今年も一日だけ開いたサボテンの花   (2012.06.16)

 


 ベランダの鉢植えのサボテンが、昨日、6月15日に、このように美しい花の姿を見せてくれました。この写真は、朝10時頃に撮った何枚かの一枚です。前日には気がつかなかったのですが、15日の朝、カーテンを開けますと、何か明るい花の後姿がレースの網目を通して目に飛び込んできて、外へ出てみますと、二つの見事な花が開いていました。もう一つの花は、少し小さめで、この花の斜め右下に隠れています。

 この花はまもなくしぼんでしまうことを知っていましたので、開いている間に写真に収めたのですが、午後の3時ごろには、もう少しずつ花を閉じ始めて、夕方にはこの姿は見られなくなりました。念のために、今日も注意して見ているのですが、花弁は握りこぶしをぎゅっとしめつけたように固く閉ざされてしまって、花の白さの一片も見せてはいません。この花は、このように美しい表情をたった数時間私に見せただけで、あとはまた来年まで、ひたすらに沈黙の日々を過ごしていくことになるのでしょうか。

 実は、昨日は、あるクリスチャンの女性からいただいたメールのことが頭に重くのしかかっていました。その方は「これから私が告げる内容は武本様にショックを与えてしまうかも知れませんが、神は ”たとえ真実がその人を傷つけても、語らなければならない” と言われました」と書き出して、つぎのように述べられています。

 《聖書には天国へ行けるには一つの方法しかないと言ってます。イエスは ”私は道であり、真理であり、命である。誰も私によらないでは父の御元へいく事は出来ない” と言ってます。なので、生きているうちに自分が罪人だと悟り、悔い改め、イエスを救世主として受け入れなければ天国へはいけないのです・・・・。》

 このメールは、さらに、「唯一私たちが霊的な交信が出来るのはイエスだけです。イエスは必ず語られます。聖書の予言によるとイエスの来臨がもうそこまで近づいています。武本様もいますぐイエスを救世主として心に受け入れてください。神は驚くほどに真理を示してくださいます」と続いて、最後は「武本様のように家族を亡くされた方のお気持ちは痛いように分かりますが、神に信頼しなくてはなりません。悔い改めてすぐにミディアムから離れてください」で終わっていました。

 人の考え方はいろいろあることはわかりますが、難しいですね。私は、純真無垢に咲いているこのサボテンの花を見ながら、このメールにどのように返事を差し上げたらいいのか、しばらく考えさせられていました。まったくの善意からのメールであることはよくわかっていますので、私に対するお気遣いにお礼を申し上げるほかはないのですが、結局、一部につぎのようなことを書いて、返信しました。

 ・・・・ミディアムについては、多くのミディアムがあなたの言われるように、質的に問題があるのは事実だと思います。しかし、真実を語れるミディアムも少数ですが、存在していることも事実です。私たちは、それを理性で判断しなければなりません。教会は、教会だから正しいのではないはずです。神の愛とイエスの教えを真実のかたちで伝えるのが正しい教会でなければなりません。この意味でも、言われていることを鵜呑みにするのではなく、真剣に聖書を学びなおすことがあってもいいのではないでしょうか。

 目の前には、一点の曇りもない白輪の花がたまゆらの命を輝かせているなかで、この世の人間にはいつまでも迷いの雲が晴れることはない。そんなことを思いながら、私は、今年も一日だけ咲いてくれたこのサボテンの花の美しさが、昨日は、ことさらに有難いような気がして、飽かずに眺めていました。



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  霊能力者のことばはどれくらい正確か  (2012.05.18)

 霊界というのは階層社会で、死後、どのような階層に進むかは、その人の魂の進歩の状態、つまり霊格によって決まります。そして、この霊格というのは、この世の社会的地位や身分、学歴、財産などとは何の関係もありません。ですから、この世でいくら偉いと思われていた人でも、霊界では下層に落ちていく人もいますし、社会的には名もなく、つつましく生きている人でも、死後、霊界へ行った時には、光り輝く神界に住むようになる人もいます。これは、少しでも霊的な知識を持っている人にとっては、もう当たり前の「常識」といってもよいでしょう。

 先日、少し古い本ですが、大川隆法氏の『宗教選択の時代』(1995年)に目を通していますと、つぎのように書かれているところがありました。

 戦後の総理大臣のなかで、いちばん力を持っていた人は誰かを考えてみると、例えば、戦後まもなく、リーダーシップを非常に持ったワンマンの首相がいたと思います。いわゆる「バカヤロー解散」をしたことでも有名な方です。その方は、力を非常に持っていたし、なした仕事そのものは、政治的に見ても、政治学的にみても、確かに立派な仕事をしています。日本の外交に関しても立派な選択をしています。しかし、死後、現在は地獄にいるのです。(p.113)

 霊界の階層社会はわかるのですが、それでも、具体的にこのような例を示されますと、やはり、大川氏のこのことばは、どれくらい正確なのだろうと、考えさせられてしまいます。大川氏は自他ともに認める高い霊能力を持っていて、「現に私はその方の霊と会って話もしました」(p.122)といっているくらいですから、もちろん、十分な根拠と確信を持って、このような「事実」を公にしているのでしょう。大川氏は、「なぜ地獄に堕ちたのか――その方自身がわからないでいます。自分は総理大臣であった。そして立派な仕事をした。なぜ地獄にいる。わからないです。教えてくれる人は誰もいません」と述べた後で、氏自身がみる地獄に堕ちた理由を、つぎのように書いています。

