「日本国憲法九条」 を守っていくために (身辺雑記 62)
日本国憲法の第九条は、「戦争の放棄」をつぎのように謳っています。
@日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
A前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。
第二次世界大戦では、アジアやヨーロッパで、五千万を越える人命が奪われましたが、それには、1937年の日中戦争以来、侵略戦争をし続けた日本も大きな責任を負っています。そして、その日本も、米軍の空襲で主要な都市はことごとく焦土と化し、ヒロシマ・ナガサキの原爆による犠牲者を含めて、死者も三百万を数えました。だからこそ戦後生き残った日本人は、この惨禍をもたらしたことに対する痛切な反省のもとに、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定して、「国際平和を誠実に希求する」ことを世界に向かって宣言したのです。
しかし、敗戦の体験から半世紀が経過しますと、その九条を中心に、日本国憲法を「改正」しようとする動きが、かつてない強さで、広がりをみせはじめるようになりました。近隣諸国からの侵略からの防衛や抑止のために、また、海外に派兵して国際貢献もできるようにするために、軍隊の保持も明記して疑いなく合憲にしようというのがその主張です。
そのような動きに危機感をもった、井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、鶴見俊輔等の諸氏が、2004年6月10日に発足させたのが、日本国憲法を守るための「九条の会」です。同日に発表された「九条の会アピール」では、日本国憲法「改正」への動きを、つぎのように告発しています。
・・・・・その意図は、日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。そのために、集団的自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束を事実上破ってきています。また、非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています。そして子どもたちを「戦争をする国」を担う者にするために、教育基本法をも変えようとしています。これは日本国憲法が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国の在り方を根本的に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。私たちは、この転換を許すことはできません。
このアピールは、さらに、こう続けられています。
アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。
一九九〇年代以降の地域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。
二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が歓迎しない自衛隊の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかありません・・・・・。
このアピールには、全国津々浦々から共感と支持が寄せられ、「九条の会」結成の動きが各地の市町村にまで広がっていきました。毎年の世論調査でも、特にこのアピールが出された2004年頃からは、「憲法改正」に対する賛成意見が減少傾向を見せ始め、昨年(2008年)4月に「読売」が行なった調査では、わずかながら改憲反対(43.1パーセント)が賛成(42.5パーセント)を上回ってきたようです。
「日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、『改憲』のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます」という「九条の会」アピールを、2009年の年のはじめにあたって、私たちもあらためて、肝に銘じておきたいものと考えます。
(2009.01.01)
引き継がれていく「わだつみのこえ」 (身辺雑記 61)
「わだつみ平和文庫」(中村
徳郎・克郎記念館)エントランス
(2008.10.25 筆者撮影)
日本戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』が1949年の秋に岩波文庫から刊行された時には、二十数万部のベスト・セラーとなって、当時の多くの人々に深い感動を与え続けました。その後、この本は、東京大学出版会や光文社からも、形を変え、続編として出版され、映画にもなりました。1997年の秋には、新版
『きけ わだつみのこえ』 が、同じく、岩波文庫として出版されています。
この『きけ わだつみのこえ』の出版に当初から関わってきたのが、甲州市の塩山で、産婦人科医として地域の医療に貢献してきた中村克郎氏です。この中村克郎氏の強い意志と献身的な努力がなければ、おそらく、累計百数十万部といわれる
『きけ わだつみのこえ』 も、世に出ることはなかったでしょう。中村克郎氏は、岩波文庫の旧版「あとがき」のなかで、本書が刊行されるまでのいきさつを詳しく書いていますが、そのなかに、小田切秀雄氏の次のようなことばを引用している箇所があります。
《……本書について語りたいことは尽きない。ここにおさめられたどの一つをとっても、そこには、日本軍隊とその侵略戦争という『死の家』に投げこまれて、やりばのない苦悩で傷ついている若い魂とその破壊された生活とがなまなましく裸身をさらしている。強い個性はデスペレートになり、しっかりとめざめた理性は「一切が納得が行かず肯定が出来ない」(中村徳郎)と言い切ったが、多くの者にとってその苦悩はただちに諦めへしいて自ら片付けてしまう以外にどうしようともないようなものにほかならなかった。》
この、「一切が納得が行かず肯定が出来ない」と書いた中村徳郎氏が、実は、中村克郎氏の実兄です。それは、昭和19年6月20日午前8時、「父上母上様、弟へ、門司にて、徳郎」と書かれた徳郎氏の最後の手紙のなかのことばでした。手紙の全文は本に掲載されていますが、そのことばの前後は、つぎのようになっています。
《・・・・・今の自分は心中必ずしも落ち着きを得ません。一切が納得が行かず肯定が出来ないからです。いやしくも一個の、しかもある人格を持った「人間」が、その意志も行為も無視されて、尊重されることなく、ある一個のわけもわからない他人の一寸した脳細胞の気まぐれな働きの函数となって左右されることほど無意味なことがあるでしょうか。自分はどんな所へ行っても将棋の駒のようにはなりたくはないと思います。》
(新版、250ページ)
旧制の第一高等学校を卒業して東京帝国大学へ入学したその日に兵役に服すことになった徳郎氏は、「一切が納得できない」この戦争に駆り出されることが、どれほど不本意なことであったことでしょう。知り合いの東大地理学科の辻村教授が心配して、徳郎氏を、戦車部隊の所属であったのを、死ぬ確率からいえば比較的安全な陸軍の気象班に移そうとしますが、しかし、徳郎氏は、「不正をしてまで自分の命を保とうとは思わない」と、辻村教授の斡旋を断ります。そして、この最後の手紙のあとは、しばらく音信不通が続いて、ご両親のもとへは、「昭和19年10月21日、比島(フィリピン)レイテ島において戦死せらる」の紙切れ一枚だけが入った骨壷が届けられたのです。お父上は、涙を流しながら、「徳郎のことだ、いつか帰ってくる」と言い続けて、葬式なんかしたら死んだのを認めることになってしまうからと、とうとうお葬式もしないままであったそうです。
弟の克郎氏は、七つ違いのこの兄・徳郎氏を深く慕っていました。その弟に、徳郎氏は、兵隊になってからも、「いま軍服を着て肩で風切っているやつらは、いまにきっと背広を着て肩身の狭い思いをして歩かなくちゃならない時代が来る。日本は敗ける。しかし自分はそれを見ることはないだろう」などと言っていたようです。克郎氏が兄の徳郎氏に会ったのは、1944年の6月7日、習志野の部隊での面会が最後になりましたが、その時に、そばに立会いの兵隊がいないときを見計らって、徳郎氏が上着の下から一冊のノートを取り出します。徳郎氏はそれを、「日本戦没学生の手記だ」と言って克郎氏に手渡しました。それが、徳郎氏が兵営内でこっそり書きつけていた手記で、後の、『きけ わだつみのこえ』の源流となったノートです。
敗戦後、克郎氏は東京大学を出て産婦人科医になりますが、兄の遺志を受け継ぎ、『きけ わだつみのこえ』の出版に携わったほか、核兵器廃絶や平和運動に率先して関わるようになりました。前述の『きけ わだつみのこえ』の旧版「あとがき」で、克郎氏は、こうも述べています。
《個人であれ、国家であれ、武器によって古来平和がたもたれたためしがあるか。癌と軍隊は似ていて、癌は人間の個体をほろぼし、軍隊は人類をほろぼす。これは真理である。不信は不信をよびおこし、暴力は暴力を生み、怨みは怨みを買い、核兵器を含めて一切の軍備は相手を制圧しようとしてお互いにとどまることを知らない・・・・・不信や憎しみをなくさなければならない。一切の軍備は廃止されなければならない。そうしなければ、滴るような死でなく、絞るような死を死んでいった死者たちの霊は浮かばれまい。それが生き残った者たちの、あまりにも当然すぎるほど当然なつとめではないか。》
しかし、これを書いた克郎氏も、1970年から1993年までの23年間、すでに全国的な平和運動の組織になっていた「わだつみ会」の理事長をつとめたあと、1999年に交通事故で倒れ、83歳になったいまは重い病床にあります。その克郎氏の「戦争の否定と軍備の廃絶」の志をさらに引き継いでいるのが、ご息女のはるね氏です。はるね氏もまた、お父上と同じく産婦人科医になりました。銀座の「はるねクリニック」の院長として著名ですが、忙しい医療活動の合間に、多くのボランティアの方々とともに3年を費やし、甲州市塩山の中村医院を改装して「わだつみ平和文庫」(中村徳郎・克郎記念館)開設のために心血を注いできました。
先日、10月25日に、その「わだつみ平和文庫」の開館記念の式典とコンサートが甲州市の塩山で、数百人の人びとが集まって盛大に行なわれました。中村医院の建物は、いまでは10万冊を収容する「わだつみ平和文庫」となって、わだつみ資料室、戦争と平和を考える部屋、天皇に関する部屋、こどもと平和を語る部屋などに分けられ、一般に公開されています。この平和文庫の開館にあたって、中村はるね氏は、『はるかなる
わだつみ』 と題する開館記念ブックレットやパンフレットを編集していますが、そのなかで、氏は、次のように書いて支援を訴えています。
《1944年6月7日、伯父中村徳郎が弟克郎に託した一冊のノート「日本戦没学生の手記」は、1949年『遥かなる山河に』から『きけ
わだつみのこえ』となって海神の彼方より聞こえております。学業半ばにして無念にも戦禍で亡くなられた10万人以上の学生さん、いまだに世界中で戦渦に命を落とされている方々の冥福を祈り、父や伯父の集めた本や資料・その軌跡を展示致しました。父が産婦人科医師をしながら原稿を書き続けた場所が、今「わだつみ文庫」となってあらゆるジャンルの本一冊一冊に命を蘇らせています。
10万冊の図書の整理の大変さは世界平和を願う大変さでもありました。ドアをいっぱいに開いて学生さんはもちろん、お子様からお年寄りまでお待ちしております。
平和を願う皆様のお力でこの「わだつみ平和文庫」を育ててください。》
*****
わだつみ平和文庫(中村徳郎・克郎記念館)
〒404-0042 山梨県甲州市塩山上於曾1085
電話:0553-32-4525
E-mail:
wadatsumi_peace@yahoo.co.jp
開館時間: 午前10時〜午後4時
定休日: 毎月第1-3-5の土・日曜日
祝日の翌日・年末年始
その月の最後の日
(2008.11.01)
二十五年の歳月 (身辺雑記 60)
稚内・宗谷岬高台に立つ「祈りの塔」
左側に犠牲者269名の氏名、右側に「碑文」
が刻み込まれている。少し離れて左端に
「事件概要」を和文と英文で刻んだ石碑が
ある。 筆者撮影 (2003年9月)
世界史の転換点ともいわれてきた大韓航空機事件が発生して一年後、私は『妻と子の生きた証に』と題する追悼の書を出版したが、その本の「あとがき」を、つぎのように書き始めている。
《一九八三年九月一日午前三時二十六分、ソ連戦闘機のミサイルによって、富子と潔典はKAL〇〇七便の機体とともにサハリン沖モネロン島附近の海上に落ちていったらしい。今もなお、昨年八月五日の早朝、アメリカへ向かった時のままの東京の家の部屋に姿をあらわさないところをみると、どうも、そのことは事実のようである。
しかし、撃墜されてしまったためにこの二人がもう私のもとに帰ってくることはないというのは、いったいどういうことなのか。過去一年余の間、私は毎朝、目を覚ます度毎にこの問いを突きつけられながら、それに答えるのを、ひたすらに避けようとしてきた。そのために、目を覚ますのさえ恐れて、つい眠ってばかりいるようにもなった。私は今もその「事実」を真正面から全身で受けとめる気力はない。現実とは遊離した架空の世界を自ら作りあげ、その中に逃げこむことによって、辛うじて生きながらえてきたのである。》
これは、いま思い返してみても、苦しく、悲しい体験であった。私は、このまま眠り続けて目が覚めなければ、少しは楽になれるかもしれないのに、と思ったりしたぐらいである。しかし、妻と長男のために、追悼の本だけは、どうしても書かねばならなかった。私は、この「あとがき」を次のように続けている。
《そういう不安定な精神状態の中で、この本は「事実」を前提として作られていった。私にとってはほとんど耐えられぬ辛さで、これからも逃げ出したかったのだが、何しろ潔典は、今年の四月から、彼の好きであった東京外国語大学の四年生である。来年の春には卒業で、友人達とも離ればなれになってしまうから、作るのなら、そうなってからでは遅い。こういう時に本一冊作れず、架空の世界に身をおいたままでは、何が夫の甲斐性か、何が父親の愛情かというような声も頭の中をかすめたりする。私はもうこれ以上、富子と潔典に対して「罪」を重ねることは出来ないというような切羽詰った気持で、のろのろと作業を進めてきた。
あの時、ローリー・ダーラムの空港で見送った富子が、好きな本を読みながらくつろげるわが家にいまだに帰ることができないでいるのは、夫としての私の責任である。まわりの誰からも好かれながら有望な言語学者として育っていくはずのあの潔典を夷狄の手で散らせてしまったのは、父親としての私の無能である。それはどう考えても取り返しのつかない私の一生の不覚であった。私は、夫として父親として、その責任遂行能力を富子と潔典から信頼されてきたと思うが故に、自分のこの不覚を許すことができない。このような「事実」をもたらせたすべての者を私は決して許さないが、それと同時に、私は自分自身をも決して許すことができないのである。
「人間の命は全地球よりも重い」というようなことばは、おのれのためだけにとっておいて、国家とか軍とか防衛とかのしらじらしい名のもとに、他人の二百や三百のいのちなど、塵あくたのようにしか考えない不逞の輩が、ソ連にもアメリカにもいるということを、そしてKALのような粗暴な飛行機にはまかり間違っても乗せてはならないということを、私は何故今頃になってはじめてわかったように後悔していなければならないのか。「生きる」ということは、愛するもののいのちを守ることであり、「かくされた悪を注意深くこばむ」ことでもあったはずではなかったか。そのような思いが胸を去来する中でのこの本の編集は、私にとっては苦しくつらい一つの贖罪の行為であった。》
私は、悲嘆のどん底から這い上がれぬままに、ほとんどうめきながらこの本をまとめていった。富子と潔典の友人、知人、恩師などから、多くの追悼文が寄せられ、旧知の谷川俊太郎氏からも富子と潔典のための追悼の詩が届いた。私は、事件の翌年、一九八四年の末には、なんとか三五〇ページあまりの本をまとめあげていた。しかし、それで深く傷ついたこころが休まったわけでは決してない。続けて私は書いた。
《今この本をまとめ終え世に残すに当って、私の全身を突き抜けていくのは、すさまじいばかりの空しさである。いったい何がはじまり、何が終ったというのか。私の命にもかえがたいもの、私にとってのすべてが失われたあとでは、何ごとのはじまりもなく、終りもない。あるのは依然として広漠とした「無」の世界のひろがりだけである。私はこれからもまた、現実と架空の世界の中を行ったり来たりさまよいながら、惜しくもない余命を惰性的につないでいくことになるのであろうか・・・・・》
こう書いてきて、このあとで私は、いま自分で考えてもちょっと思いがけないようなことをつけくわえている。次のようにである。
《しかしそのような私に、富子と潔典が語りかける声がかすかに聞こえてくるような気がする。無明の闇の中にいる私には、まだその声は、はっきりとは聞きとれないが、五濁悪世のしがらみから少しでも抜け出て、私たちが異なった世界に生きはじめていることの意味を理解するように、教えてくれようとしているのかもしれない。それは次元を越え時をも超越した永遠の生命と真理のための語りかけでもあるのであろうか。これからの私は、少しずつ、そのような富子と潔典からの声をきちんと受けとめていくことができるよう「対話」のための勉強をしていかねばならないであろう。
それも私にとっては、おそらくもう一つの贖罪の行為であり、この世になお生き続けていくためには避けられない、ほとんど唯一の可能性の摸索でもあると考えている・・・・・》
当時の私は、霊魂とか死後の世界などという「非科学的な」事象については、少なくとも外面的には、まったく受けつけていないはずであった。霊的なことなどは口にすべきでないという浅はかな「大学教授の矜持」に惑わされてもいた。しかし、その私が、ここではこのようなことを書き始めている。
実は、この「あとがき」を書く少し前に、ふと思いついて、富子の友人のA女史を訪ねたことがあった。彼女は、札幌の北区でいまも運命鑑定などをしているすぐれた霊能者である。富子は、「私は運命鑑定など信用しないわよ」などと言ったりしながらも、時折彼女と会っては気のおけない話し合いを楽しんでいた。私が富子を車で彼女の家の前まで送っていったこともあるが、私自身はA女史とは初対面であった。私はそのときのことを、この追悼の書の翌年に出版した『疑惑の航跡』(潮出版社、1985、312-313頁)のなかで、こう触れている。
《「もうそろそろ、お見えになる頃だと思っていました」
と、私の顔を見るなりいきなり彼女は言った。
その時の私は、「溺れる者は藁をもつかむ」心境であったかもしれない。何でもいいから、こころの支えが必要であった。
A女史はそういう私の状況もわかっていたらしい。
ぽつりぽつりと語る私のことばに耳を傾けたあと、
「まだこれから三年は苦しまれるでしょうね」
と、私に同情を示した。
彼女は事件のあと、富子と潔典のために二週間の供養をしてくれたのだという。そして、霊界の富子とも潔典とも話をしたということもつけ加えた。
このことは私を驚かせた。
彼女は静かに語りだした。
「霊感を感じましてね、精神を統一していると清らかな雰囲気に包まれて潔典さんが現われたんです。私は最初それは富子さんだと思ったのですが、よく見ると潔典さんでした……」
私は内心の動揺を抑えながら黙って聞いている。
(そんなことが本当にありうるのであろうか)
まさか、と思う。その時の私は、霊の世界については全く無知であった。
彼女は続けた。
「潔典さんはですね、はじめに『ありがとう』っておっしゃって、それから『楽しかった』と言われました。私が、『アメリカ旅行が楽しかったのですか』と聞きますと、潔典さんは『いいえ、アメリカ旅行だけではなくて、今までの生活がすべてです』と答えられました」
ここまで聞いて、私はこころの中で思わず「あっ」と叫んでいた。
これも直観である。
「ありがとう・・・・・楽しかった・・・・・今まので生活がすべて・・・・・」
これは潔典のことばだ。父親の私にはわかるのである。私は涙をぽろぽろと落としてしまった。
A女史の話はそれからもしばらく続いたのだが、聞いている私はもう上の空であった。
あまりにも不思議な気がして、三日後にはまた彼女を訪れ、その潔典のことばをもう一度確認したりしている。
その後何度か足を運んでいるうちに、富子からのことばもいろいろと聞いた。
「どうか、いつまでも悲しまないで下さい― 由香利に夢を、いつも明るい希望を・・・・・」
と、語りかけられたりした。》
私が「追悼書」の「あとがき」に、「富子と潔典が語りかける声がかすかに聞こえてくるような気がする・・・・・・」と書いたのは、この体験があったからである。私は、少しずつ聖書や仏典などを読みはじめていたが、それからは、ケネス・リング、レイモンド・ムーディ、モーリス・ローリングスの近似死体験に基づく死後の世界に関する研究書や調査報告などをひもとくようになった。霊界について書かれた本も、高橋信次や大川隆法のものなども含めて次々に読んでいった。
私にとって死後の生命は、信じるか信じないかの問題ではなくなっていた。私が生き続けていくためには信じなければならない絶対的条件になっていた。それに、もしかしたら、富子と潔典のこれらのことばは、私が少しずつ現世の「無知」から脱却していくための手がかりを与えてくれるかもしれない。そう思った私は、一九八五年の春に、長年勤めていた小樽商科大学を退職し、東京の私大に移ってからも、この「無知」からの脱却を試みる模索を続けた。
しかし、私が札幌から東京へ移ったのは、できるだけそれまでの人目を避けたいという思いのほかに、事件の翌年に、国会議員、航空専門家、弁護士、著述家、市民運動家などを中心に東京で設立された「大韓航空機事件の真相を究明する会」の代表理事の一人として、事件の真相究明活動を続けるためでもあった。苦しかったが、ここでもやはり、ほとんど呻きながら、真相を訴えるために、新聞に書き、雑誌や本に書き、テレビにも出た。前記の『疑惑の航跡』も、一九八五年春、東京へ移ってからまもなく、潮出版社から薦められて書いた本である。このなかの「あとがき」に、私は真相究明活動の経過にふれたあと、こう続けた。
《・・・・・一つだけ述べておきたいことがある。
昨年秋、遺族会総会の日に、大韓航空機事件を追って精力的な仕事をしておられた柳田邦男氏は、私たち遺族を前にして新しく出たばかりの『撃墜』(下)の内容をまとめてお話し下さった。
柳田氏が打ち出した仮説は『ナブ』切換えミスである。KAL〇〇七便は、出発時にINSのモード・セレクタースイッチをNAVモードにする前に機体を動かしてしまった。そのためにINSの現在地点のデータが狂い、結果的には五百キロ以上の航路逸脱を惹き起こした、というものであった。
この氏の仮説については、その後、十二月十四日の『朝日ジャーナル』で、杉本茂樹氏が航空技術者の立場から、「その論拠の核心部分において、信じられないような初歩的ミスを犯している」と反論しているが、ここで述べたいのはそういうことではない。
『ナブ』切換えミス説の解説が終わった時、私は、是非、柳田氏にも聞いておきたいと思っていた一つの質問をしたのである。「アメリカはこのようなKAL〇〇七便の大幅な航路逸脱を知っていたと思いますか」という質問であった。「知っていたと思いますね」と、ことも無げに柳田氏は答えられた。
つまり、柳田氏の事件のとらえ方は、「KAL〇〇七便はたまたま人為ミスでソ連領空を侵犯してしまったのだが、アメリカはそれを知っていても警告しなかっただけだ」ということになる。
しかし、それはそうではないであろう。
本書では一部の根拠しか述べていないが(より具体的な根拠については、「真相を究明する会」会員諸氏の『世界』一九八五年五月号、『宝石』一九八五年六月号などの論文をご参照いただきたい)、あのKAL〇〇七便はおそらくアメリカに強制されて故意にソ連の重要軍事基地の上空に侵入したあと、ソ連戦闘機の警告を無視して逃げようとし、そして、予想に反して撃墜されてしまったのである。
大韓航空機事件は、一般の航空機事故とは全く異質であって、あのブラック・ボックスが見つからなかったから真相の解明が困難だというものでは決してない。
真相ははじめからわかっていた。ただそれを、日韓を含めたアメリカ政府側がひたすらに隠してきただけにすぎない。そのことは、最近の防衛庁の資料で〇〇七便の意図的な領空侵犯が「証明」されてしまったいきさつからも、裏づけられているといえるであろう。
もっとも、そういう風に考えるようになっても、まだ隠された部分が多く残っているし、それだけで私たち遺族の真相究明の「悲願」が達成されたわけではない。私自身はむしろ、アメリカが好きであった妻や子のためにも、アメリカ政府の犯罪を確信することに一層の苦しみと悩みを感ずるだけなのである。
突飛な言い方になるかもしれないが、できればどなたか、確実な証拠と明快な論理で私たちの「確信」を突き崩していただけないものか。アメリカ政府は私たちの家族に対して決して犯罪を犯してはいなかった、ということを私たちに納得させて下されば、私たちもそれによって少しは救われるかもしれない。
本書を書き終えたいま、アメリカ政府の犯罪に確信をもちながらも、私はまだ苦しまぎれに、そのような「期待」さえ捨てきれないでいる。》 (337-339頁)
この真相究明活動は、何年も続いた。理不尽な事件であっただけに、犠牲者の遺族として、その真相を究明することは避けて通ることができない義務である。真相究明こそが、犠牲者に対する何よりの供養であると私は信じていた。多くの有能な会員の方々によって、頻繁に、そして熱心に続けられた「究明する会」の活動に参加する傍ら、個人としても、「真相を究明する遺族の会」をつくり、ほとんど毎週のように、「APPEAL」と題する広報紙を発行して「犠牲者のために真実のことばを」「人道と正義のために真相の究明を」と訴え続けた。
「真相を究明する会」の発足後四年を経て、一九八八年に会員諸氏による『大韓航空機事件の研究』(武本昌三編)が三一書房から出版された。これは、五百頁を超える大著で、多くの類書のなかでは、おそらく、事件の真相に迫るもっとも信憑性の高い研究成果と自負してもいいかもしれない。私個人の、広報紙「APPEAL」も、一九九〇年一月まで、二百七十二回発行し続けた。そのあとで、私は、ロンドンに長期滞在することになる。私の真相究明活動についてのかかわりは、ここで、一時、中断される形になった。
真相究明活動を続けている間、その一方で私は、霊的真実を学ぼうとして、霊界に関する本などをいろいろと読み進めていったほか、霊能者がいるといわれる複数の宗教団体にも度々足を運んでいた。霊界の妻や長男から、少しでも具体的で真実性の高いメッセージを受け取ることに執心していたからである。ロンドンへ行ってからも大英心霊協会で、それは続いた。かなり頻繁に大英心霊協会に足を運んでいるうちに、遂に、転機が訪れた。それが、一九九二年二月一一日の大英心霊協会でのアン・ターナーとの出会いである。(その時の模様はこのH.P.の「アン・ターナーと私」=プロフィールE=
にも書いた。)
いつまでも苦しみから抜けきれず、このうえは、東京に残していく娘にも、一人で生きていくことを教えておかねばならない、と悲痛な思いを抑えての渡英であったが、私はこの日、初めて、霊界の実在と、妻と長男の生存の事実を知ることができたのである。それは、ゆるぎのない確信であった。その後、帰国してからは、私は、自分の体験をもとに、霊界の真実について、書いたり、人前で話したりするようになった。そして、いま私は、事件後二十五回目の「九月一日」を迎えようとしている。
いま改めて、冒頭に引用した自分の文を読み返してみると、私は何故あれほどまでに苦しんだのだろうと思ったりもする。長年、大学で「真理の探究」に関わってきたはずの私は、最も大切な霊的真理については、あまりにも無知であった。「知らない」というのはどうしようもなく恐ろしいことである。いまは、しみじみとそう思う。しかし、そのような長い、無明の闇を通り抜けることも、やはり私にとっては、避けて通ることのできない試練であったのであろう。
北海道の稚内市には、宗谷岬の、眼前に事件現場のサハリンを望む高台に、「祈りの塔」がある。犠牲者を悼んで遺族会と全国からの浄財をもとに一九八五年に建立された鎮魂の塔である。その石の壁には、269名の犠牲者の氏名のほか、英文と和文の事件概要と和文の碑文が刻み込まれている。いづれも遺族の一人として、私が書いたものである。ただ、碑文のほうは、さまざまな政治的配慮が干渉して、私の「愛と誓いを捧げる」の原文は不本意な修正を受けた。「ソ連」「アメリカ」の国名は削られ、真相究明の誓いも弱められたうえで、つぎのような「無難な」ものにされてしまった。(そのいきさつを私は、「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」岩波書店『世界』1985年10月号で明きらかにした。)
愛と誓いを捧げる
あなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは
いま全世界の人々から糾弾されています
事件の真相はかならず近い将来にあきらかにされるでしょう
わたしたちはあなたたちの犠牲を決して無駄にはさせません
わたしたちは生命の尊さと武力のおろかさを
ひろく世界の人々に訴えていくことを誓います
愛しい人たちよ安らかにお眠りください
この最後の「愛しい人たちよ、安らかにお眠りください」は、私の原文のとおりだが、私は、いまでは、これは間違いであろうと思っている。「愛しい人たち」は、元気に生きていて、決して眠ってなんかいないのである。せめて、「安らかにお過ごしください」と書いておくべきであった。
事件のあと、まったく生きることに絶望していた私は、25年の歳月を経て、はしなくも、まだ生き続けている。九月一日には稚内へ行って、「祈りの塔」の前で行なわれる慰霊祭に参加する。私の妻や長男を含めて、269名の犠牲者 (本当は「犠牲者」ということばもふさわしくないのだが) のために祈りをささげるが、私のこころのなかには、もう、かつての悲しみや空しさはない。事件そのものも、大きな天の摂理のなかで見直すことができるようになった。私はただ、深く頭を垂れてこの事件で先に霊界へ還って行った乗客・乗員の安らかな生活を祈り、霊界からの多くの指導に導かれていまの自分があることへの感謝の気持ちも、こころを込めて伝えたいと思っている。
この25年の歳月は、大きな悲嘆と苦しみを通して、私に深い魂の癒しをもたらし、明るく希望をもって生きていくことの意味を教えてくれた。
(2008.09.01)
母からの最後の贈りもの (身辺雑記 59)
今春、身近な親戚の葬儀に出席して、菩提寺の「葬儀を縁にして」と書かれた文書を読み、『子供たちよ
ありがとう』(宝蔵館、1990年)の著者、平野恵子さんのことを知った。平野さんは、1948年生まれで、飛騨高山市の浄土真宗・速入寺の坊守(住職の奥さん)であったが、39歳で腎臓ガンの告知を受け、病床生活2年の後、1989年、41歳の若さで他界している。
平野さんには、三人の子供がいた。長男の素行ちゃんは、親の手に負えないほどの腕白な子で、二人目の長女、由紀乃ちゃんは、脳性小児麻痺による重度の障害児であった。はじめの頃の平野さんは、そんな子供を持ったことに深い絶望感を抱き、いっそのこと子供たちを殺して自分も死のうとまで思いつめたこともあったそうである。ところが、ある日のこと、いつものように元気に遊んで帰ってきた素行ちゃんが、身動き一つできない妹を抱きしめて、「お母さん、由紀乃ちゃんはきれいだね。顔も、手も、足も、お腹だって全部きれいだよ。由紀乃ちゃんはお家のみんなの宝だもんね」と、言ったのである。
そのひと言が、平野さんの目を開かせた。「気づいてみれば、由紀乃ちゃんの人生は、何と満ち足りた安らぎに溢れていることでしょう。食べることも、歩くことも、何一つできない身体そのままに、絶対他力の掌中に抱き込まれ、一点の疑いなく任せきっている姿は美しく、まぶしいばかりでした」と、彼女は述べている。しかし、ガンに侵された彼女は、その由紀乃ちゃんとも別れなければならない。素行ちゃん、それに、もう一人、次男の素浄ちゃんにも、今生の別れを告げなければならなかった。それがどんなに辛いことか、察するに余りある。彼女は三人の子供たちにこう書いた。
《お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。でも、事実は、どうしようもないのです。こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげれること、それは、死の瞬間まで、「お母さん」でいることです。
元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、素直に動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。》
こう綴ってきて、彼女は、「そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への最後の贈り物になるはずです」と書いた。死が「最後の贈り物」だというのである。彼女はさらに、続ける。
《人生には、無駄なことは、何ひとつありません。お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいの、いや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。子どもたちよ、どうかそのことを忘れないでください。
たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。それがお母さんの心からの願いなのですから。》
(18-19ページ)
こう書いてきて、彼女は、この手紙を、「お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。本当に本当に、ありがとう」という感謝のことばの繰り返しで締めくくった。世の中には、私たちの知らないところで、壮絶に生き、壮絶に死んでいく人が、いくらもいるものであろう。もとより、どのような死であれ、それぞれに、意味のない死はない。しかし、子どもたちの一人ひとりを精一杯に抱きしめながら、最後のことばとして天の摂理を教え、美しい大輪の花が散っていくように、従容として摂理に従っていく見事な死にざまを目の前にすると、私たちはただ、ことばもなく、強く胸を打たれるだけである。彼女は、死を前にして、子どもたちに次のような手紙も書き送った。
《由紀乃ちゃん、お浄土で待っております。あなたがその貴い人生を終えて、重い宿業の身体を脱ぎ捨てる時、お母さんとあなたは、共に風となり野山を駆け巡ることができるでしょう。梢を揺らして小鳥達と共に歌をうたうこともできるでしょう。》
(36ページ)
《お母さんは“無量寿”の世界より生まれ、“無量寿”の世界へと帰ってゆくものであります。何故なら“無量寿”の世界とは、すべての生きとし生けるもの達の“いのちの故郷”そして、お母さんにとっても唯一の帰るべき故郷だからです。お母さんはいつも思います。与えられた“平野恵子”という生を尽くし終えた時、お母さんは嬉々として、“いのちの故郷”へ帰ってゆくだろうと。そして、空気となって空へ舞い、風となってあなた達と共に野を駆け巡るのだろうと。緑の草木となってあなた達を慰め、美しい花となってあなた達を喜ばせます。また、水となって川を走り、大洋の波となってあなた達と戯れるのです。時には魚となり、時には鳥となり、時には雨となり、時には、雪となるでしょう。・・・・・・・
“無量寿=いのち”とは、すなわち限りない願いの世界なのです。そして、すべての生きものは、その深い“いのちのねがい”に支えられてのみ生きてゆけるのです。だからお母さんも、今まで以上にあなた達の近くに寄り添っているといえるのです。悲しい時、辛い時、嬉しい時、いつでも耳を澄ましてください。お母さんの声が聞こえるはずです。「生きていてください、生きていてください」というお母さんの願いの声が、励ましが、あなた達の心の底に届くはずです。》
(37-38ページ)
(2008.07.01)
死ぬというのはどういうことか (身辺雑記 58)
ロンドンの南東、電車で40分ばかりのところに、史跡の町として知られるロチェスターがある。この町の中心部には古城と大聖堂があって、チャールズ・ディケンズの小説にも度々登場してくる。ここの大聖堂の売店で、むかし私は、「智慧のことば」と銘打ったポスター状の書き物を手に入れたことがあった。B4版ほどのカラー印刷で、透明なプラスティックでパウチングされている。そこには、死について、つぎのように書かれている。
*****
死ぬというのはなんでもないことです。私が、いままでいた部屋から出て隣の部屋へ移っていっただけのようなものです。私はいままでの私と同じですし、あなたも私にとって、いままでのままのあなたです。私とあなたとの間柄は、かつてと同じで、私が死んでからも少しも変わってはいません。
いままでのように、親しい呼び名で私を呼んでください。いつものあなたのように、気兼ねなく話しかけてください。私が死んだからといって、話しぶりまで変えることはありません。世間並みに深刻になったり、悲しみの気持ちを表したりもしないでください。私たちはお互いに、ちょっとした冗談にも面白がってよく笑ったものでしたが、あのように、これからも笑ってくれませんか。
遊ぶ時には気兼ねなく遊んでください、微笑を忘れないようにしましょう。そして、私のことを思い出したら、どうか祈ってください。よく私の名前を呼んでくれたように、これからも呼んでください。畏まったりすることはありません。悲しみの影を落とさないように、普通に私の名を呼んでくれればいいのです。
死んだからといって生活が変わるわけではありません。いままでと少しも違いはありません。こちらでも同じように生き続けているのです。だから、私が居なくなってしまったからといって、私のことを忘れてしまわないでください。ほんのちょっとの間のお別れで、どうせすぐまた会えるのですから。私はすぐその辺にいて、あなたと会える日を待っていますよ。悲しむことなんか何もないのです。
*****
これを書き残したのは、Henry Scott Holland (1847-1918) で、彼はロンドンのセント・ポール大聖堂のCanon(大聖堂参事)であった。死とはどういうものか、という重い命題について、100年も前の聖職者が語っていることばとして興味深いものがある。原文はこうである。
*****
Death is nothing at all. I have only slipped away into the next room.
I am I, and you are you. Whatever we were to each other, that we still
are. Call me by my old familiar name, speak to me in the easy way which
you always used. Put no difference in your tone, wear no forced air of
solemnity or sorrow. Laugh as we always laughed at the little jokes we
enjoyed together. Play, smile, think of me, pray for me. Let my name be
ever the household word that it always was, let it be spoken without effect,
without the trace of a shadow on it. Life means all that it ever meant.
It is the same as it ever was; there is unbroken continuity. Why should
I be out of mind because I am out of sight? I am waiting for you, for an
interval, somewhere very near, just round the corner. All is well.
(2008.05.01)
土井晩翠と霊界通信 (身辺雑記 57)
浅野和三郎の『小桜姫物語』は、日本における記念碑的な霊界通信としてよく知られている。この本が心霊科学研究会出版部により初めて世に出されたのは1937年2月のことであった。その後、本文復刻版『浅野和三郎著作集』の一冊として1985年7月に四六上製版の形で発行され、それが、さらに2003年になって、新装版として、潮文社から刊行された。この本には土井晩翠が序文を書いているが、そのなかで彼は、つぎのように述べている。
《小桜姫物語は解説によれば鎌倉時代の一女性がT夫人の口を借り数年に亘って話したものを浅野和三郎先生が筆記したのである。 ・・・・・・・これを完成し終わった後、先生は二月一日突然発病し僅々三十五時間で逝いた。二十余年に亘り、斯学の為に心血を灌ぎ、あまりの奮闘に精力を蕩尽して斃れた先生は斯学に於ける最大の偉勲者であることはいう迄もない。》
この復刻版の土井晩翠の序文には、日付がない。浅野和三郎が亡くなったのは昭和12年(1937年)で、この本の出版に寄せた令兄の浅野正恭中将の文にはその死去から間もない「昭和12年3月」とあるから、土井晩翠がこの序文を書いたのも、文面から見て多分これと同じ頃であったろう。T夫人というのは、浅野和三郎の妻・多慶子夫人のことで、夫人は優れた霊能者であった。小桜姫は、霊界通信のなかで、自分が多慶子夫人の守護霊であるといっていたらしい。
土井晩翠は、このように、心のこもった文で浅野和三郎を日本における心霊研究の「最大の偉勲者」と讃えているが、この二人が共に学んだ東京帝国大学英文科では、浅野和三郎は土井晩翠の後輩であった。卒業後は、それぞれに英語教授として教職についていたが、土井晩翠もまた、浅野和三郎のように、自分の子供たちの病気や死をきっかけにして霊の世界へ入り込んでいったのである。そして、彼の妻、土井八枝も、審神者として霊界通信を仲介できるような霊能力を身につけていった。
土井晩翠(本名・林吉)は、1871年(明治4年)12月5日に現在の仙台市青葉区に生まれ、1952年(昭和27年)10月19日に、急性肺炎で死去した。優れた英文学者であったが、島崎藤村と並び称される詩人としても有名であった。当時の第二高等学校教授のときに発表した「荒城の月」(滝廉太郎作曲)の作詞者としても広く世に知られるようになった。次女は、東京大学英文科教授として勤め、英文学者、評論家として著名になった中野好夫に嫁いだ。栄光に包まれた生涯を送ったあと、亡くなる2年前の1950年には、詩人として初めての文化勲章も受賞している。
その文化勲章受賞のために、彼が上京していた頃、1950年11月11日に、東京の新宿区内藤町で、霊界の浅野和三郎との交霊会が催された。主宰したのは、和三郎の令兄、浅野正恭である。文化勲章を受賞したばかりの土井晩翠は、足を伸ばしてその交霊会に出席し、時空を隔てた浅野和三郎との「会話」に加わった。その記録は、「心霊と人生」23巻12月号(心霊科学研究会、1950年12月1日)
に残されている。これは、その当時の知識人としては、というより、現在においてさえ、世間の風評などを気にしない、きわめて大胆な行動であったようにも思える。
社会的には、心霊主義に対する無知、誤解や誹謗が少なくなかった時代にあって、土井晩翠は、このように、極めて熱心な心霊研究者であった。心霊科学に対するゆるぎない信念のもとに、1946年には、財団法人日本心霊科学協会の設立にも顧問として参画した。冒頭に掲げた『小桜姫物語』からの引用で、土井晩翠は、さらに次のように続けて、この序文を結んでいる。
《・・・・・・日本でこの方面の研究は日がまだ浅い。この研究に従事した福来友吉博士が無知の束京帝大理学部の排斥により同大学を追われたのは二十余年前である。英国理学の大家、エレクトロン首先研究者、クルクス管の発明者、ローヤル・ソサイティ会長の故クルックス、ソルボン大学教授リシエ博士(ノーベル勲章受領者)、同じくローヤル・ソサイティ会長オリバ・ロッヂ卿……これら諸大家の足許にも及ばぬ者がかかる偉大な先進の努力と研究とのあるを全く知らず、先入が主となるので、井底の蛙の如き陋見から心霊現象を或は無視し或は冷笑するのは気の毒千番である。浅野先生が二十余年に亘る研完の結果の数種の著述心霊講座、神霊主義と共に本書は日本に於ける斯学にとりて重大の貢献である。》
(文中、敬称略。一部の漢字、仮名遣いを修正)
(2008年3月1日)
神と共に歩む (身辺雑記 56)
ある晩のことである。ある男が夢を見た。白い砂浜のうえを神といっしょに歩いている夢である。空には、その男の生涯の出来事が映像となって、次から次へと映し出されていた。その一つ一つの映像には、砂の上に残されている二人分の足跡があった。ひとつは彼のものであり、もうひとつは、一緒に歩いてくれている神のものである。
空に彼の生涯の最後の映像が映し出されたとき、彼は、振り返って砂浜に残っている足跡を眺めてみた。すると、自分の生涯のうちで何度も、その足跡が一人分しかないことがあるのに気づいた。考えてみると、それらはいづれも、彼の生涯で最も苦しく悲嘆に暮れていた時だったのである。
彼はたまりかねて神に聞いた。「神様、いつか私があなたに従っていくことをこころに決めたとき、あなたは私に、いつでも一緒について行ってくれると仰ったではありませんか。それなのに、私が自分の一生で一番困っていた時には、あのように足跡が一人になってしまっています。あなたの助けが一番必要な時に、どうしてあなたは、私のそばにいてくださらなかったのですか。」
神は答えた。「大切な、大切な私の子よ。私はお前を愛しているし、お前を見捨てたりするようなことは決してしない。お前が悩み、苦しんでいた時、砂浜に一人分の足跡しかないのは、あれは、私がお前を背負って歩いていたからだよ。」
* * * * *
これは、欧米のクリスチャンの間ではよく知られている「Footprints」(足跡)
という話である。作者は誰なのか、分かっていない。私は、アメリカでもイギリスでも、キリスト教会などの売店で、この「Footprints」が、カードやポスターの形で売られているのを見てきた。私の手許には、むかし、ロンドン南西部のソールズベリー平原のなかに4千年前の姿を留める巨石群ストーン・ヘンジを訪れた時、近くの古い教会で手に入れた「Footprints」のカードがいまも一枚残っている。その原文はこうである。
Footprints
One night a man had a dream. He dreamed he
was
walking along the beach with the LORD. Across the
sky flashed scenes from his life. For each
scene,
he noticed two sets of footprints in the
sand; one
belonged to him, and the other to the LORD.
When the last scene of his life flashed
before him, he
looked back at the footprints in the sand.
He noticed
that many times along the path of his life
there was
only one set of footprints. He also noticed
that it
happened at the very lowest and saddest
times in his
life.
This really bothered him and he questioned the
LORD about it. "LORD; you said that
once I decided
to follow you, you'd walk with me all the
way. But I
have noticed during the most troublesome times
in my
life, there is only one set of footprints. I
don't
understand why when I needed you most you would
leave me."
The LORD replied, "My precious,
precious child, l
love you and I would never leave you. During your
times of trial and suffering, when you see
only one
set of footprints, it was then that I carried you."
