(日付の新しいものから順にならべてあります)




 パワフルな「大空の会」 (2004.06.21)


 瀬野彩子様

 メールを有難うございました。溝口祭典のサロン・コンサートでお嬢さんにも喜んでいただけてよかったですね。私はその日は教え子の結婚式に出ていましたので、コンサートへは出席できませんでした。

 IIS の夏のイベントには、私もほかに予定があって、申し込んでいません。「大空の会」がパワフルになってきているのは、あなたのリーダーシップのお陰だと敬服しています。それから、やはり霊界からの力があなたを導いてくれているのでしょう。ご自愛をお祈りいたします。








 何か霊界からの力を感じて (2004.06.21)


 また、今年も6月となり、武本先生のセミナーが間近となりました。大空の会の人達も私もずっと心待ちにしていました。なんか、みんな先生のセミナーに行くことに気合いが入っているような、そんな感じです。すごいですよ。

 大空の会も私が放っておくとパワフルになってきて、本当のことを言うと何か霊界からの力を感じます。一般的なカルチャースクールなどよりも活気と明るさと心地よさがあるように思えます。

 先日に行われました溝口祭典でのサロンコンサートにも参加させて頂きました。ほんとうにすばらしい演奏とアットホームな雰囲気、趣向も凝らした他にはないような、いいコンサートでした。娘も連れていきましたら、コンサートが終わった時に指揮者の方に花束贈呈の大役を娘にさせていただきまして、彼女は大変喜んでおりました。ありがとうございました。先生のセミナーとサロンコンサートは、毎年の私の楽しみとなりました。

 IISの夏のスピリチュアルイベントにも、また大空の会の人達が予約しましたが、もうキャンセル待ちの日があるそうです。私は12月には行きましたが今回は行きませんので、その分どなたかが受けていただけたらと思っています。

 6月27日のセミナーを心から楽しみにしています。暑いですが、どうぞお身体にお気を付けてお過ごしください。

  瀬野彩子






 「プロフィール」等への追加について (2004.06.19)


 あるいはすでにお気づきのことと思いますが、「プロフィール」のところに、「アメリカ留学写真集」を追加してあります。もう40年以上も前の古い写真で、その当時、大学出の初任給が1万円にもならなかったくらいに貧しかった日本では、アメリカは夢のように豊かな国でした。将来への希望にもえて、無我夢中で勉強していましたが、私の生涯で、あのような時期があったことが、いろいろと苦難を経てきたいまでは、ほんとうに、夢のように思い出されます。

 写真は、もう40年以上も経っていますので、一部カビが生えているのもあります。数百枚の写真のなかから、60枚だけを選び、溝口祭典の佐々木薫さんに、取り込んでいただきました。ごらんになる方には、年代を超えて、日本とアメリカの社会や文化の違いを感じ取っていただければと思っています。

 もうひとつ、「プロフィール」に「真実の教えを求めて」と題する小文を追加してあります。また、「教育活動」のところでは「私たちはこう考える」の二つめも追加しました。こういう入力作業は、すべて、パソコンのエクスパートの佐々木さんにお願いしています。私は、原稿をワープロで打つだけで、写真集の作製やウィルス対策などの複雑なパソコン操作になると、まったくお手上げの状態です。このホームページも、佐々木さんのお陰で維持できているようなもので、佐々木さんには、いつもご配慮とご尽力をいただいておりますことを、改めて、厚くお礼申し上げます。







 霊界の家族とのコミュニケーション (2004.06.17)


 私は、毎年、長男の誕生日である6月5日に、東京ルートとロンドンルートで、霊界とのコミュニケーションを続けてきました。このうち、東京ルートのコミュニケーションの一部は、このホームページにも公開していますが、ロンドンルートについては、2000年の分を全文公開しているほかは、講演集などで一部触れているだけです。

 このロンドンルートは、大英心霊協会で知り合ったアン・ターナーを通じて、霊界の長男宛の手紙を出し、それに対する返事の形で、長男からの手紙が、毎年、テープで送られてくるものです。トランス状態になって、激しい息づかいをしながら伝えてくる彼女独特の英語のメッセージは、時には乱れ、ところどころ聞き取りにくいところもあったりします。かなりのエネルギーがいるようで、昨年も、終わりの方になると、声が弱ってきていました。今年は、彼女は体調を崩して、自分で交信することができず、はじめて、代わりの霊能者の助けを借りて、メッセージを送ってきました。

 ロンドンの大英心霊協会では、アン・ターナーのほかにも、多くの霊能者から、いろいろと霊界からのメッセージを伝えられましたが、当然のことながら、霊能者によって、一人一人、対応の仕方が同じではありません。それから、アン・ターナーの場合にもみられるように、交信がいつも順調にいくとは限りません。また、同じ霊能者であっても、おそらく、交信を依頼する人の霊的状況によって、交信内容が深くなったり浅くなったりすることもあるのではないかと思います。

 この夏にはまた、ロンドンの大英心霊教会から、ビル・ランディス氏らが来日されて、東京やその他の都市でも、個人セッションが行われるようですので、私の体験なども参考にしていただければと存じます。霊能力のデモンストレーションなども行われるようで、これも初めての方には、参考になるかも知れません。







 I I S の個人セッション等について (2004.06.12)


 IIS (International Institute for Spiritualism) からの案内状によりますと、イギリス・ロンドンの大英心霊協会講師の金城寛氏とビル・ランディス氏が来日して、次のような日程で、個人セッションなどが行われるようです。

 会場: 東京都新宿区内
 日程: 8月24日(火) 25日(水) 26日(木)

 1.リーディング(霊査) 30分  18,000円  (ランディス氏)
 2.ヒーリング      30分  18,000円  (金城氏)
 
       ***

 日時: 8月21日(土)  19時〜20時30分
 
 *霊能力のデモンストレーション 3,000円 
   (金城氏、ランディス氏) 

 このほかにも、いろいろなワークショップが予定されています。
 関心のある方は、次の IIS事務室 へお問い合わせしてみてください。
 
 〒187-0001 東京都小平市大沼町 2-637
 Tel & Fax  042−346−4451
 E-メール :  sagb@rr.iij4u.or.jp
 ホームページ http://www.rr.iij4u.or.jp/~sagb/INDEX.shtml

 






 人の死は人生学校の卒業式 (2004.06.04)


 (このホームページを見てくださっている方々のために)
 
 なぜ、人は死ななければならないのか、それは先生がおっしゃるように、本来は喜ばしいことです。魂としての自分が、一段階成長し、進化した証明です。

 この世は、シルバー・バーチ霊訓が明示しているとおり、魂の人生勉強の場(学校)です。したがって、必要な勉強がすめば卒業するのは当然です。卒業式は、皆との別れの場であり、その限りでは悲しい場です。しかし、すべての勉強を終了し巣立って行く面から見れば、大変喜ばしい場であるのは明らかです。

 死んだら自分が消滅してしまうと思い込んでいるから、死を怖れ、忌み嫌う反応が生まれます。実際は、死んでも死にません。消滅するのは、肉体だけです。魂は消滅しません。この世から、あの世へ移動するだけです。あの世で、同じ自分として生き続けます。

 蛇足ですが、生きる苦しみを逃れるために自殺しても、何の役にも立ちません。それどころか、あの世で、さらに苦しみます。あの世では、もう死ぬことは出来ません。いつまでも苦しみ続けます。借金を踏み倒して、夜逃げしたようなものです。かえって、多額の利息を含めて完済するまで、返済要求をいつまでも受け続けることになります。

 多くの人が、「一度限りの人生だから・・・」と言います。確かに人生は、一度限りです。しかしその長さは、たかだか数十年ではありません。無限年です。この宇宙がある限り、いつまでも人生の長さが続きます。そして、この宇宙は無限に存続します。したがって、誰にとっても、魂としての人生の長さは、文字どおり無限に長いのです。

 ですから、一回あたりの肉体としての人生が終わっても、それで自分の未来がゼロになってしまうことは、絶対にありません。百歳の老人である自分が天寿を全うしても、1歳の幼児である自分が早死にしても、自分の未来がなくなってしまうと思うのは、早合点に過ぎません。

 あの世において、自分の魂としての新しい未来が、限りなく広がっています。何十年あるいは何百年かして、再び、新しい別の肉体をまとって生まれ、その後、死を迎えれば、再度、あの世での新しい人生が始まります。これを何度も繰り返して、自分の魂が人生勉強を深めて行きます。もちろん自分一人だけでなく、63億の地球人すべてに言えます。

 このように、死が人間にとって悪いことではないのと同様に、苦労も悪いことではありません。誰もが「ストレス解消」を口にしますが、ストレスは必ず解消しなければならないと決まっているものではありません。ストレス解消に、必要以上に固執すると、かえってそれが新たなストレスになるのは、容易に想像がつきます。

 苦労も同様です。何がなんでも苦労を払拭しなければならない、絶対に苦労があってはいけないと、必要以上に固執すると、苦労すること自体に苦痛を感じ、余計な新しい苦労を自分から作り出してしまいます。

 シルバー・バーチ霊訓を持ち出すまでもなく、人生勉強において、苦労するのは悪いことではありません。「可愛い子には旅させよ」「若い時の苦労は買ってでもせよ」等々の、ことわざ、名言が昔から伝わっているのが、それを端的に証明しています。

 一方、必要のない苦労をすることはありません。本当の真実を知れば、死の苦しみに限らず、人生のあらゆる場面で、苦痛が大幅に減少します。それだけに、今回の小学生同士の事件でも、被害者側、加害者側両方で、多くの人々が、必要のない苦しみに、さいなまれるのは容易に想像がつきます。このホームページをぜひとも見せて上げたいところですが、その術がありません。何とも、もどかしく、痛ましいことです。

 二宮様は、「なんで、私ではなく、娘だったのか、見えない力が働いているのか、こんなことも学んでいけば、分かってくるのでしょうか。」と述べておられます。まさにそのとおりです。誰にとっても、本当の真実に対する理解が深まれば、おのずから明らかになります。さらには、一般には永遠の謎と言われている「人間とは何か?」、「人間は、あるいは自分は何のために生まれて来たのか?」これらの答も、自分の理解力の範囲内で、いくらでも理解できるようになります。

 なぜならば、これらの答も、魂や霊界が実在する話も、同じ見えざる世界の、一部分、一要素同士に他ならないからです。例えるならば、同じ1冊の本の、前の方に、魂や霊界の話が載っており、真ん中のあたりに、人間とは何かの話が載っているようなものです。したがって、この本を読み進めて行けば、誰でも、やがては、後者の話に行き着くのは当然過ぎるほど当然のことです。

   玉ノ井重孝 (たまのい しげたか)
       E-mail : bluewing@asahi.email.ne.jp







 人は生きるために死ぬ (2004.06.03)


 二宮様

 先月25日のこの欄で、私は、自分の妻や長男が亡くなったことを「喜んでください」と言われたことがある、というふうに書きました。一般的には、家族の死で悲しんでいる方に対して「喜んでください」などといえば、激しい怒りや憎しみを招くことになりかねませんから、そういうことは決して言ってはならないのでしょう。ですから、ここでは、私自身のことで書くほかはありません。私は、家族の死に対して、そのように言われました。

 私は、その頃には、生きることや死ぬことの意味も自分なりに理解し始めていましたが、それでも、この「喜んでください」は、こころに重く響きました。しかし、やはり、そのようなことばも、自分なりに納得していたように思います。怒りや憎しみを感じたりすることは、もちろん、ありませんでしたし、相手の方も、私のそういう気持ちのあり方を知っておられた上でいわれたわけですから、私は、いまでも、しみじみとその重い意味を噛みしめたりしています。

 人はそれぞれの死に方をしますが、その死に方にはそれぞれの意味があると思います。「これからという未来がある大きな可能性がある人」が若くして死んだり、純真なお子さんが親より先に死んでいったりするのにも、意味があると思います。しかも、その意味は、決して、悪い意味ばかりではないと思います。

 あなたには、何度か返事を差し上げてきて、今度はどのように申し上げたらいいのか、私にはまだよくわかりませんが、人は真実のいのちを「生きるために死んでいく」というような言い方もできるのではないでしょうか。しかし、そのうえでさらに、だから「死ぬことはいいことである」といえば、世間の狭い常識やものの考え方では、物議を醸すことになりますから、そういう言い方は避けるとしても、少なくとも、「死ぬことは必ずしも悪いことではない」ということぐらいは、「いま生きていることの大切さ」を理解していくのと同じくらいに理解していきたいものだと思います。






 なんで人は死ぬのか (2004.06.03)


