[参考資料 41]  (2020.03.19)

    井上靖『補陀落渡海記』にみる死出の船旅



 井上靖の短編に「補陀落渡海記」がある。補陀落(ふだらく)とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。チベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因んでいる。
 中世日本では、『華厳経』の教えで、遥か南洋上にこの「補陀洛」という浄土が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と言った。小さな舟の上に造られた扉のない屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれて外から釘が打たれて固定される。こうして死出の旅にでるのである。
 記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、そのうち 25件が和歌山県那智勝浦町にある天台宗寺院の補陀洛山寺(ふだらくさんじ)から出発している。
 渡海は北風が吹き出す旧暦の11月に行われた。渡海船は伴船で沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。もちろん、船の沈没前に渡海者が餓死・衰弱死した事例も多かったであろう。しかし、船が沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない。
 16世紀後半、金光坊(こんこうぼう)という僧が渡海に出たものの、まだ死ぬ覚悟が十分に出来ていなかったからであろうか、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまった。しかし、そのままでは、浄土信仰に汚点を残すことになる。金光坊は捕らえられて海に投げ込まれてしまった。後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようにったという。
 井上靖の小説『補陀落渡海記』は、この事件を題材にして書かれたものである。以下、井上靖『楼蘭』(短編集)のなかの一編「補陀落渡海記」、新潮文庫、(2000、pp.219-251) からの引用を交えながら、その筋書きをまとめてみたい。


       *****


 熊野の浜ノ宮海岸に補陀落寺という寺があった。その住職の金光坊は、永禄八年に61歳の春を迎えてから、補陀落渡海した先輩の上人たちのことを真剣に考えるようになった。

 ――と言うのも、金光坊自身、自分が渡海するかしないかといった問題は、実際のところそれまではそれほど切実に自分の身に結びつけて考えてはいなかったのである。なるほど補陀落寺の彼の前の住職である清信上人は六十一歳で永禄三年に渡海しており、その前の日誉上人も天文十四年十一月、六十一歳で渡海している。それからその前の正慶上人は天文十年の十一月の渡海で、やはり六十一歳の時である。こうして補陀落寺の住職の前任者を並べてみると、三代続いて、六十一歳の年の十一月に、補陀落の浄土を目指して、浜ノ宮の海岸から船出していることになる。併し、だからと言って、補陀落寺の住職がすべて六十一歳の十一月に渡海しなければならぬというような掟はどこにもないのである。(P.220)

 掟はない。だから金光坊は、自分が61歳になっても、11月に渡海しなければならないのか、と真剣に考えるのである。

 ――補陀落寺は確かにその寺名が示す通り補陀落信仰の根本道場である。往古からこの寺は観音浄土である南方の無垢世界補陀落山に相対すと謂われ、そのために補陀落山に生身の観音菩薩を拝し、その浄土に往生せんと願う者が、この熊野の南端の海岸を選んで生きながら舟に乗って海に出るようになったのである。浜ノ宮はその解らん場所、補陀落寺はいつかその儀式を司る寺となったが、併し、補陀落寺の住職が自ら渡海しなければならぬといった掟はそもそも初めからどこにもないのであった。ただそうした補陀落信仰と関係深い寺であるので、創建以来長い歴史を通じて、渡海者の多くは補陀落寺に一時期身を寄せ、そしてこの寺から出て船出しているし、住職の中からも何人かの渡海者を出しているのである。寺記に残っいる渡海上人たちの名は十人近くあろうか。いずれも渡海した年齢はまちまちであり、十八歳の上人も居れば、八十歳の高齢の渡海者も居る。
 それが、たまたま近年になって、三代続いて補陀落寺の住職が61歳で渡海することがあって、そのために何となく補陀落寺の住職は六十一歳になると、その年の11月に渡海するものだといった見方が世間に於て行なわれるようになり、またそうした見方が、この寺の歴史からするとさして不自然でなく成立するようなところもあって、61歳になった金光坊もそうした世間の見方から逃れられぬ羽目に立ち到ったわけであった。(pp.220-221)

 金光坊自身も、補陀落寺の住職である以上、いつか自分もそうした心境に立ち到れば渡海上人としてここから船出しないものでもないぐらいのことは考えていた。彼にも、僧侶として多少の自負もあった。自分の師である三代前の正慶上人の渡海の立派さは、今もありありと眼に残っていて、自分もできるならそうなりたいとかねがね思ってもいた。ただ、正慶上人は高い信仰の境地へ61歳で到達できたが、鈍根の自分は更に何年かの修行の年月を必要とすると思っていただけである。そこで彼は、こう考える。

 ――金光坊は正月から春まで、そうした自分が渡海するという世間の見方に迷惑を感じ、近い機会にそれを訂正して、自分の渡海の時期は、自分がその心境になるまで何年か先に延ばさねばならぬし、またそうしなければ折角渡海の船出をしても、補陀落山へ行き着くことはできないであろうということを諒解してもらうつもりだった。併し、春になると、金光坊はそうすることに絶望を感じた。一人や二人なら理解して貰えたし、理解させることもできたが、彼の渡海を信じている者は十人や二十人や百人や二百人ではなく、それは広い世間全部と言ってよかった。(p.223)

 こうなると、金光坊は好むと好まざるにかかわらず、渡海しなければならないようであった。若し自分に目下渡海する考えのないことなどを口走ったり、それが何年か先のことであるなどと言おうものなら、世間というものはおそらく承知しないであろう。どのような騒ぎが起るかもしれなかった。世間からの非難はなんとか耐えられるにしても、伝統のある寺の住職として、自分の言動で観音に対する信仰に瑕でもつけることになれば、それこそ死んでもその罪は消えないものと思った。そして、3月の彼岸の中日、ついに金光坊は、自分がこの11月に渡海するということを正式に発表したのである。
 金光坊は、真剣に、自分の渡海への決意を納得しようと努める。彼は、もともと、永禄八年になって自分の渡海騒ぎが始まるまで、渡海そのものに対して、一抹の疑念もさし挟んだことはなかった。船底に固く釘で打ちつけられた出入り口のない四角な箱に入り、何日間かの僅かな食糧と僅かな灯油を用意して、熊野の浦から海上に浮ぶことは勿論海上に於ての死を約束するものであった。しかし、そのようにして息絶えたものの屍は、そこで新しい生命を得てよみがえり、永遠に観音に奉仕することができるのである。そのことを彼は固く信じてはいた。そこで彼は、渡海への心の準備を始める。

 ――金光坊は春から夏へかけて補陀落寺の自室から出なかった。外出すると賽銭を投げられたり、生仏のように拝まれたり、あるいは浄土への携行物を託されたり、死にかかっている人の額に触らせられたり、そうしたいろいろのことも煩わしかったが、それより金光坊はあと三、四カ月先に迫っている渡海に対して、曲りなりにもそれに応じられるだけの自分を作らなければならなかったのである。突然渡海ということに立ちはだかられてみると、金光坊は自分がまだ何の心準備もできていないことを知らなければならなかった。金光坊は明けても暮れても読経三昧にふけった。いつ侍僧が居室へ顔を出しても、金光坊はいつも痩せぎすの背を見せ、経を誦す声だけがそこからは立ちのぼっていた。(P.228)

 秋晴れの気持よく空の澄んだ日、金光坊は弟子の清源を呼んで、渡海の日は今日でなかったかと訊いた。すると若い僧は、「今日申ノ刻に寺をお出ましになります」と答えた。金光坊は一度立ち上ったが、すぐまた坐った。そしてあとは急に体躯から力という力がすべて抜けてしまった感じで、身動きできなくなった。いよいよ、その時がやってきたのである。侍僧の一人が顔を出して、見送りの那智の滝衆がやって来たことを告げた。それから続いてもう一人の侍僧が顔を出して、禅家の導師が到着したことを告げた。

 ――この頃から金光坊にも寺内の騒然として来るのが感じられた。金光坊は何人かに手伝われ着衣を改め、それから何人かの人に導かれて、自分がこの寺へはいって以来一日も欠かさず毎朝のように勤行した本堂へはいって行った。本堂の千手観音も、右脇侍の帝釈天、左脇侍の梵天像、それから神将像、天部形像、そうした仏たちに、金光坊はその時だけは静かな視線を当て、そしてやがて、それをねめ廻すようにいつまでも見守っていた。(pp.244-245)

 やがて、金光坊は寺から出て、浜辺へ向かう。砂浜に置かれている自分の乗る舟は、今までのいかなる上人の渡海の舟よりも小さく感じられた。しかも乗船場もなく、その舟は同行人の乗る三艘の舟と一緒に恰も波打ち際に打ち上げられでもしたように置かれてあった。同行人の乗る舟の方がずっと大きかった。金光坊は一抹の寂しさを感じたかもしれない。

 ――金光坊は直ぐ乗船させられた。金光坊が乗船してから、人夫たちに依って、大きな木の箱が運ばれて来て、それがすっぽりと頭の上からかぶせられた。金光坊はまたこのことにも怒りを覚えた。屋形舟というものは初めから屋形が舟に設けられてあって、そこへあとから人間がはいって行くものである。それなのに、これでは反対ではないかと思った。
 舟に屋形を取りつける釘打ちの音が聞え出したが、それは暫くすると止んだ。屋形の内部は全くの四角の箱で薄暗かったが、やがて一方の扉が外部から開けられて、そこからいろいろの物が運び込まれて来た。そしてそうしたことが総て終ってから、金光坊は侍僧に依って屋形の外に立って見送り人に挨拶することを求められた。金光坊は言われるままに屋形を出て舟縁りの上に立った。群衆の間にどよめきが湧き起り、賽銭が雨のように舟縁りや波打ち際に投げつけられた。子供たちが争ってそれを拾った。金光坊は直ぐ屋形の中へ逃げ込んだ。それからまた金光坊は帆柱が立てられ、それに南無阿弥陀仏と書かれた帆がつけられるまで、長いこと暗い屋形の中に坐っていなければならなかった。すべては不手際に、のろのろと行なわれているようであった。(p.246)

