21. 霊界での再会 21-a (霊界で必ず叶えられる愛する者との再会) 私たちは老化も病気も霊の成長を妨げることはないこと、死によって物的身体がもたらしていた一切の痛みと苦労と障害から解放されると申し上げております。死はけっして愛する者との間を、永遠に引き裂くものでないこと、いつかは必ず再会の時が訪れること、それも、どこやら遠い遠いところにある掴みどころのない空想的な境涯においてではなく、物的世界に閉じ込められている人間が理解しうるいかなる生活よりもはるかに実感のある実在の世界において叶えられると申し上げているのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.48-49 ***** 21-b (愛し合う二人のうち一人が他界した場合、霊界で再会できるか) その通りです。ただし、互いに愛し合っていた場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。愛はその対象から切り離して存在することはできません。地上というのはほんの一時的な生活の場にすぎません。肉体に不老不死はありえません。ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれは、いよいよその時(死期)が近づいた人を祝ってあげるのが本当なのです。そして又、いずれは自分もあとから行って、地上では想像もできない、より大きな光明と美と驚異の世界でいっしょに生活することになることを知ってください。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 68 ***** 21-c (霊界へ行った時かつての地上での仲間や親族と一緒になれるか) その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろんいっしょになれます。こうしたことは収まるべくして自然に収まる問題です。あなたは今これまで霊的に到達した境涯、段階、存在の場を占めているのです。それと同じレベルにある者はみな似たような発達状態にあるのです。ですから、ご質問に対する答えは、あなたがその人たちと同じ霊的発達段階に至ればいっしょになれます、ということになります。向上の道はつねに開かれております。完全へ向けての、永遠に続く奮闘です。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 102 ***** 21-d [2-t ] (私たちが死んだら霊界へはどのようにして行くのか) 死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異状による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。そして、先に他界している縁者たちがその人の玉の緒″が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します。 次に考慮しなければならないのは意識の回復の問題ですが、これは新参者各自の真理の理解度に掛かっています。死後にも生活があるという事実をまったく知らない場合、あるいは間違った来世観が染み込んでいて理解力の芽生えに時間を要する場合は、睡眠に似た休息の過程を経ることになります。 その状態は自覚が自然に芽生えるまで続きます。長くかかる場合もあれば短い場合もあります。人によって異なります。知識をたずさえた人には問題はありません。物質の世界から霊の世界へすんなりと入り、環境への順応もスピーディです。意識が回復した一瞬は歓喜の一瞬となります。なぜなら、先に他界している縁のある人たちが迎えに来てくれているからです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 103 ***** 21-e (脳の障害で醜くなって死んだ妹を霊界で識別できるか) ---「私が他界した時にすぐに妹が分かるでしょぅか。今も地上にいた時と同じ姿をしているのでしょうか。なぜ妹は四〇年間もそういう醜い状態で地上生活を送らねばならなかったのでしょうか」 という質問に対して--- この種の問題はほんとうは個人的感情を抜きにしてその原理を直接扱えば簡単に片づくのですが、それが出来ないのが残念です。地上に生をうけているいかなる人間も、代償の法則、ときには懲罰とも言うべきものから逃れることはできません。ある段階において必ず霊的な貸借の差引勘定が行われ、貸し借り無しの状態となります。そちらで欠陥のあった人はこちらでそれ相当の埋め合わせがあります。 不具といってもそれは肉体上の不完全さであって、精神や霊が不具になることは絶対にありません。何らかの脳の障害によって精神や霊が表現の機会を与えられなかったことから生じる未熟な精神、未熟な霊ならあります。そうした霊は他界した時点ではたぶん幼児のような進化の程度でしょう。しかし、精神または霊には何の障害もありません。 なぜそういうことになったということですが、これはさらに複雑な問題です。因果律、器具の扱い方の間違い、処置の不手際、こうしたものが重なって身体が害され、脳が本来の表現と認識の道具としての機能が果たせなくなったわけです。なぜそうなったのか? もしかしたらカルマが働いていたのかも知れません。が、私は個人的なことにはお答えするわけにはいきません。私はあくまでそれに関わっている原理、原則しか扱えません。 (妹さんの)識別は想像されているほど困難なものではありません。他界してきた人はその人と何らかの縁故のある人たちによって看護されます。その人たちは死期が近づいたことを察知することができ、迎えに出ます。霊というものは自分の識別を容易にしてあげるために一時的にどんな形体でもとることができます。子供の時に他界して地上の時間にして何十年もたっている場合、その母親が他界してきた時に一時的に他界時の子供の姿になってみせることができます。ですから、それはご心配なさる必要はありません。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 111-113 ***** 21-f (霊界へ行った時、縁者に知らせる連絡組織があるのか) そういう人たちは常にあなたといっしょですから、そういう組織は必要ありません。あなたご自身が覚悟するずっと以前からあなたの死期を察しております。そしていよいよその時期が到来すると、そばに来て待機します。宇宙で愛ほど強力な引力はありません。愛でつながった人はけっして離ればなれにはなりません。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.113-114 ***** 21-g (霊界で出迎えてくれるのは他界者と同じ霊格の者だけか) ― 人間が死ぬと肉親や愛する人たちが出迎えて手引きしてくれるそうですが、それらの霊は他界者と同じ霊格の者ばかりでしょうか。 そうではありません。なぜなら、その霊たちは死後も霊的に進化しているからです。他界してきた者のレベルに合わせて交信するために、言わば階段を下りてくるのです。霊的成長とは成熟していくことであることを理解しないといけません。 地上の年齢とは一致しません。では、さっき述べた完全な悟りに到達できるのはどの段階においてかということですが、これはお答えしにくい問題です。と申しますのは、悟りというのは固定した限りあるものではなく、いつまでも成長し続ける状態だからです。悟りには無限の奥行きがあります。これでおしまいという終点がないのです。深まれば深まるほど、さらにその奥に悟るべきものがあることを自覚するものです。 それは事実上永遠に続く過程です。段階的に少しずつ理解が深まっていく過程です。無知の状態からいきなり悟りが開かれるという、そういう突然の変化ではありません。段階があり、魂がより高い段階への準備が整うにつれて、少しずつ開けていくのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.61-62 ***** 21-h (一つの家族が霊界へ来ても自動的に合流するわけではない) =霊的なことにまったく理解を示してくれない夫が重病の床にあって悩んでいる熱心なスピリチュアリストの夫人に対して(23-j に続く) = 一つの家族が霊界へ来ても、自動的に合流するわけではありません。家族のメンバーが自然な霊的親和性をもっている場合にのみ、それが有りえます。親和性がなければ再会はありません。意識のレベルが違うからです。 夫婦の場合であれば、身体上の結婚だけでなく魂と精神においても結ばれていなければ、霊界での再会は不可能です。再会を決定づけるのは霊的親和性です。死後しばらくは血縁によるバイブレーションが残っていますが、それには永続性がありません。 霊は物質に勝ります。霊に関わるものは死後にも残り続けますが、物質に関わるものはそのうち消えます。お子さんにそのことをよく説明してあげないといけません。なかなかうまく説明できないかも知れませんが、とにかくすべてが不変の法則によって支配されているのです。その法則の根本にあるものは愛です。愛は大霊の表現です。神、創造主、どう呼ばれても結構です。 首をうなだれてはいけません。あなたはしっかりと導かれ援助をうけておられます。きっと乗り切ることができます。一瞬たりとも挫折の心配を抱いてはなりません。このたびの経験は結果的にはあなたの霊性を強化し、前途に横たわる未来において大きな豊かさをもたらしてくれる貴重な教訓を植えつけてくれることでしょう。 私は地上の同志の方に気楽な人生、何の障害もない人生をお約束することは絶対にできません。私から言えることは、障害も困難もその一つ一つが挑戦すべき目標だということです。一つ克服するごとに、あなたは霊的に成長するのです。 地上の人間はいつかは死ななくてはなりません。物的身体をたずさえて永遠に生きるということは、自然法則上、不可能なことです。無知と迷信から生まれる死の恐怖さえ克服すれば、地上の人間にとって死が暗闇から光明へ導いてくれる天使であり、地上で活用されることのなかった才覚と能力とを発揮する好機を与えてくれるものとして歓迎するようになることでしょう。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 117-119 22. 宇宙・地球 22-a (宇宙創造の目的についてどう考えるか) 目的はあります。永遠の時の中で成就すべき目的があります。生命は無窮の過去から存在し未来永却にわたって存在し続けます。しかしその生命のたどる道は、一つの頂上をきわめると次の頂上が見えてくるという、果てしない進化の道程です。一つの頂上をきわめるごとにあなたの霊的資質が向上して行くのです。 鍛錬によって人間は内部の神性が目覚め、より広く、より豊かなものを表現してまいります。地上的なアカが落とされ、霊の純金が姿を現します。これは当然のことながら苦痛を伴わない過程ではあり得ません。が、それも宇宙的機構に仕組まれた一部---比較対照の中で真理に目覚めるように意図された機構の一部なのです。 苦痛を知らずして健康の有難さを知ることはできません。日蔭を知らずして日向の有難さは分かりません。そうしたことのすべてが、リズムと調和の中で展開する創造活動の一大パノラマを演じているのです。 人間は永遠の海を当てもなく波に翻弄されているコルクではありません。永遠の創造活動の中の不可欠の存在なのです。自分の努力、自分の行為、自分の生活がそうした永遠の創造過程になにがしかの貢献をしているのです。神の息吹きの一部であり、無限なる霊の一部であり、永遠なる宇宙の一部であり、それが自分を通して働き、雄大なる宇宙的機構に光輝を加えることになるのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.96-97 ***** 22-b (巨大な宇宙の中にあってほんの小さなシミほどの知識で) こう申しては失礼ですが、あなたは物事をガラス越しに薄ぼんやりとみつめておられます。真剣ではいらっしゃるかも知れませんが、きわめて小さなレンズで覗いて全体を判断しようとなさっています。あなたにはまだ永遠の尺度で物事を考え判断することがおできになりません。この途方もなく巨大な宇宙の中にあって、ほんの小さなシミほどの知識しかお持ちでないからです。しかし今、それよりは少しばかり多くの知識を私たちがお授けしているわけです。 少しだけです。全知識をお授けしましょうとは申し上げません。それは私たちも持ち合わせていないのです。私たちはあなた方地上の人間より少しばかり多くの知識を手にしているだけです。あなた方より少しばかり永い生活体験があるからにすぎません。あなた方がこれから行かれる世界、私たちが本来の住処としている世界において、自然法則の仕組みと働きのいくつかを見てきているからです。 その体験と、私たちよりさらに多くを知っておられる上層界の方々から教わったことを土台として私たちは宇宙人生の計画と目的について一段と明確な認識を得ております。そこに完璧な摂理の働きを見ております。自然の摂理です。手落ちということを知らない法則、絶対に誤ることのない法則、極大から極小にいたるまでの宇宙間の全存在の全側面を認知し、何一つ無視することのない法則、すべてを包括し、すべての活動に責任をもつ法則です。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.98-99 ***** 22-c[25-f] (宇宙を支配する完璧な法則を信じるがゆえに) 私たちはその法則の完璧さに驚嘆しております。絶対に誤ることがないのです。そして私たちは、これまでに明かしていただいたその完璧さゆえに、愛と叡智と慈悲によって育まれた完全な計画の存在を知り、現時点で理解し得ないこと、まだ明かしていただいていない側面もまた、同じく完璧な法則によって支配されているものと確信しております。そう確信するだけの資格があると信じるのです。 その法則が構想においても働きにおいても完璧であるからには、当然その中に人間的な過ちに対する配慮も用意されているにきまっております。埋め合わせと懲罰が用意されております。邪悪の矯正があり、過ちと故意の悪行に対する罰があり、何の変哲もなく送った生活にもきちんとした裁きが為されております。 私から申し上げられるのはそれだけです、私がこれまで送ってきた(三千年にわたる)生活において、”自分は神の法則によって不当に扱われている---不公平だ”と真剣に言える者を一人も知りません。私の知るすべての者が神の永遠の公正はその規模において無限であり、その適用性において完全であることを認めております。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p.99 ***** 22-d [51-d](霊が地球に宿り悠久の時を経て生命として顕現しはじめた) ― (旧約聖書の天地創造の話を持ち出して)ある人たちはその創造活動に宇宙人が参加したと言っておりますが、いかがでしょうか。 申すまでもないことでしょうが、あなたは今、大気圏外から来た生物へ質問していらっしゃるのですよ! 創世紀その他の話に惑わされてはいけません。あなたの理性に照らして受け入れ難いものは拒絶なさることです。要するにあなたがお知りになりたいのは、地球はどうやって誕生したかという、その事実なのですから。 ― その説がたくさんあるのです。どれが事実なのかが分からないのです。 生意気を言うようですが、私はそうした説≠超えたものを手にしております。この問題に関しては少しばかり知識があるのです。地球は無窮の過去から存在し続けております。始まりもなく終わりもありません(※)。バイブルにもイエスが言ったとされる名文句があります―アブラハムが生まれる前から私は存在している″と。(※これは最後に引用されているバイブルの文句から察せられるように、地球という惑星を物的天体としてではなく霊的存在として考えた上でのことである。地上の万物に霊が宿っているように、地球そのものにも霊が宿っている―と言うよりは地球の霊が顕現したのが生きとし生けるものであると考える方が順序であろう。日本の古神道ではその生成過程を寓話風に物語っている―訳者) 霊は無窮の過去から存在しております。ある時ひょんなことから創造されたのではありません。それが地球に宿り、数え切れないほどの年数をけみして、やっと生命として顕現しはじめたのです。生命は霊であり、霊は生命です。永遠の過去から無限の可能性を秘めているのです。 その生命の誕生に大気圏外からの存在(※)が参加した事実はありません。内在していた生命力が無限の知性によって考案された進化の法則にしたがって顕現し、発達し、進化してきたのです。(※天地創造についての質問に対する答えの冒頭でシルバーバーチは自分のことを大気圏外からきた生物″という冗談めいた表現をしているが、これはもちろん霊界からやってきた霊″の意味で言っている。ここで言っているのは他の惑星からのいわゆる宇宙人の参加はなかったという意味であって、霊界からの働きかけは大々的に行われたものと想像される。生命の誕生はそれなくしては考えられないことで、今後の研究にまたれる面白くかつ重大なテーマであろう―訳者) 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 177-179 ***** 22-e [24-v] (地球は危機に瀕しているが一夜のうちに破滅することはない) 地上世界は今るつぼの中にあります。バイブルの中の説話のような善と悪との戦いがあります。富の神マモンの崇拝、あくなき貪欲と強欲と権力欲、高尚なものや霊的なものの抑圧― 要するに私が地上のガンと呼んでいる利己主義が生み出す不幸があります。 それと同時に、世俗的な意味での宗教はその威力、影響力、指導力を失っております。いやしくも知性を具えた者には到底信じ難い教義に今なお忠誠を尽くしているようでは、既成の宗教に背を向ける者がますます増えていくのは当然の成り行きです。 それに加えて、科学が間違った方向へ進みつつあります。果たして人類に益をもたらすのか、地球を破滅へ陥れるのではないかと思える、恐ろしいものを次々とこしらえております。人類は今まさに危機の十字路に立たされております。私たちが総力をあげて救済活動に乗りだしたのもそのためです。 それで平和と調和と親善と和合と協調を達成する唯一の方向を示して指導しているところです。その唯一の方向とは、地上の一人一人が霊的な一大家族の一員であり、その親にあたるのがあなた方のいう神、私のいう大霊であるという認識です。 私たちは何としてもこの仕事を成し遂げる覚悟です。ここにお集まりの皆さんをはじめとして、スピリチュアリズムの仕事にたずさわっておられる方はみな、霊的大軍勢の一翼を担っておられるのです。だからこそ試され鍛えられて、割り当てられたこの重大な仕事で万が一にも挫折のないようにしなければならないのです。 霊は物質に勝ります。物質の世界には霊力よりも強力な力は存在しません。たとえ時間は掛かっても必ず勝利を収めます。真理を手にした者には悲観主義も絶望も入る余地はありません。神が人間の頭を身体の一番高いところに置かれたのは、見上げることができるようにということからです。見下ろすようにということであったら足もとに頭が付いていることでしょう。 人類の霊的解放の仕事にたずさわる者は試練と挑戦を受けなくてはなりません。それが霊的発達の不可欠の要素なのです。それ以外に方法がないのです。いずれ霊界へ来られて地上時代を振り返ってごらんになれば、苦しい体験ほど大切な意義をもっていたことを知って神に感謝なさることでしょう。 遠い昔から人間は地球の悲劇の予言をいくつもして来ました。地球の終末の日時まで告げているものもあります。そこへキリストが再臨して人類を救うというのがキリスト教の信仰のようですが、そういうことにはなりません。キリストは二千年前に地上での使命をきちんと終えています。今は私の住んでいる同じ霊界においての使命に精励しておられます。それが今われわれのたずさわっている霊的真理普及の活動の指揮・命令です。 地球が一夜のうちに破滅することはありません。宇宙の大霊が無限の愛と叡智とをもって摂理を案出し、それによって巨大なもの、微細なもの、複雑なもの、単純なものの区別なく、存在のあらゆる側面を経綸しているのです。それは一歩一歩の進化という形で働くのであって、大変革によって一挙に行われるのではありません。人間の力にも制限が加えられています。人間にできないことがあるということです。自由意志が与えられていますが、それにも限界があります。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 188-191 ***** 22-f (人間が地球を破壊する力を持つことはできない) ― 地球の将来はどうなるのか教えていただけませんか。 たった一人の人間によっては無論のこと、何人の人がいっしょになっても、地球を破壊する力は持てませんから、地球はこれからも永遠に存在し続けます。地球にもたらす害にも、それを引き起こす手段にも、地球の存在自体に終止符を打たせるほどの規模にはならないように一定の限界というものが設けられています。 怖がってはいけません。神の意志は必ず成就されるのです。将来への展望には自信と楽観と積極性をもって、ご自分の役目を果たすことに専念なさることです。恐怖心、心配、不安、こうした霊力の働きかけを止め無気力にさせるようなものは、いっさい棄て去ってください。私たちから要求するのはそれだけです。出来るかぎりのことをなさっていればよいのです。それ以上のことは出来るわけがないのですから。 明日はどうなるかを案じてはいけません。明日は、潜在する神性を開発し、人生を物質的・精神的・霊的に存分に楽しみ、まわりに存在する素晴らしい霊的光輝をますます意識するようになる、その絶好の機会の到来を告げてくれるものなのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 191-192 ***** 22-g (宇宙はたった一つでその中に無数の生活の場がある) 宇宙はたった一つで、その中に無数の生活の場があります。生命は一つです。ただそれには無数の進化の段階があるということです。そうした霊的事実を説明しようとすると言語の不自由さが立ちはだかります。とは言え、このぎこちない不適切な記号を使用せざるを得ず、結果的には真相がうまく伝えられないということになります。生命は一つです。宇宙は一つです。境界線というものは存在しません。国境というものはありません。死んで行った人も相変らず同じこの宇宙で生き続けているのです。ただ地上とは異なるバイブレーションの世界、異なる意識の段階で生活しているというだけです。霊も、あなたの目には見えなくても同じ地上にいると考えてもよいのです。それはちょうど、あなたもご自分では気づかなくても、私と同じ霊界にいると考えてもよいのと同じです。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、pp.32-33 ***** 22-h (地球は進化しつつあり地震も雷も進化のしるしである) 神は法則であり、その法則は完ぺきです。しかし物質の世界に顧現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しつつあるということです。地震も雷も進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p. 109 ***** 22-i (宇宙の新しい側面が次々と明らかにされることの意味) 科学の発達によって精巧な機器が発明され、それによって宇宙の新しい側面が次々と明らかにされるようになりましたが、それは決して新しいものを生み出したわけではありません。無窮の過去から働き続けてきた法則の存在を今になってやっと知ったというに過ぎません。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.190 ***** 22-j[58-zv] (大自然の法則と一致しないものは絶対に発生しない) まったく新しいものが創造されるということはありません。何が生まれても、それはすでに存在していたものの一部分に過ぎません。大自然の法則と一致しないものが発生することは絶対にありません。法則はすべてを包摂しているからです。人間がその存在に気づくか気づかないかの問題です。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.191 23. 輪廻転生・類魂 23-a (再生の決定的な証拠を提供できないか) 霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などがありえるでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になってはじめて事実として認識されるのです。再生はないと言う者が私の世界にもいるのはそのためです。まだその事実を悟れる段階にまで達していないからそう言うにすぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしようがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話を芸術的センスのない人に聞かせてどうなります。意識の段階が違うのです。 『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、p.65 ***** 23-b (再生した回数を知っている霊はいるか) います。それがわかるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は"説く″だけで十分なはずです。私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。人が受けいれないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう。 『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、p.70 ***** 23-c (霊にはいくつかの側面がある) 私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号にすぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神God、私のいう大霊 Great Spiritの一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方は出来ません。生命力life force、動力dynamic 、活力vitality、本質real essence、神性divinity、それが霊です。かりに私が"あなたほどなたですか″と尋ねたらどう答えますか。"私はOOと申す者です″などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方かは皆目わかりません。個性があり、判断力をもち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することの出来る人-----それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。霊が引っ込めば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性をもっています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。その霊にいくつかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。もしも二人の人間が格別に相性がいい場合(めったにないことですが)、それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。そうなると当然二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます。 『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.75-76 ***** 23-d (再生は本当にあるのか) 再生は事実です。私はかつて地上へ再生したことのある霊に何人か会っております。特殊な使命を託された人、預けた質を取り戻したい人がみずからの意志で行うものです。 ただし再生するのは個的存在の別の側面です。同じ人格がそっくり再生するのではありません。ここに一個の意識的存在があって、そのごく小さな一部がちょうど氷山のように地上に顔を出します。それが誕生です。残りの大きい部分は顕現しておりません。次の誕生つまり再生の時にはその水面下の別の一部分が顔を出します。二つの部分に分れても個的存在全体としては一つです。これが霊界において進化を重ねていくと、その潜在している部分全体が顕現した状態になります。 『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.204-205 ***** 23-e (人は個霊として無限に再生を繰り返すのか) こうした存在の深奥に触れた問題をわずかな言葉でお答えするのは容易なことではありませんが、まず、正直に申して、その輪廻転生論者がどういうことを主張しているのか私は知りません。が私個人として言わせていただければ---絶対性を主張する資格はないからこういう言い方をするのですが---再生というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人たちと議論するつもりはありません。理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。どうしてもそうしなければならない目的があって生まれ変わるのです。あずけた質を取り戻しに行くのです。 ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顛を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのはその海面上の部分だけです。死後再び生まれてきた時は別の部分が海面上に顔を出します。潜在的自我の別の側面です。二人の人物となりますが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。霊界で向上進化を続けると、潜在的自我が常時発揮されるようになっていきます。再生問題を物質の目で理解しようとしたり判断しようとなさってはいけません。霊的知識の理解から生まれる叡智の目で洞察してください。そうすれば得心がいきます。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.95-96 ***** 23-f (人は自分の前生を思い出すことができるか) =「人は自分の前生を思い出してそれと断定できるものか」という 質問に対して= もしその人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることができれば、それは可能です。ですが、はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問です。その次元の意識は通常意識の次元からは遙かにかけ離れていますから、そこまで探りを入れるには大変な霊カが必要です。