今年の手術後の私に残された課題        (2012.12.31)


 
今年もまもなく終わろうとしています。一年の最後の日ともなりますと、おそらく誰の胸にも、それぞれに過ぎ去った日々に対する何がしかの感慨がよぎるものと思われますが、私の場合は、やはり、二度の手術についての思いがよみがえります。7月3日に受けた大腸がんの手術と、10月15日の腹部動脈瘤の手術についてです。いずれも、決して軽い手術ではありませんでした。それらをなんとか無事にすませて、いま、この日を迎えているだけに、改めて生かされていることの意味についても考えさせられるようになりました。

 
自分に起こることはすべて必要なことが必然的に起こる。だから起こることはすべて本来、悪いことではないのだという考えがどこかにあって、私は手術の前も後も、割合穏やかな気持ちで過ごしてきました。いまも手術後の検診に病院通いは続けていますが、それ以外は、元通りの平常な生活を取り戻しています。ホームページの更新だけは、長年の間、日曜日を除いて毎日続けていたのを、入院を機に休んだり、退院後は隔日に減らして、それだけ余裕を持たせていただくことになりました。

 10月29日の本欄にも書きましたが、毎年初夏に一度しか花を開いてこなかったベランダのサボテンが、この入退院の時期と対応するように、今年に限って7回も花を開かせたことが、私にはとても不思議でした。私はいままでに何度か、奇跡とも思われるような不思議を経験してきましたが、このサボテンの開花もそのうちの一つに数えられそうです。病気から学び、生かされていることに感謝しながら、このサボテンの7回の開花の意味を理解していくことが、今年の私に残された課題でもあるような気がしています。



          
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 足ることを知って感謝する気持ちを忘れず    (2012.12.19)


 
もう大分昔になりますが、私が勤めていた大学の庶務課長さんから、奥さんの肺がんの話を聞いたことがあります。肺がんの末期で呼吸が苦しく死期も迫ってきて、庶務課長さんが「何かしてほしいことがあるか」と聞いたところ、奥さんはただ、「息を思い切り十分に吸ってから死にたい」と答えられたというのです。奥さんはまもなく亡くなられたのですが、息を吸って吐くというこの単純な当たり前に思えることが、奥さんにとっては叶えられぬ最後の望みであったことを知り、私は深く胸を打たれていました。

 いまも時々そのことを思い出しては、私は、息を吸って吐くことができるということが、本当に当たり前のことだろうかと考えることがあります。目が見える、手が動かせる、足が動いて歩けるなどということも、当たり前だろうか、本当は大いに感謝しなければならないことではないだろうかという気がしてならないのです。この間私が受けた腹部大動脈瘤の手術の前に、心臓にまでカテーテルを通して心臓から押し出される血流の流れを検査されたことがありました。その時に、心臓から流れ出ている何本もの血流のうち2本が細くなっていて、そのために私の心臓の動きは75パーセントに抑えられてしまっていると聞かされました。心臓が正常に働いてくれるのも、決して当たり前ではないようです。

 私は75パーセントも動いてくれれば有難いことだと思って、特に深刻になるようなことはありませんでした。75パーセントしか動かないと考えるか、75パーセントも動いてくれていると考えるのとでは大きな違いですが、50パーセント動いてくれてもおそらく感謝する人もいることでしょう。たまたま、「学びの栞B」(51-s) で、魂の波動を高めるためにはどうすればいいかと聞かれた高名な霊能者の一人が「難かしいことは全くありません。学問も知識も必要ありません。人は一人では生きられない。私は生かされている―。そのことを認識し、ありがとうという感謝の気持を表現すればいいのです。感謝することで魂の波動は上ります。実に簡単なことです」と答えていますが、これはよくわかります。魂の波動を高めることも大切ですが、感謝することを忘れたら、人は人でなくなるといってもいいのかもしれません。




          
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あまり不自由もなく続けられる日常生活の有難さ     (2012.11.28)


