臨死体験と体外離脱による宇宙への旅 (身辺雑記48)

  立花隆氏は、日本では「知の巨人」といわれたりもしているが、むかしから臨死体験には深い関心を寄せてきた。その立花氏が、日本国内や海外の臨死体験者との幅広いインタビューを基にまとめた『臨死体験(上)』(文芸春秋社、1994年)のなかで、臨死体験の記録の信憑性を判断するには、臨死体験をした人自身の言語表現能力、記憶力、観察力、内省能力などが考慮されなければならないという意味のことを述べている。

 数多くの体験例のなかには、にわかに信じられないような事例もないわけではないから、立花氏がそう述べているのも当然のことと言っていいであろう。そして、現実には、そのような能力を備えた人の臨死体験を知ることが出来る機会は、決して多くはない。そのなかで、立花氏は、C.G.ユングの臨死体験に触れて、次のように書いている。

 《しかし、ここに、このすべての能力をかねそなえた原体験者自身が記録者になったという稀有の体験例がある。それは、ベッカーさんとの対話の中でも話に出た、精神医学の巨人、C・G・ユングその人である。ユング自身が臨死体験をしているのである。それが彼の自伝(邦訳、みすず書房刊)の中に詳細に記されている。

 「一九四四年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて、足を骨折するという災難にあった。意識喪失のなかで譫妄状態になり、私はさまざまの幻像をみたが、それはちょうど危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまったに違いない。幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付き添っていた看護婦は、『まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした』といっていたが、彼女のつけ加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。私は死の頼戸際忙まで近づいて、夢みているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。

 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた・・・・・」

 このあと、彼が宇宙から眺めた地球の姿の記述がつづくのだが、それを読んで私(立花隆)は驚いた。それが客観的な宇宙から見た地球像とよく合っていたからである。これが現代の記述なら私も驚かない。我々はみなアポロが撮った地球の写真を見ているから、ユングと同じように地球を描写できるだろう。しかしユングは、これをアポロ以前どころか、ガガーリン以前に書いているのである。ガガーリンが宇宙から地球を見て、「地球は青かった」というまでは、誰も宇宙から地球を見ると青く見えるなどということは知らなかったのである。しかもユングは、ガガーリンが見た位置(181〜327キロ)よりはるかに高いところから見た地球の姿を正しく描写しているのである・・・・・・》(pp.51-52)

 ユングの見た地球は、どれくらいの高度からであったか。それは、ユング自身が自伝のなかで、ほぼ、1500キロメートルであると言っている。「この高度からみた地球の眺めは、私が今までにみた光景のなかで、もっとも美しいものであった」とも述べている。ガガーリンが人類史上初めて宇宙へ飛び出したのは、1961年のことであったから、ユングは、その15年も前に、ガガーリンよりも数倍も高いところから「青光に照らしだされている」地球の姿を見ているのである。しかも、その記述は、立花氏が述べているように、客観的な地球像とよく合っているのだから、これはやはり、ユングが実際に宇宙へ飛び出して、自分の目で地球を見てきたのだと考えるのが妥当であろう。

 この同じ本のなかには、立花氏がアメリカで、キュブラー・ロス博士に会ったときの話も出ている。彼女は、一昨年(2004年)8月24日に亡くなっているが、生存中には臨死体験の記録を二万例も集めて、死後の生を説き続けてきたことはよく知られている。彼女自身も臨死体験をしたことがあるのは、自身の著書の中で述べている通りである。立花氏が、このキュブラー・ロス博士にインタービューしている場面は、1991年3月17日の「NHKスペシャル」で放映された大型ドキュメンタリー番組 『臨死体験』のなかにも出てくるが、このとき、立花氏は彼女に、「・・・・ロスさんは、臨死体験以上に、体外離脱をしたという経験はありませんか」と訊いている。それに対して、彼女は答えた。

 「あります。何度もあります。好きなときに好きなように離脱できるというわけではありませんが、十五年ほど前に、宇宙意識セミナーに出て、人間は誰でも体外離脱能力を持っており、訓練によってその能力を引き出すことができるということを学び、それができるようになったのです。そういうことができる人が、何千人、何方人といるのです」

 立花氏が「体外離脱してどこに行くんですか」と重ねて訊くと、彼女の答えはこうであった。

 「いろんなところに行きます。その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、別の銀河まで行ってしまうこともあります。ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました。そこの人たちは、地球人よりずっと優れた文明を持っていて、『地球人は地球を破壊しすぎた。もう元に戻らないだろう。地球が再びきれいになる前に、何百万人もの人間が死ぬ必要がある』といっていました。(pp.439-440)

 体外離脱して、「別の銀河まで行ってしまうこともある」というのは大変なことである。太陽を中心としてその周りを回転している地球、火星、木星、金星などの惑星やそれらに属する約50個の衛星、さらに約4千の小惑星や彗星などから成る太陽系が、私たちにとっては「身近な」宇宙なのだが、その太陽系を含めた約2千億の星々が銀河系を構成している。その直径は約15万光年といわれている。そしてさらに、宇宙には、そのような銀河系が1250億個もあるとされているのである。途方もない広さで、想像を絶するとしかいいようがない。

 光速とはいうまでもなく、一秒間に30万キロメートル走る光の速さを基準にしたものだが、これで、一年間に進む距離が1光年で、約9兆4千億キロ。時速270キロの新幹線「のぞみ」でなら400万年かかる計算になる。それをさらに15万回繰り返さなければ、私たちの銀河系の外へは出ることが出来ない。それを、キュブラー・ロス博士は、「体外離脱で行ってしまうことがある」というのである。

 「ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました」という発言も、ちょっとした海外旅行にでも行ってきたようにも聞こえる気軽さだが、「すばる」までの距離は410光年にもなるらしい。七夕星「ベガ」への26光年に比べても、格段の遠距離である。そこまで行って、「そこの人たち」に会ってきたという彼女の話を、私たちはどのように受け留めていけばよいのであろうか。

 もちろん、霊的な尺度では、時間も空間も超越しているから、「別の銀河」へ行くのも「プレヤデス星団」へ行くのも、大差はないのかもしれない。しかし、この壮大な「旅行談」にはただただ圧倒されるばかりである。しかも、これを語っているキュブラー・ロス博士も、おそらく、あの精神医学の巨人・ユングと同様、「言語表現能力、記憶力、観察力、内省能力などのすべての能力を充分に兼ね備えた原体験者であることを、私たちは忘れるわけにはいかないのである。

 (2006.12.01)





  アーミッシュの人たちの愛と赦し (身辺雑記47)

 去る10月2日、アメリカでは、また、学校銃撃事件が起こった。銃をもった32歳の男が学校に侵入して、少女ばかり3人を縛ったうえで射殺し、8人に怪我を負わせたのである。ペンシルバニア州ランカスター郡のアーミッシュの学校でのことであった。負傷した少女のうち二人は、頭部を撃たれるなどして重体だったが、運ばれた病院でいずれも死亡したので、死者は5人になった。容疑者の男性は、銃を乱射したあと自殺したと報じられている。ペンシルバニア州警察の発表では、この事件の背景には自殺した容疑者の女児に対する性的暴力願望があったというが、なぜアーミッシュの学校を選んだのかは明らかではない。(「朝日」06.10.07.など)

 アーミッシュ(Amish)というのは、メノー派からでたプロテスタントの一派で、少数キリスト教派である。スイス人のメノー派監督ヤコブ・アマンが17世紀末に創始した宗派で、アーミッシュという名称は彼の名に由来する。スイスを中心にドイツ語圏にひろがっていったが、弾圧をうけ、18世紀にアメリカのペンシルバニアに移住した。時を経て、そこからさらにオハイオなどの中西部や、カナダに移り住んだ。しかし現在はアーミッシュの存在は米国に限られ、ペンシルバニア州やオハイオ州に住む彼らの子孫は、十数万人といわれている。アメリカ英語でPennsylvania Dutchというのは、おそらく正確にはPennsylvania Deutschで、これは、彼らが使う英語交じりのドイツ語方言のことである。

 彼らは、一般市民と離れて集団で自給自足の生活をいとなみ、閉鎖的な社会を形成してきた。特有の厳格な聖書解釈にもとづき、現代的な暮らしや暴力を否定する。だから今でも、アメリカに入植した18世紀のままの生活様式を守り、テレビや自動車などを含めて、電気や近代的機械などのいっさいの文明機器を使用しない。服装も黒が中心で、男性は幅広の帽子をかぶって長いひげを生やし、女性は頭髪を隠して黒い靴を履くのが基本になっている。投票や徴兵など、アメリカ国民の権利や義務も拒否して、子どもたちへの教育も、自分たちで行っている。この事件のあったアーミッシュの学校もそのような彼ら独自の学校の一つであった。

 アーミッシュそのものの存在や聖書に沿う敬虔な暮らしぶりについては、もう50年もむかし、留学生としてアメリカにいたときから私は知っていた。しかし、今度の事件で明らかになった犠牲者の少女や遺族たちの深い愛と赦しの姿には、あらためて強い感銘を覚える。事件を知らせる新聞にも、「アーミッシュ流にメディア驚嘆」というヘッドラインを付けたりしていた。まず、犠牲者のなかで最年長であった13歳のマリアン・フィッシャーさんである。教室に残された10人の女児を容疑者が撃つつもりと分かった時、彼女は「私を撃ってほかの子は解放してください」と言って進み出た。それをマリアンさんの妹で、病院で意識を回復した11歳のバービーさんが話している。そのバービーさんも、「その次は私を」と言った。マリアンさんは撃たれて死亡し、バービーさんは肩に重傷を負った。亡くなった中には、マリアンさんのほか、12歳、8歳と2人の7歳の女児も含まれていた。

 容疑者の家族は、アーミッシュの一員ではないものの、同じ地域に住んでいるらしい。それだけに、これだけの大きな殺傷事件を引き起こした容疑者の家族たちは、身の置き所もない思いであったろう。ところが、アーミッシュの人たちは、この家族を事件の夜から訪ねて赦しを表明し、手をさしのべたというのである。遺族の一部は容疑者の家族を子どもの葬儀に招いたとさえ伝えられている。アメリカはキリスト教の盛んな国であるが、このようなキリスト教徒の姿は、決して一般的ではない。悲嘆にくれる中にも暴力を愛と赦しで包み込むアーミッシュの人びとの生き方に、アメリカのメディアは「慈悲の深さは理解を超える」「女の子の驚くべき勇気」などとして報道しているという。(「朝日」06.10.07) これは、キリスト教社会のなかの信仰のあり方にも、大きな落差を示すことにもなった。