 武本様

 玉ノ井様が本を読む事を薦めてくださったので、一生懸命読んでいます。ただ、本当に、乱読ですし、集中力がかなり低下しているので、頭に入ったり、納得したりするのは、ほんの僅かだと思いますが、とにかく、読んでいます。

 今日も、小学生が同級生にカッターナイフで傷つけられ、亡くなったニュースが入ってきました。交通事故で、兄弟が亡くなるというニュースやイラクでのニュースもあります。それを聞くたびに、ああ、また悲しく辛い思いをする人がいるのだ、その方たちも私と同じような心の動きをするのだろうなと、そんな気持ちになります。真実が分かるのは、まだまだ遠い先の事でしょうし、そうなるまで苦しい時間を過ごさねばならないのが現実です。

 なんで、人は死ぬ(一般的に死ぬという事)のでしょうか。これからという未来がある、いろいろな面で、それも大きな可能性がある人が死なねばならぬのか。なんで、私ではなく、娘だったのか、見えない力が働いているのか、こんなことも学んでいけば、分かってくるのでしょうか。

 以前、辛い思いをしている武本様だからこそ、このホームページにたどりついてくる人に温かい言葉で接していらっしゃれるのだとおもいます。いつも、自分のことばかりですみません。

  二
 宮






 美樹ちゃんに導かれて生きる (2004.05.30)


 石阪さゆり様

 その後どのように過ごしておられるのか気にかかっていました。いまメールを拝見して、あらためて、3月10日朝の事故のあとでいただいたメールのことなどを思い出しています。長女と三女のお二人のお子さんたちの「一緒にいることがわかったから淋しくはない」ということばや、あなたの美樹ちゃんに対する本当の意味での優しい思いなどをお伺いして、私たちも希望の光のようなものを感じさせられていました。

 私の場合は、生や死がどういうことか何もわからず、長い間苦しんできましたが、いまでは、そのことを、妻や長男に対しては申し訳ないことであったと詫びたい気持ちです。もっと早く理解できていれば、妻や長男にもつらい思いをさせなくてもすんだはずでした。そういう気持ちがいまも尾をひいているだけに、あなたの一歩も二歩もいのちの真実に近づいているお姿には敬服させられていました。美樹ちゃんが一生懸命に語りかけることばに、まず二人のお子さんが気づき、そしてまた、あなたも、それを確かに感じ始めておられるような気がしてなりません。

 私は、来月の講演でも、シルバー・バーチのことばをいくつかご紹介しようと思っていますが、シルバー・バーチは、いま霊界にいて「死」を知り尽くしていますから、死は悲しむべきことではないことを、何度も繰り返し述べています。それでも私たちは、あたまのなかではそのことを理解し納得しているつもりでも、愛する家族や、友人、知人の死に際してはやはり涙を流してしまいます。悲しみながら泣くのも、人間の情としては当然ではないか、とどうしても考えてしまいます。しかし、それも、シルバー・バーチに言わせれば、大きな間違いであり、まだ人間としての進化が足りないからだ、ということになるようです。シルバー・バーチは、霊界での勝れた生き証人ですから、そのように言われると、私などは、頭を垂れてうなだれるほかはありません。

 おそらく、美樹ちゃんは、お父さんやお母さんを、霊界から一生懸命に導こうとしていると思います。そういう美樹ちゃんの気持ちに感謝で応えられたら、美樹ちゃんはきっと喜んでくれるのではないでしょうか。子供は純粋ですから、霊界でも真理にはすぐ溶け込んでいきますが、大人はむしろ世間の常識が目を曇らせて、真理へ近づきにくくなっていることもあろうかと思います。ですから、通常は、問題になるのは霊界へ行ったお子さんではなくて、残された家族の迷いであり悲しみです。その意味では、明るく元気な美樹ちゃんをはっきりと意識し、美樹ちゃんに導かれて生きるということが、いまは何よりも大切なことといえるかも知れません。どうぞ、希望の光を見失わずに、美樹ちゃんとともに、しっかりした足取りで歩んでいかれることをこころからお祈りしています。







 「疑いようのない事実」を信じて (2004.05.30)


 武本先生

 以前何度かメールをさせていただきました石阪と申します。3月に交通事故で突然娘を失くし、打ちひしがれる間もなく先生のホームページにめぐり合い、頂いたお言葉の数々を胸に3ヶ月近く何とかやって参りました。あの節は本当にありがとうございました。大変な生きる糧をいただいておきながら、その後なかなかメールさせていただく勇気がなく、ご無礼申し上げておりました。

 先生の数々のお言葉に含まれ、また言外にもちりばめられた真実について、子どもを失った悲しみや寂しさを抱えながら、あれから自分なりに考えつつ暮らして参りました。24時間、心は常に亡くなった子のことばかり、生と死の境界線を飛び越える手立てを考える毎日でした。

 考えることが日常のよすがのようになっておりましたが、それでも今は、肉体は滅んでもいのちは死なない、というのがなぜか「疑いようのない真実」だと信じるようになりました。私の場合以前は曖昧とした知識しかなかったですし、常識にこだわりがちであったと思います。しかし何で「信じるようになったのか」その経緯ははっきりと思い出せないのです。

 すばらしい考えを持った方々との出会いがあり、その方たちが持ち合わせておられる電灯で足もとを照らしていただいております。それは偶然の成り行きだとは考えられません。先生に娘のためにお祈りいただいたこと、それを読者の方々に呼びかけていただいたことなど、今も感謝の念を禁じえませんが、同時に不思議な気がいたします。それは娘だけでなく霊界に行こうとしている方々に届いた普遍の祈りとなったのかもしれません。

 何分にも子どもが他界して日が浅いですので、これから先、悲しみに押しつぶされてこの「信念」がぐらつくことも、曇ることもあるかもしれません。もっとも現在は「悲嘆の回復」などへはほど遠い生活を送っておりますが、自分の場合、信じることが唯一の回復作業であり、これを置いて他にないと考えております。

 武本先生やメールをお読みくださった方々に遅ればせながら、改めて御礼申し上げます。生きる力をありがとうございました。

 石阪さゆり






 求める者には与えられる (2004.05.27)


 池田美保様

 メールを有難うございました。

 道を求めて迷うことは誰にでもあることですが、求めることを止めずに続けていくことが何よりも大切であるような気がします。イエス・キリストも 「求めよ、そうすれば、あたえられるであろう。捜せ、そうすれば、見出すであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイ 7-7)と言いました。

 求めて歩んでいるうちに、やがてかならず眺望が開けてきて、光が射し込んでくるのではないでしょうか。あなたの前途に期待したいと思います。








 自分が誰かを知るために (2004.05.27)


 武本様

 初めまして、ホームページをみました。

 私はずっと自分が誰なのか、生まれた意味ってあるんだろうか?何かを知りたいけど何が知りたいのかわからずに、たくさんの占いなどに行っていました。占いでスッキリするはずはなくいつも悶々とすごしていましたが、インターネットや本などで霊的な事を検索したりしてこちらのホームページにたどりつきました。

 「学びの栞」は私が知りたかった事が書かれているように思います。「霊界からのメッセージ」も感動したというか、ボキャブラリーがすくなく上手く伝えられないですが心にジーンとくるものがありました。だからと言って分かったわけではないので少しずつ勉強?して知りたい事を知っていきたいです。

 私は武本さんのようには出来ないですが、自分で出来ることをして毎日、丁寧に過ごして生きたいと思いました。このホームページのおかげで気持ちが健やかになりました。ありがとうございます。感謝します。

 池田美保






 乗りこえるために与えられる苦しみや悲しみ (2004.05.25)


 石丸偉丈様

 メールを有難うございました。浅野総合研究所(ARI)でリーディングを受けながら、いろいろと学ばれているご様子をお伺いして、私も古くから浅野信さんにはご縁をいただいてきましたので、親しみを感じます。

 あのような大事件が起こって、私がその事件に巻きこまれたことを、むかし、浅野さんは「喜んでください」と私に言われたことがありました。これは普通では言えない重いことばですね。浅野さんは、私にはそのことばを受け止める用意ができていることを見抜いておられたから、そのように言われたのだと思いますが、霊界では、そのような「教育」に私が耐えうることを見通されていたことも、私はあとで知らされました。いろいろなことがあって、私も、あの事件は私にとって何であったかを、私なりに理解するようになっています。

 苦しみや悲しみには、やはり意味がありますね。そして、苦しみや悲しみは、本当は悪いことばかりではなくて、むしろ、いいことである、自分にとって必要だから起こっているのだというようなことが、わかってきたような気がします。今日の「学びの栞」にも、「克服できない困難は絶対にふりかからない」というシルバー・バーチのことばを引用していますが、いまでは、こういうことばも本当によく納得できるようになりました。

 苦しみや悲しみのまっただ中にいる間は、ほとんど自分自身の姿を見失ってしまったりして、なかなか自然の摂理や生きていく意味からの視点で、ものごとを捉えることが難しいように思われます。それでもやはり、高く昇るためには、深く沈まなければならないのでしょう。お互いに励まし合って、これからも明るく、学びの道を歩んでいきたいものだと思います。







 世界平和を希求し続けていきたいという思い (2004.05.25)


 武本昌三様

 石丸と申します。友人の西田さんからサイトを紹介いただき、感動を覚えメールさせていただいております。また、御著書を、静岡の曾根勝子さんから最近、贈呈いただきました。

 私は、現在31歳で、ARIにて学びを続けている者です。東京の国立に住んでいます。大韓航空機の撃墜事件について、真相を知らせていただき、暗澹たる想いと、また現在のイラクや中東情勢との相似性を、感じました。しかし、その苦しみの中から、武本さんが、苦闘され、このようにひとつひとつを糧とし、学びとされておられる姿に心動かされる想いでした。世界平和を、本当に希求し続けて行きたいとますます思います。ありがとうございます。

 私も、非常に拙いですが、サイトを今年の始めに立ち上げました。更新を怠っている日々ですが。私事ですが、連れ合いと娘が、骨の折れやすい障害があり、家庭人であることが、私の第一の仕事としてこれまで来ています。悩むことも多く、リーディングは1995年の夏に受けて以来、10数回を数えています。

 いつか、私も、武本さんのように、体験を昇華し、霊的探求もまた世に少しでも分かちあい、人様のお役に立てるようになってゆきたいと願っております。私は、及ばずながら、リーディングの勧めもあり、ライフシールのリーディングを行い始めていたりもします。

 これからも、時折、サイトを訪問させていただきます。武本さんのますますのご活躍を、お祈りいたします。

 石丸偉丈






 ご掲載お礼申し上げます (2004.05.21)


 武本昌三先生へ

このたびは、投稿をご掲載下さりありがとうございます。もし、多少なりとも、N.様のお役に立てるならば、ありがたく思います。

同時に、63億の地球人の一人でも多くが、本当の真実を知り、その人なりに抱えている様々な苦しみ、悲しみ、悩みなどから、脱却することを願っています。

なお、投稿の際は、自分のメールアドレスをご掲載頂くことまでは、まったく考えていませんでした。申し上げるまでもなく、こちらのホームページは、先生が主役でいらっしゃいます。むやみに前へ出るつもりはありません。先生の、いろいろな意味を込めたご厚意で掲載して下さり、あらためて感謝致します。

 玉ノ井重孝







 参考書の乱読も効果的です (2004.05.19)


 N.様へ

 初めまして、玉ノ井重孝と申します。突然、出しゃばって大変申し訳ありません。どうしてもメールを差し上げたくなりました。お嬢様を亡くされ、1年以上にも渡って苦しんでいらっしゃるご様子が、ひしひしと伝わってくる思いが致します。

 私は、20年以上前に母を亡くしました。それよりもっと前に、すでに父は他界しています。母の他界をきっかけにして、人間死んだらどうなるのか? 本当に魂や霊界があるのだろうか? それとも、やっぱり、死んだら消滅するのか、本当のところを知りたいと強く願うようになりました。

 子供の頃から機械いじりが好きで、それが高じて電子技術者になりました。それもあって、科学こそ一番の真実だと、確信していました。昭和50年頃ユリゲラーが来日し、超能力ブームが沸き起こった時も、意識的に背を向けていました。ところが上記の答えを求め、1冊の本に出会い、それから「見えざる世界」を学び始めました。世間並の表現をすれば、この本とは、まさに運命的な出会いそのものでした。

 おかげで、今では、魂も霊界も、神も永遠の生命も実在すると、断言できます。もちろん、宗教的な意味でも、哲学的な意味でも、在来科学的な意味でもありません。本当の真実として、物理的事実として理解し受け止めています。

