(日付の新しいものから順にならべてあります)




                                            [参考資料 31] 2019.07.11
   シルバー・バーチの霊言 (2)



 ここでは、トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の絆』(近藤千雄訳)コスモ・テン・パブリケーション、1989 から、主要部分を11の項目にまとめて紹介する。

   原著 The Spirit Speaks   Compiled by Tony Ortzen,
           Psychic Press, London (1986)


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 1.宇宙の摂理について

 (シルバーバーチの思想的特徴の一つは摂理″の存在を強調することである。人間がこしらえた法律は事情の変化に応じて書き改める必要が生じる。が、霊的摂理にはそれは絶対に有り得ないという。そのことを集会に参加した霊能者に対して次のように説く)

 宇宙の大霊は無限の存在です。そして、あなた方もその大霊の一分子です。不動の信念をもって人間としての正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信念に間違いがなければ、必ずやそれを手にすることができます。
 それが宇宙の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、必ずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているにすぎません。地上の歴史をひもといてごらんになれば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られなかった人々が大勢いることがわかります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人を引き合いに出してはいけません。
 時として酷しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。そんな時は大霊の象徴であるところの太陽に向かって、こう述べるのです――自分は大霊の一部なのだ、不滅なのだ。永遠の存在であり、無限の可能性を宿しているのだ。そんな自分が、限りある物質界のことで挫けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることはありません。
 多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。完き愛は怖れを払う″(ヨハネ伝)まず神の御国と義を求めよ。さすれば全て汝のものとならん″(ルカ伝)――遠い昔、大霊の摂理を完ぺきに理解したナザレのイエスによって説かれた教えです。彼は、勇気をもって実践すれば必ず成就されることを身をもって示しました。あなた方も、その摂理が働くような心構えができれば、何事も望みどおりの結果が得られます。
 もう一つ、別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。よい霊媒現象を得たいと思えば、それなりの感受性を磨かなくてはなりません。また、この世的な富を蓄積していると、それなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると、自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされます。
 人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方ひとりが大霊の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産も、その霊の宝にまさるものはありません。わたしたちは皆さんの中に存在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土くれの中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。
 できるだけ高い界層のバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ぼっちでないこと、いつも身のまわりに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。そして、霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい――そう願っているのです。
 人間は、同胞のために自分を役立てることによって大霊に仕えることになります。その関係を維持しているかぎり、その人は大霊のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。
 単なる信仰、盲目的信仰は、烈しい嵐に遭えばひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし、立証された知識を土台として築かれた信仰は、いかなる嵐にもビクともしません。
 いまだ証を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にして、それをもとに、宇宙の摂理が愛と叡智によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人は、その三倍も幸せです。
 ここにお集まりの皆さんは、完ぺきな信仰を持っていなければなりません。なぜなら、皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証を手にしておられるからです。そして、この段階までこられた皆さんは、さらに、万事は良きに計らわれていること、大霊の摂理に調和しさえすれば必ず幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。無明から生まれるもの、あなた方のいう悪″の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはなりません。自分は大霊の摂理による保護のもとに生き、そして活動しているのだという信念です。
 心に邪なものさえなければ、善なるものしか近づけません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界から近づくのも大霊の使徒のみです。あなた方は何一つ恐れるものはありません。あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊からくる力にほかならないのです。
 その力は、いかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。
 完き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂は、いついかなる時も恐れることを知りません。なぜならば、自分に大霊が宿るからには、人生のいかなる出来事も克服できないものは有り得ないことを悟っているからです。
 恐怖心は、みずからの魂の牢獄をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観し、そのバイブレーションによって心を乱されることなく、完ぺきな信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えで、こう宣言できるようでなければなりません――自分は大霊なのだ。足もとの小さな事情などには断じて迷わされない。いかなる困難も、内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。
 その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを、何を好んで縮こませるのでしょうか。
 大霊は、物的なものも霊的なものも支配しております。大霊の目からすれば、両者に区別はありません。ですから、物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。
 ですから、皆さんのように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いつ、いかなる場にあっても、大霊の存在を意識した生き方をしているかぎり、克服できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。
 この世のいかなる障害も、大霊の目から見て取り除かれるべきものであれば、きっと取り除かれます。万が一、あなた方の苦難があまりに大きくて耐え切れそうになく思えた時は、こう理解してください――わたしたちの方でも向上進化の足を止めて皆さんのために精一杯の努力はいたしますが、時にはじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合もある、ということです。
 地上の人間のすべてが、自分が人間的煩悩と同時に神的属性もそなえていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生きやすくなることでしょう。トラブルはすぐに解決され、障害はすぐに取り除かれることでしょう。しかし人間は、心の奥に潜在する霊力をあまり信じようとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。
 その昔、この世を旅する者であれ。この世の者となるなかれ″と言う訓えが説かれました。が、死後の生命への信仰心に欠ける地上の人間には、それを実践する勇気がありません。金持ちを羨ましがり、金持ちの生活には悩みがないかのように考えます。金持ちには金持ちとしての悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないでごまかされるものではありません。(pp.58-63)