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、p.182 ***** 23-g [40-d] (再生は得心した人にとってのみ事実である) 講演後(40-a)の質疑応答:再生について今ここで語っていただけませんか。 実は私みずからが、みなさん方が体験しておられる難しさを味わっております。私は再生を認めておりますが、このバーバネルは認めようとしません(※)。自分の道具すら説得できないでいて、他の人を説得できるわけがないでしょう。(※これはシル・ハーバーチと・バーバネルとが別人であることの証拠としてよく話題にされたものであるが、晩年は、バーバネルも得心していた。なおこのコペンハーゲンでの交霊会がいつ行われたかは記されていないー訳者) 事実か事実でないかだけでもおっしゃっていただけませんか。 得心した人にとっては事実です。得心しない人にとっては事実ではありません。(真理の本質をついた名答というべきであるが、それにしてもなぜ要求にまともに応じなかったのか。私が思うに再生問題はスビリチュアリストの間でも異論の多い問題で、肯定派の中にさえさまざまな再生論があって、ここでシルバー・バーチが一方的に述べることはISFの内部に余計な波風を立てることになることを案じたのであろう---訳者) 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 162-163 ***** 23-h[40-zg] (再生と類魂=生まれてくるのは全体に寄与する一つの側面) 講演(40-zb)の質疑応答:― 身体の機能上の不平等はどうでしょうか。 奇形もしくは脳に異状のある場合のことをおっしゃりたいのでしょうか。それは別に扱わねばならない複雑な問題でして、これには宿業(カルマ)の要素が入ってきます。 ― カルマの要素があるということは再生もあるということでしょうか。 再生はあります。しかし一般に言われている形(機械的輪廻転生)での生れ変わりではありません。霊界には無数の側面をもった、霊的ダイヤモンドとでもいうべきものがあります。その側面が全体としての光沢と輝きを増すための体験を求めて地上へやってまいります。これでお分かりのように、地上へ生まれてきたパーソナリティは一個のインディビジュアリティの側面の一つということになります。少しも難しいことではないのですが、人間はそれを勘違いして“私は前世ではだれそれで、次はまた別の人間に生れ変わります”などと言います。そういうものではありません。生れてくるのはダイヤモンド全体に寄与する一つの側面です。その意味での再生はあります。地上で発揮するのは大きなインディビジュアリティのごくごく小さな一部分にすぎません。 かくして皆さんのおっしゃる類魂(グループソール)というものがあることになります。つまり霊的親族関係を有する霊の集団が一つの統一体を構成しており、それが全体としての進化を目的として、いろんな時代にいろんな土地に生れてその体験を持ち帰るわけです。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 200-201 ***** 23-i [40-zh] (類魂=永遠に消えることのない霊的親族関係が存在する) 講演(40-zb)の質疑応答:― インディビジュアリティがパーソナリティのひとかけらなのですか、それともその反対ですか。 パーソナリティがインディビジュアリティのひとかけらです。 ― みんなグループソールに属しているとなると、仲間の良い体験の恩恵をこうむると同時に、良くない体験の悪影響も忍ばねばならないのでしょうか。 その通りです。それが全体に寄与するのだと思えは、それも有難い体験です。 ― ということは、私が今苦しい思いをするのは必ずしも私自身のせいではないわけですね? そう認識なさることで安らぎをお感じになるのであれば、そうお考えになられて結構です。一つだけ秘密のカギをお教えしましょう。叡智が増えれば増えるほど選択の余地が少なくなるということです。増えた叡智があなたの果たすべき役割を迷うことなく的確に指示します。われわれはみずからの意志でこの道を志願した以上は、使命が達成されるまで頑張らねばなりません。あなた方はこの道をみずから選択なさったのです。ですから他に選択の余地はないことになります。 叡智というものは受け入れる用意ができた時にのみ与えられるものです。それが摂理なのです。私は使命を要請され、それを受諾しました。本日皆さんがこの私を招待してくださったということは、高級界のマウスピースとして、その叡智を取り次ぐという仕事において幾らかでも成功していることを意味していると受け取らせていただきます。 肉体的血族関係が終わっても、永遠に消えることのない霊的親族関係というものが存在します。それは永遠に続きます。結びつける絆は物質ではなく霊です。物質は儚い存在ですが、霊は永遠です。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 201-202 ***** 23-j(息子に再生をどのように教えていけばよいか =1= ) (霊的なことにまったく理解を示してくれない夫が重病の床にあって悩んでいる熱心なスピリチュアリストの夫人から =7-fに続く= ) ― 息子は再生というものを信じているらしいのです。しかし今自分の父親が死にかかっているのを見て不安を抱いております。父親が死んで家族が別れ別れになったあと、父親がどこかに再生してしまえば、はたしてうまく再会できるかどうかが心配だと言うのです。 そういう心配はご無用です。再生するまでには永い永い年月を要することがあるからです。あなた方の世界の諺で私もなかなか良いことを言っていると思うものに“橋のたもとに来るまでは橋を渡ってはいけない”(余計な取り越し苦労をするな)というのがあります。 再生はたしかにあるのですが、これにはいろんな要素がからんでおります。そのために、それが理解できない人に説明することは容易でありません。 私は再生が事実であることを、いささかの躊躇もなく断言します。ただ私は、すべての人が再生するとは言っておりません。私が言っているのは、人間の個性というのはそれ自体が独立した存在ではなくて、大きなダイヤモンドの無数の側面の一つにすぎないこと。その側面が地上へ誕生して体験を積み、それによって得られる霊的成長をダイヤモンドに持ち帰って、一段と光沢と輝きを増すことになるということです。 それは、支払うべき霊的借金とでもいうべき宿業をもった人が因果律の働きで戻って来る場合もありますし、進化した高級霊が特定のグループ、時には特定の国家のために貢献する使命をもって降誕する場合もあります。その霊のもつ資質と才能とがその地域の人たちに必要だからです。 これはとても複雑な問題です。私がダイヤモンドに例えているインディビジュアリティというのがあり、それは、たった一回の地上生活で発揮されるパーソナリティ(人物像)よりもはるかに大きなものであるということが理解できるようでなければ、この問題は扱えません。 そのパーソナリティとインディビジュアリティとを混同している方が多いようです。一個のインディビジュアリティがいくつもの分霊を出して地上にたくさんのパーソナリティをもつことができます。インディビジュアリティの物的表現、ないしは顕現です。数はたくさんですが、同じインディビジュアリティから出ているのです。 パーソナリティというのは仮面を意味するラテソ語のパーソナから来た言葉で、物的身体にまつわるものを意味します。インディビジュアリティが五つの物的感覚を通して自我を表現するための道具であり、氷山に例えれば水面上に出ているほんの一部にすぎません。 パーソナリティは地上でつけているマスクです。インディビジュアリティ、つまり本当の自我はめったに顔を出しません。(五感に邪魔されて)出そうにも出せないのです。死によって肉体から分離した時に自覚される大きな自我にくらべると実にお粗末なものしか表現しておりません。 このようにインディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きなものです。死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。パーソナリティはイソディビジュアリティによって投影された影にすぎません。そのインディビジュアリティが、肉体の死後、地上で発揮されなかった潜在的可能性を少しずつ発揮していきます。地上での特別な使命が託されている場合はインディビジュアリティの比較的大きい部分―多くの側面―がまとまって一個の肉体に宿ります。この場合にもダイヤモンドの光沢を増すための体験を積むという目的も兼ねているのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 114-117 ***** 23-k (息子に再生をどのように教えていけばよいか =2= ) 二人の人間がアフィニティ(霊的親族)であることがあります。別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつなのです。地上でそういう関係の人といっしょになれた時は、物的な富では測れない豊かさがもたらされます。アフィニティは同じダイヤモンドを構成している部分的側面です。こう申し上げても理解できないでしょうが、こうした霊的な問題は言語による説明がとても難しいのです。 一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それに幾つもの部分的側面があります。それらが別々の時代にパーソナリティとして地上に生をうけます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることに変わりありません。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p. 117 ***** 23-l [36-p] (前回の地上生活の時と同じ人物がそっくり再生するのではない) ― 次に生まれ変わるのはその地上生活で発揮したパーソナリティ(人物像)ではなくて、その奥の霊または魂なのですね。 その通りです。前回の地上生活の時と同じ人物がそっくり再生してくることは有りえません。人物像は肉体の死とともに消滅します。それはインディビジュアリティの物的表現にすぎません。 ― 私の考えでは、われわれは皆、かつてはもっと大きな意識をもっていたのを、今こうして地上に存在している間はそれを放棄し、死後霊界へ行ってからそれを取り戻すのだと理解しております。そう考えるといろんな疑問が解けるのです。 あなたは今歩んでおられる道を地上に来る前に選択されたのです。その時はその大きな意識で自覚しておられたのです。それが肉体に宿り脳を通して意識するようになって曇らされているのです。脳の意識では潜在意識の深奥は探れないからです。 その誕生前の意識を目覚めさせるためには、その触媒となるべき危機的体験を積まねばなりません。いつかは明瞭に意識する日が来ます。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 120-121 ***** 23-m (霊界から地上へ誕生しようとするのは何のためか) ― 地上へ誕生しようとするのは何か特別やりたいことがあるからでしょうか、それとも、より多くの知識を得るためでしょうか。 (両方ともそうですが)それ以外にも何か奉仕的な仕事を行い、その中で神から授かった霊的資質を開発するための場合もあります。 ― 私にとっては霊的知識こそ神からの授かりものです。 無限なる叡智をもつ神があなたに授けられたのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 121-122 ***** 23-n (地上への再生はどのようにして行われるか) ― ある書物に、われわれは同時に二つの場所に生まれ出ることができると書いてありました。事実でしょうか。 私は、真の自我であるダイヤモンドには無数の側面があり、それがさまざまな体験を持ち帰ってダイヤモンドの光沢を増す、という考えです。ダイヤモンド全体が一度に生まれてくることはありません。いかなる身体もインディビジュアリティのすべてを宿すことは不可能だからです。 パーソナリティとインディビジュアリティの違いを理解しないといけません。パーソナリティというのは物的身体を通して顕現した地上だけの人物像です。インディビジュアリティというのは魂の全体像です。その全体像を地上での七〇年や八〇年、あるいは九〇年の間に発揮することは到底不可能です。 “われわれ”とおっしゃった同じダイヤモンドの仲間の別の側面が同時に地上へ誕生することは有り得ることです。が、すべては法則と秩序によって規制されております。その時期が来るまでは余計な心配はなさらぬことです。 もう一度生まれ変りたいという顧望をもつようになる人がいます。奉仕的活動をしたいという場合もあります。成し遂げたい仕事がある場合もあります。償わねばならないカルマ的な“借金”が残っている場合もあります。そういう人たちが地上へ再生するのです。二度、三度とくり返すこともあります。が、いずれの場合も再生してくるのは其の自我すなわちインディビジュアリティの側面の一つです。 再生したくないのであれば、何もこの暗いじめじめした陰うつな世界へ戻ってくる必要はありません。真の自我に目覚めた人は再生してくる必要はありません。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 122-123 ***** 23-o (地上での用事がすべて終わったら再生してくることはない) ― なぜ再生してこない人がいるのでしょうか。そういう人はそれから先どうなるのでしょうか。 支払うべきカルマの負債もなく、やらねばならない仕事もないからです。地上での用事がすっかり終わったということです。もう地上へ戻ってきてすることがないのです。地上との一切の縁を切って、霊界での向上進化に専念することができます。 ― もう下層界へ下りることがないわけですね。ひたすら上へ向けて進歩し、下降することがないのですね。 進化は常に向上です。下降であれば退化となります。もっとも、進化は必ずしも直線的なものではありません。渦巻状に同じことをくり返しているようで、実際には着実に向上しています。 そこには因果律という自然の摂理が働いており、完全な公正が支配しています。人間の法律はごまかせますが、神の摂理はごまかせません。因果律が生み出すものには絶対的に従わねばなりません。あなたが心配なさる必要はありません。 ここでぜひ指摘しておきたいのは、地上の人間は再生というものを、今の自分にない一種の栄光に憧れる気持から信じている場合が多いということです。人間世界でいうところの“劣等感”です。現在の自分の身の上がいくらみじめでも、かつての前世では高貴な身の上だったのだと信じることによって慰めを得ようとするのです。 しかし再生とはそういうものではありません(前世では○○という人物だったというのはナンセンスです、と別のところ述べている―訳者)。自然の摂理によってきちんと公正が行きわたっております。必ずしも地上生活中にそうなるとはかぎりませんが、その場合は霊界において清算されます。そういうものなのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 123-125 ***** 23-p [50-k] (霊界へ行ってからでもカルマを清算することができるか) ― 霊界へ行ってからでもカルマを清算することができるのでしょうか。 むろんです。それが普通です。 ― ではなぜ地上へ戻って来るのでしょうか。 地上でしか支払えない借りがあるからです。地上の危急存亡の時に当たって何かの貢献をしたいという自発的な願望から、再生の道を選ぶのです。みんな何らかの貢献をするために再生してくるのです。すべてに計画性があるのです。 ― 私だったらこの地上よりそちらで償いをしたいですね! 選択の自由は与えられています。が、忘れないでいただきたいのは、その自由意志も相対的なものであることです。やりたくてもできないことがあり、また、どうしても選べないコースというのがあります。最終的にはあなたがそれまでに到達した霊的進化の程度が、次に取るべき手段を決定づけるからです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 125-126 ***** 23-q (地上へ再生するまでに霊界で何年くらい待つのか) ― 地上へ再生するまでに霊界で何年くらい、あるいは何世紀くらい待つのでしょうか。一〇六〇年という説があり、男性だった者は女性に生まれ変わるというのですが、本当でしょうか。 その数字はどなたが計算されたのでしょうか。 ― ある大学での講演で聞きました。 地上に戻ってくる人がいることは事実です。再生してくるわけですが、それまでの間隔は別に一定の年数が決められているわけではなく、あくまでも一つの計画に基づいてそうなるのです。 カルマによる義務の遂行のために戻ってくる人もいれば、自発的に地上での貢献を目的として戻ってくる人もいます。男性として戻ってくるか女性として戻ってくるかは、格別に重大なことではありません。私たちの世界には性差別防止条例はありませんので! 霊的進化の程度が唯一の基準です。男性であるか女性であるかは問題ではありません。大切なのはその人の行為です。 また、男性と女性にはそれぞれに果たすべき役目があり、双方が一体となって完全な全体ができあがるように、互いに補完し合うようになっているのです。互いがアフィニティであることを見つけ合うことがあるのはそのためです。そうなったら二度と別れ別れにはなりません。 ― 戻ってくることもあり戻ってこないこともあるということですね。 為すべき仕事があればそれをしに戻ってきます。仕事が未完のまま残されていればそれを仕上げに戻ってきます。すべては法則と秩序の問題です。ともかく地上で表現する自我は大きなインディビジュアリティのごく小さな一部にすぎません。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 126-128 ***** 23-r[53-a] (催眠術で前世を思い出すことにより教訓は得られるか) ― 前世を思い出すのに催眠術を使用するのがブームになっております。あのような体験で教訓が学べるものでしょうか。 学べることが皆無というわけではありません。が、そうした体験には、たんに現在の自分が立派でないことから、潜在意識が立派でありたかった願望を描こうとする、一種の虚栄心の表われであることがあります。 別のケースとして、それにカルマがからんでいる場合があり、過去世において大きな影響を及ぼした苦難または悲劇を現世に呼び戻し、それを意識することでカルマが消滅することがあります。これは好い結果をもたらす例です。が、それがただの取りとめもない想像にすぎないことが多いのです。 もう一つのケースとして、催眠状態における憑依霊のしわざである場合もあります。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 128-129 ***** 23-s [53-b] (催眠術での遡及によって過去世の証拠が得られるものか) ― 催眠術による遡及によって過去世の証拠が得られるものでしょうか。実際にはただの霊の憑依ないしは支配にすぎないのでしょうか。 いわゆる遡及によって前世とコンタクトできるという事実は否定しません。しかし、必ずしもそうでないところに問題があるのです。それというのも、人間の精神には莫大な可能性が秘められており、地上の人間には到底その深奥まで掘り下げることはできないからです。創造力もありますし、潜在的願望もありますし、霊によって憑依される可能性もあります。 こうした要素をすべて考慮に入れなくてはなりません。催眠中に体外遊離(幽体脱離)が起きて、その間の一連の記憶が印象づけられることもあります。こうした場合は過去世を思い出していることにはなりません。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p. 130 ***** 23-t [53-c] (催眠術による前世への遡及は用心してかからねばならない) ― 生まれ変る時は知り合いの霊の仲間ないしは高級霊団による指示と助力を受けるということを米国の心理学者が催眠術による遡及を通じて明らかにしているのですが、これについてどう思われますか。 地上で奉仕的な仕事に献身したいという自覚をもった霊は自発的に再生します。が、霊的真理に目覚めるまでに相当な期間を要することがあり、そうした霊の場合は守護霊や指導霊が手助けします。私はそうした問題については、いわゆる催眠術による遡及は頼りにならないと考えます。催眠術者は、せいぜい、前世とおぼしきものを引き出そうとしているに過ぎません。 ― その米国の心理学者は被術者に再生する時に痛みとか恐怖心とかが無かったかを聞いております。 施術者の動機がいかに真面目であっても、催眠術による前世への遡及はよくよく用心して掛からないといけません。催眠術の基本は“暗示性”にあります。したがって施術者が述べていることは控え目に受け取らないといけません。被術者は必ずしも施術者の暗示どおりに反応しているとはかぎらないからです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 130-131 ***** 23-u [39-t] (シルバー・バーチはもう生まれ変わることはない) ― あなたがもう一度肉体をまとって誕生なさる可能性はありますか。 ありません。私はもう二度と再生はしません。私にとって地上の年季奉公はもう終わっています。こうして戻ってきたのは皆さんを始め地上の人々の力となり、絶対に裏切ることのない霊的摂理と真理とをお教えするためです。人間が地上を仮の宿とした霊的存在であることをお教えして元気づけてあげたいと思っているのです。その真理の啓示を受けられた皆さんは幸せ者です。その啓示によって人生の視野が一変したことを感謝しなくてはいけません。 私も幸せ者です。お届けする高級界からの教えを受け入れてくださる方をこれほど多く見出すことができたのですから。その教えの中には貴重な真理がぎっしりと詰まっているのですが、問題はその価値を知るにはそれだけの受け入れ準備ができていなければならないということです。 『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p. 19 ***** 23-v (生まれ変わるのは同じ個体の別の側面である) 再生(生まれ変わり)というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人たちと議論するつもりはありません。理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大ぜい知っているのです。どうしてもそうせざるを得ない目的があって生まれ変わるのです。預けた質を取り戻しに行くのです。ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物ではありません。一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後再び生まれ出てきた時は別の部分が海面上に顔を出します。潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、pp. 224-225 24. 霊界と地上 24-a (他界した肉親が地上へ戻ってくる動機) 戻りたいという一念からです。ですが一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望は愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ父親はあらゆる障害を克服して戻ってくるのです。困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって息子は、父親の他界という不幸を通じて魂が目を覚まし霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが霊的発達のスタートという形で終ることになります。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.118-119 ***** 24-b (地上を去って霊界へ来たばかりの人の当惑) 地上を去って私たちの世界へ来られた人はみな、思いも寄らなかった大きな自己意識の激発、自己開発の意識のほとばしりに当惑するものです。肉体を脱ぎ棄て、精神が牢から解放されると、そうした自己意識のために地上での過ちを必要以上に後悔し、逆に功徳は必要以上に小さく評価しがちなものです。 そういうわけで、霊が真の自我に目覚めると、しばらくの間は正しい自己評価ができないものです。こうすればよかった、ああすべきだったと後悔し、せっかくの絶好のチャンスを無駄にしたという意識に嘖まれるものです。実際にはその人なりに徳を積み、善行や無私の行為を施しているものなのですが、その自覚に到達するには相当な期間が必要です。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.157-158 ***** 24-c(魂の修行場としてはいろんな面で有利である地上) (地上の方が有利であるのは)おっしゃる通りです。当然そうあらねばなりません。もしそうでなかったら地上へ生まれてくることもないでしょう。宇宙の生命の大機構の中にあって、この地球もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。潜在している才能が最初に目を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、p.166 ***** 24-d (霊界から見る地上は無知の程度がひどすぎる) 私たちの霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大へんな使命です。霊界から見る地上は無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊は見るに耐えかねるものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれがひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。地上の宗教家は、死の関門をくぐつた信者は魔法のように突如として言葉では尽くせないほどの喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。 死んで霊界へ来た人は---初期の段階においては---地上にいた時と少しも変わりません。肉体を棄てた---ただそれだけのことです。個性は少しも変わりません。性格はまったくいっしょです。習性も特性も性癖も個性も地上時代そのままです。利己的な人はあい変わらず利己的です。貪欲な人はあい変わらず貪欲です。無知な人はあい変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人はあい変わらず悩んでいます。少なくとも霊的覚醒が起きるまではそうです。 こうしたことがあまりに多すぎることから、霊的実在についてある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで私のような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。霊的というと、これまではどこか神秘的な受けとられ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊を説くということです。そのためには何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解、無知、偏見、虚偽、欺瞞、迷信---要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。 『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.24-25 ***** 24-e (人が本来の霊的能力を発揮できれば不安は消滅する) 人類の大半を占める人たちがまだ霊的なものを求める段階まで達していません。言いかえれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。 そこで私たちの方から言わば階段を下りなければならないのです。そのためには当然、それまでに身につけた霊的なものの多くをしばらくのあいだ置き去りにしなければなりません。 本当ならば人間側にも階段を上がってもらって、お互いが歩み寄るという形になれば有難いのですが、それはちょっと望めそうにありません。 しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することができれば、不安や疑いの念などはすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地において本来の力を発揮するものです。 『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p.30 ***** 24-f (死後どれくらいで地上へ連絡できるようになるのか) それは個々の事情によって異なります。こちらへ来て何世紀にもなるのに自分の身の上に何が起きたかが分からずにいる人もいます・・・・ 一方にはちゃんとした霊的知識をたずさえた人もいます。そういう人は、適当な霊媒さえ見つかれば、死んですぐにでもメッセージを送ることができます。そのコツを心得ているのです。このように、この問題は霊的知識があるか否かといった条件によって答えが異なる問題であり、単純にこうですとはお答えできません。 私たちが手を焼くのは、多くの人が死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来ることです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外ではあり得ないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。私たちの世界は精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです。 『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.31-32 ***** 24-g (いつも霊界から見つめられている地上の世界) いつものことながら、いよいよ物質の世界に戻ることになった時の気持はあまり楽しいものではありません。課せられた仕事の大へんさばかりが心にあります。しかし皆さん方の愛による援助をうけて、ささやかながら私の援助を必要としている人たち、そしてそれを受けとめてくださる人たちのために、こうして戻ってくるのです。 これまでのしばしの間、私は本来の住処において私の僚友とともに過してまいりましたが、どうやら私たちのこれまでの努力によって何とか成就できた仕事についての僚友たちの評価は、私が確かめたかぎりにおいては満足すべきものであったようです。