武 本 昌 三(たけもと・しょうぞう)

1930年大阪に生まれる。

東京外国語大学卒業後米国留学、オレゴン大学 (University of Oregon) 大学院修了。

室蘭工業大学助教授、小樽商科大学教授、文部省在外研究員、フルブライト上級研究員、オレゴン大学、アリゾナ大学、ノース・カロライナ大学、ロンドン大学各客員教授。跡見学園女子大学短期大学部教授を経て、現在、同大学名誉教授。特定非営利活動(NPO)法人「大空の会」(子どもを亡くした親の会)理事。

専攻:英語学、比較文化論。

著書:『太平洋のかなたに』(榊原出版)、『英文解釈の研究と演習』(共著・篠崎書林)、『The Turning Point in Reading』(共編・文理)、『英語教育のなかの比較文化論』(鷹書房弓プレス)、『イギリス・比較文化の旅』(鷹書房弓プレス)、『アメリカ・光と影の旅』(文芸社)、『妻と子の生きた証に』(北都工芸社)、『疑惑の航跡』(潮出版社)、『大韓航空機事件の研究』(編著・三一書房)、『生と死の彼方に』(文芸社)、『天国からの手紙』(学研パブリッシング)など。

その他:「アメリカへの旅ー英語学徒・武本潔典の想い出ー」(福武書店「英語」1984年5月号)、「ノース・カロライナへの道」(福武書店「英語」1984年8月号)、「妻と子に捧げるレクイエム」(潮出版社「潮」1984年9月号)、「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」(岩波書店「世界」1985年10月号)、「アメリカ政府を告発する」(報道と評論「論点」1986年1月第5号)、「霧の中ではない大韓航空機事件の真相」(情報企画社「月刊イズム」1990年12月号)、「祈りへの道」(日本心霊科学協会「心霊研究」1992年1月号)、「真実の教えを求めて」International Institute for Spiritualism 「LIGHT WORKERS」2004年夏号(2004年6月)など。




年  譜 


 1930年(昭和5年)
4月20日、大阪市大正区北恩加島町で武本泰三・眞子の長男として生まれる。父は鉄鋼圧延技術者として、大正区新千歳町の尻無川のほとりの中堅鉄工会社・千歳伸鉄株式会社圧延工場の主任を務めていた。生まれて間もなく、会社の近くの新千歳町20番地に転居した。今も残る尻無川の「甚平渡し」のすぐ近くである。
 1935年(昭和10年) 5歳
1月、この頃から毎年、元旦の早朝、片道2時間かけて生駒聖天(宝山寺)への初詣に父と共に行くようになった。8月、尻無川の川辺に並んで浮かんでいた丸太の上で遊んでいるうちに、川に落ちて溺れ死にそうになる。一緒にいた遊び友達、7歳の数雄君の手で、三度目に浮上した時に救いあげられて九死に一生を得た。
 1937年(昭和12年) 7歳
4月、北恩加島尋常高等小学校に入学。読み書きは入学前から自然に覚えて、3年生程度の国語読本を自由に読むことができた。7月、盧溝橋事件が起こって日中戦争が始まる。北恩加島尋常高等小学校に在学したのは1年だけで、翌年、昭和13年(1938年)4月からは、住んでいた町内に新設された新千歳尋常小学校へ移った。同級に稲見一良君(後に小説家、放送作家)がいた。2学年の終わりには、優等賞、皆勤賞のほか、学年に1人与えられる大正区教育会長からの表彰状と銀の賞牌を受ける。
 1940年 (昭和15年)  10歳
父は鉄鋼圧延技術者として頭角を現し、会社では「圧延の神様」といわれたりしていたが、父の夢は、自分で圧延工場を持つことであった。3月、その第一歩を踏み出すために、千歳伸鉄株式会社を39歳で退職して独立し、手始めに、生野区の田島に自分の小さな鉄工場を建設した。生野区田島4丁目の新築の2階家に転居する。4月、私は生野尋常小学校へ転校して4年生になった。担任はSという40歳くらいの男性で、明らかに精神障害をもっていた。自分は教壇の横の机に座って、時々くすくす笑いながら習字ばかりしていた。授業はすべて自習であった。この異常は2学期の終わりまで続いた。私は算盤の練習に熱中し、放課後は、模型飛行機作りに寝食を忘れるほど没頭した。父は、鉄工場を経営し始めたばかりであったが、夏頃、大手の鉄鋼会社が、朝鮮の仁川に1万坪の鉄鋼圧延工場を建設することになり、その設計と建設の監督を父に要請してきた。給与としては朝鮮では最高の「朝鮮総督並み」という破格の高報酬を提示され、それでも父は固辞していたが、最後には折れた。秋頃から、父はしばしば仁川を訪れるようになる。この年の9月、日独伊三国同盟調印。