 
大韓航空機事件に関する私の著書、資料や1950年代のアメリカ留学時代のテキスト、ノート、文書類を、東京外国語大学文書館に保管してもらえることになって、今年の5月には、札幌へ出かけてそれらを保存している自宅の書庫で寄贈本の整理やリスト作りをしていました。その時は車でフェリーに乗って行ったのですが、1週間ほどで飛行機で東京へ引き返し、6月にはまた札幌へ出かけて、作業を続けるつもりにしていたのです。ところが、たまたま健康診断で見つかった大腸がんで、そのまま入院して手術を受けることになり、その後、腹部動脈瘤の手術も受けることになって、結局、11月まで動きが取れない状態が続いてしまいました。東京外国語大学の文書館へは、5月にダンボール一箱分の本や資料を送っただけで、6月にその残りの部分を送ることができなくなったことを私は気にしていました。

 10月24日に退院してからも、通院しながら私は担当の医師に、「1週間ほど札幌へ行かなければならない用事があるのですが旅行してもよろしいでしょうか」と聞いてみるつもりでした。しかし、考え直して聞くのはやめました。医者としては責任上、「構いません」とは言い難いだろうと思ったからです。まして、札幌に残してあった車に乗って帰るなどといえば、医者の立場では何か注意したくなるのが当たり前かも知れず、聞くだけでもご迷惑になるのではないかと思いました。それで私は、「無断で」札幌へ行くことにしたのです。先週の19日に飛行機で札幌へ飛んで、一週間のうちに文書館宛のダンボール箱2個分の書籍や資料を整理して発送をすませた上で、27日18時45分苫小牧発の大洗行フェリーに乗れるように予約しました。たまたま、昨日27日の札幌は低気圧の接近で暴風雪の予報が出ていましたので、一昨日26日のうちに苫小牧まで約65キロを走り、ホテルに一泊して昨日のフェリーに乗船しました。大洗着は約20時間後の午後2時半で、それから約175キロを走って、先程、夜6時過ぎに自宅へ戻ってきたところです。東京都内を横断するのに1時間ほど渋滞に巻き込まれましたが、私は長距離のドライブには慣れているほうで、この程度の距離を走るのに疲れを感じることはあまりありません。

 今度の旅行で、6月以来、気にかかっていた東京外国語大学文書館宛の書籍・資料等の発送が実行できて、少しほっとしています。来週には大腸がんの手術後の状況を CTで断層撮影して調べられるほか、その後には腹部動脈瘤の術後の検査も控えていますが、これまでのところは特に不調はないようです。ついこの間までは、生と死の挟間のなかで身動きもできない状態であったこともあるのに、今日ではこのホーム・ページの作成や公開などを含めて、あまり不自由なく、また日常生活が続けられるということが、今更のようにたいへん有難いことに思えます。



          
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  自分の手足が自由に動かせるということ    (2012.11.12)


 私が10月15日に全身麻酔をして受けた腹部動脈瘤の手術には4時間ほどかかったようです。手術室を出るときには、ストレッチャーの上で私はぼんやり意識を取り戻して目を開いていました。手術室の出口のところで、手術を担当してくださった先生方や看護師の方々が6名ほど私を見送るために一列に並んでいる姿が目に入ってきて、私は熱いものがこみあげてきました。ああ手術は終わったのだと気づきながら、辛うじて「有難うございました」とつぶやきました。手術室を出たところでは、手術の間じゅう待っていてくれた娘夫婦たちに出迎えられて、私は軽口を叩くだけの余裕もあったような気がします。目が見えるということ、口が利けるということは、そういう反応が示せる、そういうことができるということなのだと思います。

 しかし、そのまま集中治療室に移されて、私はまたしばらく眠ってしまったようです。目が覚めて改めて身のまわりを見てみますと、腹部、胸部、背中、首筋、手首などにビニール管が通され、鼻孔にも酸素吸入の管が差し込まれて、ほとんど身動き一つできません。ベッドの両サイドには体がずれ落ちるのを防止するための低い柵が立てられています。2段ベッドなどにつけられているようなあの低い柵ですが、低くてもその柵のなかに閉じ込められているような感じで、私は、どうあがいても自分の力ではその柵を越えることはできません。なにか必要なことがあれば、手許の救急ボタンを押して看護師さんに訴えることはできますが、自分自身の力では、全く何もできないのです。大腸がんの手術のあとの集中治療室でもそうでしたが、私は絶望的な無力感と孤独感のようなものをつくづく感じさせられていました。体が動かせないというのはそういうことなのでしょう。