 かれこれ乗船してから一刻近い時刻が経過した時、金光坊は舟が何の前触れもなく動き出すのを感ずる。舟底が波打ち際の小石の上をぎしぎしした音をたてて滑って、やがて海へ押し出された。金光坊は外を見ようと思ったが、どこを押しても屋形の板は動かなかった。先刻出入りした出入口も固く閉ざされていた。やがて、船頭の漕ぐ櫓の音が耳にはいって来た時金光坊は少しほっとした。まだ一人ではないと思った。綱切島まで船頭の手で船を操られて行き、そこへ行って初めて、一人きりになって潮の流れの中へ押し出されることになっていたのである。

 ――波の音の間から鉦の音が聞えて来た。耳を澄ますと、鉦の音と一緒に何人かが和する読経の声も聞えている。併し、読経の声の方は絶えず波の音に妨げられていて、時々、ふいにそれは祭礼の日の囃子か何かのように賑やかに聞えて来たり、すぐまた消えたりした。
 綱切島へ着いた時、金光坊は屋形の板の合せ目に小さい隙間のあることを発見して、そこへ顔を押しつけて船外を覗いて見た。大きな波のうねりを見せている暮れかかった暗い海面だけがどこまでも果しなく拡がって見えている。
 お上人さん、おさらばですじゃ。そんな船頭の声が屋形の天井板の方から突然降って来た。金光坊にはおさらばという意味が判らなかった。これまで渡海する場合は、そこで同行者とも別れを惜しんで、翌朝早くそこを出発することになっていた。
 金光坊は、自分でも驚くような大声を出して、舟はここで一夜を明かす筈ではないかと訊ねた。すると、天候が荒れ模様で同行の衆が帰れなくなる怖れがあるので、ここで一夜を明かすことは取りやめて、すぐ艫綱を切るということであった。
 金光坊はそれに対して何か怒鳴ったが、併し、もう船頭は岸へ飛び移ってしまったらしくそれに対する応答は得られなかった。(pp.247-248)

 綱切島で一夜を明かすことになっているはずなのに、急にここで、金光坊は一人だけにされて舟は海へ押し出されてしまった。荒れ模様の天候のなかで、やがて舟は大きく揺れ始める。金光坊は波に揉まれる舟の屋形の中で倒れた。倒れても起き上がろうとはしなかった。その時に彼を襲ったのは、どうしようもない絶望感であったろうか。やがて、一日の疲労がのしかかってきて、恐しい力で眠りが彼を捉えた。

 ――どれだけの時間が経ったか、金光坊は眼を覚ました。自分がいま真暗な闇の中に横たわっており、自分を横たえている板が大きく上に下に揺れ動いているのを知った。波涛の音が金光坊の体の下で聞えたり、頭上で聞えたりしている。
 金光坊は起き上ると、いきなりありったけの力を籠めて屋形を形造っている板に己が体をぶつけた。金光坊は生れてからこれほど荒っぽく自分の体を取り扱ったことはなかった。
 五、六回同じことを必死に繰り返しているうちに、やがて屋形の一方の板が音をたてて外部へ外れるのを感じた。と同時に、物凄い勢いで海風と潮の飛沫が屋形の中へ吹き込んで来た。屋形が風を孕んだので、舟は大きく一方へ傾いた。次の瞬間、金光坊は自分の体が海中へひどく軽々と放り出されるのを感じた。(pp.248-249)

 金光坊は板子の一枚に掴まって、一夜海上に浮んでいた。夜が明けると、綱切島がすぐ近くに見えた。幼少時代紀州の海岸で泳いでいたので、それが役にたって溺れることから免れることができたのであった。金光坊はその日の午刻近く綱切島の荒磯へ板子ごと打ち上げられた。死んだようになっている金光坊の体が、昨日同行の者として金光坊をこの島まで送って来た僧侶の一人に依って発見されたのは夕刻であった。海上が荒れていたので、同行人たちは全部島に留まっていたのである。その後、金光坊はどのように扱われたか。

 ――金光坊は荒磯で食事を供せられた。その間僧侶たちは互いに顔を寄せ合い、長いこと相談していたが、やがて、漁師に一艘の舟を運ばせて来ると、それに再び金光坊を載せた。その頃は金光坊は多少元気を恢復していたが、舟に移される時、それでも聞き取れるか取れないかの声で、救けてくれ、と言った。何人かの僧はその金光坊の声を聞いた筈だったが、それは言葉として彼等の耳には届かなかった。(p.249)

 間もなく急拵えの箱が金光坊の上にかぶせられ、こんどはしっかりとそれは船底に打ちつけられた。その仕事が終ると、まだ生きている金光坊を乗せて、舟は再び何人かの人の手で潮の中に押し出された。・・・・・・金光坊についての記述はこれで終わっている。この後、彼はどうなったかについては、この短編でも触れられていない。
 金光坊の渡海後、補陀落寺の住職が61歳で渡海するということはなくなった。もともとそうした掟があったわけではなかったが、金光坊の渡海の始終が伝えられ、そうしたことが補陀落寺の住職の渡海に対する世間の見方を改めさせたのかもしれない。そしてその代り、江戸時代になってからは、補陀落寺の住職が物故すると、その死体が同じく補陀落渡海と称せられて、浜ノ宮の海岸から流される習慣となったという。





                                  [参考資料 42] 2020.04.30

   フランシスコ・ザヴィエルの遺体の奇跡 


 フランシスコ・デ・ザビエル(1506-1552)は、スペインのナバラ王国に生まれたバスク人で、カトリック教会の司祭、宣教師である。ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。聖パウロ を超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれ、カトリック教会の聖人として崇められている。
 このザビエルの遺体の右手がかつて日本に来たことがあった。司馬遼太郎『南蛮のみちT』( 朝日新聞社、1995)には、著者が、その当時のことを思い出しつつ、遺体に対する仏教とカトリックの違いについて述べたつぎのような文がある。

     *****

 当時、――ザヴィエルの右手が日本にくる。
 という記事を書きつつ、グロテスクな思いがないではなかった。とくに私など日本的な空の意識がつよく、聖者のミイラ化した右手ということが、どのようにからんでカトリックの教義の上で神聖になるのか、よくわからなかった。
 原始仏教では、火葬にした釈迦の遺骨(舎利)については、例外的に大切にする。しかし釈迦の高弟たちの遺骨などは単に物質にすぎず、遺骨はおろか墓すらどこにあるかわからない。仏教では人間の肉体と精神は五つの要素(五蘊)より成っているとされる。人間の生命とはその五つの要素が仮に結合(五蘊仮和合)しているにすぎないとするあたり、現代の科学的な生命観に近い。仏教のことばで、「五蘊宅」というのがあるが、人間の生命の肉体をさす。五蘊という建材のよりあっまった建物にすぎず、生命は絶対的な実体ではない、とされる。五蘊は皆空であり、死ねば解体して空に帰する。
 本来の仏教には、遺骸への信仰はない。日本では遺骨や遺髪に霊が宿るという俗信があるが、仏教の本来にはない。霊魂すらみとめない。死ねば何ごとかが残るだろうと私どもは考えたいが、本来の仏教は酷烈で、そういう甘ったれから解脱するのが仏教だとする。
 その点、カトリックは優しくて、霊魂がある。それが昇るべき天や地獄がある。行いさえちゃんとしていれば天に昇れると保証される。戦国期に、切支丹が入ったとき、爆発的に信者を得たのも、ひとつにはこの命題が明快だったからにちがいない。

 ここで余談を挿みたい。
 織田信長の寵僧に、朝山日乗という天台宗の学僧がいた(日乗という名から日蓮宗とされることがあるが、所属は天台宗である。天台宗の本山の叡山は教学上のいわば総合大学であるだけに、日乗は仏教の本質にあかるく、従ってキリスト教でいうところの霊魂の存在を否定していた)。以下は、永禄十二年(一五六九)春のことである。信長は、京にあった。
 摂津の切支丹武士だった和田惟政(1532-73)が申次となって、イエズス会士ルイス・ フロイス(ポルトガル人)を信長に拝謁させた。フロイスは法兄弟ロレンソ(肥前うまれらしい。前身は半盲の琵琶法師。ザヴィエルに接して受洗した)をともなって信長の前にすすみ出た。三百人の織田家の家臣が陪席しており、信長のそばには、日乗が侍して、フロイスと問答した。日乗は極端な切支丹ぎらいだったために、つい狂躁し、教義論を吹っかけて両人を挑発し、偶発ながら宗論になった(信長が宗論好きであったことにもよる)。
 主題が、霊魂の存否論になった。日乗はその存在を否定してついに論破され、血迷ってしまった。

 「そうとあらばこの刀で貴殿(フロイス)の弟子ロレンソを殺してやろう。その時は、人間の中にあると貴殿が申されるこの霊魂を見せてもらおう」といって、その刀を鞘から抜き始めた。(ルイス・フロイス『日本史』柳谷武夫訳)

 狂乱した日乗をかたわらの武士たちがおさえ、刀をもぎとった。日乗への信長の寵は、この事件によって冷めたといわれる。また、日乗をとりおさえたひと達のなかに、まだ木下藤吉郎と称していた秀吉がいたことを、後年、秀吉自身の昔話によって知ることができる。
 右の宗論において、ロレンソは人間の肉体について以下のようなことをいった。