 1941年(昭和16年) 11歳 
3月末に、父が、建設中の鉄鋼圧延会社(田中工業株式会社)の工場長就任を受諾して、一家で仁川に渡る。4月からは、私は仁川市の旭小学校の5年生になった。4月20日の誕生日の記念に、三省堂『英和大辞典』を3円50銭で購入。12月8日、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる。小学校は国民学校と名前を変えた。
 1942年(昭和17年) 12歳
4月、旭国民学校の6年生になる。新任で私たちのクラスの担任になったのは、50歳前後の風采のあがらない人で、私たちは「ゲンパチ」というあだ名で呼んでいた。声も小さく、ぼそぼそと独り言を言っているような感じで、クラスをまとめる統率力は全くなく、まともに授業をする能力も持っていなかった。私たちは、1年間、ほとんど何も教えられることなく、授業中も平気で教室を抜け出し、校庭の一隅で遊んで過ごした。生野小学校4年生の時のあのS教諭のクラスの再現である。私は、放課後は柔道の道場に通い、模型飛行機の製作に熱中していた。学校の屋上から級友たちの前で下の運動場へ向かって飛ばした私のグライダーが、南と北に数分間、1キロほども飛び続けて、屋上の私の足元30センチの所に着地するという「奇跡」を体験する。
 1943年(昭和18年) 13歳
3月、仁川公立中学校を受験して不合格。6年生の授業をほとんど受けたことのない私たちのクラスの仁川中学受験生5名は、全員が不合格となった。4月、旭国民学校高等科1年生になる。「大東亜戦争」の戦況は厳しく、10月には、東京神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会が行われた。
 1944年(昭和19年) 14歳
4月、仁川公立中学校に入学。授業は新鮮で英語も学び始めて楽しかったが、戦況が一段と厳しくなっていく中で、3年生から上の上級生たちは勤労動員に駆り出されるようになっていた。
 1945年(昭和20年) 15歳
2月、急性肺炎、肋膜炎で仁川市立病院に入院する。この時、燦然と輝くみ仏から見守られるという神秘体験をする。それは決して幻覚ではなかった。戦争末期で治療薬がなく死を待つばかりであったが、父の必死の努力で、ドイツの解熱剤「トリアノン」を奇跡的に入手して死を免れる。4月、仁川公立中学校2年生。この頃から授業はほとんど行われず、高射砲陣地での塹壕掘りや軍需工場への勤労動員の日々が続いた。8月6日、米軍による広島への原爆投下。9日には長崎へも原爆が投下された。8月15日、敗戦。灯火管制から解放され、家の中も外も急に明るくなったのが強く印象に残っている。米軍が進駐し、仁川公立中学校は閉校になった。秋頃から、「引き揚げ世話人会」ができて、「内地」への引き揚げが始まる。
 1946年(昭和21年) 16歳
2月、仁川から米軍の差配による引き揚げ列車で釜山へ行き、千トンほどの引揚げ船・興安丸で山口県の仙崎に着いた。空襲による焼け跡が広がる大阪に落ち着いて旧制の大阪府立生野中学校へ編入学する。この学校には、前年の秋に引き揚げていた仁川中学同級の米田茂雄、加茂裕三の両君が一足先に編入学していた。仁川公立中学校では、学校が敗戦後は閉校になったこともあって、2年生としての授業はほとんど受けていないという理由で、両君は1年生に編入させられていた。数か月あとから来た私も、1年生ということになった。同級に中山正暉君(後に郵政大臣、建設大臣)がいた。
