[参考資料 41]  (2020.03.19)

    井上靖『補陀落渡海記』にみる死出の船旅



 井上靖の短編に「補陀落渡海記」がある。補陀落(ふだらく)とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。チベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因んでいる。
 中世日本では、『華厳経』の教えで、遥か南洋上にこの「補陀洛」という浄土が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と言った。小さな舟の上に造られた扉のない屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれて外から釘が打たれて固定される。こうして死出の旅にでるのである。
 記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、そのうち 25件が和歌山県那智勝浦町にある天台宗寺院の補陀洛山寺(ふだらくさんじ)から出発している。
 渡海は北風が吹き出す旧暦の11月に行われた。渡海船は伴船で沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。もちろん、船の沈没前に渡海者が餓死・衰弱死した事例も多かったであろう。しかし、船が沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない。
 16世紀後半、金光坊(こんこうぼう)という僧が渡海に出たものの、まだ死ぬ覚悟が十分に出来ていなかったからであろうか、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまった。しかし、そのままでは、浄土信仰に汚点を残すことになる。金光坊は捕らえられて海に投げ込まれてしまった。後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようにったという。
 井上靖の小説『補陀落渡海記』は、この事件を題材にして書かれたものである。以下、井上靖『楼蘭』(短編集)のなかの一編「補陀落渡海記」、新潮文庫、(2000、pp.219-251) からの引用を交えながら、その筋書きをまとめてみたい。


       *****


 熊野の浜ノ宮海岸に補陀落寺という寺があった。その住職の金光坊は、永禄八年に61歳の春を迎えてから、補陀落渡海した先輩の上人たちのことを真剣に考えるようになった。

 ――と言うのも、金光坊自身、自分が渡海するかしないかといった問題は、実際のところそれまではそれほど切実に自分の身に結びつけて考えてはいなかったのである。なるほど補陀落寺の彼の前の住職である清信上人は六十一歳で永禄三年に渡海しており、その前の日誉上人も天文十四年十一月、六十一歳で渡海している。それからその前の正慶上人は天文十年の十一月の渡海で、やはり六十一歳の時である。こうして補陀落寺の住職の前任者を並べてみると、三代続いて、六十一歳の年の十一月に、補陀落の浄土を目指して、浜ノ宮の海岸から船出していることになる。併し、だからと言って、補陀落寺の住職がすべて六十一歳の十一月に渡海しなければならぬというような掟はどこにもないのである。(P.220)

 掟はない。だから金光坊は、自分が61歳になっても、11月に渡海しなければならないのか、と真剣に考えるのである。

 ――補陀落寺は確かにその寺名が示す通り補陀落信仰の根本道場である。往古からこの寺は観音浄土である南方の無垢世界補陀落山に相対すと謂われ、そのために補陀落山に生身の観音菩薩を拝し、その浄土に往生せんと願う者が、この熊野の南端の海岸を選んで生きながら舟に乗って海に出るようになったのである。浜ノ宮はその解らん場所、補陀落寺はいつかその儀式を司る寺となったが、併し、補陀落寺の住職が自ら渡海しなければならぬといった掟はそもそも初めからどこにもないのであった。ただそうした補陀落信仰と関係深い寺であるので、創建以来長い歴史を通じて、渡海者の多くは補陀落寺に一時期身を寄せ、そしてこの寺から出て船出しているし、住職の中からも何人かの渡海者を出しているのである。寺記に残っいる渡海上人たちの名は十人近くあろうか。いずれも渡海した年齢はまちまちであり、十八歳の上人も居れば、八十歳の高齢の渡海者も居る。
 それが、たまたま近年になって、三代続いて補陀落寺の住職が61歳で渡海することがあって、そのために何となく補陀落寺の住職は六十一歳になると、その年の11月に渡海するものだといった見方が世間に於て行なわれるようになり、またそうした見方が、この寺の歴史からするとさして不自然でなく成立するようなところもあって、61歳になった金光坊もそうした世間の見方から逃れられぬ羽目に立ち到ったわけであった。(pp.220-221)

 金光坊自身も、補陀落寺の住職である以上、いつか自分もそうした心境に立ち到れば渡海上人としてここから船出しないものでもないぐらいのことは考えていた。彼にも、僧侶として多少の自負もあった。自分の師である三代前の正慶上人の渡海の立派さは、今もありありと眼に残っていて、自分もできるならそうなりたいとかねがね思ってもいた。ただ、正慶上人は高い信仰の境地へ61歳で到達できたが、鈍根の自分は更に何年かの修行の年月を必要とすると思っていただけである。そこで彼は、こう考える。

