10. (第7章  霊界の妻と子から送られてきた便り)   (2014.08.11)


    第七章  霊界の妻と子から送られてきた便り


 潔典が誕生日に思い出を語る

 毎年、六月五日の長男の誕生日に、長男と続けている文通は、アン・ターナーが亡くなるまで、二十年近くも続きましたが、そのうちの、二〇〇〇年六月五日の長男・潔典からの手紙は、つぎのように始められています。

 お父さん、誕生日のお祝いの手紙をありがとう。大変うれしく、こころから感謝しています。ぼくは、いまでは生まれた時からかなり年もとって、分別もある大人になっているつもりですが、お祝いをいわれると、やはりうれしいですね。
 誕生日というのは、特別の日で、なかなか忘れられません。お父さんの七十歳の誕生日のお祝いには、ぼくたちも出ていましたが、ぼくたちの存在を感じ取ってくれましたか。ぼくたちもあの席で、お父さんの誕生日をこころからお祝いしていたのです。誕生日というのは、生きている証しの日であり、こころの成長と語り合いを通じて家族の絆が確かめられる日ですね。愛情で深く結ばれているぼくたちが、いっしょに喜び合う日でもあります。ぼくは、お父さんが大好きです。

 この原文は、アン・ターナーの英語で語られていますから、これは日本語に意訳されたものです。
 英語と日本語の言語的特性はかなり違いますので、直訳ですと、ほとんど意味を為さないことが少なくありません。意訳しても、日本語と英語の差はどうしても残るでしょう。
 ただ、これを訳している私は、父親として、潔典の気持ちやことばの使い方がよくわかる立場にあります。その分だけ、日本語の意訳も、本人のことばにより近いものに「戻す」ことが出来るといえるかもしれません。
 ここに出てくる私の誕生日は、この手紙の一か月半前になります。
 娘夫婦とレストランで食事して、あとは自宅でケーキとお茶を楽しんでいたのですが、その席に、「ぼくたちもいっしょにいた」のだと、潔典は言っています。
 しかし、妻や長男から常に見守られているという漠然とした意識はもっていても、霊的感応については、私はかなり鈍い方なのかもしれません。
 「ぼくたちの存在を感じ取ってくれましたか」と言われて、せめてあのとき妻と長男のグラスぐらいは用意して、「出席」を感謝すべきであった、などと後で考えました。
 手紙を続けます。

 ぼくがお父さんと、この世で最後の会話をしたときからも、長い年月が流れました。どうか、あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください。少し甘えてお詫びいたします。
 考えてみるとこの十七年の間に、お父さんにもぼくにもいろんなことがありました。お互いに、多くのことを学び理解してきましたが、それらのことはしっかりと身について離れることはないでしょう。ちょっと淋しいとき、悲しいときには、ぼくたちの楽しかった日々、うれしかった出来事などを思い出すことにしましょう。
 お父さんはぼくのあの小さなおもちゃの時計をまだ持っているのですか。 ぼくはお父さんの息子であったことが本当によかったと思っています。ぼくの誇りです。
 ぼくたちは、生まれるときには、好きな家族を自分の責任で、自分で選んで生まれてくるのですね。友だちなどもやはり、生まれるときに、自分の責任と好みでえらんでいるのです。
 こういう特別の愛があることも、いまのぼくにはわかってきました。

 
 ここに述べられている「この世の最後の会話」については、私には忘れられないつらい思い出があります。
 一九八三年八月、アリゾナ大学からノース・カロライナ大学へ移っていた私と長女のところへ、妻と長男が夏休みを利用して来ることになりました。
 急の旅行ですぐには予約が取れず、キャンセル待ちで、やっと大韓航空の切符を手に入れたのです。
 ノース・カロライナ州のローリーのアパートで、久しぶりに一か月の家族四人の生活を楽しんだあと、妻と長男は、アメリカ東部時間の八月三十日の朝、帰国の途につきました。
 ローリーの空港からフィラデルフィア経由でニューヨークへ飛び、ケネディ国際空港から、大韓航空機に乗ることになっていたのです。
 私は鈍感で気がつかなかったのですが、潔典はどういうものか、この大韓航空機に乗ることを気にしていました。
 娘に、「お姉ちゃん、大韓航空機て大丈夫だろうか?」と二度も訊いてみたりしています。
 「アリゾナ大学の学生のなかには、大韓航空はいやだという人もいたけれど、大韓航空はパイロットの技術が優秀だし、大韓航空しか乗らないと言う学生もいたよ」
 と娘が答えますと、潔典は「助かった!」と調子外れな答え方をしていたそうです。
 あとで振り返ってみますと、ローリーのアパートで潔典がベッドのうえに横になっていて、ドアの開け放たれたその部屋の前を私が通り過ぎたとき、ふと(潔典が怯えている・・・・・)と感じたこともあります。
 しかし、私の頭のなかでは、明るい性格の潔典と暗いイメージの「怯え」は結びつきませんでした。気の迷いだろうと、そのこともすぐ忘れてしまっていました。
 潔典は、フィラデルフィア空港からとニューヨークのケネディ空港から二回電話をかけてきました。
 二回とも、最初に娘が受話器を取ったのですが、あとで聞いたところでは、潔典は姉に、「無事に着いて偉いだろう」と言ったそうです。
 たしかに、ローリーからフィラデルフィアへ飛び、ニューヨークに着いたあと、さらに国内線から国際線に移るのは、面倒には違いありません。
 しかし、潔典はアメリカが初めてではなかったし、英語もほとんどアメリカ人並に話せましたから、「偉いだろう」というのはいかにも変です。
 しかし、「最後の会話」を電話で潔典と交わしたときには、そういうことにも私はまだ気がついていませんでした。
 二回目の電話で、娘から受話器を受けとったとき、潔典は私に、ケネディ空港に無事着いて、あとは大韓航空機に乗るだけ、というようなことを言いました。
 私はその時初めて、潔典の言い方にしどろもどろに近いような、何か異様なものを感じたのです。
 「ママに代わるから、代わるから」と慌てたように言って、電話は母親に代わってしまいました。
 その時は、さすがに鈍感な私にも、一瞬、暗い不安のようなものがさっと頭の中をよぎりました。私は、妻とのいつもと変わらぬ穏やかな会話で電話を切ったあと、ちょっとつらいような思いをかみしめていました。
 潔典は父親の私からみてもよくできた子で、私は彼を、幼い頃からほとんど叱ったことがありません。しかし、あの時は、東京へ着いたら電話で、潔典に少し強く言っておこうと思っていました。
 「あんなふうな話し方をすれば、お父さんは心配になるではないか」という、その時に言おうと思ったことばをいまでも覚えています。
 第六感というのでしょうか、潔典は自分にこれから起ころうとしていることを、漠然としてではあっても間違いなく感じ取っていたと思います。いくら払おうとしても、その不安は拭いきれず、最後には、あのような私との会話になったのでしょう。叱られなければならないのは潔典ではなく最後まで鈍感であった私でした。
 私が鈍感でさえなければ、と事件のあと、長い間苦しみ続けたことをいまも忘れることが出来ません。私は、この時の潔典への手紙で、その鈍感さを詫びたのです。
 この返事で、その気持ちが少しでも伝わったようで救われたような気がしました。
 文中の「あの小さなおもちゃの時計」というのは、潔典がなにかの付録か懸賞でもらったらしい小さな子供っぽい時計です。五百円玉よりちょっと大きいくらいのゲーム・ウオッチで、値段にすれば、おそらく千円もしないでしょう。
 茶目っ気のある潔典は、その時計を、自分の机の脇の電気スタンドにぶら下げていました。
 事件後しばらくは辛くて部屋にも入れませんでしたが、二年くらい経ってからでしょうか、潔典の机にぼんやり座っていますと、急に「タタタータタ、ターララ、ラーラ・・・・・」と、時計が鳴り出しました。
 私はちょっと驚いて、初めてこの「ムッシーちゃん」と名付けられた小さなおもちゃの時計が鳴ることに気づいたのです。
 毎日午後の十二時十五分に鳴り出して、十五秒ほどで終わるこのメロディーは、その後何年間も鳴り続けました。
 事件後十年になる一九九三年の夏、ロンドンでアン・ターナーにこの時計のことを話しますと、彼女は、
 「あなたに霊界のことを理解させるために、この時計は十年間鳴り続けてきたが、いまあなたは理解し始めている。それで、まもなく動くのを止めるだろう。止まっても新しくバッテリーを入れ替える必要はない。そのままにしておけばよい」
 と言いました。
 いま改めて、ビデオに録画しておいたものを見ますと、一九九四年一月六日までの記録が残っています。文字盤の人形が踊り、ちゃんとメロディーが鳴っています。
 普通は一年か二年で止まってしまうと思われるのに、このおもちゃの時計は、十一年以上も毎日、人形が踊って鳴り続けたことになります。
 つぎに、ここで潔典のいっている「好きな家族を自分で選んで生まれる」というのは、心霊主義ではよく知られていることで、新奇ないい方ではありません。
 ただ、この場合、好きな家族というのは、必ずしも、豊かで愛情に満ちあふれた円満な家庭という意味ではないでしょう。さらに一歩進んで、愛のない厳しい逆境を自ら好んで選ぶということもあることを知っておく必要があります。


 この通信はどの程度正確か

 ともあれ、潔典は私を父親に選んで生まれてくれました。私は、自分を選んでくれたことに対して、いまも潔典には尽きることのない感謝の気持ちを持ち続けています。
 少し、説明が長くなりましたが、潔典からの手紙はさらにつぎのように続きます。

 お父さん、来年、七十歳の定年を迎えることになって、おめでとう。長年、お父さんは立派な充実した仕事をしてきました。これからも、お父さんがこころに抱いてきた夢を実現させるためには何年もかかります。多くの人々と会ったり、あちらこちら旅行をしたり、それに本を書いたりとかで、まだまだ、することがたくさんありますね。
 お父さんの書いた『生と死の彼方に』は、確かに、この霊界とそちらの世界とを結びつけてくれる本です。お父さんが書きたいと思ったことは、これからも何でも書くようにしていってください。こちらの霊界やこちらでの生活を多くの人々に知ってもらうためにも、お父さんの 知識や思いやりのあることばが必要なのです。
 お父さんが書く本などで霊界についての理解が深まっていくと、そちらの世界との溝が取り除かれ、死後の世界の恐怖心とか迷信もなくなっていきます。霊界がそちらの世界からはもっと身近になって、死のもたらす悲しみや苦しみも消えていくことでしょう。
 死というのは、次元が違っても、隣の部屋に一歩足を踏み入れるようなものですから。心は満ち足りて平静です。


 その当時、二〇〇一年の三月末で、定年退職することは私から伝えてありましたから、これは、霊界からといっても、特に目新しい返事にはならないかもしれません。『生と死の彼方に』の出版についても同様です。
 意地悪く言えば、別に霊能者でなくても、この程度の「返事」は仲介できると考えることもできるでしょう。
 ただ、このような手紙を仲介するときのアン・ターナーは、自分自身の意識と肉体から完全に離れてしまっています。
 私は、そういう彼女の姿を目の前で何度も見てきましたが、霊界とのコミュニケーションに身を委ねている間は、たとえ自分の腕を切り落とされてもわからないだろう、他人の腕のようなもので、痛くもないだろう、と彼女は言っていました。
 しかし、それでも霊能者の意識と肉体を媒介している以上、通信内容が霊能者本人の意識のあり方から微妙に影響を受けることはあるのではないか、と考えられないこともありません。
 私自身も、これが潔典の肉声でないというだけでも、信憑性が百パーセントだとはいえないと思います。
 これは、たとえば、宇宙のはるか彼方から送られてくる弱い雑音混じりの電波になんとか波長を合わせてメッセージを捉えようとする試みのようなものかもしれません。その時の気象条件や受信機の調子などにも影響を受けることでしょう。
 それだけに私の場合は、霊界からの通信はなるべく多く受けとって、比較検討しながら吟味することが、情報についての信憑性を高める一つの方法であろうと思ったりしています。
 また、「死というものは、次元が違っても、隣の部屋に一歩足をふみいれるようなもの」ということばは、ほかの多くの霊界通信の内容からみても納得させられる表現です。「心は満ち足りて平静です」ということばも、潔典に関するほかのいろいろな情報とも矛盾してはいません。
 潔典からの手紙に戻ります。

 お姉ちゃんのことは決して忘れていません。お姉ちゃんは感受性が豊かで、困っている人々の面倒をみたり、まわりの人々とうまく歩調を合わせていく特別の才能があります。わざとらしさのない自然な調子で、人々に話しかけたり、助言を与えたりするのが上手です。
 大きなからだのぼくに代わって、抱きしめてやって下さい。お姉ちゃんはちょっと驚くかもしれませんが、ぼくからの愛情の表現であるとわかってくれるでしょう。ぼくの義兄になるお姉ちゃんのご主人にも、ぼくに代わって強く握手してくれませんか。
 お兄さんに、あの三月の特別の記念日には、どうかおおいに楽しんで、お祝いをしてくれるようにお伝えください。こちらにいる家族のみんなも、ぼくも、お兄さんが家族の一員に加わったことを、たいへん喜んでいます。


 娘は、一九九二年の十一月に結婚しましたが、このことは、私がまだイギリスに滞在中の一九九二年三月までに、大英心霊協会の複数の霊能者に予言されていました。
 私が帰国したあとすぐに結婚の話がもちあがるともいわれて、そんな気配のほとんどなかった娘に、ほんとうにそんなことがあるのだろうか、とも思ったりしましたが、それも現実になりました。
 偶然ということばでは片づけられないこの「予言」の的確性を私は疑うことが出来ません。
 霊界では、この結婚についていろいろと話し合われたことなども、後に私は告げられるようになります。
 「三月の特別の記念日」とは、三月二十九日の娘の誕生日を指すように思われます。それ以外には、この言葉にあたるような日はありません。
 それならば、「特別の記念日」のかわりに、なぜ「誕生日」ということばを使わないのか、という問題がありますが、それも、霊界とのコミュニケーションの、あるいは、霊能者の一つの限界といえるのかもしれません。
 ただ、霊能者はこのような個人情報は何も知らないわけですから、もし、「特別の記念日」に該当する日が全くないのであれば、その霊能者の霊界通信そのものの信憑性が問われることにもなりかねないのです。
 この霊能者、アン・ターナーは、大英心霊協会で初めて会ったときに、私の前に立った潔典からのことばとして、潔典の名前や私の足の傷跡のことまで伝えてくれたことはすでに述べました。
 こんなことは普通ではあり得ないことで、それは奇跡としかいいようがないのですが、その奇跡が私にはおこったのだ、とも書きました。
 実は、その「奇跡」の三日後に私はまた大英心霊協会でアン・ターナーに会っています。私はこの時、考えようによっては実に意地の悪い質問をしました。
 私は、必死でしたが、彼女に、「私の妻と長男が霊界へ行ったのは何年か?」と訊いてみたのです。
 アン・ターナーは、ちょっと瞑想して、「一九七三年」と言ったあと、いや、「一九八三年」と言い直しました。
 あの大韓航空機事件が起こったのは一九八三年九月一日です。もちろん彼女は、事件と私の関わりについては何も知りません。私は驚くというよりうなだれて深く感動していました。
 彼女は眼をつむったまま語り続けました。
 「乗り物が見える、速いスピードで動いている・・・突然それが破壊された・・・・彼は混乱している・・・事態がよく理解できなかった・・・・・・」
 先ほどの「特別の記念日」と同じで、この場合も、「乗り物」といって「飛行機」とは言っていません。そこまでは捉えきれていない、といってもいいと思います。しかし、これが、霊界の潔典からの情報であることは疑うことが出来ないのです。
 大英心霊協会では、ほかの初対面の霊能者からも、一九八三年という年は「たいへん悲しい年、号泣の年だ、泣き声が聞こえる・・・・」などといわれたこともあります。この霊能者にとっては、その程度まで捉える能力がある、と考えてもいいのかもしれません。
 ここで手紙に戻りますが、ともあれ、私は、潔典に言われたとおり、彼に代わって「お兄さん」とは固い握手を交わしました。
 このあと、「お母さんが、お父さんにお話ししたいというので、ここでちょっと代わります」と言って、潔典のことばは中断しました。
 妻がでてきて、私にいろいろと話しかけてきましたが、これは長くなりますので、ここでは省略させていただきます。最後に、潔典は、つぎのように言ってきました。

