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    人格と霊格と霊能力              (2018.01.22)


 インターネットの「教えてgoo」欄に、「霊格と人格 霊能力は比例するのか?」という質問がありました。質問者は、「知り合いに霊能者さんがいまして、能力はとても高いし実績もある方です。慈悲深い方だとは思いますが、悪口とか不平不満、霊視自慢が頻繁です」と書いていました。そして、「悪口や不平不満 自慢は良い波動ではないと思うのですが、霊能力が高ければ霊格も高いものなのでしょうか? 霊格と人格はほぼ同じと思っていますが、人格が優れているとは思えません」と続けています。「私は関わって体調を崩したので、距離をおいています」などとも述べています。

 この質問に対しては、いくつかの答えが示されていました。そのなかには、つぎのように、人間には、「人間という霊格しかもっていない」というのもあります。

 ――霊格ってなんでしょうね。誰がそんなものあるといい始めたのでしょう。高級霊というのが霊格が高いというのであれば、人間はどこまで行っても人間の霊格でしかありません。霊格が高ければ人間でありえないでしょ。例えば仏教の区分けに当て嵌めれば、仏の世界の霊格があれば仏になります。最も低いのが天部、菩薩、如来となります。・・・・・人間で生まれ、人間として一生を過ごすということは人間という霊格しか持っていないという事です。

 この人は、人間には、もともと、霊格というものはなく、あるとしてもそれは、「人間という霊格」だけだと言っているようです。これは、私たち人間が、本来、霊を伴った肉体ではなく、肉体を伴った霊であることがわかれば、見方が変わってくると思います。この世に生きている人間にも、当然、霊格はあります。ただ、その霊格は、霊的な視力でしか見えないということではないでしょうか。優れた霊能者は、目の前に背景を何も知らない初対面の人が座れば、人格者であるかどうかはよくわからなくても、霊格が高いか低いかはよくわかる人が少なくないようです。この質問には、つぎのように答えている人もいました。

 ――霊格と人格は同じじゃないと思います。そう見えるかもしれないけど、実際に霊能力が高くても、単に獣霊に操られている場合もあるからです。もしかして、その人は、そういう状況なのかなと思いました。人格者は、不平不満を言ったり、自慢などしないですよ。尊敬できないような霊能者は、近寄らないほうが賢明です。

 この人も、人間が本来霊的存在であることをどれだけ意識しているか不明ですが、質問に対する答えとしては、この方がわかりやすいと思われます。人格というのは、この世で生きている目に見える存在に対して一般の人々が考える見方で、「人格者」であるとか、人格が高い、低いというように言われます。一方、霊格とは、この世ではない、霊界から見た格付けで、簡単に言えば、どれだけ神界に近い存在であるかを示す指標といってもいいかもしれません。当然ながら、刹那的な狭いこの世での尺度で見える人間の姿と、広大な霊界の尺度によって見えてくる人間の姿は、同じではないでしょう。この世で地位も名誉も手中に収めた人格者と言われるような人でも、霊格では、低いと見られているようなことも、決して珍しくはないようです。

 霊能者の場合も同じです。霊能者で霊能力が高いから霊格も高いということにはならないでしょう。霊能力はあっても、なかには人格者ではなく、霊格も低いという人もいるようです。私たちも、本来はみんな霊能者ですが、ただ、霊能力を内に秘めて発現しないでいるだけです。この世での霊能力の有無にかかわらず、おそらく、何より大切なことは、人格者と言われるよりも、霊性の向上を目指して霊格を高めていくことではないでしょうか。地位、名誉、カネなどを基準にしたこの世の評価よりも、目には見えない霊界での評価を私たちは考えていかねばならないのだと思います。イエス・キリストは、「天に宝をたくわえなさい」(マタイ:6-20)と言いました。この世の出世欲などには捉われず、金銭や資産にも執着せずに隣人愛を実践し、自ずから天に多くの宝を蓄えている人が霊格が高いといえるのかもしれません。





    霊性向上を目指して最後まで生き抜く         (2018.02.22)


 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、再起を望んで一人で戦場から逃れた。何とか北近江まで逃れてきたところ、かつて三成が恩恵を施したことのある村の民に助けられ、一時洞窟に身を隠した。しかし、東軍の執拗な落ち武者狩りの様子を伝え聞いた三成は、逃げ切れるものではないと逃亡を諦め、自分を匿おうとした村民への恩返しとして、自らの居場所を訴え出させたといわれる。捕らえられた三成は、いったん家康のもとに送られた後、京都に護送され、六条河原で斬首されることになった。

  六条河原に向かう途中、三成は檻籠の中から護送役の奥平家組頭に「のどが渇いた。湯はないか」と、声をかけた。組頭は、「そんなものはござらぬ」と答えた。しかし、自らの腰布に干し柿をくるんでいたことに気づいて、それを差し出し、「代わりに干し柿がある。これでも食されよ」と言った。ところが、三成は、「柿は痰の毒だという。せっかくだが、遠慮仕る」と、これを拒否した。それを聞いた組頭は、「なんと、これから首を斬られようというのに、痰の毒でもござるまい」と、三成を嘲笑したという。これに対する三成のことばはいろいろと伝えられているが、司馬遼太郎『関ケ原』(新潮文庫)では、つぎのように記されている。

  「大丈夫たる者が義のために老賊を討とうとした。しかし、事志とちがい、檻輿のなかにある。が、一世の事は小智ではわからぬ。いまのいま、どのような事態がおこるか、天のみぞ知るであろう。さればこそ眼前に刑死をひかえているとはいえ、生を養い、毒を厭うのである」

 三成は、このあと、六条河原で斬られた。慶長5年(1600年)10月1日、関ケ原合戦から2週間後のことである。享年40であった。伝記などでは、斬られる前に、大津城の門前に生き曝しにされている三成を福島正則が嘲笑する場面がある。その正則に向かって三成は「わしに武運と二心を抱く者を見抜く目があれば、今頃お主がここに身を曝していただろう。お主の所業はあの世で太閤殿下にしかと伝える」と言った。ここでは、霊界の秀吉との再会について触れていることになるが、こういういい方は、慣習的にも珍しくはないから、これだけでは、三成が死後の生をどのように考えていたかは、よくわからない。しかし、生命が永遠であり、この世は、霊性向上のための修行の場であるという観点から見ると、この「太閤殿下にしかと伝える」もあり得ることであり、その後の「眼前に刑死をひかえているとはいえ、生を養い、毒を厭う」といったのも、正しい態度といえるであろう。それなりに、三成の霊格の高さを示しているといってもいいかもしれない。

 人は霊界へ移れば、誰でもすぐに、一切の悩みや不安から解放されて光り輝く世界に住めるようになるわけではない。少なくとも初期の段階では、死んで霊界へ来た人は、肉体を棄てただけで、あとは地上にいた時と少しも変わらないのである。個性や性格もまったくもとのままで、利己的な人はあい変わらず利己的であり、貪欲な人はあい変わらず貪欲である。霊的覚醒が起きるまでは、無知な人は無知のままで、悩みを抱いていた人は霊界へ還っても悩み続けていることを、シルバー・バーチは教えてくれている。(『霊訓(7)』p.24)