 アーミッシュの人たちが物質至上主義の現代的な暮らしを退けるのは、キリスト教徒として、モノよりもこころを重んじるからであろう。誰も「神と富とに兼ね仕えることはできない」からである。銃の横行に象徴されるような「力」を信奉するアメリカ社会のなかで、一切の暴力を排する生き方を貫こうとするのは、忠実に聖書の愛の教えを守ろうとするからであろう。「だれかが右の頬を打つなら、ほかの頬をもむけよ」とイエスは教えた。そして、彼らが、死後の世界への強い信仰をもっているのも、イエスの教えを正しく理解すれば、当然の帰結であるといえる。本来のイエスの教えとは、人間が霊的存在であり、霊であるからこそ永遠であるという真理を中心に据えたものではなかったであろうか。問題は、むしろ、同じキリスト教徒でありながら、或いは、キリスト教徒でなくても、仏教徒などをも含めて、「慈悲の深さは理解を超える」と驚いている側にあるのかもかもしれない。

 少数キリスト教派のアーミッシュの人たちがこの事件で見せた態度と行為は、それが現在の社会では極めて稀な愛と赦しの実践であるが故に、私たちは改めて、真の宗教とは何か、ということについても考えさせられる。イエスの教えが2千年の歴史のなかで、時の権力者や聖職者、神学者たちによって歪められ、弱められてきた、という指摘を思い起こしたりもする。ほかの宗教も、多かれ少なかれ、おそらく例外ではない。そのなかで、やはり、私たちのこころに強く響いてくるのは、シルバー・バーチのつぎのようなことばである。

 《地上人類は道を見失い、物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ、それが戦争と暴力と憎しみを生んでおります。霊の優位性を認識し、人間が肉体をたずさえた霊であることに得心がいく― 言いかえればすべての人間が神の分霊であり、それ故に人類はみな兄弟であり姉妹であり、神を父とし母とした一大家族であることに理解がいった時、その時はじめて戦争も暴力も憎しみも無くなることでしょう。代わって愛と哀れみと慈悲と寛容と協調と調和と平和が支配することでしょう。》 (『シルバー・バーチの霊訓 (11)』 p.54)

  (2006.11.01)







  完璧で美しいシルバー・バーチのことば  (身辺雑記46)

  近藤千雄氏が訳した『シルバー・バーチの霊訓』は総集編の1冊を含めて12冊ある。このほかにも同氏による『古代霊は語る』があり、桑原啓善氏が訳した『シルバー・バーチ霊言集』もある。2003年には、Silver Birch Speaks 『シルバー・バーチは語る』というCD版も出て、私たちはシルバー・バーチの肉声がそのまま録音されているのを直接聞くことができるようにもなった。私たちは、2000年前のイエスのことばを聞くことはできない。2500年前の釈迦のことばを聞くこともできない。しかし、3000年前のシルバー・バーチのことばは、霊媒のモーリス・バーバネルを通してではあるが、こうして聞くことができるのである。私は、シルバー・バーチのことばの一部を講演会の会場に流して、聴衆の方々に聞いていただいたこともあった。これは、誇張でなしに、世紀の奇跡と言ってもいいのではないか。

 シルバー・バーチのことばについては、数多くの人びとがその完璧さと美しさを限りなく賞賛している。「霊言集」の一読者は次のように言った。「文章の世界にシルバーバーチの言葉に匹敵するものを私は知りません。眼識ある読者ならばそのインスピレーションが間違いなく高い神霊界を始源としていることを認めます。一見すると単純・素朴に思える言葉が時として途方もなく深遠なものを含んでいることがあります。その内部に秘められた意味に気づいて思わず立ち止まり、感嘆と感激に浸ることがあるのです。」(『霊訓(9)』 pp.26-27) 霊媒を務めたモーリス・バーバネルも、彼自身が有能な著作家、編集者として知られていただけに、シルバー・バーチのことばの美しさについては誰よりもよく理解していた。彼は、シルバー・バーチのことばを「霊の錬金術」として、つぎのように激賞している。

 《年中ものを書く仕事をしている人間から見れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けるということ自体が、すでに超人的であることを示している。誰しも単語を置き換えたり消したり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っ引きでやっと満足のいく記事が出来上がる。ところがこの「死者」は一度もことばに窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を高揚し、気高さを感じさせるのである。》(『霊訓(1)』 p.12)

 しかし、そのシルバー・バーチですら、このように、稀代のことばの達人として霊界から語りかけるのには、霊界での長い準備と勉強が必要であった。霊の世界ではことばは使わないから、地上へ降りてきて霊能者に乗り移った霊は、意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変える必要がある。だから彼は、心霊知識の理解へ向けて指導するという使命を帯びて地上に降りるとき、いろいろな周到な準備のほか、英語の勉強もしたことを、自らつぎのように述べている。

 《あなた方の世界は、私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなければなりません。地上の同士を見つけ、その協力が得られるよう配慮しなければなりません。それから私の代弁者となるべき霊能者を養成し、さらにその霊能者を通じて語る真理を出来るだけ広めるための手段も講じなければなりません。それは大変な仕事ですが、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証を得ました。そして計画はすべて順調に進みました。》(『古代霊は語る』 p.14)

 1920年代にこの霊能者として選ばれたのがモーリス・バーバネル氏であるが、シルバー・バーチは、氏が生まれる前から調べ上げて彼を選び、その受胎の日を待っていたといわれている。また、ここで同士というのは、当時、反骨のジャーナリストとして名を馳せ、「英国新聞界の法王」とまでいわれたハンネン・スワッハー氏であった。氏は、シルバー・バーチのための交霊会を、はじめは私的なホーム・サークルという形で開いたのであるが、それが延々と半世紀も続いて、シルバー・バーチの教えは、人類の膨大な知的遺産として残ることになった。その恩恵を私たちもいま受けていることになる。

 「語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反発を感じ理性が納得しないときは、かまわず拒絶なさるがよろしい」 とくり返していたシルバー・バーチが、一旦口を開くと、「何ともいえない、堂々として威厳に満ちた、近づきがたい雰囲気が漂い始め」て、交霊会の出席者たちは、思わず感涙にむせぶこともあったという。活字になってしまうと、そのような雰囲気は伝わりにくいのだが、ここでは、シルバー・バーチの教えのほんの一部を、再現してみよう。

 交霊会では、話が終わったあと、シルバー・バーチはどんな質問にも、明快的確に即答していたが、ある日、「霊界についてテレビで講演することになったとすれば、どういうことを話されますか」という質問が出たのである。すかさず、彼はこう答えた。

 《私はまず私が地上の人たちから「死者」と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明いたします。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請いたします。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを全うして、一たんべールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。

 私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反発させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを訊いてみます。私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。

 人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている・・・・・・ 黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役立てたいと望んでいるのです・・・・・・》

 ここで、これらがシルバー・バーチのことばであると聞かされても、テレビに映って話していると仮定されているのは、モーリス・バーバネル氏のはずだから、バーバネル氏の口からシルバー・バーチのことばが出てくることに一種の違和感を持つ人もいるかもしれない。霊能者の意識と発声器官を占有していることが理解できても、霊能者の潜在意識が影響を与えるということはないのか、と考えたりもする。一般的には、霊の意識が霊能者を通じて百パーセント正確に伝えられることは非常に難しい、ともいわる。しかし、この場合は違うようである。シルバー・バーチは、バーバネル氏を生まれる前から選び、霊界からの操作で、生まれてからもさまざまな霊能者になるための経験を積ませ、その結果、氏の潜在意識を完全に支配して、自分の考えを百パーセント述べることが出来ると言っているのである。(『古代霊は語る』 p.18)

 「金銭目当てで言っているのではない、聞くも聞かぬもあなた方の自由」というのも説得力がある。世の中には、いわゆる霊感商法とか、悪霊除去とかで法外なカネをとる悪質業者が後を絶たないが、本来、真理を伝えるのにカネを要求することはないはずである。逆に言えば、法外なカネを要求するような教えや霊的治療は、真理とはかけ離れたものといえるであろう。

 一方、いくら無償の愛のこころで真理を伝えようとしても、「聞く耳をもたない」人も少なくはない。いのちの真理を知らず、知ろうともせず、「死んだ」家族に取りすがってただ泣いてばかりしているとすれば、その人こそ本当の意味での死者である、というのもよく理解できる。現に「死者」であるシルバー・バーチが言っているわけだから、これほど確かな「証人」はいないのである。シルバー・バーチのことばは、さらに、こう続く。

 《・・・・・・見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。その愛と叡智をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊とのつながりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。

 そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧噪を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃として存在する霊的生命の幽かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。・・・・・・以上の如く私は述べるつもりです。》(『霊訓(3)』 pp.76-78)

 「霊界についてテレビで講演することになったとすれば、どういうことを話すか」と言われて、シルバー・バーチは即座に、こう答えた。少しの淀みもなく、すらすらと、このように答えているのである。私たちは普通、原稿を書いている場合はもちろんのこと、講演内容を文章にする場合も、こまかい修正を加えたり、加筆したり、削ったりの作業を常にしていかなければならない。講演で話されたことがそのまま一字一句活字に置き換えられるというようなことは、まずない。それが、シルバー・バーチの場合は、違うのである。話の高遠な内容もさることながら、このようにしてシルバー・バーチのことばが、そのまま、活字になり本にされている「神業」に深い感銘を覚えずにはいられないのは、私だけであろうか。

  (2006.10.01)





  一筋の光をよりどころに  (身辺雑記45)


 今年も「9月1日」がやってきた。あの大韓航空機撃墜事件のあった日で、私の妻・富子と長男・潔典の命日にあたる。事件当時は、悲嘆のどん底にあって、ほとんど寝たきりのような状態であったが、あの頃から、もう23年が経過した。大切な家族を失って、前途に何の希望ももてず、早く死んだ方が楽になるというようなことさえ考えたりしていたのに、私は23年も生きながらえてきたことになる。この日の感慨は、ひとしお深い。

 18年前の今頃、事件後5年を経て、私はやっと、いくらか霊界のことを理解し始めるようになっていた。私は長年、地方の国立大学で教鞭をとってきたが、一般的にいって大学教授の知性というものは霊的知識とは隔絶されたところにある。その牢固とした大学教授の常識から抜け出していくためには、私にはことさらに長い時間が必要であった。霊的には人一倍、頑迷固陋であったというほかはない。

