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人格と霊格と霊能力 (2018.01.22) インターネットの「教えてgoo」欄に、「霊格と人格 霊能力は比例するのか?」という質問がありました。質問者は、「知り合いに霊能者さんがいまして、能力はとても高いし実績もある方です。慈悲深い方だとは思いますが、悪口とか不平不満、霊視自慢が頻繁です」と書いていました。そして、「悪口や不平不満 自慢は良い波動ではないと思うのですが、霊能力が高ければ霊格も高いものなのでしょうか? 霊格と人格はほぼ同じと思っていますが、人格が優れているとは思えません」と続けています。「私は関わって体調を崩したので、距離をおいています」などとも述べています。 この質問に対しては、いくつかの答えが示されていました。そのなかには、つぎのように、人間には、「人間という霊格しかもっていない」というのもあります。 ――霊格ってなんでしょうね。誰がそんなものあるといい始めたのでしょう。高級霊というのが霊格が高いというのであれば、人間はどこまで行っても人間の霊格でしかありません。霊格が高ければ人間でありえないでしょ。例えば仏教の区分けに当て嵌めれば、仏の世界の霊格があれば仏になります。最も低いのが天部、菩薩、如来となります。・・・・・人間で生まれ、人間として一生を過ごすということは人間という霊格しか持っていないという事です。 この人は、人間には、もともと、霊格というものはなく、あるとしてもそれは、「人間という霊格」だけだと言っているようです。これは、私たち人間が、本来、霊を伴った肉体ではなく、肉体を伴った霊であることがわかれば、見方が変わってくると思います。この世に生きている人間にも、当然、霊格はあります。ただ、その霊格は、霊的な視力でしか見えないということではないでしょうか。優れた霊能者は、目の前に背景を何も知らない初対面の人が座れば、人格者であるかどうかはよくわからなくても、霊格が高いか低いかはよくわかる人が少なくないようです。この質問には、つぎのように答えている人もいました。 ――霊格と人格は同じじゃないと思います。そう見えるかもしれないけど、実際に霊能力が高くても、単に獣霊に操られている場合もあるからです。もしかして、その人は、そういう状況なのかなと思いました。人格者は、不平不満を言ったり、自慢などしないですよ。尊敬できないような霊能者は、近寄らないほうが賢明です。 この人も、人間が本来霊的存在であることをどれだけ意識しているか不明ですが、質問に対する答えとしては、この方がわかりやすいと思われます。人格というのは、この世で生きている目に見える存在に対して一般の人々が考える見方で、「人格者」であるとか、人格が高い、低いというように言われます。一方、霊格とは、この世ではない、霊界から見た格付けで、簡単に言えば、どれだけ神界に近い存在であるかを示す指標といってもいいかもしれません。当然ながら、刹那的な狭いこの世での尺度で見える人間の姿と、広大な霊界の尺度によって見えてくる人間の姿は、同じではないでしょう。この世で地位も名誉も手中に収めた人格者と言われるような人でも、霊格では、低いと見られているようなことも、決して珍しくはないようです。 霊能者の場合も同じです。霊能者で霊能力が高いから霊格も高いということにはならないでしょう。霊能力はあっても、なかには人格者ではなく、霊格も低いという人もいるようです。私たちも、本来はみんな霊能者ですが、ただ、霊能力を内に秘めて発現しないでいるだけです。この世での霊能力の有無にかかわらず、おそらく、何より大切なことは、人格者と言われるよりも、霊性の向上を目指して霊格を高めていくことではないでしょうか。地位、名誉、カネなどを基準にしたこの世の評価よりも、目には見えない霊界での評価を私たちは考えていかねばならないのだと思います。イエス・キリストは、「天に宝をたくわえなさい」(マタイ:6-20)と言いました。この世の出世欲などには捉われず、金銭や資産にも執着せずに隣人愛を実践し、自ずから天に多くの宝を蓄えている人が霊格が高いといえるのかもしれません。 霊性向上を目指して最後まで生き抜く (2018.02.22) 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、再起を望んで一人で戦場から逃れた。何とか北近江まで逃れてきたところ、かつて三成が恩恵を施したことのある村の民に助けられ、一時洞窟に身を隠した。しかし、東軍の執拗な落ち武者狩りの様子を伝え聞いた三成は、逃げ切れるものではないと逃亡を諦め、自分を匿おうとした村民への恩返しとして、自らの居場所を訴え出させたといわれる。捕らえられた三成は、いったん家康のもとに送られた後、京都に護送され、六条河原で斬首されることになった。 六条河原に向かう途中、三成は檻籠の中から護送役の奥平家組頭に「のどが渇いた。湯はないか」と、声をかけた。組頭は、「そんなものはござらぬ」と答えた。しかし、自らの腰布に干し柿をくるんでいたことに気づいて、それを差し出し、「代わりに干し柿がある。これでも食されよ」と言った。ところが、三成は、「柿は痰の毒だという。せっかくだが、遠慮仕る」と、これを拒否した。それを聞いた組頭は、「なんと、これから首を斬られようというのに、痰の毒でもござるまい」と、三成を嘲笑したという。これに対する三成のことばはいろいろと伝えられているが、司馬遼太郎『関ケ原』(新潮文庫)では、つぎのように記されている。 「大丈夫たる者が義のために老賊を討とうとした。しかし、事志とちがい、檻輿のなかにある。が、一世の事は小智ではわからぬ。いまのいま、どのような事態がおこるか、天のみぞ知るであろう。さればこそ眼前に刑死をひかえているとはいえ、生を養い、毒を厭うのである」 三成は、このあと、六条河原で斬られた。慶長5年(1600年)10月1日、関ケ原合戦から2週間後のことである。享年40であった。伝記などでは、斬られる前に、大津城の門前に生き曝しにされている三成を福島正則が嘲笑する場面がある。その正則に向かって三成は「わしに武運と二心を抱く者を見抜く目があれば、今頃お主がここに身を曝していただろう。お主の所業はあの世で太閤殿下にしかと伝える」と言った。ここでは、霊界の秀吉との再会について触れていることになるが、こういういい方は、慣習的にも珍しくはないから、これだけでは、三成が死後の生をどのように考えていたかは、よくわからない。しかし、生命が永遠であり、この世は、霊性向上のための修行の場であるという観点から見ると、この「太閤殿下にしかと伝える」もあり得ることであり、その後の「眼前に刑死をひかえているとはいえ、生を養い、毒を厭う」といったのも、正しい態度といえるであろう。それなりに、三成の霊格の高さを示しているといってもいいかもしれない。 人は霊界へ移れば、誰でもすぐに、一切の悩みや不安から解放されて光り輝く世界に住めるようになるわけではない。少なくとも初期の段階では、死んで霊界へ来た人は、肉体を棄てただけで、あとは地上にいた時と少しも変わらないのである。個性や性格もまったくもとのままで、利己的な人はあい変わらず利己的であり、貪欲な人はあい変わらず貪欲である。霊的覚醒が起きるまでは、無知な人は無知のままで、悩みを抱いていた人は霊界へ還っても悩み続けていることを、シルバー・バーチは教えてくれている。(『霊訓(7)』p.24) それだけに、この地上に生を受けている間に、どれだけ霊性を向上させたかということが、私たち一人ひとりに問われていることになる。それによって、霊界へ還ったときの自分の階層や位置が決まってくるからである。だから、どうせ死ぬのだから、体を労わる必要もなく、学びや体験も要らないということにはならない。三成の最期のことばは、改めて、そのことを思い起こさせる。むしろ、死を前にした人生の最終段階でこそ、私たちは健康にも留意し、自分の力の及ぶ限り、学び残したことのないように学ぶべきことを学び、この世の体験をも深めていくべきなのであろう。そして、たとえ、悲しみや苦しみや辛いことがあるとしても、それらの試練の中でこそ学ぶことが多く、霊性向上のチャンスでもあることを、忘れないでいたいものである。 死の恐怖を克服して生きる (2018.03.19) 仙厓義梵(せんがい ぎぼん、1750-1837)という江戸時代の禅僧がいた。画家としても著名で、88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な禅画を残した。綾瀬凛太郎『仏教の名言100』(学研新書)によれば、その義梵が死ぬ前に、「来時来処を知る 去時去処を知る 懸厓に手を徹せず 雲深くして処を知らず」という遺偈(ゆいげ)を残した。 遺偈とは、禅僧が死ぬまぎわにその境地を詩や歌の形で遺したものである。この本の著者は、この遺偈の意味を、「その先は知らないが人はいつか死ぬ。それでいい」と意訳している。しかし、義梵の末期のことばは、「死にとうない、死にとうない」であった。これを聞いた弟子たちは、このことばには、きっと深い真意が隠されているのだろうと思って重ねて聞き返した。ところが義梵は、「ほんまに、ほんまに死にとうない」と言って、果ててしまったのだという。 室町時代の一休宗純(1394-1481)にも、同様の話が伝えられているが、死を達観していると思われた禅僧でさえ、こういうこともあるのだから、一般の人々にとっては、死の恐怖はなおさらのことである。試みに、インターネットで調べてみると、数多くの人々が死に対する恐怖を訴えていることがわかる。たとえば、そのうちの一つ、「シーマ」と名乗る投稿者は、こう書いている。 「自分が自分じゃなくなってしまうのを考えると、心臓が破裂しそうになる。 今までの日常生活が、日常生活じゃなくなってしまう。 怖いです。日々、死に近ずいてるのを考えると、イヤだ。逃げたい。でも逃げられない。だから死にたいって思う。でも死ぬのは怖い。どうすればいいのか、わからなくなる。ここ毎日、そればかり考えて、心臓が破裂しそうになる。誰か助けて欲しい。」 こういう恐怖心は多くの人々がもっているが、どうすればそこから抜け出せるのであろうか。浄土真宗の中興の祖といわれている蓮如上人(1415-1499)は、人間は誰でも死ぬべき存在であることを、『御文章』の「白骨章」のなかで、「自分が先か、他人が先か、今日とも知れず明日とも知れず、人は後になり先になったりして絶え間なく死んでいくものです。朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となってしまうのです」(現代文訳)と書いている。そして、人が死んでいくのは老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである、と信仰の大切さを説いた。「誰か助けて欲しい」というこの投書の切実な叫びには、このような信仰も、ひとつの答えになるかもしれない。 しかし、やはり、何よりも直截に心に響くのは、シルバー・バーチのことばであろう。例えば、「地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。なぜなら、魂の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒賞であって罰ではありません。死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出すための手段と見なすべきです」(『霊訓(8)』p.62)とシルバー・バーチはいう。このようなことば一つをとってみても、死の真実を知らずに苦しんでいる人には、大きな救いになるのではないか。 死の真実については、極めて貴重で重大な教えが、シルバー・バーチの霊訓の中には数多く含まれている。人々は、死を忌み嫌い、恐れて、ひたすらに長生きすることを願うが、長生きをすること自体も、実は、大切なことではない。永遠の生命がわかれば、地上で20年だけ生きても100年を生きたとしても、その差は限りなくゼロに等しいからである。シルバー・バーチは、「地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ決められている」という。(『霊訓(8)』p.61) 「あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです」とも言っている。(『霊訓(8)』p.71) 寿命を自ら選択しながら、その長短を気にするのはいささか滑稽であるかもしれない。だから私たちは、死の恐怖に怯えたり、長寿をひたすら願ったりするよりは、この世での学びと霊性向上にもっと心を向けるべきなのであろう。それをシルバー・バーチは、「地上生活のいちばん肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです」(『霊訓(10)』p.63)と、教えてくれている。私自身がかつてはそうであってが、いのちの真実に無知であることは苦しい。なるべき早く霊的真理に目覚めて、怖れや悩みに捉われることからは、抜け出したいものである。 超高齢社会の死生観について考える (2018.04.12) 日本が高齢社会であることはよく知られている。総務省の統計では、平成28(2016)年10月1日現在の日本の人口1億2,693万人のうち、65歳以上の高齢者人口は 3,459万人で、総人口に占める割合(高齢化率)は27.3%であった。世界保健機構(WHO)や国連の定義では、高齢化率(総人口のうち65歳以上の高齢者が占める割合)が7%を超えた社会は「高齢化社会」、14%を超えた社会は「高齢社会」、21%を超えた社会は「超高齢社会」とされている。この基準によれば、日本は高齢社会であるというより、すでに「超高齢社会」である。しかも、この65歳以上の「高齢化率」では、現在の日本人は「4人に1人」であるが、これは、厚生労働省所属の国立社会保障・人口問題研究所では、2035年には総人口に占める高齢者の割合が33.4%となり、「3人に1人」が高齢者になるという推計も出されている。 この日本の高齢化は、進行の速さで世界でも類を見ないといわれているが、こうした超高齢社会がもたらす課題として、総務省では働き手の主力とされる15歳以上65歳未満の「生産年齢人口」の減少や、高齢者が病気になった場合の介護負担の増大などをあげている。これはまた、「働きながら家族の介護をする人」が増加することをも意味するだろう。いま日本では、医学の進歩を背景にして、年老いて体が不自由になっても、容易には死ぬことはない社会になっているのである。こういう社会の中で、高齢者は、どのように生きていくべきであろうか。少なくとも、医療の進歩による寿命の延長が無条件に歓迎されるような風潮には、必ずしも同調できなくなっていくであろう。長生きが常に目出度いわけではない。現実の問題としても、体力が弱り、歩けなくなり、寝たきりの状態で周囲の介護なくしては生きておれないような状態が、人間として幸せであるとはどうしても思えないのである。 本年1月21日、保守派の論客として知られた西部邁さんが、遺書を残して東京の多摩川に入り、78歳で亡くなった。ずっと考えてこられたうえでの自裁であったようである。西部さんは北海道生まれで、1957年に札幌南高校(旧札幌一中)を卒業して、その後東大へ入学している。