 その方が地獄に堕ちた理由は、単純なことなのです。その方は、すぐカッとなる性格でした。ですから、いつも心が乱れていたのです。いつも怒りに満ちていたのです。すぐカッとなり、人を叱りつける――そういう波動で生きてきたら、その心の波動が、来世で行くところを決めるのであって、その人の仕事が決めているのではないのです。(pp.113-114)

 話が変わりますが、この同じ本の最後の章で、アメリカは今(1993年12月時点)、北朝鮮への核施設への攻撃を考えている、と大川氏が述べているくだりがあります。氏はこれに反対して、「戦争によって平和は来ない。たとえ、アメリカ合衆国が北朝鮮の核施設を攻撃したとしても、来るものは、平和ではなくて、いっそうの闇と没落だけである」と書いています。これは納得できるのですが、そのあとに、「滅びていくものは自然に滅びていく。共産主義体制は、北朝鮮でも中国でも、あと10年以上、生き延びることはできない」(p.309)と書いているのです。

 氏の揚げ足を取るつもりは全くありません。しかし、いまでは、これは明白な誤りであることがわかります。この文を氏が書いて以来、すでに19年が過ぎ、この本が出版されたからでも17年が経過していますが、不安定ながら北朝鮮はまだ生き延びています。中国にいたっては、生き延びている、というより、客観的には、むしろ経済大国としての繁栄の様相さえみせています。こういう場合、10年も50年も100年も、霊的には一瞬であることにはかわりはない、いづれにしても、「滅びていくものは自然に滅びていく」のだ、というような受け止め方をして、納得しなければならないのでしょうか。




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   悩める人々へのことば      (2012.05.09)

 むかし、ニューヨーク市のある医療施設の待合室に、つぎのような、「悩める人々へのことば」が掲げられていました。作者は誰なのかわかっていません。このことばが、少しずつ広がっていって、いまは海を越え、日本にいる私の手許にもそのコピーがあります。

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 大きなことを成し遂げるために強さを与えてほしいと
 神に求めたのに謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった

 より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに
 より良きことができるようにと、病弱を与えられた

 幸せになろうとして富を求めたのに
 賢明であるようにと貧困を授かった

 世の人々の賞賛を得ようとして栄光を求めたのに
 神を知るようにと挫折を授かった

 人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
 あらゆるものを慈しむために別の人生を賜った

 求めたものは何一つとして与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられていた

 口には出せなかった祈りの言葉は
 ほとんどすべて叶えられていた

 私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されていたのだ


     *****

     (英語の原文はつぎのとおりです)


     A CREED FOR THOSE WHO HAVE
           SUFFERED

  I asked God for strength, that 1 might achieve
  I was made weak, that I might learn humbly to obey...

  I asked for health, that I might do greater things
  I was given infirmity,  that I might do better things...

  I asked for riches, that I might be happy
  I was given poverty, that I might be wise...

  I asked for power, that I might have the praise of men
   I was given weakness, that I might feel the need of God...

  I asked for all things, that 1 might enjoy life
  I was given life. that I might enjoy all things

  I got nothing that I asked for --- but everything I had hoped for
  Almost despite myself, my unspoken prayers were answered

  I am among all men, most richly blessed!

                           (Author unknown)



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  思いがけなく82歳の誕生日を迎えて   (2012.04.20)

 今日は4月20日で、私の誕生日である。私は1930年に大阪で生まれて、今日東京で82歳になった。長い間、死ぬことばかりを考えていた時期があったのに死ぬこともなく、いつのまにか随分長生きしてしまって、いささかの感慨を抑えることができない。

 このホームページの随想集 (30) に、「見るべきほどの事は見つ」がある。これを書いたのは 9年前のいま頃で、当時の私は73歳であった。この「見るべきほどの事は見つ」は、『平家物語』が伝えている平清盛の四男・知盛の最後のことばである。1185年の壇ノ浦の源氏との海戦で破れた知盛は、「いまは自害せん」と、浮かび上がることがないように鎧を二重に着込んだ上で海中に身を投じたといわれている。その時の知盛はまだ33歳で、その小文を書いた時の私よりも、すでに40歳も若かった。

 その小文を書いた当時から、この「見るべきほどの事は見つ」という知盛のことばは、折に触れて私の胸中に蘇ってきていた。私にもまた、見るべきほどのことは見てきたという思いが根強くあったからである。1930年に生まれて以来、楽しいこと嬉しいことが沢山あった。辛いこと悲しいこともいろいろと味わってきた。希望があり、失望落胆があった。そして、人間の苦しみの極限状態ともいえるような経験も経てきている。

 かつて私は、77歳くらいで死ぬと霊能者から言われて、そのつもりでいたことがある。講演などでも、私が死ぬ時期はほぼ決まっているのだ、というようなことを言ったりもした。しかし、その後、霊界の判断が変わって、「霊的真理をより多くの人々に伝えて啓蒙をはかっていくため」に、早ければ82歳、さらに必要と判断されれば86歳の幅で引き延ばされると告げられた。私はいま、その82〜86歳の枠内に入ってきたのである。もっとも、霊能者から言われなくとも、82歳というのは何時死んでも不自然ではない年齢だから、これは、そのとおりになるであろう。

 大きな天の摂理のなかで、幾度か死にそうになっても死ぬことはなくこれまで生かされてきた。いまでは私なりに死を学び理解し、あまり恐怖を感じることもなくなっているのは有り難いことである。ここ数年来、カネもモノもその大半を社会へ還元する作業を続けてきて、私の身辺整理も終わりに近づいてきた。これからは、いつでも安らかに最後の日を迎えることができるように、残りの日々を、感謝と祈りと奉仕のなかで穏やかに過ごしていきたいと思っている。