 「人間の肉体は、生命や精神に仕える道具以上の何物でもないことを御承知ください」

 このことばの内容の堅牢さは、その後の神学の発展においても十分堪えうるはずである。しかし、聖人の肉体となると、ちがうのであろうか。
 以下、ザヴィエルの死後の遺骸″の事歴についてのべる。
 上川島で死んだザヴィエルの遺骸を、ポルトガル人たちは棺内に石灰を詰めて納棺し、それを海岸にうずめた。十二月のはじめのことで、南国とはいえ、島は寒かった。それから二カ月半のちに遺骸を船にのせるべく掘りかえしたところ、生けるがようであったという。ザヴィエルはのち「聖人」に列せられるが、奇蹟を尊ぶカトリックにあってはこれをもって聖人の資格の一つとした。
 遺骸は船に積まれ、マラッカの聖堂に運ばれて、ここで二度目の埋葬がなされた。その再埋葬後、二カ月ほどをへて司祭たちがもう一度拝したいとおもい、掘ってみたところ、遺骸はなお生けるがようであったために大いにおどろき、こんどは納棺したまま聖堂に安置した。
 この遺体の奇蹟は、インドにおけるポルトガルの根拠地であるゴアまで喧伝され、そのあげくふたたび船に移されてゴアに運ばれた。この船が着くとき、全市の鐘が鳴らされ、総督以下が河岸まで出むかえ、群衆がひしめき、大さわざだったという。遺骸は聖ポーロ聖堂に運ばれ、棺から出されて、三日間、一般に拝観がゆるされた。
 ここで、珍事がおこった。参観者にまじって遺体に近づいたイサベラ・ド・カロンという貴婦人が遺骸の足に接吻するや、やにわに右足の第四指と第五指を噛み切って逃げ去った。この場合、奥歯をつかうと噛みくだくおそれがあるだろうから、おそらく前歯をつかったのだろう。貴婦人カロンの前歯は鮫のように鋭かったのであろうか。ともかくも彼女は二個の足の指を口にふくんで去り、生涯これを大切にした。死ぬときに聖堂に返したが、二個の足の指はその後、聖堂に保管され、一九〇二年、そのうちの一個が、ザヴィエルの生家であるピレネー山脈のスペイン側のザヴィエル城に移された。いずれにしても、貴婦人イサベラ・ド・カロンの即物的な宗教的情熱は尋常なことではない。
 ところで、右のゴアにおける遺骸の展示は、一五五四年三月十六日から十八日までのことである。それから六十年後の一六一四年(慶長十九)、ローマから「遺骸の右腕を切断して送れ」との命令がゴアにきた。
 聖人に列せられる場合、どういう場合でも当該人物の事蹟調査がローマの法王(教皇)庁においておこなわれる。この場合、委員会にあっては、聖人たるべき人の奇蹟の実証として、生けるがごとしということを確認すべく右腕を切らせて送らせたのである。この実証精神は西洋の土俗に根ざすものか、カトリックのものなのか、それとも両者不離のものなのか、いずれにしてもすさまじい。
 右腕はローマに送られ、委員会で確認された。そのあと、腕型の箱におさめられて、ローマで保存された。
 昭和二十四年五月の四百年祭のとき、私どもが見た右手― 実際に見たのは腕型の箱の外観―には、以上のような事情が歴程して、四世紀をへている。

    司馬遼太郎『南蛮のみちT』(朝日新聞社、1995)pp.46-50





                                   [参考資料43 ]  (2020.05.28)

         この世からあの世へ移るとき


 矢作直樹『「あの世」と「この世」をつなぐお別れの作法』ダイヤモンド社、2013 から四つのパッセージを抜き出して、以下に掲げる。著者の矢作氏は、2011年に『人は死なない――ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』を出版して以来、熱心に霊的真理の啓蒙活動に取り組んでいる東大名誉教授である。氏は学生時代からの霊的体験のほか、霊界のご母堂との霊界通信の体験などももっているだけに、文章にも説得力があるように思われる。浅野和三郎先生が、日露戦争時の連合艦隊作戦担当参謀であった秋山真之から密かに聞いたというロシア・バルチック艦隊がウラジオストックに入る航路についての話などは、興味深い。四つのパッセージの番号と見出しは、便宜上私がつけた。


     *****


 1.死が不幸であるという誤解

 東大病院の救急で、あるいは東大病院に来る前の勤務先で、私は多くの方を看取ってきましたが、今まさにこの世にお別れを告げようとしている人は、まるで何かを見つけたような、ちょっと驚いたような表情に変化する方が少なからずいらっしゃいました。何かを見て顔をほころばせたように思えた方もいらっしゃいます。
 そんな表情が見えるのは、亡くなる二、三日前くらいからが多いような気がします。特徴としては、周囲に無関心になると同時に、まるで別の世界にいるような感じで、顔をほころばせるわけです。
 当然ながら、そんな表情を見せた患者さんは皆さん逝ってしまわれるので、彼らが何を見つけたのか、何に対して驚いたのか、その確認がとれません。
 そんな表情を長年目にしていくうちに、死が幸福であるとは言わないまでも、死ぬことが一概に不幸なことだとは思わなくなりました。
 私は現在、医師となって三〇年あまりとなりますが、かつての私は、人の生や死について格別に思うところはありませんでした。
 病院という場で日常的に人の死に接していたせいもありますが、大学時代に登山を趣味としていた私は、山で間近に友人の死や蘇生を目撃していたせいもあるのでしょう。
 しかし、臨床医となって経験を重ねるにつれ、どんなに治療を尽くしても亡くなられてしまう方、それとは逆に、決して助かる見込みのないはずの重篤な患者さんが奇跡的な回復を遂げられたケースなど、医学常識では説明のつかない数々の事例にも接することとなりました。そんな人間の生と死を通して、生命の真の神秘に触れ、しだいに現代の医学や科学が知るところの人の生命や体についてのことなど、まだまだその全容のほんのわずかしか解明されていないと思うようになっていきました。
 そうした経験もあって、私は、極限の体験をした人たちの報告や臨死体験に関する報告、世界の科学者たちが残した近代スピリチュアリズム関連の文献を読むようになりました。また、気功を含むエネルギー・ヒーリングなど、常識でははかれない超常的な能力を持つ人たちと出会う機会があり、自分でもそれを体験してみたりしました。
 いずれも、それまで私の学んできた常識では信じがたいことばかりでしたが、科学的に解釈しようとしてもどうにも説明のできない現象であり、私には、「何かがある」と言うことしかできなかったのでした。

 ほかにも私には、母の死にまつわる不思議な体験があります。
 私は母を、孤独死という形で亡くしています。父が亡くなった後、母は一人で暮らしていました。母の死後、私はその晩年に何もしてやれなかったことに対して申し訳ないという思いで毎晩手を合わせていました。
 しかしある時、知人の紹介で母を降霊してもらう機会に恵まれました。つまり、死者となった母と会話したのです。
 母は、霊媒となった人の体を借り、私の問いに答えてくれました。死んだ時の具体的な状況をはじめ、母しか知るはずのない、これまで私が誰にも話したことのなかった詳細なども正確に話したのです。また、霊媒となってくれた知人の降霊中の口調や立ち居振る舞いは、母との面識がなかったにもかかわらず、驚くほど母の生前の特徴そのままでした。そこに母がいるのでは、と錯覚を起こしたほどです。
 それ以来、なぜか私には、不思議な安心感のようなものが生まれてきました。
 死に対する漠然とした恐怖感が消えたのです。
 「あの世」という異界の存在を、さまざまな書物や体験談以外で知ったのもこの時です。
 この体験は鮮烈でした。文字や他人から聞いた話や、同じ交霊でも知らない人(霊)から知らされるのと、他界した肉親から目の前で知らされるのとでは大きな開きがあることも実感しました。
 同時に私は、「あの世」と呼ばれるようなものの存在があること、人は肉体死を迎えても魂は滅しないこと、つまり、見えない世界の存在に確証のようなものを得たのです。
 この世を終えてもあの世に還るだけ、それが唯一の事実であると伝えても、やっぱり死ぬのは怖いというのが大方の人の本音ではないでしょうか。

 そこで私から提案したいのは、「この世とあの世をつなぐ原則」を理解するということです。原則には三つあります。

 @死はあくまでも肉体死であり、終わりではないと知ること(=輪廻転生の原則)
 A現世はジグソーパズルのワンピース(一片)だと知ること(=多次元世界の原則)
 B生まれてきたのは、さまざまな経験をすることにより意識の進化(魂の向上)をするためだと知ること(=意識の進化の原則)

 この三つの原則をクリアすることで、私たちは寿命をまっとうするための安全装置として本能という形で備わった死への恐怖感を、理性的に克服していくことができるのではないかと思います。人生における大半のストレスを手放すことができるでしょう。

  矢作直樹『「あの世」と「この世」をつなぐお別れの作法』ダイヤモンド社、2013 (pp.18-23)



 2.霊心体が説く“魂”の存在

 これからの医療には、ホリスティックな視点を取り入れていくことも必要になると思います。ちなみに、ホリスティックとは、全体、つながり、あるいはバランスなどを意味します。現在の医療では、このホリスティックな視点、すなわち霊心体も含め、また生老病死も含めた人のありのままの全体の中で生を考えていく医療を「ホリスティック医療」と呼んでいます。
 医療と同時に医食同源的な意識を持った生活が大切であるという発想が根幹にあるホリスティック医療では、薬に頼ることなく、食生活に目配りし、不要な薬を服用しない、という方向性を持っています。
 このホリスティック医療というジャンルの代表的な提唱者の一人に、世界中で講演活動を続けるクリスティン・ペイジという医師がいます。
 彼女は人々に、「霊心体」を説きます。医師であると同時にスピリチュアリズムの専門家でもある彼女は、霊心体のバランスこそ、病気から解放される糸口だと言っているのです。
 この「霊心体」とは、一般的には身体(心体)バランスと口にされていますが、本当はそこに霊(魂)という存在があることを意味する言葉です。
 普通に暮らしているとほとんど意識しませんが、私たちの心と体は日々変化します。心は、その時々の感情に左右されて揺れ動くものですし、私たちの体は、毎日すさまじい数の細胞が入れ替わっています。
 しかし、霊、つまり魂は変化しません。
 また、似た響きを持つ言葉に、「統合医療」があります。
 こちらは、「西洋医療」と「代替医療」を合わせておこなう医療を指します。さまざまな医療を足し算して、患者さんの必要に応じていろいろな観点から病気の予防、発見、治療、あるいは健康増進をめざすものです。
 考え方、アプローチは両者で異なりますが、まずは、できるところからやっていければよいのではないかと思います。(pp.36-38)