 しかし、証拠はまったく持ち合わせていません。しいて申し上げれば、若干の状況証拠があるだけです。残りは、すべて直観的理解と申し上げても過言ではありません。もちろん、いい加減な「やまかん」ではありません。人間の根元的な働き(作用)によって得られる、心の奥から湧いてくる、かすかではあるけれど強い理解です。

 直観的理解によって、本当の真実を得る方法は、人により千差万別と思います。私の場合は、その一つとして、関係する様々な本を乱読しました。精読できれば理想的ですが、そこまではとても出来ませんでした。魂や霊界に限らず、自分の興味の感じる範囲内で、例えば、念力や念写などの超能力、宇宙人やUFO、超古代文明、人類の滅亡や逆に進化など、いろいろ読みあさりました。

 それによって、少しずつ、既存の常識を自分の手で、自分の中から払拭し、本当の真実を理解できるようになりました。それ以外にも、研究会に所属し、毎月様々な講師の先生方のお話を伺ったのも、大変役に立ちました。「奇妙で非常識な話」を真実と思っていいんだと、その当時、安心や自信が少しずつ湧いて来たものです。

 乱読するには、公立図書館を利用するのが一番安くて好都合です。しかし、この分野の本は、あまり置いてないかもしれません。本屋ですと、お住まいがどちらか存じませんので、参考にならないかもしれませんが、東京では、新宿の紀伊国屋、御茶ノ水の書泉グランデが一番充実していると思います。二番手が、池袋のジュンク堂、御茶ノ水の三省堂書店(本店?)、東京駅の八重洲ブックセンター、三番手が、渋谷の大盛堂あたりです。横浜・伊勢佐木町の友隣堂も扱っていたはずと記憶しています。

 その他、中野駅北側の書店、新宿小田急デパート内の書店もありますが、取扱分野が比較的限られているように見えます。なお、「精神世界」またはそれに類する名称のコーナーに、これらの本があります。大体は、宗教のコーナーに隣接しているか、一体となっていると思います。

 魂や霊界に限らず、可能な限り幅広い分野を乱読するのが効果的です。魂や霊に関する本だけを集中的に読むと、かえって理解が遅れる可能性があります。その理由を述べると長くなりますので、ここでは差し控えます。また、普通の宗教書、哲学書、在来科学書などは、理解の妨げになりますので、読むべきではありません。これらは、入門段階を超えて、本当の真実に対する見る目がついてから読んでも、決して遅くはありません。

 武本先生がおっしゃるように、いきなりすべてを理解できません。少しずつ、自分なりに理解して行くしか方法がありません。パソコンや車を習うのと、基本的には、まったく同じです。その間、いろいろと苦しい思いをされるかもしれませんが、やはり先生がおっしゃるように、それは悪いことではなく、ご自分の魂の成長進化のために必要不可欠です。つまり、本当は良いことです。若い時の苦労は、買ってでもしろと言いますが、本当は年齢に関係なく、すべての人に当てはまります。

 以上申し上げたことは、何のお役にも立てなかったかもしれませんが、取り急ぎ、とにかくお伝え致します。

    玉ノ井重孝 (たまのい しげたか)
     E-mail : bluewing@asahi.email.ne.jp








 とことん落ち込まないために (2004.05.19)

 N. 様

 「最終的には、苦しみ、悲しみ、嘆き、とことん落ち込んだ末にどうしたらいいのか考え、自分から行動し、真実を見つけなければならないと言う事ですね」 という文面を拝見して、一言だけ、つけ加えさせていただきたいと思います。

 「とことん落ち込む」必要はありません。というより、とことん落ち込んではいけません。学ぶということは、たとえば、先人の失敗や、過ちや、嘆き、悲しみ、不幸などを、繰り返さないためにあります。同じような、苦しみ、悲しみ、嘆きの状況におかれても、少なくとも、先人ほどには、苦しみ、悲しみ、嘆かなくてもすむようになるのが、学びだろうと思います。

 正しい道と、正しくない道があって、正しくない道を歩んでいた先人が、絶望の谷に迷い込み、さんざん嘆き悲しんだあげくにやっと引き返して、「この道は正しい道ではありません。この道は通らずに、あちらの正しい道を通ってください」と叫んでいるとします。そういう声に耳を傾けようとはせず、善意の警告も一切無視して、また同じ、正しくない道をえらんだら、どうなるでしょうか。

 あるいはまた、そのような声に気が付かないで、通り過ぎてしまうこともあるかもしれません。そして、やはり、同じように、絶望の谷間に迷い込んで、嘆き悲しんだうえに、引き返すことができた人がいたとしたら、今度は、その人が、自分の後に続く人々のために、声を張り上げて、「その道は通らないでください。正しい道はあちらです」と忠告すべきではないでしょうか。

 このように、悲しみの道であれ、苦しみの道であれ、私たちの前には、数多くの先人の無数の足跡が残されています。無数の声が記録されています。そのなかから、自分が絶望の谷に迷い込まないために、同じ道をすでに通った人の声に謙虚に耳を傾ける。それが学びだと思います。どうか、その学びを続けてください。繰り返しますが、「とことん落ちこむ」必要はまったくありません。とことん落ちこんではいけません。とことん落ちこまないために(あるいは、落ちこんでも少しでも早く立ち直るために)、学びがあるのです。







 「とにかく真実を探そうと思います」 (2004.05.19)


 武本様

 さっそくの御返事、ありがとうございます。何回も、読み直し、こんなことを思いました。

 おっしゃっている事は、理解しました。最終的には、苦しみ、悲しみ、嘆き、とことん落ち込んだ末にどうしたらいいのか考え、自分から行動し、真実を見つけなければならないと言う事ですね。まわりがなにをいっても、どんな手を差し伸べようと、自分の心の動くままに行動し、長くなるかすぐになるか分からないけれど、みちを切り開いていかねばならないと言う事でしょうか。

 武本様の、どこかの文章に、起きているより眠っていた方が楽なので、ひたすら眠りに入るという意味のことが書かれていました。まさに、そのとおりです。本来の私からは考えられない生活を送っている事も、あと、何十年かたったら、無駄でなかったと思える日も来るのでしょうか。とにかく、真実を探そうと思います。思うだけでも、進歩に値するかもしれません。

 ほんとうに、真剣に、また、暖かい言葉でのメールをありがとうございました。今後も、ご相談に乗っていただく事もあると思います。よろしく、お願い致します。

  N.                          






 自分自身で真実をみつける (2004.05.18)


 N. 様

 前回の5月16日のお返事で、私は、いのちにも代えがたい大切jなお嬢さんのために「どうか、ご自分で、その真実を見つけてください」と書きました。そして、そう申し上げる理由として、お嬢さんは「まったくいままでとかわらず、あるいはそれ以上に、元気に生き続けて、あなたを見守ってくれているはずだからです」とも書きました。あなたは、今度のメールでは、「それを信じるだけのものが、わたしにはまだありません。確かめる方法をお教えください」と書かれています。そのうえで「できる限り、努力はするつもりです」と付け加えておられます。私は、そのメールを何度か読み返したあと、しばらく考え込んでしまいました。そして、いま、これを書きはじめています。

 「確かめる方法」について、まず、私の知っていること、考えていることの一端をお話ししなければなりませんが、その前に、こういう風にいわせてください。私のこのホーム・ページをごらんいただいている方々のなかには、あなたと同じように、お子さんを亡くされた経験をお持ちの方が数多くおられます。そのなかには、時間が経っても悲しみが癒されず、いまも苦しみ続けている方々もおられることを私は知っています。そしてまた、そのなかには、お子さんが、いまも立派に生きていることを知るようになられて、死別の悲しみとは無縁の、こころ安らかな日々を過ごしておられる方々も決して少なくはないことも、よく知っています。

 さらに、その「お子さんがいまも立派に生きていることを知っておられる方々」のなかには、おそらく、「死別の悲しみ」のあとのほうが、それ以前より、より明るく輝いておられるのではないかと思えるようなお顔の方々も、すぐ何人か、私はいま思い浮かべることが出来ます。お子さんが亡くなられたことを、「祝福されて幸せです」といっておられるお母さんのことも存じ上げております。子どもが親に優しくすることを親孝行といいますが、このような方々は、本当にお子さんに対して優しい「お子さん孝行」の方々で、私は、人間が偉いというのは、こういう方々のことではないかと、こころから尊敬しています。おそらく、そういうお母さんのお子さん方も、こころの底から安心し、お母さんに感謝し、尊敬しているにちがいありません。

 「確かめる方法」の「前置き」をもう少しだけ、続けさせてください。お子さんが亡くなって「祝福されて幸せです」というようなことを、世間では、あるいは、妙な新興宗教の影響だとか、なにかに洗脳されているとか、迷信に目が眩んでいるというようにいわれることがあるかもしれません。しかし、大切なことは、世間がどう思うか、ということではありません。世間がどう思おうと、それはどうでもいいことです。それよりも、何よりも大切なことは、真実は何か、ということです。お子さんが「生きている」ことを知るということです。もし、かりに、「死んでいる」ことが真実であるとするならば、「生きていることを知る」ことは当然できません。ですから、「死んでいる」ことが真実なら、「真実を知ってください」ということは、実に残酷な言い方になります。悲しみにくれている人に対しては、人間として許し難い犯罪ということになるでしょう。

 しかし、真実は、あなたのお嬢さんは生きておられるのです。このホーム・ページをみておられる多くの方々が、そのことをご存じです。私も知っています。古来、聖賢や高僧が、いろいろとそのことを教えてきました。いまでは、真実に関する多くの本も出まわって、意欲さえあれば、真実は自分の手で掴むこともできます。繰り返しますが、それは、かならず出来ます。ですから、あなたのお悲しみの姿を知って、そのまま通り過ぎることができず、どうか「ご自分で、真実をみつけてください」と申し上げたのです。

 もうおわかりでしょうか。「確かめる方法」は、ご自分で真実をみつけることです。それが、確かめる方法です。あなたは、こういういいかたに接すると、もしかしたら、いかにも冷淡だと思われるかも知れません。冷淡なのではありません。それが、確かめる方法です。そして、あなたが一生懸命にお嬢さんの生死に関する真実を見つけようとされるのなら、必ず、それは見つけだすことが出来ます。誰もあなたの代わりに、あなたの真実を見つけることは出来ないのです。それは、あなたがやるべきことなのです。どこかへあなたをご案内して、高いお金を払って、それで一度に、納得していただけるようになる、というものでもありません。

 「藁にもすがる」気持ちの時には、人間は文字通り、藁にさえすがろうとします。私もかつてはそうでした。しかし、藁は藁です。自分で自分のいのちを支えるもっと確かなものを見つけてすがるよりほかはありません。できるだけ楽に、簡単に、すぐにでも絶望的な悲しみから逃れることができるようなものがあれば、とつい考えてしまうことがあっても、そのような、「特効薬」のようなものはないでしょう。そういう特効薬のようなものは、いくら探しても決してみつかることはありません。そして、これも大切なことだと思いますが、そういう「特効薬」のようなものもないということは、悪いことではありません。それは、いいことです。人間の成長のためには、そういう特効薬のようなものがあってはならないのです。どうか、こういうことも、あなたのこころの片隅にとどめておいてください。そして、大切なお嬢さんを、ご自分で見つけ出される日の一日も早からんことを、こころからお祈りしています。
 







 「真実を確かめる方法をお教えください」 (2004.05.18)


 武本昌三様
 
 お忙しい中、また、突然の見ず知らずの者からのメールに、丁寧なお返事をありがとうございました。ホームページを拝見して、思わず、メールを届けてしまいました。
 
 「会う事ができない」については、武本様がおっしゃる事実を、全く知らない人たちが、「いつかは、会えるよ」と、なぐさめとも、励ましともつかない言葉への、私の反発のような気がします。また、肉体としての生きている姿にあえないと言う事です。
 
 武本様のかかれたものを、短時間ですが読ませていただき、最近よく聞く、江原啓之さんの書かれた物や推薦してくださった本も読んでいます。ただ、悲しみや苦しみがどうしても先に立ち、「娘の死」を現実として受け入れる事を拒む私がいるのです。
 
 メールの中にそれに気が付かないでいるあなた自身が、実は一番の悲しみのもとになっているはずだからです」という文章がありました。このようなことはあるだろう、でも、実感が無いのです。夢も見なければ、言葉が降ってくるわけではありません。

 「まったくいままでとかわらず、あるいはそれ以上に、元気に生き続けて、あなたを見守ってくれているはずだから」という文章もあります。それを信じるだけのものが、わたしにはまだありません。確かめる方法をお教えください。できる限り、努力はするつもりです。現在のまま、この先、後何年も持ちません。


 しかし、毎日の生活のリズムに波があり、気力が十分でないときも多いため、息切れをしないとも限りません。ほんとうに、ありがとうございました。よろしく、お願い致します。
 
  N.
   






