50. (33 心の支えとなっている『天国からの手紙』)

 33-a  心の支えとなっている『天国からの手紙』 (来信)   (2011.12.21)

 先生の本を読ませて頂きました。
 実は、私の二男が今夏、海の事故で亡くなりました。あまりにも突然の出来事に、先生の様に現実を受け入れることが出来ず、毎日写真を見ながらただただ涙する毎日を送っております。何をするにも、何処へ行くにも二男の事が頭から離れず、何をする気にもなれず、今は、 夢も希望も持てません。いっそ、二男の所へ行きたいとさえも考える事があります。
 ある日書店で先生の本を見つけました。今は、先生の本が私の支えとなり、何度も読み返しながら、「人は死なない。死ぬ事が出来ない」と言う言葉を信じ過ごしております。 霊界で私の二男も勉強をし、好きな野球をきっとしているはずと思います。
 ただ、私には霊的能力もなく有能な霊能者も知りません。先生の様に霊界にいる子供と霊界通信が したいのです。どんな生活をしているのか? 我々家族の思いは通じているのか? 是非霊界通信をしたいのです。
 お願いします。子供とやりとりの出来る霊能者の方を教えて頂く事は出来ないのでしょうか。先生、どうか、どうか宜しくお願いいたします。 K. S.


  33-b 真実の言葉によって涙が拭い去られることを (返信)    (2011.12.21)

 メールを繰り返し読ませていただきました。悲痛な叫び声が私にも聞こえてくるような気がしました。大切なお子さんを突然の事故で亡くされて、どんなに悲しく辛いことか、私にはよくわかります。お気持ち、こころから深くお察しもうしあげております。
 まず、ここでは、私自身のことを少し語らせてください。
 私が妻と子を事件で亡くしたのは一九八三年のことですが、その当時は、私は死がなんであるか、人は死んだらどうなるのか、霊界はあるのかないのかなど、何一つわかっていませんでした。まして、霊界の妻や子の消息を知ることができるようになるなどとは、想像することさえできませんでした。
 私は苦しみのあまり、仏典や聖書を読みながら、何年もの間、何十回にもわたって、何十人もの霊能者といわれる人たちにも会ってきましたが、悲しみから抜け出すことはできませんでした。『天国からの手紙』にも書きましたように、私が長い年月の苦しみからはじめて解放されたのは、ロンドンでアン・ターナーに会った一九九二年の春からです。事件から九年も経っていました。
 一般的には、大学教授のような人間は、大学教授であるがゆえに霊的真理からは遠いのが普通で、私の場合も、霊的無知から抜け出すのにそれほどの時間がかかったということかもしれません。
 自分自身が無明の闇のなかで呻吟していたばかりでなく、霊界の妻や子にも随分長い間、心配をかけてしまって、今の私には、かつてのこの救い難い無知の恐ろしさが身に染みて思い出されます。
 しかし、いまはよくわかるのですが、私の、この九年間の救いのない時間は無駄ではありませんでした。私のような者には、それだけの苦しみと迷いと、そして学びの時間が必要だったのです。
 このようなことを書いているのは、だから、苦しみから抜け出すには何年もかかると言うためではありません。
 真剣に捜し求めれば、いまではかつてないほどに、はるかに容易に霊的真理に接することができます。私のように長い間苦しまなくても、確かな救いへの道を見出すことは、強い意志さえあれば、誰にでも可能です。
 ただ、苦しみのあまり、できるだけ早く楽になりたい、そのための近道を見つけたい、もし特効薬のような特別の手段があるとすれば、なんとしてでもそれを手に入れたいというふうに考える人が仮にあるとすれば、それは間違いです。
 霊的真理への近道はなく、特別の手段もありません。あくまでも自分の努力で闇から光へ向かって這い上がっていく責任があるだけです。そして、あなたのお子さんは、おそらく、本当は「偶然に」事故にあったのではなく、あなたが「光へ向かっていく」ことをお教えするために、尊い先導の行為を実践されました。
 何よりもまず、そのことをどうぞご理解ください。いのちの真理を知って必ずその真実を納得できるようになってください。
 このホームページの「メール交歓」に収められている数多くのメールは、大半が愛するお子さんを亡くされたような方々との間で交わされたものです。あなたからのご質問に対するお答えは、そのなかにもいろいろな形で見出されるはずですし、また、「学びの栞」のなかの数多くの教えからも、お知りになりたいことを学び取ることができます。
 悲しみに耐えがたい思いをされる時には、どうか、それらの真実のことばによって、少しでも涙を拭いさることができればと、こころからお祈りしています。