 2.地上に生まれてきた意味

 人間が地上にあるのは、人格を形成するためです。ふりかかる問題をどう処理していくかが、その人の性格を決定づけます。しかし、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものです。一方、あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているわけですから、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。
 心の平和は一つしかありません。大霊と一体となった者にのみ訪れる平和、大霊の御心と一つになり、その大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も大霊と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ、真の平和といえます。宇宙の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。
 私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。有為転変の物質の世界に神の国があるはずがありません。魂の中に存在するのです。
 宇宙の摂理は精細をきわめ、しかも完ぺきですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終ることも絶対にありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものを見ずに小さいものを判断してはいけません。
 地上での束の間のよろこびを、永遠の霊的なよろこびと混同してはなりません。地上のよろこびは安ピカであり、気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、わたしたちは霊の目で見ます。摂理を曲げてまで、人間のよろこびそうなことを説くことは、わたしにはできません。
 霊の世界から戻ってくる者にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完ぺきさを口にするはずです。そこまで分った霊になると二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。ところが人間は、その面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこでわたしは、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。
 どこまで向上しても、なお自分に満足できない人がいます。そういうタイプの人は、霊の世界へ来ても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。大霊の道具として十分でないことを自覚するのです。艱難辛苦を通して、まだまだ魂に磨きをかけ、神性を発揮しなければならないことを認識するのです。
 何とかせねばならないことがあることを知りながら、心の安らぎを得ることができるでしょうか。地上の同胞が、知るべき真理も知らされずに、神の御名のもとに間違った教えを聞かされている事実を前にして、わたしたちが安閑としていられると思われますか。
 光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目のあたりにして、わたしたち先輩が平気な顔をしていられると思われますか。
 わたしたちがじっとしていられなくなるのは、哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として当然受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に、何とかして大霊の愛を行きわたらせたいと願うからです。大霊は、人間に必要不可欠のものはすべて用意してくださっています。それが平等に行きわたっていないだけのことです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に、自分だけが豊富な知識をもって平気な顔をしていられないはずです。
 わたしたちにとって、地上の人間を指導していていちばん辛いのは、時として皆さんが苦しんでいるのを心を鬼にして傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということがわかっているだけに、はたから手出しをしてはならないことがあるのです。首尾よく本人が勝利をおさめれば、それはわたしたちの勝利でもあるのです。挫折すれば、それはわたしたちの敗北でもあるのです。いついかなる時も、わたしたちにとっての闘いでもあるということです。それでいて、指一本、手出しをしてはならないことがあるのです。
 このわたしも、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならない、と自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。その時の辛さは、苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし、本人みずからの力で解決すべき問題を、このわたしが代って解決してあげることは許されないのです。もしもわたしが指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。もしもこの霊媒(バーパネル)個人にかかわることで、わたしが、為すべきことと為すべきでないことをいちいち指示しはじめたら、一人間としての自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としては別として)人間としての進歩が阻害されはじめます。
 霊性の発達は、各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。物事がラクに、そして順調にはかどるから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。
 が、そうした中にあって、わたしたちにも干渉を許される場合が生じます。万が一わたしたちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ち至った時は、大いに干渉します。たとえば、この霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかし、それが霊媒個人の霊的進化にかかわる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません。(pp.64-67)