 N さんのために陰ながらお祈りを (2004.05.17)


 武本先生、こんにちは。

 今日(16日)のメール交歓を拝見して、胸がつぶされる思いでした。私は、今、生きていますが、Nさんの亡くなられたお嬢様の今のお気持ちが痛いほどわかります。お母様のことをどんなに心配していらっしゃることか。どんなにこころを痛めていることか・・・「私はここにいるよの」と一生懸命にお母様に話しかけていらっしゃるのに通じないことのつらさ。

 先生がお返事をなさったように、お母様がお嬢様を探すことで、お母様のこころが開かれ、いつの日かきっとお嬢様を感じることができることと確信しております。これから長い道のりを歩まれることと思いますが、見守ってくださるお嬢様のために、決してご自分が「闇」のなかにいるのではないということに気づいてくださることを、かげながらお祈りいたします。

 母が、先生のご講演を初めて拝聴した時のことをよく話題にします。内容もそうですが、先生のあの透き通ったお声を聞いた瞬間に、こころがすーっとしたと申しております。私も同感です。先生のお声は、なんとも言えないヒーリングボイスだと思います。6月のご講演楽しみにしております。どうぞよろしくお願いいたします。

 佐々木 薫







  真実に気がつくことの大切さ (2004.05.16)


  N.様

 メールを拝見しました。お嬢さんがカナダで交通事故に遭い亡くなられたことをお伺いして、さぞ、お悲しみのことと、こころからお察し申し上げます。1年と5か月経った今でも、苦しんでおられるご様子も、私にはよくわかります。そのあなたに、私はいま、どのようなお返事を差し上げることができるのでしょうか。

 あなたがいわれるように、「もう、希望も未来もない」悲しみの中で、お嬢さんとも「会うことはできない」絶望的な状況であるならば、そして、それが本当に、そうであるならば、私はこの返事を差上げることは出来ません。何も書くことは出来ません。もし、それでも書くとすれば、世間でよく人々がするように、ただ、ひたすらに、「時とともに、悲しみが薄らいでいくことをお祈りします」というようなことを書くだけでしょう。それは、「死んだ者はもう生き返らないのだから、あきらめてください」というのと同じようにとらえられます。

 しかし、そんな返事ならば、なんの意味もありません。なんの慰めにもなりません。もうたくさんですといわれるでしょう。「聞きたくもない」と思われます。私は、あなたと同じ立場にいたことがありますからわかるのです。そんな、世間一般の慰めのことばを、もし私が聞いたとしても、慰められるどころか、相手に対する憎悪の気持ちをつのらせるでしょう。死というものがどういうものか何もわからなければわからなくてもよい。その時は、ただ黙って涙を流してくれればよいのです。こちらも、死の意味が何もわからないのであっても、黙って涙を流してくれる姿には、あるいは、いくらかは癒されることもあるかも知れません。

 でも、もし、本当にそうでなければ、どうでしょうか。あなたが、かつての私のように、「重大な勘違い」をして、勝手にお嬢さんを死んだと決めつけ、必要もないのに「どうにかごまかしながら」生きておられるとしたら、どうでしょうか。それよりも、お嬢さんに「本当に会うことは出来ない」とは誰がいったのでしょうか。どうか教えてください。あなたがお嬢さんに「本当に会うことは出来ない」のならば、私も、私の妻や長男に「本当に会うことは出来ない」ことになります。もし、それが事実なら、それなら、私はいま生きていることをやめるでしょう。

 お嬢さんがいま、生きているか、死んでいるか、どうぞ、ご自分でお確かめください。大切な、いのちにも代え難いお嬢さんです。「本当に会うことが出来ない」のかどうか、どうか、ご自分で、その真実を見つけてください。たいへんな努力が必要かも知れません。でも、いのちにも代えがたい大切jなお嬢さんのためなら、そして、おそらく、あなたのいまのいのちを救うためなら、それは十分にやりがいのあることです。なぜなら、お嬢さんは、まったくいままでと変わらず、あるいはそれ以上に、元気に生き続けて、あなたを見守ってくれているはずだからです。そして、それに気が付かないでいるあなた自身が、実は、一番の、悲しみのもとになっているはずだからです。









 娘を亡くして悲しく辛い毎日 (2004.05.16)


 突然、書き込みして、いいのだろうかと思いつつ、書いています。2002年、クリスマスに、カナダで、娘が交通事故に遭い、亡くなりました。1年と5か月経った今でも、いえ、現在の方がより苦しみが強いです。どうしようもない心をどうにかごまかしながら、毎日を過ごしています。こうして、書くのも、またまた思い出し、涙があふれます。同じような経験をした方と、多分、同様な、心の動きをしているのでしょうが、本を読んだり、話を聞いたり、聞いてもらったりしても、傷はいえていきません。とにかく、私の前から、永久に消えてしまったと言う事が、認められません。

 そんな時、こちらを知りました。ああ、こういうことが本当にあるのかと思い、あらためて、事故直後と直前のことを思い返します。思いかえしても、どうにもならないのに、思い返すのです。主人と義母は、生きていくのだから、後悔しないようにこれからもやっていく、と、表面的には前向きです。私は、娘が亡くなったときに、自分もこわれてしまって、もう、希望も未来もない、それしか思えません。これから生きるであろう長い年月を考えるたびに、襲ってくるのは絶望感だけです。

 それでも、藁にもすがりたい気持ちがあるのも事実です。本当に、娘は、どこに行ってしまったのでしょうか。ほんとうに、会うことは、できないのですね。以前の自分をとりもどしたいけれど、こういう状況で、取り戻せるわけは無いです。悲しく、辛く、苦しいです。

 N.








 世の中には偶然はないことの実感 (2004.05.09)

  R. W. 様

 メールを拝見しました。長い文章を一気に読ませていただいて、感動しています。いろいろと起こってきたことは、やはり偶然ではないのでしょう。これだけ多くの意味のあるメッセージが伝えられているということは、あなたが、いつも霊界からあたたかく見守られ、導かれているということだろうと思います。

 一年半前に、あなたが会われた霊能者は、かなり霊能力の高い方のように見受けられますがいかがでしょうか。おそらく、一般的には、霊界の存在に対して不信感や疑いを持っている状態では、メッセージの伝達はこころの曇りによって乱されたり遮られたりすることがあるはずです。波長のまったく異なる二つの世界を結びつけるわけですから、メッセージが届けられるのはたいへんなことで、それだけに、うまく波長が合わせられない状況もいろいろと生じてくることでしょう。私が個人的に頼りにしているイギリスのアン・ターナーの場合も、まったく霊界からの応答が得られなかったこともありました。いまのあなたは、一年半前のあなたと違いますから、あのときの霊能者にもう一度会われたら、あるいは、さらに納得できるようなメッセージを受け取ることができるのかもしれません。

 この間は、あなたが I I S で個人セッションを受けられたことをお伺いしましたが、実は、一昨日、私も東京で、同じ方からの初めての個人セッションを受けてきました。先月、私がスイスのマッターホルンやユングフラウなどの山々を見るために厚いコートを着て3千メートル以上の高さの雪原を歩いていたこと、その前日には病院で精密検査を受けていたことなどは、霊界で私の妻や長男もわかっていたようです。

 私は、いままで何十回も、いろいろな霊能者の方からの霊言を聞いていますから、私なりに、聞くことには慣れています。霊能者個人の資質を語る資格は私にはありませんので、それについては差し控えますが、前にも書きましたように、私の場合は、一言でも二言でも、真実の情報をつかみ取りたいという一心で、このようなセッションを受け続けているわけです。ただ、いまの私は、霊界の存在を確信するために霊言を聞いているのではありません。霊界の存在についてはもう「知って」いますから、「いつまでも、そのようなセッションを受ける必要はない」(もっとほかにやるべき仕事がある)と、ある霊能者からいわれたこともありました。

 今朝、このホームページの「学びの栞」には、ご覧のように、「世の中には偶然はない」 を引用しました。この「偶然はない」は、キュブラー・ロスやシャーリーマックレーンをはじめ、ほかの多くの人々からもいわれていることで、いづれ、それらのことばも、ここに追加していきたいと思っています。私には、このことばが、いままでの私自身のことを含めて、ますます真実味を帯びてきているような気がしてなりません。この入力をすませたあとで、あなたのメールを拝見し、私が感動するのも、世の中には偶然というものはないのだということを、私が強く意識しているからかもしれません。

 あなたは、『シルバー・バーチは語る』のCDブックを買われたことを書いておられますが、それを読んでいた私のすぐそばには、その本が置いてありました。来月の私の講演のための原稿をいま書いているところですが、その講演で、この本から一部を引用し、その部分をテープに流して、聴衆の方々にシルバー・バーチの声を聞いていただきたいと思っています。それで、その本をいま、机の上に置いてあるのです。

 この本の表紙は、これもあなたにはご縁のある、絵本作家の葉祥明さんの絵で飾られています。円形の窪んだ底から光が出ていますね。この絵をみて、私ははっとしました。一昨日のセッションで最後に一つ言われたことがあります。「円形の真ん中が窪んで、(ちょうど傘を逆さまにしたように)そこから末広がりに天上へ向かって光が広がっています。それが、あなたの姿です」 と言われたのです。私は、あなたと違って本当に霊的には鈍感です。なんのことかよくわからず、もう忘れかけていましたが、この絵で、そのことを思い出しました。この絵が言われたイメージそのままです。これも、やはり「偶然はない」ということでしょうか。私もまた、このようなご縁をいただいていることを、あなたにこころから感謝申し上げたいと思います。






 霊界からの導きのメッセージ (2004.05.09)

 
 武本先生

 先日は二度もご丁寧なお返事をいただきありがとうございました。その後、先生のホームページの霊界からのメッセージ、講演集をあらためて拝見し、私自身のことで気づいたことがたくさんありました。

 実は、これまでに何度か、霊能者を通して故人からのメッセージを受け取っていましたが、その中の一人に言われたことを今頃になって気になりだしました。1年半前、結婚のことで悩んでいて、ある霊能者に相談したことがありましたが、その時、「貴女は二人の夫を持とうとしているのですか?貴女には魂の夫がいるのです。あなたは神に仕える身であるから結婚はしてはいけません。生まれる前にそういう計画をしているのです。」と言われました。9年前に亡くなった彼がいつも私のそばにいて、その彼が私の魂の夫だと言うのです。そして「彼には毎日話しかけなければいけませんよ!常識で考えたらそんな関係はおかしいのですが、神様は二人にはそれを許しているのです・・・」とも言われました。

 彼の身体的特徴は当たっていましたし、写真を見せても「この人に間違いありません!」と言われましたが、あまりにもその話は現実離れしすぎていて、信じることができませんでした。しかも、彼も「そのことをどうか信じて欲しい」と言っているというのです。そこで私は、彼本人だと証明できることを何か言って欲しいとお願いしたことがありました。その時、「サウンドオブミュージックが好きだった」と彼は答えたそうでした。私は「それは本人じゃないとわからないことです。もっと具体的なことを、例えば家族の名前とか自分の誕生日とか聞いていただけませんか?」と言いました。すると「彼は貴女の部屋の中の白くて・・・このくらいの大きさのものを見せるのですが・・・私にはそれが何なのかはわかりません。その白いものって何ですか?」とおしゃったように思います。それは私の質問の答えになっていませんでした。その白いものにも心当たりがなくて、結局その時も霊能者を信じることができませんでした。

 ところが、それから1年少し経った、今年の2月に、もしかしてあれはデタラメなことではなかったのでは・・・と思える出来事に遭遇してしまいました。その前月の彼の月命日に、知人から、観葉植物をどれか一つもらってほしいと言われました。私は、その時、選ぶのにとても時間がかかりましたが、結局、”アイビー”と書かれた植物を選びました。持ち帰ってから、それを見ながら、「アイビーってツタのことか・・・」と思ったのですが、その夜、お風呂でラジオを聞いていると(ラジオを聞くなんて、久しぶりでしたが)、ペギー葉山さんて方の歌が流れました。「ツタのからまるチャペルで〜♪」 ツタと思った時に、そんな歌を聞くなんて、何か意味がありそうだと思い、その方のことをインターネットで調べてみました。すると、”サウンドオブミュージック”のドレミの歌の日本語の作詞をされたのがその方だということがわかりました。