 何日か経つにつれて、体のまわりから一本また一本と、ビニール管が抜き取られ、私はやっと自室のベッドの柵を倒して自分で少し歩けるようになりました。まだ点滴棒に繋がれてはいても、右手も左手も自由に動く。少しふらつきながらも右足も左足も自由に動かせる。体が動かせるということは実に有難いことだと思いました。トイレも一人で行けるようになって、ある日、トイレを掃除しているおばさんに、「ご苦労様です。時々トイレが流されていないことがあったりしますがお手数をおかけしますね」と私が声をかけますと、そのおばさんは穏やかな口調で、「トイレのレバーを押す力のない患者さんもおられますから」とだけ答えました。私ははっとしました。私自身が手も足も動かせず全く無力であった経験をもちながら、この重病人の少なくはない病棟の中で、トイレのレバーを押し下げる力のない患者さんのことにまで考え及ばなかったのです。おばさんの一声で、私は自分の未熟さを改めて思い知らされた気がしました。




          
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 三度目の入院の日の朝に開いたサボテンの花  (2012.10.29)

  
   2012年10月12日、入院の日の朝、7回目の花を
  開かせたベランダのサボテン。午前8時30分撮影。
   この写真を撮った後、家を出て入院したが、この花

 はこのあと3時間ほどで閉じてしまったはずである。


 本欄に「思いがけなく二度目の花を開かせたサボテン」を載せたのは、今年の7月20日でした。「一年に一日しか花を開かせてこなかったこのサボテンが、今年に限って、二度目の花を開かせることになろうとは、ちょっと信じられないような気がしていました」とその時私は書いています。ところが、実は、このサボテンの花は、今年はそれからも次から次へと開花を続けて、10月12日、最後の入院の日の朝、このように七回目の花を開かせて私を見送ってくれました。

 このサボテンの今年の開花の一回目は6月14日で、この翌日から大腸がんの検診を受けて、内視鏡検査でがんが発見されました。二回目の開花が前述の7月19日で、がんの切除手術を受けて退院してきた二日後のことです。ところが、このサボテンは、その後も、三回目・8月13日、四回目・8月20日、五回目・8月24日、六回目・9月23日、そして、10月12日には七回目がこのように開花したのです。写真によって改めてそれぞれの開花の日の前後を確かめて見ますと、退院後と入院前の一連の検査や診断で、重要な節目の日に当たっていることがわかります。

 年に一回しか開花してこなかったこのサボテンが、なぜ今年に限って七回も花開いたのか、そもそもサボテンに限らず花というのは、そんなに年に何回も開くものなのか、私にはよくわかりません。ただ、今年だけは私のこのサボテンは、6月15日の大腸がんの発見から、10月12日の腹部動脈瘤の手術のための入院に至るまで、今回の私の病気の経緯に付き添うように、花を開かせてきたというまぎれもない事実だけが私の目の前にあります。考えてみますと、二回の大きな手術の前も後も、私がなんの不安も怖れもなく穏やかに過してこれたのも、この純白の美しい花によっても見守られていたからかもしれません。




          
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   くよくよすることなく明るく生きていく      (2012.09.26)

 
 私は、留学時代を含めてアメリカ生活を3回経験していますが、そのアメリカ生活でアメリカ人から学んだことの一つは、苦しいことがあってもあまり悩んだりすることなく、明るく生きていく姿勢でした。

 たとえば、アメリカの大学は競争が激しく、一定の成績以下のものは、学期ごとにどんどん落第させていきます。私のいた頃では、無事に卒業できるのは、ほぼ二人に一人くらいでした。私が感心したのは、落第させられても学生たちは、深刻に悩む様子もなく明るいことで、ジョークを飛ばしたりしながら元気に去っていきます。就職してクビになってもあっさりやめていきますし、逆に、こちらから会社を「クビ」にして、もっと条件のいい会社を選ぶようなことも普通に行なわれていました。西部劇の映画などをみていても、死ぬ時でさえ深刻な暗さはなく、時にはジョークを残して息を引き取るというのも珍しくはないようです。