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  人間の才能の違いをどのように捉えるか  (2012.04.09)

 海外における日本文学研究の第一人者で、このほど、日本国籍を取得したドナルド・キーンさんは、1948年から5年間、イギリスのケンブリッジ大学に留学していたことがありました。その頃にキーンさんは、『源氏物語』の翻訳者であるアーサー・ウェイリー(1889〜1966) とよく会っていたようです。

  アーサー・ウェイリーは、当時、古典日本語の辞書を含む資料等が入手困難な時代に日本語と古典中国語を独学で習得した語学の天才ですが、一つの外国語を覚えるのに3か月あれば十分であると言っていました。私の出身大学の同窓会誌の最近のインタービューでそのことを聞かれたキーンさんは、「彼は確かに、独学で日本語を覚えました。日本の文語は非常にきちんとしていて覚えやすい。3か月で十分できる」と言っていたことを述べたあと、つぎのように続けています。

 「あの頃の彼の教育を考えますと、当時の英国の教育ではラテン語、古代ギリシャ語、フランス語を勉強しました。高校生として。そして大学に入って、ウェイリー先生はサンスクリット語を覚えました。そしてイタリア語もできる。スペインにしばらくいましたので、スペイン語も出来ました。要するに、そういう人にとって、なるほどこういうような文法だと判れば容易に外国語を習得できたのでは、と考えられます。そして、晩年にアイヌ語を覚えました。」

 そのあとで、キーンさんは、「ウェイリー先生に初めて会ったときはケンブリッジでしたが、特別な講演がありました。それはアイヌの叙事詩についての話でした」などとも、話しています。そのキーンさん自身も日本文学に関する多くの著作を持ち、「私は現在日本語をよく読んでいますし、中学生の頃から覚えたフランス語も楽しんで読んでいます。スペイン語は大体同じ程度できます」と言っていますから、やはり、語学の才能には特に恵まれているといえるでしょう。

 ところで、このような才能の有無はどこからくるのでしょうか。もちろん、これは語学だけではなく、音楽、絵画、工芸、あるいは、運動、スポーツなどにも言えることですが、現在のこの世でその才能を発揮しているその背景には、それまでの前世で何度も繰り返されてきた学びや訓練や体験の積み重ねがあったのではないかと思われます。人間にはすべて無限の潜在能力が誰にでも与えられているはずですが、そのうちの一部を、少しずつ伸ばしてきた人とそうでない人との違いが、この世では大きな差となって現われているだけなのかもしれません。

 『新樹の通信』のなかで、守護霊が「人間の性格趣味の約7割位は、その人の背後に控えている守護霊の感化」であることを伝えている場面(340頁)があります。これも、一人ひとりの才能に大きな影響を与えている要素といえるでしょう。私は、アーサー・ウェイリーがたった3か月で日本語を独学でマスターして『源氏物語』を訳したり、ドナルド・キーンさんが日本文学にのめり込んで、ついには日本に帰化するようになったのも、このような守護霊の影響のほかに、おそらく、この二人の過去生のどこかで、日本とは深いつながりがあったからではないかと思ったりしています。



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  真実を見つめるための視野と視点の転換 (2012.03.27)


 霊界は宇宙と表裏一体になっているといわれることがあります。もしそうなら、霊界を理解する一つのアプローチは、宇宙を眺めることかもしれません。霊界は見えませんが、宇宙は誰の目にも見えるからです。私たちは地球に住んでいますが、宇宙の中の存在であることも確かです。しかし、その誰の目にも見える宇宙は広すぎて、なかなか地球的視野では捉えることが容易ではありません。

 宇宙の広さを測るのには光速を用いますが、これはいうまでもなく光が一秒間に進む距離の30万キロメートルを基準にしています。地球は1周すると4万キロですから、光速の一秒では地球を7,5回周ることになります。その光速で測ると、月からの光が地球に届くまでの時間はわずか1秒,太陽からは8分にすぎません。もう少し地球から離れますと、一番近くの恒星からは4年、ベガからは25年です。

 しかし、遠いものになると、ある種の銀河からは数十億年、光度が私たちの銀河系全体の1万倍もあるといわれる天体・クエーサーに至っては、120億光年の彼方に位置するものもあるといいますから、想像を絶するというほかはありません。この場合、私たちは、天体望遠鏡を通して、地球が生まれた46億年前よりはるか昔の、120億年前のクエーサーの姿を見ていることになります。

 このような宇宙の姿について、ユベール・リーヴズ『世界で一番美しい物語』(木村恵一訳、筑摩書房、1998)のなかでは、宇宙物理学者の目から見る見方として、次のような記述もあります。

 ・・・・・歴史家は古代ローマをじかに眺めることなどできませんが、私たち宇宙物理学者は本当に過去を見て、かつての天体の姿を観測することができます。今見るオリオン星雲はローマ帝国末期のものですし、肉眼でも見えるアンドロメダ銀河は200万年前の姿です。もしアンドロメダの住人が今こちらを見ているとしたら、やはり同じ時間のずれで、原始人の住む地球を見ていることになります。(pp.33-34)

 この本には、また、地球の歴史を45億年として、それを1日に換算したらどうなるかという次のような興味深い試算もあります。私たちが真実を見ようとするとき、視野の拡大も必要ですが、このような視野の縮小も、時には有用であることを、考えさせられます。