  武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.308-312)



 51. (34 道標になった『天国からの手紙』)

 34-a  道標になった『天国からの手紙』 (来信)    (2012.01.30)

 はじめまして、T. Y.と申します。 三十八歳で普通のサラリーマンをしています。『天国からの手紙』を偶然知り、藁にもすがる思いで読ませていただきました。今の自分にはとても道標となる内容でありました。ありがとうございました。
 昨年八月、八歳の娘をくも膜下出血で亡くしました。突然のことであり、単身赴任中の出来事で、五か月経つ今も、まだまったく元気がない状態で日々過ごしていました。残された家族の全員に、夢にすら娘は出てこないものですから、人間の死=完全に消滅なのか、そうでないのか、そんなことをずっと考え、悩んでいる間に、本書に出会ったのです。
 江原さんのスピリチュアルの本には以前興味を持ったことがあり、何冊か読んだことがありました。半信半疑でした。娘の葬儀で、自身が浄土真宗本願寺派の家系であることも、初めて知りました。親鸞や、浄土真宗に関して、少しいろんな本を読みましたが、基本的には、霊魂の存在は否定していました。何が本当なのか、それが知りたく、悩みすぎていた気がします。
  救われるのには私も近道はないと思っています。自身の生き方を見つめなおし、違う世界に娘は必ずいる、そう思ってまずは元気になっていこうと思います。それが、真実なのかそうでないのか、この目で確かめたい、という気持ちはありますが、確かめなければ動けないというのは、少し違う気もします。
 自分が生まれた意味、起こる出来事の意味を、肯定的に捉えて、今後起こることであろうことに対して、やはりそうか、と思えるような心を持てるよう、なんとかやっていこうと思います。この本がなければ、ずっと悩み続けていたと思います。ありがとうございました。


 34-b  熱意さえあれば誰でも掴める命の真実 (返信)     (2012.01.30)

 まだ八歳の大切なお嬢さんを亡くすということが、どんなに悲しく辛いことかとお察し申しあげております。ただ、『天国からの手紙』を読んでくださったとお伺いして、私もいくらか救われるような気がしました。
 大切なお子さんを亡くすことが、決して取り返しのつかない不幸であるならば、本当にそれがそうならば、どんな慰めのことばも、悲しみの同情も、おそらく何の意味もありません。わが子が自分の許に帰ってこない以上、まわりからのどんな慰めのことばも、ただ空しく響くだけでしょう。私は、自分でそういう経験をしてきましたから、そのことがよくわかります。
 それだけに、亡くなったと思い込んでいる愛する家族が、実は生き続けているということがわかったら、本当に救われます。人は一八〇度変わっていくに違いありません。ですから、何よりも大切なことは、いのちの真実を知ることだと思います。もちろん、悲しみにつけこまれて嘘や便法に乗せられてしまうのは論外です。迷信や新興宗教にのめりこんで一時的な癒しの幻想に耽るだけでは決して悲しみの解消にはならないでしょう。大切なのは真実で、いのちの真実だけが救いです。私は、そのことを繰り返し『天国からの手紙』に書いてきました。
 ただ、いのちの真実を知ることは、簡単ではないかもしれません。簡単にということであれば真実を知ることはできません。その真実をひたすらに求め続けて、そして必ずそれを掴み取ることに意味があります。そしてそれは、滝に打たれたり、難行苦行をしたりしなくても、素直さと熱意があれば誰にでもできます。私のこのホームページだけでも、「学びの栞」などに、いろいろな霊的先駆者による真理のことばがふんだんに散りばめられていますが、それらを学び取っていけばよいのです。もし、それらのことばが信じられなければ、逆に、徹底的に疑ってかかることも、回り道にはなりますが、真理に至る道につながるかもしれません。
 例えば、霊界通信にしても、死んで無になってしまうのであれば、霊界通信などができるわけがありません。死んでも生きているからこその霊界通信です。その例も、私はこのホームページに、私自身の場合を含めて、多くの実例を紹介してきました。いまも、日本心霊研究の草分けといわれる浅野和三郎先生の『新樹の通信』を載せています。もしこんなものは信じられないという人がおれば、「そんな馬鹿なことが」と一笑に付してしまうのではなく、徹底的に疑ってかかってほしいのです。疑いながら、決して途中で放棄することなく、最後の最後まで、真実かどうかを調べてほしいのです。そのうちに、必ずわかってくるはずです。
 お子さんを失うことが、どれほど辛いことか、悲しいことか、私にはよくわかります。悲嘆にくれながらとめどなく涙を流すのも、親の情としては当たり前で、少しも不自然ではありません。泣きたい時には思い切り泣かれればいいと思います。しかし、いま目の前にわが子がいないということが、どういうことか、何もわからずに何時までも悲しむことがあるとすれば、あえて申しあげますが、それは間違いです。それでは悲しみが決して薄らぐことはありません。やはり、いのちの真実を知ることによってしか、救われることはないのです。
 あなたは、メールのなかで、「近道はないと思っています」と書いてくださいました。また、「自分が生まれた意味、起こる出来事の意味を、肯定的に捉えて、今後起こるであろうことに対して、やはりそうか、と思えるような心を持てるよう、なんとかやっていこうと思います」とも書かれていますが、これはとても大事なことだと思います。どうか、時間がかかっても、大切なお子さんの死が、決して絶望ではなく、希望の光が消えてしまったわけでもないことを、掴みとっていってください。どうか、必ずそうしてください。今後のご研鑽をこころからお祈り申しあげております。