 1948年(昭和23年) 18歳
3月15日には生野中学校最後の終業式があった。旧制の3年生の修了は、新制中学の卒業にも当たるということで、終業式は卒業式を兼ねて行われた。学年末試験の成績で1番であった私は、卒業生を代表して卒業証書を受け取った。4月からは新制の大阪府立勝山高等学校へ移行することになっていたが、日本では初めての男女共学でのスタートで、当時の占領軍であった米軍の民生部の指導を受けたりして、準備に時間がかかった。4月下旬に入学式が行われてからも、しばらくは男女生徒交流のための行事が続いた。8月27日、上京して、東京都立第一高等学校(現・日比谷高校)の編入試験を受ける。試験科目は、英語、数学、国語、漢文、社会、理科(物理、化学、生物から2科目選択)の7科目。全国から集まった受験生は私を含めて19名。合格者は4名で競争率4・75倍であったが、私は合格した。家族全員で、大阪から東京都杉並区の荻窪に引っ越しする。
 1949年(昭和24年) 19歳
東京都立第一高等学校2年生の夏休みに、旧制のT専門学校英文科独自の検定試験を受けて2年生に合格。その資格で、東京都立豊多摩高等学校3年生の編入試験を受け、合格して新制高校の3年生になった。
 1950年(昭和25年) 20歳
3月、東京都立豊多摩高校卒業。当時、敗戦後の引き揚げで全資産を失って以来の生活の困窮が続いていたから、私は密かに、昼間は働いて家計を助け、夜学に通うつもりでいた。中央大学法学部夜間部の入試に合格し、特待生の奨学資金ももらえることになったが、昼間の大学に進学しないことを父に打ち明けると、父は涙を流して私を叱りつけた。慌てて、まだ受験手続に間に合った国立二期の東京外国語大学を受験したが、これは楽に合格した。後に、主任教授から「トップに近い成績」であったと聞かされる。ロシア学科に入学。同級に、佐藤純一(後に東京大学教授)、千野栄一(後に東京外国語大学教授)、新田実(後に北海道大学教授)などの諸君がいた。私は、ほとんど通学することはなく、家庭教師、日雇い労働(新宿あたりの空襲による焼け跡の整理)、洋服月賦販売の事務、会社の倉庫番等のアルバイトを続ける。夜は中央大学での授業を受けていた。6月25日、朝鮮戦争が始まる。
 1951年(昭和26年) 21歳
4月、東京外国語大学は、自然に留年の形になった。中央大学夜間部は2年生に進級した。この頃、父の知人で資産家の一人が、北区の田端に2百坪ほどのアルミニューム工場を建てることになり、父に、3年間の期限で、その工場建設と経営を依頼してきた。父は承諾した。その後、わが家は生活の困窮から徐々に抜け出すことになる。夏ごろから、私は家庭教師以外のアルバイトはやめて東京外国語大学に熱心に通うようになった。中央大学夜間部は、2学年の終わりに退学する。
 1953年(昭和28年) 23歳
7月、朝鮮戦争終息。日本経済は朝鮮戦争の特需もあって、着実に回復に向かっていた。この年は、テレビ元年であるが、電気洗濯機も発売されるようになる。父の事業も順調に業績を上げていた。大学では、第二語学はドイツ語であったが、英文科の授業にも積極的に出るようになった。教育学に興味を持つようになる。
 1954年(昭和29年) 24歳
この年に入って、父は何度かの長期出張を繰り返して、春には、北海道苫小牧市汐見町の250坪ほどの敷地にアルミニューム再生工場・三信金属株式会社を設立した(後に1千坪の敷地に移った)。夏休みが終わってからは、いよいよ就職を考え始める時期になった。私は高校の英語教師が志望であったが、当時の就職状況は厳しく、東京都や周辺の都市での高校英語教諭の求人は一件もなかった。結局、大学院への進学を考えるようになった。進学前の教育実習のつもりで、異例ではあったが、1年間だけの就任という私の希望を受け入れてもらって、翌年春から、新潟県立栃尾高等学校英語教諭として赴任することが決まった。
 1955年(昭和30年) 25歳