(2008年1月1日)
内村鑑三の来世観 (身辺雑記 55)
内村鑑三が著した『キリスト教問答』(講談社文庫、1981)のなかに、来世はあるのかないのかを論じたところがあります。内村は、噛んで含めるように、死後には来世があることを諄々と説くのですが、それに対して、質問者は「しかしながら人類全体が来世の存在を要求する理由は彼らの無学によるのではありませんか。いわゆる未来観念なるものは知識の増進とともに消滅するものではありませんか」と尋ねました。内村はこう答えます。
「日本人にして少しく近世の教育を受けた者は、たいてい貴下の仰せられるようなことを申します。しかしながら私はそうは信じません。来世存在の希望は野蛮人のみの希望ではありません。しかのみならず、この観念もまた他の観念と同じく、知識の進歩と同時に進歩するものであります」
これに対して、質問者はさらに次のように反論しました。「しかし、それは何人にも迷信の元素が多少のこっているからではありませんか。迷信の元素がまったく知識の光明によって取り去られた後に、初めて来世観を要求するの必要がなくなるのではありませんか」
内村はちょっと皮肉交じりに答えます。「ずいぶん深いご観察であります。来世の希望を堅くいだいて死んだニュートンも、ファラデーも、ワーズワースも、グラッドストンも、彼らの心の中に存する迷信を脱却しえずして、来世を希望したとのご疑問であります。そうしてかかる希望をいだかれない貴下ご自身は、新知識の光明によって、かかる「迷信」を全然脱却されたのだと申さるるのでありましょう。それはずいぶん大胆なるご断定であります」
知識や教養を身につけていけば、来世があるなどいう「迷信」などには囚われなくなるものだと考えがちな一般の根強い傾向は、いまもほとんど変っていないといえるでしょう。ここに名をあげられた4名は、いうまでもなく、いづれも深い教養をもった最高の知識人ですが、このうち、グラッドストンはヴィクトリア女王の下に、4回まで大英帝国の総理大臣を務めた大政治家でした。そのグラッドストンにとっても、来世の存在は、「インド帝国を保存しアフリカ大陸を経営するにまさるの大問題」であった、と内村は述べています。しかし、別にグラッドストンでなくとも、いまの私たちにとっても、「来世の存在」がもつ重大な意味に気がつけば、おそらく生涯最大の大問題というふうに考えるようになるのかもしれません。
来世の存在を固く信じて死んでいったグラッドストンの臨終のことばは、Our
Father (われらの父よ)であったそうです。大政治家として、60余年間、世界を震動せしめたグラッドストンのくちびるは、「天にいますわれらの父よ」と神の名を呼んで閉ざされました。「じつに偉大ではありませんか」と、内村は惜しみなく賞賛のことばを並べています。そして、そのあとで、内村は、自分自身の来世存在に対する信仰についての思い出を、次のように、続けています。
* * * * *
私はグラツドストンの死状(しにざま)を聞いて、私の先師、故シーリー先生のことを思い出さざるを得ません。
ご承知かも知れませんが、彼は十余年間、米国アマスト大学の総長でありまして、日本人にして彼の薫陶にあずかった者は私のほかにも幾人もあります。私は目にグラッドストンを見たことはありませんが、しかしシーリー先生に接して、グラツドストンとはこういう質の人であろうと、たびたび思いました。学者で、実務家で、信仰家で、その円満なること、とうてい日本などにおいては見ることのできない人物であります。
私は一夜、少しく先生に求むるところがありまして、突然先生の書斎に侵入いたしました。先生はその時あたかもある書を読んでおられましたが、いつになく喜んで私を迎えられ、その読みつつありし書を卓上に置かれ、金ぶちの眼鏡を取りはずして、そのちりを払われ、静かに私の言わんと欲するところを聞かれ、後は話頭を現世の事より神と来世の事とに転ぜられ、書斎の壁の上に掛けてありし一老婦人の絵画を指さされ、小児のような余念なき口調にて言われました。
「内村君よ、あれは私の妻であります。彼女は二年前に私どもを逝りまして、今は天国にありて私どもを待っております」と。
言い終わって先生の温顔を仰ぎ見ますれば、眼鏡の中なる先生の大なる眼球はいっぱいに涙をもってひたされたのを見ました。私はじつにその時ほど明白に来世の実在を証明されたことはありません。先生の大知識をもってして、かくもありありと、墓のかなたにうるわしき国のあるのを認められしのを見まして、私は自己の小なる頭脳をもって、たびたびその存在について疑いをいだいたことを深く心に恥じました。
私は今日まで幾度となく来世存在の信仰をあざける人に出会いました。しかしながら、その人はみな人物からいっても、学識からいっても、シーリー先生に遠く及ばない人たちでありました。先生の言われしこととて、かならずしも一から十まで真理であるとはいえません。しかしながら、かかる人物がかかる確信をいだいておったことを思いまして、私の来世存在に関する信仰はひじょうに強められます。
* * * * *
これは、内村鑑三の「来世存在」信仰について述べた一部ですが、ひるがえって、いまの私たちは、来世の存在をどのように受け止めているでしょうか。本当に有難いことに、私たちは、素直に霊的真理に心を向けることさえすれば、熱心に、一生懸命に、何の代償も求めず、深く広い人類愛から私たちに語りかけてくれている霊界の高位霊からの「来世存在」の教えに、いくらでも接することができます。たとえば、シルバー・バーチの膨大な量の霊訓のなかのつぎの一言だけをとりあげてみても、そこには、私たちにとっては何よりも重大な「生涯最大の問題」が、極めて具体的に、かつ明確に、証言されているといえるのではないでしょうか。
・・・・・墓の向うにも生活があるのです。あなた方が “死んだ” と思っている人たちは今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。げんに戻ってきているのです。しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということはどういうことを意味するのか。どういう具合に生き続けるのか。その死後の生活は地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。死の関門を通過したあと、どういう体験をしているのか。地上時代に口にしたり行ったり心に思ったりしたことが役に立っているのか、それとも障害となっているのか。こうしたことを知らなくてはいけません。
また、死後、地上に伝えるべき教訓としていかなることを学んでいるのか。物的所有物のすベてを残していったあとに一体なにが残っているのか。死後の存続という事実は宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。そうなのです。そうした分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は、永いあいだ人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。(『霊訓(7)』pp.27-28)
(2007年12月1日)
長く生き過ぎた人びとの哀しみ (身辺雑記 54)
晩年から死後にかけて「戦中派天才老人」などと呼ばれた作家の山田風太郎は、1922年1月4日に兵庫県で生まれた。この山田風太郎には、「人間臨終図巻(上・下)」などの多数の著作のほかに、かつて朝日新聞紙上に書き続けた「あと千回の晩飯」というエッセイがある。1994年11月10日には、このエッセイのなかで彼は、「生き過ぎて」と題して、つぎのように書いた。
《長生きは一応おめでたいことになっているが、モノには限度ということがある。
古今亭志ん生は八十一のとき、こんなことをいった。
「やんなっちゃうね、どうしようかと思っちゃう。ほんとに。ここまでくると、どこまで生きりゃいいんだって、いいたくなっちゃう。ねえ、つまんないもう。いつもそう、なんかあると、ああ面倒くせえ、はやく参っちめいてえなって」
志ん生は八十三歳で死んだ。
志賀直哉はまだそれほど衰えないときに「不老長寿という。不老で長寿ならいいが、老醜をさらしての長生きはいやだね」といった。
八十四のときこんなことをいった。
「ここがわるい、ここが痛むというのでなしに、衰えて― このごろしみじみ老苦というものを味わわされているんだ」
と嘆き、テレビドラマを指さして、見ていても筋なんかさっぱりわからない。
「老いぼれて、気力が全くなくなって― そればかりでなく、アタマがおかしい、ヘンなんだよ」
と、いった。
志賀直哉はそれから八十八歳まで生きた。
武者小路実篤は八十九のときこんな文章を書いた。
「人間にはいろいろな人がいる。その内には実にいい人がいる。立派に生きた人、立派に生きられない人もいた。しかし人間には立派に生きた人もいるが、中々生きられない人もいた。人間は皆、立派に生きられるだけ生きたいものと思う。この世には立派に生きた人、立派に生きられなかった人がいる。皆立派に生きてもらいたい。皆立派に生きて、この世に立派に生きられる人は、立派に生きられるだけ生きてもらいたく思う。皆人間らしく立派に生きてもらいたい」
一回転ごとに針がもとにもどるレコードのようなもので、果てしがない。
こういう状態で、武者小路実篤は九十歳で死んだ。》
1899年生まれの川端康成は、日本人として初めてのノーベル文学賞を1968年に受賞したが、その時彼は69歳であった。年齢的には「生き過ぎて」からはほど遠い若さである。しかし、その頃すでに、彼は死への逃避欲のようなものを強く持っていたのかもしれない。瀬戸内寂聴にであったか、「飛行機に乗るたびに落ちてくれないかといつも思うよ」などと語ったことが伝えられている。その川端康成は、1972年にガス自殺した。73歳であった。
73歳といえば、山田風太郎がこのエッセイを書いたのが、73歳になろうとする直前のことである。彼は5歳の時に父を亡くし、母も彼が14歳の時に肺炎で亡くなっている。両親を早くして失った寂しさのあまり、中学時代には三度も停学処分を受けるような荒れた生活が続いた。このような彼の生い立ちが、彼の死生観に大きく影響したであろうことは想像に難くない。
山田風太郎は、このエッセイを「あと千回の晩飯」としたが、その彼は、2001年7月28日に79歳で死んだ。生前に、自ら定めた戒名は「風々院風々風々居士」である。命日の7月28日は、奇しくも師の江戸川乱歩の命日でもあった。八王子市にある川上霊園の墓地には、「風の墓」とのみ刻まれた墓碑が建っているという。(文中敬称略)
(2007年11月1日)
開かれている極楽浄土への道 (身辺雑記 53)
「佛説阿弥陀経」というのは、お釈迦様が大勢の弟子たちを前にして、西の方はるか彼方に、極楽という世界があることを教えているお経です。漢語で書かれたものを日本語読みしているわけですから分かりにくいのですが、浄土真宗のお葬式の席などで、このお経が唱えられているのを、何度も耳にされている方も多いのではないでしょうか。
このお経の中では、「その極楽に住む者たちには、体の苦しみも心の悩みもなく、ただ幸せがあるだけだ。その世界には、七重の石垣、七重の並木があり、それらは、金、銀、水晶等の宝石で飾られている。また、宝石から出来ている池があり、池の底には一面の金の砂が敷き詰められている・・・・・」などと、光り輝く壮麗な極楽の描写が延々と続きます。
そして、その後で、人は誰でも、阿弥陀仏の名号を唱えることによってその極楽に往生できる。そしてそのことは、東西南北上下の六法世界の数多くの諸仏によっても証言されているのだ、とも述べられています。さらには、「これは嘘ではない、本当のことなのだ」と何度もくり返して付け加えられてもいるのです。これを、私たちは、どう受け留めていけばいいのでしょうか。
もし本当に、極楽浄土がそんなに素晴らしいところであるのなら、死ぬということは悲しみではなく大きな喜びになるはずです。それなら、なぜ私たちは、早く死んで、その極楽浄土へ行きたいとは思えないのでしょうか。
たまたま、『歎異抄』第九段では、親鸞の弟子の唯円が、同じような疑問をもっていたことが記されています。いくら極楽浄土がすばらしいところであると聞かされても、早くそこへ行きたいとは思えないのは何故でしょうか、と親鸞に訊いたのです。
それに対して親鸞は答えました。本当は手の舞い足のふむところも知らないほど喜ばなければならないのに、そうさせないのは煩悩のせいである。悩みや苦しみの多いこの世を去るのはいやがって、平安で幸せな極楽浄土を恋しいと思えないのは、よくよく煩悩が強いからに違いない、と。
この親鸞の答え方はよくわかります。五濁悪世の煩悩の世界にどっぷりと浸かっていても、それも「住めば都」ということになるのでしょう。しかも、一般には、死ぬということが最大の不幸であると固く信じ込まれていますから、このような極楽浄土の素晴らしさを聞いても、やはり、俄かには信じがたいと思われるのも無理ではないのかもしれません。
しかし、いまでは、極楽浄土の壮麗さを裏付けるすぐれた真理の書も、その気にさえなれば容易に手に入りますから、死後の世界の実状を理解するのも、そんなに難しいことではなくなりました。そのうちの一つが、『シルバー・バーチの霊訓』(潮文社刊十二巻)です。そこでは、例えばその第四巻に、次のように述べられているところがあります。
《あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。
肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる・・・・・》
これは、「仏説阿弥陀経」に描かれた極楽浄土の姿そのものですが、霊界から見ると、それでも「なお死を恐れる」私たちの無明ぶりが歯がゆくてならないようです。
そのような私たちに、シルバー・バーチは、人間の本質は実は霊であって、「人間は死んではじめて真に生きることになるのです」と、つぎのようにも諭しています。
《真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。
死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生をうけて肉体を通して表現しはじめた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へおもむき、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです・・・・・》
しかしそれでも、このように聞かされても、私たちが自分のいのちについて、なかなか安心立命の境地に達することができないとすれば、それはやはり、親鸞が言うように、五濁悪世での私たちの「よくよく強い煩悩」のせいであるということになるのかもしれません。
(2007年10月1日)
宿命のノース・カロライナへの道 (身辺雑記 52)
私が6年前に書いた『アメリカ・光と影の旅』の第5章「懐かしく哀しいアメリカ」のなかに、カリフォルニア州モントレーにあるアメリカ合衆国海軍外国語学校にふれたくだりがある。
アメリカ合衆国海軍外国語学校というのは、語学の才能のあるアメリカ軍将校などを情報要員として全米から集め、世界各国語の特訓をしているところである。日本文学者のドナルド・キーン博士も、かつてはここの日本語科の学生であった。日本語のように難しいと思われている言語でも、ここでは、二年間で、読み・書き・話す・聞く、の四技能をほぼ完璧にマスターさせることで知られている。私はむかし、アメリカのアリゾナ州に住んでいたころ、その外国語学校の講師公募に応募したことがあった。そのいきさつを、私はこの本の中でつぎのように書いている。
一九八二年の秋、このモントレーの海軍外国語学校から、私がいたアリゾナ大学言語学部に、日本語講師公募の書類が送られてきた。私はここの外国語教育には関心があった。軍隊は嫌いだが、この学校独特の外国語教授法のノウハウだけは知りたいと思っていた。
日本の「外国語としての英語」教育では、従来からよく、アメリカやヨーロッパでの語学教育が参考にされることがある。しかし、印欧系言語は互いに親戚関係にあって発音や構文も似通っているから、印欧系のなかでの外国語教育は、日本の英語教育にはあまり参考にならない。アルタイ系ともいわれたりするが世界で孤立している日本語と印欧系の英語は、互いに極めて異質である。だから、日本語から入る英語教育で参考になるとすれば、英語から入る日本語教育である。そのような観点から、私はいくつか論文も書いている。
私は応募することにした。フルブライト客員教授としてのアリゾナ大学での最初の一年の任期が終われば、半年くらいなら海軍外国語学校で、教壇に立ってもいいと考えていた。「フルブライト」の肩書きは、アメリカの大学でもそれなりのプレスティージがある。応募すれば、割合簡単に決まるのではないかと思ったりもした。
ところが、簡単ではなかった。フルブライトの肩書きには関係なく、経歴や業績、語学教育経験などのこまかい書類審査が続いたあと、日本語と英語の論文をそれぞれ送るようにといってきた。それをクリアすると、今度は、日本語と英語のスピーキングのテストである。「いま、あなたが居る自分の部屋の様子を、初めに日本語で、次には英語でそれぞれ詳しく、五分間ずつかけて説明して下さい」などというものであった。それをテープに吹き込んで送るのである。
三段階の審査には、いつもかなりの時間がかかっているようであった。やがて、日本語の「A級インストラクター」の認定証書とともに、任用手続きにはしばらく時間がかかるという手紙が届いた。そのあとはなしのつぶてである。その状態でかなり長く、何週間も待たされているうちに、別に書類を出しておいたノース・カロライナ州立大学への赴任が決まってしまった。
一九八三年七月一日の朝、私は、ノース・カロライナ州立大学への編入学生となった娘を伴い、車にいっぱいの荷物を積み込んで、アリゾナを離れた。ツーソンから三千五百キロ離れたノース・カロライナのローリーに向かって出発したのである・・・・・・・
このモントレーの海軍外国語学校で、あの時、任用手続きになぜあれほど時間がかかってしまったのか、よくわからない。はじめはurgent need(緊急に必要)などと言っていたのに不思議であった。後日、海軍外国語学校の日本語科で教えている講師に、直接手紙を出して聞いてみたことがあったが、どうやら、予定されていた空席が生じなかったのが原因であったらしい。講師陣と事務局との意志の疎通も欠けていたようである。しかし、いま考えてみると、モントレーへの道は始めから私には閉ざされていた。私は、行くべくしてノース・カロライナへ行ったのである。
当時のアメリカは、バブルで沸き返っていた日本とは違って大変な不況であった。大学の予算なども軒並みに大幅な削減を余儀なくされていた。だから、ノース・カロライナ州立大学での教職もすんなり決まったわけではない。期待していた海軍外国語学校からの任用通知は来ず、ノース・カロライナ州立大学からの通知も予想を超えて遅れていた段階で、私はこれ以上は待てないと判断した。日本の在籍大学に対する海外出張期間延長の申請期限が迫っていたのである。私は帰国を決意して、帰国のための手続き書類をフルブライト委員会へ宛てて送った。
しかし、その書類をアパートの近くのポストに投函して帰宅すると、そのちょっとの留守の間に、ノース・カロライナ州立大学からの招聘状が速達で届いていた。私は呆然とした。しばらく考え込んだあと、結局、郵便局へ出向いて、投函したフルブライト委員会宛の書類を取り戻した。これも、いま考えると、私が小さな自分の意思で、ノース・カロライナへの道を自ら閉ざすことは許されなかったということであろうか。
もともと私は、ノース・カロライナへ行くようなことは、念頭にはなかった。首都のローリーについてもよく知らなかった。その年の春に、たまたまローリーでフルブライト研究員の年次大会があって、私もアリゾナから参加したのがローリーとノース・カロライナ州立大学へ足を踏み入れた最初である。3日間の滞在を終えて、空路アリゾナのツーソンへ帰っていったときにも、数か月後にこのローリーに再びやってきて住むことになろうとは、まったく思ってもいなかった。それが、その年の夏には、私はローリーへ転居し、妻の富子と長男の潔典に渡米を促していたのである。
[一九八三年八月一日の日記]
朝九時(日本時間午後一〇時)過ぎに潔典に電話する。意外にも五日の航空券がまだとれていないという。三日になればわかるということで、もう一度、三日に電話することにしたが、ここでもまた、最後のきわどいところで待たされることになった。
すべてが裏目に出ている感じだ。あまり無理をしてはいけないのかもしれない・・・・・
急に予定をたてたので、どこの航空会社の航空券もなかなかとれず、やっとソウル経由で、しかも空席待ちの大韓航空のチケットで富子と潔典がニューヨークに着いたのは八月五日の午後九時過ぎであった。それからしばらくノース・カロライナ州ローリーの自宅で親子四人水入らずの生活を過ごし、再び、富子と潔典がこのニューヨークから日本への帰国の途についたのが、八月三〇日の夜である。しかし、二人を乗せた大韓航空007便は、遂に日本へ着くことはなかった。
この富子と潔典が乗った大韓航空機は、アンカレッジを経由した後、ソウルへ向かったのだが、ロサンゼルス発でソウル行きの大韓航空機も同じようにアンカレッジを経由して、15分後に、007便の後を追うようにして飛んでいる。しかし、007便は、大きく航路を逸脱してソ連領内を侵犯して撃墜され、ロサンゼルス発の大韓航空機015便は、正規のルートを飛んで、無事にソウルに着陸した。
潔典は、はじめから九月一日には日本へ帰る予定をたてていたようだから、もし仮に、私がノース・カロライナ州立大学へ行かず、カリフォルニアのモントレーの海軍外国語学校へ行っていたとすれば、そしてまた仮に、往復の航空機が同じように大韓航空機であったとすれば、富子と潔典は、ニューヨーク発の007便の代わりに、ロサンゼルス発の015便に乗っていた可能性もあり得たのかもしれない。
しかし、いまではわかるような気がするのだが、おそらく、そういう風には天から定められてはいなかった。私は悲劇に巻き込まれなければならなかったのであろう。ノース・カロライナへの道へ進んだことは、決して単なる偶然ではなく、私の宿命であったに違いない。すでにそのことを潔典は、潜在意識では間違いなく感知していたように思われる。それを暗示するような潔典の常とは異なる気配があり、これから起こるべきことを示唆するようないくつものことばがあった。鈍感であった私がその時には気がつかなかっただけである。
あれから二十四年経ったいまも、私は、そのことを考えるたびに、粛然として襟を正したい気持ちに駆られる。
(2007年8月1日)
山村幸夫さんの奇跡の足跡 (身辺雑記 51)
山村幸夫さんには2冊の著書がある。『神からのギフト』と『与え尽くしの愛』である。いずれも、山村幸夫「神からのギフト」出版会から発行された非売品で、いわば私家版である。しかし、「知る人ぞ知る」で、この2冊の本は、スピリチュアリズムの世界では、『シルバー・バーチの霊訓』の実践版として読む人々に深い感動と希望を与え、真理のことばが持つ清冽な光彩を放ち続けている。
山村幸夫さんとはどういう人か。あるいは、どういう人であったか。これらの著書に記載されたプロフィールによれば、山村さんは1962年に宮崎県で生まれた。東海大学卒業後、1987年に渡米して1990年より心霊治療を中心とした霊的活動を始めている。アメリカのロサンゼルスを拠点にして、アメリカ各地のほか、諸外国、日本などでも心霊治療の奉仕活動を精力的に行い、多くの人々に霊的な真理を広めていった。その山村さんは、2001年の11月頃から体調を崩し、半年間の闘病生活の末、2002年5月28日、ロサンゼルスの治療院としていた自室で亡くなった。39歳の若さであった。
これは痛恨の極みであるが、山村さんが何度も来日し、東京や横浜のほか日本各地で無料の公開治療や、勉強会をしていたのに私はそのことを知らなかった。私は、だから、生前の山村さんにはお会いしたこともない。ただ、いまは、上記の2冊の著書を通じて、山村さんが文字通り輝かしい「与え尽くしの愛」を実践して流星のように宇宙に消えていったその生涯を知り、深い敬意だけではなく、限りないなつかしさと親しみの気持ちをも抑えることができないでいる。
私は、この4月で77歳になっているから、山村さんよりも年齢だけは30年以上も年上であるが、山村幸夫さんを私の慕わしい先生の一人と思っている。ここでも、こころをこめて「山村先生」と呼びたいところであるが、そうしないでいるのは、山村さんが「先生」と呼ばれることを好まないことを知っているからである。患者たちからも絶大な信頼と尊敬を受けていたようだが、けっして偉ぶることもなく、誰に対してもひたすらに奉仕に徹していた。訪れてくる患者には「どうなさいました?」と優しく問いかけ、「ニコッと満面に人懐っこい笑みをたたえ」ながら、その眼差しには、「大丈夫ですよ」という感じの深い慈愛があふれ出ていた、とこの本の中でもその人となりが紹介されている。
心霊治療家としての山村さんは、末期がんの患者などを含めて、近代医学で見放された数々の難病患者を何百人、何千人と治していく奇跡を見せてきた。しかし、その治療費は一銭も取らなかった。治療は誰に対しても常に無料であった。この事実の持つ重い意味を私たちはけっして看過してはならないであろう。治療費を無料にしながら、それでいてあれだけ広範囲な奉仕活動ができたのは、すべて、患者たちからの感謝の気持ちがこもった善意の寄付による。真理を知り無償の愛の行為に献身する者には、霊界からの巨大な霊力が援護してくれることを身をもって証明して見せてくれたのが、山村幸夫さんであった。私は、『神からのギフト』と『与え尽くしの愛』に示された山村さんの奇跡の足跡を辿りながら、いまさらの如く、宇宙の摂理と霊力の偉大さをまざまざと見せ付けられる思いがして、深く畏敬の念に打たれるのである。
この2冊の本の出版は、山村さんの奇跡の足跡をひろく知ってもらうために、「神からのギフト」出版会を組織した黒木昭征氏の献身と努力に負っている。通常なら、これだけの大部の印刷・製本を内税・送料込みで1500円というような廉価にして希望者に配布するのは、採算的にみて困難なはずであるが、それを黒木氏が可能にしているのも単なる偶然ではないのかもしれない。真理は真理であるがゆえに、必然的に霊力を得て広がっていくものだからである。私は、先日、何部かをプレゼント用に注文した折に黒木氏にも手紙を出して、山村さんへの橋渡しをしてくださっていることに対する丁重なお礼を申しあげた。
この黒木氏の、こころを打つことばが『与え尽くしの愛』の「編者あとがき」にもある。私はそのことばを辿りなおしていると、どういうわけか、いまも涙がひとりでにあふれ出てくる。つぎのようなことばである。
・・・・・最後に、山村幸夫さんのご両親へ心からの哀悼の意を表します。そして、彼の偉大なる魂を讃えて頂きたく、この『与え尽くしの愛』を謹んで捧げます。
霊的な活動にはまったく縁のない親御さんから眺めたら、先立って行った親不孝な息子と感じるかも知れませんが、あなた様方の幸夫さんは、この本の中のように、神から授かった霊力と与え尽くしの愛で、悩める多くの人々を癒されました。ヒーラーとしての生涯を全うされました。その素晴らしい奮闘の人生を褒めて頂きたく存じます・・・・・。
(2007年6月1日)
*この『神からのギフト』と『与え尽くしの愛』は直接下記へ申し込めば入手できます。
山村幸夫「神からのギフト」出版会
〒223-0058 横浜市港北区新吉田東7-24-8
TEL / FAX 045-546-1032
生き神の住むクマリの館 (身辺雑記50)
「クマリの館」 この2階の中央の窓
が開かれて、あどけなさの残る少
女の生き神が顔を見せた。
筆者撮影 (2007.01.18)
ネパールのカトマンドゥの見所の一つがダルバール広場である。ダルバールというのはネパール語で「宮廷」の意味だそうだが、旧王国時代には、ここは王宮前の広場としてカトマンドゥ王国の中心部であった。広場の中央には17世紀末に建てられたシバ寺院がひときわ高く聳え立ち、その周辺にはシバ・バールヴァティー寺院やカスタマンダフという古色蒼然とした寺院なども建ち並んで、辺り一体が中世の雰囲気を漂わせている。このダルバール広場の南側に、生き神が住んでいるという「クマリの館」がある。
生き神「クマリ」とは、実はあどけない少女なのだが、ドウルガーや昔のネパール王国の守護神であるタレジュ女神の化身として、ヒンドゥー教徒が9割を占めるという国民全体から広く崇められている存在である。今年1月のヒマラヤ旅行でカトマンドゥを訪れた時に、この生き神を見ることが出来るかもしれないというので、ツアーの仲間たちと、クマリの館を訪れてみた。
門をくぐって館に入ると、古いレンガ造りの3階建てが小さな中庭を囲んでコの字形に建てられている。中庭も百坪くらいであろうか、そんなに広くはない。2階、3階の窓枠には見事な木彫りが施されていて、なにか由緒ありげな雰囲気である。生き神クマリは、この2階の窓から顔を見せるということであった。ヨーロッパからの観光客らしい一団と一緒になって、4時の定時に窓が開かれるのではないかと待っていたが、その時は、結局、クマリは顔を見せなかった。
クマリは、家柄の正しい幼女たちの中から選ばれるのだそうだが、その選考には、容姿や品性、知能だけではなく、神にふさわしい聖性があるかどうかが大切な基準になるという。選ばれたあとは、両親の元から引き離され、付き添いの老女や僧侶から神としての振舞い方を教え込まれる。それが、本人が初潮を迎えるまで続けられるのである。毎年9月に行われるインドラ・ジャトラの大祭には、クマリは3日間の山車巡行の主役となり、前方を見つめたまま身動き一つしない姿勢で人びとの前に現れる。国王でさえひざまずかせるクマリだが、年若い少女には神としての振る舞いを維持し続けるのもなかなか大変のように思われる。
そのクマリを見ることが出来ずに、一旦はダルバール広場に出てしばらく自由時間となったのだが、それが終わって帰る途中、現地ガイドのリルさんは、もう一度、クマリの館へ行ってみようという。私たちがクマリを見ることが出来なかったことをすまなく思っていたらしい。今度は、中に入ったのは私たちのツアーの17名だけであった。中庭に立ったリルさんは、2階に向かってネパール語でなにか大声で呼びかけ始めた。やがて窓の一つが開き、長いひげの老人が顔を出した。クマリの付き添いの一人であろう。その老人にリルさんは、一生懸命に訴え続けた。
中庭には、「クマリの写真撮影は厳禁する」と書かれた掲示があって、その側には、クマリに捧げる基金箱なども置かれている。どうやら、リルさんは、みんなで寄付をするから、クマリに出て来てもらいたい、というようなことを言っていたらしい。やがて、2階の中央の窓が開いて、ついにクマリが顔を見せた。少し厚化粧の感じで、唇は赤く、頭には冠をつけている。まだあどけなさの残るふっくらした顔つきの少女である。私たちは、ネパール風にうやうやしく礼拝して、一瞬の対面が終わると、それぞれが何がしかのお金を基金箱へ入れた。
(2007.04.05)
白く輝く神々の座 ヒマラヤ山脈 (身辺雑記49)
南西方向から見たエベレスト(8,850メートル)
小型機のコックピットから筆者撮影 [07.1.18]
北米大陸のロッキー山脈やヨーロッパのアルプス山脈はいろいろな地点から何度か見てきました。しかし、ヒマラヤ山脈はまだ見たことがありません。そのなかの世界最高峰・エベレストはアメリカのボストン科学博物館の研究チームが1999年に行った測定により、いまは、8850メートルということになっていますが、私には、現地で一度その威容をこの目で見てみたいという願望がくすぶっていました。70歳代も後半に入るとだんだんと海外旅行も億劫になってきます。それでも、心残りのないようにと、一月の中旬、思い切ってH
交通社のツアーに参加することにしました。
成田で一緒になったグループは添乗員を除いて17名でした。男性9名で女性は8名です。グループのうちの最高齢は男性のSさんで、82歳。80歳まで現役で歯科医をしていたそうですが、若い時には、陸軍士官学校で鍛えられたからということで、「お陰さまで至って健康です」と言っていました。やはり、一度、ヒマラヤを見たいという願望を持っていたようです。その願いを知っていた娘さん夫婦が、優しい顔つきの20歳くらいの長女と3人で、おじいちゃんを招待して同行することになったのだそうです。「三世代の家族で旅行できて幸せですね」と、私は、私自身の1歳8ヶ月になったばかりの双子の孫娘を思い出しながら、Sさんに語りかけたりしていました。
成田を午後5時過ぎに離陸したタイ航空機は、約7時間でタイのバンコクに着きました。時差は2時間で、タイ時間の午後10時過ぎです。そこでホテルに一泊することになっていました。ホテルへのバスのなかで、現地ガイドが、「皆さん、バンコクは何度目ですか?」と聞き始めました。「初めての人は手を挙げてみてください?」と言われても、誰も手を挙げません。「2度目の人は?」でも、誰もいません。3度目から手が挙がり始めて、どうやら、大半の人が4回、5回と来ているようです。あとでわかったのですが、このグループの人たちは、ほとんどが海外旅行の「ベテラン」で、多い人で50数回100カ国以上、少ない人でも、10数回の海外旅行を経験しているようでした。
翌朝、10時45分バンコク発のタイ航空機でネパールのカトマンズへ向かいました。飛行時間は3時間半くらいです。ちょっとややこしいのは、時差が1時間15分で、修正が1時間単位の世界時計では、自動修正はできません。こういう時差の設定もあることを私は初めて知りました。カトマンズ空港に着いたのは、現地時間で午後1時ごろです。入国手続きが終わってから、一時間半ほど、旧王宮のあるダルバール広場や二、三の寺院をまわったあと、悪路をバスに揺られて東へ約30キロのナガルコットへ向かいました。ナガルコットは、標高約2100メートルの丘にあって、ヒマラヤの展望台といわれているところです。泊まるところもホテルというより山小屋ふうで、道が狭くて、バスも近くまで行くことができません。バスを降りてから10分ほど歩いて夕闇が迫る「山小屋」にたどり着きました。
このナガルコットの丘の上には、ホテルが30軒ほどありますが、みんな、ヒマラヤを見るために建てられたような造りで、ホテルに居ながらにして、壮大な山脈の景観が楽しめることになっています。東の方角にはエベレスト、正面には、ランタン・ジュガール、西には、マナスルからアンナプルナまで、はっきり見通せるはずでした。朝早く、日の出と共に、刻々と色を変え、輝きを増していくというヒマラヤの美しさを堪能するために、私たちも、翌朝は、6時に起きて、ホテルの屋上で日の出を待ったのです。
しかし、期待は裏切られました。屋上へ上がったとたん、これは駄目だと思いました。濃い霧が一面に立ち込めているのです。何も見えませんでした。「昨日はよく見えていたのに」とホテルの従業員も残念そうに言います。大体、ネパールの冬(12月から2月)は乾季で、ヒマラヤを見るのにはこの時期が最もいいといわれているのですが、やはり運が悪かったのかもしれません。諦めて、私たちはしばらく霧の中を付近を散策したあと、再びバスでカトマンズへ戻り、そこから、小さなプロペラ機で、ポカラへ飛びました。湖とヒマラヤの展望で知られるポカラは、カトマンズから西へ200キロの場所にあります。飛行中に雲の上から、ほんのひと時ですが、初めて白く輝くマナスルの山容を、遠望することが出来ました。
ポカラについて、簡易舗装の、それもかなり傷んだままの悪路を20分ほど走り、ノウダラの尾根と呼ばれるヒマラヤの展望台のような場所へ行きました。そこからは、マナスルやアンナプルナの荘厳な山並みが目の前に広がっているという触れ込みです。しかし、そこでも期待は裏切られました。霧が深く立ち込めていて何も見えません。尾根の上では、チベット人女性たちが、ヒマラヤの写真などのほか、手製の首飾りや数珠や革の財布などのみやげ物をしつこく売り込みにきます。片言の日本語を話し、なかには、かなり上手に英語を話す人もいます。「今日はヒマラヤは見えないけれど、明日の朝はホテルからでもきっとよく見える。私たちには分かるのだ」というようなことを言っていました。地元の人が言っているのだから、その通りかもしれない、と私はかすかに翌日に期待をつないでいました。
翌朝は、早朝の5時半にホテルを出て、チョーレパタンへ向かいました。フェワ湖南側の丘陵で、標高1113メートルのその頂上には、“World
Peace Pagoda”の名で知られる日本山妙法寺があります。その広い境内からのヒマラヤの景観が絶景だというのです。バスで約30分走り、道が狭くなってからはバスを降りて、懐中電灯で足元を照らしながら登り道を一時間近くも歩き続け、やっとその妙法寺にたどり着きました。そこで日の出を待ち、朝日に輝くヒマラヤの山々の威容を見ようとしていたのです。しかし、結局その日も駄目でした。ほとんど何も見えません。辛うじて、マチャプチャレ(6993メートル)とアンナプルナV(7555メートル)のかすかな稜線が目に入ったくらいです。不運続きで、さすがに帰りの足取りも重くなりました。
その日は、ポカラの町の観光をしたあと、フェア湖でボートに乗ったりもしたのですが、湖に影を映す荘厳なヒマラヤの山並みはついに見ることが出来ませんでした。ポカラの同じホテルに連泊し、2日目も、早朝に起きだして、今度はもう一つのヒマラヤ観光の名所、標高1592メートルのサランコットの丘へ向かいました。交通社から渡された日程表には、「サランコット・ハイキング、霊峰マチャプチャレやアンナプルナの感動的な絶景をお楽しみください」などと書かれています。しかし、この最後の「感動的な絶景を楽しむ」チャンスも、霧で駄目になりました。私たちの今度のツアーは、珍しく、各地のどの展望台からも、ついに一度もヒマラヤの山々を見ることなく終わってしまったのです。ポカラからカトマンズへ帰る小型機も、霧で離着陸できないからということで、何時間も遅れて、カトマンズにたどり着きました。
成田を出発して6日目、明日の帰国を前にして、私たちはその日の朝の「ヒマラヤ遊覧飛行」に最後の望みを賭けていました。ホテルのロビーに
6時に集合して空港へ向かうことになっていたのですが、現地ガイドのソルさんが空港へ電話してみたところ、視界が悪くて飛べる状態ではないという返事です。一旦部屋に帰って、霧が晴れるのを待ちました。10時ごろになって、少し霧が晴れてきたというので、期待しながら空港へ行ってみました。1500メートルの視界が必要なのに、まだ600メートルの視界なので、もう少し待ってくれるようにと、と言われ、結局、12時近くになって、やっと、遊覧飛行の小型機は私たちのグループを含めて20人の乗客で離陸したのです。
小型機は北東へ向かって高度を上げていきます。すぐに雲の上に出て、15分も飛ぶと、左側の窓からは壮大なヒマラヤ山脈が白い雪を頂いて連綿と続いているのが目に入ってきました。7〜8000メートルの山々ですから、さすがに高さが違います。日本でも、飛行機から富士山の遠景を何度が見たことはありますが、ヒマラヤの山々は高さが3776メートルの富士山の二倍もありますから、山脈全体が雲の上にそっくり浮いているような感じです。ネパール人のスチュワデスが「あの左の方に見えるのがマナスル(8163メートル)です。正面に見えるのがランタン・リルン(7234メートル)です・・・・」と次々に山の名前を教えてくれました。山々の頂が白く輝いて荘厳な美しさです。近づいていくにつれて、乗客からは感嘆の声があがりはじめました。そして、まもなく8850メートルのエベレストの偉容も視界に入ってきました。
ヒマラヤ山脈は、インド・チベット間に東西に連なる長さ2550キロ、幅220キロにおよぶ大山脈ですから、全体を一望することは出来ません。飛行機で一時間近く周辺を飛びまわっても、マナスルからエベレストあたりの中央部を見ることが出来るだけです。私は、小さな木の葉のような小型機に揺られながら、この白く輝く「神々の座」を吸い込まれるように眺めていました。1億年前には広い海であったのが、7000万年前にはインド亜大陸がアジア大陸にぶつかり、じりじりと大陸を押し上げていく。そして、2500万年前から1000万年前にかけて、かつての海の底が、このような大山脈になった―。まさに、「神の座」にふさわしい壮大なドラマの、今の一こまを見ているのだという感慨が沸き起こってくるのです。
ヒマラヤ山脈に近づいてからは、乗客は一人ひとり交代でコックピットに招き入れられ、コックピットのなかから、目の前に広がる大パノラマを写真に収めることができました。雲の上を飛び続ける小型機のすぐ前には、白く、美しく、神々しく、ヒマラヤの高峻な山々が広がり、そのなかには、エベレストが磐石の重みと威厳を見せながら頭角をあらわしています。この一瞬の感動を味わうために参加したツアーが、これで報われたような気がしました。おそらく、ほかの同行者の皆さんも同じ思いであったことでしょう。ネパールに来てヒマラヤを見ることが出来ないというそれまでの不運続きににもかかわらず、6日目にやっと手にしたその幸運に感謝しながら、私たちは、何の不満もなく、翌日、帰国の途につきました。
(2007.02.01)
臨死体験と体外離脱による宇宙への旅 (身辺雑記48)
立花隆氏は、日本では「知の巨人」といわれたりもしているが、むかしから臨死体験には深い関心を寄せてきた。その立花氏が、日本国内や海外の臨死体験者との幅広いインタビューを基にまとめた『臨死体験(上)』(文芸春秋社、1994年)のなかで、臨死体験の記録の信憑性を判断するには、臨死体験をした人自身の言語表現能力、記憶力、観察力、内省能力などが考慮されなければならないという意味のことを述べている。
数多くの体験例のなかには、にわかに信じられないような事例もないわけではないから、立花氏がそう述べているのも当然のことと言っていいであろう。そして、現実には、そのような能力を備えた人の臨死体験を知ることが出来る機会は、決して多くはない。そのなかで、立花氏は、C.G.ユングの臨死体験に触れて、次のように書いている。
《しかし、ここに、このすべての能力をかねそなえた原体験者自身が記録者になったという稀有の体験例がある。それは、ベッカーさんとの対話の中でも話に出た、精神医学の巨人、C・G・ユングその人である。ユング自身が臨死体験をしているのである。それが彼の自伝(邦訳、みすず書房刊)の中に詳細に記されている。
「一九四四年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて、足を骨折するという災難にあった。意識喪失のなかで譫妄状態になり、私はさまざまの幻像をみたが、それはちょうど危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまったに違いない。幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付き添っていた看護婦は、『まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした』といっていたが、彼女のつけ加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。私は死の頼戸際忙まで近づいて、夢みているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。
私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた・・・・・」
このあと、彼が宇宙から眺めた地球の姿の記述がつづくのだが、それを読んで私(立花隆)は驚いた。それが客観的な宇宙から見た地球像とよく合っていたからである。これが現代の記述なら私も驚かない。我々はみなアポロが撮った地球の写真を見ているから、ユングと同じように地球を描写できるだろう。しかしユングは、これをアポロ以前どころか、ガガーリン以前に書いているのである。ガガーリンが宇宙から地球を見て、「地球は青かった」というまでは、誰も宇宙から地球を見ると青く見えるなどということは知らなかったのである。しかもユングは、ガガーリンが見た位置(181〜327キロ)よりはるかに高いところから見た地球の姿を正しく描写しているのである・・・・・・》(pp.51-52)
ユングの見た地球は、どれくらいの高度からであったか。それは、ユング自身が自伝のなかで、ほぼ、1500キロメートルであると言っている。「この高度からみた地球の眺めは、私が今までにみた光景のなかで、もっとも美しいものであった」とも述べている。ガガーリンが人類史上初めて宇宙へ飛び出したのは、1961年のことであったから、ユングは、その15年も前に、ガガーリンよりも数倍も高いところから「青光に照らしだされている」地球の姿を見ているのである。しかも、その記述は、立花氏が述べているように、客観的な地球像とよく合っているのだから、これはやはり、ユングが実際に宇宙へ飛び出して、自分の目で地球を見てきたのだと考えるのが妥当であろう。
この同じ本のなかには、立花氏がアメリカで、キュブラー・ロス博士に会ったときの話も出ている。彼女は、一昨年(2004年)8月24日に亡くなっているが、生存中には臨死体験の記録を二万例も集めて、死後の生を説き続けてきたことはよく知られている。彼女自身も臨死体験をしたことがあるのは、自身の著書の中で述べている通りである。立花氏が、このキュブラー・ロス博士にインタービューしている場面は、1991年3月17日の「NHKスペシャル」で放映された大型ドキュメンタリー番組
『臨死体験』のなかにも出てくるが、このとき、立花氏は彼女に、「・・・・ロスさんは、臨死体験以上に、体外離脱をしたという経験はありませんか」と訊いている。それに対して、彼女は答えた。
「あります。何度もあります。好きなときに好きなように離脱できるというわけではありませんが、十五年ほど前に、宇宙意識セミナーに出て、人間は誰でも体外離脱能力を持っており、訓練によってその能力を引き出すことができるということを学び、それができるようになったのです。そういうことができる人が、何千人、何方人といるのです」
立花氏が「体外離脱してどこに行くんですか」と重ねて訊くと、彼女の答えはこうであった。
「いろんなところに行きます。その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、別の銀河まで行ってしまうこともあります。ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました。そこの人たちは、地球人よりずっと優れた文明を持っていて、『地球人は地球を破壊しすぎた。もう元に戻らないだろう。地球が再びきれいになる前に、何百万人もの人間が死ぬ必要がある』といっていました。(pp.439-440)
体外離脱して、「別の銀河まで行ってしまうこともある」というのは大変なことである。太陽を中心としてその周りを回転している地球、火星、木星、金星などの惑星やそれらに属する約50個の衛星、さらに約4千の小惑星や彗星などから成る太陽系が、私たちにとっては「身近な」宇宙なのだが、その太陽系を含めた約2千億の星々が銀河系を構成している。その直径は約15万光年といわれている。そしてさらに、宇宙には、そのような銀河系が1250億個もあるとされているのである。途方もない広さで、想像を絶するとしかいいようがない。
光速とはいうまでもなく、一秒間に30万キロメートル走る光の速さを基準にしたものだが、これで、一年間に進む距離が1光年で、約9兆4千億キロ。時速270キロの新幹線「のぞみ」でなら400万年かかる計算になる。それをさらに15万回繰り返さなければ、私たちの銀河系の外へは出ることが出来ない。それを、キュブラー・ロス博士は、「体外離脱で行ってしまうことがある」というのである。
「ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました」という発言も、ちょっとした海外旅行にでも行ってきたようにも聞こえる気軽さだが、「すばる」までの距離は410光年にもなるらしい。七夕星「ベガ」への26光年に比べても、格段の遠距離である。そこまで行って、「そこの人たち」に会ってきたという彼女の話を、私たちはどのように受け留めていけばよいのであろうか。
もちろん、霊的な尺度では、時間も空間も超越しているから、「別の銀河」へ行くのも「プレヤデス星団」へ行くのも、大差はないのかもしれない。しかし、この壮大な「旅行談」にはただただ圧倒されるばかりである。しかも、これを語っているキュブラー・ロス博士も、おそらく、あの精神医学の巨人・ユングと同様、「言語表現能力、記憶力、観察力、内省能力などのすべての能力を充分に兼ね備えた原体験者であることを、私たちは忘れるわけにはいかないのである。
(2006.12.01)
アーミッシュの人たちの愛と赦し (身辺雑記47)
去る10月2日、アメリカでは、また、学校銃撃事件が起こった。銃をもった32歳の男が学校に侵入して、少女ばかり3人を縛ったうえで射殺し、8人に怪我を負わせたのである。ペンシルバニア州ランカスター郡のアーミッシュの学校でのことであった。負傷した少女のうち二人は、頭部を撃たれるなどして重体だったが、運ばれた病院でいずれも死亡したので、死者は5人になった。容疑者の男性は、銃を乱射したあと自殺したと報じられている。ペンシルバニア州警察の発表では、この事件の背景には自殺した容疑者の女児に対する性的暴力願望があったというが、なぜアーミッシュの学校を選んだのかは明らかではない。(「朝日」06.10.07.など)