  武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.312-316)



 52 (35 何度もこのホームページを開いて学ぶ)

 35-a 何度もこのホームページを開いて学ぶ (来信)  (2012.02.01)

 武本先生。有難うございます。日に何度も何度もホームページを開かせていただいています。 先生のページに出会って心に少しずつ光が射してきました。
 私も辛い経験をして、もうだめかもと思ったこともありましたが、同じこの悲しみを誰にも、もう味わって欲しくない思いで、今は頑張っています。
 先生の文章はとっても格調高く、それを誰にでも与えていただけることを有り難く感謝しています。
 今日もまたお元気で発信してくださり、嬉しいです。どうぞ、寒い折、御身体お大事にお過ごしください。
 (M. I.)


 35-b  光への道を共に歩んでいくために (返信)  (2012.02.01)

 メールを有難うございました。短い文面ですが、その奥に秘められた深いお悲しみがじわじわと伝わってくるような気がします。
 時折、痛切に考えますが、人間には壮大な思い違いをすることがあります。自分の愛する家族が生きているのに死んでしまったと、勘違いするのです。しかし、それが勘違いであることを知っていただくのは容易なことではありません。圧倒的な世間の無知の中で、いくら、そうではないと言っても、それに耳を傾けてくれる人は決して多くはないのです。
 自分の愛する家族が、死んだのではなくて生きているとすれば、それは大問題です。自分のいのちを賭けても、それが間違いなく本当なのか、事実に相違ないか、を問い質していこうとするのが普通ではないでしょうか。それを、世間ではありえないことと決めつけて、安易に探究を放棄してしまうことがあるとすればとても残念なことです。シルバー・バーチのいうように、それはまだ、真理を受け止める段階にまで来ていないからで、受け止める用意ができるのを待つほかはありません。
 あなたの短いメールを拝見しながら、私もこころが和みます。毎日、このホームページを見てくださっているそうですが、私もまた、あなたのような方々に、支えられて生きていることを知ってください。私は、一部の人からは、妻も子も亡くしてお気の毒にと思われることが今でもあるようです。しかし、私は、妻と子が生きていることを信じている、というよりよく知っていますから、一人暮らしをしていても、そんなに寂しくはありません。どんな場合にも決して気落ちすることなく、明るく、元気に、光への道を共に歩んでいくことにしたいと思います。

   武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.316-318)



 53 (36 夫が生き続けていることを実感するために)

 36-a 夫が生き続けていることを実感するために (来信)   (2012.02.15)