 私は、サウンドオブミュージックはとても有名なミュージカル映画であることは知っていましたが、一度も観たことがありませんでした。どんなストーリーなんだろうと気になっていたところ、またタイミングよく、購読していたメールマガジンに「サウンドオブミュージック製作40周年記念 −ニュー・プリント デジタルリマスターバージョン−」 の情報が掲載されていました。そこには東京と大阪で上映中とありましたが、近くなら観にいきたいところですが、わざわざ、映画だけを観に大阪までは・・・
そう思い、残念ですが断念しました。そしてそのことも忘れかけてた頃、以前からなんとなく何かの「ご縁」を感じていた、絵本作家の葉祥明さんのホームページを久しぶりに覗いたところ、そこに「奇跡をさがして」(文;吉武祥子絵;葉 祥明)という絵本の紹介がありました。その時、その絵本の内容がなぜかとても気になり、すぐに作者の吉武さんのホームページを探しました。

 そこでその絵本の朗読劇と作者である吉武さんのサイン会が大阪であることを知りました。その日が、サウンドオブミュージックの上映期間内であることを確認すると、これは偶然ではない!と思いました。朝一番の高速バス(片道3時間)で行けば、朗読劇もサウンドオブミュージックも観ることが十分可能でした。
このチャンスを逃してはいけないと思い、大阪に行ったのですが、その日、私にとって本当に深い意味のあるメッセージをいくつも受け取ったような気がしてなりませんでした。個人的なことですから、詳しく説明できないのがとても残念ですが、感動のあまり、涙がとまりませんでした。

 その大阪からの帰りも高速バスを利用しましたが、バスを待っている間も、劇と映画のことを考えていました。サウンドオブミュージックのフィナーレでトラップファミリーがナチスの手を逃れ、スイスを目指しているところを思い出して、また生きる勇気をもらったようで涙が流れそうになりましたが、その時、ふと自分が乗るバスの乗り場を見ると、そこはスイスホテルの5階であることに気づきました。「スイス」というのがシンクロしたと思い、とても嬉しくて笑ってしまいました。バスに乗ってからも、映画のパンフレットを見ていましたが、そこでまたはっとしたことがありました。朗読劇と映画そして私自身のことで、ある重要な共通点を見つけたのです。

 「えっ?こんな偶然があるのだろうか?うそでしょ?」と思いながら、窓の外を見たのです。するとその瞬間「エーデルワイス」と書いた大きな看板が目に入りました。またシンクロしました。
映画の中でトラップ大佐が祖国愛を歌った”エーデルワイス”を思い出したのです。亡くなった彼は高校時代に映画部に所属していて、自ら制作し、主演を演じた映画が地元のテレビで紹介されたことがありました。人を笑わせるセンスも抜群でした。こんなことができるのはやはり彼じゃないだろうか・・・・とその日も考えこんでしまいました。こういった不思議な偶然の一致が私には頻繁に起きます。まるでドラマや映画のような出来事であるし、いつもその中に彼を思い出すキーワードも隠されているようで、こういったことを経験するたび、彼の魂を身近に感じてなりませんでした。

 最近、気づいたことですが、サウンドオブミュージックを観る前(今から1年位前)に彼の夢を見ました。夢の中で、なぜか私は、彼が率いる合唱団の一員でしたが、彼が「ここが一番大切だからね!」と言って、私たちは何度も同じところを練習させられました。何度も練習したので、今でもそこだけは歌えますが歌詞は日本語でも英語でもありません。ドイツ語っぽい響きだなあと思いましたが、本当は何語なのかどういう意味なのかさっぱりわかりませんでした。そのうちその夢のことも忘れかけていたのですが、サウンドオブミュージックを観てまた思い出しました。先日、どうしてもその意味が知りたくなり、その音から考えられるドイツ語の文章を丁寧に調べていきました。調べていくうちにはっとしました。たぶんこれに違いない!それは私にしか分からない彼あるいは神様からのメッセージのように思えてならず、感動のあまりその夜は一睡もできませんでした。

 それから1週間くらい前にも不思議なことがありました。その日、シルバーバーチのCDブック(シルバーバーチは語る)を購入しましたが、その表紙の絵に見覚えがあると思ったら、葉祥明さんの作品でした。そして驚いたことに、その絵は私の部屋に飾ってある葉さんの絵にとてもよく似ています。部屋に飾ってある絵は、3年前に、初めて葉さんにお会いした時に購入しました。その時も、気に入った2枚のうち、どちらにしようか迷いました。どうしても決められなくて困ってしまいました。すると葉さんが「目を閉じてください。どちらの絵が見えますか?」とおしゃいました。私は言われた通りに目をつぶりました。しばらくすると、”光”が見えたてきたのです。それで光の見える絵に決めました。

 
葉さんはその絵を見て「地平線から光が見えるでしょ。キミの未来がこれからぱーっと明るくなっていくってことだね。」と微笑んでくださったのを思い出しました。葉さんにはこれまでに二度お会いしましたが、二度目にお会いした時に「今日ここで会ったことを忘れてしまうかもしれませんが、偶然というのはあり得ません。前世での縁があるのかもしれません・・・」というお話をされていたことも思い出しました。ちょうどその日
友人からプレゼントされたものがあったのですが、それは葉さんの”愛のチャペル”というマグカップだったことも本当に不思議でした。

 実は昨日(彼の誕生日)も気づいたことがありました。ふと6〜7年前に金沢に一人旅をしたときに買ったオルゴールの人形を思い出しました。兼六園に行ったのですが心が暗く沈んでいた時でした。何を見ても美しいと感じることができず、ただ園内をぼーっと歩いていました。歩き疲れて、もう帰ろうかと思い、駅に向かうバスの停留所まで来ていました。すぐにバスが近づいてくるのが見えました。その時、どこからか素敵なメロディーが流れてきたのです。私はバスに乗ることも忘れて、そのメロディーのする方向に歩いていきました。そこにはオルゴールの専門店があったのですが、そこに入ると、とてもかわいい赤ちゃんの人形のオルゴールがあったのです。子供の頃から、人形には全く関心がなかった私ですし、荷物になるのにどうして買ってしまったのだろう・・・
もしかして、あの時、金沢に行ったのはこの人形に出会うためだったのかな?と帰ってからしばらく考えてしまいました。

 その人形にとても愛着を感じました。ずっとそばにおいて、毎日話かけていたほどですが、その人形は”白”のベビー服を着ています。着せ替えが出来ないので、何年もすると汚れが目だってくるのではないかと心配して、2〜3年前から、埃がつかないようにクローゼットのなかにしまったままでした。高校生の頃に、結婚して子供が出来たら、女の子なら○○○という名前にしようと考えていたのですが、それを思い出してその人形にもその名前をつけていました。その名前は忘れる日はほとんどなかったのですが、人形のことは忘れていました。あの時、霊能者が言っていた、彼が示した白いものって・・・大きさからしてもそれじゃないかと思い、慌ててクローゼットから取り出しました。その日が彼の誕生日であったのも本当に不思議でした。

 確かあの時、「神様は理由があってあなた方を一緒にさせませんでした」 とも言われたのでした。もしかして、先生のご家族のように、「二つの領域、二つの世界、におのおの身を置きながら交信しあい一つの世界を築き上げるための使命上のパートナー」ということが私たちにも当てはまるのかしらと思いました。そう考えたほうが私にとっては、これまでの不思議がすべて納得いくものに思えてくるのです。目に見えない世界を否定するよりも、肯定したほうが、すべての辻褄が合いそうなのです。あの時の霊能者を介して、彼から手紙も受けとっていました。それをもう一度読み返し、なぜあの時、信じてあげなかったのだろうか?と思いましたが、今が真実に気づく時期だったのかもしれませんね。

 
彼は「こうして話が出来ることを幸せに思う。今、自分は白い着物を重ね、尊き魂を磨くために神のもと修行に励んでいる。貴女がこの人生をまっとうするまで後ろで守り続けるために、その修行のために、今、日々、努力している・・・・・」と言っていました。(これはその霊能者からでた言葉を私が筆記したものです。)先日のセッションで確信を得たかったのですが、それが私の期待通りではなかったことも、偶然ではなかったと思います。

 
私は自分の考えていることを人に話したり、文章にするということがとても苦手です。ですから、普通は先生にメールを差し上げるなど考えられません。あのような心理状態であったからこそ、その勇気が持てたのだと思います。シルバーバーチのことも先生のホームページを拝見していて、初めてその名前を知りました。すべての出来事には必ず意味があるということですね。先生とのご縁をいただいたことに深く感謝しております。

     R・W

 
 




 こすもすセミナー講演会のお知らせ (2004.05.08)


  私の講演会が下記のとおり開かれます。


  永遠のいのちを生きる
   --死とは本来の自分のいのちに還ること--

 日時: 6月27日(日) 10:30〜12:00 (午前10時 受付開始)
 
 場所: こすもす斎場 3 階 大ホール
       八王子市元横山町 2-14-19

       電話: 0426−42−0921

 聴講は無料ですが、会場準備の都合上、事前に電話でお申し込みください。

 交通アクセスは下記のホームページをクリックしてご覧下さい。

   こすもす斎場 http://www.mizoguchi-saiten.co.jp


     *************


  講演者のことば

 むかし、世界中の人々は、この地球のまわりを太陽や月が廻っていると考えていました。この大地が動いているなどと言ったら、笑いものにされるどころか、西洋では、教会から異端の烙印を押されて火あぶりにされてしまいます。そういうなかで、十六世紀の半ば頃から地動説を唱えはじめたのが、ポーランドのコペルニクスやイタリアのガリレイでした。いまでは、地球が高速で回転していることは誰でも知っていますから、地球がじっとして動いていない、などといえば、それこそ、笑いものになってしまいます。

 いま、人は死んでも死なない、死ぬというのは、いのちを失うことではなく、本来の自分のいのちへ還ることだ、と言えば、どうでしょうか。実は、このことは、日本でも外国でも、多くの聖賢や高僧から繰り返しいわれてきたことでした。しかし、私たちには、なかなかその教えが難しくてわからず、いまでも、死というのは生の終わりと考え、泣いたり、悲しんだり、悼んだりして、ただ、ひたすらに耐えていくだけです。そのような私たちにとっては、永遠に生きるという「いのちの真実」は、現代の「地動説」のようなものかもしれません。

 「こすもすセミナー」のこの講演では、毎年、「いのちの真実」をテーマにいろいろなアプローチで、お話を続けてきました。やがて私たちも、いつかは必ず死んでいきます。これほどはっきりしている厳粛な事実を前にしても、なお、死の意味を知ろうとはせず、ただ、死を忌み嫌い、避けて通るだけでは、こころの安らぎが得られるはずもありません。真実を知らないということは人間を弱くしてしまいます。私たちが希望をもって生きていくためにも、どのようにして、この「いのちは永遠に生き続ける」ことが、自分のこととして納得できるようになるか。それを、今年もこの講演で、皆さんといっしょに考えていきたいと思います。 







 支えられてきたことに感謝 (2004.05.06)


 谷口美砂子

 メールを有難うございました。「偶然というものはない」といいますが、おそらく、あなたのロンドン行きも、偶然ではなかったのでしょうね。キース・ホールさんから、ヒロシ君の名前が出たというのは、考えてみると大変なことで、霊界の実在という真実を間違いなく示してくれていることになります。大英心霊協会では、霊界のことをひろく知ってもらうために、霊界との交信のデモンストレーションを時折、無料で公開していましたが、そういう場所で、ヒロシ君のように、愛する肉親の名前を霊界から告げられて、わっと泣き出した人を見たこともありました。

 私の場合も、講演集などにも触れてきましたように、長男の名前を含めて、あれだけ具体的な内容を正確に告げられたら、疑うにも疑いようがなく、本当に大きな救いになりました。ロンドンに住むようになる前でも、日本でいろいろと迷いながら、数十回も霊能者と対峙し、霊言を受けていましたが、それらも、いまにして思えば、大英心霊協会での妻や長男との決定的な「再会」のために必要な道程であったのかもしれません。私のように無明の闇に深く沈み込んでいた者には、つらい彷徨の時間がずいぶん長く続いてしまいましたが、それも決して無駄ではなかったことになります。そしてまた、私の場合も、ロンドンへ行ったことをも含めて、いままでの歩みは、やはり、偶然ではなかったような気がしてなりません。 

 大英心霊協会では、多くの霊能者から霊言を受けていましたが、そのうちの一人から、「あなたは教師になる」といわれたことがありました。私はそれまでもずっと教師でしたし、そのときもロンドン大学の客員教授でしたから、「いま、大学の教師です」と答えましたら、相手の霊能者から、「そういう意味ではなく、私たちと同じようにあなたは霊界のことを教えるようになる」と告げられました。そのときはまだ、私にはわかりませんでしたが、いまのように、霊界のことを原稿に書いたり講演したりするようになることは、予想されていたのかも知れません。このようなホーム・ページを開くようなことも、私自身はまったく考えてはいなかったのですが、あなたからも勧められ、溝口祭典の佐々木薫さんにも助けられて、結局、毎日パソコンに向かうことにもなりました。ほんとうに、もうすぐ、ヒット数は1万回になりますね。あなたを含めて、多くの方々に支えられていることを、しみじみと有難く思いながら、こころから感謝しております。