 3.千里眼について

 似たような現象として千里眼があります。日本で最初にシェイクスピア全集の完訳をおこなった英文学者で、のちに日本の近代スピリチュアリズム研究者のさきがけとなった浅野和三郎(1874-1937)は、海軍機関学校の教師をしていた時に、西洋医学で治らなかった三男の熱性疾患が女性祈頑師の予告通り治ったことから心霊の世界に興味を持ち始め、やがて教祖、出口ナオの「おふでさき」と呼ばれる自動書記の内容を知りたいという動機から大本(慣習的に大本教と呼ばれることもある)に入信しました。
 そして一九一六年、大本に接近してきた秋山真之(日露戦争時の連合艦隊作戦担当参謀)と知遇を得、秋山は浅野に密かに、日露戦争日本海海戦にまつわる秋山自身の千里眼体験を語ったのです。
 一九〇五年五月下旬、鎮海湾の日本連合艦隊は、バシー海峡を通過したロシア・バルチック艦隊がウラジオストックに入る航路として、対馬海峡なのか、太平洋から津軽海峡を通過するのか、の判断に神経をすり減らしていました。秋山は、連日連夜頭を絞って疲労困憊の極致にありました。
 そして二四日の夜、士官室で横になって考えを巡らしていた秋山が、ついうとうとしかけた瞬間、突然眼前に対馬海峡を二列になって北上してくるバルチック艦隊の様子が見えました。これは天啓だと直観して、すぐに驚くほど緻密な「七段構えの戦法」の計画を練りあげたのです。
 二七日未明、まさに先の千里眼による情景と寸分違わない隊形でバルチック艦隊がやってきました。ここに日本の勝利が巡ってきました。覚醒状態からすぐに睡眠に入らない場合のこの中間的状態は、体外離脱しやすく、思念が強いと瞬時にその場に移動できるとされていて、秋山の場合もまさにこれに当てはまるかと思います。(pp.104-106)



 4.亡き母が教えてくれた、あの世の様子

 ここで、私の母から交霊の際に聞いた他界(あの世)の様子をお伝えしておこうと思います。
 前述しましたが、私の母と名乗った霊は、その交霊の場で、私と母しか知らぬはずのことを話し、生前の母そのものという仕草で振る舞いました。
 私にとって、そんな亡き母という個人を特定できる霊からの話には信憑性があるように思えるものがありました。
 ですが、あくまでも私の母という一人の市井の人の霊の話なので、無限にある他界といえる場所のほんの一つの事例にすぎないでしょう。なので、あくまでも参考のために述べます。
 母は、他界の様子について、私にあまり根掘り葉掘り訊いてほしくない様子でしたが、訊きだせたところでは、母のいるところは、たいへん居心地のよいところ、とのことでした。世界は、自分の思いのとおりに目の前に展開するようです。
 この世と違い、会いたい人には会え、会いたくない人には会わずにすむ、とのことでした。このあたりはエマヌエル・スウェーデンボルグをはじめとする、自分の意思で、あるいは臨死体験などで、体外離脱をして他界を見てきたとされる人々の幾多の報告での様子と基本的に同じです。
 こちらの様子は、ハーフミラーではありませんが、見ようと思えば見えるそうです。また、こちらの思いはみな、直接伝わるようです。母の他界後に私の身に起こった、思いのほか細かいことまで知っているのには驚きました。
 なお、この世とはあまりに違う世界であるはずなのに、母はそれに何の疑問も持っていないように感じられました。
 しかし、残念なことに、あちらの世界の仕組みを詳細に訊くところにまでは至れませんでした。
 そして母は、自分の言いたいことを私に伝え終わったら、こちらにまったく未練などないようで、嬉しそうにいそいそと帰っていきました。
 母はなぜ、他界の様子についてあまり訊いてほしくなかったのか。
 一つには、他界の様子をこの世の言葉で詳細にリアルに語るのは難しいと思っているようであったこと、私がそのように素晴らしい他界に心を移さず、今の生をちゃんと頑張って生きてほしいということ、そして、母が居心地の悪いこの世から少しでも早く他界に戻りたそうにしていたこと、などが理由ではないかと思いました。
 この先、テクノロジーの発達で、あの世とこの世が映像回線でつながるようなことになれば、その美しい様子がわかることと思いますが、そうすると転生のルールを無視して自殺する人が増えるかもしれませんので、結局は見せてくれないと思います。代わりに夢で見せてくれるかもしれません。(pp.209-211)





                                    [参考資料44]  (2020.06.25)

         西部邁さんの死生論について 


 一昨年(2018年)の1月21日、保守派の論客として知られた西部邁さんが、遺書を残して東京 の多摩川に入り、78歳で亡くなった。ずっと考えてこられたうえでの自裁であったようである。私は、西部さんとは多少の縁がある。彼が高校3年生の時、私は同じ高校で英語を教えていた。2018年4月12日の「寸感・短信」欄(N0.169)に、「超高齢社会の死生観について考える」という一文を載せているが、そのなかで、西部さんについてつぎのように触れている。

 《 西部さんは北海道生まれで、1957年に札幌南高校(旧札幌一中)を卒業して、その後東大へ入学している。たまたま私は、1956年からの1年間、札幌南高校教諭を勤めて1957年にアメリカへ留学したから、その間、西部さんとは同じ高校に居た。「袖触れ合うも他生の縁」があったことになる。》

 彼は、東大卒業後、大学院を経て、東大教授になったが、1988年、東大の人事問題で教授会に抗議して辞任した。その後は、評論活動を続けながら、テレビの討論番組などにも保守派の論客として数多く出演してきたことはよく知られている。西部さんは50代の時から自分の生き方の結末を考え、55歳の頃には自死への構えがおおよそ定まっていたらしい。2014年に奥さんと死別して以降は、息子さんにも自殺を口にするようになり、電話で息子さんに「お父さんは自殺をすることに決めた」と告げたといわれる。

 西部さんは、健康面では背中に持病を抱えていて激痛に襲われることもあり、皮膚炎や神経痛に悩まされていた。重度の頚椎症性脊髄症のため細かな作業や重量のある物を持つことができず、執筆活動も困難になっていたという。その彼は、1994年に刊行した『死生論』(日本文芸社)の中で、死についての考え方をいろいろと述べている。そのなかには、「輪廻転生を信じたふりをして、それを喧伝して回るといったようなある種の神秘主義、あるいは『臨死体験』なるものをふくらませて死後の世界を垣間見たかのように触れて回るいわば超科学主義、そんなものによって死の恐怖が軽減されるであろうか。少なくとも私の場合、そうしたやり方に依るべき確かさがないことをはっきりと感じとっている」(同書、85頁)というように書いているところもある。これは、私自身もかつてそうであったように、往々にして、科学を超えたものには関心が及ばない大学教授の一つの限界を示すものではないかと、深く考えさせらたりもしている。以下、特に生の終え方について書かれている主なものの一部を抜き書きしておく。


     *****


 こんなことを公言すると、責任をとらなければいけないから少々困るのであるが、自分の平衡感覚をリミット近くまで持っていくという構えからすると、私は死が間近になったとき、たぶん、自殺すると思う。たとえば癌になって、あと半年しか生きられないと宣告されたとする。もちろん闘病なるものによって、その半年が一年に延びたり、完治した人もいないわけではないから、医者の診断はあくまで確率的なものにすぎない。しかし確率的にせよ、平均であと半年といわれたときに、私がどう振る舞うかといえば、ぎりぎりまで生きているのは厄介だと判断する。限界まで堪えてしまうと、死ぬ気力もなくなったり、肉体的かつ精神的なセルフコントロール(自己制御)も効かなくなる。したがって、そこにいく前に自殺しなければならない。確率としては、一カ月あるいは二カ月くらい早目に死に急ぎするのが私の場合だということである。
 私は是非ともそのように死にたいと念願している。かならずそうすると断言すると、私の病床にやってきて、さあいつ自殺するんだと問い詰める御仁がいるかもしれず、そんな面倒な状態のなかで自殺したくはないので、とりあえず自殺は私の念願だということにしておこう。
 ともかく、ぎりぎりまで生きていると、死ぬ気力も体力もなくなって醜態をさらし、家族や病院(ということは世間)に迷惑をかけることになるだろう。あと六カ月と宣告されても、たとえば四カ月ぐらいを限度とみなして自殺するほうがいいのではないか。
 しかし念願すれば直ちに実行できるというほど人間の精神力は強くはない。そこで、この五年くらい、念願を成就するために、私はその死の計画について繰り返し考えることにしている。独りで考えているだけでは、人間は卑怯な代物であるから、いざ実行となると、他人に公約していないことをよいことにして自殺を決行しないということになるかもしれない。そういう事態を封じるために、私は家内に折に触れて自分の自殺計画を話している。相手にその趣旨を理解するよう求めてもいる。健康なときから自殺のことを繰り返し考え、それを周囲に約束していると、いざというときにきちんと実行できると見込んでいるわけである。 (pp.49-50)


 さて、私なりに好ましいと思う死の形態にあっさり名前を与えてしまうと、それは「簡単死」あるいは「簡便死」である。シンプル・デスは内容的には安楽死や尊厳死と同じである。私は、脳死状態になったら延命装置をはずすことを事前に承諾するし、私の家族にたいしてもそれに同意せよと求める。延命装置を医者にはずさせることによって死ぬという意味では、簡便死は安楽死と同じである。しかしそれにたいする意味づけが異なる。「苦痛を減らすという意味での安楽」といったような安易な意味づけを死に与えたくはないということだ。
 むしろ「簡便な死に方」というごく客観的なよび方のほうが、近代主義的なイデオロギーの外被を剥ぐことができてよいのではないかと私は思う。そういう死に方を選ぶ破目になったことについての主観的な評価はとなると、私の場合、快苦相半ばしている。現代社会においては、せいぜいのところこのような形で死ぬのが所与の条件の下でのベストの選択だとしかいいようがない、それが私の簡便死を選ぶ理由である。つまり、延命装置をはずすことさえも医学的な行為なのであってみれば、「医学」という名の技術に身をあずけるほかない。死の近づいたある段階において簡単な形での自殺を選ぶ、そういう味も素っ気もない意味しか簡便死には残らないのである。
 昔であれば、そこそこの立場にいる人間なら、一族郎党が泣いたり祈ったり音楽も奏でたりするという光景のなかで死ぬこともできた。今は、そのような死に方をすることはできない。一片の承諾書や同意書を医者に提出し、医者が延命装置をはずすという技術的行為に期待してしか死ねないのだ。それはやっと死ねるというかすかな安楽をもたらしてくれはするであろうが、同時に、そういう文明的な形態で生に結着をつけざるをえない自分の人生について、なにがしかの精神的苦痛を味わうであろう。快と苦が互いにキャンセルされてしまえば、それは要するに簡便な死ということにすぎない。
 死の尊厳なるものについてもしかりであって、たかだか延命装置をはずすよう要請したからといって、それに「尊厳」を見いだすのは不可能である。それも自由選択の一つではあるが、しかし私の認めがたい技術主義の平面における選択なのである以上、それに大した尊厳性がこもるとも思われない。要するに複雑な死に方を選びとれば、妻や子供に余計な苦痛を与えるかもしれないことを懸念して、いざとなれば簡単に死んでしまおうというだけのことなのだ。またそれは、延命のための薬品や装置を自力で拒否しうる段階で自殺するということでもある。下手に植物人間になるまで生きていれば、安楽死やら尊厳死やらに同意した妻子に、あとで同意しなければよかったと後悔させることになるかもしれない。そういう心配を避けるために、自分の判断で簡便死を選ぼうというのである。
 一般的にいうと、安楽と苦痛そして尊厳と屈辱がないまぜになるしかないのが現代における死の選択というものだ。それでもなお死に敬意を表しようとすると、「簡便死」という技術主義的な形容をあえて付すところに、現代において死を選択する際の覚悟の深さを表明してみせるほか手がないのではないか。(pp.73-75)