 その頃、かつて長男の潔典が家庭教師をしていた高校生と中学生の兄弟の、母親Yさんに宛てた手紙がある。Yさんは熱心なクリスチャンであった。事件後もなかなか立ち直れないでいる私のために、キリスト教の死生観といったものを教えてくれようとしたこともあった。そのYさんに、私はつぎのように書いている。

     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 九月六日付けのお手紙、拝受いたしました。『大韓航空機事件の研究』への寄金もご同封いただきまして、たいへん恐縮に存じております。

 八月二十七日には、わざわざご家族全員で宗谷岬まで行かれて、祈りの塔の前で潔典へ語りかけて下さいました由、まことに有り難うございました。いまでは大学院生、大学三年生と立派に成長されたお子様たちとも久し振りにお会いすることができて、潔典もさぞなつかしがっていたことでしょう。理不尽な事件のために勉強のお相手を不意に中断しなければならなくなったことをお詑びしながら、いとおしいお二人へのあふれるような思いを、懸命に伝えようとしていたことと思います。その潔典に代わりまして、そしてその時潔典と一緒に、深く頭を下げてご挨拶をお返ししていたにちがいない妻のためにも、こころから厚くお礼申し上げます。

 あの忌まわしい日から五年が過ぎて、私はいま、やっと少しずつ、潔典が母親とともに「生きている」ということがわかりかけてまいりました。絶望の淵に沈みながら、藁にもすがる思いで仏典を求め聖書をひもとき、なお理解できずに苦しみ悩む。そういう数十か月の坤吟の闇のなかにかすかに射し込みはじめた一筋の細い光が感じ取られます。おそらく、これからの私は、この一筋の光をよりどころにして、生きていくことになるでしょう。

 いつか、お手紙のなかで、内村鑑三についてお教えいただいたことがありましたが、岩波文庫『基督信徒のなぐさめ』の中の「愛するものの失せし時」に、「万を得て一つを失わず」と述べられているくだりがあります。私は、内村鑑三が愛児を失った悲しみの果てにたどり着いたこの境地を、あり得る一つの可能性として、折にふれては反すうしてきました。私のような凡俗にはまだはるかに程遠い境地で、これから先歩んでいかなければならない長く険しい道のりと、いくばくも残されていないであろういのちの短さを考えますと、一抹の不安が無いわけではありません。しかし、このような境地が厳として存在していた事実は、目の前の活字の文字と同様に、否定しようにも否定のしようがなく、私はそのことにむしろ希望を繋いでいきたいと思っています。しかも内村鑑三のこのことばは、さらにつぎのように続けられているのです。

 《余の得し所これに止まらず、余は天国と緑を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何日かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眼に就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽しみによく戦い終えのち心嬉しく逝かんのみ。》

 かつては教養書として目を通していただけで、その次元を越えた深い認識と透徹した思考内容にも、特に深い感動を覚えることもなくほとんど忘れてしまっていた本でした。しかし、この「愛するものの失せし時」が現実に自分のことになってしまってからは、悲しみに耐えかねてページを開き、苦しみと迷いの中で読み返してみて、これらのことばが、私には新しい「発見」になっていきました。いまではその深い意味合いも少しは理解できるようになり、私なりの生きる道への模索で、ひとつの大切な指針になっているような気がいたします。

 あの日から五年を経た現在、折にふれてはあたたかくお心をかけて下さいましたご温情に対し、改めてこころからの感謝をこめて、近況の一端を書き綴ってみました。ご主人やお子様たちにも、どうぞよろしくお伝え下さいますようお願い申し上げます。

 同封して、潔典のかつてのリポート「歴史・比較言語学における英語のいくつかの現象」のコピーを一部お送りさせていただきます。潔典が東京外国語大学二年生の学年末試験終了後に書いたもので、今年の春、私が補注をつけて五年ぶりに雑誌に載せました。この頃の潔典は、言語学者への道を目指して若々しい情熱を燃やしながら、お子様たちとの勉強にも、楽しく没頭していたようで、私もアメリカにいて、百合が丘のお宅での団欒のことなどよく聞かされていました。あの頃の勉強の思い出にお子様たちにもご一読していただくことができれば、たいへん有り難く存じます。(1988.9.10)

         ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 潔典は大学一年の秋頃から家庭教師をしていた。この手紙のYさんの長男と次男で当時は高校二年生と中学三年生であった。ふたりとも成績優秀で、気のやさしい生徒であったという。私はその頃アメリカにいて、潔典が受験生を二人も引き受けていたことがちょっと気懸かりでもあった。自立心を養うためにアルバイトはいいとしても、潔典自身の勉強に負担にならないだろうかと思ったのである。しかし潔典は、むしろ楽しみながら毎週二回、小田急線百合が丘のYさんのお宅へ元気に通っていたようである。

 このリポートを書いていた頃の潔典と私は何度も国際電話で話をしている。春休みにアメリカへ行けなくなったということで、アリゾナで待っていた私も辛い思いをしていた。このリポートに補注をつけたあと、私はつぎのような「あとがき」を書いた。

 [追 記]

 私事にわたるが、ここで若干の「あとがき」をつけ加えることをお許しいただきたい。

 本文は、私の長男、武本潔典の遺稿である。これが書かれたのは一九八三年の、多分二月下旬、潔典が東京外国語大学英米語学科二年生の学年末試験終了後であったと思われる。言語学担当の宮岡伯人教授に出されたもので、同教授は、かつて小樽商科大学で私の同僚であった。このレポートが出されたいきさつについては、後に同教授から、追悼の本の出版の際に寄せられた「潔典君を偲ぶ」という一文の中で、次のように述べられている。

 《・・・・・・つたない言語学概論の授業に出てきた潔典君は、わたしの関西弁の講義はまどろしかったのでしょう。ノートをとりながら、「ニューズ・ウイーク」か(どうか大教室の教壇からは然とは判らぬものの)なにか週刊誌を開いて、回転の早い頭の片側で英語を勉強しておられたようです。 最終試験はたしか、ご祖母さまのご不幸があって受けられぬということで、代わりにレポートを求めました。提出されたのは「歴史・比較言語学における英語のいくつかの現象」というタイトルの、幅広くかつ正鵠をえた理解にもとずく、手際よく縛められた好編(四百字詰め一四枚)でした。》

 この文中の「ご祖母さまのご不幸があって」とあるのは、当時、荻窪に住んでいた母方の祖母、山本雪香の死亡である。二月九日のことで、胃癌であった。私はその前年の夏から、フルブライト客員教授としてアリゾナ大学にいた。はじめ同行するはずであった妻は、母親の看病のために東京に残っていたが、悲しみと過労のために、葬儀のあと寝込んでしまった。

 制度の違いで、アリゾナ大学では三月中も授業は行なわれている。私は言語学者を目指していた潔典が、東京での春休み中に、アリゾナ大学での言語学講義を受講出来るよう手筈を整えて待っていたのだが、この祖母の死亡で、彼は三月の受講を締め、母親とともに訪米を夏休みに延ばした。そして、短い夏のアメリカを家族水入らずで過ごしたあと、帰国の途中、あのKAL〇〇七便に乗ってしまったのである。

 私は、あとを追うようにしてアメリカを離れた。それはレクイエムの旅のはじまりであった。多摩の丘の上の緑のなかに潔典のために買ったアパートがある。無明の闇をさまよいながら、二か月目にやっとなかへ入った。その、富士が見える潔典の勉強部屋には、東京外国語大学入学以来彼が買い集めた約二百冊の言語学を中心とする和洋の蔵書と、のめりこむように愛読していた雑誌「言語」(大修館)、英文雑誌「TIME」が揃って残されていた ―。あれからすでに四年余の歳月が経つ。

 おそらく、いまの彼なら、この間違いなく彼のものであった二年間の学問的基盤の上に、さらに四年の蓄積を重ねて、このようなささやかなリポートの代わりに、言語学の世界を闊歩する楽しみを、きちんとした学術論文で表現していることであろう。しかし、それを確かめるすべは、父親の私にも最早ない。ただ私に出来るのは、この本文の理解を助けるための若干の補注を付け加えることで、これを書いていた二〇歳の時の潔典と小さな、たましいの対話をこころみることだけである。そしてそれとともに、彼の足跡を一つ、ここにこうして留めさせていただくことにもなった。(『アメリカ・光と影の旅』文芸社、所収。 リポートとも)

  (2006.09.01)






 役の行者の足跡  (身辺雑記44)


役の行者を開祖とする吉野山・金峯
山寺
の蔵王堂(国宝)。役の行者が
感得して桜の木に刻んだという蔵王
権現が本尊として祀られている。

. 筆者撮影(2006.07.20)


 奈良の生駒山山腹に不動明王坐像を本尊とした宝山寺というお寺があります。「生駒聖天さん」と呼ばれて関西ではひろく親しまれている名刹です。私は、小学校に入る前から、毎年父に連れられて、この宝山寺へ初詣に出かけるのが慣わしになっていました。昭和10年代の初めの頃、毎年元旦の朝は、当時住んでいた大阪市大正区の新千歳町から、2時か3時ごろだったでしょうか、まだ暗いうちに家を出て、初詣用の市電で「上六」と呼ばれていた上本町6丁目まで行きます。そこから、近鉄奈良線に乗って生駒で降り、あとは果てしなく続くように思われた石段をひたすらに上っていくのです。石段はお寺の境内まで辿りつくのに30分くらいはかかっていたかもしれません。

 私は知りませんでしたが、当時すでに生駒の鳥居前から宝山寺までは、日本では最初といわれるケーブルカーが走っていたようです。延長距離948メートル、高低差146メートルの宝山寺線で、大正7年の8月29日から運行が始まっています。しかし、元旦はものすごい数の人出ですから、ケーブルカーに乗ろうと思えば、何時間も待たされたのかもしれません。私は、ケーブルカーのことは知らず、西も東もわからず、人ごみにもまれながら、父に必死にしがみついて歩いていましたが、この初詣は、父の転勤で私の小学校5年生の時に一家で大阪を離れるまで続きました。私の子供の頃の懐かしい思い出の一つです。