 ――金光坊は正月から春まで、そうした自分が渡海するという世間の見方に迷惑を感じ、近い機会にそれを訂正して、自分の渡海の時期は、自分がその心境になるまで何年か先に延ばさねばならぬし、またそうしなければ折角渡海の船出をしても、補陀落山へ行き着くことはできないであろうということを諒解してもらうつもりだった。併し、春になると、金光坊はそうすることに絶望を感じた。一人や二人なら理解して貰えたし、理解させることもできたが、彼の渡海を信じている者は十人や二十人や百人や二百人ではなく、それは広い世間全部と言ってよかった。(p.223)

 こうなると、金光坊は好むと好まざるにかかわらず、渡海しなければならないようであった。若し自分に目下渡海する考えのないことなどを口走ったり、それが何年か先のことであるなどと言おうものなら、世間というものはおそらく承知しないであろう。どのような騒ぎが起るかもしれなかった。世間からの非難はなんとか耐えられるにしても、伝統のある寺の住職として、自分の言動で観音に対する信仰に瑕でもつけることになれば、それこそ死んでもその罪は消えないものと思った。そして、3月の彼岸の中日、ついに金光坊は、自分がこの11月に渡海するということを正式に発表したのである。
 金光坊は、真剣に、自分の渡海への決意を納得しようと努める。彼は、もともと、永禄八年になって自分の渡海騒ぎが始まるまで、渡海そのものに対して、一抹の疑念もさし挟んだことはなかった。船底に固く釘で打ちつけられた出入り口のない四角な箱に入り、何日間かの僅かな食糧と僅かな灯油を用意して、熊野の浦から海上に浮ぶことは勿論海上に於ての死を約束するものであった。しかし、そのようにして息絶えたものの屍は、そこで新しい生命を得てよみがえり、永遠に観音に奉仕することができるのである。そのことを彼は固く信じてはいた。そこで彼は、渡海への心の準備を始める。

 ――金光坊は春から夏へかけて補陀落寺の自室から出なかった。外出すると賽銭を投げられたり、生仏のように拝まれたり、あるいは浄土への携行物を託されたり、死にかかっている人の額に触らせられたり、そうしたいろいろのことも煩わしかったが、それより金光坊はあと三、四カ月先に迫っている渡海に対して、曲りなりにもそれに応じられるだけの自分を作らなければならなかったのである。突然渡海ということに立ちはだかられてみると、金光坊は自分がまだ何の心準備もできていないことを知らなければならなかった。金光坊は明けても暮れても読経三昧にふけった。いつ侍僧が居室へ顔を出しても、金光坊はいつも痩せぎすの背を見せ、経を誦す声だけがそこからは立ちのぼっていた。(P.228)

 秋晴れの気持よく空の澄んだ日、金光坊は弟子の清源を呼んで、渡海の日は今日でなかったかと訊いた。すると若い僧は、「今日申ノ刻に寺をお出ましになります」と答えた。金光坊は一度立ち上ったが、すぐまた坐った。そしてあとは急に体躯から力という力がすべて抜けてしまった感じで、身動きできなくなった。いよいよ、その時がやってきたのである。侍僧の一人が顔を出して、見送りの那智の滝衆がやって来たことを告げた。それから続いてもう一人の侍僧が顔を出して、禅家の導師が到着したことを告げた。

 ――この頃から金光坊にも寺内の騒然として来るのが感じられた。金光坊は何人かに手伝われ着衣を改め、それから何人かの人に導かれて、自分がこの寺へはいって以来一日も欠かさず毎朝のように勤行した本堂へはいって行った。本堂の千手観音も、右脇侍の帝釈天、左脇侍の梵天像、それから神将像、天部形像、そうした仏たちに、金光坊はその時だけは静かな視線を当て、そしてやがて、それをねめ廻すようにいつまでも見守っていた。(pp.244-245)

 やがて、金光坊は寺から出て、浜辺へ向かう。砂浜に置かれている自分の乗る舟は、今までのいかなる上人の渡海の舟よりも小さく感じられた。しかも乗船場もなく、その舟は同行人の乗る三艘の舟と一緒に恰も波打ち際に打ち上げられでもしたように置かれてあった。同行人の乗る舟の方がずっと大きかった。金光坊は一抹の寂しさを感じたかもしれない。