アーミッシュ(Amish)というのは、メノー派からでたプロテスタントの一派で、少数キリスト教派である。スイス人のメノー派監督ヤコブ・アマンが17世紀末に創始した宗派で、アーミッシュという名称は彼の名に由来する。スイスを中心にドイツ語圏にひろがっていったが、弾圧をうけ、18世紀にアメリカのペンシルバニアに移住した。時を経て、そこからさらにオハイオなどの中西部や、カナダに移り住んだ。しかし現在はアーミッシュの存在は米国に限られ、ペンシルバニア州やオハイオ州に住む彼らの子孫は、十数万人といわれている。アメリカ英語でPennsylvania
Dutchというのは、おそらく正確にはPennsylvania Deutschで、これは、彼らが使う英語交じりのドイツ語方言のことである。
彼らは、一般市民と離れて集団で自給自足の生活をいとなみ、閉鎖的な社会を形成してきた。特有の厳格な聖書解釈にもとづき、現代的な暮らしや暴力を否定する。だから今でも、アメリカに入植した18世紀のままの生活様式を守り、テレビや自動車などを含めて、電気や近代的機械などのいっさいの文明機器を使用しない。服装も黒が中心で、男性は幅広の帽子をかぶって長いひげを生やし、女性は頭髪を隠して黒い靴を履くのが基本になっている。投票や徴兵など、アメリカ国民の権利や義務も拒否して、子どもたちへの教育も、自分たちで行っている。この事件のあったアーミッシュの学校もそのような彼ら独自の学校の一つであった。
アーミッシュそのものの存在や聖書に沿う敬虔な暮らしぶりについては、もう50年もむかし、留学生としてアメリカにいたときから私は知っていた。しかし、今度の事件で明らかになった犠牲者の少女や遺族たちの深い愛と赦しの姿には、あらためて強い感銘を覚える。事件を知らせる新聞にも、「アーミッシュ流にメディア驚嘆」というヘッドラインを付けたりしていた。まず、犠牲者のなかで最年長であった13歳のマリアン・フィッシャーさんである。教室に残された10人の女児を容疑者が撃つつもりと分かった時、彼女は「私を撃ってほかの子は解放してください」と言って進み出た。それをマリアンさんの妹で、病院で意識を回復した11歳のバービーさんが話している。そのバービーさんも、「その次は私を」と言った。マリアンさんは撃たれて死亡し、バービーさんは肩に重傷を負った。亡くなった中には、マリアンさんのほか、12歳、8歳と2人の7歳の女児も含まれていた。
容疑者の家族は、アーミッシュの一員ではないものの、同じ地域に住んでいるらしい。それだけに、これだけの大きな殺傷事件を引き起こした容疑者の家族たちは、身の置き所もない思いであったろう。ところが、アーミッシュの人たちは、この家族を事件の夜から訪ねて赦しを表明し、手をさしのべたというのである。遺族の一部は容疑者の家族を子どもの葬儀に招いたとさえ伝えられている。アメリカはキリスト教の盛んな国であるが、このようなキリスト教徒の姿は、決して一般的ではない。悲嘆にくれる中にも暴力を愛と赦しで包み込むアーミッシュの人びとの生き方に、アメリカのメディアは「慈悲の深さは理解を超える」「女の子の驚くべき勇気」などとして報道しているという。(「朝日」06.10.07) これは、キリスト教社会のなかの信仰のあり方にも、大きな落差を示すことにもなった。
アーミッシュの人たちが物質至上主義の現代的な暮らしを退けるのは、キリスト教徒として、モノよりもこころを重んじるからであろう。誰も「神と富とに兼ね仕えることはできない」からである。銃の横行に象徴されるような「力」を信奉するアメリカ社会のなかで、一切の暴力を排する生き方を貫こうとするのは、忠実に聖書の愛の教えを守ろうとするからであろう。「だれかが右の頬を打つなら、ほかの頬をもむけよ」とイエスは教えた。そして、彼らが、死後の世界への強い信仰をもっているのも、イエスの教えを正しく理解すれば、当然の帰結であるといえる。本来のイエスの教えとは、人間が霊的存在であり、霊であるからこそ永遠であるという真理を中心に据えたものではなかったであろうか。問題は、むしろ、同じキリスト教徒でありながら、或いは、キリスト教徒でなくても、仏教徒などをも含めて、「慈悲の深さは理解を超える」と驚いている側にあるのかもかもしれない。
少数キリスト教派のアーミッシュの人たちがこの事件で見せた態度と行為は、それが現在の社会では極めて稀な愛と赦しの実践であるが故に、私たちは改めて、真の宗教とは何か、ということについても考えさせられる。イエスの教えが2千年の歴史のなかで、時の権力者や聖職者、神学者たちによって歪められ、弱められてきた、という指摘を思い起こしたりもする。ほかの宗教も、多かれ少なかれ、おそらく例外ではない。そのなかで、やはり、私たちのこころに強く響いてくるのは、シルバー・バーチのつぎのようなことばである。
《地上人類は道を見失い、物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ、それが戦争と暴力と憎しみを生んでおります。霊の優位性を認識し、人間が肉体をたずさえた霊であることに得心がいく― 言いかえればすべての人間が神の分霊であり、それ故に人類はみな兄弟であり姉妹であり、神を父とし母とした一大家族であることに理解がいった時、その時はじめて戦争も暴力も憎しみも無くなることでしょう。代わって愛と哀れみと慈悲と寛容と協調と調和と平和が支配することでしょう。》 (『シルバー・バーチの霊訓 (11)』 p.54)
(2006.11.01)
完璧で美しいシルバー・バーチのことば (身辺雑記46)
近藤千雄氏が訳した『シルバー・バーチの霊訓』は総集編の1冊を含めて12冊ある。このほかにも同氏による『古代霊は語る』があり、桑原啓善氏が訳した『シルバー・バーチ霊言集』もある。2003年には、Silver Birch Speaks 『シルバー・バーチは語る』というCD版も出て、私たちはシルバー・バーチの肉声がそのまま録音されているのを直接聞くことができるようにもなった。私たちは、2000年前のイエスのことばを聞くことはできない。2500年前の釈迦のことばを聞くこともできない。しかし、3000年前のシルバー・バーチのことばは、霊媒のモーリス・バーバネルを通してではあるが、こうして聞くことができるのである。私は、シルバー・バーチのことばの一部を講演会の会場に流して、聴衆の方々に聞いていただいたこともあった。これは、誇張でなしに、世紀の奇跡と言ってもいいのではないか。
シルバー・バーチのことばについては、数多くの人びとがその完璧さと美しさを限りなく賞賛している。「霊言集」の一読者は次のように言った。「文章の世界にシルバーバーチの言葉に匹敵するものを私は知りません。眼識ある読者ならばそのインスピレーションが間違いなく高い神霊界を始源としていることを認めます。一見すると単純・素朴に思える言葉が時として途方もなく深遠なものを含んでいることがあります。その内部に秘められた意味に気づいて思わず立ち止まり、感嘆と感激に浸ることがあるのです。」(『霊訓(9)』 pp.26-27) 霊媒を務めたモーリス・バーバネルも、彼自身が有能な著作家、編集者として知られていただけに、シルバー・バーチのことばの美しさについては誰よりもよく理解していた。彼は、シルバー・バーチのことばを「霊の錬金術」として、つぎのように激賞している。
《年中ものを書く仕事をしている人間から見れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けるということ自体が、すでに超人的であることを示している。誰しも単語を置き換えたり消したり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っ引きでやっと満足のいく記事が出来上がる。ところがこの「死者」は一度もことばに窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を高揚し、気高さを感じさせるのである。》(『霊訓(1)』 p.12)
しかし、そのシルバー・バーチですら、このように、稀代のことばの達人として霊界から語りかけるのには、霊界での長い準備と勉強が必要であった。霊の世界ではことばは使わないから、地上へ降りてきて霊能者に乗り移った霊は、意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変える必要がある。だから彼は、心霊知識の理解へ向けて指導するという使命を帯びて地上に降りるとき、いろいろな周到な準備のほか、英語の勉強もしたことを、自らつぎのように述べている。
《あなた方の世界は、私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなければなりません。地上の同士を見つけ、その協力が得られるよう配慮しなければなりません。それから私の代弁者となるべき霊能者を養成し、さらにその霊能者を通じて語る真理を出来るだけ広めるための手段も講じなければなりません。それは大変な仕事ですが、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証を得ました。そして計画はすべて順調に進みました。》(『古代霊は語る』 p.14)
1920年代にこの霊能者として選ばれたのがモーリス・バーバネル氏であるが、シルバー・バーチは、氏が生まれる前から調べ上げて彼を選び、その受胎の日を待っていたといわれている。また、ここで同士というのは、当時、反骨のジャーナリストとして名を馳せ、「英国新聞界の法王」とまでいわれたハンネン・スワッハー氏であった。氏は、シルバー・バーチのための交霊会を、はじめは私的なホーム・サークルという形で開いたのであるが、それが延々と半世紀も続いて、シルバー・バーチの教えは、人類の膨大な知的遺産として残ることになった。その恩恵を私たちもいま受けていることになる。
「語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反発を感じ理性が納得しないときは、かまわず拒絶なさるがよろしい」
とくり返していたシルバー・バーチが、一旦口を開くと、「何ともいえない、堂々として威厳に満ちた、近づきがたい雰囲気が漂い始め」て、交霊会の出席者たちは、思わず感涙にむせぶこともあったという。活字になってしまうと、そのような雰囲気は伝わりにくいのだが、ここでは、シルバー・バーチの教えのほんの一部を、再現してみよう。
交霊会では、話が終わったあと、シルバー・バーチはどんな質問にも、明快的確に即答していたが、ある日、「霊界についてテレビで講演することになったとすれば、どういうことを話されますか」という質問が出たのである。すかさず、彼はこう答えた。
《私はまず私が地上の人たちから「死者」と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明いたします。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請いたします。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを全うして、一たんべールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。
私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反発させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを訊いてみます。私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。
人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている・・・・・・
黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役立てたいと望んでいるのです・・・・・・》
ここで、これらがシルバー・バーチのことばであると聞かされても、テレビに映って話していると仮定されているのは、モーリス・バーバネル氏のはずだから、バーバネル氏の口からシルバー・バーチのことばが出てくることに一種の違和感を持つ人もいるかもしれない。霊能者の意識と発声器官を占有していることが理解できても、霊能者の潜在意識が影響を与えるということはないのか、と考えたりもする。一般的には、霊の意識が霊能者を通じて百パーセント正確に伝えられることは非常に難しい、ともいわる。しかし、この場合は違うようである。シルバー・バーチは、バーバネル氏を生まれる前から選び、霊界からの操作で、生まれてからもさまざまな霊能者になるための経験を積ませ、その結果、氏の潜在意識を完全に支配して、自分の考えを百パーセント述べることが出来ると言っているのである。(『古代霊は語る』 p.18)
「金銭目当てで言っているのではない、聞くも聞かぬもあなた方の自由」というのも説得力がある。世の中には、いわゆる霊感商法とか、悪霊除去とかで法外なカネをとる悪質業者が後を絶たないが、本来、真理を伝えるのにカネを要求することはないはずである。逆に言えば、法外なカネを要求するような教えや霊的治療は、真理とはかけ離れたものといえるであろう。
一方、いくら無償の愛のこころで真理を伝えようとしても、「聞く耳をもたない」人も少なくはない。いのちの真理を知らず、知ろうともせず、「死んだ」家族に取りすがってただ泣いてばかりしているとすれば、その人こそ本当の意味での死者である、というのもよく理解できる。現に「死者」であるシルバー・バーチが言っているわけだから、これほど確かな「証人」はいないのである。シルバー・バーチのことばは、さらに、こう続く。
《・・・・・・見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。その愛と叡智をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊とのつながりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。
そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧噪を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃として存在する霊的生命の幽かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。・・・・・・以上の如く私は述べるつもりです。》(『霊訓(3)』 pp.76-78)
「霊界についてテレビで講演することになったとすれば、どういうことを話すか」と言われて、シルバー・バーチは即座に、こう答えた。少しの淀みもなく、すらすらと、このように答えているのである。私たちは普通、原稿を書いている場合はもちろんのこと、講演内容を文章にする場合も、こまかい修正を加えたり、加筆したり、削ったりの作業を常にしていかなければならない。講演で話されたことがそのまま一字一句活字に置き換えられるというようなことは、まずない。それが、シルバー・バーチの場合は、違うのである。話の高遠な内容もさることながら、このようにしてシルバー・バーチのことばが、そのまま、活字になり本にされている「神業」に深い感銘を覚えずにはいられないのは、私だけであろうか。
(2006.10.01)
一筋の光をよりどころに (身辺雑記45)
今年も「9月1日」がやってきた。あの大韓航空機撃墜事件のあった日で、私の妻・富子と長男・潔典の命日にあたる。事件当時は、悲嘆のどん底にあって、ほとんど寝たきりのような状態であったが、あの頃から、もう23年が経過した。大切な家族を失って、前途に何の希望ももてず、早く死んだ方が楽になるというようなことさえ考えたりしていたのに、私は23年も生きながらえてきたことになる。この日の感慨は、ひとしお深い。
18年前の今頃、事件後5年を経て、私はやっと、いくらか霊界のことを理解し始めるようになっていた。私は長年、地方の国立大学で教鞭をとってきたが、一般的にいって大学教授の知性というものは霊的知識とは隔絶されたところにある。その牢固とした大学教授の常識から抜け出していくためには、私にはことさらに長い時間が必要であった。霊的には人一倍、頑迷固陋であったというほかはない。
その頃、かつて長男の潔典が家庭教師をしていた高校生と中学生の兄弟の、母親Yさんに宛てた手紙がある。Yさんは熱心なクリスチャンであった。事件後もなかなか立ち直れないでいる私のために、キリスト教の死生観といったものを教えてくれようとしたこともあった。そのYさんに、私はつぎのように書いている。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
九月六日付けのお手紙、拝受いたしました。『大韓航空機事件の研究』への寄金もご同封いただきまして、たいへん恐縮に存じております。
八月二十七日には、わざわざご家族全員で宗谷岬まで行かれて、祈りの塔の前で潔典へ語りかけて下さいました由、まことに有り難うございました。いまでは大学院生、大学三年生と立派に成長されたお子様たちとも久し振りにお会いすることができて、潔典もさぞなつかしがっていたことでしょう。理不尽な事件のために勉強のお相手を不意に中断しなければならなくなったことをお詑びしながら、いとおしいお二人へのあふれるような思いを、懸命に伝えようとしていたことと思います。その潔典に代わりまして、そしてその時潔典と一緒に、深く頭を下げてご挨拶をお返ししていたにちがいない妻のためにも、こころから厚くお礼申し上げます。
あの忌まわしい日から五年が過ぎて、私はいま、やっと少しずつ、潔典が母親とともに「生きている」ということがわかりかけてまいりました。絶望の淵に沈みながら、藁にもすがる思いで仏典を求め聖書をひもとき、なお理解できずに苦しみ悩む。そういう数十か月の坤吟の闇のなかにかすかに射し込みはじめた一筋の細い光が感じ取られます。おそらく、これからの私は、この一筋の光をよりどころにして、生きていくことになるでしょう。
いつか、お手紙のなかで、内村鑑三についてお教えいただいたことがありましたが、岩波文庫『基督信徒のなぐさめ』の中の「愛するものの失せし時」に、「万を得て一つを失わず」と述べられているくだりがあります。私は、内村鑑三が愛児を失った悲しみの果てにたどり着いたこの境地を、あり得る一つの可能性として、折にふれては反すうしてきました。私のような凡俗にはまだはるかに程遠い境地で、これから先歩んでいかなければならない長く険しい道のりと、いくばくも残されていないであろういのちの短さを考えますと、一抹の不安が無いわけではありません。しかし、このような境地が厳として存在していた事実は、目の前の活字の文字と同様に、否定しようにも否定のしようがなく、私はそのことにむしろ希望を繋いでいきたいと思っています。しかも内村鑑三のこのことばは、さらにつぎのように続けられているのです。
《余の得し所これに止まらず、余は天国と緑を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何日かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眼に就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽しみによく戦い終えのち心嬉しく逝かんのみ。》
かつては教養書として目を通していただけで、その次元を越えた深い認識と透徹した思考内容にも、特に深い感動を覚えることもなくほとんど忘れてしまっていた本でした。しかし、この「愛するものの失せし時」が現実に自分のことになってしまってからは、悲しみに耐えかねてページを開き、苦しみと迷いの中で読み返してみて、これらのことばが、私には新しい「発見」になっていきました。いまではその深い意味合いも少しは理解できるようになり、私なりの生きる道への模索で、ひとつの大切な指針になっているような気がいたします。
あの日から五年を経た現在、折にふれてはあたたかくお心をかけて下さいましたご温情に対し、改めてこころからの感謝をこめて、近況の一端を書き綴ってみました。ご主人やお子様たちにも、どうぞよろしくお伝え下さいますようお願い申し上げます。
同封して、潔典のかつてのリポート「歴史・比較言語学における英語のいくつかの現象」のコピーを一部お送りさせていただきます。潔典が東京外国語大学二年生の学年末試験終了後に書いたもので、今年の春、私が補注をつけて五年ぶりに雑誌に載せました。この頃の潔典は、言語学者への道を目指して若々しい情熱を燃やしながら、お子様たちとの勉強にも、楽しく没頭していたようで、私もアメリカにいて、百合が丘のお宅での団欒のことなどよく聞かされていました。あの頃の勉強の思い出にお子様たちにもご一読していただくことができれば、たいへん有り難く存じます。(1988.9.10)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
潔典は大学一年の秋頃から家庭教師をしていた。この手紙のYさんの長男と次男で当時は高校二年生と中学三年生であった。ふたりとも成績優秀で、気のやさしい生徒であったという。私はその頃アメリカにいて、潔典が受験生を二人も引き受けていたことがちょっと気懸かりでもあった。自立心を養うためにアルバイトはいいとしても、潔典自身の勉強に負担にならないだろうかと思ったのである。しかし潔典は、むしろ楽しみながら毎週二回、小田急線百合が丘のYさんのお宅へ元気に通っていたようである。
このリポートを書いていた頃の潔典と私は何度も国際電話で話をしている。春休みにアメリカへ行けなくなったということで、アリゾナで待っていた私も辛い思いをしていた。このリポートに補注をつけたあと、私はつぎのような「あとがき」を書いた。
[追 記]
私事にわたるが、ここで若干の「あとがき」をつけ加えることをお許しいただきたい。
本文は、私の長男、武本潔典の遺稿である。これが書かれたのは一九八三年の、多分二月下旬、潔典が東京外国語大学英米語学科二年生の学年末試験終了後であったと思われる。言語学担当の宮岡伯人教授に出されたもので、同教授は、かつて小樽商科大学で私の同僚であった。このレポートが出されたいきさつについては、後に同教授から、追悼の本の出版の際に寄せられた「潔典君を偲ぶ」という一文の中で、次のように述べられている。
《・・・・・・つたない言語学概論の授業に出てきた潔典君は、わたしの関西弁の講義はまどろしかったのでしょう。ノートをとりながら、「ニューズ・ウイーク」か(どうか大教室の教壇からは然とは判らぬものの)なにか週刊誌を開いて、回転の早い頭の片側で英語を勉強しておられたようです。
最終試験はたしか、ご祖母さまのご不幸があって受けられぬということで、代わりにレポートを求めました。提出されたのは「歴史・比較言語学における英語のいくつかの現象」というタイトルの、幅広くかつ正鵠をえた理解にもとずく、手際よく縛められた好編(四百字詰め一四枚)でした。》
この文中の「ご祖母さまのご不幸があって」とあるのは、当時、荻窪に住んでいた母方の祖母、山本雪香の死亡である。二月九日のことで、胃癌であった。私はその前年の夏から、フルブライト客員教授としてアリゾナ大学にいた。はじめ同行するはずであった妻は、母親の看病のために東京に残っていたが、悲しみと過労のために、葬儀のあと寝込んでしまった。
制度の違いで、アリゾナ大学では三月中も授業は行なわれている。私は言語学者を目指していた潔典が、東京での春休み中に、アリゾナ大学での言語学講義を受講出来るよう手筈を整えて待っていたのだが、この祖母の死亡で、彼は三月の受講を締め、母親とともに訪米を夏休みに延ばした。そして、短い夏のアメリカを家族水入らずで過ごしたあと、帰国の途中、あのKAL〇〇七便に乗ってしまったのである。
私は、あとを追うようにしてアメリカを離れた。それはレクイエムの旅のはじまりであった。多摩の丘の上の緑のなかに潔典のために買ったアパートがある。無明の闇をさまよいながら、二か月目にやっとなかへ入った。その、富士が見える潔典の勉強部屋には、東京外国語大学入学以来彼が買い集めた約二百冊の言語学を中心とする和洋の蔵書と、のめりこむように愛読していた雑誌「言語」(大修館)、英文雑誌「TIME」が揃って残されていた ―。あれからすでに四年余の歳月が経つ。
おそらく、いまの彼なら、この間違いなく彼のものであった二年間の学問的基盤の上に、さらに四年の蓄積を重ねて、このようなささやかなリポートの代わりに、言語学の世界を闊歩する楽しみを、きちんとした学術論文で表現していることであろう。しかし、それを確かめるすべは、父親の私にも最早ない。ただ私に出来るのは、この本文の理解を助けるための若干の補注を付け加えることで、これを書いていた二〇歳の時の潔典と小さな、たましいの対話をこころみることだけである。そしてそれとともに、彼の足跡を一つ、ここにこうして留めさせていただくことにもなった。(『アメリカ・光と影の旅』文芸社、所収。
リポートとも)
(2006.09.01)
役の行者の足跡 (身辺雑記44)
役の行者を開祖とする吉野山・金峯
山寺の蔵王堂(国宝)。役の行者が
感得して桜の木に刻んだという蔵王
権現が本尊として祀られている。
. 筆者撮影(2006.07.20)
奈良の生駒山山腹に不動明王坐像を本尊とした宝山寺というお寺があります。「生駒聖天さん」と呼ばれて関西ではひろく親しまれている名刹です。私は、小学校に入る前から、毎年父に連れられて、この宝山寺へ初詣に出かけるのが慣わしになっていました。昭和10年代の初めの頃、毎年元旦の朝は、当時住んでいた大阪市大正区の新千歳町から、2時か3時ごろだったでしょうか、まだ暗いうちに家を出て、初詣用の市電で「上六」と呼ばれていた上本町6丁目まで行きます。そこから、近鉄奈良線に乗って生駒で降り、あとは果てしなく続くように思われた石段をひたすらに上っていくのです。石段はお寺の境内まで辿りつくのに30分くらいはかかっていたかもしれません。
私は知りませんでしたが、当時すでに生駒の鳥居前から宝山寺までは、日本では最初といわれるケーブルカーが走っていたようです。延長距離948メートル、高低差146メートルの宝山寺線で、大正7年の8月29日から運行が始まっています。しかし、元旦はものすごい数の人出ですから、ケーブルカーに乗ろうと思えば、何時間も待たされたのかもしれません。私は、ケーブルカーのことは知らず、西も東もわからず、人ごみにもまれながら、父に必死にしがみついて歩いていましたが、この初詣は、父の転勤で私の小学校5年生の時に一家で大阪を離れるまで続きました。私の子供の頃の懐かしい思い出の一つです。
宝山寺の境内に入りますと、本堂のうしろに般若窟という切り立った巌山がそそり立っているのが見えてきます。「般若窟」の名は、役の行者(えんのぎょうじゃ)として知られている役君小角(えのきみおづぬ)が、この場所に般若経を納めたところから名付けられました。いまはこの般若窟を背景に、いかにも仙人らしい雰囲気を漂わせている役の行者の等身大の像が境内を見下ろしています。役の行者は、『続日本紀』にも記録が残されている実在の人物で、卓越した超能力者であり呪術者であったといわれています。舒明6年(634年)1月に、大和国葛城山麓の茅原の里(現在の御所市)で産声をあげたといいますから、もう1300年以上も前の人物です。
役の行者は、若い頃より金剛葛城の山々で修練を積み、そのあと大峰山系、箕面、生駒山系などでも修行して、最高の法力である孔雀明王の術を会得したといわれています。「孔雀明王の術」といってもそれがどういうものか、ちょっと想像もできませんが、日本書記には、中大兄皇子の母皇極天皇が、斉明天皇として再び即位された年(655年)の記録に、「大空の中に龍に乗れる者あり、かたち唐人に似たり。青き油笠を着て葛城の嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠る。午の時にいたりて住吉の松のいただきの上より西に向い馳せ去りぬ」とあるそうですから、空を自由に飛ぶことも出来たのでしょう。事実、空を飛んだ話は、いろいろな形で言い伝えられてきました。後には、光格天皇より「神変大菩薩」の称号も受けています。全く人間離れをした能力の持ち主でしたが、役の行者は、そのような法力によって多くの庶民の悩みや苦しみを救ってきたともいわれています。そのことが、いまも多くの人々から、親しまれ敬われている所以なのかもしれません。
この役の行者が、宝山寺の般若窟で修行したという故事によって、宝山寺の開祖とされています。その後もここは修験道の聖地として、数多くの修験者を惹きつけてきました。寛保元年(1741年)に寺社奉行に提出された「記録写し」には、唐へ渡る前の弘法大師(774〜835)も、ここで修行したことがあると記されているのだそうです。もちろん、この宝山寺へ初詣を続けていた頃の幼い私には、そういうことは何も分かっていませんでした。ただ、この初詣は、幼い私にとっては「待ちに待った正月」を迎えたことを意味していましたから、そのことだけがうれしく、よそ行きの服を着て、普段は履かない革靴で、父にしがみつくようにしてあの長い石の階段を上り下りしていただけです。いまではそれも、もう遠い昔のことになってしまいました。
この間、久しぶりに奈良を訪れ、法隆寺や飛鳥寺、長谷寺などをまわった後、「女人高野」として知られる室生寺や吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)へも足をのばしました。室生寺は、奈良県宇陀郡室生村にある真言宗室生寺派の大本山です。そして、金峯山寺は、奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗の総本山で、いまでは世界遺産の一部になっています。実は、それぞれに有名なこの二つの名刹も、宝山寺と同じように、役の行者が創設したといわれているお寺です。
室生寺は、役の行者が修験道場の基礎を創り上げたあと、奈良時代に入って、室生寺と呼ばれるようになりました。現在の室生寺の「略縁起」には、その創設がつぎのように記されています。
・・・・・やがて奈良時代の末期、この聖なる地で皇太子山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の高僧賢憬など五人の高徳な僧によって行われ、これに卓効があったことから、勅命により国家のために創建されたのが室生寺である。だが建立の実務に当たったのは、賢憬の高弟修円であった。修円は最澄や空海と並んで当時の仏教界を指導する高名な学僧であった。以来室生寺は、山林修行の道場として、また法相・真言・天台など、各宗兼学の寺院として独特の仏教文化を形成するとともに、平安前期を中心とした数多くの優れた仏教美術を継承する一方、清冽な渓流は竜神の信仰を生み、雨乞いの祈願も度々行われて来た。
室生寺の門前を流れる「清冽な渓流」は、私が訪れた時には生憎の雨で、泥を含んだ濁流になっていましたが、あまり人出のない広大な境内を、傘をさしてゆっくり歩いていくのもいいものだと思いました。国宝の金堂と本堂を通り、平安時代の初期に建てられたこれも国宝の五重塔の横から、急な斜面の石段を二百段ほども上りきると奥の院・御影堂の前に出ます。弘法大師42歳の像を安置した方三間の建物で、厚板段葺きの屋根の頂上に石造りの露盤が置かれているのは、他に例をみない様式のようです。たまたまその日は、お堂の扉が開けられていましたので、私は、弘法大師像の前で、ひとり静かなひとときを過ごしました。
吉野の金峯山寺の蔵王堂は正面7間、側面8間の大建築で、国宝にも指定されています。このなかに祀られているのが、本尊の蔵王権現三体です。これは、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩の三尊が過去、現在、未来の三世にわたって衆生を救うために仮の姿になり、悪魔降伏の憤怒の相で出現したとされているものですが、それが、役の行者が金峯山を道場として修行のおりに感得した姿だと伝えられています。役の行者は、その蔵王権現のお像をこの山の桜の木に刻みました。そのことから、この地では、桜が保護され献木が続けられて、いまではあのような桜の名所として知られるようになったわけです。私は、その桜の季節にもここへ来たことがありますが、毎年4月11日と12日には、ご本尊の蔵王権現に対し、ご神木である山桜の満開を報告し、お供えをする花供懺法会も開かれているようです。
役の行者の足跡は、私の小さな旅のなかでも大きな位置を占めていますが、もちろんその足跡は、宝山寺や室生寺、金峯山寺に限られたものではありません。修験道の祖として崇められているだけに、それに自由に空を飛んでいたといわれるくらいの人でしたから、日本各地の山岳仏教のある山々には、いまもひろく役の行者の伝説が残されているようです。役の行者は、確かに遠い昔に実在した類まれな超能力者でしたが、私がいま理解しはじめている霊能力の偉大さを、この世で自在に発揮していた人であることを考えますと、私の幼少の頃からの初詣の思い出もあるからでしょうか、畏敬の念と共に、なんとなく親しみの感情も沸き起こってくるように思えてなりません。
(2006.08.01)
霊界からの二つのメッセージ (身辺雑記43)
霊界からのメッセージを受け取るのは、宇宙のはるか彼方からの微弱な電波を地上の受信機で受信するのに似ているように思われる。電波が出ていても、受信機が不調であれば、通信の内容は掴めない。逆に、受信機がいくら精巧で最上のものであっても、電波そのものが微弱すぎることもあるであろう。また、電波と受信機の双方に問題がなくても、地上に届くまでに通過する電離層の状態に通信内容が大きく左右されることも当然ありうる。それに、霊界からのメッセージの場合には、受信機役の霊能者の霊能力のみならず、霊能者を通じてメッセージを受け取ろうとしている「受信者」の霊的状況も、おそらく、影響してくるに違いない。
私の手許に二つのテープがある。大英心霊協会所属の霊能者・Hさんによる霊界からのメッセージを記録したものである。一つは、2001年の6月30日、ロンドンの大英心霊協会で、もう一つは、2003年12月17日、Hさんがロンドンから来日された時に、東京の国際文化会館で録音された。Hさんの前に座っていた「受信者」は私であるが、最初に大英心霊協会で会った時も、自己紹介のようなことはしなかったから、2度目に東京で、Hさんの前に私が座っても、Hさんは当然のことながら私のことを全くなにも覚えていなかった。
ロンドンの大英心霊協会には、数十人の霊能者がいるが、霊界からのメッセージを伝える手法は、霊能者によっていろいろと違う。霊能者がはじめから終わりまで、ほとんど一人で一方的にメッセージを伝えることもあれば、目の前に座っている人物に質問したりしながら霊能者がメッセージの内容を確認していくタイプもある。もちろん、前者の場合でも、話の途中で質問でもすれば答えてくれる。しかし、こちらが黙っていれば、聞くだけで終わってしまうであろう。私がいまでも親しくしているアン・ターナーは、このタイプである。一方、Hさんの場合は、後者であった。たとえば、2001年の大英心霊協会でのテープの一部は、通常の霊界通信にもしばしばみられるようなぎこちない部分も敢えて直訳すると、つぎのようになる。
あなたが最後に奥さんに「さよなら」を言われた時、奥さんはすぐそばに居られました。奥さんは、「さよなら」とは言いませんでした。「またお会いしましょう、あなた。神のご加護がありますように」と言ったのです。彼女は、この地上に帰ってきていたのです。その存在が強く感じられます。彼女は、「私はかなり長い間あなたと一緒にいましたよ」、と言っています。旅行の話をしています。たくさん旅行したといっています。誰が旅行したのですか。彼女がたくさん旅行したのですか。
― ええ、まあ、たくさん旅行したほうです。
あなたはどうですか。
― 私も旅行はしたほうです。妻と一緒です。
アメリカを旅行したことはありますか。
― ええ、あります。妻と一緒でした。
それに、カナダのことも浮かんできます。カナダへも行きましたか。カナダの思い出はありませんか。
― カナダにはありません。
アメリカと何らかのつながりがあるのですか、家族の誰かがいるのですか。
― 親戚はいますが。
親戚ですか。わかりました。その親戚がカナダと何らかのつながりを持っていると思われるのですが。奥さんは家族のことを話しています。息子さんはいますか。
― はい。
二人ですか。
― 一人だけです。
一人は霊界ですか。
― ええ、そうです。
もう一人は地上ですか。
― いいえ、息子は一人で霊界にいますが、もう一人は娘です。
ああ、それで。お子さんは二人ですね。
― そうです。
奥さんは、息子さんのことを話しています。息子さんは若くして亡くなられたのですか。
― はい。
非常に若い時に?
― はい。
奥さんは、息子さんは霊界で成長していると言っています。奥さんが霊界へ行った時には、息子さんはもう霊界にいたのですか。
― いいえ。霊界へ行ったのは、二人が同時です。
ああ、二人が一緒に霊界へ行かれたのですか。
― そうです。
なるほど。奥さんは霊界へ行かれたのは、もうずいぶん前のことになりますか。
― ええ、1983年のことです。
ああ、それで。大分昔ですね。彼女は霊界ではもう長くなると言ったのです。息子も私のすぐそばに居ると言っています。それに、なんか奥さんが赤い色の車のことを言っているのですが、何故ですかね。赤い車でなにか思い当たることはありますか。
― ええ、あります。私たちがアメリカに居た時、赤い車に乗っていました・・・・・・
取りとめのないような会話がこのように続いてきて、ここで、「赤い車」が出てきた。これは非常に思い出の多い車である。私たち4人家族が最初のアメリカ生活をしていた時、乗っていた車が61年型のシボレーで「赤い車」であった。1974年の夏、この車で8週間をかけて2万キロ近く走り、アメリカをざっとひとまわりしたことがある。ここで「奥さんが赤い色の車のことを言っている」と言われたのは、間違いなく妻のことばであるといっていいであろう。
もう少し「対話」を拾ってみよう。
奥さんは、あなたのお父さんに会ったことを話しています。お父さんはいま霊界ですか。
― そうです。
お母さんも霊界ですか。
― はい。
というのは、お二人ともいまここに来られて、あなたに挨拶のことばを述べているのです。愛情をこめて語りかけています。彼らは、なにか英語のような名前を言っているのですが、「トム」というのは誰ですか。
― 「トム」というような名前の者は家族にはいません。
なにか、非常に親しい感情をともなって「トム」という名前が浮かび上がってくるのですが・・・・・
― いいえ、やはり、いません。
そうですか。どうも、「トム」という感じの名前なんですが。
― もしかしたら、それは私の妻の名前のことでしょうか。
よくわかりません。わかりません。
― 私の妻の名前は、「トミコ」です。「トム」ではないのですが。
ああそうですか、それかもしれません。非常に近い発音ですね。私にこの名前を伝えようとしているのですが、それでなんとか意味がとれますね。それから、「スージー」、」「ソージー」という名前はどうですか。誰の名前かわかりますか。「スージー」とか聞こえる名前です。
― 分かりません。そういう名前は、日本語にはないのです。
ここで私がそう言ってしまったので、この名前の問題はこれで終わってしまったが、もしかしたら、これは、私の名前の「ショーゾー」のことかもしれない。英米人にとって日本人の名前が聞き取りにくいことはよくわかるから、「トミコ」を「トム」のようにしか聞き取れない耳では、「ショーゾー」が「ソージー」となっても、そんなにおかしくはない。家族からの呼びかけに私が鈍感であっては申し訳ないから、心情的にはこれは「トミコ」と「ショーゾー」であると認めたいところであるが、しかし、やはり、これで、妻と私の名前が出た、と断定するのはむつかしい。
このあと、「対話」は次のように続く。
そうですか、では次に進みましょう。あなたのお父さんが経営者のことを言っていますが、経営者とは誰のことですか、あなたですか。立派な経営者なのですが。
― いいえ、私ではありません。私の弟が経営者でしたが、もう亡くなりました。立派な経営者とはいえませんが。
あなたの姉妹のことも話していますが、姉妹はいますか。
― 姉が二人いましたが、霊界にいます。妹二人はまだ健在です。
東京という地名はあなたとかかわりがありますか。
― 私はいま東京に住んでいます。
ああ、そうですか。妹さんも東京ですか。
― はい、妹の一人は東京です。
あなたの家族で、海軍に関係していた人はいませんか。昔の親戚かもしれませんが。
― いないと思います。
どこかの海岸に、あなたの叔父さんがいるのが浮かんでくるのです。口ひげを生やした叔父さんのことは分かりませんか。口ひげを生やした人があらわれて、あなたの叔父だと言っています。海に関係のあるところで生きてきたらしいのです。海とのつながりがはっきりしているのですが。
― よく、わかりません。
私が子どもの頃、親戚の誰かが船員になっていて、海難事故で亡くなったというような話を聞いた記憶があるが、それが、ここでいう「叔父」であったかどうかはわからない。話はまたしばらく続いて、飼っていた犬の話や、妻の母親の田舎の家のことなどが出てくるのだが、いまひとつ、はっきりしない。私にはやはり、よくわからなかった。そのあと「趣味」に話題が移る。
花の大きな写真を撮りましたか。
― ええ。
奥さんがその花の写真を飾っていると言っています。
― それは、どこの部屋にですか。
あなたの寝室です。
私はわざと訊いたのだが、これは「正解」であった。娘が私の誕生日に贈ってくれたバラの花束を、写真に撮り、大きく引き伸ばして寝室に飾ってある。
このほか、長男・潔典については、誕生日が6月であること、音楽が好きで、いまも霊界で生命や宇宙について学びながら音楽の勉強も続けていること、妻については、「霊界へ来た子どもたちに強い関心を持っていて、子どもの保育の仕事をしている」、「霊界へ来る赤ん坊の世話などもしている」というようなことを言われたが、それは、それまでにも、何人かの霊能者から聞かされていたことと一致する。この、ロンドンの大英心霊協会でのHさんとの「対話」は、最後には、「あなたが霊界へ行ったとき、妻、長男、両親たち、みんながあなたを出迎えてくれるだろう」というようなメッセージで終わった。
これに対して、2年半後のHさんとの東京での「対話」のなかに出てくる情報の「正確度」は、同じ程度であるといえばよいのであろうか。この時も、やはり、妻と長男が出てきて、「アメリカの楽しい思い出のことを話している」と言われた。
家族4人でのアメリカ生活は、2度ある。初めは1973年の暮れから1974年の初めにかけてで、次は、1982年の4月からである。この2度目のアメリカ生活では、1983年の夏に私は長女と二人で、アリゾナ州のツーソンから、ノース・カロライナ州の首都 Raleigh(ローリー)へ移っていた。そこへ、夏休みを利用して、東京から妻と長男が来ていたのである。H さんの口から、急にこの「ローリー」が出てきた。
「ローリーとは何ですか。何を意味するのですかね。この言葉が頭に浮かんでくるのですが、ローリー・・・・・」
この「ローリー」は、私たち家族にとって大きな意味を持っているが、家族以外の他人にはそれが分かるはずがない。これは、間違いなく霊界から伝えられてきた名前であるといっていいであろう。しかし、このときは「ローリー」はそれだけで、話題は変わった。最初のアメリカ生活の3か月の夏休みに、アメリカ一周旅行を終えたあと、家族4人でヨーロッパへ行ったときの思い出ばなしが出てきた。
彼らはロンドンへあなたと一緒に行きましたか。
― 行きました。
奥さんが、バッキンガム宮殿のことを話しています。すばらしい思い出になったようです。彼女は創造的な女性で、美術にも関心があります。パリのルーブル美術館へも行きましたね。彼女は、モナリザの絵が多くの画家に影響を与えたのを知っている、と言っています。彼女は、いまもあなたと一緒に旅行している、と言っています。今年はどこかへ行きましたか。
― スイスへ行きました。
彼女は、その時も一緒にいたと言っています。
息子さんが壊れた時計の話をしています。何か思い当たることがありますか。
― 実は、彼が霊界へ行ってから、毎日決まった時間にメロディを鳴らし続けた小さな時計がありましたが、それが、13年も続いて、停まりました。いまもその時計があります。
彼も、スイスへ行ったことがあるのですか。
― あります。家族でアメリカからスイスへ行ったとき、彼は自分の小遣いを貯めていたお金で腕時計を買いました。
ここで妻が、「バッキンガム宮殿のことがすばらしい思い出になった」と言っているのは、思い当たるふしがある。しかし一般的には、はるばるとロンドンまで行ってバッキンガム宮殿を訪れれば、誰でもそれなりの思い出を持つことになるだろうから、これだけで、これが妻からのことばだと言い切ることは出来ない。「美術にも関心がある」というのも、そういう人は少なくないから、これも、これだけではわかりにくい。しかし、ほかの霊能者からも、このことについては、妻についての情報として、一再ならず伝えられたことがあることは、考慮しなければならないであろう。妻が「私といっしょに旅行している」という情報についても、同様である。
さらに、ここに出てくる「壊れた時計」については、私にとっても極めて大切な情報で、思い出も深い。私だけしか知らないことなのに、Hさん以外のほかの霊能者からも伝えられたことがあるので、やはり、長男からの話だと受け取っていいのであろう。彼の音楽の趣味については、前回は、「楽器が見える」、「楽器の演奏が上手であった」、「いまも音楽の勉強をしている」などのことばがあったが、今回は、「彼は音楽との関係が深いですね。音楽がいまも彼の生活の一部になっています」ということばがあった。彼は、音楽に深く傾倒していて、子どもの頃は言語学者になるのでなければ音楽家になりたいと友人に洩らしていたこともあったらしい。東京での学生時代、ギターはかなりの名手といわれたりしていたし、彼の音楽との深い関係は、ほかの霊能者たちからも度々指摘されてきたから、このHさんのことばも、単なる偶然の一致ではなかったであろう。
東京でのHさんとの「対話」では、このほかに、ここには書きにくいような、かなり私的な話もいくつか出てきた。結婚後長い間子どもに恵まれなかった長女のこともその一つだが、その長女のことを、母親である霊界の妻は「あまり心配はしていません」とHさんは言っていた。霊界に居て、「長い視野でものごとを見ることができるようになっているから」だとも付け加えた。結果的には、そのときにいろいろと聞かされた話が、後に極めて正確に実現するのだが、当時は、あいまいな話のようで、言われたこともよくわかっていなかった。
ロンドンと東京での、これらの二つのテープをいま聴きなおしてみて、その中に含まれるいくつかの情報は、間違いなく妻や長男からのものであることを確信することができる。しかし、それでもなお、それ以外の多くの内容については、私の受け手としての未熟さから、正確な情報であると言い切ることはできない。ただ、私は、いままで長年の間、数十人の霊能者から霊界からのメッセージを受け取ろうと試みてきて、一つでも二つでも、これは、間違いなく妻や長男からである、と確信できることばを掴み取ることができたときには、こころから有り難く思ってきた。その「一つでも二つでも」が長年の間に積もり積もって、いまでは、霊界に居る妻と長男の元気な生活ぶりを、かなり鮮やかなイメージとして思い浮かべることができる。
かつて1992年に、大英心霊協会で、アン・ターナーから疑うにも疑い得ないような正確そのものの霊界からのメッセージを受け取ったことがあった。あの頃はまだ私は、無明の闇のなかから抜け出すことができずにもがき苦しんでいた。あの時の一連の重大なメッセージは、そんな私に与えられた霊界からの特別の配慮であったのかも知れない。あの通信を成功させるために、霊界では長男が大分苦労したらしいことも、後に知らされたことがある。
それ以来いまに至るまで、このHさんなどを含めて、数多くの霊能者に会い、霊界からのメッセージを受け取ってきた。そのなかには、正確度の極めて高いと思われるものも少なからずあり、曖昧でよくわからなかったのもいくつもある。しかし、曖昧でよくわからないことがあっても、私はそれを霊能者だけのせいにすることはできない。時空を超えた霊界からの情報を地球次元での狭い常識と理解力で受け取ろうとするには、いろいろと困難が伴うであろうことは容易に推察できる。私にとっては、いままで受けてきた様々な霊能者からの助力が、すべて、それぞれに有り難く、大きなこころの支えになってきたのである。
(2006.07.01)
「千の風になって」 (身辺雑記42)
私のホームページの「メール交歓」欄に、「ロンドンからの詩 “私は死んでなんかいません”」(2004.11.25) がある。ロンドン在住の N.K さんから送られてきたもので、つぎのような詩である。
A THOUSAND WINDS
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain.
I am the gentle autumn's rain.
When you awake in the morning hush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.