 宝山寺の境内に入りますと、本堂のうしろに般若窟という切り立った巌山がそそり立っているのが見えてきます。「般若窟」の名は、役の行者(えんのぎょうじゃ)として知られている役君小角(えのきみおづぬ)が、この場所に般若経を納めたところから名付けられました。いまはこの般若窟を背景に、いかにも仙人らしい雰囲気を漂わせている役の行者の等身大の像が境内を見下ろしています。役の行者は、『続日本紀』にも記録が残されている実在の人物で、卓越した超能力者であり呪術者であったといわれています。舒明6年(634年)1月に、大和国葛城山麓の茅原の里(現在の御所市)で産声をあげたといいますから、もう1300年以上も前の人物です。

 役の行者は、若い頃より金剛葛城の山々で修練を積み、そのあと大峰山系、箕面、生駒山系などでも修行して、最高の法力である孔雀明王の術を会得したといわれています。「孔雀明王の術」といってもそれがどういうものか、ちょっと想像もできませんが、日本書記には、中大兄皇子の母皇極天皇が、斉明天皇として再び即位された年(655年)の記録に、「大空の中に龍に乗れる者あり、かたち唐人に似たり。青き油笠を着て葛城の嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠る。午の時にいたりて住吉の松のいただきの上より西に向い馳せ去りぬ」とあるそうですから、空を自由に飛ぶことも出来たのでしょう。事実、空を飛んだ話は、いろいろな形で言い伝えられてきました。後には、光格天皇より「神変大菩薩」の称号も受けています。全く人間離れをした能力の持ち主でしたが、役の行者は、そのような法力によって多くの庶民の悩みや苦しみを救ってきたともいわれています。そのことが、いまも多くの人々から、親しまれ敬われている所以なのかもしれません。

 この役の行者が、宝山寺の般若窟で修行したという故事によって、宝山寺の開祖とされています。その後もここは修験道の聖地として、数多くの修験者を惹きつけてきました。寛保元年(1741年)に寺社奉行に提出された「記録写し」には、唐へ渡る前の弘法大師(774〜835)も、ここで修行したことがあると記されているのだそうです。もちろん、この宝山寺へ初詣を続けていた頃の幼い私には、そういうことは何も分かっていませんでした。ただ、この初詣は、幼い私にとっては「待ちに待った正月」を迎えたことを意味していましたから、そのことだけがうれしく、よそ行きの服を着て、普段は履かない革靴で、父にしがみつくようにしてあの長い石の階段を上り下りしていただけです。いまではそれも、もう遠い昔のことになってしまいました。

 この間、久しぶりに奈良を訪れ、法隆寺や飛鳥寺、長谷寺などをまわった後、「女人高野」として知られる室生寺や吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)へも足をのばしました。室生寺は、奈良県宇陀郡室生村にある真言宗室生寺派の大本山です。そして、金峯山寺は、奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗の総本山で、いまでは世界遺産の一部になっています。実は、それぞれに有名なこの二つの名刹も、宝山寺と同じように、役の行者が創設したといわれているお寺です。

 室生寺は、役の行者が修験道場の基礎を創り上げたあと、奈良時代に入って、室生寺と呼ばれるようになりました。現在の室生寺の「略縁起」には、その創設がつぎのように記されています。

 ・・・・・やがて奈良時代の末期、この聖なる地で皇太子山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の高僧賢憬など五人の高徳な僧によって行われ、これに卓効があったことから、勅命により国家のために創建されたのが室生寺である。だが建立の実務に当たったのは、賢憬の高弟修円であった。修円は最澄や空海と並んで当時の仏教界を指導する高名な学僧であった。以来室生寺は、山林修行の道場として、また法相・真言・天台など、各宗兼学の寺院として独特の仏教文化を形成するとともに、平安前期を中心とした数多くの優れた仏教美術を継承する一方、清冽な渓流は竜神の信仰を生み、雨乞いの祈願も度々行われて来た。

 室生寺の門前を流れる「清冽な渓流」は、私が訪れた時には生憎の雨で、泥を含んだ濁流になっていましたが、あまり人出のない広大な境内を、傘をさしてゆっくり歩いていくのもいいものだと思いました。国宝の金堂と本堂を通り、平安時代の初期に建てられたこれも国宝の五重塔の横から、急な斜面の石段を二百段ほども上りきると奥の院・御影堂の前に出ます。弘法大師42歳の像を安置した方三間の建物で、厚板段葺きの屋根の頂上に石造りの露盤が置かれているのは、他に例をみない様式のようです。たまたまその日は、お堂の扉が開けられていましたので、私は、弘法大師像の前で、ひとり静かなひとときを過ごしました。

 吉野の金峯山寺の蔵王堂は正面7間、側面8間の大建築で、国宝にも指定されています。このなかに祀られているのが、本尊の蔵王権現三体です。これは、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩の三尊が過去、現在、未来の三世にわたって衆生を救うために仮の姿になり、悪魔降伏の憤怒の相で出現したとされているものですが、それが、役の行者が金峯山を道場として修行のおりに感得した姿だと伝えられています。役の行者は、その蔵王権現のお像をこの山の桜の木に刻みました。そのことから、この地では、桜が保護され献木が続けられて、いまではあのような桜の名所として知られるようになったわけです。私は、その桜の季節にもここへ来たことがありますが、毎年4月11日と12日には、ご本尊の蔵王権現に対し、ご神木である山桜の満開を報告し、お供えをする花供懺法会も開かれているようです。

 役の行者の足跡は、私の小さな旅のなかでも大きな位置を占めていますが、もちろんその足跡は、宝山寺や室生寺、金峯山寺に限られたものではありません。修験道の祖として崇められているだけに、それに自由に空を飛んでいたといわれるくらいの人でしたから、日本各地の山岳仏教のある山々には、いまもひろく役の行者の伝説が残されているようです。役の行者は、確かに遠い昔に実在した類まれな超能力者でしたが、私がいま理解しはじめている霊能力の偉大さを、この世で自在に発揮していた人であることを考えますと、私の幼少の頃からの初詣の思い出もあるからでしょうか、畏敬の念と共に、なんとなく親しみの感情も沸き起こってくるように思えてなりません。

  (2006.08.01)





  霊界からの二つのメッセージ (身辺雑記43)

 霊界からのメッセージを受け取るのは、宇宙のはるか彼方からの微弱な電波を地上の受信機で受信するのに似ているように思われる。電波が出ていても、受信機が不調であれば、通信の内容は掴めない。逆に、受信機がいくら精巧で最上のものであっても、電波そのものが微弱すぎることもあるであろう。また、電波と受信機の双方に問題がなくても、地上に届くまでに通過する電離層の状態に通信内容が大きく左右されることも当然ありうる。それに、霊界からのメッセージの場合には、受信機役の霊能者の霊能力のみならず、霊能者を通じてメッセージを受け取ろうとしている「受信者」の霊的状況も、おそらく、影響してくるに違いない。

 私の手許に二つのテープがある。大英心霊協会所属の霊能者・Hさんによる霊界からのメッセージを記録したものである。一つは、2001年の6月30日、ロンドンの大英心霊協会で、もう一つは、2003年12月17日、Hさんがロンドンから来日された時に、東京の国際文化会館で録音された。Hさんの前に座っていた「受信者」は私であるが、最初に大英心霊協会で会った時も、自己紹介のようなことはしなかったから、2度目に東京で、Hさんの前に私が座っても、Hさんは当然のことながら私のことを全くなにも覚えていなかった。

 ロンドンの大英心霊協会には、数十人の霊能者がいるが、霊界からのメッセージを伝える手法は、霊能者によっていろいろと違う。霊能者がはじめから終わりまで、ほとんど一人で一方的にメッセージを伝えることもあれば、目の前に座っている人物に質問したりしながら霊能者がメッセージの内容を確認していくタイプもある。もちろん、前者の場合でも、話の途中で質問でもすれば答えてくれる。しかし、こちらが黙っていれば、聞くだけで終わってしまうであろう。私がいまでも親しくしているアン・ターナーは、このタイプである。一方、Hさんの場合は、後者であった。たとえば、2001年の大英心霊協会でのテープの一部は、通常の霊界通信にもしばしばみられるようなぎこちない部分も敢えて直訳すると、つぎのようになる。

 あなたが最後に奥さんに「さよなら」を言われた時、奥さんはすぐそばに居られました。奥さんは、「さよなら」とは言いませんでした。「またお会いしましょう、あなた。神のご加護がありますように」と言ったのです。彼女は、この地上に帰ってきていたのです。その存在が強く感じられます。彼女は、「私はかなり長い間あなたと一緒にいましたよ」、と言っています。旅行の話をしています。たくさん旅行したといっています。誰が旅行したのですか。彼女がたくさん旅行したのですか。
 ― ええ、まあ、たくさん旅行したほうです。
 あなたはどうですか。
 ― 私も旅行はしたほうです。妻と一緒です。
 アメリカを旅行したことはありますか。
 ― ええ、あります。妻と一緒でした。
 それに、カナダのことも浮かんできます。カナダへも行きましたか。カナダの思い出はありませんか。
 ― カナダにはありません。
 アメリカと何らかのつながりがあるのですか、家族の誰かがいるのですか。
 ― 親戚はいますが。
 親戚ですか。わかりました。その親戚がカナダと何らかのつながりを持っていると思われるのですが。奥さんは家族のことを話しています。息子さんはいますか。
 ― はい。
 二人ですか。
 ― 一人だけです。
 一人は霊界ですか。
 ― ええ、そうです。
 もう一人は地上ですか。
 ― いいえ、息子は一人で霊界にいますが、もう一人は娘です。
 ああ、それで。お子さんは二人ですね。
 ― そうです。
 奥さんは、息子さんのことを話しています。息子さんは若くして亡くなられたのですか。
 ― はい。
 非常に若い時に?
 ― はい。
 奥さんは、息子さんは霊界で成長していると言っています。奥さんが霊界へ行った時には、息子さんはもう霊界にいたのですか。
 ― いいえ。霊界へ行ったのは、二人が同時です。
 ああ、二人が一緒に霊界へ行かれたのですか。
 ― そうです。
 なるほど。奥さんは霊界へ行かれたのは、もうずいぶん前のことになりますか。
 ― ええ、1983年のことです。
 ああ、それで。大分昔ですね。彼女は霊界ではもう長くなると言ったのです。息子も私のすぐそばに居ると言っています。それに、なんか奥さんが赤い色の車のことを言っているのですが、何故ですかね。赤い車でなにか思い当たることはありますか。
 ― ええ、あります。私たちがアメリカに居た時、赤い車に乗っていました・・・・・・