 地球の歴史の45億年を1日に換算して、午前零時に地球が誕生したとすると、午前5時頃に生命が出現して、それ以降ずっと発展しつづけます。午後8時になってやっと最初の軟体動物が生まれ、午後11時に出現した恐竜は11時40分に絶滅して、哺乳類の急速な進化が始まります。11時55分を過ぎてようやく人類の祖先が登場し、最後の1分間に脳の容積が2倍になりました。産業革命が始まったのはわずか100万分の1秒前のことにすぎません。(pp.72-73)


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  霊界通信の正確度について考えるとき (2012.03.20)


  私が留学生として渡米したのは、1957年の夏でした。横浜から船に乗ってアメリカへ向かったのですが、私が船に乗り込んだあと、見送りに来ていた父は、はらはらと涙をこぼしていた、と後で母から聞きました。父は、私が1959年に留学を終えて帰ってきたその翌年に59歳で亡くなりましたが、あの私の出発の時には、もしかしたら「生き別れ」になるかもしれないと考えていたのかもしれません。

 1950年代のアメリカは、日本からは遠く、遠く離れた夢の国でした。留学生に選ばれて渡米するのですから、父は名誉だと考えていたでしょう。しかし、その頃は、横浜から東京へ電話するのでさえ、電話局へ市外電話を申し込んで2時間も3時間も待たされていたのです。アメリカへ行ってしまえば電話で話すこともできませんし、航空便の手紙も片道で10日ほどもかかっていました。はるばると、未知の国へ送り出す寂しさも一入であったにちがいありません。

 霊界通信を考える時、通信の難しさという点で、私は時折、この時のアメリカと日本との隔絶状態を思い浮かべることがあります。現在、浅野和三郎先生とご子息の新樹氏との霊界通信をホームページに載せていますが、通信状況からいえば、この「霊界通信」のほうが、かつての私の場合の父との「現界通信」よりは、はるかに自由で、正確で、しかも、瞬時に行なわれています。着ている洋服や、住んでいる家の模様なども目に見えるだけではなく、人と会ったり、散歩したり、水泳をしたりしている様子なども手に取るようにわかるのですから、いわば、テレビつきの市内電話で話し合っているようなものです。

 私は、1983年の事件のあとは、霊界の妻と子の消息を必死になって求め続けて、何人も、何十人もの霊能者に会っていました。しかし、ほとんどは雲を掴むような状態で、何年もの間、妻や子と連絡が取れているという確信をもつことはできませんでした。それでも、真実の断片だけでも、一つでも、二つでも掴めれば、と思い続けているうちに、ロンドンでやっと通信回線が繋がったような状況になったのです。妻と子が元気で生き続けていることについては、一点の疑問もなく確信がもてるようになり、その通信の多くは、ホームページや著書でも紹介してきました。しかし、それでもそれらは、浅野先生の『新樹の通信』の正確度、自由度には、遠く及びません。

 ただ、何よりも大切なことは、このような通信によって、死後の生についての認識を深め、霊的真理に対して謙虚に向き合っていくことではないかと思われます。浅野先生の場合は、心霊研究の第一人者が優れた霊能力者の夫人と共に霊界のご子息と対話するという稀有の好条件に恵まれているわけですが、これはもちろん、誰にも期待できることではありません。しかし、その対話が「証言する」霊的真理を学ぶことによって、私たちも大きな恩恵と安らぎを得ることができます。その意味でも、私は、浅野和三郎先生の『新樹の通信』等の極めて貴重な業績には、こころからの感謝と敬意を捧げずにはおれないのです。



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  浅野和三郎先生ご長女への短信    (2012.03.13)


 秋山美智子様

 重ねてのお手紙をいただき、有難うございました。

 去る2月28日は、お兄様の新樹氏の83年目の命日でしたが、1月18日に横浜のご自宅であなたに直接お会いして、いろいろと新樹氏のお話をお伺いしておりましただけに、私は、その日のホーム・ページに、「私にとってもこの日は、感慨深い、特別の日になりました」と書きました。

 今年の1月3日から、毎週、『新樹の通信』をホーム・ページのうえで公開するようになって、先週末には、「新樹とその守護霊」のところまできています。お父上の和三郎先生が、新樹氏のご命日には、必ず「今日はお前が亡くなって何年目の命日だ」と仰りながら、新樹氏と何時間も対話しておられた由うけたまわり、親子の情愛の深さに、改めて、感銘を受けております。

 それにしても、このように自由自在に、しかもこれほどの正確さで、あたかも電話でお話されているように、親しく対話されているご様子には、感嘆するほかはありません。あなたは、お母様の目には、霊界のすべてが現在のテレビと同じように映っていた、と書かれていますが、本当にその通りで、お陰さまで私たちも、大きくその恩恵を受けておりますことをこころから感謝申しあげずにはいられません。

 一昨日、3月11日は、東日本大震災の一周年にあたる日で、私も被災地の方々へ手紙を書いたりしながら、重苦しい一日を過ごしました。ご希望の方々には、私の『天国からの手紙』も何冊かお送りして、読んでいただいておりますが、そのような方々にも、このような和三郎先生と新樹氏との奇跡の対話が現実に80年前に行なわれていたことを、少しでも知っていただきたいと祈るばかりです。

 冬の寒さが少しずつ遠ざかり、日差しに暖かさが感じられるようになってきました。どうか、くれぐれもご自愛くださいますように。和三郎先生と多慶夫人のご長女として、そして新樹氏がいつも優しく気にかけてくれていた「幼いときの妹」として、『新樹の通信』から多くを学ばせていただいている私たちの親しみと敬愛の気持ちをも、この手紙から受けとめていただくことができれば、たいへん有り難く存じます。