この詩のことを、朝日新聞コラムニストの小池民男氏が「時の墓碑銘」 というタイトルで紹介していた(2006.3.6)。それによると、この英語の詩は、いつ、だれが作ったのかわかっていないらしい。しかし、ひとつのエピソードがある。かつて、この詩を、アイルランド共和国
(IRA) のテロで死んだ青年が、遺書のように両親に託していたのである。それをBBCが放送して、この詩がひろく知られるようになった。アメリカでの
9・11テロの翌年の追悼集会では、この詩は11歳の少女によって朗読されたし、映画監督H・ホークスの葬儀では、俳優のJ
・ウエインも、この詩を朗読したという。
この A THOUSAND WINDS は日本でも翻訳され、一部では知られていた。それを、作家で作詞作曲家でもある新井満氏が、新たに原詩を基につぎのような訳詞にした。
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています
この訳詞はどのようにして生まれたか。そのいきさつについては、新井氏自身がホームページのなかでつぎのように書いている。
《私のふるさとは新潟市です。この町で弁護士をしている川上耕君は、私のおさななじみです。彼の家には奥さんの桂子さんと三人の子供たちがいて、とても明るく幸せな家族生活を営んでいました。ところがある日、桂子さんはガンにかかり、あっというまになくなってしまいました。後に残された川上君と子供たち三人のおどろきと悲しみは尋常ではありません。絶望のどん底に蹴落とされたのも同然です。なぐさめの言葉を言う以外、私にできることはありませんでした。しかし、そんなものが何の役に立つはずもありません。
桂子さんは、地域に足をつけた地道な社会貢献活動を行う人でもありました。たくさんの仲間たちが協力して追悼文集を出すことになりました。「千の風になって‐川上桂子さんに寄せて‐」という文集です。文集の中で、ある人が「千の風」の翻訳詩を紹介していました。私は一読して心底から感動しました。<よし、これを歌にしてみよう。そうすれば、川上君や子供たちや、あとに残された多くの仲間たちの心をほんの少しくらいはいやすことができるのではなかろうか・・・・・そう思ったのです。
何ヶ月もかけて原詩となる英語詩をさがし出しました。それを翻訳して私流の日本語訳詩を作りました。それに曲をつけて歌唱したのが、この度の「千の風になって」という歌です。私家版のCDを数枚だけプレスし、そのうちの一枚を川上君のところに送りました。CDは桂子さんを偲ぶ会で披露されました。集まった人々は一様に涙を禁じ得なかったそうです。そして泣きながらこの歌を歌ってくれたのだそうです。》
前述の小池民男氏は、この新井満氏の訳詞を、はじめは、そのころ担当していた「朝日新聞」の「天声人語」で紹介した。反響は大きく、新井氏の方も、「その日から電話が鳴り始め、止まらなくなってしまった」そうである。その後、この訳詞は、写真詩集として出版されることになり、30万部を超えたところで昨年秋、CDとセットの新装版が出た。小池氏は、これらのことも述べたあと、「時の墓碑銘」を次のような文で締めくくっている。
《これらの出来事の少し前、がんで闘病生活をしていた先輩記者を励ます会を催した。そこでこんな話をした記憶がある。
「死んだらとりあえず、僕たちは煙や灰、骨になる。僕を形づくっていた素粒子たちにとっても別離のときです。しかし、素粒子たちがいつか再会を図ることがあっても、ふしぎではないでしょう。はるか遠い、永遠に近い未来のことかもしれません。『僕』が再結集する日を夢想したりします」
いま思えば、「煙になる」のは「風になる」のとほぼ同じことだろう。現実と幻想とをつなぐのが「風」である。
そして死は現実と幻想との境界に起きる「何か」だ。》
小池氏はこう書いているのだが、私はつい考えさせられてしまう。死はなぜ「何か」なのであろう。どうして「何か」で終わってしまうのであろうか。このような文を読んでいつも意識させられるのは、これが通常、知識人といわれるような人びとの死をみつめる眼の限界ということである。そしてその限界は、「生命とは霊であり、霊が生命である」という真実を直視する視点にははるかに遠く及ばない。
しかし、この「千の風になって」は、無意識ではあっても、魂の奥底で、そのような霊的視点への共感を呼び起こすからこそ、多くの人々に感動を与えているのではないであろうか。「私のお墓の前で/泣かないでください/そこに私はいません/死んでなんかいません」は、実は、いのちについての霊的真実の、しかもそのほんの一部を示唆するものにほかならないのである。
(2006.06.01)
霊能者・川津祐介さんのヒーリング (身辺雑記41)
川津祐介さんは、昭和10年東京で生まれた。慶應義塾大学経済学部に在学中から映画俳優となり、昭和33年松竹映画「この天の虹」(木下恵介監督)でデビューしている。その後、数多くの映画やテレビドラマに出演を続け、平成13年までの20数年間、科学番組「テレビ博物館」(東海テレビ)で司会を務めたことでも知られている。また、絵画・陶芸・文芸創作などにも増詣が深いらしい。しかし、そのような彼の経歴よりも、私が関心をもったのは、霊能者であり、ヒーラーとしての川津祐介さんである。
彼が映画俳優として歩み始めたまだ無名の頃、どこの撮影所であったかは忘れたが、所内を歩いている時に、その後、彼と結婚することになるある女優とすれ違ったことがあったという。川津さんは霊能で未来が見えたのであろう。その時、その女優を呼び止めて、「あなたは、私の奥さんになる」というようなことを言ったのだそうである。その「有名」女優は、まだ「無名」の川津さんからそう言われてちょっと驚いたらしい。しかし、その予言は実現した。その女優が、いまの奥さんであるというような話をどこかで読んだことがある。
もう何年か前のことになるが、ふとテレビにスイッチを入れたら、その川津祐介さんのヒーリングの場面が映し出されていた。足腰の立たない老婦人の治療であった。はじめに老婦人は、娘さんらしい二人の若い女性に両側から抱きかかえられるようにして、テレビの画面に現れた。ベッドの上に横にされたその老婦人の足の上に、川津さんが手をかざして、しばらく何か念じているような様子である。私はその姿を食い入るように眺めていたが、川津さんはやがて、老婦人を抱きかかえてベッドの上に座らせ、ベッドから二、三歩離れ、老婦人に、「立ってください」と言ったのである。
「立ってください」と言われても、老婦人は立てないし、歩けないわけだから、困惑したような顔をしているだけである。川津さんは、また、「立ってください」と強い口調で言った。そばには娘さんたちも見守っていたのであろうか、一瞬、助けを求めるような表情をみせたりもしたが、そのあと、意を決したように足で床を踏みしめ、よろよろとして立ち上がった。その時の老婦人の不思議そうな顔つきが印象的であった。しかし、まだ、その次があった。
川津さんは、辛うじて立っている様子の老婦人に向かって両手を差し出し、今度は、「歩いてください」と言った。老婦人は迷っているような様子でしばらくは動かない。テレビはその逡巡している顔つきを克明に映している。やがて、そろりとした感じで、一歩前に出た。それから、二歩三歩と歩いた。そして、手を広げている川津さんのところまで辿りつくと、わっと、声を上げて泣き出しのである。感動的な情景であった。昔のイスラエルで、イエス・キリストが歩けないでいる人を歩かせる場面を本や映画などでは読んだり見たりしたことがあったが、それを現代のテレビの画面で目撃して、私も感動した。
このテレビの場面が評判になったからであろうか、川津さんのところへはその後、全国から治療依頼の申し込みが殺到したようである。週刊誌か何かで、これも、ふと目にとまった記事で、川津さんはそのような要望に応えるため、調布市の自宅を週に一日だけ開放して、無料のヒーリング活動を続けた、と書かれていたのを覚えている。
その川津祐介さんが書いた、「生きる道」と題する文がある。どこかの講演会での話をまとめたもののようだが、次のような文である。
*****
私は3回死んでいます。最初は19歳の時、睡眠薬で自殺をしました。次に死んだのは37歳の時でした。その頃私はアクションスターと呼ばれていました。得意絶頂の時、得意のアクションの中で頭の骨を割りました。そして3度目は1996年、心の汚れを綺麗にしようと100日間の行にチャレンジした時のことでした。馬鹿な私は、3回死なないと「生きる」「死ぬ」ということが解らなかったのです。
60歳になり医者から「あなたの症状だと3週間しか生きられない。良くても3ヶ月だと覚悟してください」と言われました。その時私は、「時間が無いならば、時間が無いなりに一生懸命生きよう。まず感謝し、そして愛する事だけをして生きよう」と思いました。朝起きると「ああ、今日も命をいただいた。これは人を愛するための時間、尽くすための時間なのだ。」と感じ、そして1日が終わると「眠っている間に死んでしまうかもしれない」と思い、感謝の祈りを捧げ眠りにつく。その繰り返しがもう8年も続きます。無理と言われた肉体で8年も生きています。こんな身体でも元気に、そして幸せに生きられます。
私たちは自分自身が望み、願ったため世界に生まれることができたのです。果たしたい夢、果たしたい願いがあったからこそ生まれてきた。あなたの人生は、あなたが望まなければ絶対始まらなかった人生です。そして、その人生の中で夢を果たすために必要なものは全て与えられているはずです。あとは真心を尽くして、そして本気で生きるだけ。是非、その道を歩んでいただきたい。
(2006.05.01)
テレビで語る霊能者たち (身辺雑記40)
私はテレビはあまり見ないほうだが、この間 ( 3月18日) 、たまたま「テレビ朝日」の番組「オーラの泉」に、美輪明宏さんと江原啓之さんが出演しているのが目にとまった。このお二人の霊能力には、強い関心がある。番組の途中からではあったが、私は後半の1時間近くを熱心に画面に向き合った。
スポーツキャスターの長島一茂さんがお二人の前に座っていて、オーラの説明を聞かされているあたりからであった。霊能者でもオーラは見えない人もいるが、美輪さんと江原さんは、よく見えるらしい。長島さんにはすばらしいオーラが出ているとかで、その色やオーラのひろがりなどについて江原さんが話していた。途中、ちょっと中断して、江原さんがなにか美輪さんと相談するようなそぶりを見せた後、その長島さんのそのオーラには、まわりに何本かの矢が刺さっている、ということを付け加えた。素晴らしいオーラなのだが、周りの人々から、時には批判や悪意にさらされることがあるから気をつけるように、というようなことであったかと思う。
興味深かったのは、長島さんの腰の痛みを言い当てたことである。長島さんは、実は、時々腰の痛みを感ずることがあると、認めた。江原さんが言うのには、長島さんの前世で、武士であった時、鎧兜に身を固めてどこかで戦っていた最中に、落馬したことがあったそうである。命は取られなかったが、その時の腰の痛みの意識が落馬の恐怖心とともに今生に持ち越されたのだという。そのせいかどうか、長島さんは、現在の乗り物である車を利用する時でも、どこかで事故に遭わないかと、ひどく気になるらしい。車間距離にも特別に気を使うし、道路わきでクレーン車が作業をしているような時には、遠回りをしてでも避けて通ると言っていた。
この前世の事故や事件の後遺症のようなものについては、似たようなことを、佐藤愛子さんも『私の遺言』の中で書いていたのを思い出す。前世で戦いに敗れた武士がぼろぼろになって、よろめきながら川のそばの萱葺きの百姓家にたどりつく。そこにいた老婆が佐藤愛子さんの前世の姿であったそうである。その老婆から、囲炉裏にかけた鍋の中のものを碗に一杯振舞われて、また、よろよろと出て行った武士は、しばらく歩いて、川のほとりで切腹して果てた。その武士が、生まれ変わってきて今生の佐藤さんに会いにきたのである。それが名古屋の小児科医の鶴田氏であった。その鶴田氏の腹部には、ちょうど切腹の痕のように、横一文字に20センチほどの傷跡のようなものが残っているのを彼女も見たという。
テレビでは、長島さんの後に出てきたゲストが、ジャズシンガーの綾戸智絵さんであった。1957年の大阪生まれである。高校卒業後にアメリカへ渡り、黒人男性と親しくなって結婚する。しかし、その結婚は破綻した。夫からの殴る蹴るの暴行、虐待を受けて離婚、夫との間に生まれた男の子を連れて日本へ帰ってきた。その子は、いま15歳になって、客席でこの番組の収録場面を見ていたようである。美輪さんが彼女に、高校卒業後にアメリカへ行ったのは何故か、と聞いた。彼女は、フランク・シナトラが好きで、シナトラに会えればと思ってアメリカへ行った、と答えた。シナトラのほかに好きな歌手は、ジュディ・ガーランドだとも言った。すると、美輪さんが、自分もジュディ・ガーランドの歌が好きだと言って、次のような話をした。
ジュディ・ガーランドというのは、映画俳優や歌手としての名声の陰で、私生活では何度か結婚と離婚を繰り返し、麻薬中毒や自殺未遂などの地獄を味わった人なのだが、美輪さんによれば、「そこから立ち上がった経歴が人を感動させる」というのである。歌を聴いていると、その経歴が想念として伝わってくるとも美輪さんは言った。そして、綾戸さんがガーランドに惹かれるのは、そのような地獄のような日々を送った経験を共有しているからだということらしい。このようないくらか「常識的な」話からはじまって、霊的助言は、本題に入っていった。
霊的な経験として、綾戸さんが息子さんの話をした。2歳の時に、「生まれる時に、雲の上からお母さんを見ていて、体の中に入った」と言ったそうである。カメラは、客席にいる息子さんに向けられたが、いまはもう、彼もそんなことは覚えていない。美輪さんは、「親が子を選んで生む」というのは間違いで、本当は、子が親を選んで生まれるのだ、ということを話し始めた。これは知る人ぞ知る霊的な事実である。アメリカの大学医学部での退行催眠治療でも、その実例が紹介されたりしている。子が親を選んで生まれてくるなどというようなことは、一般にはとても受け容れられないような話だが、テレビの影響は大きいから、美輪さんの話もこのような霊的真理を広めていくうえで、それなりに役立っているといえるのかもしれない。
興味深かったのは、綾戸さんが高校卒業後にアメリカへ行ったことについての江原さんの解釈である。江原さんは、彼女がアメリカへ行ったのは、実は、「子どもを取り戻すため」であったというのである。江原さんによれば、彼女のいまの子どもは、前世で彼女の子どもであった。つまり、前世での子どもが生まれ変わっていまの子どもになった。逆にいえば、いまの子を産むためには、アメリカへ行かねばならなかった。そして、黒人の夫と結婚しなければならなかった。彼女は、夫に虐待されて地獄の苦しみを味わったが、それに耐え抜き、夫とは別れ、子どもを取り戻して日本へ帰ってきたということになる。
江原さんは、「だから、自分のために子どもに苦労をかけていると思うのは間違いです」と、綾戸さんに言った。「あなたがそう思うと、子どもも苦しい。人生は逃げなくてもよい、もっと楽しんでいいのです」とも付け加えた。綾戸さんにとって、「取り戻した」大切な息子であっても、この日本では、少なくはない偏見の目に晒されながら育てていくのはいろいろと気苦労も多かったことであろう。それを乗り越えてきたからこそ、いまの「派手に」明るい性格があるのかもしれない。江原さんは、綾戸さんのオーラは、紫色だという。それは、生死を乗り越えて克ちえた慈愛の色なのだそうである。
(2006.04.01)
心霊研究の先駆者たち (身辺雑記39)
浅野和三郎は、日本の心霊研究の草分け的存在である。明治7年に茨城県に生まれ、東京帝国大学英文学科卒業後は海軍機関学校の教授になる。アーウィンの『スケッチブック』やシェイクスピアの翻訳でも有名であった。大学での恩師・小泉八雲から受けた影響や、妻・多慶子がすぐれた霊能者であったことから、心霊研究の道に入り、大正12年3月に、学士会館で心霊科学研究会を発足させている。その後、東京に事務所を置き、雑誌「心霊と人生」を刊行しはじめた。
浅野和三郎の著書のひとつ『小桜姫物語』(復刻版、潮文社、2003年)は、多慶子夫人を通じて守護霊・小桜姫が語った霊界の種々相をまとめたもので、日本における記念碑的な霊界通信の記録である。心霊研究といえば、現在でも白眼視される向きもないではないが、当時では、これは「破天荒の著書」であったに違いない。心血を注いで心霊研究のために貢献していた浅野和三郎は、この本を書き終えた後、昭和12年2月1日に、突然発病し、その35時間後には他界した。
この『小桜姫物語』の序文を、「荒城の月」の作詞者・土井晩翠が書いている。土井は、詩人、英文学者として今でもよく知られているが、東京帝国大学英文学科では浅野の後輩で、心霊研究に興味を持ち、浅野の信奉者でもあった。その土井が書いた序文には、つぎのような文がある。
・・・・私は昨年(昭和十一年)三月二十二日先生と先生の令兄浅野正恭中将と岡田熊次郎氏とにお伴して駿河台の主婦の友社来賓室に於て九條武子夫人と語る霊界の座談会に列した。主婦の友五月号に其の筆記が載せられた。
日本でこの方面の研究は日がまだ浅い、この研究に従事した福来友吉博士が無知の東京帝大理学部の排斥により同大学を追われたのは二十余年前である。英国理学の大家、エレクトロン首先研究者、クルクス管の発明者、ローヤル・ソサイティ会長の故クルックス、ソルボン大学教授リシェ博士(ノーベル動章受領者)、同じくローヤル・ソサイティ会長オリバ・ロッジ卿・・・・・・・これら諸大家の足許にも及ばぬ者がかかる偉大な先進の努力と研究とのあるを全く知らず、先入が主となるので、井底の蛙の如き陋見から心霊現象を或は無視し或は冷笑するのは気の毒千万である。浅野先生が二十余年に亘る研完の結果の数種の著述心霊講座、神霊主義と共に本書は日本に於ける斯学にとりて重大の貢献である。
私はこの文で、むかし、心霊研究に従事した福来友吉博士が東京帝大理学部の排斥により同大学を追われた、という事実を初めて知ったが、大学に在籍する研究者が心霊研究のようなものに関心をもつべきではないという風潮は、いまでも変わってはいない。心霊研究の裾野はかなり広がってきているとはいえ、科学万能の大学社会では、少なくとも公の場で心霊を口にすることはタブーである。土井晩翠が、「これら諸大家の足許にも及ばぬ者がかかる偉大な先進の努力と研究とのあるを全く知らず」と嘆いているのも、当時ではなおさらのこと、無理ではないかもしれない。
これに関連して思い出されるのが、コナン・ドイル(1859 -1930) の手記である。彼も最初は、どうしても心霊現象が信じられずにいたが、それでも、関心を捨てきれずにいろいろと調べているうちに、だんだんと心霊現象のもつ深い意味に気がつくようになっていく。コナン・ドイルはそれを、こう述べている。
・・・・その後、私は片っ端からスピリチュアリズム関係の本を読んでいった。そして驚いたのは、実に多くの学者、とくに科学界の権威とされている人々が、スピリットは肉体とは別個の存在であり死後にも存続することを完全に信じ切っていることだった。無教養の人間が遊び半分にいじくっているだけというのであれば歯牙にもかけないところであるが、英国第一級の物理学者・化学者であるウィリアム・クルックス、ダーウィンのライバルである博物学者のアルフレッド・ウォーレス、世界的な天文学者のカミーユ・フラマリオンといった、そうそうたる学者によって支持されているとなると、簡単に見過ごすわけにはいかなかった。
もとより、いくら著名な学者による徹底した研究の末の結論であるとはいえ、“可哀そうに、この人たちも脳に弱いところがあるのだな”と思ってうっちゃってしまえば、それはそれで済むかも知れない。が、その“脳の弱さ”が本当は自分の方にあったということに気づかない人は、それこそ“おめでたい人”ということになりかねない。私もしばらくの間は、それを否定する学者たち、たとえばダーウィン、ハックスレー、チンダル、スペンサーなどの名前をいい口実にして、懐疑的態度を取り続けていた。
ところが、実はそうした否定論者はただ嫌っているだけのことで、まるで調査・研究というものをしたことがないこと、スペンサーはそれまでの知識に照らして否定しているにすぎないこと、ハックスレーに至っては、興味がないからというにすぎないことを知るに至って、こんな態度こそまさに非科学的であり、独断的であり、一方、みずから調査に乗り出して、そうした現象の背後の法則を探り出そうとした人たちこそ、人類に恩恵をもたらしてきた正しい学者の態度であると結論づけざるを得なくなった。かくして私の懐疑的態度は以前ほど頑固なものでなくなっていった。(『コナン・ドイルの心霊学』近藤千雄訳、新潮社、pp.36-37)
コナン・ドイルは、Sherlock Holmes の推理小説で世界的な名声を得るようになったが、晩年には、その文筆家としての栄光に満ちた経歴さえ投げ捨て、多くの国々へ講演旅行に出かけたり、論文を書いたりしてスピリチュアリズムの普及のために全身全霊を捧げた。1930年7月7日に71歳でこの世を去ったが、死後も、霊界通信で個性存続の証言を行ったりしている。彼もまた、欧米では、心霊研究の草分け的存在の一人であるといってよいであろう。
(2006.03.01)
不思議なこころ (身辺雑記 38)
今年の初詣も京王線沿線の高幡不動尊金剛寺へ行きました。本堂に上がって護摩供養が始まるのを待っている間に、管主の代理のようなお坊さんが出てきて、次のような話をしてくれました。
北陸のある小児科の医師が、生まれてくる前の記憶をもっている幼児が何人もいることに気がついて、その不思議な現象に興味を持ち、ひろく幼稚園をまわって3,500人の園児を対象に、生まれてくる前の記憶を持っている園児の調査をしたのだそうです。その結果、約3割の園児がそのような記憶を持っていることがわかったというのです。
そのお坊さんは、それを人間の「不思議なこころ」というふうに言っていましたが、その不思議なこころは、動物にもあって、たとえば、2004年12月26日のあのインド洋沖津波の時、8頭の象が、人を乗せたまま海岸から離れた方向へ走り出して、制止しても止まらず、結果的に人々を救ったという話もしていました。本堂のまわりはざわざわしていて、大勢の人のなかでよく聞き取れないところもあったのですが、そのような「不思議なこころ」のことを人々はよく知らないから、近頃は世の中も殺伐となって、犯罪も増えているのだと言っていたようです。
さらに話を続けていくなかで、そのお坊さんが、「人間も生まれるときには、どの両親のもとに生まれるか、選択したうえで生まれてくるといわれています」と言ったとき、神妙に聞いていた聴衆の中からはじめて笑い声が広がりました。「不思議なこころ」もここまでくると、その不思議さを誇張するあまりの作り話のように受け取られたのかもしれません。私はそのような聴衆の反応を興味深く眺めていました。
生まれてくる前の記憶というのは、よく聞かされることで、そんなに珍しいことではないようです。たとえば、いまマスコミでよく取り上げられている霊能者の江原啓之さんは、自宅に親戚たちが集まっていた時、自分が生まれてくる前の両親の夫婦喧嘩の一部始終を話し出して、両親を赤面させたことがあったことを書いています。(『人はなぜ生まれ、いかに生きるのか』(ハート出版、2005年)、また、いまは成人となっているかつての赤ちゃんが、出生時の様子をこまごまと語るのを記録したD.
チェンバレン『誕生を記憶する子どもたち』(片山陽子訳、春秋社、1994年)というような本もあります。
「人間も生まれるときには両親を選択したうえで生まれてくる」ということについても、知ろうと思えば、欧米の一部の大学医学部などでの退行催眠についての報告などを含めて、いろいろと資料はあります。ただ、一般的には、やはり知らない人が多いので、たまたまお坊さんがそのような話をしても、冗談のたぐいのように受け止められてしまうのでしょう。たいていの親は、自分の子供は自分が選んで生んだと思いがちですから、子供が親を選んで生まれるなどというのはいかにも荒唐無稽で、ありえないと考えてしまうのではないでしょうか。真面目に向き合って説明しようとしても、相手にしてもらえないかもしれません。
科学的、あるいは、確率論的にいえば、母親は子供を生むことは出来ても、子供を選んで生むことは出来ない、と言うことは出来ます。精子と卵子がタイミングよくめぐり合って結ばれる確率は、数億分の一、あるいは、数百億分の一というように、分子の1に対して分母は天文学的な数字になりますから、「自分の子供」ではあっても、その子供を選ぶことは決して出来ません。しかし、人間の誕生というのは、そのような科学や確率論をはるかに超えた宇宙の法則に支配されているもののようです。
子供が両親や生活環境を選んで生まれてくるものであることは、五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)などにも、詳しく述べられています。また、かつてシルバー・バーチも、それを、つぎのように語ったことがありました。
地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳、潮文社、1988、p.38)
(2006.02.01)
ことばの力 (身辺雑記 37)
教育現場などで、教師や親が子供に対して、ある科目の勉強が「できる、できる」とほめ続けてやれば、その科目の成績がさらにあがり、反対に、「できない、できない」とけなし続ければ、成績はますます下がっていくことはよく知られている。それを心理学的な実験で証明しているテレビ番組もあった。
これは小林正観『究極の損得勘定Part 2』(宝来社、2005年)に出ている話であるが、ある小学校3年生の女の子が、夏休みの自由研究で「ありがとう」ということばをかけると植物の生育や食べ物の味に影響を与えるかどうかの実験をした。200種類の食べ物について、「ありがとう」と「ばかやろう」をそれぞれ100回ずつ声をかけるという実験方法だったそうである。
たとえば、チョコレートを用いた実験では、「甘いチョコレート」と「苦味のあるチョコレート」の2種類を用意した。甘いほうのチョコレートに「ばかやろう」を100回言うとどうなったか。甘みがなくなるのではなくて、実際は、さらにひどく甘くなったという。甘すぎで、のど越しが嫌なのでもう食べたくない、という結果であった。そして、「ありがとう」を100回言ったところ、甘さがマイルドになった。
同様に、今度は、苦味のあるチョコレートに「ばかやろう」を100回浴びせると、苦味がさらに増し、のど越しが悪くて食べたくなくなった。つぎに、「ありがとう」と100回声をかけると、苦味がマイルドになっていた。このように、200種類の食べ物で実験してみたところ、「ありがとう」という言葉に触れた食べ物はみんな、どんどん味がマイルドになっていくという結果が得られたというのである。「ありがとう」と「ばかやろう」に籠める気持ちの問題もあるであろうが、これは十分に納得できる話である。
この本のなかには、「ありがとう」を1000万回言い終わって人の話も紹介されている。1000万回というのはたいへんな数であるが、「ありがとう」を1000万回言い終えるとどうなるか。この本では、「いろんな面白い現象が起こりはじめます」とあるが、それもよくわかるような気がする。「ありがとう」を1000万回も言えば、奇跡とまではいわないとしても、言い終わった本人を本当に優しく変えてしまう力はあるであろう。
どのようにして1000万回繰り返すか。ある獣医の場合、毎日仕事で何時間も車で走り回っているのであるが、その間、音楽を聞くかわりに「ありがとう」を言うことにした。そして3年間で1000万回に達したのだという。それで、どのような現象が起こったか。ここでは、本人の性格が変わったというようなことは、述べられていない。この獣医の場合は、地元の商店街を車で通り過ぎる時に、繁盛しているクリーニング屋、ラーメン屋、花屋などで働いている店員の姿に重なって、人の姿をした指導霊が、操り人形のように、店員たちの手足を動かしているのが見えるようになったそうである。
このように指導霊が「ついている」というのは、運が「ついている」のと同じで、この本の著者は、「実は神様がついているらしい」とも述べている。この獣医は、その数年前に愛児を小児ガンで亡くしていたが、それからは宇宙の真理のようなものに関心を持ち続けていた。そして「ありがとう」を1000万回言い終えたいまは霊界とのパイプがつながって、霊界からの使者の姿を垣間見ることができるようになったのかもしれない。
この「ありがとう」とは逆の、憎しみのことばを浴びせ続ける例を、同じ著者が『22世紀への伝言』(弘園社、2005年)のなかで取り上げている。
南太平洋のある国に、未開の部族がいて、石器時代のままの生活をしているという。当然、鉄製の道具などはなく、鋸も斧も持っていない。ジャングルを縦横に駆け巡る彼らにとって、通行の邪魔になる大木がある。何人もの人間で囲まねばならないほどの大木である。彼らの持っている道具といえば、石斧や槍、弓といったもので、それらの道具では直径何メートルもある大木は切り倒せない。しかし、彼らはちゃんとその木を倒し、道を作る。
どのように樹を倒すかというと、部族総出でその樹を囲み、来る日も来る日もその樹を罵倒し続けるのである。「邪魔だ」「お前など死んでしまえ」などと怒鳴り続けると、1〜2週間で葉が枯れ始め、1か月もすると、どうーと樹が倒れる。「昔の話ではなく、現在も実際に行われている方法だそうです」と、この著者は述べている。ことばのもつ力をよく示していて興味深いが、1か月もこのような罵詈雑言を吐き続ければ、生きている大木だけではなく、当然、部族側にもそのことばの持つ毒素が跳ね返ってくる。このような部族では、おそらく、不和や諍いが多く、人々も短命であるにちがいない。
(2006.01.03)
暗闇の中で光を求めて (身辺雑記 36)
ー 事件後5年の1998年9月に霊能者A女史へ宛てた手紙 ー
先日はご丁寧なお手紙をいただきまして有り難うございました。また、札幌では私のこれからの生き方について、いろいろとご助言下さいましたことを、厚くお礼申し上げます。
あのあと、八月下旬に東京へ帰ってからは、毎年、事件の日に向けて繰り返してきた気の重い行事の一つ一つを終えていきました。「大韓航空機事件の真相を究明する会」の定例研究会、HBCやNHKからの取材・録画、新聞原稿の執筆、九月一日の参議院議員会館での声明発表と記者会見、五年忌の法要等です。
ふだんは家に閉じこもりがちで、友人、知人とも没交渉のままですが、真相究明のための努力は放棄するわけにはいきません。九月一日のNHK「ニュースTODAY」や、二日、三日のNHK「北海道ジャーナル」の番組は御覧になられましたでしょうか。空しい気持を抑えながら、真相究明のためにはあえて人前に出て、あのような発言を繰り返しております。放送局から送られてくるビデオ・テープも、昨年からやっと封を切って、自分自身の映像に対峙してみるようになりました。少しは「進歩」しているのかもしれません。
しかし、まだこういうこともあります。
犠牲者のひとりである蔡洙明君という一二才の少年が書き残した『いのちときぼう』という詩集があって、その詩集の発刊をきっかけにして「いのちときぼうの会」がつくられました。洙明君が通っていた世田谷の小学校の先生や父兄が中心になり、いまでも定期的に会合が開かれています。九月四日の日曜日に私はその会に招かれ、大韓航空機事件について一時間ほど話をすることになったのです。それが私にとっては今年の「行事」の最後の予定でした。
区の公民館の一室に集まった人たちは五〇人くらいで、会場の最前列には高校生らしい男女の若者が何人か静かに座っています。私は教壇にでも立っているつもりで、淡々と話を進めていけるはずでした。ところがはじめに立った司会の人の紹介で、私のすぐ前にいるその若者たちが、かつては洙明君の同級生だった人たちと聞かされると、それだけで急にしばらく私は声が出なくなってしまいました。潔典の先生に電話でお礼を申し上げようとして受話器を取り上げても、とうとう一言も声が出せなかったあの事件直後の症状がよみがえってきたのです。
正常のつもりではいても、いつも抑えに抑えているものが、ちょっとしたきっかけでどっと噴き出してしまいます。もうこういう状態からは抜け出さなければならないのですが、まだ私にはこころの深い傷が残っていて、それを確固たる信念で癒していくことができていません。それをどう克服していけばいいのか。札幌でいろいろとお伺いしていたのは、実はそういう再生の道への模索でした。
あなたからいただいた富子の霊言のなかの「いつまでも悲しまないで下さい」や、潔典の霊言のなかの「元気になってほしい、怨念の苦痛のある間は立てないのです」を私はいま真正面から受け止めていかなければならないと、あらためて思い始めています。おそらく富子も潔典も、理解の遅い私をはらはらしながら見守っているのかもしれません。そしてまた、おそらく、私にはそのような富子や潔典の心配に応えていく義務があるのでしょう。いずれにせよ、これからは一層真剣に、霊界の勉強を続けていかなければならないと思っています。
長い石段を一段ずつ上っていくように、足を引きずりながら、辛さに耐えながら、五年目の節目にまでたどり着いて、そして今年の九月一日で、ともかくもその節目を越えました。五年目であることに何とか意味をつけてみることが出来るかもしれない、「五年目の節目」と受取りそれを越えることで少しでも張り合いのある生き方の可能性が開けるのかもしれない、などとこころのどこかで考えながら、今の私は、再出発のきっかけをなんとか掴もうとしています。私が「生きる」ことで富子も潔典も「生きる」のであれば、苦しみ嘆くだけで私が無明のまま死んでいくことはできません。自分に残されたいのちの長さに関心をもつようになってきたのも、そう考えるようになったからです。
事件の翌年、札幌のお宅でお目にかかったとき、富子と潔典を霊界から呼び寄せて下さったことがありました。あの時は、富子と潔典に話をするようにと言われてもただ呆然とするだけで、それがどういうことなのか何もわかりませんでした。いまは少しずつわかりはじめようとしています。もし許されるならば、こんどいつか、もう一度あのような機会をお与え下さいませんでしょうか。これは私にとっては重大な問題で、自分なりにもっと勉強したうえで、またきっとお願いさせていただきたいと、これまで思い続けてきました。そういうことも一つの生きがいとして、またお目にかかれる日まで、精進を進めてまいります。
どうぞよろしくご教導下さいますよう重ねてよろしくお願い申し上げます。
=1988.9.22=
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このA女史は、事件のあと、初めて訪れた私に、「2〜3年は苦しまれるでしょうね」と言った。私はそれをうつろな気持ちで聞きながら、2〜3年すればこの苦しみが薄らぐのだろうかと思った。しかし、2〜3年経ってもそうはならなかった。5年目でやっと、この程度の手紙を書いていたのだから、私の無明の闇はよほど深かったに違いない。無知ほど怖ろしいものはない。事件から22年が過ぎたいま、かつての己の無知を省みて忸怩たるものがある。
(2005.12.01)
霊界実在を認識し始めた頃 (身辺雑記 35)
ー 事件後5年の1988年9月に長男・潔典の友人たちに宛てた手紙 ー
この間は潔典の五年忌にわざわざおいでいただき誠に有り難うございました。潔典もなつかしいあなた方に今年もまたお会いすることができて、さぞうれしく思っていたことでしょう。私がいま、少しは潔典のいる世界について理解しはじめていることを潔典は知っているはずですから、あの時も、彼は自分の感謝の気持を私が代わってあなた方に伝えてくれるであろうと期待していたにちがいありません。その潔典のためにも、もう一度あなた方にこころからのお礼を申し上げます。
私は時々あなた方の前で、自分が理解している範囲での霊界の話をしたりしましたが、知的水準の高いあなた方には、あるいは場違いの感じを与えてしまったことになるでしょうか。だいたい私自身が五十数年生きていながら、霊界のことなど何一つ知らず、また知ろうともしてこなかったわけですから、いわば付け焼き刃も同然で、あまり説得力があるとも思えないのです。しかし、それにもかかわらず、しどろもどろにでも口を開かざるをえないのは、あなた方が潔典にとって大切な友人であるからにほかなりません。自分にとって大切な人たちに、潔典も、折りさえあれば、きっと一生懸命に語りかけたがっているだろうと思うからです。
事件後五年間、私は苦しまざれに、藁をも掴む思いで仏門を叩き、聖書などもひもといたりしてきました。いまでもまだまだ理解できないでいることが多すぎますが、それでもひとつだけ、私なりに確信が持てるようになったことがあります。それは霊界が厳として存在するということです。そしてこのことは、人間とはもともと肉体を持った霊的な存在で、生命は肉体にあるのではなくて霊にあるということの証左でもあるのでしょう。つまり、心臓の鼓動が停止したら人間は死ぬのではなくて、肉体は滅びても霊は生き続ける。これを、短い人生を 「生きている」現在が、実は死んでいるのであって、「死んだ」時から人間は永遠の生命を生き始める、というように説いている人もいるようです。
もし、これが本当にそうであったら、私たちの人生観は根本的に変わってしまうかもしれません。たかだか数十年の人間の一生というのは永遠の生命からみるとほんの一瞬ですが、その一瞬がすべてであると思い込んでいるのと、それが永遠のなかの貴重な一瞬であると受け止めているのとでは大きな違いがあります。そこであらためて聖書を読み直してみますと、イエス・キリストは一生懸命にその永遠の生命を説いていることに気がつきます。私はまた、仏典のなかの阿弥陀経というのを好んでとなえるようになりましたが、ここでは釈尊が「いつわりを述べているのではない」と何度も念をおしながら、やはり同じことを説いています。
説かれ方はどうであれ、この霊界実在は私にとって重大な福音となりました。迷信を嫌い不条理を排し、しかもなお迷いに迷いながら、私はいまやっとその認識によって、苦悩の闇の底からなんとか這い上がろうとしています。潔典と潔典の母親のいのちを代償として、はじめてひとつの真理に目覚めるとは、いかにも愚鈍で遅すぎますが、極限状態を経て生死の問題を突きつけられてきたこういう私の生き様だけでもお伝えすることが、あなた方のご厚志にお応えする道でもあろうかと考え、あえて未熱さを披瀝いたしました。私の意のあるところを、もしこの短い手紙からお汲み取りいただくことができればたいへん有難く存じます。
末筆ながら、あなた方のご健康をお祈り申し上げます。
= 1988.9.26 =
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この手紙を書いた時には、1983年の事件で潔典が母親と共に霊界へ移ってからすでに5年経っていた。それから、さらに17年も時が流れていまの私がいる。
東京外国語大学・英米科で潔典と特に親しかった4名の友人たちは、このあとも一度も欠かすことなく毎年私の家を訪れ、潔典と母親の仏前に花を供えてくれたことを私は忘れることが出来ない。事件後22年になる今年も、それは続いた。
(2005.11.01)
長男が思い定めていた他界の時期 (身辺雑記 34)
もう5年前になりますが、ロンドンの大英心霊協会で知り合った霊能者アン・ターナーを通じて長男・潔典(きよのり)からの手紙を受け取ったことがありました。2000年6月5日付のその手紙には、「ぼくたちは、生まれるときには、好きな家族を自分の責任で、自分で選んで生まれてくるのですね。友だちなどもやはり、生まれるときに、自分の責任と好みでえらんでいるのです。こういう特別の愛があることも、いまのぼくにはわかってきました」という一節があります。そして、「ぼくがお父さんと、この世で最後の会話をしたときからも、長い年月が流れました。どうか、あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください。少し甘えながらあらためてお詫びします」という一節もあります。
1983年の夏、アメリカのノース・カロライナ州立大学の客員教授をしていた私のところへ、母親と二人でやってきて夏休みを一緒に過ごした潔典は、1983年8月30日の午後、ノース・カロライナ州ローリー・ダーラム空港から、母親と二人で帰国の途につきました。フィラデルフィア経由のユナイテッド航空機でニューヨークのケネディ空港には、午後6時過ぎに着いています。それから国際線にまわって、午後11時50分発のソウル経由成田行きの大韓航空機007便に乗ったのです。潔典からは、ケネディ空港から、2度電話がかかってきました。無事に着いたというのが午後7時過ぎ、それから、もうチェック・インもすんで、座席も窓際が取れ、あとは乗るだけ、というのが午後9時過ぎです。上述の手紙で「あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください」と潔典が言っているのは、この最後の電話での会話のことです。
いつも明るい潔典の声が、その時だけは、しどろもどろで、飛行機に乗り込む前の状況を急いで説明したあとは、慌てたように「ママと代わるから、代わるから」と言って、母親に電話が代わったのです。妻の富子とは、普通にしばらくおしゃべりして電話を切りましたが、私は、電話が終わった後しばらくは、何か、暗い胸騒ぎを抑えきれませんでした。子供のときから素直で天真爛漫な潔典を、私はほとんど叱った記憶はないのですが、あの時だけは、東京に着いたらかかってくるであろう電話で、「潔典、あんな電話のかけ方をしたらお父さんは心配するではないか」と、強く注意しておこうと思ったくらいです。
実は、この電話の前にも、いくつもの潔典の不安を示す態度やことばがありました。『疑惑の航跡』(潮出版社)のなかにも書きましたが、帰国前のバーベキューで、その材料を仕入れにスーパーマーケットへ行ったとき、巨大な1キロ半はありそうなステーキの塊を指差して、潔典がにこにこしながら、「死ぬ前にこんなビフテキを一度食べてみたいな」と言ったこともあります。そのようなことなどを含めて、潔典の態度やことばは、今にして思えば、私に対してそれとなく別れを告げていたのかもしれません。しかし、鈍感な当時の私は、それらからほとんど何も察知することは出来ませんでした。事件が起こってから初めて、愕然としてすべてをまざまざと思い出しただけです。
いまの私にはわかるのですが、潔典は、あの時、自分がこれから死出の旅路に出ることを魂の奥深くでは知っていて、そのことを、それとなく意識し始めていたのだと思います。シルバー・バーチは、死ぬ時期というのは、本人には分かっていることで、ただ、「それが脳を焦点とする意識を通して表面に出て来ないのです・・・・ 魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります」と述べていますが(栞A57-e)、潔典がケネディ空港でしどろもどろの電話をしたというのも、「それ相当の準備」がまだ終わっていない段階だったからなのかもしれません。
その後、1999年6月5日の東京でのA氏を通じてのメッセージで、「お父さんは僕に、仕事や勉強など、とりわけ語学の面と国際文化の領域で跡を継ぎ、活躍してほしいと期待をかけてくれていました。でも守護霊たちが、もっとあの世のことに精通するほうへと導いていき、たいそう大きな力が働き、このような具合に流れ上、なってきました」と伝えられたこともあります。「このような具合」というのは、潔典が私を霊的に目覚めさせるためのきっかけを与えるというのが一つの大きな動機になっていることで、そのことも、私は後に知るようになります。そして、今年の8月31日には、同じくA氏を通じての、新しいメッセージを受け取りました。
そのなかでは、潔典の近況として、「生前の父親であったあなたに対しては、敬意を表し、また、感謝しています。お互いのかかわりで、本当に愛が体験できました。それこそ、もっとも貴重なことだったのです。ある期間、親子で、家庭において生活をともにした、それがとても有難く、すばらしいものでした。今でも彼のベースにそれはなっています。その意味でも感謝してきています」と伝えられています。そして、そのあと、潔典自身の私に対することばも、次のように聞くことが出来ました。「有難うございます。よく耐えてくださいました。もうじきお会いしましょう。こちらで待っています。他界する時期は自分でもわかるでしょう。僕も分かっていました。」
この「よく耐えて」というのは、私が妻の富子と潔典が霊界で生き続けていることを理解するようになるまでの長い悲嘆の道のりを言っているのでしょう。そして、「僕も分かっていました」というのは、もちろん、潔典の他界した時期のことで、1983年9月1日〔日本時間〕を意味しています。潔典は、生まれ故郷の北海道を目前にしたサハリン沖の海上で、この日の未明、母親と共に散っていったのです。私は、今年のこの潔典からのメッセージには、あふれるような思いを抑えながら、峻厳な気持ちで聞き入っていました。
(2005.10.01)
敗戦後の留萌沖「三船殉難」の悲劇 (身辺雑記33)
留萌沖を見渡す小平町鰊番屋跡に建つ
「三船殉難慰霊碑」 碑文の一部に「夢に抱
きし故山を目睫にしてこの惨禍に逢う悲惨
の極みなり」とある。筆者撮影(2005.07.17)
札幌の手稲区にある我が家は、2階の北側の部屋が、長男・潔典(きよのり)の部屋になっていて、その窓からは、数キロ先に石狩湾の海が展望できる。晴れた日には、大きく湾曲した湾の東端が北に伸びているその先端あたりに、増毛山地が海に落ち込んでいる雄冬岬も視野に入ってくる。その岬の北陰にあるのが、留萌市である。今は沖合・沿岸漁業基地として命脈を保っているが、かつては、100万石といわれた鰊漁場で栄えていた。その沖合いで、1945年8月22日、「三船殉難」の悲劇が起きた。
太平洋戦争の敗戦から一週間が過ぎて、樺太(現サハリン)から「緊急避難」する3隻の引き揚げ船が「国籍不明」の潜水艦によって襲撃されたのである。小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3隻で、合わせて5千人あまりが乗っていた。8月22日の早朝、3時過ぎ、それぞれの引き揚げ船は、北海道の島影をすぐ左側に見ながら、ゆっくりと小樽港へ向かって南下していた。魚雷攻撃と砲撃により、小笠原丸と泰東丸は瞬く間に沈没、第二新興丸は大破しながらもかろうじて留萌港にたどり着いたが、計約1,700名の人名が犠牲になってしまったのである。
昨年8月、「国籍不明」の潜水艦はソ連太平洋艦隊の所属であったことが「北海道新聞」に報道された。新生ロシアが、長い年月を経て、やっと真相を情報公開したのである。ソ連軍は、スターリンの命令により、8月15日の日本の降伏後も、なお戦闘を継続させていた。スターリンは、北海道の北半分の占領を企て、ソ連軍2個師団を留萌に上陸させる作戦計画を立てていたらしい。その作戦を円滑に遂行するために、潜水艦を留萌沖周辺に配置して、留萌港に近づく日本艦船はすべて撃破する態勢をとっていたという。小笠原丸などの3船が犠牲になったのは、このような状況下であった。
このソ連の北海道北半分占領の企ては、アメリカ政府の強い反対にあって、8月22日の夕方、急遽中止された。しかし、戦闘停止命令がソ連潜水艦に届いたのは、その日の深夜になってからで、そのときにはすでに、約1,700名の日本人人命を奪った惨劇は終わってしまっていた。スターリンの領土拡張の野望は論外としても、あの戦闘停止命令が、せめて1日早く出されていれば、と思う。8月15日に日本は降伏しているのになぜ、と考えたりもする。
あの日から60年、いまは、この惨劇を偲ぶ慰霊碑のひとつが、留萌沖の青い海を前にして、小平町の鰊番屋あとにひっそりと建っているだけである。私は、札幌から車で稚内の「祈りの塔」へ行くときには、その小平町の慰霊碑の前を通っていくのだが、今年の夏も、その慰霊碑の前には、犠牲者の御霊に捧げられた花束が、潮風にさらされて小さく打ち震えていた。私は、札幌の自宅のかつての長男の部屋の窓から海を眺めるとき、稚内の「祈りの塔」への一直線上にある、この「三船殉難の碑」のことも、いつも誰かに訴えておきたいという気持ちを抑えることが出来ないでいる。
(2005.09.01)
宗谷岬に建てられた「祈りの塔」 (身辺雑記 32)
裏(北)側から見た「祈りの塔」。手前
には一面に咲いているアルメリアの花が
小雨の中で濡れていた。筆者撮影
(2005.07.20)
稚内の宗谷岬は日本最北端の地ですが、その宗谷岬の、晴れた日にはサハリンを望む小高い丘の上に、大韓航空機事件の「祈りの塔」があります。白御影石張りの塔と翼壁、台座で構成され、ツルが翼を広げた形です。高さは事件の起こった年、1983年にちなんで19.83メートル。ツルの頭の部分は、サハリン沖の撃墜現場を向き、その現場の緯度と同じく46度に傾いています。総工費
1億2千5百万円は、全国からの寄付金や私たち事件犠牲者遺族の拠出金、それに大韓航空の協賛金などでまかなわれました。
この「祈りの塔」が建てられたのは、事件後2年を経た1985年の夏のことですが、完成するまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。まず、「祈りの塔」の最初のデザインが、変更を余儀なくされました。1984年8月に遺族会が公表した「祈りの塔」のデザインでは、塔全体に46度の傾斜がつき、その四分の一の高さのところに翼をかたどったものが左右についていました。これに対して、「ちょうど飛行機が海面に墜落する姿で、悲惨なイメージが強すぎる」と外部からクレームがつけられ、設計をやりなおさざるをえなくなったのです。現在の「祈りの塔」は、2度目のデザインで生まれた妥協の形です。
しかし、このような「祈りの塔」の形態よりも、私が遺族の一人として、なによりもこだわっていたのは、この「祈りの塔」に刻み込む碑文でした。碑文が誰によって書かれるにせよ、それまでに明らかにされた証拠によって、そこには、大韓航空機の故意によるソ連領空侵犯と、それを知っていながら放置していた者の責任の指摘、および、犠牲者に対する遺族としての真相究明の誓い、の2点だけは、必ず盛り込まなければならない、と強く主張していました。
いろいろと遺族会で話し合った結果、碑文は、遺族の中から公募するかたちで原案がいくつか集められました。私も遺族の一人として、あえて応募することにしましたが、それは、つぎのようなタイトルの碑文案です。
***
愛と誓いを捧げる
愛しい人たちよ、一九八三年九月一日の未明、あなた方を乗せた大韓航空00七便は安全運航の責任と義務を完全に放棄し、定められた航路から五百キロも外れて故意にソ連領空を侵犯しました。そのためにソ連迎撃機のミサイルで撃墜され、何の罪もないあなた方まで犠牲にされてしまったのです。
アメリカ政府と軍部はこの領空侵犯を熟知していて、始めから終わりまで克明に追っていたはずであったのに、なぜ警告して救おうとはしなかったのでしょうか。ソ連政府と軍部はこの航路逸脱を二時間半にわたって捉えていながら、どうして軍用機と間違えて撃墜してしまったというのでしょうか。
愛しい人たちよ、あなた方の生きる喜びを無残にも奪い去った大韓航空と米ソの人命軽視を私たちはあくまでも糾弾し、事件の真相を明らかにしていくことを誓います。あなた方の犠牲を決して無駄にさせないためにも、いのちの重みと平和の尊さをひろく世界の人びとに訴えていくことを誓います。
愛しい人たちよ、どうかいつまでも安らかにお眠りください。