これからも忠誠心と誠実さと協調精神さえ失わなければ、ますます発展していく神の計画の推進に挫折が生じる気遣いは毛頭ありません。 その原動力である霊の力がはたしてどこまで広がり行くのか、その際限を推し量ることは私にもできません。たずさわっている仕事の当面の成果と自分の受け持ちの範囲の事情についての情報は得られても、その努力の成果がはたして当初の計画どおりに行っているのかどうかについては知りませんし、知るべき立場にもないのです。私たちの力がどこまで役立っただろうか---多くの人が救われているだろうか、それとも僅かしかいなかっただろうか---そんな思いを抱きながらも私たちはひたすら努力を重ねるだけなのです。しかし上層界にはすべての連絡網を通じて情報を集めている霊団が控えています。必要に応じて大集会を催し、地上界の全域における反応をあらゆる手段を通じてキャッチして、計画の進捗ぐあいを査定し評価を下しているのです。 『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.35-36 ***** 24-h (死後の霊界での階層は何によって決まるか) ―交霊会に出席したある少年の質問に対してー 成長の度合が違うのです。しかしその違いは地上のようにものさしで計れるものとは違います。もし私がポール君に愚かな人と賢い人、あるいは欲張りと聖人との違いを寸法で計りなさいと言っても、そんなことはできませんね? しかし、それぞれの界に住む霊の成長には大きな差があるのです。こちらでは魂の成長に応じた界、つまりその人の知性と道徳性と霊性の程度にちょうどよく調和する界に住むようになります。界の違いはそこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界に住むことになります。 地上はその点が違います。物質界という同じレベルで生活しているからといって、みんな精神的に、あるいは霊的に、同じレベルの人たちばかりとはかぎりません。身体は同じレベルのもので出来ていますが、その身体つまり物質でできた肉体が無くなれば、魂のレベルに似合ったレベルの界へ行くことになります。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p.130 ***** 24-i (死後の幽体にも寿命のようなものがあるのか) それは地上の年数でかぞえるわけにはいきません。肉体が老いていくのとは違って、霊的向上に伴って生じる変化だからです。あなたには沢山の身体が具わっています。それらを幽体だのエーテル体だの霊体だのと呼んでおられるのですが、あなたはそのうちのいずれか、つまりそれまでに到達した霊的進化のレベルの自我を表現するのに似合ったものを使用します。そしてさらに進化すると、昆虫が脱皮するようにそれを脱ぎ棄てます。つまりあなたは常にその時点での霊格にふさわしい身体で自我を表現しているわけです。死後の身体はそういう過程をたどります。それが無限に続くのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 104 ***** 24-j (霊界へ行ってからでも自分を役立てる機会はあるか) ありますとも! 地上よりはるかに多くの機会があります。こちらには、あなた方の理解を超えた問題がいろいろとあります。霊的宇宙のいたるところに存在する無数の霊---病める霊、幼い霊、忘れ去られた霊、孤独な霊、いびつな霊、無知な霊、こうした不幸な霊の面倒を見なければならないのです。なぜこんな厄介なことになるのか---それはあなた方の世界がそういう霊を送り込んでくるからです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 109 ***** 24-k (霊界から見える私たちは霊体か人体か、それとも両方か) それは一言にはお答えできない問題です。その霊が開発した能力によって違ってくるからです。特殊な能力---地上の霊能者が使用する霊視力と同じものをもっておれば人体も見えますが、一般的に言えば霊は人間の霊体を見ている場合の方が多いです。今の私にはこの部屋の物体は何も見えません。ご出席の皆さんの霊体だけが見えております。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p.113 ***** 24-l (地上で目覚めなかった魂は霊界ではどうなるのか) これがとても厄介なのです。それはちょうど社会生活について何の予備知識もないまま大人の世界に放り込まれた人と同じです。最初は何の自覚もないままでスタートします。地上と霊界のどちらの世界にも適応できません。地上において霊界生活に備えた教訓を何一つ学はずに終わったのです。何の準備もできていないのです。身支度が整っていないのです。 ・・・・・・自覚のない魂はこちらでは手の施しようがありませんから、もう一度地上へ誕生せざるを得ない場合があります。霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして何百年、何千年とかかることもあります。 ---「親しい知人が援助してくれるのでしょう?」という質問に対して--- 出来るだけのことはします。しかし、自覚が芽生えるまでは暗闇の中にいます。自覚のないところに光明は射し込めないのです。それが私たちが直面する根本的な問題です。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.168-169 ***** 24-m [10-n] (生きがいある人生を送るには=7= 霊界と地上の違い) 地上世界の特異性は対照性、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです。これは霊界では有り得ないことです。各界が同じ性質の霊で構成されていて、対照的なものが存在しません。 地上生活の目的は善悪さまざまな体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです。進化は一直線に進むものではありません。スパイラルを描きながら進みます。表面的には美しく見えても、その底はあまり美しくないものがあります。 私が霊界の界層の話をする時、それは必ずしも丸い天体のことを言っているのではありません(※)。さまざまな発達段階の存在の場のことを指しており、それらが地理的に平面上で仕切られているのではなくて、低いレベルから高いレベルへと、段階的につながっているのです。 (※必ずしも≠ニ言っていることから察せられるように、地球と同じ丸い形をした界層も存在する。それが取りもなおさず地縛霊の世界で、地球圏の範囲から抜け出られないまま地上と同じような生活の場を形成している。同じことが各天体について言えると考えてよい―訳者) それが無限につながっており、これでおしまいという頂上がないのです。霊性が開発されるにつれて、さらに開発すべきものがあることに気づきます。知識と同じです。知れば知るほど、その先にもっと知るべきものが存在することに気づきます。 各界層にはほぼ同等の霊的発達段階にある者が集まっております。それより高い界層へ進むにはそれにふさわしい霊格を身につけなければなりません。それより低い界層へはいつでも行くことができます。現に私たちは今こうして低い界層の人々を啓発する使命を担って地上へ下りて来ております。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 33-34 ***** 24-n[9-g] (地上の物的財産が無くなれば霊界では貪欲も無くなるか) いわゆる幽界でも低級な境涯にはまだ貪欲とか権力欲とかが存在します。忘れてならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前とまったく同じであることです。地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。 私たちから皆さんを見ると、身体は影のように見え、皆さんが心に思っておられることの方が実体があります。このことはなかなか説明が難しいのですが、たとえば皆さんが夢を見ているのと同じだと思えばよろしい。夢の中に現れるものは夢を見ている間は実在です。もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。乗る船も飛行機も、訪れる国も、夢の中ではみな実在です。 こちらの世界では思念がすべてのものをこしらえる素材です。ですから心に思うことがみな存在するわけです。貪欲と権力欲をもったままこちらへやって来れば、それがこちらでは無用のものであることに気づくまで、それを持ち続けます。そうした地縛的状態から解放される段階まで成長すると、ようやく救われることになります。(これが本当の意味での“成仏する”ということ― 訳者) 困ったことに、権力欲や強欲は霊を地上へしばりつけます。身体的に死んでいますが、同時に霊的にも死んだも同然の状態です。波長が私たちより人間の方に近い状態です。そこで同じ欲に燃えた地上の人間と感応し合って、その欲望を増幅してまいります。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.71-72 ***** 24-o (権力欲や強欲は霊界へやって来た霊を地上へ縛りつける) ― と言うことは、地上近くをうろつく霊がますます増え、同時にそれが地上問題の解決を難しくしているということでしょうか。 その通りです。というのは、こちらの世界は地上からの他界者で構成されていることを知らねばなりません。地球からの渡来者しかいないのです(※)。何の用意も身支度もできていない未発達霊で適応性のない霊をそちらから送り込んでいるかぎり、地上と霊界双方の問題を増幅するばかりです。 それで私たちが地上人類の啓発のためにこうして働いているのです。暴力・貪欲・唯物思想・利己主義・強欲等々、要するに世界各地での戦争と不協和音と分裂の元凶である恐ろしいガンの発生を防ぐためです。 (※ 同じく“霊界”という言い方をしても地球圏の霊界、太陽の霊界、太陽系の霊界、銀河系の霊界、そして宇宙全体の規模の霊界がある。ここでは地球に限っての話である― 訳者) 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.72-73 ***** 24-p (霊界は地球を取り巻くように存在しているのか) ― 霊界はこの地球からの他界者で占められているとおっしゃいましたが、その世界は地球を取り巻くように存在しているのでしょうか。それともずっと遠くまで広がっているのでしょうか。霊界もたくさんあるのでしょうか。 神は無限です。生命は無限です。あなた方の小さな天球は宇宙の中の一個のマメ粒のような存在でしかありません。 ― 地球のような世界がたくさんあって、それぞれに霊界があるということですね? 霊の住む世界は無数に存在します。あなた方はこの宇宙の孤児ではありません。 ― となると“死後の世界”はどこにあるのかという問いにはどう答えたらよいのでしょうか。明確に答えるのは困難だと思いますが…… 死後の世界とは、要するに今生活している世界の目に見えない側面、耳に聞こえない側面のことです。死んでからではなく今の時点で霊の世界に住んでいるのです。死んでからそこへ行くのではありません。今いる場所に霊界があるのです。その世界の波長ないし振動、その他どう呼ばれても結構ですが、それをキャッチするための霊的感覚を発揮しないかぎり、それが認識できないというにすぎません。別個の世界ではないのです。宇宙全体を構成する不可欠の側面であり、地球もその小さな一側面にすぎません。 ― その見えない世界の存在を認識するために霊的感覚を養成することも、地上に生活しているわれわれの義務と言ってよいでしょうか。 おっしゃる通りです。物質の世界の裏側に霊的側面があることを認識してはじめて本当の意味で生きていることになります。霊的実在に気づかないかぎり、悲しいかな、霊的な意味で目と耳と口を塞がれているようなものです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.73-75 ***** 24-q (地上が陰欝に感じられるのであれば別の世界から来たことになるのでは) =「死んでから霊界へ行くのではなくて、今いる場所に霊界がある」(24p) と言われて= ― 霊界から地上へ戻ってくると地上が陰欝に感じられるとおっしゃいました。するとあなたはどこか別の場所からやって来ることになりますが…… 自我の表現形態が変わるのです。霊界でのいつもの振動の速度を落とす操作をするのです。地上の低いオクターブをキャッチするために高いオクターブの振動に属する要素を霊界にあずけてこなければなりません。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p.75 ***** 24-r (霊界と地上界の二つではなく何故霊界一つだけではいけないのか) ― なぜ霊界と物質界とが存在するのでしょうか。なぜ霊界一つだけではいけないのでしょうか。 それに対する答えは“なぜあなた方はお子さんを学校へ通わせるのですか”という問いに対する答えと同じです。学校を出たあとの生活で直面するさまざまな情況に備えて、勉強させるためです。 物質界へ来るのも同じ理由からです。地上を去ったあとに訪れる生活に備えさせるために、地上生活がさまざまな体験と挑戦の好機を提供してくれます。次の段階に備えるための学習の一課程です。 物質界、霊界、そして果てしなく広がる宇宙は、あなた方のいう神、私が大霊と呼んでいる絶対的エネルギーが顕現したものです。宇宙に存在する最高の力です。それは無限です。始まりも終わりもありません。その叡智も無限です。その愛も無限です。その貯蔵庫も無限です。 大霊の意志の表現である自然法則の働きは絶対です。かつて宇宙間に生じた現象、あるいはこれから生じるであろう現象で、その働きによる配慮が為されていないものは何一つありません。 人間界の法律は予期せぬ事情が生じて絶えず改正が行われます。しかし自然法則は完璧です。その働きの及ばないものは存在しません。誰一人、何一つ、極大・極小、複雑・単純に関係なく、その働きからはみ出るものはありません。宇宙間のあらゆる事物、あらゆる環境、あらゆる事情、あらゆる現象が不変・不滅の法則によって規則されているのです。 私が何よりもまず、その絶対的な大霊に崇敬の念を捧げるのはそのためです。荘厳さと深遠さにおいて、これに勝るものは何一つ、誰一人、存在しないのです。その知性の壮大さは到底地上の言語では表現できません。 皆さんのどなたよりも永いあいだ顕幽にまたがる生命の旅を続けている私は、今なお、あらゆる存在の次元において働いている自然の摂理の完ぺきさに驚くことの連続です。 そこで申し上げますが、宇宙に存在するものは何らかの役目があるからこそ存在しているということです。自然の摂理と調和して生きていれば、健康・幸福・霊的明るさ・精神的徳性という形でその恩沢を受けます。それは、内在する神性を発揮していることにほかならないからです。 あなたは有限の知性でもって無限なるものを理解しようとなさっていることを認識しておくことが大切です。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.75-77 ***** 24-s (霊界の高い界層では心と心との直接的な意志の伝達になる) ― 「あなたはその“大霊”と交信なさるのですか」という質問に対して― あなた方の理解しておられる“交信”の意味では“ノー”という答えになります。人間が交信するには口でしゃべるか、書くか、とにかく何か道具を使用しなければなりません。自分の言いたいことを伝えるには言語を使用しなければなりません。しかし言語は有限なものであり、したがって無限なものを表現することはできません。いかなる文章の達人も宇宙の無限性と、そこに存在するもの全てを、言語によって表現することは不可能です。 霊界では界層が高くなると意志の伝達が心と心との直接的なものとなります。そこで、私が大霊と交信し合うのかとのご質問ですが、交信が言語の使用を意味するのであればノーです。私たちは直接的に意志を通じ合うのです。大霊の無限の力にチャンネルを合わせて、できるだけ多くの力を頂戴するように努力するのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p.78 ***** 24-t[11-i] (地上の人間より霊界の霊の方が大霊と密接な関係があるのか) ― あなたたち霊の方が私たち人間より大霊と密接な関係にあるとお考えですか。 あなた方も同じように大霊と密接な関係にあります。なぜなら大霊はあなた方の内部に存在するからです。大霊の火花が一人ひとりに宿って生命を与えているからこそ生きていられるのです。 それとも、“密接”とおっしゃったのは大霊とのより大きな調和、より強い一体関係が得やすいという意味でしょうか。それならば “イエス”です。なぜなら霊には無限の可能性と完全性が秘められていて、こちらの方がそれを発揮しやすいからです。しかし地上においても霊界においても、その完全性をすべて発揮できる段階は来ません。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.78-79 24-u [18-x] (地上生活は霊界の生活と違って両極性から成っている) ― 時おり味わう精神的な苦悩は外部から来るのではなく内部から湧いてくるのでしょうか。 どちらからでもあります。よく理解していただきたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から成っていることです。霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、地上ではさまざまな発達段階の者が混ざり合って生活しております。ということは、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということです。かくして光があれば闇があり、温かさがあれば冷たさがあることになります。そこに地上生活の存在理由があるのです。そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。 言いかえれば地上は学校です。そこでいろいろと学ぶことによって、いつかは住むことになる霊の世界での生活での必要な教訓を身につけるのです。苦悩を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです。 たびたび申し上げておりますように、地上での出来事は正反対であると同時に相等しいということがあります。つまり同じコインの表と裏の関係です。魂が自我に目覚めるのはさまざまな体験の中においてこそです。それは鋼(はがね)を鍛える過程、あるいは原鉱を砕いて黄金を磨き出す工程と同じです。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 187-188 ***** 24-v [22-e](地球は危機に瀕しているが一夜のうちに破滅することはない) 地上世界は今るつぼの中にあります。バイブルの中の説話のような善と悪との戦いがあります。富の神マモンの崇拝、あくなき貪欲と強欲と権力欲、高尚なものや霊的なものの抑圧― 要するに私が地上のガンと呼んでいる利己主義が生み出す不幸があります。 それと同時に、世俗的な意味での宗教はその威力、影響力、指導力を失っております。いやしくも知性を具えた者には到底信じ難い教義に今なお忠誠を尽くしているようでは、既成の宗教に背を向ける者がますます増えていくのは当然の成り行きです。 それに加えて、科学が間違った方向へ進みつつあります。果たして人類に益をもたらすのか、地球を破滅へ陥れるのではないかと思える、恐ろしいものを次々とこしらえております。人類は今まさに危機の十字路に立たされております。私たちが総力をあげて救済活動に乗りだしたのもそのためです。 それで平和と調和と親善と和合と協調を達成する唯一の方向を示して指導しているところです。その唯一の方向とは、地上の一人一人が霊的な一大家族の一員であり、その親にあたるのがあなた方のいう神、私のいう大霊であるという認識です。 私たちは何としてもこの仕事を成し遂げる覚悟です。ここにお集まりの皆さんをはじめとして、スピリチュアリズムの仕事にたずさわっておられる方はみな、霊的大軍勢の一翼を担っておられるのです。だからこそ試され鍛えられて、割り当てられたこの重大な仕事で万が一にも挫折のないようにしなければならないのです。 霊は物質に勝ります。物質の世界には霊力よりも強力な力は存在しません。たとえ時間は掛かっても必ず勝利を収めます。真理を手にした者には悲観主義も絶望も入る余地はありません。神が人間の頭を身体の一番高いところに置かれたのは、見上げることができるようにということからです。見下ろすようにということであったら足もとに頭が付いていることでしょう。 人類の霊的解放の仕事にたずさわる者は試練と挑戦を受けなくてはなりません。それが霊的発達の不可欠の要素なのです。それ以外に方法がないのです。いずれ霊界へ来られて地上時代を振り返ってごらんになれば、苦しい体験ほど大切な意義をもっていたことを知って神に感謝なさることでしょう。 遠い昔から人間は地球の悲劇の予言をいくつもして来ました。地球の終末の日時まで告げているものもあります。そこへキリストが再臨して人類を救うというのがキリスト教の信仰のようですが、そういうことにはなりません。キリストは二千年前に地上での使命をきちんと終えています。今は私の住んでいる同じ霊界においての使命に精励しておられます。それが今われわれのたずさわっている霊的真理普及の活動の指揮・命令です。 地球が一夜のうちに破滅することはありません。宇宙の大霊が無限の愛と叡智とをもって摂理を案出し、それによって巨大なもの、微細なもの、複雑なもの、単純なものの区別なく、存在のあらゆる側面を経綸しているのです。それは一歩一歩の進化という形で働くのであって、大変革によって一挙に行われるのではありません。人間の力にも制限が加えられています。人間にできないことがあるということです。自由意志が与えられていますが、それにも限界があります。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 188-191 ***** 24-w (霊界の病める霊が地上の人間を悪へ誘わないようにはできないか) ― そうした魂の病める霊をなぜそちらの方で看視して、地上の人間を同じ道へ誘わないようにしていただけないのでしょうか。 そう簡単にはいかないのです。未熟な霊が次から次へと地上から送り込まれてまいります。それは霊界にとって迷惑なことです。そこで地上の人間が地上にいる間に霊界の生活に備えてもらおうと、今、霊的真理の普及に全力をあげているわけです。 ひとことで言えば、私たちが地上へ戻って来た目的はイエスが説いた“愛”の福音を説くことにあります。人間は互いに愛し合うべきであり、憎み合ったり報復し合ったりしてはいけません。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p. 193 ***** 24-x [28-e] (霊界で復讐心に燃えている霊たちを説得できないか) ― (刑事をしている人が初めてサークルに出席して質問した) 職業柄、私は多くの人間が恐ろしい行為によってあたら生命を失っていくのを見てきました。そして、しばしば思ったことですが、そうした犯罪が二度と起きなくするために、そちらで復讐心に燃えている霊たちを説得していただけないものでしょうか。 残念ながらそういう人たちはみな地縛霊となっており、みずからこしらえた牢獄に光が射し込むまでには大へんな時間を要します。これは大へん難しい問題でして、時間さえあればいろいろと敷衍してお話できるのですが、結論だけ申し上げれば、彼らへの対処の仕方は報復ではなく矯正を目的としたもの、つまり、精神的リハビリテーションでなくてはならないということです。やられたらやり返すのが公正ではありません。 ― 私は阻止することこそ公正であると考えておりました。 しかし現実には報復が優先されているのがほとんどです。旧約聖書では “目には目を、歯には歯を”でしたが、新約聖書ではイエスが隣人への愛を説いただけでなく、自分を憎む者をも愛せよ、と述べています。何ごとも最後は動機が問題となります。動機さえ正しければ、すべてがうまく収まります。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 193-195 ***** 24-y (霊の目から見える憎悪と凶暴性に満ちた地上の大気) 身体の健康状態とは別に、皆さんを取り巻いている雰囲気と地上全体を取り巻いている大気が憎悪と凶暴性に満ちていて、私たちが突き抜けるのに苦心惨憺することがあります。霊の目には見るも恐ろしい様相を呈しております。私たち霊団はそうした病める地上世界 ―貪欲をむき出しに、利己主義が支配し、本来の霊的属性を発揮している人がホンのひと握りしかいない世界を何とかして改めたいと望んでいるのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.25 ***** 24-z (地上の人間は現実界と霊界との繋がりを理解していない) 地上の人間は現実界と霊界とのつながりについての理解ができておりません。光り輝く高級霊からのインスピレーションに触れることができると同時に、ふとしたことから無知な低級霊のなすがままになっていることもあります。いずれの場合も同じ摂理の働きなのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.52 25. 裁き (賞罰・埋合わせ) 25-a (人はみな大自然の摂理によって裁かれる) いかなる問題においても、私たちは決して地上的観点から物ごとを見ないということ、地上的尺度で判断しないということ、人間的な憎しみや激情には絶対に巻き込まれないということ、往々にして人間の判断力を曇らせている近視眼的無分別に振り回されることはないということを忘れないでください。 さらに大切なこととして、いま定住している霊的世界における神の摂理の働きを体験してきた私たちは、地上の人間を悩ませる問題を人間自身の受け止め方とは違った受け止め方をしていること、あなた方と同じ視野で捉えていないということを知ってください。 以上の大切な前置きを大前提として申し上げますが、そうした問題において何よりもまず第一に考慮すべきことは “動機” です。自分は正しいことをしているのだと真剣に思い込んでいる人は、魂に罪過を負わせることにはなりません。いけないことと知りつつなおも固執する人間は明らかに罪過を犯していることになります。なぜなら道義心を踏みにじり魂の進化を阻害していることになるからです。私たちの目には国家の別はありません。全体が霊的存在で構成された一つの民族であり、一人一人が国家の法律でなく大自然の摂理によって裁かれるのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.59-60 ***** 25-b (霊界へ移るとき自家作用によって自分で自分を裁く) −息子を亡くしたある新聞編集者に対してー 地上の人々が霊的な摂理を理解し、内部に具わっている霊的資質が自然に発揮されるような自然な生活を送れば、(霊界と地上の)二つの世界の間にかかっているベールが突き破られ、すべての障害が撤去されることでしょう。その障害はことごとく人間の無知と迷信と偏見とによってこしらえられたものばかりなのです。言うなれば闇の勢力です。ぜひとも打ち破って、愛と力と導きと光明がふんだんに地上へ届けられるようにしなければなりません。 私がいつも知識の普及を口にするのはそのためです。霊的知識こそが、みずからを閉じ込めている牢獄から魂を解放する大きな力となるのです。自由という名の陽光の中で生きるべきでありながら暗い魂の牢獄の中で暮らしている人が多すぎます。 あなたもその仕事に参加できます。知識を伝達する機関(新聞社)にお勤めだからです。地上生活の総決算をする時がきたとき、つまり地上に別れを告げて霊の世界へと移られると、誰がするというのでもなく、自家作用によって、自分で自分を裁くことになります。そのときの判決の基準は地上で何を考えたかでもなく、何を信じたかでもありません。世の中のためにどれだけ自分を役立てたかということです。 私が説いているのは “人のために” という福音です。人のために惜しみなく自分を役立てなさいと言っているのです。そうするとあなたがこの世に存在したことによって世の中が豊かになるわけです。簡単なことなのです。改めて説くのもおかしいくらい当たり前のことなのです。ですが、やはり真実です。地上世界は単純さという本通りから外れて、ややこしい複雑な脇道に迷い込んでいます。あまりに複雑なものに惑わされて単純な真理が受け入れられなくなっている精神構造の人が大勢います。ですが、単純な真理は単純であるがゆえにこそ強いのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.86-88 ***** 25-c (行為の一つ一つに例外なく働く埋め合わせと懲罰の法則) 霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをするための行ないに励むことになります。 33-a (幽霊と霊とはどう違うか) 幽霊も霊の一種です。が、霊が幽霊になってくれては困るのです。地上の人たちが幽霊と呼んでいるのは、地上生活がとてもみじめだったためにいつまでも地上の雰囲気から抜け出られないでいる霊が姿を見せた場合か、それとも、よほどのことがあって強い憎しみや恨みを抱いたその念がずっと残っていて、それが何かの拍子にその霊の姿となって見える場合の、いずれかです。幽霊さわぎの原因は大てい最初に述べた霊、つまり地上世界から抜け出られない霊のしわざである場合が多いようです。死んで地上を去っているのに、地上で送った生活、自分の欲望しか考えなかった生活がその霊を地上に縛りつけるのです。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) ***** 33-b (憑依される人にはそれなりの弱点がある) そうです。それは言えます。もともとその人間に潜在的な弱点がある。つまり例によって身体と精神と霊の閑係が調和を欠いているのです。邪霊をひきつける何らかの条件があるということです。アルコールの摂りすぎである場合もありましょう。薬物中毒である場合もありましょう。度を越した虚栄心、ないしは利己心が要因となることもあります。そうした要素が媒体となって、地上世界の欲望を今一度満たしたがっている霊を引きつけます。意識的に取り憑く霊もいますし、無意識のうちに憑っている場合もあります。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.151-152 ***** 33-c (物理的心霊現象が今日では珍らしくなってきたのはなぜか) ― 別の日の交霊会で、かつては物理的心霊現象が盛んに見られたのが今日では珍らしくなってきたのはどういうわけかと尋ねられて― それは物的側面の進化の法則だけでなく霊的側面の進化もあるからです。地上世界の思想的動向は当初と今とでは大きく変化しております。霊的実在を物的手段で証明してみせなければならない時代には物理的心霊現象が必要でした。