 そのようなアメリカ人の気質をあらわしているような「処世訓」を壁掛けにしたものを、むかしアメリカで手に入れていまでも持っていますが、「心配することなんか何もない」とタイトルをつけたその壁掛けには、つぎのようなことばが並んでいます。


 世の中で心配なのは二つだけです。健康か、病気かということだけです。
 あなたが健康なら、もちろん、なにも心配することはないでしょう。
 しかし、病気なら、心配しなければならないことが二つあります。
 その病気が治るか、でなければ死ぬかということです。
 病気が治るなら、なにも心配はいりません。
 でも、死んでしまうなら、心配しなければならないことが二つあります。
 天国へ行くか、地獄へ行くかということです。
 天国へ行くのであれば、あなたは何も心配することはありません。
 けれでも、地獄へ行くことになっても、そこには友だちがいっぱいいるので、
 あなたは握手をしてまわるのに忙しく、とても心配なんてしている暇はないでしょう。



  誰が書いたのかわかりませんが、その原文はこうです。


     “WHY WORRY?”

   There are only two things to worry about
    ― either you are well or you are sick.
   If you are well, then there is nothing to worry about.
   But if you are sick, there are two things to worry about.
   Either you will get well or you will die.
   If you get well there is nothing to worry about.
   If you die there are only two things to worry about
   ― either you will go to Heaven or Hell.
   If you go to Heaven there is nothing to worry about.
   But if you go to Hell, you’ll be so damn busy
    shaking hands with friends,
    you won’t have time to worry.



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   6月以来の繰り返される入院と退院    (2012.09.14)


  一週間の検査入院が終わって退院しましたが、今度は来月中旬にまた入院して、腹部大動脈瘤の手術を受ける予定です。大動脈の手術というのは、心臓と直結しているだけになかなかデリケートで、心臓のなかまで管を差し込んで、心臓の圧力、弁の逆流、狭窄の程度や、血管の状況などが調べられたほか、頭部のCT、頚動脈のエコーなどに至るまで、さまざまな検査を受けてきました。

 私はいままで何十年もの間、重い病気にはかかったことがなかったので、病気については今年はまとめて、いろいろと新しい体験をさせられている状況です。82年も生きてきますと、年齢相応の不具合な箇所も出てくるのはいわば当たり前で、医者に対しては、ついこころのなかで、「私は気にしていませんのでほどほどにして下さい」と言いたくなったりもします。7月3日に大腸がんの手術が終わった後も、念のため、抗がん剤を服用したほうがいいといわれていますが、私はまだ受け容れていません。

 ただ、入退院を繰り返していますと、つくづく、家族の有難さを感じさせられます。私は長年、一人暮らしをしていて、生活上のすべてを一人で処理することに慣れてきましたが、今年6月の入院以来は否応なく、娘夫婦や二人の孫たちに、大きく支えられるようになりました。今でも私は、大病になったのは私の責任で、健康管理上不行き届きがあったからだと思っていますから娘には頭があがらす、病院への送り迎えや、手術や重要な検査の立会い、通院の場合の付き添いなど、すべて私は娘にコントロールされながら、ひたすらに、おとなしく従っています。この状態は、次の入院と退院が終わるまで、こらからもしばらくは続きそうです。




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     「あの日」から過ぎていった29年の歳月        (2012.09.01)


  
    稚内宗谷岬の丘の上に建てられた「祈りの塔」の碑文。
     19.83メートルの塔を中心にしてこの左側には乗員乗客269名
     の名前が石に刻み込まれている (1985.09.01 筆者撮影)



