[参考資料 41]  (2020.03.19)

    井上靖『補陀落渡海記』にみる死出の船旅



 井上靖の短編に「補陀落渡海記」がある。補陀落(ふだらく)とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。チベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因んでいる。
 中世日本では、『華厳経』の教えで、遥か南洋上にこの「補陀洛」という浄土が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と言った。小さな舟の上に造られた扉のない屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれて外から釘が打たれて固定される。こうして死出の旅にでるのである。
 記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、そのうち 25件が和歌山県那智勝浦町にある天台宗寺院の補陀洛山寺(ふだらくさんじ)から出発している。
 渡海は北風が吹き出す旧暦の11月に行われた。渡海船は伴船で沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。もちろん、船の沈没前に渡海者が餓死・衰弱死した事例も多かったであろう。しかし、船が沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない。
 16世紀後半、金光坊(こんこうぼう)という僧が渡海に出たものの、まだ死ぬ覚悟が十分に出来ていなかったからであろうか、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまった。しかし、そのままでは、浄土信仰に汚点を残すことになる。金光坊は捕らえられて海に投げ込まれてしまった。後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようにったという。
 井上靖の小説『補陀落渡海記』は、この事件を題材にして書かれたものである。以下、井上靖『楼蘭』(短編集)のなかの一編「補陀落渡海記」、新潮文庫、(2000、pp.219-251) からの引用を交えながら、その筋書きをまとめてみたい。


       *****


 熊野の浜ノ宮海岸に補陀落寺という寺があった。その住職の金光坊は、永禄八年に61歳の春を迎えてから、補陀落渡海した先輩の上人たちのことを真剣に考えるようになった。

 ――と言うのも、金光坊自身、自分が渡海するかしないかといった問題は、実際のところそれまではそれほど切実に自分の身に結びつけて考えてはいなかったのである。なるほど補陀落寺の彼の前の住職である清信上人は六十一歳で永禄三年に渡海しており、その前の日誉上人も天文十四年十一月、六十一歳で渡海している。それからその前の正慶上人は天文十年の十一月の渡海で、やはり六十一歳の時である。こうして補陀落寺の住職の前任者を並べてみると、三代続いて、六十一歳の年の十一月に、補陀落の浄土を目指して、浜ノ宮の海岸から船出していることになる。併し、だからと言って、補陀落寺の住職がすべて六十一歳の十一月に渡海しなければならぬというような掟はどこにもないのである。(P.220)

 掟はない。だから金光坊は、自分が61歳になっても、11月に渡海しなければならないのか、と真剣に考えるのである。

 ――補陀落寺は確かにその寺名が示す通り補陀落信仰の根本道場である。往古からこの寺は観音浄土である南方の無垢世界補陀落山に相対すと謂われ、そのために補陀落山に生身の観音菩薩を拝し、その浄土に往生せんと願う者が、この熊野の南端の海岸を選んで生きながら舟に乗って海に出るようになったのである。浜ノ宮はその解らん場所、補陀落寺はいつかその儀式を司る寺となったが、併し、補陀落寺の住職が自ら渡海しなければならぬといった掟はそもそも初めからどこにもないのであった。ただそうした補陀落信仰と関係深い寺であるので、創建以来長い歴史を通じて、渡海者の多くは補陀落寺に一時期身を寄せ、そしてこの寺から出て船出しているし、住職の中からも何人かの渡海者を出しているのである。寺記に残っいる渡海上人たちの名は十人近くあろうか。いずれも渡海した年齢はまちまちであり、十八歳の上人も居れば、八十歳の高齢の渡海者も居る。
 それが、たまたま近年になって、三代続いて補陀落寺の住職が61歳で渡海することがあって、そのために何となく補陀落寺の住職は六十一歳になると、その年の11月に渡海するものだといった見方が世間に於て行なわれるようになり、またそうした見方が、この寺の歴史からするとさして不自然でなく成立するようなところもあって、61歳になった金光坊もそうした世間の見方から逃れられぬ羽目に立ち到ったわけであった。(pp.220-221)

