「今日の言葉」 2006 (7月- 12月) 147. 「宗教そのものは教会とは何の関係もありません」 (12.25) シルバー・バーチが常に強調しているのが霊力の偉大さである。「霊的な力は人間が製造しうるいかなる物的な力よりも強大です。物質は本性そのものが霊に劣るのです。霊が王様で物質は召使いです。霊こそ実在であり、物質は霊の働きかけがあるからこそ存在できているのです」と言い(栞A29-r)、さらに、「私たちは霊力そのものに全幅の信頼を置き、それを唯一の拠り所としております。それが善意の人々を鼓舞し、授かっている才能を駆使して同胞のために役立たせるよう導きます」とも述べている。(栞A6-o) その霊力は、幾世紀にもわたってその時代の宗教を通して顕現しようとしてきた。それを受け入れる霊能者や霊媒は必ずどこかにいた。「その人たちが行ったことを無知な人は“奇跡”だと思いましたが、それこそが霊的法則の生々しい顕現のしるしだったのです。それは今日有能な霊媒による交霊会で見る現象や治療家による奇跡的な治療と同じで、人間を通して霊力が働いたその結果なのです。不変・不滅の大霊から出る同じ霊力なのです。簡単なことなのです」とシルバー・バーチは霊力の存在を力説する。(栞A6-g) つまり、本来の宗教とは、霊力と切り離すことができないのである。 ところが現実の殆どの宗教はそうではない。「いま霊の力がいちばん見られなくなっている場所は、皮肉にも、本来そこにこそ存在しなければならないはずの宗教界です。最高の位階に到達した者ですら、宗教の本来の起源であり基盤であるべき霊力に背を向け、われわれには不可解きわまる理由から、生きた霊的真理よりもただの形骸の方を後生大事にしています」とシルバー・バーチは嘆く。(栞A6-e) おそらく現代の宗教の多くが人を救う力を持たないのは、指導者たちが、霊力の証しを見たことも聞いたこともなく、したがって人に説くこともできないからであろう。シルバー・バーチは、はっきりと、「肝心の霊的・精神的指導者たるべき人たちが、霊的実在について無知なのです」と断じている。(栞A6-q) 壮大華麗な教会や寺院に美しさを感じても、それは単なる美意識の反応であって、その美しさが神聖さを生み出すわけではない。シルバー・バーチは敢えて言う。「宗教そのものは教会とは何の関係もありません。勿体ぶった神学的言説に基づく行事をしたり信仰を告白したりすることではありません。教会でワインを飲んだからといって、他の場所でワインを飲むよりも"宗教的"であるわけではありません。宗教的であることは宇宙の大霊の一部である自分を少しでもその大霊の御心に近づけることです。内部の神性を発揮する上でプラスになることをすることが宗教です。」(栞A6-b) 146. 地球全体を破滅させるほどの力は地上には存在しません」 (12.18) 「人間は地上をエデンの園、楽園、天国にすることもできれば、暗く荒涼とした、恐ろしい悪の園にすることもできます。そこに選択の余地が残されているのです」とシルバー・バーチは語っている。(栞A77-n) その選択の余地が残されているのに、人間は太古の昔から、決して賢明な選択をしてこなかった。現代になっても、戦争と暴力の根は絶たず、貪欲、情欲、利己主義が幅を利かして、地上世界は暗雲で覆われてしまっているかのように見える。それも、人間が物質中心の考え方を加速させてきたからである。 なぜ人間は物質中心主義になるのか。それは、「これほど多くの宗教が存在しながら大半の人間が肉体が死ねばすべておしまいと思っているからです」とシルバー・バーチは言う。そして、こう続けた。「死後にも実感をともなった生活―地上生活の賞罰が清算される世界が存在するという事実が信じられず、地上生活が唯一の生活の場であると考えます。すると当然、物質がすべてなら今のうちに思い切り欲望を満足させておこう、ということになります。それが戦争を生み、憎み合い、征服し合い、殺し合うことになります」。(栞A77-n) 一体、地球の将来はどうなっていくのか。現状の深刻さから明るい展望を持てずに不安に思っている人たちは決して少なくはないであろう。その状況を認めつつも、シルバー・バーチは、「地球の最期、人類の終焉が近づきつつあるかの予言や警告に耳を貸してはなりません」と言って、次のように神の摂理を伝えてくれている。「神は地上の人間によってもたらされる破壊や損害にも限界をもうけております。地球全体を破滅させるほどの力は地上には存在しません。人類全体を殺りくするほどの力は存在しません。人間がいかに複雑で性能のいい科学技術を発明しても、それによって為しうることにはおのずから限界があります。」(栞A29-r) さらに、シルバー・バーチは、不安を拭いきれない私たちに「明日はどうなるかを案じてはいけません」とここでも繰り返した。そして、つぎのように諭した。「怖がってはいけません。神の意志は必ず成就されるのです。将来への展望には自信と楽観と積極性をもって、ご自分の役目を果たすことに専念なさることです。恐怖心、心配、不安、こうした霊力の働きかけを止め無気力にさせるようなものは、いっさい棄て去ってください。私たちから要求するのはそれだけです。出来るかぎりのことをなさっていればよいのです。それ以上のことは出来るわけがないのですから。」(栞A22-f) 145. 「しくじるということは立ち直れることを意味します」 (12.11) アメリカからはるばるやって来た二人の牧師に対する歓迎のことばのなかで、シルバー・バーチは次のように言った。「自分を取り囲む事情が険しくなってきた時― 暗黒が低く垂れこめ、稲光が走り、雷鳴が轟きはじめた時は、心を静かにして、これまで自分を導いてきた力はきっとこれからも導き続けて、次に進むべき道を示してくれるはずだという確信をもつことです。」そしてこう続けた。「力強く前進なさい。最善を尽くすことです。それ以上のものは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよろしい。しくじるということは立ち直れることを意味します。」(栞A12-zr) 「しくじることは立ち直れることを意味する」というのは、実に斬新に聞こえるが、自然の摂理によって、しくじってもすべての人間には必ずやり直しのチャンスが与えられているのである。シルバー・バーチは、それをこう言う。「やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終るとしたら、この世は正に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。私どもが地上の人々にもたらすことの出来る最高の霊的知識は、人生は死でもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことが出来るということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。」(栞A10-f) これらの苦しみ、失敗、屈辱などの「悔し涙」を経験しても、「まだまだ地上の人類はそれらが存在する理由を理解していない」とシルバー・バーチは嘆く。そして言う。「その一つひとつが霊的進化の上で大切な機能を果たしているのです。ご自分の人生を握り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先まっ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。日向でのんびりとくつろぎ、何の心配も何の気苦労も何の不安もなく、面倒なことが持ち上がりそうになっても自動的に解消されてあなたに何の影響も及ぼさず、足もとに石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つ無いような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。」(栞A18-f) 恐らく私たちは、霊性向上に必要な苦しみや悲しみを体験するためにこの世に生まれてきたのであろう。「人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまぎまな体験を積むということです」ということになる。私たちは、さまざまな決して楽ではない体験をするために、そのための道具としての身体をこの地上で授けられた。だからこそ、私たちが「その教訓を学ばずに終れば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります」とシルバー・バーチは説いているのである。(栞A56-a) 144.「私はイエスに何度もお会いしております」 (12.04) イエスが空前絶後の偉大な霊能者で、生前は人類救済の大事業にたずさわっていたことはよく知られているが、その大事業がいまも霊界で、イエスによって継続されていることを知る人は少ない。イエスは今でも、霊的真理を地上に普及させていくという地球浄化計画の総指揮者なのである。ある時の交霊会に出席した英国国教会の牧師が、「あなたはそのイエスに、霊界でお会いになったことがありますか」と、シルバー・バーチに訊いた。シルバー・バーチは答えた。 