 ――金光坊は直ぐ乗船させられた。金光坊が乗船してから、人夫たちに依って、大きな木の箱が運ばれて来て、それがすっぽりと頭の上からかぶせられた。金光坊はまたこのことにも怒りを覚えた。屋形舟というものは初めから屋形が舟に設けられてあって、そこへあとから人間がはいって行くものである。それなのに、これでは反対ではないかと思った。
 舟に屋形を取りつける釘打ちの音が聞え出したが、それは暫くすると止んだ。屋形の内部は全くの四角の箱で薄暗かったが、やがて一方の扉が外部から開けられて、そこからいろいろの物が運び込まれて来た。そしてそうしたことが総て終ってから、金光坊は侍僧に依って屋形の外に立って見送り人に挨拶することを求められた。金光坊は言われるままに屋形を出て舟縁りの上に立った。群衆の間にどよめきが湧き起り、賽銭が雨のように舟縁りや波打ち際に投げつけられた。子供たちが争ってそれを拾った。金光坊は直ぐ屋形の中へ逃げ込んだ。それからまた金光坊は帆柱が立てられ、それに南無阿弥陀仏と書かれた帆がつけられるまで、長いこと暗い屋形の中に坐っていなければならなかった。すべては不手際に、のろのろと行なわれているようであった。(p.246)

 かれこれ乗船してから一刻近い時刻が経過した時、金光坊は舟が何の前触れもなく動き出すのを感ずる。舟底が波打ち際の小石の上をぎしぎしした音をたてて滑って、やがて海へ押し出された。金光坊は外を見ようと思ったが、どこを押しても屋形の板は動かなかった。先刻出入りした出入口も固く閉ざされていた。やがて、船頭の漕ぐ櫓の音が耳にはいって来た時金光坊は少しほっとした。まだ一人ではないと思った。綱切島まで船頭の手で船を操られて行き、そこへ行って初めて、一人きりになって潮の流れの中へ押し出されることになっていたのである。

 ――波の音の間から鉦の音が聞えて来た。耳を澄ますと、鉦の音と一緒に何人かが和する読経の声も聞えている。併し、読経の声の方は絶えず波の音に妨げられていて、時々、ふいにそれは祭礼の日の囃子か何かのように賑やかに聞えて来たり、すぐまた消えたりした。
 綱切島へ着いた時、金光坊は屋形の板の合せ目に小さい隙間のあることを発見して、そこへ顔を押しつけて船外を覗いて見た。大きな波のうねりを見せている暮れかかった暗い海面だけがどこまでも果しなく拡がって見えている。
 お上人さん、おさらばですじゃ。そんな船頭の声が屋形の天井板の方から突然降って来た。金光坊にはおさらばという意味が判らなかった。これまで渡海する場合は、そこで同行者とも別れを惜しんで、翌朝早くそこを出発することになっていた。
 金光坊は、自分でも驚くような大声を出して、舟はここで一夜を明かす筈ではないかと訊ねた。すると、天候が荒れ模様で同行の衆が帰れなくなる怖れがあるので、ここで一夜を明かすことは取りやめて、すぐ艫綱を切るということであった。
 金光坊はそれに対して何か怒鳴ったが、併し、もう船頭は岸へ飛び移ってしまったらしくそれに対する応答は得られなかった。(pp.247-248)

 綱切島で一夜を明かすことになっているはずなのに、急にここで、金光坊は一人だけにされて舟は海へ押し出されてしまった。荒れ模様の天候のなかで、やがて舟は大きく揺れ始める。金光坊は波に揉まれる舟の屋形の中で倒れた。倒れても起き上がろうとはしなかった。その時に彼を襲ったのは、どうしようもない絶望感であったろうか。やがて、一日の疲労がのしかかってきて、恐しい力で眠りが彼を捉えた。