 それだけに、この地上に生を受けている間に、どれだけ霊性を向上させたかということが、私たち一人ひとりに問われていることになる。それによって、霊界へ還ったときの自分の階層や位置が決まってくるからである。だから、どうせ死ぬのだから、体を労わる必要もなく、学びや体験も要らないということにはならない。三成の最期のことばは、改めて、そのことを思い起こさせる。むしろ、死を前にした人生の最終段階でこそ、私たちは健康にも留意し、自分の力の及ぶ限り、学び残したことのないように学ぶべきことを学び、この世の体験をも深めていくべきなのであろう。そして、たとえ、悲しみや苦しみや辛いことがあるとしても、それらの試練の中でこそ学ぶことが多く、霊性向上のチャンスでもあることを、忘れないでいたいものである。





   死の恐怖を克服して生きる           (2018.03.19)


 仙厓義梵(せんがい ぎぼん、1750-1837)という江戸時代の禅僧がいた。画家としても著名で、88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な禅画を残した。綾瀬凛太郎『仏教の名言100』(学研新書)によれば、その義梵が死ぬ前に、「来時来処を知る 去時去処を知る 懸厓に手を徹せず 雲深くして処を知らず」という遺偈(ゆいげ)を残した。

 遺偈とは、禅僧が死ぬまぎわにその境地を詩や歌の形で遺したものである。この本の著者は、この遺偈の意味を、「その先は知らないが人はいつか死ぬ。それでいい」と意訳している。しかし、義梵の末期のことばは、「死にとうない、死にとうない」であった。これを聞いた弟子たちは、このことばには、きっと深い真意が隠されているのだろうと思って重ねて聞き返した。ところが義梵は、「ほんまに、ほんまに死にとうない」と言って、果ててしまったのだという。

 室町時代の一休宗純(1394-1481)にも、同様の話が伝えられているが、死を達観していると思われた禅僧でさえ、こういうこともあるのだから、一般の人々にとっては、死の恐怖はなおさらのことである。試みに、インターネットで調べてみると、数多くの人々が死に対する恐怖を訴えていることがわかる。たとえば、そのうちの一つ、「シーマ」と名乗る投稿者は、こう書いている。

 「自分が自分じゃなくなってしまうのを考えると、心臓が破裂しそうになる。 今までの日常生活が、日常生活じゃなくなってしまう。 怖いです。日々、死に近ずいてるのを考えると、イヤだ。逃げたい。でも逃げられない。だから死にたいって思う。でも死ぬのは怖い。どうすればいいのか、わからなくなる。ここ毎日、そればかり考えて、心臓が破裂しそうになる。誰か助けて欲しい。」

 こういう恐怖心は多くの人々がもっているが、どうすればそこから抜け出せるのであろうか。浄土真宗の中興の祖といわれている蓮如上人(1415-1499)は、人間は誰でも死ぬべき存在であることを、『御文章』の「白骨章」のなかで、「自分が先か、他人が先か、今日とも知れず明日とも知れず、人は後になり先になったりして絶え間なく死んでいくものです。朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となってしまうのです」(現代文訳)と書いている。そして、人が死んでいくのは老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである、と信仰の大切さを説いた。「誰か助けて欲しい」というこの投書の切実な叫びには、このような信仰も、ひとつの答えになるかもしれない。

 しかし、やはり、何よりも直截に心に響くのは、シルバー・バーチのことばであろう。例えば、「地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。なぜなら、魂の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒賞であって罰ではありません。死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出すための手段と見なすべきです」(『霊訓(8)』p.62)とシルバー・バーチはいう。このようなことば一つをとってみても、死の真実を知らずに苦しんでいる人には、大きな救いになるのではないか。

 死の真実については、極めて貴重で重大な教えが、シルバー・バーチの霊訓の中には数多く含まれている。人々は、死を忌み嫌い、恐れて、ひたすらに長生きすることを願うが、長生きをすること自体も、実は、大切なことではない。永遠の生命がわかれば、地上で20年だけ生きても100年を生きたとしても、その差は限りなくゼロに等しいからである。シルバー・バーチは、「地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ決められている」という。(『霊訓(8)』p.61) 「あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです」とも言っている。(『霊訓(8)』p.71)

 寿命を自ら選択しながら、その長短を気にするのはいささか滑稽であるかもしれない。だから私たちは、死の恐怖に怯えたり、長寿をひたすら願ったりするよりは、この世での学びと霊性向上にもっと心を向けるべきなのであろう。それをシルバー・バーチは、「地上生活のいちばん肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです」(『霊訓(10)』p.63)と、教えてくれている。私自身がかつてはそうであってが、いのちの真実に無知であることは苦しい。なるべき早く霊的真理に目覚めて、怖れや悩みに捉われることからは、抜け出したいものである。






   超高齢社会の死生観について考える     (2018.04.12)


 日本が高齢社会であることはよく知られている。総務省の統計では、平成28(2016)年10月1日現在の日本の人口1億2,693万人のうち、65歳以上の高齢者人口は 3,459万人で、総人口に占める割合(高齢化率)は27.3%であった。世界保健機構(WHO)や国連の定義では、高齢化率(総人口のうち65歳以上の高齢者が占める割合)が7%を超えた社会は「高齢化社会」、14%を超えた社会は「高齢社会」、21%を超えた社会は「超高齢社会」とされている。この基準によれば、日本は高齢社会であるというより、すでに「超高齢社会」である。しかも、この65歳以上の「高齢化率」では、現在の日本人は「4人に1人」であるが、これは、厚生労働省所属の国立社会保障・人口問題研究所では、2035年には総人口に占める高齢者の割合が33.4%となり、「3人に1人」が高齢者になるという推計も出されている。

 この日本の高齢化は、進行の速さで世界でも類を見ないといわれているが、こうした超高齢社会がもたらす課題として、総務省では働き手の主力とされる15歳以上65歳未満の「生産年齢人口」の減少や、高齢者が病気になった場合の介護負担の増大などをあげている。これはまた、「働きながら家族の介護をする人」が増加することをも意味するだろう。いま日本では、医学の進歩を背景にして、年老いて体が不自由になっても、容易には死ぬことはない社会になっているのである。こういう社会の中で、高齢者は、どのように生きていくべきであろうか。少なくとも、医療の進歩による寿命の延長が無条件に歓迎されるような風潮には、必ずしも同調できなくなっていくであろう。長生きが常に目出度いわけではない。現実の問題としても、体力が弱り、歩けなくなり、寝たきりの状態で周囲の介護なくしては生きておれないような状態が、人間として幸せであるとはどうしても思えないのである。

 本年1月21日、保守派の論客として知られた西部邁さんが、遺書を残して東京の多摩川に入り、78歳で亡くなった。ずっと考えてこられたうえでの自裁であったようである。西部さんは北海道生まれで、1957年に札幌南高校(旧札幌一中)を卒業して、その後東大へ入学している。たまたま私は、1956年からの1年間、札幌南高校教諭を勤めて1957年にアメリカへ留学したから、その間、西部さんとは同じ高校に居た。「袖触れ合うも他生の縁」があったことになる。西部さんは、東大卒業後、大学院を経て、東大教授になったが、1988年、東大の人事問題で、教授会に抗議して辞任した。その後は、評論活動を続けながら、テレビの討論番組などにも数多く出演してきたことはよく知られている。

 西部さんは、社会に対して役立つ自分と負担をかける自分とを天秤にかけて考えてきたようである。病気で体が不自由になっても、病院で不本意な延命治療や施設での介護など受けたくはないとかねてから言っていた。他人への負担を避けるなら、自宅で家族の介護に頼るほかはないのだが、しかし、それをも避けたいと思えば、自死しかないと判断したのであろう。死去前日の1月20日夜、西部さんは新宿の文壇バーで長女と一緒に酒を飲んでいたが、午後11時ごろ、長女を先に帰宅させ、その後多摩川へ向かったという。十分に覚悟したうえでの行為であった。西部さんと親交のあった京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、この西部さんの死について、「いかに最期を迎えるか」と題して、こう書いている。

