(日付の新しいものから順にならべてあります)



                                  [参考資料 40] 2020.02.20

       遠藤周作さんの死生観 


 遠藤周作さんは1923年生まれで、1996年に73歳で亡くなっている。その遠藤さんが『死について考える』を光文社から出版したのは1987年であったから、彼は64歳の頃にこの本を書いたことになる。亡くなる9年前である。
 遠藤さんは、最後まで死後の生命や霊界の存在などについては懐疑的であった。少なくとも信じきれなかったようである。その彼の揺れ動く姿勢を、私は、「随想集」の No.31「イエス・キリストの復活」 No.32「生き続けるいのち」のなかで取り上げたこともある。
 その遠藤さんが亡くなった後、死後の状況の一部を、親しかった佐藤愛子さんを通じて、霊界から伝えてきたことがあった。霊界の上層で、平穏な生活を送っているようである。そういうことを思い起こしつつ、ここでは、遠藤周作『死について考える』(光文社文庫、1999年版)から、長生きや死に支度など、抜き出したものを7つ並べて読み返してみたい。番号は便宜上、私がつけたものである。


     *****


 1.君は長生きしたいかと聞かれることがあります。人間だれでも長生きしたいですよ。私もしたい。しかし、いつまでもいつまでも生きていたいかといわれると、ちょっと考えてしまいますね。百五十歳まで生きると考えると、面倒臭い気もします。面倒臭いのはこの私が本当は気を使うたちだからです。私が長生きしたいというのは八十歳、せいぜい八十五歳ですね。それだけ生きたら天寿を全うしたことですよ。今、男の平均寿命が八十歳とします。それでは八十歳が天寿かというと、そうでもない。天寿とは何歳までということはない。平均寿命はまだ延びるかもしれません。(pp.23-24)


 2.正宗白鳥さんは八十三歳で膵臓癌でなくなられたんですが、文壇では当時、大変な長寿の作家と思われていました。昭和三十七年ですから、まだ平均寿命はそんなに長くなかったころです。その白鳥さんが病院で、人間は長生きしていいかどうかわからん、自分は今、それを考えている、長生きして老人になると汚ならしいし、楽しくもない、長生きするのはいいことなのかどうか、と言っておられたそうです。
 非常に清潔な、すがすがしい老人というものの存在は確かにあるでしょうが、私自身については、年をとって、自分が汚ならしくなった、とは思います。第一、白髪がはえたり、髪が薄くなります。歯も悪くなっていきます。若い人たちから見れば汚ならしいでしょうね。美しく老いるというけれども、老年時代の現実は、決して美しいものではないと思います。(p.24)


 3.しかし、老年とは醜く、辛く、悲しいものだと申しましたが、もうひとつの面もあるようです。自分の経験から申しますと、たとえば夕暮れ、仕事場の窓の向こうの東京の街やその街の上にひろがる銀色の雲、雲のあいだから落ちる光を眺めている時、急に何ともいえぬ感動に胸しめつけられることがあります。それはやがて自分がここから去る日が来るだろうが、しかし自分がこうして生まれたことが、また自分をふくめてこの地上で生きてるすべてのものは苦しんだり愛したり結びあったり別れたりしていた一人一人の人間だったことが、言いようのない懐かしさで考えられるのです。それは若いころには決して味わわなかった感情なので、あるいは老人の感傷かもしれません。しかしその感傷のなかには人間の人生やこの地上を肯定したいという気持ちが含まれています。(pp.28-29)


 4.確かに、立派な死に方をした人もおられます。何も坊さんに限らず、在家の人でもいます。上智大学のデーケン先生がよく言われるんだけれども、先生のお母上が亡くなられる時、息子や娘たちを全部集めて、
 「酒を一杯飲ませておくれ」
 というので、子供たちはみなびっくりしたんだけど、死ぬ前にいうことだからと、飲ませてあげたんですね。そしたら、
 「ああ、おいしかった」
 と言ったんだそうです。その後で、
 「煙草を一本吸わせておくれ」
 と言ったんだそうです。今まで煙草を吸わなかった人なんです。
 「煙草なんか吸わなかったのに、どうしてですか」
 と聞いたら、
 「いつか煙草を吸ってみたいと思ってたんです。一服吸わせてね」
 と言うから、煙草に火をつけて渡してやったら、一服吸って、
 「どうもありがとう」
 と言って目をつむり、死んでいったと言うんですね。
 子供たちが悲しまないようにお母さんが、愛のサービスをしていることがよくわかった、だから母親の死に方は立派だ、母親を本当に尊敬する、ああいうふうになりたい、と先生は言っておられました。(pp.36-37)


 5.誰でも外国旅行をする時、行くべき国のことを調べます、ホテルとか食事とか交通機関とか、気候とか。外国旅行の場合は行くべき国を調べる手掛かりがあります。死後に行く世界は、手掛かりはありませんけれど、発信音があって、老年はそれが聞こえて来る年齢だと思うのです。電波ならそれを聴くためにレシーバーをかけますが、次の世界の発信音をレシーバーをかけて聴こうとするのが私にとっての老年なのです。だから私の場合は、昔の文士や他の文士の死に支度と随分ちがうでしょうね。何度か病気をした時にわかったのですが、死が身近になると、今まで気にもしなかった物がそれぞれ深い意味を持って話しかけてくるのですね。病室の窓からみえる夕暮れの樹。どこかで歌っている子供たちの歌、生活のなかでは価値もなかったそれらのひとつ、ひとつが人生のなかではとても大事に大事に感じられてきたものです。私は老年とは若い時や中年の時とはちがって、何かにじっと耳傾ける時だと思っているのです。その何かとはやがて旅だって行く次なる世界からかすかに聞こえてくる音なのです。
 私も六十五歳になったら、その音をよりよく聞くために仕事を整理しようと思っています。六十五歳になったらと考えるのは、私は少なくとも七十五歳くらいまでは生きているだろうと漠然と信じているからにちがいありません。明日にも死が訪れるかもしれないと考えたら、六十五歳になったらなどと考えないはずです。(pp.196-197)


 6.本書には二、三回キューブラー・ロスのことを書きましたが、。臨死体験者たちのなかで「かつて自分を愛してくれた死者」(たとえば両親、姉妹、配偶者)が身近にきているのを感じたという言葉は切実に心にしみます。日本人の私には死後の期待があるとしたら、やはりそれは死んだ母や兄に再会できることでありましょう。私は母や兄と再会する光景を、真夜中などに、しばしば心に描きますが、同じ悦びがあなたたちにないとどうして断言できるでしょうか。
 こう書くと、そんなものは遠藤のはかない願望さ、とおっしゃる方も多いでしょうね。死とは何もかもが消滅すること、あとは永遠の無、永遠の氷のような沈黙があるのみだ、とお考えの人も多いでしょうね。(pp.201-202)


 7.時々、こんな悪戯を考えることがあります。遺言のかわりに葬式の時にかけてもらうテープを生前吹きこんでおきます。私の葬式に友人知人がきた時、そのテープが流れます。葬儀の司会者はほかならぬ故人の私です。
 「本日は私のため、ご多忙中、お出でいただき恐縮いたしております」
 「故人はユーモアが好きでしたので、ひとつ、ドンチャン騒ぎをしてください」
 「今晩、山田花子さまと木村百合子さまの枕元に午前三時ごろ、たたせていただきます。そしてあの世が本当にあったかなかったかをお知らせします」
 こういう言葉を吹きこんでおいたら面白かろうと思うのですが、まだ実行していません。(p.204)

       (遠藤周作『死について考える』光文社文庫、1999.より)





          **********



                                           [参考資料 39] 2020.01.23
 
    デーケンさんの『死とどう向き合うか』
 
  
 アルフォンス・デーケンさん(Alfons Deeken)は、1932年にドイツで生まれたイエズス会の司祭である。
 1959年に来日して以来、長く上智大学で教鞭を取り文学部人間学研究室で「死の哲学」、「人間学」、「生と死の教育」の講座を担当した。死生学においては、日本の代表的な学者であり、その開祖であるといわれている。現在は、上智大学名誉教授である。
 
 デーケンさんの生と死に関する著作には、『生と死の教育』(岩波書店、2001年)、『よく生きよく笑いよき死と出会う』(新潮社、2003年)などのほか、『死とどう向き合うか』(NHK出版、2011年)がある。この『死とどう向き合うか』のなかで、デーケンさんは、「死への準備教育の15の目標」というのを掲げている。「『死への準備教育』は、広範囲にわたるテーマを取り上げますが、ここで私が考える『死への準備教育』の目標を述べたいと思います」 と述べて、それらをつぎのように列挙している。

    *****
 
 1、死へのプロセスならびに死にゆく患者の抱える多様な問題とニーズについての理解を促し、終末期にある患者によりよく援助できるようにすることです。
 2、生涯を通じて自分自身の死を準備し、自分だけのかけがえのない死を全うできるように、死についてのより深い思索を促します。
 3、悲嘆教育(グリーフ・エデュケーション)。身近な人の死に続いて体験される悲嘆のプロセスとその難しさ、そして立ち直りに至るまでを理解することです。
 4、極端な死への恐怖を和らげ、その心理的な負担を取り除く働きかけをします。
 5、死にまつわるタブーを取り除くこと。死について自由に考え、話すことができることを目指します。
 6、自殺を考えている人の心理について理解を深めて、いかにして自殺を予防するかを学びます。
 7、告知の問題と患者の知る権利についての認識を深めることです。
 8、死と死へのプロセスをめぐる倫理的な問題への認識を促すことです。たとえば、植物状態や人工的な延命、積極的・消極的安楽死などが含まれます。
 9、医学と法律に関わる諸問題についての理解を深めることです。
 10、葬儀の重要な役割についての理解を深めて、自分なりの葬儀方法を準備するための助けとなるようにします。
 11、時間の貴重さに気づき、自己の有限性を自覚する時、残された時間をより有意義に過ごすための努力が始まります、死によって失われるものを考慮して、必要に応じて価値観の修正を図ることも大切です。
 12、死の芸術を学び、第三の人生を豊かに送れるように方向づけます、よき往生とは、時間をかけ、努力して磨き上げるべき芸術と言えましょう、老年期の大きな課題です。現在をよりよく生きようとすることにも通じるのではないでしょうか。
 13、個人的な死の哲学の探究。異なる時代や文化におけるさまざまな死生観を提示して、自分なりの個性的な理解を自由に選び取れるように援助することを目指します。
 14、宗教における死のさまざまな解釈を探ることです。各宗教の教えの共通点や相違点を知ることによって、自分自身の死生観を省察し、深めるための刺激となりましょう。
 15、死後の生命の可能性について積極的に考察するように促すことです。もし、死によってすべてが無に帰すとするなら、生の営みも結局は不条理にすぎないと考えられますが、死を新たな生の入り口と考えれば、人生のあらゆる労苦も決して無駄にはならないと思うのです。永遠の未来を望む根源的な希望の有無は、現在の生に意義を見いだすか否かをも決定すると考えています。
 
     アルフォンス・デーケン『死とどう向き合うか』 NHK出版、2011、pp.225-227
 
 
 
 
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                     [参考資料 38]    2019.12.26

    霊言関係書籍と霊界通信等のテープ


 私がかつてロンドンに住んでいた頃、大英心霊協会で購入したシルバー・バーチなどの霊言関係の書籍の一部と、アンターナーやその他の霊能者たちを通じて行なわれた霊界通信等のテープの一部は、下記の表のとおりです。今年の春、ご縁があって、これらの書籍、テープを中部大学の大門正幸教授に寄贈させていただきました。

 大門教授は、1963年のお生まれで、名古屋大学大学院文学研究科を出られてアムステルダム大学で人文学の博士号を取得された方です。米国マサチューセッツ工科大学のチョムスキー教授の下で英語学、言語学の客員研究員を務められたこともあります。言語学者を目指していた私の長男が大学の2年生の時に書いたレポート「歴史・比較言語学における英語のいくつかの現象」(拙著『アメリカ 光と影の旅』所収 pp.122-143)もお読みいただいたそうで、高く評価してくださったのは、父親として大変有難いことでした。

 大門正幸教授は、また、スピリチュアルな現象を科学的に考察する「生まれ変わり」の研究家としても著名です。バージニア大学医学部知覚研究室の客員研究員として生まれ変わりの研究に取り組まれ、その後、『スピリチュアリティの研究』、『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』、『人は生まれ変われる』などの著作を出されているほか、ホームページや講演などでも、精力的にスピリチュアリズムの啓蒙活動を続けておられます。昨年2月以来の私のホームページの「引退」表明に際して、何とか継続できるように助言をいただいたりしましたが、その話し合いの中で、私の書籍やテープなどの一部の寄贈も受け入れていただくことになりました。大門教授のご研究に少しでもお役にたつことができればと期待しています。


     霊言関係書籍

  1.  Edited by Tony Ortzen: The Seed of Truth ; Psychic Press, London 1987
  2.  Edited by A.W.Austren : Teachings of Silver Birch ; Psychic Press, London 1991
  3.  Compiled by Tony Ortzen: Lift Up Your Hearts ; Psychic Press, London 1990
  4.  Compiled by Tony Ortzen: The Spirit Speaks ; Psychic Press, London 1988
  5.  Edited by Tony Ortzen: A Voice In The Wilderness ; Psychic Press, London 1991
  6.  Edited by Tony Ortzen: Silver Birch Companion; Psychic Press, London 1988
  7.  Edited by Tony Ortzen: More Philosophy of Silver Birch; Psychic Press, London 1988
  8.  Edited by Anne Dooley: Guidance From Silver Birch; Psychic Press, London 1988
  9.  Edited by Stella Storm: Philosophy of Silver Birch ; Psychic Press, London 1988
 10. Anthony Borgia: Life In The World Unseen; Psychic Press, London 1981
 11. White Eagle: Golden Harvest; The White Eagle Publising Trust, Liss,Hampshire 1987
 12. White Eagle: Wisdom From White Eagle; The White Eagle Publising Trust, Liss, Hampshire 1987
 13. White Eagle: Spiritual Unfoldment 1; The White Eagle Publising Trust, Liss, Hampshire 1987
 14. White Eagle: Spiritual Unfoldment 2; The White Eagle Publising Trust, Liss, Hampshire 1989
 15. White Eagle: Spiritual Unfoldment 4; The White Eagle Publising Trust, Liss, Hampshire 1988
 16. Arthur Conan Doyle: The History of Spiritualism (vol one) ; Psychic Press, London 1989
 17. Arthur Conan Doyle: The History of Spiritualism (vol two) ; Psychic Press, London  1989
 18. Arthur Conan Doyle: The New Revelation And The Vital Message; Psychic Press,     London 1981
 19. Edited by Ivan Cooke: The Return Of Arthur Conan Doyle; The White Eagle Publising Trust, Liss,
      Hampshire 1985
 20. Tony & Ann Turner, Living Breathing Spirit, Con-Psy Publications, Greenford, Middlesex, 2010
 21. Tony & Ann Turner, Walking With Spirit, Con-Psy Publications, Greenford,Middlesex, 2010
 22.  Janet Oppenheim 『英国心霊主義の抬頭』(和田芳久訳)工作舎、1992
 23.  Jon Klimo『チャネリング 1 』(Prabuddha訳)Voice、1992
 24.  Jon Klimo『チャネリング 2 』(Prabuddha訳)Voice、1992



     霊界通信等のテープ

  1.  Demonstration  by David Smith at SAGB, London  1991.07.04
  2. Messages from Kiyonori     by Ann Turner   1992.07.02
  3. Messages from Kiyonori     by Ann Turner   1992.10.20
  4.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   1994.07.19
  5.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   1996.06.05
  6.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   1997.06.26
  7.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   1998.06.12
  8.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   1999.06.05
  9.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   2000.06.05
 10.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   2001.06.05
 11.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   2002.06.14
 12.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   2003.06.05
 13.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   2005.06.05
 14.  Messages from Kiyonori     by Ann Turner   2006.06.05
 15.  Sitting with Ann Turner      in Rochester, Kent  1992.02.19
 16.  Sitting with Ann Turner      in Rochester, Kent  1993.08.13   (Meditation)
 17.  Sitting with Ann Turner      in Rochester, Kent  1995.08.15
 18.  Sitting with Ann Turner      in Sheerness, Kent  2001.07.03
 19.  Sitting with Ann Cooper       at SAGB, London   1992.01.30
 20.  Sitting with Hilda Holyman    at SAGB, London   1992.03.20
 21.  Sitting with E. Benett         at SAGB, London   1997.08.20
 22.  Sitting with Keith Hall        at SAGB, London   2001.06.30
 23.  Sitting with Vickie Hindhaugh  at SAGB, London   2001.07.10
 24.  Sitting with Billy Cook        at SAGB, London    2001.07.11
 25.  Sitting with Julie Johnson     at SAGB, London    2001.07.11
 26.  Sitting with Keith Hall      国際文化会館、東京  2003.12.17
 27.  Sitting with 金城寛    新宿、東京        2004.05.07
 28.  浅野リーディング       国分寺、東京   2006.06.07
 29.  浅野リーディング       国分寺、東京   2014.09.02
 30.  武本昌三講演集朗読(石原淳古)   八王子、東京   2002.06.05








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                                        [参考資料37] 2019.11.14

    小林正観さんの「幸せな生き方」


 小林正観さん(1948-2011)は、超常現象の研究家として多くの著書や講演で知られています。ものの見方、考え方についていろいろと示唆に富む話を易しい語り口で伝えていますが、亡くなる2年前にも、『すべてを味方 すべてが味方』(三笠書房、2009)を書きました。そのなかには、私たちの幸せな生き方のための心に迫る話も含まれています。そのうちの四つを下記に抜き書きしてみました。


     *****


 1.「ありがとう」を2万5千回言い続ける

 今現在、病気や事故やトラブルが起きていない状態というのは、実は「うれしい、楽しい、幸せ、大好き」といったポジティブな言葉、それと「ありがとう」という感謝の気持ちがいつも私たちの身のまわりに満ちていた結果でもあるのです。
 私は、超常現象、超能力を研究してきて、今いちばん面白いと感じているのが(ありがとうの不思議)というものです。
 とにかく、心を込めなくてもいいから「ありがとう」を言い続け、それが二万五千回を超えると突然に涙が出てきます。
 泣いて泣いて、涙が出尽くした後に言う「ありがとう」は、本当に心の底から感謝を込めての「ありがとう」になります。
 その心の底から湧いてくる「ありがとう」の言葉をさらにもう二万五千回続けて、合計五万回の「ありがとう」を言い続けると、突然にある現象が始まるようです。
 先ほど述べたように、宇宙には本来幸″も不幸″も、現象そのものとしては存在しません。そう思う心があるだけです。しかし、(私)が幸せで心地いいと思うことは存在します。その(私)にとって、心地いいと思う、幸せだと思う現象が片っ端から起き始めます。
 自分が望んでいるわけでもなく、イメージしたわけでもないのに勝手に現象が起き始めるのです。
 でも、気をつけていただきたいのは、最初の二万五千回を言う段階で、ある種の言葉を口にした瞬間「チーン」と音がして、カウンターがゼロになります。
 ある種の言葉とは何か。
 「不平・不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」です。たとえ心が込もっていなくても、「ありがとう」と言えばいいのですが、その合間に、五戒″を破った瞬間「チーン」という音がして、そこからは、またやり直し。
 けれど、何十回、何百回やり直してでも、とりあえず二万五千回ぐらいに到達したときには、めちゃめちゃに涙が出るみたいです。
 なぜ、涙が出てくるのかわかりませんが、本来、私たちの中には、すべてのことに感謝できる心が神によってすでにインプットされているようです。
 目の前の人、友人、知人、家族が自分を支えてくれているというのがわかってくると、本当に心の底からこの人たち一人ひとりに手を合わせられるようになります。
 そういう「私」になると、病気、事故、トラブルが起きないという、消極的なもの、いわゆるマイナス的な出来事が現われないだけではなくて、ひとりの力ではどうにもならないような問題がいつのまにか解決してしまったり、これまで考えもしなかったような、楽しい世界が展開し始めたりします。
 人生を面白く生きるという意味で、この(ありがとうの不思議)を、死ぬまでにぜひ味わってみることをお勧めします。(pp.35-37)