当時の科学者は物的ものさしで計れないものを受け入れる用意ができていなかったのです。 今や核融合という目に見えない化学反応を利用して大災害も大恩恵も被ることができることを知りました。唯物科学の根底が崩れてしまいました。物質の究極と思っていた原子も、さらに細かく分解されてしまいました。今や科学者も物質は固体ではなく、実在は見えざる世界にあることを認めています。 そうした思想的動向と歩調を合わせて、霊的治療が発達し発展しております。それによっても物質を超えた霊力の存在を証明することができます。 『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 57-58 ***** 33-d(邪霊に憑依される人は憑依の条件を自分で作っている) 邪霊に憑依される人は、みずからそういう条件を内部でこしらえています。あくまでもその人個人の問題です。愛と奉仕の精神に燃えた人に高級霊が引き寄せられるのと原理は同じです。法則は良いことばかりに働くのではありません。崇高な目的に作用する法則が悪い方向に作用することもあります。問題はあなたがどういう心掛けでいるかに掛かっております。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.52 34. 勇気と臆病 34-a (人類がもっと臆病になれば戦争もなくなるのではないか) 臆病も人間としての情の自然な発露です。私はいつも人生とは対照の中で営まれている---愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒措したのが臆病である、と申し上げております。いずれも本質において同じ棒の両端を表現したものです。また私は、低く沈むことができただけ、それだけ高く上昇することができるとも申し上げております。 臆病を勇気に、憎しみを愛に変えることができるということです。この考え方がとても受け入れ難い人がいることでしょう。が、これが私の考えです。人間の精神にはさまざまな複雑な感情や想念が渦巻いております。それをうまくコントロールするところにあなたの成長があり進化があり、低いものが高いものに転換されていくのです。 ・・・・・・(人類がもっと臆病になれば戦争が少なくなるのではないか、との意見については)そうはまいりません。みんなを臆病にすることによって戦争が解決されるものでないことは言わずと知れたことです。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.76-78 ***** 34-b (臆病であることは悪いことか) 良いとか悪いとかの問題ではありません。一つの感情が発露したものであり、その人の個性の一部であるというまでのことです。たとえ表に出なくても内部にはあるわけです。怖いという気持にならない時でもどこかに潜んでいるわけです。私が言わんとしているのは、そうした感情がいかに陰性のものであっても、いかに好ましからぬものであっても、あなたにはそれをより高度なものに転換する力が具わっているということです。私はこの教えがもっとも大切であると思っています。臆病は本質において勇気と同じものなのです。ただ歪められているだけなのです。そしてそれはあなたに具わっている力を駆使することによって正しい方向へ転換することができるのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.77-78 ***** 34-c[47-za] (万策つきた最後の一瞬に差しのべられる救いの手) 時には万策つきて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.206 ***** 34-d[42-z] (愛の倒錯したのが憎しみで勇気が倒錯したのが臆病) 私はつねづね人生とは対照の中で営まれていると申し上げております。愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病です。いずれも本質において同じ一本の棒の両端を表現したものです。私はまた、低く沈むことができただけ、それだけ高く上昇することができるとも申し上げております。臆病を勇気に、憎しみを愛に転換することができるということです。人間の精神にはさまざまな複雑な感情や想念が渦巻いております。それをうまくコントロールするところにあなたの成長があり、進化があり、低いものが高いものへ転換されていくのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p. 225 35. 社会の改革 35-a (進歩と退歩の繰り返しの中で為される向上進化) (人間が常に世の中を良くしてきたといっても)それは、世の中を良くしたいという願望に燃えた人がいたからこそですよ。魂に宿された神性が自然な発露を求めた人たちです。神の一部だからこそです。かりに今日要求したことが明日、法の改正によって叶えられても、明日はまた不満が出ます。進化を求めてじっとしていられない魂が不満を覚えるのです。それは自然の成り行きです。魂が無意識のうちにより完全へ近づこうとするからです。今日の地上の不幸はその大半が自由意志による選択を間違えたことに起因しています。それには必ず照合がなされ、さらに再照合がなされます。そうすることで進歩したり退歩したりします。そうした進歩と退歩の繰り返しの中にも少しずつ向上進化が為されております。先んずる者もあれば後れを取る者もあります。先を行っている者が後れている者の手を取って引き上げてやり、後れている者が先を行きすぎている者にとって適当な抑制措置となったりしています。そうやって絶え間なく完成へ向けての努力が為されているわけです。が、その間の人生のあらゆる悲劇や不幸にはかならず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません。 ・・・・・あなた方は自由主義を誇りにしておられますが、現実には少しも自由とはいえない人々が無数におります。有色人種をごらんなさい。世界中のどの国よりも寛容心を大切にしているあなた方の国においてすら、劣等民族としての扱いを受けております。私がいつも、これで良いと思ってはいけない、と申し上げる理由はそこにあります。世の中はいくらでも明るく、いくらでも清らかに、そしていくらでも幸せになるものなのです。 『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.179-180 ***** 35-b (現代社会の憂うべき風潮にどう対処すべきか) 真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基盤とならないかぎり、トラブルは絶えないでしょう。唯物的基盤の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです。内部で争いながら外部に平和を求めるのは無理な話です。憎しみと暴力と敵意をむき出しにして強欲と怠慢をむさぼっている者が群がっている世界に、どうして協調性が有り得ましょう。 愛とは神の摂理を成就することです。お互いが霊的兄弟であり姉妹であり、全人類が霊的親族関係をもった大家族であることを認識すれば、お互いに愛し合わなければならないということになります。そのためにこそ神は各自にその神性の一部を植えつけられ、人類の一人ひとりが構成員となってでき上がっている霊的連鎖が地球を取り巻くように意図されているのです。 しかし今のところ、根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係があること、ともに進み、ともに後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。 それはあなた方スピリチュアリストの責任です。つねづね言っておりますように、知識はそれをいかに有効に生かすかの責任を伴います。いったん霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。 あなた方の霊に危害が及ぶことはけっしてありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難がふりかかっても、いささかも傷つくことなく切り抜けることができます。地上で生じるいかなる出来ごとも、あなた方を霊的に傷つけたり打ちのめしたりすることは出来ません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整ったときの霊の威力を証明するものがいくらでもあるはずです。 残念ながらこうした重大な意味をもつ真理に気づいている人は少数であり、まだ多数とは言えません。大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。しかし神の子はすべて身体と精神と霊において自由であるべく生まれているのです。 霊的真理が世界各地に広がり浸透していくにつれて、次第に地上の神の子もより大きな自由の中で生活するようになり、その日常生活により大きな光輝が見られるようになることでしょう。まだまだ、英国はもとより他のいかなる国においても、話が終わったわけではありません。進化へ向けての神の力が、これからゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せはじめます。それを地上の人間が一時的に阻止し、阻害し、遅らせることはできます。が、それによって神が意志を変更なさることはありません。 もしもそれくらいのことで神の意志が覆されるようなことがあるとしたら、この地球はとっくの昔に破滅しているでしょう。霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのです---心を強く持ち、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。最後はきっとうまくいきます。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 120-123 ***** 35-c (人種差別や動物への虐待行為を強く非難すべきか) そうです。ただ、その際に大切なことは、そうした残虐行為や不和、差別といったものを攻撃するのは、それが物的観点からではなく霊的観点からみて間違ったことだからであることを前面に押し出すことです。その点、霊的真理を手にされたあなた方はとくに恵まれた立場にあります。人間は霊ですから、その霊の宿としてふさわしい身体をもたねばなりません。となると、そのための教育が必要となります。霊的観点からみて適切な生活環境、適切な家屋、適切な衣服、適切な食事を与えねばならないからです。 動物を虐待することは霊的観点からみて間違ったことなのです。民族差別や有色人種蔑視は霊的観点からみて間違っているのです。魂には色はありません。黄色でも赤銅でも黒色でも白色でもありません。この霊的真実を前面に押し出して説くことが、もっとも大切な貢献をすることになります。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 123-124 ***** 35-d (種子を蒔けば根づくところには時が来れば必ず根づく) 人間の大半が何の益にもならないものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類にとって最高の財産を犠牲にしております。どうか、どこでもよろしい、種子を蒔ける場所に一粒でも蒔いてください。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。小ばかにしてあなたに心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねてくることでしょう。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.197-198 36. 誕生 (人はどのようにして生まれるか) 36-a (私たちは自分で最適な環境を選んで生まれてくる) 地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。 『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988, p.38 ***** 36-b (霊はいつ肉体に宿るのか) 霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら霊は生命を構成するものそのものであり、生命は霊を構成するそのものだからです。あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。が、個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。受胎作用は精子と卵子とが結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。生命力はその媒体が与えられるまでは顕現されません。それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。私の考えでは、その時点が意識の始まりです。その瞬間から意識をもつ個体としての生活が始まるのです。それ以後は永遠に個性を具えた存在を維持します。 『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, p.173 ***** 36-c (霊は妊娠中のどの時期に宿るのか) 異議を唱える方が多いことと思いますが、私は二つの種子(精子と卵子)が合体して、ミニチュアの形にせよ、霊が機能するための媒体を提供したとき、その時が地上生活の出発点であると申し上げます。 『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.53-54 ***** 36-d (霊魂はどこから来るか) [A] あなたのご質問には誤解があるようです。あなたがた人間が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは霊魂が自我を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である"霊″は無限です。無限なるものに個性はありません。その一部が個体としての表現器官を得て地上に現れる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。霊は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。しかし個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大ぜいいます。その中にはもう一度地上へ行って果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が沢山います。そして、その目的のためのチャンスを与えてくれる最適の身体を求めているのです。 『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.62-63 [B] その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命カそのものであり、神そのものなのです。聖書でも"神は霊なり″と言っております。ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう。 『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.71-72 ***** 36-e (自分で人生を選んで生まれてくる) 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我ーーより大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。 その意味では "お気の毒に・・・・" などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が "魂は知っている" と言う時、それは細かい出来ごとの一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。 『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.109-110 ***** 36-f (霊はどの段階で身体に宿るのか。受胎の瞬間か胎動期か) この間題はこれまで何度も尋ねられました。そしていつも同じお答えをしております。生命は受胎の瞬間から始まります。そして生命のあるところには必ず霊が存在します。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p.46 ***** 36-g (受胎の瞬間から霊が宿り、そこから個性が発達していくのか) 個性という用語を持ち出されるとまたややこしくなります。生命は霊であり霊は生命です。両者は二つにして一つです。受胎と呼んでいるものは、そこに生命があるということを意味します。受胎がなければ生命は存在しません。したがって霊は受胎の瞬間に物質に宿ることになります。 その後の発達の問題ですが、これは環境条件によって異なりますのでさらに問題がやっかいです。受胎時に宿る霊も、霊としてはそれまでずっと存在していたのです。ですから、個性の問題は、その個性よりはるかに大きい霊全体のどの部分が表現されるかの問題となります。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.46-47 ***** 36-h (受胎後のどの段階で人間となるのか) 受胎の瞬間から生命が存在し、したがって霊が存在します。流産とか中絶とかがあっても、それは生命を破壊したことにはなりません。その生命の表現の場をあなた方の世界から私たちの世界へと移しただけです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 47 ***** 36-i (子宮内の生命もれっきとした人間なのか) 潜在的には受胎の瞬間から人間であり、人間性のすべてを宿しております。受胎の瞬間から身体的機能のすべてを潜在的に宿しているごとく、霊的機能もすべて宿しております。霊的機能が存在しなければ身体的機能も存在しません。物質は霊の影だからです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 47-48 ***** 36-j (霊は誕生に際して地上の身体をみずから選択する自由はないのか) (自由がないと理解するのは)正しくありません。逆に、霊はあらゆる自由が与えられています。大半のケースにおいて、霊は地上で果たさねばならない目的をもって生まれてきます。そしてその仕事に合った身体に宿ります。ただ、自分は地上でかくかくしかじかのことをしょうと決意したその仕事に実際に目覚めるまでに相当な時間を要します。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 48 ***** 36-k (産児制限は自然法則に干渉することになるから間違いか) いえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この間題でも動機が大切です。何ごとも動機が正当であれば、正しい決着をみます。出産を制限することもその動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。しかし、霊の世界には地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえている事実を忘れないでください。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 129-130 ***** 36-l (妊娠中絶はいけないとするとそれはどの段階からか) 中絶行為をしたその瞬間からです。 ・・・・・とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなた方人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然な生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。 私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことですが…… あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に減ぼすべきではありません。もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題ではないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれるー訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなるものと私は考えております。妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それはけっして死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 130-132 ***** 36-m(堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのか) そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p. 132 ***** 36-n (人間界に誕生することになっている霊は必ず生まれてくる) ― ブラジルに来られたローマ法王が民衆の貧しさを嘆かれ、一方、家族計画(産児制限)は許されるべきでないことを強調されましたが、その矛盾をどう理解すればよいのでしょうか。 法王はとても立派な方ですが、宇宙の全知識を貯えられているわけではありません。家族計画は人類自身で解決すべきことですから、これからも続く問題です。ただ、一個の霊が人間界へ誕生してくることになっている時は、いかなる計画を立てても必ず生まれて来ます。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p.58 ***** 36-o [2-x] (死後の生命なんか欲しくないと本心から思っている人) =地上への誕生も必ずしも強制されるわけではない= ― 死後の生命なんか欲しくないと、本心からそう思っている人がいます。そういう人たちにどう説かれますか。 地上なんかに二度と生まれたくないと本心から思っている霊がいますよ。しかしそれは、いかんともし難いことなのです。自然の摂理との縁を切ることはできません。あなたがどう思うかに関係なく摂理は働きます。開けゆく大自然のパノラマが人間の小さな欲求や願望、あるいは反抗にもお構いなく展開していく姿をご覧になれます。 ― と言うことは、私たちは地上へ来たくなくても無理やり来させられるということでしょうか。私はその点は自由な選択が許されると思っていました。 必ずしも強制されるわけではありません。地上からこちらへ来るのにも自由選択が許されるように、こちらから地上へ行くのにも選択の余地が与えられています。ぜひとも為さねばならない仕事があることを自覚して地上へ誕生する霊がいます。行きたくはないけど、どうしてもしなければならない用事があるので止むを得ず誕生する霊もいます。あるいは償わねばならないカルマ(業)があって誕生してくる場合もあります。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.58-59 ***** 36-p [23-l] (前回の地上生活の時と同じ人物がそっくり再生するのではない) ― 次に生まれ変わるのはその地上生活で発揮したパーソナリティ(人物像)ではなくて、その奥の霊または魂なのですね。 その通りです。前回の地上生活の時と同じ人物がそっくり再生してくることは有りえません。人物像は肉体の死とともに消滅します。それはインディビジュアリティの物的表現にすぎません。 ― 私の考えでは、われわれは皆、かつてはもっと大きな意識をもっていたのを、今こうして地上に存在している間はそれを放棄し、死後霊界へ行ってからそれを取り戻すのだと理解しております。そう考えるといろんな疑問が解けるのです。 あなたは今歩んでおられる道を地上に来る前に選択されたのです。その時はその大きな意識で自覚しておられたのです。それが肉体に宿り脳を通して意識するようになって曇らされているのです。脳の意識では潜在意識の深奥は探れないからです。 その誕生前の意識を目覚めさせるためには、その触媒となるべき危機的体験を積まねばなりません。いつかは明瞭に意識する日が来ます。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 120-121 ***** 36-q (あなたはどんな人生を生きるかを覚悟して生まれてきた) 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一ばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.205 ***** 36-r (人はこの世でどういう生涯を送るかを理解して生まれてくる) 私が“魂は承知している”と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースをたどるかを理解しているということです。その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。たとえば、予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻ってくることになります。それを何度も繰り返すことがあります。そうするうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.205 37. シルバー・バーチについて 37-a (シルバー・バーチの英語) =「なぜそんなに英語がお上手なのでしょう」と聞かれて= あなた方西洋人は時おり妙な態度をお取りになりますね。自分たちの言語がしゃべれることを人間的評価の一つとなさいますが、英語が上手だからといって別に霊格が高いことにはなりません。たどたどしい言葉でしゃべる人の方がはるかに霊格が高いことだってあります。私はあなた方の言語、あなた方の習性、あなた方の慣習を永い年月をかけて勉強しました。それは私たちの世界ではごく当り前の生活原理である"協調″の一環です。言わば互譲精神を実践したまでです。 つまりあなた方の世界を援助したいと望む以上はそれなりの手段を講じなくてはならない。その手段の中には人間にとって最高の努力を要求するものがある一方、私たちにとって嫌悪感を禁じ得ないほどの、神の子としてぎりぎりの最低線まで下がらなくてはならないこともあります。私はこうして英語国民を相手にしゃべらねばなりませんので、何年もかけて困難を克服しなければなりませんでした。あなた方から援助もいただいております。同時に、かつて地上で大人物として仰がれた人々の援助も受けております。今でも言語的表現の美しさと簡潔さで歴史にその名を残している人々が数多く援助してくれております。 『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、p.211 ***** 37-b [46-f] (霊界の生活と地上への働きかけ) 私はほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。つまり三千年前に「死んだ」のです。三千年というとあなたには大変な年数のように思われるかも知れませんが、永遠の時の流れを考えると僅かなものです。その間に私も少しばかり勉強しました。霊の世界へ来て神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。つまり霊的な界層を一段また一段と向上していきます。界層という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。霊的な程度の差があり、それぞれの段階にはその環境条件にふさわしい者が存在するということです。霊的に向上進化すると、それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ溶け込んでいきます。それは階段が限りなく続く長い長い一本の梯子のようなものです。 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界から遠く離れていき、二度と接触する気持が起きなくなる段階に至ることは、あなたにも理解できるでしょう。所詮、地上というところはたいして魅力ある世界ではないのです。地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのはほんの少数の人にかぎられております。一度あなたも私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の値値もない世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自が有るがままの姿をさらされる世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、内在する霊的能力がそれまでいかに居睡りをしていても存分に発揮されるようになる世界に一度住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力に乏しい世界であるかがお判りになると思います。その地上世界を何とかしなければならない---私のようにまだ地上圏へ戻ることのできる程度のスピリットが援助し、これまでに身につけた霊的法則についての知識を幾らかでも教えてあげる必要があることを、私は他の幾人かの仲間とともに聞かされたのです。人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難問への解決策を見出させるにはそれしかないということを聞かされたのです。 同時に私たちは、そのために必要とする力、人類の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快く思わぬ連中、それも宗教的組織の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。悪魔の密使と見なされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。要するに私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして(ついでに付け加えさせていただけば)その成就のためには、それまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされることになるということでした。しかし、そう言い聞かされた私たちのうちの誰一人としてそれを断わった者はいませんでした。かくして私は他の仲間とともに地上へ戻ってまいりました。地上へ再生するのではありません。地上世界の圏内で仕事をするためです。 地上圏へ来てまず第一にやらねばならなかったのは霊媒を探すことでした。これはどの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなた方の言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方の文明も理解する必要がありました。 次の段階ではこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて幾つかの訓え---誰にでも分る簡単なもので、従ってみんなが理解してくれれば地上が一変するはずの真理を説くためです。同時に私は、そうやって地上圏で働きながらも常に私を派遣した高級霊たちとの連絡を保ち、より立流な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければなりませんでした。初めのころは大いに苦労しました。今でも決してラクではありませんが・・・。そのうち私の働きかけに同調してくれる者が次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居睡りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。その方が安全だったわけです。自由に解放されたあとのことを恐れたのです。が、そうした中にも、そこここで分ってくれる人も見出しました。私からの御利益は何もありません。ただ真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人のためをのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです。 それ以来私たちの仕事は順調に運び、多くの人々の魂に感動を与えてまいりました。無知の暗闇から脱け出た人が大勢います。迷信の霧の中からみずからの力で這い出た人が大勢います。自由の旗印のもとに喜んで馳せ参じた人が大勢います。死の目的と生の意味を理解することによって二度と涙を流さなくなった人が大勢います。 『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.153-156 ***** 37-c (シルバー・バーチとは誰か) 「私は荒野に呼ばわる声です。神の使徒以外の何者でもありません。私が誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、私の判断が、要するにあなたがた人間世界における私の仕事が暗闇に迷える人々の心の灯となり慰めとなったら、それだけで私はしあわせなのです」 これはある日の交霊会でメンバーの一人がシルバーバーチの地上での身元について尋ねた時の答えである。シルバーバーチがインデイアンではないこと、本来の高遠の世界と地上との間の橋わたしとして一人のインデイアンの幽体を使用しているところの、高級霊団の最高指揮者であるということまでは、われわれにも知れている。が、これまで好奇心から幾度地上時代の実名を尋ねても、まだ一度も明かしてくれていない。ラベルよりも仕事の成果の方を重んじるのである。自分個人に対する賞賛を極度に嫌い、次のように述べる。 「私は一介の神の僕にすぎません。今まさに黎明を迎えんとしている新しい世界の一役を担うものとして、これまで忘れ去られてきた霊的法則を蘇らせるために私を地上へ遣わした一団の通訳にすぎません。私のことをいつもマウスピース(代弁者)としてお考えください。地上に根づこうとしている霊カ、刻一刻と力を増しつつある霊の声を代弁しているにすぎません。私の背後には遠々と幾重にも連なる霊団が控え、完全なる意志の統一のもとに、一丸となって協調体勢で臨んでおります。私がこの霊媒(バーバネル)を使用するごとくに彼らも私を使用し、永いあいだ埋もれてきた霊的真理---それが今まさに掘り起こされ無数の男女の生活の中で本来の場を得つつあるところですが---それを地上の全土に広げんとしているのです」 『シルバーバーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.14-15 ***** 37-d (あなた方の友、守護者、指導者として) 私はこれまであなた方の友として、守護者として、指導者として接してまいりました。いつもすぐ側に待機していること、私がいかなる霊格を具えた存在であろうとそれはあなた方人間との親密な接触を妨げることにならないこと、あなた方の悩みや困難に関心を抱き、できうるかぎりの援助の手を差しのべる用意があることを知っていただきたいと思ってまいりました。 よろしいですか、私はたしかに一方では永遠の真理を説き霊力の存在を明かさんとする教師的存在ですが、他方、あなた方お一人お一人の親しい友人でもあるのです。あなた方に対して親密な情愛を抱いており、持てる力で精一杯お投に立ちたいと努力いたしております。どうか、困ったことがあれば、どんなことでもよろしい、いつでもよろしい、この私をお呼びください。もし私にできることであればご援助しましょう.もし私に手出しできないことであれば、あなた方みずからが背負わねばならない試練として、それに耐えていくための力をお貸しいたしましょう。 『シルバーバーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.16-17 ***** 37-e (功績も礼も感謝も求めることなく) これまでの永い霊界での生活、向上、進化をめざして励んできた魂の修行の旅において私がみずから学んできたこと、あるいは教わったことはすべて、愛の心をもっで快く皆さんにお教えしております。そうすることを神がお許しになると信じるからです。ではその動機とは何か---それは、私のこうした行為を通じて私があなた方に対していかに情愛を感じているか、いかにあなた方のためを思っているかを分かっていただき、そうすることによって、あなた方の背後に控えている力には神の意図が託されていること、霊の豊かさと実りを何とかしてもたらしてあげようとしている力であることを認識していただくことにあります。要するにあなた方への愛がすべてを動かし、神から発せられるその愛をあなた方のために表現していくことを唯一の目的といたしております。 私たち霊団の者は功績も礼も感謝もいっさい求めません。お役に立ちさえすれば良いのです。争いに代って平和を見ることができれば、涙にぬれた顔に代って幸せな笑顛を見ることができれば、病と痛みに苦しむ身体に代って健康な身体を見ることができれば、悲劇を無くすことができれば、意気消沈した魂に巣くう絶望感を拭い去ってあげることができれば、それだけで私たちは託された使命が達成されつつあることを知って喜びを覚えるのです。 願わくは神の祝福のあらんことを。願わくは神の御光があなた方の行く手を照らし給い、神の愛があなた方の心を満たし給い、その力を得て代ってあなた方がこれまで以上に同胞のために献身されんことを切に祈ります。 『シルバーバーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.17-18 ***** 37-f (しばらくの別れの挨拶) ー 盛夏を迎えしばらく閉会となる交霊会の席上でー この会もこれよりしばらくお休みとなりますが、私たちは無言とはいえすぐ側でひき続きあなた方とともにあって、可能なかぎりインスピレーションと力と導きをお授けいたします。一日の活動が終り、夜の静寂を迎えると、あなた方の魂は本来の自分を取り戻し、物質界の乱れたバイブレーションを後にして---ほんの束の間ですが---本当の我が家へ帰られます。その時あなた方は私たちとともに、いつの日か恒久的にあなた方のものとなる喜びのいくつかを体験されます。 しかし、これまでの努力のおかげでこうして数々の障壁をのり越えて語り合えるとはいえ、私たちはふだんは物質というベールによって隔てられておりますが、いついかなる時も身近にいて、情愛をもって力になってあげていることを知ってください。私たちがお持ちする力は、宇宙最高の霊力であることを心強く思ってください。私たちはもっとも身近にして、もっとも親密な存在である、あなた方のために尽くすことによって、神に仕えんとする僕にすぎません。 私のことを、ほんの一、二時間のあいだ薄明かりの中でしゃべる声ではなく(交霊会では照明を弱くする−訳者)、いつもあなた方の身のまわりにいて、あなた方の能力の開発と霊的進化のために役立つものなら何でもお持ちしようとしている、躍動する生命に溢れた生きた存在とお考えください。語る時はこうして物的感覚(聴覚)に訴える方しかないのはまどろこしいかぎりですが、私はいつも身近かに存在しております。必要な時はいつでも私をお呼びください。私にできることであれば喜んで援助いたしましょう。私が手を差しのべることを渋るような人間でないことは、皆さんはもうよくご存知でしょう。 樹木も花も、山も海も、小鳥も動物も、野原も小川も、その美しさを謳歌するこれからの夏を満喫なさってください。神を讃えましょう。神がその大自然の無限の変化に富む美しさをもたらしてくださっているのです。その内側で働いている神の力との交わりを求めましょう。森の静けさの中に、その風のささやきの中に、小鳥のさえずりの中に、風に揺れる松の枝に、寄せては返す潮の流れに、花の香に、虫の音に神の存在を見出しましょう。 どうか、そうした大自然の背後に秘められた力と一体となるようにつとめ、それを少しでも我がものとなさってください。神はさまざまな形で人間に語りかけております。教会や礼拝堂の中だけではありません。予言者や霊媒を通してだけではありません。数多くの啓示が盛りこまれている聖典だけではありません。大自然の営みの中にも神の声が秘められているのです。大自然も神の僕です。私はそうしたさまざまな形---語りかける声と声なき声となって顕現している神の愛を皆さんにお伝えしたいのです。 『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.19-21 ***** 37-g (しばらくの別れの挨拶 =続=) 私はあなた方が愛の絆によって一丸となるように、これまでさまざまな努力をしてまいりました。より高い境涯、より大きな生命の世界を支配する法則をお教えしようと努力してまいりました。また、あなた方に自分という存在についてもっと知っていただく---つまり(霊的に)いかに素晴らしくできあがっているかを知っていただくべく努力してまいりました。さらに私はあなた方に課せられた責任を説き、真理を知るということは、それを人のために使用する責任を伴うことをお教えしてまいりました。宗教的儀式のうわべの形式に捉われずに、その奥にある宗教の核心、すなわち援助を必要とする人々のために手を差しのべるということを忘れてはならないことを説いてまいりました。絶望と無気力と疑問と困難に満ちあふれた世界にあって私はあなた方に霊的真理を説き、それをあなた方がまずみずから体現することによって同胞にもその宝を見出させ、ひいては人類全体に幸福をもたらすことになる---そうあってほしいと願って努力してまいりました。 私はかつて一度たりとも卑劣な考えを起こさせるような教えを説いたことはありません。一人たりとも個人攻撃をしたことはありません。私は終始 "愛"をその最高の形で説くべく努力してまいりました。私は常に人間の理性と知性に訴えるように心掛け、私たちの説く真理がいかに厳しい調査・探求にも耐えうるものであることを主張してまいりました。そうした私に世界各地から寄せられる温い愛念を有難く思い、私の手足となって仕事の推進に献身してくださるあなた方サークルの方々の厚意に、これからも応えることができるよう神に祈りたいと思います。 間もなく私は会を閉じ、通信網を引っ込めます。ふたたび皆さんとお会いできる時を大いなる期待をもって心持ちにいたしましょう。もっとも、この霊媒の身体を通して語ることを中止するというまでです。けっして私という霊が去ってしまうわけではありません。もしもあなた方の進む道を影がよぎるようなことがあれば、もしも何か大きな問題が生じた時は、もしも心に疑念が生じ、迷われるようなことがあれば、どうかそれらは実在ではなく影にすぎないことをご自分に言い聞かせることです。羽根をつけて一刻も早く追い出してしまうことです。 忘れないでください。あなた方はお一人お一人が神であり、神はあなた方お一人お一人なのです。この動物宇宙を顕現せしめ、有機物・無機物の区別なく、あらゆる生命現象を創造した巨大な力、恒星も惑星も、太陽も月も生み出した力、物質の世界に生命をもたらした力、人類の意識に霊の一部を宿らせたカ、完璧な法則として顕現し、すべての現象を細大もらさず経綸しているところの巨大な力、その力はあなた方が見放さないかぎりあなた方を見放すことはありえません。その力を我が力とし、苦しい時の隠れ場とし、憩いの場となさることです。そして、いついかなる時も神の衣があなた方の身を包み、その無限の抱擁の中にあることを知ってください。 シルバーバーチとお呼びいただいている私からお別れを申し上げます---ごきげんよう。 『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.21-23 ***** 37-h (真理の光を見出していることを知るよろこび) あなた方と私たち霊団との愛の親密度が年とともに深まるにつれて私は、それがほかならぬ大霊の愛のたまものであると感謝していることを知っていただきたいと思います。すなわち大霊の許しがあったればこそ私はこうして地上の方々のために献身できるのであり、たった週に一度あなた方とお会いし、それも、私の姿をお見せすることなく、ただこうして語る声としてのみ存在を認識していただいているに過ぎないにもかかわらず、私を信じ、人生のすべてを委ねるまでに私を敬愛してくださる方々の愛を一身に受けることができるのも、大霊のお力があればこそだからです。そのあなた方からの愛と信頼を私はこの上なく誇りに思います。あなた方の心の中に湧き出る私への熱烈な情愛---私にはそれがひしひしと感じ取れます---を傷つけるようなことだけは絶対に口にすまい、絶対に行うまい、といつも誓っております。 私たちのそうした努力が大きな実りを生んでいることが私はうれしいのです。私たちのささやかな仕事によって多くの同胞が真理の光を見出していることを知って私はうれしいのです。無知を打ち負かし迷信を退却せしめることができたことが私はうれしいのです。真理が前進していること、そしてその先頭に立っているのがほかならぬ私たちであることがうれしいのです。絶え間なく仕掛けてきた大きな闘いにおいてあなた方が堅忍不抜の心を失わず挫折することがなかったことをうれしく思います。役割を忠実に果たされ、あなた方に託された大きな信頼を裏切ることがなかったことをうれしく思います。私の使命があなた方の努力の中に反映して成就されていくのを謙虚な目で確かめているからこそ、私はあなた方のその献身をうれしく思うのです。 『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.83-84 ***** 37-i (しばらく霊界へ帰る前の別れのことば) 別れを惜しむ重苦しい気持の中にも、再びお会いできる日を心待ちにしつつ、私はみなさんのもとを去ります。これより私は気分一新のために霊的エネルギーの泉へと赴きます。高遠の世界からのインスピレーションを求めに赴きます。そこで生命力を充満させてから再び一層の献身と、神の無限の恩寵の一層の顕現のために、この地上へ戻ってまいります。あなた方の情愛、今ひしひしと感じる私へのはなむけの気持をいただいて、私はこれより旅立ちます。そうして再び戻ってくるその日を楽しみにいたしております。どうか常に希望と勇気を失わないでいただきたい。冬の雪は絶望をもたらしますが、再び春がめぐつてくれば大自然は装いを新たにしてほほえみかけてくれます。希望に胸をふくらませ、勇気を持ってください。いかに暗い夜にも必ず登りゆく太陽の到来を告げる夜明けが訪れるものです。 では、これにてお別れします。神は常にあなた方を祝福し、その無限の愛がふんだんにもたらされております。神の霊があなた方すべての人々の霊に行きわたり、日々の生活の中に誇らしく輝いております。 これより地上の暗闇をあとにして高き世界の光明を迎えに参ります。そしてお別れに際しての私の言葉は、再び訪れる時の挨拶の言葉と同じです---神の祝福の多からんことを。 『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.84-85 ***** 37-j (霊界でお褒めのことばをいただいて) 霊界での大集会において私はかつての私の栄光の幾つかを再び味わってまいりました。地上世界の改善と進歩のために奮闘している同志たち、人類の福祉のために必要な改革の促進に情熱を傾ける同志たちによる会議に私も参加を許されました。これまでの成果がこと細かに検討され、どこまで成功しどの点において失敗しているかが明らかにされました。そこで新たに計画が立て直され、これから先の仕事---地上人類の進化の現段階において必要な真理を普及させる上で為さねばならない仕事のプログラムが組まれました。 地上世界のために献身している大勢の人々---死によって博愛心を失うことのなかった人々ともお会いしました。そして、ちょっぴり私ごとを言わせていただけば---こんなことは滅多にないのですが---過去数か月間においてささやかながら私が成し遂げたことに対してお褒めの言葉を頂戴いたしました。もとより私はお褒めにあずかる資格はないと思っております。私は単なる代弁者にすぎないからです。私を派遣した高級霊団のメッセージを代弁したにすぎず、それをあなた方が広めてくださったのです。 ともあれ、こうして私たちの説く真理が人生に迷っている人々、心は重く悲しみに満ち、目に涙をためた大勢の人々に知識と慰めと激励をもたらしていることは確かです。 『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.85-86 ***** 37-k(3千年前のシルバー・バーチ) 私は白人ではありません。レッドインディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私はこれまで、西洋人の世界に三千年前のわれわれインディアンよりはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます。 『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、p.178 ***** 37-l (一人でも霊力を背後にすれば大きな仕事ができる) たった一人の人間も、霊の力を背後にすれば大きな仕事ができるのです。私は決して自惚れてでかい口をきいているのではありません。私にも謙虚な精神と哀れみの情はあります。私もかつてはとても無理と思える仕事を仰せつかりました。地上の方にはまったく無名のこの私が、この声と素朴な訓え以外には何の資産もなしに、たった一人で地上へ赴き、自分で道具(霊媒)を見つけ、愛と理性のみで勝利してみよと言われたのです。 おっしゃる通り、たった一人のすることです。見た目にはたった一人です。が、その背後には自分を役立てたいとの願望を抱く者にかならず授けられる強大な霊力が控えております。私はあらゆる逆境と困難と障害の中にあって一人の人間(バーバネル)に目星をつけました。その人間を私の目的に沿って鍛錬し、さらに、試行錯誤をくり返しつつも忍耐づよく、真理普及という仕事に協力してくれる人間(サークルのメンバー)を探し求めました。何かの報酬と引き替えに募ったのではありません。献身的精神を吹き込んでみた時の反応だけで募ったのです。そして、ごらんなさい。わずかな年数のうちに、われわれを伝達手段として、誇りある道具として、霊的真理が全世界に広まりました。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.53-54 ***** 37-m (シルバー・バーチの最大の発見) 私にとっての最大の発見は地上の多くの人たちが善意と情愛と僚友意識と、そして愛までもこんなにたくさん持っておられることを知ったことです。また、訴え方が正しければ、その愛を本性から呼び覚ますことができるということ、最高の波長にさえ反応してくれるということ、気高い品行を志し、気高い思念をもつことができるということ、自己の利益や打算を超えた、より大きなものに心を動かされうるということ、理想主義、愛他精神、奉仕的精神にも共鳴してくれるものであることを知ったことです。 この冷たくてうっとうしい、およそ魅力のない陰うつな地上での仕事に打ち込んできたこれまでの永い年月を振り返ってみて、私は一度もお目にかかったことのない人でありながら、私の訓えで救われたという気持ちから、感謝の愛念を送ってくださる方々が増えることによって、地上にこうまで温かみがもたらされるものかと、驚きの念を禁じ得ません。それほど多くの愛を頂戴することになろうとは予想もしませんでした。私にとってはそれこそが感謝の源泉であり、それが私をさらに鼓舞し、同時に、勿体ないことだという気持ちにもさせられます。なぜなら私はそれに値するほどのことはしていないという自覚があるからです。 『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.147-148 ***** 37-n (シルバー・バーチが自分について語る) 私は実はインディアンではありません。あるインディアンの幽体を使用しているだけです。それは、そのインディアンが地上時代に多彩な心霊能力をもっていたからで、私がこのたびの使命にたずさわるように要請された際に、その道具として参加してもらったわけです。私自身の地上生活はこのインディアンよりはるかに古い時代にさかのぼります。 このインディアンも、バーバネルが私の霊媒であるのとまったく同じ意味において私の霊媒なのです。私のように何千年も前に地上を去り、ある一定の霊格を具えるに至った者は、波長のまったく異なる地上圏へ下りてそのレベルで交信することは不可能となります。そのため私は地上において変圧器のような役をしてくれる者、つまりその人を通して波長を上げたり下げたりして交信を可能にしてくれる人を必要としたのです。 同時に私は、この私を背後から鼓舞し、伝えるべき知識がうまく伝えられるように配慮してくれている上層界の霊団との連絡を維持しなくてはなりません。ですから、私が民族の名、地名、あるいは時代のことをよく知っているからといって、それは何ら私のアイデンティティを確立することにはなりません。それくらいの情報はごく簡単に入手できるのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.10-11 ***** 37-o (地上時代のシルバー・バーチは誰であったか) 私は人物には関心がないのです。私がこの霊媒とは別個の存在であることだけ分かっていただければよいのでして、その証拠ならすでに一度ならず確定的なものをお届けしております。 それさえ分かっていただければ、私が地上で誰であったかはもはや申し上げる必要はないと思います。たとえ有名だった人物の名前を述べたところで、それを証明する手段は何一つ無いのですから、なんの役にも立ちません。私はただひとえに私の申し上げることによって判断していただきたいと望み、理性と知性と常識に訴えようと努力しております。もしもこうした方法で地上の方々の信頼を勝ち取ることができないとしたら、私の出る幕でなくなったということです。 かりに私が地上でファラオ(古代エジプトの王)だったと申し上げたところで、何にもならないでしょう。それは地上だけに通用して、霊の世界には通用しない地上的栄光を頂戴することにしかなりません。私たちの世界では地上でどんな肩書き、どんな財産をもっていたかは問題にされません。要はその人生で何を為したかです。 私たちは魂そのものを裁くのです。財産や地位ではありません。魂こそ大切なのです。地上では間違ったことが優先されております。あなた方のお国(アメリカ)では黄金の仔牛(旧約聖書に出てくる黄金の偶像で富の象徴)の崇拝の方が神への信仰心をしのいでおります。圧倒的多数の人間が神よりもマモン(富の神)を崇めております。それが今日のアメリカの数々の問題、困難、争いごとの原因となっております。 私がもしもアリマタヤのヨセフだったとかバプテスマのヨハネだったとか申し上げたら、私の威信が少しでも増すのでしょうか。それともイロコワ族の酋長だったとでも申し上げればご満足いただけるのでしょうか。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.11-13 ***** 37-p (シルバー・バーチの情報はどこから伝達されるか) 数え切れないほどの中継者を通じて、無尽蔵の始源から届けられます。その中継者たちは真理の本来の純粋性と無垢の美しさが失われないようにするための特殊な仕事を受け持っているのです。あなた方のいう高級霊″のもとに大霊団が組織されています。が、高級などという表現をはるかに超えた存在です。神の軍団の最高指令官とでも言うべき位置にあり、それぞれが霊団を組織して責務の遂行に当たっております。 各霊団の組織は真理が首尾よく地上世界に浸透することを目的とすると同時に、それに伴って霊力がより一層地上へ注がれることも意図しております。生命力といってもよろしい。霊は生命であり、生命は霊なのです。生命として地上に顕現したものは、いかなる形態であろうと、程度こそ違え、本質において宇宙の大霊と同じものなのです。お分かりでしょうか。 忘れないでいただきたいのは、私たちはすべて(今のべた最高指令官による)指揮、監督のもとに仕事をしており、一人で勝手にやっているのではないということです。私は今、私が本来属している界、言わば霊的住処≠ゥら帰ってきたばかりです。その界において私は、私を地上へ派遣した上司との審議会に出席し、これより先の壮大な計画と、これまでに成し遂げた部分、順調にはかどっているところ、しっかりと地固めができた部分について教わってきました。 その界に戻るごとに私は、天界の神庁に所属する高級霊団によって案出された計画の完壁さを再確認し、巨大な組織による絶妙の効果に驚嘆の念を禁じ得ないのです。そして、地上がいかに暗く、いかに混沌とし、仕事がいかに困難をきわめようと、神の霊力がきっと支配するようになるとの確信を倍加して地上へ戻ってまいります。 そのとき他の同志たち(他の霊媒や霊覚者を通じて地上に働きかけている霊団の支配霊)とともに私も、これからの仕事の継続のために霊的エネルギーを補充してまいります。指揮に当たられる方々から計画が順調に進行していることを聞かされることは、私にとって充足感の源泉です。すでに地上に根づいております。二度と追い帰されることはありません。かつてのような気紛れな働きかけではありません。絶え間なく地上にその影響力を浸透させんとして働きかけている霊力の流れを阻止できる力は、もはや地上には存在しません。 ですから、悲観的になる材料は何一つありません。明日を恐れ、不安におののき、霊的真理なんか構ってはいられないと言う人は、好きにさせておくほかはありません。幸いにも霊的光明を垣間見ることができ、背後に控えている存在に気づかれた方は、明日はどうなるかを案ずることなく、常に楽観的姿勢を維持できなければいけません。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.13-15 ***** 37-q (なぜ「私に礼を言うのは止めて下さい」と言うのか) それはいたって単純な理由から自分で自分に誓ったことでして、これまで何度もご説明してきました。私は自分がお役に立っていることを光栄に思っているのです。ですから、もしも私の努力が成功すれば、それは私がみずから課した使命を成就しているに過ぎないのです。それならば、感謝は私にそのチャンスを与えてくださった神に捧げるべきです。 私は自分の意志でこの仕事をお引受けし、これまでに学んだことを、受け入れる用意のできている方々にお分けすることにしたのです。もし成功すれば私が得をするのです。わずかな年数のうちに多くの方々に霊的実在についての知識を広めることができたことは私にとって大きな喜びの源泉なのです。 これほどのことが成就できたことを思うと心が喜びに満たされるのです。ほんとうならもっともっと大勢の方々に手を差しのべて、霊的知識がもたらしてくれる幸せを味わっていただきたいのです。それなのに地上の人間はなぜ知識よりも無知を好み、真理よりも迷信を好み、啓示よりも教理を好むのでしょうか。それがどうしても理解できないのです。私の理解力を超えた人間的煩悩の一つです。 あなた(質問者)の人生がけっして平坦なものでなかったことは私もよく承知しております。スピリチュアリズムという大きな知識を手にするために数々の大きな困難を体験しなければならない---それが真理への道の宿命であるということがあなたには不可解に思えるのではありませんか。けっして不可解なことではありません。そうでないといけないのです。 ぜひともご注意申し上げておきたいのは、私はけっして叡智と真理と知識の権化ではないということです。あなた方より少しばかり多くの年数を生き、地上より次元の高い世界を幾つか体験したというだけの一個の霊にすぎません。そうした体験のおかげで私は、素朴ではありますが大切な真理を学ぶことができました。その真理があまりに啓発性に富み有益であることを知った私は、それを受け入れる用意のできた人たちに分けてあげたいと思い、これまでたどってきた道を後戻りしてきたのです。 しかし私もいたって人間的な存在です。絶対に過ちを犯さない存在ではありません。間違いをすることがあります。まだまだ不完全です。書物や定期刊行物では私のことをあたかも完全の頂上を極めた存在であるかのように宣伝しているようですが、とんでもありません。私はただ、こうして私がお届けしている真理がこれまで教え込まれてきた教説に幻滅を感じている人によって受け入れられてきたこと、そして今そういう方たちの数がますます増えていきつつあること、それだけで有難いと思っているのです。 私は何一つややこしいことは申し上げておりません。難解な教理を説いているわけではありません。自然の摂理がこうなっていて、こういう具合に働くのですと申し上げているだけです。そして私はつねに理性に訴えております。そうした摂理の本当の理解は、それを聞かれた方がなるほどという認識が生まれた時にはじめて得られるのです。何がなんでも信じなさいという態度は私たちの取るところではありません。 霊界からのメッセージが届けられて、その霊がいかに立派そうな名をなのっていようと、もしもその言っていることにあなたの理性が反撥し知性が侮辱されているように思われた時は、遠慮なく拒否しなさいと申し上げております。理性によって協力が得られないとしたら、それは指導霊としての資格がないということです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.15-18 ***** 37-r (シルバー・バーチの教えに勇気づけられて感謝する夫妻へ) 私はマウスピース(代弁者)にすぎませんが、この私を通して届けられた訓えがお役に立っているということはいつ聞かされても嬉しいものです。私たちがこの仕事を始めた当初はほんの一握りの少数にすぎませんでした。