 《このような覚悟をもった死は余人にはできるものではないし、私は自死をすすめているわけではないが、西部さんのこの言い分は私にはよくわかる。いや、彼は、我々に対して一つの大きな問いかけを発したのだと思う。それは、高度の医療技術や延命治療が発達したこの社会で、人はいかに死ねばよいのか、という問題である。死という自分の人生を締めくくる最大の課題に対してどのような答えを出せばよいのか、という問題なのである。今日、われわれは実に深刻な形でこの問いの前に放り出されている。》(「朝日」2018.02.02)

 死は常に一個人の問題で、一般論というのはないから、死についてはそれぞれに自分自身が対処していかなければならない。しかし、佐伯氏のいうように、人は「いかに死ねばよいのか」という問題が、西部さんの自裁によって、実に深刻な形で私たち一人ひとりの目の前に突き付けられているのだとしても、その答えを出すのは容易ではない。氏は人の死に方として、「やむをえず入院すると、そこでは延命治療が施される。私は、自分の意志で治療をやめる尊厳死はもちろん、一定の条件下で積極的に死を与える安楽死も認めるべきだと思う」と言う。ただ、この安楽死は、おそらく少なからざる人々が密かに考えていることと思われるが、現在でも、表面に出して議論することは、まだタブー視されているといえるであろう。

 作家の五木寛之氏は、このまま高齢化がさらに進めば、「自発的なナチュラル・エンディング」を考えることが正しいと思うと述べている。自ら死生観を確立して、「もういい」と思った時に、食事や水を少しずつ減らしていって、ゆったりとこの世から去っていく道もあるのではないか、というのである。ここでは、五木氏は、「そのためにはたとえば浄土へ行くとか、死に際して自分を保つために、なんらかの死生観の確立は必要になってくるでしょう」と死生観の重要性について触れている。そして、そのためには、今までの宗教ではなくて、新しい時代が求める死生観をそなえた思想が必要になってくる、と付け加えている。(五木寛之編『うらやましい死に方』文芸春秋、2014、pp.228-229)

 確かに、自発的に安らかな死を迎えるためには、「新しい時代が求める死生観をそなえた思想」は必要であろう。巷では多くの人々が死の恐怖に怯えているが、その死の恐怖を克服していくための深い学びも欠かせない。しかし、こういう識者たちの書いたものを読んでいると、私には自然に、シルバー・バーチのことばが浮かび上がってくる。「あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして 100歳まで生きたとしても、無限の時の中での 100年など一瞬の間にすぎません」とシルバー・バーチは言っているのである。そして、世間一般の死を忌み嫌う風潮に対しては、つぎのように諭している。

 《なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味するのです。》 (『霊訓 (8)』pp.70-71)

 超高齢社会を生き抜くための、「個人の死生観の確立」とか「自分なりの死の哲学をもつ」というのは、やはり、どことなく高尚で手の届きにくい高みにあるようにも思えるが、要するに、死とは何かというその真実を知るかどうかが肝要である。そして、その真実を知ることは、実は、決してそんなに難しいことではなく、誰でも、理性を失わず、純粋で素直に求めていく気持ちさえあれば、このようなシルバー・バーチの教えに触れることができる。その重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないであろう。ここでは、ついでにもう一つ、その教えを付け加えてこの小文の締めくくりにしたい。シルバー・バーチは、つぎのようにも述べている。

 《私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像できません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが、”死” は独房の扉のカギを開けて解放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになるのです。》 (『霊訓 (8)』pp.72-73)





   テレビやスマホに心を蝕まれる子供たち    (2018.05.09)

 
 一年間のイギリス滞在を終え、1992年の春、帰国の途中、シンガポールの街の中で、サラリーマン風の若い男性が携帯電話で声高に話しているのを見た。私が携帯電話を見たのはこの時が初めてである。この新しく生まれた文明の利器を手にしていることに、その若者は誇らしげな様子であった。日本でも、その年にNTTドコモが誕生して、携帯電話各社間の相互通話が実現している。その二年後くらいのことであったか、日本でも携帯電話が出回るようになったある日の電車内で、私の前に座っていた若い男女が、1個の携帯電話を交互に手にして、げらげら笑いながら、大声で外部の誰かと得意げに話し合っていたことがあった。いつまでも話をやめないので、私はつい、「車内での通話は、遠慮されてはいかがですか」と、やんわりと注意した。すると女性の方が、いきりたって、「緊急電話なんです!」と私に言い返した。見え透いた嘘をつかれて、私は苦笑した。

 その後、携帯電話は、パソコンや他社携帯電話と送受信できる電子メール機能が付き、インターネット接続サービスも開始されるようになった。2000年頃からは、カメラ付きも発売されるようになり、写真をメールで送る「写メール」も流行するようになる。そして、2007年には、広いタッチパネル画面に指を滑らせて操作し、多彩な機能を呼び出して使う「iPhone」が、米アップル社から発売され、世の中は、「スマホ時代」に突入した。目覚しい技術革新である。しかし文明の利器は常に諸刃の剣である。負の側面もあることを見逃すわけにはいかない。雑音、雑念が益々増えて、人の魂は霊的覚醒からは遠ざかっていく。

 いまでは何処でも、電車内でも、街の中でも、スマートフォンが氾濫していて、小、中学生でもスマホを持ち歩くようになってきた。東京都港区のMM総研の調査では、国内で出荷されているスマートフォンは、2016年で3,013万台になり、2017年度では、3,199万台に増えて、過去最高になっているらしい。街のなかを歩きながらスマートフォンを見たり、自転車を乗りながらでもスマートフォンを見ているような人も増えている。路線バスや観光バスなどの運転士が運転中にスマートフォンや携帯電話を操作し事故を起こした例は、2016年1月から翌年4月までで33件にもなり、その中には、小学1年生を轢いて死亡させたような事故もあった。(「朝日」2017.5.23) こうなると、文明の利器も凶器でしかない。バス会社によっては、営業所に社員個人向けの保管庫を設置して、乗務前にスマートフォンなどを入れて鍵をかけているところもあるらしい。

 同じように深刻なのは、このようなスマートフォンなどの普及によって、ネットによるゲーム依存症が増えていることである。内閣府の2017年度の調査によると、小中学生の7割以上がネットゲームを楽しんでおり、中高生の52万人が、ネット依存症の疑いがあるという。この数字は、すでに極めて異常で病的であることに、まわりの大人たちは気がつかなければならないであろう。小中高生の平日のネット利用時間では、2~3時間が19.9パーセント、3~4時間が13.7パーセントで、5時間以上というのも15.1パーセントとなっている。これを合わせると、毎日2~3時間以上もスマホに時間を取られている小中高生が 48.7パーセントもいることになる。なかには、学校には行かずに、家で一日16時間も、スマートフォンのゲームにばかり熱中している中学生の極端な例も報告されている。(「朝日」2018.5.5)

