりである。



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    伊勢皇大神宮への参詣         (2011.10.03)

 御正宮の前の石段の下から。神殿は檜の白木
を用いた高床の穀倉形式で屋根は萱葺き。
 「唯一神明造」という日本古来の建築様式で
伊勢神宮独特といわれる。(筆者撮影2011.09.29)


 伊勢の地には、50年前に訪れたことがあったが、その頃はまだ、天照大神のことがよくわかっていなかった。70年も前の小学校で習った教科書に、天照大神が弟の須佐之男命の乱行に怒って、天の岩屋に隠れてしまったという日本神話があって、それはよく覚えていたが、かつての私の頭の中では、天照大神はそのような神話の世界の神でしかなかった。

 長い年月を経て、いまの私にとっては、天照大神は少なくとも「神話の世界の神」ではない。紀元前700年前後に、地方の豪族であった伊邪那岐命と伊邪那美命の娘として生まれ、神示によって高千穂の国の女王に迎え入れられたというような実在界の歴史にも触れてきて、「非常に気品があっておおらかな」天照大神に、こちらにいる間に一度、きちんとご挨拶申しあげておきたいと思うようになっていた。

 自然に巡ってくるように、その日になった。秋晴れの爽やかな一日、私は宇治橋を渡り、五十鈴川で手を清め、長い参道の玉砂利をゆっくり踏みしめて歩いて、御正宮の前で深く頭を垂れた。



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  「今度はあなたは本当に聞こうとするだろうか」  (2011.09.30)


 今日、9月30日の「学びの栞」(B)[61-q]では、「真実や真理はいままでもあらゆる所で示されてきた」というタイトルで、次のようなことばを伝えた。

 《その真実は最も高い山頂から声高に叫ばれ、最も低い場所でささやかれてきた。人類のあらゆる経験の回廊に、この真実がこだましている。答えは愛、それが真理だ。だが、あなたがたは聞こうとしなかった。
 いま、この本にめぐりあったあなたは、神が数えきれないほどの回数、数えきれないほどの方法で語ってきたことを、もう一度語ってほしいと言う。それでは、もう一度この本のなかで語ろう。今度はあなたは耳をかすだろうか。ほんとうに聞こうとするだろうか。》

 真実とは何か、何が真理か、と問い求めてきたはずでありながら、このようなことばに触れると、いまさらのように忸怩たる思いがする。シルバー・バーチの教えにしても、何度も読んできたつもりであっても、私自身、まだまだ理解が浅いのではないか。

 「学びの栞」で取り上げ、「今日の言葉」で取り上げ、「霊訓原文」で取り上げ、そして、いままた、「叡智の言葉」で取り上げようとしている。しかし、中味は同じで真理は一つである。何度も繰り返していきながら、少しずつでもこころに刻み込んでいくほかはない。自戒の思いを込めて。



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  『シルバー・バーチの教え』を訳し終えて   (2011.09.13)


 このホームページで「霊訓の原文」を取り上げるようになったのは、昨年の2月1日からでした。テキストに使ったのは、A.W.Austenが編集したTeachings of Silver Birch です。この本は、サイキックニューズ社から発行された原書の第一巻で、日本では1984年に、桑原啓善氏の翻訳で『シルバーバーチ霊言集』として潮文社から出版されています。もう30年近く前のことになりますが、この頃から、近藤千雄さんもシルバー・バーチの翻訳に取り組まれて、12巻まで続く『シルバー・バーチの霊訓』の第1巻は、同じく潮文社から1985年に出版されました。
 
 近藤千雄さんは、この桑原氏の訳文は、「テキスト風にまとめられて訳し方もかなり趣きが異なる」と言っておられますが、私はシルバー・バーチの本に親しむようになって以来、この桑原氏の『シルバーバーチ霊言集』は、「テキスト風」というよりも「現代風」に生の声が聞こえるような口語体で訳し直したほうがいいのではないかと思うようになっていました。それで、現在、サイキックニューズ社からこの本の版権を受け継いでいるSpiritual Truth Press社からこの本の新訳出版の許諾を得て、昨年2月から翻訳を始めるようになったわけです。ホームページの上で、「学びの栞(B)」と隔日に掲載してきて、間もなく「霊訓原文」の掲載は終わりますが、原稿そのものは、今日、最後の1ページを訳し終えて、『シルバー・バーチの教え』の新訳は完了しました。

 たまたま、今日は、私のホームページのヒット数が30万回になった日でもあります。ヒット数が20万回になったのは、2009年5月8日で、その日には、毎日このホームページをご覧いただいているK.M.という方から、品川の空に浮かんだ見事な「二重(20) の虹」の写真が送られてきました。2009年5月11日の「メール交歓」にその写真を載せてあります。今日は、ヒット数が30万になって、シルバー・バーチの新訳が完了して、ただそれだけですが、その今日の9月13日も、あと数時間で、何事もなかったかのように穏やかに過ぎていこうとしています。おりしも外は、中秋の名月。



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  稚内・宗谷岬の丘の上に建つ「祈りの塔」     (2011.09.01)