たまたま私は、1956年からの1年間、札幌南高校教諭を勤めて1957年にアメリカへ留学したから、その間、西部さんとは同じ高校に居た。「袖触れ合うも他生の縁」があったことになる。西部さんは、東大卒業後、大学院を経て、東大教授になったが、1988年、東大の人事問題で、教授会に抗議して辞任した。その後は、評論活動を続けながら、テレビの討論番組などにも数多く出演してきたことはよく知られている。 西部さんは、社会に対して役立つ自分と負担をかける自分とを天秤にかけて考えてきたようである。病気で体が不自由になっても、病院で不本意な延命治療や施設での介護など受けたくはないとかねてから言っていた。他人への負担を避けるなら、自宅で家族の介護に頼るほかはないのだが、しかし、それをも避けたいと思えば、自死しかないと判断したのであろう。死去前日の1月20日夜、西部さんは新宿の文壇バーで長女と一緒に酒を飲んでいたが、午後11時ごろ、長女を先に帰宅させ、その後多摩川へ向かったという。十分に覚悟したうえでの行為であった。西部さんと親交のあった京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、この西部さんの死について、「いかに最期を迎えるか」と題して、こう書いている。 《このような覚悟をもった死は余人にはできるものではないし、私は自死をすすめているわけではないが、西部さんのこの言い分は私にはよくわかる。いや、彼は、我々に対して一つの大きな問いかけを発したのだと思う。それは、高度の医療技術や延命治療が発達したこの社会で、人はいかに死ねばよいのか、という問題である。死という自分の人生を締めくくる最大の課題に対してどのような答えを出せばよいのか、という問題なのである。今日、われわれは実に深刻な形でこの問いの前に放り出されている。》(「朝日」2018.02.02) 死は常に一個人の問題で、一般論というのはないから、死についてはそれぞれに自分自身が対処していかなければならない。しかし、佐伯氏のいうように、人は「いかに死ねばよいのか」という問題が、西部さんの自裁によって、実に深刻な形で私たち一人ひとりの目の前に突き付けられているのだとしても、その答えを出すのは容易ではない。氏は人の死に方として、「やむをえず入院すると、そこでは延命治療が施される。私は、自分の意志で治療をやめる尊厳死はもちろん、一定の条件下で積極的に死を与える安楽死も認めるべきだと思う」と言う。ただ、この安楽死は、おそらく少なからざる人々が密かに考えていることと思われるが、現在でも、表面に出して議論することは、まだタブー視されているといえるであろう。 作家の五木寛之氏は、このまま高齢化がさらに進めば、「自発的なナチュラル・エンディング」を考えることが正しいと思うと述べている。自ら死生観を確立して、「もういい」と思った時に、食事や水を少しずつ減らしていって、ゆったりとこの世から去っていく道もあるのではないか、というのである。ここでは、五木氏は、「そのためにはたとえば浄土へ行くとか、死に際して自分を保つために、なんらかの死生観の確立は必要になってくるでしょう」と死生観の重要性について触れている。そして、そのためには、今までの宗教ではなくて、新しい時代が求める死生観をそなえた思想が必要になってくる、と付け加えている。(五木寛之編『うらやましい死に方』文芸春秋、2014、pp.228-229) 確かに、自発的に安らかな死を迎えるためには、「新しい時代が求める死生観をそなえた思想」は必要であろう。巷では多くの人々が死の恐怖に怯えているが、その死の恐怖を克服していくための深い学びも欠かせない。しかし、こういう識者たちの書いたものを読んでいると、私には自然に、シルバー・バーチのことばが浮かび上がってくる。「あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして 100歳まで生きたとしても、無限の時の中での 100年など一瞬の間にすぎません」とシルバー・バーチは言っているのである。そして、世間一般の死を忌み嫌う風潮に対しては、つぎのように諭している。 《なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味するのです。》 (『霊訓 (8)』pp.70-71) 超高齢社会を生き抜くための、「個人の死生観の確立」とか「自分なりの死の哲学をもつ」というのは、やはり、どことなく高尚で手の届きにくい高みにあるようにも思えるが、要するに、死とは何かというその真実を知るかどうかが肝要である。そして、その真実を知ることは、実は、決してそんなに難しいことではなく、誰でも、理性を失わず、純粋で素直に求めていく気持ちさえあれば、このようなシルバー・バーチの教えに触れることができる。その重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないであろう。ここでは、ついでにもう一つ、その教えを付け加えてこの小文の締めくくりにしたい。シルバー・バーチは、つぎのようにも述べている。 《私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像できません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが、”死” は独房の扉のカギを開けて解放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになるのです。》 (『霊訓 (8)』pp.72-73) テレビやスマホに心を蝕まれる子供たち (2018.05.09) 一年間のイギリス滞在を終え、1992年の春、帰国の途中、シンガポールの街の中で、サラリーマン風の若い男性が携帯電話で声高に話しているのを見た。私が携帯電話を見たのはこの時が初めてである。この新しく生まれた文明の利器を手にしていることに、その若者は誇らしげな様子であった。日本でも、その年にNTTドコモが誕生して、携帯電話各社間の相互通話が実現している。その二年後くらいのことであったか、日本でも携帯電話が出回るようになったある日の電車内で、私の前に座っていた若い男女が、1個の携帯電話を交互に手にして、げらげら笑いながら、大声で外部の誰かと得意げに話し合っていたことがあった。いつまでも話をやめないので、私はつい、「車内での通話は、遠慮されてはいかがですか」と、やんわりと注意した。すると女性の方が、いきりたって、「緊急電話なんです!」と私に言い返した。見え透いた嘘をつかれて、私は苦笑した。 その後、携帯電話は、パソコンや他社携帯電話と送受信できる電子メール機能が付き、インターネット接続サービスも開始されるようになった。2000年頃からは、カメラ付きも発売されるようになり、写真をメールで送る「写メール」も流行するようになる。そして、2007年には、広いタッチパネル画面に指を滑らせて操作し、多彩な機能を呼び出して使う「iPhone」が、米アップル社から発売され、世の中は、「スマホ時代」に突入した。目覚しい技術革新である。しかし文明の利器は常に諸刃の剣である。負の側面もあることを見逃すわけにはいかない。雑音、雑念が益々増えて、人の魂は霊的覚醒からは遠ざかっていく。 いまでは何処でも、電車内でも、街の中でも、スマートフォンが氾濫していて、小、中学生でもスマホを持ち歩くようになってきた。東京都港区のMM総研の調査では、国内で出荷されているスマートフォンは、2016年で3,013万台になり、2017年度では、3,199万台に増えて、過去最高になっているらしい。街のなかを歩きながらスマートフォンを見たり、自転車を乗りながらでもスマートフォンを見ているような人も増えている。路線バスや観光バスなどの運転士が運転中にスマートフォンや携帯電話を操作し事故を起こした例は、2016年1月から翌年4月までで33件にもなり、その中には、小学1年生を轢いて死亡させたような事故もあった。(「朝日」2017.5.23) こうなると、文明の利器も凶器でしかない。バス会社によっては、営業所に社員個人向けの保管庫を設置して、乗務前にスマートフォンなどを入れて鍵をかけているところもあるらしい。 同じように深刻なのは、このようなスマートフォンなどの普及によって、ネットによるゲーム依存症が増えていることである。内閣府の2017年度の調査によると、小中学生の7割以上がネットゲームを楽しんでおり、中高生の52万人が、ネット依存症の疑いがあるという。この数字は、すでに極めて異常で病的であることに、まわりの大人たちは気がつかなければならないであろう。小中高生の平日のネット利用時間では、2~3時間が19.9パーセント、3~4時間が13.7パーセントで、5時間以上というのも15.1パーセントとなっている。これを合わせると、毎日2~3時間以上もスマホに時間を取られている小中高生が 48.7パーセントもいることになる。なかには、学校には行かずに、家で一日16時間も、スマートフォンのゲームにばかり熱中している中学生の極端な例も報告されている。(「朝日」2018.5.5) 一方、テレビを覗いてみると、特に一部の民放などでは、刺激的な、見るに耐えないようなドタバタ劇が繰り返されているのがしばしばである。もう半世紀も前に、社会評論家の大宅壮一氏が、「テレビというメディアは非常に低俗で、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させ一億総白痴になる」と述べて、「一億総白痴」という言葉が流行語になったことがあった。いまでは、その深刻度は当時の比ではない。かつての家族が顔を合わせて親しく語り合う「一家団欒」もテレビの雑音にかき消されて、ほとんど死語になってしまった。特に子供は、脳がまだ十分に発達しておらず、快感や刺激を求める欲求が理性に勝る傾向が強いといわれている。言語知能などをつかさどる脳の前頭葉に悪影響を与えるとする研究結果などもすでに出ているらしい。その上に、スマートフォンなどの依存症などが加わると、純真無垢であるはずの子供の精神面は、いったい、どういうことになってしまうのか。子供たちの将来に対して危惧の念を抑えきれないでいるのは、おそらく、私だけではないであろう。 減少し続ける日本の人口 (2018.06.07) 厚生省が6月1日に発表した人口動態統計によると、昨年(2017年)に国内で生まれた日本人の子どもの数(出生数)は94万6060人で、統計がある1899年以降、最小であったという。逆に、人口の高齢化を反映して、死亡者数は134万433人と戦後最多で、出生数から死亡数を引いた自然減は39万4373人となり、これも統計開始以降で最大の減少幅になるらしい。今年(2018年)になってからも、総務省統計局のデータでは、5月1日現在の概算値で、日本の総人口は、1億2649万人である。前年同月に比べ23万人の減少となっているから、この人口の減少傾向は毎年続いていて歯止めがかからないようである。 女性が一生に産む子の数を示す合計特殊出生率も、2017年度は1.43で、2016年度からは0.01ポイント下がり、前年の人口を維持するのに必要とされる2.07を大きく下回った。厚労省も、「こうした傾向は今後も続くので、出生数の減少は避けられない」との見方を示している。(「朝日」2018.6.2) 国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」(2015年)によると、理想とされている子どもの数は2.32人だが、予定数は2.01人となっていて差がある。その理由を複数回答で問うと、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が56.3パーセントで、トップであるという。 少子化に歯止めがかからないなかで、社会保障費は膨らむ一方である。政府が5月に公表した将来推計では、医療や介護などの社会保障給付費は、40年度には今の1.6倍の約190兆円になり、税負担は今より1.7倍、保険料負担は1.5倍になるという。深刻なのは、制度を支える15~64歳の現役世代が大幅に減ることである。現在は2人で1人の65歳以上の高齢者を支えているが、40年には、1.5人で1人をみなければならなくなるらしい。政府はなんとか合計特殊出生率を上げて、60年の人口を1億人程度に維持するビジョンを掲げているが、直近の推計では、60年の人口は9284万にまで落ち込むとみられ、日本の人口問題の先行きは決して明るくはない。(「朝日」2018.6.2) 一体なぜ、こういうことになってしまうのであろうか。 日本は古来、豊かな土壌と水と熱に恵まれ、西欧諸国などと比べても、格段に食料生産性が高く、そのために、国土のおよそ3分の2が森林であるにもかかわらず、高い人口密度を維持することができた。最近の100年間の人口の推移をみても、1910年(明治43年)に、50,984,840人であったのが、毎年増え続けて、1970年(昭和45)年には、1億の大台に乗り、103,720,060人になっている。人口はその後も増え続けて、2010年(平成22年)には128,057,352となった。100年間で約2.5倍に増えたことになる。しかし、これがピークで、その後は減少に転ずることになる。2015年(平成27年)の人口は、前年比 −0.8パーセントで、127,094,745人である。(総務省統計局の国勢調査による) そして現在、日本はOECD諸国35か国の中でも最も少子高齢化が進んでおり、しかも、世界のどの国も経験したことのない速度で人口の少子化・高齢化が進行しているといわれるようになった。 現在の日本は世界でも最も豊かな国の一つで、医療制度も整い、技術革新も進んでいる。まわりにはモノが溢れ、少数の例外はあるにしても、衣食住に困らず生活水準はかつてなかったほどに高い。しかし、それでいてなお、さらなる生活の利便性を追い求めて、人々のモノに対する欲求は留まるところを知らないようにも見える。そして一方では、その私たちの社会では、人口が減り、確実に少子高齢化が進行しているのである。これらの問題が、互いに何らかの因果関係で結ばれているのかどうか、私にはよくわからない。しかし、物的欲求のあくなき追及が、結局は利己主義を助長して心を蝕み、人間関係のなかで優しさや思いやりの自然な発露を妨げ、本来備わっている生命力をも委縮させていることがないであろうか。その結果としての出産や育児に対する閉塞感のようなものが、日本の人口動態をこのようないびつな形にしてしまっている一因ではないかと思ったりもしている。 小惑星「リュウグウ」に到達した日本の探査機 (2018.07.02) 日本の小惑星探査機「はやぶさ 2」が6月27日、2億8000万キロ彼方の小惑星「リュウグウ」から20キロ離れた探査拠点に到達した。その地点から撮影された小惑星リュウグウの鮮明な写真が公開されている。リュウグウの砂には、生命の元となる有機物や水分が含まれている可能性があり、今後1年半の滞在期間中に3回着陸して採取を目指すと、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発表している。