 3.タネ蒔きと刈り取りの摂理

 (別の日の交霊会で、サークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取りあげてシルバーバーチがこう語った。)

 タネ蒔きと刈り取りの摂理は、大自然の摂理の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が実りを産み出していくという自然の営みの 中に、大霊の摂理がいかに不変絶対のものであるかを読み取るべきです。大地に親しみ、自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、その仕組みの素晴らしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、そのすべてを計画した大精神すなわち神の御心を、いくばくかでも悟られるはずです。
 蒔いたタネが実をもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因は、大自然の摂理に正直にしたがって、それ相当の結果をもたらします。自然界について言えることは、そのまま人間界にも当てはまります。
 利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の報いを刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の報いを刈り取らねばなりません。寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は、非寛容性と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理だけは変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉して都合のよいように変えることはできません。
 発生した原因は、数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は、霊的成長を促すような生活をするほかはありません。
 その霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば、内部の神性が日常生活において発現されてはじめて成長するのです。邪な心、憎しみ、復しゅう心、悪意、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。
 いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しております。その一つ一つが大霊の計画にそって調和して働いております。この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活の中で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を、一刻も早く捨て去るべきであることになります。
 人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡智と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは、大霊がぜんぶ用意してくださっております。材料は揃っているのです。あとは、それをいかに有効に使用するかに掛かっております。(pp.67-69)




 4. 霊団の使命

 (別の日の交霊会でも、摂理について次のように説いている。)