 
  3年前の、2008年9月1日、稚内の「祈りの塔」の前で
  行なわれた25周年式典の準備風景。この後、市内の
  小、中学生の代表や稚内市長なども出席して、犠牲
  者の慰霊と世界平和を祈念する式典が行なわれた。

  (同日の朝、筆者撮影)


 稚内の宗谷岬の丘の上に、1983年9月1日早朝に発生した大韓航空機事件の犠牲者を悼んで建てられた
「祈りの塔」がある。事件2 年後の1985年に、日本在住の遺族が中心になり、全国からの義捐金を募って建立された。

 この「祈りの塔」は、鶴が大きく羽を広げ、天空に首を持ち上げる姿をしていて、首の先端の折れた部分は、サハリンのモネロン島沖の事件現場の方角を示している。事件の真相と真の平和を鶴のように首を長くして願い求める様子を表現したものである。

 この塔の高さは19.83メートルで、これは事件が起こった1983年を、16 枚の羽は遭難者の 16 カ国の母国を、 269 枚の白御影石は犠牲者の数である 269 名をそれぞれ示している。右翼に、私の原案による「愛と祈りを捧げる」が刻まれ、左翼には、犠牲者269名全員の名前が刻まれた。左翼から少し離れて、事件の経緯を日本文と英文で記した石碑がある。碑文は私が書いた。

 2003年9月1日の事件後20周年には、日本在住の遺族の大半が集まって、稚内市が主宰する平和を祈念する式典に出席した。2008年9月1日の25周年では、遺族の出席者の数は十数名に減ったが、同じように、稚内市長や、市内の小、中学生代表も参加して、式典が行なわれた。海岸の砂浜で慰霊のための壮大な「野焼き」も実施された。これが、遺族でまとまって式典に参加した最後になった。

 今年の9月1日は、事件後28年になる。犠牲者の遺族たちも老齢になり、死亡者も増えて、遠く稚内まで足を運べる人は少なくなってきた。私は何度か、一人でこの「祈りと塔」を訪れているが、今年は行けなかった。もう一度、最後に訪れておきたいという思いはあるが、実行できるかどうかはわからない。私は、自宅で仏壇にささやかなお供えをして、犠牲者たちの冥福を祈った。

 今年も、長男・潔典の友人たち5人が、近く来訪してくれることになった。潔典の東京外国語大学での同級生である。潔典が他界したのは21歳の時であったから、毎年、来訪を欠かさず、潔典のために花を供え、線香を上げてくれているうちに、彼らも49歳から50歳の壮年になった。その潔典の友人たちに、霊界での潔典の最近の消息を伝え、娘夫婦や孫たちもいっしょに親しく会食して、私の今年の「9月1日」は終わることになる。



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  Ann Turner の一周忌に花束を捧げる    (2011.08.20)


 Dear Tony;

 I do hope you are fine and everything is all right with you.

 Ann passed away on 22 August, last year, and it is almost one year since that day. I would like to send some flowers for Ann on this special day. A few days ago, I sent to you 100 pounds for flowers to Ann by air mail. I hope this mail will reach you in time for the anniversary.

 I pray for Ann, and I pray for you that God's light be always with you.

 Shozo

                 *****

 Dear Shozo,

 Thank you so much for your kind thoughts and prayers, you were and still are a very special friend to Ann. I am sure she will really appreciate the flowers, as soon as I receive your airmail I will contact you to let you know it has arrived safely.

 I hope you and your family are keeping well. I think of you often and you also are always in my prayers. We haven't had much of a summer to speak of here in the UK, fingers crossed that September might be good for us.

 God’s love and light to you always,

 Tony 


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  歴史的な建物から移転した大英心霊協会     (2011.08.15) 


 ノーマンテイラー邦子様

 メールを拝見しました。わざわざ私の新著を日本から取り寄せられたとお伺いして、たいへん恐縮に存じます。私からお送りすべきところをお手数をおかけしてしまって、すみませんでした。

 『天国からの手紙』は、一個人としてはあまり前例がない輪廻転生のまとまった記録なども載せていますので、あなたのようなプロの方からはどのように見られるか、関心があります。お読みいただいて、また、いろいろとご教導いただければ、有難く存じます。

 ロンドンの最近の暴動のニュースには、こころが傷みます。イギリスだけではなく、世界的にも、あのような傾向が広がりつつあるような気がしますが、やはり、地球上ではモノとカネ中心の生き方が行き詰って、大きな転換期にさしかかっているのでしょうか。

 大英心霊協会が、あの伝統のある建物から、近代的ビルのワンフロアに引っ越したそうですが、残念に思います。あなたが言われるように、あれだけの大きな建物では、維持管理が大変だったのでしょうね。

 はるかにロンドンの街並みをなつかしみながら、ご健勝をお祈り申し上げております。



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   『小桜姫物語』と『新樹の通信』の現代文訳  (2011.07.15)