「あります。何度もお会いしております。このことはこのサークルの皆さんにはすでにお話してあります。定期的にクリスマス(冬至)とイースター(夏至)の二度、この地上から引き上げて、そのイエスが主催される大集会に参列する際に拝謁しております。今イエスは二千年前にご自身が身をもって示しながら、その信奉者をもって任ずる人々によって台なしにされてしまった霊的真理の普及にたずさわっておられます。」(栞A12-zp) そして、次のように続けた。 「(イエスの)その働きによって、二千年前にイエスを通じて顕現したのと同じ霊力による現象(心霊現象および病気治療)を伴って、その霊的真理が地上に蘇りつつあります。イエスにとって、又その輩下の神霊にとって、地上の宗教界の指導的立場にある者が基本的な真理について救いようのないほど無知である様子を見ることほど嘆かわしい思いをさせられるものはありません。」(栞A12-zp) そして、イエスの名の下に行われた数々の歴史上の残虐行為などに対しては、イエスが「何度涙を流されたか知れません」とも洩らしている。(栞A12-zf) そのイエスは、どういうお顔の方であったのだろうか。シルバー・バーチは、「地上の画家が描いている肖像とは似ていません。伝道時代に行動を共にした人たちとよく似ておりました。もし似ていなかったら使命は果たせなかったでしょう」と言っている。(栞A12-zf) つまり、イエスの容貌は、平凡な一ユダヤ人であった。しばしば神格化されるが、それは誤った見方なのである。シルバー・バーチは、そのことをこう強調する。「イエス・キリストを真実の視点で捉えなくてはいけません。すなわちイエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕であったということです。あなた方もイエスの為せる業のすべてを、あるいはそれ以上のことを、為そうと思えば為せるのです。」(栞A12-b) 143. 「バラ色の人生ではだめなのです」 (11.27) シルバー・バーチはある時の交霊会で、安易な生き方が幸せではないことを、こう語った。「大部分の人間の魂は居睡りをしております。活動していないということです。内在する神性の火花を煽らないことには魂の啓発はできないのです。その点火の触媒となるのが危機的体験であり、悲しみであり、別離であり、病気なのです。」そして、続けた。「人生は相対性の原理でできあがっております。スペクトルの両極、コインの両面、あなた方が“善”と呼んでいるものと“悪”と呼んでいるもの、という具合です。いかなる経験にも魂を目覚めさせる上で役立つものを含んでおります。バラ色の人生ではだめなのです。」(栞A29-w) 人生の目的は、物質の世界でさまざまな苦難を体験することである。それらの体験は、私たちが再び霊界へ還っていったとき、そこで待ち受ける仕事と楽しみを享受する資格を与えてくれる。しかし、「バラ色の人生」では、その資格を身につけることは難しい。「光の中ばかりで暮らしておれは光の有難さは分かりません。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。こちらの世界で幸せが味わえる資格を身につけるためには、そちらの世界での苦労を十分に体験しなければなりません。果たすべき義務を中途で投げ出してこちらへ来た者は、こちらで用意している喜びを味わうことはできません。少なくとも永続的な幸せは得られません」とシルバー・バーチは説く。(栞A56-a) この苦労の効用を充分に理解するのはなかなか容易ではない。そのような私たちにシルバー・バーチはさらに語りかける。「人生の目的と可能性についての理解をもたらしてくれるのは、その両極性です。愛と憎しみは正反対であると同時に相等しいものです。愛を憎しみに変えることができるように、憎しみを愛に変えることもできます。鋼が溶鉱炉から取り出されて鍛えられるように、金塊が製錬されてはじめて純金となるように、ダイヤモンドが磨かれてはじめて輝きを見せるように、魂も辛酸をなめてはじめて其の自我に目覚めるのです。それ以外に、地上で魂が目覚めそして活動を開始するための手段はありません。」そして、「苦痛や困難は不幸なことのように思われがちですが、本当はそうではありません。各自の霊的進化にとってそれなりの役割があるのです」とも言った。(栞A16-zf) それだけに、各自の霊的進化は、各自が抱える苦痛や困難を各自がどう処理していくかにかかってくる。霊界からの霊力がいくら強大なものであっても、それに頼ってはならないこともあるのだ。シルバー・バーチは援助できない場合の苦衷をつぎのように披瀝している。「私たちが地上の人間を指導するに当たっていちばん辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢えて傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、側から手出しをしてはならないことがあるのです。首尾よく本人が勝利を収めれば、それは私たちの勝利でもあります。挫折すれば私たちの敗北でもあります。いついかなる時も私たちにとっての闘いでもあるのです。それでいて指一本援助してはならないことがあるのです。」(栞A47-f) 142. 「生き続けたくないと思ってもあなたは生き続けます」 (11.20) ある時の交霊会に招待された人が、「死後の生命の存在を立証しようとすると、いろいろと不可解に思えることが生じてきます。存続するというのは一種のエネルギーとしてでしょうか、思念としてでしょうか。それともそれは今のわれわれと同じような、何らかの身体を具えたものなのでしょうか」と質問した。シルバー・バーチは答えた。「死後の生命とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、はたして死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。」(栞A2-y) そのうえで、シルバー・バーチは次のように続けた。「霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私たちは人間のその五感に限られた状態で理解できる範囲を超えた次元で生活しているからです。言語というのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるにはまったく無力です。死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上に無いので、うまく言い表せないのです。強いて言えば、本来の自我の開発を望む人たちの憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。経済問題がありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体でなく魂が関心のすべてだからです。」(栞A2-y) 別のところではシルバー・バーチは、「死後存続の証拠はもう充分に提供されている」と断じているが(栞A2-k)、確信の持てない人に対しては、さまざまな言い方をしている。次のように四季の移り変わりになぞらえたこともある。「大自然の壮観と同じものが一人ひとりの魂において展開しているのです。まず意識の目覚めとともに春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰えはじめる秋となり、そして疲れはてた魂に冬の休眠の時が訪れます。しかし、それですべてが終りとなるのではありません。それは物的生命の終りです。冬が終わるとその魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。この教訓を大自然から学びとってください。」(栞A2-i) 霊界に3千年生きてきて、死後の世界を熟知しているシルバー・バーチにとっては、死を忌み嫌う人間の迷妄がいかにも心外のようである。「肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる」と嘆じてもいる。(栞A2-b) また、一方では次のように、人間は生き続けることを感動的なことばで強調したこともあった。「物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。(栞A2-u) 141. 「間違いを犯す人間だから地上に来ているのです」 (11.13) シルバー・バーチがコペンハーゲンで開催された国際スピリチュアリスト連盟の総会で、評議会員たちを前にして講演したとき、ある評議員が、「一般世間への普及活動において私たちは何か大きな間違いを犯していないでしょうか。もし犯していたらご教示をお願いしたいのですが」と訊ねた。シルバー・バーチはこう答えた。「もしもあなたが何一つ間違いを犯さない人だったら、あなたは今この地上にはいらっしゃらないはずです。間違いを犯す人間だから地上に来ているのです。しくじってはそこから教訓を学ぶのです。もしもしくじらないほど完全な人間だったら、物質界に生まれてくる必要はありません。」