 わたしたちの霊団の使命は、れっきとした目的ないし意義をもつ証拠を提供し、それによって心霊的法則というものが存在することを立証する一方で、生きるよろこびと霊的教訓を授けるということです。物理的法則を超えた別の次元の法則の存在を証明するだけでなく、霊についての真理を啓示するということです。
 そうした使命をもつわたしたちは、真っ向から立ち向かわねばならない巨大な虚偽の組織が存在します。過去幾世紀にもわたって積み重ねられてきた誤りを改めなければなりません。人間が勝手にこしらえた教義を基盤として築き上げられてきた虚飾の大機構を解体しなければならないのです。
 わたしたちの努力は常に、物質界の大霊の子等に、いかにして魂の自由を見出し、いかにして霊的真理の陽光を浴び、いかにして教義の奴隷となっている状態から脱け出るかをお教えすることに向けられております。これは容易ならぬ仕事です。なぜなら、いったん宗教という名の足伽をはめられたが最後、迷信という名の厚い壁をつき破って霊的真理が渉透するには、永い永い年月を要するからです。
 わたしたちは、霊的真理の宗教的意義をたゆまず説き続けます。その重要性に目覚めれば、戦争と流血による革新よりはるかに強烈な革命が地上世界にもたらされるからです。
 それは魂の革命です。その暁には、世界中の人々が授かって当たりまえのもの――霊的存在としてのさまざまな自由を満喫する権利を我がものとすることでしょう。
 わたしたちが忠誠を捧げるのは、教義でもなく、書物でもなく、教会でもありません。宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理です。
 いずれ、地上世界に強力な霊の力が注がれるようになります。これまではびこってきた利己主義と無知に歯止めをかけるための、大きな仕事が計画されているのです。それはいつかは成就されます。が、その途中の段階においては、大きな産みの痛みを味わわなくてはならないでしょう。
 その仕事を支援するために、わたしたちの世界から大勢のスピリットが馳せ参じております。あなた方の顔見知りの人、血のつながりのある人もいれば、愛のつながりによって引かれてくる人もいます。背後霊というと、皆さんはすぐに顔見知りの名前を思い浮かべがちですが、一方には皆さんのまったく知らない人で、ただ自分の力を役立てることにのみ喜びを覚えて援助してくれている人がいることも、どうか忘れないでください。
 バイブルにはサウロ(のちのパウロ)がダマスカスへ向かう途中、天からの光に包まれ、目が眩んで倒れ、それがきっかけで改心する話(使徒行伝)がありますが、世の中はそんな具合に一気に改まるものではありません。一人ずつ霊的真理に目覚め、一人ずつ大霊の道具となっていくという形で、少しずつ光明が広がっていくのです。霊的なものは、大事に育て慎重に広めていく必要があることを銘記しなければなりません。急激な改心は、得てして永続きしないものです。わたしたちの仕事は永続性が生命です。
 一個の魂が大霊の道具となった時、一個の魂が暗黒から光明へ、無知から知識へ、迷信から真実へと目覚めた時、その魂は世界全体の進歩に貢献していることになるのです。なぜなら、その一人ひとりが、言わば物質万能主義の棺に打ち込まれるクギのようなものだからです。
 発達にも二つの種類があることを知ってください。霊そのものの発達と、霊が使用する媒体の発達です。前者は魂そのものの進化であり、後者は単なる心霊的能力の開発にすぎません。霊的進化を伴わない心霊能力だけの発達では、低い次元のバイブレーションしか出ません。両者が相たずさえて発達した時、その人は偉大な霊能者であると同時に、偉大な人物であることになります。
 わたしたちが霊界からたずさえてくるメッセージは、地上人類にとって実に素晴らしい恩恵をもたらします。魂を解放し、大霊からの遺産(神的属性)の素晴らしさに目を聞かせます。
 あらゆる足伽と束縛を捨てるように教えます。霊的真理の本当の有り難さを教えます。物的生活の有り方と同時に、霊的生活の有り方も教えています。美と愛と叡智と理解力と真理と幸福をもたらします。人のために――ひたすら人のために、と説くメッセージです。
 ところが、そのメッセージをたずさえてくるわたしたちが、大霊を正しく理解していない人々、霊の働きかけの存在を信じない人たちによって拒絶されております。それは、いつの時代にもよくある話です。
 他方、現在の地上の状態は、そうしたわたしたちの働きかけをますます必要としております。流血につぐ流血、そしてその犠牲となった人々の涙の絶えることがありません。無明ゆえに、地上人類は大霊の摂理にしたがった生き方をしておりません。暗黒と絶望の道を選択しております。そこでわたしたちが、希望と光明と平和と調和をもたらす知識をたずさえてきたのです。
 にもかかわらず、無知ゆえにわたしたちを軽蔑します。わたしたちのメッセージを拒絶します。わたしたちを背後から導いている強大な霊的組織力の存在に気づいてくれません。しかし、霊的実在を教える大真理は、かならずや勝利をおさめます。
 摂理に逆らう者は、みずからその苦い実りを刈り取ることになります。摂理にしたがって生きる者は、物的・霊的の両面において豊かな幸せを刈り取ります。
 暗黒が蔓延している地上にあって、どうぞ希望を失わず、あなた方とともに人類の高揚のために働いている多くの霊、物的世界を改善しょうとしている霊の努力はかならずや実ることを信じてください。その背後に控える霊力は、宇宙で最も強力な力なのです。
 価値あるものは、苦難と悲哀なしには達成できません。地上は地上なりの教訓の修得方法があるのです。それを避けて通るわけにはいきません。今、霊的勢力が地上全土にわたって活動を開始しつつあり、あらゆる地域の人々に霊的メッセージが届けられ、その心を明るく照らし、その光が広まるにつれて、物質万能主義の闇を追い払ってまいります。
 わたしたちは、罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはいたしません。恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者にはなってほしくありません。内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって霊性を高め、一段と崇高な真理と叡智を身につけていただくことを目指しております。(pp.71-75)