(「朝日」2018.6.28) この「はやぶさ 2」が日本で打ち上げられたのは2014年12月で、3年半かけて32億キロを飛行して、リュウグウに到達したのであった。地球からの直線距離は2億8000万キロであっても、地球と太陽をまわる軌道を通っていくためには、32億キロも飛行しなければならなかったのである。 地球と太陽までの距離は1億5000万キロだから、この小惑星リュウグウの位置は、太陽までの距離の2倍近くも遠いことになる。だから、地球の最先端の技術で飛ばした探査機でも、到達するのに3年半もかかった。しかし、この距離も、宇宙の距離を測る尺度では、ほとんどゼロに近く、至近距離といってよい。惑星までの距離を測る一つの方法は、地球から光(電波)を発して目的の惑星で反射させ、さらにその光を地球で受信することによる。その光の往復時間を用いて距離を計算し、それを「光年」であらわすが、いうまでもなく、1光年は光の速度で1年かかる距離である。1秒間では約30万キロで、1光年とは、およそ9兆4600億キロになる。これで計算すると太陽までの距離は、およそ「8分」にしかならない。リュウグウまでの距離も「15分」でしかない。 私たちが夜空に仰ぎ見る天の川銀河は、太陽のように自分で光を放つ恒星が2000億個集まったもので、直径10万光年の円盤型をしているという。そして、宇宙にはそのような銀河が1000億個以上もあるといわれたりすると、もうその大きさ広さは、私たちの想像を絶するというほかはない。私たちの住んでいる地球も、一周すると4万キロもあって、広大に思えるが、宇宙のなかでは、米粒一つにもならないような、ちっぽけな存在である。そのちっぽけな地球の上の日本で、現代の最先端科学は、いまようやく、探査機をリュウグウに送り込み、重さ2キロの銅の塊を表面に打ち込んで人口クレーターを作り、内部の砂を採集しようとしている。太陽にさらされていない小惑星内部の砂には、太陽系ができた46億年前の状態を保っていると考えられるからである。そしてそこから、生命の根源を探ろうとしている。それは、見方によっては、この地上にいて、霊界の生命の真理に迫ろうとする試みに似ているといえるかもしれない。 「有機的生命の存在する天体は無数にあります。ただし、その生命は必ずしもあなたがたが見慣れている形体をとるわけではありません」と、シルバー・バーチは言った。(『霊訓(6)』p.170) ラムサも、「銀河系だけでも百億個の太陽があり、それぞれの太陽には生命を維持している惑星がある」と述べている。(『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 150) このように、スピリチュアリズムの世界では、この宇宙に高度の知能を持つ生命体が数多く存在することは、いわば常識である。その一方で、現代の先端科学では、いまようやく、光速15分の距離まで、生命の根源を求めて探査範囲を広めてきた。しかし、宇宙の広さから見ると、それはまだ、「井の中の蛙」にもほど遠い。アンドロメダ銀河(M31)は、肉眼でも満月の約5倍の大きさで見ることのできる最も遠い天体だが、これは地球から約250万光年の距離に位置している。しかし、この250万光年彼方のアンドロメダ銀河でさえ、宇宙では、それほど遠い距離ではない。宇宙望遠鏡で捉えられている最も遠い銀河は105億光年、最も遠い天体が133億光年などといわれているのである。 シルバー・バーチは、宇宙は神の反映であり、神とは宇宙の自然法則であると言っているが(『霊訓(5)』p.140など)、ある日の交霊会で、哲学に興味を持っている学識者から、宇宙創造の目的についていろいろと訊かれたことがあった。シルバー・バーチはそれに対して、「あなたは、きわめて小さなレンズで覗いて全体を判断しようとなさっています。あなたにはまだ永遠の尺度で物事を考え判断することがおできになりません。この途方もなく巨大な宇宙の中にあって、ほんの小さなシミほどの知識しかお持ちでないからです。しかし今、それよりは少しばかり多くの知識を私たちがお授けしているわけです」と答えている。(『霊訓 (7)』p.98) 宇宙航空研究開発機構(JAXA)の小惑星探査機「はやぶさ 2」が、無事にリュウグウに到達したのは確かに快挙ではあるが、それを支えている最先端の現代科学も、大宇宙の視野から見れば、或いは、「ほんの小さなシミほどの知識」になってしまうのかもしれない。 金銭的な富と幸福の間の関連性は低い (2018.07.23) ハーバード大学で教えていたタル・ベン・シャハー教授が書いた『ハーバードの人生を変える授業』(大和書房、2011)という本がある。その本では、ノーベル経済学を受賞したダニエル・カーネマンが、「金銭的な富と幸福の間の関連性は低い」ことを発見した、という研究結果が紹介されている。「サイエンス」誌に発表されたその研究結果は、つぎの通りだという。 「高収入があると幸せになれると広く思われていますが、それは幻想にすぎません。平均以上の収入のある人は比較的人生に満足してはいますが、そのときどきの体験において他の人と比べてより幸せを感じるというわけではありません。収入の高い人たちは他の人たちより気を張っており、楽しむための活動に費やす時間が少ない傾向があります。 さらに、収入が人生の満足度に与える影響は一時的なものにすぎないことがわかってきました。人は、自分や他人の人生を評価する際、固定化した成功パターンに焦点をおいて考えるため、収入の幸福に対する貢献を誇大に考えてしまうのです」(pp.188-189) 言われてみれば、この通りで、なるほどと納得させられるが、これが経済の専門家が「幸福」について研究を続けてきた「研究成果」だというから、重みがあるといえるかもしれない。そして、驚くべきことに、「いったん物質的な富を手に入れると、それを手に入れようと奮闘していたときに比べて精神的にずっと落ち込んでしまう人々がいます」とも、述べられている。(p.189) どうして、そういうことになるのであろうか。出世競争に明け暮れしている人間は、自分の努力が将来において有益だと思うからこそ、辛うじてバランスを保ち、自分のネガティブな感情にも耐えることが出来る。しかし、ひとたび最終目標に到達し、物質的な富では幸せになれないことがわかると、彼を支えているものは何もなくなってしまい、失望感でいっぱいになってしまうのだと、この本の著者シャハー教授は分析するのである。 確かに、目に見えないものより、見えるもののほうが評価しやすい。だから人は、物事の判断をする際、より物質的なものに焦点をおきがちになるのであろう。富や特権といった数量で測りやすいものを、測る基準のない感情や意義より高く評価してしまうのも、よくわかるような気がする。シャハー教授は、さらに、「お金に価値があるのは、私たちがお金が過大評価される世界に住んでいるからである」という、社会評論家 H.L.メンケンの寸言を最後に付け加えているが、これも味わい深いことばである。 死に向き合って生への展望を拓く ― スティーブ・ジョブズと孫正義の生き方 ― (2018.08.20) アップル創業者のスティーブ・ジョブズ(Steven Paul Jobs)は、今世紀最後のカリスマといわれた人物である。アップルのCEOに就任して以来、iPod、iPhone、iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。その間、基本給与として、年1米ドルしか受け取っていなかったことで有名であり、「世界で最も給与の安い最高経営責任者」とも呼ばれたりした。2011年10月5日、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により妻や親族に看取られながらカリフォルニア州パロアルトの自宅で死去した。56歳であった。彼の死に際して、アメリカ大統領であったバラク・オバマは、こう述べている。 《スティーブはアメリカのイノベーターの中で最も偉大な一人であった。違う考えを持つことに勇敢で、世界を変えられるという信念に大胆で、そしてそれを成し遂げるための充分な能力があった。この星で最も成功した会社の1つをガレージから作り上げることで、彼はアメリカの独創性の精神を実証した。スティーブは毎日が最後の日であるかのように生き、私たちの生活を変え、全産業を再定義し、私たち一人一人が世界を見る方法を変えた。》(The White House Blog, 2011年10月5日) ジョブズは日本文化にも関心が強く、京都の禅寺を愛し、禅を学んだりしていた。iPhoneやiPodなどのアップル製品の、ギリギリまでそぎおとしていくそのデザイン性、そしてジョブズの並はずれた集中力も禅から来ているとも言われている。そのジョブズが、スタンフォード大学でスピーチした時に、次のように述べていたことがよく知られている。 《私は17歳のときにこんな言葉と出会った。「毎日を人生最後の1日だと思って生きていこう。そうすればいつの日か必ず間違いのない道を歩んでいることだろう。やがて必ずその日がやってくるから」。それはとても印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分にこう問いかけることを日課にしてきた。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていることをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、生き方を見直せということです。》 ジョブズはこのように、毎日死と向き合いながら、生への指針を見出していったといえる。そのジョブズについて、ソフトバンクの孫正義は、「スティーブ・ジョブズは、芸術とテクノロジーを両立させた正に現代の天才だった。数百年後の人々は、彼とレオナルド・ダ・ヴィンチを並び称する事であろう。彼の偉業は、永遠に輝き続ける」と言っている。(SoftBank広報紙) そして、孫正義自身も、ジョブズと同じように、「最も成功した会社の1つをガレージから作り上げた」実業家であった。 ひすいこたろう『あした死ぬかもよ?』(ディスカバー21、2012)によれば、孫正義は、1983年、創業時3人だった会社の社員が、125人になっていた頃、20代半ばにして突然の病に倒れたという。病名は慢性肝炎で、それも死亡リスクの高い肝硬変寸前の状態であった。医者からは、「5年は命がもつかもしれないが、それ以上は……」と言われた。彼は、「会社も始動したばかりで、子どももまだ幼いのに、俺もこれで終わりか・…‥」と、病院でひとり涙を流していたそうである。 そんな時に、彼は病院で坂本龍馬についての本を読み、竜馬が28歳で脱藩して33歳で暗殺されるまでの約5年間で日本を変えていったことを知る。自分も、あと5年もあれば、相当大きなことができるのではないか、と思った。めそめそしている場合ではない、自分に与えられた5年間を、人々に喜びを与え、社会に貢献することに捧げたい、と考えるようになった。病院生活で死と向き合っているうちに、大事なのは金ではない、地位でも名誉でもない、ということにも気がついた。 ところが、その後の3年間、入退院を繰り返しているうちに、1986年になって画期的な治療法が見つかり彼は病気から解放される。完全復帰を果たして、巨大に成長した会社を率いて、社会貢献を志すようになった。2011年に発生した東日本大震災では、被災者支援のため、彼は個人資産から100億円を寄付している。そればかりか、その年から会社を引退するまでの社長としての報酬全額も、震災で両親を亡くした孤児の支援として寄付すると言明した。 これは、スティーブ・ジョブズが、最高経営者としての給与を1ドルにしたのと同じである。企業としてのソフトバンクも東日本大震災では10億円の寄付を決定し、被災者数万人への携帯電話の無償貸与に加えて、震災孤児対象に18歳までの通信料の完全無料化を表明している。「我々が推進役として、世界中に情報革命を起こすのは何のためか。人々を幸せにするためです。『何のために』を忘れ去ってしまったのでは意味がない」とは彼のことばである。ジョブズと同じように、孫正義もまた、死を意識し、死と向き合って生きたことによって、生への大きな活路を拓いていったのである。 (文中、敬称略) 霊的真理の五つの法則 (2018.09.27) このHPの「参考資料」(16)では、「死後の魂のあり方を示す法則集」として、アラン・カルデックがまとめたものをご紹介しています(2018.09.06)。しかし、これは33条もあって、スピリチュアリズムに習熟している人でなければ、あまりにも詳細で、読みづらい点もあるかもしれません。このような霊的真理については、アラン・カルデックのほかにも、いろいろな霊能者が箇条書きにまとめたものがあります。このHPのほかのところで、私がすでに引用してきたのもあります。 このような霊的真理については、私たちはすでにシルバー・バーチから、多くを学んできました。近藤千雄さんが訳された『シルバー・バーチの霊訓』 13巻もその全部ではありませんから、半世紀以上にわたって語られた真理のことばは膨大な量に達しています。このホームページの「叡知の言葉」(A)は、そのごく一部を100にまとめたものですが、さらに、それらから、シルバー・バーチの教えの真髄をうんと簡略化して五つだけ挙げるとしたら、どういうことばになるでしょうか。試みに、それを「霊的真理の五つの法則」として、私なりにつぎのようにまとめてみました。 1. 神は厳然として存在する。神とは大宇宙の摂理である。私たちは神の摂理の中で守られ、生かされている。 2. 私たちは霊的存在である。肉体は滅びても永遠に生き続ける。死ぬことはできない。 3. 私たちは、輪廻転生を繰り返しながら、それぞれに霊性向上を目指している。この世で起こっていることはそのために必要なことで、不公平はない。 4. この世では波長の合う者同士が惹き合い、霊界では私たちの霊性に見合った階層で修行を続ける。この世の生き方で、死後の行き先は決まる。 5. 自分の撒いた種は自分で刈り取らねばならない。すべて、与えたものが返ってくる。世の中に偶然はない。 足ることを知らない人たち (2018.10.15) 先日の新聞では、マレーシアのナジブ前首相のロスマ夫人が、資金洗浄などの疑いで逮捕されたことが写真入りで伝えられていた。その記事によると、マレーシア警察が、クアラルンプールにあるナジブ前首相の自宅や首相官邸などを捜索して、これまでに、現金(日本円に換算して)約32億円のほか、宝飾品12,000個、高級腕時計423個、ハンドバッグ567個など、総額約275億円相当を押収したという。(「朝日」2018.10.04) ロスマ夫人はかねてより豪華な暮らしぶりで知られ、3,000足ともいわれる靴を持っていたフィリピンのマルコス元大統領のイメルダ夫人にちなみ、「マレーシアのイメルダ夫人」と呼ばれているらしい。 同じ日の紙面で、中国の人気女優ファン・ビンビン氏が 23億円の脱税で摘発されたことも写真入りで大きく伝えられていた。国税当局がファン氏と関連企業による23億円の脱税を指摘し、それまでの脱税による追徴課税や罰金などとして約146億円の支払いを命じたのだという。国税当局は、今年末までに罰金などを納付できなければ、刑事責任を追及するとしている。