(栞A40-h) このように、シルバー・バーチは、人間は不完全だからこそこの世に生まれてくるのだと、しばしば繰り返している。つぎのように言ったこともある。「あなた方は内部に完全性を秘めそれを発揮せんとしている未完の存在です。地上生活においては物質と霊との間がしっくりいかず常に葛藤が続いている以上、あなた方は当然のことながら罪を犯すことになります。私はこれを "過ち" とよぶ方を好みます。もし過ちを犯さなくなったら、地上にも私どもの世界にも誰一人存在しなくなります。あなた方が地上という世界に来たのは、霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。」(栞A56-a) つまり、この地上でも霊界でも、不完全と過ちはつきものである。「あなた方は人間です。完全ではありません。完全は地上では絶対に達成されません。こちらの世界でも達成されません」と、シルバー・バーチは「不完全」を強調する。(栞A79-k) そして、自分のことを含めてこうも言った。「私は絶対に過ちを犯さない、進化の頂上をきわめた霊ではありません。そういうことは有り得ないことです。進化というのは永遠に続く過程だからです。これで完全です、というピリオドはないのです。向上すればするほど、まだその先に向上の余地があることを知るのです。」(栞A39-r) 不完全な人間は、また、真理のすべてを手にすることもあり得ない。永遠不滅の真理は無限だからである。それゆえに、真理の探究も無限に続くことになる。「あなた方はそちらの地上において、私はこちらの世界において、真理の公道を旅する巡礼の仲間であり、他の者より少し先を歩んでいる者もいますが、究極のゴールにたどり着いた者は一人もいません」と、シルバー・バーチは言う。そしてこう続けた。「不完全さが減少するにつれて霊的資質が増し、当然の結果として、それまで手にすることのできなかった高度の真理を受け入れることができるようになります。」(栞A13-b) 140. 「自由意志が与えられていますが、それにも限界があります」 (11.06) ある時の交霊会でメンバーの一人が「人類はいつかは戦争のない平和な暮らしができるようになるでしょうか」と訊いた。それに対してシルバー・バーチは、それは、「難しい問題です」と前置きしたうえで、「まず理解していただかねばならないのは、神は人間に自由意志というものを授けられているということです」と言った。神は、人間に自由意志を与えず、ただの操り人形にすることもできたのである。しかし、神は、人間に自由意志による選択の余地を与えることによって、人間も永遠の創造的進化の過程に参加する機会をもてるようにした。(栞A77-n) だから,「人間は地上をエデンの園、楽園、天国にすることもできれば、暗く荒涼とした、恐ろしい悪の園にすることもできます。そこに選択の余地が残されているのです」ということになる。ところがその自由意志を与えられた人類は、決して賢明な選択をしてはこなかった。今でも、大半の人間が肉体が死ねばすべておしまいと思っているから、利己主義がはびこり、生きているうちに欲望のすべてをできるだけ満足させようとする。それが戦争を生み、憎み合い、征服し合い、一方では、地球を破滅へ陥れるのではないかと思える恐ろしい兵器や爆弾を次々とこしらえてしまう。「人類は今まさに危機の十字路に立たされている」のである。(栞A24-v) しかし、神は、無制限の自由意志を人間に与えたわけではない。「自由意志が与えられていますが、それにも限界があります」とシルバー・バーチは言う。(栞A24-v) 「もしもそうした限界がなかったら、この地球をはじめとして物的宇宙全体が基盤としている原理のすべてを人間が破壊してしまうこともできることになる」からである。(栞A58-y) したがって、地球は確かに危機に瀕しているが、一夜のうちに破滅することはない。昔から人間は地球の悲劇の予言をいくつもしてきて、なかには、地球の終末の日時まで告げているものもあったが、それらはすべて、正しくはなかった。 要するに、人間の力は神の規制を超えることはできない。それを、シルバー・バーチは別のところで、つぎのようにも述べている。「たった一人の人間によっては無論のこと、何人の人がいっしょになっても、地球を破壊する力は持てませんから、地球はこれからも永遠に存在し続けます。地球にもたらす害にも、それを引き起こす手段にも、地球の存在自体に終止符を打たせるほどの規模にはならないように一定の限界というものが設けられています。」(栞A22-f) 139. 「お金が足りなければ工面してあげます」 (10.30) 私たちは常に霊界から見守られており、必要に応じて、私たちを導き救うための霊力が働く。しかし、霊力といっても目に見えるものではないだけに、それを理解し実感することはむつかしい。半信半疑で、霊界から援助されるようなことが本当にあるのかと思ったりする。しかしシルバー・バーチは言う。「霊的な力は人間が製造しうるいかなる物的な力よりも強大です。物質は本性そのものが霊に劣るのです。霊が王様で物質は召使いです。霊こそ実在であり、物質は霊の働きかけがあるからこそ存在できているのです。霊が引っ込めば物質は分解します。人類がその危機的段階を首尾よく切り抜ける上で霊が圧倒的な支えとなります。」(栞A29-r) あるとき、シルバー・バーチは交霊会を訪れた一人の霊能者に、こう言った。「背後霊の存在を信じることです。機が熟した時に必要な援助があります。条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果を生じさせる力があります。私たちもそれを何度もお見せしてきました。これからも必要に応じて行使します。」そういった後で、「霊の道具としての仕事に励んでいる者は、物的生活の必需品に事欠くことには決してなりません。こちらから用意してあげます。飢えに苦しむようなことにはなりません。渇きに苦しむようなことにはなりません。きっと何とか切り抜けられるものです」とも述べた。「お金が足りなければ工面してあげます。せっかくの奇特な行為のチャンスが資金がないために失われるようなことには決してなりません」とさえ、確言している。(栞A29-r) シルバー・バーチは、この霊能者に、「必要なだけの資金は不思議にどこからか入るものだと思われたことはありませんか」と訊いたりしているが、これは勿論、背後霊が「地上に物的な結果を生じさせる力」を行使しているからである。そして、言うまでもなく、このような霊界からの霊力の援助は、霊能者に対してだけに限られるものではない。「目に見えようと見えまいと、耳に聞こえようと聞こえまいと、手に触れられようと触れられまいと、あなた方を導き、援助し、支えんとする力が常に存在します。人のために役立とうと心掛ける人に私はいつも申し上げてきたことですが、見通しがどんなに暗くても、いつかは必ず道は開けるものです。霊の力は生命の力そのものだからです」と、シルバー・バーチのことばは、ここでも優しく頼もしい。(栞A47-c) この場合、私たちが心に留めておかねばならないのは、いかなる時でも霊界からの援助が期待できるというのではないということであろう。「私たちが地上の人間を指導するに当たっていちばん辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢えて傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、側から手出しをしてはならないことがあるのです」とシルバー・バーチも述べている。(栞A47-f) それでもシルバー・バーチは言う。「どうか私のファンの方々・・・・・決して見捨てるようなことは致しません。援助を必要とする時は精神を統一して私の名を唱えて下さるだけでよろしい。その瞬間に私はその方の側に来ております。私は精一杯のことを致しております。」(栞A47-d) 138. 「交わる相手や仲間はみな“光り輝く存在”です」 (10.23) シルバー・バーチのことばには、常に謙虚さが自ずから滲み出ている。交霊会の自己紹介でも、次のように述べたことがあった。「私は全知識の所有者ではありません。霊的進化の終点まで到達したわけではありません。まだまだ辿らねばならない道が延々と続いております。ただ、あなた方地上の人間にくらべれば幾らかは年季が入っておりますので、私を豊かにしてくれることになった霊的真理を幾つか知っております。その知識を受け入れる用意のできている地上の人たちと分かち合うために、私はこれまで辿ってきた道を後戻りしてまいりました。」(栞A39-s) 「幾らかは年季が入っております」といい、「霊的真理を幾つか知っております」というような言い方には、ただ、頭が下がる思いであるが、シルバー・バーチは、さらに、こう続けている。「私はまだまだ完全ではありません。相変わらず人間味を残しておりますし、間違いも犯します。しくじることもあります。しかし私は、授かった真理をなるべく多くの人たちにお届けするために、私なりの最善を尽くす所存です。」(栞A39-s) しかし、このシルバー・バーチが極めて高い霊格の持ち主であることは、ことばの端々からも、容易に推測することが出来る。 ある霊媒が霊媒であることの孤独感を口にしたことがあった。