 初めまして。先生のご本を読ませていただきました。肉親を失った方の体験談ですのでとても心に響きました。そして癒されました。
 私も最愛の夫を「突然死」で失い、当時の先生と同じく死の一歩手前まで行きました。その後、様々な書籍を貪るように読み「魂の世界は存在する」こと、「自殺しても彼に会えるわけではない」こと、「肉体がないだけで彼は存在する」ことなど知識としては理解いたしました。
 「見えない世界は存在する」と願っている、だけどそれは願いであって確信ではないから不安でたまらない。彼の存在を確かめたい一心で様々な霊能者に見ていただきましたが、どの方も「彼だ」と信じるには及ばずに至っております。
 日本は欧米に比べて「スピリチュアリズム」では遅れているというのは残念ながら本当のようですね。抽象的な事柄はもう十分聞いた。大切な人を失って生きていく気力もなくした自分の生きていく糧として、私は「彼」を感じたいのです。
 先生、自分の霊能力を高めるにはどのような方法がいいと思われますか? どうぞお教えください。乱文にて失礼いたします。 (T.S)


 36-b 永遠のいのちの真実を学び続ける (返信)    (2012.02.15)

 メールを拝見しました。霊界が存在することについての知識はあっても、それは確信ではないから、「不安でたまらない」というお気持ちはよくわかります。おそらく、一番正しいお答えは、その知識が確信になるまで、学び続け、さらに知識を深めていくことかもしれません。
 「突然死」で亡くなられたご主人が、今も生き続けていることを確かめたい一心で、様々な霊能者に会われたとも書かれていますが、まだ信じられないでおられる状況も、通常はそのようなことが多く、私には理解できます。私の場合も、数年に亘って、数十人の霊能者に会っても、まだよく信じられない状態が続いていました。
 私は、はじめのうちは、あなたほどの知識さえ持つことなく、闇の中で呻吟していましたので、いま考えても、真理を受け止めるこころの準備ができていませんでした。『天国からの手紙』にも書きましたように、私が妻や子の生存をなんの迷いもなく確信するようになるまでは、九年の歳月が流れています。私にとっては、おそらく、それだけの歳月が必要であったのでしょう。
 いま、このホームページで連載している『新樹の通信』の場合は、お父様の浅野和三郎先生が心霊研究の第一人者で、しかも、お母様の多慶夫人は、勝れた霊能者でした。若くして急逝された新樹氏もご両親同様、霊的真理については、十分に受け止める用意ができていましたから、霊界通信には考えうる最高の環境が整えられていたということになります。ですから、『新樹の通信』は、新樹氏の死の直後から始められています。しかも、その通信内容は正確そのもので、ご両親は新樹氏の霊界での生存を当然のこととして、はじめから確信されていました。
 私には、霊能力はありません。しかし、霊能力がなければ霊的知識を持つことが難しいとは考えていませんから、特に霊能力を身につけたいと試みたことはありません。ただ、本来、人間には誰にも霊能力は備わっているはずで、その霊能力を高めることには霊格を向上させていくという意味では、大きな意義があると思っています。そのような目標を掲げて、霊能力を高めるためのセミナーを開いているところは日本でもいろいろとあります。このホームページでも紹介したことがありますし、坂本政道さんが『死後体験』で紹介されているように、死者との再会を目指して、アメリカのモンロー研究所まで出かける日本人も珍しくはないようです。
 たまたま、コナン・ドイルの『人類へのスーパーメッセージ』(講談社、1994)を読み返していましたら、「最も重要なことは、霊とコミュニケーションをはかろうとする人の精神の質と思いの純粋さです。もし、人が愛と奉仕の霊的な世界に心をつないでいれば、完全に知的なコミュニケーションが実現するでしょう。しかし、人の心がぼんやりとしたもので、霊的な理解を欠いている場合には、なんらかの問題が生じてくることになります」とありました。このあと、霊媒の資質や能力についても、つぎのように述べています。

 《完全に明確で確固としたメッセージを送ることができるのは比較的まれなのです。というのは、霊媒の頭脳にはなんらかの残り滓があり、私たちはそれを通り抜けていかなければならないからです・・・・霊媒は心のバランスをとり、正気を保ち、健全で、真実を語らなければなりません。》 (131ページ)