 5. 霊界から伝えたいこと

 わたしが残念に思うのは、本来が霊的存在であるはずの人間が、あまりに霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心していただくためには、わたしたちスピリットがテーブルを浮揚させたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです。
 あなた方も一人の例外もなく大霊の分霊なのです。ということは、あたかも大霊が次のように語りかけているようなものです――“私がすべての法則を用意し、みなさん一人ひとりに私の分霊を授けてあります。宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。そのすべてを活用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとを、みずから選択しなさい。それを、私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし、無視してもよろしい”と。
 そこで大霊の子等は、それぞれ好きなように選択してきました。しかし他方において、霊界から地上の経綸に当たっている者は、大霊の計画を推進するために、地上において間違いなく大霊の意図に感応できる人物を送り込まねばなりません。地上の子等はこれまで大きく脇道へそれてしまったために、霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっているからです。
 しかし、冷たい冬の風が吹き荒れたあとには、必ず春の新しい生命が芽生えるものです。地面に雪が横もり、すべてが寒々とした感じを与える時は、春のよろこびはわかりません。しかし、春はきっと訪れるのです。そして、生命の太陽はゆっくりと天界をめぐって、いつかは生命の壮観がその極に達する時がまいります。
 今、地上全体を不満の暗雲がおおっております。が、その暗雲を払いのけて、夢を抱かせてくれる春、そしてそれを成就させる夏がきっと訪れます。その時期を早めるのも遅らせるのも、あなた方大霊の子の自由意志の使い方に掛かっております。
 一個の人間が他の人を救おうと努力する時、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨らませようと努力します。善行の努力が無駄に終ることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄には終らせません。誰かが先頭に立って藪を切り開き、あとに続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて道らしい道ができ上り、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。
 上層界の高級霊が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を、時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間界の愚行を見て、いつかはその愚かさに目覚めてくれる日が来ることを祈りつつ、眺めているのです。そうかと思うと、うれしさに思い切り顔をほころばせておられるのを見かけることもあります。無名の平凡な人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。
 わたしは、すぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界に近づけて降りてまいりました。その目的は大霊の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば、大霊の恵みをふんだんに受けることができることを教えてあげたいと思ったのです。
 物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。たとえてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。
 わたしの住む世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真に生きるよろこびが漲り、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、お互いに自分の足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。
 それに引きかえ、この地上に見る世界は幸せがあるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たされるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょうか。大霊は必要なものはすべて用意してくださっているのです。問題はその公平な分配を妨げている者が存在するということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。
 それを取り除いてくれと言われても、それはわたしたち霊界の者には許されないのです。わたしたちにできるのは、物質に包まれた人間に大霊の摂理を教え、どうすればその摂理が正しく人間を通じて運用されるかを教えてさしあげることです。本日ここにいらっしゃる方には、ぜひ、霊的真理を知ればこんなに幸せになれるのだということを、身をもって示していただきたいのです。
 もしもわたしの努力によって大霊の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることができたら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上へ降りてきた苦労の一端が報われたことになりましょう。わたしたち霊団は、本来あなた方人間が果たすべき義務を肩代わりしようとしているのではありません。なるほど大霊の摂理が働いているということを、身をもって悟っていただける生き方をお教えしようとしているのです。(pp.84-87)