すると、シルバー・バーチは、「私の方があなたよりはるかに孤独を味わっております」と言った。そして、こう続けた。「私は本来は今この仕事のために滞在している地上界の者ではありません。私の住処は別の次元にあります。あらゆる面での生活条件が地上よりはるかに恵まれ、交わる相手や仲間はみな“光り輝く存在”です。が、その高級霊たちと会えるのは、指導を仰ぎにこの地上圏を後にした時だけなのです。地上というところは私たちにとって何一つ魅力のない世界です。」(栞A39-u) これは、シルバー・バーチ自身が、霊界の“光り輝く存在”であることを、示唆するものにほかならない。 実は、イエスは、地上において開始した地球浄化の大事業をいまも霊界で続けており、シルバー・バーチは、霊界ではそのイエスの指揮のもとで働いている。(栞A12-zf) 「私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります」と洩らしたのもそのためであろう。(栞A12-r) 「霊界の上層部には“神庁”とでも呼ぶべきものが存在します。それに所属するのは格別に進化をとげた霊、高級神霊です。その仕事は立案された創造進化の計画を円満に進展させることです」(栞A39-q) と言ったこともあった。そして、別のところでは、「私も何度かその神庁における会議に出席させていただいております」(栞A29-q) と洩らしているから、これらのことからも、シルバー・バーチは、神庁における会議に出席できる極めて高い、“光り輝く”霊格の持ち主ということになる。 137. 「私は英語を一言も話すことができなかったのです」 (10.16) 心霊治療家として活躍しているある女性が交霊会に招待された時、「霊媒のバーバネルさんが他界なさる時が来たらどうしようかと心配でなりません」と言ったことがある。バーバネルが亡くなったら、延々と半世紀にも亘って語り続けられてきたシルバー・バーチのことばは、もう聞くことが出来なくなる。彼女でなくても、多くの人々がその彼女の心配を共有していたことであろう。しかしこの時もシルバー・バーチは、「心配はおやめなさい。心配しても何の解決にもなりません。不安を抱いてはいけません」といつもよく口にすることばを繰り返した。(栞A29-l) シルバー・バーチは続けて言った。「私は時おり、私がこの霊媒たった一人を道具として使命を開始した時のことを振り返ってみることがあります。英語を一言も話すことができなかったのです。それが今ではこうして大勢の方とお話ができるようになった幸運をしみじみと味わっているところです。あとのことはあとの者が面倒を見ます。ますます発達していく科学技術のおかげで私たちが為し遂げた以上の規模の人々に真理を普及する手段が活用されるようになります。」(栞A29-l) それから、どれくらい後のことになるのであろうか。50年以上もシルバー・バーチの霊媒を務めてきたバーバネルは、遂に死去してその役目を終えた。1981年7月17日であった。 シルバー・バーチは、地上での霊媒として働いてもらうためにバーバネルが生まれる前から彼を選び、生まれてからも霊媒になるための教育を施していったといわれている。そのためには、当然、シルバー・バーチも英語に精通する必要があった。「その仕事のために私はこの国の言語である英語を学ばねばなりませんでした。私が地上でしゃべっていた言語は英語ではありませんでした。そこで、出発に際して指導霊から、地上で仕事をするには英語をしっかりマスターすること、その文法と構文をよく勉強しておかないといけないと言われました」とシルバー・バーチは述懐している。(栞A39-q) シルバー・バーチの英語は、はじめは、ややぎこちない感じであったが、交霊会を重ねるたびに洗練されていき、やがて、完璧な美しい英語になっていった。文筆家でもあったバーバネルは、自分の遺稿「シルバー・バーチと私」のなかで、その完璧さをこう述べている。「仕事柄、私は毎日のように文章を書いている。が、自分の書いたものをあとで読んで満足できたためしがない。単語なり句なり文章なりを、どこか書き改める必要があるのである。ところが、シルバー・バーチの霊言にはそれがない。コンマやセミコロン、ピリオド等をこちらで適当に書き込むほかは、一点の非のうちどころもないのである。それに加えてもう一つ興味ぶかいのは、その文章の中に私が普段まず使用しないような古語が時おり混ざっていることである。」(栞A37-zf) 136. 「私の名はシルバー・バーチではありません」 (10.09) シルバー・バーチは交霊会での自己紹介でこう述べている。「霊界の上層部には“神庁”とでも呼ぶべきものが存在します。それに所属するのは格別に進化をとげた霊、高級神霊です。その仕事は立案された創造進化の計画を円満に進展させることです。その神庁から私にお呼びが掛かり、これまでの進化で私が得たものを一時お預けにして可能なかぎり地上圏に近づき、その高級指導霊たちのメッセンジャーとして働いてくれないかとの要請をうけたのです。」(栞A39-q) シルバー・バーチは、喜んでその要請を受け容れた。それが、半世紀にも及ぶ地上教化の始まりであった。 しかし、「私にとって困ったことが一つありました」とシルバー・バーチは述懐する。それは、地上と接触するためには、シルバー・バーチの霊格が高すぎることであった。下へ降りていくためには、バイブレーションを下げなければならなかった。それを、シルバー・バーチは、控えめに次のように表現している。「地上との接触には霊界の霊媒が必要だということです。それは、私が到達した進化の階梯と霊媒のそれとが違いすぎて波長が合わないからです。そこで私はもう一人、変圧器(トランス)に相当する者を必要としたのです。」(栞A39-q) その結果、用意されたのが、地上でレッドインディアンに属していた霊の霊体であった。「私に授けられる教えを地上へ伝達するための中間の媒体として、それが一ばん適切だったのです」とシルバー・バーチは打ち明けている。だから、「シルバー・バーチ」は、その時のレッドインディアンの名を借用したもので、実の名ではない。「私の名はシルバー・バーチではありません」と言い、「地上時代の私はレッド(アメリカン)インディアンではありません。このインディアンよりはるかに古い時代の別の民族の者です。霊的進化の末に二度と地上世界へ生身に宿って戻ってくる必要のない段階まで到達いたしました」とも、自分自身で言っている。(栞A39-q) つまり、霊界で高度に霊的進化を遂げた高級霊が、一旦波長を下げてレッドインディアンの霊体になり、それから地上の霊媒モーリス・バーバネルを通して私たちに語りかけていることになる。インディアンは心霊的法則については深い認識があり、その作用についてもよく理解しているという。そのインディアンについて述べられた次のことばには、私たちも耳を傾けなければならないであろう。「私はインディアンの文明の方が白人の文明よりも勝れていると思っておりますが、決して欠点や残忍な要素がまったく無いとは申しません。しかし極悪非道の文明を移入したその責任は、大体において白人に帰さねばならないと考えます。」(栞A39-q) 135. 「殺人犯を処刑しても問題を解決したことにはなりません」 (10.02) 宇宙の摂理には、厳然とした埋め合わせと懲罰の法則があり、その法則は私たちの行為の一つ一つに例外なく働く。その法則は完全無欠で、誰一人としてそれから逃れられる者はいない。シルバー・バーチは自分の霊界での体験を基に確信をもって語る。「当然のことながら、(宇宙の摂理には) 埋め合わせと懲罰が用意されております。邪悪の矯正があり、過ちと故意の悪行に対する罰があり、何の変哲もなく送った生活にもきちんとした裁きが為されております。」(栞A25-f) つまり、この世でいう「不公平」なるものは本当は存在しない。神の永遠の公正はその規模において無限であり、その適用性においても完全だからである。だからこそ、シルバー・バーチは言う。「いかなる問題においても、私たちは決して地上的観点から物ごとを見ないということ、地上的尺度で判断しないということ、人間的な憎しみや激情には絶対に巻き込まれないということ、往々にして人間の判断力を曇らせている近視眼的無分別に振り回されることはないということを忘れないでください。」(栞A25-a) それでは、殺人を犯した犯人を処刑する近代法治国家の死刑制度はどのように考えていけばよいのであろうか。それに対するシルバー・バーチの答えは明快である。「それは憎むことを教えることになるでしょう。憎しみは憎しみを呼び、愛は愛を呼ぶものです。物質の目で物ごとを判断してはなりません。これまで何度もくり返されてきたことです。殺人犯を処刑しても問題を解決したことにはなりません。地上へ戻ってきて他の人間を殺人行為へそそのかします。」(栞A42-k) そのうえで、シルバー・バーチは、問題の解決のためには処罰を矯正的な目的をもったものにすべきだと主張する。「社会の一員としてふさわしい人間になってくれるように、言いかえれば神の公正の理念に基づいて然るべき更生の機会を与えてあげるように配慮すればよいのです。そういう人間は心が病んでいるのです。それを癒してあげないといけません。それが本来の方向なのです。