 2.自分で自分に惚れる

 「(自分を見つめる)というのがどういうことか、わからない」という質問を受けたことがあります。
 私はこう、お答えしました。
 「自分で自分の(いいところ探し)をしてみてはいかがですか」と。
 自分で自分がわからなくなってしまうのは、自分の「あら探し」をするからです。そうではなくて、自分で自分の中をずっと見つめて「こんないいやつだったんだ」というのを探していく。
 「自分で自分を見つめる」というのは、「いかに自分で自分に惚れるが」ということではないでしょうか。
 私は、自分のいいところ、好きなところを二百個くらい書き出せます。自分で、「すごくいいやつだな」と思っています。他の人の評価は関係ない。だれが何と思っていてもかまいません。私には、このようないいところがある、というのを二百個書き出せるようになると、人生をいじいじ考えないですみます。
 人間は、だれでも未熟です。もともとろくなものではなく、大したものではないのですから、その大したものではない部分を探しても無意味です。あら探しをすれば、たくさんあることでしょう。
 私自身もたぶんあら探しをしたら、二百個や三百個は書けると思いますが、そういうことを考えないことにしています。
 「大したものではない」と思いながら、「でも実は、結構いい奴かもしれない」と、自分がいつのまにかいとおしくなる。それが、自分探しになるように思います。 (pp.98−99)




 3.「自分のいいところ」を百個挙げてみる

 自分で自分のいいところを、いくつ挙げられますか」と問いかけたら、あなたはいくつ挙げられるでしょうか。
 「自分で自分がわからない」という人は、一年後までに、百個挙げられるようにしてみてください。
 一年後に同じ質問をします。そのときには、「自分で自分がわからなくなっています」とは言わないと思います。
 他人の評価で生きるのではなくて、自分の評価で生きるのです。そうすると、自分がよく見えてきます。
 私は毎年、大晦日の夜に、その年一年を振り返ります。
 自分で自分が好きになって、「いいやつだな」と思うと、大晦日が楽しくなります。
 「今年一年、自分はどうだったかな」と振り返ってみると、「うん、結構いいやつだった」とか言って、自分の頭をなでてあげたい気分になります。
 だから、あなたも自分のいいところを一年後には百個、二年後には二百個挙げられるようになってみてください。
 人生が楽しくなることでしょう。(pp.100-101)




 4.笑いは万能薬である

 私の講演会は、かたくるしい講演会と違って、参加者のみなさんがずっと笑いっぱなしというのが特徴です。けれど、そんな中でも、百人にひとりぐらいの割合で一回も笑わない人がいます。そんな人に限って、講演会後に私のところまでやって来て、こんなことを言います。
 「ちょっと聞いていいですか。三十年近く、リウマチを患っています。どんな医者に行っても治らないんです。どうしたらこの痛みを治すことができますか」
 だいたいは、五十代、六十代ぐらいの人です。
 「それはともかくとして、講演会中、全然笑いませんでしたね。一回も笑わない人は珍しいので、ずっと注目していましたけれども。日常生活でもずっと笑わないんですか」
 私は笑わない人には、必ずそう聞くことにしています。
 「痛くて笑えないんですよ」
 「笑わないと、痛いみたいですよ」
 「痛くて笑えないんですよ」
 「笑わないと、痛いみたいですよ」
  ・・・・・・・・・。
 こんなやりとりが八回ぐらい続きます。
 笑わないから痛いのです。
 私たち人間には、痛みを抑える物質を自分でつくり出す機能が備わっています。それがβ−エンドルフィンという物質です。
 β−エンドルフィンは、別名「脳内モルヒネ」ともいい、免疫性を強くする、痛みを和らげるといった効果があります。
 この「脳内モルヒネ」を分泌させればいいのです。β−エンドルフィンは、笑顔で、ゆっくり笑って「楽しいよね」「面白いよね」と言ったときに分泌されます。
 実際に、腰痛で十年苦しんできた人が、私の講演会で笑って、笑って、笑い終わって、「ああ、疲れた」と言って立ち上がったら、全然痛くなくなっていた、という例がありました。
 また、孫娘に連れられてきた八十歳くらいの、腰の悪いおばあさんがいました。同じ姿勢が保てないので、三十分ごとに椅子に座ったり、立ったりしなければならないということでした。
 ところが、二時間の講演中に、だれも立ったり、座ったりしませんでした。いちばん後ろに座っていたおばあさんも一回も立たなかったのです。「つらくなく、普通に座っていられた。不思議だった」ということでした。
 笑っていると、痛くなくなります。「脳内モルヒネ」が分泌されると、痛みを感じなくなるのです。
 ですから、笑っていることはすごく重要です。いい話を聞いても体が緊張状態になるよりは、内容のない話でも、笑って笑って、「すごく笑ったよね」と言っていると、体はすごくいい状態になります。(pp.116-119)





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                                          [参考資料 36] 2019.10.25

   小林秀雄の講義「信ずることと知ること」


 文芸評論家の小林秀雄(1902−1983)は、「批評の神様」、「文学の教祖」などともいわれてきた。私たちは、いわば「科学万能」と信じられている世間の常識の中で生きているが、彼は、「科学というのは、人間が思いついた一つの能力に過ぎないということを忘れてはいけない」と戒める。「僕らが生きてゆくための知恵というものは、どれだけ進歩していますか。例えば論語以上の知恵が現代人にありますか」という疑問を呈したりもしている。その小林が、超能力などに対する世間一般の見方を批判したことがある。学生たちを前にして行われた「信ずることと知ること」と題する講義が、『学生との対話』(新潮社、2014年)に収録されているが、そのなかの一部を下記に抜粋して読み直してみたい。

   *****


  信ずることと知ること 

 この間テレビで、ユリ・ゲラーという人が念力の実験というのをやりまして、大騒ぎになったことがありましたね。私の友達の今日出海君のお父さんは、もうとうに亡くなったが、心霊学の研究家だった。インドの有名な神秘家、クルシナムルテという人の会の日本でただ一人の会員でした。私はああいう問題には学生の頃から親しかったと言ってもいい。念力というような超自然的現象を頭から否定する考えは、私にはありませんでした。今度のユリ・ゲラーの実験にしても、これを扱う新聞や雑誌を見ていますと、事実を事実として受けとる素直な心が、何と少いか、そちらの方が、むしろ私を驚かす。テレビでああいう事を見せられると、これに対し嘲笑的態度をとるか、スポーツでも見て面白がるのと同じ態度をとるか、どちらかだ。念力というようなものに対して、どういう態度をとるのがいいかという問題を考える人は、恐らく極めて少いのではないかと思う。今日の知識人達にとって、己れの頭脳によって、と言うのは、現代の通念に従ってだが、理解出来ない声は、みんな調子が外れているのです。その点で、彼等は根低的な反省を欠いている、と言っていいでしょう。
 その時分、私が丁度大学に入った頃、ベルグソンの念力に関する文章を読んで心を動かされた事があります。その文章は、一九二二年にベルグソンがロンドンの心霊学協会に呼ばれて行なった講演なのです(「生きている人の幻と心霊研究」)。その大体のところは、今でもよく覚えていますので、お話ししょうと思います。
 ベルグソンが或る大きな会議に出席していた時、たまたま話が精神感応の問題に及んだ。或るフランスの名高い医者も出席していたが、一婦人がこの医者に向ってこういう話をした。この前の戦争の時、夫が遠い戦場で戦死した。私はその時、パリにいたが、丁度その時刻に夫が塹壕で斃れたところを夢に見た。それをとりまいている数人の兵士の顔まで見た。後でよく調べてみると、丁度その時刻に、夫は夫人が見た通りの恰好で、周りを数人の同僚の兵士に取りかこまれて、死んだ事が解った。この間題に関するベルグソンの根本の考えは実に簡明なのです。
 この光景を夫人が頭の中に勝手に描き出したものと考えることは大変むずかしい。と言うよりそれは殆ど不可能な仮説だ。どんな沢山の人の顔を描いた経験を持つ画家も、見た事もないたった一人の人の顔を、想像裡に描き出す事は出来ない。見知らぬ兵士の顔を夢で見た夫人は、この画家と同じ状況にあったでしょう。それなら、そういう夢を見たとは、たしかに精神感応と呼んでもいいような、未だはっきりとは知られない力によって、直接見たに違いない。そう仮定してみる方が、よほど自然だし、理にかなっている、と言う考えなのです。
 ところが、その話を聞いて、医者はこう答えたという。私はお話を信ずる。貴方は立派な人格の持主で、嘘など決して言わない人だと信じます。しかし、困ったことが一つある。昔から身内の者が死んだ時、死んだ知らせを受取ったという人は非常に多い。けれども、その死の知らせが間違っていたという経験をした人も亦非常に多い。つまり沢山の正しくない幻もあるわけです。どうして正しくない幻の方をほっておいて、正しい幻の方だけに気を取られるのか。たまたま偶然に当った方だけを、どうして取り上げなければならないか、とこう答えたというのです。会議後、同席していたもう一人の若い女性がベルグソンに向って、「先きほど、あの先生のおっしゃったことは、私にはどうしても間違っていると思われます。先生のおっしゃることは、論理的には非常に正しいけれど、何か間違っていると思います」と言ったというのです。これを聞いたベルグソンは、私はその娘さんの方が正しいと思った、と書いている。
 これはどういうことか。ベルグソンはその講演で、こういう説明をしています。一流の学者ほど、と言ってもいいが、学者は自分の厳格な学問の方法を固く信じているから、知らず識らずのうちに、その方法の中に這入って、その方法のとりこになって了うという事がある。だから、いろいろな現象の具体性というものに目をつぶってしまうものだ。今の場合でも、その医者は夫人の見た夢の話を、自分の好きなように変えてしまう。その話は正しいか正しくないか、つまり夫人が夢を見た時、確かに夫は死んだか、それとも、夫は生きていたかという問題に変えてしまうと言うのです。しかし、その夫人はそういう問題を話したのではなく、自分の経験を話したのです。夢は余りにもなまなましい光景であったから、それをそのまま人に語ったのです。それは、その夫人にとって、まさしく経験した事実の叙述なのです。
 そこで結論はどうかというと、夫人の経験の具体性をあるがままに受取らないで、これを、果して夫は死んだか、死ななかったかという抽象的問題に置きかえて了う、そこに根本的な間違いが行なわれていると言うのです。
 なるほど科学は経験というものを尊重している。しかし経験科学と言う場合の経験というものは、科学者の経験であって、私達の経験ではない。日常尋常な経験が科学的経験に置きかえられたのは、この三百年来のことなので、いろいろな可能な方向に伸ばすことができる、私達が、生活の上で行なっている広大な経験の領域を、合理的経験だけに絞った。観察や実験の方法をとり上げ、これを計量というただ一つの点に集中させた、そういう狭い道を一と筋に行ったがために、近代科学は非常な発達を実現出来た。近代科学はどの部門でも、つまるところ、その理想として数学を目指している。
 人の心の定めなさは誰も感じている。人間精神の動きの微妙さは計量計算には到底ゆだねられない。そこに精神的なものの本質があると言っても、常識にそむくまい。そこで近代科学の最初の動きは精神現象を、これと同等で、計量出来る現象に置きかえられないかという探究だったのです。十七世紀以来、脳の動きが心の動きと同等であるかのように研究は進められて来た。脳の本性は知られていないとしても、それは力学上の事実に分解出来る事は確かですから、精神科学は脳の事実に執着すればよかったのです。
 常識は、脳と意識に密接な関係がある事を否定してはいない。しかし心身は厳密に並行しているなどとは考えていない。脳の分子や原子の運動によって表現したところを、意識の言葉によって繰返す、そんな贅沢を自然はしたろうか。無用な機能は消えて了うのが自然の傾向である。くり返しに過ぎぬ意識など、たとえ生れたとしても、宇宙から消えていた筈でしょう。私達の行動にしても、習慣によって機械的なものになれば、無意識になることを、誰でも知っています。ベルグソンは、常識に従った。常識の感じているところへ、決定的な光を当ててみる事は出来ないかと考えたのです。そして失語症の研究に這入って行った。脳の中に、判断や推理の働きの跡があると考える理由などないが、失語症という言葉の記憶の病気は、脳の或る局所の傷害に対応しているのです。彼は失語症の研究を長い間した後、心身並行の仮説は成立しないという結論を得た。脳髄の、記憶が宿っていると仮定されているところが損傷されると、人間は、記憶が傷つけられるのではなくて、記憶を思い出そうとするメカニズム、記憶を感知する装置が傷つけられるのです。そのため人間は記憶を失うので、記憶自体は少しも傷つけられてはいない。もし並行しているならば、そういう局所に損傷を受ければ、記憶そのものがなくなってしまうわけです。しかし、記憶自体はなくならない。ただそれを呼び起すメカニズムが損傷されるから、記憶がまるでなくなってしまうような状態になる。
 ベルグソンのたとえで言いますと、脳は精神というオーケストラを指揮している指揮棒だが、指揮棒は見えるが音は決して聞えないという風になっている。僕等の脳髄はパントマイムの器官なのです。パントマイムの舞台で、俳優がいろいろな仕草をするのを、僕等は見ることができる。脳髄の運動はそういう仕草をしている。けれども台詞は決して聞えない。この台詞が記憶なのです。精神なのです。だから脳髄は精神の機能ではない。脳髄は、人間の精神をこの現実の世界に向けさせる指揮をとる装置なのだ。だから彼は、人間の脳髄は現実生活に対する注意の器官であると言う。注意の器官だが、意識の器官ではないのです。意識を、この現実の生活につなぎとめる作用をしているのです。私達はみな、忘れる忘れると不平そうに言いますが、人間にとって忘れる事はむずかしい、生きる為に忘れようと努力しているというのが真相なのだ。例えば溺れて死ぬ男が、死ぬ前に自分の一生を一度に思い出すとか、山から崩落する男が、その瞬間に自分の子供の時からの歴史をぱっと見るとかいう話は、よく知られている事実です。記憶が一時によみがえる。何故そうなるかというと、その時、その人間は、この現世、現実生活というものに対する注意力を失う、この現実に対して全く無関心になるからなのです。人間は脳髄というものを持っているお蔭で、いつも生活に必要な記憶だけを思い出すようになっている。脳髄はいつでも、僕等に現実の生活をするのに便利な記憶だけを選んで、思い出させるようにしている。その注意の器官たる脳髄の作用が、異常な状態の裡で衰弱すると、全記憶はぱっと出て来る、そういう事も無理なく考えられる。だから諸君はいつでも、諸君の全歴史をみんな持っているわけだが、有効に生活する為には、そのような具合に全記憶が顔を出されては困るから、それは無意識の世界に追いやられる。諸君の意識は、諸君がこの世の中にうまく行動するための意識なのであって、精神というものは、いつでも僕等の意識を越えているのです。その事を、はっきりと考えるなら、霊魂不滅の信仰も、とうの昔に滅んだ迷信と片附けるわけにもいかなくなるだろう。もしも、脳髄と人間の精神が並行していないなら、僕の脳髄が解体したって、僕の精神はそのままでいるかも知れない。人間が死ねば魂もなくなると考える、そのたった一つの根拠は、肉体が滅びるという事実にしかない。それなら、これは充分な根拠にはならない筈でしょう。
 私がこうして話しているのは、極く普通な意味で理性的に話しているのですし、ベルグソンにしても、理性を傾けて説いているのです。けれども、これは科学的理性ではない。僕等の持って生れた理性です。科学は、この持って生れた理性というものに加工をほどこし、科学的方法とする。計量できる能力と、間違いなく働く智慧とは違いましょう。学問の種類は非常に多い。近代科学だけが学問ではない。その狭隘な方法だけでは、どうにもならぬ学問もある。
 ベルグソンが記憶の研究に這入っていった頃、心理学の方でも、意識心理学から無意識心理学への転換が行なわれる機運が来ていた。これはどういう事だったかというと、一と口で言えば、唯物論の上に立った自然科学の方法だけを頼んで人間の心を扱う道は、どうしてもうまく行かなくなったという事です。心はそれ自体で存在するものではなく、私達の感官によって確かに知る事が出来る物的現象の現れである。そう考えるのが、心に関する空論を一切排して、心を研究する唯一の道である、とする心理学者の自負が崩れて来たという事なのだ。心は物的現象の現れだというが、そういう心理学者のうち、一人として、何故、物が意識となって現れるのか知っているものはない。それが不問に附されているなら、其処には現れという言葉しかないという事になる。そういう反省が始まったと言ってもよいのです。大昔の人達は、誰も肉体には依存しない魂の実在を信じていた。これは仮説を立てて信ずるという点で、近代心理学者達と同格であり、何も彼等の考えを軽んずる理由はない。精神より物質を優位に据える仮説では、いろいろ不都合が生ずる事になるなら、精神は、無意識と呼んでいい、近附き難い、謎めいた精神的原理の上に立つと考え直してみるのもいい事だ、新しい道が拓けるかも知れない、という事になったのです・・・・・。

    小林秀雄『学生との対話』新潮社、2014年、pp.159-167




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                                    [参考資料 35] 2019.09.26

   催眠療法によって得られた霊的真理


    マイケル・ニュートン『死後の世界を知ると人生は深く癒される』
           (澤西康史訳)パンローリング(株)、2014

       Michael Newton, Destiny of Souls: New Case Studies of Life between Lives,
            Llewellyn World Wide Ltd, Woodbury, MN, USA



 著者のマイケル・ニュートンは、この本の著者紹介によると、カウンセリング心理学の博士号をもつ公認催眠療法修士である。最初の著書、『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』は、全米でベストセラーになり、10ヶ国語に翻訳されているらしい。スピリチュアルな退行催眠療法のパイオニアとして、国際的な名声を博しているという。

 ここでは、退行催眠療法の被験者との接触によって得られた数多くの霊的真理のなかから、4つの項目を抜き出し、以下に紹介する。


     *****


 1.死後に体験する霊界の概要

 死の瞬間、魂は肉体から脱け出します。この魂が幾多の前世で経験を積んでいれば、すぐ自由になり本来の居場所に帰ろうとします。このような進歩した魂には出迎えの必要がありません。しかし被験者の大半はガイドの出迎えを受けます。誰かが迎えに来てくれないと道に迷ってしまうからです。
 多くはすぐに目的地へと出発しますが、なかには悲しんでいる人を慰めようとしたり、あるいは何かほかの理由で出発をためらう魂もいます。肉体のない彼らにとって、もはや時間は意味をなさなくなっているのです。
 物質世界から離れると、魂は輝きを増す光に包まれていくのを感じます。なかにはまだ暗いうちに光の中に入っていく魂もいますが、この違いは魂の経験度によるものです。後で登場するガイドの誘導も、魂の成熟度や適応力によって変化します。
   この光のトンネルを抜けると「薄いモヤのような雲」に遭遇しますが、すぐに晴れて遠くまで見渡せるようになり、前方からモヤモヤとしたエネルギーの塊が向かってくるのを目にします。このエネルギーの存在は愛するソウルメイトの場合もありますが、ほとんどは自分のガイドです。先に旅立った伴侶や友人と出会うときもガイドがそばにいて、移行のプロセスを手助けしてくれます。
  魂がスピリット世界に慣れてくると、人間の感情や性格、肉体的外観などは人間ではなくなってきます。例えば魂は人間のように死を悲しんだりしません。人間を人間たらしめているのは魂ですが、肉体を失った今、もはやホモサピエンスではないのです。死の直後、魂は急に違和感を覚えますが、それは頭脳と神経中枢をもつ肉体の束縛から解き放たれるからです。なかにはその調整に手間取る魂もいます。
  魂のエネルギーはホログラムのように同等の複数部分に分かれることができます。あまり一般的ではありませんが、別々の肉体で並行した人生を生きることも可能なのです。しかしすべての魂はエネルギーの一部を常にスピリット世界に置いてきます。だからこそ三十年前に亡くなり、今再び別の人生を生きているあなたのお母さんと、スピリット世界に戻ったときに会うことができるのです。
  魂グループに加わる前に行われるガイドとのオリエンテーション(適応指導)の期間は、魂によって、あるいは人生によっても変わってきます。それは穏やかなカウンセリングですが、今終えた人生への不満を発散できる機会にもなります。オリエンテーションは洞察力と慈愛に満ちた教師ガイドによる、ゆるやかな査察を伴う最初の報告の場として位置づけられています。
  この会合は私たちが人生契約に基づき「何を達成したか、あるいはできなかったか」という結果によって、長くもなれば短くもなります。大きな過ちを犯してしまった魂は、すぐに魂グループに帰ることはできません。不本意にも犯してしまった過ちと、意図的な行為との間には違いがありますから、その危害の程度が時間をかけて注意深く検討されるからです。
   悪い行いに関わった魂は、エネルギー浄化のために「集中保護施設」と呼ばれる特別なセンターへ連れて行かれます。犯した罪の程度にもよりますが、こうした魂はかなり早い時期に地球に送り返され、その犯した過ちは未来の人生で何らかの形で是正されなければなりません。これは処罰でも償いでもなく、あくまでもカルマ的な成長の機会なのです。
 過酷な人生を送った魂は、ひどく疲れて仲間の元へたどり着きます。スピリット世界のゲートでガイドが魂を回復させますが、それでも十分でない場合があります。こういうケースでは仲間の元に帰る前に、静かに休息をとることが大切です。現に多くの魂が仲間との合流前に休息を希望します。
 魂グループの出迎えはさまざまですが、帰還する魂を深い愛情と仲間意識とで迎えるという点ではみな一致しています。ほとんどの人が抱擁と笑いとユーモアで迎えられたと言い、それこそがスピリット世界の特徴的な出迎えのようです。(pp.14-16)