 取りとめのないような会話がこのように続いてきて、ここで、「赤い車」が出てきた。これは非常に思い出の多い車である。私たち4人家族が最初のアメリカ生活をしていた時、乗っていた車が61年型のシボレーで「赤い車」であった。1974年の夏、この車で8週間をかけて2万キロ近く走り、アメリカをざっとひとまわりしたことがある。ここで「奥さんが赤い色の車のことを言っている」と言われたのは、間違いなく妻のことばであるといっていいであろう。

 もう少し「対話」を拾ってみよう。

 奥さんは、あなたのお父さんに会ったことを話しています。お父さんはいま霊界ですか。
 ― そうです。
 お母さんも霊界ですか。
 ― はい。
 というのは、お二人ともいまここに来られて、あなたに挨拶のことばを述べているのです。愛情をこめて語りかけています。彼らは、なにか英語のような名前を言っているのですが、「トム」というのは誰ですか。
 ― 「トム」というような名前の者は家族にはいません。
 なにか、非常に親しい感情をともなって「トム」という名前が浮かび上がってくるのですが・・・・・
 ― いいえ、やはり、いません。
 そうですか。どうも、「トム」という感じの名前なんですが。
 ― もしかしたら、それは私の妻の名前のことでしょうか。
 よくわかりません。わかりません。
 ― 私の妻の名前は、「トミコ」です。「トム」ではないのですが。
 ああそうですか、それかもしれません。非常に近い発音ですね。私にこの名前を伝えようとしているのですが、それでなんとか意味がとれますね。それから、「スージー」、」「ソージー」という名前はどうですか。誰の名前かわかりますか。「スージー」とか聞こえる名前です。
 ― 分かりません。そういう名前は、日本語にはないのです。

 ここで私がそう言ってしまったので、この名前の問題はこれで終わってしまったが、もしかしたら、これは、私の名前の「ショーゾー」のことかもしれない。英米人にとって日本人の名前が聞き取りにくいことはよくわかるから、「トミコ」を「トム」のようにしか聞き取れない耳では、「ショーゾー」が「ソージー」となっても、そんなにおかしくはない。家族からの呼びかけに私が鈍感であっては申し訳ないから、心情的にはこれは「トミコ」と「ショーゾー」であると認めたいところであるが、しかし、やはり、これで、妻と私の名前が出た、と断定するのはむつかしい。

 このあと、「対話」は次のように続く。

 そうですか、では次に進みましょう。あなたのお父さんが経営者のことを言っていますが、経営者とは誰のことですか、あなたですか。立派な経営者なのですが。
 ― いいえ、私ではありません。私の弟が経営者でしたが、もう亡くなりました。立派な経営者とはいえませんが。
 あなたの姉妹のことも話していますが、姉妹はいますか。
 ― 姉が二人いましたが、霊界にいます。妹二人はまだ健在です。
 東京という地名はあなたとかかわりがありますか。
 ― 私はいま東京に住んでいます。
 ああ、そうですか。妹さんも東京ですか。
 ― はい、妹の一人は東京です。
 あなたの家族で、海軍に関係していた人はいませんか。昔の親戚かもしれませんが。
 ― いないと思います。
 どこかの海岸に、あなたの叔父さんがいるのが浮かんでくるのです。口ひげを生やした叔父さんのことは分かりませんか。口ひげを生やした人があらわれて、あなたの叔父だと言っています。海に関係のあるところで生きてきたらしいのです。海とのつながりがはっきりしているのですが。
 ― よく、わかりません。

 私が子どもの頃、親戚の誰かが船員になっていて、海難事故で亡くなったというような話を聞いた記憶があるが、それが、ここでいう「叔父」であったかどうかはわからない。話はまたしばらく続いて、飼っていた犬の話や、妻の母親の田舎の家のことなどが出てくるのだが、いまひとつ、はっきりしない。私にはやはり、よくわからなかった。そのあと「趣味」に話題が移る。

 花の大きな写真を撮りましたか。
 ― ええ。
 奥さんがその花の写真を飾っていると言っています。
 ― それは、どこの部屋にですか。
 あなたの寝室です。

 私はわざと訊いたのだが、これは「正解」であった。娘が私の誕生日に贈ってくれたバラの花束を、写真に撮り、大きく引き伸ばして寝室に飾ってある。

 このほか、長男・潔典については、誕生日が6月であること、音楽が好きで、いまも霊界で生命や宇宙について学びながら音楽の勉強も続けていること、妻については、「霊界へ来た子どもたちに強い関心を持っていて、子どもの保育の仕事をしている」、「霊界へ来る赤ん坊の世話などもしている」というようなことを言われたが、それは、それまでにも、何人かの霊能者から聞かされていたことと一致する。この、ロンドンの大英心霊協会でのHさんとの「対話」は、最後には、「あなたが霊界へ行ったとき、妻、長男、両親たち、みんながあなたを出迎えてくれるだろう」というようなメッセージで終わった。

 これに対して、2年半後のHさんとの東京での「対話」のなかに出てくる情報の「正確度」は、同じ程度であるといえばよいのであろうか。この時も、やはり、妻と長男が出てきて、「アメリカの楽しい思い出のことを話している」と言われた。

 家族4人でのアメリカ生活は、2度ある。初めは1973年の暮れから1974年の初めにかけてで、次は、1982年の4月からである。この2度目のアメリカ生活では、1983年の夏に私は長女と二人で、アリゾナ州のツーソンから、ノース・カロライナ州の首都 Raleigh(ローリー)へ移っていた。そこへ、夏休みを利用して、東京から妻と長男が来ていたのである。H さんの口から、急にこの「ローリー」が出てきた。

 「ローリーとは何ですか。何を意味するのですかね。この言葉が頭に浮かんでくるのですが、ローリー・・・・・」

 この「ローリー」は、私たち家族にとって大きな意味を持っているが、家族以外の他人にはそれが分かるはずがない。これは、間違いなく霊界から伝えられてきた名前であるといっていいであろう。しかし、このときは「ローリー」はそれだけで、話題は変わった。最初のアメリカ生活の3か月の夏休みに、アメリカ一周旅行を終えたあと、家族4人でヨーロッパへ行ったときの思い出ばなしが出てきた。

 彼らはロンドンへあなたと一緒に行きましたか。
 ― 行きました。
 奥さんが、バッキンガム宮殿のことを話しています。すばらしい思い出になったようです。彼女は創造的な女性で、美術にも関心があります。パリのルーブル美術館へも行きましたね。彼女は、モナリザの絵が多くの画家に影響を与えたのを知っている、と言っています。彼女は、いまもあなたと一緒に旅行している、と言っています。今年はどこかへ行きましたか。
 ― スイスへ行きました。
 彼女は、その時も一緒にいたと言っています。
 息子さんが壊れた時計の話をしています。何か思い当たることがありますか。
 ― 実は、彼が霊界へ行ってから、毎日決まった時間にメロディを鳴らし続けた小さな時計がありましたが、それが、13年も続いて、停まりました。いまもその時計があります。
 彼も、スイスへ行ったことがあるのですか。
 ― あります。家族でアメリカからスイスへ行ったとき、彼は自分の小遣いを貯めていたお金で腕時計を買いました。

 ここで妻が、「バッキンガム宮殿のことがすばらしい思い出になった」と言っているのは、思い当たるふしがある。しかし一般的には、はるばるとロンドンまで行ってバッキンガム宮殿を訪れれば、誰でもそれなりの思い出を持つことになるだろうから、これだけで、これが妻からのことばだと言い切ることは出来ない。「美術にも関心がある」というのも、そういう人は少なくないから、これも、これだけではわかりにくい。しかし、ほかの霊能者からも、このことについては、妻についての情報として、一再ならず伝えられたことがあることは、考慮しなければならないであろう。妻が「私といっしょに旅行している」という情報についても、同様である。

 さらに、ここに出てくる「壊れた時計」については、私にとっても極めて大切な情報で、思い出も深い。私だけしか知らないことなのに、Hさん以外のほかの霊能者からも伝えられたことがあるので、やはり、長男からの話だと受け取っていいのであろう。彼の音楽の趣味については、前回は、「楽器が見える」、「楽器の演奏が上手であった」、「いまも音楽の勉強をしている」などのことばがあったが、今回は、「彼は音楽との関係が深いですね。音楽がいまも彼の生活の一部になっています」ということばがあった。彼は、音楽に深く傾倒していて、子どもの頃は言語学者になるのでなければ音楽家になりたいと友人に洩らしていたこともあったらしい。東京での学生時代、ギターはかなりの名手といわれたりしていたし、彼の音楽との深い関係は、ほかの霊能者たちからも度々指摘されてきたから、このHさんのことばも、単なる偶然の一致ではなかったであろう。

 東京でのHさんとの「対話」では、このほかに、ここには書きにくいような、かなり私的な話もいくつか出てきた。結婚後長い間子どもに恵まれなかった長女のこともその一つだが、その長女のことを、母親である霊界の妻は「あまり心配はしていません」とHさんは言っていた。霊界に居て、「長い視野でものごとを見ることができるようになっているから」だとも付け加えた。結果的には、そのときにいろいろと聞かされた話が、後に極めて正確に実現するのだが、当時は、あいまいな話のようで、言われたこともよくわかっていなかった。

 ロンドンと東京での、これらの二つのテープをいま聴きなおしてみて、その中に含まれるいくつかの情報は、間違いなく妻や長男からのものであることを確信することができる。しかし、それでもなお、それ以外の多くの内容については、私の受け手としての未熟さから、正確な情報であると言い切ることはできない。ただ、私は、いままで長年の間、数十人の霊能者から霊界からのメッセージを受け取ろうと試みてきて、一つでも二つでも、これは、間違いなく妻や長男からである、と確信できることばを掴み取ることができたときには、こころから有り難く思ってきた。その「一つでも二つでも」が長年の間に積もり積もって、いまでは、霊界に居る妻と長男の元気な生活ぶりを、かなり鮮やかなイメージとして思い浮かべることができる。

 かつて1992年に、大英心霊協会で、アン・ターナーから疑うにも疑い得ないような正確そのものの霊界からのメッセージを受け取ったことがあった。あの頃はまだ私は、無明の闇のなかから抜け出すことができずにもがき苦しんでいた。あの時の一連の重大なメッセージは、そんな私に与えられた霊界からの特別の配慮であったのかも知れない。あの通信を成功させるために、霊界では長男が大分苦労したらしいことも、後に知らされたことがある。

 それ以来いまに至るまで、このHさんなどを含めて、数多くの霊能者に会い、霊界からのメッセージを受け取ってきた。そのなかには、正確度の極めて高いと思われるものも少なからずあり、曖昧でよくわからなかったのもいくつもある。しかし、曖昧でよくわからないことがあっても、私はそれを霊能者だけのせいにすることはできない。時空を超えた霊界からの情報を地球次元での狭い常識と理解力で受け取ろうとするには、いろいろと困難が伴うであろうことは容易に推察できる。私にとっては、いままで受けてきた様々な霊能者からの助力が、すべて、それぞれに有り難く、大きなこころの支えになってきたのである。

    (2006.07.01)






 「千の風になって」 (身辺雑記42)

 私のホームページの「メール交歓」欄に、「ロンドンからの詩 “私は死んでなんかいません”」(2004.11.25) がある。ロンドン在住の N.K さんから送られてきたもので、つぎのような詩である。

  A THOUSAND WINDS

 Do not stand at my grave and weep,
 I am not there, I do not sleep.