それが本人のためになるのです。それが“人のため” の本来のあり方なのです。摂理に適い、それを活用した手段なのです。」(栞A42-k) 134. 「動物を殺さないと生きていけないというものではありません」(09.25) ある時の交霊会で「もし自然の摂理が完全であるならば、その摂理に従って生きている動物界になぜ弱肉強食というむごたらしい生き方があるのか」という質問が出された。それに対してシルバー・バーチは、こう答えている。「(自然の摂理の一つである進化の法則は)存在と活動の低い形態から高い形態への絶え間ない進行の中で働いております。低い動物形態においては、見た目には残忍と思える食い合いの形を取ります。が、進化するにつれてその捕食本能が少しずつ消えていきます。先史時代をごらんなさい。捕食動物の最大のものが地上から姿を消し、食い合いをしない動物が生き残ってきております。」(栞A76-f) これに付け加えて、シルバー・バーチはこうも言った。「これにはもう一つ考慮すべき側面があります。そうした動物の世界の進化のいくつかの面で人類自身の進化がかかわっていることです。すなわち人類が進化して動物に対する残忍な行為が少なくなるにつれて、それが動物界の進化に反映していくということです。」(栞A76-f) つまり、人間の動物に対する残忍な行為が動物の進化をも遅らせているというのである。「今では人間が捕食動物となっています。何百万年もの歴史の中で人間ほど破壊的な生物はおりません」という指摘もされている。(栞A76-h) たしかに、人間は「捕食動物」なのであろう。しかし、そう言われても、私たちの場合は生きていくためのやむを得ない肉食であり、それは神も認めるであろう、と考えたりもする。これに対するシルバー・バーチの言い方は明快である。「自分たちで勝手に動物を殺しておいて、神がそうせざるを得なくしているかにお考えになってはいけません。どちらにするかは、あなた方が決めることです。動物を殺さないと生きて行けないというものではありません。が、いずれにせよ、答えは簡単です。そうした問題をどう処理していくかによって人類の進化が決まるということです。自分たちのやっていることに疑問を感じるようになれば、その時、あなたの良心が次の答えを出します。」(栞A76-p) シルバー・バーチは、“殺害”の観念がつきまとう食糧品はなるべくなら摂取しない方がよい、といいながらも、肉食の動機を考慮しなければならない場合があることは認めている。(栞A76-p) そのうえで私たちに求めているのは、動物たちに対して負っている人間としての責務の自覚である。シルバー・バーチはそれを次のように訴えている。「悲しいかな、霊的発達の未熟さゆえに人間は、自分を生かしめている霊力が地球を共有している他のすべての生命体を生かしめている霊力と同じであることに理解がいかないのです。動物も人間と同じく物的身体を具えた霊であることが理解できないのです。われこそは万物の霊長であると信じているのであれば、それゆえにこそ動物に対する責務があるはずなのに、人間はそこが理解できないのです。」(栞A76-zj) 133. 「埋め合わせと懲罰が用意されております」 (09.18) シルバー・バーチは、霊界で3千年を生きてきて、宇宙の摂理の働きを自分の眼で具に見てきた。そして、宇宙の摂理の前では絶対に不公平はないことを自分の体験として知っている。「私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら、神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです」とその摂理の完璧さを強調するのもその故である。(栞A58-v) こうも述べている。「埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れられる者はいません。見せかけは剥ぎ取られてしまいます。すべてが知れてしまうのです。と言うことは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです。」(栞A46-zl) この宇宙の摂理の完全性については、シルバー・バーチはその教えの中で幾度となく繰り返してきた。次のように言ったこともある。「その法則が構想においても働きにおいても完璧であるからには、当然その中に人間的な過ちに対する配慮も用意されているにきまっております。埋め合わせと懲罰が用意されております。邪悪の矯正があり、過ちと故意の悪行に対する罰があり、何の変哲もなく送った生活にもきちんとした裁きが為されております。」そのうえで、「私がこれまで送ってきた3千年にわたる生活において、“自分は神の法則によって不当に扱われている---不公平だ”と真剣に言える者を一人も知りません。私の知るすべての者が神の永遠の公正はその規模において無限であり、その適用性において完全であることを認めております」と付け加えた。(栞A22-c) この地上で私たちは、いろいろと不公平、不平等を嘆いたり憤ったりするが、それは所詮、狭い地上的視野がもたらす一面的な見方でしかないのであろう。絶対に誤ることがない摂理の中では、一分の狂いもなく「善はみずから報酬をもたらし、悪と罪はみずから罰と断罪を受ける」のである。シルバー・バーチのことばはさらに続く。「人生のあらゆる側面を神の摂理が支配しており、それをごまかすことも、それから逃れることも出来ません。誰にも出来ません。たとえ豪華な法衣をまとっていても、あるいは高貴な “上級聖職階” を授かっていても、神とあなたとの間の仲介役のできる人は一人もいないのです。」(栞A58-p) 別のところでは、同じことをこう述べたこともあった。私たちもこころの中で反芻して、深く受け留めておきたいことばである。「神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。霊的なことは常に完全な清算が行き届いており、ごまかしも見せかけも通用しません。」(栞A58-t) 132. 「それはもはやイエスの教えではありません」 (09.11) ヨハネによる福音書(5-24)には、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じるものは、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っていくのである」と書かれている。しかし、シルバー・バーチはこれは間違っていると断言する。人間は一人の例外もなく死後も生き続けるからである。「何かの教義や信条、あるいはドグマを信じることによって永遠の生命を授かるのではなく、不変の自然法則によって生き続けるのです。それ自体は宗教とは何の関係もありません。因果律と同じ一つの法則なのです」というシルバー・バーチの説明は極めて明快である。(栞A12-zi) シルバー・バーチは、この文句も、地上に大きな混乱のタネを蒔き人類を分裂させてきた言葉の一つであるという。聖書に書かれている言葉は、イエス・キリストの教えを正確に伝えているとは限らない。むしろ、曲解された教えは世界史のなかで、十字軍の遠征や南米原住民の大量虐殺などの少なからぬ暗黒のページを残してきた。「一冊の書物、それも宗教の書、聖なる書が、普通の書が起こそうにも起こせないほどの流血の原因となってきたということは、何という酷い矛盾でしょうか。宗教の目的は人類を不変の霊的関係による同胞性において一体ならしめることにあるはずです」とは、シルバー・バーチが洩らした嘆きのことばである。(栞A12-zi) イエスの教えは、イエスの死後、時が経つにつれて、教会の聖職権を振り回す者たちによりその真理が虚偽の下敷きとなって埋もれてしまうことになる。そして、肝心の霊の威力は散発的に顕現するだけとなってしまった。シルバー・バーチは言う。「イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。主教たちは病気治療をしません。肉親を失った者を慰める言葉を知りません。憑依霊を除霊する霊能を持ち合わせません。彼らはもはや霊の道具ではないのです。」(栞A12-b) シルバー・バーチのキリスト教の教えに対する反論は、聖書によく出てくる「イエスの赦し」についても行われている。ある時の交霊会で、キリストの赦しを受け容れることが愛の施しになる、というキリスト教の牧師に対して、これも明快に、こう述べた。「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する---それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変りません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。」(栞A12-o) 131. 「その足らざる部分は信仰心で補いなさい」 (09.04) シルバー・バーチは、宇宙を支配する法則について、その全知識を私たちに伝えることは出来ないと言っている。それは、「私たちも持ち合わせていない」と断ったうえで、「私たちはあなた方地上の人間より少しばかり多くの知識を手にしているだけです。