 ぼくは、お父さんも知っているように、こちらでは霊界通信の勉強をしています。お父さんなら、ぼくの勉強ぶりに十点満点で何点くれますか? お父さんの評価次第で、ぼくの勉強はますます進むようになると思いますよ。
 これは冗談です。ぼくが笑っているのがわかるでしょう。でも、試しに、お父さんの評価を想念で直接ぼくに送ってみてください。
 ・・・・・・・アンが疲れてきました。この貴重な通信を仲介するためには彼女は大きな霊的エネルギーを消費しなければなりませんが、そのエネルギーが弱ってきたようです。だから、この辺で終わらせることにします。
 さよなら、お父さん。家族のみんなもお父さんに、さよならを言っています。
 最後に、お父さん、ぼくのお父さんでいてくれてありがとう。お父さんのことは忘れません。



 霊界で潔典は何を学んでいるか

 霊界では、この話し方にもみられるように、潔典はいつも明るい雰囲気に包まれているようです。
 大英心霊協会のほかの霊能者からも、何度も潔典が勉強に打ち込んでいる話を聞かされていますが、勉強の対象は、言語学や心理学、コミュニケーションなどと言われてきました。
 「あなたの息子さんは、非常に優秀な人だ。むつかしい知的な研究をしているので、私には説明しにくい。心理学のようなものであろうか、人間のこころを世代を越えて伝達する方法のようなものを研究している」と言われたこともあります。
 潔典は、生前の東京での学生時代には、言語学、特に音声言語学に非常に関心をもって、のめり込むように熱中していましたから、彼自身から霊界通信の勉強をしているといわれても、私には違和感はありません。
 ただ、この霊界通信というのは二つの異なる次元の橋渡しをするわけですから、なかなか微妙で大変であろうことは、容易に想像がつきます。
 その仕組みがどうなっているのか、あるいはどういう勉強が必要なのか、というようなことには興味をそそられますが、これらについては、私にはまだよくわかりません。
 私は、父親として当然のことながら、潔典がいまどのような勉強をしているのか、強い興味があります。
 ですから、いろいろな霊能者に訊いてきたのですが、大英心霊協会のさらに別の霊能者からは、「彼は非常に高い I・Q(知能指数)の持ち主だ。特に音楽の才能がある。音楽を学びながら、同時に音楽を教えてもいる」とも伝えられたりしました。
 この手紙とは異なる捉え方になりますが、実は、この音楽の勉強も必ずしも的はずれではありません。
 潔典は子供の時からバイオリンを習っていて、ギターはなかなかの名手といわれていましたし、大学に入ってからも、音楽には深く傾倒していました。「ぼくは言語学者でなければ音楽家になる」と言っていたこともあります。
 アメリカ人歌手が歌う微妙な英語の発音の相違なども私にはわかりませんが、娘の話では、潔典は聞き分けられるのだそうです。
 ですから、潔典がいま勉強していることについては、音楽をも含めて、私にもおよその見当がつきます。もし霊能者が、医学や法律の勉強とか、生物学や工学の研究をしているなどといえば、私は不信感をもつかもしれません。
 「試しに、私の評価を想念で送る」ということについては、まだ私の修行不足で、そのレベルには達していなかったことを告白しなければなりません。
 東京の学生時代に潔典が買った愛用のギターがあって、いまでも大切に保管していますが、潔典は霊界から、いつかはそのギターを鳴らせてみせる、と言ってきたことがあります。
 私は、それからは、そのギターを仏壇の横に立てかけているのですが、まだ、ギターが鳴るのを聴いたこともありません。
 また、この手紙の二年前には、「試しに、想念で二つのことばを送ってみるから聞き取って欲しい」と想念を送る日と時間まで指定してきたことがあります。
 私も少し緊張して、指定された日時に黙想をしていましたが、その想念を受けとることは出来ませんでした。
 波長を合わせて霊界からの想念を受け止める力が私にはまだないということで、私は潔典に申し訳ないなどと思いながら、それ以来、なるべく、一定時間の瞑想を続けるようになりました。
 後に私は、アン・ターナーから、この時の「二つのことば」とは「LOVE」と「YOU」であったことを教えられます。潔典は私に対して、「お父さんが、好きです」と伝えてくれようとしていたのかもしれません。

 随分個人的な話になってしまいましたが、このへんで潔典からの手紙は終わりにします。
 この霊界からの手紙を、アン・ターナーは、自分の意識から離れて、激しい息づかいで時に大きく深呼吸したりしながら、独特の口調で伝えてきます。
 途切れ途切れになったりもしますので、一回分の手紙を仲介するのには二十分から長いときで三十分くらいかかります。
 やはりかなりのエネルギーがいるからなのでしょう。終わりに近づくとだんだん声が弱くなっていくようです。
 この時の通信は三十分で終わりました。

     武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し (pp.72-90)




  11. (第8章  私は何故この世に生まれてあの事件に遭ったか)     (2014.08.15)


 第八章  私は何故この世に生まれてあの事件に遭ったか


 もう一つのルートによる霊界通信

 このアン・ターナーによる潔典との通信のほかに、私は、東京でもやはり毎年、潔典の誕生日である六月五日前後に、旧知のA師により潔典たちの消息を受け取り続けていました。
 アン・ターナーによる通信を、東京での通信と、比較検討してみたいという気持ちもありました。
 霊界とのコミュニケーションのひとつに「リーディング」といわれる手法があります。
 リーディングというのは、直訳すれば「読みとり」になります。霊能力の一つで、「霊視」に近いのですが、霊界の魂と通信するだけでなく、相手の頭の中の記憶を遠い過去にまで遡って感じ取ることもできます。
 通常は、普通の人には感じることの出来ない何らかの宇宙の存在をソースにして、そこからのメッセージをリーディングの対象者に伝えるという形を取ります。
 A師の場合は、リラックスした瞑想状態の中で質問を受け、それを宇宙の記録庫アカシック・レコードに伝えて、そこから回答を引き出すという手順になるようです。
 その回答は、録音されますので、その録音を一字一句、正確にそのまま文字化したものを私は持っていますが、例えば、一九九九年六月五日のリーディングでは、潔典は、事件で他界した後の状況などについて、つぎのように伝えてきました。

 僕は死んですぐ、霊界に行きました。といっても、すぐに正式の霊界に赴けたわけではありません。まず、黄泉の国といって、中間段階を経て行ったのです。そこで待機させられていました。どのくらいだったかは定かではありません。ただ、随分と長かったのは、いまでも覚えています。
 特に苦しんだことはありません。むしろ、肉体から解放されて、自由を感じることが出来ました。神様が居られるということを、あとでだんだんと、わからせられました。二人か三人の守護者達がついてくれていて、いろいろと教えてくれたりなどして、導いてくれてきているのです。最初はよく誰だかわかりませんでした。守護者たちのことです。
 でもなにか覚えているという感じは最初から自分のなかにはありました。なじみがあるような気がしたのです。けれど、誰だかはわかりませんでした。
 肉体を離れてから自由を感じました。特に痛烈な打撃とか痛みは伴いませんでした。肉体から魂を分離させたときのことです。お母さんと僕とはとても縁が強く、一方、お父さんとお姉さんとは縁が強く、お互いに対照的に位置しています。お互いに向かい合っているような関係にあるのです。
 あの世というのがあるのは、聞いていましたが、本当にあるということがわかり、安心できました。ひとつの扉を通っていくようなものです。
 ひとつの部屋といまひとつの部屋とがあります。二つの領域のことです。扉が間にはあります。そこからいまひとつの領域へ移行できるのです。あの世からこの世、この世からあの世、いずれの場合も同じです。
 ただこの世のほうが粗雑な世界で、重い感じがします。ちょうど鎧を身にまとって戦士として戦に出向くようなのがこの世の生き方です。それに対して、鎧を脱ぎ、家庭のなかで憩い安らぎ、自分の本心に帰れるのがあの世です。もちろん鎧というのは肉体の喩えです。そのぐらいあの世に来てみると、肉体の重たげなことがわかったのです。
 それ故、あの世に行って苦しんだり悲しむということは、この世にいる間想像していたほどのものはありません。最初は悲しかったり辛かったりというよりも、戸惑いを覚えました。この世に残っている人たちのほうが悲しむことがわかりました。

 
 「僕は死んで・・・」などという長男のことばを聞きますと、やはりどきっとしましたが、それはまだ、私が霊界のことをわかっているつもりでも理解が浅かったからでしょう。
 それでも、気を静めて読んでいけば、死がそんなに悲しむべきことではないこと、残された者がそれを知らずに嘆き悲しむことは、私たちのいう「供養」にはならないのではないか、というようなことも教えられるような気がいたします。
 この後を続けてみましょう。
 
 あの世であるここに来てから、あの世側からはあまり寂しくはありません。何故というに、この世のことが見通せて、死んでも生きていることがわかったし、引き離されたというわけでもなく、いまでも身近に居るからです。それで、引き裂かれたという気はしません。だから、寂しくはありません。
 肉体をまとっていると鈍くなるので、引き離された感じになり、寂しかったり悲しみます。あの世とこの世とで、ご縁のある四つの魂が二つの領域で、縁ある二組でペアーをなし、向き合って暮らし続けています。別の世界に行ったわけではありません。いまでも一緒です。ただ次元が違うだけです。
 お母さんと僕とには、守護者がついてくれています。同様に、お父さんとお姉さんには僕たち二人が守護者です。守護者というのは、縁のある魂のなかで先輩格のことです。この世の年齢とは異なり、あの世や神様のことに精通している者たちが先輩ということになります。


 ここで、「守護者」が出てきましたが、これはいわゆる「守護霊」のことでしょう。守護霊は、霊界の先祖や家族など、縁のある者がなるといわれますが、霊界の妻と長男が私と娘の守護霊になっていると言っています。
 ただ、守護霊はおそらくほかにもまだいるはずで、何人かで私たちを見守ってくれているのだと思います。そして、その上に指導霊がいて、私たちの霊性向上のための生き方を様々に導いてくれていることを、私もだんだん理解するようになっていました。
 この通信は、さらにこう続きます。

 お母さんと僕とはとても縁が強く、一対をなしています。同じように、お父さんとお姉さんとは対をなし、とても縁があります。それでこの二人同士は引き裂かれません。
 多少、この世やあの世の事情や都合によって、もう一人が結婚したり、多少、別に居をかまえたりなどしたりしても、完全な別れは体験しないように考慮されています。
 でも、二人と二人との間は、このように別な次元に分けられました。あの世とこの世の二つの領域を股に掛けてバランスをとるようにということでした。また、お父さんを目覚めさせ、導くために高い霊が動かれ、このようなことを起こされました。
 お父さんなら、頭も聡明で、苦しませるのは高い霊たちにとっても辛いことで、決断を要したということです。
 でも必ず目覚めて立ち直る人だということがわかり、一人の苦しみが何百、何千人、いや何万人の人たちの魂を目覚めさせ、同様の苦しみや悲しみのなかで沈んでいる同胞に慰みと魂の癒しをもたらすことを、その聡明さによって、やってくれるということが期待されたからです。
 僕は純粋だということで、その純粋さを保持してほしいというので、早々と引き上げさせられました。あまり世俗の垢にまみれてほしくないということのようです。
 お父さんは僕に、仕事や勉強など、とりわけ語学の面と国際文化の領域で跡を継ぎ、活躍してほしいと期待をかけてくれていました。でも守護霊たちが、もっとあの世のことに精通するほうへと導いていき、たいそう大きな力が働き、このような具合に流れ上、なってきました。


 ここでは、事件に巻き込まれた理由を、「お父さんを目覚めさせ、導くために高い霊が動かれ、このようなことを起こされました」と述べられています。
 「苦しませるのは高い霊たちにとっても辛いことで、決断を要したということです」とも伝えられています。
 「高い霊たち」は、事件の前からすべてを見通していたことになります。その上で、私が他の多くの「同様の苦しみや悲しみのなかで沈んでいる同胞に慰みと魂の癒しをもたらすこと」が期待されていたというのです。
 実は、ロンドンの大英心霊協会でも、一九九二年の時点で、複数の霊能者から同じようなことを言われたことがありました。
 ある霊能者は、私に会うとすぐ、「あなたは教師になる人です」と切り出しました。
 私が、「実は、私はいま教師なのです。大学で教えています」と答えますと、その霊能者は、
 「私が言っているのは、そういう意味ではありません。あなたは、霊界のことを教えるようになるのです」と言いました。
 その時は、言われていることがよくわかりませんでしたが、東京でもこうして、リーディングで伝えられるようになって、私は少しずつ、自分に与えられた使命というようなものを感じざるをえませんでした。
 長男からのメッセージは、このあと私と自分の前世についても触れ、さらにそれが、今生で事件に遭うまでの伏線になっていることを、つぎのように述べています。

 お父さんと僕とは、前世において何度か、国際関係のなかで重要な役目を果たしてきた使命のパートナー同士でした。また、実際、肉の親子であったときもあり、たいそう可愛がってくれました。
 使命のパートナーであったときはいろいろと助言してくれ、教え導いたり守ってくれました。古代から近代にかけて、何度かお互い格別な関係を結び、特に国際関係において二つの国と国の間の調整役などを務めたり、学問の世界でも言語学の分野でお互いに切磋琢磨しあいました。
 いまの時代、それをまたやろうと思っていたのですが、切迫していることがあり、霊界にも異変があるなどして、大きなカルマや意向がはたらき、僕たち家族に大きな力が介入してきました。アトランティスの当時のカルマが動いて、もっと人類が魂のレベルで目覚めるように僕たち家族に働きかけだしたのです。
 特に僕たちが前世で罪を犯したとか、いけないことをしたから苦しまねばならないということではなかったのです。もっとほかの人たちが目覚めるため、私たち、僕たちみんな四人が捧げられ、皆の目覚めのために尽力するように求められたのです。


 私にとっては、たいへん重要なメッセージで、読んでいるとやはり、気持ちが引き締まっていきます。このあたりから、私と潔典との前世での役割のようなものが出てきますが、これは、その後、何度かもっと具体的に聞かされるようになりました。
 カルマについても、国家のカルマ、集団のカルマ、個人のカルマなど、さまざまなレベルで、私たちの生き方に影響をあたえているようです。何もわからずに盲目的に生きてきた私も、こういうメッセージから、いろいろと教えられるようになっていました。
 メッセージのつぎへ進みます。

 自分の場合は、純潔を魂の領域で保つようにということで、新しい守護者になるよういま訓練をうけているところです。
 お母さんとお姉さん、お父さんと僕との間には同質性のものがあります。それで比較的通信しやすく、目をつぶってリラックスし、自分に素直になりながら相手をイメージ上で立ち上らせて正直に向かいあえば、イメージ上の相手の表情や顔つきの変化でメッセージを受け取ることが出来ます。
 異なった次元間でのコミュニケーションは、このようにしてなされます。目をつぶって瞑想状態のなか、イメージ上ではありますが、相手の口が動き始めて声に聞こえたり 聞こえなかったり、いずれにしても口が動いて、何かを語り伝えてくることが生じ始めます。
 お父さんにはお姉さんが、そして、僕にはお母さんがどうしても必要で、異性のペアー同士でお互い支え合い、またかばい合い慕い合い生活を支え共にすることが必要で、そのように二分されました。
 また会えます。通信上のことばかりではありません。あと数年か十年そこらで、また実際にお会いできます。でも急がないでください。こちらの世界で待っています。すぐ会えるということです。
 すぐというのは数年の「すぐ」という意味より、迷わずすんなりという意味です。そのためにもお姉さんにはパートナーが必要で、結婚するようになりました。お姉さんともいずれ会えます。