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 「水車のある村」での老人と若者との対話  (2012.03.06)


 1月27日の「北アルプスの懐に抱かれた安曇野の水」のなかで、黒沢明監督の『夢』の第8話について書きましたが、その「水車のある村」を昨日、ビデオでもう一度見直してみました。撮影現場の安曇野の万水川(よろずいがわ)を背景にして、笠智衆さんが扮する103歳の老人と、初めてそこへ訪れてきた寺尾聡さんが扮する若者との対話がこころに沁みこんできました。その対話の一部をここに書き写してみます。

 美しい川のそばで、水車の環の一つを修理している老人に、村を訪ねてきた若者がつぎのように語りかけます。それに対して老人が答えます。

 ―この村の名前は何というのですか?
 ―名前なんかないよ。わしらはただ、「ムラ」とよんでいる。よその連中は、「水車村」と呼んでいるらしい。

 (若者が水車小屋のなかのランプを見て)
 ―ここには、電気はひいていないんですか?
 ―そんなものは、いらない。人間は便利なものに弱い。便利なものほどいいものだと思っている。
 ―灯かりはどうするんですか?
 ―ローソクもあれば、たね油もある。
 ―夜は暗くはないですか?
 ―暗いのが夜だ。夜まで昼のように明るくては困る。星も見えないような明るい夜はいやだね。
 ―田んぼがあるようですが、収穫に使う耕運機やトラクターもないんですね。
 ―そんなものは、いらん。牛もおるし、馬もおる。
 ―燃料には何を使っているんですか?
 ―おもに、薪を使っている。生きている木を伐るのは可哀そうだが、枯れ木もあるから、おもにそれを伐って、薪に使っている。牛のフンもいい燃料になる。

 (老人は、このあと、ゆっくりと一人で語り続ける)
 ―私たちは自然の暮らし方をしたいと思っている。近頃の人間は、自分たちも自然の一部だということを忘れている。自然があっての人間なのに、その自然を乱暴にいじくりまわして、もっといいものが出来ると思っている。
 特に学者には、アタマはいいのかもしれないが、自然の深い心がさっぱり分からないものが多いので困る。そういう連中は、人間を幸せにするというものを一生懸命発明して得意になっている。
 また、困ったことに、大多数の人間たちは、その発明を奇跡のように思い、有難がって、その前に額ずく。そして、そのために自然が失われる。
 いまの人間が一番大切なものは、いい空気やきれいな水、それを作り出す木や草なのに、それは汚され放題、荒れ放題、空気や水は人間の心まで汚してしまう・・・・・・

 (ここで川の向こうから、にぎやかな笛・太鼓の音が聞こえ始める。それに気がついて、若者は老人に訊く)
 ―お祭りがあるんですか?
 ―いや、あれは葬式だよ。・・・・・・あんたはヘンな顔をするが、本来、葬式はめでたいものだよ。よく生きて、よく働いて、「ご苦労さん」と言われて死ぬのは、めでたい・・・・・

 この葬式は、この103歳の老人の初恋の人が99歳で亡くなったので、村中で「お祝い」をしているのだといいます。そして、老人もその賑やかなお祝いの「葬列」に参加するために出かけるところで、この作品は終わっています。

 黒澤明監督の傑作の一つに、アカデミー賞 外国語映画賞をとった「デルス・ウザーラ」があります。シベリア沿海地方の自然の中で生きてきた猟師のデルス・ウザーラが、文明化されたロシア人探検家に人間の生き方のうえで大きな教訓を与えていくという、ほのぼのとした温かみのある作品です。こういう作品を通じて、黒澤監督が一生懸命に訴えようとしていたことを、私たちは、この「水車のある村」からもうかがい知ることが出来るような気がしました。



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  浅野新樹氏の83年目の命日       (2012.02.28)


 浅野和三郎先生のご次男・新樹氏は、昭和4年2月28日に大連の病院で急逝されました。古河電気工業の大連支店に勤務中で25歳でした。今日は、その83年目の命日にあたります。先日は、横浜で和三郎先生のご長女・秋山美智子さんとお孫さんの浅野修一氏にお会いして、いろいろと新樹氏のことなどお伺いしてきただけに、私にとってもこの日は、感慨深い、特別の日になりました。

 すでにご覧いただいているように、現在、このホームページに黒木昭征氏の現代文訳『新樹の通信』を載せていますが、この通信は、最も早いもので、氏の死後僅かに百日あまりで始まっています。最初は新樹氏も少し戸惑っていたようですが、しかし、これほどの正確さで、あたかも国際電話で父と子が対話しているように、霊界との通信が自由自在に行なわれていたことには驚嘆させられます。

 「一周忌前後」の通信記録だけをみても、新樹氏が、地上からの祈りの波動を受けとめて現世のことを思い出したり、名前まで挙げたうえ、大連にいる友人の存在まで感じとったりして「お父さんから、大連の皆さんに宜しく言ってあげてください」と言ったりしています。その新樹氏の住んでいる洋風の家の様子から、いま着ている渋みのある茶色っぽい洋服なども霊眼で見えるばかりでなく、公園での散歩で花を摘んだり、人と会ったり、まわりの風景なども細かく伝えられていますが、これが霊界からの通信であることがちょっと信じ難いくらいです。