 2.次の人生を検討する未来の映写室

 「運命のリング」と呼ばれる人生選択の場には光を放つスクリーンがあり、私たちはそこで次の人生の肉体を初めて見ることになります。被験者たちはこのリング(円舞台)を床から天井までのパノラマスクリーンがぐるっと取り囲んだ映画館のようだと言います。
 リングは魂が次の人生で遭遇するはずの出来事や人々の光景を、それぞれのスクリーンで映し出したり、候補となる肉体の幼少期から老年期までの場面を映し出したり、あるいはすべてのスクリーンが一度に一つの場面を映し出すこともあります。映し出された画面の傍観者になるか参加者になるかは魂の自由です。でも多くは最終的に肉体を決定する前に、その人生を実際に体験したいのでスクリーンに入ることを選びます。
   このリングにも操作盤やレバーがあり、これらの操作は時系列のスキャニング(走査)と呼ばれます。進歩した魂なら目の前で展開する出来事を心でコントロールすることもできるそうです。映像を一時停止して、もっとじっくり検討するのです。
 被験者たちは見ている画面が彼らのために編集されている、つまり見たいものをすべて見られるわけではないことを知っているようです。それだけでなく、彼らは後半生よりも初期の人生を多く見せられたと感じます。これは報告に伴うバイアス、先入観なのかもしれません。というのも私が被験者に会った時点までの人生は終わっているからです。
 新たな人生でもっとも注目すべきは八歳から二十歳までで、この時期に人生の最初の大きな岐路に遭遇します。「特定の数年間は詳しく見ることができるのに、ほかの部分は完全に無視されている」と多くの人たちが言います。その意味では操作盤は何の役にも立たないのですが、被験者はそれほど気にしていないようです。ここには記憶喪失のブロックが働いているのでしょう。ある男性は「現在の肉体の四歳、十六歳、二十四歳のときの場面までは覚えていますが、それ以降に見たものはよく覚えていないのです」と言っています。
   スクリーンを見ていると、まるで水のフィルムでできているかのように満ち潮のような動きを繰り返します。次の報告はこの様子をきわめて的確に表現しています。
   スクリーンが動き始めると、あたかも水面下にある水族館に入っていくような感じです。深呼吸をして水に潜っているように、目の前を人々や場所や出来事が−瞬のうちに流れ去っていきます。そして水面まで戻ります。検討中の人生の一場面を見せられている時間が、水中に潜っている時間に相当するのです。
 今の人生の肉体を選んだときの経験、その感想が、私の催眠セッションでもっとも情報に富み治癒にも役立ちます。私の臨床ワークは、現在の人生に深く関わるリングの場面に戻ったときに一気に展開が加速します。このプロセスをより分かりやすく読者に提示して、それぞれの人生の選択がいかに重要なものであるかを、多くの人に知ってもらいたいと思っています。
 この章では専門分野に加えたい最後の一つタイムマスターを紹介します。彼らは人々や出来事の過去、現在、未来の時系列を調整する専門家で、このリングという円形劇場の監督のような存在です。この魂は、私たちの未来設計に関与しているガイドや記録管理者、評議会の長老たちと同じ共同体に属しています。リングでタイムマスターを見かけることはありません。映写技師以外は自分一人しかいないと感じる者もいますし、人生選択の決断を助言してくれるガイドや長老と一緒にいる者もいます。
 自分自身の決意はどうかというと、多くの魂は次の転生についてすでに考えをまとめています。それでもここに入ると、魂は脅威や不安を感じ、本当はまだ心の準備ができていないことに気づきます。タイムマスターは姿を現しませんが、もし被験者に彼らが見えたとしても言葉を交わすことはありません。ケース62を見てみましょう。

 [ケース62]
 ニュートン 人生選択の部屋へ入ったら、そこで何が起きているのか説明してください。
 被験者 ガイドのフィームを手伝う二名の者が前に出てきました。
 ニュートン 新しい人生に入る前には、必ずここで彼らに会うのですか。
 被験者 いいえ、肉体の選択が難しいときや次の人生がきわめて困難なときだけですね。
 ニュートン 肉体の選択肢が多すぎるのか複雑な事情の肉体を選ばねばならないのか、どちらでしょう。
 被験者 そうですね……私はたいてい数名の肉体から選ぶんですよ。そのほうが簡単ですから。
 ニュートン フィームと話している専門家たちの名前は知っていますか。
 被験者 (椅子の中でびくっとして)知るわけないでしょう! ここは……時間のマスターたちと気楽に話せるような雰囲気じゃありません……だからフィームがついて来るんですよ。
 ニュートン なるほど。ではあなたに人生を見せてくれるタイムマスターたちについて教えてください。
 被験者 (リラックスして)いいですよ。一人は見た目が男性的で厳格な感じです。彼は私にもっとも有意義な肉体を選ばせたがっています。この肉体なら次の人生で十分に必要な経験ができそうです。
 ニュートン 意外ですね。リングの監督は控えめであまりしゃべらないと聞いていますが・・・・・・・。
 被験者 そうなんですが、立案者たちがベストと考える選択があって、そうした肉体は特に念入りに提示されるんです。彼らはこの初対面の候補者たちから最適のものを選んでほしいんです。
 ニュートン そのようですね。もう l人についても話してもらえますか。
 被験者 (ほほ笑んで)彼女は女性的でもっと温和です。私に楽しい人生を過ごせる肉体を選ばせたいようです。「レッスンを学ぶ時間は十分にあるから」と言って別の肉体を見せています。
 ニュートン 警察の尋問で厳しい刑事と優しい刑事がいるような感じですか。
 被験者 (笑って)そうです。両陣営にお勧めの候補がいて、フィームは中立的立場なわけです。
 ニュートン では、フィームはある意味で調停役ということでしょうか。
 被験者 それは……違います。私がどちらを選ぶか迷っていても、フィームは関知しません。肉体を選ぶのは結局、一緒に生きていく私自身なんです。
 ニュートン 自分の選択に責任をもたなければならないことは確かですね。前世ではどんな肉体を選んだのか、少し話してもらえませんか。
 被験者 私は結婚して二年後には死んでしまう女性の肉体を選びました。夫は前世のカルマを埋め合わせるために、深く愛した人が死んでしまう悲しみを経験する必要があったのです。
 ニュートン 若いうちに死んでしまう可能性が高い肉体をどうして選ぶのでしょうが。
 被験者 ええ、そこです。
 ニュートン では、その辺の事情を話してもらえますか。
 被験者 映写室で三つの死に方を見せられました。いずれもテキサス州アマリロ郊外の牧場での短い人生です。第一は二人の酔っ払いの喧嘩で流れ弾に当たって即死する。次は暴れ馬から落ちてゆっくりと死ぬ。最後は川で溺れて死ぬ。この三つです。
 ニュートン 生き延びる可能性はなかったのですか。
 被験者 (間があって)あることはありましたが、それではあの肉体を選んだ意味がないでしょう。
 ニュートン というと?
 被験者 ソウルメイトと私はこの牧場で夫婦になりましたが、それは彼にレッスンが必要だったからです。私はほかの肉体を断って彼を手伝うことにしたのです。
 ニュートン 三つの候補を前にして、あなたはどの肉体を選んだのですか。
 被験者 私は銃弾で死ぬ肉体を選びました。当然です。重要なのは若くして死ぬということですから。

 読者はカルマの法則と未来の可能性や確率とのつながりを疑問に思われるでしょう。カルマは私たちの行為に関わるだけでなく思考や感情、衝動を反映した内面的なものでもあり、すべてが原因と結果につながります。カルマは他人に正しい行動をとるだけでなく、正しい意志をもつことも求めます。
 アマリロの女性は早死にする運命でしたが、それは細部まで確定していたのではありません。その肉体を選ぶ魂によって違ってくるのです。短命が予想される肉体を選んだとしても、自由意志は考慮されるべきです。この女性が撃ち合いの流れ弾で死んでしまうことは、百パーセント確定していたことではなかったようです。
 その日彼女がアマリロに買出しに行っていなかったらどうなっていたでしょう、と尋ねると、彼女はこう言いました。「ええ、でもちょうどそのとき町に行くようにと何かが私を急き立てたんです。なぜだか分からないけれど思いとどまろうとする気持ちもありました」。
 もし別の魂だったら、なぜかわからないままにぎりぎりのところで、そこに行っていなかったのかもしれません。 (pp.342-346)




 3.自由意志と運命について
    ― 運命とは伺千年にもわたる転生と選択の結果である

 バンクーバーで何度目かの講演をしたとき、ある女性が取り乱して言いました。「あなたのようなニューエイジの専門家は、私たちには人生の選択をする自由があると言い、一方で過去のカルマのせいで何かの計画に従う運命にあると言いますが、いったいどっちなんですか。私には自由意志はありません。抵抗できない力に翻弄されていますから。私の人生は悲しみでいっぱいです」。
 講演が終わってこの女性の隣に座り話を聞いてみると、彼女の十九歳の息子が最近オートバイ事故で亡くなったということでした。
 多くの人は自由意志と運命は反対のものだと考えます。運命とは何千年にも及ぶ無数の転生の総計だと分かっていないのです。そのすべての人生で私たちには選択の自由がありました。現在の人生は好ましいものも好ましくないものもすべて過去の経験の表れであり、これまでの選択の産物なのです。
 これに加えて、私たちは現在の状況に意図して身を置いて、人生の出来事に対応すべく試練を受けていますが、自分がそれを選んだことを意識していません。これにも個人的な選択が関係しています。その若者は、母親も認めていますが、スピードを追い求め、執着し、その危険性から高揚感を得ていたのです。
 前章では時間をテーマに未来の可能性と確率をお話ししましたが、この章では自由意志が意味するものについて探ってみることにしましょう。
 人生のすべてが運命づけられていたら転生の意味はなくなってしまいます。未来の予感は正しいかもしれないし間違っているかもしれません。誰かがある場所である時間に自分が殺されるのを見たが、それが起こらなかったとしたら、その起こり得た結果が示唆するのは、それが多くの可能性の中で緊急の対応を必要としたものだったということです。
 自由意志とは反対の決定論の立場からすると、地球上に病気、苦痛、飢餓、恐怖に苛まれる人間が満ち溢れている責任は、唯一の「源泉」、または複数のより小さな神々の集団にあります。私たちは地震、ハリケーン、洪水などのコントロールが及ばない自然災害のある世界に生きています。何度も言うように、地球は魂たちからは非常に難しい学校と見なされています。地球の重要なレッスンとは、人生で、世の中や自身の中にある否定的な力に打ち勝って、その努力によって強くなり、さらに前進していくことです。
 私たちは自分を守るためにいろいろな対策を講じます。カルマはときに懲罰的に感じられますが、悲しみの中にも私たちの気づかない公正さやバランスがあるのでしょう。自分が霊的なパワーから切り離されたときに恐怖が起こってきます。
 私たちは人生が始まる前から、自ら選んだ多くのチャレンジを知っていました。肉体が関与する事故も魂からすれば事故でないことは、すでに多くのケースで指摘してきました。例えばケース62の撃ち殺されたアマリロの女性がそうでした。私たちの真の自己には、逆境のときに自身の性格的弱さに打ち勝って乗り越えるパワーがあります。そして自分で責任を引き受けることができるなら、どんな大惨事の後でも人生を立て直す自由があるのです。
 試練を与える出来事以上に重要なのが、それらの出来事に私たちがどう対応したかです。これが記憶喪失が起こる根本的な理由なのです。すでに指摘しましたが、魂は通常しかるべき理由があって、次の人生で起こるすべての選択肢を見せられません。一部の人は魂の記憶を自発的に思い出せますが、それは例外です。
 記憶喪失が自由意志と自発的決定を可能にし、映写室で見た光景の無意識のフラッシュバックに縛られなくなります。私たちが見る次の人生の光景は選別されたもので、紹介したケースでも分かるように、人生が終わった後にすべての起こり得た選択肢を振り返る機会を与えられます。
 自由意志について典型的な例があります。
 ゲティスパーグ近くに住んでいたジョンという被験者は、一八六三年にゲティスバーグの戦いで北軍の初年兵として出征し戦死しました。まだ十六歳でしたが、ジョンには恋人がおり、二人は将来の結婚を考えていました。
 三日間の戦闘が始まる前夜、連邦軍の士官がジョンの地区に馬で乗り込んできました。彼は乗馬の上手な非戦闘員の伝令を探していたのです。ジョンは軍隊に入ることは考えていませんでしたが、北軍の士官はジョンに目をつけると、戦闘が終われば兵役期間は終了すると約束しました。ジョンは優れた馬の乗り手だったので、衝動的に連邦軍の騎手になることに同意しました。というのも、彼は大冒険ができるチャンスを逃したくなかったからです。彼は誰にも別れを告げずに出発し、翌日戦死したのです。
 自分の身体の上に浮かんでいるときも、自分が死んで地面に横たわっているとは信じられませんでした。スピリット世界のグループに戻って、彼はローズが残したエネルギーのエッセンスと会うと、ローズはジョンを見た瞬間叫びました。「なぜここに戻ってきたの? 私たちは結婚するはずだったのに!」。
 ソウルメイトたちはすぐに気づいたのですが、ジョンは本来の人生から外れる道を衝動的に選んでしまったのです。とはいえ、どんな道にも何らかのカルマ的な恩恵があります。ジョンの束の間の軍隊経験がそれなのかもしれません。
 私はこの被験者に尋ねました。ゲティスバーグで何が起きるのか、映写室で見せられなかったのかと。彼は言いました。「いいえ、私は彼らが見せてくれた十六歳までの人生だけでこの肉体を選びました。人生が始まる前に、それ相応の理由があって、知る必要のある部分しか見せられないことがあることは知っていました。私はガイドの判断を信頼したんです」。ジョンはゲティスハーグで死んでしまう可能性を見せられなかったのですが、これはよくあることです。
 では若くして死ぬ可能性がきわめて高いものの、その経験から個人的に得るものが大きいという理由で、立案者がその肉体を勧めるケースはどうなのでしょうか。
 ナチスドイツのホロコーストの被害者になることを志願した英雄的な魂を手がけた退行催眠療法家を何人も知っていますが、私もその一人です。これは死のキャンプを経験した多くの魂が、今やアメリカで新たな人生を送っているという証しでしょう。
 どんな惨事にも別の選択肢があります。過酷なケースの場合、魂が人生前のリハーサルでやがて起こることへの準備をしていることもあります。次の報告を見てみましょう。
 円形劇場のような施設にたくさんの予習クラスの魂が集まっていて、そのそばを通り過ぎたときのことです。彼らはごく短期間の人生に備えて、生命の大切さに関する講師の話を熱心に聞いていました。彼らは何らかの災害でみな一緒に死んでしまう人生を志願したのです。心の準備を整えるように、与えられた時間を精いっぱい生かすように、そうすれば次の人生でもっと長生きできるでしょう、と諭されていました。(pp.358-362)




 4.なぜ今スピリット世界の扉が開いたのか

 記憶喪失のブロックが緩んで、スピリット世界の研究が可能となったのはどうしてなのか、という疑問が生じるのももっともなことです。私は若い世代の催眠療法家たちに、私が成し得たことをはるかに超える領域へと前進してほしいと思い、この疑問について深く考えました。死後の生に関する数多くの発見は、私たちが二十世紀に生きたことの直接的な副産物なのだと思います。
 催眠の革新的な技法の発達も考慮に入れるべきでしょう。しかしこの三十年間で、私たちの記憶喪失がその効力を失うに至ったもっと決定的な理由があるのではないでしょうか。人間にこれほど多様な薬物が普及したことはかつてありませんでした。こうした精神を変容させる化学物質は、その心に霧をかける作用によって魂を肉体に閉じ込めてしまいます。魂のエッセンスは、化学物質の中毒になった心を通じては自分自身を表現できません。向こう側の立案者たちは人間社会のこの局面に我慢できなくなったのではないでしょうか。
 ほかにも理由はあります。二十世紀も終わりに近づき、私たちはあらゆる面で激動の時代に生きています。この百年間の地球に対する大規模な破壊は人類史に類を見ません。だからといって未来に暗い見通しをもっているわけではありません。私たちはこの百年間で、文化的にも政治的にも経済的にも大きな発展を遂げました。一九五〇年よりも現在のほうが世界ははるかに安全な場所になっています。私たちが二十一世紀に直面しているのは、物質主義に支配される人口過密な社会での個人主義と、人間の尊厳の形骸化です。グローバル化や都市の肥大化が孤独と孤立を促進しています。多くの人が生き延びるだけで精いっぱいなのです。
 不滅性への扉が開いているのは、それを知ることが逆に悪い効果をもたらすという偏見を否定するためではないか、と私は考えています。私の経験では、地球上の何かがうまくいっていないときには、スピリット世界でそれを変えることができます。
 記憶喪失のブロックが人間の中に設けられたのは、一定のカルマの出来事への先入観的な反応を抑止するためでした。しかし記憶喪失の利点はもはや、薬物に誘発される負の側面を上回ることができなくなってしまったのです。多くの人が現実から逃れようとするのは、自分のアイデンティティに目的や意味があると思えないからです。麻薬やアルコールはさておいても、この人口過密なハイテク社会で物質的エゴに支配され、人々は精神の空虚さを感じています。自分の真の自己にほとんど、あるいはまったくつながりがなくなっているのです。
 私たちはそれぞれが唯一の存在でほかの誰とも違いますから、自分の精神性を見つけようと内面の安らぎを求めている人に、それが重くのしかかっているのです。他人の信念体系に自分を合わせようとすれば、それは個性の一部を失うことになります。自己を発見し自身の哲学を打ち立てる道は努力を要しますが、得るところは大きいのです。まず自分自身を信頼するところから始め、ゴールへの道はたくさんありますが、カミュはこう言っています。「合理も非合理も同じ理解へと到達する。まさしく、旅した道が問題なのではなく、到達しようとする意志だけで十分なのだ」。
 地球の迷路を旅していても死後の世界の光景が、私たち一人一人の中に聖域として存在します。私たちの永遠の故郷を断片的であれ明らかにすることは容易ではなく、けっして人生の気晴らしでやっているのではありません。人生に疑問を抱かず、起こるべきことは起きるのだと達観して、あるがままを受け入れることは悪いことではないのです。もっと知りたいという欲求がある者にとっては、人生をそのまま受け入れることには納得がいかないかもしれません。これらの旅人に対して、人生の神秘が「生きていることには意味があるのだ」と大きな声で叫んでいます。
 自身の精神のあり方を考えるにあたって、「私はどんな行動規範を信じているのか?」と自分に尋ねてみることは大事です。無信仰な人々は権威的宗教が押しっける倫理的な責任から逃れようとしている、と言う神学者たちもいます。しかし私たちは死後に宗教組織によって審査されるのではなく、自分の振舞いと真価によって評価を受けるのです。しかも魂は自分のために何をしたかよりも、他人のために何をしたかで評価されるのです。
 もし伝統的な宗教活動があなたの目的に合っており、精神的に満たされているのなら、あなたはたぶん教典の信仰から刺激を受けているのでしょうし、仲間と一緒に礼拝をしたいのでしょう。形而上派のグループに参加し、同じような考え方の人たちと決められたスピリチュアルな文献の理念に従うことで満足を得ている人たちも、やはり同じものに引かれているのでしょう。これらがその人の精神的成長に寄与したとしても、それが誰にでも合うわけではないのです。
 内面の安らぎが得られないなら宗教的なグループに属する意味がありません。高所から聞いてくれる存在がいないとなれば、私たちはみな孤独になり、導きも得られず、内なるパワーからも切り離され人生からの離脱が起こってきます。
 私は人生の多くを研究に費やしてきましたが、特定の宗教的基盤をもたなかったので、変わらぬ信仰心をもっている人には深い尊敬の念を抱きます。宗教的・スピリチュアル的な知識には根拠がないので受け入れないという無神論者や懐疑論者がいます。彼らにとって、ただ信仰をもっているだけでは何かを知っていることにはなりません。私がこうした人たちに共感するのは、自分自身もその一人だったからです。催眠療法を続けるうちにその副産物として、私はだんだんと死後の世界を信じるようになりました。私自身の精神的な気づきもまた、この研究にかかわる何年にも及ぶ個人的な瞑想と内省の賜物だったのです。
 霊的な気づきは個人的な探求であるべきで、そうでないと意味がありません。私たちは身近な現実から大きな影響を受けながら一歩ずつ行動します。間違った方向に一歩踏み出すことさえも、私たちには多くの道があるのだと教えるために意図されているのです。
 魂の自己を物質的な環境と調和させようとするとき、私たちには「自分はなぜここにいるのか」という探究につながる自由意志が、選択する自由が与えられています。私たちは人生の不幸を他人のせいにすることなく、すべての責任を負わなければなりません。
 前にも述べましたが、自分の使命を果たすためには他者をも助けなければならないし、他者を助けることが結果として自分をも助けることになります。私たちは自然のいたずらで肉体を与えられたのではなく、スピリット世界の立案者が候補を選び検討し、私たち自身がその受け入れに同意したのです。ですからあなたは偶然の犠牲者ではないのです。あなたは傍観者ではなく人生の積極的な参加者としてこの肉体を任されたのです。そしてこの聖なる契約という視点を失うべきではなく、私たちが地球上で果たす役割は事実上、私たち自身よりも大きいということを意味するのです。
 魂のエネルギーは、私たちでは知りえない高次元の存在によって作られました。そのため内なる神性の断片を見つけるには、一人の人間としての自分に焦点を当てなければなりません。個人的な洞察を得る唯一の条件は自主性です。自分がこのような人間としてここに存在するということ、それが人生の重要な真理なのです。(pp.385-389)