 I am a thousand winds that blow
 I am the diamond glints on snow,
 I am the sunlight on ripened grain.
 I am the gentle autumn's rain.

 When you awake in the morning hush,
 I am the swift uplifting rush
 Of quiet in circled flight.
 I am the soft star that shines at night.

 Do not stand at my grave and cry.
 I am not there; I did not die.

 この詩のことを、朝日新聞コラムニストの小池民男氏が「時の墓碑銘」 というタイトルで紹介していた(2006.3.6)。それによると、この英語の詩は、いつ、だれが作ったのかわかっていないらしい。しかし、ひとつのエピソードがある。かつて、この詩を、アイルランド共和国 (IRA) のテロで死んだ青年が、遺書のように両親に託していたのである。それをBBCが放送して、この詩がひろく知られるようになった。アメリカでの 9・11テロの翌年の追悼集会では、この詩は11歳の少女によって朗読されたし、映画監督H・ホークスの葬儀では、俳優のJ ・ウエインも、この詩を朗読したという。

 この A THOUSAND WINDS は日本でも翻訳され、一部では知られていた。それを、作家で作詞作曲家でもある新井満氏が、新たに原詩を基につぎのような訳詞にした。

 私のお墓の前で
 泣かないでください
 そこに私はいません
 眠ってなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 秋には光になって 畑にふりそそぐ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
 夜は星になって あなたを見守る

 私のお墓の前で
 泣かないでください
 そこに私はいません
 死んでなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 この訳詞はどのようにして生まれたか。そのいきさつについては、新井氏自身がホームページのなかでつぎのように書いている。

 《私のふるさとは新潟市です。この町で弁護士をしている川上耕君は、私のおさななじみです。彼の家には奥さんの桂子さんと三人の子供たちがいて、とても明るく幸せな家族生活を営んでいました。ところがある日、桂子さんはガンにかかり、あっというまになくなってしまいました。後に残された川上君と子供たち三人のおどろきと悲しみは尋常ではありません。絶望のどん底に蹴落とされたのも同然です。なぐさめの言葉を言う以外、私にできることはありませんでした。しかし、そんなものが何の役に立つはずもありません。

 桂子さんは、地域に足をつけた地道な社会貢献活動を行う人でもありました。たくさんの仲間たちが協力して追悼文集を出すことになりました。「千の風になって‐川上桂子さんに寄せて‐」という文集です。文集の中で、ある人が「千の風」の翻訳詩を紹介していました。私は一読して心底から感動しました。<よし、これを歌にしてみよう。そうすれば、川上君や子供たちや、あとに残された多くの仲間たちの心をほんの少しくらいはいやすことができるのではなかろうか・・・・・そう思ったのです。

 何ヶ月もかけて原詩となる英語詩をさがし出しました。それを翻訳して私流の日本語訳詩を作りました。それに曲をつけて歌唱したのが、この度の「千の風になって」という歌です。私家版のCDを数枚だけプレスし、そのうちの一枚を川上君のところに送りました。CDは桂子さんを偲ぶ会で披露されました。集まった人々は一様に涙を禁じ得なかったそうです。そして泣きながらこの歌を歌ってくれたのだそうです。》

 前述の小池民男氏は、この新井満氏の訳詞を、はじめは、そのころ担当していた「朝日新聞」の「天声人語」で紹介した。反響は大きく、新井氏の方も、「その日から電話が鳴り始め、止まらなくなってしまった」そうである。その後、この訳詞は、写真詩集として出版されることになり、30万部を超えたところで昨年秋、CDとセットの新装版が出た。小池氏は、これらのことも述べたあと、「時の墓碑銘」を次のような文で締めくくっている。

 《これらの出来事の少し前、がんで闘病生活をしていた先輩記者を励ます会を催した。そこでこんな話をした記憶がある。

 「死んだらとりあえず、僕たちは煙や灰、骨になる。僕を形づくっていた素粒子たちにとっても別離のときです。しかし、素粒子たちがいつか再会を図ることがあっても、ふしぎではないでしょう。はるか遠い、永遠に近い未来のことかもしれません。『僕』が再結集する日を夢想したりします」

 いま思えば、「煙になる」のは「風になる」のとほぼ同じことだろう。現実と幻想とをつなぐのが「風」である。

 そして死は現実と幻想との境界に起きる「何か」だ。》

 小池氏はこう書いているのだが、私はつい考えさせられてしまう。死はなぜ「何か」なのであろう。どうして「何か」で終わってしまうのであろうか。このような文を読んでいつも意識させられるのは、これが通常、知識人といわれるような人びとの死をみつめる眼の限界ということである。そしてその限界は、「生命とは霊であり、霊が生命である」という真実を直視する視点にははるかに遠く及ばない。

 しかし、この「千の風になって」は、無意識ではあっても、魂の奥底で、そのような霊的視点への共感を呼び起こすからこそ、多くの人々に感動を与えているのではないであろうか。「私のお墓の前で/泣かないでください/そこに私はいません/死んでなんかいません」は、実は、いのちについての霊的真実の、しかもそのほんの一部を示唆するものにほかならないのである。

   (2006.06.01)





  霊能者・川津祐介さんのヒーリング (身辺雑記41)

 川津祐介さんは、昭和10年東京で生まれた。慶應義塾大学経済学部に在学中から映画俳優となり、昭和33年松竹映画「この天の虹」(木下恵介監督)でデビューしている。その後、数多くの映画やテレビドラマに出演を続け、平成13年までの20数年間、科学番組「テレビ博物館」(東海テレビ)で司会を務めたことでも知られている。また、絵画・陶芸・文芸創作などにも増詣が深いらしい。しかし、そのような彼の経歴よりも、私が関心をもったのは、霊能者であり、ヒーラーとしての川津祐介さんである。

 彼が映画俳優として歩み始めたまだ無名の頃、どこの撮影所であったかは忘れたが、所内を歩いている時に、その後、彼と結婚することになるある女優とすれ違ったことがあったという。川津さんは霊能で未来が見えたのであろう。その時、その女優を呼び止めて、「あなたは、私の奥さんになる」というようなことを言ったのだそうである。その「有名」女優は、まだ「無名」の川津さんからそう言われてちょっと驚いたらしい。しかし、その予言は実現した。その女優が、いまの奥さんであるというような話をどこかで読んだことがある。

 もう何年か前のことになるが、ふとテレビにスイッチを入れたら、その川津祐介さんのヒーリングの場面が映し出されていた。足腰の立たない老婦人の治療であった。はじめに老婦人は、娘さんらしい二人の若い女性に両側から抱きかかえられるようにして、テレビの画面に現れた。ベッドの上に横にされたその老婦人の足の上に、川津さんが手をかざして、しばらく何か念じているような様子である。私はその姿を食い入るように眺めていたが、川津さんはやがて、老婦人を抱きかかえてベッドの上に座らせ、ベッドから二、三歩離れ、老婦人に、「立ってください」と言ったのである。

 「立ってください」と言われても、老婦人は立てないし、歩けないわけだから、困惑したような顔をしているだけである。川津さんは、また、「立ってください」と強い口調で言った。そばには娘さんたちも見守っていたのであろうか、一瞬、助けを求めるような表情をみせたりもしたが、そのあと、意を決したように足で床を踏みしめ、よろよろとして立ち上がった。その時の老婦人の不思議そうな顔つきが印象的であった。しかし、まだ、その次があった。

 川津さんは、辛うじて立っている様子の老婦人に向かって両手を差し出し、今度は、「歩いてください」と言った。老婦人は迷っているような様子でしばらくは動かない。テレビはその逡巡している顔つきを克明に映している。やがて、そろりとした感じで、一歩前に出た。それから、二歩三歩と歩いた。そして、手を広げている川津さんのところまで辿りつくと、わっと、声を上げて泣き出しのである。感動的な情景であった。昔のイスラエルで、イエス・キリストが歩けないでいる人を歩かせる場面を本や映画などでは読んだり見たりしたことがあったが、それを現代のテレビの画面で目撃して、私も感動した。

 このテレビの場面が評判になったからであろうか、川津さんのところへはその後、全国から治療依頼の申し込みが殺到したようである。週刊誌か何かで、これも、ふと目にとまった記事で、川津さんはそのような要望に応えるため、調布市の自宅を週に一日だけ開放して、無料のヒーリング活動を続けた、と書かれていたのを覚えている。

 その川津祐介さんが書いた、「生きる道」と題する文がある。どこかの講演会での話をまとめたもののようだが、次のような文である。

     *****

 私は3回死んでいます。最初は19歳の時、睡眠薬で自殺をしました。次に死んだのは37歳の時でした。その頃私はアクションスターと呼ばれていました。得意絶頂の時、得意のアクションの中で頭の骨を割りました。そして3度目は1996年、心の汚れを綺麗にしようと100日間の行にチャレンジした時のことでした。馬鹿な私は、3回死なないと「生きる」「死ぬ」ということが解らなかったのです。

 60歳になり医者から「あなたの症状だと3週間しか生きられない。良くても3ヶ月だと覚悟してください」と言われました。その時私は、「時間が無いならば、時間が無いなりに一生懸命生きよう。まず感謝し、そして愛する事だけをして生きよう」と思いました。朝起きると「ああ、今日も命をいただいた。これは人を愛するための時間、尽くすための時間なのだ。」と感じ、そして1日が終わると「眠っている間に死んでしまうかもしれない」と思い、感謝の祈りを捧げ眠りにつく。その繰り返しがもう8年も続きます。無理と言われた肉体で8年も生きています。こんな身体でも元気に、そして幸せに生きられます。