ファン氏の昨年度の所得は約40億円で、中国芸能界の所得番付ではトップだそうだが、年末までの約 3か月間に、ファン氏が150億円近い巨額の罰金を納めることが出来るのかどうかが、話題になっているようである。 このような物欲や金銭欲にまみれた話は、別に珍しいわけではない。日本でも、他の外国でも、おそらく無数にあるといっていいであろう。この二つの事例は、物欲や金銭欲がたまたま100億円単位で露出したから注目されただけで、1億円単位、1千万円単位、あるいは100万円単位の物欲、金銭欲の類も、「足るを知らない」ということでは、まったく同類である。恵まれていない他人に分かち与えることなどは思いも及ばず、自分だけが出来るだけ多くを独り占めしたいと考える。そのような心の貧しい利己主義が広くはびこっている間は、本当の意味での個人の幸せや社会の安寧も望むべくもないのかもしれない。 D.カーネギー『道は開ける』(東条健一訳、新潮社、2014)という本のなかで、かつてアメリカで「鉄鋼王」と称されていた大富豪アンドリュー・カーネギー(1835-1919)の話が紹介されていた。この大富豪は、慈善活動家としてよく知られている。「金持ちとして死ぬことほど不名誉なことはない」という言葉も残して財産のほとんどすべてを社会に還元した。この鉄鋼王は死ぬ前に、親族の一人に、 1億円を分け与えたそうである。当時の日本の内閣総理大臣の年俸が1千円の時代であった。(週刊朝日編『値段の風俗史』朝日文庫、1987) 1億円というのは、庶民の感覚ではほとんど天文学的な巨額である。しかし、この1億円をもらった親族は、アンドリュー・カーネギーの葬儀から戻ってきたあと、アンドリュー老を口汚く罵っていたという。葬儀の式場で、アンドリュー老が教育機関や慈善団体などに 350億円以上も寄付していたことを知ったからであった。他人に分け与える金が 350億円もあったのに、「自分はたったの1億円で追い払われた」のが悔しくてならなかった、ということであったらしい。 霊界通信の未来像への展望 (2018.11.08) 私が、アメリカ留学で日本を離れたのは1957年であった。太平洋を船で渡ったがアメリカへ着くのに2週間かかった。当時は、東京から横浜へ電話するのにも、市外通話で電話局に申し込まねばならず、交換手に繋いでもらうのに1~2時間待たされるのが普通であった。ましてアメリカから日本へ電話するなどということは考えられないことであった。ただ、日本籍の船に乗っている間は、船は日本の領土の延長ということで、太平洋上からも日本へ電報を打つことはできた。通常の国内電報料金の2倍くらいであったと思う。青森―函館間の青函連絡船から電報を打つのと同じ料金である。私は、アメリカのオレゴン州に着いてからも、たまにポートランドの港に日本船が入港していたりすると、日本への電報を頼んだことがあった。船が港を出たあと、公海上から船舶無線で電報を届けてもらうのである。 それから16年後、1973年に文部省在外研究員としてアメリカへ行った頃には、日本でも多くの家に電話がつくようになり、市外電話も市外局番をまわせばすぐに繋がるようになっていた。料金は高かったが、アメリカから日本へも自由に電話することが出来た。因みに、携帯電話が日本で一番最初に登場したのは、1970年(昭和45年)、「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博の会場で展示実演された電話線不要のワイヤレスフォンであったが、これはもちろん、すぐ一般に普及したわけではない。1985年にNTTが、初のポータブル電話機「ショルダーホン」を発売したが、これも自動車電話などとして一部で使われるようになっただけである。さらに時が流れて、1992年の春、ロンドンに一年滞在して帰国の途中、シンガポールのホテルのロビーで、若者が手のひらに収まるような小さな電話機で、話しているのを見た。私が携帯電話を見たのは、これが最初である。日本でも、その前年の1991年4月から、超小型携帯電話「ムーバ」が発売されていたようである。 2010年4月1日には、NTTドコモから「ドコモ スマートフォン」が発売され、2013年には、同じくNTTドコモが iPhoneを発売して、ドコモ、ソフトバンク、au の大手キャリア3社が横並びになった。そしていまでは、小、中、高校生なども含めて、大多数の人々が、スマホを持ち歩き、屋内でも、乗り物の中でも、或いは歩きながらでも、所かまわずスマホでおしゃべりするようになっている。先日は、駅の待合室で、イラン人と思われる人が、スマホの画面を見ながら、故郷の家族なのであろうか、延々とおしゃべりしているのを見た。いまは、このように、目の前に相手の顔を見ながら国際通話をすることも簡単にできるようになっているのである。私がアメリカから船舶無線でやっと日本へ通信を送っていた頃に較べると、この60年ほどで、通信手段は驚異的な発展を遂げてきたといえる。 人類の文明は、蒸気機関による第一次産業革命、石油・電気による第二次産業革命、そして、コンピューターによる第三次産業革命に次いで、現在では、人工知能、ロボットによる第四次産業革命を迎えつつある。自動車の自動運転がいま現実になってきているように、文明はさらに加速度的に進化しようとしているのである。確かに、世の中はいま大きく変わろうとしている。当たり前のように使ってきた紙幣が姿を消し、労働者も大幅に減少して、資本主義そのものも大きな変革を迫られるようになるのも決して遠い将来のことではない。このようにして、モノへの関心はますます高まり、その反面、心はなおざりにされていく。しかし、一方では、急速に進歩を遂げる文明の最先端が、次の60年には、さらに飛躍的に発達して、霊界そのものへの接点にさえ近づいていくことも考えられないことはない。話が少し飛躍するようだが、ヘミシンクで霊界探訪を繰り返してきた坂本政道氏は、『死が怖くなくなるたったひとつの方法』(徳間書店、2012年)のなかで、こう述べている。 《これから「あの世」と「この世」の境界が、ベールが薄れます。今はまだはっきりと分かれていますが、段々とその間が、今まで分厚いカーテンがかかっていたのが薄くなり、向こう側が見やすくなります。すると、どうなるか? 亡くなった人と交信できたり、彼らが見えたり、話が普通にできたりするようになります。それはおそらく向こう数十年くらいのことになるでしょう。》 (p.156) これは、坂本氏の2012年ごろの発言であるが、あと数十年もすれば、霊界の家族たちとも、テレビ電話で話すように、相手を見ながら話せるようになるのだという。全く次元も波長も違う二つの世界を結びつける技術が果たした可能なのかどうか、俄かには信じがたい気もする。しかし、坂本氏は現に、ヘミシンクで霊界探訪を繰り返しているのである。それを多くの本にも書いてきた。その彼から見れば、霊界との直接対話も、決して絵空事ではないのであろう。彼は、この本の中で、こうも言っている。 《私はパソコンにスカイプをつけていますが、イギリスにいる息子と時々話していると、まったく距離感を感じません。動画つきの電話ってすごいです。しかもスカイプ同士は無料通話です。ちなみに息子は三人いますが、東京とか神奈川県にいる息子とは、ほとんど会いません。スカイプもしないので距離感がありますが、イギリスとはずいぶん近い感じがしています。物理的な距離ではないのですね。そのうち「あの世」と「この世」をつなぐスカイプみたいなものができる時代がくるでしょう。》 (同書、p.158) * (この『死が怖くなくなるたったひとつの方法』については、主要部分を要約し、 「参考資料」[18] として11月12日に載せる予定です。) 人の誕生の奇跡についての仏陀の教え (2018.11.26) 「雑阿含経」というお経のなかに、「盲亀浮木の譬え」というのがある。 お釈迦さまがあるとき、弟子の阿難に、「そなたは人間に生まれたことを、どのように思っているか」と訊かれた。 「大変、喜んでおります」と阿難が答えると、「では、どれくらい喜んでいるか」とお釈迦さまは重ねて訊かれた。 阿難は返答に窮して黙ってしまった。すると、お釈迦さまは、つぎのような一つのたとえ話を持ち出されたのである。 「はてしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その亀は、百年に一度、海面に顔を出す。広い海には一本の丸太ん棒が浮いている。その木の真ん中に小さな穴がある。丸太ん棒は、風のまにまに、波のまにまに、西へ東へ、南へ北へと、漂っている。阿難よ、百年に一度浮かび上がるその目の見えない亀が、浮かび上がったひょうしに、丸太ん棒の穴に、ひょいっと頭を入れることがあると思うか」 阿難は驚いて、「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」と答えた。お釈迦さまが、「絶対にない、といい切れるか」と念を押されると、「何千年、何億年、何兆年の間には、ひょっとしたら頭を入れることがあるかもしれません。しかし、ないといってもいいくらい難しいことです」と、阿難が答えた。 すると、お釈迦さまは、こう言われた。「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、その亀が丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ。」お釈迦さまは、人間としてこの世に生まれてくることは、きわめて稀なことである。有り難いことである。「有り難い」とは、存在することが難しい、めずらしく貴重なことである、と説かれたのである。 これは、2,600年前にお釈迦さまが述べられた私たちの人間誕生の奇跡である。人が生まれるというのは、このように、目の見えない海底の亀が、百年に一度、海面に顔を出して、海面に浮かんでいる一本の丸太ん棒の小さな穴にひょいっと頭を入れることがある、その確率よりもなお低いのだと、教えられたのだが、その当時、阿難でなくとも、このような譬えが、納得できた人がどれだけいたであろうか。現在でも、このような話は、壮大な誇張でにわかには信じられないと受け止められるに違いない。 しかし、お釈迦さまの時代から2,600年を経たいまでは、人間の科学も驚異的な発達を遂げて、この人間の誕生の奇跡は、極めて科学的で正確な映像で確認することもできる。このHPの「随想(17)」でも触れてきたように、まず、人間はシーラカンスという魚から進化してきた。この魚のヒレが長い年月を経て、サルやヒトの祖先の手足になっていった。いまでは生まれる前の胎児の映像で、魚であった時のエラの名残を確認することも出来る。時が流れて、ヒトの祖先はオランウータンから分かれ、ゴリラとも分かれて、500万年くらい前には、チンパンジーとも分かれる。 チンパンジーが住んでいたアフリカで大規模な地殻変動が起こったあと、森を無くしたチンパンジーは、仕方なく食料を求めて歩き始め、これがやがて二足歩行の猿人になった。DNAの鑑定によると、その後もヒトの祖先は、ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人といった系統とも分かれて、およそ20万年前にアフリカから地球上に広がっていった。そして、住み始めた環境によって、現在の白人、黒人、黄色人種などになっていったのである。 この魚から始まって、ヒトになっていった数億年分の過程は、人間の胎児が、母親の胎内の羊水のなかにいる10か月の間に、忠実にたどられていく。魚であった名残のエラは、受精後 4週間目に現れ、やがて、下あご、のど、耳の一部になった。ヒレの部分も手と足に発達していく。尻尾も 4週間目に現れるが、これは 6週間目から消えていく。一言でいえば、10か月の中に、数億年分の発達過程が凝縮されて詰め込まれていることになる。 生命の準備期間としての数十億年、それに魚になってからの数億年、チンパンジーと分かれてからの数百万年、これらのうちの一年が欠けても、私たちは人間として生まれることは出来なかった。また、アフリカから地球上に広がっていった原人の時からでも、20 万年間の長い命の連鎖が、一度でもどこかで切れていたら、私たちはこの世に存在することは出来なかった。 一方、個々の人間の生命誕生の奇跡的なドラマも、NHKスペシャル「生命」や「人体」などの映像などで科学的に明らかにされてきた。数億のうちのたった一つの精子が勝者として一つの卵子に無事に辿り着くまでの確率は、おそらく何十億、何百億分の一にもならない。しかもその生存競争に勝ち残る奇跡を、私たち一人ひとりは、先祖代々、一度も欠けることなく、引き継いで現在に至っている。ある遺伝子工学者によれば、地球上の生き物全部の中で、私たちがこうして人間に生まれる確率は、1億円の宝くじに100万回連続して当選するより難しいという。また、ある数学者の計算では、その確率は”114京9286兆4919億5633万3945年に1度”になったともいう。それは、お釈迦さまが2,600年前に言われた「盲亀浮木の譬え」が、決して誇張でもなく、厳然たる事実であることが、現代の科学者たちによっても裏打ちされていることになる。 宇宙への遥かな想い (2018.12.17) 最近のテレビと新聞で、宇宙に関する二つのニュースが記憶に残っている。一つは、遺灰を納めたカプセルを人工衛星に載せてロケットで打ち上げる宇宙葬が12月4日午前3時過ぎ(日本時間)、に行われたことである。(NHKニュース) この「宇宙葬」はアメリカのベンチャー企業「エリジウムスペース」によって、初めて実施された。希望者の要請を受けて、亡くなった人の遺灰を大きさ1センチほどの四角いカプセルに納め、カリフォルニア州の空軍基地から超小型衛星に乗せて打ち上げられたという。今回は日本人30人を含む150人の遺灰で、その中には、12年前に当時37歳で亡くなった東京 港区都港区の神原尚子さんの遺灰もあった。 神原尚子さんは遺書で「宇宙葬にしてほしい」と書き遺していたという。打ち上げをテレビで見届けた神原尚子さんの父親は、「娘との約束を12年越しに果たすことができて胸がいっぱいです。優しく思いやりのある娘だったので、宇宙からわれわれ家族のことを見守ってくれていると思います」とテレビで語っていた。ちなみに、遺灰を納めるカプセル1つの代金はおよそ30万円であったらしい。 もう一つは、米航空宇宙局(NASA)の探査機「オシリス・レックス」が、12月3日、小惑星ベンヌから約19キロの地点に到達したというニュースである。(「朝日」2018.12.4) 惑星から試料を採取して地球に持ち帰ってきた日本の「はやぶさ」の米国版で、この探査機は2016年9月にフロリダ州から打ち上げられ、2年以上かけて約20億キロを飛行したあと、現在、地球から約1億2200万キロ離れた小惑星ベンヌにたどり着いたのであった。今後1年かけて地表を観察し、試料を採取して地球へ戻るのは、2023年を見込んでいるという。 片道だけでも、2年以上かけて約20億キロを飛行したというと、確かに、想像もつかないような遠距離に思える。そして、2018年における人類は、このような試料を採取する探査機を飛ばす技術を持つようにもなった。人類は、すでに、火星にさえ、1973年に当時のソビエト連邦が打ち上げたマルス3号が着陸し、1976年にはアメリカが打ち上げたバイキング1号も着陸に成功して、火星表面の映像を地球に電送してきた。