 一方、テレビを覗いてみると、特に一部の民放などでは、刺激的な、見るに耐えないようなドタバタ劇が繰り返されているのがしばしばである。もう半世紀も前に、社会評論家の大宅壮一氏が、「テレビというメディアは非常に低俗で、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させ一億総白痴になる」と述べて、「一億総白痴」という言葉が流行語になったことがあった。いまでは、その深刻度は当時の比ではない。かつての家族が顔を合わせて親しく語り合う「一家団欒」もテレビの雑音にかき消されて、ほとんど死語になってしまった。特に子供は、脳がまだ十分に発達しておらず、快感や刺激を求める欲求が理性に勝る傾向が強いといわれている。言語知能などをつかさどる脳の前頭葉に悪影響を与えるとする研究結果などもすでに出ているらしい。その上に、スマートフォンなどの依存症などが加わると、純真無垢であるはずの子供の精神面は、いったい、どういうことになってしまうのか。子供たちの将来に対して危惧の念を抑えきれないでいるのは、おそらく、私だけではないであろう。





   減少し続ける日本の人口      (2018.06.07)


 厚生省が6月1日に発表した人口動態統計によると、昨年(2017年)に国内で生まれた日本人の子どもの数(出生数)は94万6060人で、統計がある1899年以降、最小であったという。逆に、人口の高齢化を反映して、死亡者数は134万433人と戦後最多で、出生数から死亡数を引いた自然減は39万4373人となり、これも統計開始以降で最大の減少幅になるらしい。今年(2018年)になってからも、総務省統計局のデータでは、5月1日現在の概算値で、日本の総人口は、1億2649万人である。前年同月に比べ23万人の減少となっているから、この人口の減少傾向は毎年続いていて歯止めがかからないようである。

 女性が一生に産む子の数を示す合計特殊出生率も、2017年度は1.43で、2016年度からは0.01ポイント下がり、前年の人口を維持するのに必要とされる2.07を大きく下回った。厚労省も、「こうした傾向は今後も続くので、出生数の減少は避けられない」との見方を示している。(「朝日」2018.6.2) 国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」(2015年)によると、理想とされている子どもの数は2.32人だが、予定数は2.01人となっていて差がある。その理由を複数回答で問うと、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が56.3パーセントで、トップであるという。

 少子化に歯止めがかからないなかで、社会保障費は膨らむ一方である。政府が5月に公表した将来推計では、医療や介護などの社会保障給付費は、40年度には今の1.6倍の約190兆円になり、税負担は今より1.7倍、保険料負担は1.5倍になるという。深刻なのは、制度を支える15~64歳の現役世代が大幅に減ることである。現在は2人で1人の65歳以上の高齢者を支えているが、40年には、1.5人で1人をみなければならなくなるらしい。政府はなんとか合計特殊出生率を上げて、60年の人口を1億人程度に維持するビジョンを掲げているが、直近の推計では、60年の人口は9284万にまで落ち込むとみられ、日本の人口問題の先行きは決して明るくはない。(「朝日」2018.6.2) 一体なぜ、こういうことになってしまうのであろうか。

 日本は古来、豊かな土壌と水と熱に恵まれ、西欧諸国などと比べても、格段に食料生産性が高く、そのために、国土のおよそ3分の2が森林であるにもかかわらず、高い人口密度を維持することができた。最近の100年間の人口の推移をみても、1910年(明治43年)に、50,984,840人であったのが、毎年増え続けて、1970年(昭和45)年には、1億の大台に乗り、103,720,060人になっている。人口はその後も増え続けて、2010年(平成22年)には128,057,352となった。100年間で約2.5倍に増えたことになる。しかし、これがピークで、その後は減少に転ずることになる。2015年(平成27年)の人口は、前年比 −0.8パーセントで、127,094,745人である。(総務省統計局の国勢調査による) そして現在、日本はOECD諸国35か国の中でも最も少子高齢化が進んでおり、しかも、世界のどの国も経験したことのない速度で人口の少子化・高齢化が進行しているといわれるようになった。

 現在の日本は世界でも最も豊かな国の一つで、医療制度も整い、技術革新も進んでいる。まわりにはモノが溢れ、少数の例外はあるにしても、衣食住に困らず生活水準はかつてなかったほどに高い。しかし、それでいてなお、さらなる生活の利便性を追い求めて、人々のモノに対する欲求は留まるところを知らないようにも見える。そして一方では、その私たちの社会では、人口が減り、確実に少子高齢化が進行しているのである。これらの問題が、互いに何らかの因果関係で結ばれているのかどうか、私にはよくわからない。しかし、物的欲求のあくなき追及が、結局は利己主義を助長して心を蝕み、人間関係のなかで優しさや思いやりの自然な発露を妨げ、本来備わっている生命力をも委縮させていることがないであろうか。その結果としての出産や育児に対する閉塞感のようなものが、日本の人口動態をこのようないびつな形にしてしまっている一因ではないかと思ったりもしている。





   小惑星「リュウグウ」に到達した日本の探査機  (2018.07.02)


 日本の小惑星探査機「はやぶさ 2」が6月27日、2億8000万キロ彼方の小惑星「リュウグウ」から20キロ離れた探査拠点に到達した。その地点から撮影された小惑星リュウグウの鮮明な写真が公開されている。リュウグウの砂には、生命の元となる有機物や水分が含まれている可能性があり、今後1年半の滞在期間中に3回着陸して採取を目指すと、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発表している。(「朝日」2018.6.28) この「はやぶさ 2」が日本で打ち上げられたのは2014年12月で、3年半かけて32億キロを飛行して、リュウグウに到達したのであった。地球からの直線距離は2億8000万キロであっても、地球と太陽をまわる軌道を通っていくためには、32億キロも飛行しなければならなかったのである。

 地球と太陽までの距離は1億5000万キロだから、この小惑星リュウグウの位置は、太陽までの距離の2倍近くも遠いことになる。だから、地球の最先端の技術で飛ばした探査機でも、到達するのに3年半もかかった。しかし、この距離も、宇宙の距離を測る尺度では、ほとんどゼロに近く、至近距離といってよい。惑星までの距離を測る一つの方法は、地球から光(電波)を発して目的の惑星で反射させ、さらにその光を地球で受信することによる。その光の往復時間を用いて距離を計算し、それを「光年」であらわすが、いうまでもなく、1光年は光の速度で1年かかる距離である。1秒間では約30万キロで、1光年とは、およそ9兆4600億キロになる。これで計算すると太陽までの距離は、およそ「8分」にしかならない。リュウグウまでの距離も「15分」でしかない。

 私たちが夜空に仰ぎ見る天の川銀河は、太陽のように自分で光を放つ恒星が2000億個集まったもので、直径10万光年の円盤型をしているという。そして、宇宙にはそのような銀河が1000億個以上もあるといわれたりすると、もうその大きさ広さは、私たちの想像を絶するというほかはない。私たちの住んでいる地球も、一周すると4万キロもあって、広大に思えるが、宇宙のなかでは、米粒一つにもならないような、ちっぽけな存在である。そのちっぽけな地球の上の日本で、現代の最先端科学は、いまようやく、探査機をリュウグウに送り込み、重さ2キロの銅の塊を表面に打ち込んで人口クレーターを作り、内部の砂を採集しようとしている。太陽にさらされていない小惑星内部の砂には、太陽系ができた46億年前の状態を保っていると考えられるからである。そしてそこから、生命の根源を探ろうとしている。それは、見方によっては、この地上にいて、霊界の生命の真理に迫ろうとする試みに似ているといえるかもしれない。