 ――どれだけの時間が経ったか、金光坊は眼を覚ました。自分がいま真暗な闇の中に横たわっており、自分を横たえている板が大きく上に下に揺れ動いているのを知った。波涛の音が金光坊の体の下で聞えたり、頭上で聞えたりしている。
 金光坊は起き上ると、いきなりありったけの力を籠めて屋形を形造っている板に己が体をぶつけた。金光坊は生れてからこれほど荒っぽく自分の体を取り扱ったことはなかった。
 五、六回同じことを必死に繰り返しているうちに、やがて屋形の一方の板が音をたてて外部へ外れるのを感じた。と同時に、物凄い勢いで海風と潮の飛沫が屋形の中へ吹き込んで来た。屋形が風を孕んだので、舟は大きく一方へ傾いた。次の瞬間、金光坊は自分の体が海中へひどく軽々と放り出されるのを感じた。(pp.248-249)

 金光坊は板子の一枚に掴まって、一夜海上に浮んでいた。夜が明けると、綱切島がすぐ近くに見えた。幼少時代紀州の海岸で泳いでいたので、それが役にたって溺れることから免れることができたのであった。金光坊はその日の午刻近く綱切島の荒磯へ板子ごと打ち上げられた。死んだようになっている金光坊の体が、昨日同行の者として金光坊をこの島まで送って来た僧侶の一人に依って発見されたのは夕刻であった。海上が荒れていたので、同行人たちは全部島に留まっていたのである。その後、金光坊はどのように扱われたか。

 ――金光坊は荒磯で食事を供せられた。その間僧侶たちは互いに顔を寄せ合い、長いこと相談していたが、やがて、漁師に一艘の舟を運ばせて来ると、それに再び金光坊を載せた。その頃は金光坊は多少元気を恢復していたが、舟に移される時、それでも聞き取れるか取れないかの声で、救けてくれ、と言った。何人かの僧はその金光坊の声を聞いた筈だったが、それは言葉として彼等の耳には届かなかった。(p.249)

 間もなく急拵えの箱が金光坊の上にかぶせられ、こんどはしっかりとそれは船底に打ちつけられた。その仕事が終ると、まだ生きている金光坊を乗せて、舟は再び何人かの人の手で潮の中に押し出された。・・・・・・金光坊についての記述はこれで終わっている。この後、彼はどうなったかについては、この短編でも触れられていない。
 金光坊の渡海後、補陀落寺の住職が61歳で渡海するということはなくなった。もともとそうした掟があったわけではなかったが、金光坊の渡海の始終が伝えられ、そうしたことが補陀落寺の住職の渡海に対する世間の見方を改めさせたのかもしれない。そしてその代り、江戸時代になってからは、補陀落寺の住職が物故すると、その死体が同じく補陀落渡海と称せられて、浜ノ宮の海岸から流される習慣となったという。





                                  [参考資料 42] 2020.04.30

   フランシスコ・ザヴィエルの遺体の奇跡 


 フランシスコ・デ・ザビエル(1506-1552)は、スペインのナバラ王国に生まれたバスク人で、カトリック教会の司祭、宣教師である。ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。聖パウロ を超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれ、カトリック教会の聖人として崇められている。
 このザビエルの遺体の右手がかつて日本に来たことがあった。司馬遼太郎『南蛮のみちT』( 朝日新聞社、1995)には、著者が、その当時のことを思い出しつつ、遺体に対する仏教とカトリックの違いについて述べたつぎのような文がある。

     *****

 当時、――ザヴィエルの右手が日本にくる。
 という記事を書きつつ、グロテスクな思いがないではなかった。とくに私など日本的な空の意識がつよく、聖者のミイラ化した右手ということが、どのようにからんでカトリックの教義の上で神聖になるのか、よくわからなかった。
 原始仏教では、火葬にした釈迦の遺骨(舎利)については、例外的に大切にする。しかし釈迦の高弟たちの遺骨などは単に物質にすぎず、遺骨はおろか墓すらどこにあるかわからない。仏教では人間の肉体と精神は五つの要素(五蘊)より成っているとされる。人間の生命とはその五つの要素が仮に結合(五蘊仮和合)しているにすぎないとするあたり、現代の科学的な生命観に近い。仏教のことばで、「五蘊宅」というのがあるが、人間の生命の肉体をさす。五蘊という建材のよりあっまった建物にすぎず、生命は絶対的な実体ではない、とされる。五蘊は皆空であり、死ねば解体して空に帰する。
 本来の仏教には、遺骸への信仰はない。日本では遺骨や遺髪に霊が宿るという俗信があるが、仏教の本来にはない。霊魂すらみとめない。死ねば何ごとかが残るだろうと私どもは考えたいが、本来の仏教は酷烈で、そういう甘ったれから解脱するのが仏教だとする。
 その点、カトリックは優しくて、霊魂がある。それが昇るべき天や地獄がある。行いさえちゃんとしていれば天に昇れると保証される。戦国期に、切支丹が入ったとき、爆発的に信者を得たのも、ひとつにはこの命題が明快だったからにちがいない。