1997年には、アメリカ航空宇宙局(NASA)と欧州宇宙機関(ESA)によって土星探査機カッシーニ (Cassini-Huygens) が打ち上げられ、土星軌道に到着している。しかし、これらはすべて、宇宙のなかではちっぽけな太陽系のなかの星々である。 1977年に打ち上げられたボイジャー2号は、木星や土星などを観測してきて、41年を経た現在では、地球から約180億キロ彼方を飛行しているという。太陽系の端にある、無数の小さな天体が集まる「オールトの雲」を目指しているが、この「オールトの雲」の内側に到達するだけでも、あと 300年かかるらしい。(「朝日」2018.12.12)地球にデータを送信している原子力電池も、2025~30年頃には尽きると予想されているから、人類の3次元の範囲での技術では、この太陽系の端にまで到達するのが限度のようにも思える。 しかも、広大無辺の宇宙から見れば、太陽系の星々も、銀河系にひろがる約2000億個のごく小さな一部であるにすぎず、その銀河系もまた、宇宙のなかの1000億個を超える銀河系の小さな一部であるにすぎない。小泉弘之『宇宙はどこまで行けるか』(中公新書、2018)によると、この小さな太陽系から脱出して、太陽系から約4.3光年しか離れておらず、太陽に最も近い恒星アルファ・ケンタウリに行くのにも、現在の技術では、最短でも1400年かかるという。 恒星アルファ・ケンタウリまでの「4.3光年」とは、いうまでもなく、秒速30万キロメートルの光の速さで測っても、4.3年かかる距離である。この秒速30万キロを時速に直せば約10億8000万キロになる。これに1日24時間の24倍をかけてさらに365倍すれば、およそ9兆4600億キロメートルになり、これが1光年である。太陽に最も近く、宇宙の尺度では「至近距離」にあるアルファ・ケンタウリでさえ、この4.3倍の約41兆キロメートルあることになるが、そこまで行くのにも1400年かかるのであれば、もうとても人間の寿命の範囲内では対応できない。 さらに驚くべきことには、宇宙全体は、いまもなお光の速さを超える猛スピードで膨張を続けているともいう。「観測可能な宇宙」は地球を中心とした半径約470億光年の範囲と推定されている、と聞いたりすると、それはもう人智をはるかに超えた神の領域としかいいようがなく、人類の技術革新がここまで進んでも、宇宙への歩みは宇宙の尺度ではほとんどアリの一歩にも及ばない。それでも私たちが宇宙への想いを断ち切れないでいるのは、この宇宙が私たちの魂のふるさとだからであろう。 地球に生まれた私たちももともと星の子である。私たちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えると、魂とともにいずれは宇宙に還っていく。夜空に煌めく無数の星々を眺めていると、しみじみと懐かしさのようなものが込み上げてくるのは、私たちが魂の奥底に、宇宙の思い出を留めているからであろうか。地球の人類が度々宇宙への探査機を飛ばしたり宇宙葬を行なったりするのも、この魂のふるさとへの抑えがたい憧れのなせるわざである、といえるのかもしれない。 2018年の大晦日を迎えて (2018.12.31) 今年も今日が最後になりました。北海道から九州に至るまで、各地で台風、水害、地震等の災害の多い年でしたが、一部ではまだその爪痕が癒えぬままに明日からは2019年が始まろうとしています。やはり、大晦日となりますと、これは歳のせいでしょうか、過ぎ去っていった日々のあれこれが、しみじみと思い出されたりもします。 今年の3月末で終了するつもりでいたこのHPを、多くの方々のお励ましやご要望を受けて、終了を一年延期することにしたのは、私にとっては、いささかの決断が要ることでした。途中で、何の予告もご挨拶も申し上げることもなく、突然に倒れたりしてこのHPを中断するような無様なことは避けたいという思いがありましたが、ともかく、今年の最後までは漕ぎつけることが出来ました。米寿も過ぎようとしていて、私自身は長生きを必ずしもいいこととは思っていませんが、これは神様にお任せするほかはありません。 このHPでは、毎月交互に書いてきた「随想」と「身辺雑記」がそれぞれ120回で完了し、「霊界通信集」(B)も80回で終わりました。「折々の言葉」ももうすぐ100回になってインデックスの欄がいっぱいになろうとしています。「叡智の言葉」が(A)と(B)で各100回、「今日の言葉」でも154回まで書いていますから、この「言葉」シリーズも、すこしマンネリ化しているかもしれません。このあとは、新しく項目をたてることはしないで、来年3月までは、引き続き、週1~2回の更新を続けていきたいと思っています。 ともあれ、私はこれほど長生きすることになろうとは思っていませんでした。1983年の事件に巻き込まれた後では、妻と子を失った悲しみと苦しみに耐えきれない思いで、生きていくことにも絶望していました。本当に、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になって無明の闇のなかで何年か過ごしましたが、いまでは、そのような無知の日々も愛おしく思えることがあります。おそらく私は、この世では、そのような悲しみと苦しみを体験するために生まれてきて、前世までは果たし得なかった「霊的真理」に辿り着くことが今生の目的であったのでしょう。そして、多くの方々にその私の歩みを伝える使命のようなものが与えられていたのかもしれません。 世の中は目まぐるしく動いて、これからは人工知能などの普及で生活もますます便利になっていくと思われます。そう遠くない将来、私はその世の中の変容ぶりを、霊界からかいま見ることになるでしょうが、その時の私が、あまり不安や失望することなく、安心して期待と希望を繋いでいけるような人類と世界の発展を祈りたい気持ちです。いうまでもなく、便利になれば人間が幸せになるわけではありません。むしろ、便利になることによりさらにモノとカネへの志向が高まって、精神的なものを失っていくことになりはしないかと案じられます。 先日、「朝日新聞」の「声」欄(2018.12.25)に、つぎのような投書が載りました。「人間は成長どころか退化してしまったのかもしれない」と主婦の方が書かれていることに考えさせられています。大企業が軒並みに収益を上げ、高額のボーナスが支給されていると伝えられているなかで、なお多くの人々が、心の安らぎを持てずに幸せも感じられていないといわれるの何故でしょうか。たまには大晦日のNHK「紅白」や民放のドタバタ喜劇などの喧騒から離れて、心静かな心境でこのような投書に耳を傾けてみるのも、私たちには必要ではないかと思ったりもしています。 「愛のない国の大人の責任とは」 主婦 伊達 智子(愛知県 59) 前沖縄県知事、翁長雄志氏の言葉通り、この国には「愛がない」。戦後復興の名のもとに推し進められた高度成長は、経済と産業の発展を最優先し、肝心なものを置き去りにしてしまった。失われたものは計り知れない。人間は成長どころか退化してしまったのかもしれない。 原発事故の後始末もままならず、自殺者は後をたたず、権力を握る者とそれにすり寄る者たちだけが肥え太り、弱者は切り捨てる。絵に描いたような失政ではないか。今も仮設住宅で暮らす人がいるのに、オリンピックや万博どころではない。戦後の復興は人々の幸福にほど遠く、いまだ道迷いのただ中である。 ハロウィーンや年越しのカウントダウンに集まるパワーが、なぜ辺野古に向かわない。取り返しのつかないことが強引に進められているのに。私たちはこんなにも愛されていなのに。胸がつぶれる思いである。 「寄り添う」と言いながら、踏みにじる。聞くふりをするだけで、聞きながす。何をしでかしても謝らない。そんな国であってはならない。愛のない国が行き着く未来がどんなものか深く考えなくてはいけない。大人の責任である。 地球滅亡の警鐘を鳴らす「終末時計」 (2019.02.04) 米科学誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ(Bulletin of the Atomic Scientists)は、1月24日、地球滅亡までの時間を示す今年の「終末時計」を「残り2分」と公表した。(「朝日」2019.01.25) 同誌は、現在、「人類は同時に2つの実存的脅威に直面しており、いずれも重大な懸念を引き起こし喫緊の注意を要するものだ」と述べ、核兵器と気候変動の二つを挙げている。そしてこれらの二つは、「世界各地で民主主義を損なうため行われる情報戦の拡大により、この1年で増幅し、これらやその他の脅威からのリスクを増大させ、文明の将来を極めて危険な状態に陥れている」と警鐘を鳴らした。 終末時計は、地球滅亡の時を深夜0時に見立てて、核戦争の危険が高まると時計の針を進め、遠のくと戻すことになっている。それに近年は、自然破壊による気候変動の脅威も認識されるようになった。かつて米ソが水爆実験を本格化させた1953年には残り2分になったが、冷戦の終結を受けた1991年には、17分前まで戻したことがあった。それが、核開発を進める北朝鮮と米国の挑発で、昨年は再び残り2分に逆戻りする。その後、米国トランプ政権のイラン核合意破棄や中距離核戦力全廃条約の離脱があったりして、今年も「残り2分」が続くことになったのである。世界に約7万発あった核兵器は、1986年からは減少していたのだが、ストックホルム国際平和研究所によると、まだ14,500発が存在しているらしい。(「朝日」2019.01.31) そして、そのような核兵器の脅威に加えて、世界各国は深刻な気候変動の脅威にも有効な手を打てないでいる。 核兵器については、オーストリアやメキシコなど太平洋の非核保有国やNGOを中心に、核兵器の保有や使用を禁止する動きが高まっていた。その結果、2016年に「核兵器禁止条約」が国連で採択されたのだが、それには核保有国は参加せず、被爆国の日本も、米国の「核の傘」に依存する姿勢から脱却できずに条約に反対した。そのような日本を、米国は、最も強力なミサイル防衛のパートナーと位置付けているようである。日本はすでに、迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」 2基を、米国から約2,500億円で購入し、「航空母艦」の建造なども意図するようになった。「厳しい安全保障環境の中、将来に向けて我が国防衛に万全を期すため、現実に真正面から向き合った防衛体制を構築することとし、防衛力を大幅に強化する」 と政府は言明して、本年度は、過去最高で史上最大の防衛費5兆2574億円を計上した。臆面もなく自国の第一主義を公言するトランプ政権の軍拡競争に日本も加担させられているように見える。 人類の歴史を振り返ってみると、20世紀は史上最大の「戦争の世紀」で、巨大な暴力と流血の世紀であった。第二次世界大戦だけでも軍人・民間人の被害者総数は5,000万〜8,000万人といわれ、日本でも主要都市は焼け野原と化して、民間人を含めて260万~310万人も亡くなっている。広島の原爆では1発で約14万人の犠牲者を出し、長崎に落とされた原爆では約7万4千人が瞬時に命を奪われた。私たちは、かつてこの悲惨を経験したからこそ、焼け野原の中で歴史から学ぼうとして、戦争のない平和な世界を希求して立ち上がってきたのではなかったか。それが今はまた、地球滅亡「2分前」に直面しているのである。私たちはこの事態をどう捉えていけばいいのであろうか。何よりも先ず、個人レベルでも、社会・国家レベルでも、物質的欲望の肥大と周囲を顧みないエゴは抑えられなければならない。飽くなき欲望とエゴの跳梁跋扈がおそらく社会不安を醸し出す最大の元凶だからである。そのうえで、隣人愛に目覚めて、優しさと思いやりのある人々を世界中に増やしていく。スピリチュアリズムの世界でも言い古されてきたことだが、その意識改革だけが、この21世紀を「平和の世紀」にし、「終末時計」の針を少しずつでも戻していくことに繋がっていくと思われるのである。 スピリチュアリズムへの道で出会った人々 (2019.03.18) 1983年9月1日の大韓航空機事件で妻と子を亡くした私は、当時のノース・カロライナ州立大学での教職を中断して帰国した。それから暫くは、札幌の自宅でほとんど寝たきりの状態が続いた。しかし、あまりにも理不尽な事件であっただけに、事件の真相究明を訴えて立ち上がらざるをえなかった。悲嘆の底に沈みながらも、外へ出て社会活動に携わることは身を切られるように辛かったが、避けて通ることはできなかった。私は東京で発足した「事件の真相を究明する会」のメンバーになり、参議院の副議長であった瀬谷英行氏、参議院議員の田英夫氏らとともに代表幹事の一人になった。研究会のすべてに参加し、毎年「9月1日」の議員会館での定例記者会見では、明らかになってきた事実を訴えて「声明」を発表してきた。 事件は調べていけばいくほど、ソ連軍を挑発しようとしたアメリカ軍部の謀略の色彩が強くなっていた。事件についてのアメリカ政府の釈明にも、いくつもの虚偽が明らかになった。個人的にも、私は、大統領レーガンや国防長官ワインバーガーなどに対して、抗議の電報を打ち、激しい罵りの言葉を連ねた糾弾の手紙を送り続けた。B4判の「APPEAL」(訴え)を毎週発行しながら、『疑惑の航跡』(潮出版社、1985年)を出版し、「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」(岩波書店「世界」1985年10月号)などを書いた。「究明する会」の小冊子発行や、510頁に及ぶ『大韓航空機事件の研究』(三一書房、1988年)の出版にも参画した。いま思い出しても、「蟷螂の斧」を振り回すだけのような、絶望的で、生きていく希望も意欲も持てない苦しい数年間であった。 一方、私は、苦しみのあまり必死に何かに縋りつこうとしていた。事件で亡くなった妻と子の行方を求めて、仏典を学び聖書を読んだ。多数の霊能力者がいるといわれる東京のS教団などで、数多くの霊能者と会ったりした。しかし、何一つ、こころから納得できるような霊界からの情報を掴みとることはできなかった。それまでは近寄ろうともしなかった霊界に関する書物もいろいろと読むようになっていたが、半信半疑の状態が続いた。そして、やがて姪の一人に教えられて手に入れたのが、近藤千雄訳『シルバー・バーチの霊訓』(潮文社刊)である。1990年の秋頃のことであった。その本は1988年版であったが、1985年にすでに第1刷が発行されていたことに私はまだ気がついていなかった。1991年の春、ロンドン大学客員教授として1年間をロンドンで過ごすことになったとき、私は、真相究明運動からも離れて、この『シルバー・バーチの霊訓』を持って渡英した。 ロンドン大学に通いながら、生活に落ち着きを取り戻してきた頃、私は、『シルバー・バーチの霊訓』を何度も読み返して、これが容易ならざる重大な本であることを十分に認識するようになった。訳者の近藤千雄さんとも文通を始め、大英心霊協会の売店で、『シルバー・バーチの教え』の原典を何冊も購入して、自分でもその一部を翻訳したりした。1992年に入ってからは、大英心霊協会で アン・クーパー、ディビッド・スミス、マーガレット・ライス等10数名のミディアムと頻繁に接触するようになり、これは後でわかったことだが霊界からの配慮により運命的なアン・ターナーとの出会いもあった。彼らの霊能力は格段に高かった。