 ただし、二つの条件がととのわなければ、簡便死すら簡単には実行できない。一つは、自分自身において簡便死のイメージとプランを繰り返し反復することである。安楽だ尊厳だというふうにイデオロギーで自分を武装する場合には、自分を死に向かって追い込んでいくことは、比較的に容易である。しかしイデオロギーを取り払ってしまった場合に、いかにすれば簡便死にたどりつくことができるか。それは、ある程度年齢をとったあたりから、自分はしかじかの形における自殺を、つまり簡便死を選ぶのだということを執拗に自分にいい聞かせることによってである。自分の生のなかに死への経路をあらかじめ組み込むことだ。自分はある形態の簡便死を最後に選びとるべく生きている、それが自分の生なのだと構えれば、それはただちに生き方の選択でもある。
 特別な環境にある人を別とすれば、宗教的感情や政治的価値観において、強いものをいかに努力しようとも持ちえないのが現代である。あるいは人生観上の道徳においてすらそうであって、家族の解体という風潮にみられるように、身近の人間関係を維持することがむずかしくなっているのが現状といってよい。私はそれでも宗教・価値・道徳などにかかわる基準を探し求める必要ありと主張してはいる。しかしその成果が乏しいであろうことはすぐ見当がつく。その意味でのニヒリズムは、いや主義としての虚無ではなく、否応もなく押し寄せてくるニヒルな気分は、ほとんどすべての現代人をとらえて離さないのである。少なくとも正気の人間はそのことを好むと好まざるとにかかわらず自覚せざるをえない。
 となると、死の間際までニヒルな精神の溶液に浸かっておきながら、死の瞬間においてだけ、尊厳だ安楽だというふうに自己を瞞着するわけにはいかない。つまり簡便死は、自分を騙したくない、周囲のものを騙したくないという構えだけから出てくるものなのだ。そんなのは情ない死に方だといわれればその通りであるが、しかしそれは少なくとも正直な死であり、それゆえ簡便死という自殺には「正直」の名誉が与えられる。今どき、たった一つでも名誉が冠されるのは立派なことだとしておかなければならない。
 もう一つの条件は簡便死のイメージやプランについて、周囲のものと丹念に議論しておくことである。簡便死という死に方は、それにたいする価値の支えが正直の確保あるいは欺瞞の回避という実に弱々しいものにすぎないから、よほどに自分の精神を訓練しておかないと実行不能になる。そしてこの訓練にあっては、自分にいい聞かせるだけでなく、周囲のものと議論してみることが有効と思われるのである。(pp.75-76)
 

 私は五十歳を過ぎたあたりから、人生戦術の一環として、周囲のものと、彼らに迷惑をかけない程度において、簡便死について話し合ってきた。話し相手をしてくれる周囲のものといっても、私の場合、伴侶たる妻であることが多く、子供はまだ無理のようだ。若年者にとって死はまだ遠い徴かな帳りの向こうにあるもののようで、死の話題をむくつけく出してみても彼らには理解不能の部分が多いのである。したがってどうしても話し相手は妻を初めとする同年者もしくは年配者ということになる。(pp.76-77)


 話が少しずれるが、私は戦後の年配者にたいしてずっと不満があった。つまり、あの戦争において凄まじい死の光景に立ち会われた人びとが、後世のものたちにたいして、その体験を語ることがあまりにも少なかったことについてである。
 語りづらかったであろうことは、いうまでもなく、よくわかる。アメリカの占領政策のこと、またその政策に従順に追随した戦後日本人の振る舞いのことは別としても、戦地の状況を知らない戦後世代にたいして、それはいくら語っても仕方のない体験であったろう。そのことは重々理解できる。しかしその困難を押してなおも語ってみせるところに体験の重みがにじみ出るということもあるのである。
 現場の経験を共有しなければ通じないというのであれば、そもそも言葉というものが空しくなる。追体験・想像体験も含めながら、言葉をなんとか動員してフィクションとしての共有体験を創り出す、それが言語活動の目的であろう。そうであれば、社会的・政治的・軍事的な死の広大な光景をみた世代が、そのことについて、いかにむずかしかろうとも、われわれ後世のものにたいして、死の実相が何であるかを語らなければならなかったのだ。戦争体験が風化したについては戦争世代の沈黙、そしてそれにつづく忘却が大きな原因になっていると私は思う。(pp.77-78)


 私たち戦後世代は、私たちの先輩が抱えたような語るに足る死の体験を持ち合わせていない。せいぜいのところ自分の迎えつつある個的な死のみである。しかしそれしかないのなら致し方ない。その自分の死についてどういう迎え方をしようとしているのか、そこにあって自信と不安がどう交錯しているのか、周りのものに折に触れて語ってみてはどうか。そしてそれを、できるならば楽しげに語ってみることである。その語りがうまくいったなら、それが自信となってより容易に簡便死に近づけるということになるであろう。
 とくに自分の死を看取ってくれると予想されるものにたいしては、そうした語らいをしておくのが義務でもある。簡便死へ向けての精神のトレーニングがうまくいって、首尾よく自殺できたとしても、それをひそかに実行したのでは、残されたものたちの精神を傷つけることは目に見えている。遺族たちは、自分たちは精一杯に死にゆくものを看病し、もう思い残すところはないという気分になれて初めて、安穏に生きていくことができるのである。
 逆にいうと、簡便死を選びとるということを周りに告知し、さらにはその意味について納得させておかないと、残されたものは、自分の父や夫は、何と孤独な死に方をしたものか、自分はこの孤独な男に何の協力もできなかったし、その死に何の関与もできなかったという、協力や関与を拒絶された、という苦痛を味わう。残されたもののことなど死者にはどうでもよいことだといってみても、生前においてすでにそうした自分の死後のことが予見できるのであってみれば、その予見が自分の自殺に影響を与えないはずはないのである。つまり、自分の精神を簡便死へ向けてトレーニングしておくばかりでなく、周りのものたちをもそれに向けて馴れさせておかなければならないのである。
 このコミュニケーションの過程で、予定していた簡便死の形態が少々変更されるということも起こるであろう。またコミュニケーションがうまくいかないで、周囲のものが自分の簡便死を阻止するというような振る舞いに及ぶこともあるであろう。それでもよいのである。そのときこそ、自分の孤独を最終的に確認して、好き勝手に死ねばよいのだ。こうした結末のことも含めて、ともかく、簡便死の迎え方について周囲に語りかける必要がある。私の味わったところでは、それはなかなかに面白く刺激に富んだ会話になりうるのである。
 それもそのはず、物質的な繁栄のなかで現代人は退屈や焦燥といった類の心理的葛藤に苛まれている。そうならば、ことのついでに、近代そのものを批評するという文脈で、しかもその批評を実行につなげるという脈絡で、簡便死というイメージ・プランを持ちだすことにより、ニヒリズムに首まで浸かりつつ、毒をもって毒を制するの流儀で、近代のニヒリズムに対峙することができる。その種の会話に面白味を感じないものは、おそらく、頭のてっぺんまでニヒリズムに浸かり、精神的にはすでに死んでいるのであろう。(pp.78-79)


 簡便死はかならずしも医者の助けを借りるものではない。自殺用の薬品が法律の網目をくぐって入手できるなら、それを使用してもよい。もっと簡便な方法をというのなら入水でもいいのである。ただし、入水の場合、近所の川や海というのでは、浮かんだ死体の様子がたいへん醜いことが多く、それが遺族の気持をいっそう傷つけることになる――もっとも最近は、幸いにも公海の遠くまでいくことができるので、簡便に入水自殺することも可能であろう――。
 人それぞれの判断で服毒を選んだり入水を選んだりするわけであるが、ともかく簡便死について自分で繰り返し思考訓練し、周囲と繰り返し議論しているうちに、たぶん、「死を飼い慣らす」ことができるようになる。そしてその分だけ死の恐怖が遠のいていく。私自身、少々の実験によって、その効果を感じている。死について、自殺の方法論まで含めて考えていくと、次第に死を自分の生のうちにとらえることができるようになるのだ。
 人間にとって、「認識不能」そして「決断未定」の状態でいることが、おそらく最も怖いのではないか。自殺の方法を検討しておくことの便益は、死の様相についての認識が容易になり、また決断の実態が明瞭になってくる点にある。この意味を含めての簡便死なのである。それどころか、いわゆる「メメント・モリ(死を想え)」が生の一要素となることによって死の恐怖を避けることができるというのなら、メメント・モリは断じて余計な生の形態ではない。死を想うことによって死の恐怖を乗り超えていく生は、いわば輝ける生である。
 死が幸であるというのは、すでに述べたように、死ねないという恐怖から解放されるということであり、それが不幸であるというのはまだ生きてみたいという願望に終止符が打たれるということである。こういう二律背反を抱えた死を手懐けるには、やはり、時間をかけておのれの死について想っておく必要があるのである。(pp.82-83)