 「世界史の転換点」ともいわれた大韓航空機事件が発生したのは、日本時間で1983年9月1日の早朝であった。あれから、29年の歳月が流れた。妻と長男を奪われて、私は、アメリカの大学での教職を中断して娘と共に帰国したが、しばらくは寝たきりの病人のような状態が続いた。あまりにも不自然で理不尽な事件であっただけに、その後、耐えがたい悲嘆と深い絶望のなかで、遺族の一人として、この事件の真相解明にも取り組んでいかねばならなかったのは、二重の苦しみであった。

  私は、長い間、妻と長男の死が受け容れられず、葬式もまともにしなかった。葬式をするということに耐えられなかった。事件後2年目にして、事件現場をはるかに見渡せるような稚内の宗谷岬の丘の上に、遺族会で犠牲者を慰霊するための「祈りの塔」を建立したが、その頃もまだ、深い絶望の淵に沈んでいた。私は、暗い気持ちで「祈りの塔」の前での慰霊祭に臨んだ。その「祈りの塔」の脇には碑文が石に刻み込まれている。その碑文のために、私は、つぎのような原案を書いていた。


          愛と誓いを捧げる

  愛しい人たちよ、1983年9月1日の未明、あなた方を乗せた大韓航空007便は安全運航の責任と義務を完全に放棄し、定められた航路から500キロも外れて故意にソ連領空を侵犯しました。そのためにソ連迎撃機のミサイルで撃墜され、何の罪もないあなた方まで犠牲にされてしまったのです。

 アメリカ政府と軍部はこの領空侵犯を熟知していて、はじめから終わりまで克明に追っていたはずであったのに、なぜ警告して救おうとはしなかったのでしょうか。ソ連政府と軍部はこの航路逸脱を二時間半にわたって捉えていながら、どうして軍用機と間違えて撃墜してしまったというのでしょうか。

 愛しい人たちよ、あなた方の生きる喜びを無残にも奪い去った大韓航空と米ソの人命軽視を私たちはあくまでも糾弾し、事件の真相を明らかにしていくことを誓います。あなた方の犠牲を決して無駄にさせないためにも、いのちの重みと平和の尊さを広く世界の人々に訴えていくことを誓います。

 愛しい人たちよ、どうかいつまでも安らかにお眠りください。



 しかし、この碑文案は、墜落現場のモネロン島附近をはるかに見下ろすその慰霊碑の丘が国有地であるからという理由で、アメリカに気を遣う外務省や、ソ連を刺激したくない稚内市の意向等、諸般の深刻な事情から妥協を迫られ、この原文から、人命軽視の責任追及も真相究明の誓いも削除されて骨抜きの形にされてしまった。それが、この写真の碑文である。私は、なかば自暴自棄になってしまっていた。どうあがいても、失われたいのちは返ってこない。碑文なども、もうどうでもいいような気持ちにさせられていた。

 事件が起きた「あの日」からすでに29年、この「祈りの塔」が建立されてからも27年が過ぎた。私は、毎年、9月1日を迎えるたびに、この碑文を見て、古傷が疼くような深い感慨を覚える。長い道のりであった。本当に苦しかった。ひとかけらの希望もなく、いつも絶望感に付きまとわれていた。しかし、結局、それらは無駄ではなかった。本当は、あれほど悲しむべきことではなかった。私にとっては必要な試練であったのである。いまは、しみじみとそう思う。そしてやはり、宇宙を経綸する大いなる存在に感謝を捧げずにはおられない。

 この碑文を読み直していて、「愛しい人たちよ、どうかいつまでも安らかにお眠りください」と、ふとつぶやいてみたりする。いまの私なら、このようには書かないだろうなあと、頭の片隅で思ったりしながら。




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     NHKが取り上げた「天国からのお迎え    (2012.08.30)


 昨日(8月29日)の「NHKクローズアップ現代」で、「天国からの”お迎え”―穏やかな最期とは」が放映されました。国谷裕子さんがキャスターを務めるこの人気番組で、このようなタイトルのものが放映されるのは、おそらく極めて異例で、全国でこの番組をご覧になった方々は膨大な数に上ると思われます。