 「有機的生命の存在する天体は無数にあります。ただし、その生命は必ずしもあなたがたが見慣れている形体をとるわけではありません」と、シルバー・バーチは言った。(『霊訓(6)』p.170) ラムサも、「銀河系だけでも百億個の太陽があり、それぞれの太陽には生命を維持している惑星がある」と述べている。(『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 150) このように、スピリチュアリズムの世界では、この宇宙に高度の知能を持つ生命体が数多く存在することは、いわば常識である。その一方で、現代の先端科学では、いまようやく、光速15分の距離まで、生命の根源を求めて探査範囲を広めてきた。しかし、宇宙の広さから見ると、それはまだ、「井の中の蛙」にもほど遠い。アンドロメダ銀河(M31)は、肉眼でも満月の約5倍の大きさで見ることのできる最も遠い天体だが、これは地球から約250万光年の距離に位置している。しかし、この250万光年彼方のアンドロメダ銀河でさえ、宇宙では、それほど遠い距離ではない。宇宙望遠鏡で捉えられている最も遠い銀河は105億光年、最も遠い天体が133億光年などといわれているのである。

 シルバー・バーチは、宇宙は神の反映であり、神とは宇宙の自然法則であると言っているが(『霊訓(5)』p.140など)、ある日の交霊会で、哲学に興味を持っている学識者から、宇宙創造の目的についていろいろと訊かれたことがあった。シルバー・バーチはそれに対して、「あなたは、きわめて小さなレンズで覗いて全体を判断しようとなさっています。あなたにはまだ永遠の尺度で物事を考え判断することがおできになりません。この途方もなく巨大な宇宙の中にあって、ほんの小さなシミほどの知識しかお持ちでないからです。しかし今、それよりは少しばかり多くの知識を私たちがお授けしているわけです」と答えている。(『霊訓 (7)』p.98) 宇宙航空研究開発機構(JAXA)の小惑星探査機「はやぶさ 2」が、無事にリュウグウに到達したのは確かに快挙ではあるが、それを支えている最先端の現代科学も、大宇宙の視野から見れば、或いは、「ほんの小さなシミほどの知識」になってしまうのかもしれない。





    金銭的な富と幸福の間の関連性は低い       (2018.07.23)


 ハーバード大学で教えていたタル・ベン・シャハー教授が書いた『ハーバードの人生を変える授業』(大和書房、2011)という本がある。その本では、ノーベル経済学を受賞したダニエル・カーネマンが、「金銭的な富と幸福の間の関連性は低い」ことを発見した、という研究結果が紹介されている。「サイエンス」誌に発表されたその研究結果は、つぎの通りだという。

 「高収入があると幸せになれると広く思われていますが、それは幻想にすぎません。平均以上の収入のある人は比較的人生に満足してはいますが、そのときどきの体験において他の人と比べてより幸せを感じるというわけではありません。収入の高い人たちは他の人たちより気を張っており、楽しむための活動に費やす時間が少ない傾向があります。
 さらに、収入が人生の満足度に与える影響は一時的なものにすぎないことがわかってきました。人は、自分や他人の人生を評価する際、固定化した成功パターンに焦点をおいて考えるため、収入の幸福に対する貢献を誇大に考えてしまうのです」(pp.188-189)

 言われてみれば、この通りで、なるほどと納得させられるが、これが経済の専門家が「幸福」について研究を続けてきた「研究成果」だというから、重みがあるといえるかもしれない。そして、驚くべきことに、「いったん物質的な富を手に入れると、それを手に入れようと奮闘していたときに比べて精神的にずっと落ち込んでしまう人々がいます」とも、述べられている。(p.189)

 どうして、そういうことになるのであろうか。出世競争に明け暮れしている人間は、自分の努力が将来において有益だと思うからこそ、辛うじてバランスを保ち、自分のネガティブな感情にも耐えることが出来る。しかし、ひとたび最終目標に到達し、物質的な富では幸せになれないことがわかると、彼を支えているものは何もなくなってしまい、失望感でいっぱいになってしまうのだと、この本の著者シャハー教授は分析するのである。

 確かに、目に見えないものより、見えるもののほうが評価しやすい。だから人は、物事の判断をする際、より物質的なものに焦点をおきがちになるのであろう。富や特権といった数量で測りやすいものを、測る基準のない感情や意義より高く評価してしまうのも、よくわかるような気がする。シャハー教授は、さらに、「お金に価値があるのは、私たちがお金が過大評価される世界に住んでいるからである」という、社会評論家 H.L.メンケンの寸言を最後に付け加えているが、これも味わい深いことばである。





   死に向き合って生への展望を拓く
   ― スティーブ・ジョブズと孫正義の生き方 ―         (2018.08.20)


 アップル創業者のスティーブ・ジョブズ(Steven Paul Jobs)は、今世紀最後のカリスマといわれた人物である。アップルのCEOに就任して以来、iPod、iPhone、iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。その間、基本給与として、年1米ドルしか受け取っていなかったことで有名であり、「世界で最も給与の安い最高経営責任者」とも呼ばれたりした。2011年10月5日、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により妻や親族に看取られながらカリフォルニア州パロアルトの自宅で死去した。56歳であった。彼の死に際して、アメリカ大統領であったバラク・オバマは、こう述べている。

 《スティーブはアメリカのイノベーターの中で最も偉大な一人であった。違う考えを持つことに勇敢で、世界を変えられるという信念に大胆で、そしてそれを成し遂げるための充分な能力があった。この星で最も成功した会社の1つをガレージから作り上げることで、彼はアメリカの独創性の精神を実証した。スティーブは毎日が最後の日であるかのように生き、私たちの生活を変え、全産業を再定義し、私たち一人一人が世界を見る方法を変えた。》(The White House Blog, 2011年10月5日)

 ジョブズは日本文化にも関心が強く、京都の禅寺を愛し、禅を学んだりしていた。iPhoneやiPodなどのアップル製品の、ギリギリまでそぎおとしていくそのデザイン性、そしてジョブズの並はずれた集中力も禅から来ているとも言われている。そのジョブズが、スタンフォード大学でスピーチした時に、次のように述べていたことがよく知られている。

 《私は17歳のときにこんな言葉と出会った。「毎日を人生最後の1日だと思って生きていこう。そうすればいつの日か必ず間違いのない道を歩んでいることだろう。やがて必ずその日がやってくるから」。それはとても印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分にこう問いかけることを日課にしてきた。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていることをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、生き方を見直せということです。》

 ジョブズはこのように、毎日死と向き合いながら、生への指針を見出していったといえる。そのジョブズについて、ソフトバンクの孫正義は、「スティーブ・ジョブズは、芸術とテクノロジーを両立させた正に現代の天才だった。数百年後の人々は、彼とレオナルド・ダ・ヴィンチを並び称する事であろう。彼の偉業は、永遠に輝き続ける」と言っている。(SoftBank広報紙) そして、孫正義自身も、ジョブズと同じように、「最も成功した会社の1つをガレージから作り上げた」実業家であった。

 ひすいこたろう『あした死ぬかもよ?』(ディスカバー21、2012)によれば、孫正義は、1983年、創業時3人だった会社の社員が、125人になっていた頃、20代半ばにして突然の病に倒れたという。病名は慢性肝炎で、それも死亡リスクの高い肝硬変寸前の状態であった。医者からは、「5年は命がもつかもしれないが、それ以上は……」と言われた。彼は、「会社も始動したばかりで、子どももまだ幼いのに、俺もこれで終わりか・…‥」と、病院でひとり涙を流していたそうである。