 ロンドンの旅より1年を経て (2004.05.06)

 武本先生
 
 毎日先生のホームページを拝見させていただいております。ありがとうございます。
 
 昨日テープの整理をしようと机の引き出しを開けましたら、名詞サイズの目覚まし時計がでてきました。一年前のロンドンの時を刻んだままでした。一秒ずつ刻まれていく時計と、世界地図を眺めていると、ロンドンへのなつかしさと再び訪れたい気持ちが沸いてくるのを抑えられない気分です。このメールを書いている今も、なんだか懐かしくて、その時のキースさんのテープを聞きながら書いています(もちろん、声の響きだけですが)。私が、ロンドンの大英心霊協会(SAGB)を訪ねて、ちょうど一年が経ちました。
 
 「あなたは魂の存在は確信していると言っているのに、なぜロンドンまで行ってそれを確かめるの?」「日本にだって有能な霊能者は探したらいるでしょうに。」突然のロンドン行きを宣言して、あっという間に行ってしまったので、このように周りの人から色々言われました。しかし今、返事をするとしたら「ただ、行きたかっただけよ」と、笑って答えます。
 
 「あなたが求めている霊能者は、日本にはいない」と四年前にある霊能者の先生から言われてから、求めるということから遠ざかっていました。求めるといえば、独り本を読むことくらいでした。しかし、昨年の春、「日本にいないということは、海外には私の求めている人がいるのではないだろうか。武本先生が、何度も足を運んでいる大英心霊協会へ行ったら、何かをつかめるのではないだろうか」という強い思いがわき上がり、ついに実現できたわけです。そこを訪れることによって道が拓ける、生き方が変わる、とにかく何かが変わる気がしました。確かに、一年経った今考えてみますと、確かにその通りでした。
 
 大英心霊協会ではキース・ホールさん、テリー・タスカーさんの面談を受け、第三者は知り得ない個人情報をいくつも与えられました。キース・ホールさん、わたしの息子(次男)、次男の彼女(通訳)の面談の一部は下記の通りです。
                               
キースさん: 「お兄さんが、このことを彼(次男)に話せば笑うよと教えてくれています。エロシ、エロシーー?エロシ、それはどういう意味ですか?エロシと何回も聞こえてきます。」 
通訳の彼女: 「ヒロシです。彼(次男)の名前がヒロシといいます。」
キースさん: 「ヒロシは、彼の名前でいいのですね。お兄さんが、この情報を教えてくれているのです。彼に(次男)に伝えておいてください。ヒロシが彼の名前なんですね、それは嬉しいですね。お兄さんは、『名前を覚えていて頭がいいでしょ』と喜んでいます。」
 
 もし大英心霊協会を訪ねる時期が、息子を亡くして1,2年しか経っていない頃であったら、どのような状態だったのだろうかと最近考えます。やはり、私にはロンドンまで行くにはこの11年間という年月が必要だったのだと思います。私にとって、この年月は学ぶ時間と場所を与えていただくための、神様からのプレゼントだと思います。「年月が経つと悲しみも癒される。」私も、息子が亡くなった頃は、この言葉は嫌いでした。しかし、年月が経つということは、その人、その人に必要な時間でもあるのかもしれません。急がなくとも、その人に合った時期が来ればチャンスは自然に巡ってくると思います。あせっている時は、空回りしているだけで、真実はつかむことができないと思います。心静かに落ち着いていれば、必ず、どこからともなくチャンスは訪れてくれると、私は信じています。このように考えられるようになってから、独りで過ごす時間がとても有意義なものに感じられます。「この目で見えなくとも、この手で感じられなくとも、全てが繋がっている。」亡くなった息子と再会しただけでなく、このようなことをロンドンで手にしてきたのだと思います。
 
 大英心霊協会への旅、二ヶ月の入院生活、この二つの出来事がなかったら、今の私はなかったと思います。よくいわれている「大病をしたから物の考え方が変わった」というような、そんな簡単なものではありません。ロンドンでつかんだものを、病のお陰で、焦らず、のんびり、感謝の気持ちを込めて身体の中に吸収できたような気分です。通常、昨日と今日の繋がりは、睡眠によって6〜8時間中断されますが、私は、入院中三週間余りの昨日と今日の繋がりの中断があったため、どのように考えても10年位どこかをさまよっていた気がしてなりません。やはり、7月10日が私の第二の誕生日なのです。
 
 先生のホームページも、開設より一年が経ち、10,000回ももうすぐですね。以前お送りした手紙に、先生のホームページを開設していただきたいというような勝手な事を書いたと思いますが、このように素晴らしいものになるとは考えてもいませんでした。このような先生のホームページも「繋がり」のひとつだと思います。色々なご苦労も多いでしょうが、先生のホームページを楽しみにしている私達も陰ながら応援いたします。
 
  谷口美砂子






 理解者を責める必要はない (2004.05.04)


 武本昌三先生

 先般は、2回もメール文をご掲載くださり、ありがとうございます。(もっとも、2回目は掲載目的ではなく、先生個人に差し上げたつもりでしたが)

 At 04/04/27 12:17  +0900, you wrote:

> しかし、「死んでしまったら何も残らず無に返る」という「常識の壁」はほんと
>うに厚くて巨大ですね。私自身はまったく無知・蒙昧でしたから、その壁を打ち
>壊していくことさえわからず、ずいぶん長い間、彷徨を続けてしまいました。や
>はり、私のような者には、よほど大きなショックでも与えないと、「常識の壁」が
>「常識の壁」にすぎないことにも、目を開こうとはしないのかも知れません。

 先生は、とても奥ゆかしいお方ですので、このような表現を良くなさいますが、私を含めて63億の地球人類は誰でも「無知・蒙昧」です。したがって、ご自身を責める必要はまったくありません。

 お互いに「無知・蒙昧」だからこそ、様々な苦しみや悲しみなどを体験し、それを通して少しずつ本当の真実を会得するために、あの世からわざわざ地獄も同然の、この世に生まれ出て来たわけです。したがって、誰もが元々は「無知・蒙昧」なのは当然です。そのため、常識の壁が本当に厚くて巨大なのも、ちっとも不思議ではありません。私自身、この壁を越えてはじめて、自分が壁に直面していたと理解できたのですから。

 以下は別件ですが、シルバー・バーチの霊訓12.「イエス・キリストとキリスト教」を拝見して、キリスト復活の疑問が解けました。いくら能力のあるキリストとは言え、死んだはずの人間が同じ肉体を持って再び現われるのは、どうも腑に落ちないと、昔から疑問に思っていました。ところが、そうではなくて、端的に表現すれば、要するに「幽霊」として現れたということが分かりました。これならば、理屈に合い、納得できます。

 もちろん、恨みを晴らすために「化けて出た」のではなく、魂の存在や、あの世の存在、宇宙の法則等々を、人々に、目に見えるように分からせるために現れたのは明らかです。もっとも、その結果、人々が本当の真実を理解するようになったのではなく、逆にキリスト教という宗教に転落してしまったのは、何とも皮肉であり、人類全体にとって重大な悲劇ではありますが。

 それはともかく、以前から言われている「キリストには弟がいて、復活と称して現れたのは、その弟だ」という説は、誤りだったことになります。また一つ勉強になりました。感謝申し上げます。

   玉ノ井 重孝







 ひたすらに霊界からの情報を求める (2004.05.01)

 R. W.

 重ねてのメールを有難うございました。偶然とはいえない不思議な出来事にはやはり考えさせられますね。「偶然というものはない」とよくいわれますが、それならば、なおさらのこと、不思議な出来事にはなんらかの意味があるのかも知れません。霊感という点では、あなたと違って私はまったく鈍い方なので、そういうこともよくわからず、ちょっとつらい思いをすることがあります。

 昨年の講演集「いのちの真実を求めて」のなかでも触れていますが、私は、霊界にいる長男から、「試しに、想念で二つのことばを送ってみるから聞き取ってほしい」といわれたことがあります。想念を送ってくる日と時間まで指定してきましたので、私は少し緊張して、指定された日時に瞑想をしていましたが、その二つのことばを受け取ることは出来ませんでした。そのことを、つぎの年にロンドンへ行った時に、大英心霊協会の霊能者に告白しましたら、私のこころの集中状態がよくなかったからだろう、といわれました。日本でも、霊界からの通信を受ける場合には、リラックスしていなければダメだともいわれたことがあります。そんなこともあって、私は、自分なりに、「波長を合わせる」ことの重要性を感じていたわけです。

 それから、当然、通信を仲介する霊能者の、その時の心身状況なども影響してくると思います。私のためにしばしば仲介役を務めてくれているアン・ターナーという霊能者も、何度もお願いしていると、調子がよい場合と、よくない場合があることがわかってきますから、ほかの霊能者も同様かもしれません。ただ、それにも関わらず、霊界通信の可能性については、私はまったく疑いを抱いてはいません。霊界通信というのは、次元の違う世界を結んでいるわけですから、考えてみるまでもなく、大変なことで、それだけに私は、少しの情報でも、いつも有難く思って受け取っています。このホームページには、「霊界からのメッセージ」も載せてありますので、参考にしていただければ、有難く存じます。








 偶然とは思えない不思議な出来事  (2004.05.01)
 

 武本先生

 お返事ありがとうございました。実は、個人セッションの前日から私の精神状態がよくありませんでした。今考えると、そのことが影響しているのではないかと思います。

 これまでに、とても偶然とは思えない不思議な出来事が頻繁に起こりました。それはまるで、彼が自分の存在を必死になって私に知らせようとしているかのように思えてなりませんでした。私はそのお陰で、明るく前向きに生きられるようになったと、亡くなった彼に感謝していたのです。昨年のクリスマスイブと彼の命日にも、とても素敵なことが起こりましたが、友人にそのことを話すと、「えっ?それって本当の話?ドラマみたい・・・彼、そばに来てくれてたのね!いいなあ!」と羨ましがられたくらいです。

 そして、今年のお正月にはもっとびっくりするようなことが起こりました。彼のお母さんから年賀状が届いたのです。彼が亡くなってから9年にもなるのですが、年賀状をいただいたのはこれが初めてで、本当にびっくりしてしまいました。私はお母さんに、彼が生きているってことを伝えなくてはと思い、不思議な出来事を手紙に書きました。きっとお母さんもそれを知ったら喜ぶと思ったのです。

 ところが「貴女は過去を引きずるばかりで、明るい未来が何もないでしょ。もっと前向きに生きられないの」と言われてしまいました。それがとてもショックだったのです。今も独身の私の将来のことを心配してくださってのことなんでしょうが・・・・それにしても・・・もし私が彼の母親ならば、話をもっと聞きたいと思います。そして、魂は生きていることを知れば、喜ぶと思うのですが、考え方は人それぞれなんですね。彼のお母さんはそういう話を聞くのを嫌っているかのようでした。(もしかして聞くと辛くなるのかもしれません)


 母親でさえ信じないものを・・・もしかして、私は今まで存在しないものに振り回されてきただけなのだろうか?でもこれだけ頻繁に不思議な偶然の一致が起こるはずはない・・・あまりにも出来すぎているので、「作り話だ!」という友人もいましたが、私にそこまで完璧に物語を創る才能があるはずもない。やはり目に見えない力が関係している・・・彼もしくは守護霊の存在を感じてならない・・・いやそんなこと・・・・といろいろ考えるようになり、精神状態がかなり不安定になっていました。そして、セッションの前日には、ひどい鬱状態に陥っていました。

 「目に見えないものを信じるなんて馬鹿げている!今まで起きたことは、ただの偶然だ!」と自分の心が亡き母や彼さえも拒絶していました。予約していたセッションも受けるのを躊躇っていたほどです。やはり、今回のことは、私自身の心に問題があったということですね。霊媒の方のご苦労も知らず、大変失礼なことを書いてしまいました。深くお詫び申し上げます。

 「霊界の存在を知り、いのちの永続性を理解することは、とても大切なことで、霊感に恵まれているあなたが、多くの人々に光明をもたらす先導者になっていかれることを期待しています」という先生のお言葉に救われました。心から感謝しております。信じることが、霊界との通信にとても大切なことであるということを、今回のことで学んだような気がします。これから精神世界のことをもっと学んでいきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