 そのうち百年もたてば、二十一世紀風の『死者の書』や二十一世紀流の葬式が確立されるかもしれないが、それは先の話である。輪廻転生を信じたふりをして、それを喧伝して回るといったようなある種の神秘主義、あるいは「臨死体験」なるものをふくらませて死後の世界を垣間見たかのように触れて回るいわば超科学主義、そんなものによって死の恐怖が軽減されるであろうか。
 少なくとも私の場合、そうしたやり方に依るべき確かさがないことをはっきりと感じとっている。むしろ、そういう無理な儀式を持ち込まねばならないほどに死の恐怖は圧倒的なものなのかと思わされて、かえって死の恐怖が増幅することもあろう。死を少しずつ迎えつつある私にたいして、虚偽であることが明白な贋の説明をみせつけてくれるな、といいたくなる。
 たぶん私のように死の問題をためつすがめつしている閑人は少ないのであろう。だから、輪廻転生だの『死者の書』だのといった話も新鮮なものとして受け止められ、それによって一時的にせよ心の落ち着きを得ることができているのかもしれない。しかし、晩かれ早かれ、現代人は現代人でしかないことを思い知らされる。その種の言説は一時の手慰みとして受け入れられ、やがて別種の、いっそう刺激的な言説にとってかわられるということになるほかない。(p.85)


 私がいいたいのは、現代人は、自分流の精神的治療法をみつけるほかに、死の恐怖から逃れる途はないということである。「簡便死」という名の自殺について考えたり喋ったりすること、私にとってそれは何ものにも替えがたい治療法となっている。自分が自分でありつづけている(と思い込んでいる)うちに死ぬこと、現代にあってそれを可能にしてくれる最も簡便な方法は「自殺」である。(西部邁『死生論』日本文芸社、1994)、(p.90)




 

                                   [参考資料45]  (2020.08.20)

         死んだらどうなるのか―人類共通の来世信仰


 
上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケンさんは、「死生学」の研究者として著名である。生と死についての多くの著書があるが、『死とどう向き合うか』(NHK出版、2011)のなかでは、「死後の世界について体験的に教えてくれる人は、まだだれもいないのにもかかわらず、死後の生命の可能性を信じる人は、世界中にたくさんいます」と述べ、人類共通の来世信仰について、幾つかの例を挙げている。それらを、5つのパッセージに分けて、次に示しておきたい。(1〜5)は、便宜上つけたものである。


     *****


 1.来世信仰について

 
来世信仰は、あらゆる時代、民族、文化を通じて、人類史上絶えることなく続いてきました。人類最古の書物と言われる『エジプトの死者の書』は、紀元前三五〇〇年ごろから伝えられてきたものですが、その中には、永遠の生命に至る霊魂の旅の行程が、疑う余地のない事実として描かれています。古代エジプト人が死後の生命の存在を固く信じていたことは、壮大などラミッドや無数のミイラ、王様の墓の壁画の細かい描写などからも明らかです。また、アメリカの先住民族の間には、生者と死者の霊的な一体感が、社会生活の規範として長く伝えられてきました。
 『コーラン』や『聖書』など、多くの宗教書は死後の生命について述べていますし、世界各地の葬送儀礼も、来世の存在を前提として行われるものがたくさんあります。これを単なる過去の遣物や古来の習俗にすぎないと決めつけてしまうのは、いささか早計すぎるのではないでしょうか。欧米の多くの人々が死後の生命の存在を信じていると言われています。日本でも各地に残るお盆などの民俗行事や、沖縄のニライカナイ信仰などは、伝統的な祖先への崇拝を通して、生者と死者との心の交流を図る好例だと言えましょう。
 来世信仰というものが、人間性そのものに根ざしていることは、こうしたさまざまな事実からも容易に察せられると思います。死後に強い関心を抱くのは、あらゆる地域や時代を超えて、人類に普遍的な傾向と考えられます。(pp.264-265)



 2.死後の生命を信じる哲学者・文豪たちの考察

 哲学の歴史のうえでも、死後に関する議論の長い伝統があります。古代ギリシアの哲学者ソクラテスやプラトンは霊魂不減説を説いています。これは人間のうちにある本質、つまり霊魂は、本来不滅であり、善き人の魂は死後に肉体を離れて、完全な幸福を得るために新たな存在の次元に移るとする説です。思想と行動の一致を重んじたソクラテスは、囚われていた牢獄から逃亡するようにと、いろいろ手段を講じていた弟子たちの勧めを断り、自説に殉じて、無実の罪による処刑を恐れずに受け入れたといいます。
 霊魂不滅説は、ことさら霊魂と肉体を対立させたうえで、肉体を軽視する極端な二元論とも言えましょう。ですから、人間存在を心と身体の不可分な統一体と見る現代的な人間観とは、相容れない点があります。しかし、人間の本質は不朽であると説くプラトンの教えは、人間性の尊厳を明らかに示すものとして、後代の哲学者たちにもさまざまな影響を与えました。

 ドイツの哲学者イマメエル・カント(一七二四〜一八〇四年)は、まず、「人間には、道徳的法則の命令によって、完全なものとなることが義務づけられている」と述べています。しかし、この限られた地上の人生だけでは、その命令を実現することは不可能ですから、人はこの壮大な道徳的義務を果たすために、低い次元からしだいに高い次元へと、無限に進んでいかなければなりません。そのように進むためには、死を超えてなお存在することが必要です。ですから、カントは、自分の学説の必然的な要請として、魂は不死であると言っています。
 また、ドイツの文豪ヨハン・ヴオルフガング・フォン・ゲーテ(一七四九〜一八三二年)は、「エンテレキー」の説に基づいて、人間は永遠の存在だという確信を得たと語っています。「エンテレキー」というのは、潜在的な形ではすでに存在しているものが、現実に完全な形で実現することを目指して作用する活力のことです。そのようなものが、人間性の内部には死を超えて存在しているというのが、ゲーテのエンテレキー説です。
 ゲーテは、人間の精神は本質的に不滅だと言います。彼は霊魂の不滅ということを、次のようなたとえで述べています。

 《死とは日が落ちる時のようなものだ。私たちの目からは隠れて見えなくなってしまっても、太陽そのものは地平線の向こうで変わらずに輝いている。それと同じように、生命は死後も変わらずに存在し続けるのだ。》

 死後の生命を肯定する多くの説の中で、最も独創的なのは、第三章でも述べたフランスの実存哲学者ガプリエル・マルセルの説でしょう。

 マルセルは最愛の妻を亡くした苦しみに満ちた経験から、自分の愛する人の死について深く考察しました。彼は愛を分析して、真の愛というのは時間の制約を超えて、相手が永遠に生き続けることを希求すると言っています。愛する者が死によって消滅すると思うならば、それはその人との愛に背くことであり、逆に相手の死後の生命を確信するならば、それが真の愛の証しだというのです。マルセルは最愛の妻を亡くした苦しみに満ちた経験から、自分の愛する人の死について深く考察しました。彼は愛を分析して、真の愛というのは時間の制約を超えて、相手が永遠に生き続けることを希求すると言っています。愛する者が死によって消滅すると思うならば、それはその人との愛に背くことであり、逆に相手の死後の生命を確信するならば、それが真の愛の証しだというのです。
 「人を愛するとは、『いとしい人よ、あなたは決して死ぬことはありません』と言うことだ」という。マルセルの有名な言葉は、愛と死の神秘を余すところなく、美しく伝えていると思います。(pp.265-267)



  3.総合的な判断のうえで

 これまでの数々の説を総合してみますと、まず、「死後の生命が存在する可能性がある」という点で、共通性が見いだされると思います。この「ある」というほうの意見が多ければ多いほど、死後の生命が存在する可能性が増してくるわけです。これを言い換えれば、「死後の生命が存在する蓋然性は大きい」ということになります。
 死後の生命の存在に対する蓋然性が大きいということは、ちょうど凸レンズが光を一点に集めるように、一つの方向に向かって結論が集中していくという意味です。これを「蓋然性の収斂」と言います。
 私たちは、よくこの方法でさまざまな分析結果をまとめて、ある推論を導き出します。死後の生命が存在するかどうかについても、この「蓋然性の収斂」というアプローチが応用できます。このアプローチの長所は、特に宗教とかを信じない人でも死後の生命について自由に論議できるところでしょう。死後に関する何人もの説を公平に検討して、自分が共鳴できる説を自由に選んだり、つけ加えたりできるという特徴があります。
 ふだんでも私たちは、よくこうした方法で重要な決断をくだします。たとえば、結婚しようと思う相手が、自分を本当に愛してくれているかどうかを科学的に証明する手段はありませんが、それでも多くの人は、結婚という冒険を試みます。これは、相手の言葉や行い、経歴、家族、友人などを通じて、さまざまな方面から総合的に判断する「蓋然性の収斂」に基づいて決断することにはかなりません。
 同じように、死後の生命についても、判断材料をたくさん集めて自由に検討したうえで、自分なりの結論をくだすべきでしょう。こうした方法を無視して、ただやみくもに死後の生命の存在を否定してしまうのは、かえって非理性的な態度ではないでしょうか。(pp.267-269)



  4.死後の生命への債極的な希望

 死後の生命の存在を科学的に証明することは、たしかに今の科学では不可能です。しかし、死ですべてが終わるという証明も、まだなされてはいません。もし、死によってすべてが無に帰するとしたら、生の営みも結局は不条理なものと考えざるをえませんが、死を新たな生への入り口と考えるならば、人生の労苦も決して無駄ではないということになります。
 では、私たちは、このことをどう考えたらいいのでしょうか。まず、フランスの作家、アンドレ・マルロー(一九〇一〜七六年)の『人間の条件』の中に、ある夫婦が気のめいりそうな会話を交わす場面があります。

 《 いいかい、メイ。人間一人つくるには十月十日じゃ足りないんだ。五〇年もかかるんだよ。五〇年間我慢して、我が身に鞭打って――やらなきやいけないことはいっぱいあるだろうよ――それでやっと人間になる。そうやって一人前の人間が出来上がった時には―― 乳臭さが抜けてお尻の痣も消えたころには、つまり、本当にすっかり人間になった時には――何ができる。死ぬことだけってわけだ。》