 私がこの世に生まれてきた目的

 この東京でのA師による通信の記録も、二十年分のかなりの量に達していて、そのうちの一部は、長男潔典の消息を中心に、昨年(二〇一一年)に出版された『天国からの手紙』(学習研究社)に収録してあります。
 この霊界からの通信のなかには、このほかにも、私がなぜこの世に生まれてきたのか、そして、なぜあのような大事件に巻き込まれて妻と長男を失ったのか、が述べられているものもいくつかあります。
 たとえば、A師によれば、私には主だった前世が五十数回あったことになっていますが、今生にこうして生まれてきた理由については、つぎのように伝えられたことがありました。
 少し長くなりますが、伝えられた内容に一切修正を加えず、一字一句そのまま再現してみます。

  =二〇〇三年六月五日=
 今生生まれてきた目的は、前世のバランス化にあります。あなたは古代のエジプト、ローマ帝国、日本の古墳時代、鎌倉時代、また近代ヨーロッパなどで転生してきている魂です。厳格で規律正しい人であったことがわかるのです。今生では、魂を柔軟にし、いろいろな価値観や捉え方、生き方を容認し、理解でき、さまざまな生き方や価値観を包括して、異なった多くの人たちと意義深い交流を持つために転生してきました。それは、ある程度、五十歳くらいまで進行してきてはいましたが、その路線のままでは完全には遂げられないとみられました。そのためひとつの大きな出来事をきっかけに、あなたは苦しみ悶えました。そのなかであなたは、柔軟性を養われ、魂が浄化されました。練り上げられました。そして、あなたの価値観と人間関係の枠が押し広げられていきました。
 その大きな出来事をきっかけにして、あなたは別の世界の人たちを知り、交流がはじまり、執筆をしたり講演活動にも入りました。そのようにして、前世では避けてきた生と死の問題を通して、あなたの捉え方と価値観は柔軟になり、あのままの路線で行ったら前世のたどり直し程度で終わりかねなかった人生に対して、今生の後半期において多彩な人生となりました。普通では出会わない人たちと出会い、また、それまででは認めがたい人たちのことも理解し、受容し始めました。そしてそれは、あなたの大学における教員生活にも影響がもたらされました。
 そのようにして前世からの頑固な傾向が矯正され、魂が柔らかくなりました。何より慈愛に富み、慈しみに溢れた人になりました。今生は大きな試練にあった人です。それはあなたの人生を深めました。完全には拭いきれなかったり、納得したりがまだできずとも、ほぼ乗り越えて達観し、生きるところに至りました。生と死とを見つめるなかで、死に支えられた生命が感じられ、いのちの尊さが、ことばを超えて体感できる人になれたことが今生の最大の成果でした。それこそ、今生の一大目的だったのです。


 さらに、その翌年の潔典の誕生日には、霊界の潔典の消息が詳しく伝えられたあと、事件が起きて、私たち家族四人がこの世とあの世に二人ずつ引き裂かれた理由を、つぎのように教えられました。


 家族四人が引き裂かれた理由

  = 二〇〇四年六月五日 =
 ・・・・・あなたが霊的なことに目覚め、価値観を正し、本当に大切なもの、すなわち、神と愛と命と心に目覚めるために、このことが必要だったのです。否が応でもあなたはその方へ駆り立てられていきました。
 あなたは、その一連のプロセスを経ていくことで浄化され、価値観が変わり、神を求める人に作り替えられました。また、それをもって、この世の認識の暗い人たちに、大事なメッセージを体を持ったまま伝える任務に就くようにされました。
 それは、あなたが最近の前世で、立場やメンツがあって、出来なかったことでした。ほぼ予定通りのことが、この二十一年で起きてきているのがみられます。なぜでしょう。その背後に、彼、長男があの世でそれをサポートしたり、働きかけたからです。あなたは、それとは知らず、無我夢中でこの二十一 年を生きてきました。
 (少し間をおいて)
 あなたの今生は、前半と後半とではっきりと二分されます。それを分かつのは、もちろん、航空機事故です。
 前半は、この世的な、唯物論者としての人生でした。しかし、いまは、ショック療法を受け、考え方も生き方も一変しました。形の上では、仕事はほぼ同じことを続行したものの、質的な転換が一八〇度ほど起きました。それであなたは、世の中のすべての人の気持ちが分かるようになりました。
 つまり、対照的に、唯物的、世俗的な考え方と生き方のあと、霊的なことを認め、受け容れ、それを考慮に入れて生きることと、両方を一人生で体験してきているため、世の中のすべての人を包括できるからです。大きく二分すれば、世の中の人はどちらかに属するからです。
 さて、あなたが世の中のすべての人の気持ちが分かるというもう一つの理由は、自分が痛手を蒙ったことで、世の中の人たちの願いと悲しみ、つまり、喜びと悲しみの両方を極度なまでに体験したからです。
 それは、学問的な取り組みでは得られないことです。実際の生の体験をもって、身に沁みて体で掴み取っていくことです。魂がそれによって練り上げられていきます。多くの人との共感がわく人になりました。優しい人になりました。
 自分のその体験をもって、必要とする人たちにメッセージを伝えていくのが使命です。十分この世の仕事を勤め上げ、なおかつ、それをしている人です。そこが大事です。それで説得力があって、多くの人がそのメッセージを享受できるようになっています。
 これからの展望は、神様がよしと言われるまで、自分が得たもの、与えられたものを出し尽くすまで、ふさわしいやり方で行っていくことです。人生というレースを、最後まで走り通しましょう。それでこそはじめて,先程述べられたような予言が成就することになります。
 あなたならそれが出来ます。できるように体質改善が為されました。ただのがんばりや知恵だけでは困難であったことでしょう。体験があなたに、それを造りだしたのです。自分ができると思うことを精一杯、残された日々、行っていってください。(2004.6.5)

 
私がどのような前世を繰り返してきたかについては、かなりの程度知らされていますが、どうやら、いつも私は、社会的な地位や名誉を重んじ、唯物的、世俗的な考え方から抜け出せなかったようです。
 霊的なことには関心をもちながらも、自分の地位などに影響するのを怖れて、近寄ろうとしなかったというようなことも、何度か伝えられてきました。
 つぎのメッセージにも、同じようなことが述べられています。


 霊界から長男に導かれて

  = 二〇一〇年六月四日 =
 あなたは最近の前世において、密かに霊界や霊的存在を認め、関心を寄せていたものの、自分の立場を失うことを懼れて、またまわりから怪訝にみられることを回避したくて、このようなことには一切触れなかったのです。
 たとえ話題が出たときも、笑って話題を逸らしたものでした。そのときのあなたが取った態度がカルマとなって、生まれ変わった今世で、あなたは自分が学者のうちから霊的なことを認め、活動するように仕向けられたのです。
 また、それによって学者である立場が生かされ、多くの人たちがこのような霊的世界とその働きがあることを、あなたが学者であることで、あなたの話すこのようなことが信じられるようにする狙いがあるのです。
 あなたは前世の時に自分が取った態度が好ましくないことがあることを悟り、そのために生まれ変わった今世では、そのことに対して素直になって行動を起こしました。
 そのために、潔典さんというあなたにとって縁のある魂が早くに霊界に行って、霊界の存在とその様子をあなたに知らせ、あなたがこの世に留まって、それを多くの人に伝え啓蒙することを、あなたは後半生の役目として引き受けたのです。
 あなたがそのカルマを果たすために、あなたの縁のある潔典さんが、早くにあの世に迎えられました。それによって前世のあなたのカルマを果たさせるように、彼が霊界で導いたのです。
 あなたはその通り、後半生をこうして生きているのです。このように、あなたは学者であったことを妨げにせず、それを上手に用いて多くの人たちを説得し、霊界や霊的存在のあることを現に伝えつつあります。
 カルマを果たし使命を遂行することは、縁のある者たちとのチームプレーで為されることがあるという、よき実例となっています。


 このように、私が今生であのような大事件に遭遇して、妻と子を失うという衝撃を受けたことの意味が、いろいろと述べられてきましたが、他の霊能者からの情報と比べても、これは大筋においては変わりません。
 私の長い前世での霊的成長の過程で、霊的真理に真摯に向きあってこなかった事実が、今生でのそのような決定的な経験をもたらせたのでしょう。
 そういえば、いまでは思い当たるのですが、不思議に、あの事件からは逃れられない方向に、すべてが動いていました。避けられそうなチャンスは、何度かあったのに、結局は、事件からは避けられませんでした。
 起こることは、自分にとって必要だから起こります。それが天の摂理で、だから偶然というのはないのでしょう。私は自分の体験からも、このことがよくわかるような気がしています。
 私がA師から受けたリーディングでは、もちろん、このような私が何故生まれて事件に遭ったかというようなことばかりではなく、その大半は、妻と子の消息についてでした。
 しかし、それについては、『天国からの手紙』に多くを書いてきましたので、ここでは、その後に受け取った通信の一例だけを、つぎの章のなかでとりあげておきたいと思います。

    武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.91-107)




  12. (第9章  東日本大震災後の霊界からの便り)     (2014.08.22)

  第九章 東日本大震災後の霊界からの便り


 富子と潔典はいまどのように生きているか

  富子と潔典が霊界で生き続けていることを知って以来、今度は彼らがどのように暮らしているのかに強い興味を抱くようになりました。それで毎年のように、霊界での消息を尋ねてきて、いつのまにかその情報もかなりの量に達しています。そのうちの比較的新しいものを一つ、つぎに取り上げてみます。

 = 二〇一一年六月七日 =
 潔典さんは、これまでは主に後輩の生活の指導や教育に当たっていましたが、今は神聖な祈りの時を持つことが増えてきました。
 今でも変わらずに、後輩の霊たちの教育や指導に当たっているのですが、新たに少しずつ神聖なセレモニーをささやかに主宰し、霊たちを祈りによって清めたり、安らかさをもたらせたりすることも行なわれるほどまでに潔典さんのみ霊は、昇格し優れた存在になってきました。
 お母さんの富子さんの霊は、彼が指導霊になれるよう随行し、一緒に霊界へと旅立ちましたが、これまで背後に退いて潔典さんを見守り、守り立てながら控えていました。
 最近は富子さんも確信と自信を持てるようになり、少しずつ前に出るようになりました。といっても控えめで、自分の息子であった霊を立て続けていますが、自分もセレモニーのお手伝いをして動くようになりだしています。少しずつ共同で大切なことを行なうようになっているのです。
 教育や指導では、自分は黙って背後に退いて見守って、頼もしいと思いながら控え続けていましたが、セレモニーは、男性のエネルギーと女性のエネルギー、或いは、息子のエネルギーと母親のエネルギー、そのように双方のエネルギーが必要ですし、その方がより多くの霊に届き包みこめるため、母親の方も今までよりは動くようになり、控えめに後ろから息子のすることを立てながらも、そのことに依然変わりはないものの、しかし自分もお役を担い、一緒に果たすというように積極的になってきているのです。
 以心伝心で、親子で分担しあい協力し合って、しかも二人のエネルギーがハーモニーをなし、渾然一体となって、穏やかで柔らかく周りの霊に及び、霊たちにそのエネルギーが注がれて、安らかになり穏やかさを取り戻しつつあります。
 このように、潔典さんは神聖さも加わり始め、そのお役を果たす際、母親の霊も動くようになってきたという進展がこの一年ほどでみられています。それが一年前までとの変化です。
 単なる純粋以上の、もっと神聖な穏やかな特定の宗教の枠組みを越えた、どのような霊にも有り難い、お清めと育成のエネルギーが注がれつつあります。霊の世界では、その姿は内面をそのまま反映し、見ただけでわかるようになっているのが特徴です。
 この世の物理領域では、そうはなっていません。外見が整って美しくても、内面が汚かったり好ましくないのを持っている場合があります。逆に、姿かたちや表情はそうではなくても、内面は美しく立派である人もいます。
 しかし、あの世ではごまかしがききません。内面がその通り、外面の姿や動きとなって現われ出ます。仏像などにはいろんなしるしがかたどられ象徴化されて、仏像をみる者が仏様や菩薩様の優れたところが分かるように作られています。実際、霊界や神界では、そのようなお姿をしておられます。
 あの世では、ピンからキリまで、いろんな存在がありますが、それぞれの象徴が形として見えます。そのため、潔典さんや母親の富子さんの姿も、前とは違ってとらえられるのです。
 一段と成長し、清らかで荘厳な姿かたちになっており、より透明度を増して輝きを放っています。頭には、貴人、つまり尊い人を表わす冠も見えます。
 富子さんのほうは、ふくよかで穏やかで優しく、全体としてふっくらした姿です。ふっくらしていても均整が取れて、すっきりしている姿です。古代日本のいでたちや衣装の感じです。

 
私たちはこの世では、さまざまな体験をし、苦しみや悲しみも乗り越えていくことで霊的に成長していきます。そして、その霊的成長は霊界へ行っても続いていくことを、私はこのような妻と子の生活を通して学んできました。ただ、この世には、この世でなければ体験できないような多くの学びがあるのでしょう。そう考えると、この世の苦しみや悲しみにも、また少し違った角度で向き合うことができるのかもしれません。このメッセージは、さらにこう続きます。

 このように親子で益々調和がとれて、ひとつの素晴らしいエネルギーが二体から醸し出されています。当然、自分たちに似合う、より気高くて神々しい霊界の領域におかれています。
 潔典さんは、生前の名前の通りになりつつあります。清らかで多くの者たちの規範となる、お手本となる存在になってきているのです。
 もともと、そのような資質の魂だったのです。それがここにきて現実のものとなってきています。
 富子さんのみ霊は、もともと、こころの豊かさや、本当の富、宝を抱いている生命存在です。自分の命も豊かで、豊穣であるばかりでなく、自分と関わる人や霊をも豊かにし、伸びやかに拡がる立派な魂にしつらえてあげられます。
 一人ひとりの存在を認め、本人が相手の霊も自分でそのことに気づき、生命本来のありようができてくるように位置づけます。
 このように親子の使命に向かう際の位置づけや関係性の図式が前と変わりつつあります。
 その意味では、指導霊的なあり方から、もっと守護霊的な神聖味を帯びた、触れる者たちを慰め、育み、清める働きを始めています。より神々に近い存在に昇格しつつあるのです。
 このようになってきた理由はいくつかあります。
 一つ目は、本人たちの努力と精進のお陰です。本人である潔典さんと富子さんの努力と、これまでの働きが機が熟したことによります。
 もう一つ見落とせない理由は、この世に留まっているあなたと娘さん家族です。あなたがこの世で父親として踏みとどまり、試練によく耐えながら成長を遂げ、多くの方たちに真実を知らせ、心を解放し啓蒙したお陰です。
 やはり、この世とあの世とで、縁のある魂たちは関連し、影響を及ぼしあっているのです。
 このように、富子さんと潔典さんの霊界での精進の賜物ばかりでなく、この世で父親のあなたが試練によく耐え、ものごとを否定的に捉えずに天からのテストに合格できるよう、誠実にこれまでのことを検討し、よく学び取って、その学び取った成果を多くの人たちに啓蒙していることが、人々を助け、霊界でも喜ばれていることによります。
 特にこの一年で、あなたは確信を持ち、自分の気持ちの中での整理がついて、ふっ切れてきました。
 そして、多くの人への慈悲心から、多くの人も気づいて楽になってほしい、そして何が大切であるかを知って、この世でいのちを大切に励んでほしい、そのような菩薩的な思いがあなたのなかに湧いてきたことによります。
 それが今回の本(『天国からの手紙』)にも結実しています。これまでの本とは違ったものになっています。しかも、これまでの本を出してきたからこそ、出せた本です。
 このように、ほぼ、あなたがこの世に留まってするべきことや耐えるべきことは、果たしてきました。このように縁のある四人の家族が、あの世とこの世に引き裂かれながらも試練に耐えて前進し、神様の御心の方向でそれぞれがおかれたところで励んできた成果です。
 それは、多くの人たちや霊たちのためになり始めているのです。あなたも、前世のカルマをほぼ果たしました。
 富子さんと潔典さんからのあなたへのメッセージは、感謝と尊敬心と信頼、この三つが波動としてあなたに届けられています。
 ことばにならないような思いが一つの思いに込められて、あなたに届けられています。その思いがまた、あなたを支え、為になることを人々に向けてさせている原動力にもなっています。つまり、お互いに相手のためになるように、あの世とこの世とで働きかけあっているのです。
 あの世とこの世との関係は一方的ではありません。この世からあの世へ、また、あの世からこの世へ影響が及んでいるのです。そのよき実例があなた方四人の家族には見受けられます。
 このように引き裂かれた理由は、単なるカルマによるものではなく、もっと前向きで、神のご計画の一環として起きたことです。
 これからの時代、日本を主として、世界中の人たちが、あの世の存在と霊の存続、そこに働く法則や摂理、それらに目覚めて、人生を豊かに、清く正しく生きられるようにという意図で、あなた方家族が選ばれて、それが身に起きたのです。その中であなた方の個人的な、また、家系的なカルマも果たされるように計らわれました。
 またこの一年で、なぜ潔典さんと富子さんが昇格し、神聖な業をするようになったのか、それは、あなたのこの世での成長と進展とともに、東日本大震災の影響もあったのです。
 また、東日本大震災に間にあうように用意されたという面もあります。それで、多くのみ霊が東北から霊界へ向かい、それらのみ霊も含めて、癒し、清め、神聖さで包んであげているということが起きているのです。