      R. W.








 霊界通信で恋人と再会して止まらない涙 (2004.04.29)


 武本先生

 はじめまして。毎日、先生のホームページを拝見するのを楽しみにしております。

 私は7年前に恋人を亡くしました。その後、結婚し子供も生まれたのですが、ずっと忘れられずにいました。しかし約2年前、愛読していた雑誌に江原啓之さんが連載を始められ、そういう世界があることを知りました。そして、ぜひ交信してみたいと思いはじめた頃、SAGB の検索から先生のホームページを知り、その中で IISのセッションがあることも知りました。

 そして今日、宇都宮で金城さんのセッションを受けてきました。初めは、先祖霊が中心で、私の記憶にない人が多かったので半信半疑だったのですが、つい最近亡くなった主人の祖母の話はそのとおりでした。

 また、核心の恋人の話では以下の話を言い当てられました。

@「家が真っ二つに割れているのが見えます。」 
  → 3日前に主人と大喧嘩しました。
A「お店が見えます。商品がいっぱいあって、コンビニエンスストアのような。」
  → 彼が学生時代コンビニでアルバイトをしていて、私も何回かお店に会いに行っていました。
B「最近、黒いバックを失くしませんでしたか?無用心に、どこか高い所に掛けておいて?」
  → 今朝、駅の構内放送で名前を呼ばれたので行ったところ、私と同姓同名の方のバック(黒)の落とし物であったことがわかったのでした。
C「遊園地か公園で○○な形の乗り物にのりませんでしたか?」
  → 彼と遊園地で乗った、思い出のある乗り物があったのですが、その形をいいあてられました。
D「テープカットとか除幕式が見えるのですが、何か新しいことを始められるか、始められたかしましたか?」
  → 育児休業が終わり、GW明けから復職する予定です。

 どの話も、彼が今でも本当に存在していて、私を見守ってくれている証拠になるものばかりで涙がとまりませんでした。今日の再会を胸に、これからの人生を一生懸命生きていきたいと思っております。これからもよろしくお願いいたします。

  N. S.
 
                                                                             






 霊界との魂の絆を保ち続けるために (2004.04.28)


 R. W. 様

 メールを拝見しました。霊界との交信はデリケートで難しい問題ですから、ここでは、私自身の経験に基づいて、私の感じていることだけを述べさせていただきます。

 私は、霊能者を通じての霊界との交信の可能性は、交信相手と波長を合わせられることが前提になるのではないかと考えています。交信というのは、もとより、一方的行為ではありません。一方の発信に対して、相手方が反応してこなければなりません。それは、この世の通信電波のように、波長が合うときにのみ可能ではないでしょうか。

 霊界通信で、波長を合わせるということが簡単なことだとは決して思いませんが、不可能ではないことは、数多くの実例が証明しています。交信できた場合、できなかった場合、あるいは、どの程度の交信ができたか、というようなことは、そのときの交信環境と波長の「調整状況」によるのだと思います。波長が合っても、いろいろな雑音もまざってくるでしょうから、それらを取り除くテクニックも必要かも知れません。

 波長を調整するのに大切なのは、霊能者の能力と資質ということになりますが、おそらく、そればかりではなく、交信環境として、交信しようとする発信者の強い思いや愛の気持ちがあって、それに対して、受信者にも同じような気持ちがある場合には、波長が合いやすいということも考えられます。しかし、それでも、次元の違う世界との交信ですから、容易ではなく、国際電話のようにはいきません。

 私の場合は、ロンドンの大英心霊協会で多くの霊能者から個人セッションを受けてきましたが、その前に、日本でも、やはり多くの霊能者から、何十回も霊言を受けていました。その大半の結果は、今度のあなたの場合と大同小異です。しかし、私は失望しませんでした。失望する「余裕」はありませんでした。交信で送られてくる多くの情報から、一部でもいいから真実の情報を得たいと一生懸命になっていました。そして、私の場合は、それは決して無駄ではなかったということだけを、お返事のかわりに、あなたにお伝えしたいと思います。







 もし亡くなった母や恋人に会えたなら (2004.04.28)



 *このメールは、2004.09.09 に差出人ご本人からのご希望があり、削除しました。
 







 「常識の壁」を乗りこえていくために (2004.04.27)


 玉ノ井 重孝 様

 重ねてのメールをどうも有難うございました。いつも貴重なご教示をいただいておりますことを厚くお礼申し上げます。

 生と死の真実を追い求めていけば、どこかで必ず、「常識の壁」を打ち壊していくことになりますが、打ち壊す前に、跳ね返されてしまうことも多いのではないかと思われます。それだけに、おっしゃるとおり、かすかではあっても、真実を望み続ける姿勢だけは失ってはならないのでしょう。

 しかし、「死んでしまったら何も残らず無に返る」という「常識の壁」はほんとうに厚くて巨大ですね。私自身はまったく無知・蒙昧でしたから、その壁を打ち壊していくことさえわからず、ずいぶん長い間、彷徨を続けてしまいました。やはり、私のような者には、よほど大きなショックでも与えないと、「常識の壁」が「常識の壁」にすぎないことにも、目を開こうとはしないのかも知れません。

 シルバー・バーチもよくいっていますが、いのちの真実を知るのには、それを受け容れるだけの魂の用意ができていなければならないのだと思います。曇ったレンズを通しては澄み切った青空は見えてきません。親鸞は、素晴らしい極楽へ行きたいと思えないのは、よくよく煩悩が強いからに違いない、といいましたが、この煩悩が曇ったレンズであれば、やはり私たちは、少しずつでもレンズを磨いていくしかないようです。本当の真実を知りたいと、かすかではあっても、常に望み続けながら。







 本当の真実をかすかでも望み続ける (2004.04.27)

 武本昌三先生

 ご多忙のところ、早速お返事を下さりありがとうございます。また、ホームページにもご掲載いただき恐縮致します。

 At 04/04/25 09:10  +0900, you wrote:

> 真実と常識の矛盾を 『事実であると冷静に淡々と受け止め、その上で、 自分
>の力の及ぶ範囲で少しずつそれを払拭して行くのが、もっとも現実的で合理的
>な方法』というご指摘は、説得力があって、私のような者にも安心感を与えてく
>れます。

 もし、少しでも皆様のお役に立てれば、大変ありがたく存じます。この方法は、今まで自分自身が、見えざる世界を理解するためにずっと行なってきた方法です。したがって、これ以外の方法は、自分では思いつきません。

 今でこそ、例えば、魂や霊界は実在すると断言できますが、かつて学び始めた頃は、自分自身、迷いや不安をいろいろ感じました。このような「非常識」な話を事実と真に受けて良いのだろうか? このまま行ったら、自分の精神がおかしくなってしまうのではないか?等々、不安や怖れを抱いたことがあります。電子技術、すなわち科学の世界でずっと生きてきましたから、なおさら「非科学的」との思いが、一方ではありました。

 要するに、非常に巨大な「常識の壁」に直面したわけです。生まれて初めて、見えざる世界に触れれば、誰でもこの壁に直面するはずです。その結果、少なからぬ人々が、この壁に弾き飛ばされ、あるいは、みずからUターンして常識の世界に戻って行ったはずです。中には、オウムのように、あらぬ方向へ転落していった者も、少なくないかもしれません。

 この壁を乗り越える方法は、「決して無理しない」ことです。さらに、目の前の常識がどうであろうと、それにかかわらず、本当の真実を知りたいと、かすかであっても良いから「常に望み続ける」ことです。

 見えざる世界は、文字どおり見えませんから、無理をすると、たちまち道を踏み外す危険性が増大します。また、本当の真実を知りたいと思い続けないと、世間の常識はもとより、見えざる世界の中の虚論などにも惑わされて、真実でないものを真実だと思い込んでしまう危険性があります。

 その典型例が、オウム真理教です。例えば、神が実在するという主張自体は、ご存じのように真実です。しかし、教祖が神であるという主張は、まったくの虚論です。教祖に踊らされて、自分で自分を盲目的な状況に追い込み、無理に結論をひねり出そうとしてしまった結果、生まれた悲劇です。

 本当の真実を、無理せず自分のペースで慎重に、そして文字どおり事実を事実として冷徹に合理的に、科学的(在来科学という意味ではありません)に把握する、そういう基本方針を貫けば、常識の壁を、いくらでも安全確実に乗り越えられるはずです。

 いささか、釈迦に説法をしてしまったようで、申し訳ありませんが、何かのご参考になれば幸いです。

  玉ノ井 重孝






 真実と常識の根本的な矛盾 (2004.04.25)


 いつも先生のホームページを拝見しております。4月21日の、メール交歓 「死の意味についての啓示」で、皆さんの意見を聞きたいとありましたので、せんえつながら私見を申し述べさせて頂きます。

 シルバー・バーチの霊訓では、死を悲しむ必要はないと言明しています。それは、まさにそのとおりです。死はあくまでもこの世から、あの世への引っ越しに過ぎません。魂としての本人が、地球を含むこの宇宙から、消滅するわけではありません。したがって、消滅したと思って悲しむのは、まったく無意味です。

 ところが、いわゆる常識では、まさに逆です。死とは、本人の消滅そのものであって、それ以外の何ものでもありません。したがって、常識の観点からすれば、どれほど悲しんでも当然であり、ちっとも不思議でも不自然でもありません。つまり、本当の真実と、いわゆる常識とが、まったく逆の姿をしていることに、根本的な問題があります。換言すれば、これこそが、地球人類最大の悲劇です。

 例えば、上宮知樹著「だれも教えなかった地球人類28の真実」(健友館)によれば、5000年も前から、地球全体が支配され、宇宙の真実から完全に隔絶した道をたどってきたとのことです。要するに、支配者の手によって、地球人類は、宇宙社会に対して、そうと知らずに「鎖国」させられていたわけです。

 しかも、同書によれば、支配者は地球人ではなく、宇宙的存在です。宗教的な意味ではなく、まさに霊訓の述べる本当の意味での神の意を受けて、宇宙全体に生命を生み出す役目を持った高いレベルの存在たちの一部のグループとのことです。その彼らが、自分たちこそ正しいと思って、5000年間も地球全体を、私物化してきたわけです。同書の説が正しいならば、我々地球人類が、宇宙の真実を知識として理解できても、それでもなお、常識に引きずられてしまうのは、個人レベルの問題ではなく、非常に根が深いことになります。

 申し上げるまでもなく、この宇宙は、完全な自由の上に成り立っています。どんなことでも、やろうと思えばできてしまいます。だからこそ、戦争や犯罪のような悪いことも多数存在しています。したがって、他の人類を私物化することも、実行さえすれば、いくらでも実現します。ただし、悪いことをすれば、いつか必ずその報いが、当事者に降りかかってくるのも、宇宙の法則の一つです。その上での「自由」です。同書でも、そう遠くない将来、不当な地球支配は終わりを迎えると思える記述があります。

 いずれにしても、真実と常識の矛盾が自分自身の中に生じても、それを毛嫌する必要はありません。それも一つの現実であり、事実であると冷静に淡々と受け止め、その上で、自分の力の及ぶ範囲で少しずつそれを払拭して行くのが、もっとも現実的で合理的な方法ではないかと考えます。

  玉ノ井 重孝 







 死の意味についての啓示 (2004.04.21)

 
  昨日と今日と、2日続けて、「学びの栞」に、シルバー・バーチの「なぜ死を悲しむのか」と「死を悲しむのは間違っている」を引用しました。この小見出しは、私がつけたものですが、これは、それまで交霊会に出席していて、シルバー・バーチの話をいろいろと聞いてきたはずなのに、ある人が「仲間のメンバーが死ぬと悲しみを禁じ得ないのはなぜだろう」と尋ねたのに答えたことばです。

 私は、これを引用しながら、『歎異抄』の、唯円のことばを思い出していました。「極楽がそんなに素晴らしいところなら、なぜ私たちは、早く死んでその極楽へ行きたいと思わないのでしょう」と、唯円が師の親鸞に尋ねる場面です。親鸞は、「実は、私もそれを不思議に思ったことがあるのだ」と言って、つぎのように答えます。「ほんとうは、喜び勇んで極楽へ行きたいと思わなければならないはずなのに、そう思わないのは、よくよく煩悩が強いからに違いない」。

 唯円の質問は、大変難しい質問でしたが、この、「よくよく煩悩が強いからに違いない」という親鸞の言い方は、私には、十分納得できるような気がしていました。ここでは、同じように難しい、重大な、死の意味について、シルバー・バーチが答えているのですが、皆さんはこれを、どのように受け止めておられるでしょうか。「語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しないときは、かまわず拒絶なさるがよろしい」とシルバー・バーチは繰り返していました。皆さんには、「反撥を感じ、理性が納得しない」部分があるでしょうか。