 ここで余談を挿みたい。
 織田信長の寵僧に、朝山日乗という天台宗の学僧がいた(日乗という名から日蓮宗とされることがあるが、所属は天台宗である。天台宗の本山の叡山は教学上のいわば総合大学であるだけに、日乗は仏教の本質にあかるく、従ってキリスト教でいうところの霊魂の存在を否定していた)。以下は、永禄十二年(一五六九)春のことである。信長は、京にあった。
 摂津の切支丹武士だった和田惟政(1532-73)が申次となって、イエズス会士ルイス・ フロイス(ポルトガル人)を信長に拝謁させた。フロイスは法兄弟ロレンソ(肥前うまれらしい。前身は半盲の琵琶法師。ザヴィエルに接して受洗した)をともなって信長の前にすすみ出た。三百人の織田家の家臣が陪席しており、信長のそばには、日乗が侍して、フロイスと問答した。日乗は極端な切支丹ぎらいだったために、つい狂躁し、教義論を吹っかけて両人を挑発し、偶発ながら宗論になった(信長が宗論好きであったことにもよる)。
 主題が、霊魂の存否論になった。日乗はその存在を否定してついに論破され、血迷ってしまった。

 「そうとあらばこの刀で貴殿(フロイス)の弟子ロレンソを殺してやろう。その時は、人間の中にあると貴殿が申されるこの霊魂を見せてもらおう」といって、その刀を鞘から抜き始めた。(ルイス・フロイス『日本史』柳谷武夫訳)

 狂乱した日乗をかたわらの武士たちがおさえ、刀をもぎとった。日乗への信長の寵は、この事件によって冷めたといわれる。また、日乗をとりおさえたひと達のなかに、まだ木下藤吉郎と称していた秀吉がいたことを、後年、秀吉自身の昔話によって知ることができる。
 右の宗論において、ロレンソは人間の肉体について以下のようなことをいった。

 「人間の肉体は、生命や精神に仕える道具以上の何物でもないことを御承知ください」

 このことばの内容の堅牢さは、その後の神学の発展においても十分堪えうるはずである。しかし、聖人の肉体となると、ちがうのであろうか。
 以下、ザヴィエルの死後の遺骸″の事歴についてのべる。
 上川島で死んだザヴィエルの遺骸を、ポルトガル人たちは棺内に石灰を詰めて納棺し、それを海岸にうずめた。十二月のはじめのことで、南国とはいえ、島は寒かった。それから二カ月半のちに遺骸を船にのせるべく掘りかえしたところ、生けるがようであったという。ザヴィエルはのち「聖人」に列せられるが、奇蹟を尊ぶカトリックにあってはこれをもって聖人の資格の一つとした。
 遺骸は船に積まれ、マラッカの聖堂に運ばれて、ここで二度目の埋葬がなされた。その再埋葬後、二カ月ほどをへて司祭たちがもう一度拝したいとおもい、掘ってみたところ、遺骸はなお生けるがようであったために大いにおどろき、こんどは納棺したまま聖堂に安置した。
 この遺体の奇蹟は、インドにおけるポルトガルの根拠地であるゴアまで喧伝され、そのあげくふたたび船に移されてゴアに運ばれた。この船が着くとき、全市の鐘が鳴らされ、総督以下が河岸まで出むかえ、群衆がひしめき、大さわざだったという。遺骸は聖ポーロ聖堂に運ばれ、棺から出されて、三日間、一般に拝観がゆるされた。
 ここで、珍事がおこった。参観者にまじって遺体に近づいたイサベラ・ド・カロンという貴婦人が遺骸の足に接吻するや、やにわに右足の第四指と第五指を噛み切って逃げ去った。この場合、奥歯をつかうと噛みくだくおそれがあるだろうから、おそらく前歯をつかったのだろう。貴婦人カロンの前歯は鮫のように鋭かったのであろうか。ともかくも彼女は二個の足の指を口にふくんで去り、生涯これを大切にした。死ぬときに聖堂に返したが、二個の足の指はその後、聖堂に保管され、一九〇二年、そのうちの一個が、ザヴィエルの生家であるピレネー山脈のスペイン側のザヴィエル城に移された。いずれにしても、貴婦人イサベラ・ド・カロンの即物的な宗教的情熱は尋常なことではない。
 ところで、右のゴアにおける遺骸の展示は、一五五四年三月十六日から十八日までのことである。それから六十年後の一六一四年(慶長十九)、ローマから「遺骸の右腕を切断して送れ」との命令がゴアにきた。
 聖人に列せられる場合、どういう場合でも当該人物の事蹟調査がローマの法王(教皇)庁においておこなわれる。この場合、委員会にあっては、聖人たるべき人の奇蹟の実証として、生けるがごとしということを確認すべく右腕を切らせて送らせたのである。この実証精神は西洋の土俗に根ざすものか、カトリックのものなのか、それとも両者不離のものなのか、いずれにしてもすさまじい。
 右腕はローマに送られ、委員会で確認された。そのあと、腕型の箱におさめられて、ローマで保存された。
 昭和二十四年五月の四百年祭のとき、私どもが見た右手― 実際に見たのは腕型の箱の外観―には、以上のような事情が歴程して、四世紀をへている。