 この番組によると、今年の春、宮城県、福島県で自宅あるいは介護施設で亡くなっていった家族を看取った570人を対象にアンケート調査が行なわれ、お迎え現象について「本格的な学術調査」の結果が発表されたのだそうです。そのなかで、亡くなった自分の家族がお迎え現象を体験したと答えた人は4割にものぼりました。10人に4人の割合で、すでに亡くなっている両親が枕元に立ったり、7年前に他界していた親友が訪れてきたり、亡くなっていたペットが現われたりしたと答えています。そして、そのようなお迎えを体験した家族のうちの9割は、死の恐怖から解放されて穏やかな最期を迎えたともいわれています。

 国谷さんは、「さまざまな延命治療を推し進めてきた医療現場は、自然で穏やかな死への道筋を見落としてきたのではないか。お迎え現象の調査を機に、医師たちの看取りに対する意識も変わり始めています」と解説していましたが、その後に画面に出てきた、自らもがんを患う緩和ケアを担当する医師は、こう述べていました。「人工臓器をくっつけて最期の時期をなんとか延ばそうなんて、とんでもない間違いを我々はやり始めたんじゃないかな」。

 しかし、それでもまだ、霊的知識の領域にまでは踏み込めないようです。この番組に顔を出している終末期医療(ターミナル・ケア)の医師たちの、「お迎え」に対する感想を聞いていますと、相変わらず大脳レベルの分析だけで終わったりしています。ターミナル・ケアに従事しているのなら、たとえば、大先輩であるはずのキュブラー・ロスの本は読んでいないのだろうか、あるいは、シルバー・バーチの本を一冊でも読んでいれば少しは捉え方が変わってくるのではないかと、思ったりもしましたが、それがいまの日本での、NHKと出演者の限界であったのかもしれません。




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    この世とあの世の狭間で揺れ動くいのち     (2012.08.03)

  
  小学校1年生の孫の夏奈子(7歳)が
   手術の前に病室へ届けてくれた絵

   原画はA4版 (2012.07.01)

 私はかかりつけの医院で、6月のはじめに年一回の定期検診を受けた結果、大腸がんであることを告げられても、あまり驚ろかなかった。特に恐怖も感じなかった。院長は、わざわざ診察室とは別の自分の個室へ私を招き入れて、改まった様子で、専門の病院に入院して手術を受けなければならないと言ったのだが、私は、こんな時にはショックを受けたような顔をしなければならないのかなぁー、とぼんやり思ったりしていた。

 私は82年も生きてきて、するべき仕事も自分なりにしてきたつもりだから、もうこの辺であの世へ行くことになっても、少しも不自然ではない。むしろ、あの世へ行くことになって、急に慌てたりすることがあれば、そのほうが不自然である。「見るべきほどのことは見」てきて、「足るを知る」ことも心得ているつもりだし、何よりも、シルバー・バーチや霊界の家族たちから、あの世の様子をいろいろと教えられてきた。あの世で、私がどの辺の階層に住むことになるのかについても、少しは理解がある。あの世は、私にとって、決して全くの未知の世界ではないのである。

 手術のために入院したのは6月25日であったが、6月のはじめには、霊界通信で、長男の潔典たちが、私の歓迎準備をしていることを知らされていた。潔典が、「お父さん、もうそろそろ、こちらへ来ることにしたらどうですか」と言っているような気がする。私も、「そうだね、もうそろそろ行く頃だね」と、こころの中で答えている。ただ、いま私が強く意識させられるようになったのは、少しでも長く私をこの世に引き留めておきたいと願う娘夫婦や二人の孫たちの、真剣な眼差しである。

 事件で私は、妻と長男を失い、ひとり残った娘の結婚もかなり遅れた。双子の孫の誕生は何よりも喜ばしく有難かったが、その誕生も思いのほか遅れた。その二人の孫は、いまは7歳になって、今年の4月からは小学校に通いはじめている。孫たちは、私が入院することを母親から聞かされると、二人とも泣きだしたらしい。私はそれを聞いて、しんみりした気持ちになった。私の孫は、この二人だけである。祖父の病気や死亡を体験させるのも、人生の大切な学習の一つだが、私にもう少し時間が与えられるのであれば、この孫たちに、病気や死についても、明るく乗り越えていけるような話をしておきたいというささやかな願望までは、捨て切れていない。