 これらのシルバー・バーチのことばを取り次いでいた作家でもあり、有能な編集者でもあったモーリス・バーバネル氏は、シルバー・バーチの答え方について、「一度もことばに窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。その一文一文に良識があふれ、人のこころを鼓舞し、精神を高揚し、気高さを感じさせる」と激賞していました。

 シルバー・バーチの「完璧な」ことばは、ほんとうに不思議で、私はただ、頭が下がるだけです。このように平易で、深く納得させられることばが存在するということ自体が、現代の奇跡といってもいいと思いますが、それでも、私たちは、「よくよく煩悩が強い」ので、その重大な意味をも「救い」に活かすことができないこともあるのではないかと、おそれるばかりです。







 悲しみから立ち直るために (2004.04.13)

  ーSさんへの返事ー


 溝口祭典から転送されてきたメールを拝見しました。一昨年の夏に14歳のご長男を急病で亡くされて以来のお悲しみをお伺いして、身につまされる思いをしています。ただ、いまでは、ご長男のことをじっくりと考える余裕がでてきたとうけたまわり、そのことが、暗闇から光への転換点に立つ契機になってくれればと、お祈りするばかりです。

 このホームページにも載せていますが、私の講演集「いのちの真実を求めて」の扉に、つぎのようなシルバー・バーチのことばを引用しました。

 人間は不滅なのです。死は無いのです。
 あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、
 その人はあなた方のすぐ側に立っている。
 自分の存在を知らせようとして
 何度も何度も叫び続けているのです。
 あなた方こそ死者です。
 本当の生命の実相を知らずにいるという意味で
 立派な死者です。

  私自身は、この講演集にも書きましたように、突然の妻と長男の死の意味がなにもわからず、長い間苦しんできました。いまは、その苦しみも無駄であったとは思っていませんが、それにしても、いのちの真実が少しでも理解できておれば、あれほどまでに苦しむこともなかったのではないか、という思いはあります。どうか、この講演集をご一読ください。そのうえで、私の辿った足跡がなんらかのお役に立つことができれば、たいへん有難く存じます。








 学びの栞とメール交歓の入力について (2004.04.05)


 「学びの栞」は、いまは『シルバー・バーチの霊訓』から要点を抜き出して、毎日、少しずつ入力していますが、いまのところ、「古代霊」と「霊訓」(1)、(2)の三冊をほぼ終えようとしています。近いうちに、(3)にとりかかる予定です。

 ところで、私は、たまに、旅行その他で、何日か東京を離れることがあります。そういう場合には、あらかじめ、私が留守中の「学びの栞」の原稿を作っておいて、溝口祭典の佐々木さんに毎日の入力をお願いしています。しかし、メール交歓については、留守中は対応できません。メールをいただいても、ご返事がたいへん遅くなったりして、失礼することもあるかと存じますが、その場合はどうぞご寛恕ください。

 






 いい子だから早く天国へ行くという真実 (2004.04.04)


 黒木奈美江様

 メールを拝見しました。友人たちがいつまでも慶三君のことを忘れず、よく来てくれるのは有難いですね。友人たちを大切にしていた慶三君の優しいお人柄が偲ばれます。

 子どもが亡くなると、世間では、よく、あんないい子がどうして、というような言い方をすることがあります。ほんとうに、あんなにいい子であったのに、と誰もが思います。しかし、多分これは、「あんなにいい子であったのに」ではなくて、「あんなにいい子だから」ではないでしょうか。

 もちろん、いい子がみんな早く亡くなるわけではありませんが、いい子だから、早く亡くなることがあるのは「真実」だろうと思います。いろいろな霊界からのメッセージがそのことを示しています。優等生はみんな飛び級になるわけではなくて、飛び級になるのは、やはり、恵まれた、一部の優等生だから、というのと同じようなものかもしれません。

 私たちはいま、全宇宙のなかでは米粒ひとつにもならないような地球の上で、今生の「一瞬」を生きていますが、いのちを考える場合には、米粒の広さと一瞬の時間に囚われず、よほど視野をひろげなければ真実は見えてこないような気がします。今日の「学びの栞」には「あなたは誰なのか」にまとめている文を追加しました。これも、どうぞほかの文といっしょに、ご一読下さい。つらい思いをされていても、それは、真実の目から見れば、少なくとも悪いことではない、と考えて、元気を取り戻していっていただきたいと思います。







 こころの底で感じる寂しさ (2004.04.04)


 武本先生

 本日も暖かいメールを頂き有難う御座いました。先生の言葉一つ一つに暖かいものが流れているようで、涙を流しながら拝見しました。自分でも、理解をしているのです。魂の向上、そして人の為に自分のできることをしないといけない事を。そして、少しでも明るく生きていく事が慶の一番喜ぶことだと。シルバーバーチには、お叱りを受けるかもしれませんが、人に言葉をだして言えない分が昨日のようなメールになるんです。

 私は、先生に有難い言葉を頂き感謝してます。だけど、まだまだです。だから、今から一生懸命勉強をしないといけないと思います。先生の潔典さんは、私より5歳年下ですね。本当に先生も今になるには、相当の心の葛藤があったんだと推測します。

 私は、慶の友人がずっときてくれます。本当に有難い事だと思います。慶は本当に友人に対しとても優しく大事にしておりました。だから、皆がずーーときてくれます。まして、今年は大学に行った友人も卒業です。皆、進路が決まり慶に報告にきます。だから、私は、まだ少し勉強中ですが、霊界がある事、そして、自分が何故生かされているかをしっかりと考えて、頑張って下さいと、伝えています。それを聞いて皆も「慶三君の分まで頑張る」と言ってくれます。

 だけど、心の底に自分の子供が居ないのは、寂しいですよね。そんな事も先生は、全部越えてきたんですよね。先生が「身辺雑記」に掲載されていた妹さんへ当てた手紙を拝見しまして、私も、自分の両親のおかげだと思います。そんな親のもとに誕生した事を感謝しております。私は、一杯一杯泣く事もあるけれど、頑張って生きたいと思います。

  慶の母









 
 愛し子に見守られてお健やかに (2004.04.03)


 黒木奈美江様

 メールを有難うございました。苦しみながら、学ぶ。学びながら、苦しむ。それが、この世に生きる人間の姿であろうと思います。そして、その苦しみも決して無駄ではないことを、シルバー・バーチも何度も繰り返して教えています。逆にいえば、苦しみがあるから、学びの意味もあるということでしょう。苦しみが深ければ、それだけ、学んで得るものも大きいということになります。苦しみもしないで、悲しみもしないで、「簡単に手に入るものには価値がない」といわれるのも、よくわかるような気がいたします。

 肉親を失って、悲しみと絶望の果てに、「私も含め皆この世の中から抹殺されれば」というような気持ちをもったりすることがあるのも、私にはわかります。そういう気持ちになったことのある方は、世の中には案外多いのではないでしょうか。私も、家に閉じこもって苦しんでいたときに、「The Day After」(邦訳の題名は忘れました)という映画だけは見に行ったことがあるのを思い出します。第3次世界大戦が起こって、水素爆弾でアメリカもソ連も、そして世界中がすべて壊滅してしまうという想定の映画でした。その時は、そうなればいい、と思っていましたからわざわざ見に行ったのです。苦しんで学び、学びつつ苦しみながら、そのような「自暴自棄」の段階も通り過ぎていきました。

 苦しみや悲しみの経験は、魂の成長にとって、もっとも大切なことなのかも知れません。ただ、その前途には、必ず、希望の光が輝いていることを決して忘れないようにしたいものだと思います。長い年月を経て、私は、いまでは、妻や長男からも見守られていることを知るようになりました。まわりには、一人暮らしをしている私のことを、「淋しいだろう」と思っている人もいるようですが、私自身は、そういうことはありません。慶三君も愛情深いお母さんのことは、感謝しながら、そして、心配しながら、見守ってくれているはずです。お母さんが苦しむと、慶三君もつらい気持ちになりますから、慶三君によろこんでもらえるように、どうぞ、お健やかにお過ごしください。








 悲嘆の淵から立ち直るために (2004.04.03)


 武本先生

 いつも、先生のホームページを拝見させて頂いています。そして、心を癒しております。ただ、先生が羨ましく思う時があります。奥様と息子様を亡くし、長い時間自暴自棄でいた事が。だから、本当に心の底から、確信をもって霊界があることも分かるし、シルバーバーチの言葉も本当に理解できるのではと思うからです。

 私は、慶を亡くし本当に苦しい時期もありました。ただ、寝込む事はできませんでした。私には、守らないといけないもう一人の子供、そして、母がいました。仕事も無くしたらいけないし頑張らなければと思っていました。自分が何か中途半端に終わっているようで苦しくなる時があるのです。とことん子供の死の苦しみを味わいたいと。そこから、本当に何か生まれるのではないかと思ったりします。

 慶は、天国で頑張っていると思うのですが、ただ、逢いたいと思うのです。どうして、どうして自分の子供が、と思うのです。慶に逢いたい。でも、自分に課せられている意味を含め、慶に笑われないよう頑張らないといけないと思うのです。

 一方で、私も含めて皆この世の中から抹殺されればと、たまに思う時があります。そうかと思えば、小さい子供を虐待し死なせる親に怒りを覚える自分もいるのです。自分でもおかしいですね。そんな私ですが、本当にシルバーバーチの霊訓、先生の言葉にどれだけ救われたか分かりません。

 先生、お体を大事に、私と同様の皆様の力になってください。また、メールします。有難う御座いました。 慶の母
 






 
 素朴な古老たちのいのちをみる眼  (2004.04.02)


 NHKのドラマ「ちゅらさん」の再放送の一部を、昨夜のBS(2) でたまたま見ていましたら、沖縄県・小浜島の民宿のおばあさん(おばあ)と東京からやってきた「不治の病」をもつ小学生の(かずや)との会話が耳に入りました。沖縄特有の大きく立派なお墓の前での会話です。

 (おばあ)が、「沖縄では死んだあとの方が生きているときよりも、立派な家に住むんだ」というようなことを言っているのを聞いたあと、(かずや)が考え込むように、「人は死んだらどうなるんだろう?」とつぶやきます。不治の病に冒されているだけに、(かずや)は死ということばに対しても敏感になっているようでした。(おばあ)は、「死んでも魂は生きている人たちのそばにいるよ」と答えます。

 二人の会話は、それから、つぎのように続きました。

(かずや):「おばあ、おばあは死ぬのは怖くない?」
(おばあ):「ああ、怖くはないよ、少しも怖くはない。かずやくんは怖いの?」
(かずや):「怖くはない」
 ちょっと間をおいて、
(おばあ):「子どもはウソを言ってはいけないよ。死ぬのは怖くはないというのは、おじいやおばあの言うことだ。正直に言いなさい」
(かずや):「怖い、めちゃくちゃに怖い」

 このあとの会話は聞き漏らしましたが、(おばあ)が、「(人の命は)死んでからのほうが、長いかもしれないよ」と話します。ここで場面が変わって、死についての短い対話は、終わってしまいました。この15分間のドラマのなかでは、「死んだあとの方が立派な家に住む」、「魂は生きている人たちのそばにいる」、「死ぬのは怖くない」、「死んでからの方がいのちは長いかもしれない」などのことばが、たいへん意味深く、示唆に富んでいたように思います。

 シルバー・バーチなどを読んで、霊的真理に触れていますと、このような、何気ない普通の庶民の会話にも、少なからぬ興味を感じさせられます。もちろん、これはドラマで、フィクションである以上、作者の死生観の一部が表されているに過ぎませんが、しかし、こういう(おばあ)のいのちの本質を捉えた考え方は、沖縄のみならず、本州各地で、あるいは諸外国でも、特に老人や古老といわれるような人たちの間では、かなり普遍的に見られる現象ではないでしょうか。

 むかしは、というより、むかしであればあるほど、人間は、自然との接触の度合いが深く、森羅万象に畏敬を抱き、神の存在を本能的に感じ取っていたように思われます。それは、日本でも決して例外ではありません。むしろ、日本では、そういう傾向が顕著であったとさえいえます。それが、ここ百年ほどの間に、日本でも、どこの国でも、人間の素朴さは失われてきて、生活環境も自然から離れ、いちじるしく「近代的」になってきました。

 文明の発達というのは、ほとんど必然的に自然の破壊を伴いますが、その自然の破壊は、人間のこころの豊かさをも奪ってしまいます。その意味では、近代文明の発達とともに、人間の関心事もだんだん、こころから物質的なものに重点が移ってきて、霊的な目はそれだけ曇ってきている、という言い方もできるのかもしれません。


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