 これは、もちろん、父上の和三郎先生が日本における心霊研究の第一人者であり、母上が優れた霊能者であったという稀有の好条件にもよるものでしょう。しかし、「死後の生」がここまで生々しく実証されている例は、決して多くはありません。その意味でも、この通信は極めて貴重であり、私たちも、具体的な霊界の情報をいろいろと得ることができて、たいへん参考になります。新樹氏と和三郎先生ご夫妻には感謝のことばもありません。このような奇跡の通信が、現実に80年前に行なわれていたことを、一人でも多くの人々に知ってほしいと願うばかりです。



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  死と苦難の問題はどのように解決されるか (2012.02.17)


 先日、私の住所の郵便受けに、「人間の死と苦難の問題はどのように解決されるのでしょうか?」と大きく書かれたチラシが入れられていました。あるプロテスタントの教会のもので、ほかのチラシと同じように、時々、こういう宗教関連のチラシも無差別に配られているようです。

 「死と苦難の問題の解決」ならば、私は大いに興味がありますから、読んでみました。箇条書きにして、15項目並べられていますが、そのうちのいくつかには、こう書かれています。

 1.元来、人間とは? 神様が与えてくださる祝福を受けて永遠に生きるように創造されました。
 2. しかし、なぜこの地に死、病、貧困が入ってきたのですか? それは、まさに罪のためです。
 3. なぜ罪を犯したのですか? 悪魔に騙されたからです。
 4. 罪を犯した人間は? 神様から追い出される者となりました。
 5. 神様から追い出された人間は? 悪魔の手に落ちてしまいました。
 6. 悪魔の手からどのように脱することができますか? 人間自らの力では到底不可能です。
 7. 主イエスを信じる人は? 誰でも悪魔がもたらす呪いと災いが離れ去ります。人生のすべての問題が解決され、神様の霊が永遠に伴ってくださいます。肉体が死んだ後は、霊魂が復活の命によって永遠に生きるようになります。

 この最後の7がポイントで、イエスを信じれば、「人生のすべての問題が解決され」、肉体が死んだ後も、「永遠に生きる」ようになるというのですが、やはり、これは、少々、短絡的な言い方ではないかと思われます。

 罪を犯すことはよくないことですが、仮に罪を犯しても、人間が神様から追い出されることは決してないはずですし、イエスを信じても信じなくても、人間は肉体が死んだ後も永遠に生きていきます。それが天の摂理ではないでしょうか。

 このチラシは、おそらく教会の人の善意で書かれているのでしょうが、それにしても、こういうチラシの内容をこれだけの文でもし信じる人がいるとすれば、それはどういう人なのだろうと、ちょっと、気になりました。



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    浅野修一氏からの手紙           (2012.02.08)
     ―浅野和三郎先生75年目のご命日に―


 本欄の1月19日に、「浅野和三郎先生のご家族を訪問する」を載せていますが、先日はご和三郎先生のご長女・秋山美智子様からご丁寧な長文のお手紙をいただきました。そして昨日、2月7日に、お孫さんの修一氏からのお手紙もいただきました。和三郎先生がお亡くなりになったのは、昭和12年2月3日のことで、修一氏は、このお手紙をご祖父の75年目の命日に書いておられます。

 浅野和三郎先生が日本における心霊研究に偉大な足跡を残されたことについては、このホームページの『新樹の通信』紹介文の中でも少し触れています。本文をお読みいただいている方々には、このように極めて自然で正確な父と子との対話が、すでに80年も前に、生と死の壁を越えて自由に行なわれていた事実に驚かれたことと思います。私にとっても本当に有り難く、何よりも貴重で、「奇跡の通信」というほかはありません。

 このお手紙は、修一氏からいただいた私信ではありますが、和三郎先生についても触れておられ、且つ、先生のご命日にお書きになったということで、和三郎先生が私たちに残された貴重な業績の数々を偲びつつ、是非、多くの方々にもご披露させていただきたいと思いました。転載については修一氏のご了承を得ておきたいと思いますが、そのお手紙の全文は、つぎの通りです。


 拝復

 先般は遠路お出掛け下さいまして、お目にかかる機会を得ましたこと、誠に光栄なことでございました。又、総持寺へ墓参もして下され重ねて御礼申しあげます。あの墓石の文字は、まさしく和三郎の筆跡でございます。

 さて、先生の御著書『天国からの手紙』有り難く拝受致しました。早速熟読させていただきました。大韓航空機事件のこと、先生が霊界通信にたどり着くまで、そしてその18年間にわたる霊界通信の記録、感動して読ませていただきました。

 そして潔典様からの「お父さんの書く本などで霊界についての理解が深まっていくと、こちらの世界との溝が取り除かれ、死後の世界の恐怖心とか迷信もなくなっていきます。霊界がそちらの世界からもっと身近になって、死のもたらす悲しみや苦しみも消えていくでしょう。死というのは次元が違っても、隣の部屋に一歩足を踏み入れるようなものですから」とのお言葉は、まさにその通りでございますね。

 和三郎が心霊研究に入った時の心境も「奈落の底に沈みつつある世界の人類を救済すべく微力の限りを尽さん」と云うものでございました。いま武本先生が著作や講演やホームページでなさっていることでいかに多くの方々が癒され救われたかは、メールの投稿からも窺えます。知名の先生が心霊界のためにご尽力なさっていることに深く敬意を表します。

 本日は、和三郎75年目の命日です。先生が『新樹の通信』でご高評下さり、ホームページでご紹介下さったり、『天国の家族との対話』でもとりあげてくださる由、霊界の祖父も非常に喜んでいると思います。どうぞ今後共よろしくお願い申しあげます。寒さの折、益々のご壮健をお祈り申しあげます。