 娘は、いま、手術後の私の食事を毎日のように私のところまで運んでくる。私は娘たちの家から歩いて数分のところで一人暮らしをしていて、いつも行き来はしていたが、手術後は動きが鈍くなった。娘によれば、病気になるのはやはり私の食事の取り方に問題があったからだという。私も、病気というのは、精神と肉体との調和が正しく保たれていないから起こるもので、本当は、病気になるのは恥ずかしいことだとも思ったりしているから、大腸がんと、その後に見つかった動脈瘤という二つの大きな「失態」を重ねてしまっては、娘に頭が上がらない。娘はいま、強い力で私をコントロールしていて、病院関係の手続きや連絡はすべて私に代わってするほか、通院して診察を受ける場合でも、必ずついてくる。これから受ける動脈瘤の手術についても、いろいろと情報を集めているらしい。

 私があの世へ行く時機は、天界ではほぼ決められていることで、多分、若干の「微調整」だけが可能性としては残されているのであろう。私は、すべてを天界にお任せして、こころ穏やかに過ごしているが、娘夫婦や孫たちの強い牽引力が、この天界の「微調整」にほんの少しは影響を及ぼしていくことがあるかもしれない。ここでひとつ、「爺馬鹿」ぶりをご披露することをお許しいただきたいのだが、手術の前に病室へ見舞いに来た孫の一人の夏奈子は、冒頭の写真のように、「おじいちゃん、がんばってね! たいようがのぼるよ!」と書いた絵をくれた。あの幼い7歳の子がこころの片隅で、どのようにして「太陽が昇るよ」という発想を紡ぎだしたのか、ちょっと不思議な気もするが、おそらく、このように純真無垢なことばのもつエネルギーは、充分に天界に届くほど強力である。私は、あの世で待ってくれている潔典たちと、この世に引き留めておこうとして必死になっている娘たちとの狭間のなかで、二つの世界の家族の愛情にこころから感謝しながら、満ち足りた静かな気持ちで、いわば、天界の「判定」を待っているところである。




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 思いがけなく二度目の花を開かせたサボテン (2012.07.20)

 
 前回6月15日に二輪花開いたその少し
 下のほうで、2度目の花が開いた。

  (2012.07.19.午前10時筆者撮影)


 大腸がんの手術を終えて退院したのは7月17日でしたが、その翌日、ベランダのサボテンが芽をひとつふくらませて開花の準備をしている様子でした。前回、この欄で、6月15日に開花したサボテンの花をご紹介しましたが、一年に一日しか花を開かせてこなかったこのサボテンが、今年に限って、一か月後に二度目の花を開かせることになろうとは、ちょっと信じられないような気がしていました。

 しかし、翌日、7月19日の朝、私のサボテンはこのように、二度目のきれいな花を見せてくれました。朝8時ごろに開き始めて、11時ごろにはもう閉じてしまいましたから、たった3時間の花のいのちということになります。この写真は、10時頃に撮った一枚です。

 7月3日に手術を受けた後は、集中治療室で一夜を明かしましたが、ふと意識を取り戻しますと、背中、腕、わき腹から鼻のなかまでチューブが通され、体はずっしりと重くベッドに沈みこんで、ほとんど身動き一つできず、ことばも口に出せない状態でした。あれが私の肉体の生から一番遠い姿であったのかもしれません。

 まったく思いがけずに、大腸がんの手術を受けることになって、それが何とか終わりますと、体力の回復を待って、今度は動脈瘤の手術ということになるようです。このホームページの更新などを含めて、いろいろと毎日の仕事に支障がでるのは少し厄介ですが、気分的には、何の不安や恐れを感じることもなく、おだやかな日々を過ごしています。「足るを知る」ということばがありますが、たった3時間だけ花を開かせて見せてくれたこのサボテンの花は、改めて、私にそのことの意味を教えてくれているような気がしています。






過去の寸感・短信
 2012年1月〜6月
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