 そんな時に、彼は病院で坂本龍馬についての本を読み、竜馬が28歳で脱藩して33歳で暗殺されるまでの約5年間で日本を変えていったことを知る。自分も、あと5年もあれば、相当大きなことができるのではないか、と思った。めそめそしている場合ではない、自分に与えられた5年間を、人々に喜びを与え、社会に貢献することに捧げたい、と考えるようになった。病院生活で死と向き合っているうちに、大事なのは金ではない、地位でも名誉でもない、ということにも気がついた。

 ところが、その後の3年間、入退院を繰り返しているうちに、1986年になって画期的な治療法が見つかり彼は病気から解放される。完全復帰を果たして、巨大に成長した会社を率いて、社会貢献を志すようになった。2011年に発生した東日本大震災では、被災者支援のため、彼は個人資産から100億円を寄付している。そればかりか、その年から会社を引退するまでの社長としての報酬全額も、震災で両親を亡くした孤児の支援として寄付すると言明した。

 これは、スティーブ・ジョブズが、最高経営者としての給与を1ドルにしたのと同じである。企業としてのソフトバンクも東日本大震災では10億円の寄付を決定し、被災者数万人への携帯電話の無償貸与に加えて、震災孤児対象に18歳までの通信料の完全無料化を表明している。「我々が推進役として、世界中に情報革命を起こすのは何のためか。人々を幸せにするためです。『何のために』を忘れ去ってしまったのでは意味がない」とは彼のことばである。ジョブズと同じように、孫正義もまた、死を意識し、死と向き合って生きたことによって、生への大きな活路を拓いていったのである。
  (文中、敬称略)





    死後の魂のあり方を示す法則          (2018.09.06)


  私たちは宇宙の摂理の中で生かされ、宇宙の摂理に従って霊界へ移っていく。その過程で私たちは霊性向上を目指してさまざまな経験をつんでいくことになるが、そのなかには、喜怒哀楽があり、悲歎や苦悩などもないわけではない。試練の厳しさに立ち竦んで、自分だけがなぜこのように不幸なのだと思い込んでいる人もいるかもしれない。しかし、私たちより遥かに多く、宇宙の摂理の働き具合を見てきたシルバー・バーチは、その摂理は完璧で、私たちの人生には、「不公平は絶対にない」と断言する。( 『霊訓(1)』 p.47など)

 シルバー・バーチは、何度か、宇宙の摂理を私たちに理解させるために、「タネ蒔きと収穫の法則」を取り上げている。「蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた種は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの実りをもたらします」というのである。そして、つぎのように続ける。「自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑なな人、利己的な人は不覚容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。」 (『霊訓(4)』p.24)

 私たちはこのように、この世に生きている間も、あの世へ移ってからも、宇宙の摂理に従って、生き続ける。この宇宙の摂理の一部を、「死後の魂のあり方を示す法則集」としてアラン・カルデックが『天国と地獄』(浅岡夢二訳、幸福の科学出版、2006)にまとめている。アラン・カルデック(Allan Kardec、1804-1869)は、フランスのリヨンで生まれた教育学者で医学博士でもある。1854年にスピリチュアリズムと出会い、1856年には主著となる『霊の書』を刊行した。その後、彼は「霊との対話」に基づく何冊もの大著を著し、その著作シリーズは、当時のヨーロッパで400万部を超える大ベストセラーになったといわれている。その彼の「確固たる事実から導き出された」という法則集を、以下、少し長くなるが引用しておきたい。