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                              [参考資料 34]  2019.08.29

    『シルバー・バーチのことば』



  ロンドンで、1920年から約60年にもわたって語り続けられたシルバー・バーチのことばは、膨大な量に達しているが、それらを、このホームページでは「学びの栞」(A)で80項目に分類してまとめてきた。その要点を100 に絞って、「叡智の言葉」(A)とし、そして、「今日の言葉」でも、これは日付を入れて2007年7月までに150余のことばを抜き出してもいる。

 その後、『霊訓』の訳者の近藤千雄さんがシルバーバーチの180 あまりのことばを選んで、『シルバーバーチ 今日のことば』(ハート出版、2008年)というタイトルで出版した。シルバーバーチの教えを簡潔にまとめたダイジェスト版といったところだが、そのなかから、さらに 34のことばを抜き出して、「叡智の言葉」(A)との重複を厭わず、下記に列挙してみることにしたい。


       * * * * * * * *


 1.  真摯な祈りは決して無駄にはなりません。思念は生きものだからです。(p.7)

 2.  霊的に見て、あなたにとって何がいちばん望ましいかは、あなた自身には分かりません。もしかしたら、あなたにとって最も嫌なことが、実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることもありえるのです。(p.10)

 3.  誰にでも、もう一度やり直すチャンスが与えられます。墓場で人生は終わりません。苦難の生涯を送った人や挫折の人生に終わった人にも、埋め合わせとやり直しのチャンスが与えられ、地上界のために貢献しながら逆賊の汚名を着せられた人にも、悔し涙をぬぐうチャンスが与えられます。(p.21)

 4.  内部の霊性を発揮すること、それが人生の目的そのものなのです。楽なことばかりで何の苦労もなく、トゲのないバラの花に囲まれての生活では、成長は得られません。発達はしません。霊性は開発されません。いつの日かあなたは、その時は嫌で仕方がなかった体験を振り返り、それらが実際はあなたの霊的進化を促す貴重な手段であったことを知って、感謝なさる日が来ることでしょう。(p.28)

 5.  他界した身内の者や友人・知人は、今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じように、あなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはいけません。彼らはもはや言葉で話しかけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身のまわりにいて、何かと面倒を見てくれています。(p,32)

 6.  今の時代に最も必要なのは、簡単な基本的真理――墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみまで大霊の愛の温もりを持つ慈悲ぶかい力が行きわたっていて、一人ひとりに導きを与えていること、それだけです。(p.35)

 7.  人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的な行為、自分より恵まれない人へ手を差しのべること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること、そうした行為こそが宗教なのです。(p.36)

 8.  人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力は、死とともに消えてなくなるのです。しかし、他人のために施した善意は決して消えません。なぜなら、善意を施す行為にたずさわることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為は、その人の性格を増強し、消えることのない霊性を魂に刻み込んでいきます。(p.45)

 9.  いかなる人間にも必ず試練と困難、すなわち人生の悩みが訪れます。いつも日向ばかりを歩いて陰を知らないという人は一人もいません。その人生の難問がどの程度まであなたに影響を及ぼすかは、あなたの霊的進化の程度にかかっています。ある人には何でもないことのように思えることが、あなたには大変なことである場合があります。反対に、ある人には大変な問題に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。各自が自分なりの運命を築いていくのです。(p.58)

 10.  絶対に許してはならないことは、不安の念を心に居座らせることです。取り越し苦労は魂を朽ちさせ、弱らせ、蝕みます。判断力を鈍らせます。理性を曇らせます。事態を明確に見きわめることをさまたげます。p.70)

 11.  体験のすべてが霊的進化の肥やしです。そのうちあなた方も、肉体の束縛から解放されて、曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば、紆余曲折した一見とりとめのない出来事のからみあいの中で、一つひとつがちゃんとした意味を持ち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解されるはずです。(p.72)

 12.  嫉妬心、貧欲、恨み、憎しみといった邪念は、身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人を殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方が、はるかに強烈です。(p.77)

 13.  苦しみとは、いったい何でしょうか。苦しみとは、自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で、精神または魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。ですが、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。なぜなら、各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は、同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません。(p.78)

 14.   いかなる事態も、本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。責任を全うしようとしたことが評価されてその分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。背負いきれないほどの荷は決して負わされません。(p.91)

 15.  人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残としての獣性もあります。人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し、神性をより多く発揮できるようになることです。獣性が優勢になれば、戦争と衝突と殺人が横行します。神性が発揮され、お互いに援助し合うようになれば、平和と調和と豊かさが得られます。(p.101)

 16.  もしも人生が初めから終わりまで楽にいったら、もしも乗り越えるべき困難もなく、耐え忍ぶべき試練もなく克服すべき障害もないとしたら、そこには何の進歩も得られないことになります。この世に克服できない悩みはありません。ですから、悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来事は、何ひとつ起きないのです。(p.103)

 17.  世間で言う、(成功者)になるかならないかは、どうでもよいことです。いわゆる「この世」的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは、自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。これさえできれば、世間がどう見ようと、自分は自分としての最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そしていよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ちうける生活への備えが十分にできているという自信をもって、平然として死を迎えることができます。(p.105)

 18.  その日一日、その場の一時間、今の一分一秒を大切に生きることです。明日のことを思いわずらうことなく 〈今〉という時に最善を尽くすのです。あなたが煩悩を持つ人間的存在であり、しかも未熟であることは神は先刻ご承知です。だからこそあなたは地上に来ているわけです。もしも完全であれば、今そこに存在していないはずです。地上生活の目的は、その不完全なところを一つでも無くしていくこと、それに尽きます。(p.109)

 19.  あなたの愛する人たち、それからあなたを愛してくれている人たちは、〈死〉を境にして物質的には別れ別れになっても、霊的には今まで通りにつながっております。愛は死よりも強いのです。愛は、霊力と同じく、宇宙で最も大切なエネルギーの一つです。(p.111)

 20.  取り越し苦労は最悪の敵です。精神を蝕みます。霊界から送られてくるはずの援助の通路を塞いでしまいます。あなたを包んでいる物的・精神的・霊的雰囲気を乱します。理性の敵でもあります。透徹した人生観と決断力という人生で最も大切な要素のさまたげになります。(p.112)

 21.  勇気を持って進んでください。落胆や失敗がないというのではありません。これからも数多くの失敗と落胆があることでしょう。しかし、いかなる事態にあっても、あなたの背後には、困難に際しては情熱を、疲れたときには元気を、落胆しそうな時には励ましを与えてくれる霊が控えてくれていることを忘れてはなりません。一人ぼっちということは決してないということです。(p.123)

 22.  人間は厳しく磨かれ、清められ、純化されなければなりません。絶頂もどん底も体験しなければなりません。地上生活だからこそ体験できるものを体験しなくてはいけません。そうした体験によって霊性が強化され、補強され、死の向こうに待ち受ける生活への準備が整うのです。(p.132)

 23.  大半の人間は、地上だけが人間の住む世界だと考えております。現在の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで物的なものを、いずれは残して死んでいかねばならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。戦争・流血・悲劇・病気の数々も、元はといえば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂なのです。それが、地上という物質の世界での生活を通じて魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。(p.137)

 24.  地上に生をうけるとき、この地上で何を為すべきかを魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するには、こういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂みずからが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために、誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま通常意識に上がってこないだけの話です。(p.139)

 25.  地上の人生は、しょせんは一つの長い闘いであり試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。魂には、ありとあらゆる種類の長所と短所が秘められております。すなわち、動物的進化の段階の名残である下等な欲望や感情もあれば、あなた方の個的存在の源泉である神的属性も秘められております。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。地上に生まれてくるのは、その試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれていますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、ぜひとも厳しい試練が必要なのです。(p.140)

 26.  あなたは、あなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。そうした営みの中で、叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にはいないはずです。(p.150)

 27.  神は、さまざまな形で人間に語りかけています。教会や礼拝堂の中だけではありません。預言者や霊媒を通してだけではありません。数多くの啓示が盛りこまれている聖典だけではありません。大自然の営みの中にも神の声が秘められているのです。(p.152)

 28.  神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっています。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも、みなぎっています。神は全生命に宿っています。全存在の内部に宿っています。全法則に宿っています。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。(p.161)

 29.  神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用します。すなわち、親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。(p.165)

 30.  人間は肉体をたずさえた霊であり、霊を宿した肉体ではありません。物質は霊のおかげで存在を得ているのです。霊こそ永遠の実在です。霊が破壊されることはありません。滅びることもありません。不死であり、無限です。(p.170)

 31.  霊はいつか肉体から離れる時が来ます。皆さんは、それを(死)と呼んでいます。人間にとって死は、相変わらず恐ろしく、そして怖く、できることなら死にたくないと思われるようですが、それは間違った考えです。私たち(霊界側)から見れば、死は霊の誕生なのです。(p.177)

 32.  皆さんもいずれは寿命を全うしてその肉体に別れを告げる時が来ます。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ捨てるときが来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると、自然にはげ落ちるわけです。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ちうける人々と再会することができます。その、めでたい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。(p.180)

 33.  事態を改善するよりも悪化させるようなことは、いかなる魂に対してもお勧めするわけにはいきません。自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。もしそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。それが自然の摂理なのです。地上の誰ひとりとして、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません。(p.186)

 34.  地上に生をうけた人間にとって、死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時が来ます。それは、もはや地上生活がそれ以上その霊に与えるものが無くなり、次の冒険へと旅立つ用意ができたということを意味します。(p.189)



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                             [参考資料 33] 2019.08.09
  シルバー・バーチの霊言 (4)


  (トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 最後の啓示』近藤千雄訳、ハート出版、2005 より)

 この本の原著は シルバー・バーチの霊言 (3) と同じである。原著の内容量が多いので、便宜上、2冊に分けて出版されたものである。要点を 9か所抜粋して以下に紹介する。見出しは便宜上私がつけた。

            Tony Ortzen ed., Lift Up Your Hearts,
              Psychic Press Ltd., London,1986


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 1.霊界からの通信

 (霊界の住民は誰でも地上の者と通信できるのでしょうか。また、みんな通信したがっているのでしょうか。通信には特別の練習がいるのでしょうか。)

 霊界から地上界へと通信を送るのは、そう簡単なものではありません。さまざまな障壁があります。が、それらを克服して通信を送ってくるのは、愛の絆があるからにほかなりません。愛もなく、地上界へ何の魅力も感じない人もいます。地上を去ったことを喜んでいるのです。さらには、死んだことに気づかず、いつまでも地上圏をうろついている者もいます。
 地上人類への愛念を抱く霊――それは必ずしも地上的血縁関のある者とはかぎりません――は、ありとあらゆる手段を尽くして地上界と接触しようと努力します。そして通信を送るテクニックを身につけます。地上界と霊界とでは存在の次元が異なります。同じ霊的存在ではあっても、地上の人間は肉体という物質にくるまれた霊です。そこに通信の難しさが生じます。こうして私が通信しているのを、あたかも受話器を取ってダイヤルを回すだけの電話のように想像してもらっては困ります。電話ですら不通になったり混線したりします。
 霊界通信にも困難はつきものです。が、愛・友情・親和性・血縁関係、それに相互の関心のあるところには、通信を可能にするための、ありとあらゆる努力が為されます。(pp.49-50)




 2.霊能養成会の会員を前にして

 (霊能養成会主催者のストーク女史が、「養成会を代表して私から、本日こうしてあなたとの語り合いの機会を設けてくださったことに厚くお礼申し上げます。この日をどれだけ心待ちにしていたことでしょう。きっと生涯忘れ得ない夜となるものと信じます。これからは、あなたの霊言集を読むたびにああ、自分はこの方と直接語り合ったのだ″と、今日のことを思い出して、その光栄をしみじみと思い出すことでしょう。皆の者に成り代って私から改めてお礼申し上げます」と切り出した)

 そのお言葉は有り難く頂戴いたしますが、いつも申し上げておりますように、私はいかなる礼も頂きません。指導霊や支配霊を崇拝の対象とする傾向に対して、私は断固として異議を唱えます。崇拝の対象は大霊以外にはあってはならないのです。
 私は地上の年数にして皆さんよりはるかに長く生きてきたというだけのことです。その間に為し遂げたことの結果として、地上の言語では説明のできない光明と美にあふれた境涯に到達することができました。
 すでに何度も申し上げた通り、そういう境涯にいる同輩の多くに、地球浄化の大事業への参加の要請があったのです。それには、これまでたどってきた道のりを逆戻りしなければなりません。が、私は喜んでお引き受けして、それまでに蓄積した体験から得た知恵、知り得た大自然の摂理の働き、宇宙の大霊についての理解と崇敬の念、およびその大霊から届けられる恵みのすべてを皆さんにもお分けすることにしたのです。
 もちろん、霊的に受け入れの用意ができた人にお分けするということです。ここにお集まりの皆さんにはその用意がおありです。私たちは協調の体勢で地上を浄化し、より美しい、生き甲斐のある生活の場とするための大事業計画の一端を担うことができた皆さんは、この上ない光栄に浴されておられます。私も光栄です。
 地球浄化の一環として私たちがたずさわっているのは、物欲第一主義の打破です。これは言わば地球のガンです。利己主義・どん欲・強欲・暴カ――これらはみな物欲第一主義の副産物です。これらを無くし、地上の子らが精神的にも霊的にも豊かさを享受して、互いに協調し合える世界を築くことが目的です。
 今、私たちはそういう仕事にたずさわっているのです。これは大規模な戦です。皆さんの中には将校として参加すべく武装している最中の方もいます。小競り合い程度の問題で絶え間なく葛藤させられているのは、その大規模な戦に備えて、将校としての資質を試されているのです。
 ですから、迷わず突き進んでください。常に最善のものを求めてください。そうした努力が大霊へ近づかせ、創造の大源から放たれる愛に浸らせることになるのです。大霊の祝福のあらんことを。(pp.57-59)




 3.心霊治療について

 (心霊治療のプロセスについてご説明ねがえませんか)

 生み出す結果は驚異的でも、技術的にはきわめて単純です。患者がいて、治療家がいて、大霊がいます。その大霊の生命力である治癒エネルギーが治療家の霊的能力を通して患者の霊体に届けられる――それだけのことです。
 本質的にはそれが全てです。神秘もなければ魔法もありません。自然法則の働きがあるだけです。ただ、治癒エネルギーには無限の可能性があるということです。その治癒エネルギーの流入を規制するものは何かといえば、治療家の資質、その治療家が到達した霊的進化の程度です。霊性が高ければ高いほど、それだけ受容力も高まります。
 もしも治療家が完全の城に達することができれば、治癒エネルギーも最高のものが届けられる理屈になります。が、完全というものは不可能ですから、実際には治癒エネルギーは治療家の霊性によって制約を受け、限定され、影響を受けることになります。
 治療家というチャンネルないしはパイプ――どうお呼びになっても結構です――は所詮は思考力をもった人間であり、身体と精神と霊の相関関係ででき上がった複雑きわまる存在ですから、それを出入りするエネルギーは、そうした人間性の影響をどうしても受けます。
 治療家はその人間性を極力控え、日常生活においても霊性を高めるように心掛ければ、流入するエネルギーの量も多くなり、それだけ良い結果が得られるようになります。
 治癒エネルギーは生命力そのものです。したがって治療家は崇高な宇宙の生命力を扱っていることになるのです。私が邪悪な動機のためにその生命力を汚すようなことにならないようにと戒めるのは、そこに理由があるのです。(pp.69-70)




 4.がん患者について

 (一点非のうちどころのない人生を送っていた人がガンで亡くなりました。なぜでしょうか。)

 その答えは簡単です。その人は一点非のうちどころのない人生を送ってはいなかったということです。もし一点非のうちどころのない生活をしていれば、ガンにはなりません。ガンになったということが、どこか摂理に反したことをしていたことの証明です。
 摂理というのは、表向きは単純に見えても、奥は実に複雑なのです。摂理のウラに摂理があり、そのまたウラにも摂理があるというふうに、幾重にも重なっているのです。全体を見ることができれば、一つのパターンがあることに気づかれるのでしょうけど、あなた方には一つの側面しか見えません。それでどうして?∞なぜ?≠ニいう疑問が生じるのです。一部でもって全体を判断しようとするからです。
 ガンは精神の持ち方と深く関わっている病気の一つです。個体としての不調和が原因です。病理学的には寄生虫病的な増殖をする種類に属しますが、原因をたどっていくと意地きたなさ・憎しみ・失意・虚栄心、その他、精神と肉体の調和を乱す何かがあり、その結果として悪性の細胞が手の施しょうのない勢いで増殖していきます。
 病気は食べ物や飲み物だけで片づく問題ではありません。精神的な要素と霊的な要素も考慮しなければなりません。肉体に関わることだけで霊を判断することはできません。不可能なのです。たとえばタバコを止めたからといって、止められずに吸い続けている人より霊的に上かというと、必ずしもそうとは言えません。霊性はその人の生き方によっておのずと決まるもので、第三者から見てどうのこうのと批判すべきものではありません。(pp.75-76)




 5.死に対する恐怖

 (メンバーの一人が死″そのものに対する牢固とした恐怖心の問題を持ち出すと)

 こちらの世界での困った問題の一つに、二度と地上へ生まれたがらない霊がいることです。前回の地上生活で死後のことに何の予備知識もなかったために、霊的に辛い目にあったその体験から、地上という世界を嫌うのです。たとえて言えば、地上で八〇歳まで生きた者が、自分が学問というものがないことを悔いて、もう一度小学校からやり直したいと思うようなものです。精神的には大人ですから、それは無理なのです。
 こうしている間でも地上から何百万、何千万という人間がこちらへ送られてきますが、そのほとんどが死後への準備が何もできていないのです。みんな当惑し、困乱し、茫然自失の状態です。それでわれわれが、いろいろと手焼くことになります。本当はそちらで霊的教育を始めるほうがはるかに面倒が少なくて済むのです。
 もしもあなたが死の恐怖におびえそうになった時は、自分の存在の始源、すなわち大霊の分霊であることを思い起こし、この仝大宇宙を創造したエネルギーと同じものが自分にも宿っていることの意味を熟考するのです。そこから勇気を得て、壮大の気宇を抱くことです。下を向いてはいけません。上を見るのです。そして、援助は自分の内部と外部の双方から得られることを知ってください。
 あなたを愛する人々、そしてあなたの心臓の鼓動や呼吸と同じくらい身近かにいて世話を焼いてくれている人々が、あなたを見放すはずがないとの信念に燃えてください。内的な平安と静寂、自信と決意、そして、すべては大霊が良きに計らってくださるとの悟りは、そうした認識の中においてこそ得られるのです。
 もとより、私の申し上げていることがそう簡単に実行できるものでないことは、私自身も先刻承知しております。が、霊的なことの成就が容易であろうはずがないのです。何度も申し上げておりますように、霊的意識が目覚めるのは、安楽な条件の中ではなく、難題と辛苦の中においてです。だからこそ一段と強化され、内部の霊性がますます発揮されることになるのです。
 それが人生の目的そのものなのです。ラクなことばかりで何の苦労もなく、トゲのないバラの花に囲まれての生活では、成長は得られません。発達はしません。霊性は開発されません。これは大豊が定めた埋め合わせの原理の一環なのです。いつの日かあなたは、その時はイヤで仕方がなかった体験を振り返り、それらが実際はあなたの霊的進化を促す貴重な手段であったことを知って、感謝なさる日が来ることでしょう。(pp.78-80)




  6.南アフリカの人類学者に対して

 (初めて交霊会に招かれた南アフリカの人類学者―氏名は公表されていない― がまず次のように
  挨拶した。)