    司馬遼太郎『南蛮のみちT』(朝日新聞社、1995)pp.46-50





                                   [参考資料43 ]  (2020.05.28)

         この世からあの世へ移るとき


 矢作直樹『「あの世」と「この世」をつなぐお別れの作法』ダイヤモンド社、2013 から四つのパッセージを抜き出して、以下に掲げる。著者の矢作氏は、2011年に『人は死なない――ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』を出版して以来、熱心に霊的真理の啓蒙活動に取り組んでいる東大名誉教授である。氏は学生時代からの霊的体験のほか、霊界のご母堂との霊界通信の体験などももっているだけに、文章にも説得力があるように思われる。浅野和三郎先生が、日露戦争時の連合艦隊作戦担当参謀であった秋山真之から密かに聞いたというロシア・バルチック艦隊がウラジオストックに入る航路についての話などは、興味深い。四つのパッセージの番号と見出しは、便宜上私がつけた。


     *****


 1.死が不幸であるという誤解

 東大病院の救急で、あるいは東大病院に来る前の勤務先で、私は多くの方を看取ってきましたが、今まさにこの世にお別れを告げようとしている人は、まるで何かを見つけたような、ちょっと驚いたような表情に変化する方が少なからずいらっしゃいました。何かを見て顔をほころばせたように思えた方もいらっしゃいます。
 そんな表情が見えるのは、亡くなる二、三日前くらいからが多いような気がします。特徴としては、周囲に無関心になると同時に、まるで別の世界にいるような感じで、顔をほころばせるわけです。
 当然ながら、そんな表情を見せた患者さんは皆さん逝ってしまわれるので、彼らが何を見つけたのか、何に対して驚いたのか、その確認がとれません。
 そんな表情を長年目にしていくうちに、死が幸福であるとは言わないまでも、死ぬことが一概に不幸なことだとは思わなくなりました。
 私は現在、医師となって三〇年あまりとなりますが、かつての私は、人の生や死について格別に思うところはありませんでした。
 病院という場で日常的に人の死に接していたせいもありますが、大学時代に登山を趣味としていた私は、山で間近に友人の死や蘇生を目撃していたせいもあるのでしょう。
 しかし、臨床医となって経験を重ねるにつれ、どんなに治療を尽くしても亡くなられてしまう方、それとは逆に、決して助かる見込みのないはずの重篤な患者さんが奇跡的な回復を遂げられたケースなど、医学常識では説明のつかない数々の事例にも接することとなりました。そんな人間の生と死を通して、生命の真の神秘に触れ、しだいに現代の医学や科学が知るところの人の生命や体についてのことなど、まだまだその全容のほんのわずかしか解明されていないと思うようになっていきました。
 そうした経験もあって、私は、極限の体験をした人たちの報告や臨死体験に関する報告、世界の科学者たちが残した近代スピリチュアリズム関連の文献を読むようになりました。また、気功を含むエネルギー・ヒーリングなど、常識でははかれない超常的な能力を持つ人たちと出会う機会があり、自分でもそれを体験してみたりしました。
 いずれも、それまで私の学んできた常識では信じがたいことばかりでしたが、科学的に解釈しようとしてもどうにも説明のできない現象であり、私には、「何かがある」と言うことしかできなかったのでした。