     * * * * *


 第1条  魂、ないし霊は、地上における肉体生活を通じて克服できなかった未熟さを、すべて、霊界においても引き受けなければならない。霊界において幸福になるか不幸になるかは、地上生活を通して、どれだけ心の浄化を果たしたかによって決まる。
 第2条  完全な幸福は、心を完全に浄化したときに与えられる。未熱さが残っているかぎりは、苦悩から脱却することはできず、喜びは制限される。逆に言えば、悟りが高まるほど、喜びが深まり、苦悩から自由になるのである。
 第3 条 たった一つの欠点から不幸が生じるのではなく、また、たった一つの長所から喜びが生まれるのではない。苦しみの総量は、欠点の総量に見合っており、喜びの総量は、長所の総量に見合っているのである。
 たとえば、十の欠点を持っている魂は、三つの欠点を持っている魂よりも苦しみが大きい。十の欠点のうち、半分を克服すれば、苦しみも、それだけ少なくなり、欠点をすべて克服すれば、苦しみはまったくなくなって、完全な幸福を得ることができる。ちょうど、地上において、病気を何種類も持っている人間が、一種類しか病気を持っていない人よりも苦しむのと同じことである。
 また、十の長所を持っている魂は、三つしか長所を持っていない魂よりも多くの喜びを得ることができる。
 第4条  魂は、進歩の法則に基づき、意志に基づいて努力しさえすれば、みずからに欠けている長所を獲得し、すでに持っている欠点を取り去ることができる。つまり、どの魂に対しても、未来は開かれているのである。
 神は、みずからの子供を見放すことはない。魂が完成に近づけば近づくほど、より大きな幸福を与える。魂みずからがあげた成果を、すべて魂自身に還元するのである。
 第5条  苦悩は未熱さから生じ、幸福は成熟から生まれるものである以上、魂は、どこに行こうとも、自分を処罰する原因をみずからの内に持つ。罰を与えるための特定の場所は必要ないのである。
 したがって、地獄とは、魂が苦しんでいる、その場所にあると言える。それは、天国が、幸福な魂がいるところに存在するというのと同じである。
 第6条  人間がなす善、または悪は、みずからの内にある長所、または欠点の産物である。なし得る善を行わないというのは、したがって、未熟さの結果である。
 未熱さが苦しみの原因である以上、霊は、地上において、なした悪によって苦しむだけでなく、なし得たにもかかわらず、なさなかった善によっても苦しむ。
 第7条  霊は、自分のなした悪がどのような結果を招いたかまで、つぶさに見せられるので、反省が進み、更生への意欲が高まらざるを得ない。
 第8条  神の正義は無限である。すなわち、善と悪は、すべて厳正に評価される。それが、どんなに小さなものであれ、たった一つの悪しき行為、たった一つの悪しき思いでさえ、見逃されることはなく、それが、どんなにささやかなものであれ、たった一つのよき行為、たった一つのよき思いでさえ、評価されないことはない。
 どのような邪悪な人間であれ、それが、どんなに些細なものであれ、善をなせば、それは必ず評価される。その瞬間こそ、向上への第一歩だからである。
 第9条  あらゆる過ち、あらゆる悪は、債務となり、必ず、それを償わなければならない。ある転生で、それが返済されなかった場合には、それは、次の転生に持ち越される。そこでも償われなければ、さらに次の転生に持ち越される。
 というのも、すべての転生は関連しているからである。もし、いまの転生で弁済した場合には、二度と支払う必要はない。
 第10条  霊は、霊界においても、物質界においても、みずからの末熱さに由来する苦しみを引き受けなければならない。
 物質界で引き受ける、あらゆる悲惨、あらゆる不幸は、われわれの未熱さの結果、すなわち、今世、あるいは、それ以前の転生でなした過ちの償いである。したがって、地上で経験している苦悩、不幸の性質を分析してみれば、自分が、今世、あるいは過去世でなした過ちの性質が分かるし、その過ちの原因となった自分の欠点の性質も分かるはずである。
 第11条  償いは、犯した過ちの重さと性質によって、それぞれ異なる。したがって、同じ程度の重さの過ちであっても、それが犯された状況に応じて、軽減されたり加重されたりする。
 第12条  償いの種類と期間に関しては、絶対的な、あるいは画一的な決まりがあるわけではない。唯一の普遍的な決まりは、「それが、どのように評価されるかに応じて、過ちは罰を受け、善行は報いを受ける」ということである。
 第13条  罰の期間は、罰を受けている霊が、どれほど向上したかに応じて変化する。前もって期間が限定された罰というものは存在しない。霊が深く反省した上で向上を果たし、善の道に戻ったとき、神が、その罰に終止符を打つのである。
 そのようにして、霊は常に自分の運命を自分で決めることができる。かたくなに悪にとどまりつづけることで、苦しみを長引かせることも可能だし、努力して善をなすことによって、苦しみを和らげ、その期間を短縮することも可能なのである。
 期間があらかじめ決められている処罰は、次の二点で不都合をはらんでいる。
 まず、すでに向上を果たした霊をそのまま罰しつづける可能性がある。次に、まだ悪から脱していない霊を解放する可能性がある。
 神は正義であるから、悪を、それが存在しつづけるかぎりにおいて罰するのである。言葉を換えて言えば、悪は、結局は心の問題であり、それ自体が苦しみの原因となるから、悪が存在するかぎり、苦しみも続くというわけである。心の中の悪がなくなるに応じて、苦しみもまた軽くなる。
 第14条  罰の期間は向上のいかんにかかわっている。したがって、罪を犯した霊が向上しないかぎり、苦しみは続く。それは、その霊にとっては永遠に続くように思われるだろう。
 第15条  反省しない霊は、苦しみがいつ終わるか、まったく分からないので、それが、あたかも永遠に続くかのように感じる。そのために、「永劫の刑罰を受けている」と思うのである。
 第16条  悔悟が向上への第一歩である。しかし、それだけでは不充分であって、さらに、償いが必要となる。悔悟と償いによって初めて、過ちと、その結果を消し去ることが可能となる。
 悔悟によって希望が生まれ、再起への道が開かれるので、悔悟は償いの苦しさを和らげることになる。しかし、償いを行って初めて、罪の原因が消滅し、したがって、その結果である罪も消えるのである。
 第17条  悔悟は、いつでも、どこでも生じ得る。悔悟が遅れれば、それだけ苦しみは長引く。
 償いとは、肉体的、精神的な苦痛のことであり、犯された過ちに付随する結果である。この世で始まることもあり、死んでから霊界で行われることもあり、あるいは、次の物質界への転生の際に行われることもある。過ちの痕跡が消滅するまで続くのである。償いとは、自分の悪事の対象となった人に対して善を行うことである。
 みずからの弱さ、あるいは、意志の欠如によって、今世じゅうに過ちの償いができなかった者は、今後の転生において、みずからが選んだ条件のもとに、その人と出会うことになる。そして、自分が犯した悪に見合う善を、その人に対して行う必要があるのである。
 あらゆる過ちが、直接、目に見える犠牲を引き起こすとは限らない。その場合には、次のようにすれば償いが完了する。
 なすべきであったにもかかわらず、なさなかったことをなす。怠った、あるいは無視した義務を果たし、成し遂げられなかった使命を完了させる。
 また、すでになした悪に見合う善を行う。つまり、倣慢であった者は謙虚になり、冷酷だった者は優しくなり、エゴイストだった者は思いやりを持ち、悪意に満ちていた者は善意の人となり、怠け者だった者は勤勉となり、無用だった者は有用な人間となり、放蕩を行った者は節度を取り戻し、悪しき見本だった者はよき見本となる。そういうことである。こうすることによって、霊は、過去を有効に利用することができるのである。
 第18条  悪霊となった者は、幸福な世界から排除される。そうしないと、幸福な世界の調和を乱すからである。
 彼らは、下位の世界にとどまり、辛酸をなめつつ、償いを果たす。そうして、徐々に未熱さから脱していくのである。 その結果、優れた世界に移動していくことが可能となる。
 第19条  霊には、常に自由意志があるので、向上は、ときには遅く、また、いつまでも悪を改めない者もいる。何年も、何十年も、さらには、何世紀も悪にとどまる者がいる。しかし、その空いばりにもかかわらず、最後には、苦しみに屈服し、神に反抗することをやめ、至上者の権能を認めざるを得なくなる。悔悟の最初の光が心に射しはじめるや、神は、それに応じて希望をかいま見させるのである。
 いかなる霊といえども、「向上の可能性がいっさいない」という状況に追い込まれることはない。だが、みずからの自由意志を行使して、霊自身が、進んで、永遠に劣った状態に身を置き、あらゆる被造物に適用される、神聖なる進化の法則から逃れつづけることは、可能である。
 第20条  霊がどれほど未熟であろうと、邪悪であろうと、神が霊を見捨てることはない。どの霊にも守護霊が付いており、その心境の変化をうかがい、彼らの内に、よき思い、向上への欲求、犯してしまった悪を償おうとする気持ちを起こさせようとして、働きかけている。
 一方では、指導霊が、決して強制することなく、本人には知られないかたちで働きかけている。霊は、外部から何らかのかたちで強制されるのではなく、自分自身の意志で向上していかねばならないからである。自由意志を発揮して、よい方向にも悪い方向にも進めるが、「どちらかの方向に、強制的に追いやられて、引き返すことができなくなる」ということはない。
 悪をなした場合、悪の道にとどまりつづけるかぎり、その結果としての苦しみを引き受けつづけざるを得ない。善に向かって一歩でも歩みを開始すれば、ただちに、その成果は表れはじめる。