***
この碑文案の採用については、当時、予想もできなかった遺族会内の一部の不明朗な動きの中で、烈しい軋轢があって、私はその渦中に巻き込まれてしまいました。詳しいいきさつは、「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」(「世界」1985年10月号)にも書いておきましたが、妻と長男を失って悲嘆のどん底にあった私にとっては、ほとんど耐えがたい苦しみで、そのころから私は遺族会からも離れ、新しくスタートした「真相を究明する会」のメンバーとして、その後10年近く、真相究明運動に携わっていくことになります。
結局、現在の「祈りの塔」に刻み込まれた碑文は、タイトルと最後の一行は、私の原案と同じですが、その中身は、米ソが深く関わった事件の骨子が、私の知らないところですべて骨抜きにされ簡略化されて、つぎのようになりました。
***
愛と誓いを捧げる
あなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは、いま全世界の人々から糾弾されています。事件の真相はかならず近い将来、あきらかにされるでしょう。
わたしたちは、あなたたちの犠牲を決して無駄にはさせません。わたしたちは生命の重さと平和の尊さと武力のおろかさを、ひろく世界の人々に訴えていくことを誓います。
愛しい人たちよ、安らかにお眠りください。
***
事件が起こってから22年、この「祈りの塔」が建てられてからも20年が経過しました。事件の真相究明は、国会議員、文筆家、航空技術者、市民運動家等、大勢の方々のご協力の下に数十回におよぶ研究会を経て、1988年1月には、『大韓航空機事件の研究』(三一書房)を刊行することができました。少なくとも私自身にとっては、事件は、世間でよくいわれていたような、謎でもミステリーでもなく、真相は、私自身は、明らかになったと思っています。しかし、この事件を引き起こしたものが、国家の大義という虚飾をふりかざした政治家たちの陰謀であれ、自国防衛の蓑にかくれて栄達を図る軍人たちの謀略であれ、いまでは、小さな、哀れな人間たちの業(ごう)のようなものに思えてなりません。20年以上の歳月が流れるうちに、私は、事件そのものも、もっと大きな広い視野で捉えなおすようになりました。
先月、ひとりで、久しぶりにまた、その「祈りの塔」へ行ってきました。いつもは晴れていることが多かったのに、その日は小雨が降っていて、平和公園と名づけられたその小高い丘の「祈りの塔」のあたりには、人影はどこにもありません。私は、まわりに誰もいないことにむしろこころの安らぎを感じて、しばらく「祈りの塔」の前に佇んでいました。塔の翼壁には、犠牲者の国の数に合わせて、16枚の白御影石がはられています。その翼壁の右側にあるのが「愛と誓いを捧げる」の碑文です。塔を中心にして、左側の対称の位置には、事件犠牲者269名の名が刻み込まれ、事件の概要を私が和文と英文で書いた石版が、少し離れたところに置かれています。
「犠牲者霊位」と書かれた名簿は、黒大理石で、269名の名前は雨で濡れていました。左上から2行目に、妻と長男の名前があります。雨に濡れているその名前を指先でそっとなぞっていますと、自分でも思いがけなく、不意にどっと涙があふれてきました。いまは、生と死の意味を自分なりに理解できるようになっているつもりでも、私にはあまりにも長い間、悲しみ苦しみ続けた記憶が、こころの奥深くに染み付いてしまっているからかもしれません。
この「祈りの塔」の裏側には、イソマツ科の宿根草で海辺に咲くアルメリア(和名ハマカンザシ)が、ひろく一面に咲き続けています。宗谷漁業組合の婦人部の方々が、大韓航空機事件犠牲者の冥福を祈って植えてくださったものです。私は、雨に濡れて、少し寂しそうに赤い色を見せているこの可憐なアルメニアにこころを癒されながら、妻と長男に別れの言葉をかけて、「祈りの塔」から離れていきました。
(2005.08.01)
4年ぶりのアメリカへの旅 (身辺雑記 31)
全世界に750万人の信者を持つといわ
れるモルモン教の総本山ソルト・レーク
寺院 この周辺には大礼拝堂やビジタ
ー・センターなどの関連施設が並んで
いる (筆者撮影) 2005.06.05
この間、4年ぶりにサンフランシスコの街を歩いていました。ユニオン・スクエアー周辺の建物をきょろきょろ眺めていますと、道に迷っているとでも思われたのでしょうか、見知らぬ中年の商社マン風の日本人男性から話しかけられました。その人は、もう20年も前から、何度もサンフランシスコへは来ているのだそうです。私に、サンフランシスコは初めてですか、と聞いてきましたので、「いいえ、何度か来たことはあります」と答えました。考えて見ますと、私が初めて、サンフランシスコへ来たのは、1957年で、もう48年も前のことになります。それからも、アメリカでの長期滞在や旅行で、この街へ足を踏み入れたのは、30回くらいにもなるでしょうか。しかし、そういうことまでは、会ったばかりのその人には話しませんでした。
アメリカは1957年以来、かなり広く見て回ったつもりですが、国土が広大ですから、よく知られた都市でもまだ行っていないところが結構ありますし、2、3度訪れただけの街もあります。サンフランシスコからは、飛行機で東へ約1時間半のソルト・レーク・シティもそんな街の一つです。ソルト・レーク・シティ郊外の知人の家に2週間ほど滞在していましたから、ソルト・レーク・シティの街をゆっくり見て回ることもできましたが、この街は、これで3度目でした。
初めてこの街を訪れたのは、1958年の夏のことです。オレゴン大学 (University
of Oregon) での留学生生活を1年終えたところで、夏休みにフィラデルフィアに行く友人の車に便乗して、西から東へ4千500キロの旅を続けました。ニューヨークでひと夏を過ごした後は、グレイハウンド・バスでまず、南へ下り、ニューオーリンズからテキサスを通って今度は大陸を東から西へ横断し、一週間目くらいにソルト・レーク・シティに立ち寄ったのです。留学前から、札幌の碁盤の目のように整然と区割りされた街並みは、ソルト・レーク・シティをモデルにしたものだ、という誰かから聞いた話が頭に残っていて、現場でその話に納得し、美しい清潔な街という印象を強く持ちました。
いま、その当時撮ったスライド写真をあらためて眺めてみますと、州議事堂や壮大なモルモン教会などの建物などのほかに、1847年、ブリガム・ヤングをリーダーとするモルモン教信者たちが、東部での迫害から逃れて西に向かい、やっとこの地にたどり着いて、「これこそが理想の地である」(”This
is it!”) と言ったという彼らの銅像の写真があります。近くのソルト・レークは琵琶湖よりも9倍も大きく、塩分含有量25パーセントの文字通りの塩辛い湖で、当時、コカコラの瓶とハンバーガーを両手に持って湖に入っても、体は沈まないといわれたりしていました。私も自分で湖に入ってみて、それを確認しています。南西40キロのところにある、世界最大の露天掘りのビンガム銅山の写真も残っています。いまは、直径4キロ、深さは800メートルになっているようですが、当時でもその巨大さには、まだ日本は貧しかっただけに、アメリカの資源の豊かさと強大な国力を強く感じさせられていました。
2度目にソルト・レーク・シティを訪れたのは、1974年のやはりアメリカの夏休みの間です。このときは、4人家族で40日をかけてアメリカをざっと一周する車での旅の途中でした。州議事堂やモルモン教会・大礼拝堂の世界最大といわれるパイプオルガンなどの写真がいまも残っています。30年も経ちますと、このときに見て回った街の印象などは、かなり薄れてしまっているのですが、ひとつだけ鮮明に残っている思い出のようなものがあります。車でモテルにとまって、朝、支払いを済ませ、モテルを出ようとしたときのことです。フランス系の名前のモテルの女主人は、愛想笑いをして手を振ったりしていましたが、足早に私たちの泊まった部屋へ向かっていました。私はそのとき、ふと、女主人がタオルなど盗まれていないか、確かめに行っているのだと直感したのです。
その当時はまだ観光もいまほど盛んではなく、そのモテルでもアジア人の客は、珍しいほうであったかもしれません。アメリカ人でもモテルのバスタオル類を持ち帰ったりするのは、よくあることでしたから、貧しいアジア人ならば、と彼女が考えたとしても不思議ではなかったでしょう。しかし、その彼女は、私たちが泊まって部屋に入って、多分、驚いたと思います。もちろんタオル類はそのままですし、部屋は使用前と変わらないくらいにきちんと清潔に整頓されていました。亡くなった妻はかなりのきれい好きでしたから、使用後のベッドメイキングなども、そこまでしなくても、と言いたくなるくらいに、いつもきれいにしていたのです。もちろん、女主人に対する印象は、私の勘違いということもありうるわけですが、それでも、ソルト・レーク・シティといえば、私には、チリ一つ残さずきれいに整頓して後にしたこのモテルの部屋のことが、妙につながりをもって連想されてしまいます。
3度目の今度は、二人とも無類の好人物という感じのヤング夫妻の案内でモルモン教会などを見てまわりました。モルモン教というのは、1805年にニューヨークの片田舎で生まれたジョセフ・スミスが1827年に神の啓示をうけたことに始まるようです。彼は、モロナイという天使から教典を授かるのですが、その教典を編纂した預言者モルモンから、モルモン教の名が生まれました。ビジターセンターの建物の中央に螺旋階段があって、47年前に最初に訪れたときには、この螺旋階段をぐるぐる降りていって、一番下まで来ると、そこには光が差し込むなかで、天使から教典を授かっているジョセフ・スミスの像があったような気がしていたのです。しかし、今度は逆に、螺旋階段をぐるぐる上っていって、一番上まで来ると、そこにはイエス・キリストの大きな像が立っていました。私の錯覚であったのか、あるいは、47年の間に建物の改造や展示の変更があったためなのか、教会の何人かに聞いて見ましたが、みんな若かったせいか、よくわからないようでした。
モルモン教の創始者であるジョセフ・スミスが生まれたのは、1805年ですから、いまからちょうど200年前ということになります。その彼が、天使から授かった教典を、これは独特の霊言であったのでしょうか、それを英語に翻訳して、『モルモン書』として出版したのが1830年で、これが、聖書と並んで用いられているモルモン教の聖典です。そして、この出版の年の1830年は、私が生まれた1930年のちょうど100年前です。私が、そのことを言いますと、熱心なモルモン教徒であるヤング夫妻は、これもなんかの縁であろうと、私に『モルモン書』と、永遠の生命などを説いた何冊かの雑誌などをプレゼントしてくれました。アメリカから帰ってきた私には、いま、それらの文書が、与えられた夏休みの宿題のように、手元に残されています。
(2005.07,01)
親鸞の悪人正機説 (身辺雑記 30)
『歎異抄』に出てくる親鸞の悪人正機説はよく知られているが、この「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」の「悪人」をめぐっては、いろいろの受け取り方がなされているようである。なかには、明らかに誤解と思われるものもないわけではない。
宗教学者の山折哲雄氏が、かつて中公新書で『悪と往生』を出版し、その執筆のいきさつを朝日新聞(2004.06.27)に載せたことがある。その文を氏は、「私には、長いあいだ解けずにいた疑問があった。唯円の問題の書『歎異抄』は、かれの師・親鸞を裏切っているのではないか。親鸞の思想から逸脱しているのではないか、という疑問である」と、書き出している。
その疑問に、「正面から根源的に答えたものがどこにも見当たらず」、焦燥感のなかで生きていた氏に、転機が訪れたという。1995年3月、東京で発生したオウム真理教によるサリン事件である。「この新教団の指導者である麻原彰晃こそ、まさに現代における極重の悪人ではないか。とすればこの悪人は『歎異抄』のいうところにしたがって宗教的に救われるのであろうか」と氏は疑問を深める。
氏は、親鸞の主著である『教行信証』のなかで、親鸞は、極重悪人が宗教的に救済されるためには、二つの条件が必要である、と述べていることを発見する。それは、善き師につくことと深く懺悔すること、の二つである。氏は、このことからも、『教行信証』と唯円の聞き書き『歎異抄』との間には、「思想的にも論理的にも大きなへだたりがあった」と主張する。そして、「悪人こそ往生にふさわしい」というのは、唯円の曲筆であり、『歎異抄』は裏切りの書と断定するのである。
これは、しかし、氏の明らかな勘違いではないか。ボタンのかけ違いというのがあるが、はじめのボタンを間違えたら、あとはすべて間違ってくる。山折氏は、「悪人」の意味をこの場合は取り違えているのである。悪人正機説でいう悪人とは、少なくとも、麻原彰晃のような人物のことをいっているのではない。
同じ第3章のなかに書かれているように、「どういう修行によってもこの苦悩の世界を逃れることができないでいる欲の深い私たち」のことを、親鸞は自分自身を含めて悪人といっているのである。すでに第2章でも、親鸞は自分のことを「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定のすみかぞかし」と言っている。しかも、「悪人でも極楽へ行けるのは当然ではないか」とは、もとはといえば、親鸞の師であった法然上人のことばであった。
この『歎異抄』13章には、次のような話も書かれている。
あるとき親鸞聖人が弟子の唯円に、「おまえは私の言うことを信じるのか」と訊いたことがあった。唯円が、「もちろんでございます」と答えると、「そうか、それじゃ私のこれから言うことに決して背かないか」と重ねて訊きなおした上で、「それでは、どうか、人を千人殺してくれ。そうしたらおまえは必ず往生することができる」と言ったのだそうである。
唯円はさぞ驚いたことであろう。たじたじとなって、「聖人の仰せですが、私のような人間には、千人はおろか一人だって殺すことができるとは思いません」と答えた。それを聞いた親鸞は、「それではどうしていまおまえは私の言うことに決して背かないと言ったのか」と問い返して、こう言った。「これでおまえもわかるであろう。人間が心にまかせて善でも悪でもできるのならば、往生のために千人殺せと私が言ったら、おまえはすぐに千人殺すことができるはずではないか。しかしおまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺すべき因縁が備わっていないからなのだ。
「因縁が備わっていないから殺さないだけだ」ということばには深く考えさせられるが、親鸞は「自分の心がよくて殺さないのではない。また、殺すまいと思っても百人も千人も殺すことさえあるのだ」と言ったのである。
親鸞はこのように、人間というのは誰にでも悪を犯す可能性があり、そのような悪の可能性をもつ「悪人」を救済するのが阿弥陀仏の慈悲であると説いてきた。この阿弥陀仏の慈悲が「他力」ということであろう。因縁に支配されている「悪人」は、「自力」では自分を救えないから、「他力」によってのみ救われるということで、この意味でも、他力念仏というのは、この「悪人」であることの自覚のうえに成り立っているといってもよい。
自ら善行に励み、自力で極楽往生できると思っている「自力作善」の人が「善人」であるが、こういう人は、ひたすら阿弥陀佛に縋ろうとする気持ちが強くはない。しかし、そういう「善人」であっても、自力の心を入れ替えて、阿弥陀佛に縋るようになれば、極楽浄土へ行くことができるようになる。それが善人の往生である。
これに対して、「悪人」というのは、さまざまな欲望に翻弄されながら、どのような修行によってもこの苦悩の世界から逃れられないでいる人々である。しかし、阿弥陀佛の本当の願いは、むしろ、このような「悪人」を成仏させることにあったはずである。だから、自分ではなにも善行を行うこともなく、ひたすら「他力」に頼ろうとする「悪人」のほうが、かえって、阿弥陀佛の救いにもっとも値する人々ということになる。『歎異抄』では親鸞はそのように述べて、師の法然上人の言ったことを、敬意と親しみのなかで回想しているのである。
(2005.06.01)
小桜姫と弟橘姫の対話 (身辺雑記 29)
横須賀市走水の走水神社
背後の山は観音崎公園とし
て整備されている。
(2005.04.18) 筆者撮影
4月の中旬に、IIS (International Institute for Spiritualism) の「三浦半島でスピリチュアル探索」という日帰りツアーがあって、それに参加させていただきました。ロンドンから来日中の
IIS会長・金城寛さんも含めて、15人のグループで、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)とお妃の弟橘姫(オトタチバナヒメ)を祀っている観音崎の走水神社や油壺付近の小桜姫神社などを拝観してまわりました。
小桜姫神社の「小桜姫」というのは、浅野和三郎『小桜姫物語』(潮文社)でよく知られていますが、日本スピリチュアリズム史上最高ともいわれる霊界通信を送ってきた400年くらい前の実在人物です。足利時代の末期、この地方の相州三浦の荒井城主、三浦道寸の息子・荒次郎義光という武士の妻でした。生家は鎌倉にあって、代々鎌倉幕府に仕えていた大江廣信が父で、加納家から嫁いできた母親の袈裟代という名前もわかっています。
三浦一族は、その頃、小田原の北条氏と争っていましたが、北条軍に城を包囲され3年の籠城の後に武運拙く、荒次郎をはじめ一族のほとんどが城を枕に討ち死にしてしまいました。小桜姫は、城を抜け出し、油壺南岸の濱磯に小さな家を見つけて、一人さびしく暮らすようになります。しかし、まもなく病にかかり、そこで亡くなってしまいました。そのあたりが、いまの小桜神社になっているということです。
『小桜姫物語』の著者の浅野和三郎氏は、本邦初のシェイクスピァー完訳者として著名な英文学者でしたが、大正12年に「心霊科学研究会」を設立してからは、会長として、昭和12年に亡くなられるまで、日本における心霊研究の中心的役割を果たしてこられました。そして、この小桜姫の霊言を取り次いだのが、優れた霊能者の浅野多慶子夫人であったのです。実は、多慶子夫人自身が、17歳から33歳までをこの三浦半島で暮らし、小桜姫とは深い因縁があることがわかっていました。本のなかでは、小桜姫が多慶子夫人の守護霊でもあることが語られています。
400年前にこの地で生きた小桜姫の話は、日本の心霊学研究資料の白眉といわれているだけあって、どれを読んでも興味は尽きません。明るく素直で親しみやすい小桜姫の人柄がそのまま滲みでているような語り口にも、こころが惹かれます。この地に縁の深い弟橘姫との初対面についての話もその一つです。弟橘姫を祀る走水神社が、小桜神社からもそう遠くない観音崎にあるように、弟橘姫は小桜姫との関係が深く、霊界から長い間見守ってくれていました。この地上時代では小桜姫よりも1000年以上も前に生きた人ですが、弟橘姫は小桜姫の守護霊であったのだそうです。小桜姫は、弟橘姫と会ったときの印象をつぎのように語っています。
年の頃はやっと24〜5歳くらい、小柄で細面のたいへん美しい方でした。どことなく沈んだ印象もありましたが、きりりとした、ややつり気味の目元には、優れたご気性がうかがわれました。お召し物は、また、私たちの時代の服装とはよっぽど趣が違い、上着はやや広い筒袖で、色合いは紫がかっていました。下着は白地で、上着より
2,3寸はみ出し、それには袴のように襞がついていました。髪は頭のてっぺんで輪を作った形で、そんなところにも古代風の雰囲気が漂っていました。お履物は黒塗りの靴みたいなもので、木の皮かなんかで編んだものらしく、重そうには見えませんでした・・・・・
このように、日本では史実としては認められず、神話の人物とされる弟橘姫や夫君の日本武尊について、時空を超えた霊界通信により、当事者から「直接」話を聞けるということは、実に有難いことのように思われます。例えば、「ヤマトタケルノミコト」も712年に書かれた『古事記』全3巻には「倭建命」として、720年の『日本書紀』全30巻には『日本武尊』と表記された記録が残されてはいますが、日本歴史のなかには登場してきませんから、その足跡も、神話の霧の中に消えていってしまうだけです。しかしその生涯は、小桜姫の霊界通信では、きわめて具体的に、まざまざと眼前に甦ってくるのです。
その中には、弟橘姫との見合いや結婚にいたるまでのほほえましいような逸話もあります。また、日本武尊が相模から船に乗って房総半島へ向かったときに暴風に襲われ、弟橘姫が入水して海神を鎮めたあの有名な出来事の経緯もリアルに語られています。あのとき弟橘姫は、「これは海神の怒りだ。今日を限りに日本武尊の命をとる」という声を何度もはっきりと聞いたのだそうです。しかし、それを日本武尊に打ち明けても信じてもらえませんでした。それで遂に意を決した弟橘姫が、「夫の命はこの国にとってかけがえのないものです。どうぞ私の命を夫の命の代わりとなさってくださいませ」と必死に祈った後、荒れ狂う波間に飛び込んだと述べています。問題は、なぜ海神の怒りを招いたのか、ということですが、それについても、(41)「海神の怒り」のなかで、霊界の指導霊のことばとして、つぎのような極めて具体的な話も記録されていました。
それはこういうことだよ。すべてものごとには表と裏がある。日本武尊がこの国にとって較べるもののない大恩人であることは言うまでもないんだが、しかし殺された賊の身になってみると、彼ほど憎いものはないというわけなんだ。彼の手にかかって滅ぼされた賊徒の数は、何万人もいるのだからね。それらが一団の怨霊となって隙をうかがい、たまたま心がけのよくない海神の助けを借りて、あんなものすごい嵐を巻き起こしたんだ。あれは人霊のみでできる仕業ではなく、かといって海神だけであったらあれほどの悪戯はしなかっただろう。たまたまこうした二つの力が合致したからこそ、あのような災難が急に降ってわいたというわけなんだ。当時の弟橘姫に、そんな詳しい事情がわかるはずもないので、姫があれをただ海神の怒りとだけ感じたことが間違っていたのはいたしかたあるまい。でもあの時の姫の祈りには涙ぐましいほどの真剣さが宿っていた。そんな真心がなぜすぐに神々の胸に通じない事があるだろうか。結果としてその思いが通じたからこそ、日本武尊は無事にあの災難を切り抜ける事ができたんだ。
この弟橘姫を祀っているのが、観音崎の走水神社ですが、入水した弟橘姫の着物の袖が流れ着いたといわれるのが、いまの袖ヶ浦(千葉県)で、それを納めて建立されたのが木更津市にある吾妻神社だそうです。弟橘姫に救われた日本武尊は、その場所に立って弟橘姫を偲び、いつまでも立ち去ろうとはしませんでした。その姿が、「君去らず、袖しが浦に立つ波のその面影を見るぞ悲しき」という歌に残され、「君去らず」が「きさらず」となり、いまの「木更津」の地名になったという話も伝わっています。
(2005.05.01)
三蔵法師玄奘の奇跡の足跡 (身辺雑記 28)
台湾台中市郊外の湖 「日月潭」のほ
とりに建つ玄奘寺の門 手前の本堂
3階から湖を背景にして筆者撮影。
(2005.01.17)
2001年春の中国の西安から敦煌への旅で、私は、西安市街の南部にある慈恩寺を訪れたことがあります。慈恩寺は、648年に、当時の唐の3代皇帝であった高宗が、母の文徳皇后を供養するために建てた仏教寺院です。この慈恩寺のなかに、あの三蔵法師玄奘で有名な大雁塔があります。4角7層で高さは64メートルもあって、この最上階に上がると、整然と区画された西安市内の美しい町並みをこころゆくまで眺めることができました。
この大雁塔は、645年に玄奘がインドから持ち帰った大量のサンスクリット語の経典や仏像を保存するために、652年に建立されたのだそうです。帰国してからの玄奘は、唐の2代皇帝・太宗の厚い保護のもとに、はじめは弘福寺で、大雁塔が建てられてからはここへ移って、664年に63歳で亡くなるまで、20年近くもの間、サンスクリット語経典の翻訳に没頭しました。彼が訳出した経典の総数は、75部、1235巻におよび、大般若波羅蜜多経600巻をも集大成したということです。日本人も親しんでいる般若心経なども玄奘の訳したもので、私は、語学の天才でもあったこの玄奘ゆかりの大雁塔に入ったときには、ちょっとした感動を覚えました。
それにしても、玄奘は、あの時代に徒歩で、よくあれだけの旅ができたものだと思わずにはいられません。私は西安から敦煌までの約1,500キロを小型飛行機で3時間近くも飛んでいる間、延々と果てしなく続く荒地の広がりを眼下に見下ろしていました。あのようなところを歩いて行くなどいうのは、とても人間にできることとは思えませんでした。しかも、その距離でさえ、天竺と呼ばれていたインドまでの距離のごく一部に過ぎないのです。玄奘の場合も、生きて帰れる確率は、10分の1もなかったといわれていますから、やはり、霊界からの大きな保護を受けていたのでしょうか。
玄奘が国禁を破って、西安(昔の長安)を出て西インドを目指したのは、28歳のときでしたが、どんなに苦しくとも決して引き返さない、足を東に向けない「不東の誓い」をたてます。文字通り命がけであることは、彼自身が一番よく知っていたことでしょう。途中で行き倒れの僧がいて、玄奘に一巻の経典を手渡します。それは「般若心経」でした。玄奘は、西へ西へとただひたすらに歩き続けながら、その般若心経の、「行く者よ、行く者よ、彼岸に行く者よ、悟りよ、幸あれ」などの文句を一生懸命に唱えていたのかもしれません。
死の砂漠と怖れられていたタクラマカン砂漠を3分の1ほど来たときには、うっかり水の入った皮袋を砂の上に落として、水がこぼれてしまったこともあったようです。それでも玄奘は、飲まず食わずで歩き続けます。5日目に意識を失いかけた時に、どこからともなく現れたやせ馬に導かれてオアシスにたどり着き、九死に一生を得たこともありました。結局、3年もかかって、やっと現在のパキスタン北西部のガンダーラに足を踏み入れました。それから彼は、インドで最初の師に会うことになります。ナーランダのシーラバトラでした。シーラバトラは、玄奘が来る3年も前から「仏法を救う若い僧侶が東から現れる」という予言を受けていたということです。そのことを聞いた玄奘は、み仏が自分の長い奇跡の旅を導いてきてくれたことを、強く実感したことでしょう。
玄奘は、前述のように、インドからの帰国後は、生涯を捧げて経典の翻訳に取り組み、664年(663年ともいわれます)2月5日に亡くなりました。ところが、その後千二百数十年を経て、日中戦争の最中の南京で大発見があります。その玄奘の石棺が、全くの偶然から日本軍の高森部隊によって発掘されたのです。昭和17年(1942年)12月、日本軍が中華門外に稲荷神社を建立しようとして丘を整地していた時のことでした。玄奘は、数多くの玄奘訳の経典により、「日本仏教の母」ともいわれている人ですから、戦時中でも丁重に扱われました。その石棺には「大唐三蔵大遍覚法師玄奘の頂骨は長安より伝えて此を葬る」と書かれていたそうです。
この遺骨は、その後一部が日本に渡り、奈良の薬師寺に安置されました。そしてさらに、その遺骨は、戦後、台湾へ返還されて、いまは台中市郊外の美しい湖「日月潭」のほとりにある玄奘寺に安置されています。私は、今年の1月、この玄奘寺で、その遺骨の一部を自分の目で確かめて、感慨を新たにしました。小さな金の舎利塔の前面の一部がガラス張りになっていて、中の遺骨は光り輝いているように見えました。外へ出ると、玄奘寺の塀には、玄奘が西安からインドまで出かけて帰国するまでの広大な地域に残された足跡が、大きな地図の上に描かれています。その奇跡の足跡は、いまも、この寺を訪れる多くの人々に、大きな感動を与え続けているようです。
(2005.04.01)
壱岐から対馬へ (身辺雑記 27)
対馬の最北端にある韓国展望所
晴れた日には、ここから50キロ先
の水平線上に釜山が遠望できる。
2005.02.11(筆者撮影)
九州の佐賀県北西部には東松浦半島がありますが、その北端から北北西約20キロの海上に壱岐の島が浮かんでいます。海岸線の砂が雪のように白く、島の形も雪の結晶に似ていることから、古来、由岐とか雪州とも呼ばれてきました。面積は周辺の小さな島々を含めても140平方キロくらいで、1時間もあれば、車で一回りできますから、可愛らしい緑の島といった感じです。この島に住んでいる人々も、3万3千人くらいしかいません。私は2月の上旬、福岡へ飛んで、博多港からフェリーでその壱岐の島の芦辺港に着きました。
博多からですと芦辺までの距離は60キロぐらいで、フェリーでは2時間10分かかりました。いまは、快速船ジェットフォイルも運行されていますから、これに乗ると、1時間です。着いてから夕方までにはまだ時間がありましたので早速観光を始めました。まず何よりも、芦辺港の周辺には、13世紀後半に二度にわたって日本を襲った元寇のあとが今も残されています。
元軍の最初の来襲は、文永11年(1274年)10月でした。900隻に分乗した元の大軍が小茂田浜へ押し寄せてきたとき、防戦の指揮をとったのは守護代の宗助国でした。しかし、十数万の元軍に対して、日本軍は助国以下わずかに80騎だったといいますから、ひとたまりもなかったのでしょう。全員が討ち死にしてしまいました。その古戦場の近くには小茂田浜神社があって、助国たち戦死者の霊をお祀りしています。
2度目の来襲は、弘安4年(1281年)の5月から7月にかけてです。この時の元軍は、九州の太宰府を攻め落とすには最も便利で、良港であった瀬戸浦に襲いかかってきました。壱岐の守りについていたのは瀬戸の領主であった少弐(しょうに)氏です。そのときまだ19歳であった少弐資時は総大将として勇敢に戦ったのですが、この時も、圧倒的な元軍の前には為すすべもなく、全滅してしまいました。その古戦場のあたりは、いまは少弐公園となっていて、少弐資時の銅像が建てられていました。
芦辺港から南東に少し下ると、八幡半島の先端に玄界灘に面して切り立ったダイナミックな海蝕崖の連なりが見えてきます。海中から、奇岩が突き出ているのもあります。左京鼻と呼ばれている自然の造形美で、その名前には、つぎのようないわれがありました。
この島は、平地が開けて農業で自給自足できるほどでしたが、江戸時代の初め頃、大旱魃に襲われ、田畑の作物はすべて枯れてしまいそうになったことがあったそうです。島の人々にとっては死活問題で、島にいた陰陽師の後藤左京と龍蔵寺五世の日峰和尚の二人に雨乞いの祈祷を頼みました。二人はそれを受諾し、身命を賭して一心不乱に天に祈り続けたといいます。しかし、相変わらずの晴天続きで雨は降らず、ついに満願の日が来てしまいました。
祈祷の誓いにしたがって、座禅をしている和尚の周りに積まれた干杷の麦藁に火が点じられ、紅蓮の炎がその姿を包みこもうとします。一方、後藤左京のほうは、岬の断崖に立ち、身を投げだそうとしました。その時、突然、空がかき曇って、車軸を流すような豪雨が降り出したのだそうです。山野は生気を取り戻して人々は救われました。左京鼻の名は、この雨乞いをした後藤左京の名から来ているということです。
見知らぬ土地へ行きますと、何を見ても聞いても、興味がそそられますが、この壱岐への旅で強く印象に残ったのは、島の南部にある「岳の辻展望台」から眺めた光景でした。標高は213メートルですが、この場所が島の最高峰で、まわりには視界を遮るものが何もありません。ですから、天候にさえ恵まれれば、壱岐全土や周辺の渡良三島といわれる原島、大島、長島等はもちろんのこと、南の九州から北北西の対馬まで、そこから見渡すことができるのです。私がこの展望台に立ったその日は、風が強くて寒い日でしたが、雨上がりの晴天で、絶好のコンディションでした。50キロ離れている対馬の島の輪郭が肉眼でもよく見えました。
次の日、その岳の辻展望台から車で十数分の郷ノ浦港から、対馬へ向かいました。対馬の南端に近い厳原(いづはら)までは、60キロくらいですから、博多から壱岐の芦辺港までとほぼ同じ距離です。今度は快速のジェットフォイルで、1時間で着きました。対馬は、面積も700平方キロ近くありますから、壱岐よりも5倍も大きい島です。壱岐と違って、島全体がほとんど山で、農業には頼れません。林業、漁業が主ですが、生活環境は厳しく、壱岐が農耕文化的な色合いをもっているとすると、対馬は、漁猟文化的といっていいかも知れません。この二つの住民たちは生活習慣も異なり、お互いにあまり仲がよくないという話も聞きました。
この対馬の厳原から博多までの距離は約120キロで、厳原から韓国の釜山までは約110キロです。対馬は南北に長く延びていますから、対馬北端から釜山までの距離を測りますと、50キロしかありません。日本本土を離れてここまで来ると、もう日本本土よりは朝鮮半島の方が近いのです。それだけに、たとえば朝鮮通信使のように、朝鮮半島との交流の歴史もこの島には、色濃く刻み込まれています。
豊臣秀吉の朝鮮侵略は、日本と朝鮮との友好関係に大きな傷痕を残しましたが、徳川家康が政権を握ってからは、家康が対馬の宗氏を通じて国交回復に努めるようになりました。家康は、朝鮮侵略軍には参加していませんでしたし、朝鮮側からすると、家康は侵略者の秀吉を滅ぼした人物ですから、いわば、仇を討ってくれたようなものです。国交回復の話もやりやすかったかもしれません。1605年には日韓和約が結ばれ、その後、1607年から1811年まで、12回にわたって使節が来日しました。
この朝鮮通信使の来日は、徳川幕府の国際的地位を高めるためにも重要視されていました。初めの頃は、総勢400名にもなっていた大使節団を、沿道の大名たちも丁重にもてなしたようです。通信使の来日は、国境の海が平和であることの証でもありました。そしてそれは、通信使との連絡交渉の窓口になった対馬藩にとっても、有利で確実な貿易が保証されたことを意味しました。対馬藩が日本と朝鮮との友好関係を維持することに終始熱心であったのもそのためです。そして、その政策の中心的役割を担った一人が雨森芳洲です。異文化理解の重要性を説いたこの国際交流の先駆者のすぐれた思想と学問については、私は、いつかまた、稿を改めることができたら、と考えています。
対馬でも、観光地はいろいろとありますが、私が行ってみたかったのは、対馬の最北端にある上対馬町でした。そこから、韓国の釜山まではすでに述べたように50キロしかありません。この町の観光名所が、丘の上にある韓国展望所です。この日も、空はよく晴れていて、空気は乾いていました。韓国展望所からは、北西の方角の水平線にひろがった陸地が肉眼でもはっきり見えます。私の小さな双眼鏡でのぞくと、釜山の建物群の輪郭のようなものまで見えてきます。私はちょっと感動しました。韓国というのはこんなに近いのだということを、しみじみと実感させられたのです。
翌日の昼、博多港までのフェリーに乗るために、また厳原港に行ったとき、乗り場の待合室には韓国人の旅行者たちも大勢目につきました。彼らにしてみれば、フェリーで1時間もすればここへ来れるわけですから、日本でもこの辺は韓国の一部であるかのような感覚なのかもしれません。対馬の人々も、韓国には特別の親近感を持っているようです。対馬で日常的に使われている韓国語の単語も、チング(友だち)、タル(耕す)など、いくつかあると聞きました。
待合室の片隅の案内所には、日本語だけではなく、韓国語の案内も併記されていて、ハングルのパンフレットなども置いてあります。そこに座っていた案内係の中年の女性に、あなたは韓国語も話されるのですか、と訊きますと、「少しは話しますけれど、たいてい韓国の方々が日本語で話されます」と、答えが返ってきました。釜山では日本のテレビも見えるといいますし、ここに来る韓国の旅行者たちに日本語を話す人が多いのも、日本がそれだけ近い国ということなのかもしれません。
(2005.03.01)
与えられている者の与える責任 (身辺雑記 26)
ビル・ゲイツ氏 (William Henry Gates V) といえば、世界一位の市場占有率をもつマイクロソフト・ウィンドウズを開発したマイクロソフト社の会長で、個人資産では、世界一の金持ちといわれています。アメリカの雑誌「フォーブス」の2004年長者番付によると、資産総額は推定で480億ドルといいますから、日本円ではざっと5兆400億円くらいでしょうか。ちょっと、想像もつかないような大金持ちです。
そのビル・ゲイツ氏が、新年早々の1月8日の「朝日新聞」に、ロックバンド「U2」のボーカリストであるボノ氏との連名で、今年の2005年が世界の「貧困問題解決へ強い意志示す時」であるとして、世界の先進国すべての指導者たちに、つぎの4つの提言を行っていました。
1. 迅速に供出できる効果的な対外援助の額を倍増する。同じ趣旨での英仏主導の計画が動き出そうとしており、それは子供の予防接種を増やすことで500万人の命を救えるかもしれない。
2. 貧困国の債務を終わらせる。彼らに必要なものは軽減以上のもの, 完全な債務帳消しである。
3. 不公正な貿易ルールを変え、貧困国が自立できる道をつくること。
4. HIV (エイズウイルス) ワクチンの開発を協力して推進する組織への資金提供。
そして、こうした行動によって、先進国の政府は歴史を作ることができる。もし世界中から、貧困や疾病によって理不尽に生命が失うことをなくすことができれば、2005年はそのような歴史の「瞬間」になるだろう、と訴えています。
このうちの(1)だけをとってみても、日本を含めた先進国の政府が対外援助の額を倍増するというのは、容易ではないように思われがちですが、そのような援助をしないことによって生じるコストと比較してみれば、結局、安上がりになる、といいます。たとえば、現在すでにアフリカでは、親たちが抗エイズ薬を手に入れることができなかったために
1千万人の孤児が生まれ、その世話が大きな問題になっています。それが、2010年までには、このままでは、さらに
2千万人が増えることになるかもしれません。エイズの炎が燃えさかってから消し止めようとするのであれば、はじめから火がつくのを防ぐよりも、はるかに巨額の援助資金が必要になってしまうのです。
まことに理に適った提言ですが、これは、これから先進国の指導者たちに、どのように受け止められていくのでしょうか。この提言の最後は、「緯度と経度の線はどんな鉄のカーテンよりも強く、我々をアパルトヘイト以上に分断している。世界はこの状況を変える資源と技術を持つ。2005年に回答を出すべき問いは、我々が強い意志を示せるかどうかということだ」と、締めくくられています。
この提言が、世界一の大金持ちであるゲイツ氏と著名なロックスターのボノ氏という社会的にも影響力の大きい二人のものであるだけに、読む人には興味がそそられます。金持ちであれ、著名人であれ、その程度を問わず、与えられた資産や才能を人一倍多く持つ者は、それなりに、その人一倍多く与えられたものを、人一倍多く、社会に還元していかなければならない義務と責任があると思いますが、そういうことを、金持ちや著名人がすべて理解しているわけではないようです。しかし、ゲイツ氏は、奥さんのミリンダさんとともに
「ビル・アンド・ミリンダ・ゲイツ財団」を設立して、世界の貧困対策や途上国支援に積極的に取り組んできましたし、ボノ氏も、「債務、エイズ、貿易、アフリカ」の英語の頭文字をとった「DATA]
の共同設立者となり、同じように、世界の貧困問題の解決に関わってきました。
スイスのダボスで開かれた世界経済フォーラムの年次大会(ダボス会議)では、1月27日に、ゲイツ氏とボノ氏は、イギリスのブレア首相を加えた3人で記者会見をして、アフリカの貧困と疾病の救援を訴えた、と伝えられています(「朝日新聞」01.28)。
この会議に合わせて、ゲイツ氏は、アフリカなどの子供に予防接種を広める組織への
7億5千万ドル(約770億円)の寄付を表明しました。そういうゲイツ氏たちの主張や活動が会議にも影響を与えたのかもしれません。ダボス会議では、1月26日、700人の参加者が討議の末、世界が直面する最も深刻な問題として「貧困」を選び、その対策を考えることになりました。
この会議では、ちょっとしたハプニングもあったようです。1月28日の夕方、「貧困との闘いの財源をどう確保するか」を討議するシンポジウムの会場でのことでした。ムカバ・タンザニア大統領が、債務の返済に追われ、教育や感染症対策に資金をまわせない窮状を説明したのです。その時、会場にいた女優のシャロン・ストーンさんが素早く反応しました。
その大統領のことばにこころを動かされて、「1万ドルを差し上げますので、今日、マラリア防止の蚊帳を買ってください。どなたか仲間になる方はいませんか」と呼びかけ、「今日も子供たちが死んでいるのです。いま助けが必要です」と訴えますと、出席者たちは涙を浮かべながら、「5万ドル出そう」「私も」と、つぎつぎに寄付を申し出て、その総額はざっと 100万ドル(約1億円)にもなったということです(「朝日新聞」01.30)。
世界保健機構 (WHO) によると、アフリカでは毎日3千人の子供がマラリアで死亡しているということで、そのためにマラリアやエイズ対策を進める国際基金では、蚊帳 1億張りを提供する計画をたてていました。ストーンさんの呼びかけで集まった1億円のお金は、この国際基金を通じて、殺虫剤を練り込んだ特殊な蚊帳の購入に充てられることになります。蚊帳は1張り500円程度で、約20万個買えることになったそうです。
(2005.02.01)
ガンジーの自発的貧困 (身辺雑記 25)
マハトマ・ガンジーは、1931年9月23日にロンドンの Guild Houseで、「自発的貧困」と題する講演を行いました。その全文がガンジーの著作集(The Essential Writings of Mahatma Ghandhi: Raghavan Iyer; ed.; published by Oxford Universir Press)に収録されていますが、その一部を片山佳代子さんの訳で、ご紹介したいと思います。片山さんは、インドで暮らした体験をもとにガンジーの思想に共鳴して、現在、日本で「半農」生活を送りながらガンジー思想の紹介・普及に努めておられる方です。
全文はかなり長くなりますので、はじめの部分と、終わりの部分を省略して、全体の3分の2ほどにまとめてみました。
*****
・・・・・・自ら富を捨てるという行為、行いの一部始終をここで再現するつもりはありません。味深いことではありますし、私にとっては神聖な行いではありますが、私に言えるのは、それは最初のうちは困難な問題と格闘することであると言うことだけです。妻との格闘であり、また生き生きと思い出せるのですが、子ども達との格闘でもありました。それはそうとしても、私が命を捧げた人々、その人たちの困難な状況が毎日目に入ってくるその彼らのために尽くすのが使命であるならば、私はすべての富、所有物を手放さねばならないという確固とした結論に達しました。
この信念を私が持った時に、私はすべてのものを直ちに手放したと真実を持って語ることはできません。最初のうちはとてもゆっくりでしかなかったということを告白せざるを得ません。そして今、その当時の奮闘ぶりを思い出しておりますが、最初のうちは困難を伴ったものでした。しかし、日が経つにつれて、私は自分のものと考えていた他の多くの物も放棄せねばならないということが分かってきました。そして、それらのものを放棄するのが積極的な意味での喜びとなっていきました。そして、次から次へとほとんど加速度的に物が私の手を放れていきました。そして、この経験を振り返って見て私は言えるのですが、その結果私は肩から重荷を下ろすことができました。ゆったりとした気持ちで散歩もできますし、仲間に奉仕する仕事も楽にしかも大いなる喜びをもって成すことができます。そうなりますと、何であれ物を所有するということは、厄介なこと、重荷となってきます。
そのような喜びの源は何であるかと考えていきますと、もし、私が何かを自分だけの物として所有すれば、それを取られないように世界中を相手に守らねばならなくなるということに思い当たりました。そして、またその物を欲しがっていながらも、手に入れることができないでいる者が多数いることにも気づきました。そのような状態でもし私が一人でいるところを空腹の飢饉におそわれた人々に見られ、彼らが私から施しを受けようとするのでなく、物を奪い取ろうとした場合、私は警察の保護を求めねばならないのです。そこで私は自分に言い聞かせることにしているのですが、もし彼らがそれを欲しがり取るのであれば、彼らが私に危害を加えたくてやっているのではなく、彼らのほうが私よりもそれを必要とする度合いが高いからなのです。
さらに、私はこう思います。物を所有するということは私にとっては犯罪に思われます。同じようなものを欲しがっている他の人々もその物を所有することができるときのみ、私はその物を所有することができるのです。経験から言って誰にも分かることですが、そのような物は存在しません。ですから、すべての人が持つことができるのは、非所有です。何であろうと物を一切持たないということです。つまり、自発的放棄です。
そこで皆さんはこのように言うことでしょう。でも、多くの物を身に付けているではありませんか。たった今自発的貧困だの、一切のものを所有しないだのと言っていたところだというのにと。私がたった今言ったことの意味を表面的に解釈するならそのような批判も正しいことでしょう。しかし、私が言いたいのはその背後にある精神的なことです。身体がある限り、何らかの身にまとうものを所有しないわけにはいきません。しかし、その際手に入れられるだけいくらでも身にまとうために所有してよいというわけではありません。そうではなく、もっとも少なく、何とか賄えるだけの最低限の数だけを所有するようにすべきです。自分が住まうためにも、大邸宅をいくつも所有するのではなく、何とかやって行ける最低限の屋根を確保するようにすべきです。食物、その他のものについても同様のことが言えます。
これについては毎日のように意見の衝突があります。今日我々が文明として理解しているものと、至福の状態、もっとも望ましい状態と私が思い描いて見せる状態との間に隔たりがあるのです。一方では、文化、文明の基礎はあらゆる欲望を拡大していくことと理解されています。部屋を1つ所有すれば、もう1部屋欲しくなり、さらにもう1部屋と多ければ多いほど楽しいということになります。同様に、家に入るだけのより多くの家具が欲しくなります。そしてこのようなことは際限なく続いていきます。そして、所有物が多ければ多いほど、文化が豊かなことを示しているなどと考えられているのです。そのような文明を良しとする者はもっとうまく説明することでしょうが、私は自分が理解しているところに従って説明しています。
そして、他方では、所有物を減らせば減らすほど、欲求も減り、人格者となっていけるのです。何のための人格者かと言えば、この世でおもしろおかしく暮らすためではなく、仲間のために個人的に奉仕することを喜ぶためです。身体も心も魂も含めて自分自身を捧げる奉仕のためです。
ただしこれには偽善、偽りが入り込む余地が十分にあることに気づくでしょう。人というものはたやすく自分自身を、また隣人をも騙してしまうことのできるものだからです。「心の中では私は所有するものをすべて放棄しているのですよ。ご覧の通りこれらのものは私の持ち物ですが、私の行いを見て判断しないでください。私の意図していることから判断してください。この私の意図においてのみ、私はただ一人の証人であり続けるのです」などという時がそれです。これは罠です。それも死へと至る罠です。長さ2〜4ヤ−ド、幅1ヤ−ド程の布切れを所有することであっても、どのようにして正当化できるでしょうか。何らかの方法で身体を覆うためにそれだけの布切れを所有することであっても、どのようにして正当化できるでしょうか。
もしその布切れを置いたままにしておけば、そのような物であっても誰かが取って行くだろう事を知っている場合、ここでも危害を加えるためではなく、たったそれっぽっちの布切れであっても彼は持っていないのでそれが欲しくて持ち去るわけですが、そのようなことが分かっていてどうしてその布を持つことを正当化できるでしょうか。私は見てきました。この目で見てきたのですが、何百万もの人々がたったそれだけの布すら持っていないのです。何も所有すまいという意図がありながら、これを所有するという行為をではどうして正当化するのでしょうか。
さて、人生におけるこのジレンマ、この困難、この矛盾を解決する方法はあります。これらのものを所有せねばならないとしたら、それを欲しがる者が自由にできるようにすべきです。つまりこうするのです。誰かがやってきてその布切れを欲しがれば、それを彼に渡さないようにするのではありません。ドアを閉めたり、これらの物を持っていられるように警察を呼んで助けてもらったりなどしてはなりません。
この世が与えてくれるものだけで満足すべきです。この世があなたにその布切れを与えることもあれば、与えないこともあるでしょう。と言うのも、もし何も所有しないのであれば、当然のこととして、衣類や食糧を買うお金も所有しないということになるからです。そこで、この世の施しにのみ頼って生きることとなります。そしてたとえ心有る人が何かを施してくれても、それはあなたの所有物とはなりません。それを欲しがる者がいれば誰にでも与えるというつもりで、それだけを予定して預かっているだけなのです。もし誰かがやってきて、力で無理やり物を取り上げたとしても、警察署に行きそこにいた警官に襲撃を受けたと報告してはなりません。襲われるということはないのですから。
さて、これが私の言う自発的貧困ということです。理想的な状態をお話しました。((この講演会の司会の)ロイデン博士
は私が自発的貧困を示す世界で1番良い例だと言ってくださっています。私は、謙遜して申し上げますが、そのような言われ方に全く値しないものです。このことはただ単に自分を卑下するためだけに言っていることではなく、本当のことであると心から思って言っています。私が考える自発的貧困のほんの一部分を述べたにすぎませんが、その理想を完全に達成したとはとても言えないのが今の私の状態です。この理想を完全に達成するためには、私の心に確固とした意図、確信がなければなりません。地球上にある何物も自分の所有物とはしたくない、してはいけないという確信です。この身体さえもそうです。というのもこの身体も所有物だからです。
もし、私と同じ信仰を持っていてくださるならば、教会に行く方でしたら、つまり神の存在を信じる方でしたら、身体と魂は1つの同じものではなく、身体は魂、霊が一時的に宿るための宮に過ぎないということを信じていらっしゃることでしょう。もし、そのことを信じていらっしゃるならば、信じていらっしゃると私は理解しているのですが、そのことから、身体でさえも私達の物ではないと言うことができます。一時的な所有物として与えられているに過ぎません。それを与えてくださった神様が、またそれを取り去ることもできるのです。
ですから、私の中に断固として信念がありますので、次のようなことが私のいつも心に抱いている願望です。この身体もまた神の意思に屈するものである以上、私が自由に使える間は、愚かなことをしたり、勝手気まま、快楽を追求するためではなく、ただ奉仕のためだけに使うべきと心得ます。身体が起きている間はすべて奉仕をすることにこの身体を用いたいと思っています。もし、このことが身体に関して真理であるならば、衣類その他私達が用いる多くの物についてもさらにもっと真理であるに違いありません。
このような確信に至り、この確信を何年間も持ち続けていながら、私に不利となる証拠として自分をここにさらしています。自発的貧困の完全な状態に私はまだ至っていません。私は貧しい者です。理想に到達するために格闘するという意味での貧しさです。私達が日ごろ貧しいという意味で使っている意味での貧しさではありません。
実際、私はある人から論戦を挑まれたことがありますが、その時私は隣人、さらには世界中の人々に対して自分は世界一豊かな人間のようだと主張することができました。というのも世界一豊かな人とは何も所有していないのに、すべてのものを自由にすることができる人のことを言うからです。