それが地上のみなさん方の協力を得て、素朴ではありますが深遠な霊的真理が活字になって出版されるに至りました。それによって霊的真理に目覚める人が大幅に増えつつあることは何と有難いことでしょう。 地上の霊的新生のための大計画をはじめて教えられ、並大抵の苦労では済まされない大事業だが一つあなたもこれまでに手にしたもの(霊的幸福)を犠牲にして参加してみないかと誘われたとき、私のようなものでもお役に立つのであればと、喜んでお引受けしました。 進化の階梯を相当高くまで昇った光輝あふれる存在の中で生活している者が、その絢爛たる境涯をあとにして、この暗くてじめじめした、魅力の乏しい地上世界で仕事をするということは、それはそれは大変なことなのです。しかし幸いなことに私は地上の各地に協力者を見出すことに成功し、今ではその方たちとの協調的勢力によって、そこここに心の温かみを与えてくれる場をもうけることができました。おかげでこの地表近くで働いている間にも束の間の安らぎを得ることができるようになりました。 他の大勢の方々と同じように、お二人からも私がお役に立っていることを聞かされると、こうして地上圏へ突入して来なければならない者が置かれる冷えびえとした環境にまた一つ温かみを加えることになります。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.12-23 ***** 37-s (人間的な年齢でいうと何歳になるのかと訊かれて) 私がお教えしようとしている叡智と同じ年季が入っているとお考えくださればよろしい。有難いことに私はこうしてお教えしている自然の摂理の驚異的な働きをこの目で確かめることができました。つまり、あなたがこれから行かれる霊的世界において神の摂理がどう顕現しているかを見ております。その素晴らしさ、その大切さを知って私は、ぜひとも後戻りしてそれを地上の方にも知っていただこう---きっと地上にもそれを受け入れて本当の生き方、すなわち霊的なことを最優先し、物的なことをそれに従属させる生き方に目覚めてくれる人がいるはずだと思ったのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p.29 ***** 37-t [46-w] (霊界で光り輝く存在″と直々に会えるのはなぜか) ----「霊界では自分より発達段階の高い者とは接触がないとおっしゃったように思いますが、そうなると、あなたご自身が光り輝く存在″と直々にお会いになる時は何か特別な配慮をしてもらうわけですか」という質問に対して---- いいえ。決してうぬぼれて申し上げるわけではありませんが、私がそうするときは私本来の霊格に戻るというに過ぎません。私はこの地上での仕事への参加の要請を受け、そしてお引受けしたのです。そのためには当然、本来の私の属性を一時的にお預けにしなければなりませんでした。しかし、そうすることによって、あなた方と同じく、私がよく言及している “正反対の体験” を得ることになります。それによって、一層の向上が得られることを願っております。 霊界の生活の全体像をお伝えすることはとても困難です。言語と次元の差が障壁となるからです。たとえば音楽を例にとれば、霊界には地上のいかなる楽器にも出せない音色があります。絵画でも、あなた方には想像もつかない色彩と美があります。それが感識できる人も描写できる人も地上にはいません。地上の人にとって大インスピレーションと思えるものでも、実際はごくごく小さなかけらにすぎません。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 83-84 ***** 37-u(シルバー・バーチはなぜ地上へ戻ってきたか =1=) ずいぶん前の話ですが、私は物質界に戻って霊的真理の普及に一役買ってくれないかとの懇請を受けました。そのためには霊媒と同時に心霊知識をもつ人のグループを揃えなくてはならないことも知らされました。私は霊界にある記録簿を調べあげた上で、適当な人物を霊媒として選び出しました。それはその人物がまだ母胎に宿る前の話です。私はその母胎に宿る瞬間を注意深く見守りました。そしていよいよ宿ったその霊が自我を表現しはじめた時から影響力を行使し、以来その関係が今なお続いているわけです。 私はこの霊媒の霊と小さな精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる面を細かく観察し、霊的に一体となる練習をし、物の考え方や身体のクセを呑み込むように努めました。要するに私はこの霊媒を、霊と精神と身体の三つの側面から徹底的に研究したのです。 次に私は霊的知識の理解へ向けて指導しなければなりませんでした。まず地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的にはそのすべてに反発させ、いわゆる無神論者にさせました。これで霊媒となるべき準備がひと通り整いました。 その上で、ある日私はこの霊媒を初めて交霊会へ出席するよう手引きしました。そこで、用意しておいたエネルギーを駆使して---いかにもぎこちなく内容も下らないものでしたが、私にとってはきわめて重大な意義をもつ---最初の霊的コンタクトをし、他人の発声器官を通じてしゃべるという初めての体験をしました。 その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、ごらんの通りになりました。今ではこの霊媒の潜在意識にあるものを完全に支配して、私自身の考えを百パーセント述べることができます。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 16-18 ***** 37-v(シルバー・バーチはなぜ地上へ戻ってきたか =2=) 要請された使命をお引き受けしたとき私はこう言われました---あなたは物質の世界へ入り、そこであなたの道具となるべき人物を見出したら、こんどはその霊媒のもとに心が通い合える人々を集めて、あなたがメッセージを述べるのを補佐してもらわねばなりません≠ニ。私は探しました。そして皆さん方を見出してここへ手引きしました。 私が直面した最大の難問は、同じく地上に戻るにしても、人間が納得する(死後存続の)証拠つまり物理現象を手段とするか、それとも(霊言現象による)真理の唱道者となるか、そのいずれを選ぶかということでした。結局私は難しい方を選びました。 自分自身の霊界生活での数多くの体験から、私は言わば大人の霊、つまり霊的に成人した人間の魂に訴えようと決意したのです。真理をできるだけ解りやすく説いてみよう。常に慈しみの心をもって人間に接し、決して腹を立てまい。そうすることで私がなるほど神の使者であることを身をもって証明しよう。そう決心したのです。 同時に私は生前の姓名は絶対に明かさないという重荷をみずから背負いました。仰々しい名前や称号や地位や名声を棄て、説教の内容だけで勝負しようと決心したのです。 結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外の何者でもないということです。私が誰であるかということが一体なんの意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、そして私の判断が、暗闇に迷える人々の灯となり慰めとなったら、それだけで私はうれしいのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 18-19 ***** 37-w(シルバー・バーチはなぜ地上へ戻ってきたか =3=) 人間の宗教の歴史を振り返ってごらんなさい。謙虚であったはずの神の使徒を人間は次々と神仏にまつり上げ、偶像視し、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。私ども霊団の使命はそうした過去の宗教的指導者に目を向けさせることではありません。そうした人たちが説いたはずの本当の真理、本当の知識、本当の叡智を改めて説くことです。それが本物でありさえすれば、私が偉い人であろうがなかろうが、そんなことはどうでもよいことではありませんか。 私どもは決して真実から外れたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私たちの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義はいったい何なのか、宇宙において人類はどの程度の位置を占めているのか、その宇宙を支配する神とどのようなつながりをもっているのか、そして又、人類同士がいかに強い霊的家族関係によって結ばれているかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです。 と言って、別に事新しいことを説こうというのではありません。すぐれた霊格者が何千年もの昔から説いている古い古い真理なのです。それを人間がなおざりにしてきたために、私たちが改めてもう一度説き直す必要が生じてきたのです。要するに神という親の言いつけをよく守りなさいと言いに来たのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 19-20 ***** 37-x(シルバー・バーチはなぜ地上へ戻ってきたか =4=) 人類はみずからの過った考えによって、今まさに破滅の一歩手前まで来ております。やらなくてもいい戦争をやります。霊的真理を知れば、殺し合いなどしないだろうにと思うのですが゙・・・・・・・ 神は地上に十分な恵みを用意しているのに、飢えに苦しむ人が多すぎます。新鮮な空気も吸えず、太陽の温かい光にも浴さず、人間の住むところとは思えない場所で、生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人が大勢います。欠乏の度合がひどすぎます。貧苦の度がすぎます。そして悲劇が多すぎます。 物質界全体を不満の暗雲が覆っています。その暗雲を払いのけ、温かい陽光の射す日が来るか来ないかは、人間の自由意志一つに掛かっているのです。 一個の人間が他の人間を救おうと努力するとき、その背後には数多くの霊が群がってこれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力は絶対に無駄にはされません。奉仕の精神も決して無駄に終わることはありません。誰かが先頭に立って藪を切り開き、あとに続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらないといけません。やがてそこに道ができあがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。 高級神霊界の神々が目にいっぱい涙をうかべて悲しんでおられる姿を時おり見かけることがあります。今こそと思っていたせっかくの善行のチャンスが、人間の誤解と偏見とによって踏みにじられ無駄に終わってしまうのを見るからです。そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせているのを見かけることもあります。名もない平凡人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 20-21 ***** 37-y(シルバー・バーチはなぜ地上へ戻ってきたか =5=) 私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。 物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。例えてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。 私が定住している世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心には真の生きるよろこびがみなぎり、適材適所の仕事にたずさわり、奉仕の精神にあふれ、互いに己れの足らざるところを補い合い、充実感と生命力とよろこびと輝きに満ちた世界です。 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せであるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してあるのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。 それを取り除いてくれと言われても、それは私たちには許されないのです。私たちに出来るのは、物質に包まれたあなた方に神の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えてさしあげることです。ここにお出での方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを身をもって示していただきたいのです。 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることができたら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りてきた努力の一端が報われたことになりましょう。 私たちは決してあなたたち人間の果たすべき本来の義務を肩がわりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとしているだけです。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 21-23 ***** 37-z (シルバー・バーチはなぜ地上へ戻ってきたか =6=) 私が皆さんとともに仕事をするようになって相当な期間になりますが、これからも皆さんとの協同作業によって地上世界にぜひとも必要な援助をお届けしつづけることになるでしょう。皆さんは知識をお持ちです。霊的真理を手にされています。そしてそれを活用することによっていっそう有効な道具となる義務があります。 私のことを、この交霊会でほんのわずかな時間だけしゃべる声としてではなく、いつも皆さんのお側にいて、皆さんの霊的開発と進化に役立つものなら何でもお届けしようと待機している、脈動する生きた存在とお考え下さい。 これまで私は、皆さんが愛を絆として一体となるように導いてまいりました。より高い界層、より大きな生命の世界の法則をお教えし、また人間が(そうした高級神霊界の造化活動によって)いかに美事に出来あがっているかを説き明かそうと努力してまいりました。 また私は、そうして学んだ真理は他人のために役立つことに使用する義務があることをお教えしました。儀式という形式を超えたところに宗教の核心があり、それは他人のために自分を役立てることであることを知っていただこうと努力してまいりました。 この絶望と倦怠と疑念と困難とに満ちあふれた世界にあって私は、まずはこうして皆さん方に霊的真理をお教えして、その貴重な知識を皆さん方が縁ある人々に広め、ゆくゆくは全人類に幸せをもたらすことになるように努力してまいりました。もしも皆さんの行く手に暗い影がよぎるようなことがあったら、もしも困難がふりかかったら、もしも疑念が心をゆさぶり、不安が宿るようなことがあったら、そうしたものはすべて実在ではないことを自分に言い聞かせるのです。翼を与えて追い出してやりなさい。 この大宇宙を胎動させ、有機物と無機物の区別なく全生命を創造した巨大な力、星も惑星も太陽も月もこしらえた力、物質の世界へ生命をもたらし、あなた方人間の意識に霊性を植えつけてくださった力、完壁な摂理として全生命活動を支配している力、その大いなる霊的な力の存在を忘れてはなりません。 その力は、あなた方が見捨てないかぎり、あなた方を見捨てることはありません。その力をわが力とし、苦しい時の避難所とし、心の港とすることです。神の愛が常に辺りを包み、あなた方はその無限の抱擁の中にあることを知ってください。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.25-27 ***** 37-za (シルバー・バーチの使命) 私どもは決して真実からはずれたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私どもの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義は何なのか、宇宙において人間はどの程度の位置を占めているのか、その宇宙を支配する神とどのようなつながりをもっているか、そして又、人類同士がいかに強い家族関係によって結ばれているかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです。 といって、別に事新らしいことを説こうというのではありません。すぐれた霊覚者が何千年もの昔から説いている古い古い真理なのです。それを人間がなおざりにして来たために私どもが改めてもう一度説き直す必要が生じてきたのです。要するに神という親の言いつけをよく守りなさいと言いに来たのです。 人類は自分の過った考えによって今まさに破滅の一歩手前まで来ております。やらなくてもいい戦争をやります。霊的真理を知れば殺し合いなどしないだろうと思うのですが・・・・。神は地上に十分な恵みを用意しているのに飢えに苦しむ人が多すぎます。新鮮な空気も吸えず、太陽の温かい光にも浴さず、人間の住むところとは思えない場所で、生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人が大勢います。欠乏の度合がひどすぎます。貧苦の度が過ぎます。そして悲劇が多すぎます。 物質界全体を不満の暗雲が覆っています。その暗雲を払いのけ、温い太陽の光の差す日が来るか来ぬかは、人間の自由意志一つにかかっているのです。 一人の人間が他の一人の人間を救おうと努力するとき、その背後には数多くの霊が群がってこれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力は絶対に無駄にはされません。奉仕の精神も決して無駄に終わることはありません。誰れかが先頭に立って薮を切り開き、あとに続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらねばなりません。やがてそこに道が出来あがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。 高級神霊界の神々が目にいっぱい涙をうかべて悲しんでおられる姿を時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが、人間の誤解と偏見とによって踏みにじられ、無駄に終わっていくのを見るからです。そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせているのを見かけることもあります。無名の平凡人が善行を施し、それが暗い地上に新らしい希望の灯をともしてくれたからです。 私はすぐそこまで来ている新らしい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。 物質界に降りてくるのは、正直言って、あまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。たとえてみれば、弾力性のなくなったヨレヨレのクツションのような感じで、何もかもがだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。従って当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当らず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。 私が定住している世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真の生きるよろこびがみなぎり、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、互いに己れの足らざるところを補い合い、充実感と生命力とよろこぴと輝きに満ちた世界です。 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せであるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してあるのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならぬ障害が存在するということです。 それを取り除いてくれと言われても、それは私どもには出来ないのです。私どもに出来るのは、物質に包まれたあなたがたに神の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなたがたを通じて運用されるかを教えてさしあげるだけです。ここにおられる方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを、身をもって示していただきたいのです。 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることが出来たら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上に降りて来た努力の一端が報われたことになりましょう。私ども霊団は決してあなた方人間の果たすべき本来の義務を肩がわりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとするだけです。 近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、1986、 pp.29-32. ***** 37-zb (霊界から地上に真理を広めるための活字の効用) =「なぜあなたは説教者としての仕事を選び、またその霊媒としてバーバネルをえらんだのですか」という質問に対する答えのなかで= 印刷された文字には絶大な影響力があります。話し言葉は忘れ去られるということがあります。人間の脳という小さなスクリーンにゆらめく映像はいたって儚いもので、それに付随して生まれる言葉には不滅の印象を残すほどの威力はありません。その点、活字には永続性があります。いつでも参照することができます。目に見えますし、その意味をくり返し吟味することもできます。また人から人へと伝えられ、海をも越えて、悲運をかこつ孤独な人のもとに届けられることもあります。幸いにして私は、これまでに手にすることの出来た叡智をこうして皆さんにお聞かせしておりますが、それが速記者の仲介をへて次々と活字になっております。そのおかげで各地で魂が目を覚まし、種子が実を結んでおります。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p.30 ***** 37-zc (霊界へ還っている時のシルバー・バーチの意識レベル) ― このサークルから離れている時のあなたは、どういうレベルの意識で機能しておられるのでしょうか。 人間の理解力を超えた境涯へ戻っております。霊の世界では地上的言語を超越し内的直覚を必要とする状態となります。私がこの地上を去って本来の次元の住処に引き返している間は、地上でこうして交信している時には出すことのできない高いレベルの意識を表現しております。それは皆さんに理解していただけるような言語ではまったく用をなさない、霊的実感の世界です。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p. 81 ***** 37-zd (バーバネルの最後の記事「シルバー・バーチと私」 =1=) 私と心霊との係わりあいは前世にまで遡ると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッドクラウドは死後存続の決定的証拠を見せつけてくれた恩人であり、その交霊会において『サイキック・ニューズ』紙発刊の決定が為されたのであるが、そのレッドクラウドの話によると、私は、こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯を捧げるとの約束をしたそうである。 私の記憶によればスピリチュアリズムなるものを始めて知ったのは、ロンドン東部地区で催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた十八歳の時のことで、およそドラマチックとは言えない事がきっかけとなった。 クラブでの私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、これをどうにか大過なくやりこなしていた。それは多分にその名士たちが、ロンドンでも最も暗いと言われる東部地区でそういうシャレた催しがあることに興味をそそられたからであろう。 私のもう一つの役目は、講演の内容のいかんに係わらず、私がそれに反論することによってディスカッションへと発展させてゆくことで、いつも同僚が、なかなかやるじゃないかと、私のことを褒めてくれていた。 実はその頃、数人の友人が私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん始めてのことで、私は大真面目で出席した。ところが終って始めて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。そんなこともあって、たとえ冗談とは言え、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。 同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に一人で出席するのはみっともないからぜひ同伴してほしいと嘆願しても、頑として聞かなかった。二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それから更に不可知論へと変わって行った。 こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく上で、その背景として必要だと考えたからである。 ある夜、これといって名の知れた講演者のいない日があった。そこでヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼はスピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終わると私の同僚が私の方を向いて、例によって反論するよう合図を送った。 ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近ニセの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、従ってそれをまったく持ち合わせない私の意見では価値がないと思う、と言った。これには出席者一同、驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。 終わるとサンダース氏が私に近づいて来て、“調査研究の体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしも本気でおっしゃったのなら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか”と尋ねた。 “ええ”私はついそう返事をしてしまった。しかし“結論を出すまで六カ月の期間がいると思います”と付け加えた。日記をめくってみると、その六カ月が終わる日付がちゃんと記入してある。もっとも、それから半世紀たった今もなお研究中だが……。 そのことがきっかけで、サンダース氏は私を近くで開かれているホームサークルへ招待してくれた。定められた日時に、私は、当時婚約中で現在妻となっているシルビアを伴って出席した。行ってみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。若い者も老人もいる。あまり好感はもてなかったが、まじめな集会であることは確かだった。 霊媒はブロースタインという中年の女性だった。その女性が入神状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。そして事実そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが“死者”である、ということを得心させる証拠は何一つ見当たらなかった。 しかし私には六カ月間勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり“居眠り”をしてしまった。目を覚ますと私はあわてて非礼を詫びた。ところが驚いたことに、“居眠り”をしている間、私がレッドインディアンになっていたことを聞かされた。 それが私の最初の霊媒的入神だった。何をしゃべったかは自分にはまったく分からない。が、聞いたところでは、シルバー・バーチと名乗る霊が、ハスキーでノドの奥から出るような声で、少しだけしゃべったという。その後現在に至るまで、大勢の方々に聞いていただいている。地味ながら人の心に訴える(と皆さんが言って下さる)響きとは似ても似つかぬものだったらしい。 しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホームサークルができた。シルバー・バーチも、回を重ねるごとに私の身体のコントロールがうまくなっていった。コントロールするということは、シルバー・バーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまく行くようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。始めのうち私は入神状態にあまり好感を抱かなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が私自身に分からないのは不当だ、という生意気な考えのせいであったろう。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 214-218 ***** 37-ze(バーバネルの最後の記事「シルバー・バーチと私」 =2=) ところが、ある時こんな体験をさせられた。交霊会を終ってベッドに横になっていた時のことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声つまり私の霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことがその後もしばしば起きた。 が、今はもう見なくなった。それは他ならぬハンネン・スワッハーの登場のせいである。著名なジャーナリストだったスワッハーも、当時からスピリチュアリズムに彼なりの理解があり、私は彼と三年ばかり、週末を利用して英国中を講演してまわったことがある。延べにして二十五万人に講演した計算になる。一日に三回も講演したこともある。こうしたことで二人の間は密接不離なものになっていった。 二人は土曜日の朝ロンドンをいつも車で発った。そして月曜日の早朝に帰ることもしばしばだった。私は当時商売をしていたので、交霊会は週末にしか開けなかった。