 第21条  各自が責任を負うのは、自分が犯した過ちに対してのみである。何人といえども、他者の罰を引き受けることはない。ただし、みずからが悪の手本となり、他者にも悪を犯させた場合、また、悪の発生を防ぐことが可能であったにもかかわらず、それを行わなかった場合は別である。
 また、自殺は常に罰せられる。冷酷さによって他者を絶望に追いやり、その結果、自殺せしめた者は、自殺した者よりも重い罰を受ける。
 第22条  罰の種類は無限にあるが、未熟な魂に対する罰は、ある程度、決まっている。ニュアンスの違いは多少あるが、結果的にはだいたい同じである。
 霊的進化を怠り、物質に執着した者に対する罰は、まず、「魂と肉体の分離がなかなか行われない」ということである。死の苦しみが続き、霊界への移行が困難となる。その混乱の期間は、場合によっては、数カ月、数年に及ぶこともある。
 それとは逆に、意識の浄化が進んでいる者は、生前からすでに霊的生活を送って物質から解放されているために、肉体と魂の分離は動揺もなく急速に行われ、霊界への穏やかな目覚めを得ることができる。この場合、混乱はほとんど見られない。
 第23条  精神的に未熟な霊は、死んだのにもかかわらず、自分がまだ生きていると思うことが多い。この錯覚は、数年にわたって続くこともあり、そのあいだじゅう、彼は、地上生活における、あらゆる欲望、あらゆる苦悩、あらゆる不都合を感じつづける。
 第24条  犯罪者は、自分の犯罪の犠牲者、犯罪が行われたときの様子を、繰り返し再現して見せられる。これは実につらいものである。
 第25条  ある者たちは、漆黒の闇の中に放置される。ある者たちは、絶対的な孤立の中に置かれる。自分がどこにいて、この先どうなるのかが、まったく分からないのである。
 最も重大な罪を犯した者たちは、最も厳しい拷問を経験するが、いつ終わるか分からないだけに、それは本当に耐えがたいものとなる。大多数は、親しかった者たちに会うことを禁じられる。原則として、全員が、犠牲者が味わったのと同じ痛み、苦悩、欠乏を経験させられる。
 やがて、悔悟ならびに償いへの欲求が生じると、苦痛は和らぎはじめ、そうした苦しい状況に、自分自身で終止符を打てるという可能性が見えてくる。
 第26条  傲慢に暮らしていた者は、自分が地上にいたときに軽蔑していた者たちが、栄光に包まれ、人々に囲まれ、称賛されて、はるかな高みにいるのを見る。自分は最下層に落とされているのに、である。
 偽善者は、光に貫かれて、心の奥に秘めていた考えを全員に暴露される。逃げも隠れもできないのである。官能に溺れていた者は、あらゆる誘惑、あらゆる欲望にさらされるが、決して満足を得ることができない。守銭奴だった者は、自分の金がどんどん他人によって使われるのを見るが、それを防ぐすべはない。
 エゴイストだった者は、全員に見捨てられることによって、かつて自分が他者に与えていた苦しみを経験するのである。喉が渇いても、誰も水をくれない。腹がすいても、誰も食べ物をくれない。誰も手を差し伸べてくれず、誰も慰めの声をかけてくれない。彼は、生前、自分のことしか考えなかったので、彼が死んでも、誰も彼のことを思ってくれないし、誰も悲しんでくれないのである。
 第27条  死後、みずからの過ちの結果としての罪を避けたり、あるいは軽減したりするには、生きているあいだに、できるだけ、それを解消しておく必要がある。そのためには、充分な反省を経て、その悪事を償うことである。そうすれば、死後に、もっと恐ろしいやり方で償うことを免除される。
 過ちを解消する時期が遅れれば遅れるほど、その帰結は、より苦痛に満ちたものとなり、果たすべき償いは、より厳しいものとなる。
 第28条  死後の霊の境涯は、生前の心境に正確に対応したものとなる。やがて、新たな転生輪廻の機会を与えられるが、それは、新たな試練を通して償いを果たすためである。
 だが、それも、すべて彼の自由意志に任されているため、もし、その機会を充分に生かさなかったとしたら、さらに、次の転生で、今度は、もっと厳しい条件のもとに再度チャレンジすることになる。したがって、地上生活を通じて、多くの苦しみを経験している者は、「それだけ、自分には償うべき過去の過ちがある」と自覚することが大切である。
 また、悪徳を重ね、社会に役立つことをしていないにもかかわらず、表向きは幸福を享受しているように見える人間がいるとすれば、次の転生で高く支払わされることを覚悟しなくてはなるまい。そうした意味を込めて、イエスは次のように言ったのである。「苦しむ者は幸いである。彼らは慰めを得るであろう」
 第29条  神の慈悲は無限である。だが、神は一方で極めて厳格でもある。神が罪人を許すということは、罪を免除するということではない。罪人は、その罪を償わないかぎり、過ちの帰結を引き受けざるを得ない。
 神の慈悲が無限であるとは、「神が、善に戻ろうとする罪人に対して常に扉を開いて待っていてくださる」という意味であり、「本当に悔い改めた者は必ず許してくださる」という意味なのである。
 第30条  罰は一時的なものであり、自由意志に基づく悔悟と償いによって解消されるが、それは、罰であると同時に、また、悪を犯すことによって傷ついた心を癒すための治療でもある。したがって、罰を受けている霊は、徒刑を科せられた罪人というよりも、むしろ、病院に収容されている病人と見るべきなのである。
 この病人たちは、みずからの過ちの結果である病気に苦しみ、また、それを治すためのつらい処置も受けなければならないが、治る希望を失っているわけでは決してない。そして、思いやりを込めて医者が書いてくれた処方箋に、忠実に従えば従うほど、治る見込みは高くなるのである。処方箋に従わない場合、医者にできることは何もない。
 第31条  霊は、地上に転生してくると、霊界で決意してきた解決手段を実行して、過去世で集積した悪を償おうとする。
 したがって、一見、存在理由がないように思われる、種々の悲惨や不遇などにも、本当は、それなりの、しっかりした理由があるということを知らなければならない。それらは過去の悪行の帰結であって、われわれが進化するためには必要不可欠なのである。
 第32条  「神が、人間を、決して間違いを犯さないように完璧に創ってくだされば、人間は、未熱さに由来する不幸を経験しなくても済んだのに」と思う人もいるかもしれない。神が、知識においても精神性においても完璧な人間を創ろうと思えば、当然、そうできたはずである。だが、そうはなさらなかった。というのも、叡智に満ちた神は、進化の法則にすべてを委ねることを選ばれたからである。
 人間が不完全であり、したがって、程度の差はあれ、必ず不幸に見舞われるということは事実であって、認めざるを得ない。すでに、そうなっているからである。そのことをもって、神が善でもなく公正でもないと考えるとすれば、それは神への反逆となるだろう。
 たとえば、もし、あらかじめ神から特権を与えられており、他の人間が苦労しなければ手に入れられない幸福、あるいは、他の人間がどんな苦労をしても決して手に入れられない幸福を、何の努力もなしに与えられるような人間がいるとすれば、それは、神が公正さを欠くということにもなるだろう。
 しかし、霊は絶対的な公平さのもとに創られたのである。あらゆる霊は同じように創られた。最初に創られたとき、その能力には差がまったくなかった。例外的な扱いを受けた霊はただの一人も存在しなかったのである。目的に達した霊は、必ず、他の霊と同様に、未熟な状態から試練の段階を経て徐々に向上していった霊なのである。
 以上のように考えてみれば、行動の自由が全員に与えられていることになり、これ以上、公平なことはない。幸福への道は全員に開かれているのである。
 目的も、全員同じである。目的に達するための条件も、全員同じである。そして、そのための決まりも、全員の意識の中に、しっかりと刻み込まれている。神は、努力の結果として、全員に公平に幸福を与えてくださるのであって、特別措置によって、限られた者にだけ幸福を与えるわけではない。
 各人は、努力することにおいて、また、努力しないことにおいて自由である。一生懸命、努力する者は、早く報いられる。途中で迷ったり、道草を食ったりする者は、当然、目的地に着くのが遅くなる。しかし、それも、すべて自分の責任である。
 善を行うのも、悪を行うのも、各人の自由に任されている。まったく自由であって、どちらかの方向に強制的に向かわせられるということはない。
 第33条  未熟な霊を待ち受ける苦しみは、その種類も程度もさまざまであるが、死後の運命を決める規則は、次の三つの原理に要約される。
 ①  苦しみは未熟さから生じる。
 ②  あらゆる未熟さ、そして、それに由来する、あらゆる過ちは、それ自体に罰を内包している。不摂生をすれば病気になるように、また、無為が必ず退屈につながるように、未熱さは、必然的に、過ち、そして罰という帰結を生み出す。したがって、それぞれの過ち、また、個人ごとに、特別の罰を考え出す必要はない。
 ③  人間は、誰でも、意志の力によって、その未熟さから脱することができ、したがって、未熟さの当然の帰結としての悪を免れることができる。そして、そのことによって幸福になれるということが保証されている。

 以上が、神の正義による法である。すなわち、霊界においても、地上においても、各人の努力に応じた結果が与えられるということである。

       (アラン・カルデック「前掲書」、pp. 316-332)











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