 金光坊自身も、補陀落寺の住職である以上、いつか自分もそうした心境に立ち到れば渡海上人としてここから船出しないものでもないぐらいのことは考えていた。彼にも、僧侶として多少の自負もあった。自分の師である三代前の正慶上人の渡海の立派さは、今もありありと眼に残っていて、自分もできるならそうなりたいとかねがね思ってもいた。ただ、正慶上人は高い信仰の境地へ61歳で到達できたが、鈍根の自分は更に何年かの修行の年月を必要とすると思っていただけである。そこで彼は、こう考える。

 ――金光坊は正月から春まで、そうした自分が渡海するという世間の見方に迷惑を感じ、近い機会にそれを訂正して、自分の渡海の時期は、自分がその心境になるまで何年か先に延ばさねばならぬし、またそうしなければ折角渡海の船出をしても、補陀落山へ行き着くことはできないであろうということを諒解してもらうつもりだった。併し、春になると、金光坊はそうすることに絶望を感じた。一人や二人なら理解して貰えたし、理解させることもできたが、彼の渡海を信じている者は十人や二十人や百人や二百人ではなく、それは広い世間全部と言ってよかった。(p.223)

 こうなると、金光坊は好むと好まざるにかかわらず、渡海しなければならないようであった。若し自分に目下渡海する考えのないことなどを口走ったり、それが何年か先のことであるなどと言おうものなら、世間というものはおそらく承知しないであろう。どのような騒ぎが起るかもしれなかった。世間からの非難はなんとか耐えられるにしても、伝統のある寺の住職として、自分の言動で観音に対する信仰に瑕でもつけることになれば、それこそ死んでもその罪は消えないものと思った。そして、3月の彼岸の中日、ついに金光坊は、自分がこの11月に渡海するということを正式に発表したのである。
 金光坊は、真剣に、自分の渡海への決意を納得しようと努める。彼は、もともと、永禄八年になって自分の渡海騒ぎが始まるまで、渡海そのものに対して、一抹の疑念もさし挟んだことはなかった。船底に固く釘で打ちつけられた出入り口のない四角な箱に入り、何日間かの僅かな食糧と僅かな灯油を用意して、熊野の浦から海上に浮ぶことは勿論海上に於ての死を約束するものであった。しかし、そのようにして息絶えたものの屍は、そこで新しい生命を得てよみがえり、永遠に観音に奉仕することができるのである。そのことを彼は固く信じてはいた。そこで彼は、渡海への心の準備を始める。

 ――金光坊は春から夏へかけて補陀落寺の自室から出なかった。外出すると賽銭を投げられたり、生仏のように拝まれたり、あるいは浄土への携行物を託されたり、死にかかっている人の額に触らせられたり、そうしたいろいろのことも煩わしかったが、それより金光坊はあと三、四カ月先に迫っている渡海に対して、曲りなりにもそれに応じられるだけの自分を作らなければならなかったのである。突然渡海ということに立ちはだかられてみると、金光坊は自分がまだ何の心準備もできていないことを知らなければならなかった。金光坊は明けても暮れても読経三昧にふけった。いつ侍僧が居室へ顔を出しても、金光坊はいつも痩せぎすの背を見せ、経を誦す声だけがそこからは立ちのぼっていた。(P.228)

 秋晴れの気持よく空の澄んだ日、金光坊は弟子の清源を呼んで、渡海の日は今日でなかったかと訊いた。すると若い僧は、「今日申ノ刻に寺をお出ましになります」と答えた。金光坊は一度立ち上ったが、すぐまた坐った。そしてあとは急に体躯から力という力がすべて抜けてしまった感じで、身動きできなくなった。いよいよ、その時がやってきたのである。侍僧の一人が顔を出して、見送りの那智の滝衆がやって来たことを告げた。それから続いてもう一人の侍僧が顔を出して、禅家の導師が到着したことを告げた。