あなた方より少しばかり永い生活体験があるからにすぎません。あなた方がこれから行かれる世界、私たちが本来の住処としている世界において、自然法則の仕組みと働きのいくつかを見てきているからです」と、謙虚に告白している。(栞A22-b) そのうえで、その宇宙の法則を信奉する根拠について、次のように確言するのである。「その体験と、私たちよりさらに多くを知っておられる上層界の方々から教わったことを土台として私たちは宇宙人生の計画と目的について一段と明確な認識を得ております。そこに完璧な摂理の働きを見ております。自然の摂理です。手落ちということを知らない法則、絶対に誤ることのない法則、極大から極小にいたるまでの宇宙間の全存在の全側面を認知し、何一つ無視することのない法則、すべてを包括し、すべての活動に責任をもつ法則です」。(栞A22-b) 同じようなことを、別の交霊会では、次のようにも述べた。「(その法則は)絶対に誤ることがないのです。そして私たちは、これまでに明かしていただいたその完璧さゆえに、愛と叡智と慈悲によって育まれた完全な計画の存在を知り、現時点で理解し得ないこと、まだ明かしていただいていない側面もまた、同じく完璧な法則によって支配されているものと確信しております。そう確信するだけの資格があると信じるのです。」(栞A22-c) 霊界での3千年の生活体験に裏付けられたシルバー・バーチのこれらのことばを噛み締めていけば、私たちに対する次のようなことばも、少しは理解し易くなるように思われる。「私の好きな諺がバイブルの中にあります。“信仰に知識を加えよ”というのですが、私はこれを“知識を得たら、それに信仰を加味せよ”と言い変えたいところです。所詮すべての知識を手にすることはできません。あなた方は人の子であり、能力に限界があるからです。人生の嵐に抵抗し、何が起きようと磐石不動であるためには、その土台として霊的知識を必要としますが、限られた知識ではすべてを網羅することはできません。その足らざる部分は信仰心で補いなさいと私は言うのです。」(栞A10-k) 130. 「魂の成長を促すものは善で成長を遅らせるものは悪です」(08.28) 何が善で何が悪かというのは、分かりきっているようで分かりにくい。悪と思えるものも本当は善であることが、決して珍しくはないからである。シルバー・バーチも、「地上の人間にとって苦しみは悪であり、痛みは歓迎されませんが、実質的には必ずしもそうではありません」と言っている。そして、つぎのように続けた。「苦は楽と同じく神の計画の一部です。苦がなければ楽もなく、暗闇がなければ光明もなく、憎しみがなければ愛もありません。作用と反作用は同じものであると同時に正反対のものです。一つのコインの両面と思えばよろしい。善と悪はともに不可欠のものであると同時に、相対的なものです。」(栞A40-ze) では、病気の場合はどうか。病気になることが善であるとは私たちはまず考えないものだが、病気になって初めて何かに気がつく人もいないわけではない。ある時の交霊会で、メンバーの一人から、「病気は教訓として与えられるというのは本当でしょうか」という質問が出された。それに対してシルバー・バーチは答えた。「言っていること自体は正しいのですが、“与えられる”という言い方は適切でありません。私たちと同じくあなた方も法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として生じるのです。言ってみれば霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。」(栞A17-zd) 病気が「霊として未熟であることの代償」であれば、やはり善とはいえないと思えるが、シルバー・バーチはさらに、こう述べている。「しかしその支払いとはまた別の“補償”の法則もあります。物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観念からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。」(栞A17-zd) つまり、病気になっても得をすることがある。そして、それが「進化を促すための神の配慮」であるというのである。 教訓を学ぶ道については、こうも教えてくれている。「最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で現れることもあるわけです。人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください。」(栞A17-zd) だから、病気も善になりうるということであろう。シルバー・バーチは、この善悪について、「私たち霊にとっての価値基準はただ一つ---魂にどういう影響を及ぼすかということです。魂の成長を促すものは善で、成長を遅らせるものは悪です」と結論づけている。(栞A40-ze) 129. 「真の自我に目覚めた人は再生してくる必要はありません」(08.21) ある時の交霊会で、再生(生まれ変わり)が話題になったとき、メンバーの一人から、「なぜ霊界の方から再生の決定的な証拠を提供してくれないのでしょうか」という質問が出された。それに対して、シルバー・バーチは、「霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などがありえるでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になってはじめて事実として認識されるのです。再生はないと言う者が私の世界にもいるのはそのためです。まだその事実を悟れる段階にまで達していないからそう言うにすぎません」と答えている。(栞A23-a) 別のところでは、こうも言っている。「私は再生が事実であることを、いささかの躊躇もなく断言します。ただ私は、すべての人が再生するとは言っておりません。私が言っているのは、人間の個性というのはそれ自体が独立した存在ではなくて、大きなダイヤモンドの無数の側面の一つにすぎないこと。その側面が地上へ誕生して体験を積み、それによって得られる霊的成長をダイヤモンドに持ち帰って、一段と光沢と輝きを増すことになるということです。」(栞A23-j) そして、「これはとても複雑な問題です。私がダイヤモンドに例えているインディビジュアリティというのがあり、それは、たった一回の地上生活で発揮されるパーソナリティ(人物像)よりもはるかに大きなものであるということが理解できるようでなければ、この問題は扱えません」と、付け加えた。(栞A23-j) それでは、その「インディビジュアリティ」というのは、どういうものか。それを、具体的に説明している箇所がある。シルバー・バーチ自身と霊媒を務めているモーリス・バーバネルおよびその奥さんのシルビア・バーバネルは、ともにー個のインディビジュアリティに所属している、というのである。(栞A74-r) シルバー・バーチは霊界で、モーリス・バーバネルがこの地上に生まれる前から、自分の霊媒にすることを選んでいたと言われるから、この2人の深い関係は理解できる。さらに、そのモーリス・バーバネルとシルビア・バーバネルが結婚していっしょになったのも、決して偶然ではなかったであろう。そして、この三人が、それぞれにここでいう「パーソナリティ」ということになる。 このように、生まれ変わりといっても、それは、前回の地上生活の時と同じ人物が、そっくりそのまま生まれ変わるのではない。インディビジュアリティの物的表現にすぎないパーソナリティ(人物像)は肉体の死とともに消滅してしまうのである。(栞A23-l) その上で、生まれ変わるのはあくまでも自由意志による。もう一度地上に帰って、奉仕的活動をしたり、成し遂げたい仕事をしたり、償わねばならないカルマ的な“借金”の返済に努めたいと願望するのである。シルバー・バーチは言う。「そういう人たちが地上へ再生するのです。二度、三度とくり返すこともあります。が、いずれの場合も再生してくるのは其の自我すなわちインディビジュアリティの側面の一つです。再生したくないのであれば、何もこの暗いじめじめした陰うつな世界へ戻ってくる必要はありません。真の自我に目覚めた人は再生してくる必要はありません。」(栞A23-n) 128. 「霊界での再会を決定づけるのは霊的親和性です」 (08.14) 私たちは死んだらどこへ行くのか。死後の世界のことについて思い巡らすということは、おそらく、だれもが共有する感情であろう。本当は、現世を「生きる」ことが大切であるのに、そのことに気がつかず、「死後」のことをしきりに思い悩む人もいるかもしれない。そういう弱い人間の存在を見通して、シルバー・バーチは言う。「死後の生命とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、はたして死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。」(栞A46-zl) 死んでから霊界へ行くといっても、霊界は無限に広がっていて様々な世界があり、みんなが同じところへ行くわけではない。「霊界は段階的に上下の差があります。