もっともその商売も、一九三二年に心霊新聞『サイキック・ニューズ』を発行するようになって、事実上廃業した。それからスワッハーとの関係が別の形をとり始めた。 彼は私の入神現象に非常な関心を示すようになり、シルバー・バーチをえらく気に入り始めた。そして、これほどの霊訓をひとにぎりの人間しか聞けないのは勿体ない話だ、と言い出した。元来が宣伝ずきの男なので、それをできるだけ大勢の人に分けてあげるべきだと考え、『サイキック・ニューズ』紙に連載するのが一ばん得策だという考えを示した。 初め私は反対した。自分が編集している新聞に自分の霊現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん議論したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。 が、もう一つ問題があった。現在シルバー・バーチと呼んでいる支配霊は、当初は別のニック・ネームで呼ばれていて、それは公的な場で使用するには不適当なので、支配霊自身に何かいい呼び名を考えてもらわねばならなくなった。そこで選ばれたのが「シルバー・バーチ」(Silver Birch)だった。不思議なことに、そう決まった翌朝、私の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色の樺の木(シルバー・バーチ)の絵はがきが入っていた。 その頃から私の交霊会は、「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」と呼ばれるようになり、スワッハー亡きあと今なおそう呼ばれているが、同時にその会での霊言が『サイキック・ニューズ』紙に毎週定期的に掲載されるようになった。当然のことながら、霊媒は一体誰かという詮索がしきりに為されたが、かなりの期間秘密にされていた。しかし顔の広いスワッハーが次々と著名人を招待するので、私はいつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して、ついに事実を公表する記事を掲載したのだった。 ついでに述べておくが、製菓工場で働いていると甘いものが欲しくなくなるのと同じで、長いあいだ編集の仕事をしていると、名前が知れるということについて、一般の人が抱いているほどの魅力は感じなくなるものである。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 218-220 ***** 37-zf(バーバネルの最後の記事「シルバー・バーチと私」 =3=) シルバー・バーチの霊言は、二人の速記者によって記録された。最初は当時私の編集助手をしてくれていたビリー・オースチンで、その後フランシス・ムーアという女性に引き継がれ、今に至っている。シルバー・バーチは彼女のことをいつもthe scribe(書記)と呼んでいた。 テープにも何回か収録されたことがある。今でもカセットが発売されている。一度レコード盤が発売されたこともあった。いずれにせよ会のすべてが記録されるようになってから、例のベッドで交霊会の様子をビデオのように見せるのは大変なエネルギーの消耗になるから止めにしたい、とのシルバー・バーチからの要請があり、私もそれに同意した。 私が本当に入神しているか否かをテストするために、シルバー・バーチが私の肌にピンを突きさしてみるように言ったことがある。血が流れ出たらしいが、私は少しも痛みを感じなかった。 心霊研究家と称する人の中には、われわれが背後霊とか支配霊とか呼んでいる霊魂のことを、霊媒の別の人格にすぎないと主張する人がいる。私も入神現象にはいろいろと問題が多いことは百も承知している。 問題の生じる根本原因は、スピリットが霊媒の潜在意識を使用しなければならないことにある。霊媒は機能的には電話器のようなものかも知れないが、電話器と違ってこちらは生きものなのである。従ってある程度はその潜在意識によって通信内容が着色されることは避けられない。霊媒現象が発達するということは、取りも直さずスピリットがこの潜在意識をより完全に支配できるようになることを意味するのである。 仕事柄、私は毎日のように文章を書いている。が、自分の書いたものをあとで読んで満足できたためしがない。単語なり句なり文章なりを、どこか書き改める必要があるのである。ところが、シルバー・バーチの霊言にはそれがない。コンマやセミコロン、ピリオド等をこちらで適当に書き込むほかは、一点の非のうちどころもないのである。それに加えてもう一つ興味ぶかいのは、その文章の中に私が普段まず使用しないような古語が時おり混ざっていることである。 シルバー・バーチが(霊的なつながりはあっても)私とまったくの別人であることを、私と妻のシルビアに対して証明してくれたことが何度かあった。中でも一番歴然としたものが初期のころにあった。 ある時シルバー・バーチがシルビアに向って、“あなたがたが解決不可能と思っておられる問題に、決定的な解答を授けましょう”と約束したことがあった。当時私たち夫婦は、直接談話霊媒として有名なエスエル・ロバーツ女史の交霊会に毎週のように出席していたのであるが、シルバー・バーチは、次ぎのロバーツ女史の交霊会でメガホンを通してシルビアにかくかくしかじかの言葉で話しかけましょう、と言ったのである。 むろんロバーツ女史はそのことについては何も知らない。どんなことになるか、私たちはその日が待遠しくて仕方がなかった。いよいよその日の交霊会が始まった時、支配霊のレッドクラウドが冒頭の挨拶の中で、私たち夫婦しか知らないはずの事柄に言及したことから、レッドクラウドはすでに事情を知っているとの察しがついた。 交霊会の演出に天才的なうまさを発揮するレッドクラウドは、そのことを交霊会の終わるぎりぎりまで隠しておいて、わざとわれわれ夫婦を焦らさせた。そしていよいよ最後になってシルビアに向い、次の通信者はあなたに用があるそうです、と言った。暗闇の中で、蛍光塗料を輝かせながらメガホンがシルビアの前にやってきた。そしてその奥から、紛れもないシルバー・バーチの声がしてきた。間違いなく約束したとおりの言葉だった。 もう一人、これは職業霊媒ではないが、同じく直接談話を得意とするニーナ・メイヤー女史の交霊会でも、度々シルバー・バーチが出現して、独立した存在であることを証明してくれた。私の身体を使ってしゃべったシルバー・バーチが、こんどはメガホンで私に話しかけるのを聞くのは、私にとっては何とも曰く言い難い、興味ある体験だった。 ほかにも挙げようと思えは幾つでも挙げられるが、あと一つで十分であろう。私の知り合いの、ある新聞社の編集者が世界大戦でご子息を亡くされ、私は気の毒でならないので、ロバーツ女史に交霊会に招待してあげてほしいとお願いした。名前は匿しておいた。が、女史は、それは結構ですがレッドクラウドの許可を得てほしいと言う。そこで私は、では次の交霊会で私からお願いしてみますと言っておいた。ところがそのすぐ翌日、ロバーツ女史から電話が掛かり、昨日シルバー・バーチが現われて、是非その編集者を招待してやってほしいと頼んだというのである。 ロバーツ女史はその依頼に応じて、編集者夫妻を次の交霊会に招待した。戦死した息子さんが両親と“声の対面”をしたことは言うまでもない。 (訳者付記― ここに訳出したのは、モーリス・バーバネル氏の最後の記事となったもので、他界直後に、週刊紙 『サイキック・ニューズ』 の一九八一年七月下旬号、及び月刊誌 『ツー・ワールズ』 の八月号に掲載された。) 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 220-224 ***** 37-zg (誤りを犯さない完全な霊の教師はこの世には存在しない) このサークルに来られる方に強調しておきたいのは、この私という存在は進化の頂点を極めた、したがって誤りを犯すこともなくなった、完全な霊の教師ではないということです。そんなものはこの世には存在しません。向上すればするほど、まだその先に向上すべき余地があることに気づくことの連続なのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、p.187 38. シルバー・バーチに対する評価 38-a (比類のないシルバー・バーチのことば) = 一読者の手紙から = 文章の世界にシルバーバーチの言葉に匹敵するものを私は知りません。眼識ある読者ならばそのインスピレーションが間違いなく高い神霊界を始源としていることを認めます。一見すると単純・素朴に思える言葉が時として途方もなく深遠なものを含んでいることがあります。その内部に秘められた意味に気づいて思わず立ち止まり、感嘆と感激に浸ることがあるのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.26-27 ***** 38-b (奇跡のシルバー・バーチ交霊会はこのように行われた) =『シルバー・バーチの霊訓(9)』「まえがき」より。 同書を編集したステラ・ストーム(Stella Storm)の文= 私(女性)はバーバネル氏のもとで数年間、最初は編集秘書として、今は取材記者として、サイキックニューズ社に勤めている。 私にとってはその日が多分世界一といえる交霊会への初めての出席だった。英国第一級のジャーナリストだったハンネン・スワッハー氏の私宅で始められたことから氏の他界後もなおハンネン・スワッハー・ホームサークルと呼ばれているが、今ではバーバネル氏の私宅(ロンドンの平屋のアパート)の一室で行われている。 その日、開会直前のバーバネル氏は、チャーチル(元英国首相)と同じようにトレードマークとなってしまった棄巻きをくわえて、部星の片隅で出番を待っていた。一種の代役であるが、珍しい代役ではある。主役を演じるのは北米インディアンの霊シルバーバーチで、今では二つの世界で最も有名な支配霊となっている。そのシルバーバーチが憑ってくると.バーバネルの表情が一変した。シルバーバーチには古老の賢者の風格がある。一分のスキもなくスーツで身を包んだバーバネルの身体がかすかに震えているようだった。 そのシルバーバーチとバーバネルとの二つの世界にまたがる連繋関係は、かなりの期間にわたって極秘にされていた。シルバーバーチの霊言が一九三〇年代にはじめてサイキックニューズ誌に掲載された時の英国心霊界に与えた衝激は大きかった。活字になってもその素朴な流麗さはいささかも失われなかった。 当初からその霊言の価値を認め、ぜひ活字にして公表すべきであると主張していたのが他ならぬスワッハーだった。これほどのものを一握りのホームサークルだけのものにしておくのは勿体ないと言うのだった。 初めはそれを拒否していたバーバネルも、スワッハーの執拗な要請についに条件つきで同意した。彼がサイキックニューズ誌の主筆であることから、“もしも自分がその霊媒であることを打ち開ければ、霊言を掲載するのは私の見栄からだという批判を受けかねない”と言い、“だから私の名前は出さないことにしたい。そしてシルバーバーチの霊言はその内容で勝負する”という条件だった。 そういう次第で、しばらくの間はサークルのメンバーはもとより、招待された人も霊媒がバーバネルであることを絶対に口外しないようにとの要請をうけた。とかくの噂が流れる中にあって、最終的にバーバ自身が公表に踏み切るまでその秘密が守られたのは立派と言うべきである。 あるとき私が当初からのメンバーである親友に「霊媒は誰なの?」とひそかに聞いてみた。が、彼女は秘密を守りながらも、当時ささやかれていた噂、すなわち霊媒はスワッハーバーバネルかそれとも奥さんのシルビアだろうという憶測を、否定も肯定もしなかった。 当時の私にはその中でもバーバネルがシルバーバーチの霊媒としていちばん相応しくないように思えた。確かにバーバネルはスピリチュアリズムに命を賭けているような男だったが、そのジャーナリズム的な性格は霊媒のイメージからはほど遠かった。まして温厚な霊の哲人であるシルバーバーチとはそぐわない感じがしていた。 サイキックーニューズとツーワールズの二つの心霊誌の主筆としてみずからも毎月のように書きまくり、書物も出し、英国中の心霊の集会に顔を出してまわってミスター・スピリチュアリズム〃のニックネームをもらっているほどのバーバネルが、さらにあの最高に親しまれ敬愛されているシルバーバーチの霊媒までしているというのは、私には想像もつかないことだった。そのイメージからいっても、シルバーバーチは叡智あふれる指導者であり、バーバネルは闘う反逆児だった。 今から十年前(一九五九年)、バーバネル自身によるツーワールズ誌上での劇的な打ち開け話を読んだ時のことをよく覚えている。 永いあいだ秘密にされていたことをようやく公表すべき時期が来た。シルバーバーチの霊媒はいったい誰なのか。その答えは---実はこの私である″とバーバネルは書いた。 「それみろ、言った通りだろう!」---こうしたセリフがスピリチュアリストの間で渦巻いた。 シルバーバーチが霊媒の第二人格″でないことの証拠としてあげられるのが、再生説に関して二人が真っ向から対立していた事実である。バーバネルは各地での講演ではこれを頭から否定し、その論理に説得力があったが、交霊会で入神して語り出すと全面的に肯定する説を述べた。が、バーバネルもその後次第に考えが変わり、晩年には「今では私も人間が例外的な事情のもとで特殊な目的をもって自発的に再生してくることがあることを信じる用意ができた」と述べていた。 シルバーバーチの叡智と人間愛の豊かさは尋常一様のものではない。個人を批判したり、けなしたり、咎めたりすることが絶対にない。それに引きかえバーバネルは、みずからも認める毒舌家であり、時にはかんしゃくを起こすこともある。交霊会でシルバーバーチの霊言を聞き、他方で私のようにバーバネルといっしょに仕事をしてみれば、二人の個性の違いは歴然としていることが分かる。 バーバネルは入神前に何の準備も必要としない。一度私が、会場(バーバネルの自宅)へ行く前にここ(サイキックニューズ社の社長室)で少し休まれるなり、精神統一でもなさってはいかがですかと進言したことがあるが、彼はギリギリの時間まで仕事をしてから、終わるや否や車を飛ばして会場へ駈け込むのだった。交霊会は当時はいつも金曜日の夕刻に開かれていたから、一週間のハードスケジュールが終わった直後ということになる。 私も会場まで車に乗せていただいたことが何度かある。後部座席に小さくうずくまり、いっさい話しかけることは避けた。そのドライブの間に彼は、間もなく始まる交霊会の準備をしていたのである。と言っても短い距離である。目かくしをしても運転できそうな距離だった。 会場に入り、いつも使用しているイスに腰を下ろすと、はじめて寛いだ様子を見せる。そしてそれでもうシルバーバーチと入れ替る準備ができている。その自然で勿体ぶらない連繋プレーを見ていて私は、いわゆる職業霊媒が交霊会の始めと終わりに大げさにやっている芝居じみた演出と較べずにはいられなかった。 シルバーバーチが去ることで交霊会が終わりとなるが、バーバネルには疲れた様子はいっさい見られない。両眼をこすり、めがねと時計をつけ直し、一杯の水を飲み干す。ややあってから列席者と軽い茶菓をつまみながら談笑にふけるが、シルバーバーチの霊言そのものが話題となることは滅多にない。そういうことになっているのである。 シルバーバーチを敬愛し、その訓えを守り、それを生活原理としながら、多分地上では会うことのない世界中のファンのために、シルバーバーチとバーバネル、それにサークルの様子を大ざっばに紹介してみた。霊言集はすでに八冊が出版され、世界十数か国語に翻訳されている。その世界にまたがる影響力は測り知れないものがある。 本書はそのシルバーバーチのいつも変わらぬ人生哲学を私なりに検討してまとめ上げた、その愛すべき霊の哲人の合成ポートレートである。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.4-9 ***** 38-c (何の準備もなしに当意即妙に述べる言葉の錬金術に驚嘆) =『シルバー・バーチの霊訓(9)』編集者Stella Storm による= これまでの霊言集の編者のうちの二人が、冷ややかな活字ではシルバー・バーチの温かい人間味と愛を伝えることは到底できないと述べている。確かにその通りである。交霊会に出席する光栄に浴した人は例外なく、顕と幽との二つの世界の言うに言われぬ交わりを体験して感動するものである。 しかし、私自身はそうたびたび出席したわけではないが、そうした人間味とか愛のみがシルバーバーチという一個の霊の個性のもっとも重要な要素だとは思えないし、その使命の主たる目的でもないと考えている。私自身が出席した交霊会の霊言が活字になったのを読んでも、私は改めて感動を覚える。要するにシルバーバーチの述べていることそのものが魂に訴えるものをもっているということである。 このたび本書を編纂するに当たってこれまでの霊言記録に目を通してみて私は、改めてシルバーバーチという霊の述べた霊の威力--- 一つのフレーズ(句)、一つのセンテンス(文)を何の準備もなし当意即妙に述べる、その言葉の錬金術≠ノ驚嘆させられた。 これまでに出版された霊言集はすべて読んでいるし、またサイキックニューズ社での仕事の一つが月刊誌ツーワールズに連載されている霊言の校正もある。その私が本書を編纂しながら一度も退屈さを感じなかった。シルバーバーチは自分のことを古いメッセージをたずさえた同じ古い霊です″と言うが、その助言、その内側に秘めた真理と率直さは常に生き生きとして新鮮である。 かの手厳しい評論家のハンネン・スワッハーでさえ十五年前にこう書いている--- “私はシルバーバーチの教え・指導・助言に毎週一回一時間あまりにわたって耳を傾けることをずっと続けているが、地上のいかなる人物よりも敬愛し尊敬するようになった”と。 今では録音技術の進歩のおかげでカセットテープにまで収められて、シルバーバーチのナマの声が世界各国で聞けるようになった。が、シルバーバーチがみずからに課した使命のエッセンスは、いつも哀れみを込めて語り続ける言葉が活字となって広く読まれることにあると私は確信している。その思想の真価は、少なくともこの地上においては直々に会うことは望めない世界各地の人々に及ぼす影響力によって計られるのである。 みずから述べているように、シルバーバーチにとっては、基本的な霊的真理を一人でも多くの人に伝えるための霊媒の発見が第一の仕事であった。そして、最終的にモーリス・バーバネルに白羽の矢が立てられたことはなるほどと思わせる。なぜならバーバネルは週刊と月刊の二つの心霊ジャーナルの主筆であり、シルバーバーチの霊訓を遠く広く流布する手段として打ってつけの人物だったからである。 さて、初めての交霊会の印象をブラザー・ジョンは次のように書いている。 “永い年月の中で、このシルバーバーチ交霊会での体験ほど素晴らしいものはなかった。シルバーバーチが語ってくださった言葉に私は思わず涙を流した。シルバーバーチという霊に何か強烈な親近感を覚え、それでつい、ほろっとしてしまった。私にとって忘れ難い夜となった。” 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.31-34 ***** 38-d (心を打たれたシルバーバーチの素朴さと謙虚さ) =交霊会が終わったあとのブラザー・ジョンのことば= その素朴さとは二つの世界を一体ならしめる素朴さ---偉大なる魂が素朴にして深遠な真理を説くために地上のもう一つの魂の身体と精神とを支配するための素朴さである。 それに謙虚さ---シルバーバーチの言葉の中にはこの偉大な特質の表現と思えるものが何度も出て来たが、私との対話の中でとくに心に泌みる思いがした場面が三回あった。それは私が思わずお礼の言葉を口にした時で、そのたびにシルバーバーチは穏やかに、そして優しく私への礼はおやめ下さい。私が感謝を頂戴するわけにはまいりませんから≠ニ述べるのだった。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p.39 ***** 38-e (交霊会で示されたシルバー・バーチの深遠な叡智と謙虚さ) =霊的知識の普及のために奉仕一筋に生きている霊能者の夫妻が交霊会に招かれ、シルバー・バーチから賞賛と激励のことばを受けた(29-g、29-h)。会の終了後その感激をご主人が次のような文章に綴った= 予想していた通り、シルバーバーチ霊は深遠な叡智と大へんな謙虚さを感じさせた。語られたことは私たち夫婦にとって、いちいち身にしみて理解できることばかりだったが、私にはその裏側にもっと多くを語る実在感が感じられた。見ていると、霊媒のバーバネル氏の存在は完全に消えてしまって、シルバーバーチ霊が支配しきっているという感じがした。この道の仕事は確かにうんざりさせられることがありがちである。シルバーバーチ霊は目的への信念を回復させる手段を提供してくれた。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、p.76 ***** 38-f (シルバー・バーチの簡潔無比の言葉遣いと言い回しの流麗さ) 二十代の男女二人ずつが青年部の代表として出席し、そのうちの一人が代表して質問を述べた。だらけ切った物的世界に何とかして霊的衝激を与えたいと望む若々しい熱誠と、同じような質問を何十年も繰り返し聞かされてきた、我慢を身上とする老練な指導霊とのコントラストは、まさに“事件”といってよいほどの興味あふれるシーンであった。 交霊会の終了後、一人が私(S. Storm、本書の編集者)にシルバー・バーチの簡潔無比の言葉遣いと美しい言い回しの流麗さに深く感動したと言い、こう続けた。 「それはあたかも一語一語ていねいに選び出しているようで、それでいて間髪を入れず返ってくる答えは、すごいというほかはありませんでした」 彼はそれを現代人らしく“霊的コンピューター”に質問を入力するのに似ていると述べている。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.120-121 ***** 38-g (『総集編』に寄せられたハンネン・スワッハーの序文 =1=) われわれがシルバーバーチと呼んでいる霊は実はレッド・インディアンではない。いったい誰なのか、今もって分からない。分かっているのは、その霊は大へんな高級界に所属していて、その次元からは直接地上界と接触できないために、かつて地上でレッド・インディアンだった霊の霊的身体を中継してわれわれに語りかけている、ということだけである。 いずれにせよ、その霊が “ハンネン・スワッハー・ホームサークル”と呼称している交霊会の指導霊である。その霊が最近こんなことを言った。 《いつの日か私の(地上時代の)本名を明かす日も来ることでしょうが、私は仰々しい名前などを使用せずに皆さんがた地上の人間の愛と献身とを獲得し、私の説く中身の真実性によってなるほど神の使徒であるということを立証すべく、こうしてインディアンに身をやつさねばならなかったのです。それが神の御心なのです》 ところで、私とシルバーバーチとの出会いは一九二四年にスピリチュアリズムの真実性を確信して間もない頃のことだった(※)。以来私は毎回一時間あまり、シルバーバーチの教えに耳を傾け、導きを受け、助言を頂き、いつしかその霊を地上のいかなる人物よりも敬愛するようになった。 (※スワッハーは招かれたある交霊会に大先輩のノースクリッフ卿が出現して、どうしようもない証拠を見せつけられたことがきっかけで死後の存続を信じるようになった。折しも友人のバーバネルが霊能を発揮しはじめ、スワッハーの自宅で交霊会を催すようになった。それが “ハンネン・スワッハー・ホームサークル”と呼ばれるようになったゆえんであるー訳者) シルバーバーチの地上への最初の働きかけは普通より少し変わっていた。スピリチュアリズムを勉強中の十八歳の無神論者が、ある時ロンドンの貧民街で行われていた交霊会にひやかし半分の気持ちで出席した。そして霊媒が次々といろんな言葉でしゃべるのを聞いて、思わず吹き出してしまった。ところがその中の一人が「そのうちあなたも同じことをするようになりますよ」と諌めるように言った。 その時はバカバカしいという気持ちで帰ったが、翌週ふたたび同じ交霊会に出席したら、途中でうっかり居眠りをしてしまった。目覚めると慌てて非礼を詫びたが、すぐ隣りに座っていた人が「あなたは今入神しておられたのですよ」と言ってから、続けてこう言った。 「入神中にあなたの指導霊が名前をおっしゃってから、今日までずっとあなたを指導してきて、間もなくスピリチュアリストの集会で講演するようになると言っておられました」。 これを開いて若者はまた笑い飛ばした。が、それが現実となってしまった。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、pp. 4-6 ***** 38-h (『総集編』に寄せられたハンネン・スワッハーの序文 =2=) 当時はシルバーバーチは多くを語ることができず、それもひどいアクセントだった。それが年をへるにつれて、入神させて語る回数が増えたことも手伝って英語がめきめき上達し、今日ではその素朴で流麗な英語は、私がこれまでに聞いたいかなる演説家もその右に出る者はいないほどである。 ところで “霊媒のバーバネルが本当に入神していることをどうやって確認するのか”という質問をよく受けるが、実はシルバーバーチがわれわれ列席者に霊媒の手にピンを差してみるように言ったことが一度ならずあった。恐る恐るそっと差すと、思い切って深く差せと言う。すると当然、血が流れ出る。が、入神から覚めたバーバネルに聞いてもまるで記憶がないし、その跡形も見当たらなかった。 もう一つよく受ける質問は、霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかということであるが、実はシルバーバーチとバーバネルとの間には思想的に完全に対立するものが幾つかあることが、そのよい証拠といえよう。たとえばシルバーバーチは再生説を説くが、バーバネルは通常意識のときは再生は絶対にないと主張する。そのくせ入神すると再生説を説く。(晩年は信じるようになった−訳者) ささいなことだが、もう一つ興味ぶかい事実を紹介すると、シルバーバーチの霊言を“サイキックニューズ”紙に掲載することになって速記録が取られるようになるまでのことであるが、バーバネルがベッドに入ると、その日の交霊会で自分が入神中にしゃべったことが霊耳に聞こえてくるのだった。これには訳がある。バーバネルはもともと入神霊媒となるのが嫌だったのであるが、自分がしゃべったことを後で全部聞かせてくれるのならという約束をシルバーバーチとの間で取りつけていたのである。速記録が取られるようになると、それきりそういう現象は止まった。 翌日その速記録が記事となったのを読んで、バーバネルは毎度のごとくその文章の美しさに驚く― 自分の口から出た言葉なのに。 シルバーバーチは教えを説くことに専念しており、病気治療などは行わない。また心霊研究家が求めるような、証拠を意図したメッセージもあまり持ち出すことをしない。誠に申し訳ないが自分の使命は霊的教訓を説くことに限られているので……と言って、われわれ人間側の要求のすべてに応えられない理由を説明する。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、pp. 6-7 ***** 38-i (『総集編』に寄せられたハンネン・スワッハーの序文 =3=) 私は最近、各界の人物を交霊会に招いている。牧師、ジャーナリスト、その他あらゆる分野から招待しているが、シルバーバーチという人物にケチをつける者は一人としていない。 そのうちの一人で若い牧師を招いた時に私は前もつて“あなたに考えうる限りの難解な質問を用意していらっしゃい”と言っておいた。日ごろ仲間の牧師からさんざん悪口を聞かされている“交霊会”というものに出席するというので、この機会に思い切ってその“霊”とやらをやり込めてやろうと意気込んで来たらしいが、シルバーバーチが例によって“摂理”というものを易しい言葉で説明すると、若者はそれきり黙り込んでしまった。難解きわまる神学がいとも簡単に解きほぐされてしまったからである。 さて、そのシルバーバーチを支配霊とする私のホームサークルは、毎週金曜日の夜に開かれる。(当初は週一回、中年からは月一回となり、晩年は不定期となった―訳者)その霊言は定期的にサイキックニュ−ズ紙に掲載される。その版権が私のホームサークルに所属するのは、サークルとしての私用を目的としてのことではなく、これを世界中に広めるためである。今ではシルバーバーチは地上のいかなる説教者よりも多くのフアンをもつに至っている。あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる肌色の人種の人々に敬愛されている。 しかし実を言うと、いったん活字になってしまうと、シルバーバーチの言葉もその崇高さ、その温かさ、その威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝えることができない。交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバーバーチがどんなに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることをひしひしと感じる。決して人を諌めない。そして絶対に人の悪口を言わない。 キリスト教では“ナザレのイエス”という人物についてよく語るが、実際には本当のことはほとんど知らずに語っているし、イエスという人物が存在した証拠は何一つ持ち合わせない。 シルバーバーチはそのイエスを、彼が連絡を取り合っている霊団の中でも最高の霊格をもつ存在に位置づけている。永年にわたってシルバーバーチと親しく交わってきて私はその誠実な人柄に全幅の信頼を置いているので、われわれはシルバーバーチの言う通り、新約聖書の主役であるイエス・キリストは地上で開始した霊的革新の使命に今なお携わっていると確信する。そう信じてはじめて“見よ!私はこの世の終わりまで常にあなたたちとともにいる”(マタイ28・20)というイエスの言葉の真実の意味が理解できる。今の教会ではこの説明はできない。 シルバーバーチの哲学の基本的概念はいわゆる汎神論である。すなわち神は大自然そのものに内在し、不変の法則としてすべてを支配している。要するに神とはその法則(摂理)なのである。それをシルバーバーチは“あなたがたは大霊の中に存在し、また大霊はあなたがたの中に存在します”と表現する。ということは、われわれ人間もみな潜在的にはミニチュアの神であり、絶対的創造原理の一部としての存在を有しているということである。 もっともシルバーバーチは理屈をこね回すだけの議論には耳を貸さない。人間は何らかの仕事をするためにこの地上へ来ているのだということを繰り返し説き、宗教とは“人のために自分を役立てること”と単純明快に定義する。そして、お粗末とはいえわれわれは、今この地上にあって戦争に終止符を打ち飢餓を食い止め、神の恩寵が世界中にふんだんに行きわたる時代を招来するための、霊の道具であることを力説する。 “われわれが忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく一冊の書物でもなく一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の摂理である”―これがシルバーバーチの終始一貫して変わらぬ基本姿勢である。