可能な限り完全にこの自発的貧困の誓いに従った行動を実際にとる者は、(全く完璧な状態に至ることは不可能ですから、人ができる最高限度ということになりますが)そのような意味での理想的な状態に到達できた者は、その証言するところによれば、所有する物すべてを手放すと、世界中の貴重な物すべてが本当に自分の物となります。別の言葉で言えば、実際に必要とする物はすべて本当に手に入れられます。もし食物が必要ならば、食物が届けられます。
皆さんの多くは祈りの人でしょう。そして私は、大変多くのクリスチャンが祈りの応えとして食物が与えられ、すべてのものが祈りに応えて与えられたと言うのを聞いています。私はそのことを信じます。しかし、私とともにもう1歩踏み出していただきたいのです。地上のすべての物、肉体も含めたすべての物を自発的に捧げた者は、つまり、すべてを捧げる用意にある者は、(批判的に、断固とした態度で自らを顧み、いつも厳しい判断を自分自身に下すようにすべきですが)これらのことが徹底的にやれた者は、欠乏状態にあるということが決してありません。
皆さんに告白しますが、神が自分に富を分け与え賜われたと考え、私が多くの物を所有していた時、今日ほどには、私は物を所有する手腕に長けてはいませんでした。当時は、私は奉仕のために必要とするお金などすべての物を取り扱う才能が今の百万分の一もありませんでした。
私が法律業を営み、お金を稼ぎ幾ばくかのものを所有していた当時にあっても、奉仕の気持ちは持ってはいました。しかし、その当時は奉仕に必要なものを何でもかんでも手に入れてくる才能は確かにありませんでした。しかし、今日では、(私にとって良いことか悪いことかはわかりませんが、神のみがご存じでしょう)次のように証言することができます。私は1度として何かが足りなかったということがありません。
自分の意思で本当に物を手放し、何かを自分のものにしたいという欲求がなくなり、私が持つすべての物を周囲の人々と共有しはじめるという段階を経て、(私は全世界の人々とすべての物を分かち合うことはできませんが、もし私が周囲の人々と分かち合えば、それは全世界の人と分かち合うことになります。私の周囲の人も同じことをするからです。もし私たちがそれを行えば、それこそ万能ではない人間にできる最大限のことです。)しかし、すぐに私はかなりの程度までそのような状態に達することができました。つまり、何かが足りなくて困ったなどということが1度もないのに気づきました。
足りないということは、ここでもまた文字通りに解釈してはなりません。神は地上では出会ったことのないほど厳しい仕事割り当て人です。そして、神は何度も何度も試みに会わされます。そして、信仰がなくなりそうになったり、身体が挫けそうになったりして、沈み込んでいっていると、なんらかの方法で神は救いの手を差し伸べてくださいます。そして、信仰を失ってはならないことを証明してくださるのです。いつも神は招きに、神を呼ぶ声に応えてくださいます。しかし神には神のやり方があって、私たちのとは違うのです。そのようなことを私は発見しました。
最後の最後になって神が私を見捨てたような出来事は、本当に1つも思い浮かびません。そして私はこのような名声を得るに至ったのです。今ここでもう1度申し上げましょう。インド最大の物乞いという名声です。そして、私を批判する者が言うように、私はある時1千万ルピ−もの額の募金を集めました。ポンドではいくらに相当するのかわかりませんが、とてつもない金額です。(約75万ポンド)しかし、その金額を集めるのに苦労はありませんでした。そして、その時以来、緊急の必要が生じるといつでも、どの案件においても、私の記憶のどこにも、奉仕に必要なものが何であろうと手に入れられなかったような例は1つとして思い浮かびません。
しかし、これは祈りに対する応えだと言われることでしょう。祈りに対する応えというだけではありません。これは所有しないという誓い、自発的貧困の誓いがもたらす科学的結果です。どんな物でも所有しようという気がなくなります。そして生活を簡素化すればするほど、所有物を放棄すればするほど、自分のためにより良い結果をもたらします。すぐにそのような状態になり、何でも自分の自由にすることができるようになります。自惚れることもなくなります。
ですから、私が今皆さんにすばらしいものとして約束したことは、奉仕のためならあらゆる資源を自由にすることができるということです。信じない者にとっては尊大な言い方に聞こえるかもしれません。しかし、私は信じているのですが、奉仕のためには地上のすべての物を自由に使えると言うのは尊大な言い方ではありません。もちろんそれは各自の奉仕する能力に応じてです。この世で完全な奉仕をしたいと思えば、イ−ストエンド(ロンドン東部の貧民街)のある家まで出かけて行って、そこに住む者の中から貧困に喘ぐ人々を見つけ、顔に向けて小銭を投げてやるだけでは足りません。そんなことのためには世界のあらゆる物を自由にすることなどできません。神はあなたの顔にも小銭を投げかけることでしょう。
しかしもし、自らを、身体も魂も精神も投げ出し、この世のために捧げたならば、そうすれば私は次のように言うことができます。この世の宝があなたがたのもとにあります。皆さんが楽しむためではなく、そのような奉仕を楽しむためです。その奉仕をするためだけにあなたの物となったのです。
私が皆さんにお話していることから導き出してもらいたい倫理観は、今の時代が本当に必要としているものです。この国の困難な状況に対して私は心から同情を寄せているという時に、どうか私は本心から言っていると信じてください。皆さんの財政的な問題について解決法を示すことは私にはできないことです。皆さんは立派な方々です。自分たちで解決法を見つけるだけの恵まれた資質も十分におありになります。しかし、今日の貧困と関連して、今私が述べたこの考えを自分の頭の中で思い巡らせてくださいということを皆さんにお願いしたいと思います・・・・・・・
(2005.01.01)
アジア大陸最西端の地 (身辺雑記 24)
ヨーロッパ側のトプカプ宮殿テラスから
ボスポラス海峡を隔てて見たアジア側。
(2004.12.04) 筆者撮影
トルコ共和国の国土は、アジアとヨーロッパの二つの大陸にまたがり、広さは、日本の約
2.1倍の78万平方キロです。東西に約 1,600キロ、南北に約 650キロ広がっていて、その97パーセントがアジアに、残りの3パーセントがヨーロッパに位置しています。このアジアとヨーロッパの二大陸をまたいでいる特異性をもっともよく表しているのが、「アジアとヨーロッパの架け橋」といわれるトルコ最大の都市イスタンブールでしょう。
イスタンブールは、長さ約 30キロのボスポラス海峡でアジア側とヨーロッパ側に分かれてしまっています。この二つの大陸を結んでいるのが、南側のボスポラス大橋と北側のファティフ・メフメット大橋(通称第二ボスポラス大橋)で、この二つの橋が文字通りの「アジアとヨーロッパを結ぶ架け橋」です。人々は、この二つの橋を渡り、あるいはフェリーに乗って、アジアとヨーロッパを行き来しています。
私が初めてイスタンブールを訪れたのは、1997年の春のことでしたが、観光の名所になっているヨーロッパ側東端のトプカプ宮殿のテラスから、目の前のボスポラス海峡を隔てて対岸のアジア側を眺めたときには、ひとしおの感慨を禁じ得ませんでした。日本はアジア大陸のほぼ東端に位置していますから、そのアジア大陸が、日本から始まり、中国、パキスタン、イランなどの国々を経てここで終わっていることを目の前で確認することが、やはり、なにか意味があるような気がしていたのです。
今年の一月、私はたまたま日本最西端の地を訪れていました。石垣島からさらに西へ130キロ離れた与那国島です。その与那国島西端の西崎(イリザキ)が日本最西端の地で、そこには最西端であることを示す碑も建てられています。北緯24度27分、東経122度56分です。しかし、イスタンブールでは確かにアジア大陸が終わっていますが、アジア大陸の最西端ではありません。トルコの地図をみてもわかるように、北の黒海からボスポラス海峡を通ってマルマラ海に抜けると、その南側にはさらにトルコの大地が西へ広がっています。
ボスポラス海峡が黒海とマルマラ海を結んでいるように、マルマラ海の西端では、またアジアとヨーロッパの両大陸が接近してきて、ダーダネル海峡になり、それを抜けると、エーゲ海にでることになります。ちょうとそのあたりには、あのトロイ戦争で有名なトロイの町がありますが、このあたりがアジア大陸の最西端ということになるでしょう。小さな島がまわりに点在していて正確な位置は分かりませんが、大体北緯40度、東経26度あたりです。今度の旅行では、私はその辺もバスで通りました。
今度は、成田からイスタンブールに直行して、一泊してからは夜行の寝台列車でまず首都のアンカラへ行き、そこからはバスで南下して、パムッカレへ向かいました。そのあたりのトルコ中北部では、たまに通る市街地を除くと寒々とした荒れ地がどこまでも広がっているという感じです。やせ細ったポプラが枯れ木のようにところどころで立っているぐらいで、遠くに見える山々はうっすらと雪をかぶっています。何時間も走り続けて、コンヤから西へ折れても、そのような風景は続いていました。やっとエフェソスあたりまで来てエーゲ海が見え隠れするようになる頃から、車窓から見える景色は変わり始めます。緑が目立つようになり、松やオリーブなどのほか、イチジク、オレンジ、桃、ミカンなどの果樹も増えてきて、ところどころ、きれいなホテルや家々が並んだ保養地なども目に入るようになります。
イスタンブールを出て東へ向かい、広大なトルコの大地の西半分を一回りする形で南に折れ西に向かってまたイスタンブールへ帰る。このようなルートで2000キロ近くを走り、トロイまで来て古代の遺跡のなかに立ちますと、西方にエーゲ海が視野に入ってきます。そこがアジア大陸の最西端です(正確には、「ほぼ最西端」といわねばなりませんが)。
このトロイから少し北上すると道はダーダネル海峡にぶつかり、バスは海峡のアジア側を進んで行きました。そのエーゲ海からダーダネル海峡沿いのうすい紫がかったような風景と、その風景のなかでアジア大陸の最西端を走っているのだという感慨が今の私には、忘れ難い思い出の一こまになりそうです。今年、2004年の1月には日本の最西端の地を訪れ、12月にはたまたま、アジア最西端の地を通り抜けたという感傷めいた気持ちも、少しはあるからかもしれません。
(2004.12.15)
長崎県五島列島の「ルルドの水」 (身辺雑記 23)
五島列島・福江島の井持浦教会にある
日本最初の「ルルドの水」。泉水はこの
マリア像の右下から流れ出ている。
(2004.11.16) 筆者撮影
フランス南部のピレネー山脈の麓にルルド(Lourdes)という町があります。いまでは人口も1万5千になり、「ルルドの聖水」で世界的に有名になっていますが、かつては山間の小さな寒村のひとつにすぎませんでした。1844年1月7日、この村の貧しい農家の長女として、ベルナデッタ・スービルー(Bernadette Soubirous) が生まれて、やがて、この子がこの山里の村を大きく変えていくことになります。
1858年2月11日、ベルナデッタが14歳の時、ポー川のほとりにあるマッサビエール洞窟の近くで、彼女が薪拾いをしていると、聖母マリアが現れました。ベルナデッタのまわりに突然風が吹き渡り、ふと顔を上げてみると目の前に白衣の聖母マリアが十字を切ってお祈りしている姿が見えたというのです。聖母マリアは、その後も繰り返し少女の前に現れて、その回数は最初の時のを含めて18回にもなったといいます。
9回目に現れたのはその年の2月25日のことでした。この時には聖母マリアは、洞窟の方を示して、「泉から出てきた水を飲んで顔を洗いなさい」とベルナデッタに告げたそうです。ベルナデッタは、洞窟へ行ってみましたが泉はありません。そこで、示された場所を右の手で掘り出しますと、小さな窪みができて、その底から泥水がにじみ出てきました。彼女は、その水を飲もうとしますが、濁っている泥水なので飲めそうもないのです。捨ててしまいました。2、3度同じようにしたあと、4度目に、やっと手ですくった水を飲み干しました。
ところが、その日のうちから、この小さな窪みにはこんこんときれいな水が湧き出してきたのです。その3日後、たまたま目を患っていた人がその聖母マリアから告げられた水のことを聞いて、その水で顔を洗ってみますと、忽ち目の病はなおってしまったということもありました。その話は村中にひろがり、人々はその水を持ち帰って、病気の人に飲ませるようになります。飲んだ人はみんな、病気が治っていったそうです。はじめは半信半疑であった教会の神父たちも、病人がその水をのんで治っていく様子を現実につぎつぎにまのあたりにするようになっては、その奇跡を認めざるを得ません。噂は噂を呼んで、大騒ぎになりました。それがルルドの奇跡が知られるようになった始まりです。
その後もこのルルドの泉は、現在に至るまで140年以上にもわたって涸れることなく湧き続け、いまでは、年間500万人もの巡礼者が訪れるカトリックの聖地になっています。いろいろな病気を持った人が、このルルドの水を飲んで、いまもつぎつぎに治っているという不思議な水で、「神の水」としてひろく崇められているようです。1927年には「ルルド国際医学会」も設立され、世界30か国の5000人以上の医師が名を連ねて、ルルドの水のもたらす効果についての研究を続けている、ともいわれています。化学分析をしてみても、このルルドの水には、普通の水にはない活性水素が多量に含まれていることがわかっていますが、おそらく、奇跡がもたらされる要因はそれだけではないのでしょう。
ベルナデッタは、「ルルドの聖水」で一躍有名になりましたが、世間の喧噪を逃れるように尼僧院の学校の寄宿生になって、外界から遮断された生活を送るようになりました。そして、1866年からは修道院に入って12年間の祈りの生活を送ったあと、35歳で亡くなっています。しかし、奇跡は、このあとでも起こりました。
死後30年経って、何かお告げでもあったのでしょうか、ベルナデッタの墓を掘り返してみると、彼女の遺体は、少しの腐敗も硬直もなく、皮膚もバラ色で、まるで生きているようであったというのです。当時のことですから防腐剤が注入されていたわけでもなく、ミイラにするときのような人為的な技術が施されていたわけでもありません。それなのになぜ、遺体が生きたままのような状態であり続けてきたのか。これも本当に不思議です。奇跡としかいいようがありません。今もベルナデッタの遺体は、少しも朽ちることなく、パリ郊外のサン・ジルダール修道院に安置されています。私はまだこの修道院を訪れたことはありませんが、写真で見ても、その輝いているような寝姿は、とても遺体とは思えず、まるで生きている人が眠っているだけのように見えます。
このベルナデッタの前に聖母マリアが現れたという事実は、ローマ法王によっても公式に認められ、1933年には、彼女は聖人の一人に加えられました。これにより、ベルナデッタと「ルルドの聖水」の奇跡は、いっそう広く、世界中のカトリック信者の間に知れ渡って、厚い信仰の対象になっていきました。そしてその傾向は、日本でも例外ではありません。
日本では、明治維新から5年後の1873年にキリシタン禁制が解かれたあと、特に長崎の五島列島では、各地につぎつぎに教会が建てられていきました。その全五島の宣教司牧にあたったのが、フランス人のアルベルト・ペルー神父でした。彼は、故国のルルドの洞窟をこの日本の五島列島にも作ることを計画し、その場所を、下五島の福江島玉之浦に定めて全五島の信者たちに協力を呼びかけたのです。
その呼びかけに応じて、五島の津々浦々から、教会建造のための石が運び込まれ、信者たちの奉仕によって、1899年に完成したのが井持浦教会です。ペルー神父は、はるばるとフランスからルルドの聖母像を求めて、それを、この井持浦教会の左奥にある洞窟に収め、さらに、本場のルルドの霊水を取り寄せて、井持浦教会の洞窟横の泉水に注ぎ込みました。こうしてできたのが、日本最初の井持浦教会ルルドです。
この教会は、五島列島南端の福江島の南西にあります。東京から行くとすると、長崎空港まで飛行機で飛び、それからフェリーで、約3時間、快速艇で1時間半の航海で福江島に着きます。福江港は島の東側ですから、井持浦教会は島のちょうど反対側になります。直線距離にしますと福江港から約25キロしかありませんが、屈折の多い山道を通ったりしますから、バスでたっぷり1時間半は揺られなければなりません。島のはずれまで来て、本土の最西端が東シナ海にのめり込んでいるあたりにあるのがこの教会です。
この九州の長崎の西の果てに連なる五島列島だけで、50あまりの教会がありますが、そのなかにルルドを持っている教会は、この井持浦教会のほかにも、水の浦、三井楽、浜脇、奈留、鯛ノ浦、曽根などがあって十箇所ほどになります。しかし、そのなかでも、井持浦教会ルルドは、日本本土最西端の遠隔の地にあるにもかかわらず、日本最初のルルドということで、特に強い信者の信仰を集めているようです。フランスのルルドへお詣りするかわりにこのルルドを訪れて、霊水によりお恵みを戴いたという人も少なくはないと聞きました。あのベルナデッタの奇跡は、この日本でも、井持浦教会などのルルドを通して、こうしていまも、多くの人々に恩恵を与え続けているのです。
(2004.12.01)
もう一人の「阿倍仲麻呂」 (身辺雑記 22)
西安の興慶宮公園内に建てられてい
る阿倍仲麻呂記念碑。李白が彼の死を
悼んで詠んだ「哭晃衛詩」などが刻み込
まれている。 筆者撮影(2001.04.13)
私の手許には、2001年4月に中国の古都・西安を訪れたときにもらった「通関文牒」というのがあります。西安は昔の長安で、古来、シルクロードの起点としても有名でした。龍の透かしの入ったA4判くらいの用紙に「有朋遠来 光臨西安・・・・・・:嘉賓尽歓 謹具関牒 永思永念」などと美しい古代漢字が墨書されていて、末尾には古城長安役人の大きな公印が押してあります。長安城に入場することを許可し歓迎するという、いわば、古代のパスポートのコピーといっていいでしょう。
観光行事の特別の企画があって、この二つ折りの、厚い布表紙で装丁された「パスポート」を渡され、私は、何人かの同行の旅人たちとともに、長安上の南門から入城しました。通路には、赤いカーペットが敷き詰められて、門の両側には、古代のしきたりのままに、門番の守備兵、礼装した役人、それに美しく着飾った官女たちが、ずらりと並んで出迎えています。私は、かつて日本から遣唐使としてここを訪れた阿倍仲麻呂たちも、このようにしてこの城門をくぐっていったのだろうか、などと想像しながら、少し面はゆい気がしていました。
むかし、長安には、紀元前11世紀から10世紀初頭まで、2千年にわたって、漢や唐など多くの王朝がここに都をおいてきました。それと同時にこの都は、秦の始皇帝、前漢の武帝、唐の太宗、武則天、唐の玄宗と楊貴妃など、歴史上の英雄やヒロインたちを多く輩出しています。このうちの玄宗の治世下に、阿倍仲麻呂は第8次遣唐使団の一員として、ここへ来ました。その頃の長安は、おそらく、世界第一の文化都市で、周囲14キロの城壁の内部には、世界中からの外交官僚、学者、僧侶、商人たちが賑やかに行き来していたことでしょう。仲麻呂たちが着いたのは、唐の開元5年(717年)のことで、その時彼はまだ、19歳の若者でした。
長安に来てからの阿倍仲麻呂は、ここでは最高の学府であった「太学」で学び、超難関の科挙進士科の試験に合格してしまいます。それからは、玄宗皇帝の信任も厚く、当時の唐という大帝国の高級官吏として、出世を重ねていきました。こうして、いつのまにか在唐36年にもなった阿倍仲麻呂は、753年の冬、第10次遣唐使団の帰国に際して、唐側の使節として、日本へ同行することになったのです。36年ぶりの日本を、彼はどんなにか懐かしんだことでしょう。「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」という有名な望郷の歌は、長安から揚州に下り、船出をする長江南岸の黄泗浦(いまの江蘇省鹿苑)で詠んだといわれています。
阿倍仲麻呂は、しかし、この故郷の「三笠の山にかかる月」を見ることはできませんでした。帰国途中の4隻の船団は、阿児奈波島(沖縄本島)に到着後、北の奄美に向かう途中暴風雨に遭遇してしまうのです。そのうち、阿倍仲麻呂が大使の藤原清河と乗った第1船だけは、遠く南のベトナムまで押し流されてしまいました。そこから、阿倍仲麻呂と藤原清河は、幾多の困難を乗り越えながら奇跡的に生き延びて、755年6月、またもとの長安にたどり着きます。長安の人々はさぞ驚いたことでしょう。阿倍仲麻呂が親しくしていた友人で詩人の李白なども、遭難の知らせを聞いた時には、「晃郷(仲麻呂の唐での名前)の行を哭す」という追悼の七言絶句を作っていたくらいでしたから。阿倍仲麻呂は、その後、安南節度使などのベトナム・ハノイ鎮守の最高長官に任じられたりしましたが、日本へは遂に帰ることなく、72歳のときに長安で亡くなりました。
阿倍仲麻呂については、このように、日本と中国の両方の資料で比較的よく知られていますが、この間、西安で、阿倍仲麻呂と同期で遣唐使の一員として唐の都・長安に渡り、その地で36歳で亡くなった日本人留学生の墓誌が発見されたというニュースが大きく報じられました(「朝日新聞」04.10.11など)。中国古代の墓誌というのは、有力者が亡くなったときに、名前や役職、家族などの情報を石に刻み、墓に収めたものだといわれています。その、新しく発見された墓誌の銘文には、専門家の抄訳によりますと、つぎのように書かれているそうです。
姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、一生懸命努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。尚衣奉御の位を贈った。2月4日に万年県の川のほとりに埋葬した。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない。
玄宗皇帝が外国からの留学生の死を惜しんで、わざわざ官位を追贈するなどということは、非常に異例なことであったにちがいありません。それだけに、この「井真成」という留学生は、よほど優秀な人であったのでしょう。阿倍仲麻呂と切磋琢磨しながら勉学に勤しみ、仲麻呂と同じように、超難関の科挙の試験にも合格していたのかもしれません。当然、阿倍仲麻呂も彼のことはよく知っていたはずですが、そのようなことを示す文書は何も残っていないのが残念です。
この銘文によりますと、彼の死亡したのは開元22年で、これは西暦では734年ということになります。当時の日本の留学生たちは、いつ来るかわからない次の遣唐使船を待ちわびながら勉学や職務に励んでいたと思われます。しかし、記録を調べてみますと、井真成が死亡したときには、たまたま、733年に日本から来た遣唐使船団がまだ唐に残っていて、734年の秋には、そのうちの一隻が日本へ帰ることになっていました。井真成はその年の1月に病気で死ぬことがなければ、留学の十分な成果を携えて、その第1船で帰国できたのかもしれなかったのです。そのように考えてきますと、故郷に錦を飾るのを目前にした彼の無念さが、1270年の時を超えて、ひしひしと胸に伝わってくるような気がいたします。
(2004.11.17)
尾崎秀実氏の淡々とした最後 (身辺雑記 21)
10月17日の「朝日新聞」に、あのゾルゲ事件で死刑に処せられたドイツ人新聞記者リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実の処刑記録が、神田の古書店で見つかったことが大きく報道されました。見出しは、「ゾルゲ・尾崎、淡々と最後」とあります。(文中、敬称略)
これは、連合国軍総司令部が作成したゾルゲ事件の調査報告書で、国防保安法違反などの罪名が列記されたあとに、処刑の宣告と死刑執行の様子が記録された書類です。ゾルゲについては、「静かに教誨師始メ職員ニ対シ『皆様御親切有難フ』ヲ繰リ返シツツ何等取リ乱シタル態度無ク刑場ニ進ミ」などと書かれ、尾崎秀実のところでは、「香ヲ焼キ閉目シツツ心ヨリ敬礼ヲナシ終リニ職員ニ謝礼シ取乱シタル態度無ク刑場ニ入リ南無阿弥陀仏ヲ二唱シ」などと書かれていた、と伝えています。二人の、大悟に徹した最後を垣間見るようで、粛然とした気持ちにさせられます。
尾崎秀実は、まだ覚えておられる方も多いと思いますが、元朝日新聞記者で、第二次世界大戦のさなか東京で逮捕されたときには、第一次近衛内閣嘱託として、中国問題に鋭い筆を振るっていました。獄中で書かれた『愛情はふる星のごとく』は、敗戦後の日本でベストセラーになりましたが、そのなかに、1944年10月7日付けで妻に宛てて書いたつぎのような手紙があります。尾崎秀実はこの一か月後、11月7日に東京拘置所の絞首台で44年の生涯を閉じました。
今月の15日は、私が家を離れて丁度3年になる。17日の我が家の紀念日は、一つ特に私のために祝ってほしいと思う。楊子にも指令を発してほしい。お前もさぞかし感慨の多いことであろう。僕が祝ってほしいと云うのは、この3年の流れ去った月日がこの僕にとってどんなに貴重な有難いものであったかを心から思うからである。この年月があったからこそ、今日僕は始めて人生の真意義を覚り、かくも静かにかつ楽しく日を送ることも出来るようなったのだ。もしもこの異常なる月日が無かったなら、僕は毎日ただ怱忙の裡にあくせくと日を送ってしまったことだろうと思う。僕の一生はもしも僕が別の道を行くならば、恐らくは社会的には高名、栄位をかち得られたことであろう。しかし人間として今日僕の立っているごとき確乎たる足場に立つことは 遂に出来なかったことは明らかだ。
僕は人生の意義を知り、生命の正当なあるがままの姿に徹し、社会と、親しきものへの愛情を限りなく深めるとともにまた純化することも出来た。そこにこそ我々3人のものの永遠に生きる道をも発見し得たのだと、僕はひそかに感じている。だから僕のために祝ってくれることは、実は我々3人のものの共通なよろこびであると私は確信しているのだ。今日このことをお前たちにほんとに分らせることは無理だと思う。すぺて冷暖自知あるのみだから。しかしおぼろげには分ってくれたものと思う。僕が決して無理をしたり頑張って、一人こんなことを云っているのでないということを。(尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』岩波現代文庫、2003年、pp.371-372)
文中の「わが家の記念日」とは、死刑が確定して自分のいのちが断たれることになった事態を意味しています。「人生の意義を知り、生命の正当なあるがままの姿に徹し」というのは、いのちの何であるかを意識の深いところで感得することができた、ということでしょう。古来、高僧や人生の修行者たちが、難行苦行を重ねたりして会得するいのちの真理を、尾崎秀実は、獄中の死を前にした絶体絶命の境地の中で、確固として自分のものにしていきました。ですからこの文は、「永遠に生きる道をも発見し得たのだ」と続けられているのだと思われます。
この本には、このほかにも、獄中での深い思索を通じて死の恐怖を乗り越え、死を安らかに受け容れる覚悟ができていることを冷静に伝えている手紙などがあります。そういう手紙では、自分の悟りの心境を、決して虚勢を張って言っているのではないことをつけ加えたりしていますが、その手紙の通り、尾崎秀実は、「取り乱したる態度はなく」、「南無阿弥陀仏」と2度唱えながら、聖者のように淡々として死んでいったことが、この資料でも明らかにされたことになります。
私は、ここに引用した手紙を「学びの栞」(B)-8 でも取り上げてきました。そして、その文には、当時は「国賊」とか「売国奴」とまで言われて日本中の非難の的となった尾崎秀実の真実の姿と事件の背景を少しでも正しく理解するために、尾崎秀実の一高時代からの親友であった松本慎一の文も、一部抜粋してつけ加えてあります。敗戦まではあれほどまでに声高に叫ばれていた「鬼畜米英」が、一夜明けると、一変して「民主主義の旗頭」として崇められていったあの異様な風潮のなかで、真の愛国者とは誰であるかを、深く考えさせられる一文です。併せて、是非ご一読いただければと思います。
(2004.11.01)
タイ・クワイ川の「戦場に架ける橋」 (身辺雑記 20)
クワイ川に架けられた現在の鉄橋。かつ
てはこの鉄道の右端がビルマまで通じて
いた。 (2004.10.08) 筆者撮影。
10月のはじめから一週間ほど、商社の駐在員として義弟が滞在しているタイのバンコクを訪れてきました。バンコクへの訪問はこれが3度目です。はじめて訪れたのは、1975年の春で、もう30年近く前のことになります。その頃のバンコクは、街並みのすべてが雑然としていて、いかにも貧しいという印象を受けました。デパートのようなところへ入ってみても、戦後間もない頃の日本のように商品の量も乏しく、旅行者の目から見ると購買欲をそそられるような物はあまりありません。家庭用品売り場では、質の悪いアルミの鋳物鍋が並べられたりしていました。それでも女店員たちは物腰が柔らかく、優しく、歩くときもゆっくりです。語尾を伸ばすようなふんわりしたタイ語の抑揚ものんびりと響いて、貧しさの中にも屈託のない明るさが感じられました。
そのバンコクは、1992年の春に再訪したときには、見違えるように変わってしまっていました。高層ビルが林立する繁華街は、忙しく動きまわる人混みで活気に満ちて、東京の繁華街の賑わいとあまり変わりません。ありとあらゆる商品が店先にあふれ、道路を走る自家用車の数も急にふえて、タイの大きな経済成長を如実に示していました。ホテルのロビーで、携帯電話で話しているタイ人らしい人を見かけましたが、これが私が外国で見た初めての携帯電話です。日本企業の進出も著しく、デパートの伊勢丹やスーパーのヤオハンなども大きな店を構えていたようです。私は少し戸惑いながら、バンコクの近代化の喧噪から逃れて、アユタヤなどの遺跡めぐりをしました。椰子の葉が茂り、水を湛えた田圃が広がる緑の濃いのんびりとした田園風景に接して、やっとタイが実感できたように、ほっと一息つける感じがしたものです。
今回は、はじめて、バスでバンコクから北西へ約130キロのカンチャナブリへ行ってみました。あのアレク・ギネス主演の映画「戦場に架ける橋」で一躍有名になり、アジア諸国のみならず、欧米からも多くの人々が訪れている観光の名所です。クワイ川へ行ってみますと、百数十メートルほどの水量豊かな川に真っ黒な鉄橋が架かっていて、その中を真っ直ぐに一本の鉄道がビルマ側に伸びています。この場所に、日本軍は、木材や竹材を使ってあの映画に出てくるような橋を建てたのですが、それは、戦争の末期に連合軍の爆撃で破壊されてしまいました。ですから、これは戦後架け直された鉄橋で、いまでは、かつての「戦場に架ける橋」の2代目として、歴史的遺産になっています。
第二次世界大戦中、海上からの補給路を絶たれていた日本軍は、ビルマ戦線への補給路を確保するために、タイからビルマへ通じる415キロの泰緬鉄道を1年3か月の突貫工事で完成させました。この工事の最大の難関であったのがクワイ川に架ける橋でした。この難工事を強行するために動員されたのは、タイ側から鉄道9連隊、ビルマ側からは鉄道5連隊、これに、国鉄作業員3,000人、タイ、マレーシアからの労働者約10万人、さらに、シンガポールから、イギリス、オランダ、オーストラリアの白人捕虜73,502人が加えられたといいます。
この橋を架けたあたりは、世界でも有数の多雨地域で、当時は、一度豪雨に見舞われると、十数メートルにおよぶ水位の変化がみられたそうです。そのほか、補給物資の欠乏、栄養失調、マラリア、それにコレラの発生などもあって、橋の建造は困難を極め、完成までには数多くの犠牲者を出してしまいました。連合軍側の発表では、コレラによる死者560人、マラリア、栄養失調などによって10,500人、その他を合わせると死者の総数は24,490人になったとされています。そして、それに倍する数多くの労働者も犠牲になりました。日本人の死亡者も約1,000人にのぼったといわれていますが、現地ではいまも、この橋の突貫工事を「悪魔の日本軍」の所業として、連合軍やアジア労働者の犠牲の大きさだけが語り継がれているようです。
カンチャナブリの町外れに、セーンシュートー通りに面して、広大な連合軍共同墓地
(Kanchanaburi War Cemetery) があります。日本軍の捕虜としてここへ連れてこられ、「戦場に架ける橋」の建造中に死亡した、イギリス、オランダ、オーストラリア、アメリカなどの軍人6,982人の墓が、よく手入れされた芝生の間に整然と並べられています。暑い陽差しのなかを、私は、ゆっくりと墓地の一角を歩いてみました。四角い平面の墓標には、十字架と埋葬者の国章、氏名、年齢、出身地などが刻まれています。ほとんどが20代、30代の若さで亡くなっていますが、特に20代の犠牲者が多いのには粛然とさせられる思いでした。
クワイ川の近くには、この橋の突貫工事が完成した後に日本軍が建立した「戦没者慰霊塔」も残されています。そこには、「泰緬鉄道建設中に不幸にして病に倒れた南方各国の労務者および俘虜のためにこの碑を建て、恭しくその霊を慰む。昭和19年2月、日本軍鉄道隊」とあり、石碑のまわりの壁には、タイ語、マレーシア語、中国語、英語で同じ文章が刻み込まれていました。戦争遂行のためとはいえ、あまりにも多くの犠牲者を出してしまったことに、当時の日本軍のこころある人々も、胸が潰れる思いであったことでしょう。この文字を眺めている私も、切ない気持ちにさせられていました。この慰霊塔は、「タイ国日本人会」が管理し、毎年3月には、タイ在住の日本人が集まって、ここで欠かさず、慰霊祭を行っているそうです。
(2004.10.15)
40年来の友との別れ (身辺雑記 19)
去る9月13日、私の親しい友人であったWさんが、北海道の小樽市で亡くなりました。71歳でした。Wさんは、40年ほど前に私が室蘭工業大学に勤めていた頃の同僚で、その後、私が小樽商科大学へ移ったあと、Wさんも小樽商科大学へ転任してきて、それからも30年以上の長い付き合いになります。Wさんは文化人類学の専攻で、日本民族学会の会長なども務めました。私の知るもっとも優秀な学者の一人ですが、その優しい人柄は、学生たちのみならず、まわりの多くの人々からも慕われていました。
Wさんの病名は、筋萎縮性側索硬化症という難病で、普通 ALS と略称されています。この病気では、視覚や聴覚、痛みなどの五感が正常のまま、運動神経だけが徐々に麻痺していきます。最後には、呼吸もできなくなりますから、その段階では、気管を切開して人工呼吸器をつけなければなりません。しかしWさんは、人工呼吸器をつけることはしないことを選択し、かねてから家族にもそのことを伝えていたということです。
昨年の1月末に、小樽のお宅へ私がお見舞いに行ったときには、Wさんは、まだ少し歩くことができました。奥さんの介添えで、コーヒーをスプーンで飲み、そのあと、ワインも私に出してくれて、自分でも少しスプーンで口にしたのです。疲れると、ちょっと寝室に引き上げて10分ほど休んでは、また居間へ出てきて私と話をします。それを何回か繰り返して、結局、3時間ほどもおしゃべりをしました。Wさんの希望で、そのとき私と二人で並んで撮った写真も、いま残っています。
8月末に、またお見舞いに行ったときには、もう居間でお話しすることはできませんでした。寝室に寝たままで、時折痰がつまったりすると、奥さんが病室に持ち込んだ器械で除去しなければなりません。自分で処理することはできなくなっていて、見ていても辛い気持ちでした。
ALSは、もう100年以上も前からその存在が知られていながら、いまだに病気の原因は解明されていません。そのために、有効な治療法もなかなか見出せないのだそうです。40代から60代の男性に多く、発症率は女性の2倍といわれています。人口10万人について2〜3人の割合で発症し、日本全体では5千人近くの患者がいることになります。
治療法もなく回復の希望が持てない状況のなかで、生きていくのはたいへん辛いことですが、まわりの人たちも優しく見守る以外にはどうすることもできません。私もただ、東京からほとんど毎週、「少しでも回復していかれますようにこころからお祈りしています」とメールを送り続けるだけでした。そして、「なんとか、人間が本来持っている自己治癒能力を発揮されて、この病気に打ち勝ち、今度は東京へ来ていただいていっしょにワインを飲めるようになることを夢見ています」というようなことも書き送ったりしていました。
私からのメールに対して、数回に一度くらいは、Wさんからも返事のメールが届いていました。たいていは、札幌に住んで銀行に勤めているご長男がお見舞いに来たときに、Wさんのことばを代筆していたようです。9月6日に、毎週出しているメールを送信しますと、そのメールに対しては、珍しくその日のうちに、「いつも有り難うございます」という件名でWさんの口述のメールが返ってきました。
そのメールには、「私のほうは芳しくなく、呼吸のトラブルが起こったりしていますが、先生のメールを見て気を取り直して頑張ろうと努力しています。とりあえず、ご親切なメールのお礼を申し上げます」と書かれていました。それが、Wさんからの最後のメールになりました。つぎの週の9月12日の朝、またメールを送ったときには、そのメールにはWさんからの返事はもうもらえないことを、私は知る由もありませんでした。Wさんは、その日の午後、呼吸困難になって亡くなりました。
Wさんはカトリックの信者で、葬儀は、小樽カトリック富岡教会で行われました。教会の信者のほかに、私にとっても懐かしい小樽商科大学の教職員や卒業生たちも大勢出席して、厳粛で、カトリックらしい清々しさが感じられる葬儀になりました。Wさんは、ALS
を発症する前後から、熱心にこの教会へ礼拝に訪れていたようです。運動神経が麻痺して歩けなくなってからも、車椅子に座って、礼拝は続けられました。そして、9月14日の通夜のときの神父のお話しでは、長い間神から離れていたことへの赦しを願って、お祈りを捧げていたこともあったそうです。
つぎの日は告別式で、私が弔辞を読みました。そのなかで私は、あふれるような感慨をこめて、「先生は、いま、神に召されて天国へ移られましたが、天国ではもう
ALS による束縛はありません。呼吸困難で苦しまれることも、もうありません」と述べました。そして、「開放された完全な自由のなかで、どうか、のびのびと、学問にスポーツに、先生の類い希な才能を十分に発揮していってください」と続けました。私にはまだ、その時の40年来の友への惜別の思いが、薄らぐことなくいまも残っています。
(2004.10.01)
マハトマ・ガンジーのことば (身辺雑記 18)
もう十二、三年前のことになりますが、イギリスに一年ほど住んだあと、帰国の途中インドに立ち寄り、数日間、デリーを中心に歩きまわったことがありました。デリーは、1911年以降、イギリス領インド帝国の首都になったところで、それまでは、東インドの大都会カルカッタが首都でした。首都がデリーに移されてからは、イギリスが街の南部に計画都市ニューデリーを建設し、それが、1947年のインドの独立後は、新しいインドの首都になって現在に至っています。そして、このイギリスからのインド独立を導いたのが、「独立の父」として崇められているマハトマ・ガンジーでした。「マハトマ」とは、サンスクリット語で「偉大な魂」という意味だそうです。
鉄道のニューデリー駅から東に約3キロくらいのところに、ヤムナー川を背にして、「ラージ・ガート」と呼ばれるガンジーを記念した聖跡があります。インドが独立して間もない1948年1月30日、ヒンドゥー極右のテロリストによってピストルで射殺されたガンジーは、その翌日、この場所で火葬にふされました。遺骨はヒンドゥー教の慣習に従って川に流されましたから、ここには遺骨はありません。ですから墓ではないのですが、墓所同様に、インド各地から、ガンジーの遺徳を慕う多くの人々が集まり、「独立の父」への敬意をあらわしているのです。
聖跡は緑の芝生が広がる広場になっていて、その中央に大きな四角い黒大理石の記念石が置かれています。その記念石の正面に刻み込まれているのは、ただ一言、ガンジーが射たれたときに口にしたといわれることば
"He Ram"「おお、神よ!」だけです。多くのインド人たちは、靴を脱いで裸足になり、黙って恭しくお祈りをしながら、そのまわりをまわっていました。
私の記憶では、たしか、この聖跡の一角に石碑があって、そこにヒンドゥー語と英語で、「自分のまわりにいる貧しい人々のなかで一番貧しい人に、まず救いの手を差し伸べよ」といった意味のガンジーのことばが書かれていたと思います。このことばは、その後も長い間、わたしのこころのなかに余韻を残していました。いまも私は、ガンジーと聞けば、きまってこのことばを思い出します。
ガンジーはそのことばを、自分自身が身をもって実践した人でした。世の中の不平等や偏見をなくすための愛の行為として、自分の持っているものを持っていない人々に与えることを説き、ものや財産を持たないことの本当の意味での幸せを、ひろく訴えつづけました。ラージ・ガートのすぐ近くにあるガンジー記念博物館には、彼が最後に身につけていた質素な白布が、血にまみれたまま残されていますが、その質素な白布は、生涯を愛と平和の実践者として捧げた人のほとんど唯一の所有物として、いまも、見る人には感動を呼び起こしているようです。
1982年にイギリスとインドの合作映画「ガンジー」が作られましたが、覚えておられる方も多いのではないでしょうか。ベン・キングスレー主演のこの映画は、多くのアカデミー賞に輝いた名画として、世界中にひろく知られています。ガンジーはインドの民衆と力を合わせて、徹底した非暴力主義を貫きとおしながら、イギリスからインドの完全な独立と自治を取り戻していきますが、私はつい最近、その偉大なガンジーの足跡をビデオで見直して、新たな感動を抑えきれませんでした。
しかし、独立といっても、インドは単独で独立したわけではなく、ガンジーの意に反して、ヒンドゥー教のインドとイスラム教のパキスタンという分離した形での独立になってしまいました。そして、独立後も、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との間では激しい内紛が続くことになります。宗教観の対立や憎悪がいかに根が深いものか、しみじみと考えさせられる情景です。ガンジーも悲しかったのでしょう。死を覚悟した断食によって、両者の和解を訴えようとします。映画のなかでも、そのことを取り上げた、つぎのような場面があります。
断食しているガンジーのところへ、ヒンドゥー教徒たちがやってきて、「約束します。戦いは止めます」と和解を誓います。その時に、足取り荒く一人の男が入ってきて、ガンジーにパンを投げつけ、「さあ、食べろ。オレは地獄行きだが、あんたを助けたい」と言います。その男は、イスラム教徒に自分の子供を殺され、仕返しに、イスラム教徒の子供を壁にたたきつけて殺したというのです。ガンジーには断食で死んで欲しくないが、イスラム教徒は絶対に許せない、ということでしょうか。その男にガンジーは、静かに諭しました。「地獄から抜け出る道がある。子供を拾うのだ、母親と父親を殺された子を。」そう言って「これくらいの子がいいな」と弱々しい手を差し伸べ、幼時の背丈を示そうとします。
そう言われても男は、まだ険しい顔つきのままでした。その男にガンジーは続けて言います。「・・・・・自分の子として育てるのだ。ただし、イスラム教徒の子だよ、イスラム教徒として育てるのだ。」男は、黙って立ち去ろうとします。しかし、そのガンジーのことばには、あきらかに衝撃を受けていました。ヒンドゥー教徒の自分が憎むべきイスラム教徒の孤児を拾って、しかも、イスラム教徒として育てよとは。出て行こうとしていた男は、立ち止まってしまいました。感動が顔に走ります。やがて、彼はよろよろとガンジーのところへ引き返し、ひざまずいて、泣き崩れていきました。映画の一場面ですが、これがガンジーの愛であったのでしょう。このガンジーのことばも、いまでは、私には忘れられないことばになりました。
(2004.09.14)
21年の歳月 (身辺雑記 17)
1983年9月1日にアメリカから帰国の途中、サハリンの沖に母親と共に散っていった長男の潔典(きよのり)は、事件当時、21歳でした。今日は21年目の命日にあたります。あれから、その時の潔典の年齢と同じ21年の歳月が流れて、彼がこの世に生き続けていれば、いまは42歳になっていることになります。21年の歳月をしみじみと振り返りながら、あの潔典がいまこの世に生きていればどういう環境の中にいるだろうと、ふと考えることがあります。
潔典は、言語学者になるという強い志望と意欲をもっていて、東京外国語大学の英文科に入学してからは、のめりこむように言語学と取り組んでいました。入学以来、彼が集めた百数十冊の和洋の言語学書のほかに、定期購読していた英文週刊誌「TIME」と大修館の月刊誌
「言語」が、2年分いまもそっくり彼の書棚に残っていますが、このうち、特に「言語」のほうは、「こんないい雑誌はない」と学友にも勧めたりしながら、すみからすみまで熟読していました。
大学では、英語とフランス語を履修し、そのほかに、ドイツ語とロシア語も学んでいたようです。あの事件の時は3年生になっていて、アメリカの私のところへ来た夏休みには、ギリシア語文法の本を読んだりしていました。父親の私からみても、語学には
私などよりはるかに勝れた才能を持っていたと思われますし、世界史なども好きで不得手な学科はあまりありませんでしたから、2年生の成績も
"ストレートA" (全優)であったようです。「勉強するのが楽しくて仕方がないようにみえる」と潔典の親しい友人が言っているのを聞いたこともありました。事件の後、潔典が所属していた音声学のゼミ担当の竹林滋教授が、「武本君は私のゼミで一番優秀な学生だったので、がっかりしました。あのままいけば、外語と東大の大学院は両方合格するのは間違いないのに」と言っておられたと、T
教授からのお手紙をいただいて、その時は悲しさが一層つのるばかりであったことも、いま思い出すことができます。
事件に巻きこまれて状況は大きく変わってしまいましたが、実は、潔典をアメリカへ呼び寄せようとしたのは、1983年の夏休みの間ではなく、春休みでした。その頃はまだ、アリゾナ大学にいた私は、制度の違いで日本の大学の春休みの間も開講しているアリゾナ大学で、言語学の講義に潔典を出席させようとしていました。私は、将来アメリカにも留学するであろうと考えていた潔典のために、知りあいの言語学教授に頼んで、潔典が聴講することの了解もとりつけていたのです。しかし、その計画は、東京に住んでいた母方の祖母の死亡と、看病疲れで体調を崩していた母親への彼の思いやりで、実現されませんでした。それで、アメリカへ来たのは、私がノース・カロライナ大学へ転出した直後の夏休みになってしまったのです。
いまから考えますと、つぎからつぎへとそうなっていくように導いていた「運命の手」があって、潔典は、そのあとにくる「父親の覚醒のために自らも犠牲になる事態」についても、深い意識の底で、なんとなく感じ取っていたように思われます。私は鈍感で気がつかなかったのですが、後から振り返ってみますと、そのことを示唆する潔典のいくつものことばがあり、状況がありました。1999年に潔典から届けられた霊界からのメッセージでは、そのことを裏書きするように、「お父さんなら頭も聡明で、苦しませるのは高い霊たちにとっても辛いことで、決断を要したということです」と霊界の計らいについて述べ、そのあとで、「でも、必ず目覚めて立ち直る人だということがわかり、一人の苦しみが何百、何千人、いや何万人の人たちの魂を目覚めさせることが期待されて」母親と共に自分が事件に巻き込まれることになったと、続けています。
潔典はいま、霊界でも、好きであった音楽を引き続き学んだり教えたりしながら、一生懸命に「異次元間コミュニケーション」などの研究に打ち込んでいるようです。彼は、当初私が予想していたようなアメリカの大学に留学するかわりに、霊界へ留学したのだということになるのかもしれません。少し遠く離れて、ちょっと寂しい気がしないでもありませんが、母親ともよく会っているようですし、元気で幸せな生活ぶりを定期的に伝えて来てくれますので、いまでは、私も安心して、霊界での成長ぶりを見守ることができるようになりました。その意味では、私自身の21年も、潔典がこの世に生きていた間と、潔典が霊界へ行ってからでは、大きく変わったということになるのでしょう。
事件後の何年かは、すべてを失ったと思いこんでしまって、希望も生きる意欲もなくし、絶望の淵に沈んでいましたが、いまは、失ったものは何一つないことを、私なりによく理解しているつもりです。それに、なによりも、霊界で潔典も母親といっしょに、こころ安らかに生き続けていることを知ることができたのは、大きな救いです。霊界の高遠な深い計らいについても、それを十分に納得して受け容れられますし、文字通りいのちを賭けて私の目覚めのきっかけを与えてくれた妻の富子と潔典には、かつての自分の無知を詫びながらも、こころから感謝するようにもなっています。この21年という歳月は、私の生涯にとっても、人生の大きな転換をもたらせたという意味で、きわめて貴重な21年になりました。
(2004.09.01)
時の流れが止まっていたかのように (身辺雑記 16)
(左から)潔典のラジオ、ゲームウオッチ、
最後の写真を撮ったカメラ (日付窓には
正確に今日の日付が表示されている)
[ 2004.08.16 ]
長男の潔典(きよのり)は、1981年4月に東京外国語大学英文科に入学してからは、札幌から上京して、多摩市永山のアパートに住んでいました。大韓航空機事件に巻き込まれた1983年の夏も、このアパートから母親と一緒に、当時アメリカにいた私のところへ出発して、ついにこのアパートには帰ることはありませんでした。
このアパートの潔典の勉強部屋に、潔典がなにかの付録か懸賞でもらったらしい子供っぽい時計が残されていました。五百円玉よりちょっと大きいくらいのゲーム・ウオッチで、値段にすれば、おそらく千円もしないでしょう。茶目っ気のある潔典は、その時計を、自分の机の脇の電気スタンドにぶら下げていました。
事件後しばらくは辛くて部屋にも入れませんでしたが、二年くらい経ってからでしょうか、ぼんやり潔典の机に座っていますと、急に「タタタータタ、ターララ、ラーラ・・・・・」と、時計が鳴り出しました。私はちょっと驚いて、初めてこの「ムッシーちゃん」と名付けられた小さなおもちゃの時計が鳴ることに気づいたのです。十二時十五分に鳴り出して、十五秒ほどで終わるこのメロディーは、その後何年間も鳴り続けました。鳴り続けるだけでなく、画面の人形が可愛らしく踊るのです。それだけ、電池の消耗も大きいはずですが、私は、いつまでも鳴り続け、踊り続けるこの時計の「異常」に気がついて、7, 8年目くらいからは、ときどきビデオで時計の時間を音と映像とともに記録するようになりました。
事件後十年になる一九九三年の夏、ロンドンでアン・ターナーにこの時計のことを話しますと、彼女は「あなたに霊界のことを理解させるために、この時計は十年間鳴り続けてきたが、いまあなたは理解し始めている。それで、まもなく動くのを止めるだろう。止まっても新しくバッテリーを入れ替える必要はない。そのままにしておけばよい」と言いました。いま改めて、ビデオに録画しておいたものを見ますと、一九九四年一月六日までの記録が残っています。文字盤の人形が踊り、ちゃんとメロディーが鳴っています。普通は一年か二年で止まってしまうと思われるのに、このおもちゃの時計は、十一年以上も毎日、画面の人形が踊って鳴り続けたことになります。