 6.霊界からの通信について

 通信がどれだけ伝わるか――その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における導き″の問題は簡単には片づけられません。なぜかと言えば、人間はその時点での自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には、叶えてあげる必要がまったくないものがあるからです。一ばん良い導きは、本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合が、しばしばあるのです。
 この間題は要約して片づけられる性質のものではありません。意識の程度の問題がからんでいるからです。大変な問題なのです。わたしはよく人間の祈りを聞いてみることがありますが、要望に応えてあげたい気持は山々でも、そばに立って見つめているしかないことがあります。時にはわたしの方が耐え切れなくて、何とかしてあげようと思って行動に移りかけると、捨ておけ!″という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画の枠の中で行動する約束ができている以上、わたしの私情は許されないのです。
 この問題は容易ではないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが、わたしたちから見れば、 光(幸せ)であることがあり、人間にとって光であるように思えることが、わたしたちから見れば影であることがあるということです。
 人間にとって青天のように思えることが、わたしたちから見れば嵐の余兆であり、人間にとって静けさに思えることが、わたしたちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが、わたしたちから見れば静けさであることがあるものです。
 あなた方が実在と思っておられることは、わたしたちにとっては実在ではないのです。お互いに同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ、支配されております。霊の目で見ることができないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。わたしはそのことを咎める気にはなれません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。
 わたしたちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこのわたしがまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとは限らないことは否定しません。しかし、そのことは、わたしたちがあなた方の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは、まったく別の問題です。あなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤ、それ以上に、わたしたちはあなた方の身近な存在です。(pp.115-116)




  7. 病気の患者に対する対応

 (エドワーズ「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もない時、死期を早めてあげることは正しいでしょうか。」)

 あなた方の辛い立場はよく理解できます。また、わたしとしても好んで冷たい態度を取るわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど、柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。
 わたしはあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。たとえば、薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体は本来そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。そういう観点から考えていけば、どうすればよいかは、おのずと決まってくると思います。
 何事も自然の摂理の範囲内で処理すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によっても、その摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てば、それなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いことか悪いことかは、霊的法則にどの程度まで適っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば、肉体にとっても最善であるに違いありません。(pp.143-144)

 (バートン夫人「神も仏もいないと思っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって、不思議でならないことがあります。」)

 その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的になりがちで内面的でないことが多いことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できないのです。治療の効果を左右するのは、あくまでも患者の魂です。
 ご承知のとおり、わたしも何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして、死後こちらでそれよりはるかに長い霊界生活を送ってまいりましたが、その間、わたしが何にもまして強く感じているのは、大自然の摂理の正確無比なことです。知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりです。一分の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。わたしたちの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答が合います。
 迷わず、ただひたすら心に喜びを抱いて奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは全て大霊にお任せすることです。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。誰が治り誰が治らないかは、あなた方が決めるのではありません。いくら願ってみても、それは叶わないことです。あなた方は、所詮、わたしたちスピリットの道具にすぎません。そして、わたしたちも又、さらに高い神霊界のスピリットの道具にすぎません。自分より偉大なる力がすべてを良きに計らってくださると信じて、すべてをお任せすることです。(pp.160-161)




 8. 不治の病いはない

 不治の病いというものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥にまた法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡智も無限です。こんなことを申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命にかかわることだからです。
 地上の治療家から、よくこういう言い分を聞かされます――この人が治ったのに、なぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたい気持がこれほどあるのに治らなくて、愛を感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのは、なぜですか″と。
 そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活だけで定まるのではなく、しばしば前世での所業が関わっていることがあります。
 霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生のすべてを物質的な尺度で片づけようとすると誤ります。しかし、残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目をもって判断することができず、それで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。
 大霊は完全なる公正です。その叡智は完ぺきです。なぜなら、完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識をきわめることは不可能です。
 どうか不治の病″という観念はお持ちにならないでください。そういうものは存在しまん。治らないのは、往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業の法則が働いいるということです。こう申し上げるのは、あきらめの観念を吹聴するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いていることを指摘したいからです。(pp.162-163)




 9. 肉体と霊体

 (霊のことをなおざりにしているということでしょうか、と言う質問に対して)