 この最後に述べられている東日本大震災との富子たちの関わりについては、後に取り上げることにします。ここには「天からのテスト」についての記述がありますが、これも、最初に言われたのは、ロンドンの大英心霊協会においてでした。
 ロンドンでも、私が事件に遭うべくして遭ったのだという言い方を何度もされていましたが、「あなたはテストに合格しました」と言われた時には、何のことかよくわかりませんでした。
 その後、東京で、A師から全く同じ言葉を繰り返されたときに、私ははっとして、このことばを思い出したのです。
 テストとは、事件に遭ったことでした。
 事件の後、私は寝たきりのような状態になったりしながらも、死ぬこともなく、悲しみに耐えて、やがて妻と子の生存を確認し、いのちの真実を伝えはじめたことで、合格とされたのでしょう。ここでは、そのことばがまた繰り返されたのです。
 また、妻と長男が、「清らかで多くの者たちの規範となる、お手本となる存在になってきている」ことも伝えられていますが、このような動向も、私はこちらから、毎年追ってきました。
 霊界では、やはり、霊的向上のための修行が大切のようで、その面でも富子と潔典は熱心に努めて、いまは高位の霊域にいることを知ることができたことは、私にとっては大きな慰めです。
 霊界というのは階層社会ですから、死後、霊界でどの階層に住むことになるかは、一人ひとりが同じではありません。具体的に、その階層がどのようになっているかをA師は、このあと、つぎのように伝えてくれました。

 霊界を九層に分けてみると、「下の下」から「上の上」までの九段階になります。これは世間的な基準とは全く異なります。霊的成長の段階です。あなた自身は、「中の上」ぐらいまでいっていました。「中」の段階から「上」の段階まで上がるところで試練がくるのです。大きな関門です。あなたや、あなたに繋がりのある魂たちには大変なことでした。
 あなたはやはり、家族の魂のかしらになる存在なので、非常にきつい形でやってきました。しかし、あなたが耐えれば繋がりのある魂を支えられます。それによってあなたと、また繋がりのある魂たちも、「中」の段階から「上」の段階に昇格しました。それによってあなたは、今生が終わったら、「上の下」に入って行けます。それぐらいの段階の霊界です。
 ちなみに、「上の上」はほとんど人間として生きていた存在はいません。「上の中」もほとんど稀です。「上の下」が数パーセントいる程度です。潔典さんは、「上の下」に完全に入りました。「上の中」の準備にかかりだしているところです。


 ここで、昨年(2011年)三月の東日本大震災についての富子と潔典の関わり方にも触れておくことにしますが、二人は、あの大震災の折にも、亡くなった方々への対応に当たっていたようです。多くのみ霊が東北から霊界へ向かいましたが、それらのみ霊を「癒し、清め、神聖さで包んであげている」という仕事にも携わっていたことが、ほかの複数の霊能者からも伝えられていました。そのうちの一つを、つぎに取り上げてみましょう。


 大震災の犠牲者に霊界でどう対応したか

 私のホームページに時おり寄稿してくださっている小豆島在住の大空澄人氏は、ご自分でも「いのちの波動」という格調の高いホームページを出しておられますが、たいへん優れた霊能者です。
 その大空澄人氏から、二〇一一年十一月二日に、つぎのようなメールが届けられました。

 先月二十九日の朝の祈りの時に奥様からのインスピレーションを受けました。私の両手の平が温かくなり、今までとは違う感触がありました。その後今までに二、三度にわたって続きを受け取りました。
 今回のものはかなり具体的な内容であり、もし勘違いであってはならないと私は慎重になりました。また武本先生の奥様からであり、自分の親族のものではないことから間違いがあってはならず、ちょっと躊躇がありました。
 そんな折、昨夜入浴中に奥様から再び背中を押されました。早くしなさいとの事ですので奥様からのメッセージをお渡ししたいと思います。
 私は背後からの命を受け、人々の啓蒙を目的としてこのメッセージを渡しています。私が一人でやっているのではありません。霊界からの通信というものは様々な困難な要素があり完璧を求めることは出来ません。それは人間社会における意思伝達においても大同小異です。言葉のニュアンスなど小さな違いを指摘して全体をないがしろにすることなくその核心、本流を心で読み取って頂きたいのです。

 
大空氏は、このように述べられた後、富子からのメッセージをつぎのように伝えてくれました。富子が大空氏を通じて私にメッセージを届けてくれたのは、私にとっても思いがけないことでした。ここで、「私」と言っているのは富子のことです。「私達」には潔典も入っているのかもしれません。

  私は事故や災害などで突然死した人たちの救出や心のケアーの仕事をしています。生前に死後の世界というものを考えた事すらなかった人々は自分がその事態に遭遇すると茫然自失の状態になってしまうのです。何が起きたか理解することが出来ず、精神に大きな混乱が生じているのです。そこでそういう人たちを救出するために上からの指示でその状況や各個人に合った者が救出に差し向けられるのです。
 私達は被災者が最も親しみを感じていた人物の印象を作ることが出来ます。出来るだけ共感を得やすい姿をとって違和感のないようにして近づきます。被災者の性別は関係ありません。被災者は当初、気が動転しているので私達は当人が落ち着いた頃を見計らって働きかけます。

 ― (途中で、大空氏に対して) 私とよく波長を合わせてください。自分を離れて、今あなたを取り巻いているエネルギーと一つになることです―

 落ち着かせ、状況を理解させた後にしかるべき所へ案内します。それは我慢と忍耐が必要な仕事です。どうしても言う事を聞かない人はその場で状況を理解出来るまで留まる事になります。自分が納得するまではそのままにして置かざるを得ないのです。人生はすべて自己責任ですからあくまでも自分で決断し行動しなければなりません。他の誰もその人間の自由意志を無視して連れて行ったりすることは出来ないのです。それが鉄則です。
 日頃から我がままで頑固な人は他人のアドバイスを聞きません。それは死後も少しも変わりません。そういう人たちは私達の手を煩わせます。そういう仕事をしている霊界人の根底には愛があります。人類愛のある者がそういう任務につきます。
 また今までに事故死によってこちらに来た人たちはその状況を自ら体験し、よく事情が分かっているのでそういう仕事に向いているということになります。事故や災害で死んだ場合、精神にトラウマが残ることがあります。そのトラウマを癒すためにこちらでは様々な施設があり対応できるようにしています。

 
ここでは、霊界ではあの大震災の死亡者をどのように受け入れていたかという大変重要な情報が伝えられています。富子たちは、事故死を体験したからこの仕事にも選ばれたのでしょうか。出来るだけ被災者に共感を得やすいように、被災者が最も親しみを感じていた人物の姿をとって近づいていくなど、こまかい配慮がなされていることに感銘をうけます。
 私たちは、眼に見える範囲のことですべてを判断して、悲しんだり嘆いたりしますが、眼に見えない、このような霊界での対応ぶりをも理解していきたいものです。
 霊界では、さらに、大震災で亡くなる人はあらかじめ分かっていることを、このメッセージはつぎのように伝えています。


 空前の救出活動が行われました。こちらでは亡くなる人はあらかじめ分かっているので事前に対策が講じられています。人は霊的意識の上では自分の死ぬ時期を自覚していますが、それが日常の意識に上がって来ないだけなのです。昔から自分の死期を予言した人達がいましたが自分の霊的意識を自覚出来ればわかるのです。
 地上の人の霊的意識は霊界に繋がっているのでこちらでは誰が何時死ぬかということは、ほぼ分かっているのです。病気であろうと事故であろうと人間は定められた寿命が来れば死ぬようになっています。不慮の事故というものはなく、自分の持っている因がある事態と引き合うという結果を生むことになります。それは因果律という宇宙の摂理の働きですが実際は地上の人が思うような悲劇ではないのです。
 東日本大震災では今も自分の家や財産に未練を残したり、家族との離別が納得できない人達もいますがそれは少数派です。何処へ行っても疑い深く物分りの悪い人がいるものですがそれはその場に及んでも同じです。
 今回は犠牲者の方の多くが高齢であり、ほぼ自分の人生をまっとうした人達でしたので状況を理解するのにさほど困難は無かったのです。こちらに来て安堵の気持ちが湧き、静かに自分の人生を回想している人もいます。幸せを感じている人のほうがはるかに多いのです。その人たちはもう人生の重荷から解放されたのですから。
 こちらの世界では不安や恐れなどネガティブな感情に支配されることがありません。こちらは喜びの世界なのです。ネガティブな感情は地上世界特有のものです。皆がその感情に巻き込まれ易いのです。
 トラウマが深く残っているのは地上の人達のほうです。しかし地上に残された人たちは実際は亡くなった親族からの支援を受けているのです。彼らは今回の事によってかけがえのない霊的な宝物を授かったのです。いつかはその事に気付くことでしょう。


 このなかで、富子が「不慮の事故というものはなく、病気であろうと事故であろうと人間は定められた寿命が来れば死ぬようになっています」と述べているのはたいへん重いことばです。
 大震災で亡くなった方でも、霊界では、「もう人生の重荷から解放されたのですから幸せを感じている人のほうがはるかに多い」というようなことも、このように富子からも伝えられますと、改めて霊的真理を知ることの重要性を感じさせられます。
 
地上に残された遺族たちもこの大震災によって「かけがえのない霊的な宝物を授かったことになる」とも言われていますが、遺族たちがそのことに気がついてくれるのは何時になるのでしょうか。
 霊界からの通信は、確かに、いろいろと困難な要素があり完璧を求めることはできませんが、それにしても、これだけの具体的なメッセージを受け取ることのできる大川澄人氏の優れた霊能力には感銘を覚えます。
 このように霊界からの通信が受けられるということは、霊的知識のある人にはよく理解できても、まだまだ一般の人々には、疑心暗鬼で近寄りがたい領域であるかもしれません。
 このようなメッセージや、氏のホームページを読んで、いのちの真実について考え、学んでいってくださる人が少しずつでも増えていくことを願うばかりです。


 アン・ターナーの死とその後の消息

 これまでも触れてきたように、私は、一九九二年二月にロンドンの大英心霊協会で会って以来、アン・ターナーとは親しくつき合ってきました。その優れた霊能者のアン・ターナーは、二〇一〇年八月二十七日に、肺がんのため亡くなりました。夫君からの電話で、そのことを知らされたのは、彼女の死の翌日です。
 私は、一年間のロンドン生活の後、一九九二年三月に日本へ帰ってきましたが、その後も、何度もイギリスへ出かけて彼女に会っています。そして、毎年、六月五日の長男の誕生日には、アン・ターナーを通じて霊界にいる妻と長男へ私が手紙を出し、その返事を、彼女からテープに吹き込んだ形で受け取る、という「文通」を続けてきました。
 この、アン・ターナーを通じての文通は、毎年、途切れることなく続けられてきましたが、二〇〇八年六月は、初めて彼女の体調がよくないということで中断され、その後、肺がんであることがわかって、彼女は療養生活を送るようになりました。
 その間に、彼女は、夫君の同じく優れた霊能者であるトニーとの共著で LIVING BREATHING SPIRIT (2009.Con-Psy Publications) を出版しています。さらに二〇一〇年春には、同じく夫君との共著で、WALKING WITH SPIRIT (2010, Con-Psy Publications) も出版しました。
 この二冊とも、その中には、私との十数年に及ぶ手紙のやり取りや、霊界にいる私の妻と長男への「文通」なども含まれていて、いまとなっては、私に遺された彼女の形見の二冊になってしまいました。
 生前のアン・ターナーは、死を少しも怖がってはいませんでした。霊界の安らかな生活も熟知していましたから、彼女は少しも迷うことなく、安らかに霊界へ還って行ったはずです。
 彼女には、中国古代の高級霊が背後霊としてついていて、その背後霊の「先生」とは、私も馴染みになっていました。霊界では、彼女の仰ぐその師から、「よく帰ってきた」と愛娘を迎え入れるように歓迎されたことでしょう。霊界では彼女はこれからも、いろいろと導かれ、学ぶことになるのかもしれません。
 また、私は、霊界の妻や長男を含めて、彼女とは家族ぐるみの付き合いをしてきましたが、それは彼女の入院中も不思議な形で続いていました。
 私のホームページの「身辺雑記」(No.63)には、「霊界から差し伸べられる癒しの手」と題して、つぎのように彼女の病気に触れている部分があります。(2009.03.01)
 
 昨年の八月五日、その集中強化放射線治療を受けるために、指定されたサウス・ウエールズの放射線専門病院を、アン・ターナーは夫君のトニーに伴われて訪れた。たまたま、八月五日は、彼らの結婚記念日でもあった。
 予約は午前十一時であったが、十時前にはもう病院に着いたらしい。アン・ターナーはかなり緊張していたという。待合室に隣接する小さなコーヒー・ショップで、夫君とお茶を飲みながら診察の時間を待つことにした。
 そのコーヒー・ショップの片隅には、二〇〇~三〇〇冊くらいの古本を並べた書棚があって、その売上金は、がん研究のために寄付されることになっている。お茶を飲み終わった夫君のトニーが、立ち上がって、その書棚の前でふと一冊の本を取り上げた。それが大韓航空機事件を扱ったR.W. Johnsonの『撃墜』であった。
 アン・ターナーは、この「偶然」にことばを失うほど、ひどく驚いたらしい。わざわざその本の写真を撮って私宛に送ってきた・・・・。
 夫君のトニーも霊能者であるが、私は彼には家族のことは何も話していない。しかし、そのときは何かを感じ取っていたのかもしれない。
 アン・ターナーにも、事件のことは私からはほとんど何も話していないが、彼女は霊界にいる私の妻や長男とは、何度も会い話をしているので、事件だけではなく、富子と潔典のことは、それぞれの容貌から性格、人となりを含めて、熟知しているといってよいだろう。
 夫妻は、その時、富子と潔典も、その場に来ていることを察知して、一度に緊張や不安が消し飛んだという。やがて診察室に呼ばれて、その病院での最初の診察を受けたときには、富子と潔典はアンの手を握りしめて、彼女を励まし、慰めてくれていたらしい。
 霊界では、すべてお見通しで、八月五日にアンがその放射線専門病院に来ることも、アンよりも先に知っていたと手紙に書いてきたが、それはおそらく、その通りであろう。
 ただ、アンは、八月五日にその病院で、最初の集中強化放射線治療を受けることになると思っていた。しかし、それは、そうではなかった。
 その日の診察は、右の肺がんの大きさや位置を改めて確かめ、強度の放射線を正確にがんに照射するための予備的な診察であったらしい。手順を誤ると生命に関わるので、その予備的処置には、その後の診察を含めて何週間かかかった。
 そして、やっと、最初の放射線を照射する日が決まった。それは九月一日であった。奇しくも、大韓航空機事件の起こった日と同じ日である。
 二〇〇八年九月一日---。その日には、私は、北海道・稚内の「祈りの塔」の前で行なわれた事件後二十五周年の慰霊祭に参加していた。
 時差の違いはあるが、同じ九月一日に、アン・ターナーは、生命のリスクが決してないとはいえない最初の強力な放射線治療を開始していたのである。
 別の手紙で、彼女はその「偶然」の一致を伝えて、その日も、富子と潔典は、放射線治療室に横たわるアン・ターナーのそばにいて、癒しの手を差し伸べてくれたと言ってきた。不思議といえば不思議であるが、彼女にはそれがわかるのであろう。
 アン・ターナーは、事件後、この世で生き続けている無知で頑迷な私を救い出すのに大きな役割を果たしてくれた。富子と潔典も、その彼女には、私と同様に、或いは私以上に、深い恩義を感じているはずである。彼らは彼らなりに、少しでも、彼女への誠意を示したかったのかもしれない。
 そのアン・ターナーは、九月一日からの放射線治療で、その後どうなったか。期待以上の成果があったらしい。少なくとも、肺がんのそれまで以上の成長は止められた。
 彼女はいまも病院通いは続けているが、最近の手紙では、肺がんを根絶することは無理にしても、いまは、がんが「冬眠状態」になったと、医者に言われているという。そして、「私はいまはとても元気です」と、付け加えていた・・・・。