昨年は、事件後20周年で、稚内での慰霊祭に参加し、札幌の自宅では、長年そのままになっていた妻や長男の遺品などの整理を始めました。長男の潔典の部屋には、高校時代まで使っていた机が元のままの状態でおいてあります。はじめて引き出しを開けてみたら、小さなトランジスタ・ラジオがひとつ出てきました。大学に入ってからは、性能のいい別のラジオを使っていましたから、このトランジスタ・ラジオは、おそらく、22年以上もこの引き出しのなかで眠り続けたことになります。私は、自分のラジオを5年くらい放置して、なかの電池が腐食で流れ出したことがあったのを思い出したものですから、電池だけは抜き出しておこうと思ったのです。その時、なにげなくスイッチを入れてみたら、ラジオから大きな音響で音楽が流れ出して、びっくりしました。いまでもこのラジオは、電池は入れ替えていないのに、22年以上も前と同じように、普通に鳴り続けます。
1982年に、フルブライト上級研究員として、アリゾナ大学へ行くとき、私はコンパクトなコニカ製のカメラを持っていきました。翌年の夏に、当時留学生としてアリゾナ大学に在学していた娘と二人でノース・カロライナ大学へ移ったとき、そこへ、東京からやってきた妻と長男が合流して、家族4人でいろいろなところを旅行しましたが、そのおりおりの写真を撮ったのもこのコニカのカメラです。大韓航空機に乗るためにニューヨークへ向かう妻と長男を見送って、ノース・カロライナのローリー・ダーラム空港で二人の最後の写真を撮ったあとは、このカメラは使ったことはありません。
20年以上前の当時は、まだカメラはほとんど手動式でしたが、日付を写し込む部分だけは、電池を使っていました。先日、私はそのことを思い出して、しまいこんであったそのコニカのカメラを取り出してみたのです。1981年に買って、もう23年にもなるそのカメラの日付は、閏年の誤差も自動修正して正確に、正しい日付を示していました。念のために、その後何年かして購入したたペンタックスとミノルタの一眼レフカメラをみてみますと、いづれも、10年もたっていないのに、日付機能は電池切れで、消えてしまっています。
潔典のおもちゃの時計が11年以上も、画面の人形が踊り、鳴り続けたというのは、アン・ターナーに言われるまでもなく、とても偶然とは思えませんが、潔典のラジオが22年以上たったいまも放送を送り続け、潔典たちの最後の写真を収めたカメラは、その日付が23年たったいまも正常に表示されている、というのもちょっと不思議な気がします。これらもまた、単なる偶然ではないのかもしれません。
(2004.08.16)
旅先で重なる偶然 (身辺雑記 15)
九寨溝の池(2004.07.01)筆者撮影
先月末からの中国四川省黄龍への7日間の旅は、阪急交通社主宰のツアーでした。こういう中国奥地への旅になると、なんといってもツアーに参加するのが便利です。一人で行けないことはないのですが、おそらく、一人では費用は2倍から3倍はかかりますし、同じコースをたどるにしても、日数も、おそらく、2倍以上はかかってしまうでしょう。
このツアーの参加者は、27名で、一人で参加というのは私だけでした。夫婦で参加したり、女性の友人同士というのが多かったようで、おそらく、平均年齢は60歳くらいだったかもしれません。なかには80歳は超えていると思われるようなおばあさんもいて、娘さんらしい人が付き添っていました。私は、阪急交通社のツアーに参加するのは初めてだったのですが、こういうツアーでは、お互いにプライバシーを尊重するからでしょうか、いっしょに行動していても、名前以外の個人的なことはよくわかりませんし、聞いたりもしないようです。私も、旅の途中で外国人のグループといっしょになって、英語が話せることぐらいはわかってしまいましたが、はじめのうちは、口数の少ない一人参加の変わった人くらいに思われていたかもしれません。
成田から3時間半で北京に着き、そこからさらに乗り継いで、私たちの乗った中華航空機は3時間ほどのフライトの後、四川盆地の中心都市・成都に着きました。成都は『三国志』で知られる劉備玄徳の蜀の都があったところです。劉備玄徳は、彼に仕えた名軍師・諸葛孔明とともに、いまも、特にこの地の人々からは深く敬慕されていて、二人をともに祀った武候祠は、この古都の重要な名所になっています。私たちは、ここで一泊して、翌朝、飛行機で、黄龍への出入り口である九寨溝へ向かうことになっていました。
翌日は、朝6時にホテルを出て、空港には7時前に着きました。ところが、九寨溝空港一帯の天候不良のためとかで、7時40分の出発時間は遅れる予定だというのです。そのうち、成都の空港付近でもかなりの雨が降り、雷も鳴ったりしていましたから、私たちは、空港の待合室で、天候の回復を待ち続けるだけでした。添乗員の
Oさんは、1時間くらいは待たされるかもしれない、といっていましたが、しかし、2時間たっても、3時間たっても、出発する気配はまったくありません。成都から九寨溝までは、45分のフライトで、8時半にはもう着いているはずでしたが、とうとう正午になり、午後1時も過ぎて、空港の待合室で、中華航空が用意してくれた発泡スチロールの容器に入った遅い昼食の弁当を食べることになってしまったのです。
九寨溝の空港は山岳地帯にあって、標高3,000メートルくらいの高所にありますから、天候に左右されやすいのはわかるような気もしましたが、それにしても中華航空の対応は、官僚主義で「慎重すぎる」ように思われてなりませんでした。結局、14時間も待たされて、九寨溝のホテルに着いたのは、真夜中です。予定では、その日は、午前中に九寨溝のホテルに着いて、午後は、「高地順応のため」ホテルで休養することになっていましたが、それが、思いがけぬ大幅な遅延で、私がホテルのベッドに横になったのは、午前1時をまわってしまってからです。
それでも、このホテルでの休養の予定を1日とってあったお陰で、その休養の1日がつぶれたほかは、その後のスケジュールは少しハードでしたが予定通り進みました。この旅行の目玉であった旅行3日目の8時間かけての九寨溝観光と4日目の4時間歩いての黄龍観光が、天候にも恵まれて、無事終わったのです。黄龍の観光が終わって、九寨溝空港発午後7時45分の飛行機で成都へ戻ることになっていましたが、この時もまた、飛行機の出発は3時間も遅れて、成都到着は真夜中になってしまいました。しかし、ツアー参加の皆さんは、黄龍と九寨溝の素晴らしい景観を、ともかくも見ることができたという満足感で、あまり、飛行機遅延の苦情を言うこともなかったようです。添乗員の Oさんも、参加者からは、九寨溝と黄龍観光の感動の声を聞いたりして、ほっとしていた様子でした。
その時の、成都へ向かう機中では、添乗員の Oさんと、たまたま席が隣同士になりました。Oさんは、まだ20歳代の女性ですが、参加者に対する気配りも細やかで、なかなか頼りがいのある添乗員です。雑談のなかで、私が、「あなたは中国への添乗が多いのですか」と聞きますと、彼女は、「いいえ、私は東欧やドイツへ行くことが多いのです」と言いました。「東欧やドイツに興味があるのですか」と私がまた聞きますと、彼女は、「実は、私はチェコのプラハに3年ほど留学していて、ドイツへも、プラハから行ったり来たりしていました」という答えでした。だから、チェコ語のほかに、ドイツ語も少ししゃべれるのだそうです。
チェコ語といえば、私の大学時代の同級生の千野栄一君が日本におけるチェコ語の権威で、彼も、学生時代に何年か、プラハに留学していました。言語学会の重鎮で和光大学の学長を最後に亡くなくなりましたが、いまでも、言語学やチェコ語を学んでいる人で、彼の名を知らない者はいないでしょう。それで私は、「千野栄一を知っていますか」と聞きますと、今度は彼女が驚いたように、どうして私が彼のことを知っているのか、と聞き返されました。彼女は、千野君の奥さんであったズデンスカのこともよく知っていて、何度も千野君の家にも遊びに行ったことがあるということでした。
5日目は、成都からバスで2時間ほどの世界遺産・楽山大仏を見学し、午後は、そこからバスで30分ほどの峨嵋山(がびさん)へ向かいました。峨嵋山というのは、中国仏教の四大聖地のひとつで、海抜3,099メートルの金頂とよばれる高峰には、臥雲尼寺などの名刹があります。その日の宿泊ホテル・峨嵋山大酒店の夕食の席で、27名のツアー参加者が三つの円卓に分かれて座りました。私の座ったテーブルでは、左隣が、東京駅から歩いても10分のところに住んでいるという50歳代くらいに見える
A さん夫妻、私の右隣が、年齢はその時にわかったのですが、参加者では最高齢の81歳のおばあさんと娘さん、そして、私と向かい合うように、二組の老夫婦が座っていて、左側に昭和5年生まれで、私と同じ年であることがわかった
Bさんと奥さん、右側には、大正14年生まれで79歳の Cさんと奥さん、という顔ぶれでした。
Aさんの、東京駅の近くに住んでいるので、あまり歩くことがない、というのが話のきっかけであったように思います。その代わり、北海道の余市へ商用の果物の仕入れなどでよく出かけるので、運動不足を解消するため、小樽のカントリー・クラブでゴルフをするのを楽しみにしている、と言ったのです。それを聞いた81歳のおばあさんが、「実は私は小樽の出身で、実家は小樽の曹洞宗のお寺なんですよ」と言って、いろいろと昔の小樽の話などを始めました。すると、その話に耳を傾けていた79歳の
Cさんが、「私も札幌に何年も住んでいたことがあって、小樽のことはよく知っています」と切り出しました。「三井鉱山の札幌支店長をしていて・・・」と言いますと、隣にすわっていた
Bさんが驚いて、「三井鉱山ですか、実は私も」と先輩、後輩の名乗りをあげたのです。Bさんの場合は、主に東京や京阪神の支店長などを務めて、宅地開発などを担当していたということです。
小樽、札幌、余市、三井鉱山などで、話が盛り上がりました。Aさんの奥さんまでが、むかし学生の頃、北海道にあこがれて何度も札幌へ行ったし小樽もよく知っているとうち明けたのです。それにつられて、おばあさんも、小樽の「館」という喫茶店のコーヒーがとてもおいしかったことなど、女学生時代の青春の思い出を語りはじめたりします。急に一座の親密度が増したようで、みんなもそれぞれに北海道の思い出などを語り出しました。そこで、Cさんが、むかし札幌に住んでいた頃、北海道の港湾設備を充実させるためのヨーロッパ使節団の一員となったことがある、と言い出したのです。「その時の視察団の団長が、あとで学長になられた小樽商科大学の伊藤森右衛門教授で・・・」というのを聞いて、今度は私が驚きました。
伊藤森右衛門教授というのは経済学者で、何年か前に亡くなりましたが小樽商科大学では私が親しくしていた同僚でした。彼の名前がこんなところで出てくるとは思いもよらなかったことで、私も、ついそのことを口に出しますと、C さんも驚いたように、「実は、家内の父親も昔の小樽高商時代の卒業生です」と言ったのです。「袖振り合うも他生の縁」といいますが、私を含めてテーブルを囲んだ9人が、みんなそれぞれに、何らかの糸で結ばれているような感じです。その日の夕食のテーブルは三つのうちの私たちのテーブルだけが、最後までにぎやかな余韻を残して、81歳のおばあさんは、こんないい思い出ができて本当によかった、と嬉しそうに何度もくり返していました。
(2004.08.01)
神の泉・黄龍 (身辺雑記 14)
黄龍・五彩池の一部(2004,7,2)筆者撮影
中国四川省北部の黄龍は、中国では、そしておそらく世界でも、もっとも美しい風景のひとつとして有名です。その3,400にのぼる美しく神秘な池は、地元の人々には、神の住む聖域と考えられていて、その自然景観は世界遺産としても登録されています。先月末、私は、その黄龍を訪れるため、成田を発って、北京経由で成都へ飛び、それから黄龍への出入り口である九寨溝の小さな飛行場に降り立ちました。
黄龍は、この九寨溝から130キロのところにあります。途中、急峻な曲がりくねった路を登っていったりしますので、バスでたっぷり3時間はかかります。しかし、この九寨溝の飛行場は、昨年オープンしたばかりで、この飛行場ができる前までは、黄龍へ行くのには成都から、バスで13時間もかかったのだそうです。そのせいか、九寨溝に飛行場ができてからは、観光客の数は、外国からの観光客を含めて、大幅に増加するようになりました。
黄龍の広大な風致地区に入りますと、まず目に入るのが、迎賓池です。この池の周辺だけでも、大小360の池があるのだそうですが、何よりも不思議なのはその水の色です。透き通るような青さで、小さなさざ波がたつと、きらきらと宝石が輝いているように見えます。水温は7度。カルシウム分が強いので、水中には魚や昆虫はいません。このあたりで、標高は3,200メートルありますから、夏でも日によってはかなり気温も下がり、私も厚手のセーターの用意をしていました。
迎賓池を通り過ぎますと、蓮台飛瀑、盆景池、明鏡倒映池、争艶彩池、などが続いて、やがて接仙橋にさしかかります。この辺まで来ると、標高は3,400メートルくらいありますし、ずっと上り坂ばかりですから、歩き続けるのも楽ではありません。人々は、時々腰を下ろして持参の酸素吸入器から酸素を吸って、呼吸を整えたりしています。一番上の五彩池まで全長3.5キロメートルを普通、2時間から2時間半をかけて登っていくのですが、気分が悪くなるようなことがあれば、ここから引き返すように注意をうけていました。
自然環境を保護するために、路はほとんど厚板が敷き詰められた歩道になっていて、観光客は、その上をゆっくり歩いて上がっていきます。歩道のまわりにはさらに、玉翠彩池、映月彩池などが展開していって、やがて、五彩池に着くことになります。やっとたどり着いて、目の前に開けたこの五彩池を見ると、人々はみな一様に感動するようです。この類い希な情景をどのように表現したらいいのでしょうか。その美しさは、ただ「筆舌に尽くしがたい」というほかはありません。
シルバー・バーチは霊界の美しさを、「地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵の具では表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることはできないでしょう」(『霊訓-4-』)と述べていますが、あるいは、その霊界の美しさに近いのが、この黄龍の風景といえるのかもしれない、と思ったりしました。
五彩池の、五色の透き通るような色を湛えたそれぞれの池の水の上に風が吹き渡りますと、小さなさざ波がたって、きらきらと虹のような色彩の変化をみせていきます。たえず色合いは微妙に移り変わっていくようで、宝石をちりばめたような、とでも形容すればよいのでしょうか、息をのむ美しさです。地元の人々が「神の泉」と称えて信仰の対象にしているのもよくわかるような気がしました。
五彩池は文字通り、それぞれの池の水が、緑、青、黄、白、黒の五色に見えることから付けられた名前ですが、なぜ、このように色が変わってくるのか、よくわかっていないということです。黄龍の神様の弟子にあたる仙人が5人いて、それぞれの池に住みながら5色の色彩を放っているという伝説があるようですが、科学的な調査の結論もまだ出せないでいるのだそうです。
黄龍のまわりには、5,000メートル級の山々が取り囲んでいますが、そのなかの最高峰が、5,588メートルの雪宝頂という山です。その名のように、頂上は一年中、雪に覆われています。この山の中の、動物の骨などが永年堆積されてできた石灰質の地層が、やがて石灰岩になり、その中をしみ通っていった水がカルシウムを含んだ伏流水となって麓に湧き出てきたのが黄龍の泉だといわれています。
このカルシウム分を含んだ水は、水中の枯れ葉や小枝をまわりに押し流し、それらを水中のカルシウム分が固めていったのが池を取り巻く壁になっていったといいます。その壁が出来上がっていくのは一年間に高さ3ミリ程度だそうですから、1メートルの壁が出来上がるのには、300年から400年の歳月を要することになります。この黄龍も、年々少しずつ姿を変えているわけで、あと数百年もすると、またいまとは違った神秘な美しさをみせることになるのかもしれません。
(2004.07.16)
霊魂の実在を信じない人たち (身辺雑記 13)
女流作家の佐藤愛子さんが新潮文庫で出した『こんなふうに死にたい』という本があります。これは、小説家の彼女が霊に関する彼女の実体験をまとめた本ですが、佐藤さんもはじめのうちは、霊魂の存在などは全く信じてはいませんでした。佐藤さんは、「私がこれから語ることを、おそらく読者の大半はナンセンスだというだろう。なぜなら現代に生きる大部分の人は、目に見るもの、耳に聞こえるもの、科学的に分析実証できるものしか信じないからだ。かつての私もその一人であった」とこの本の中で書き出しています。
彼女は、長い霊体験のなかで悩んだり苦しんだりしながら、だんだん霊について理解を 深めるようになっていきました。そして、その彼女を導いたのが「優れた霊能力者」といわれる美輪明宏さんです。この佐藤さんと美輪さんとの霊体験にまつわる話は、私の講演集(第4集)にも触れてきましたが、美輪さんは、この佐藤さんの本の最後に「霊を受け入れる柔和質直な心」という一文を載せています。美輪さんには霊がはっきり見えるわけですから、「霊なんかあるわけがない」と広言する人などは、殊更に傲慢にみえるのかもしれません。実は、そのような人は、ものごとをよく知っているつもりの、科学者、医者、学者、知識人といわれる人たちのなかに多いといわれているのですが、美輪さんは、それらの人たちこそ無知で蒙昧であると、次のように強いことばで批判しています。
通常の医者や科学者は、超常現象や己の無知なる部分を認めれば沽券にかかわる、それらを否定することこそ立派な科学者で常識ある人間だと思いこんでいる。この姿こそ小心翼々とした哀れむべき根性である。頑迷ということは愚か者だということである。「超常現象なんてあるわけはありません」とそれに対する勉強も研究もせず何の知識もない癖に頭から否定してかかるのが傲慢なる愚者の発言であり、「この世の中には自分が知らない事はまだまだ山の様にあります。私には知識も経験も無いのでわかりません」と発言する人が聡明で謙虚な人なのである。(同書:p.153)
美輪さんに言われるまでもなく、私たちが見えない霊の世界を理解し信じるのは容易ではありませんが、だからといって、はじめから迷信と決めつけ、知ろうともせず勉強もしないのは傲慢ということになるのでしょう。しかし、それにしても、ものごとをよく知っているはずの科学者や、知識人、文化人といわれるような人々に、なぜ霊の世界を信じようとしない傾向が強いのでしょうか。知らないことを認めるのは沽券に関わる、というのはわかるとしても、それだけではなく、学者や知識人に特有のものの見方が絡んでくるように思われますが、それを改めてここで考えてみることにしましょう。
仏典の大般涅槃経のなかに、つぎのような「盲人と象」の譬え話があります。
昔、ひとりの王があって、多くの盲人を集め、象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせたことがある。象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、足に触れた者は、臼のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。
これは、大変わかりやすい譬え話です。牙に触れたり、耳に触れたり、鼻に触れたりしていますが、それだけでは、象の実像にせまることは出来ません。しかし、例えば、耳に触れている盲人Aは、自分が確かに象に触っているわけですから、象とは、扇のようなものだと固く信じて疑わないでしょう。同様に、尾に触れた盲人Bは、実際に手に触れた感触で、縄のようなものだと思っているわけですから、その判断の正しさには盤石の自信を持つかもしれません。この場合、盲人AもBも、彼らの立場では確かに正しいのです。しかし、それらはあくまでも象の一部であって、象の実像からは遠く、結局、彼らの見方は間違いであることになってしまいます。部分としては確かに正しいのですが、しかし、間違っているのです。
この象の実像を、仮に「真理」と置き換えて考えてみることにしましょう。その真理を捉えるのには、どういう見方をすればよいでしょうか。少なくとも、視野を広げなければならないことがわかります。象の実像を捉えるためには、牙や耳や鼻だけに触れて、それだけで結論を出してしまうのではなく、一人の盲人が、足や尻尾や大きなおなかまでできるだけ多くの場所を触ってみて、そのうえで、全体像を組み立てれば、かなり実像、つまり「真理」に近づくことができるはずです。つまり、象=牙、象=耳、象=鼻ではなくて、象=(牙+耳+鼻+尾+・・・・・)ということになります。
真理の探究というのは、学問の目的であり、学問というのは、本来、視野を広げることであるはずなのですが、しかし、往々にして学者は、対象を深く掘り下げて見続けているうちに視野を広げることを怠って、狭い自分の専門領域に閉じこもりがちになります。それに、ほとんど不可避的に、科学で立証できるものだけが真理であると信じ込まされてきました。広大な宇宙の中では米粒ひとつほどの大きさにもならないちっぽけな地球の上で、科学で説明できないものは真理ではない、というのは、ちょっと滑稽な気がしないでもありません。盲人と象のたとえでは、象の尻尾だけを繰り返し繰り返し触り続け、尻尾の感触から形状、毛の組成から数まで知り尽くして、それで象のことは何でも知っている権威であると錯覚してしまうようなものです。そして、本当に象の全体が見える人から、象というのはもっと複雑で、目も鼻も足も牙もある巨大な存在だと聞かされても、象のことは自分が一番よく知っていると固く信じていますから、そんなものは迷信だと一笑に付すことになるのでしょう。
霊は目には見えませんから、わからなければわからないでも致し方ないのですが、わからないのにそんなものはあるはずがないと決めつけている人は、いつまでも霊の事実を理解できるようにはなりませんし、霊が見える人の話にも聞く耳をもちません。霊の存在などはあたまから否定することが、学者や知識人であることの資格でもあるかのように考えている人々も決して珍しくはないようです。せめて、美輪さんのいうように、「この世の中には自分が知らない事はまだまだ山の様にあります。私には知識も経験も無いのでわかりません」と考える聡明さと謙虚さをもつことはできないものでしょうか。
(2004.07.01)
熊野詣でと浄土へのあこがれ (身辺雑記 12)
青岸渡寺と三重塔、那智大社は
この左側にある。奥に見えるのが
那智の滝。(2004.06.08)筆者撮影
紀州・和歌山の熊野三山というのは、よく知られているように、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社を合わせた総称です。この熊野三山に通じる熊野古道は、古来、人々のこころをとらえた信仰の道として、上皇や貴族から、武士や庶民に至るまで、多くの人々が訪れ、その数の多かったことから「蟻の熊野詣で」などともいわれてきました。
この熊野三山が日本国内に広く名を知られるようになったのは、平安中期から鎌倉時代にかけてで、上皇や法王が競うようにお詣りを始めた、いわゆる「熊野御幸」がきっかけになっていたようです。延喜7年(907年)に、宇多法王が最初に参詣してから、最後の亀山上皇までの375年間に、歴代上皇の熊野御幸は100回にも及んでいます。速玉大社へ行ってみますと、その境内には、これらの熊野御幸の記念碑が建っていて、上皇たちの熊野詣での回数が記されていますが、白河上皇が12回、鳥羽上皇が23回で、後白河上皇に至っては33回を記録しています。そのあとの後鳥羽上皇も29回で 飛び抜けて多いのですが、それでも上皇は、まだ30回に達していないのは信仰が足りないからだと、嘆いていたと伝えられています。
この後鳥羽上皇は、建仁元年(1201年)10月5日に、4度目の熊野詣でに旅立っていますが、この旅の様子は、随行した歌人の藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』に詳しく残されていて、これは、当時の旅事情を知る貴重な資料となっています。専門家の解説などによりますと、京都から往復で22日もかけ、総行程600キロメートルにおよぶ苦難の旅であったようです。定家も、この熊野詣では気が重かったのでしょうか、『後鳥羽院熊野御幸記』のあちらこちらには、定家の愚痴混じりのため息が聞こえてくるといいます。定家にとってだけではなく、いかにこの熊野詣でがたいへんな旅であったか、それは、いまも残る熊野古道をちょっと歩いてみただけでも、よくわかりますが、それなのに、なぜこれほどまでに多くの人々は熊野詣でに執心していたのでしょうか。
田辺から東に進んで山中にはいると、中辺路とよばれる古道が本宮にまで続いていますが、細い道の両側は、深い緑の鬱蒼とした森林です。「語り部」と呼ばれるガイドさんに案内してもらいながら、足許に気をつけ、一歩一歩足を運んでいますと、梅雨のはじめで蒸し暑いはずなのに、私は、つめたい一種の霊気のようなものを感じさせられていました。ふと気がつくと、途中の苔むした岩肌のそばに立て札があって、「熊野ではこの山や森が神様仏様です・・・・」と書かれています。この立て札のとおり、熊野は昔から修験者でしられる山岳信仰の霊場でした。それに、のちの浄土思想が重なって、熊野一帯が阿弥陀如来や観音菩薩が住まわれる浄土と考えられるようになっていきました。古来、熊野は、神仏のふところに抱かれて浄土をかいま見ることのできる、信仰の聖地であったのです。
熊野那智大社の近くには飛滝神社という大社の別院がありますが、この神社には鳥居があるだけで本殿はありません。実は、鳥居の後ろの那智の滝そのものが、ご神体なのです。人々は、この滝に向かって手を合わせ、祈りを捧げます。この滝は、熊野では日本一と呼称されていますが、高さ133メートルで、決して日本一高いわけではありません。日本一美しく、尊いという意味でしょう。滝の背後には鬱蒼とした原始林が生い茂り、暖地性の植物を中心に300種に及ぶ植物の宝庫にもなっています。連綿と生き続けて、朽ち果てても種子を残してまた新しい生命が育っていく、濃い緑の豊かな植生です。その濃い緑のなかを、地から天へ、天から地へと循環する水を豊富に集めていつまでも流れ落ちる滝。それぞれにこの大自然のなかで、いのちの再生と永遠を示唆しているかのようにみられます。この緑と水が、いかにも熊野らしい峻厳な雰囲気を醸し出していて、「熊野では山や森が神様仏様です」ということばが素直に納得させられるような、聖域となっていました。
熊野那智大社は、南向きの朱塗りの拝殿があって、その後ろに、熊野権現造りの社殿が並んでいます。ここにお詣りすると、無病息災、延命長寿などに御利益があるのだそうです。那智大社のみならず、熊野三山のどこへお詣りしても格別の御利益があると信じられてきたからこそ、多くの人々は、険しい道をものともせず、この熊野に惹きつけられてきたのでしょう。古道を歩いていたときに、私が、「語り部」のガイドさんにこの熊野詣での御利益のことを聞いてみたところ、中年の優しい顔つきをしたこの女性は、大きな御利益があることを固く信じていて、いまでも、何か困ったこと、悩み事があると、お詣りに出かけるのだと言っていました。
この那智大社のすぐ隣にあるのが、青岸渡寺で、これも、西国三十三か所第一番札所として、熊野詣での多くの人々を惹きつけてきました。この寺はインドから熊野浦に漂着したと伝えられている裸形上人によって開かれた古刹で、「青岸に渡る」をいう名前は、浄土への指向を表しているようで興味深く思われます。同じ裸形上人によって開かれた、那智川下流の補陀洛山寺(ふだらくさんじ)の「ふだらく」は、サンスクリット語で観音浄土を意味する「ポタラカ」からきているといいます。この補陀洛山寺も、極楽往生のための「補陀洛渡海」と称する水葬の儀式でも知られてきました。この熊野の土地と深く結びついているこのような葬送の儀式について、熊野出身の芥川賞作家・中上健次は、『浮島』のなかで、つぎのように書いています。
「ひょっとすると、こうも言えるかもしれない。那智の青岸渡寺と大社は鳥葬、海辺にある補陀洛山寺は水葬、新宮の神倉は鳥葬、王子、阿須賀、速玉は水葬の、死体が集まるところだった。死体の魂を呼び、鎮めるところだった。その町は、死んだ者の魂と生きている者の魂の、行き交うところであった」
このように、熊野に結びついた葬送のあり方を並べ立てると、死のイメージが強く出てしまうようにも思われますが、死と生が行き交うところ、つまり、死がどこか遠いところにあるのではなくて、生のそばの身近なところにあることが大切なのでしょう。「くまの」とは、「隈る野」(くまるの)のことで、あの世とこの世の接点と考えられてきました。現代では、生と死を峻別し、死の国を遠くにイメージしがちですが、死は生の継続であり、生は死の継続であるというように、本来、生と死は断絶していなのかもしれません。そういう意味では、熊野は死者の地であると同時に、再生を経た生者の地でもあって、古来、多くの人々は、浄土思想の中で、よりよき再生への願望を共有しながら、この熊野詣でに励んでいたようにも思われます。
(2004.06.16)
託卵するカッコウの哀しみ (身辺雑記 11)
カッコウは託卵という習性があることでよく知られています。自分は「子育て」をせず、ほかの鳥の巣に自分の卵を産みつけてしまいます。その鳥に自分の卵を抱かせて孵らせ、育てさせるのです。その託卵の様子をテレビで見たことがありますが、ほんとうに不思議な習性です。
私がテレビで見たのは、カッコウがオオヨシキリに託卵する様子でした。オオヨシキリが自分の巣の中に卵を幾つか産んで抱き温めているのを、カッコウが少し離れた木のなかに隠れてじっと見守っています。オオヨシキリは卵を温めているわけですから、なかなか巣を離れようとはしません。それを、カッコウは、おそらく飲まず食わずでじっと見続けているのです。それだけでも、たいへんな忍耐と根気が必要です。
どれくらいの間見続けていたのか、テレビの映像ではよくわからなかったのですが、やがて、なにかの拍子に、オオヨシキリがちょっと巣を離れますと、その瞬間に、カッコウはさっと、オオヨシキリの巣の中へ飛び込んでいきました。そこで不思議な早業をみせます。間髪を入れずに、そこにあったオオヨシキリの卵を一つ呑み込んでしまうと、今度は、自分の卵を一つ産み落とすのです。これで、巣の中の卵の数は増えたことになりませんから、オオヨシキリが戻ってきても、カッコウの卵が一つ混ざっていることに気がつかないようです。オオヨシキリは、それまでどおり、卵を温め続けてやがて雛が孵ることになります。
不思議なことに、卵から孵る最初の雛は、オオヨシキリの雛ではなくて、あとから産み落とされたカッコウの雛のほうです。いつでも、一日か二日、カッコウの卵のほうがオオヨシキリの卵より先に孵ります。なぜそうなるのかはわかりません。ともかく、先に孵るのはかならずカッコウの卵だそうです。しかも、そればかりではありません。もっと不思議な、恐るべき光景がそのあとに続くのです。
雛が孵ったら、雛は餌をねだるようになります。オオヨシキリの卵はまだ孵っていませんが、親鳥は、時折、餌を探し求めて巣を離れなければなりません。ところが、そのオオヨシキリの親鳥が巣を離れるとすぐに、孵ったばかりのカッコウの雛は、まわりにある幾つかのオオヨシキリの卵を巣から押し出して、下へ落としてしまおうとするのです。
孵ったばかりの雛が、自分のからだの大きさとあまり違わないようなオオヨシキリの卵を、背中に乗せて、一つずつ必死になって押しはじめ、巣の外へ落としてしまいます。驚くべきことに、そのカッコウの雛の背中は、そのような作業のためなのでしょうか、卵を乗せやすいように、くぼんでさえいます。カッコウの雛が、ハアハアと息をつきながら、ひとつ、またひとつと、懸命にオオヨシキリの卵をその背中のくぼみに乗せて、巣の外へ押し出している姿は、実に不思議な光景というほかはありません。
理屈からいうと、オオヨシキリの親が運んでくる餌を独り占めするためには、自分だけが生きて、ほかのオオヨシキリの卵は孵らないほうがいいのはわかります。しかし、そのために、孵ったばかりの雛がまわりの卵を巣の外へ押し出してしまうという知恵は、いったい、どこからくるのでしょうか。そして、孵ったばかりのカッコウの雛がほかの卵を押し出しやすいように背中にくぼみをつけた体型をしているというのは、いったい、どのように説明できるのでしょうか。しかも、カッコウの雛のその背中のくぼみは、まわりの卵を押し出すという作業が終わってしまう数日後には、なくなってしまって普通の体型に戻るという、テレビの解説を聞いたりすると、ほんとうに不思議で、人智を超えた大きな力といったようなものをつい頭に思い描いたりもしてしまいます。
ところで、カッコウのこの託卵は、種の維持・存続という視点からみると、けっして、効率のよい習性とはいえないようです。ほかの鳥の巣を狙って自分の卵を産み落とすのには、たいへんな忍耐と機敏さが必要ですし、相手の鳥も、自分の不利益になるような、そのような行為を易々と容認するはずもありませんから、カッコウは自分の卵を危険にさらす大きなリスクを背負うことになると考えてもいいでしょう。せっかく託卵しても、下手をすると相手の鳥に気づかれて、自分の卵を食べられてしまったり、巣から落とされてしまったりするかもしれません。そんなリスクを冒すくらいなら、はじめから自分で巣を作って、自分で自分の卵を温めた方がはるかに楽なようにも思えるのです。それでも託卵しようとするのは、カッコウがよほど怠けものでずるいからでしょうか。
それが、どうも、そうではないようなのです。カッコウの親鳥の生態についてのある研究によりますと、カッコウとかホトトギスのような鳥の仲間は、ほかの鳥に比べて進化が遅れていて、自分の体の体温調節がよく出来ないのだそうです。そのために、体温はどうしても外気温に左右されやすくなってしまいます。つまり、昼はあたたかくても夜は冷たくなり、この特性が、一定の温度の維持を必要とする卵の孵化には向いていないというのです。そうすると、カッコウも、できれば自分の卵は自分で温めて、自分の力で子育てをしたいはずなのに、それが出来ないから、仕方なく、リスクを冒して、他の鳥の巣へ侵入していることになります。
自分で自分の子を育てられないというのは、どれほどつらく哀しいことでしょうか。それでも絶望せずに、なんとか、子を育てる方策を探ろうとするのは、いのちを持つものの本能的な反応です。カッコウの場合は、長い進化の歴史を経て、それが託卵という形で遺伝子DNAのなかに刻み込まれていったと考えられるでしょう。オオヨシキリなどの他の鳥を欺き、自分の卵を生かすために他の鳥の卵を突き落としても、カッコウとしては、それを悪いことと考える余裕はありません。そうする以外の生き方が出来ず、カッコウはカッコウなりに必死になってがんばっているのです。
こういう風にみてくると、カッコウのあの身勝手で非情な託卵も、また違った目で捉えられるように思われます。これは人間の場合も同じですが、人の姿を、外面だけで、それも行動の一面からみるだけでは、なかなか本当の姿は捉えられないものです。違った角度から見れば、当然、違って見えてきます。欠点が美点になることさえ珍しくはないでしょう。そういうものの見方の違いも、私たちは、このカッコウの託卵から考えてみることもできるかもしれません。
(2004.06.01)
『夜と霧』新版からの三つの断章 (身辺雑記 10)
私は、身辺雑記(05) で「雪のなかのアウシュビッツ」を書きましたが、あのなかで触れた『夜と霧』(霜山徳爾訳)は1947年の旧版を準拠にして、1961年にみすず書房から刊行されたものです。この本は、著者のフランクルによって、1977年に新版が出され、それをもとにドイツ文学翻訳者の池田香代子さんが改訳した『夜と霧』(新版)が、同じくみすず書房から2002年11月に出版されています。池田さんによりますと、旧版と新版では、かなりの異同があったということですが、私は、翻訳文の違いに関心もあって、新版のほうも読み比べてみました。私が、「雪のなかのアウシュビッツ」のなかで、最後に引用した文(愛についての認識)は、池田さんの新版では、つぎのようになっています。
《雪に足を取られ、氷に滑り、しょっちゅう支え支えられながら、何キロもの道のりをこけつまろびつ、やっとの思いで進んでいくあいだ、もはや言葉はひとことも交わされなかった。だがこのとき、わたしたちにはわかっていた。ひとりひとりが伴侶に思いを馳せているのだということが。
わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。わたしは生まれてはじめて、たちどころに理解した。天使は永久の栄光をかぎりない愛のまなざしにとらえているがゆえに至福である、という言葉の意味を・・・・・。》 (pp.60-61)
この新版のなかでも、旧版訳者の霜山徳爾氏は、一文を寄せていました。そのなかで、氏は、「あの愚かしい太平洋戦争の絶望的な砲火硝煙の戦場体験を持つ者は、今や70歳代の終わりから 私のように80歳前半までの老残の人間のみである。どうしても骨っぽい、ごつごつした文体になってしまう」と書いています。そして、「新訳者の平和な時代に生きてきた優しい心は、流麗な文章になるであろう」と池田さんの訳文に期待感を表しています。戦争の愚かしさを身をもって体験した霜山氏の心情がにじみ出ているような文です。
確かに新版は読みやすくはなっていますが、ここでは、そのなかから、あと二つ、こころを打たれた場面を抜き書きしておきたいと思います。はじめの文は、被収容者の美に対する感覚について述べたものです。人間が、あれほどまでのぎりぎりの極限状況にまで追い込まれますと、美を意識するこころの余裕もなくなり、感覚の麻痺状態が続くようにも思えるのですが、実際は、むしろ逆で、彼らの場合は、鋭敏にとぎすまされた感覚で、自然の美しさを全身で味わっていたように思われます。つぎのようにです。
《被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるはど圧倒的だった。
とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂きが今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルクの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに---あるいはだからこそ---何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。
また収容所で、作業中にだれかが、そばで苦役にあえいでいる仲間に、たまたま目にしたすばらしい情景に注意をうながすこともあった。たとえば、秘密の巨大地下軍需工場を建設していたバイエルンの森で、今まさに沈んでいく夕日の光が、そびえる木立のあいだから射しこむさまが、まるでデユーラーの有名な水彩画のようだったりしたときなどだ。
あるいはまた、ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。
そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、くろがね色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」 》 (pp.64-66)
著者のフランクルは、餓死寸前の状態の中で重労働に従事させられていましたが、医者であったために、幸運な偶然があって、のちに収容所内の医務室勤務となります。彼の両親も、妻も、二人の子どもも収容所内でいのちを断たれて、結果的には彼一人が生き残ることになりました。つぎは、彼が医務室で死んでいったある女性患者の記録です。死を前にして内面性を深めていった彼女が、「こんなにひどい目にあわせた」運命に感謝している姿には、こころを打たれます。
《この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。
「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」
彼女はこのとおりにわたしに言った。
「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」
その彼女が、最期の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。
「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」
彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。板敷きの病床の高さにかがむと、病棟の小さな窓からは、花房をふたつつけた緑の枝が見えた。
「あの木とよくおしゃべりをするんです」
わたしは当惑した。彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。讒妄(せんもう)状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。それでわたしは、木もなにかいうんですか、とたずねた。そうだという。ではなんと? それにたいして、彼女はこう答えたのだ。
「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって・・・・・」
》 (pp.116-117)
(2004.05.16)
障害を乗り越えていく人 (身辺雑記 09)
重度障害者の星野富弘さんのことは、いまでは、花の詩画集などでよく知られるようになりました。私のアパートの部屋にも、娘が毎年贈ってくれる星野さんのカレンダーがかけられています。美しい花の絵に、美しい詩のことばが添えられて、これが口に加えた筆で描かれたとはとても思えないほどですが、どの絵にも、星野さんの気持ちがそのまま伝わってくるようなあたたかさを感じさせられます。
私は、教壇に立っていた頃、学生たちに発想の転換を考える資料の一つとして、何度か、星野さんのビデオを使ったことがありました。星野さんは、怪我をしたあと、クリスチャンになって結婚しますが、その時のナレーター・樫山文枝さんは、「何気なく見えるこの結婚式の裏にひそむ、深い意味をお考えいただければ幸いでございます」と言っていました。その星野さんは、結婚式の時に、色紙に「わたしはあなたのみおしえをよろこんでいます。苦しみに会ったことは、わたしにとってしあわせでした」と書いています。「あれほどの苦しみにあったことが幸せとは」と、私たちはつい考えてしまいますが、これは、深くこころに残ることばです。
星野さんは、詩画集『かぎりなくやさしい花々』のなかで、「わたしが元気だったころ、からだの不自由な人を見れば、かわいそうだとか、気味がわるいとさえ思ったことが、ずいぶんありました」と自らのことを述懐しています。そして、つぎのように、続けています。
しかし、自分が車椅子にのるようになって、はじめてわかったことなのですが、からだが不自由な自分を、不幸だとも、いやだとも思わないのです。
けがをして、一、二年は、からだのことでなやんだり、くるしんだりしました。でも、うけた傷は、いつまでもひらきっぱなしではなかったのです。傷をなおすために、そこには新しい力が自然とあたえられ、傷あとはのこりますが、そこには、まえよりもつよいものがもりあがって、おおってくれます。からだには傷をうけ、たしかに不自由ですが、心はいつまでも不自由ではないのです。不自由と不幸は、むすびやすい性質をもっていますが、まったく、べつのものだったのです。
そして、「不自由な人を見て、すぐに不幸ときめつけてしまったのは、わたしの心のまずしさでした」とその述懐を結んでいました。
そういえば、あの『五体不満足』の乙武洋匡君も、「障害は不便です。だけど、不幸ではありません」と、同じようなことを言っていたのを思い出します。乙武君の場合は、先天性四肢切断というやはり重い障害ですが、彼は、それを、単なる身体的特徴としか考えていませんでした。「ボクには、人に負けないものがある。それは、手足がないこと」といっていたぐらいですから、乙武君は、はじめから障害の苦しみとは無縁の人であったのかもしれません。『五体不満足』のあとがきには、彼は、つぎのように書きました。
ボクは、五体不満足な子として生まれた。不満足どころか、五体のうち四体までがない。そう考えると、ボクは最低条件すら満たすことのできなかった、親不孝な息子ということになる。
だが、その見方も正しくはないようだ。両親は、ボクが障害者として生まれたことで、嘆き悲しむようなこともなかったし、どんな子を育てるにしても苦労はつきものと、意にも介さない様子だった。何より、ボク自身が毎日の生活を楽しんでいる。多くの友人に囲まれ、車椅子とともに飛び歩くいまの生活に何ひとつ不満はない。
つい最近では、韓国でベストセラーになった『チソン、愛してるよ』が日本語に翻訳されて、テレビなどでも話題になりました。「チソン」というのは、ソウルの梨花女子大学で幼児教育を専攻していた人で、学生の頃は、「女優のように美しい」と言われた美貌の持ち主でした。その彼女が、二〇〇〇年の七月、兄と一緒に自動車で帰宅の途中、交通事故にあい、全身の五十五パーセントが黒焦げになるほどの大火傷を負ってしまいます。かつぎ込まれた病院では、医者は彼女を一目見るなり、「生きる望みはない。生きても人間の姿には戻らない」と言ったのだそうです。
チソンさんは、何度も皮膚の移植を繰り返しながら、奇跡的に回復に向かいました。そして、入院七か月で一応退院することになります。そのあとは、通院とリハビリの長い生活が続きましたが、あるいは、肉体的な苦しみよりも、精神的な苦しみとの闘いの日々であったかもしれません。みるも無惨に変わってしまった自分の顔を見て、「お兄ちゃん、わたしを殺して。こんなになって、生きていけないわ」と言ったこともあります。「率直にいって、あなたは醜いです」とこころないことばをホームページに書き込まれたりして、傷ついたこともあったようです。
本の中には、「女優のように美しい」と言われた頃の写真と、事故後の大きく変わってしまった写真も載せられていましたが、この厳しい現実を受け容れることは、彼女にとってもたいへん困難なことであったにちがいありません。しかしそれでも、チソンさんは、だんだんと自分を取り戻し、キリスト教への深い信仰に支えられて、見事にこころの変身をも遂げていきました。それを本の中で、彼女は、こう書いています。
よい大学を出てよい夫に出会い、人からうらやまれるように生きるのが祝福だと考えたころもありました。顔がきれいなのがすべてだと思っていたときもありました。しかし本当の祝福はそんなものではありませんでした。わたしの体の障害が、これまで耐えてきた苦痛と痛みがそれを教えてくれました。本当に重要で永遠に存在するものは目に見えるものではないことを悟ったのです。体が普通でなく不自由であるからといって萎縮する必要はありません。人生が終わりだとあきらめる必要もありません。障害者は決して劣った存在ではありません。わたしはむしろ、優越感を持ってもいいような祝福された人間だと思っています。神さまのかぎりない関心と細心の配慮そして果てることのない愛を経験することができた神さまのVIPなのですから。
彼女は、リハビリを続けながら、苦痛のなかでも、やっと、ひとりでスプーンをもつことが出来るようになったことに感謝します。ドアのノブを掴んで、自分でドアを開けられるようになったことにも感謝し、喜びを感じるようになっていきます。そして、この本の「エピローグ:私はいま幸せです」にはつぎのように書きました。
苦難は祝福です。つらく苦しい時間を過ごし、それを克服するときに与えられる宝物があります。苦難を通じてしか学ぶことのできない、持つことのできないその果実がどれほど貴いものか……わたしはそれを理解しています。
誰かがわたしにこう質問しました。「昔の姿に、事故の前の自分に戻してくれると言われたらどうする?」と。バカだと言われるかもしれませんが……わたしの答えは「戻りたくない」です。
「戻りたくない」理由は、外見の点数は下がっても、心の点数がぐんと上がったからだそうです。その彼女が、自らの「変身」を確認し、それを納得させるために鏡に向かう場面は、感動的といえるかもしれません。昔の美貌の片鱗もないいまの見慣れぬ自分の顔を鏡に映して、手を振り挨拶をするのです。「こんにちは、イ・チソン」。すると、鏡の中の新しいチソンも挨拶を返してきました。「チソン、愛してるよ」。
(2004.05.01)
スイスという国 (身辺雑記 08)
レマン湖畔のヴヴェイ付近から眺めたアルプス
の山々。 2004.04.08 (筆者撮影)
スイスは面積が4万1千平方キロで、日本の九州よりやや大きめの広さですが、総人口は7百万人を少し上まわる程度です。よく知られているように、国土の6割をアルプスが占める山岳国家で、最高峰はモンテ・ローザの4、634メートルです。マッター・ホルン(4、478メートル)、ユング・フラウ(4、158メートル)などがそれに続いています。アルプス山脈全体の最高峰は、モン・ブランの4、807メートルですが、これはイタリア・フランス国境にあって、スイス領土には含まれていません。
私が家族4人で最初にスイスを訪れたのは、もう30年も前の1974年夏のことでした。その当時は、アメリカのオレゴン州に住んでいましたが、夏休みに、カナダのバンクーバーからロンドンへ飛んで、しばらく過ごした後、オランダのアムステルダムへ行きました。そこからレンタカーで、ドイツ、オーストリアを経て、インスブルックから南下をはじめたのです。ここでは、アルプスを越えればイタリアです。当時はまだイタリアも貧しく、国境を越えたところで、外国人観光客を増やすための、ガソリン割引切符などをもらったことを覚えています。
イタリアでは、ローマまで南下し、そのあとは北上して、ミラノの北部のコモ湖付近からはじめてスイスに入りました。このあたりは、ティチーノ地方と呼ばれて、イタリア領土の中にスイス領土が袋がぶら下がったように入り込んだ形になっています。ルガーノを通りさらに北上すると、やがて、アルプス山脈中のサン・ゴッタルダ峠にさしかかります。
この峠は、13世紀以来、地中海世界から北ヨーロッパを結ぶ最も重要な交易ルートとして注目されてきました。峠の北側を支配していたのは、オーストリアのハプスブルグ家でしたが、彼らが派遣した代官の圧政に抵抗して、あの、ウイリアム・テルの物語も生まれました。権威に従わないウイリアム・テルは捕らえられて、自分の子供の頭の上にリンゴを置き、それを射落とせば許したやるといわれます。ウイリアム・テルは、そのリンゴを見事に射落としたのですが、代官は約束を守らず、さらに難題をふっかけていきます。こうしたハプスブルグ家の横暴に対する民衆の反抗運動が、結局は、スイスの独立国家への道を拓くことになっていきました。私は、その物語の舞台になったあたりを運転しながら、くねくねと曲がった狭い峠道を、通り抜けていきました。ところどころで開けた緑の斜面には、のんびりと、牛の群が首に付けたカウ・ベルをカランカランと鳴らしていました。
いまでは、このサン・ゴッタルダ峠の下には全長15キロに及ぶトンネルが開通していて、高速道路も「ウイリアム・テル特急」などと名付けられた鉄道列車も、瞬く間にアルプス山脈を通り抜けてしまうようです。何年か前に、イタリアのミラノから西へ向かって、バスで、アルプスの反対側のフランスへ出たことがありましたが、その時も、モン・ブランの下に掘られたトンネルで、一気に、アルプスを通り抜けてしまいました。あの、カウ・ベルの鳴る、サン・ゴッタルダ峠のくねくね道を思い出すと、ちょっと味気ない気もしないではありません。交通が便利になったのはいいのですが、このようなトンネルによってスイスを通過するヨーロッパ諸国のトラックの数が1997年に百万台を突破してからも増加の一途をたどり、いまや、深刻な公害問題を引き起こしているようです。