数々の霊界通信によって、私は初めて妻と子の生きている事実を心の底から確信し、長年の悲しみと苦しみからも解放された。1992年の春、生き返ったように元気を取り戻した私は、日本に帰った。それからも、近藤さんとの文通を続け『霊訓』を学びながら、毎年のように渡英して大英心霊協会を訪れ、アン・ターナーにも会って、妻と子との対話を重ねていくようになった。 1992年の夏、自宅の郵便受けに、「シルバー・バーチ研究会」を立ち上げたという1枚のチラシが入っていた。近所に住む松本秀夫さんからのもので、私はすぐに会いに行った。松本さんは、まだ40歳代の若い建築コンサルタントであった。東大の建築科に在学中から精神世界に興味を持ち、自分でも修行を積んで、座禅をしながら空中に浮き上がった体験などもあるという。「シルバー・バーチ研究会」の呼びかけには、私のほかは誰も来なかった。「研究会」は流れたが、私は松本さんに誘われて、国分寺の浅野信さんの「聖書研究会」に出席するようになった。浅野さんは、日本では有数の、優れた霊能者である。私はやがて浅野さんを通じても、いろいろと霊界の妻や子からの通信を受け取るようになった。 浅野さんの自宅の 6畳間で開かれていた研究会には、松本さんと共に毎月欠かさずに通っていたが、1995年の秋であったか、ある日、研究会のメンバーの一人から、飯田史彦さんが「生まれ変わり」について書いたという論文の抜き刷りを見せられた。飯田さんは、当時、福島大学助教授であったが、国立大学の紀要にこの種の論文を載せるというのは、極めて珍しいことであった。少なくとも私のいた大学では殆どあり得ないことであった。その論文を読んだのを機会に、私は飯田さんとも文通を始めるようになった。この論文は、後に大幅に加筆されて『生きがいの創造』というタイトルでPHP出版社から出版され、ベストセラーになった。その後も矢継ぎ早に、飯田さんは「生きがいシリーズ」を出版している。 飯田史彦さんは、1962年生まれだから、私より 32歳も若い。彼によれば、私は彼の「ソール・メイト」なのだそうである。彼は臨死体験などもしていて、霊感が発達していると思われるが、私には、彼との霊的なつながりを感じる能力はない。ただ私自身、長年、国立大学に勤めていたということで彼に対する親近感があり、私の論文や著書なども進呈してきた。彼からも、講演ビデオをはじめ、「生きがいシリーズ」の本を出版の度に送ってくれていた。2009年に福島大学の教授を辞職してからは、スピリチュアル・ケア研究所「光の学校」の校長を務めるほか、「メンタルヘルス・マネジメント研究所」の所長として、企業や病院など様々な組織のコンサルティングや、医療機関でのカウンセリングなど、社会的な実践活動で、いまも多くの業績をあげつつある。 近藤千雄さんの方は、1935年生まれで、私よりも5歳若い。しかし、スピリチュアリズムの世界では、『シルバー・バーチの霊訓』12巻の翻訳をはじめ、数多くの業績を残した先駆者であり、畏敬すべき先輩である。新潮選書で『コナンドイルの心霊学』(新潮社、1992年)が出版された時には、「新潮社でもこのような本を出版してくれるようになりました」とたいへん喜んで、サイン入りの献呈本を送ってくれたりした。地方に住んで翻訳を続けながら、塾の講師などをしていたが、東京の大学への就職の相談を受けたこともある。しかし、スピリチュアリズム関係の多大な業績があっても、それを認めてくれるような大学は皆無で、就職先を探すのは容易ではなかった。結局、東京への転居は叶わず、アメリカの娘さんの所で余生を過ごすことになったが、2012年の12月、77歳で霊界へ旅立った。 私は、この近藤千雄さんと飯田史彦さんの二人をスピリチュアリズムで出会った仲間のように思ってきた。近藤さんは、スピリチュアリズム関係の翻訳、出版で大きな足跡を残したが、飯田さんも、それに劣らず、「生きがいシリーズ」を含む数多くの著書出版のほか、スピリチュアル・ケアの分野でも大きく活動の輪を広げている。三人の中では、年齢では一番上の私が、スピリチュアリズムの道では一番の後輩で、社会的に活躍することも少なく、世に遺るような業績というほどのものもない。それでも、数々の前世でスピリチュアリズムに背を向けて生きてきたといわれる私が、ささやかながらも、こうして霊的真理を訴え続けるようになったことは、私にとっては大きな進歩なのであろう。シルバー・バーチは、「人のために自分を役立てることが宗教である」と言った。頑迷で、霊的な目覚めが遅かった私は、自分なりの「宗教」を微力を尽くして実践していくことが、今生の私に与えられた天からの使命であると思うようになっている。 すべての人間の死因は生まれたことである (2019.04.04) 池田晶子氏は、慶応義塾大学哲学科卒業の、哲学者、文筆家である。1960年に生まれて、2007年に46歳の若さで死去した。『魂を考える』、『死とは何か』、『14歳の君へ ―どう考え、どう生きるか』、『幸福に死ぬための哲学』など、生と死の問題をわかりやすい言葉で取り上げようとした著作が多い。「生も死も実体としてはどこにも存在していないわけです。生き死には言語的な名づけ、つまり言葉に過ぎない。実体ではない」、「来るかこないかのどちらかではなくて、早いか遅いかに過ぎない私達の『死』というものの絶対性の前には、年収いくらの男性と何歳で結婚、何歳で出産、ゆとりの老後など、考えたくても考えられっこないではないか、当たり前ではないか!」、「よりよい生活が人生の目的だとは思いません。何のために生きるのかを考えることこそが大事なことです」など多くの含蓄のある言葉を遺している。 生きるとは、死ぬとはどういうことなのかを考え続けてきた彼女は、2007年の2月、病床で、「週刊新潮」のコラム「人間自身」に、「墓碑銘」と題する原稿を書いた。これが遺稿になった。この週刊誌が出た時(2007年3月15日号)には、彼女はこの世にいなかった。この「墓碑銘」には、つぎのような話が紹介されている。 《ローマでは、墓石にその人の来歴(いくつで結婚、何児を成し、かれこれの仕事に従事して、こんなふうな人物だった、というもの)など、書き物を遺す習慣がある。 それを見て人物を想像しながら、墓地を散策するのも、一つの楽しみであるらしい。なにしろ、人生つまり、その人間の最終形が、そこに刻印されている。人は、記された言葉から人物を想像したり、感心したりしながら読んでくる。と、そこにいきなり、こんな墓碑銘に出くわす。「次はお前だ」。 楽しいお墓ウォッチング、ギョッとして人は醒めてしまうはずだ。他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は、嫌でも思い出すのだ。「次はお前だ」というこの一言の持つ圧倒的な力にはかなわない。さぞや仰天だろう。 統計では、日本での1日の死者は約3000人だが、人はその中に自分を入れて考えようとしない。目先の欲を満足させる事を最優先し、やがてくる死はいつも考えの外なのだ。 入れ替わり、立ち替わり、生まれては、死んでいる。繰返している。その繰り返しの中に、この私もいる。来年は私がいないのかもしれない。何が存在していたのだろうか。永遠的循環の中の一回的人生。いま生きているということ事態が奇跡的なことである。》 池田晶子氏は哲学者として生と死の問題を真剣に考え、それを出来るだけ平易な言葉で語ろうとしてきた。しかし、哲学では、死後の問題にまで踏み込むことはできない。哲学の対象はすべて言葉で説明できるが、死後の霊的真理は言葉を超えたところに核心があるからである。彼女も、霊的真理の一歩手前まで辿り着きながら、その先にあるものにまでは洞察が及ばず、苦悩していたのかもしれない。 ここに、もう一人の哲学者の書いた『明るく死ぬための哲学』(文芸春秋、2017年)という本がある。著者の中島義道氏は1946年生まれで、東大卒業後ウイーン大学へ留学して哲学博士号をとった人である。彼はこの本の中で、「私は 6,7歳の頃から死ぬことに身体が震えるほどに怯え、これ以上に大きな問題はこの人生においてないと思ってきた。自分がやがて死ぬのであったら、人生何をしても虚しいし、幸福になることなど絶対にあり得ないと確信してきた」(p.12)と書いている。その彼は、哲学によってこの死の恐怖をどのように乗り越えたのであろうか。彼は、こう述べている。 《哲学に思う存分浸ることが許されると、私にはこれまで教え込まれたことすべてが嘘かもしれないと思われるようになった。世界も時間もないのかもしれない、いや私もいないのかもしれない・・・・・。いや、当時、私は無理やりそういう方向に自分の思考をもって行ったのであろう。なぜなら、そうすれば「死」もまた幻想になるのだから。私が「無になる」ことはない、なぜなら、もともと私は無なのだから。未来のある日、私は死ぬことはない、なぜなら、未来はないのだから。》(pp.16-17) こういう調子で、この著者の「哲学」は続くのだが、最後まで読んでも少なくとも私には、これで「明るく死ねる」ようになるとは思えなかった。池田晶子氏の場合もそうであるように、哲学だけで「死とは何か」を語るのは、言葉のもつ制約から抜け出ることのできない限界があるのではないか。おそらく、その限界を意識しながら、それでも何とか言葉でその限界を超えようと真剣に考え続ける。そのようなひたむきな姿に痛々しさのようなものさえ、私には感じられてならない。 池田晶子氏は、腎臓がんで死んだ。「子供は絶対に産まない」という条件で結婚していたので子供はいなかった。45歳の夏、腎臓がんの手術を受けたあと、知人への手紙にはこう書いてあったという。「やはり、生きようとする意志を積極的に肯定することが大切なのだと思う。私は今まで生に対する執着がないから仏になれると思っていたけれども、生きることを全うしないと成仏しないのかもしれない、それに気づいてから前向きに病気と闘おうという気持ちになりました――」。そして、「もっと仕事をするんだ」と最後までボールペンを握りしめ、執筆に取り組もうとしていたらしい。彼女は、次のようなことばも遺している。「がんだから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。すべての人間の死因は、生まれたことである。」(池田晶子『幸福に死ぬための哲学』(講談社、2015) 89歳の誕生日を迎えて (2019.04.22) 私は一昨日、89歳の誕生日を迎えた。まさかここまで長生きするとは思っていなかったから、いささかの感慨を禁じ得ない。もちろん、世の中には、90歳以上も長生きする人が沢山いる。100歳に達する人も、私が生まれた昭和5年(1930年)頃は日本国内で100人ほどしかいなかったのに、今では約7万人に増えているらしい。世間では、長寿は目出度いこととされてきたが、それはおそらく、人生5,60年時代の名残である。しかし、ここまで平均寿命が延びてくると、長寿も手放しでは喜べなくなっているのではないか。長寿にも限度というものがあるだろう。長寿人口の急速な増加が介護や医療、社会保障などの深刻な問題をもたらし、現在の日本でも、さまざまな形で社会生活に重苦しくのしかかるようにもなってきている。そのような中で、89歳の誕生日を迎えて、私は自分にも、いつの間にか人並み以上の長い歳月が過ぎ去っていることを、改めて思い知らされている。 私は5歳の時、川に落ちて溺れ死にそうになったが、奇跡的に助けられた。(文末[参照] 1) 15歳の時、急性肺炎から肋膜炎を起こして入院したが、戦争の末期で医薬品は極度に不足し、高熱を抑える薬も途絶えて打つ手がなかった。私は死を待つばかりであったが、その時も、父の死にもの狂いの努力で「トリアノン」というドイツからの輸入注射液を手に入れて、奇跡的に死を免れている。その病床では、燦然と輝くみ仏の姿に見守られるという神秘体験もした。([参照] 2) それは初めての不思議な体験であったが、決して幻覚ではなかった。そのことを傍にいた父に話したら、父は慌てて私の額に手を当てたのを今でも覚えている。高熱で頭が侵されたと思ったのかもしれない。私は、こういうことで父に心配をかけてはだめだ、と思って言うのをやめた。しかし、何度見直しても、光に包まれた慈悲そのものの温かいみ仏の姿が私をじっと見下ろしていた。それ以来私は、自分はみ仏に守られているという意識を持つようになった。 その私は、敗戦後の飢餓状況をも生き延び、戦争で無一文になった困窮の中で、大学もアルバイトで明け暮れしながら辛うじて卒業して高校教員になった。2年後、当時は夢の国のように思えた豊かなアメリカへの留学生にも選ばれ、大学院を修了して帰国してからは、大学で教えるようになった。40歳で教授に昇進し、昭和48年(1973年)には文部省の在外研究員として、また昭和57年(1982年)にはフルブライト上級研究員として、アメリカのオレゴン大学、アリゾナ大学に客員教授として在籍した。当時の私にとっては栄光の日々であったといってよい。しかし、昭和58年(1983年)、私がノース・カロライナ州立大学の客員教授であった時、夏休みを一緒に過ごして日本へ帰国の途中であった妻と長男が、9月1日の大韓航空機事件で他界したのである。晴天の霹靂であった。み仏に守られていたはずの私が、一転して、奈落の底に突き落とされた。 当時、私は53歳であった。悲歎と絶望の中で、生きる希望も失い、教職を中断して帰国してからも、苦しくて寝たきりのような状態になった。眠ったままで、このまま目が覚めなかったらどんなに楽だろうと思ったりした。失われた妻と子の命は、どんなに足掻いても踠いても返ってはこない。私は自暴自棄になっていた。それでも、ひとつ、どうしてもやらねばならないことがあった。事件の真相究明である。あまりにも理不尽なこの事件の下手人をあげなければ死んでも死にきれない。私は怨念の塊のようになって、巨大なアメリカ政府と軍部を相手にして蟷螂の斧を振り翳し続けるようになった。([参照] 3) 苦しい日々が続いたが止めるわけにはいかなかった。そして8年が過ぎた。 平成3年(1991年)の春、真相究明活動からも離れて、私はロンドン大学の客員教授として渡英した。その頃、シルバー・バーチの教えに初めて接して、生きている自分を取り戻すことに微かな希望を繋ぐようになっていた。ロンドン大学に通いながら、大英心霊協会にも何度も足を運び、心の準備を整えたうえで、平成4年(1992年)に入ってからは集中的に十数人のミディアムからの霊言を聞くようになった。アン・ターナーとの奇跡のような出会いもあった。そして遂に妻と長男との「再会」を果したのである。([参照] 4) あり得ないと思われた彼らの「生存」の厳然とした事実に直面して、私は何度も何度も確認したが、間違いではなかった。私は生き返った。私は神から見離されてはいなかった。み仏から守られていなかったわけでもなかった。家族を巻き込んだあのような事件に私が遭遇したのも、霊界での「高度の計らい」であったことが、今ではわかるようにもなっている。([参照] 5) ロンドンから帰国の途中、インドへ寄り、各地の仏跡巡りをした後、ニュー・デリーにあるガンジーの慰霊碑を訪れた。その敷地の一角にガンジーのことばが刻まれた石碑があって、そこには「自分のまわりの一番貧しい人を見つけてその人を助けよ」とあった。私はすぐに反応した。インドとネパールの貧しい子供たちのための養育費と学費を毎月送金し始めた。