 私たちは自分自身が望み、願ったため世界に生まれることができたのです。果たしたい夢、果たしたい願いがあったからこそ生まれてきた。あなたの人生は、あなたが望まなければ絶対始まらなかった人生です。そして、その人生の中で夢を果たすために必要なものは全て与えられているはずです。あとは真心を尽くして、そして本気で生きるだけ。是非、その道を歩んでいただきたい。

  (2006.05.01)





  テレビで語る霊能者たち (身辺雑記40)

 私はテレビはあまり見ないほうだが、この間 ( 3月18日) 、たまたま「テレビ朝日」の番組「オーラの泉」に、美輪明宏さんと江原啓之さんが出演しているのが目にとまった。このお二人の霊能力には、強い関心がある。番組の途中からではあったが、私は後半の1時間近くを熱心に画面に向き合った。

 スポーツキャスターの長島一茂さんがお二人の前に座っていて、オーラの説明を聞かされているあたりからであった。霊能者でもオーラは見えない人もいるが、美輪さんと江原さんは、よく見えるらしい。長島さんにはすばらしいオーラが出ているとかで、その色やオーラのひろがりなどについて江原さんが話していた。途中、ちょっと中断して、江原さんがなにか美輪さんと相談するようなそぶりを見せた後、その長島さんのそのオーラには、まわりに何本かの矢が刺さっている、ということを付け加えた。素晴らしいオーラなのだが、周りの人々から、時には批判や悪意にさらされることがあるから気をつけるように、というようなことであったかと思う。

 興味深かったのは、長島さんの腰の痛みを言い当てたことである。長島さんは、実は、時々腰の痛みを感ずることがあると、認めた。江原さんが言うのには、長島さんの前世で、武士であった時、鎧兜に身を固めてどこかで戦っていた最中に、落馬したことがあったそうである。命は取られなかったが、その時の腰の痛みの意識が落馬の恐怖心とともに今生に持ち越されたのだという。そのせいかどうか、長島さんは、現在の乗り物である車を利用する時でも、どこかで事故に遭わないかと、ひどく気になるらしい。車間距離にも特別に気を使うし、道路わきでクレーン車が作業をしているような時には、遠回りをしてでも避けて通ると言っていた。

 この前世の事故や事件の後遺症のようなものについては、似たようなことを、佐藤愛子さんも『私の遺言』の中で書いていたのを思い出す。前世で戦いに敗れた武士がぼろぼろになって、よろめきながら川のそばの萱葺きの百姓家にたどりつく。そこにいた老婆が佐藤愛子さんの前世の姿であったそうである。その老婆から、囲炉裏にかけた鍋の中のものを碗に一杯振舞われて、また、よろよろと出て行った武士は、しばらく歩いて、川のほとりで切腹して果てた。その武士が、生まれ変わってきて今生の佐藤さんに会いにきたのである。それが名古屋の小児科医の鶴田氏であった。その鶴田氏の腹部には、ちょうど切腹の痕のように、横一文字に20センチほどの傷跡のようなものが残っているのを彼女も見たという。

 テレビでは、長島さんの後に出てきたゲストが、ジャズシンガーの綾戸智絵さんであった。1957年の大阪生まれである。高校卒業後にアメリカへ渡り、黒人男性と親しくなって結婚する。しかし、その結婚は破綻した。夫からの殴る蹴るの暴行、虐待を受けて離婚、夫との間に生まれた男の子を連れて日本へ帰ってきた。その子は、いま15歳になって、客席でこの番組の収録場面を見ていたようである。美輪さんが彼女に、高校卒業後にアメリカへ行ったのは何故か、と聞いた。彼女は、フランク・シナトラが好きで、シナトラに会えればと思ってアメリカへ行った、と答えた。シナトラのほかに好きな歌手は、ジュディ・ガーランドだとも言った。すると、美輪さんが、自分もジュディ・ガーランドの歌が好きだと言って、次のような話をした。

 ジュディ・ガーランドというのは、映画俳優や歌手としての名声の陰で、私生活では何度か結婚と離婚を繰り返し、麻薬中毒や自殺未遂などの地獄を味わった人なのだが、美輪さんによれば、「そこから立ち上がった経歴が人を感動させる」というのである。歌を聴いていると、その経歴が想念として伝わってくるとも美輪さんは言った。そして、綾戸さんがガーランドに惹かれるのは、そのような地獄のような日々を送った経験を共有しているからだということらしい。このようないくらか「常識的な」話からはじまって、霊的助言は、本題に入っていった。

 霊的な経験として、綾戸さんが息子さんの話をした。2歳の時に、「生まれる時に、雲の上からお母さんを見ていて、体の中に入った」と言ったそうである。カメラは、客席にいる息子さんに向けられたが、いまはもう、彼もそんなことは覚えていない。美輪さんは、「親が子を選んで生む」というのは間違いで、本当は、子が親を選んで生まれるのだ、ということを話し始めた。これは知る人ぞ知る霊的な事実である。アメリカの大学医学部での退行催眠治療でも、その実例が紹介されたりしている。子が親を選んで生まれてくるなどというようなことは、一般にはとても受け容れられないような話だが、テレビの影響は大きいから、美輪さんの話もこのような霊的真理を広めていくうえで、それなりに役立っているといえるのかもしれない。

 興味深かったのは、綾戸さんが高校卒業後にアメリカへ行ったことについての江原さんの解釈である。江原さんは、彼女がアメリカへ行ったのは、実は、「子どもを取り戻すため」であったというのである。江原さんによれば、彼女のいまの子どもは、前世で彼女の子どもであった。つまり、前世での子どもが生まれ変わっていまの子どもになった。逆にいえば、いまの子を産むためには、アメリカへ行かねばならなかった。そして、黒人の夫と結婚しなければならなかった。彼女は、夫に虐待されて地獄の苦しみを味わったが、それに耐え抜き、夫とは別れ、子どもを取り戻して日本へ帰ってきたということになる。

 江原さんは、「だから、自分のために子どもに苦労をかけていると思うのは間違いです」と、綾戸さんに言った。「あなたがそう思うと、子どもも苦しい。人生は逃げなくてもよい、もっと楽しんでいいのです」とも付け加えた。綾戸さんにとって、「取り戻した」大切な息子であっても、この日本では、少なくはない偏見の目に晒されながら育てていくのはいろいろと気苦労も多かったことであろう。それを乗り越えてきたからこそ、いまの「派手に」明るい性格があるのかもしれない。江原さんは、綾戸さんのオーラは、紫色だという。それは、生死を乗り越えて克ちえた慈愛の色なのだそうである。

   (2006.04.01)





  心霊研究の先駆者たち (身辺雑記39)

 浅野和三郎は、日本の心霊研究の草分け的存在である。明治7年に茨城県に生まれ、東京帝国大学英文学科卒業後は海軍機関学校の教授になる。アーウィンの『スケッチブック』やシェイクスピアの翻訳でも有名であった。大学での恩師・小泉八雲から受けた影響や、妻・多慶子がすぐれた霊能者であったことから、心霊研究の道に入り、大正12年3月に、学士会館で心霊科学研究会を発足させている。その後、東京に事務所を置き、雑誌「心霊と人生」を刊行しはじめた。

 浅野和三郎の著書のひとつ『小桜姫物語』(復刻版、潮文社、2003年)は、多慶子夫人を通じて守護霊・小桜姫が語った霊界の種々相をまとめたもので、日本における記念碑的な霊界通信の記録である。心霊研究といえば、現在でも白眼視される向きもないではないが、当時では、これは「破天荒の著書」であったに違いない。心血を注いで心霊研究のために貢献していた浅野和三郎は、この本を書き終えた後、昭和12年2月1日に、突然発病し、その35時間後には他界した。

 この『小桜姫物語』の序文を、「荒城の月」の作詞者・土井晩翠が書いている。土井は、詩人、英文学者として今でもよく知られているが、東京帝国大学英文学科では浅野の後輩で、心霊研究に興味を持ち、浅野の信奉者でもあった。その土井が書いた序文には、つぎのような文がある。

・・・・私は昨年(昭和十一年)三月二十二日先生と先生の令兄浅野正恭中将と岡田熊次郎氏とにお伴して駿河台の主婦の友社来賓室に於て九條武子夫人と語る霊界の座談会に列した。主婦の友五月号に其の筆記が載せられた。
 日本でこの方面の研究は日がまだ浅い、この研究に従事した福来友吉博士が無知の東京帝大理学部の排斥により同大学を追われたのは二十余年前である。英国理学の大家、エレクトロン首先研究者、クルクス管の発明者、ローヤル・ソサイティ会長の故クルックス、ソルボン大学教授リシェ博士(ノーベル動章受領者)、同じくローヤル・ソサイティ会長オリバ・ロッジ卿・・・・・・・これら諸大家の足許にも及ばぬ者がかかる偉大な先進の努力と研究とのあるを全く知らず、先入が主となるので、井底の蛙の如き陋見から心霊現象を或は無視し或は冷笑するのは気の毒千万である。浅野先生が二十余年に亘る研完の結果の数種の著述心霊講座、神霊主義と共に本書は日本に於ける斯学にとりて重大の貢献である。

 私はこの文で、むかし、心霊研究に従事した福来友吉博士が東京帝大理学部の排斥により同大学を追われた、という事実を初めて知ったが、大学に在籍する研究者が心霊研究のようなものに関心をもつべきではないという風潮は、いまでも変わってはいない。心霊研究の裾野はかなり広がってきているとはいえ、科学万能の大学社会では、少なくとも公の場で心霊を口にすることはタブーである。土井晩翠が、「これら諸大家の足許にも及ばぬ者がかかる偉大な先進の努力と研究とのあるを全く知らず」と嘆いているのも、当時ではなおさらのこと、無理ではないかもしれない。

 これに関連して思い出されるのが、コナン・ドイル(1859 -1930) の手記である。彼も最初は、どうしても心霊現象が信じられずにいたが、それでも、関心を捨てきれずにいろいろと調べているうちに、だんだんと心霊現象のもつ深い意味に気がつくようになっていく。コナン・ドイルはそれを、こう述べている。