一つの段階はすぐ上と下の段階と融合してつながっており、それが限りなく続いております」ということになる。(栞A46-zp) そして、私たちが他界後に落ち着く先は、私たちが地上で身につけた霊的成長に似合った界層であって、「それより高いところへは行けません。行きたくても行けません。また、それより低いところでもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないでしょう」と述べられている。(栞A46-zl) 従って、地上で同じ家族のメンバーであっても、死んで霊界へ行けば、みんながまた、「自動的に合流する」わけではない。シルバー・バーチはそれを、こう述べている。「家族のメンバーが自然な霊的親和性をもっている場合にのみ、それが有りえます。親和性がなければ再会はありません。意識のレベルが違うからです。夫婦の場合であれば、身体上の結婚だけでなく魂と精神においても結ばれていなければ、霊界での再会は不可能です。再会を決定づけるのは霊的親和性です。死後しばらくは血縁によるバイブレーションが残っていますが、それには永続性がありません。」(栞A21-h) 私たちは、地上時代の家族の間でさえ、霊的進化の程度に応じて段階的な差ができてしまうことを、知っておかなければならないであろう。 家族以外の人たちとの再会も同じである。ある時の交霊会で、「私たちはいつかはかつての地上での仲間や親族のいる境涯へと向上して行き、ずっと一緒に暮らせるようになるのでしょうか」と質問した人がいた。それに対して、シルバー・バーチはこう答えた。「その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろんいっしょになれます。こうしたことは収まるべくして自然に収まる問題です。あなたは今これまで霊的に到達した境涯、段階、存在の場を占めているのです。それと同じレベルにある者はみな似たような発達状態にあるのです。ですから、ご質問に対する答えは、あなたがその人たちと同じ霊的発達段階に至ればいっしょになれます、ということになります。」(栞A21-c) 127. 「地上を豊かにする音楽はみな霊界を始源としております」 (08.07) ある日の交霊会で、シルバー・バーチは、英国の音楽界で指導的地位にある音楽家に、「あなたが霊界へお出でになれば、大へんな楽しみがあなたを待っております」と言って、次のように続けた。「霊界には今のあなたには理解できない性質と卓越性をもった音楽が存在するからです。地上でまだ一度もお聞きになったことのないオクターブがあります。シンフォニーもあります。コンチェルトもあります。オーケストラもあります。最高の作曲家や演奏家が無数にいます。地上にはほんのわずかしかおりません。」(栞A67-a) 霊界には「最高の作曲家や演奏家が無数にいます」というのは当然かもしれない。かつて、地上で大作曲家、大音楽家と言われていた人びとのすべてが、いまは霊界にいるはずだからである。しかも、彼らは、霊界へ行ってからは、「さらに向上進化している」らしい。シルバー・バーチは言う。「鑑賞力をもった人なら立派な音楽をいくらでも聴くことができます。ミュージックホールは霊界が誇る財産といってもよいほどです。地上のいかなる楽器でも表現できないオクターブの音をあなたも聴くことになるのです。」そして、「地上を豊かにする音楽はみな霊界を始源としております。人間がこしらえているのではありません。演奏家も作曲家もみな一種の霊媒なのです」とも語った。(栞A67-a) 霊界とは、本来の自我の開発を望む人たちの憧憬、夢、願望が叶えられる世界で、発揮されることなく終わった才能は存分に発揮されることになるらしい。(栞A46-zl) だから霊界では、芸術家が地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ることになる。「画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです」とシルバー・バーチは述べている。(栞A46-h) 逆にいうと、地球では思うことが表現しにくい世界である。私たちは通常、そういうことを意識しないで生活しているが、人間がその五感に限られた状態で理解できる範囲は、実は、極めて狭い。物質の世界に生まれて来た以上は物質の法則によって制約を受けざるを得ないからである。そのような制約のない霊界の状況を、シルバー・バーチはつぎのように表現する。「私たちの世界は、皆さんには到底想像できないほど豊かで美しい世界です。皆さんの聴覚を超えたオクターブの世界、皆さんの視覚の限界を超えたスペクトルの世界がどうして説明できましょう。どうにもならないほど説明が難しいのですが、それでも実在しているのです。(栞A46-zr) 126. 「霊界での生活を伝えるのはとても困難です」 (07.31) 私たちが必ず行くことになっている霊界とはどのような世界か。「仏説阿弥陀経」などには、その壮麗さが縷々述べられているが、どうも夢物語のようでいまひとつ、ぴんとこない。それもそのはずで、実は、低次元の人間のことばでは器が小さすぎて、的確に表現することができないのである。シルバー・バーチは言う。「霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私たちは人間のその五感に限られた状態で理解できる範囲を超えた次元で生活しているからです。言語というのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるにはまったく無力です。」(栞A46-zl) シルバー・バーチは、また、霊の世界を表現することの難しさを次のようにも言った。「非物質的な霊の世界のことを物質界の言語で表現できないのは、あなた方の思考そのもの、あなた方の精神的概念のすべてが、その言語によって規制され、意識がその三次元の地上界だけに縛られているからです。五感もそれ自体は素晴らしいものですが、現実にはそれが外界から摂取するものを制限し、また摂取したものの理解を制約しています。霊覚者は表面の生命活動の裏側にある大きな実在を霊覚によって認識しますが、それを伝えようとすると言語の無力さを痛感します。」(栞A46-zo) この言語による制約については、この地上にもないわけではない。ある二国間の文化の違いが大きい場合、それだけ言語の違いも大きくなるはずだから、厳密にはそのどちらの言語でも相手の文化を正確には伝えることは出来ないのである。まして、次元の異なる霊界となると、地上の言葉では全く歯が立たないことも容易に理解できる。それを、シルバー・バーチはつぎのように表現している。「死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上に無いので、うまく言い表せないのです。強いて言えば、本来の自我の開発を望む人たちの憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。経済問題がありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体でなく魂が関心のすべてだからです。魂には白も赤も黄も黒もないのです。」(栞A46-zl) この「強いていえば」を繰り返すと、「金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです」(栞A46-h) ということになる。しかし、そういう世界を想像することは容易ではない。そこで、私たちは、睡眠中は肉体を離れて一時的に “死ぬ” ことにより、霊界体験をさせられるという。「そうすることによって徐々に霊界生活に慣れていきます。そうしないと、いよいよ本当の死が訪れた時に何のことか理解できず、新しい生活環境に順応するのに長い時間を要することになります。地上にいる間の夜の霊界旅行での体験はぜんぶ潜在意識の中に収められています。それがいつか意識にのぼってきて、霊界があまり不思議に思えなくなります」と、シルバー・バーチは教えてくれている。(栞A46-x) 125. 「地上時代の名声は何の価値もありません」 (07.24) 「士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして」は、万葉集に載っている山上憶良の歌である。古来、このように日本でも、名声を上げることに何よりも人生の価値をおいてきた。しかし、地上時代に有名であろうが名声を博しようが、霊界へ行けばそれは何の意味もないらしい。シルバー・バーチは言う。「地上時代の名声は何の価値もありません。魂の価値は地上時代の肩書きではなく、何を為したかによって自ら裁き、それが現在の個性を形成しているのです。霊界での唯一のパスポートは魂の発達程度です。それが衆目に赤裸々にさらされるのです。」(栞A45-e) シルバー・バーチはさらに、「名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものにすぎません。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません」とさえ言っている。