 ――この頃から金光坊にも寺内の騒然として来るのが感じられた。金光坊は何人かに手伝われ着衣を改め、それから何人かの人に導かれて、自分がこの寺へはいって以来一日も欠かさず毎朝のように勤行した本堂へはいって行った。本堂の千手観音も、右脇侍の帝釈天、左脇侍の梵天像、それから神将像、天部形像、そうした仏たちに、金光坊はその時だけは静かな視線を当て、そしてやがて、それをねめ廻すようにいつまでも見守っていた。(pp.244-245)

 やがて、金光坊は寺から出て、浜辺へ向かう。砂浜に置かれている自分の乗る舟は、今までのいかなる上人の渡海の舟よりも小さく感じられた。しかも乗船場もなく、その舟は同行人の乗る三艘の舟と一緒に恰も波打ち際に打ち上げられでもしたように置かれてあった。同行人の乗る舟の方がずっと大きかった。金光坊は一抹の寂しさを感じたかもしれない。

 ――金光坊は直ぐ乗船させられた。金光坊が乗船してから、人夫たちに依って、大きな木の箱が運ばれて来て、それがすっぽりと頭の上からかぶせられた。金光坊はまたこのことにも怒りを覚えた。屋形舟というものは初めから屋形が舟に設けられてあって、そこへあとから人間がはいって行くものである。それなのに、これでは反対ではないかと思った。
 舟に屋形を取りつける釘打ちの音が聞え出したが、それは暫くすると止んだ。屋形の内部は全くの四角の箱で薄暗かったが、やがて一方の扉が外部から開けられて、そこからいろいろの物が運び込まれて来た。そしてそうしたことが総て終ってから、金光坊は侍僧に依って屋形の外に立って見送り人に挨拶することを求められた。金光坊は言われるままに屋形を出て舟縁りの上に立った。群衆の間にどよめきが湧き起り、賽銭が雨のように舟縁りや波打ち際に投げつけられた。子供たちが争ってそれを拾った。金光坊は直ぐ屋形の中へ逃げ込んだ。それからまた金光坊は帆柱が立てられ、それに南無阿弥陀仏と書かれた帆がつけられるまで、長いこと暗い屋形の中に坐っていなければならなかった。すべては不手際に、のろのろと行なわれているようであった。(p.246)

 かれこれ乗船してから一刻近い時刻が経過した時、金光坊は舟が何の前触れもなく動き出すのを感ずる。舟底が波打ち際の小石の上をぎしぎしした音をたてて滑って、やがて海へ押し出された。金光坊は外を見ようと思ったが、どこを押しても屋形の板は動かなかった。先刻出入りした出入口も固く閉ざされていた。やがて、船頭の漕ぐ櫓の音が耳にはいって来た時金光坊は少しほっとした。まだ一人ではないと思った。綱切島まで船頭の手で船を操られて行き、そこへ行って初めて、一人きりになって潮の流れの中へ押し出されることになっていたのである。

 ――波の音の間から鉦の音が聞えて来た。耳を澄ますと、鉦の音と一緒に何人かが和する読経の声も聞えている。併し、読経の声の方は絶えず波の音に妨げられていて、時々、ふいにそれは祭礼の日の囃子か何かのように賑やかに聞えて来たり、すぐまた消えたりした。
 綱切島へ着いた時、金光坊は屋形の板の合せ目に小さい隙間のあることを発見して、そこへ顔を押しつけて船外を覗いて見た。大きな波のうねりを見せている暮れかかった暗い海面だけがどこまでも果しなく拡がって見えている。
 お上人さん、おさらばですじゃ。そんな船頭の声が屋形の天井板の方から突然降って来た。金光坊にはおさらばという意味が判らなかった。これまで渡海する場合は、そこで同行者とも別れを惜しんで、翌朝早くそこを出発することになっていた。
 金光坊は、自分でも驚くような大声を出して、舟はここで一夜を明かす筈ではないかと訊ねた。すると、天候が荒れ模様で同行の衆が帰れなくなる怖れがあるので、ここで一夜を明かすことは取りやめて、すぐ艫綱を切るということであった。
 金光坊はそれに対して何か怒鳴ったが、併し、もう船頭は岸へ飛び移ってしまったらしくそれに対する応答は得られなかった。(pp.247-248)