 ほかにも私には、母の死にまつわる不思議な体験があります。
 私は母を、孤独死という形で亡くしています。父が亡くなった後、母は一人で暮らしていました。母の死後、私はその晩年に何もしてやれなかったことに対して申し訳ないという思いで毎晩手を合わせていました。
 しかしある時、知人の紹介で母を降霊してもらう機会に恵まれました。つまり、死者となった母と会話したのです。
 母は、霊媒となった人の体を借り、私の問いに答えてくれました。死んだ時の具体的な状況をはじめ、母しか知るはずのない、これまで私が誰にも話したことのなかった詳細なども正確に話したのです。また、霊媒となってくれた知人の降霊中の口調や立ち居振る舞いは、母との面識がなかったにもかかわらず、驚くほど母の生前の特徴そのままでした。そこに母がいるのでは、と錯覚を起こしたほどです。
 それ以来、なぜか私には、不思議な安心感のようなものが生まれてきました。
 死に対する漠然とした恐怖感が消えたのです。
 「あの世」という異界の存在を、さまざまな書物や体験談以外で知ったのもこの時です。
 この体験は鮮烈でした。文字や他人から聞いた話や、同じ交霊でも知らない人(霊)から知らされるのと、他界した肉親から目の前で知らされるのとでは大きな開きがあることも実感しました。
 同時に私は、「あの世」と呼ばれるようなものの存在があること、人は肉体死を迎えても魂は滅しないこと、つまり、見えない世界の存在に確証のようなものを得たのです。
 この世を終えてもあの世に還るだけ、それが唯一の事実であると伝えても、やっぱり死ぬのは怖いというのが大方の人の本音ではないでしょうか。

 そこで私から提案したいのは、「この世とあの世をつなぐ原則」を理解するということです。原則には三つあります。

 @死はあくまでも肉体死であり、終わりではないと知ること(=輪廻転生の原則)
 A現世はジグソーパズルのワンピース(一片)だと知ること(=多次元世界の原則)
 B生まれてきたのは、さまざまな経験をすることにより意識の進化(魂の向上)をするためだと知ること(=意識の進化の原則)

 この三つの原則をクリアすることで、私たちは寿命をまっとうするための安全装置として本能という形で備わった死への恐怖感を、理性的に克服していくことができるのではないかと思います。人生における大半のストレスを手放すことができるでしょう。

  矢作直樹『「あの世」と「この世」をつなぐお別れの作法』ダイヤモンド社、2013 (pp.18-23)



 2.霊心体が説く“魂”の存在

 これからの医療には、ホリスティックな視点を取り入れていくことも必要になると思います。ちなみに、ホリスティックとは、全体、つながり、あるいはバランスなどを意味します。現在の医療では、このホリスティックな視点、すなわち霊心体も含め、また生老病死も含めた人のありのままの全体の中で生を考えていく医療を「ホリスティック医療」と呼んでいます。
 医療と同時に医食同源的な意識を持った生活が大切であるという発想が根幹にあるホリスティック医療では、薬に頼ることなく、食生活に目配りし、不要な薬を服用しない、という方向性を持っています。
 このホリスティック医療というジャンルの代表的な提唱者の一人に、世界中で講演活動を続けるクリスティン・ペイジという医師がいます。
 彼女は人々に、「霊心体」を説きます。医師であると同時にスピリチュアリズムの専門家でもある彼女は、霊心体のバランスこそ、病気から解放される糸口だと言っているのです。
 この「霊心体」とは、一般的には身体(心体)バランスと口にされていますが、本当はそこに霊(魂)という存在があることを意味する言葉です。
 普通に暮らしているとほとんど意識しませんが、私たちの心と体は日々変化します。心は、その時々の感情に左右されて揺れ動くものですし、私たちの体は、毎日すさまじい数の細胞が入れ替わっています。
 しかし、霊、つまり魂は変化しません。
 また、似た響きを持つ言葉に、「統合医療」があります。
 こちらは、「西洋医療」と「代替医療」を合わせておこなう医療を指します。さまざまな医療を足し算して、患者さんの必要に応じていろいろな観点から病気の予防、発見、治療、あるいは健康増進をめざすものです。
 考え方、アプローチは両者で異なりますが、まずは、できるところからやっていければよいのではないかと思います。(pp.36-38)