「子供のオモチャのようなもの」とはずいぶん厳しい言い方のようであるが、これは、霊界とこの地上世界とでは価値判断の基準が大きく異なることの一例である。「大切なのはどれだけ人のためになることをしたかであって、その人の名前ではありません」ということばには、私たちも、しっかりと耳を傾けていかねばならないであろう。(栞A45-e) 霊界というのは、こころに思っていることがそのまま周りに伝えられていく世界である。だから、何一つ、隠すことはできない。すべてが知れ渡ってしまうからである。シルバー・バーチは、「だからといって、別に恥ずかしく思うことはありません。地上ではごまかし、ウソをつき、だますことができます。名前を合法的に変えることもできます。が、本性を変えるわけにはまいりません」と言う。(栞A46-zp) また、「こちらへ来ると地上時代の仮面が剥ぎ取られ、あるがままの姿が知れてしまいます。魂の霊的発達程度が誰の目にも分かります」とも述べている。(栞A45-e) シルバー・バーチは別の交霊会でも、「肝心なのはいかなる人間であるかであり、何を為してきたかです」と言って、つぎのように価値判断の相違を指摘している。「皆さんは人間が他界して私たちの世界へ来ると、その人の評価の焦点がまったく異ったところに置かれることをご存知ないようですね。皆さんはすぐに地上時代の地位、社会的立場、影響力、身分、肩書きといったものを考えますが、そうしたものはこちらでは何の意味もありません。そんなものが全てはぎ取られて魂が素っ裸にされたあと、身をまとってくれるのは地上で為した功績だけです。」(栞A45-b) 124. 「皆さんは毎晩死んでいると言ってもよいのです」 (07.17) 私たちは、夢の中では毎夜のように霊界を訪れているといわれる。ちょっと信じられないような話だが、それは、夢から覚めたときに、その実感がまるでないからであろう。それをシルバー・バーチはこう言っている。「実は今でもあなたがたは毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることが出来ます。その時すべての記憶がよみがえります。」(栞A66-a) シルバー・バーチは、交霊会のメンバーたちと、実際に、霊界でもよく会っているようである。しかし、やはり、そのことを思い出す人はいないらしい。それを、こういうふうに打ち明けている。「実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は “地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですよ” と言っておくのですが、どうも思い出してくださらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですよ。そして、あちらこちら霊界を案内してさしあげているんですよ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから。」(栞A66-b) 折角夢の中で霊界を訪れていながら、なぜ私たちはそのことを思い出せないのか。シルバー・バーチは、その理由をつぎのように教えてくれている。「なぜかというと脳があまりに狭いからです。小は大をかねることが出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。袋にはおのずから容量というものがあります。ムリして詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。」(栞A66-b) シルバー・バーチはまた、私たちの睡眠中の旅行について、こうも言っている。「実は睡眠中は一人の例外もなく幽体で旅行しております。一時的に肉体を離れて私たちの世界を訪れ、縁のある人たちと会っているのです。これは死後の環境の変化がショックにならないように、あらかじめ準備させるための神の配慮なのです。死の現象(二つの身体をつないでいるコードの切断)をへてこちらの住民となれば(意識の中枢が幽体へ移って)地上時代の睡眠中の体験を思い出し、それから始まる素晴らしい霊界生活への準備が整います。皆さんは毎晩死んでいると言ってもよいのです。」(栞A66-f) 123. 「地上はトレーニングセンターのようなものです」 (07.10) シルバー・バーチは、地上世界は私たちが死後の生活に対して十分な支度を整えるための学校であると、次のように言う。「地上生活の目的は、いよいよ霊界へ旅立つ時が来たときに霊に十分な備えができているように、さまざまな体験を積むことです。まずこの地球へ来るのはそのためです。地上はトレーニングセンターのようなものです。」そして、だからこそ私たちにとっていやな体験が、実は一番為になるのだと繰り返す。(栞A56-m) 「魂が目覚めるのは呑ん気な生活の中ではなく嵐のような生活の中においてこそです」というようなことばは、何度も聞いてきたが、シルバー・バーチはさらに、「酷い目に遭わなくてはいけません。しごかれないといけません。磨かれないといけません。人生の絶頂と同時にドン底も体験しなくてはいけません」とさえ言う。それらが、地上だからこそ味わえる体験だからである。そのような体験を経て、「霊は一段と威力を増し強化されて、死後に待ちうけている生活への備えができるのです」ということになる。(栞A56-m) では、この「死後の生活への備え」ができている場合とそうでない場合とではどう違ってくるか。まず、霊界で住む界層が違ってくる。シルバー・バーチの教えではこうなる。「界層ないしは境涯というものがあり、そこに住む者の進化の程度に応じて段階的な差ができています。あなたが他界後に落着く先は、あなたが地上で身につけた霊的成長に似合った界層であり、それより高いところへは行けません。行きたくても行けません。また、それより低いところでもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないでしょう。」(栞A46-zl) 私たちは、死後の世界の美しさ、豊かさについても、しばしば耳にする。しかし、それも恐らく、他界後の所属界層によっては誰もが等しく感じられることではないのかもしれない。ただ、つぎのようには言えるようである。「霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをするための行ないに励むことになります。」(栞A46-zl) これは、私たちがまだこの地上にいる間に、銘記しておくべきことばであるといえないであろうか。 122. 「人間が思い煩う必要のあることは何一つありません」 (07.03) 「私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております」とシルバー・バーチは述べている。シルバー・バーチの膨大な量の叡智の教えに触れた者には、こころから納得させられることばである。そのシルバー・バーチが、時おり地上の同志のもとを訪ねてみて、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがある、と嘆いている。(栞A56-l) 人生には悩みや心配はつきものであり、むしろ、悩みや心配がない方が不思議だと思えるものだが、それはまだ、霊的知識を十分に咀嚼できていないからであるのかもしれない。それを、シルバー・バーチはこう諭している。「霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。」そして、さらに次のように言い切っている。「地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器― 非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。」(栞A56-l) 眼には見えなくても、私たちにはこの「待機している霊」から常に守られ、導かれているのである。そのことにも気がつかず、悩みや心配から抜け出せない私たちに同情して、シルバー・バーチは、つぎのようにも言ったことがある。「そうした中にあってさえ皆さんの心の中には次々と悩みが生じ疑問を抱かれるのも、地上の人間としては止むを得ないこととして私は理解しております。がしかし、どう理屈をこねたところで、全宇宙の中にあって唯一の実在は“霊”であることを改めて申し上げます。」(栞A63-l) つまり、この霊的認識度の低さが悩みや心配を生み出すといっていいのであろう。そのためにこそシルバー・バーチは、私たちの本性は霊であることを繰り返し強調するのである。「あなた方は霊をたずさえた身体ではありません。身体をたずさえた霊なのです。本当のあなたは鏡に映る容姿ではありません。それは霊が地上で自我を表現するための物的な道具、複雑な機械にすぎません。」そして、つぎのように続ける。「こうした事実を追求していくうちに、あなたの視野と焦点の置きどころが変っていくことに気づかれます。自分がなぜ地上にいるのか、真の自我を発揮するにはどうすべきか、そうしたことを理解しはじめます。」(栞A63-l) |
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