 ・・・・その後、私は片っ端からスピリチュアリズム関係の本を読んでいった。そして驚いたのは、実に多くの学者、とくに科学界の権威とされている人々が、スピリットは肉体とは別個の存在であり死後にも存続することを完全に信じ切っていることだった。無教養の人間が遊び半分にいじくっているだけというのであれば歯牙にもかけないところであるが、英国第一級の物理学者・化学者であるウィリアム・クルックス、ダーウィンのライバルである博物学者のアルフレッド・ウォーレス、世界的な天文学者のカミーユ・フラマリオンといった、そうそうたる学者によって支持されているとなると、簡単に見過ごすわけにはいかなかった。
 もとより、いくら著名な学者による徹底した研究の末の結論であるとはいえ、“可哀そうに、この人たちも脳に弱いところがあるのだな”と思ってうっちゃってしまえば、それはそれで済むかも知れない。が、その“脳の弱さ”が本当は自分の方にあったということに気づかない人は、それこそ“おめでたい人”ということになりかねない。私もしばらくの間は、それを否定する学者たち、たとえばダーウィン、ハックスレー、チンダル、スペンサーなどの名前をいい口実にして、懐疑的態度を取り続けていた。
 ところが、実はそうした否定論者はただ嫌っているだけのことで、まるで調査・研究というものをしたことがないこと、スペンサーはそれまでの知識に照らして否定しているにすぎないこと、ハックスレーに至っては、興味がないからというにすぎないことを知るに至って、こんな態度こそまさに非科学的であり、独断的であり、一方、みずから調査に乗り出して、そうした現象の背後の法則を探り出そうとした人たちこそ、人類に恩恵をもたらしてきた正しい学者の態度であると結論づけざるを得なくなった。かくして私の懐疑的態度は以前ほど頑固なものでなくなっていった。(『コナン・ドイルの心霊学』近藤千雄訳、新潮社、pp.36-37)

 コナン・ドイルは、Sherlock Holmes の推理小説で世界的な名声を得るようになったが、晩年には、その文筆家としての栄光に満ちた経歴さえ投げ捨て、多くの国々へ講演旅行に出かけたり、論文を書いたりしてスピリチュアリズムの普及のために全身全霊を捧げた。1930年7月7日に71歳でこの世を去ったが、死後も、霊界通信で個性存続の証言を行ったりしている。彼もまた、欧米では、心霊研究の草分け的存在の一人であるといってよいであろう。

  (2006.03.01)





  不思議なこころ (身辺雑記 38)


 今年の初詣も京王線沿線の高幡不動尊金剛寺へ行きました。本堂に上がって護摩供養が始まるのを待っている間に、管主の代理のようなお坊さんが出てきて、次のような話をしてくれました。

 北陸のある小児科の医師が、生まれてくる前の記憶をもっている幼児が何人もいることに気がついて、その不思議な現象に興味を持ち、ひろく幼稚園をまわって3,500人の園児を対象に、生まれてくる前の記憶を持っている園児の調査をしたのだそうです。その結果、約3割の園児がそのような記憶を持っていることがわかったというのです。

 そのお坊さんは、それを人間の「不思議なこころ」というふうに言っていましたが、その不思議なこころは、動物にもあって、たとえば、2004年12月26日のあのインド洋沖津波の時、8頭の象が、人を乗せたまま海岸から離れた方向へ走り出して、制止しても止まらず、結果的に人々を救ったという話もしていました。本堂のまわりはざわざわしていて、大勢の人のなかでよく聞き取れないところもあったのですが、そのような「不思議なこころ」のことを人々はよく知らないから、近頃は世の中も殺伐となって、犯罪も増えているのだと言っていたようです。

 さらに話を続けていくなかで、そのお坊さんが、「人間も生まれるときには、どの両親のもとに生まれるか、選択したうえで生まれてくるといわれています」と言ったとき、神妙に聞いていた聴衆の中からはじめて笑い声が広がりました。「不思議なこころ」もここまでくると、その不思議さを誇張するあまりの作り話のように受け取られたのかもしれません。私はそのような聴衆の反応を興味深く眺めていました。

 生まれてくる前の記憶というのは、よく聞かされることで、そんなに珍しいことではないようです。たとえば、いまマスコミでよく取り上げられている霊能者の江原啓之さんは、自宅に親戚たちが集まっていた時、自分が生まれてくる前の両親の夫婦喧嘩の一部始終を話し出して、両親を赤面させたことがあったことを書いています。(『人はなぜ生まれ、いかに生きるのか』(ハート出版、2005年)、また、いまは成人となっているかつての赤ちゃんが、出生時の様子をこまごまと語るのを記録したD. チェンバレン『誕生を記憶する子どもたち』(片山陽子訳、春秋社、1994年)というような本もあります。

 「人間も生まれるときには両親を選択したうえで生まれてくる」ということについても、知ろうと思えば、欧米の一部の大学医学部などでの退行催眠についての報告などを含めて、いろいろと資料はあります。ただ、一般的には、やはり知らない人が多いので、たまたまお坊さんがそのような話をしても、冗談のたぐいのように受け止められてしまうのでしょう。たいていの親は、自分の子供は自分が選んで生んだと思いがちですから、子供が親を選んで生まれるなどというのはいかにも荒唐無稽で、ありえないと考えてしまうのではないでしょうか。真面目に向き合って説明しようとしても、相手にしてもらえないかもしれません。

 科学的、あるいは、確率論的にいえば、母親は子供を生むことは出来ても、子供を選んで生むことは出来ない、と言うことは出来ます。精子と卵子がタイミングよくめぐり合って結ばれる確率は、数億分の一、あるいは、数百億分の一というように、分子の1に対して分母は天文学的な数字になりますから、「自分の子供」ではあっても、その子供を選ぶことは決して出来ません。しかし、人間の誕生というのは、そのような科学や確率論をはるかに超えた宇宙の法則に支配されているもののようです。

 子供が両親や生活環境を選んで生まれてくるものであることは、五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)などにも、詳しく述べられています。また、かつてシルバー・バーチも、それを、つぎのように語ったことがありました。

 地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳、潮文社、1988、p.38)

  (2006.02.01)






  ことばの力  (身辺雑記 37)


 教育現場などで、教師や親が子供に対して、ある科目の勉強が「できる、できる」とほめ続けてやれば、その科目の成績がさらにあがり、反対に、「できない、できない」とけなし続ければ、成績はますます下がっていくことはよく知られている。それを心理学的な実験で証明しているテレビ番組もあった。

 これは小林正観『究極の損得勘定Part 2』(宝来社、2005年)に出ている話であるが、ある小学校3年生の女の子が、夏休みの自由研究で「ありがとう」ということばをかけると植物の生育や食べ物の味に影響を与えるかどうかの実験をした。200種類の食べ物について、「ありがとう」と「ばかやろう」をそれぞれ100回ずつ声をかけるという実験方法だったそうである。

 たとえば、チョコレートを用いた実験では、「甘いチョコレート」と「苦味のあるチョコレート」の2種類を用意した。甘いほうのチョコレートに「ばかやろう」を100回言うとどうなったか。甘みがなくなるのではなくて、実際は、さらにひどく甘くなったという。甘すぎで、のど越しが嫌なのでもう食べたくない、という結果であった。そして、「ありがとう」を100回言ったところ、甘さがマイルドになった。

 同様に、今度は、苦味のあるチョコレートに「ばかやろう」を100回浴びせると、苦味がさらに増し、のど越しが悪くて食べたくなくなった。つぎに、「ありがとう」と100回声をかけると、苦味がマイルドになっていた。このように、200種類の食べ物で実験してみたところ、「ありがとう」という言葉に触れた食べ物はみんな、どんどん味がマイルドになっていくという結果が得られたというのである。「ありがとう」と「ばかやろう」に籠める気持ちの問題もあるであろうが、これは十分に納得できる話である。

 この本のなかには、「ありがとう」を1000万回言い終わって人の話も紹介されている。1000万回というのはたいへんな数であるが、「ありがとう」を1000万回言い終えるとどうなるか。この本では、「いろんな面白い現象が起こりはじめます」とあるが、それもよくわかるような気がする。「ありがとう」を1000万回も言えば、奇跡とまではいわないとしても、言い終わった本人を本当に優しく変えてしまう力はあるであろう。

 どのようにして1000万回繰り返すか。ある獣医の場合、毎日仕事で何時間も車で走り回っているのであるが、その間、音楽を聞くかわりに「ありがとう」を言うことにした。そして3年間で1000万回に達したのだという。それで、どのような現象が起こったか。ここでは、本人の性格が変わったというようなことは、述べられていない。この獣医の場合は、地元の商店街を車で通り過ぎる時に、繁盛しているクリーニング屋、ラーメン屋、花屋などで働いている店員の姿に重なって、人の姿をした指導霊が、操り人形のように、店員たちの手足を動かしているのが見えるようになったそうである。

 このように指導霊が「ついている」というのは、運が「ついている」のと同じで、この本の著者は、「実は神様がついているらしい」とも述べている。この獣医は、その数年前に愛児を小児ガンで亡くしていたが、それからは宇宙の真理のようなものに関心を持ち続けていた。そして「ありがとう」を1000万回言い終えたいまは霊界とのパイプがつながって、霊界からの使者の姿を垣間見ることができるようになったのかもしれない。

 この「ありがとう」とは逆の、憎しみのことばを浴びせ続ける例を、同じ著者が『22世紀への伝言』(弘園社、2005年)のなかで取り上げている。

 南太平洋のある国に、未開の部族がいて、石器時代のままの生活をしているという。当然、鉄製の道具などはなく、鋸も斧も持っていない。ジャングルを縦横に駆け巡る彼らにとって、通行の邪魔になる大木がある。何人もの人間で囲まねばならないほどの大木である。彼らの持っている道具といえば、石斧や槍、弓といったもので、それらの道具では直径何メートルもある大木は切り倒せない。しかし、彼らはちゃんとその木を倒し、道を作る。

 どのように樹を倒すかというと、部族総出でその樹を囲み、来る日も来る日もその樹を罵倒し続けるのである。「邪魔だ」「お前など死んでしまえ」などと怒鳴り続けると、1〜2週間で葉が枯れ始め、1か月もすると、どうーと樹が倒れる。「昔の話ではなく、現在も実際に行われている方法だそうです」と、この著者は述べている。ことばのもつ力をよく示していて興味深いが、1か月もこのような罵詈雑言を吐き続ければ、生きている大木だけではなく、当然、部族側にもそのことばの持つ毒素が跳ね返ってくる。このような部族では、おそらく、不和や諍いが多く、人々も短命であるにちがいない。

  (2006.01.03)

                               
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