私の資産は多くはないが、その後も援助の輪を広げて、モノとカネの大半を社会に還元してきた。「霊的真理」についての無料講演も機会あるごとに引き受け、平成15年(2003年)3月には、ホームページも開設して、私の体験に基づく生と死の真実を伝えようと努めてきた。そしてその年の9月、私は北欧への旅に出た。深夜のバルト海をフェリー・ガブリエラ号で航行していた時、信じられないようなことが起こった。29日の深夜、ちょうど午前零時、船室から見下ろした漆黒の闇の海の上に、赤く光る数多くの「生命体」が鳥の一群のように鮮やかに乱舞するという超常現象を目撃する。これも決して幻覚ではなかった。あとでわかったが、生気を取り戻した私に対する霊界からのエールであったらしい。([参照]6) こうして、歳月はそれからもさらに流れて、一昨日、私は89歳になったのである。今ようやく、私は私なりに、天から与えられた今生の使命を果たし終えようとしているのかもしれない。 平成24年(2012年)の夏、私は大腸がんになって入院し、その時の検査で腹部動脈瘤も見つかった。二つの大きな手術を受けることになったが、私はあまり気持ちを乱されることはなかった。入退院に合わせて、滅多に咲かないベランダのサボテンが不思議に花を開かせた。([参照]7 ) 私はその手術後も十分に生きてきたし、「足るを知る」ことも学んできた。私にはもうこれ以上、体力が衰えても少しでも長生きしたいというような願望はない。そう遠くない将来、私はこの世を去ることになるであろうが、その時機は神様にお任せして、残された日々を読書に親しみ学びを深めながら、霊界への旅立ちに備えていくだけである。私は自分の半生記([参照] 8) を含めて、いままでの波乱に満ちた生涯についても、このホームページにいろいろと書いてきた。頑迷な無知の状態から、厳しい試練を経て霊界の真理へ目覚めていった私の歩みの記録は、或いは私自身にとっても、今では、黄昏の道の足元を導く「ともしび」になっているのではないか、と密かに思ったりもしている。 「参照」 1.(HP.[身辺雑記] No.110):「私が体験してきた不思議なこと」(1)- 1 など 2.(HP.[身辺雑記] No.110):「私が体験してきた不思議なこと」(1)- 3, 4 など 3.拙著『疑惑の航跡』(潮出版社、1985)、 (HP. [大韓航空機事件] Ⅳ):「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」岩波書店 「世界」 1985年10月号など 4.拙著『天国からの手紙』(学研パブリッシング、2011) pp.202-209 5.大英心霊協会ミディアムの霊言、(HP.[霊界からのメッセージ] 東京ルート 12):「多くの人の目覚めのために」など 6. (HP.[身辺雑記] No.111):「私が体験してきた不思議なこと」(2)- 9 など 7. (HP.[寸感・短信] No.38):「三度目の入院の日の朝に開いたサボテンの花」など 8. (HP.[身辺雑記] No.70-71、73-109): 「生かされてきた私のいのち」 霊的真理を受け容れるようになるための条件 (2019.05.12) 私たちは、肉体を伴った霊であって、霊を内蔵した肉体なのではない。だから肉体を脱ぎ捨てた時には、霊そのものの本来の姿に還る。それは、私たちが霊界では、みんな「霊能者」であることを意味する。肉体の束縛から解放された私たちは、霊界の自分の霊格に相応しい階層のなかで、時空を超えて自由に移動出来るようになり、思ったことはすぐに実現させ、さらなる霊性向上を目指して、修行を重ねていくことになる。霊界では、地位、名誉、財産のようなものには何の価値もなく、生存競争や貧困や失業などもない。神の摂理の下にあって、魂の純粋さと愛の深さだけが貴ばれる世界である。 しかし、この地上で生きている間は、私たちは、本来が霊能者であっても、鈍重な肉体の束縛を受けて霊能が閉ざされているのが普通である。それでも、精神統一や瞑想などの修行を積んでいくことによって、その閉ざされた霊能を少しずつでも開放していくことは不可能ではない。古来、洋の東西を問わず、幾多の求道者、宗教者たちが心がけてきたのもそのような本来の霊能に目覚めることであったといってよいであろう。なかには少数ながら、生まれながらにして霊能が開かれている者もいる。その霊能はピンからキリまであって、霊格もさまざまであるが、これも少数ながら、きわめて優れた霊能者も確かにいる。私たちが、貴重な霊界の情報や霊的真理を受け取ることができるのは、そのような優れた霊能者のお陰である。 おそらく、生と死に関わる真実は、哲学、医学、心理学などの科学の力で解き明かされるものではないであろう。この三次元の小さな世界で、言語という限定的な手段でいかに哲学し思索を深めていっても、生と死の真実の前に立ちはだかる巨大な壁を乗り越えることは容易ではない。確かに人類は科学を発達させ、学問も進展して、この世には科学で解明できないものは何もないとまで人々は思いこまされるようになっている。しかし、霊的真理は宇宙の真理である。広大無辺の宇宙のなかではちっぽけな、砂粒一つにもならないような地球の上で、科学万能をふりかざしている人間の姿は滑稽であるかもしれない。「科学」では説明できない霊的事象や死後の世界などはすべて無知・迷妄の類であると切り捨てようとする世の識者、学者、知識人と言われるような人々も、シルバー・バーチに言わせれば、「ほんの小さなシミほどの知識」しかもっていないことになるのであろう。 この「生と死の真実の前に立ちはだかる巨大な壁」を乗り越えていくには、霊能力に依らない場合でも、少なくとも真実を模索する謙虚で純真・柔軟な姿勢が求められる。そして、何よりも大切なことは、霊的な真理を受け容れる魂の用意ができていることのようである。シルバー・バーチは、「忘れてならないのは、真理を理解するには前もって魂に受け入れ態勢ができあがっていなければならないということです。その態勢が整わないかぎり、それは岩石に針を突きさそうとするようなもので、いくら努力しても無駄です」と断言している。(『霊訓 (7)』pp.68-69)。そして、その魂が受け入れるようになる条件こそ、辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇であると、次のように言う。 《悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線にふれた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。》(『霊訓(1)』p.55) 親鸞の信心に思う (2019.06.17) 『歎異抄』第2条には、親鸞が自分の信心を告白しているくだりがある。信心に迷いを抱くようになった信者たちがはるばると関東から京都までやってきたのを前にして、親鸞は、こう言い放った。「私はただ、念仏を唱えれば阿弥陀仏に救われるという師の法然上人の教えをそのまま信じているだけである。もしその法然上人の教えが偽りであって、私が地獄に堕ちたとしても、さらさら悔やむところはない」と。そして、こう続けた。 「阿弥陀仏の本願が真実であるならば、釈尊の教えにも嘘はない。釈尊の教えが真実であるなら、善導大師のお説きになったことにも誤りはない。善導大師のお説きになったことが真実であるなら、どうして法然上人の言われることが虚言でありえようか。そしてまた、法然上人の言われることが真実であれば、この親鸞の言うことも空ごとであるはずがない。この上は、念仏を信じようが、捨てようが、それはあなたがたの勝手である。」 信者たちに対して、信仰とはこういうものだと、親鸞が血を吐くようなことばで述べた感動的な場面であるが、私はこの「法然上人」を 3千年前にこの地上に生きた古代霊「シルバー・バーチ」に置き換えて考えてみることがある。親鸞の言い方を真似るのはおこがましいが、あえて言うなら、こうなる。「シルバー・バーチの言っていることが嘘であるはずがあろうか。私はその教えを信じて、それを多くの人々に伝えようとしているだけである。もちろん、それを信じるか信じないかは、あなた方の自由である。」 シルバー・バーチも、自分の言っていることが理性で判断して受け入れられなければ、信じなくてもよい、と何度も言っている。そのうえで、何の見返りも求めることなく、ただ真実のみを伝えようとして、イギリスのロンドンから、1920年代からおよそ60年もの間、霊媒のモーリス・バーバネルを通して現代のことばで膨大な霊訓を人類のために遺した。 生と死については、人々は、昔も今も無明の闇のなかで悩み苦しみ、ひたすらに死ぬことに怯え続けてきた。かつて空海は、それを、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」と嘆じた。(『秘蔵宝鑰』) しかし今は、その気にさえなれば、私たちは誰でも容易に、シルバー・バーチの「人は死なない」という単純明快で極めて重大な霊的真理に接することができる。それは、現代の奇跡と言っても決して過言ではないであろう。 私は、これまでの16年間、それらの奇跡のことばをこのホームページの「学びの栞」(A)に分類し、「霊訓原文」や「叡知の言葉」、「今日の言葉」などを添えて紹介してきた。「メール交歓」で数多くの質問にも私なりに答えてきた。私個人の転生を含む霊的体験についても、「霊界からのメッセージ」や「講演集」、著書などで伝えようとしてきた。それでも世間にはまだ、シルバー・バーチに気がつかない人も多いし、私のことばを耳にしても、妄言の類いとして聞き流されてしまうこともあるのかもしれない。 2011年に『人は死なない ―ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』を出版して以来、熱心に啓蒙活動を続けている東大名誉教授の矢作直樹さんも、「人間は死ぬと終わり、この人生が唯一の人生」と頑なに信じている人に、あの世の話や転生の話をしたところで、その人との関係が悪化するだけである。わかろうとしない人にわからせる方法はない、と匙を投げている。(『悩まない―あるがままで今を生きる』ダイヤモンド社、2014、p.114-115) やはり、霊的真理を受け容れる魂の準備が整うためには、厳しい試練が必要なのであろう。しかし、それでも真理は真理である。信心に迷う信徒たちを前にした時の親鸞に倣って、私も、「もしもシルバー・バーチの言うことがすべて嘘であって、それを信じたために私が地獄に堕ちたとしても、さらさら悔やむところはない」と言ってみたいような気がしている。 自分に起こっていることはすべて良いことである (2019.07.15) 私たちは本来が霊的存在で、肉体が滅びても死ぬことはない。死んでも生き続ける。この世での生と死を何度も何度も繰り返して喜怒哀楽の様々な体験を積み重ねながら、霊性の向上を目指していく。おそらくこれが、私たちがこの世で理解しておかなければならない最も大切な霊的真理であろう。そして私たちは、この世に生まれる時は、どういう生涯を送るべきかをあらかじめ計画して、親を選び生活環境を選んで生まれてきたということも、知っておく必要がある。シルバー・バーチは、それを次のように言っている。 《地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一ばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。》(『霊訓 (12)』p.205) つまり、私たちは何も知らずに偶然に誕生するのではない。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話である。(『霊訓(1)』 p.38) 退行催眠による治療で著名な米国の精神科医 ブライアン・L・ワイス博士によると、後でまた触れるように、私達は生まれる前の計画段階で、誕生後の自分が経験することになる主要な出来事や、運命の転換点などを前もって実際に見ているという。そして博士は、自分を含めてセラピスト達が集めた、催眠状態ないし瞑想中に生まれる前の記憶を思い出した沢山の患者の臨床記録を基にした結論として、次のように述べている。 《偶然でもなく偶然の一致でもなく、私達は私達の家族の一員として生まれます。私達は母親が妊娠する前に、自分の環境を選び、人生の計画を立てているのです。計画を立てる時には、愛に満ちた霊的存在に助けられます。そして彼らは私達が肉体に宿り、人生計画がひもとかれてゆく間、ずっと私達を導き守ってくれます。運命とは、私達がすでに選択した人生のドラマのもう一つの名前なのです。》 (ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳) PHP研究所、2001年、p.70) そのうえで、ワイス博士は、「私達は生まれる前の計画段階で、これからの人生に起こる主要な出来事や、運命の転換点を実際に見ています。そしてその証拠は、沢山存在しています」と述べた後、「私達が出会う重要な人々、ソウルメイトや魂の友人との再会、こうした出来事が起こる場所に至るまで、すべて計画されているのです」とも付け加えている。(同書、p.71) だから私たちは、この世では、会うべく計画した人々に会い、生まれる前に計画したチャンスや困難に直面していることになる。つまり、この世での人間関係や苦難、悲歎などは、すべて霊性向上のために必要な、自分で選んだ経験である。 したがって、自分で自分のために選んでおきながら、その経験が現実化すると不平不満を抱くのは、見当違いということになるのであろう。困難に直面している他人に対しても、シルバー・バーチが言うように、本当は、「"お気の毒に・・・・" などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもない」わけである。(『霊訓(1)』p.109) 「あなたに解決できないほど大きな問題、背負えないほど重い荷を与えられることはありません。それが与えられたのは、それだけのものに耐え得る力があなたにあるからです」といわれるのも、自分で選んだ体験であることがわかれば、納得がいく。(『霊訓(1)』p.190) 要するに、この世では自分に必要なことが起こっているのであり、だから自分に起こっていることはすべて「良いこと」なのである。小林正観さんは、生前、それをつぎのように書いていた。 《過去を悔やむことに、まったく意味はありません。全部、自分の書いたシナリオどおりに生きてきたわけですから。未来を心配することも、まったく意味がありません。すべてはシナリオどおりに起きるので、どんなに(私)が手を打ったとしても、どうしようもないときは、どうしようもないようになっています。でも、「それもこれもすべてベスト。 シナリオどおりだ」とわかった瞬間に、人生が楽になります。私たちは最高、最良の選択をして今ここにいるのです。》 (小林正観『すべてを味方 すべてが味方』三笠書房、2009、pp.14-15) 「9月1日」に憶う霊的真理へのアプローチ (2019.09.01) かつての米ソの熾烈な軍事対立のなかで大韓航空機事件が起こったのは、1983年9月1日の早朝(日本時間)であった。今年はあの「世界史の転換点」とも言われた事件から36年になる。 