 「今こうして自分がこの交霊会の場に出席していることを思うと、言葉に言い尽くせないほどの嬉しさで胸がいっぱいです。あなたの霊言と出会ってもうずいぶんになります。あなたという存在を尊敬しておりますし、お説きになる思想にも感銘を受けております。このサークルについてはずいぶん前から知っておりました。私との交際や人類学の仕事が縁となってあなたの教えを知るようになった人が大勢おります。
 ぜひ申し上げたいことは、この六週間にわたって数か国を訪れた私の旅の最後の夜が、こうしてあなたの交霊会への出席という夢のような体験で祝福されて、感激しているということです。心からお礼を申し上げます」

 私のほうこそ、あなたをお迎えして、とてもうれしく思っております。いつもそうなのですが、ただのマウスピースにすぎない私が皆さまのお役に立っていることを知ると、嬉しさで心が満たされます。あなたは霊的真理という大きな知識をお持ちです。人類学者としてのお仕事そのものが、いかなる国民も、いかなる国家も、いかなる宗教も、大霊すなわち神の力を独占できないということを証明しております。
 私たち霊界の者は肌の色にはまったく関心がありません。肌の色は肉体だけのもので、魂には色はありません。黄色の魂、赤色の魂、黒色の魂などというものは存在しません。魂はその始源においては全てが同等です。一人ひとりが、あなた方が神と呼んでいる大霊の表現なのです。
 霊的観点からすれば、地上のいかなる民族の間にも障壁はありません。障壁があるとすれば、それは地理的なもの、物質的なもの、人間が勝手にこしらえたものばかりです。皮膚の色とか国家の違いは、いかなる意味での優越性も生み出しません。優越性はサービスと霊性の開発と熟達度によって決まるのです。
 私たち霊界の者は地上人類を一つの霊的大家族とみております。全体を一つにつなぎとめる霊的な絆があることを実感しております。
 そのこと、すなわち全人類は霊性において一つであるということを知らねばなりません。地上生活の目的は人のために役立つことをする……つまりお互いが助け合うということ、そして、そうした生き方の中で霊的に、精神的に、そして物質的に、あらゆる束縛から解き放たれることです。いかなる形にせよ、束縛されるということは、いかなる原理に照らしても間違いです。
 その点あなたは心眼を開かれ、より大きな生命の世界の存在による驚異的現象をその目でご覧になり、霊力の恩恵にあずかっておられます。あなたはその恩恵へのお返しとして、あなたが導かれたように他の人々を導く努力をなさってこられました。心の底からの正直で真摯な叫びが無視されるということは決してありません。こちらの世界には地上界のために役立つことをしたいと願う霊たちの感知装置が張りめぐらされております。善行にうんざりなさってはいけません。
 あなたは今、いろいろと難題を抱えた国にお住いです。が、動機に私欲がなければ、暴力や流血なしに解決のつくものばかりです。動機が肝心です。私心があってはなりません。同胞が手にすべき当然の権利を獲得するために尽力するということであらねばなりません。
 あなたがたずさえておられる真理は、他の国と同じようにあなたの国においても根づくべき真理です。あなたはそれがお出来になる方だからこそ、そこまで申し上げるのです。今日のこの交霊会があなたのお役に立てば、私はもう何も申し上げることはありません。これが私の本来の使命だからです。(pp.115-118)




  7.スイスにおける交霊会から

 (本章で紹介するのは、スイス在住のさる心霊家の家で開かれた交霊会の録音から抜粋したものである。出席者が珍しく四十人を超える大交霊会となった。その中には二年前に同じ部屋で最初の交霊会が開かれた時の出席者も何人かいた。シルバーバーチの挨拶から始まる。)

 まず、前回ここで言葉を交わした古き友にようこそ″と申し上げます。そしてまた、今日はじめてお会いする方々にも同じ歓迎の気持ちを述べたいと思います。
 私たちは同じ生命の道を歩みつつ、昨日よりは今日、今日よりは明日と、生命について少しでも深く理解させてくれる啓発を求めている同志だからです。
 皆さんは、物質的な視点から言えば、とても美しい国にお住いです。が、霊的な視点から言えば、残念ながら美しいとは申せません。無知と迷信と誤解があまりに多すぎます。霊的実在について幾らかでも知識のある人は、ほんの一握りにすぎません。
 そこで、霊の崇高なる照明がその輝きをより多くの人々にもたらすためには、二つの邪魔ものを排除しなくてはなりません。
 一つは伝統的宗教です。宗教的な有り難い教えを継承しているつもりでしょうけど、肝心な宗教としての機能を果たしておりません。本当の宗教とは大霊との絆を結んでくれるものでなければなりません。なのに、この国の宗教はもはやその役目を果たしておりません。かつては基盤となっていたインスピレーションはとっくの昔に教会から追い出され、代って教義と信条とドグマと儀式のみが残っております。
 こうしたものは宗教とは何の関わりもないものばかりです。大霊に近づけるという宗教の本来の目的には何の役にも立たないからです。インスピレーションは無限の存在である大霊から発しております。それに引きかえ神学は人間の知能から発したものです。都合のいい理屈から生まれた教義が、宇宙の大源から発したものの代りができるはずはありません。
 もう一つの邪魔ものは、崇拝の対象です。かつて黄金の子牛〃と呼ばれていた物的な財産が崇拝の対象とされています。人生の基盤が霊的実在であることを宗教が説き明かすことができなくなったために、圧倒的大多数の人間が、物質こそ存在のすべてであり、五感で感じ取れるもの以外には何も存在しないのだと信じるようになっています。
 そこで彼らは、人生は七十か八十か九十年、どう長生きしてもせいぜい百年だ。存分に快楽を味わうために金を儲け、財産を貯えようではないかと言います。イザヤ書にある食べて飲んで陽気にやろうではないか、どうせ明日は死ぬ身よ″という一節がそれをうまく表しております。
 責任は教会やシナゴーグや寺院にあります。基本的な霊的原理の大切さすら説くことができないからです。生命は物質ではありません。霊的なものです。物質はただの殻にすぎません。実在の影です。実在は霊であり、いま自分として意識しているあなたは霊なのです。
 人生の究極の目的は、その、あなたという霊の属性を発揮することです。逃れることのできない肉体の死とともに始まる次の段階の生活にそなえるためです。
 この国でも、子供はみんな学校へ通います。義務教育だからです。他にもそういう国がたくさんあります。なぜでしょう? 言うまでもなく、卒業後から始まる社会生活に必要な教育を受けるためです。勉強が十分にできていないと、小学校から中学校へ上がってから、中学校から高等学校へ上がってから、そして高等学校から大学へ進学してから苦労します。そして社会へ出てから困ります。
 それと同じです。あなた方はこの世を去ったあとから始まる霊的生活のためのトレーニングを受けるために、今この世に置かれているのです。今のうちに霊的教育を受けていないと、こちらの世界へ来た時に何の準備もできていなくて、大変なハンディを背負って生活しなければなりません。
 誤解を避けるために申し添えますが、私は物的身体に関わることは放っときなさいと言っているのではありません。それはそれなりに大切です。地上にあるかぎりはその物的身体が唯一の表現の媒体です。言わば霊の宮″です。
 その″宮″に宿る霊に、内部に宿る霊性ないし神性を発揮する機会を存分に与える必要があります。その霊性こそ大霊なのです。あなたの内部にひそむ大霊です。それを発揮する機会を求めるのも地上生活における義務です。そのために肉体をたずさえて生まれてきているのですから。
 こんな説教じみた話ばかり聞かされては面白くないでしょう。が、スイスという国、およびそこに住む皆さんが、霊的にみてどういう状態にあるかを知っていただきたかったのです。(pp.143-146)




 8.世界的規模での社会変動について

 (世界的規模で政治・科学・宗教の各分野で大きな変動が起きておりますが、これは好ましい方向への変化の表れでしょうか。)

 今、地上世界は大きな変動期を迎えています。その原因の一つは、第一次・第二次の二つの世界大戦がもたらしています。変動期には必ずしもベストなものが表舞台に出るとはかぎりません。今の時代は、二つの大戦の結果として、おもに若者の世代に、現体制への不満が渦巻いています。前世代から引き継いだものへの反感です。自分たちが享受している自由や便益や特権が先駆者や革命家たちによる大きな犠牲によって得られたものであることを知らないのです。
 また、宗教・科学・哲学の各分野の在来の教え、世の中の不公平と不公正、当世風のモラル、こうしたもの全てが気に食わないのです。そうした不満から、これを一気に忘れようとして、しばしば麻薬に走ります。
 このように、世の中は変動期にあります。外面を見るかぎりでは、公共物の破壊行為、どん欲や強欲の張り合い、利己主義ばかりが目につきますが、これは”陰〃の側面であって、”陽〃 の側面もあるのです。若者の中にはボランティア精神に燃えた者が多くなっています。これから生まれる新しい世界の輪郭がおぼろげながら見えています。何ごとにつけ、誕生というものは必ずしも苦痛の伴わない、素晴らしいものばかりとは限らないのです。
 地上界は今、霊力が地球上の無数の地域に浸透することによって、大きく変動しつつあります。突破口が一つ開けられるごとに、そこに橋頭堡が築かれ、さらに次の橋頭堡を築くための準備がなされています。大自然の摂理によって、霊力がヒーリングや慰安、導き、インスピレーションをもたらし、それが愛と叡知の本源から送られてきたものであることの証となっております。
 口先ではなく、本当の意味で、案ずることは何もありませんと申し上げます。と言って、あしたの朝目を覚ましてみたら天国となっているという意味ではありません。地上天国はそういう調子で訪れるのではありません。霊力を顕現させる道具(霊媒・超能力者・治療家)が用意され、人々の重荷や心痛や苦悩を軽減してあげることの積み重ねによって、徐々に明るい地上世界が招来されるのです。(pp.156-158)




 9.四つの団体の代表を迎えて

 (シルバーバーチの交霊会は大半が霊媒のバーパネルの自宅の応接室で行なわれているが、出張先で行なうこともたまにあった。
 これから紹介するのは、現在は解散している「スピリチユアリスト評議会」の代表を集めて行なわれたもので、「グレーター・ワールド・アソシエーション」(『ベールの彼方の生活』の版元)、「スピリチエアリスト・アソシエーション.オブ・グレート・ブリテン」 (SAGBの略称で知られるスピリチュアリズムの中心的施設)、「スピリチユアリスト・ナショナル・ユニオン」(SNUの略称で知られる英国最大のスピリチユアリストの集団)、それに「スピリチエアリスト霊媒同盟」の四つの団体から構成されていた。
 *訳者注−スピリチュアリズムの組織または団体にはこのほかに、英国では次章で紹介する「心霊治療家連盟」があり、米国には「米国スピリチユアリスト連盟」があり、世界的規模のものとしては「国際スピリチエアリスト連盟」(ISF)がある。
 シルバーバーチフアンの中には「宗教は組織をもつと堕落する」という言葉の意味を取り違えて、独立独歩を決めこみ、それが一種の利己主義ないし独善主義となっていることに気づかない人がいる。営利を目的とした組織と、真理普及およびサービス実践のための協力態勢とは別であることだけを、ここで述べておきたい)

 ― 四団体の代表を前にしてシルバーバーチが挨拶をする ―

 このたび皆様のご招待にあずかり、こうして語り合う機会を得ましたことを大きな栄誉と思っております。たずさわっておられる大きなお仕事の推進に当たって、私の申し上げることが幾らかでも力になればと願っております。
 申すまでもなく私は全知全能ではありません。が、ここにお集まりの皆さんよりは長い人生体験があります。その人生で私は大宇宙の仕組みとそれを統御している摂理について、皆さんよりは多くの知識を身につけたつもりです。と言って、私が述べることは格別に耳新しいものではありません。真理には新しいも古いもありません。その表現の仕方がいろいろとあるというまでのことです。
 さて、皆さんは霊的真理とその証を手にされている点において、特別に恵まれた方たちです。より大きな生命の実在を身近かに自覚しておられます。また皆さんと同じように崇高なる地球浄化の大事業に参画している霊団の存在を、ある人は霊視力で確かめ、ある人は霊聴力で確かめ、そういう能力をお持ちでない方でも、直観的に確信しておられます。霊団の役目は皆さんが迷うことなくこの大事業を計画どおりに推進するように導くことです。
 改めて申し上げるまでもないことと思いますが、皆さんが標榜しておられる霊的真理は、はるか高遠の界層の進化せる霊団によって立案された総合的な計画の一部として届けられているものです。その高級霊団を〃マスターズ〃と呼ぶ人もいれば〃ヒエラルキー〃と呼ぶ人もいます。いずれにしても霊力が地上界へ絶え間なく、そしてより多く流入するように、またそのためのチャンネルとなるべき使者がますます多く地上へ派遣され、さらには、本日ここにお集まりの方々のように霊的真理に目覚めた方々が一致団結して普及活動に勤しめるように指導することを使命としているのです。
 愛する人を失って悲しみに暮れている人々、病床に伏せている人々、悩める人々、人生に疲れた人々等々……こういう人たちは皆、人生の目的を見失っております。教会も科学者も思想家も何の力にもなってあげられないのが現実なのです。
人間の窮地は神の好機″という格言があります。肉体に包まれた霊(本来の自我)がその霊性に目覚め、活発に活動を開始するのは、そうした窮地にあって、もう物質の世界には何一つ頼りになるものがない――万事休すだ、と観念した時からです。
 皆さんが果たすべき役目は、そうした窮地にいる人々が真の自我に目覚め、地上に生を享けた目的を理解し、他人のために役立てるべき才能に気づかせてあげることです。一口に言えば、肉体の死後から始まる永遠の旅路の次の段階にそなえて、この地上にあって自己実現を成就させてあげることです。
 それが地球浄化の大事業の一環なのです。その計画を立案し、その実現のために尽力している霊団が、今、あなた方の仕事を背後から援助しているのです。大切なのは、この評議会を結成している各グループ、団体、協会によって築かれた橋頭堡が十二分に強化されることです。そうなれば、灯台と同じように辺りを明るく照らして、人生に疲れた人や道を見失ってしまった人々があなた方のもとを訪れ、悩みを解決するための英知を手にすることができます。
 それこそが、今あなた方がたずさわっておられる仕事なのです。大切なのはそこです。それは責任を伴うことでもあります。召される者は多く、選ばれる者は少ない〃と言ったイエスの言葉を思い出してください。あなた方は 選ばれた者〃なのです。みずから志願した人もいるでしょうし、依頼を受けた人もいるでしょう。どなたがどちらであるかは私にも分かりません。
 大切なのは霊的真理を広めるという責任です。これは人類全体にとって測り知れない恩恵をもたらすことになるからです。物質的な泥沼にはまり込んだ、この混乱せる地球にとって、生死にかかわる大事業です。(pp.163-166)




          **********



                              [参考資料 32] 2019.07.27
  シルバー・バーチの霊言 (3)


     (トニー・オーツセン編 『シルバーバーチの新たなる啓示』
            近藤千雄訳、ハート出版、2003

       Tony Ortzen ed., Lift Up Your Hearts,
           Psychic Press Ltd., London,1986


 上記の本から、要点を抜き出して、下記に紹介する。番号と見出しは、便宜上、私がつけたものである。


     **********

 
 1.  質問に答える

 ――SNU(英国スピリチュアリスト同盟)のゴードン・ヒギンス氏の「現在のスピリチュアリズムは正しい方向へ向かっていると思われますか」との質問に対して――

 率直に申し上げて、スピリチュアリズムの最大の敵は、外部ではなく内部にいる―― つまり、生半可な知識で全てを悟ったつもりでいる人たちが、往々にして最大の障害となっているように見受けられます。
 悲しいことに、見栄と高慢という煩悩が害毒を及ぼしているのです。初めて真理の光に接した時の、あの純粋なビジョンが時の経過とともに色あせ、そして薄汚くなっていくのを見て、いつも残念に思えてなりません。一人ひとりに果たすべき役目があるのですが……
 私たちはラベルやタイトル、名称や組織・団体といったものには、あまりこだわりません。私自身、スピリチユアリストなどと自称する気にはなれません。大切なのは暗闇と難問と混乱に満ちた地上世界にあって、霊的知識を正しく理解した人が一人でも多く輩出して、霊的な灯台となり、暗闇の中にある人の道案内として、真理の光を輝かせてくださることです。
 霊的真理を手にした時点で、二つのことが生じます。一つは、霊界との磁気的な連結ができ、それを通路としてさらに多くの知識とインスピレーションを手にすることができるようになることです。もう一つは、そうした全生命の根元である霊的実在に目覚めたからには、こんどはその恩恵を他の人々に分け与えるために、自分がそのための純粋な通路となるように心がけるべき義務が生じることです。
 人のために役立つことをする―― これが他のすべてのことに優先しなくてはなりません。大切なのは自分″ではなく″他人″です。魂の奥底から他人のために良いことをしてあげたいという願望を抱いている人は、襲いくる困難がいかに大きく酷しいものであっても、必ずや救いの手が差しのべられます。道は必ず開けます。
 自信をもって断言しますが、われわれ霊界の者が人間を見放すようなことは絶対にありません。残念なことに、人間側がわれわれを見放していることが多いのです。われわれは霊的条件のもとで最善を尽くします。が、人間の側にも最善を尽くすように要求します。こちらもそちらも、まだまだ長所と欠点を兼ねそなえた存在であり、決して完全ではありません。完全性の達成には永遠の時を必要とします。
 ですから、その時その時の条件下で最善を尽くせばよいのです。転んだらまた起きればよろしい。転ぶということは、起き上がる力を試されているのです。自分がしようとしていることが正しいと確信しているなら、思い切って実行すればよろしい。袂を分かつべき人とは潔く手を切り、その人の望む道を進ませてあげればよろしい。(pp.46-47)




 2.  霊性の発達のための挑戦

 遭遇する問題の一つひとつを、あなたへの挑戦と受け止めないといけません。障害の一つひとつが挑戦なのです。ハンディキャップの一つひとつが挑戦なのです。地上生活では挑戦すべき課題が次から次へと絶え間なく生じます。しかし、いかに強烈でも、いかに強大でも、あなたの進化を妨げるほどのものは絶対に生じません。大切なのは、それにどう対処するか――その心の姿勢です。
 自分の霊性の発達にとって、どういう体験が大切であるかの判断は、あなた方自身にはできません。大きな全体像の中のごく限られた一部しか目に入らないために、あなた方自身が下す判断はどうしても歪められたものとなります。
 ですから、体験の価値をうんぬんしていないで、とにかくそれを克服していくのです。きっと克服できます。克服するごとに霊性が強化されていきます。身体は不完全であり、弱さをもっております。あまりのストレスに負けて、体調を崩すことがあるかも知れません。
 しかし、あなた方に宿る霊性は大霊の一部なのです。霊は、潜在的には完ぺきです。すべてを克服していく資質を秘めております。その認識のもとに対処すれば、きっと克服できます。このことを語気を強めて申し上げるのは、それが私たちの教えの中枢だからです。(p.75)




 3.  あなたの進化を妨げるほどの障害は絶対に生じない

 (交霊会で悩み事の相談を受けた後で、出席者全員に向かって――) 

 遭遇する問題の一つひとつを、あなたへの挑戦と受け止めないといけません。障害の一つひとつが挑戦なのです。ハンディキャップの一つひとつが挑戦なのです。地上生活では挑戦すべき課題が次から次へと絶え間なく生じます。しかし、いかに強烈でも、いかに強大でも、あなたの進化を妨げるほどのものは絶対に生じません。大切なのは、それにどう対処するか――その心の姿勢です。
 自分の霊性の発達にとって、どういう体験が大切であるかの判断は、あなた方自身にはできません。大きな全体像の中のごく限られた一部しか目に入らないために、あなた方自身が下す判断はどうしても歪められたものとなります。
 ですから、体験の価値をうんぬんしていないで、とにかくそれを克服していくのです。きっと克服できます。克服するごとに霊性が強化されていきます。身体は不完全であり、弱さをもっております。あまりのストレスに負けて、体調を崩すことがあるかも知れません。
 しかし、あなた方に宿る霊性は大霊の一部なのです。霊は、潜在的には完ぺきです。すべてを克服していく資質を秘めております。その認識のもとに対処すれば、きっと克服できます。このことを語気を強めて申し上げるのは、それが私たちの教えの中枢だからです。(p.75)