 このように、私は、自分のホームページでも、アン・ターナーについてはいろいろと触れてきましたが、二〇一〇年八月二十八日に夫君からの電話でアン・ターナーの死を知らされた時には、やはりことばを失いました。私は、ホームページのうえでも彼女の死亡のことを知らせて、つぎのように書いています。

 彼女は私の妻や長男ともこのように「顔見知り」ですから、霊界でも懐かしい「再会」を果たすことになると思われます。しかし、私自身は、もうこの世では彼女とは会えなくなってしまって、やはり淋しい気がしてなりません。
 葬儀は八月三十一日に行なわれますが、いまの私の体力では、これからイギリスのウェールズまで行くのは、とても無理のようです。
 遠く離れた日本から、彼女のこれからの霊界での安らかな生活をこころから祈るばかりです。

 ここにも書いたように、アン・ターナーは妻と長男とも顔見知りですから、霊界での再会は当然のことと思っていましたが、私のほうからそれを霊界通信で聞いてみることは、していませんでした。
 ところが、たまたま、その翌年の潔典の誕生日である六月五日に、私の『天国からの手紙』の出版記念講演会が午後二時から江東区の清澄庭園「大正記念館」で行なわれることになりました。
 そして、それが終わってからは、出版編集関係の方々が出版の記念を兼ねて、近くのレストランで、潔典の誕生祝いをしてくれたのです。
 この世では潔典は四十九歳になった日でした。
 潔典の名前の入ったバースディケーキに四十九歳相当のローソクを灯し、その場に同席していたはずの母親と潔典のためにもグラスを二つ並べて、みんなで乾杯してくれました。
 その時の写真などを、あとで参会者のなかのYさんが、送ってくれたのですが、そのなかに、潔典とアン・ターナーからの手紙が入っていたのです。私はちょっと驚きました。
 Yさんもまた優れた霊能者で、潔典とアン・ターナーからの手紙を仲介してくれたのです。
 潔典からの手紙は、かなりの長文ですからここに書くのは差し控えますが、そのなかでは、
 「今日は、僕のために、このような催しが為され、多くの労が費やされますこと、そして、心から喜びを向けてくださいますことで、僕は喜びの気持ちで溢れています。本当に有難うございます」などと、述べられています。
 そして、アン・ターナーのことについても、
 「アン・ターナーはこちらに参りました。神々さまのお使いになるべく、日々修行に励んでおります。僕たちとは縁で結ばれた方です。お互いにお互いを救う境遇に絶えずあります。こちらにおいても、現世のお父さんたちを含めて、お互いに導き助け合うことが行なわれるのです・・・・・」などと書いていました。
 その時に同封されていたアン・ターナーからの手紙には、つぎのように書かれていました。

 私たちは縁があって、めぐり合い、共に歩んで参りました。私は、この縁をたいへん有り難く思っています。
 こちらに来て、キヨノリとめぐり合い、トミコさんともお会いして、思っていた通りの方々でした。素晴らしい方々です。私はおふたりに大変お世話になりましたが、これも、ショウゾー、あなたとの縁が結びつけてくれたものです。
 さまざまなつながりの中で、人と人が和すること、これこそ日本人が本来もつ素晴らしいものですね。いま日本は、大変な時にありますが、あなたのその苦しみから得たものを用いて、多くの人々が目覚める導きができることを、心から願っています。
 霊界はなかなか良い所、素敵な所ですよ。ショウゾー、あなたがいらっしゃるのを楽しみにしています。どうかお体に気をつけて、それまで多くの人々を導く活動を続けてください。
 そうそう、たまにはトニーにも連絡してあげてくださいね。私は元気でいるとお伝えください。それでは、また、お会いしましょう。 ― アン・ターナー

 アン・ターナーが生きていれば、そして、ガンに冒されずに元気でおれば、この日には、それまで毎年そうしてきたように、潔典からの手紙をテープに吹き込んでイギリスから送ってくれるはずでした。
 しかし、昨年、二〇一一年の潔典の誕生日には、思いがけなくも、このような形で、潔典とアン・ターナーからの手紙を受け取ることになったのです。

    武本昌三 『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.108-130)




   13. (第10章  生と死の次元を越えた父と子の対話)     (2014.08.29)

  第十章 生と死の次元を越えた父と子の対話


 八十年前に実現していた奇跡の通信

 私はこれまで書いてきたように、一九九二年以来、ロンドンのアン・ターナーや東京のA師ら、さまざまな霊能者と接触するようになって、妻と子からの、数多くの霊界通信を受け取ってきましたが、このような霊界通信の例は、もちろん、決して、珍しいわけではありません。
 無数にあるといってもいいかもしれません。
 しかし、そのなかでも、信頼度が極めて高く、望みうる最高レベルの霊界通信があるとすれば、それは、浅野和三郎先生の『新樹の通信』でしょう。
 これは、浅野和三郎先生が、若くして急逝した次男の新樹氏との通信をまとめたものですが、まるで、外国へでかけた子が国際電話で親に話しかけるように、まったく自然な対話になっていることに驚かされます。奇跡の霊界通信といえるかもしれません。
 しかも、その通信は、すでに八十年前に実際に行なわれていたのです。
 浅野和三郎先生(一八七四―一九三七年)は、本邦最初のシェイクスピアの完訳者の一人で、早くから英文学者として令名が高く、アーヴィングの『スケッチブック』、ディケンズの『クリスマスカロル』等の翻訳をはじめ、多くの著作を残しています。
 しかし、それ以上に、大正から昭和の初期にかけて、日本の心霊研究の草分け的存在として、大きな足跡を残されました。
 東京帝国大学英文学科を卒業後、海軍機関学校の英語教授をしていましたが、三男三郎氏の原因不明の熱病を契機にして心霊研究に傾倒するようになったといわれています。
 その後、心霊研究のもつ計り知れない重大な意義に気がつくと、海軍機関学校を辞職して「心霊科学研究会」を創設し、一九二八年には、ロンドンで開かれた第三回国際スピリチュアリスト会議に出席しました。
 そこでは、「近代日本における神霊主義」の演題で英語で講演したりしていいます。
 この『新樹の通信』は、若くして急逝した次男・新樹氏から父へ、霊能者の母・多慶女史により伝えられた通信をまとめたもので、昭和の初期に心霊科学研究会から出版されました。その復刻版は、現在も、潮文社から刊行されています。
 ただ、原文は八十年前の古い文体であるだけに、現代の読者にはやや読みにくいかもしれません。それで私は浅野家のご了承を得て、それを現代文に訳して引用することにしました。
 以下にその通信が始まったころの状況を再録してみましょう。
 浅野和三郎先生は、この本のなかで、通信が始まったころの状況をこう書かれています。

 新樹が満鉄病院で亡くなったのは、昭和4年2月28日午後6時すぎでした。
 私はその訃報に接するとすぐに旅支度をして、翌日の3月1日の朝、特急で大連に向かい、同4日大連に到着、5日告別式火葬、6日骨上げと、このような場合に行なわれる通常の行事を、半ば夢見心地で忙しく辿っていました。そして、3月12日の夕暮れには、彼の遺骨を携えてさびしく鶴見の自宅に帰り着きました。
 私にとって甚だ意外だったのは新樹の霊魂が、早くもその一日前(3月11日)に中西霊媒を通じて、不充分ながらもすでに通信を始めていたことでした。
 はじめは霊媒にかかってきた新樹は、自分の死の自覚をもっていなかったそうで、あたかも満鉄病院の病室にいるかのように、夢中で頭部や腹部の苦痛を訴えていたといいます。その時、立会人の一人であった彼の叔父(正恭中将)は、例の軍人気質で、短刀直入的に彼がすでに肉体を棄てた霊魂にすぎないことをきっぱり言い渡し、一時も早く彼の自覚と奮起を求めたそうです。新樹は、
 「えっ!僕、もう死・・・・・死んだ……僕‥…残……念……だ………。」
 そう絶叫しながら、その場に泣き崩れたといいます。
 新樹の霊魂は、その後数回、中西霊媒を通じて現われ、また一度ちょっと、粕川女史にも感應したことがありました。それらによって彼の希望は次第に明らかになりました。それを要約すると、つぎのようになります。――

  (1) 約百か日を過ぎたら、母の体に憑って通信を開始したい。
  (2) 若くして死んだ埋合わせに、せめて幽界の状況を報告し、父の仕事を助けたい。

 私も妻も、百か日が過ぎるのを待ち構えてその準備を急ぎましたが、大体においてそれは予定していた通りに事実となって現われました。私の妻は、十数年前から霊視能力を発揮していましたが、この度の新樹の死を一転機として霊言能力をも併せて発揮するようになり、不完全ながら、愛児の通信機関としての心苦しい任務を引き受けることになりました。
 最初の頃は.新樹自身もまだ充分に心の落ち着きができておらず、また彼の母も感傷的気分になりがちでしたので、ともすると通信が乱れがちでしたが、月日の経つうちに次第にまとまりのよい形になっていきました。
 8月12日に第20回目の通信を送ってきた時などは、彼は自分が死んだ当時のことを追憶して、多少しんみりとした感想を述べるだけのこころの余裕ができていました。――

 「僕、伯父さんから、新、お前はもう死んでしまったのだ、と言い聞かされた時には、口惜しいやら、悲しいやら、本当にたまらない気がしました。お母さんから、あんなに苦労して育てていただいたのに、それがつまらなく一会社のただの平社員で死んでしまう・・・・・。僕はそれが残念で残念でたまらなかった。しかし僕は、次ぎの瞬間にこう決心しました。現世ではろくな仕事ができなかった代りに、せめて幽界からしっかりした通信を送ってお父さんを助けよう。それが僕としては何よりも損失を取り戻すことにもなり、一番意義のある仕事であろう。それには是非お母さんの体を借りなければならない。僕は最初から、ほかの人ではいやだと思っていた・・・・・。」

 簡単にいえば、新樹の通信はこんな順序で開始され、それが現在に及んでいるのであります。この通信がいつまで続くかは、神ならぬ身では予想することもできませんが、おそらく私と妻がこの世に生きている間は、全く途切れてしまうことはないでしょう。なぜなら、私にとっては心霊事実の調査はほとんど私の命そのものであり、また妻にとっては、あの世の愛児の消息は何物にも代え難い心の糧であるからです・・・・・・。
(現代文訳 『新樹の通信』 pp.1-3 )

  父が日本の心霊研究の第一人者で、母が勝れた霊能者という恵まれた条件のなかで、霊界の新樹氏は、これ以降、極めて貴重な霊界の情報をつぎつぎに送ってくることになります。
 それでも、父の浅野和三郎先生は、研究者として、まず、その通信者が本当に次男の新樹氏なのかどうか、慎重に確かめようとしていました。


  通信相手の確認を求めて

 このように、すでに通信は始まっていましたが、浅野和三郎先生は、その通信の相手が間違いなく新樹氏であることを確認することに細心の注意を払っていました。先生は、それを、「果たして本人か」というタイトルで、このように書いています。

 さて、これから新樹の通信を発表することになりますが、この仕事についてすべての責任がある私としては、通信者が果して本人に相違ないかどうかをまず最初に読者にお伝えするのが順序であると考えます。この点に関して充分の考慮が払われていなければ、結局は新樹の通信といってもそれは名ばかりのもので、心霊事実としては、まったくとるに足らないものになってしまいます。非才とはいえ私も心霊研究者の末席に連なる者として、この点については常に、できる限りの注意を払っているのであります。
 すでに述べたとおり、真っ先に新樹の霊を呼び出したのは彼の叔父で、そしてこの目的に使われたのは中西霊媒でした。私は多大の興味を以て、この実験に対する常事者の感想を聞いてみました。するとその答えはこうでした。――
 「あれなら先ず申し分がないと思う。本人のことば、態度、気分等の約六割ぐらいは彷彿として現われていた。自分は前後ただ二回しか呼び出していないが、もしも今後、五度、十度と回数を重ねていったら、きっと本人の個性がもっとはっきり現われてくるに違いないと思う・・・・・・。」
 比較的公平な立場にある、そして霊媒現象に対して相当な懐疑的態度をもっている人物のことばとして、これはある程度、敬意を払うべき価値はあると思われます。
 私自身が審判者となって、中西女史を通じて初めて新樹を呼び出したのは、それから約一か月経った4月の9日でした。その時は幽明を隔てて最初の挨拶を交わしただけで、特にお伝えできるような内容はありませんでしたが、ただ全体からみて、なるほど生前の新樹そっくりだという感じを私に与えたのは事実でした。
 しかし、研究者の立場からみれば、それは確証的なものではありませんでした。私は焦りました。「なんとかして確実な証拠を早くみつけたいものだ。それにはただ一人の霊媒にかけるだけではいけない。少なくとも二、三人の霊媒にかけて対照的に真偽を確かめるよりほかに道はない・・・・・・。」
 そうするうちに新樹は一度粕川女史にかかり、続いて7月の中旬から彼の母にかかって、間断なく通信を送ってくるようになりました。「これで道具立てはようやく揃いはじめた。そのうち何とかなるだろう・・・・・」――そう考えて私はしきりに機会を待ちました。
  8月に入って、ようやくその狙っていた機会がやってきました。同月10日午前のことですが、新樹は母の体にかかり、約一時間にわたって、死後の体験談を伝えてきました。それが終わりに近づいた時、私はふと思いついて、彼に向かって一つの宿題を出したのです。――
 「幽界にも伊勢神宮は必ず存在するはずだ。次回にはひとつ伊勢神宮を参拝してその感想を報告してもらいたいのだが………。」
 「承知しました、できたらやってみましょう・・・・・・。」
 するとその翌日、中西女史が上京してきました。私はこの絶好の機会を捉え、すぐに新樹の霊魂を同女史の体に呼んで、前日に彼の母を通じて出しておいた宿題の回答を求めました。「昨日鶴見で一つ宿題を出しておいたはずだが………。」
 そう言うと新樹はすぐに中西霊媒の口を使って答えました。――
 「ああ、あの伊勢神宮参拝ですか………。僕は早速参拝してきましたよ。僕は生前に一度も伊勢神宮参拝をしたことがありませんでしたから、地上の伊勢神宮と幽界の伊勢神宮とを比較してお話しすることはできませんが、どうもこちらの様子は大分勝手が違うように思いますね。絵で見ると地上の伊勢神宮にはいろいろな建物があるようですが、こちらの伊勢神宮は、森々とした大木の茂みのなかに、ごく質素な白木のお宮がただ一つ建っているだけでした………。」
 彼はこれにつけ加えてその際の詳しい話をしてくれました。こまかい話は他の機会に紹介することにしますが、ここで見過ごしてならないのは、彼の母を通じて出された宿題に対して、彼がその翌日中西霊媒を通じて解答を示したことでした。