 一般的に言って人間は、肉体にかかわることはおろそかにはしておりません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するために、また新たな慣習的義務を背負い込むという愚を重ねております。肉体にとって無くてはならぬものといえば、光と空気と食べものと運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにアレコレと必要なものではありません。慣習上、必要品となっているだけです。
 わたしは決して肉体ならびにその必要品をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するように、と勧めているのではありません。一人でも多くの人に、正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい、霊をそなえた肉体だと思い込んでいる人が、まだまだ多すぎます。本当は肉体をそなえた霊的存在なのです。それとこれとでは、大違いです。
 無駄な取り越し苦労に振り回されている人が多すぎます。わたしが何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは、不必要な心配です。大霊は無限の叡智であり、無限の愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。
 驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない摂理によって支配され、規制され、維持されているのです。その摂理の働きは、一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。いま存在する自然法則はかつても存在し、これからも未来永劫に存在し続けます。なぜなら、完ぺきな構想のもとに、全能の力によって生み出されたものだからです。
 宇宙のどこでもよろしい、よく観察すれば、雄大なものから極小のものまでの、ありとあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥・樹木・花・海・山川・湖のどれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節のめぐりが生じているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。
 種子を蒔けば芽が出る――この、いつの時代にも変わらない摂理こそ、大霊の働きの典型です。大霊は絶対にしくじったことはありません。あなた方が見放さないかぎり、大霊は決してあなた方を見放しません。
 わたしは、大霊の子すべてに、そういう視野をもっていただきたいのです。そうすれば、取り越し苦労もしなくなり、恐れおののくこともなくなります。いかなる体験も魂の成長にとって何らかの役に立つことを知るようになります。その認識のもとに、一つ一つの困難に立ち向かうようになり、そして首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。
 あなた方もいつかはこちらの世界へ来られるわけですが、来てみれば、感謝なさるのはそういう辛い体験の方なのです。視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有り難く思えなかったけれども、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明してさしあげることはできませんが、こちらへお出でになれば、みずから得心なさることでしょう。(pp.182-185)




 10. 原爆の恐怖にどう向き合うか

 (国家が、そして人類全体が、原爆の恐怖に対処するにはどうすればよいでしょうか)

 問題のそもそもの根元は、人間生活が霊的原理に支配されずに、明日への不安と貪欲、妬みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながら、お互いに扶け合い、協調と平和の中で暮らしたいという願望は見られず、自分の国を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも自分の階層を豊かにしようとする願望が支配しております。
 すべての制度が、相も変らず、唯物主義の思想を土台としております。唯物主義という言葉は、今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には変っておりません。誰が何と言おうが、この世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだ、と考えております。そして、それを土台として、すべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまり、たった五つの感覚で得られる、ほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。
 しかし、生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけで出来ているのではありません。化学・医学・原子、こうしたもので理解しようとしても無駄です。生命の謎は、科学の実験室の中で解明される性質のものではありません。魂をメスで切り裂いたり、化学的手法で分析したりすることはできません。なのに、物質界の大半の人間は、霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。物質こそ生命と思い込んで、最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視しております。
 地上の全生命は、霊″であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は霊≠ノ依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において、立派に霊的存在なのです。死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間から(物的身体をたずさえた)霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。なぜなら、生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。
 死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように、何らかの証拠を提供することがわたしたちの使命の大切な一環なのです。人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日はそれよりもっと恐ろしい、途方もないものとなるでしょう。
 が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生得権を主張するようになるのです。
 魂の自由性を永遠に束縛することはできません。魂の自在性も永遠に拘束し続けることはできません。自由性と自在性は、ともに魂が決して失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在を超えたものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを知ることのできない巨大な宇宙の中での、千変万化の生命現象の根元的要素である霊と、まったく同じ、不可欠の一部なのです。
 以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き、明日はどうなるのかと案じながら生きることがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになるのです。霊は本来、自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきなのです。
 永遠なる存在である霊が拘束され、閉じ込められ、制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせてきた障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し、無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。
 ですから、ご質問に対する答えは、とにもかくにも、霊的知識を広めることです。すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和を招来するためには、霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて、多に手段は有り得ません。(pp.268-272)