3月、東京外国語大学卒業。4月、新潟県立栃尾高校英語教諭として着任した。栃尾は、長岡駅から北東12キロのところにある「栃尾織」の織物で知られた町で、今は長岡市の一部になっている。ここで、純朴な生徒たちを相手に英語教育に熱中して、思い出深い1年を過ごした。
 1956年(昭和31年) 26歳
4月、北海道立札幌南高等学校(旧・札幌一中)へ転任。北海道大学大学院へ進学するつもりであったが、当時は、大学院を修了しても就職難であったことから、先に採用が決まった札幌南高校で教職を続けることになった。その時の札幌南高校への応募者は、一人の欠員に対して、大学院修了者数名を含めて百名を超えていた。
 1957年(昭和32年) 27歳
8月、アメリカの州立オレゴン大学(University of Oregon) 給費奨学生に選ばれて渡米。飯野海運の隆邦丸(1万6千トン)で2週間かけて太平洋を渡った。当時のアメリカは、まだ貧しかった日本から見ると、夢のように豊かな国で、高校教師の給料なども日本より十数倍も高かった。カリフォルニア大学バークレイ校で、3週間の夏季講習を受けた後、オレゴン州ユジーンの町に着き、9月下旬からオレゴン大学の新学期が始まった。12月の学期末試験でHonor Student(優等生)になる。学長から日本の父母宛にお祝いの手紙が届いた。
 1958年(昭和33年) 28歳
5月、ニューヨークの財団JAPAN SOCIETYから、滞米2年目の奨学資金決定の通知が届いた。当時は、私費留学は認められていなかったから、これで、在学期間を延ばして、大学院修士課程修了まで在学できるようになった。6月、夏休みに入って、ニューヨークへ向かった。留学生4名でガソリン代を分担して、車で大陸を横断し、ニュージャージーで友人たちと別れて1人になった。保養地アズベリパークのホテルで2か月間アルバイトをする。その間、充分にニューヨークを見てまわった。帰路は、グレイハウンドバスで南部をまわり、ワシントンDC、アトランタ、ニューオリーンズ、セントルイス、デンバー、ソルトレークシティー等で途中下車して観光しながら、1週間で6千5百キロほど走って、9月5日の夜、無事ユジーンに帰り着いた。
 1959年(昭和34年) 29歳
2月25日、大学院修士課程修了資格試験、合格。まだ期末試験と論文が残っていたが、これで、修士号(Master of Education)をもらえる見込みがついた。3月20日の夕方、最終期末試験も無事に終了した。(修士号証書は革製の二つ折り台紙に装丁されたものを後に日本へ送ってきた)。3月22日、ユジーンを知人の車で出発し、帰国のために北上してバンクーバー港に向かう。途中、ポートランドや、シアトルで何日か過ごして、29日午前0時20分、山下汽船の山姫丸(1万6千トン)でアメリカ大陸を離れた。4月14日午後8時半、2週間の船旅を終えて横浜港に到着。就任が決まっていた名古屋の中京大学からの連絡があって、5月4日(月)に着任した。中京大学助手の辞令をもらったが、その後まもなく文部省認定の講師となる。夏休みには、苫小牧市の家に、父と母、私と大学生の弟、嫁いでいた姉や妹たちも合流して1家団欒の日々を過ごした。8月下旬、父が腹具合がよくないというので、苫小牧市立病院に入院してもらった。1週間ほどで退院したが、この時の主治医は明らかに誤診していた。12月下旬、父の体調がよくないのでまた入院して手術を受けた時には、肝臓がん末期だという。中京大学で冬休み前の講義中にそのことを知らせる電報を受け取った私は、その翌日、苫小牧へ向かった。当時、がん治療の権威といわれていた札幌医科大学の中川学長に往診してもらったが、余命は長くても半年といわれた。絶望に打ちひしがれる中で、私は父の希望であった結婚を考えた。苫小牧市付近の学校へ転職して、父の最期まで夫婦で看病する計画をたてた。
 1960年(昭和35年) 30歳