 4.  永遠の生命の次のページに備える

 真理に対する反感や敵意は、無知が生み出す産物です。分別心がないのです。恐怖心から出ていることもあります。いわゆる洗脳の結果である場合もあります。精神が汚染されていて、何の抵抗力もなかった幼い時期に植えつけられた型にはまった教えから離れて理性を働かせることができなくなっているのです。
 そういう人たちのことを気の毒に思ってあげないといけません。光の中で生きられるものを、暗闇の中で生き続けている人がこの地上に無数にいるという現実は、実に悲しむべきことです。なぜ人間は知識よりも無知を好み、真理よりも迷信を好むのでしょうか。
 それは、その人自身にとって気の毒なことなのです。地上に存在を得たそもそもの目的が、霊的覚醒を得ることであり、その結果として、折角の人生を無駄に終らせることなく、いずれは必ず訪れる死の後に控える、永遠の生命の次のページに備えないといけないのです。
 もし反抗に遭った時は、あなたが手にされた珠玉の真理をその人はまだ知らずにいることを気の毒に思ってあげて、その人の力になる言葉を投げかけてあげられるように、大霊に祈ることです。少しでも真理に近づかせてあげることができれば、それだけで、その人との出会いが無駄でなかったことになるのです。不幸にして何の役にも立たなかった時は、その人がまだ霊的真理を受け入れる用意ができていなかったことを意味します。受け入れる用意ができていない魂には、為すすべがありません。
 私が同志の方々にいつも申し上げていることは、自分に可能な範囲で最善を尽くすということ、これ以上のことは人間には求められていないということです。あなたがた地上の人間は、不完全さをたくさん携えた存在であり、その欠点を少しずつ改めていかねばなりません。が、それは長い時間を必要とする仕事であり、たった一回の地上生活で成就できるものではありません。(pp.94-95)




 5.  霊的原理の上に社会秩序を

 霊的原理を手にした者が恐れや不安を抱くようなことがあってはなりません。この世には問題がいっぱいあります。今も言いましたように、社会秩序が霊的原理を土台としないかぎり、問題の絶えることはありません。それを唯物的原理の上に築こうとするのは、砂上に楼閣を築こうとするようなものです。
 お互いが心の中に敵意を宿しているうちは、外にも平和は有り得ません。憎悪・激情・敵意・貪欲などに燃えている人がひしめき合っている時に、協力体制などというものが出来るでしょうか。
 愛とは摂理の成就であるといいます。地球上の人間の一人ひとりが兄弟であり姉妹であり、全人類が親戚縁者であることを理解すれば、互いに慈しみ合うに違いありません。そういう意図のもとに大霊は、各自に神性の一部を賦与し、その連鎖の輪が全世界を取り巻くようにしてくださっているのです。
 現段階の人類はまだ、自分が基本的には霊的存在であるという永遠の真理を、実感をもって認識するまでには至っておりません。同じ神性を宿しているがゆえに、お互いが切ろうにも切れない霊的な縁で結ばれており、進歩するも退歩するも、一蓮托生ということです。
 そこにあなた自身の責任が生じます。真理を手にしたら、その時から、それをいかに使用するかについての責任が問われるということです。霊的真理に目覚め、霊力の働きに得心がいったら、その時から、今日の悩み、明日への不安を抱くことがあってはなりません。
 あなたの霊性が傷つくようなことはありません。あなたが手にした霊的知識、あなたに啓示された真理に忠実に生きていれば、いかなる試練の炎の中を通り抜けても、霊性が火傷を負うことはありません。地上界で生じるいかなる苦難にも、霊的に傷ついたり、打ちひしがれたりすることは絶対にありません。動機と目的さえ正しければ、霊の力が何とかしてくださることは、これまでの体験でも十分に証拠を手にしておられるはずです。
 残念ながら今のところ、霊的真理を理解している人はきわめて少数であり、決して多くはありません。大半の人間は、物量・権力・圧政・隷属的体制こそ“力”であるかに考えております。が、大霊の子は身体的・精神的・霊的に“自由”であるべく、地上に生をうけているのです。
 いずれは霊的真理が世界各地に浸透するにつれて、地上の人間も日常生活をより自由に、より明るく生きることが出来るようになるでしょう。この英国においても、また他のいかなる国においても、もう“話が終った”わけではありません。進化しようとする霊性がゆっくりと着実に発現してまいります。その歩みを地上的勢力が邪魔をし進歩を遅らせることはできても、大霊の意図を変えさせることはできません。
 もしもそれくらいのことで大霊の意図が変更の止むなきに至るものであれば、この地球はとっくの昔に崩壊していたことでしょう。霊は物質に優るのです。霊力こそ宇宙の支配力なのです。だからこそ、いつも申し上げるのです――心を奮い立たたせなさい、胸を張って生きなさい、地上世界に怖がるものは何一つありません、と。何事も必ず克服できます。(pp.99-102)




 6.  嘆かわしいほどの無知

 死者にまつわる過剰な悲しみや嘆き、動転は感情的な障壁をこしらえて、こちらから何をしてあげようにも、まずそれを取り除かねばならなくなります。
 ですが、現代人の嘆かわしいほどの無知を考えれば、それも止むを得ないことです。すでに役目を終えた肉体の死を大げさに嘆き悲しみ、その肉体から脱け出て元気はつらつとした霊の存在については、毛の先ほどの知識も持ち合わせない――残念ながらそれが地上界の現実です。
 それは、しかし、みなさんの努力によって成就しなければならない仕事がたくさんあるということでもあります。ところが、本来ならその職責上みんなの先頭に立って霊的知識を擁護しなければならない聖職者たちが、まるきり霊的知識を持ち合わせないというのですから、情けない話です。
 しかし、そんなことにはお構いなく、霊的真理は必ずや広がります。それを完全に阻止できる力は地上には存在しないのです。が、そうした事実を知ることによって、これから啓発していかねばならない分野についての理解が得られるのではないでしょうか。(p.108)




 7.  霊能者の役目

 あなたの役目は、霊にかかわる真理を事実に即して披露することです。地上で生活している人に、今そうして生きているそのすぐ身のまわりに、より大きな生命の世界がひしめくように存在していて、それこそが永遠の住処であり、いずれはみんなそこへ行くことになっているということを教えてあげることです。
 言いかえれば、人間は本来が霊的存在であり、それが肉体をたずさえているのであって、霊をしたがえた肉体ではないということ、そしてその霊も、肉体と同じように、成長のための養分を必要としているということを、なるほどと納得させてあげるのが、霊能者としてのあなたの仕事です。
 そう納得させてあげたら、それからあとのことは、あなたの関与することではありません。その人は本当の自分を見出したのですから、それからあと、その本当の自分の存在の意義をどういう形で生かすかは、その人自身が決めることです。たとえ試行錯誤をくり返しながらであっても、なんとかして自分を人のために役立たせようと努力していれば、そういう人への援助を仕事と心得ている高級霊がしかるべく指導してくれます。
 ですから、迷ってはいけません。もとより生やさしい仕事ではありません。が、努力のし甲斐のある仕事です。霊能者のみができる仕事です。まさしく神が地上に派遣した使者です。
 あなたもその一人であることを誇りに思ってください。大霊の仕事のお手伝いをしているのです。迷って首をうなだれるようではいけません。地上で最高の仕事にたずさわっているのですから、堂々と胸を張って歩みなさい。
 霊界からの援助者は、地上の使者が無私の協力の姿勢を崩さないかぎり、決して見捨てるようなことはいたしません。地上の啓蒙のために、今もっとも必要としている霊的な恩恵をもたらすべく、辛抱強く援助し続けてくれます。
 霊能者の仕事がラクであるかに想像する人がもしいたら、それはとんでもない見当違いであると言わざるを得ません。ラクを求めるようでは、それは魂が進化していない証拠です。困難な道であることを承知の上で、内在する霊力の威力を信じて挑戦するようでないといけません。
 これまであなたがたどられた道は長く、困難で、涙をにじませたこともありました。が、何とか切り抜けてこられましたし、これからも切り抜けることができます。
 忘れないでいただきたいのは、あなたのもとを訪れる人、あるいは、あなたの方から出向いてあげる人はみな、肉体の奥に埋もれている魂が自由を求め、無知と迷信から脱け出ようとしている人々であるということです。その牢獄の扉を押し開けて魂を解放してあげるのが、あなたの仕事です。臆することなく突き進みなさい。一人でも多くの魂を解放してあげなさい。神の計画は積極果敢な行動を求めているのです。(pp.112-115)




 8. 質問に答える

 (寿命は前もって決まっているのでしょうか、それとも体力その他の要素の問題なのでしょうか――)

 ありとあらゆる要素が絡んでおります。物的身体は魂が体験を得るために欠かすことのできない大切な道具です。魂と身体は二人三脚です。が、そのことは別として、地上の寿命は、大ていの場合、前もって分かっております。
 物的身体と霊的自我とを完全に切り離して考えてはいけません。両者はがっちりと組み合わさり、前者は後者を制約し、後者は前者に生気を与えております。一個の人間の存在をバラバラに分解して考えてはいけません。いくつもの要素が組み合わさって一個の存在を形成しており、しかも、その一つ一つの要素が互いに反応し合っております。それぞれの要素が組み合わさり、融合し合って、あなたという一個の存在を形成しているのです。(pp.134-135)

 (たとえば船の事故で千人の溺死者が出たとします。その千人は、ちょうどその時期に地上との緑が切れることになっていたのでしょうか。魂の成長のために与えられた地上での寿命が、ちょうど同じ時期に終るように運命づけられていたのでしょうか。)

 霊的なことを地上の言語で表現するのはとても難しいです。あなたのおっしゃる“運命づけられた”という表現を用いますと、では誰によって、何を基準に? という疑問が生じます。たぶん皆さんの頭の中には、大霊が死ぬべき人間を船に乗せておいて事故を起こさせたような図を想像しておられるのでしょうけど、そういうものではありません。人生の千変万化の人間模様の背後に大自然の摂理が働いていて、その結果として事故が発生しているのです。
 肉体にはいずれ死が訪れます。死によって霊が肉体から解放されるのです。その意味では、肉体の死は霊の誕生です。その死を地上の人間は悲劇とみますが、われわれ霊界の者にとっては少しも悲しむべきことではありません。霊界への誕生なのですから、死は自由解放への扉を開いてくれる恩人です。煩わしい地上の悩みごとから解放してくれるのです。特殊な例外を除いて、死は罰ではなく、報酬です。ですから、死というものを、何としても食い止めねばならない悲劇と見ないで、魂が本来の自我を見出すために仕組まれた、大自然の生命活動の一環と見るべきです。(pp.135-136)




 9.  病気で苦しむのはなぜか

 (今地上にはさまざまな病気で無数の人が苦しんでいますが、その人たちはみな過去世の過ちの償いをしているのでしょうか。そうやって苦しむために地上へ戻ってきているのでしょうか――)

 苦難は生命進化の大道における不可欠の要素です。では苦難の法則がどのように働いているかとなると、簡単には説明できません。霊的な因果律の働きを考慮せずに、ただ表面の物的現象だけで推断するのは禁物です。といって因果律は目に見えませんから、そういうものの存在を信じるほかはありません。つまり大霊は愛と叡知の極致ともいうべき存在ですから、究極においては必ず公正が行きわたるようになっていると信じることです。
 地上人生は全存在のホンの一側面にすぎません。地上生活がすべてではないのです。その間の出来事についてもきちんとした埋め合わせと償いの法則が働いています。カケラほどの短い人生の表面だけを見て大霊のなさることを批判すると間違いを犯します。それは他の大きな側面を無視することであり、それすら全体の一部にすぎないからです。
 何一つ忘れ去られることはありません。何一つ見落とされることもありません。何一つ無視されることもありません。摂理がすべてを支配しているのです。あらゆる存在が、あらゆる側面が、大きい・小さい、単純・複雑の違いの別なく、永遠に不変の摂理によって支配されているのです。
 どうしても理解に苦しむことがあれば、それはまだ自分には理解力の及ばないことがあると観念すべきです。人間は、物的身体を媒体として生活するという宿命的な制約を課せられています。しかし、そうしたものにおかまいなく、愛≠ヘすべてのものに作用しているのです。大霊とは愛にほかならないのです。愛は必ずいつかは目的を成就します。(pp.136-137)




 10. 霊能者へのことば

  (ある日の交霊会で、奥さんに先立たれたばかりの霊媒に対して――)

 あなたは、長年にわたって、あなた自身を通して届けられた霊的真理、生命の原理、およびそれらが意味するところのものに忠実にしたがい、冷静さを失うことなく、人生の最大の危機に立派に対処なさいました。
 地上に生をうけた者は、いつかは死ななくてはなりません。永遠に地上で生き続けることはできないというのが大自然の摂理なのです。ですから、地上生活の道具としての用事を終えた物的身体が、その活力の源であった霊的身体と霊そのものから切り離されるのは、絶対に避けられないことです。かくして霊は、永遠の巡礼の旅の一部として、地上での一定期間を経ると、次の界へと進んでまいります。
 もちろん、その時期が到来すると皆さんは悲しみます。それは、大半の地上の人間は霊的視覚が閉ざされているために、目の前に横たわる冷たい肉体、ただの殻に過ぎないものだけが見えて、その中身である崇高な実在を見ることが出来ないからです。
 幸にしてあなたにはそれが出来ます。霊的な目が開いているからです。愛する奥さんは、物質的には地上から消えても、霊的には相変らずあなたとともにいることを、あなたはしっかりと自覚していらっしゃいます。
 死は、愛し合う者を引き裂くことはできません。霊的に一体となっている者は、いずこにいようと、すなわち家庭の中であろうと、外出中であろうと、仕事中であろうと、奥さんはいつもあなたとともにいて、地上時代と同様に仕事を手伝っておられます。奥さんにとって地上人生は、あなたとともに過した人生がすべてでした。
 奥さんの方が先に他界したことを、あなたは今“これでよかった”と得心しておられますね。あなたの方が強くたくましく、死後に生じるさまざまな問題に対応することは、奥さんでは無理だったことを理解しておられます。その奥さんが今ここに来ておられることは私から申し上げるまでもないでしょう。その肉眼、その肉耳で確認できなくても、あなた自身の心臓の鼓動と同じほど身近かな存在となっておられます。
 どうかこのたびのことで挫けることなく、死によって霊が消えてなくなるものではないという、この掛けがえのない知識を広める仕事に邁進してください。生命と愛は、死を超えて存在し続けるものです。神性をおびた霊の属性だからです。ご自宅の静けさの中にも奥さんの存在を感じ取られるはずです。何か決断を迫られることがあれば、奥さんに念じてごらんなさい。きっと正しい方向を教えられ、万事がうまく行くはずです。
 これまでたどってこられた地上生活が、物質界に生まれ出た時から霊団による指導を受けていたことは、私から申し上げるまでもないでしょう。その霊団があなたを見捨てることは絶対にありません。むしろ指導を強化されていくことでしょう。埋め合わせの法則も働きます。霊的な豊かさが、いかなる物的欠乏も補ってくれます。
 大胆不敵の精神を失ってはいけません。相手をする人に、なるほどこの人は神の使節だと思わせるだけの、平静でしかも堂々とした態度で臨んでください。(pp.142-144)




 11. “人のため” の真の意味

 (かなり前の話ですが、霊界の友人から ”人のため”の意味を常識的な解釈とは逆に考えないといけないと言われて、はっと目が覚めました。人のために役立つことをしている時は、その相手の人からそういうチャンスを与えてもらっているのだ、と考えるようになりました――)

 まさにその通りですよ。その人のおかげで自分の霊性を発揮することができているのです。自己達成とは霊性の開発のことです。そしてその開発は人のために役立つことをしてこそ成就されるのです。
 そこに物理的法則と霊的法則の違いがあります。霊的な富は、他人に分け与えるほど、ますます豊かになるのです。進化・成長・進歩といったものは、自分を忘れて他人のために役立つことをすることから得られるのです。もっとも、相手にそれを受け入れる用意がないと無駄になりますが……
 たとえば、こんな挑発的な態度を取る人をかまってはいけません―― できるものならこの私を得心させてみなさい〃と。得心するのは自分自身です。自分で自分を得心させるのです。大霊は、わが子の一人一人が地上生活において一度は自我に目覚めるための知識とめぐり合うように配慮してくださっております。摂理がそういう具合にでき上がっているのです。例外はありません。
 無限の叡知によって、この宇宙にあって何一つ、誰一人として見落とされることのないようにしてくださっているのです。顕幽にまたがる全大宇宙には、自然の摂理による調和機構というものがあり、それがすべてを統率しているのです。
 地上世界の法律に幾分それに似たところはあります。ただ、地上の法律はいろいろな思惑や無知がからんで、法律そのものに問題があります。すべてを完ぺきに取りしきる法律を編み出すことは、人間には不可能です。そこへ行くと大霊の摂理には削除も変更もありません。例外というものもありません。常に同じです。永遠の過去からずっと同じであり、これからも未来永劫にわたって変わることはありません。
 あなた方の世界ではいったい世の中はどうなってるんだ!″と言いたくなるような事情・困難・挫折が生じます。そして気が滅入り、こう愚痴をこぼしたくなります――これはあんまりだ! だれがこんな目に合わせるんだ?″と。
 その“だれ”かは、すべてをご存知なのです。すべてが計画の中に組み込まれているのです。私たちは宇宙の全機構の経論をあずかる“無限にして完全なる存在”にすべてをゆだねます。人間はしくじることがありますが、大霊がしくじることは絶対にありません。
 もしあなたが疲れ果て、うんざりし、やる気を失っているのに、人がそういうあなたに何の理解も示さず勝手を要求をする時は――そういう人間がよくいるものです――表面はどうであれ、神の摂理はきちんと働き、計画は必ずや成就されるとの信念を忘れないことです。
 人間の集まるところには必ずトラブルが生じます。一人一人が霊的に異った発達段階にありますから、同じ問題を必ずしも同じようには見ていません。それは致し方のないことです。幸いにして自分の方が進化の階梯の高い位置にいる人は、自分より低い位置にいる人に対して同情と、寛容と、理解のある態度で臨むべきです。いかに高い位置に到達したとしても、それよりさらに高い位置にいる人がいることを忘れてはいけません。(pp.150-153)




 12. 原子力と放射能

 (放射能の危険から身を守るにはどうすればよいのでしょうか。そもそも原子の秘密は人間が発見することになっていたのでしょうか――)

 地上生活のそもそもの目的は霊的・精神的・物的の三つの側面での体験を積むことです。この地球という天体上で得られるかぎりの、幅広い体験を積むために誕生しているのです。したがって、この地上界に秘められている知識――これは事実上無限です――は、人間にそれだけの能力がそなわれば、当然、自由にその能力を開発して発見してよいに決まってます。
 人間が自然界の秘密を探ろうと努力することは結構なことです。問題はその動機です。発見した知識を全人類のために役立てるためでなくてはなりません。敵軍や自然界を破壊するためであってはなりません。人間には自由意志があります。根元的には神性を有し、その当然の資格として、自分で選択する自由がそなわっています。ですから、その自由意志を行使して、何の目的のために知識を使うかの判断すればよいわけです。
 人類が精神的ならびに霊的に進化すれば、その自然の結果として、人生の目的が自分以外のもの――同胞だけでなく同じ地上に生息する動物も含めて――にとって地上がより住みよい所となるようにすることであることを悟るものです。あらゆる発見、あらゆる発明、あらゆる新しい知識がその観点からの判定を受けなければいけません。すなわち、それが結果的に人類および動物の進化を促進するものであり、妨げるものではないとの判断がなくてはなりません。
 問題は、人類の知的能力が霊的発達を追い越すことがあることです。それがいろいろと厄介な問題を生ぜしめます。霊的に未熟な段階で自然界の大きな秘密を知ってしまうことがあります。今おっしゃった原子エネルギーの発見がそれでした。
 ですが、人間に為しうることには、自然の摂理によって、おのずから限界というものがあります。地球という天体を、そこに住むものもろともに破壊してしまうことはできません。困った事態を惹き起こすことはできるでしょうが、地上の生命のすべてを根絶やしにすることはできません。思わぬ秘密を発見しては試行錯誤を重ねながら、正しい使用方法を学んでいくしかないのです。
 原子エネルギーも、使い方一つで、神性をもつ人間としてあるまじき悲惨な環境のもとで生きている無数の困窮者に、大きな恵みをもたらすことができますし、現に、すでに恵みを与えています。
 あなたが最初におっしゃった放射能の危険性のことですが、私は、あなたが心配なさるほど深刻なものになるとは考えません。その影響を中和する対抗措置を発明するのは、そう難しいことではないでしょう。(pp.157-159)




 13. 死後存続の事実の確信を


 (もしも本当に死後の世界があり、そして創造主が愛の神であるならば、他界した愛する者たちが五感で確認できる形で戻ってきて、私たちに死後存続の事実を確信させてくれるようになっていてもいいはずが、現実はそうなっていないのはなぜでしょうか。)

 いいえ、ちゃんとそうなっているのです。ただ、そのためには条件が必要なのです。今夜のゲストのご夫妻も私との対話をするために来ておられますが、なぜここまで来られたかといえば、ここにはこのモーリス・バーバネルという霊媒がいて、私がその発声器官を使用できるからです。お二人の自宅では私との対話はできません。この霊媒がいないからです。このように、地上界と霊界との交信には、それを可能にする条件というものがあるのです。
 投書をされた女性が私に質問をするには、その質問を手紙という形で書いて郵送し、それがこの場で読み上げられるという過程を経なければなりませんでした。その質問に私がこの霊媒を通して答え、その答えが記録されてご質問者のもとへ郵送される――地上での交信にもこれだけの過程が必要です。地上界と霊界との交信にはさらに次元の異なる条件が必要なのです。
 電話で話すという、地上の人間どうしの交信の手段が確立されるようになるまでの歴史をたどってみられるとよろしい。それはそれは大変でした。それをみても、次元の異なる地上界と霊界との間の交信が簡単にはいかないことが想像できるでしょう。それなりの必要条件というものが満たされないことには、交信できないのです。他界した愛する人が何も通信してこないからといって、それを大霊に非があるかに思われてはいけません。それなりの手段を講じないといけないのです。 (pp.164-166)