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、pp. 8-10 ***** 38-j (『霊訓12』(総集編)「訳者あとがき」より =1=) シルバーバーチと名のる古代霊が地上時代の実名も身分も明かさぬまま約半世紀にわたって英国の霊媒モーリス・バーバネルじて語り続けた、人類史上空前絶後ともいうべき霊言集を翻訳・編纂してきたシリーズも、本巻をもってひとまず完結する。 再三紹介してきたように、サイキックーニューズ社から発行された原書は一九三八年の第一巻を皮切りにシルバーバーチ″の名を冠した第一期のものが十二冊、冠していない第二期のものが一九八八年八月現在で三冊ある。 第一期は九名のメンバーが独自の視点から編集しているが(うち三名が二冊ずつ)、中には互いに重複する箇所がいくつかあり、それを削除して他のもので補充したり、ページ数が他の倍ほどのもあって二冊に分けざるを得なかったものもあったりして、結局は私の翻訳シリーズも本巻を入れて同じく十二冊となった。 ここで改めてお断わりしておきたいのは、原書の第一巻は桑原啓善氏が『シルバーバーチ霊言集』と題して同じ潮文社から出しておられる。テキスト風にまとめられ、私の訳し方とかなり趣きが異なるが、同じ出版社から同じものが出るのもおかしいので、私はこれを完訳することは遠慮して、他の巻の補充や差し替えに使用したり、本巻のために名言だけを拾ったりして、一応その大半を摂り入れるという形をとった。又その序文〃はシルバーバーチ交霊会(正式の名称はハンネン・スワッハー・ホームサークル″)の産みの親であるハンネン・スワッハー氏のものなので、その抄訳を本巻に掲げて最後のしめくくりとした。 洋の東西を問わず霊言″と名のつくものは数多く存在する。が、シルバーバーチ(と名のる霊)ほど気取らず、何のてらいもなく、格好もつけず、親しみぶかく語りかけながら、しかも威厳を失わず、そして最後まで自分の地上時代の名前も地位も国家も明かさなかった霊を私は他に知らない。 私は今でも、ふと、一体シルバーバーチのどこがいいのだろう、と自問することがある。そして、これといって取り立てて挙げられるものがないのに、実際に霊言を読みあるいはカセットを聞くと何とも言えない魅力を覚え、知らぬ間に読み耽り、聞き耽り、いつしか体に熱いものが込み上げてきて涙が頬をつたう。スワッハーも序文″の中で述べているが、シルバーバーチに語りかけられると、姿はバーバネルなのに、思わず感涙にむせぶ者が多かったという。 確かにそうだったに違いない。何しろひねくれ者の毒舌家として世界にその名を知られ、英国ではフリート街の法王≠ニ呼ばれて恐れられていたハンネン・スワッハーその人が一も二もなく参ったという事実そのものが、シルバーバーチの大きさを何よりも雄弁に物語っている。さらに、頑固オヤジのようなバーバネルを霊媒として手なずけたという事実も見落としてはなるまい。 ところで、そのシルバーバーチの霊言の素晴らしさに触れた者が心しなければならないのは、この霊言集に盛られている真理が真理として受け入れられるか否かは、その人の霊性にとってそれが必要であるか否かによって決まることであって、その素晴らしさの分からない人のことをつまらない人、分かった人は霊性が高いといった判断を下すべきではないということである。それはシルバーバーチが何度も言っているように当人の問題である。そして受け入れた瞬間から責任″が生じる。 その責任には二つの面がある。一つはその真理の指示する通りを素直に生活の中で実践すること、言いかえれば、自分に正直に生きるということであり、もう一つはその知識を縁ある人を通して広げていくということである。イエスの時代から二千年もたち、人類は少なくとも知的には確実に進化している。そしてこうした出版機構の発達により書物がかつてのように貧しい人の手に入りにくい時代と違って、誰でもいつでも手に入れられる時代である。そして一人静かに、しかも何度でも繰り返して読むことができる。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、pp. 239-242 ***** 38-k (『霊訓12』(総集編)「訳者あとがき」より =2=) このシリーズを愛読してくださっている方の中には、心に残る言葉を抜き書きにしたりテープに吹き込んだりしていらっしゃる方が少なくないようである。理解しにくい箇所や疑問に思う箇所について質問をお寄せになる方も多い。その一つ一つに私なりの理解の範囲内でご返事を差しあげているのは無論であるが、それは、その責任が私にあると自覚しているからであると同時に、そうした関係の中で真理が理解されていくのが、これからの時代の一ばん正しい、そして有効なあり方だと信じるからである。 カセットテープという便利なものもできて、おかげでシルバーバーチの生の声(といってもバーバネルの声を太くしたものに過ぎないのだが)を聞いて、交霊会の雰囲気を味わうこともできる。そこで気心の合った少人数で読書会や研究会あるいは親睦会といった形で横のつながりをもっておられる方が多いようである。私はこのことを非常にうれしく思い、今後の発展を祈っている。 ただ一言だけ私見を述べさせていただけば、そうした会の発展が特定の人物を中心としたタテの組織をもつに至るのは感心しないであろう。組織であるがゆえの無用の義務、無用の規約、無用の出費が要求されるようになり、それはシルバーバーチが指摘しているように、人類がみずからを束縛することを繰り返してきたその轍を、またぞろ踏むことになりかねないからである。規模の大きい小さいには関係なく言えることである。 ご自分でワープロで印刷したものを知人・友人に配布しておられる方も多い。その中には、九州の獣医さんで、ペットの死をわが子の死のように悲しんで、見るも気の毒なほど塞ぎ込んでいる人たちのために、動物の死後についてシルバーバーチが語っている箇所をワープロで印刷したものを渡してあげているという方もいる。素晴らしいことだと思い、私の労が報われる思いがする。きっとシルバーバーチも喜んでいることであろう。 シルバーバーチはバーバネルの死とともに地上との縁を切ってしまったわけではない。バーバネルという地上の人間の肉体を借りての語りかけ″は終わっても、同じ霊団を従え、それに.ハーバネルやスワッハーなども加えて、何らかの形で地上の霊的革新のために活動しているはずである。それはイエスが地上を去ったのちも霊団を組織して大々的に働きかけてきたのと同じで、その延長線上にあると考えればよいであろう。 『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編) 潮文社、1988、pp. 242-243 39. シルバー・バーチの言葉・挨拶 39-a (交霊会のレギュラー・メンバーに対することば) 私は、こうした形で私にできる仕事の限界をもとより承知しておりますが、同時に自分の力強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。私自身はいつも謙虚な気持です。本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具にすぎない―私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。が、私はその援助のすべてを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちていると言っているのです。 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると自信をもって語ることができます。霊団が指図することを安心して語っていればよいのです。威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人類全体の進化の指導に当たっている、其の意味での霊格の高いスピリットなのです。 私自身はまだまだ未熟で、けっして地上の平凡人からも遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなた方の悩みがよく分かります。私はこの仕事を通じて地上生活を永いあいだ味わってまいりました。あなた方(レギュラーメンバー)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く関わってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないことも分かります。 霊力というのは必要な条件さえ整えば地上に奇跡と思えるようなことを起こしてみせるものです。私たちは地上の存在ではありません。霊の世界の住民です。地上の仕事をするにはあなた方にその手段を提供していただかねばなりません。あなた方は私たちの手であり、私たちのからだです。あなた方が道具を提供する―そして私たちが仕事をする、ということです。 私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけないといったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れといった指示を受けます。私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束ができているということです。私より勝れた叡智を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。 そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているのです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在です。私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会いできることを無上の光栄に思っております。その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。神界というのはあなた方人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が、地上の仕事を実行するとなると、われわれのようなこうした小さな組織が必要となるのです。 私たちはひたすら人類の向上の手助けをしてあげたいと願っております。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えする目的でやってまいりました。そこから正しい叡智を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も地上から送られてくる無知で何の備えもできていない、厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる―そう思って努力してまいりました。 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度は取りたくありません。人間をロボットのようには扱いたくないのです。死の淵を隔てていても、友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の心とからだと魂に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。私たちがあなた方に代わって生きてあげるわけにはまいりません。援助はいたしましょう。指導もいたしましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけには行かないのです。 スピリットの中にはみずからの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私はみずから買って出た口ではないのです。しかし、依頼された時は快く引き受けました。 引き受けた当初、地上の状態はまさにお先まっ暗という感じでした。困難が山積しておりました。が、それも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに較べれば物の数ではありません。 私たちの願いは、あなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい。持てる知能と技能と才能とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生をうけた其の目的を成就することにつながり、死とともに始まる次の段階の生活に備えることにもなる―そう願っているのです。 私は理性を物事の判断基準として最優先させています。私を永いあいだご存知の方なら、私が常に理性を最高の権威ある裁定者としてきていると申し上げても、これまでの私の言説と少しも矛盾しないことを認めてくださると信じます。 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそすべてを律する実在なのです。そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしも利きません。すべてが知れてしまうのです。 私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。喜びと楽しみをもってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなた方の何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。 あなた方は、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が、信じてください。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる能力を具えた、実在の人間です。こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が幾多の障害を乗り越えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。 神よ、かたじけなくもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。幸いにも御心を知り得た私どもは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を良しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場なることを知らしめ給わんことを。 では、神の御恵みの多からんことを。 『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 220-225 ***** 39-b (交霊会のメンバーたちに対するシルバー・バーチの挨拶) 私たち霊団の者は、一種名状しがたい暗闇に包まれている地上各地において、大々的救済活動に従事しております。 霊の光がその暗闇を突き破り、人間が全生命の根源 ― 物質的に精神的に霊的に豊かにする崇高な霊力の恩恵にあずかれるようにしてあげなければならないのです。 進歩は遅々たるものです。克服しなければならない障害が山ほどあります。が、着実に進展しつつあります。各地に新しい橋頭堡が築かれつつあります。霊力はすでに地上に根づいております。それが、幾百万とも知れぬ人々に恩恵をもたらすことでしょう。 私をはじめ、私を補佐してくれる霊団の者、そして地上にあって私たちの道具となってくれるあなた方は、この気高い事業に奉仕する栄誉を担っているわけです。それ故にこそわれわれは、双肩に託された信頼をいかなる形にても汚すことのないように心掛ける責任があると言えます。あなた方は霊力を活用する立場にあります。私も同じです。そして必要とあれば私は、こうして私たちがあなた方のために尽力しているように、あなた方が他人のために自分を役立てるための霊力を、さらに余分に引き出すこともできます。 これまでに啓示していただいた知識のおかげで、われわれは背後に控える力が地上のいかなる霊力よりも強大であるとの認識によって、常に楽観と希望をもって臨んでおります。敗北意識を抱いたり意気消沈したりする必要はありません。すべて神の計画どおりに進行しており、今後もそれは変わりません。人間が邪魔することはできます。計画の進展を遅らせることはできます。が、宇宙最高の霊が地球救済のために開始した計画を台なしにしてしまうことはできません。 われわれが有難く思うべきことは、地上的なものが提供してくれるいかなるものにも優る、物質の領域を超えた、より大きくより美しい生命の世界をかいま見ることを可能にしてくれる霊的知識を手にしていることです。その世界には、地上に豊かな恩恵をもたらす霊力の道具としての人間を援助し鼓舞し活用することを唯一の望みとしている、進化せる高級霊が存在することをわれわれは、信仰ではなく事実として認識しております。 その霊力は病気を癒やし、悲しむ人を慰め、道を失った人を導き、無知を知識に置きかえ、暗闇を光明に置きかえ、生きる意欲を失った人には元気を与え、真理に渇いた人の心をうるおし、其の自我を見出そうとする人には神の計画に基づいたガイドラインを提供してあげます。 援助を求める祈りが聞かれないままで終るということはありません。人のために何か役立つことをしたいという願いが何の反応もなしに終ることはありません。霊界においては、自分より恵まれない人のために役立てる用意のある地上の人間を援助せんとして万全の態勢を整えております。ただ単に霊感や啓示を手にすることができるというだけではありません。霊力という具体的なエネルギーの働きかけによって、受け入れる用意のできた魂にふんだんに恩恵がもたらされるのです。 その道具として、内部の神性をより多く発揮すべく、進化と発達と開発のために不断の努力を怠らないというのが、われわれの絶対的な義務です。 生命に死はありません。墓には生命を終わらせる力はありません。愛にも死はありません。なぜなら愛は死を超えたものだからです。この生命と愛こそ、われわれが所有しかつ利用することのできる大霊の絶対的神性の双子です。それを発達させ開発させることによって、われわれより恵まれない人々のために、他の資質とともに活用することができます。 今の地上は大霊すなわち宇宙の神よりも富の神マモンを崇拝する者の方が多くなっております。本来ならば人間生活を豊かにする霊的知識を携えた霊的指導者であるべきはずの宗教家がまずもって無知なのです。霊的真理とは何の関係もない、人間が勝手にこしらえた教義や信条やドグマを信じ、それに束縛されているからです。洞察力に富んでいなければならない立場の人みずからが、悲しいかな一寸先も見えなくなっているのです。 そのために、霊の力を地上に顕現させ、生命と愛とが永遠であるとの証拠を提供し、医者に見放された患者を治してあげることによって霊力の有難さを味わわせてあげるためには、いろいろとしなければならないことがあるわけです。 霊力の機能はそれ以外にもあります。日常の生活において他のすべての策が尽きたと思えた時の支えとなり、指示を与え、導きます。宇宙機構の中における地上の人生の目的を認識することによって、各自がその本性を身体的に精神的に霊的に発揮できる道を見出し、かくして、たとえわずかな間とはいえ、この地上での旅によって、これ以後にかならず訪れる次のより大きい生命の世界に備えて、大自然の摂理の意図するままに生きられるように導いていきます。 自分はこれからどうなるのだろうかという不安や恐怖を抱く必要はどこにもありません。霊は物質に勝るのです。大霊はいかなる地上の人間よりも強大な存在です。いつかは必ず神の計画どおりになるのです。 そのためには、あなた方人間の一人ひとりに果たすべき役割があります。いま住んでおられるところを、あなたがそこに存在するということによって明るく豊かにすることができるのです。そのための指針はあなたが霊的に受け入れる用意ができた時に授けられます。 いったん宇宙の最大の力とのつながりができたからには挫折は有り得ないことをご存知ならばいつも明るく信念と希望に燃えてください。あなたを愛する霊たちがいつでも援助に参ります。あなたと地上的な縁によってつながっている霊だけではありません。霊的知識を地上全体に広めるためにあなたを霊的通路として活用せんとしている上層界の霊である場合もあります。 私からのメッセージはいつも同じです ― くよくよせずに元気をお出しなさい、ということです。毎朝が好機の訪れです。自己開発のための好機であると同時に、あなた自身ならびに縁によってあなたのもとを訪れる人々の地上での目的が成就される、その手段を提供してくれる好機の訪れでもあります。 (シルバー・バーチの祈り) 私ども一同は、暗黒と無知と迷信と利己主義と暴力、そのほか地上のガンともいうべき恐ろしい害毒を駆逐することによって、神の永遠の創造活動にわれわれならではの役目を果たすことができますよう祈ります。 私どもの仕事は、そうした害毒に代わって、神の子等が内部にその可能性を宿している燦爛たる光輝を発揮させる崇高な知識を授けることです。 これまでに私どもが授かった恩恵への感謝の表明として、私どもは今後ともその崇高な叡智と霊力の通路たるにふさわしい存在であり続け、恵まれない人々を救い他の人々に救いの手を差しのべ、生き甲斐ある人生の送り方を教える、その影響力の及ぶ範囲を強化し、そしてますます広げていく上で少しでもお役に立ちたいと祈る者です。 ここに、常に己れを役立てることのみを願うインディアンの祈りを捧げます。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 10-15 ***** 39-c (20年間も霊言集を愛読している男性に対することば =1=) (シルバー・バーチは、まず、こう述べた。) この交霊会にお出でになる同志の方に私が必ず申し上げていることは、霊的巡礼の旅に立たれた方はみな、同じパターンの人生を体験なさるということです。困難・難題・危機・逆境・失望・挫折、こうしたものを体験させられます。時には失意のドン底に落とされ、あたかもすべての望みが断たれ、奈落の底の暗闇の中に置かれたような、一条の光明も見出せない状態となることもありましょう。 しかし、そうした時こそ魂が目を覚まし、真理を受け入れる用意が整うものなのです。奈落の底からの霊的向上が始まります。ゆっくりとして遅々たる歩みです。それも、必ずしも着実とはかぎりません。時には逆戻りすることもあります。が、光明へ向けて向上し続け、ついに暗黒から抜け出ます。 さて、あなたはただの信仰でなく証拠に基づいた素晴らしい霊的知識をお持ちです。道が示され、導きを受け、そこから生まれた理解が人生の視野を一変させました。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 146-147 ***** 39-d (20年間も霊言集を愛読している男性に対することば =2=) ― 本日はお招きいただいて大へん光栄に存じております。私はあなたの霊訓を二十年間も愛読いたしております。本日こうして出席できるのも、あなたの霊的知識のおかげです。苦しい時はいつも霊言集を開いております。そこで私は今その霊的知識を集大成したいと考えております。テープも書物もかなりの数になりました。それを若い世代のために人生の指針として教えていくためのグループを組織したいと考えているのですが…… 人類全体のための予定表というものがあります。私の世界の高級な神霊によって考え出されたものです。その目的は、受け入れる用意のできた地上の人間を霊的に、精神的に、そして身体的に真に自由にしてあげることです。国家単位の計画があり、個人単位の計画があります。少しずつ着実に運ばれており、決して先を急ぎません。 われわれ全部を包み込んだその崇高な計画に参加しておられる以上、あなたもせっかちな行動は許されません。関わっている問題があまりに多くて、先走りするわけにはいかないのです。私たちが提供するのは、まず証拠です。それから各自がみずからの霊的新生を成就するための知識です。私たちがあなたに代わって救ってあげるわけにはまいりません。自分で自分を救うのです。その手段をどう活用するかは、その人の自由に任されております。 あなたが霊的存在であるということは、あなたも内部に無限なる宇宙の大霊すなわち神の一部を宿しているということであり、同時に、霊的武器(能力)と霊力を宿しているということです。それを進化しながら発揮していくことができるのです。私たちの仕事はこうした霊的真理を一度に一人ずつ、受け入れる準備の整った魂に教えていくことです。この点をとくに強調しておきます。それが偽らざる事実だからです。 諺にも“馬を水辺まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない”というのがあります。イエスはこれを豚と真珠という、きつい例えで表現しました(豚に真珠を投げ与える勿れ―マタイ)。 受け入れるにはその準備ができていなければならないということです。あなたも暗い影の谷間を通り抜けるまでは、真理を受け入れる用意はできておりませんでした。その間の体験が、こうした基本的な永遠の霊的真理を理解しはじめる端緒となる決定的な手段ないし触媒となったのです。 今ではあなたが他の人々を救ってあげる立場になられましたが、あなたの厚意が受け入れられなくても落胆してはいけません。その人はまだそれを受け入れる用意ができていなかったということです。そういう時は、私がいつも申し上げているように、掛けがえのないチャンスを失った人として、密かに涙を流しておあげなさい。 あなたにとってここぞという時に素晴らしい道が示されたように、これからも大切な時には必ず指示がいただけます。人生の視野の基盤を提供してくれる霊的知識を土台として信念を持つと同時に、あなたの背後には、真理普及のためのチャンスさえ提供してくれればいつでも援助に駈けつけてくれる高級霊の大軍が控えているという事実を忘れてはなりません。 恐れるものは何一つありません。あなたには人のために自分を役立てることができるという喜びがあります。それが何より大切です。その機会を与えられることに感謝しなくてはいけません。明日のことを案じてはいけません。困難には遭遇することでしょう。が、それは太陽を一時的にさえぎる雲のようなものです。太陽は少しのあいだ見えなくなりますが、常に存在しているのです。その太陽がもたらしてくれる力と光の存在を片時も忘れてはなりません。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 147-150 ***** 39-e (ナイジェリアの一部族の族長が招待された時の問答 =1=) -(まずシルバー・バーチの方から“本日はどういうご用で来られたのですか”と尋ねると)私たちは誰しも自分自身ならびに同胞のために何か役に立つことをしたいという霊的な欲求をもっているものなのですが、物的世界ではその意図を遅れさせ邪魔をする事情が生じます。そういう立場に置かれている人たちに何かアドバイスをお願いしたいのです。 イエスも同じ趣旨の質問を受けました。それに対してイエスは“シーザーのものはシーザーに、神のものは神に納めるがよい”と答えました。(ここでのシーザーは俗世の権力を意味している。マルコ12・17、マタイ22・21、ルカ20・25−訳者) 問題が生じるのは当然の成り行きです。地上は困難と挫折と障害と逆境に遭遇させられる場所なのです。地上生活のそもそもの目的は、伸び行く魂が、危機においてはじめて呼び覚まされる潜在的資質を発現するために、さまざまな事態に遭遇することにあるのです。 そうした問題を克服しないかぎり霊性の向上は望めません。が、実は克服できないほど大きな問題は決して背負わされないのです。忍耐強く導きを祈り求めることです。時が熟せば必ずドアが開かれ、道が示されます。私はそのことを同志の方にいつもこう申し上げております。− 閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません、と。 『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 150-151 ***** 39-f [50-l] (ナイジェリアの一部族の族長が招待された時の問答 =2=) ― 地上はいつの時代にも、いずこにおいても、因果律という基本的摂理のみが働いていると考えてよろしいでしょうか。もしそうだとすると、なぜその因果律によって営まれている自然が正しく理解されなかったり、ひどい扱いを受けたりするのでしょうか。 因果律は全法則の基本原理であり根底であり、永遠に不変のものです。自分が蒔いたタネが生み出すものを自分で刈り取るという原理です。一つの原因に対して数学的正確さをもって結果が生じます。その結果がまた原因となって新たな結果を生み、それがまた次の原因となって行きます。この過程が絶え間なく続きます。タネに宿っているものが正直に花を咲かせるのです。 千変万化の大自然の現象は、極大のものも極小のものも、単純なものも複雑なものも、一つの例外もなくこの因果律に従っております。いかなる人物も、いかなる力も、その連鎖関係に干渉することはできません。万が一にも原因に対してそれ相当の結果が生じないことがあるとしたら、地球も太陽も、あるいは宇宙全体も大混乱に陥ることでしょう。大霊、神、宇宙の大精神に愛もなく叡智もなく、完全ではないことになります。 宇宙は完全な公正によって支配されております。もしも宗教的ないし霊的な意味があるかに信じられている文句を唱えることによって、それまでに犯した過ちの結果が一挙に取り消されるとしたら、それは大自然の摂理の働きが完全でなく不公正であることを意味します。 大自然は人間の願望にはおかまいなく、定められた通りのパターンに従わねばならないのです。果たさねばならない役割があり、それを果たし続けます。人間がその自然の摂理と調和して生きれば、幸福感を生み出すような結果がもたらされます。時には、こんなに幸せでよいのだろうか、と思うほど豊かな幸せをもたらしてくれることもあります。 反対に自然を搾取し、その意図に逆らったことをすれば、それは神の無限の創造活動に干渉していることになり、その愚行には必ずや神のお咎めがあります。大自然は定められた目的を成就し続けます。 摂理はあくまでも摂理です。完全な普遍性をもって、人間の願望におかまいなく作用します。つぼみ―開花―満開、これが自然の摂理のパターンです。原因と結果の不変の連鎖関係、それが大自然の根本原理です。 間違ったことをすればその償いをしなくてはなりません。正しいことをすれば、その分だけ幸福感を味わいます。理屈は簡単なのです。私たちは可能なかぎりの力を動員して皆さん方を正しい道からそれないように努力いたします。問題は、人間の方が必ずしも私たちの思い通りに動いてくれないことです。 所詮、私たちが扱っているのは不完全な人間です。地上には誰一人として完全な人間はおりません。完全性は神の属性です。ですから、あなた方に一点の非の打ちどころのないものを要求するつもりはありません。よく間違いを犯すものであることを承知しております。人間であるがゆえの煩悩によって過ちを犯しがちであることは十分承知いたしております。 私たちは皆さんに対する愛念を覚えるがゆえに最善を尽くして援助しております。時には傍観して為すがままにさせることもありますが、霊的発達を阻害するような過ちを犯しそうな時には、それを阻止するために、可能なかぎりの手段を尽くして、そのことを皆さんに印象づけることをいたします。
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