1月、中京大学学長に会い、学年が終わる3月末で辞任の了解を得る。1月中旬、中京大学の講義はすべて終わって、私は転職と結婚の話を進めた。 2月、下旬に室蘭の国立大学・室蘭工業大学への就任が内定した。3月10日、婚約者を連れて、父を病床に見舞う。父は嬉しそうであった。がんであることは秘していたが、市立病院の医師への不信感があったかもしれない。東京の大学病院への転院を望んでいた。3月15日、東京で、東京外国語大学主任教授の佐藤勇先生ご夫妻の媒酌により形ばかりの結婚式を挙げ、東京のT大学病院への父の転院手続きを終えて苫小牧へ帰る。千歳から小型飛行機をチャーターして、医師同伴で父を東京へ連れていく手はずを整えていたが、その頃から父の意識の混濁が始まり、転院は断念する。父は、3月17日に息を引き取った。享年59歳。法名・顕正院釈泰然。父は、1,200年の歴史を持つ名家の末裔であったが(私には未完の原稿『武本家千二百年の系譜』がある)、少年時代には、広島の廻船問屋に住み込みで働くなど、貧困の中で成長した。仁川では鉄鋼会社の建設とその後の発展に大きな貢献をしたが、後に、敗戦で全財産を失ってからは、苦難の多い日々が続いた。私は子供の時から父を一心に慕い、父のことを「誰よりも偉い人」と思い続けてきた。父は思いやりの心が深く、貧しい人々への金銭の援助を惜しまなかった。取引先の会社の会長から「十万人に一人の人格者」といわれたことを覚えている。(ここまでは『私の半生記』=B5版 470頁=に詳述) 4月、室蘭工業大学講師。私は結婚したばかりの富子と一緒に苫小牧の家に住むようになり、苫小牧から汽車で大学へ通った。8月、田舎の砂利道をオートバイで走行中、転倒して肋骨を3本折る。転倒した時には、強い衝撃を受けて1、2分間、息を吸うことも吐くこともできないという苦境を体験する。
 1961年(昭和36年) 31歳
3月29日、苫小牧市立病院産科で長女誕生。この頃、苫小牧港は内陸掘り込み進行中、1963年に開港。
 1962年(昭和37年) 32歳
4月、室蘭工業大学助教授に昇任。6月5日、苫小牧市立病院産科で長男誕生。後に室蘭工業大学の教官官舎に移る。長男の潔典が昭和41年の4歳の誕生日に、乾富子『長い長いペンギンの話』を一気に読み上げたのを録音。
 1967年(昭和42年) 37歳
10月、小樽商科大学助教授に就任。当時の小樽商科大学は、旧官立三大高商の一つとしてのアカデミズムの伝統を誇る名門大学であった。北海道大学の合格者が小樽商大にも合格すると、その多くが小樽商大を選んで入学していた。赴任当初は、小樽市内の小樽商科大学教官官舎に住んでいたが、昭和44年、札幌市白石区に家を建てて移る。子どもたちは札幌市立白石小学校へ通うようになった。
 1970年(昭和45年) 40歳
12月 小樽商科大学教授に昇任。この頃から、北海道大学文学部非常勤講師も兼任。
 1973年(昭和48年) 43歳
12月、文部省在外研究員に任命されて家族で渡米する。オレゴン大学客員教授。子どもたちは地元の小学校 Ida Patterson の6年生と5年生になる。英語は、半年後には、二人とも不自由なく話せるようになった。
 1974年(昭和49年) 44歳
3月中旬、春休みを利用して、オレゴン大学主催の3泊4日のオレゴン州周遊旅行に家族4人で参加する。6月、3か月の夏休みに、車にテントを積んで、アメリカ一周旅行に出かけた。アメリカ大陸を横断し、東部や中西部の諸都市を訪れ、8週間かけて約1万7千キロを走った。8月25日からは、ロンドンまで飛んで、9月22日まで4週間かけてヨーロッパ各国をまわった。レンタカーで、オランダのアムステルダムからローマまで下って、イタリアの西海岸を北上し、パリを経てベルギーのブリュッセルで車を返した。車では、2週間で4千5百キロを走ったことになる。9月、新学期から、長女は Jefferson Junior High School に進学し、長男は、Ida Patterson の6年生になる。12月、オレゴンでは雨期に入る。中旬には、Jeffersonでクリスマス・コンサートが開かれ、長女はクラスメートとともにバイオリンを弾いた。
 1975年(昭和50年) 45歳
2月 米国より帰国する。渡米前に購入していた札幌市手稲区の住宅に住むようになった。