 
和三郎先生が、多慶子夫人を通じて出した伊勢神宮参拝の宿題の返答を別の霊能者を通じて受け取る。こういうことで和三郎先生は通信相手が間違いなく新樹氏からであることを確認しようとしています。霊界通信も、こういう風にしてだんだんと通話のレベルが上がっていくようです。後には、新樹氏はまた霊界の伊勢神宮に参拝して、天照大神のお姿を拝むというようなことまで報告してきますが、発信者と受信者の波長がそれだけ合うようになっていくということでしょうか。和三郎先生は、さらにこう続けています。

 「先ずこれで一つの有力な手懸りが掴めた」と私は喜びました。「思想伝達説を持ち出して強いて難癖をつければつけられないこともないが、それは死後個性の存続説を否定しようとつとめる学者たちの頭脳からひねり出された一つの仮定説にすぎない。私は難癖をつけるための難癖屋にはならないようにしよう。多くの識者の中には、おそらく私の態度に賛同される方もおられるであろう………。」
 翌日12日の午前、私は鶴見の自宅で、今度は妻を通じて新樹を呼び出しました。
 「昨日中西さんに懸ってきたのはお前に間違いないか?」
 「僕です……。あの人は大変かかり易い霊媒ですね、こちらの考えが非常に速く通じますね。」
 「もう一度お前のお母さんの体を使って、伊勢神宮参拝の話をしてくれないか、少しは模様が違うかもしれない。」
 「それは少しは違いますよ。こうした仕事には霊媒の個性の匂いといったようなものが多少は付け加えられ、そのために自然に自分の考えとぴったり合わないようなところも出てきます。お母さんの体はまだあまり使い易くはありませんが、やはりこの方が僕の考えとしっくり合っているようです。もっとも、僕の考えていることで細かいところは、途中でよく立ち消えになりますがね……。」
 こんなことを言いながら彼は伊勢神宮参拝の話を繰り返したのですが、彼の母を通じての参拝の話と中西霊媒と通じての参拝の話との間には、長さや細かさの差があるだけで、その内容はまったく同じでした。
 彼が一度粕川女史に懸ろうとしたことも事実のようでした。8月4日午前、彼は母の体を通じて、問わず語りにつぎのようなことを話しました。――
 「僕は一度あのご婦人……粕川さんという方に懸ろうとしました。折角お父さんがそう言われるものですから……。けれどもあの方の守護霊が体を貸すことを嫌がっているので、僕は使いにくくて仕方がなかった………。僕、たった一度しかあの人にはかかりませんでした………。」
 新樹と交信を始めた当初は、手懸りになったのは先ずこんな程度のものでしたが、幸いにもその後、東茂世女史の霊媒能力が次第に発達するにつれて、確実な証拠や材料がつぎつぎに積み重ねられていきましたので、現在においては、果して本人に相違ないかどうかといったような疑念を挟む余地はもはや全くなくなりました。
 東女史の愛児・相凞さんと新樹は、近頃あちらで大変親しく交遊しており、一方に通じたことはすぐに他方にも通じます。そして幽界での二人の生活状態は双方の母たちの霊眼に映り、また双方の母たちの口を通じてくわしく伝えられます。ですから、たとえ地上の人間の存在が疑われるようなことがあっても、幽界の子供たちの存在は到底疑うことができないのであります。
 こうした次第で、私も妻もこれを新樹からの通信として発表することには少しの疑問も感じませんが、ただその通信内容の価値については、これをあまりに過大評価されないことをくれぐれも切望してやみません。発信者は幽界のほんの新参者ですし、受信者は心霊通信のほんの未熟者で、到底満足な大通信ができるはずはありません。せいぜいあの世とこの世との通信のひとつの見本とみなしていただければ結構で、真の新樹の通信は、これを今後五年十年の後に期待していただきたいのであります。
(現代文訳『新樹の通信』 pp.4-9

 浅野和三郎先生は非常に謙遜して、最後にはこう述べておられますが、私のように妻と子が亡くなった後も長い年月、霊的無知のなかで迷い、悩み、苦しんできた者にとっては、これだけの内容に接しただけでも、目が覚めるような新鮮さと驚きを覚えます。
 新樹氏が満鉄病院で亡くなられたのは、すでに述べたように、昭和四年の二月二十八日でしたが、その後五か月くらいには、もうこのように自由自在とも言えるような、通信が始まっていたのです。


 この世での思い出から始まる対話

 このあとにも、この世での普段の会話と変わらないような自然なことばの交流が父と子の間で長く続けられていますが、その一部をもう少し見てみましょう。
 七月十七日にも父と子の対話があって、それを終えた時、浅野先生はその時のことを、次ぎのようにノートに記していました。

 この日の通信の模様は、よほど楽になった。私が「昨年の今日は、お前と一緒に大連の郊外の老虎灘へ出掛けて行き、夜まで楽しく遊び暮らした日だ」と言うと、彼は当時を懐かしく想い出したようで、しきりに涙を流した。(現代文訳 『新樹の通信』 p.10 )

 このような父と子の深い情愛に、思わずもらい泣きしそうになりますが、これだけの対話ができるように、通信自体は「よほど楽に」なっていたのでしょう。
 浅野先生は、このあと、七月二十五日に、第八回日の対話をしていますが、その時には、先生も新樹氏との通信に「幾らか進境を認めることができます」と述べていました。
 その対話の内容はつぎの通りです。

 問「私たちがここにこうして座り、精神統一をしてお前を呼ぼうとしている時には、それがどんな具合にお前のほうに通じるのか? 一つお前の実感を聞かせてくれないか・・・・・」
 答「ちょっと、何かその、ふるえるように感じます。こまかい波のようなものが、プルプルプルと伝わってきて、それが僕のほうに感じるのです。」
 問「私の述べる言葉がお前に聞えるのとは違うのか?」
 答「言葉が聞えるのとは違います……感じるのです……。もつとも、お父さんのほうで、はっきり言葉に出してくださったほうが、よくこちらに感じます。僕はまだ慣れないから……」
 問「私に限らず.誰かが心に思えば.それがお前のほうに感じられるのか?」
 答「感じます………いつも波みたいに響いてきます。それは眼に見えるとか、耳に聞えるとかいったような、人間の五感の働きとは違って、何もかもみな一緒に伝わってくるのです。現に、お母さんはしょっちゅう僕のことを想い出してくださるので、お母さんの姿も、気持ちも、一切が僕に感じてきてしようがない・・・・・・」
 問「生前の記憶はそっくりそのまま残っているか?」
 答「記憶しているのもあれば、また忘れたようになっているのもなかなか多いです。必要のないことは、ちょうど雲がかかつたように、奥のほうに埋もれてしまっていますよ………」
 問「満鉄病院へ入院してからのことを少しは覚えているか?」
 答「入院中のこと、それからどうして死んだかというようなことは全然覚えていません。火葬や告別式などもさっぱりわかりませんでした・・・・・・」
 問「お前が臨終後まもなく、火の玉がお前のお母さんに見えたが、あれはいったい誰が行ったのか?」
 答「僕自身は何も知りません………。いま守護霊さんに伺ったら、全部守護霊さんがやってくださったのだそうです………」
 問「いつお前は自分の死を自覚したのか?」
 答「伯父さんに呼び起こされた時です………」
 問「あのまま放置しておいてもいつか気がついていただろうか?」
 答「さあ………(しばらく過ぎて)只今守護霊さんに聞いたら、それは本人の信仰次第で、真の信仰のある者は早く覚めるそうです。信仰のないものは容易に覚めるものではないといわれます。」
(現代文訳『新樹の通信』pp.10-12 )

 この対話を仲介したのは、もちろん、多慶夫人で新樹氏の母上ですが、父と母と子の類い稀な連携プレイが、このような奇跡の対話を生み出したといってよさそうです。
 浅野先生は、例によって、この対話の末尾に、ご自分の「注釈」をこうつけ加えています。

 「右の問答後、妻に訊くと、先ほど細かい波の話が出た時に、彼女の霊眼には、非常に繊細な、きれいな漣がはっきり見えたという。これがいわゆる思想の波、エーテル波動とでもいうものか?」(現代文訳『新樹の通信』p.12)


 霊界での生活環境はこの世とどう違うか

 霊界へ移れば、その姿はどうなるのか。現世のままの姿が維持できているのか、それとも変わるのか。あるいは、どういう家に住み、どういう生活をするのか、といったことは私たちが是非知りたいと思うことです。これらの点についても、浅野和三郎先生は、繰り返し新樹氏に質問しています。
 そのうちの一つで、昭和四年十二月二十九日に行なわれた第四十六回目の父と子の対話を浅野先生がまとめたものを、つぎに取り上げてみることにしましょう。
 まず、浅野先生が語りかけます。答えているのは新樹氏です。

 問「多少前にも尋ねたことがあるのが混じるだろうが、念のためにもう一度質問に答えてもらいたい。――お前が伯父さんに呼ばれて初めて死を自覚した時には自分の体のことを考えてみたか?」
 答「そうですね・・・・・。あの時、僕は真っ先に自分の体はと思ったようです。するとその瞬間に体ができたように感じました。触ってみてもやはり生前そっくりの体で、特にその感じが生前と違うようなことはありませんでした。要するに、自分の体だと思えばいつでも体ができます。若い時の姿になろうと思えば、自由にその姿にもなれます。しかし僕にはどうしても老人の姿にはなれません。自分が死んだ時の姿までにしかなれないのです。」
 問「その姿はいつまでも持続しているものかな?」
 答「自分が持続させようと考えている間は持続します。要するに持続するかしないかはこちらの意思次第のようです。また、僕が絵を描こうとしたり、水泳でもしようとしたりすると、その瞬間に体ができ上がります。つまり外部に向かって働きかけるような時には体ができるもののように思われます。――現に、いま僕がこうしてお父さんと通信している時には、ちゃんと姿ができています・・・・・・。」
 問「最初はお前が裸体の姿の時もあったようだが・・・・・・。」
 答「ありました。ごく最初に気がついた時には裸体のように感じました。これは裸体だな、と思っていると、そのつぎの瞬間にはもう白衣を着ていました。僕は白衣なんかいやですから、その後は一度も着ません。くつろいだ時には普通の和服、訪問でもする時には洋服――これが僕の近頃の服装です。」
 問「お前の住んでいる家は?」
 答「なんでも最初、衣服の次ぎに僕が考えたのは家のことでしたよ。元来僕は洋館の方が好きですから、こちらでも洋館であってくれればいいと思いました。するとその瞬間に自分白身のいる部屋が洋風のものであることに気づきました。今でも家のことを思えば、いつも同じ洋風の建物が現われます。僕は建築にはあまり趣味はもっていませんから。もちろん立派な洋館ではありません。ちょうど僕の趣味生活にふさわしい、バラック建ての、極めてあっさりしたものです。」
 問「どんな内容か、もう少し詳しく説明してくれないか?」
 答「東京あたりの郊外などによく見受けるような平屋建てで、部屋は三室ほどに仕切ってあります。書斎を一番大きくとり、僕はいつもそこにいます。他の部屋はあってもなくてもかまわない。ほんのつけたしです。」
 問「家具類は?」
 答「ストーブも、ベッドも、また台所用具のようなものも一つもありません。人間の住宅と違って至極あっさりしたものです。僕の書斎には、自分の使用するテーブルと椅子が一脚ずつ置かれているだけです。書棚ですか……そんなものはありませんよ。こんな書物を読みたいと思えば、その書物はいつでもちゃんと備わります。絵の道具なども平生から準備しておくというようなことは全然ありません。」
 問「お前の描いた絵などは?」
 答「僕がこちらへ来て描いた絵の中で、傑作と思った一枚だけが保存され、現に僕の部屋に懸けてあります。装飾品はただそれきりです。花なども、花が欲しいと思うと、花瓶まで添えて、いつのまにか備わります。」
 問「いまこうして通信している時に、お前はどんな衣服を着て居るのか?」
 答「黒っぽい和服を着ています。袴ははいていません。まず気楽に椅子に腰をかけて、お父さんと談話を交えている気持ですね………。」
 問「庭園などもついているのかい?」
 答「ついていますよ。庭は割合に広々ととり、一面の芝生にしてあります。これでも自分のものだと思いますから、敷地の境界を生垣にしてあります。だいたい僕ははでなことが嫌いですから、家屋の外回りなどもねずみ色がかった、地味な色で塗ってあります。」
 問「いや今日は、話が大へん要領を得ているので、お前の生活状態が髣髴としてわかったように思う。――しかし、私との通信を中止すると、お前はいったいどうなるのか?」
 答「通信がすんでしまえば、僕の姿も、家も、庭も、何もかも一時に消えてしまって、いつものふわふわした塊り一つになります。その時は自分が今どこにいるというような観念も消えてしまいます。」
 問「自我意識はどうなるか?」
 答「意識がはっきりしている時もあれば、また眠ったような時もあり、だいたい生前と同じです。しかし、これはおそらく現在の僕の修行が足りないからで、だんだんと覚めて活動している時ばかりになるでしょう。現に、近頃の僕は、最初とは違って、それほど眠ったような時はありません。そのことは自分でもよくわかります。」
 問「お前の家にはまだ一人も来訪者はないのか?」
 答「一人もありませんね・・・・・。幽界へ来ている僕の知人の中にはまだ自覚している者がいないのかもしれませんね………。」
 問「そんなことでは寂しくてしようがあるまい。そのうちひとつ、お前のお母さんの守護霊にでも頼んで訪問してもらおうかな・・・・・・。」
 答「お父さん、そんなことができますか………。」
 問「それはきっとできる………できなければならないはずだ。お前たちの世界は、大体において想念の世界だ。ポカンとしていれば何もできないだろうが、誠心誠意で思念すれば、きっと何でもできるに違いない・・・・・。」
 答「そうでしょうかね。とにかくお父さん、これは宿題にしておいてください。僕はやってみたい気がします・・・・・。」

 この日も彼の母の霊眼には彼の幽界における住宅がまざまざと映りましたが、それは彼の言っているとおり、とてもあっさりした、郊外の文化住宅らしいものだったとのことでした。その見取り図もできていますが、わざわざお見せするほどのものではありませんから、ここでは省略いたします。
(現代文訳『新樹の通信』pp.17-21)

 以上が、新樹氏の通信の初期の内容ですが、新樹氏の住んでいる住宅の様子まではっきり見ることが出来ていることに、感嘆せざるをえません。
 このあとこの通信は、父の浅野先生が、亡くなられるまで延々と続きます。
 そして、先生が亡くなられた後は、さらに当時、海軍中将を退役していた伯父・浅野正恭氏を通じて、この通信は続けられました。浅野正恭氏も心霊研究のよき理解者でした。
 昭和十三年三月二十四日、この伯父との対話で、多慶夫人を仲介者として、新樹氏が霊界から父の和三郎先生の臨終の模様などを伝えている場面などには、思わず涙を誘われます。
 その一部をつぎに引用してみましょう。伯父の正恭氏が新樹氏に、「たとえ面と向かって会わないにしても、他所ながら父の様子は見ているのだろう、母の守護霊などと一緒に……。 それはそうとして、父の臨終の模様を見たことと思うが、今日はその様子を話して貰いたいのだが」と語りかけます。つぎに掲げるのは、それに対する新樹氏の答えの一部です。

 僕としては、残念ながら、自分の幽体の離れるさまを見ることが出来ませんでした。これは、畢竟、心霊知識に乏しかったためで、父の幽体離脱だけは見たいと思い、前にも申したとおり、神様にお願いいたしました。幽体離脱ということについては、生前父から聞かされたことはありましたが、詳しいことなどもちろん存じません。それで父の場合には、亡くなる時間がちょっとあったようでしたね。父はそれまで下に寝ていましたが、起き上がりました。起き上がってから、幽体が離脱し始めたのです。