                                     敬具
            H24年2月3日   
浅 野 修 一



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   北アルプスの懐に抱かれた安曇野の水  (2012.01.27)

 
 黒沢明監督の『夢』の第8話「水車のある村」は
この付近で撮影された。左に見えるのは水車。上方
から流れてくる
万水川と蓼川は、この右下を少し流
れた地点で合流する。 
(2012.01.25 筆者撮影)


 黒沢明監督のオムニバス映画『夢』は霊的示唆の多い作品ですが、そのなかの第8話は「水車のある村」となっています。そこにはこの世のものとは思えないほど美しい川が流れていました。ご覧になった方も沢山おられることでしょう。私は、この映画を見たとき、こんなに美しい川が本当にあるのだろうか、と思いました。霊界の美しさを本で読むようになってからは、霊界の川とは、あのような川なのだろうかと想像したりもしました。

 この「水車のある村」の撮影現場が、安曇野の万水川(よろずいがわ)と蓼川(たでかわ)の合流地点付近です。私は、長い間、この川を一度見てみたいと思ってきましたが、この度、やっと現場に足を運ぶことができました。上の写真は、その時の写真の一枚です。一月の寒さのなかでは木々の葉も落ちていて、あの映画に出てくる川の美しさは捉えきれていませんが、辛うじて、その面影の一端を偲ぶことはできるかもしれません。

 「水車のある村」がここで撮影されたのは、もう23年も前になる 1989年5月のことでした。5月のこの辺りの風景は、川辺の草花や木々の緑が美しく、水の流れもおそらく勢いを増して、そのなかには、あの映画に出てくるような大量の水草が清流になびいている様子が見られるのでしょう。水草は、この時期でも青々としていましたが、水の流れはやはり春ほどには、速くはないようです。

 案内してくれた運転手さんの説明では、万水川は北アルプスの雪解け水が地下深く沁み込み1万年かけて湧き出した伏流水なのだそうです。この写真の上方右側にちょっと見えているのが蓼川で、これは伏流水ではありません。清らかな水が流れていますが、大雨が降ったりすれば、普通の川と同じように、濁ることもあるといいます。しかし、伏流水が流れる万水川のほうは、いくら雨が降っても、水が濁ることはないそうです。

 日本は山国で、夏に多く降る雨は、ほとんどが急流小河川となって下流に豊かな土壌を堆積させます。しかし、この北アルプスの麓に拡がる安曇野では、その通常の地表を流れる河川のほかに伏流水が日量70万トンも湧き出るといいますから驚ろかされます。その清らかで豊富な水は、環境省から「名水百選」に認定され、「安曇野の水」としてひろく知られているようです。「早春賦」の歌で知られる安曇野の地域一帯も、国土交通省からは「水の郷」の認定を受けているとも聞かされました。



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   浅野和三郎先生のご家族を訪問する  (2012.01.19)


  すでに「霊界通信集」でご紹介していますように、浅野和三郎先生の『新樹の通信』は、黒木昭征氏の現代文訳で、『小桜姫と新樹の物語』のなかの第二巻として刊行されています。現在、その主要部分を、黒木氏のご了解をえてこのホームページに載せていますが、父と子との全く自然な対話とその内容の驚くべき正確さに驚かされます。日本における霊界通信の白眉といわれるゆえんです。

 その浅野和三郎先生のご長女・秋山美智子さんとお孫さんの浅野修一氏は、現在、横浜市にお住まいです。昨日、1月18日、私がホームページの開設以来お世話になっている佐々木薫さんと谷口美砂子さんのお二人といっしょに、黒木昭征氏のご案内で、秋山美智子さんと浅野修一氏にお会いしてきました。

 午前中に、鶴見の総持寺へ行き浅野家のお墓参りをしました。このお墓は、浅野和三郎先生が昭和4年に建立されたことになっていますから、その時機は、ご子息の新樹氏が大連の満鉄病院で死去されてから間もなくのことと推察されます。墓石に彫られた文字も、浅野和三郎先生の筆跡かもしれません。

 午後に、そこからほど近い秋山家を訪れたのですが、そこへ浅野修一氏も来ておられました。浅野修一氏は、現在も、心霊科学研究会を主宰してお元気で活躍中です。秋山美智子さんは、年齢は90歳近くと思われますが、もうお別れして82年になる兄上の新樹氏のことをはじめ、その頃のご両親の心霊研究の模様など、実に細かく正確にお話しくださったのには感動しました。

 和三郎先生が東京帝国大学で教えを受けられたラフカディオ・ハーンのことや、ロンドンで会われたコナン・ドイルの話のほか、先生の兄上の浅野正恭海軍中将、海軍機関学校教授の後任であった芥川龍之介、東大英文科の同窓で、先生のよき理解者であり信奉者であった「荒城の月」作詞者の土井晩翠、さらには、和三郎先生亡き後、多慶夫人のもとに心霊研究を志して何度も訪れていたという近藤千雄さんのことなどなど、4時間近くも貴重なお話をお伺いして私たちの思い出深い訪問は終わりました。




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  本田美奈子さんの「アメイジング・グレイス」  (2012.01.12)


 私は、テレビはニュースのほかはあまり見ないほうですが、たまたま2008年のNHKの追悼番組で、本田美奈子さんが「アメイジング・グレイス」を歌っているのを聴いたことがあります。その3年前の2005年1月から、本田さんは白血病に冒されて入院していました。その折、彼女が入院していた同じ病院に、恩師の岩谷時子さんが骨折で入院するという偶然があったようです。