アメリカから帰国の途中の妻と長男がこの事件の犠牲になって、私は悲嘆のどん底に叩き落とされたが、私はその後何年もその悲しみと苦しみから抜け出すことが出来なかった。苦し紛れに、仏典や聖書に縋りつこうとしたこともあったが、無明の闇は続いた。やっと霊的真理に目覚め始めて生き返ることが出来たのは、事件後9年も経った1992年2月、ロンドンの大英心霊協会の霊能者たちに導かれてからである。 事件は、私自身の人生の「転換点」ともなったが、事件後の学びによって、私の悲しみや苦しみの意味は大きく変わった。少し時間がかかったが、古来問われてきた生とは何か、死とは何かという、根源的な問題にも考察を深めるようになって、いまでは、私が事件に巻きこまれた意味も私なりに理解できるようになっている。 私にとって、悲しみや苦しみの意味が大きく変わったのは、結局、「人間は肉体を携えた霊であり、霊を宿した肉体ではない」という霊的真理によってである。この真理が理解できると、生と死の意味も理解できるようになる。この世を如何に生きるべきか、という問いにも、自ずから答えを見出せるようになるであろう。逆に、その真理ががわからなければ、かつての私のように、生きている意味も見いだせずに、無明の闇の中で苦しみ続けることになるのかもしれない。 この苦しみや悩みについて改めて考えてみるために、ここで一冊の本を取り上げてみたい。最近読んだ本のなかに、諸富祥彦『悩みぬく意味』(幻冬舎新書、2014)があった。著者の諸富氏は1963年生まれの教育学博士で、日本カウンセリング学会理事を務める臨床心理士である。 室富氏は、14歳から21歳にかけての7年間、「本当の生き方とは何か」「それがわからないと生きていけない」と悩み苦しむ毎日を送っていたという。その彼が、大学3年のある秋の日に、「このままでは限界だ。これから3日間、飲まず食わず寝ずで、本気で答えを求めよう。そして、それでもダメだったら今度こそきっぱり死のう」と決心したのだそうである。しかし、3日後になっても答えは見つからなかった。 心身共に疲労の極限に達していた彼は、「ああ、これですべて終わった。もうどうにでもなれ」と7年間も一人で抱え続け、苦しみ続けてきたその問いを、突然放り出してしまった。ところが、その瞬間、「答え」はやってきて救われたのだという。彼は、その「救われた」状況をこう書いている。 《すべてを投げだした私の全身からは、すでにいっさいの力が抜け落ちている。にもかかわらず、こうして立っていられるのは、決して私ではない。「何かほかの力」「何かほかのはたらき」によって私は立っていられるということだ。この驚くべき真実に、私はこの時、目覚めたのです。》(同書、pp.146-147) この著書の「悩みぬく意味」も、あるいは、こういう彼の体験からつけられたのかもしれないが、福富氏が、その後、心理療法士となって患者に接するようになってからの体験をこう述べているところがある。 《カウンセリングを半年、1年、2年と続けていく中で、クライアントの方自身が――悩んで悩んで悩みぬき、苦しみ苦しみぬいたその後で――そのつらく苦しかった出来事を改めて振り返ってみると、一つ一つの出来事にはやはり意味があり、自分の人生で「必要だから起きたこと」であったとわかることがあるのです。》(同書、p.28) 著者は、ここでも、「悩みぬき、苦しみぬき」を繰り返している。そして、このような人生の様々な出来事がもつ「必然性の感覚」は、ユング心理学では「シンクロニシティ」と呼ばれていることを説明し、「何年にも及ぶのたうち回るほどの苦しみを通して、自分の人生に起きた様々な出来事に共通するある種の『必然性』――それらはすべて起こるべきして起こり、必要だから起きたものであったということ――を理解した時、ようやく救いがもたらされることがあるのです」と述べている。(同書、p.29) この本では、さらに、『夜と霧』の著者として著名な心理療法家ビクトール・エミール・フランクルの「あなたがどれほど人生に絶望したとしても、人生があなたに絶望することはない」ということばや、精神科医で森田療法の創始者・森田正馬氏の「苦しんで苦しんで苦しみぬき、悩んで悩んで悩みぬく。そうやって、悩み苦しみがとことん深まり極まった時に、人はその悩み苦しみからスポンと抜け出ることができる」というようなことばが次々と引用されていく。 こうして、悩み苦しみぬくことの「効用」が延々と述べられているのだが、私は読んでいくうちにだんだん気分が重くなり、疲れていくような感じになった。何か物足りず、隔靴搔痒の感じが拭えないのである。それが、心理学、医学、大脳生理学等の霊的視点を持たない科学的アプローチの限界だからなのであろうか。 改めて思い出すまでもなく、私たちはすでに、そのような苦しみや悩みの意味についてはシルバー・バーチから何度も聞いてきた。シルバー・バーチのことばには少しも暗い響きはなく、常に未来に向かっての明るい希望を感じさせる。たとえば、このようなことばがある。 《地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の疑問に遭遇した時、人生でもっとも暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みもなく、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。》(『霊訓4』p.41) この『悩みぬく意味』の著者は、悩みぬくことの意味を強調するが、それだけではやはり分かりにくい。シルバー・バーチは、むしろ、悩むべきではないことを教える。それは、私たちには決して乗り越えられないような困難は与えられないからである。これをシルバー・バーチは極めて説得力のあることばでこう言っている。 《もしも人生が初めから終わりまでラクに行ったら、もしも乗り切るべき困難もなく耐え忍ぶべき試練もなく、克服すべき障害もないとしたら、そこには何の進歩も得られないことになります。レースは競い合うからこそ価値があるのです。賞はラクには貰えず一生けんめい頑張ったあとにいただくから価値があるのです。そういう価値ある人間になるように努力なさい。この世に克服できない悩みはありません。ですから、悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来ごとは何一つ起きないのです。》(『霊訓7』p.155) ユング心理学でいう「シンクロニシティ」については、これもシルバー・バーチの教えは極めて明晰で説得力がある。つぎのように述べられているが、3千年も霊界に居て霊界からの視点で証言しているだけに、ことばにも比類のない重みがあると言ってよいだろう。 《一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。 あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのかとか、いつになったらとか、どういう具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあることでしょう。無理もないことです。しかし私には、全てはちゃんとした計画があってのことです、としか言いようがありません。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来ごとといったものは決して起きません。》(『霊訓1』p.70) 要するに、私たちは、もともと霊的存在であって、霊的存在であるからこそ生命は永遠であることを教えられている。私たちは、霊性の向上を目指して永遠の生命を生きていくうちに、何度も何度もこの世に生まれ変わって、喜怒哀楽の経験を積んでいく。そういう生命の実相が理解できれば、この世での生と死の意味も自ずから明らかになるし、悩みをどう受け止めて今生を生きていくかという問題にも、それぞれに答えを見出していけるのではないであろうか。それが、「9月1日」の事件を契機にして、私が理解し始めるようになった霊的真理、或いは天の摂理の一端である。 黄昏の道を歩みつつ想うこと (2019.10.28) 生と死については、人々は、昔も今も無明の闇のなかで悩み苦しみ、ひたすらに死ぬことに怯え続けてきた。かつて空海は、それを、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」と嘆じた。(『秘蔵宝鑰』) しかし今は、その気にさえなれば、私たちは誰でも容易に、シルバー・バーチの「人は死なない」という単純明快で極めて重大な霊的真理に接することができる。それは、現代の奇跡と言っても決して過言ではないであろう。 私は、これまでの一六年間、それらの奇跡のことばをホームページの「学びの栞」に分類し、「霊訓原文」や「叡知の言葉」、「今日の言葉」などを添えて紹介してきた。「メール交歓」で数多くの質問にも私なりに答えてきた。私個人の転生を含む霊的体験についても、「霊界からのメッセージ」や講演集、著書などで伝えようとしてきた。それでも世間にはまだ、シルバー・バーチに気がつかない人も多いし、私のことばを耳にしても、妄言の類いとして聞き流されてしまうこともあるのかもしれない。 かつてアメリカのシカゴ大学精神医学部教授を勤め、末期がん患者のターミナル・ケアの世界的な権威として有名であったエリザベス・キューブラー・ロス博士 (1926ー2004) は、患者の臨死体験の例を二万件も集めて、生命は不滅であり、人間は「死んでも」永遠に生き続けることを人々に説いてまわったことがあった。 しかし、やがて、彼女は悟るようになる。人間は死後も生き続ける、本来、死というものはないのだということは、聞く耳を持った人なら彼女の話を聞かなくてもわかっている。だがその一方で、その事実を信じようとしない人たちには、二万はおろか百万の実例を示しても、臨死体験などというものは脳のなかの酸素欠乏が生み出した幻想にすぎない、と言い張るのである。そこで彼女は、臨死体験の例を集めて「死後の生」を証明しようとする努力をついに二万件でやめてしまった。その彼女が、少し自嘲気味にこう洩らしている。「わかろうとしない人が信じてくれなくても、もうそんなことはどうでもよいのです。どうせ彼らだって、死ねばわかることですから。」(『死ぬ瞬間と臨死体験』鈴木晶訳、読売新聞社、1997年、p.129) 同じく医師で、2011年に 『人は死なないーある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』を出版して以来、熱心に霊的真理の啓蒙活動を続けている東大名誉教授の矢作直樹さんは、私にとっては力強い同調者であるが、その彼も、「人間は死ぬと終わり、この人生が唯一の人生と頑なに信じている人に、あの世の話や転生の話をしたところで、その人との関係が悪化するだけである。わかろうとしない人にわからせる方法はない」と匙を投げている。(『悩まないーあるがままで今を生きる』ダイヤモンド社、2014年、p.114ー115 ) やはり、霊的真理を受け容れる魂の準備が整うためには、厳しい試練が必要なのであろうか。しかし、それでも真理は真理である。まわりに生と死について悩み苦しんでいる人があれば、私はその真理を伝えていこうと努めてきた。 ただ、それは決して平坦な道ではなかった。世間の常識からはみ出して、霊界とか死後の世界などのことを語り続けていくうちに、大学教授としてあるまじきことであると私から去っていった教え子たちもいる。人のために尽くすことが宗教であるという信念で、貧しい人々を金銭的に援助し続けるというのも、家族への配慮が欠けるようなことがあれば、深刻な軋轢を生みだしかねない。世間は甘くはないのである。「わかろうとしない人にわからせる方法はない」と、私もまたつぶやきそうになりながら、今は、この人生最後の「教材」に向き合っている。 おそらく、このような霊的真理をめぐる周辺との齟齬・葛藤もまた、私にとっては残された必要な学びなのであろう。本欄のNo.187 (2019.07.15)でもすでに述べてきたように、「起こっていることはすべて良いことである」と受け止めていかねばならないと肝に銘じている。 *(最近、「生と死の真実を求めて」と題する70ページの小著を書き、印刷・製本して遺すことにした。上記の文は、この小著の「おわりに」の一部に若干の修正を加えたものである。) 霊能者たちに支払われる「授業料」 (2019.11.29) 作家の佐藤愛子さんは、1923年生まれだから現在は96歳である。霊媒体質であるらしい。彼女は、自分の本にいろいろと書いてきたように、60代の頃、北海道の浦河町に建てた別荘でラップ現象やポルターガイスト現象などの心霊現象に深刻に悩まされた経験がある。その時以来、20年にも亘って、さまざまな霊能者に相談したり助力を求めたりして、霊障はほぼ解決したようである。そして彼女は、死後の世界の存在をも確信するようになった。『老残のたしなみ』(集英社文庫)の中で、彼女は、そこに至るまでの様々な霊能者との付き合いを振り返って、「ずいぶん授業料を払いました」と述懐している。だから、今では、霊能者を一目見れば、この人は本物か、そうでないかがすぐわかるという。彼女は、こう述べている。 《まず、すぐお金のことをいって、高額な請求をする人はインチキですね。霊能力という特殊な能力は、神様が特に選んでその人に与えたものだから、それを金儲けの手だてにしたり、私利私欲のために使ってはいけないんです。そういうことをしていると、やがて神様からその能力を奪われてしまうんですよ。 だから本当の霊能者は、例えばお勤め人だったり、農家の主婦だったりと、別に仕事を持っている人が多い。あるいは、自分が食べるに必要なだけの謝礼しか受け取らない人ですね。テレビで有名になって大金をとるようになったらもうダメです。》(同書 p.252) 私は心霊現象に悩まされた経験はないが、霊能者たちとの付き合いは、佐藤さんと同じように長い。私もまた、長年の間、数十人を超える霊能者たちと接してきて、「ずいぶん授業料を払ってきた」ほうかもしれない。まだ、霊能者がどういうものかよくわかっていなかった頃は、某大本山の著名な霊能者という触れ込みにつられて、なんの癒しにも救いにならなかった空虚な「霊言」に大金を支払わされたこともあった。しかし、私が霊能者のことばに心から納得して、霊的真理に導かれていったのは、あまり「授業料」の要らないロンドンの大英心霊協会においてである。 大英心霊協会は霊的真理の普及を目的とした非営利団体で、高い能力をもつ所属の霊能者たちも、自分たちの霊能力が私利私欲のために使われてはならないことを十分に理解していたように思われる。ほとんど交通費だけの少ない「実費」を受け取るだけで、心霊治療などは無料であった。訪問者たちも、貴重な霊言を受けたり難病を奇跡的に治してもらったりした感謝の気持ちを、玄関ホールの小さな募金箱への献金で表していた。霊能者たちが「すぐお金のことをいって高額な請求をする人はインチキですね」、「テレビで有名になって大金をとるようになったらもうダメです」という佐藤さんのことばは、おそらくその通りで、私も同感である。 「勝五郎の生まれ変わり」の史実に基づく動画 (2020.01.27) |
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