 私にもまだ、霊的真理については、いろいろと学ばねばならないことが沢山あります。知識が深まっていけば、確信も深まっていくことになるはずですが、どうか、お悲しみのなかでも、あるいは、お悲しみのなかだからこそ、最愛のご主人があなたから遠く離れたところへ去ってしまわれたのではなく、いまもあなたのすぐ近くで、生き続けておられる事実を、繰り返し学んでいかれますよう、お祈り申しあげております。

  武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.318-322)



 54. (おわりに)

 おわりに

 私たちが、例えば、百メートル競走に参加することを考えてみましょう。
 みんな、スタートから全力をあげて走ります。スタートでちょっとつまずいたり、途中で転んだりしたら大変で、もうそれだけで、その人は敗者になってしまいます。
 また、うまくスタートをきることができた場合でも、百メートルで勝負は決まるわけですから、途中のちょっとした気のゆるみも許されません。
 競走相手から一センチでも先に出るように、一秒でも早く着くように、無我夢中で走り続けます。そして、百メートルのゴールでは、一着になったり、二着になったり、あるいは、ビリになったりして、喜んだり、残念がったり、悔しがったりします。
 けれども、もしこれが、実は百メートル競走ではなくて、マラソンであったとすれば、どうなるでしょうか。
 百メートルのつもりで、マラソンを走るのは滑稽です。マラソンの距離は四十二キロもありますから、マラソンで、スタートから全力で走る人はいません。そんなことをすれば最初は一番になっても結局は落後するだけです。
 これに対して、初めから四十二キロを走ることがわかっていたら、スタートで出足がちょっと遅れても、ちょっとつまずいたりしても、あまり気にすることはないでしょう。そんなことはすぐ取り戻せることなのです。他の人々を押しのけてでも前へ出ようとはしないはずです。そんなことをしても勝てるわけではなく、何の意味もないことがわかりきっているからです。
 人間のいのちが、たかだか百年くらいで終わると思いこんでいる人は、あるいは、このマラソンを百メートル競走と勘違いして走っているような人といえるかもしれません。
 百メートルを全力で疾走し、力を出し切ってゴールに飛び込んで息を切らしていたら、そこへ審判員がやって来ます。そして、「あなたが走るのは、百メートルではなくて、四十二キロですよ」と告げられるとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。
 びっくりして、そんなことも知らずに無我夢中で走ってきたことを後悔することになりかねません。なぜもっと早く気が付かなかったのかと地団太踏むでしょう。―― 実は、それが、かつての私自身の姿でもありました。
 地位だとか名誉だとか財産だとか出世だとか、もろもろの欲望が渦巻く世の中で、ただ、人に負けないように、ひたすらに百メートルを走っていたように思います。哀れで滑稽でさえありました。
 そして、その熾烈な勝ち抜き競走のなかでいつのまにか家族の姿さえ見失い、ある日突然、レースそのものに、壮大な勘違いをしていることに気づかされることになるのです。
 目の前の道が四十二キロどころか、どこまでも永遠に続いていることを知って、へたへたと座り込んでしまいます。
 自分の無知を深く反省させられることになりますが、しかし勘違いに気が付いて立ち直ってみると、そのあとに来るのは深い安らぎでしょう。ふ―と肩の力が抜けたような大きな安堵感です。すべてに感謝して穏やかな心になっていきます。この本でも私は、そのような気持ちを皆さんと共有できればと思って書いてきました。
 私たちは一人の例外もなく、永遠の生命を生き続けています。束の間のこの世の一生を終えても、輪廻転生を繰り返しながら、少しずつ霊性を高めて光に近づいていきます。悲しみや苦しみは、みんなその歩みのために与えられる必要な教材です。
 そのような霊的真理についても、この本では「メール交歓」での質疑応答を通じて、改めて取り上げてきました。霊界通信の様々な実例も、『天国からの手紙』に引き続き、書き足してきました。
  本書で述べてきたこれらのことが、皆さんの生と死の意味をお考えになる上で、そして、悲しみや苦しみを乗り越え本当のこころの安らぎや幸せをつかみ取っていただく上で、少しでもお役に立つことが出来れば、私としても大変有り難いことだと思っています。(未完)

    武本昌三『天国の家族との対話』 ―生き続けているいのちの確かな証し(pp.323-325)