 14. 人種差別について

 (地上では肌色による人種差別が問題となっていますが、霊界でもあるのでしょうか――)

 霊の世界が何もかも明るく美しいものばかりと思うのは間違いです。なぜなら、そちらの世界から送り込まれてくる者によって構成されているからです。
 もしそちらから送り込まれてくる者が聖人君子ばかりであれば、死後の世界は今すぐにも天国となるでしょう。ところが残念ながら、現実はおよそそれとはかけ離れております。私たちが迎え入れる者の中には、性格のいびつな者、無教養の者――霊的なことに無知な者――がいます。そういうものを学ぶ環境に置かれていなかった人たちです。
 また、利己的なことにばかり奔走して、霊的な側面がまったく眠ったままの状態でやってくる者もいます。ですから、霊の世界を美と光と素敵さばかりであるかに想像するのは間違いです。
 霊の道具となるための訓練をなさっているあなた方の役目、つまり霊能者となるための仕事は、人々に地上生活の本来の生き方を教えることによって、少しずつでも霊の世界の暗い部分を無くしていくことなのです。そうすれば、どちらの世界も明るくなります。地上天国を願うのであれば、そうするよりほかに道はありません。(pp.172-173)




 15. ある霊能者へのことば

 霊力は生命そのものです。あなた方のいう ”神”の分霊です。生命とは霊であり、霊とは生命なのです。霊はいかなる形態を通してでも生命を表現しています。大霊から出たものが私たち霊界の存在を通して地上圏まで届けられ、地上のチャンネルないしはミーディアム(霊媒)を通して地上に注入されております。それが物的身体の奥に宿る霊性に活力を賦与し、潜在する霊的資質を発現させることになるのです。
 なぜ今の時代にそれが必要かといえば、それは唯物主義がもたらした混乱、黄金の子牛の像の崇拝、すなわちお金第一主義がはびこりすぎたからです。
 唯物主義はその本質自体が貪欲、強欲、自分第一主義に根ざしています。同じ天体上に住んでいながら、自分以外の者への思いやりも気遣いも考えず、ひたすら自分の快楽と蓄財に励みます。敵対関係、戦争、怨恨――こうしたものを産み出すのは唯物主義です。物質がすべてである、死はすべての終りである、だったら自分の思うままに生きて何が悪い、という論法です。
 こうした自己中心の考えが地上界に暗黒と困難、闘争と暴力と憎み合いを生み出すのです。人間は霊的存在としての宿命を背負っているのですから、その宿命を成就するための生き方をするには、そうしたものを無くさないといけません。
 残念ながら、慣習となっている伝統的な宗教も哲学も教育も、今では頼りにされなくなっています。とくに若い世代はそっぽを向いています。愛する人を失った時と同じように、悩みや苦しみをもつ人は教会や寺院やシナゴーグ(ユダヤ教の教会堂)を訪れますが、もはやそこには真の救いを与えてくれる人はいません。
 病いを得た者が病院へ行っても、必ずしも治してもらえるとはかぎりません。哲学者も納得のいく答えを与えてくれません。あれほどの鋭い頭脳をもった人が……と思えるほどの学者でも、心霊現象を研究してその真実性を認めた先輩の科学者たちの業績を見て、ただあきれ返るばかりで、理解できずにいます。その気になれば今でも同じ実験ができるのですが……
 あなた方は、そうした現象を起こす霊力と同じものを顕現させて、他の何ものによっても出来ない形で人のために力になってあげることができます。死別の悲しみに暮れる人を慰め、病いの人を癒やし、人生に疲れた人に生きる元気を与え、迷える人を導き、全生命の基盤である永遠の霊的実在を証明してみせることができます。
 霊というものは実体のないもののように想像されがちですが、あなた方は霊こそ実在であることを証明してみせることができます。死後の生命の実在、不治の病いの治癒、その他もろもろの霊媒現象によって立証できます。それは人間本来の生き方の基盤を提供することでもあります。そういうものを必要とする人は、あなた方から呼びかけなくても、向こうから訪れるようになります。
 訪れた人に何らかの力になってあげることができたら、そういうチャンスを与えてくださったことを大霊に感謝することです。もしも力になってあげることができなかったら、あるいはもしその人がまだ霊的に目覚める用意ができていなかったら、自分自身でなく、その人のために、密かに涙を流してあげなさい。あなた方としては、いつでも手を差しのべられる用意をしておくことが大切です。あなた方自身も、そういう人がいてくれたからこそ霊的真理に目覚めることができたのですから。(pp.180-182)




 16. なぜ人間どうしが殺し合うのか

 (なぜ人間どうしが殺し合い、傷つけ合うのでしょうか。なぜ人種どうし、あるいは宗教どうしで憎み合うのでしょうか。なぜこうまで愛が乏しいのでしょうか。われわれは平和が欲しいのですが、いつ、どういう形で平和になるのでしょうか。われわれの先輩――われわれよりも人生の知恵を身につけているはずの世代が成就し得なかったことを、果たしてわれわれに為し得るでしょうか――)

 あなたのおっしゃる無知″と愚かさ″は、別に今に始まったものではありません。したがって、それを一晩のうちになくする魔法のような手段はありません。大自然の働きの基調は革命ではなく進化です。進化の過程はゆっくりと、そして着実に進行します。物的なものの生長も、無理強いすると取り返しのつかないことになります。霊的なものも同じです。一気呵成に事を成就させようとすると誤ります。
 悲観的な気持ちからそう申すのではありません。霊的実在に少しでも目覚めた者は希望にあふれた物の見方をすべきであると、私は常づね説いております。無知から、あるいは愚かさから、人間がいかに無謀なことをしても、それにもおのずと限界というものがあります。大自然には法則というものがあり、そればかりは人間にはどうしようもないからです。
 といって、今すぐ提案できる万能薬は、私たちも持ち合わせません。申し上げられることは、霊的知識が広がり、その結果として無知が少なくなるにつれて、人間どうしの対立が減り、戦争が減り、強欲が減り、光明の地域が増えていくということだけです。私たちが人間に代って地上環境を改めるわけにはいきません。受け入れる用意のある人間に霊的真理を教え、その人に生き方を正してもらうことしかできません。
 人間にも、ある一定限度内でのことですが、選択の自由が与えられています。大霊の創造活動の一端を担って進化に貢献することもできますし、それを阻止したり、遅らせたり、邪魔だてすることもできます。それもアンチテーゼ(対立要素)としての貢献なのです。
 大霊は人間を、操り人形やロボットとしてこしらえたのではありません。大霊の属性のすべて、いわゆる神性を潜在的に所有しているのです。ですから、自らの判断力を行使して選択すべきなのです。戦争という手段を選ぶことも許されます。が、戦争では問題は解決されないどころか、さらに問題を生み出すこと、強欲や自己中心の考えは、その内部に自分自身の破滅のタネを宿していることを知るべきです。
 ナザレ人イエスも、″剣を取るものは剣にて滅ぶ″と言っております。それくらいのことは人間もいい加減に悟ってほしいものです。あなた方としては、一人ひとりが、出来うる範囲内で霊的知識を広めることを心がければよろしい。自分自身が光明を見出したように、今度は誰か自分以外の人たった一人に光明を見出させてあげることができたら、それだけでこの度の地上生活は有意義だったことになるのです。以上が私から申し上げられるお答えです。(pp.184-186)




 17. 麻薬中毒の救済手段

 (麻薬中毒がとくに若い世代に急速に蔓延しておりますが、何が原因でしょうか。私たちに出来る救済手段があるのでしょうか――)

 あります。ヒーリング、つまり霊的治癒エネルギーを使用することです。実はこのエネルギーは、危険な薬物の中毒になっている人でまだ救済の可能性のある人に、常時注がれているのです。治癒エネルギーも大霊を始源として発せられている霊力、または生命力そのものであることを銘記してください。
 霊力は活力であり、動力であり、全生命活動の推進力です。霊なくしては生命は存在しません。あなた方が動きまわり、呼吸し、思考を働かせるのも、霊であればこそなのです。その霊力が、麻薬によって身体と精神と霊の調和を乱され活力を弱められている人に、治癒エネルギーとして作用するのです。麻薬がその三者の調和を乱し、自然な生命力の流れを阻害しているのです。
 霊的治療を施す能力がそなわっている人とは、その治癒エネルギーのチャンネルとしての役割が果たせる人のことです。その人を通路として、ちょうどバッテリーの切れた電池に充電するように、活力の衰えた人に生命力が注がれ、病気の原因となっている障害を取り除いてしまいます。薬害を取り除くためにさらに別の薬を使用するというのでは、本当の治療にはなりません。
 麻薬がこうまで蔓延する原因は簡単です。彼らは希望を失っているのです。挫折感に襲われ、悲観的になっています。実在というものに触れたことがなく、といって唯物的な生き方にも共鳴できず、生きる道を見失っているのです。そこで麻薬に手を出すのですが、それで解決になるわけがありません。さきにも申し上げた通り、大自然の基調はイボリューションであり、レボリューションではないのです。(pp.187-189)




 18. 神とは何か

 神、私のいう大霊の全体像は、言語によっても絵画によっても描写することはできません。言語も絵画も限りあるものだからです。小さいものが大きいものを包含することはできません。が、大自然の営みをよく観察すれば、ある程度の理解は得られるでしょう。
 大自然が法則によっていかに精密に制御されているかを、よくご覧になることです。顕現の仕方はまさに千変万化でありながら、その一つ一つにきちんとした配慮が行きわたっております。極微のものであろうと壮大なものであろうと、生命あるもの、動くもの、呼吸するもの、存在するもの全てが、自然法則によって制御されているのです。
 法則の支配の行きとどかないものは何一つありません。四季は一つずつ巡り、地球は地軸にさからうことなく回転をくり返し、潮は干満を止めることがありません。タネを蒔くと、そのタネの中に宿された種が芽を出します。別の種が出てくることはありません。
 法則の支配は絶対です。どんな新しい発見がなされようと、またそれがどこでなされようと、同じ法則の支配を受けます。何一つ忘れ去られることはありません。何一つ見逃されることもありません。何一つおろそかにされることもありません。そうした働きの背後にある力は何なのでしょうか。それが無限なる存在、すなわち大霊なのです。
 人間を途方もなく大きく拡大したものを想像してはいけません。旧約聖書のエホバ神のようなものではありません。復讐心に燃え、不機嫌になって疫病を蔓延させるようなことをする、気まぐれで怒りっぽい神さまではありません。
 歴史と進化の過程をみれば、地上界がゆっくりとした速度ではあっても、常に前へ、そして上へと進んでおり、その背後で働いている力が(人間的な善悪の観念でいえば)善を志向する存在であることを示しています。
 これをさらに発展させていけば、すべてを支配し、すべてを管理し、すべてを指揮し、しかもすべての内部に存在する、無限の愛と叡知をそなえたあるもののイメージが浮かんできます。それを私は大霊(グレイト・スピリット)と呼んでいるのです。(pp.193-194)





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                                            [参考資料 31] 2019.07.11
   シルバー・バーチの霊言 (2)



 ここでは、トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の絆』(近藤千雄訳)コスモ・テン・パブリケーション、1989 から、主要部分を11の項目にまとめて紹介する。

   原著 The Spirit Speaks   Compiled by Tony Ortzen,
           Psychic Press, London (1986)


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 1.宇宙の摂理について

 (シルバーバーチの思想的特徴の一つは摂理″の存在を強調することである。人間がこしらえた法律は事情の変化に応じて書き改める必要が生じる。が、霊的摂理にはそれは絶対に有り得ないという。そのことを集会に参加した霊能者に対して次のように説く)

 宇宙の大霊は無限の存在です。そして、あなた方もその大霊の一分子です。不動の信念をもって人間としての正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信念に間違いがなければ、必ずやそれを手にすることができます。
 それが宇宙の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、必ずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているにすぎません。地上の歴史をひもといてごらんになれば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られなかった人々が大勢いることがわかります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人を引き合いに出してはいけません。
 時として酷しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。そんな時は大霊の象徴であるところの太陽に向かって、こう述べるのです――自分は大霊の一部なのだ、不滅なのだ。永遠の存在であり、無限の可能性を宿しているのだ。そんな自分が、限りある物質界のことで挫けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることはありません。
 多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。完き愛は怖れを払う″(ヨハネ伝)まず神の御国と義を求めよ。さすれば全て汝のものとならん″(ルカ伝)――遠い昔、大霊の摂理を完ぺきに理解したナザレのイエスによって説かれた教えです。彼は、勇気をもって実践すれば必ず成就されることを身をもって示しました。あなた方も、その摂理が働くような心構えができれば、何事も望みどおりの結果が得られます。
 もう一つ、別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。よい霊媒現象を得たいと思えば、それなりの感受性を磨かなくてはなりません。また、この世的な富を蓄積していると、それなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると、自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされます。
 人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方ひとりが大霊の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産も、その霊の宝にまさるものはありません。わたしたちは皆さんの中に存在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土くれの中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。
 できるだけ高い界層のバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ぼっちでないこと、いつも身のまわりに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。そして、霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい――そう願っているのです。
 人間は、同胞のために自分を役立てることによって大霊に仕えることになります。その関係を維持しているかぎり、その人は大霊のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。
 単なる信仰、盲目的信仰は、烈しい嵐に遭えばひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし、立証された知識を土台として築かれた信仰は、いかなる嵐にもビクともしません。
 いまだ証を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にして、それをもとに、宇宙の摂理が愛と叡智によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人は、その三倍も幸せです。
 ここにお集まりの皆さんは、完ぺきな信仰を持っていなければなりません。なぜなら、皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証を手にしておられるからです。そして、この段階までこられた皆さんは、さらに、万事は良きに計らわれていること、大霊の摂理に調和しさえすれば必ず幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。無明から生まれるもの、あなた方のいう悪″の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはなりません。自分は大霊の摂理による保護のもとに生き、そして活動しているのだという信念です。
 心に邪なものさえなければ、善なるものしか近づけません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界から近づくのも大霊の使徒のみです。あなた方は何一つ恐れるものはありません。あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊からくる力にほかならないのです。
 その力は、いかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。
 完き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂は、いついかなる時も恐れることを知りません。なぜならば、自分に大霊が宿るからには、人生のいかなる出来事も克服できないものは有り得ないことを悟っているからです。
 恐怖心は、みずからの魂の牢獄をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観し、そのバイブレーションによって心を乱されることなく、完ぺきな信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えで、こう宣言できるようでなければなりません――自分は大霊なのだ。足もとの小さな事情などには断じて迷わされない。いかなる困難も、内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。
 その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを、何を好んで縮こませるのでしょうか。
 大霊は、物的なものも霊的なものも支配しております。大霊の目からすれば、両者に区別はありません。ですから、物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。
 ですから、皆さんのように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いつ、いかなる場にあっても、大霊の存在を意識した生き方をしているかぎり、克服できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。
 この世のいかなる障害も、大霊の目から見て取り除かれるべきものであれば、きっと取り除かれます。万が一、あなた方の苦難があまりに大きくて耐え切れそうになく思えた時は、こう理解してください――わたしたちの方でも向上進化の足を止めて皆さんのために精一杯の努力はいたしますが、時にはじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合もある、ということです。
 地上の人間のすべてが、自分が人間的煩悩と同時に神的属性もそなえていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生きやすくなることでしょう。トラブルはすぐに解決され、障害はすぐに取り除かれることでしょう。しかし人間は、心の奥に潜在する霊力をあまり信じようとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。
 その昔、この世を旅する者であれ。この世の者となるなかれ″と言う訓えが説かれました。が、死後の生命への信仰心に欠ける地上の人間には、それを実践する勇気がありません。金持ちを羨ましがり、金持ちの生活には悩みがないかのように考えます。金持ちには金持ちとしての悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないでごまかされるものではありません。(pp.58-63)




 2.地上に生まれてきた意味

 人間が地上にあるのは、人格を形成するためです。ふりかかる問題をどう処理していくかが、その人の性格を決定づけます。しかし、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものです。一方、あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているわけですから、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。
 心の平和は一つしかありません。大霊と一体となった者にのみ訪れる平和、大霊の御心と一つになり、その大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も大霊と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ、真の平和といえます。宇宙の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。
 私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。有為転変の物質の世界に神の国があるはずがありません。魂の中に存在するのです。
 宇宙の摂理は精細をきわめ、しかも完ぺきですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終ることも絶対にありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものを見ずに小さいものを判断してはいけません。
 地上での束の間のよろこびを、永遠の霊的なよろこびと混同してはなりません。地上のよろこびは安ピカであり、気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、わたしたちは霊の目で見ます。摂理を曲げてまで、人間のよろこびそうなことを説くことは、わたしにはできません。
 霊の世界から戻ってくる者にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完ぺきさを口にするはずです。そこまで分った霊になると二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。ところが人間は、その面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこでわたしは、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。
 どこまで向上しても、なお自分に満足できない人がいます。そういうタイプの人は、霊の世界へ来ても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。大霊の道具として十分でないことを自覚するのです。艱難辛苦を通して、まだまだ魂に磨きをかけ、神性を発揮しなければならないことを認識するのです。
 何とかせねばならないことがあることを知りながら、心の安らぎを得ることができるでしょうか。地上の同胞が、知るべき真理も知らされずに、神の御名のもとに間違った教えを聞かされている事実を前にして、わたしたちが安閑としていられると思われますか。
 光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目のあたりにして、わたしたち先輩が平気な顔をしていられると思われますか。
 わたしたちがじっとしていられなくなるのは、哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として当然受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に、何とかして大霊の愛を行きわたらせたいと願うからです。大霊は、人間に必要不可欠のものはすべて用意してくださっています。それが平等に行きわたっていないだけのことです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に、自分だけが豊富な知識をもって平気な顔をしていられないはずです。
 わたしたちにとって、地上の人間を指導していていちばん辛いのは、時として皆さんが苦しんでいるのを心を鬼にして傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということがわかっているだけに、はたから手出しをしてはならないことがあるのです。首尾よく本人が勝利をおさめれば、それはわたしたちの勝利でもあるのです。挫折すれば、それはわたしたちの敗北でもあるのです。いついかなる時も、わたしたちにとっての闘いでもあるということです。それでいて、指一本、手出しをしてはならないことがあるのです。
 このわたしも、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならない、と自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。その時の辛さは、苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし、本人みずからの力で解決すべき問題を、このわたしが代って解決してあげることは許されないのです。もしもわたしが指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。もしもこの霊媒(バーパネル)個人にかかわることで、わたしが、為すべきことと為すべきでないことをいちいち指示しはじめたら、一人間としての自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としては別として)人間としての進歩が阻害されはじめます。
 霊性の発達は、各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。物事がラクに、そして順調にはかどるから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。
 が、そうした中にあって、わたしたちにも干渉を許される場合が生じます。万が一わたしたちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ち至った時は、大いに干渉します。たとえば、この霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかし、それが霊媒個人の霊的進化にかかわる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません。(pp.64-67)




 3.タネ蒔きと刈り取りの摂理

 (別の日の交霊会で、サークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取りあげてシルバーバーチがこう語った。)

 タネ蒔きと刈り取りの摂理は、大自然の摂理の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が実りを産み出していくという自然の営みの 中に、大霊の摂理がいかに不変絶対のものであるかを読み取るべきです。大地に親しみ、自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、その仕組みの素晴らしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、そのすべてを計画した大精神すなわち神の御心を、いくばくかでも悟られるはずです。
 蒔いたタネが実をもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因は、大自然の摂理に正直にしたがって、それ相当の結果をもたらします。自然界について言えることは、そのまま人間界にも当てはまります。
 利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の報いを刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の報いを刈り取らねばなりません。寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は、非寛容性と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理だけは変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉して都合のよいように変えることはできません。
 発生した原因は、数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は、霊的成長を促すような生活をするほかはありません。
 その霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば、内部の神性が日常生活において発現されてはじめて成長するのです。邪な心、憎しみ、復しゅう心、悪意、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。
 いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しております。その一つ一つが大霊の計画にそって調和して働いております。この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活の中で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を、一刻も早く捨て去るべきであることになります。
 人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡智と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは、大霊がぜんぶ用意してくださっております。材料は揃っているのです。あとは、それをいかに有効に使用するかに掛かっております。(pp.67-69)