 3.千里眼について

 似たような現象として千里眼があります。日本で最初にシェイクスピア全集の完訳をおこなった英文学者で、のちに日本の近代スピリチュアリズム研究者のさきがけとなった浅野和三郎(1874-1937)は、海軍機関学校の教師をしていた時に、西洋医学で治らなかった三男の熱性疾患が女性祈頑師の予告通り治ったことから心霊の世界に興味を持ち始め、やがて教祖、出口ナオの「おふでさき」と呼ばれる自動書記の内容を知りたいという動機から大本(慣習的に大本教と呼ばれることもある)に入信しました。
 そして一九一六年、大本に接近してきた秋山真之(日露戦争時の連合艦隊作戦担当参謀)と知遇を得、秋山は浅野に密かに、日露戦争日本海海戦にまつわる秋山自身の千里眼体験を語ったのです。
 一九〇五年五月下旬、鎮海湾の日本連合艦隊は、バシー海峡を通過したロシア・バルチック艦隊がウラジオストックに入る航路として、対馬海峡なのか、太平洋から津軽海峡を通過するのか、の判断に神経をすり減らしていました。秋山は、連日連夜頭を絞って疲労困憊の極致にありました。
 そして二四日の夜、士官室で横になって考えを巡らしていた秋山が、ついうとうとしかけた瞬間、突然眼前に対馬海峡を二列になって北上してくるバルチック艦隊の様子が見えました。これは天啓だと直観して、すぐに驚くほど緻密な「七段構えの戦法」の計画を練りあげたのです。
 二七日未明、まさに先の千里眼による情景と寸分違わない隊形でバルチック艦隊がやってきました。ここに日本の勝利が巡ってきました。覚醒状態からすぐに睡眠に入らない場合のこの中間的状態は、体外離脱しやすく、思念が強いと瞬時にその場に移動できるとされていて、秋山の場合もまさにこれに当てはまるかと思います。(pp.104-106)



 4.亡き母が教えてくれた、あの世の様子

 ここで、私の母から交霊の際に聞いた他界(あの世)の様子をお伝えしておこうと思います。
 前述しましたが、私の母と名乗った霊は、その交霊の場で、私と母しか知らぬはずのことを話し、生前の母そのものという仕草で振る舞いました。
 私にとって、そんな亡き母という個人を特定できる霊からの話には信憑性があるように思えるものがありました。
 ですが、あくまでも私の母という一人の市井の人の霊の話なので、無限にある他界といえる場所のほんの一つの事例にすぎないでしょう。なので、あくまでも参考のために述べます。
 母は、他界の様子について、私にあまり根掘り葉掘り訊いてほしくない様子でしたが、訊きだせたところでは、母のいるところは、たいへん居心地のよいところ、とのことでした。世界は、自分の思いのとおりに目の前に展開するようです。
 この世と違い、会いたい人には会え、会いたくない人には会わずにすむ、とのことでした。このあたりはエマヌエル・スウェーデンボルグをはじめとする、自分の意思で、あるいは臨死体験などで、体外離脱をして他界を見てきたとされる人々の幾多の報告での様子と基本的に同じです。
 こちらの様子は、ハーフミラーではありませんが、見ようと思えば見えるそうです。また、こちらの思いはみな、直接伝わるようです。母の他界後に私の身に起こった、思いのほか細かいことまで知っているのには驚きました。
 なお、この世とはあまりに違う世界であるはずなのに、母はそれに何の疑問も持っていないように感じられました。
 しかし、残念なことに、あちらの世界の仕組みを詳細に訊くところにまでは至れませんでした。
 そして母は、自分の言いたいことを私に伝え終わったら、こちらにまったく未練などないようで、嬉しそうにいそいそと帰っていきました。
 母はなぜ、他界の様子についてあまり訊いてほしくなかったのか。
 一つには、他界の様子をこの世の言葉で詳細にリアルに語るのは難しいと思っているようであったこと、私がそのように素晴らしい他界に心を移さず、今の生をちゃんと頑張って生きてほしいということ、そして、母が居心地の悪いこの世から少しでも早く他界に戻りたそうにしていたこと、などが理由ではないかと思いました。
 この先、テクノロジーの発達で、あの世とこの世が映像回線でつながるようなことになれば、その美しい様子がわかることと思いますが、そうすると転生のルールを無視して自殺する人が増えるかもしれませんので、結局は見せてくれないと思います。代わりに夢で見せてくれるかもしれません。(pp.209-211)