 この苦渋に満ちたセリフで、マルローが表現したかったのは、人生はむなしく無駄な努力の連続にすぎないのではないかということでしょう。たしかに死に何の意味もなく、死によってすべてが終わると考えるならば、生きているということもまた、無意味になってしまいます。
 一七世紀のフランスの科学者プレーズ・パスカル(一六二三〜六二年)は、宗教思想家でもありました。彼は数学や自然科学の研究成果とともに、人間を(考える葦)と表現した独創的遺著『パンセ』によって、後世に知られています。パスカルは、人間の不滅性と死後の生命について、信仰を前提とせずに、独自の思索を展開しました。彼はまず、死後の生命を信じるか否かの決断を、一つの賭けと見なすことができると述べます。
 「もし、人が死後の生命の存在を信じていたのに、実はそれが存在しなかったとしても、べつに何も損したことにはならない。しかし、死後の生命が存在するにもかかわらず、それを信じなかったために手に入れそこなったとしたら、もう取り返しがつかない。その人は、永久にすべてを失うことになる」というのが、彼の論旨です。パスカルは、「信じればすべてを手に入れることができ、そのことで失うものは何もないのだから、死後の永遠の生命を信じる決断のほうに賭けるべきだ」と結論づけています。
 また、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユング(一八七五〜一九六一年)は、死後の生命の存在を信じることが、精神衛生上、重要な役割を果たすと指摘しています。
 ユングは次のように説いています。

 「医者の立場から言って、私は死を目指すべき目標と見ることは、衛生上――このような言葉を使うことが許されるならばの話だが――有益であり、死を忌まわしいものと見ることは、人生の後半を無意味にしてしまうという点で、不健康かつ病的であると信じている」

 人生という道のゴールが茫漠とした無だとしたら、人生の旅は全く目標を見失います。それは想像しただけでも恐ろしい光景でしょう。しかし、死に意味があるのなら、つまり、死のかなたに人生の旅の本当の目的地があるのなら、苦しみの多い人生にも深い意味があることになりましょう。
 結局、永遠の生命というのは、未来をめぐる問題ではなくて、今ここでの人生の意味をどう考えるかという課題になってくるのです。
 死後に生命があると考えるか、否かということは、この世での人間の生き方と無縁ではありません。人間には短い一生では使いきれないほどの潜在的能力があります。これを発見して自由に発揮することは、人生最大の課題ではないでしょうか。人間として生まれてきた以上、私たちは自己実現によって、限りなく成長していくことができるのです。こうした創造的な能力は無限とも言えるものですから、その過程は当然、死後にも及ぶものだと考えられます。
 ですから、死後の生命を信じるというのは、現在の人生にも意義を見いだすことなのです。ゲーテはこのことを強調して、「来世に希望を持たぬ人は、この世ですでに死んでいるようなものだ」と述べています。
 エリザベス・キューブラー=ロス博士も、子どもたちに死を説明する時、よく蝶の幼虫のさなぎの手づくりのぬいぐるみを使いました。さなぎのおなかのジッパーを開けると、中からきれいな蝶々のぬいぐるみが出てきます。
 博士は、小児がんなどで死に直面している子どもに、「あなたの体は今、このぬいぐるみのさなぎのようなもので、死によってあなたの魂は今の体を離れて、この蝶々のように美しく飛び立って天国へ行くのよ。死は決して終わりではないわ」と、やさしく話しかけて安心させていました。(pp.269-272)



  5.キリスト教における永遠の生命

 キリスト教では、永遠の生命はこの世からすでに始まっているとされます。この世の生命と死後の生命とは、たとえば、序曲とそれに続くオペラのように密接な関係でつながっていると考えられているのです。
 キリスト教にとって、死はもう取り返しのつかない終末ではなくて、新しい生命の始まりです。イエス・キリストが十字架上の死を乗り越えて復活されたように、死後に天国で、先に亡くなった、愛する人たちと再開し、ともに神の無限の愛に包まれて生き続けるという希望が、キリスト教信仰の根底を支えています。
 ですから、『聖書』は死について、あきらめに沈むような言葉ではなく、喜びにあふれた表現で人々に語りかけます。
 「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(「ヨハネによる福音書」第一一章二五〜二六節)。このイエスの言葉は、死に臨むキリスト教信者にとって、最も慰めに満ちた言葉として響くと思われます。
 こうした現世と来世に関するキリスト教の考え方は、次のように問い直してみることもできるでしょう。
 「自分と自分を取りまく一切のものが、やがて消減すると考えるのと、自分や愛する人たちの存在や行為が、永遠につながる価値があると信じるのと、どちらのほうが、人はこの世界をよりよくするために働くでしょうか」  (pp.272-273)






                               [参考資料 46]  (2020.10.29)

          ヒマラヤ大聖者の教え


 相川圭子師は、1945年生まれで、農家の母子家庭で育つたという。20代よりインドを訪れ、ヨガの研鑽を積んだ。1984年にヒマラヤの大聖者ハリババに出会って師事し、数年間に亘るヒマラヤ山中での修行を経て、女性で初めてサマディ(究極の悟り)に達したといわれている。著書の紹介文では、仏教やキリスト教の源流である5000年の伝統をもつヒマラヤ秘教の正統な継承者、とある。その相川圭子師が、この度、新著『ヒマラヤ大聖者の免疫力を上げる「心と体」の習慣』(幻冬舎、2020年)を出版した。現在世界で猛威を振るっているコロナウイルスのパンデミックで気が滅入るようなニュースが多いが、そのなかで生きていく心構えについて書かれたものである。そのうちの4つの文章を抜き出して、下記にまとめてみたい。番号は便宜上、付け加えたものである。


     *****


 1.不安な思いを袋に詰めて遠くに離す

 昨今は、コロナウイルスの蔓延や経済の低迷などで、いったん不安な気持ちが芽生えると、その不安に振り回され、どうにも心の働きを止められなくなることがあるかもしれません。そんなとき、多くの方は、みんなに悩みを話した、お酒を飲んだ、おいしいものを食べたり、あるいは激しいスポーツをした、と違う回路を使って解放をしているようです。けれども、それは二時的なものにすぎません。そのため、すぐにまた不安でいっぱいになり、心と体のエネルギーがどんどん使われていき、生命力が下がってしまいます。
 だから、もしも不安でいっぱいになったら、ちょっと乱暴ですが、不安でいっぱいになっているあなたの心を袋に入れて、遠くに捨てるイメージをして手放してください。そして、本当の自分を信じましょう。深いところにある本来のあなたは、純粋で穏やかで、愛にあふれ、不安がなく平和に満ちているのです。
 次に秘法を伝授します。謙虚な気持ちで自分と向き合い、取り組んでみてください。

  1. 目をつむり、浮かんでくる恐れを袋に詰めます。
  2. 2、3回深呼吸をして、それを遠くに飛ばします。溶けて消える姿をイメージします。
  3.自分の奥深くにある揺れない存在を意識します(心に錨がついているイメージ)。

 今、心は常に波のように揺れ動き、疲れやすく、体調も崩しやすくなっています。
 高次元の存在である本当の自分を信じることで、心の揺れが鎮まるのです。お母さんの子宮に抱かれているような安らぎがあなたを癒し、不安が溶けていくことでしょう。 (pp.20-21)



 2. 相手を「許す」と心と体が健やかになる

 誰にでも、多少苦手な人や嫌いな人がいます。修行を積むと、そういう思いは消えてしまうのですが、多くの人にとっては難しいことでしょう。
 過ちは誰でも犯してしまうことがあります。いろいろな人がいるのです。あなたの怒りが収まらず人を裁いて「許さない」と思ったとしても、その人が変わるわけでもありません。それどころか、いつまでも許さずにいると、あなた自身のエネルギーがどんどん食いつぶされて、免疫力が低下してしまいます。
 また、宇宙のバランスを考えると、実は、マイナスのエネルギーはバランスをとるために必要です。さらに、否定的なエネルギーを持つ人がいるおかげで、「このエネルギーで行為をする人は、人を嫌な気持ちにさせるんだ」ということを学ぶこともできます。
 これは世の中の成り立ちとも通じています。この世界を動かすには陽のエネルギーと陰のエネルギーの両方が必要です。エネルギーはプラスとマイナスがあって初めて活動します。否定的なエネルギーがあるからこそ、肯定的なエネルギーがわかるのです。
 宇宙も地球も人体も、ポジティブ・ネガティブでバランスを保っています。そしてバランスをとって超えるのが、ヒマラヤ秘教です。そこに真理があるのです。
 ですから、もしもイラツとしたら、次のように考えてみてください。

 「自分のことしか考えられない、かわいそうな人だな」
 「自分は、同じことをしないようにしよう」
 「気づかせてくれて、ありがとうございます」

 「こんな人間には絶対にならない!」と、怒りのエネルギーを燃やすのではなく、「こういう人もいるんだな。自分は気をつけよう」という慈愛の人になって相手を許しましょう。
 また、嫌な相手は実は、あなたを映す鏡でもあります。相手の気になって仕方がない部分は、あなた自身が持っている悪い部分が投影されていることがあるからです。鏡の向こうの顔に泥がついているとき、いくら鏡をふいても泥は取れません。あなたについている泥を取らなければ、問題は解決しないのです。だからこそ、嫌な人に会ったときこそ、自分の中を見つめ直し、「気づかせてくれて、ありがとうございます」と感謝しましょう。
 それに、あなたが大切な自分のエネルギーを消耗し、相手を責め立てなくても、人間にはカルマというものがあります。カルマというのは行為のこと。何かをすればそれは記憶され、事象が引き起こされます。よい行いをすればよいことが返ってくるし、悪い行いをすれば悪いことが返ってくる。それがカルマの法則です。だから、嫌な人のことは放っておいても、宇宙がちゃんとバランスを保つために作用します。 (pp.30-32)