 4. 霊団の使命

 (別の日の交霊会でも、摂理について次のように説いている。)

 わたしたちの霊団の使命は、れっきとした目的ないし意義をもつ証拠を提供し、それによって心霊的法則というものが存在することを立証する一方で、生きるよろこびと霊的教訓を授けるということです。物理的法則を超えた別の次元の法則の存在を証明するだけでなく、霊についての真理を啓示するということです。
 そうした使命をもつわたしたちは、真っ向から立ち向かわねばならない巨大な虚偽の組織が存在します。過去幾世紀にもわたって積み重ねられてきた誤りを改めなければなりません。人間が勝手にこしらえた教義を基盤として築き上げられてきた虚飾の大機構を解体しなければならないのです。
 わたしたちの努力は常に、物質界の大霊の子等に、いかにして魂の自由を見出し、いかにして霊的真理の陽光を浴び、いかにして教義の奴隷となっている状態から脱け出るかをお教えすることに向けられております。これは容易ならぬ仕事です。なぜなら、いったん宗教という名の足伽をはめられたが最後、迷信という名の厚い壁をつき破って霊的真理が渉透するには、永い永い年月を要するからです。
 わたしたちは、霊的真理の宗教的意義をたゆまず説き続けます。その重要性に目覚めれば、戦争と流血による革新よりはるかに強烈な革命が地上世界にもたらされるからです。
 それは魂の革命です。その暁には、世界中の人々が授かって当たりまえのもの――霊的存在としてのさまざまな自由を満喫する権利を我がものとすることでしょう。
 わたしたちが忠誠を捧げるのは、教義でもなく、書物でもなく、教会でもありません。宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理です。
 いずれ、地上世界に強力な霊の力が注がれるようになります。これまではびこってきた利己主義と無知に歯止めをかけるための、大きな仕事が計画されているのです。それはいつかは成就されます。が、その途中の段階においては、大きな産みの痛みを味わわなくてはならないでしょう。
 その仕事を支援するために、わたしたちの世界から大勢のスピリットが馳せ参じております。あなた方の顔見知りの人、血のつながりのある人もいれば、愛のつながりによって引かれてくる人もいます。背後霊というと、皆さんはすぐに顔見知りの名前を思い浮かべがちですが、一方には皆さんのまったく知らない人で、ただ自分の力を役立てることにのみ喜びを覚えて援助してくれている人がいることも、どうか忘れないでください。
 バイブルにはサウロ(のちのパウロ)がダマスカスへ向かう途中、天からの光に包まれ、目が眩んで倒れ、それがきっかけで改心する話(使徒行伝)がありますが、世の中はそんな具合に一気に改まるものではありません。一人ずつ霊的真理に目覚め、一人ずつ大霊の道具となっていくという形で、少しずつ光明が広がっていくのです。霊的なものは、大事に育て慎重に広めていく必要があることを銘記しなければなりません。急激な改心は、得てして永続きしないものです。わたしたちの仕事は永続性が生命です。
 一個の魂が大霊の道具となった時、一個の魂が暗黒から光明へ、無知から知識へ、迷信から真実へと目覚めた時、その魂は世界全体の進歩に貢献していることになるのです。なぜなら、その一人ひとりが、言わば物質万能主義の棺に打ち込まれるクギのようなものだからです。
 発達にも二つの種類があることを知ってください。霊そのものの発達と、霊が使用する媒体の発達です。前者は魂そのものの進化であり、後者は単なる心霊的能力の開発にすぎません。霊的進化を伴わない心霊能力だけの発達では、低い次元のバイブレーションしか出ません。両者が相たずさえて発達した時、その人は偉大な霊能者であると同時に、偉大な人物であることになります。
 わたしたちが霊界からたずさえてくるメッセージは、地上人類にとって実に素晴らしい恩恵をもたらします。魂を解放し、大霊からの遺産(神的属性)の素晴らしさに目を聞かせます。
 あらゆる足伽と束縛を捨てるように教えます。霊的真理の本当の有り難さを教えます。物的生活の有り方と同時に、霊的生活の有り方も教えています。美と愛と叡智と理解力と真理と幸福をもたらします。人のために――ひたすら人のために、と説くメッセージです。
 ところが、そのメッセージをたずさえてくるわたしたちが、大霊を正しく理解していない人々、霊の働きかけの存在を信じない人たちによって拒絶されております。それは、いつの時代にもよくある話です。
 他方、現在の地上の状態は、そうしたわたしたちの働きかけをますます必要としております。流血につぐ流血、そしてその犠牲となった人々の涙の絶えることがありません。無明ゆえに、地上人類は大霊の摂理にしたがった生き方をしておりません。暗黒と絶望の道を選択しております。そこでわたしたちが、希望と光明と平和と調和をもたらす知識をたずさえてきたのです。
 にもかかわらず、無知ゆえにわたしたちを軽蔑します。わたしたちのメッセージを拒絶します。わたしたちを背後から導いている強大な霊的組織力の存在に気づいてくれません。しかし、霊的実在を教える大真理は、かならずや勝利をおさめます。
 摂理に逆らう者は、みずからその苦い実りを刈り取ることになります。摂理にしたがって生きる者は、物的・霊的の両面において豊かな幸せを刈り取ります。
 暗黒が蔓延している地上にあって、どうぞ希望を失わず、あなた方とともに人類の高揚のために働いている多くの霊、物的世界を改善しょうとしている霊の努力はかならずや実ることを信じてください。その背後に控える霊力は、宇宙で最も強力な力なのです。
 価値あるものは、苦難と悲哀なしには達成できません。地上は地上なりの教訓の修得方法があるのです。それを避けて通るわけにはいきません。今、霊的勢力が地上全土にわたって活動を開始しつつあり、あらゆる地域の人々に霊的メッセージが届けられ、その心を明るく照らし、その光が広まるにつれて、物質万能主義の闇を追い払ってまいります。
 わたしたちは、罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはいたしません。恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者にはなってほしくありません。内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって霊性を高め、一段と崇高な真理と叡智を身につけていただくことを目指しております。(pp.71-75)




 5. 霊界から伝えたいこと

 わたしが残念に思うのは、本来が霊的存在であるはずの人間が、あまりに霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心していただくためには、わたしたちスピリットがテーブルを浮揚させたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです。
 あなた方も一人の例外もなく大霊の分霊なのです。ということは、あたかも大霊が次のように語りかけているようなものです――“私がすべての法則を用意し、みなさん一人ひとりに私の分霊を授けてあります。宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。そのすべてを活用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとを、みずから選択しなさい。それを、私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし、無視してもよろしい”と。
 そこで大霊の子等は、それぞれ好きなように選択してきました。しかし他方において、霊界から地上の経綸に当たっている者は、大霊の計画を推進するために、地上において間違いなく大霊の意図に感応できる人物を送り込まねばなりません。地上の子等はこれまで大きく脇道へそれてしまったために、霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっているからです。
 しかし、冷たい冬の風が吹き荒れたあとには、必ず春の新しい生命が芽生えるものです。地面に雪が横もり、すべてが寒々とした感じを与える時は、春のよろこびはわかりません。しかし、春はきっと訪れるのです。そして、生命の太陽はゆっくりと天界をめぐって、いつかは生命の壮観がその極に達する時がまいります。
 今、地上全体を不満の暗雲がおおっております。が、その暗雲を払いのけて、夢を抱かせてくれる春、そしてそれを成就させる夏がきっと訪れます。その時期を早めるのも遅らせるのも、あなた方大霊の子の自由意志の使い方に掛かっております。
 一個の人間が他の人を救おうと努力する時、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨らませようと努力します。善行の努力が無駄に終ることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄には終らせません。誰かが先頭に立って藪を切り開き、あとに続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて道らしい道ができ上り、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。
 上層界の高級霊が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を、時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間界の愚行を見て、いつかはその愚かさに目覚めてくれる日が来ることを祈りつつ、眺めているのです。そうかと思うと、うれしさに思い切り顔をほころばせておられるのを見かけることもあります。無名の平凡な人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。
 わたしは、すぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界に近づけて降りてまいりました。その目的は大霊の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば、大霊の恵みをふんだんに受けることができることを教えてあげたいと思ったのです。
 物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。たとえてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。
 わたしの住む世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真に生きるよろこびが漲り、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、お互いに自分の足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。
 それに引きかえ、この地上に見る世界は幸せがあるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たされるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょうか。大霊は必要なものはすべて用意してくださっているのです。問題はその公平な分配を妨げている者が存在するということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。
 それを取り除いてくれと言われても、それはわたしたち霊界の者には許されないのです。わたしたちにできるのは、物質に包まれた人間に大霊の摂理を教え、どうすればその摂理が正しく人間を通じて運用されるかを教えてさしあげることです。本日ここにいらっしゃる方には、ぜひ、霊的真理を知ればこんなに幸せになれるのだということを、身をもって示していただきたいのです。
 もしもわたしの努力によって大霊の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることができたら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上へ降りてきた苦労の一端が報われたことになりましょう。わたしたち霊団は、本来あなた方人間が果たすべき義務を肩代わりしようとしているのではありません。なるほど大霊の摂理が働いているということを、身をもって悟っていただける生き方をお教えしようとしているのです。(pp.84-87)




 6.霊界からの通信について

 通信がどれだけ伝わるか――その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における導き″の問題は簡単には片づけられません。なぜかと言えば、人間はその時点での自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には、叶えてあげる必要がまったくないものがあるからです。一ばん良い導きは、本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合が、しばしばあるのです。
 この間題は要約して片づけられる性質のものではありません。意識の程度の問題がからんでいるからです。大変な問題なのです。わたしはよく人間の祈りを聞いてみることがありますが、要望に応えてあげたい気持は山々でも、そばに立って見つめているしかないことがあります。時にはわたしの方が耐え切れなくて、何とかしてあげようと思って行動に移りかけると、捨ておけ!″という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画の枠の中で行動する約束ができている以上、わたしの私情は許されないのです。
 この問題は容易ではないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが、わたしたちから見れば、 光(幸せ)であることがあり、人間にとって光であるように思えることが、わたしたちから見れば影であることがあるということです。
 人間にとって青天のように思えることが、わたしたちから見れば嵐の余兆であり、人間にとって静けさに思えることが、わたしたちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが、わたしたちから見れば静けさであることがあるものです。
 あなた方が実在と思っておられることは、わたしたちにとっては実在ではないのです。お互いに同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ、支配されております。霊の目で見ることができないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。わたしはそのことを咎める気にはなれません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。
 わたしたちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこのわたしがまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとは限らないことは否定しません。しかし、そのことは、わたしたちがあなた方の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは、まったく別の問題です。あなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤ、それ以上に、わたしたちはあなた方の身近な存在です。(pp.115-116)




  7. 病気の患者に対する対応

 (エドワーズ「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もない時、死期を早めてあげることは正しいでしょうか。」)

 あなた方の辛い立場はよく理解できます。また、わたしとしても好んで冷たい態度を取るわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど、柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。
 わたしはあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。たとえば、薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体は本来そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。そういう観点から考えていけば、どうすればよいかは、おのずと決まってくると思います。
 何事も自然の摂理の範囲内で処理すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によっても、その摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てば、それなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いことか悪いことかは、霊的法則にどの程度まで適っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば、肉体にとっても最善であるに違いありません。(pp.143-144)

 (バートン夫人「神も仏もいないと思っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって、不思議でならないことがあります。」)

 その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的になりがちで内面的でないことが多いことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できないのです。治療の効果を左右するのは、あくまでも患者の魂です。
 ご承知のとおり、わたしも何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして、死後こちらでそれよりはるかに長い霊界生活を送ってまいりましたが、その間、わたしが何にもまして強く感じているのは、大自然の摂理の正確無比なことです。知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりです。一分の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。わたしたちの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答が合います。
 迷わず、ただひたすら心に喜びを抱いて奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは全て大霊にお任せすることです。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。誰が治り誰が治らないかは、あなた方が決めるのではありません。いくら願ってみても、それは叶わないことです。あなた方は、所詮、わたしたちスピリットの道具にすぎません。そして、わたしたちも又、さらに高い神霊界のスピリットの道具にすぎません。自分より偉大なる力がすべてを良きに計らってくださると信じて、すべてをお任せすることです。(pp.160-161)




 8. 不治の病いはない

 不治の病いというものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥にまた法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡智も無限です。こんなことを申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命にかかわることだからです。
 地上の治療家から、よくこういう言い分を聞かされます――この人が治ったのに、なぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたい気持がこれほどあるのに治らなくて、愛を感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのは、なぜですか″と。
 そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活だけで定まるのではなく、しばしば前世での所業が関わっていることがあります。
 霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生のすべてを物質的な尺度で片づけようとすると誤ります。しかし、残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目をもって判断することができず、それで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。
 大霊は完全なる公正です。その叡智は完ぺきです。なぜなら、完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識をきわめることは不可能です。
 どうか不治の病″という観念はお持ちにならないでください。そういうものは存在しまん。治らないのは、往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業の法則が働いいるということです。こう申し上げるのは、あきらめの観念を吹聴するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いていることを指摘したいからです。(pp.162-163)




 9. 肉体と霊体

 (霊のことをなおざりにしているということでしょうか、と言う質問に対して)

 一般的に言って人間は、肉体にかかわることはおろそかにはしておりません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するために、また新たな慣習的義務を背負い込むという愚を重ねております。肉体にとって無くてはならぬものといえば、光と空気と食べものと運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにアレコレと必要なものではありません。慣習上、必要品となっているだけです。
 わたしは決して肉体ならびにその必要品をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するように、と勧めているのではありません。一人でも多くの人に、正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい、霊をそなえた肉体だと思い込んでいる人が、まだまだ多すぎます。本当は肉体をそなえた霊的存在なのです。それとこれとでは、大違いです。
 無駄な取り越し苦労に振り回されている人が多すぎます。わたしが何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは、不必要な心配です。大霊は無限の叡智であり、無限の愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。
 驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない摂理によって支配され、規制され、維持されているのです。その摂理の働きは、一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。いま存在する自然法則はかつても存在し、これからも未来永劫に存在し続けます。なぜなら、完ぺきな構想のもとに、全能の力によって生み出されたものだからです。
 宇宙のどこでもよろしい、よく観察すれば、雄大なものから極小のものまでの、ありとあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥・樹木・花・海・山川・湖のどれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節のめぐりが生じているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。
 種子を蒔けば芽が出る――この、いつの時代にも変わらない摂理こそ、大霊の働きの典型です。大霊は絶対にしくじったことはありません。あなた方が見放さないかぎり、大霊は決してあなた方を見放しません。
 わたしは、大霊の子すべてに、そういう視野をもっていただきたいのです。そうすれば、取り越し苦労もしなくなり、恐れおののくこともなくなります。いかなる体験も魂の成長にとって何らかの役に立つことを知るようになります。その認識のもとに、一つ一つの困難に立ち向かうようになり、そして首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。
 あなた方もいつかはこちらの世界へ来られるわけですが、来てみれば、感謝なさるのはそういう辛い体験の方なのです。視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有り難く思えなかったけれども、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明してさしあげることはできませんが、こちらへお出でになれば、みずから得心なさることでしょう。(pp.182-185)




 10. 原爆の恐怖にどう向き合うか

 (国家が、そして人類全体が、原爆の恐怖に対処するにはどうすればよいでしょうか)

 問題のそもそもの根元は、人間生活が霊的原理に支配されずに、明日への不安と貪欲、妬みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながら、お互いに扶け合い、協調と平和の中で暮らしたいという願望は見られず、自分の国を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも自分の階層を豊かにしようとする願望が支配しております。
 すべての制度が、相も変らず、唯物主義の思想を土台としております。唯物主義という言葉は、今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には変っておりません。誰が何と言おうが、この世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだ、と考えております。そして、それを土台として、すべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまり、たった五つの感覚で得られる、ほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。
 しかし、生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけで出来ているのではありません。化学・医学・原子、こうしたもので理解しようとしても無駄です。生命の謎は、科学の実験室の中で解明される性質のものではありません。魂をメスで切り裂いたり、化学的手法で分析したりすることはできません。なのに、物質界の大半の人間は、霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。物質こそ生命と思い込んで、最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視しております。
 地上の全生命は、霊″であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は霊≠ノ依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において、立派に霊的存在なのです。死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間から(物的身体をたずさえた)霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。なぜなら、生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。
 死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように、何らかの証拠を提供することがわたしたちの使命の大切な一環なのです。人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日はそれよりもっと恐ろしい、途方もないものとなるでしょう。
 が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生得権を主張するようになるのです。
 魂の自由性を永遠に束縛することはできません。魂の自在性も永遠に拘束し続けることはできません。自由性と自在性は、ともに魂が決して失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在を超えたものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを知ることのできない巨大な宇宙の中での、千変万化の生命現象の根元的要素である霊と、まったく同じ、不可欠の一部なのです。
 以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き、明日はどうなるのかと案じながら生きることがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになるのです。霊は本来、自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきなのです。
 永遠なる存在である霊が拘束され、閉じ込められ、制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせてきた障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し、無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。
 ですから、ご質問に対する答えは、とにもかくにも、霊的知識を広めることです。すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和を招来するためには、霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて、多に手段は有り得ません。(pp.268-272)




 11.質疑応答

 (眼の移植手術をすれば見えるようになるという場合でも、それをしないで、見えないままでいるのが望ましいということになるのでしょうか)

 個々の問題にはそれなりの事情がありますから、それを無視して一般論で片づけるわけにはまいりませんが、わたしたちからすれば、目が見えないというのは、あくまでも相対的な問題としてしか考えておりません。霊的な盲目という問題をどうお考えになりますか。
 地上人類の霊的覚醒を使命としているわたしたちの立場からすれば、無数にいる霊的に盲目の人の方をむしろ見下したくなります。そこでわたしは、この問題も当人の魂の進化の程度による、とお答えします。霊的覚醒の段階まで到達している人にとっては、目が見えないということは、別に障害とはならないでしょう。ただ物が見えるというだけの視力よりもはるかに素敵な視野を得ていることでしょう。
 皆さんはこうした問題をとかく物的身体の観点からのみ捉えて、永遠という概念を忘れがちです。といって、そのことを非難するつもりはありません。無理もないことだからです。たしかに、目が見えなければ春の華やかさと美しさはわかりません。が、そんなものは、霊の華やかさと輝きに較べれば、物の数ではありません。(p.52-53)


 (ある一つの考えを抱いた時、それを実行に移したのと同じ罪悪性をもつのでしょうか)

 とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質の問題ではありません。

 (たとえば、誰かを殺してやりたいと思った場合です。)

 それは、その動機が問題です。いかなる問題を考察する際にも、まずそれは霊にとっていかなる影響をもつか″ということを考慮すべきです。ですから、この際も、“殺したい”という考えを抱くに至った動機ないし魂胆は何かということです。
 さて、この間題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいと思っても、手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでには至らない――いわば臆病なのです。心ではそう思っても、まずもって実際の行為には至らないというタイプです。
 そこで、殺してやりたいと心で思ったら、実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せば、その霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけでは、そういうことにはならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは、罪悪性が異なります。
 しかし、これを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心・貧欲・恨み・憎しみといった邪念は、身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方が、はるかに強烈です。このように、この種の問題はその時の事情によって答えが異なります。(pp.104-105)


 (誰かを、あるいは何かを、憎む″ということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか)

 あとのご質問は答えが簡単です。わたしは誰も憎みません。憎むということができないのです。なぜなら、わたしは大霊の子すべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいは、わずかしか発揮できずにいる人を見て、いつも気の毒に思うからです。
 ですが、許せない制度や強欲に対しては、憎しみを抱くことはあります。強欲・悪意・権勢欲等が生み出すものに対して、怒りを覚えます。それに伴って、さまざまな思い、あまり褒められない想念を抱くことはあります。ですが、忘れないでください。わたしもまだまだ人間味をそなえた存在です。ただ、人間に対しては、そうした想念を抱かないところまでは進化しておりますが・・・・ (p.106)


 (地獄というのはありますか)

 地獄はあります。ただ、地獄絵などに描かれているものとはかぎらないというまでのことです。未熟な霊が集まっている暗い世界は、もちろん存在します。そこに住んでいる霊にとっては、そこが地獄です。実在の世界です。
 考えてもごらんなさい。地上世界を暗黒と悲劇の淵に陥れた者たち、無益な流血の巷としてしまった張本人たち――こういう人たちがこちらへ来て置かれる境遇がどういうものか、大体の想像はつきませんか。
 そうした行為の結果として直面させられる世界が天国であろうはずはありません。まさに地獄です。が、バイブルに説かれているような、業火で焼かれる地獄とは違います。行なったことの邪悪性、非道徳性、利己性を魂が思い知らされるような境遇です。それが地獄です。そこで味わう苦しみは、中世の地獄絵に描かれたものより、はるかに耐え難いものです。(p.220)