 綱切島で一夜を明かすことになっているはずなのに、急にここで、金光坊は一人だけにされて舟は海へ押し出されてしまった。荒れ模様の天候のなかで、やがて舟は大きく揺れ始める。金光坊は波に揉まれる舟の屋形の中で倒れた。倒れても起き上がろうとはしなかった。その時に彼を襲ったのは、どうしようもない絶望感であったろうか。やがて、一日の疲労がのしかかってきて、恐しい力で眠りが彼を捉えた。

 ――どれだけの時間が経ったか、金光坊は眼を覚ました。自分がいま真暗な闇の中に横たわっており、自分を横たえている板が大きく上に下に揺れ動いているのを知った。波涛の音が金光坊の体の下で聞えたり、頭上で聞えたりしている。
 金光坊は起き上ると、いきなりありったけの力を籠めて屋形を形造っている板に己が体をぶつけた。金光坊は生れてからこれほど荒っぽく自分の体を取り扱ったことはなかった。
 五、六回同じことを必死に繰り返しているうちに、やがて屋形の一方の板が音をたてて外部へ外れるのを感じた。と同時に、物凄い勢いで海風と潮の飛沫が屋形の中へ吹き込んで来た。屋形が風を孕んだので、舟は大きく一方へ傾いた。次の瞬間、金光坊は自分の体が海中へひどく軽々と放り出されるのを感じた。(pp.248-249)

 金光坊は板子の一枚に掴まって、一夜海上に浮んでいた。夜が明けると、綱切島がすぐ近くに見えた。幼少時代紀州の海岸で泳いでいたので、それが役にたって溺れることから免れることができたのであった。金光坊はその日の午刻近く綱切島の荒磯へ板子ごと打ち上げられた。死んだようになっている金光坊の体が、昨日同行の者として金光坊をこの島まで送って来た僧侶の一人に依って発見されたのは夕刻であった。海上が荒れていたので、同行人たちは全部島に留まっていたのである。その後、金光坊はどのように扱われたか。

 ――金光坊は荒磯で食事を供せられた。その間僧侶たちは互いに顔を寄せ合い、長いこと相談していたが、やがて、漁師に一艘の舟を運ばせて来ると、それに再び金光坊を載せた。その頃は金光坊は多少元気を恢復していたが、舟に移される時、それでも聞き取れるか取れないかの声で、救けてくれ、と言った。何人かの僧はその金光坊の声を聞いた筈だったが、それは言葉として彼等の耳には届かなかった。(p.249)

 間もなく急拵えの箱が金光坊の上にかぶせられ、こんどはしっかりとそれは船底に打ちつけられた。その仕事が終ると、まだ生きている金光坊を乗せて、舟は再び何人かの人の手で潮の中に押し出された。・・・・・・金光坊についての記述はこれで終わっている。この後、彼はどうなったかについては、この短編でも触れられていない。
 金光坊の渡海後、補陀落寺の住職が61歳で渡海するということはなくなった。もともとそうした掟があったわけではなかったが、金光坊の渡海の始終が伝えられ、そうしたことが補陀落寺の住職の渡海に対する世間の見方を改めさせたのかもしれない。そしてその代り、江戸時代になってからは、補陀落寺の住職が物故すると、その死体が同じく補陀落渡海と称せられて、浜ノ宮の海岸から流される習慣となったという。