 11.質疑応答

 (眼の移植手術をすれば見えるようになるという場合でも、それをしないで、見えないままでいるのが望ましいということになるのでしょうか)

 個々の問題にはそれなりの事情がありますから、それを無視して一般論で片づけるわけにはまいりませんが、わたしたちからすれば、目が見えないというのは、あくまでも相対的な問題としてしか考えておりません。霊的な盲目という問題をどうお考えになりますか。
 地上人類の霊的覚醒を使命としているわたしたちの立場からすれば、無数にいる霊的に盲目の人の方をむしろ見下したくなります。そこでわたしは、この問題も当人の魂の進化の程度による、とお答えします。霊的覚醒の段階まで到達している人にとっては、目が見えないということは、別に障害とはならないでしょう。ただ物が見えるというだけの視力よりもはるかに素敵な視野を得ていることでしょう。
 皆さんはこうした問題をとかく物的身体の観点からのみ捉えて、永遠という概念を忘れがちです。といって、そのことを非難するつもりはありません。無理もないことだからです。たしかに、目が見えなければ春の華やかさと美しさはわかりません。が、そんなものは、霊の華やかさと輝きに較べれば、物の数ではありません。(p.52-53)


 (ある一つの考えを抱いた時、それを実行に移したのと同じ罪悪性をもつのでしょうか)

 とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質の問題ではありません。

 (たとえば、誰かを殺してやりたいと思った場合です。)

 それは、その動機が問題です。いかなる問題を考察する際にも、まずそれは霊にとっていかなる影響をもつか″ということを考慮すべきです。ですから、この際も、“殺したい”という考えを抱くに至った動機ないし魂胆は何かということです。
 さて、この間題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいと思っても、手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでには至らない――いわば臆病なのです。心ではそう思っても、まずもって実際の行為には至らないというタイプです。
 そこで、殺してやりたいと心で思ったら、実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せば、その霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけでは、そういうことにはならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは、罪悪性が異なります。
 しかし、これを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心・貧欲・恨み・憎しみといった邪念は、身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方が、はるかに強烈です。このように、この種の問題はその時の事情によって答えが異なります。(pp.104-105)


 (誰かを、あるいは何かを、憎む″ということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか)

 あとのご質問は答えが簡単です。わたしは誰も憎みません。憎むということができないのです。なぜなら、わたしは大霊の子すべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいは、わずかしか発揮できずにいる人を見て、いつも気の毒に思うからです。
 ですが、許せない制度や強欲に対しては、憎しみを抱くことはあります。強欲・悪意・権勢欲等が生み出すものに対して、怒りを覚えます。それに伴って、さまざまな思い、あまり褒められない想念を抱くことはあります。ですが、忘れないでください。わたしもまだまだ人間味をそなえた存在です。ただ、人間に対しては、そうした想念を抱かないところまでは進化しておりますが・・・・ (p.106)


 (地獄というのはありますか)

 地獄はあります。ただ、地獄絵などに描かれているものとはかぎらないというまでのことです。未熟な霊が集まっている暗い世界は、もちろん存在します。そこに住んでいる霊にとっては、そこが地獄です。実在の世界です。
 考えてもごらんなさい。地上世界を暗黒と悲劇の淵に陥れた者たち、無益な流血の巷としてしまった張本人たち――こういう人たちがこちらへ来て置かれる境遇がどういうものか、大体の想像はつきませんか。
 そうした行為の結果として直面させられる世界が天国であろうはずはありません。まさに地獄です。が、バイブルに説かれているような、業火で焼かれる地獄とは違います。行なったことの邪悪性、非道徳性、利己性を魂が思い知らされるような境遇です。それが地獄です。そこで味わう苦しみは、中世の地獄絵に描かれたものより、はるかに耐え難いものです。(p.220)