 伯父の浅野正恭氏は、ここで「その時かどうかは知らぬが、しきりに起き上がろうとするので、私は勝良(新樹の兄)に抱き起こさせた」と口を挟んでいます。和三郎先生は、新樹氏の兄の勝良氏に抱き起こされた状態で、幽体離脱を始めたようです。新樹氏はその様子をこう続けました。

 父が起き上がると、幽体は足の方から上の方へと離れ始めました。幽体と肉体とは、無数の紐で繋がっていますが臍の紐が一番太く、足にも紐があります。脱け出たところを見ると、父は白っぽいような着物を着ておりました。
 僕は足の方から幽体が脱けかけ、頭の方へと申しましたが、それはほとんど同時といってもよい位です。そして無数の紐で繋がれながら、肉体から離れた幽体は、しばらく自分の肉体の上に、同じような姿で浮いているのです。そして間もなくそれらの紐がぷつぷつと裁断されて行きました。これが人生の死、いわゆる玉の緒が切れるのです。

 この新樹氏の話で、「玉の緒」は一本ではなくて、無数にあることがわかります。浅野正恭氏は、ここで「どの紐から切れ始めたか」と新樹氏に聞きました。新樹氏は答えます。

 臍のが一番先で、次が足、頭部の紐が最後でした。紐の色は白ですが、少し灰色がかっております。そして抜け出た幽体は、薄い紫がかった色です。
 なに! 紐が切れる時に音でもしたかというのですか。それは音なんかしません。その切れるさまは実に鮮やかで、何か鋭利な刃物ででも切られたのではないかと思われるほどでした。
 僕はまのあたり父の幽体の離れ行くさまを見て、実に何ともいえぬ感慨に満たされました。この離れた幽体は、しばらくそのままでおりましたが、やがて一つの白い塊となって、いずこへか行ってしまいました。それから後のことは、僕には何もわかりませんでした。
 僕は父などと違い、大変な執着を持っていました。第一に肉親に対する執着。――この執着から先ず離れねばならぬと、神様から申されましたが、これは忘れようとして容易に忘れられるものではありません。このためにどれだけ神様に叱られたかわかりません。そのお蔭で、今日これまで仕上げられたのです。父もあれだけの事業を残されたので、執着も必ずあることだろうと思います。
 父はかねがね両親のことを心配しておられたから、神様からお許しが出たなら、まず第一に面会されるだろうと思います。その時は僕もお供をしましょうし、また通信もするでしょうが、何を申すにも、今はまだ帰幽後まもないことで、僕はよそながら幽体の離れ行く状況を見て、それを伯父さんにお話しする程度にすぎません。伯父さんの方に、何か問題がおありでしたら、僕が神様に伺ってお答えしましょう。
(現代文訳『新樹の通信』=第三編= pp. 40-44)

 新樹氏の報告はここでおわっていますが、浅野正恭氏は、この新樹氏の話しについて、「この幽体離脱の状況は、本人の見るところとも、また他の霊視能力者の見るところとも大体一致しております。で、人間の死んで行く状態は、多少異なるところがあるとしても、大体こういったものと思えば大差なしでしょう」と所感を述べています。
 新樹氏は、この霊体離脱の前のところでは、和三郎先生の容態がさして苦痛もなさそうで死ぬようには見えないので、本当に死ぬのかどうか、神様に尋ねています。神様は、それはこちらで守護しているからそう見えるだけだ、と応えられました。そのような神様との対話や、人間が死んでいく場合の幽体離脱の状況などを、このように具体的に詳しく述べられているのは、稀有の記録だと思いますが、私たちはそれを、ほかならぬ、浅野和三郎先生から教えられていることになります。
 幽体と肉体とは無数の紐で繋がっていて、臍の紐が一番太く、足にも紐があることや、そのシルバー・コード(玉の緒)といわれる無数の紐が「ぷつぷつと裁断」されていくさまが目の前で見るように再現されていますが、これが本当の死なのでしょう。臨死体験と違って、これが起こるともう生き返ることは出来ないといわれています。私たちにもやがて起こるであろう死のプロセスをこうして学ばせていただきながら、それが重大な真実であるだけに、深い感慨を抑えることが出来ません。

       武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.131-151)




  14. (第11章  シルバー・バーチの真理の教え)                (2014.09.05)

   第十一章 シルバー・バーチの真理の教え


 古代霊からの珠玉のことば


 前章のような新樹氏の奇跡の通信もありますが、さらに、霊界でも何百年、何千年の修行を積んだ高級霊ともなりますと、その霊界通信もほとんど一点の曇りも曖昧さもない明晰さで、高度で詳細な内容のものを伝えてくれることがあります。
 その代表例の一人がシルバー・バーチでしょう。心霊主義の世界ではあまりにも有名で、皆さんの中にもこの名前をご存じの方が多くおられることと思います。
 一九二〇年代から実に五十年間にわたって、イギリスで霊界の真実を伝えるためのメッセージを送り続けました。
 シルバー・バーチというのは仮の呼び名で、紀元前千年ごろ地上で生きていた人らしいのですが、訊かれても、本人は最後まで身分を明かそうとはしませんでした。
 「人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。前世で私が王様であろうと乞食であろうと、そんなことはどうでもよろしい。私の言っていることがなるほどと納得がいったら真理として信じてください。そんなバカな、と思われたら、どうか信じないでください。それでいいのです」と答えていました。
 シルバー・バーチのことばを取り次いだのは、有能な著作家、編集者として知られたモーリス・バーバネル氏でした。
 彼は、シルバー・バーチのことばを「霊の錬金術」として、つぎのように激賞しています。

 年中ものを書く仕事をしている人間から見れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けるということ自体が、すでに超人的であることを示している。誰しも単語を置き換えたり消したり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っ引きでやっと満足のいく記事が出来上がる。ところがこの「死者」は一度もことばに窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を高揚し、気高さを感じさせるのである。(『霊訓 1』 12頁)

 しかし、そのシルバー・バーチですら、このように、稀代のことばの達人として霊界から語りかけるのには、霊界での長い準備と勉強が必要でした。
 霊の世界ではことばは使いませんから、地上へ降りてきて霊能者に乗り移った霊は、意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変える必要があります。
 この音声に替える作業は、霊能者が仲介して音声にする場合と、霊体が直接、霊能者の発声器官を使って、音声を発する場合があるように思われます。潔典の手紙の場合は前者でしょう。だから、どうしても曖昧さが残ります。
 しかし、シルバー・バーチの場合は後者です。彼は、心霊知識の理解へ向けて指導するという使命を帯びて地上に降りるとき、いろいろな周到な準備のほか、英語の勉強もしたことを、自らつぎのように述べています。

 あなた方の世界は、私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなければなりません。地上の同士を見つけ、その協力が得られるよう配慮しなければなりません。それから私の代弁者となるべき霊能者を養成し、さらにその霊能者を通じて語る真理を出来るだけ広めるための手段も講じなければなりません。それは大変な仕事ですが、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証を得ました。そして計画はすべて順調に進みました。(『古代霊は語る』 潮文社、14頁)

 一九二〇年代にこの霊能者として選ばれたのが前述のモーリス・バーバネル氏ですが、シルバー・バーチは、氏が生まれる前から調べ上げて彼を選び、その受胎の日を待っていたといわれています。
 また、ここで同士というのは、当時、反骨のジャーナリストとして名を馳せ、「英国新聞界の法王」とまでいわれたハンネン・スワッハー氏でした。
 氏は、シルバー・バーチのための交霊会を、はじめは私的なホーム・サークルという形で開いたのですが、それが延々と半世紀も続いて、シルバー・バーチの教えは、人類の膨大な知的遺産として残ることになりました。
 日本でも、一九八五年から潮文社によって、近藤千雄訳『シルバー・バーチの霊訓』(1~12巻)として、出版されています。
 「語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反発を感じ理性が納得しないときは、かまわず拒絶なさるがよろしい」 とくり返していたシルバー・バーチが、一旦口を開くと、「何ともいえない、堂々として威厳に満ちた、近づきがたい雰囲気が漂い始め」て、交霊会の出席者たちは、思わず感涙にむせぶこともあったといいます。


 シルバー・バーチの講演

 シルバー・バーチを迎えた交霊会も、その内容が活字になってしまうと、その感動的な雰囲気は伝わりにくいのですが、ここでは、シルバー・バーチの教えのほんの一部を、再現してみましょう。
 交霊会では、話が終わったあと、シルバー・バーチはどんな質問にも、明快的確に即答していました。ある日、「霊界についてテレビで講演することになったとすれば、どういうことを話されますか」という質問が出て、すかさず、シルバー・バーチはつぎのように答えました。(『霊訓 3』 76-78頁)

 私はまず私が地上の人たちから「死者」と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明いたします。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請いたします。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを全うして、一たんべールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。

 パラグラフにすると五つになりますが、これが切り出しの部分です。
 自己紹介と地上へ戻ってきた理由について述べていますが、メッセージは明らかでしょう。私はこの地上では「死者」と呼ばれるが、死んではいない。いのちは永遠で滅びることはない。それが霊的真理であり、それを伝えるために、地上に降りてきた、というのです。
 つぎに移りましょう。

 私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反発させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを訊いてみます。私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。
 人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている・・・・・・ 黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役立てたいと望んでいるのです。


 ここで、これらがシルバー・バーチのことばであると聞かされても、テレビに映って話していると仮定されているのは、モーリス・バーバネル氏のはずですから、バーバネル氏の口からシルバー・バーチのことばが出てくることに一種の違和感を持つ人もいるかもしれません。
 霊能者の意識と発声器官を占有していることが理解できても、霊能者の潜在意識が影響を与えるということはないのか、と考えたりします。
 一般的には、霊の意識が霊能者を通じて百パーセント正確に伝えられることは非常に難しい、ともいわれています。しかし、この場合は違うようです。
 シルバー・バーチは、バーバネル氏を生まれる前から選び、霊界からの操作で、生まれてからもさまざまな霊能者になるための経験を積ませ、その結果、氏の潜在意識を完全に支配して、自分の考えを百パーセント述べることが出来ると言っているのです。(『霊訓(3)』18頁)
 「金銭目当てで言っているのではない、聞くも聞かぬもあなた方の自由」というのも説得力があります。
 世の中には、いわゆる霊感商法とか、悪霊除去とかで法外なカネをとる悪質業者が後を絶ちませんが、本来、真理を伝えるのにカネを要求することはないはずなのです。
 逆に言えば、法外なカネを要求するような教えや霊的治療は、真理とはかけ離れたものといえるでしょう。
 一方、いくら無償の愛のこころで真理を伝えようとしても、「聞く耳をもたない」人も少なくはありません。
 いのちの真理を知らず、知ろうともせず、「死んだ」家族に取りすがってただ泣いてばかりしているとすれば、その人こそ本当の意味での死者である、というのもよく理解できます。
 私自身が確かにそうでした。これも、現に「死者」であるシルバー・バーチが言っているわけですから、これほど確かな「証人」はいないということになるでしょう。

 見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊のカを認識することになります。あなた方は神の子なのです。その愛と叡智をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊とのつながりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。
 そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧噪を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃として存在する霊的生命の幽かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解カを開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。 無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。


 ここでは、大霊との繋がりに教会が邪魔になるのなら教会を捨てよ、とまで言っていますが、これは、キリスト教会が心霊主義を認めていないことを批判しているのでしょう。
 キリスト教徒の迫害を続けていたローマ帝国が、方針を転換してキリスト教の公認に踏み切ったのは三一三年のことで、コンスタンチヌス帝によってでした。
 実は、この頃まではまだ、聖職者と霊能力で教会を支えていた霊能者は共存していたのです。
 その両者の関係がだんだん分離していき、三二五年に異端の弾劾を審議する第一回ニカイア会議が開かれた頃には、教会から霊能者と心霊主義を追放することが決定的になったといわれています。
 もともと教会では、聖職者が俗世の悩み事の相談に乗り、霊能者が天界からのお告げを伝えるというように、民衆を二重に導いていました。
 それが、聖職者だけが運営する教会となって、教会は次第に民衆からの尊敬を失い始め、衰退していったと、シルバー・バーチはみています。
 この両者の違いは、イエスの奇跡の捉え方にもあらわれてきました。
 病人を癒した奇跡も、憑依霊を追い出した話も、イエス自身の復活も、霊能者の心霊主義ではすべて説明できることで、謎でも不思議でもありません。
 しかし聖職者たちは、それらが霊能力のなせるわざであり、その霊能力は本来誰にでも備わっているものだというような考え方を、認めようとはしないのです。
 ともあれ、「テレビに出たら」という仮定で、シルバー・バーチは、以上の内容をよどみなく一気に語り終えました。
 素朴で荘厳で慈愛に満ちた彼の肉声を聞くことが出来ないのは残念ですが、その彼が、一方的な困難と負担を乗り越え、しかも何の見返りも求めず、地上に降りてきて熱心に説いたのは、私たちは死なない、死んでも生きる、いのちは永遠である、ということに尽きると思われます。
 その真理を私たちが素直に自分のものとして受け止めたとき、私たちははじめて彼が言う「霊的自由のなかで生きる」ことになるのでしょう。


 シルバー・バーチの教え

 シルバー・バーチは、前項の「テレビ講演」のなかで、「生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅である」といっています。これは、本来の私たちは肉体を伴う霊であって、霊を伴った肉体ではないからです。霊は永遠であって、私たちは霊であるからこそ死はないのです。
 シルバー・バーチは50年もの間地上の私たちへメッセージを送り続けてきて、それは膨大な記録として残されていますが、おそらく、その中でももっとも大切な教えの一つは、この、本来の私たちは霊であるという真理でしょう。
 シルバー・バーチはこれについて、こう述べています。

 霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊のないところに生命はありません。物質は殻にすぎません。霊という実在によって投影されたカゲにすぎません。物質それ自体には存在はないのです。あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最後、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。(『霊訓 12』 p.198-199)

 別のところでは、シルバー・バーチはつぎのように言っています。霊が永遠で死ぬことはないのであれば、私たちの死に対する考え方も180度変わってくるはずです。シルバー・バーチのことばに耳を傾けてみましょう。

 すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはありえないことを得心なさるはずです。物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦解してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。
 死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生をうけて肉体を通して表現しはじめた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へおもむき、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。
 不滅の個霊としてのあなたは肉体の死後も生き続け、あなたという個的存在を構成しているものはすべて存続するという事実を立証するだけの証拠は、すでに揃っております。死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現するカがそなわっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして生命と同じく、不滅です。
(サイキック・プレス編 『シルバーバーチは語る』 ハート出版、pp.13-15)

 ここでシルバー・バーチは、「死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現するカがそなわっています」と述べています。私はそのことを、私自身の家族との対話でも経験してきましたし、第10章の『新樹の通信』においても、数多くの通信ですでにご理解いただけたことと思います。だから、私たちは死後の世界に対する認識も改めざるを得ないのです。
 シルバー・バーチによれば、死後の世界とはつぎのような世界です。

  あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。
 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。
 "死"というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗闇が後退していきます。
 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなたがたが "死んだ" といって片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。
(『霊訓 4』 pp.131-133)

 このように見てきますと、死ぬことに対する私たちのイメージは大きく変わらざるを得ません。死ぬことは、一般に広く考えられているような悲劇では決してないのです。死というのは古今東西、人間につきつけられてきた最大の難問の一つであったわけですが、それをシルバー・バーチは「死」の体験者の一人として、極めて明快に、確信をもってこう教えています。

死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。
 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。
 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の施律のひと節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。
(『霊訓 4 pp.133-134)

 しかし、それでも、これほどいろいろと真理のことばを数多く与えられていても、やはり、聞く耳をもたない人も決して少なくはないのでしょう。世間の真理からはるかに遠い「常識」にがんじがらめに縛り付けられて、そしてそのことに気がつくこともなく、死を忌み嫌い、死を嘆き悲しむのが普通です。
 ある時の交霊会で、それに対してもシルバー・バーチは会場の人たちに向かって、つぎのように厳しく教え諭していました。少し長いのですが、そのことばをそのまま引用してみましょう。