 その頃の本田さんは、無菌室から出ることができなかったので、岩谷さんを励ますために自分の病室で歌を歌い、ボイスレコーダーに録音して岩谷さんの病室に届けていました。その時のいきさつがその追悼番組のなかで描かれていて、そこで彼女の「アメイジング・グレイス」を聴いたように記憶しています。記録によれば、本田さんは、その年、2005年の11月に38歳で亡くなりました。

 私はこの「アメイジング・グレイス」がイギリスで生まれた背景やこの歌についての私の思い出などを、1998年に出版した拙著『イギリス比較文化の旅』(鷹書房弓プレス) の中でも取り上げたことがあります。このホームページにも「アメイジング・グレイス」をバックグラウンドで流していますが、この度必要があって、何人かの歌手の「アメイジング・グレイス」を集めてみました。

 そのなかに、本田さんの療養中に発売されたミニアルバム「アメイジング・グレイス」があって、私は何度も繰り返し、彼女の生前のこの歌を聴いているところです。ちょっとか弱いようで芯の強い、その透き通った声は深くこころに沁みこんでくるようです。歌もこのようにして残ることがあるのですね。彼女が亡くなってから6年経っているいまでは、その声は、はるか彼方の天空から響いてくるようにも感じられます。

 そのミニアルバムのライナーノートには、本田さんの手書きのメッセージで、つぎのように書かれているのを見つけました。

 ・・・・・
 私は今まで、歌と一緒に歩んできました。
 その愛する歌を通じて、皆さんと出会えた事を心から幸せに思います。
 そして、その歌が皆さんに、歌の素晴しさを伝える事が出来るよう・・・
 1人でも多くの方の心が豊かになれるよう・・・という願いを込めて
 これからも、歌い続けたいと思います。
 このミニアルバムも、聞いて下さった方々の心に届きますように・・・
  心を込めて・・・  本田美奈子



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  高幡不動尊金剛寺への初詣を済ませて   (2012.01.06)

 
 高幡不動尊金剛寺入口の室町時代に建立
 されたという仁王門(重要文化財)と五重塔。
 ここから3万余坪の境内が広がる。
   (2012.01.05 筆者撮影



 私の正月の初詣の思い出は、小学校へ上がる前の幼年時代から始まっています。奈良県の生駒山山腹に不動明王坐像を本尊とした宝山寺というお寺があります。「生駒聖天さん」と呼ばれて関西ではひろく親しまれている名刹ですが、そこへ毎年欠かさず、父に連れられて参拝に出かけていました。

 元旦の朝、2時か3時ごろ、まだ暗いうちに、大阪市大正区新千歳町の家を出て、初詣客のために夜中も走っていた市電に乗り、「上六」と呼ばれていた上本町六丁目まで行きます。そこから、近鉄奈良線に乗り換えて生駒駅で降り、あとは果てしなく続くように思われた石段をひたすらに上っていくのです。石段はお寺の境内まで辿りつくのに30分くらいはかかっていたかもしれません。

 それから70余年を経て、いまは毎年、東京都日野市高幡の高幡不動尊へ出かけるようになりました。ここには、高さ2メートル86センチ、総重量千百キロを超える巨像で、日本一といわれる平安時代の丈六不動明王像が祀られています。1月5日の午後、不動堂の内陣に座ってお祈りを捧げ、1時間ほど管主が修する護摩供養に参列して今年の初詣も済ませました。

 私は、1983年の事件で妻と長男を亡くした後は、無知の闇の中で苦しみながら、何年もの間、正月を祝うこともなく、年賀状も書かず、初詣もしない生活を続けていたことがありました。幼児の時の思い出から70余年を経て、人生が終わる前に、いまはまた、毎年不動明王の坐像の前に穏やかな気持ちで座っておられることが、不思議なようでもあり、たいへん有り難いことに思えてなりません。



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  あなたは神を知るために生まれてきた    (2012.01.02)


 作家で山の愛好者としても知られている田中澄江さんは、2000年3月1日に91歳で亡くなりましたが、彼女が生前、「朝日新聞」(1991.3.11)に書いた次の文を、私はいまもよく思い出します。

 《・・・・・二十三歳のとき、芝白金三光町の聖心女子学院の教師となり、マザー・ラムという英国人から公教要理の講義を受けた。開口一番、ひとは何のために生まれましたか。神を知るためですねと言われたとき、大粒の涙が机の上にぼたぼた落ちて、そうだ、本当にそうだ、神を知るために生まれたのだと、全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。》

 「叡智の言葉」(B-17)には、「神が認識できないのは、それがわかるところまで成長していないから」とありますが、田中澄江さんは、神を知ることのできるところまで霊的に成長していたのでしょう。だから、マザー・ラムのひと言で、「本当にそうだ、神を知るために生まれたのだと、全身で叫びたい思いになった」のだと思われます。

 人は神を知るために生まれるのだと聞いても、何人の人が「大粒の涙をぼたぼた落とす」でしょうか。半世紀を経ても、その感動を持ち続けるでしょうか。「人間だけでなく山や野の草花、森羅万象に注がれたあふれんばかりの愛情から学び取ったことは数知れません」と、彼女の身近にいた演出家の一人が語っていますが、その文章からも伺える彼女の天真爛漫な明るさが、私にはことさらになつかしく、尊いものに思われてなりません。




過去の寸感・短信
 2011年7月〜12月