 このホームページの「身辺雑記」(No.51、2007年6月1日)に「山村幸夫さんの奇跡の足跡」が載せてあります。心霊治療家としての山村さんは、末期がんの患者などを含めて、近代医学から見放された数々の難病患者を何百人、何千人と治していく奇跡を見せてきました。しかし、その治療費は一銭も取りませんでした。治療費を無料にしながら、それでいてあれだけ広範囲な奉仕活動ができたのは、すべて、患者たちからの感謝の気持ちがこもった善意の寄付によるものです。この事実を広く知ってもらうために、山村幸夫さんの奉仕活動を、『神からのギフト』と『与え尽くしの愛』にまとめられたのが黒木昭征さんでした。

 先日、その黒木昭征さんから、『小桜姫と新樹の物語』が送られてきました。これは、日本の心霊研究の草分け的存在として知られる英文学者・浅野和三郎先生の『小桜姫物語』と『新樹の通信』をまとめて、黒木さんご自身が現代文に訳されたものです。現在も、潮文社から浅野和三郎著訳選として本文復刻版が発行されていますが、文体がやや古く、いろいろと引用して紹介するのにも不便がありました。それだけに、この大変格調が高く読みやすい黒木さんの現代文訳は、霊的知識普及のための大きな、そして大切な業績といえるでしょう。私も一読して、いまさらのように、この本に書かれている霊界通信の重要性を再認識させられているところです。


 *この『小桜姫と新樹の物語』は直接下記へ申し込めば入手できます。

    神からのギフト出版会
    〒223-0058 横浜市港北区新吉田東7-24-8
      TEL / FAX  045-546-1032 黒木昭征
          http://www6.ocn.ne.jp/-yukio/



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   年に一日だけ開くサボテンの花     (2011.07.05)




前日の夕方から開き始めて翌日の朝から
「満開」になったが、この写真の後はしぼみ
始めた。(2011年7月2日、午後10時43分撮影)



 おそらくもう10年以上になると思うが、娘からもらったサボテンを、いまもベランダに置いて育てている。はじめは小さくて、15センチくらいの可愛らしさであったのに、いまは大きく成長して1.5メートルくらいにもなり、根元よりも胴体のほうが太く、あまりいい格好ではない。しかも途中でくの字形に湾曲して、自分では胴体の重みを支えきれないので、竹の支柱で上体を受け止めてやっている。

 サボテンの種類は、非常に多いらしく、このサボテンがどういう種類のものかは、門外漢の私には全くわからない。たまたま、インターネットで「サボテンの花」を検索してみたら、エリオセレウス属(Eriocereus) の「袖ヶ浦」という名前のものによく似ている。多分「袖ヶ浦」だと思うが、それにしても、なぜこのサボテンに「袖ヶ浦」という名前がつけられたのであろうか。袖ヶ浦というのは、いうまでもなく千葉県の町の名前である。そして、この名前には、私にとって、なつかしい響きがある。

 『古事記』によれば、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が相模の国(今の神奈川県)から東征の折り、走水(東京湾)を渡る途中で大時化に遭った。そのとき妃の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海中に身を投じて海神の怒りを鎮め、尊の渡海を助けたことになっている。その妃の衣の袖が海岸に流れついたという伝説から、東京湾の千葉県側の海岸が「袖ヶ浦」の雅称で呼ばれるようになったのである。

 この弟橘媛が投身したときの状況などは、浅野和三郎『小桜姫物語』(潮文社、2003年)の霊界通信の中で極めて具体的に小桜姫自身によって述べられている。小桜姫が霊界で弟橘媛と会って、直接、弟橘媛から聞き出したのである。かつて私は、霊能者の何人かと共に、横須賀市走水のこの弟橘媛を祀った走水神社に詣でたことがあった。その際に、近くの三浦半島諸磯海岸にある小桜神社にも詣でた。「袖ヶ浦」という名前は、その当時の思い出を甦らせるが、この私のサボテンが「袖ヶ浦」なら、これもひとつの機縁なのであろうか。

 昔、私はアメリカのアリゾナ州ツーソンに住んでいたことがあったが、この街では至る所に "saguaro"とよばれているサボテンが見られた。日本語では、これは「弁慶柱」(ベンケイチュウ)というらしい。大きいものでは5, 6メートルの高さになる。郊外には、saguaro が林立している州立公園もあった。私はツーソンに一年住んでいたし、「Saguaro 州立公園」へも行ったことがあるが、花が開いているのを見たかどうか、記憶にない。写真では見たことがあるが、サボテンというのは滅多に花を開かせることがないというので、見れないものだと思っていた。

 ところが、昨年、6月であったか7月であったか、わが家のサボテンが、はじめて花を開かせたのである。サボテンの胴体部分の3,4箇所が豆のようにふくらんできて、やがてそれらが細長く伸びて蕾のようになった。それがある朝、一斉に花開いて、つぎの朝には、もうしぼんでしまっていた。たった一日しか、開いてはいなかったのである。今年は、用心して、花が開いたその日のうちに、何枚か写真に撮っておいた。上の写真は、そのうちの1枚である。たった一日だけ、それも私にだけ花を開かせて見せてくれているこの「袖ヶ浦」がいじらしいような気がして、私は、その写真をここに掲載することにした。