サン・ゴッタルダ峠を越えますと、フィーアヴァルトシュテットという名の大きな湖が眼前に広がってきます。長い名前ですが、通称ルチェルン湖と呼ばれている美しい湖です。スイス最大の湖はレマン湖で、大きさは582平方キロありますから、日本最大の琵琶湖を一回り小さくしたくらいです。スイスでいわれる五大湖は、レマン湖のつぎに、ボーデン湖、ヌーシャテル湖、マッジョーレ湖と続きます。そのあとにくるのがルチェルン湖で、大きさは、レマン湖の5分の1くらいでしょうか。
私は、1974年以来、スイスへは何回か行っていますが、この間は、ジュネーブからレマン湖の北側の湖畔に沿って、ヴヴェイ、モントルーなどの景勝地へと続く湖畔の道をバスでドライブしてきました。青く澄んだ湖面は、雪を頂いたアルプスの山々の影を映して、こころが吸い込まれるような美しさです。このような風景に惹かれたからでしょうか、あの喜劇王・チャールズ・チャップリンも、ヴヴェイの高台のブドウ畑の中に、別荘を建てて住んでいたようです。湖畔には、チャップリンの銅像も建っていました。
バス旅行は、何日かをかけてスイス北端に近いチューリッヒまで続きましたが、その途中で通ったのがルチェルン湖です。その近くには、いまも中世の面影を留めている美しいルチェルンの街があります。ここでは、あのヨーロッパで一番古い木造橋といわれるカペル橋が、観光の名所となっています。かつて、私たち家族4人も、この橋を渡り、旧市街の時計屋の一軒を尋ねて、長男は念願の時計を自分で貯めた50ドル相当のスイスフランで買ったことがありました。残念ながら、1994年には火事でこの橋の半分以上が消失してしまいましたが、世界中から再建のための募金が集まって、すっかり元通りに修復されたということです。
このカペル橋から北側のホープ教会を通り越してさらに3百メートルほど歩いたところに、有名な「瀕死のライオン」記念碑があります。デンマークの彫刻家トルバルセンのデザインによる石像で、これは、フランスの傭兵となって戦死したスイス人兵士の慰霊碑として建てられました。
スイスは、いまでこそ観光立国で、世界中から観光客を集めて、国民の生活も豊かですが、少なくとも19世紀以前は、ヨーロッパではもっとも貧しい国の一つとして、人々は生活苦に喘いでいました。山も湖も生活の足しにはならず、全国平均標高が1、350メートルの生活環境の中では、農業生産性も決して高くはなかったのです。人々は、山ばかりの自然の厳しさを嘆いていたかもしれません。食べていけなくなった人々は、外国の傭兵として国外へ出ていきました。スイス人は堅実で辛抱強く、困難にも耐えることになれています。それに、国内では、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語と四つの言語が話されていることからも想像できるように、スイス人はことばの上でも、外国で不自由することはあまりありません。そんなことから、スイス人傭兵は、貧しいスイスの最大の「輸出品目」として、周辺の国々から歓迎されていたのです。
あの、フランスのルイ16世も、スイス傭兵を側に置いて、身辺の警護にあたらせていました。フランス革命が起こって、ルイ16世の家族が危険にさらされたとき、パリのチュイルリー王宮で、スイス傭兵は、王の家族を守るために最後まで戦って全滅しています。その786人におよぶ傭兵の死を悼んで建立されたのがこの石像「瀕死のライオン」です。スイスが長い苦難の歴史を経て永世中立の道を宣言しているのも、このような悲しい傭兵の悲劇とも無関係ではないでしょう。今日では、このスイス人傭兵の名残は、ローマのバチカン宮殿の警備兵として残されているだけです。
しかし、貧しかったスイスも、1760年代にイギリスで始まり、1830年代以降ヨーロッパ諸国へ波及していった産業革命に大きく影響されることになります。生活が豊かになり、スイスの美しく壮大な自然美に目を向けはじめた諸外国の人々が、イギリス人、フランス人を筆頭にして、つぎつぎにアルプスを訪れはじめたのです。
スイス人は、それまで自分たちが無用の長物のように考えてきたアルプスの山々を中心とする雄大な自然が、大きな収入源になることにはじめて気がつきました。スイス国内の産業革命も手伝って、生活もだんだんとよくなっていきます。やがて、スイスは、ヨーロッパの、というよりは、世界の観光地として不動の地位を占めることになりました。いまでは、誰よりも熱心にこのアルプスの自然を愛し、守ろうとしているのも、地元のスイス人といっていいかもしれません。
(2004.04.16)
「雪山偈」と「いろは歌」 (身辺雑記 07)
仏典の「涅槃経第十三」に次のような話があります。
むかし、ヒマラヤの山中に雪山童子(せっせんどうじ)と呼ばれていた若い修行者がいました。その雪山童子は、衆生を救うための法を求めて、いろいろと難行苦行を続けていましたが、その修行の姿を、天からじっと帝釈天がみていました。
帝釈天というのは、東京でも柴又の帝釈天で有名ですが、もともとは、インド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』に出てくる英雄神です。その当時からインドでは、悟りを開こうとする求道者は数多くいました。しかし、固い意志で、難行苦行に最後まで耐え抜き、悟りに至る人はほとんどいません。帝釈天は、雪山童子もまた、そのような意志の弱い修行者のひとりではないかと思ったのです。そして、雪山童子の苦行が本物かどうか、試してみようとしました。
まず、帝釈天は、恐ろしい形相の羅刹に姿を変えました。羅刹というのは、インドの食人鬼です。人の生肉を食べ、生き血をすすります。その羅刹となって天上から雪山まで降りてきた帝釈天は、雪山童子の近くまで来ると、過去生の仏が説いた教えを詩句にして、その前半を、声高らかに唱えました。
諸行無常 (作られたものはすべて無常である)
是生滅法 (生じては滅することを本性とする)
これを聞いた雪山童子は、深い喜びに包まれます。これこそが長い間求めてきた真理のことばだ、とすぐわかりました。ただ、これだけでは意味が十分ではない。まだあるはずで、どうしてもこの後の句も聞きたい、と思ったのです。けれども、そこにいたのは恐ろしい形相の羅刹だけでした。よもやとは思ったのですが、雪山童子は、思い切って羅刹に尋ねました。
「いまのことばは、過去、現在、未来の三世にわたる仏の教えで、真理のことばです。この続きがあるはずですが、ご存じでしたら是非教えてください」
羅刹は答えました。「私は幾日も食べ物が手に入らず、飢えている。お前の体を食べさせてくれるというのなら、教えてやってもよい」
雪山童子は、しばらく考えて、静かに答えました。「わかりました。残りのことばを聞くことができたら、私の体はあなたに差し上げましょう。私の体は、たとえ天寿を全うしたとしても、どうせ獣か鳥に食われるだけです。それに、食われたからといって、なんの報いもあるわけではありません。それならば、悟りの道を求めるために、この体は捨てることにいたします」
それを聞いた羅刹は、雪山童子の固い決意に迷いがないのを見届けると、やがて、居ずまいを正して、ゆっくりと、後半のことばを唱えました。
生滅滅己 (生滅するものがなくなり)
寂滅為楽 (静まっていることが安らぎである)
こう説いてから、羅刹は、約束通り、雪山童子の体をくれるようにと詰め寄りました。
雪山童子は、覚悟の上のことですから、体を捨てるのにはなんのためらいもありませんでした。ただ、後世の人々のために残しておきたいと考えて、このことばを、まわりの岩や木に書き留めました。そして、近くの高い木に登ると、一気に地上へと身を投げたのです。
その瞬間、雪山童子の体がまだ地上に着かないうちに、羅刹はさっと帝釈天の姿に戻り、空中で、雪山童子の体を受け止めてしまいます。そして、恭しく地上に降ろし、雪山童子にひれ伏して礼拝しました。実は、この雪山童子が、お釈迦様の前世の姿であったということです。
この雪山童子が羅刹から聞いた真実のことばは、雪山にちなんで仏教では、「雪山偈」(せっせんげ)とよんでいるようです。偈というのは、仏の教えや、徳を称えたりするときのことばを詩句の形であらわしたものです。
この話は、仏典がインドから中国や朝鮮を経て伝わってきた後、やがて日本文学の中にもとりいれられ、さらに、それが太平洋戦争中の小学国語読本でも、六年生用の巻十二に「修行者と羅刹」というタイトルで取り上げられてきました。私が小学生の時にこれを教室で習ったのは、考えてみますともう
62年も前の昭和 17年(1942年) のことになりますが、この話は妙に印象深く、幼いこころに染みこんでいったことをいまでも覚えています。
ただ、私が、教わったときには、この「雪山偈」のところは、日本語に置き換えられて、「いろは歌」になっていました。その意味を、一生懸命に暗記したりしたことが、昨日のことのように思い出されます。調べてみますと、八王子の中央図書館に複製があるということなので、出かけていって、資料室でこの古い教科書に対面してきました。巻十二に、たしかに、「第十七
修行者と羅刹」があります。懐かしい気がしました。子供に返ったような気持ちになって読み返してみましたが、つぎのような文です。新仮名遣いになおして、全文をうつしてみます。
「色はにほヘど散りぬるを、
我が世たれぞ常ならむ。」
どこからか聞えて来る尊い言葉。美しい声。
所は雪山の山の中である。長い間の難行苦行に、身も心も疲れきつた一人の修行者が、ふと此の言葉に耳を傾けた。
言知れぬ喜びが、彼の胸に湧上つて来た。病人が良薬を得、渇者が清冷な水を得たのにも増して大きな喜びであつた。
「今のは仏の御声でなかったろうか。」
と、彼は考えた。しかし、「花は咲いても忽ち散り、人は生まれてもやがて死ね。無常は生ある者のまぬかれない運命であるという意味の今の言葉だけでは、まだ十分でない。若しあれが仏の御言葉であれば、其の後に何か続く言葉がなくてはならない。彼には、そういう風に思われて来た。
修行者は、座を立ってあたりを見廻したが、仏の御姿も人影もない。ただ、ふとそば近く、恐ろしい悪魔の姿をした羅刹のいるのに気がついた。
「此の羅刹の声であったろうか。」
そう思いながら、修行者は、じっと其の物すごい形相を見つめた。
「まさか、此の無知じゃけんな羅刹の言葉とは思えない。」
と、一度は否定してみたが、
「いやいや、彼とても、昔の御仏に教を聞かなかったとは限らない。よし、相手は羅刹にもせよ、悪魔にもせよ、仏の御言葉とあれば聞かねばならぬ。」
修行者はこう考えて、静かに羅刹に問いかけた。
「一体、お前は誰に今の言葉を教えられたのか。思うに仏の言葉であろう。それも前半分で、まだ後の半分があるに違いない。前半分を聞いてさえ私は喜びにたえないが、どうか残りを聞かせて、私に悟りを開かせてくれ。」
すると、羅刹はとぼけたように、
「わしは、何も知りませんよ、行者さん。わしは腹がへっております。あんまりへったので、つい、うわ言が出たかも知れないが、わしには何も覚えがないのです。」
と答えた。
修行者は、一そうけんそんな心で言った。
「私はお前の弟子になろう。終生の弟子になろう。どうか残りを教えて頂きたい。」
羅刹は首を振った。
「だめだ、行者さん。お前は自分のことばっかり考えて、人の腹のへっていることを考えてくれない。」
「一体、お前は何をたべるのか。」
「びつくリしちゃいけませんよ。わしのたべ物というのはね、行者さん、人間の生肉、それからのみ物というのが人間の生き血さ。」と言うそばから、さも食いしんぼうらしく、羅刹は舌なめずりをした。
しかし、修行者は少しも驚かなかった。
「よろしい。あの言葉の残りを聞こう。そうしたら、私の体をお前にやってもよい。」
「えっ。たった二文句ですよ。二文句と、行者さんの体と取りかえてもよいというのですかい。」
修行者は、どこまでも真剣であった。
「どうせ死ぬべきこの体を捨てて、永久の命を得ようというのだ。何で此の身が惜しかろう。」
こう言いながら、彼は其の身に着けている鹿の皮を取って、それを地上に敷いた。
「さあ、これへお座り下さい。謹んで仏の御言葉を承りましょう。」
羅刹は座に着いて、おもむろに口を開いた。あの恐ろしい形相から、どうしてこんな声が出るかと思われる程美しい声である。
「有為の奥山今日越えて、
浅き夢見じ酔ひもせず。」
と歌うように言い終わると、
「たつたこれだけですがね、行者さん。でも、お約束だから、そろそろごちそうになりましょうかな。」と言って、ぎょろりと目を光らせた。
修行者は、うっとりとして此の言葉を聞き、それをくりかえし口に唱えた。すると、「生死を超越してしまえば、もう浅はかな夢も迷いもない。そこにほんとうの悟りの境地がある。」という深い意味が、彼にはっきりと浮かんだ。心は喜びで一ぱいになった。
此の喜びをあまねく世に分って、人間を救わねばならぬと、彼は気づいた。彼は、あたりの石といわず、木の幹といわず、今の言葉を書きつけた。
色はにほえど散りぬるを、
我が世たれぞ常ならむ。
有為の奥山今日越えて、
浅き夢見じ、酔ひもせず。
書き終わると、彼は手近にある木に登った。其のてっぺんから身を投じて、今や羅刹の餌食になろうというのである。
木は枝や葉を震わせながら、修行者の心に感動するかのように見えた。修行者は、
「一言半句の教のために、此の身を捨てる我を見よ。」
と高らかに言って、ひらりと樹上から飛んだ。
とたんに妙なる楽の音が起こって、朗らかに天井に響き渡った。と見れば、あの恐ろしい羅刹は、忽ち端厳な帝釈天の姿となって、修行者を空中に捧げ、そうして恭しく地上に安置した。
諸の尊者、多くの天人たちが現れて、修行者の足下にひれ伏しながら、心から礼拝した。 此の修行者こそ、ただ一すぢに道を求めて止まなかったありし日のお釈迦様であった。
ここであらわれてくる「いろは歌」は、空海が「雪山偈」を日本語に訳したものであると、長い間考えられてきました。しかし、いろいろ検証されてきた結果、いまではそれは否定されて、空海以後の平安中期から世に広まっていったとされています。訳者はまだわかっていません。
日本語への翻訳にあたっては、和音の異なる四十七文字をすべて一度だけ使って重複させずに、七五調四句にまとめているというのは、実に驚くべき技巧です。しかもそれで、深遠な「雪山偈」の意味を移しているとすると、もう神業というほかはありません。
私たちが日常何気なく口にしている「イロハニホヘト・・・」には、このように、インドの「雪山偈」以来の、深い意味がこめられていることになります。
(2004.04.01)
極限状況のなかの二人の母親のことば (身辺雑記 06)
神戸市須磨区で児童連続殺傷事件が起こったのは1997年の3月のことでした。小学生の女児2人が連続して通り魔に襲われ、1人は鈍器で頭を殴られて死亡、もう1人は刃物で腹部を刺されて重傷を負わされました。
この事件はさらにエスカレートします。その後、5月には、切断された子供の頭部が、市内の中学校の正門前で発見されたのです。「酒鬼薔薇聖斗」の名で「ボクは殺しが愉快でたまらない」などと書かれた犯行声明が出されるなど、その異常さが世間を驚かせました。6月には、遂に犯人が逮捕されましたが、それが14歳の少年であったことが、また大きな衝撃を与えて、多くの人々のこころにも、深い傷跡を残したように思います。
その少年を収容した関東医療少年院では、その非行の重大さを考え、医療系と教育系のスタッフで特別チームを組んで、少年に、罪を償う意識や、生命を尊重する心を育て、社会復帰に向けた適応力を高めていくように補導していったようです。その結果、本人が、被害者や遺族に対して強い謝罪の気持ちを持てるようになったとして、同少年院は、先日、法務省に仮退院を申請したことがひろく報道されました。事件の時14歳であった少年は、7年経ったいまでは、21歳の青年になっています。
仮退院申請をつたえる新聞各紙には、この事件で殺害された当時11歳の土師淳と10歳の山下彩花さんのお二人のお父さんとお母さんの談話が載せられていました。そしたまた、加害者である男性の両親の長文の手記も載せられていました。自分の子供がこのような事件の被害者になったら、親はどういう気持ちがするものでしょうか。問うことさえはばかられますが、この極限状況のなかで、彩花さんの母親の山下京子さんは、仮退院申請を聞いて、つぎのように述べています。
私たち遺族に対する謝罪も、もう二度と人を傷つけず、悪戦苦闘しながらもいばらの道を生き抜いていくしかない、と私は考えています。悪戦苦闘といっても制裁を加えるためだけの「苦しめ!」とはニュアンスが違います。
現実社会は決して甘くはありません。そして、平凡な日々ばかりの人生ではないでしょう。それでも、人間を、生きることを、放棄しないでほしい。それこそが私たち遺族の「痛み」を共有することになるのです。
なぜなら、私たちも悪戦苦闘しながら自分の道を歩いているのですから。
彩花さんを失った母親の京子さんは、事件直後は悲嘆の底に沈みながら、おそらく激しく犯人を憎んでいたことでしょう。しかし、事件から半年後、ある瞬間に転機が訪れます。自宅でぼんやり夜の月を眺めていたときに、ふと、彩花さんが話しかけてきたような気がしたのだそうです。「お母さん、もう人を憎まないでいいよ」と。
それでも、母親としての憎しみや悲しみは消えることはなかったでしょう。しかし、新しい気持ちが京子さんに芽生えてきました。「彩花が教えてくれたことはいのちの大切さ。どの人のいのちも、かけがえもなく大切だということ。彼の中が、99パーセントの悪でも、残り1パーセントは善と信じたい」と、このように述べている母親の京子さんのここころのなかでは、なにかが少しずつ変わりはじめてきたように思われます。
もう一つの極限状況のなかにいるのは、加害者のお母さんです。お父さんの書いたものとは別に、長い手記を載せていますが、つぎは、その一部です。
当時は何が何だかわからないままに毎日が目まぐるしく過ぎていきました。頭がおかしくなるかもしれない。でも、かえっておかしくなった方が、何もわからなくて楽かもしれないなとも思いました。
それからは、毎日おびえた生活をしてきました。何度も死にたいと思いましたが、もし、私たちが死ねば、被害者の方々、ご遺族の怒りや悲しみを受け止めるのは、長男以外になくなる。何よりも、どうしてこのような事件が起きたのか、真相を究明する妨げにもなる、それこそ、もう一つの罪かもしれない。生きながらえて、悲しみや怒りを受け止めなければならないと思いました・・・・・・・
これも、私たちには、重く、深くひびくことばです。生涯をかけても償いきれない重い罪を、親が子と共に背負っていこうとするこの決意は、あるいはわが子が極刑を受けるよりも苦しい選択であるのかもしれません。親が担いでいく十字架はこれほどまでに重いものでなければならないのであろうかと、つい考え込んでしまいます。それに、このような事件が起きた背景には、殺戮ゲームや残虐行為などの映像が野放しにされている環境があり、モノとカネの基準がはばを利かして、こころをどこかへ置き忘れてしまったような大人の社会の風潮があることも無視することはできないのです。いまでもなお、未成年者がかかわる残虐な殺人事件などが、あとを断たないところをみると、この事件も、起こるべくして起こったとは言えないでしょうか。
それにしても、この母親の悲しさ、人間の哀れさ。そして、本当はいのちは一つであるのに、という思い。極限状況のなかにあるお二人の母親のことばには、いろいろと考えさせられる教えが含まれているように思えてなりません。
(2004.03.16)
雪のなかのアウシュビッツにて (身辺雑記 05)
アウシュビッツ収容所の入り口
「労働は自由をもたらす」のドイツ語
が見える。筆者撮影(2004.02.29)
もう40年以上もまえのことになりますが、『夜と霧』というタイトルでアウシュビッツ強制収容所の体験記録が出版されて、大きな反響を呼び起こしたことがありました。著者の V. E. フランクルは、かつては少壮の精神医学者として属目され、美しい妻と二人の子供とともにウイーンで平和に暮らしていました。しかし、この平和は、ナチス・ドイツのオーストリア併合以来、破れてしまうことになります。彼はユダヤ人だったからです。
「夜と霧」というタイトルの由来は、1941年12月6日に出されたヒットラーの特別命令に基づいているようです。ナチス・ドイツに反抗する非ドイツ国民を、夜ひそかに逮捕して強制収容所へ送り、その安否や居所は家族親戚にも知らせないとするもので、これが隠語で「夜と霧の命令」といわれていました。後にこの命令の原則は拡大され、対象も広がって、ユダヤ人のほか、何の罪もないポーランド人やジプシーなども含まれるようになっていったのです。
ユダヤ人であるというただそれだけの理由で、著者のフランクルも家族とともに逮捕され、あのアウシュビッツの強制収容所に送り込まれました。そしてそこで、彼の妻や子供達、両親までもが、ガス室で殺されたり餓死したりしました。生き延びたのは、彼だけでした。彼だけが、奇跡的に死を免れて、学者としての冷静な筆致で、凄惨な収容所の記録を残したのです。その記録が日本でも和訳されて、タイトルも『夜と霧』とつけられました。霜山徳爾訳で、みすず書房から刊行されたのが1961年です。多くのショッキングな写真なども収められていますが、この本には、はじめに、出版社の序として、つぎのようなことが書かれています。
1931年の日本の満州侵略に始まる現代史の潮流を省みるとき、人間であることを恥じずにはおられないような二つの出来事の印象が強烈である。それは戦争との関連において起った事件ではあるが、戦争そのものにおいてではなく、むしろ国家の内政と国民性とにより深いつながりがあると思われる。さらに根本的には人間性の本質についての深刻な反省を強いるものである。
第一には1937年に起った南京事件であって、これは日本の軍隊が南京占領後、無辜の市民に対して掠奪・放火・拷問・強姦などの結果、約20万人と推定される殺人を行った。これは当時の目撃者や医師・教授・牧師たちによる国際委員会によって報告書が作製されており、さらに極東国際軍事裁判においても広汎に資料が蒐集されたが、手近かには林語堂「嵐の中の木の葉」やエドガー・スノー「アジアの戦争」などの中にもヴィヴィッドに描写されている。
第二には1940年より1945年に至るナチズム哲学の具体的表現ともいうべき強制収容所の組織的集団虐殺である。これは原始的衝動とか一時性の興奮によるものでなく、むしろ冷静慎重な計算に基づく組織・能率・計画がナチズムの国家権力の手足となって、その悪魔的な非人間性をいかんなく発揮した。「近代的マスプロ工業が、人間を垂直に歩く動物から一キログラムの灰にしてしまう事業に動員された」(スノー)。アウシュビッツ収容所だけで、三百万の人命が絶たれ、総計すれば六百万に達するといわれる。
いまだ人類の歴史において、かくの如き悪の組織化は存在しなかった。その規模においてかくも周到厖大な結末を示したものもなかった。かくてこれは、人類史において画期的な事件として永久に人間の記憶に残るであろうことは疑えない。
事件とこの本のことは、長い間、私の頭の片隅に重苦しく留まっていました。そして、今年の2月末には、私自身が、クラクフ郊外のアウシュビッツにいて、あの「労働は自由をもたらす」とドイツ語で書かれ鉄の門をくぐったのです。春とはいえ、ポーランドはまだ冬の寒さです。アウシュビッツのあたりも一面に
10センチほどの雪で覆われ、ちらちらと雪が舞う広大な収容所跡には、訪れてくる人も疎らでした。
アウシュビッツ収容所は、設立された1940年当時は、1階建てが14棟と2階建てが6棟の計20棟であったようです。それが、1942年までには、囚人の労働力を使って、1階建てはすべて2階になり、新しく8棟がつけ加えられて、28棟になりました。そこへ最も多いときで28,000人の囚人がつめこまれ、さらに増大する囚人は、第2、第3の収容所建設で「処理」されていったようです。
現在では収容所全体がポーランドの国立博物館として開放されていて、ナチス・ドイツの暴虐と狂気のあとが、あちらこちらの建物の中で見られます。ある部屋には、厖大な量の髪の毛がうずたかく積まれていました。収容所に入れられると、男女ともみんな髪の毛を切られ、入れ墨をされたりして、番号だけで呼ばれる存在にされてしまいます。そこに積まれていたのはその人たちの髪の毛の一部で、それでも、2
トンもあるということでした。切られた髪の毛は、ドイツの紡績工場に送られ、そこで布に織られて、防寒服や敷物にされたのだそうです。そのようにして作られた布地のサンプルも展示されていました。
私は、ガス室にも入ってみました。ここではドイツ兵たちは、人々をまず地下の脱衣室に入れ、シャワーを浴びさせるためと騙して、裸のまま隣のシャワー室にみせかけた210平方メートルほどの部屋まで歩かせました。その「シャワー室」の天井には、水が出たことのないシャワーが取り付けられています。そこへ一回に200人くらいの人々を押し込め、部屋に施錠して、天井の穴から「チクロンB」という毒ガスを注ぎ込んだのです。中に入れられた人たちは、15分から20分で死んでいったといいます。
ガス室のほか、死体を燃やすための焼却炉、拷問室、生体実験室、銃殺の壁、集団絞首台、それに、餓死牢、90センチ×90センチの狭い一角に4人を詰め込んだ「立ち牢」などもありました。人間がここまで残酷になりうるのだということを目の前の証拠でふんだんにみせつけられて、歩きまわっているうちにだんだん気分が重くなっていきます。
冬のようにどんよりとした陰鬱な天気で、雪の舞う寒さであったことがむしろアウシュビッツにはふさわしかったのでしょう。少なくとも、うららかな春の陽差しの中でなかったことが、かえってよかったような気がしました。
ついこの間見てきたばかりのこのようなアウシュビッツ収容所の情景は、いまも頭のなかに生々しく残っていますが、そのなかで、明日ともしれぬ死の不安と隣り合わせで過酷な労働に駆り出されていた『夜と霧』の著者が、当時すでに死んでいたはずの妻と交わすつぎのような「対話」がよみがえってきます。愛についての認識の場面です。それは、暗闇に微かに差し込んでくる光のように、絶望のただ中にあっても失われることのない僅かな、しかし確かな救いとして、読むひとのこころに強く訴えかけてくるように思われてなりません。
・・・・・・そしてそれから、われわれが何キロメートルも雪の中をわたったり、凍った場所を滑ったり、何度も互いに支えあったり、転んだり、ひっくり返ったりしながら、よろめき進んでいる間、もはや何の言葉も語られなかった。しかしわれわれはその時各々が、その妻のことを考えているのを知っていた。時々私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れて暗い雲の後から朝焼けが始まっていた。そして私の精神は、それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像の中でつくり上げた面影によっで満たされていたのである。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける限差しを見るーーそしてたとえそこにいなくてもーー彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。その時私の身をふるわし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を、生れて始めてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。私は今や、人間の詩と思想とそして信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのであった。愛による、そして愛の中の被造物の救いーーこれである。たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間はーー瞬間でもあれーー愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私に判ったのである。収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただできることと言えばこの上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態ーーこのような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。天使は無限の栄光を絶えず愛しつつ観て浄福である、と言われていることの意味を私は生れて始めて理解し得たのであった。
『夜と霧』pp.123-124
(2004.03.05)
与那国島への旅 (身辺雑記 04)
与那国島西崎の「日本国最西端の
地」の碑 筆者撮影 (2004.01.07)
北海道へ行って、電車で稚内駅に着くと、駅の外壁には「日本最北端」とあって、「北緯45度22分44秒」書かれているのが目に入ります。しかし、本当の最北端は、その駅からさらに北西の宗谷岬まで足を伸ばしたところにあります。そこには、オホーツク海を背景に、三角形に尖った「日本最北端の地」の碑が建てられていて、「北緯45度31分22秒」とあり、これが文字通りの日本最北端の地です。
日本人の多くは、これも農耕民族であったことの名残でしょうか、「北」に対しては寒さと結びついた暗いイメージを抱きやすく、かつては北海道も長い間、「文化果つる最果ての国」のように思われてきました。
しかし、世界地図の上で、この北緯45度31分の線をどこまでも西へ伸ばしていくと、ちょうどアルプス山脈の中の最高峰、4,807メートルのモン・ブランあたりにたどり着きます。ヨーロッパというのは、本来は西欧のことで、これはアルプスとピレネー山脈を南端の障壁として北に広がる地域を指していました。すると、どういうことになるでしょうか。日本の最北端は、ヨーロッパの最南端ということになるのです。
たとえば、フランスのパリは北緯48度58分で、サハリンの中部に位置していますし、ロンドンなら、さらに北へ進んで北緯51度28分ですから、これは、サハリンでもはるか北部ということになってしまいます。実際には暖流の影響などで、緯度ほどには気温が低くはありませんが、それでも、このような地理的条件の相違は、ヨーロッパと日本の文化を比較する場合、見落とすことのできないポイントの一つとして重要です。
日本の最北端でもヨーロッパでは最南端ということになりますと、その日本の最南端はどのような位置になるでしょうか。私は、奄美大島と沖縄までは行ったことがありますが、国内での旅の南端はそこまでです。それで、今年の一月のはじめ、日本最南端の島々へ出かけてみることにしました。
東京からまず、南西へ約2,100キロ飛んで亜熱帯の石垣島へ着きました。気温は東京では10度であったのが、23度に上がっています。「日本最南端のリゾート、北緯24度以上にちりばめられた南の楽園」というのがこのあたりの八重山諸島のキャッチフレーズで、そのなかの周囲130キロの石垣島は、八重山エリアの80パーセントの人口が集中する行政と経済の中心の島です。
日本最南端の地を示す碑は、この石垣島から西南へ約56キロの波照間島にあります。周囲はわずか14.
8キロ、人口600人余の小さな島です。しかし、距離的に稚内から一番遠いのは、石垣島から西へ130キロ離れた与那国島で、そこは、日本最西端ということになります。私は、その一番遠い与那国島を目指して、1日2便だけの小さな飛行機に乗り込みました。そこまで行くと、台湾がすぐ近くで、111キロ離れているだけですから、快晴の日には肉眼でもよく見えるのだそうです。
与那国島は、周囲25キロほどの小さな島です。人口もわずか1,800人くらいと聞きました。こういう小さな島では、観光バスもなく、タクシーが自由に使えるわけでもありません。私は、空港の案内所で紹介された小さなホテルに連れて行ってもらい、そこからレンタカーで自分でまわることにしました。
この島は、断崖絶壁に囲まれた絶海の孤島といわれたりもしてきましたが、珊瑚礁の海はあくまでも青く、時々車を停めて、海風に吹かれながら岩肌に砕ける白い波をぼんやり眺めていると、こころが洗われるような気がしました。大自然の中に一人でとけ込んでいくような感じです。
観光客もほとんどなく、車を走らせていても、すれ違う車もあまりありません。私は、やがて、島の西の端の西崎(イリザキ)に車を停めて、「日本最西端の碑」の前に一人で立ちました。北緯24度27分00秒、東経122度56分04秒、これがこの最西端の位置です。最北端の稚内からは、約3,500キロ離れていることになります。
西崎の西を「イリ」というのは、この地方の方言です。西表島を「イリオモテジマ」というのもそうで、「日の入り」の「イリ」からきているようです。島の反対側の「東崎」は「アガリザキ」といわれていました。これも「日の上がり」からきているようです。
私は、北海道には長年住んでいましたので、日本の最北端には何度か行ったことがあります。今度は初めて、弓状に湾曲した日本列島の最西端に立ってみて、なんとなく、あの平知盛の「見るべきほどの事は見つ」という最後のことばを思い出していました。
(2004.02.16)
自律神経失調症に悩む妹への手紙 (身辺雑記 03)
先日、手紙をもらったが、それをまた読み返しながらこれを書いている。お前の自律神経失調症などの病気の回復に役に立つ本当の治療薬とはなんだろうかと、そんなことを考えながら、思いつくままを伝えておきたい。
お前も私も、あのお父さんとお母さんを両親に選んで生まれてきた。私は、毎日、仏壇のお位牌に向かって、お父さんとお母さんに、私の両親であってくれたことを感謝している。お前も私も、あのお父さんとお母さんを選んできた理由があった。少しは、人並み以上に苦労することも知っていた。それを望んで、そのうえで、お父さんとお母さんの子になることを選んで生まれてきた。私自身は、その選択をしたことに満足している。いい選択であったと、生まれてくる前の自分をほめてやりたいくらいだ。
お前も私も、子供の時、お前は怪我で、私は病気で、普通なら死ぬはずのところを、お父さんに助けられた。お父さんはそういう人だった。お父さんの子でなかったら、お前も私もあの時死んでいて、いまこうして生きていることもないだろう。私は時々そのことを思い出すと涙が出そうになる。親の愛情というのは、そういうものだろうが、お父さんの愛情は人並み外れて強く深かった。苦しい生活のなかでも、死にものぐるいで子供たちを守ってきた。そういうお父さんだから、お前も私も、お父さんを選んで生まれてきたのかもしれない。私は、そのようなお父さんに、そして、そのお父さんを支えて、気丈に子供たちに深い愛情を注いでくれたお母さんにも、心から感謝している。だから、いまでも毎朝、お父さんやお母さんに手を合わせて「有り難う」とお礼を言い続けている。
両親を自ら選んできたように、私は、人並み以上の悲しみや苦しみを経験することを選んできたようだ。しかし、それもいま思えば、いいことであった。いまの一生が無駄ではなかったことを、生きる意味があることを、文字通り、いのちを懸けて気づかせてくれた富子や潔典に、こころから感謝している。人間の経験することで、偶然に起こることは一つもないのであろう。すべては、必然に起こり、必要だから起こる。だから、起こることはすべて、いいことなのだろう。悪いことはひとつもない。それがわからないと、自分には悪いことばかり起こると思いこんで、つい、自分の「不運」を嘆いたりする。しかし、その不運を直せるのは、「幸運」でも、沢山のカネでも、高い社会的地位でも、安定した就職でもない。すべて起こっていることは自分にとっていいことだという真実を「知る」ことだけだ。
お前は、愛情深いお父さんを選び、優しいお母さんを選び、そして、平凡でない生活環境をも選んで、予定通り、いろいろな人生経験を重ねてきた。いい夫にも恵まれ、いい子供たちにも恵まれた。しかし、いくらいろいろと経験し、いい夫に恵まれ、いい子供たちに恵まれても、その人生経験の意義がわからないと、本当の意味で幸せになることはないのかもしれない。人間というのは、いつでも高望みするものだ。そして、カネというのは、いつでも足りないものだ。お前が世間一般並に、F男(妹の長男)に新しく
いい就職口が見つかれば安心できるような気がしているのはわかるが、本当に大切なことは、おそらく、そういうことではないだろう。
世の中の大勢の人々が信じている「幸せ」が、本当の幸せとはかぎらない。むしろ、不幸を幸せと勘違いしていることの方が多いのかもしれない。カネが沢山あるから幸せなのではない。全くないのも困るであろうが、カネがないことによって無一物の人間本来の自由のなかから人生の意義を理解しはじめ、幸せの境地に至るということもある。だから、古来、聖賢といわれるような人は、世俗的な、カネとか財産とか名誉などから遠ざかろうとしてきた。私は、あまりカネはないが、住む家もあり、食事に事欠くこともなく、一人暮らしをしながら健康で不自由のない生活を送っている。有り難いことだと思っている。いまの私の状態を、霊界のお父さんやお母さんは、多分、安心して見ていてくれているだろう。
もし、私が惨めなあばら家に住んで、毎日の生活にも窮乏しているようなことがあれば、それは親不孝になる。霊界からはこちらが丸見えだから、お父さんもお母さんも辛い思いをするだろう。富子や潔典も嘆くにちがいない。だから、私は窮乏生活はしないし、貧乏にはならない。しかし、本当は、豊かさとは、本来、カネが多いとか少ないとか、住んでいる家が大きいとか小さいとかの物質的な尺度にはほとんど関係がないから、世間でいう貧富の違いなどは、あまり問題ではない。お父さんやお母さんが安心して喜んでくれるのは、私が物質的にではなく、精神的に豊かであることだろう。その意味では、私は、カネはあまりなくても、いまも豊かだし、死ぬまで豊かであり続けたいと思っている。
お前は、F男がリストラとかで大学講師の定職を失い、再就職できないでいることを嘆いているが、それはわからないわけではない。しかし、就職口がないのと仕事がないのとでは、同じではない。仕事はいくらでもある。私は自分の体力さえ許せば、たとえば、街頭で靴磨きをしたり、駅の公衆便所の掃除係をしたりするのは、少しもいやではないが、世間の人たちはしばしば、収入の多い少ないで、就職を判断する。外面的な体裁だけで、職業のえり好みをする。それは、おそらく、こころが豊かでないからだろう。
カネがあっても、財産を沢山持っていても、それよりも、カネがあればあるほど、財産を持てば持つほど、こころが貧しくなることが多いものだが、そういうことがわからないうちは、つい、世間の常識に流されてしまいがちになる。大きく目を見開いてよく見てみよう。仕事はいくらでもあるはずだ。特に貧しい人を助ける仕事はいくらでもある。また、カネがなくとも、人々にこころの優しさを与えることはいくらでもできる。しかし、人々は何をするにしても代償として出来るだけ沢山のカネを欲しいと思うから、そういう人たちには、仕事がなかなか見つからないだけではないだろうか。
苦しみには意味がある。病気にも意味があるだろう。それを乗り越えることで、苦しみは楽しみに変わり、病気でさえ喜びになる。私が教材で使っていたビデオに、「癌になって有り難う」
というのがある。癌になって喜び、感謝しているのだ。最初はやはり苦しむのだろう。何で自分が癌になったのか、嘆くのであろう。暗い絶望的な顔つきになる。当然、そのままでは治らない。高いカネをつぎ込んで、名医にかかれば安心できるというものでもない。癌になって、苦しんで悩んで泣いて、絶体絶命の心境のなかではじめて、自分の考え方の誤りに気がつくのだ。そして、顔色が一度に明るくなる。人間本来が持っている自然治癒力が、強烈な力を発揮して、治らないはずの癌でも治っていく。もちろん、それでも治らない場合もあるだろう。その時には、おだやかに、まわりのすべての人たちに感謝しながら死んでいく。
敢えて言えば、お前の病気の半分以上は、お前の考え方の未熟さによるといってもいいだろう。半分というのは、まだ少ないかもしれない。おそらく、病気の70パーセント以上は、すべて人間のこころの持ち方、もっといえば、心得違いからくるような気がする。私は決して、いい加減なことをいっているつもりはないし、世間の多くの人々が心得違いをして苦しんでいるなかで、お前だけがよくないと言っているわけでもない。しかし、もう一度、考えてみよう。お前は、お父さん、お母さんを選び、生きていく上でより多くの課題を背負うことを選び、最後には病気をすることも選んできた。それは、悪いことではない。ただし、その意味がわからず、自分を不幸だと思いこんで、嘆いたりしているのでは、それは、悪いことになる。その場合のみ、それは不幸で悪いことになるだろう。
お前ももう70年生きてきた。お前は、この70年でどういうことを学んできたのだろうか。もしお前がまだ、自分で自分のいまの環境を選んできたことの意味がわかっていないとすれば、そうであれば、いまの生活は苦しいだろうと思う。それなら、いまからでも学んでいくべきなのだ。学ぶといっても、べつに難しいことではない。お前は、まず、一人で生きているのではない。お前は、お父さんにいのちを救われたように、まわりの多くの人々に生かされてきた。だから、まず、そのことに感謝することから始めよう。
Mさん(妹の亡夫)は、純粋で誠実な人柄であったが、生前は、この世間でもてはやされることも名を挙げることもなかった。しかし、それは重要ではない。人間的に優れた気質を持ち純粋さと温かさを保ち続けていたことが重要だ。それをお前は感謝して学ぶべきだ。3人の優秀な子供たちにも感謝すべきだ。子供たちはみんな立派に大学教育を終え、これからも、それぞれの経験を積みながら学んでいく。
F男の失業も例外ではない。失業が悪いわけではないだろう。失業からも学ぶことは多い。学ばないことがよくないのだ。そのことを
F男もやがて理解していってくれることを祈っている。
病気になって、なかなかよくならず、そのうえ F男の失業問題を抱え込んだのでは、辛いことであろうと思う。しかし、気持ちを持ちかえて、まず、素直に、いま生かされていることに感謝しよう。それから、家族に、まわりの人間に感謝していこう。病気にも、気づきのきっかけを与えてくれるということで、「有り難う」
を言おう。お前が、純真な幼児のように素直な気持ちで、まわりのすべてに、こころから「有り難う」
と言えるようになったとき、お前の顔は、確実に明るく晴れやかに変わっている。そして、病気は、多分、半分以上は治ってしまっているだろう。
私のホーム・ページの「学びの栞」のなかには、「人はなぜ病気になるのか」や「苦労が多いのはいいことである」など、多くの引用文が含まれている。こういうのを読んでもらえれば、いろいろと考えていくうえでの参考資料として役に立つのではないかと思うが、それができなくても、べつに難しいことではない。「生かされている」
ことの認識から始めて、感謝する生活を続けよう。それは、間違いなく、お前のこころの悩みを癒す「特効薬」になっていくはずだ。それだけを伝えておいて、この手紙を終わることにしたい。先日、お前の銀行口座に少しばかりのカネを振り込んでおいた。これは、決して「特効薬」ではないのだが、なんらかの役に立ててもらえば有り難い。
(2004.02.01)
ガラスの壁 (身辺雑記 02)
今年の正月は、3日に高幡不動尊金剛寺へお詣りに行きました。大勢の人混みの中で不動堂に上がって不動明王像の前に座っていますと、管主の代理のようなお坊さんが出てきて、びっしりと詰めかけていた人々を前にして、つぎのような話をしてくれました。
小さい魚は大きい魚の餌となって食われるものですが、ある実験で、大きな水槽の中に透明なガラスで壁をつくり、二つに仕切った片方に何匹かのナマズを泳がし、他方には小魚を沢山入れておいたのだそうです。ナマズは、しばらくしておなかがすいてきますと、小魚を食べようとして追いかけます。ところが、小魚はガラスの壁に仕切られた向こう側にいますから、小魚を追いかけるたびに、こつんこつんとガラスの壁にぶつかって、小魚を食べることができません。そういう状態が長く続いて、それに慣れてしまいますと、もう小魚は食べられないものと思いこんでしまうのでしょうか、ガラスの壁を取り外して、本当に小魚を食べられるようにしてやっても、ナマズは小魚を食べようとはせず、空腹のまま、ついには餓死してしまうというのです。
もう一つの実験は、ノミについてです。ノミはあの小さい体で、高さ20センチ、距離では35センチも跳べるのだそうです。そのノミの何匹かを高さ10センチくらいのガラスコップに入れ、それにガラスで、ふたをしてしまいます。つまり、ガラスの壁を天井に作ってしまうのです。ノミは逃げだそうとして、飛び跳ねるのですが、高さ10センチのところでガラスの壁に突き当たり、何度試みても、コップの外へは出ることが出来ません。
そして、やがてその状況に慣れてきますと、いつのまにか、20センチ跳べるはずのノミも10センチしか跳ばなくなります。ですから、しばらくしてガラスのふたを取り除いてしまっても、もうノミは、そのガラスのコップからは逃げ出すことは出来なくなるということです。
食べれば食べられるのに食べないで死んでいく。20センチも跳べるのに、跳べないと思いこんで、10センチのコップのなかから出ることができない。このように、勘違いで自分の能力を発揮できないまま、ついに一生を終えてしまうのは、もちろん、実験でのナマズやノミだけではありません。これは、私たち人間の場合にもいえるのではないでしょうか。
大切なことは、勘違いさせられる状況におかれても、それは、ガラスの壁のせいであり、ガラスの壁さえ取り除かれれば、本来の能力は、少しも損なわれることなく発揮できると知ることです。つまり、作られた状況の変化だけでは、本来備わっている能力が失われることはありません。能力を失ってしまうのは、自分自身が、状況の変化の理由がわからないままに、それを肯定し、その作られた「現実」を事実として受け容れてしまったときだけです。
考えてみますと、私たちは、実に多くの「作られた状況」や、「ガラスの壁」に取り囲まれているような気がします。それらが「虚」であり「実」ではないことが理解できないと、私たちもまた、自己の尊厳性を見失い、劣等感にさいなまれて、不幸を甘受することになりかねません。いつのまにか、美しいものでも醜いと思い、喜ぶべきことをも悲しみ、豊かであるのに貧しいと、大きな勘違いをしてしまうこともあるのではないでしょうか。
「ガラスの壁」の実験で示されたような錯覚と無知が、私たちの見る眼も曇らせていることがあるとすれば、私たちの本当の意味での人間らしい幸せな生き方は、なによりもまず、私たちのまわりの、このような多くの「ガラスの壁」を一枚一枚取り外していくことにある、あるいは、それしかない、といってもいいのでしょう。
金剛寺の不動堂で聞いた話は、ナマズとノミの実験のところだけで、そのあとは、ざわざわした人混みの中でよく聞き取れませんでした。しかし、おそらくあのお坊さんも、本来人間は、よかれ悪しかれ、「思った通りになる存在」であることの大切な真実を、ナマズとノミの話で、私たちに伝えようとしていたのかもしれません。
(2004.01.16)
イラク戦争について ―M氏からの手紙― (身辺雑記 01)
2003年から2004年へ・・・・・日本の「戦力なき軍隊」が米・英占領軍の一翼を担って、イラクに展開することになる正に「戦中」(第三次世界大戦)の年・・・・・・・
@ 米・ソによる対立と相互依存体制の時代にはよく見えなかったナマの世界がソ連がソ連崩壊後の米・欧による対立と相互依存の体制の時代に入ったことによって、第二次世界大戦後の支配のカラクリがよく見える時代に入りました。
A 「落ち目」のアメリカ帝国の「あせり」と背中合わせの「おごり」が(予想通り)アフガニスタンとイラクの「泥沼」の中で立往生しています。イラクで占領軍に対しておこなわれている攻撃はイラク民衆によるゲリラ戦であって「テロ」ではありません。
B ゲリラ戦における勝者とは「アリが象を倒す」の図を、政治と軍事の両面で現実のものにする能力を持つ者だということが、まるで「教科書」の通りに私達の茶の間の「テレビ」にまで登場するようになりました。
C 父ブッシュ氏とベーカー氏らのコンビは、占領軍が他民族の国土を占領し続ける事の困難さを予見するだけの能力を持っていましたから、いわゆる「湾岸戦争」では常に敵の射程圏外で闘い、敵を内懐に入れる愚をさけました。
D 息子ブッシュ氏とチェイニー氏らは「経済面の世界支配力」の著しい低下を「軍事面の世界支配力」の圧倒的優位によって、強引にはねかえそうとしているかに見えますが、そのやり方の無理がかえって、その帝国としての「総合的世界支配力」の衰えを早めるでしょう。
E 世界が今、まさに死なんとしている帝国に対してなすべきことは、この帝国の最大の製造業である軍需産業を安楽死させるための、あらゆる智恵を、注意深く、かつ大胆に全地球的規模で協力しあって動員し、その最後屁による世界の被害を最小限に抑え込む工夫をすることでしょう。
F 無名の民衆がテレビとインターネット、携帯電話などの情報系グッズを持つようになった時代に、世界最大の「大量破壊兵器」所有国の軍隊が、あるかなきかが定かでない程度の世界最小の「大量破壊兵器」の所有国をつかまえて「大量破壊兵器」を持っているからお前はけしからぬとのおかしないいがかりをつけて武力で占領し、さんざん利用したパナマのノリエガ将軍を国際法を無視し逮捕したのと同じく、対イラン戦争ではさんざん利用したイラクのフセイン大統領を逮捕し、そこにかいらい政権を作ろうとしている。そして当然のことながら、その国の、まともな人間たちのゲリラ的抵抗を受けている。この実に分かりやすい‘現実’を前にして、この国のジャーナリスト、軍事評論家、アホな政治家どもが「アメリカが間違っていることは間違いないが、アメリカに恩を売っておいた方が、アメリカに守ってもらえるからナラズ者国家の金正日のミサイルが日本にむけられているのに対抗して、日米ナラズ者同盟を強化して日本の国益を守ることも現実の政治選択としては、いたしかたない正しい選択である」といった風な議論を手をかえ、品をかえて、恥ずかしげもなく繰り返しています。
G 私も、もしかりにブッシュ君の政策を支持する以外に、私の家族、友人、知己の生命と安全を守る手段が何もないのであれば、その選択がいかに、恥多きものであろうとも、いかに男子として屈辱的なものであろうとも、韓信のマタクグリをあえて厭うものではありません。だが、
(1)「ブッシュ君の利益」と「大多数の米国民の利益」とは同じものでしょうか?どうもそうではなさそうです。
(2)米英ブロックという、第二次世界大戦の「勝ち組」に乗り損ねたという、「歴史の教訓」を金科玉条のようにして、「昔のモノサシ」を「未来」に押し当てるタイプの思考停止型の、一知半解のアホどもが現実主義者のようにふるまっているが、この連中には5元連立方程式で応用問題を解く志も能力もないようです。
(3)仏、独、露、中らがそれぞれの短期、中期、長期の「利益」を念頭におきつつ、ゆるやかな「非米」グループを形成しはじめている。「反米」に踏み切るには、今のアメリカは強すぎる。しかし、唯一の超大国アメリカが当時の覇権国イギリスから、徐々にその覇権を奪い取っていったように、「ドル」から「ユーロ」へ徐々に覇権が移行しつつある。賢明なる「非米」グループは、決して「反米」の旗をふることなしに、熟柿作戦をとるでしょう。
(4)その時、アジアはどう動くのか。イスラム圏の国々はどう動くのか。
(5)米英以外の大多数の国や地域がブッシュ君の政権に対しては、「面従腹背」のスタンスを徐々に大胆にとりはじめる可能性があります。
(6)日本がイラクに軍隊を送ることは、逆説的に言えば良いことかもしれません。予見する能力のない政治家や国民にとって、実物教育以外には、その愚見を改める契機はないでしょう。大義なき占領軍が、その国の国民の抵抗を受けるのは自然なことではないでしょうか。
(2004.01.04)