 いったい何を悲しむというのでしょう。死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。本当は地上に留まること自体が苦痛であり、地上を去ることは苦痛から解放されることであり、暗黒の世界から出て光明の世界へ入ることであり、騒乱の巷から平和な境涯へと移ることを意味することを思えば、尚のことです。霊的知識を得た者がなぜその知識と矛盾する悲哀に心を傷めるのか、私は理解に苦しみます。
 もう一歩話を進めてみましょう。霊的真理についての知識を初めて手に入れた時、それは目も眩まんばかりの啓示として映ります。それまでの真っ暗闇の混乱、わけの分らなかった世界がぱっと明るく照らし出される思いがします。が、その新しい理解がいかに大きいものであっても、やがて納まるべきところに納まり、その人の在庫品の一つとなっていきます。しかし知識は使うためにあるのです。その知識のおかげで視界が広がらなくてはいけません。理解力が増さなくてはいけません。洞察力、同情心、寛容心、善意がいっそう大きくならなくてはいけません。せっかく知識を手にしながら、それをある限られた特別の機会のために取っておくことは許されません。それは人生のあらゆる側面における考えを改めるために使用されるべきものです。皆さんがこれまでに学び、観察し、体験してきたことに幾ばくかでも真理があったとすれば――もし学んできたことが霊的な価値を有するものであれば、その価値はそれを実際に使用し実生活に適用することによって少しでも多くの霊的自我を発揮させることで生かされるのです。
 身近かな人の死に直面した時、あの馴染みの顔、姿、あの言葉、あの笑顔がもう見られなくなったことを悲しむのではないと断言なさるのなら、あなたは絶対に悲しむべきではありません。この交霊会での知識は週に一度わずか一時間あまりの間だけの知識として取っておいていただいては困ります。皆さんの日々の生活の中で使用していただかないと困ります。その霊的な価値は工場において、仕事場において、事務所において、商いにおいて、専門職において、天職において、奉仕的仕事において、家庭内において、その絶対的基盤としなければなりません。あなた方の生活のすべての行為における光り輝く指標とならなければなりません。それが知識というものの存在価値なのです。と言うことは、スピリチュアリストを自認する方はスピリチュアリズムというものを――これも霊的真理の一側面に付した仮の名杯にすぎませんが――身内の人を失って悲しむ人のためにだけ説いて、それ以外の時は忘れているということであってはならないということです。私どもが教えんとしていること、駆使しうるかぎりの力を駆使して示さんとしていることは、この宇宙が霊的法則によって支配された広大な世界であること、そしてその法則は、人間みずから見えることより見えないことを望み、聞こえることより聞こえないことを望み、物が言えることよりも言えないことを望み、常識より愚昧を好み、知識より無知を好むことさえなければ、決して恩恵をもたらさずにはおかないということです。
 知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません。死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上生活だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、他方にそれとはまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習癖から卒業しなくてはいけません。あなた方は今そのままの状態ですでに立派に霊的な存在です。死んでから霊的になるのではありません。違うのは、より霊的になるという程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。今からあなたのものなのです。肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮しはじめるというのではありません。今日、いまこうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。言わば居睡りをしながら時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。霊的知識を手にしたあなた方は人生のあらゆる問題をその知識の光に照らして考察し、そうした中で霊の所有物、才能のすべてを発揮できるようにならなければなりません。
(『霊訓 3』 pp.40-44 )

 「知っているということと、それを応用することとは別問題」というのも大切なことばだと思います。聞く耳を持たないのは論外ですが、聞いても聞いてもわかっているようでわからない人もいますし、わかっても「応用すること」が出来ない人も決して珍しくはありません。それではいつまでも悲しみの淵からは抜け出せないことになるでしょう。
 真理の教えはまぎれもなくいのちにも代え難いような貴重な宝物ですが、私たちも宝の持ち腐れにならないように気をつけていきたいものです。

        武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.152-162)





 16.(一.光へ向かって歩んでいくために  1~18)

  第二部 悲しみの声に応える


 一. 光へ向かって歩んでいくために (1~18)
         =メールの交換:二〇〇四年七月~二〇一〇年六月=


 私は、1992年春にロンドンから帰って以来、講演や執筆活動を通じて、ささやかながら、生と死の真実について語り始めるようになりました。
 そのうちに、講演を聞いた人たちからの要望があって、二〇〇三年の春からホームページを開設しました。それ以来、ほぼ毎日、更新を続けて今日に至っています。*
 この私のホームページの中に「メール交歓」というファイルがあります。
 愛する家族を亡くして嘆き悲しむ私たちを「無明の闇」から救い出してくれるのは、おそらく、霊的真理しかない。その真理を知る歓びを分かち合いたいというのが「交歓」の趣旨です。
 メールの数は厖大な量になりますが、そのうちのいくつかを、つぎに掲げておきます。送信者のお名前は、すべてイニシアルで示しました。
   2012年に入退院を繰り返して、それ以降は隔日に更新するようになりました。

      武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.163-164)




 17.(1.希望から確信に変わっていく幸せ)

 1-a 希望から確信に変わっていく幸せ (来信)   (2004.07.03)

 先日は講演会ありがとうございました。六年前に亡くなった主人の母が溝口様との縁を結んでくれて、それ以来武本先生のお話を毎年聞かせていただいてきました。最初の衝撃的な出会い、驚き、希望から確信に変わるまでの自分を振り返りますと、つくづく先生のこの講演会に私は育てていただいたのだと思います。
 毎年恒例となった「こすもす斎場」での講演会が一歩ずつ私の歩みにあわせるかのように導いてくれました。「人間は霊的存在であり、死んでも死なない」という実相が受け入れられた時から、私は子供を亡くした悲しみを手放すことが出来ました。思い出に浸ることはあっても、以前のような胸がつぶれそうな辛さはありません。私を選んで私の子供として生きてくれた息子に感謝の気持ちでいっぱいです。
 「魂の成長」を頭に置きながら生活していると、不思議に周りの人たちや出来事が魂の目を通して見られることに気がつきました。人と人とが深いところでつながりあっていると知る事で心が満たされ幸せな優しい気持ちになれるのです。シルバー・バーチが言うように霊的真実を知ることはこんなにも素晴らしい事なのですね。
 ホームページに載せて下さっているシルバー・バーチの言葉の一つ一つが本当に勉強になります。本も併せて読みながら毎日教えをいただいております。きっと私と同じ様に毎日アクセスしている方が沢山いらっしゃることでしょう。
 先生、本当にありがとうございます。以前とは比べものにならないくらい今の私は幸せです。お体に気をつけられて、これからも一層のご活躍を期待しております。(S. A.)

 1-b 霊的真実を知ることの素晴らしさ (返信)   (2004.07.07)

 「私を選んで私の子供として生きてくれた息子に感謝の気持ちでいっぱいです」という文面を拝見していますと、明るく輝いているあなたのお顔を思い出して、私も明るさを分け与えられているような気持ちになります。
 子供を亡くすということは、親にとって最大の悲しみであり、この上もない不幸だと思っていたことが、ほんとうは決してそうではないのだと知ったときの驚き、そして大きな安心感と深いよろこび。なかなか得がたい体験ですが、それを私も、あなたと共有できることを幸せに思います。
 私もいまでは、長男が私の子として生まれ、21歳で霊界へ旅立っていったことの意味が私なりによく分かるようになりました。長男は私を導くために、そのような「計画」を実行することを潜在意識ではもっていたはずですが、そのことは、アメリカで最後に一緒に過ごした日々の長男の言動のなかから、いまの私はかなり明確に読みとることができます。
 すべてを失ったという絶望感から、やがて、なにものも失われていないどころか、いのちの真実や生きることの意味も知らされるようになって、私もまた長男に、そして、彼をいっしょに霊界へ導いていった妻に深く感謝しています。
 ほんとうに知らないということは怖いことですね。「生きている」家族でさえ死んだことにしてしまい、自分自身のいのちさえ縮めてしまいかねません。
 そのような、知らないでいるために悲しんだり苦しんだりしている方々が世の中には大勢おられますが、それぞれに、目覚めていくための対応の仕方が異なるのはやむを得ないとしても、少しでも早く、あなたも言っておられるような霊的真実を知る素晴らしさを体験するようになっていただければと、祈るように見守るばかりです。

       武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.164-166)




 18. (2-a 天国の赤ちゃんからの素敵なニュースを)

 2-a 天国の赤ちゃんからの素敵なニュースを (来信)   (2003.7.10)

 先生、こんにちわ。お元気でいらっしゃいますか?今日は素敵な事が起こったことを先生にお知らせしたくてメールしました。先月の講演会を聞いた私の友人の一人がこう言うのです。

 「武本先生の講演会を聞いて帰る道すがら、にこにこした顔が二つ並んで見えるようになったの。にこちゃんマークのようなその二つの顔が私を優しく見つめていてくれて、私はそれ以来、何だかすごく幸せな気持ちでいられるようになった。原因のわからない不整脈も随分収まってきて、不思議な気持ち。本当に素晴らしいお話を聞かせていただいて感謝しています。」

 彼女は生まれてすぐの赤ちゃんを二度亡くしたことがあり、十分に供養をしてあげていないのではないかと心の奥で悔やんでいたのです。その二人の子供が楽しそうな顔で現れて、しかも彼女を見守っていてくれる事を知りました。彼女を取り巻く環境は何も変わっていないのに、それ以来彼女を悩ませていた問題が気にならなくなり、幸せな気持ちで毎日を過ごせるようになったと言うのです。

 この素敵なニュースを聞いて、私も本当に嬉しく思いました。先生にも早くお知らせしたくて、ワクワクしながらこのメールを書いています。もう一人の友人はお話に感動して、「僕はここにいるよ。だからもう悲しまないで強く生きて、お母さん!」という子供の声が聞こえたような気がしたと話してくれました。

 二人とも以前より明るく幸せな顔を見せてくれるようになりました。「魂」の真実を知ることは、こんなにも素晴らしい結果をもたらしてくれるのだと又改めて実感しています。先生、素晴らしいお話をありがとうございました。(S.A)

 2-b 真理を知って安らかに生きていくことの大切さを (返信)  (2003.7.10)

 素敵なメールを有難うございました。私の講演会では、愛する家族を亡くして悲しんでおられる方々ばかりではなく、霊界からも、それらの愛する家族が多く参加してくれていることを、私は教えられて知っています。

 霊界の愛する家族が一番望んでいることは、自分達が元気に生き続けていることを、この世の人たちに知ってもらうことだろうと思います。ですから、私が講演会などで、人は死んでも死なない、愛する家族は生き続けている、というような話をすると、霊界の家族のことばを代弁していることになって、喜んでもらえているのかもしれません。

 世間では、人が亡くなると、「安らかにお眠りください」などと言って、悲しみの涙を流しますが、あれは、間違っていますね。亡くなった人に対する供養が大切であることは知っていても、供養の仕方を知らないということになります。

 一番大切で本当の供養は、愛する家族が、いまも立派に生きていることを知ってあげることでしょう。知らないで悲しむのではなくて、知って安らかに生きていくことの大切さを、これからも、みんなで考え続けていきたいものだと思います。

      武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.166-169)




 19.(3-a 障害を負って生まれてきた子に感謝)

3-a 障害を負って生まれてきた子に感謝 (来信)   (2004.11.13)

 お返事ありがとうございます。武本様のメールの中にはたくさんの真理がちりばめられており、読みながら幾度も胸が熱くなりました。ご子息と奥様をなくされて、希望の光を取り戻すのに少し時間がかかったと謙虚におっしゃってくださり、初めて便りを出した私に誠実に臨んでくださったことをうれしく思っています。

 武本様には武本様の、私には私のたどるべき道筋(悲しみ・苦しみの体験)があるのでしょうね。でもその体験を通して、地上にいる間に霊的な真理に辿りつけたのですから、シルバー・バーチならきっと、地上の年齢など物の数ではないと言ってくれるのではないでしょうか。

 私が武本様の守護霊なら感極まって喜びの涙を流すところと感じております。そして、霊の世界にいる方たちにとって、真実の自分たちのおかれた環境について、正しく認識してもらえることほど大きな喜びはないでしょう。もちろん、そのことは武本様がよく実感されていらっしゃることは、ホームページから伝わっています。

 私は、子供をきっかけとして、シルバー・バーチに出会いました。求めていた疑問や謎に対するたくさんの答えがそこにあるように感じて、むさぼるように読みました。ずいぶんたくさんの慰めと励ましを得たのです。それと同時に、一言の言葉も発することなく生涯を送ると思われる子供を前にしていると、シルバー・バーチの語ることがらが一つ一つ真理として響いてきて、私は本当に恵まれていると思いました。

 子供を通してもたらされる疑問から、真理を真理として知ることができたこと、その上で子供も神の摂理のなかで生かされているのだと冷静に見ることができるようになりました。子供には申し訳ないのですが、障害を負って生まれてきてくれたことをありがたいと思いました。

 私はたくさんの愛のある存在のおかげで学ばせてもらっているのだと分かった時、一つも無駄にせず学んで活かすことで、子供に対しても導いてくれた守護霊に対しても、豊かに愛してくれる神に対しても恩返しをして行こうと思うようになりました。もちろん、シルバー・バーチに巡り合って一時にそう思えたわけではありません。厳しくても、純粋に学ばせてくれるものはあるものです。

 私の思う恩返しと、シルバー・バーチの言う「自分以外の人に手を差し伸べる」と言うことを重ねられるようにと思うようになり、武本様のようにホームページで霊的な真理に出会えた喜びを語る方を素晴らしいと感じているのです。そのような生き方が私の目標とも言えます。

 温かなお返事をいただきましたのに、脈絡のないことばかり書き連ねてしまいました。武本様の使命とも言える、近親者の死に心を痛める方を一人でも真理の光に導く力強い灯台としてあり続けてくださいますようお祈りいたします。 (N. Y.)

 3-b 愛し子をしっかりと胸に抱いて歩む (返信)  (2004.11.12)

 メールを有難うございました。シルバー・バーチの霊訓からいろいろと深く学ばれているあなたの真摯な姿勢に敬服させられています。

 私の場合は、五十代が過ぎても、まだ無知と無明の闇に沈んでいました。いのちの真実についても天の摂理についても、何もわからず、不幸のどん底に突き落とされたという思いだけで、長い年月を悲嘆のうちに過ごしてしまいました。

 いまでは、なぜあれほど苦しまなくてはならなかったのだろう、としみじみと思い返すことがあります。私は人一倍頑迷でしたから、そのために、立ち直るのにも人一倍、多くの年月が必要だったのでしょう。それも自分の蒔いた種は必ず自分で刈り取るということで、天の摂理といえるのかもしれません。

 シルバー・バーチが繰り返し繰り返し言っていることがありますね。悲しみ、苦しみ、病気、不幸等は人間にとって教訓を学ぶための大切な手段だということです。そして、悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものこそが大いなる価値がある、ということです。

 平穏・無事だけを願望する世間の常識とはまったく相容れない言い方ですが、シルバー・バーチのような叡智にあふれた偉大な魂のことばに誇張や偽りがあるはずはありません。私は、悲しみの極みにある人は、実は、もっとも大きな愛と祝福の手を差しのべられている人のことではないかと、いまは素直に思えるようになりました。

 メールを拝見していて、あなたをさらに力づけられるような返事を書くには、私はまだまだ未熟であることを感じさせられています。逆に、あなたの真実に目覚めた力強い生き方に教えられ励まされている思いです。

 シルバー・バーチの教えに触れている経験を共有していることに思いを馳せながら、いまはただ、あなたが愛しいお子さんをしっかりと胸に抱かれて、明るく輝く光への道を、一歩一歩、着実に歩み続けて行かれますように、こころからお祈りしています。

      武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.169-173)