 1977年(昭和52年) 47歳
2月19日、母・眞子、心不全で死亡。享年77歳。法名・芳徳院釈尼妙眞。信心深く、欲のない円満な人柄で、まわりの人々からも慕われていた。もしも私の性格に思いやりと優しさの片鱗が認められるとすれば、それは母の性格に負っている。
 1982年(昭和57年) 52歳
9月、フルブライトの上級研究員の試験に合格して渡米する。アリゾナ大学客員教授。長女がアリゾナ大学留学生として同行し、東京外国語大学2年生であった潔典は、母親と共に多摩市永山のアパートに残った。
 1983年(昭和58年) 53歳
7月、ノースカロライナ州立大学客員教授。8月、妻・富子と長男・潔典が来訪。8月5日から8月29日までの間、久しぶりに家族4人で東部へ旅行したりして思い出深い日々を過ごす。9月1日、大韓航空機事件により帰国途中の富子と潔典が犠牲になる。その翌日、長女と一緒に帰国する。10月に一度アメリカへ帰って、何とか教職を続けようとしたが、ショックから立ち直れず、辞任して帰国する。
 1984年(昭和59年) 54歳
4月、小樽商科大学教授職に復帰。9月、東京で組織された「大韓航空機事件の真相を究明する会」の代表理事。飛行機で往復しながら真相究明運動を続ける。稚内市の「慰霊の塔」に碑文「愛と誓いを捧げる」を書く。
 1986年(昭和61年) 56歳
3月、小樽商科大学を依願退職する。4月、東京都文京区の跡見学園短期大学教授に就任。英文専攻主任、図書館長などを務める。
 1991年(平成3年) 61歳
4月、「大韓航空機事件の真相を究明する会」の代表理事を辞任し、ロンドン大学客員教授として渡英。後に、大英心霊協会を頻繁に訪れるようになった。8月24日、ソ連が崩壊する。ロシア革命以来の共産党支配に終止符が打たれた。
 1992年(平成4年) 62歳
2月、大英心霊協会でアン・ターナー等の霊能者に導かれて、霊的真理に目覚める。3月、英国より帰国する。その後も毎年のようにロンドンを訪れて、霊的真理についての学びを続ける。東京でも、優れた霊能者のA師と接触するようになった。
 2001年(平成13年) 71歳
3月、跡見学園短期大学を定年退職する。この時、跡見学園女子大学短期大学部となっていたが、短期大学部は廃止される。7月、跡見学園女子大学名誉教授の称号を受ける。この頃から、スピリチュアリズムについての講演や著作に努めるようになる。
 2003年(平成15年) 73歳
9月29日、午前0時、北欧スウェーデンのストックホルムから、フィンランドのヘルシンキへ向かう3万5千トンのフェリー・ガブリエラ号の6階の個室から、超常現象を目撃する。真っ暗闇の海上を赤く光る数十の鳥のような飛行体が、素早く飛び回っているのである。何度見直しても、それは幻覚ではなかった。
 2011年(平成23年) 81歳
6月、『天国からの手紙』(学研パブリッシング)出版。6月5日、江東区の清澄公園「大正記念館」で出版記念講演会。サイン会。夜には、編集者たちが祝賀会を催してくれた。
 2012年(平成24年) 82歳
7月、八王子消化器病院で大腸がん手術。10月、東京女子医科大学付属病院で腹部動脈瘤手術。
 2016年(平成28年) 86歳
9月、大阪の妹・秋江が84歳で亡くなった。姉2人と妹2人、弟が、みんな亡くなって私は1人になった。
 2018年(平成30年) 88歳
9月、8王子市 市民講座企画委員になる。任期は、翌年3月末まで。
 2019年(令和元年) 89歳
4月20日、89歳の誕生日を迎える。7月下旬、娘夫婦、中学2年生の双子の孫たちと一緒に、車で伊豆の今井浜温泉へ出かけた。毎年恒例の2泊3日の楽しい、幸せな旅であったが、私にとっては、これが最後の家族旅行になるかもしれない。 9月、私自身の葬儀の事前相談をする。(浄土真宗本願寺派 法名・慈光院釈昌叡 墓地=東京都小平霊園37区12側4番) 10月、本稿「生と死の真実を求めて」を書き遺す。 (2019年10月現在)





文芸社刊
生と死の彼方に
いのちを慈しみ明日に向かって生きる