 3.ストレスは感謝することで減らせる

 心は、恐れたり、嫌ったりするほどストレスを感じます。

 「何でこんなことを自分がしなくちゃいけないんだ」
 「今は、こんなことをしているときではない」
 「もう何もしたくない」

 仕事でも日常生活でも、イヤイヤ行っていることはすごく疲れることでしょう。その結果、エネルギーを消耗し、心と体の免疫力が低下し、やがて病気になります。
 ですから、たとえストレスに感じることでも、感謝の気持ちで取り組むことが大切です。
 「そんなの無理」と思わずに、謙虚な気持ちで取り組んでみてください。嫌なことや大変なことをすれば、気づきが得られますし、体力も身につきますし、必ず学びとなります。
 また、明らかに理不尽なことを求められたとしても、それは、自分が今までに積み重ねてきた行為の結果が、還ってきているのかもしれません。物事はすべて、原因があって結果があるという法則で動いています。ですから、嫌なことに出くわしたときほど、自分の間違いに気づく、自分の行為を省みるチャンスとなります。そして、そんな自分を否定するのではなく、「完璧ではない自分」「あるがままの自分」をまずは受け入れて、ゼロから感謝の気持ちで、あるいは無心でスタートしましょう。
 「ありがとうございます」を胸に取り組めば、ストレスを感じることはありませんし、功徳を積むこともできます。感謝の気持ちでストレスを溶かしていきましょう。 (pp.37-38



 4.足りないものではなく、持っているものに目を向ける

 多くの人は、感覚と心が喜ぶことを重視して、欲を満足させる生き方をしています。見栄やプライドを抱え込んだり、物を買い集めたり、体の欲望を優先させたり、いろいろなものを自分で集めて安心を得ようとしています。
 けれども、それはどんどん免疫力を低めてしまう生き方です。「奪われないように」と緊張して、人を信じず、競争したり、不安になったり、イライラしたり、怒ったり。「足りない」という思いばかりに意識を向けて、これがない、あれがないと不足を探しているわけです。心が不満や欲望で振り回され、どんどんエネルギーが消耗していくのです。
 私たちはもともと、すべてを持っています。
 あなたには肉体があります。本を読むことができます。考えることができます。話すことができます。誰かの役に立つこともできます。生きる力を与えられ、今この瞬間も生きています。生かされています。この思いで生きる力が湧いてきます。
 それにもかかわらず、足りないところに意識を向けるのは、時間を浪費し、エネルギーを消耗して、病気に打ち勝つ生命力を食いつぶす生き方です。(pp.39-40)






                                   [参考資料 47] 2020.11.26

     デーケンさんのユーモア


「最新の厚生労働省の報告では、日本人の死亡率は100パーセントです」。全国各地の講演で「死」について語るとき、アルフォンス・デーケンさんは、何時もこのようなことを言って、ユーモアを忘れなかった。そのデーケンさんが今年の9月6日、肺炎のために亡くなった。88歳であった。

 デーケンさんは、1932年にドイツで生まれ、イエズス会の派遣で1959年に来日した。司祭になった後、米国に留学して博士号を取り、1973年に日本に戻って、上智大学で約30年間、哲学や人間学を教えた。「死生学」をライフワークにしたのは、自身の過酷な死別体験があったからであった。子どもの頃、白血病になった4歳の妹を看取り、第二次世界大戦では、反ナチ運動をしていた祖父が連合軍兵士によって射殺された。白旗を振って歓迎したのに撃たれたのだという。(「朝日」2020.10.24 による)

 デーケンさんは、80年代になると、死にゆく人に何とか希望をもってもらうことを目指して、「生と死を考える会」を各地で設立し、講演会などで「死の準備教育」を実践していった。「デーケンです。何もデーケン・・・」と講演会では繰り返してユーモアを忘れなかった。そのユーモアには、死と向き合う人々や死別の悲しみを抱えた遺族への思いやりが込められていた。著書のなかでも、そのユーモアの大切さを説いて、いろいろと述べている。アルフォンス・デーケン『死とどう向き合うか』NHK出版、2011の中から、そのうちのいくつかを抜き出して、つぎに紹介しておきたい。


     *****


 1.死を前にしたトマス・モアのユーモア

 ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724〜1804年)は、緊張を急に取り除くのが、ユーモアのポイントだと言います。彼によりますと、「張りつめた緊張が突然、さっとなくなる時に起こる感情」がユーモアだということです。
 ここで、死を前にしてもユーモアを忘れなかった人として、私はすぐイギリスの人文主義者トマス・モア(1478〜1535)を思い出します。彼はヘンリー八世(1491〜1547)の無法な政治に反対したために、無実の罪で処刑されたのですが、自己の信念を貫く厳しさの半面、死刑の直前にも悠々たるユーモア精神を忘れない人でした。
 処刑場で首切り役人に向かって、「勇気を出して君の仕事を果たしなさい。私の首は短いから、よくねらいをつけて。腕の見せどころだよ」などと話しかけています。また、頭を断頭台の上にのせてから、もう一度、「私のひげは国王陛下に対して何も悪いことはしていないのだから、切ってはかわいそうだ」と笑いながら、長いあごひげを横に向け直して、首を切られたということです。私は子どものころ、この話を読んで、トマス・モアのユーモアと勇気にすっかり感心しました。
 トマス・モアによる「ユーモアの恵みを求める祈り」というのがあります。彼の心豊かな人生観がよく出ていて、私の好きな祈りの一つです。

 「主よ。私に丈夫な胃腸と、それを満たすべきものとをお与えください。体の健康と、それを保つのに必要な分別をお与えください。主よ、私に善いもの、清いものをしっかり見つめる聖なる心をお与えください。罪を目にしても恐れることなく、ものごとの正しいあり方を回復する手だてを見つけることができますように。
 退屈を知らず、不平もため息も嘆きも漏らさぬ心をお与えください。そして私が、この思い上がった『自分』などというものについて、あまり心配しすぎることのないようにしてください。
 主よ、私にユーモアのセンスと、冗談を解する恵みをお与えください。人生においてささやかな喜びを見いだし、それを人に伝えることができますように」

 いつも明るくニコニコしているユーモリストは、日常の厳しい現実に対する認識が欠けているとか、生活に真剣さが足りないなどという批判や誤解を受けることがあります。しかし、私たちもトマス・モアのように、どんな困難な事態に陥っても、ちょっと見方を変えて、自分を客観視して笑う内的な自由を失わないでいたいと思います。(pp.213-214)



  2.「にもかかわらず」ユーモアを

 こうしたユーモアのセンスを、生まれつきの才能だと誤解する人が多いのですが、真のユーモアは、たび重なる失敗を通して生まれるものです。
   私の母国ドイツには、「Humor ist, wenn man trotzdem lacht.(ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである)」という有名な定義があります。この意味は、「私は今苦しんでいます。でも、それにもかかわらず、相手に対する思いやりとして笑顔を示します」ということです。これが真に深みのあるユーモアだと思います。
   私がユーモアの大切さを再発見したのも、自分の人生でいちばん苦しい時期でした。それは日本に来た最初の二年間でした。私は日本に来るまで「サヨナラ」と「フジヤマ」しか日本語を知りませんでした。ある日、「フジヤマ」が間違いだと指摘された時は、自分の日本語の知識の50パーセントが誤りだと分かったわけで、非常にがっかりしました。
   そのころ、いちばんつらかったのは、日本人の中にいながら、全然コミュニケーションが持てないことでした。ちょうどその時分、ある親切な日本人の家庭に招待されました。その家族は英語が少し分かるくらいで、ドイツ語は全く知らないというのです。私はとても心配でした。
   アメリカ人の友人に相談すると、彼は、「あまり心配しなくていいです。三つのルールを知っていれば大丈夫です。第一に、ニコニコしてください。第二に、時々うなずいてください。第三に、たまに『ソウデスネ』と言ってください」と教えてくれたのです。
 そこで、私はそのルールを暗記して出かけていきました。いろいろごちそうになりながら、ルールどおりにニコニコして、時々うなずいて、たまに「ソウデスネ」と言いました。奥さんは私がよく分かったと思って大変喜んだのですが、こちらは何も分からなかったのです。
 だいたいうまくいったのですが、食事の終わりごろに重大な危機が訪れました。最後に奥さんが、「おそまつさま」と言った時、私はニコニコして大きくうなずいて、心から「ソウデスネ」と言ったのです。その時の奥さんのびっくりした顔といったらありませんでした。
   どうもまずいことを言ったらしいとは気がついたのですが、そのまま帰ってきました。帰ってすぐ辞書を引いて「おそまつさま」の意味を知った私は、なんとばかなことをしたのかと、自分自身に対して激しい怒りを覚えました。しかし、次の瞬間に、ハッと悟りのようなものがひらめいたのです。
 つまり、私がこれからいくら努力しても、日本語を完全にマスターすることなど到底不可能です。日本語を話すたびに自分に怒りを覚えていたら、ストレスがたまってすぐ病気になってしまうでしょう。この苦しい体験が、相手と一緒に自分の失敗を笑いのタネにしてしまう、自己風刺のユーモア感覚の必要性を痛感させてくれたのです。 (pp.220-221)



 3.ユーモアによる自己発見

 年齢を重ねるにつれて、私たちはだれでも、さまざまな仮面をかぶって他人にできるだけよい面だけを見せようとします。ユーモアと笑いは、そうした見せかけの仮面をはぎとって、本当の自分の姿を、いやおうなく認めさせてくれます。ありのままの自分を謙虚に受け入れるうえでも、ユーモア感覚は大切な役割を果たすのです。
 自分の限界を素直に認めるのは勇気のいることですが、いつも他人の目ばかり気にしていたらノイローゼにもなりかねません。人間ならだれにでも、やむをえない間違いや失敗があるものです。自分の健康を守り、よりよい人間関係を築くためには、そうした苦しい経験を、周囲の人たちと一緒に笑い飛ばす自己風刺のユーモア感覚を身につけることが大切ではないでしょうか。
 結局、ユーモアと笑いは、人間らしく生きるために、あらゆる場面で欠かせないというのが私の持論です。これはもちろん、死に直面する時でも変わりません。ですから、私たちはもっと本当に人間らしい生と死を全うできるように、温かい愛に満ちたユーモアと笑いのセンスを、終末期だけに限らず、毎日の生活の中に生かしていくようにしたいと思います。 (p.222)

     アルフォンス・デーケン『死とどう向き合うか』NHK出版、2011