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   アリゾナで迎えたクリスマスの思い出  (2013.12.25


  むかし、アメリカに滞在中にクリスマスを迎えたことは何度かありましたが、学生時代を含めて、いつもどこかの家庭に招かれていました。クリスマスを一人で過ごしたことはありません。1982年にアリゾナ州ツーソンに住んでいた時は、留学生であった娘と二人でしたが、教会で知り合ったデイル夫妻から招待をうけました。ご主人のデイルは、ツーソン空港の警備員で、奥さんのカレンは5歳の娘を育てながら、アリゾナ大学の学生として音楽を専攻していました。生活は決して豊かではなく、むしろ貧しいほうだったかもしれません。

 娘と二人で昼過ぎにデイルの家へ行ったときには、デイルは台所で料理の支度の最中で、カレンは留守でした。やがてカレンは、子供連れで貧しいみなりの中年婦人を連れて帰ってきました。あとで聞いたところでは、彼らはカリフォルニアから流れ流れてツーソンに辿りつき、所持金も使い果たして、ある教会の施設に泊り込んでいるということでした。カレンがその教会の施設に電話して、どこへも招待されていないというので、連れてきたというのです。その親子も含めて、私たちはみんなで賑やかに、クリスマス・ディナーを楽しみました。お別れの時には、カレンは、沢山の食料品を施設へ帰る彼らに持たせていました。ふと見えた冷蔵庫の中はほとんど空になっていました。

 クリスマスになると今でも時々あの日の情景を思い出すのですが、あの時のクリスマス・ディナーは、私がそれまで招待を受けてきた中では、最も貧しい家庭の、それでいて、最も豊かなこころ温まるディナーであったように思えます。「人に与えるということは、自分が与えられることである」といわれます。逆にいうと、人に与えようとしないのは、いくら財産があっても、自分が与えられることのない「貧しい人」ということになるのかもしれません。

 かつて訪れたインドの ガンジー火葬の場所、「ラージ・ガート」には、その一角に石碑があって、そこにヒンドゥー語と英語で、「自分のまわりにいる貧しい人々のなかで一番貧しい人に、まず救いの手を差し伸べなさい」と書かれていました。ガンジーはまた、「七つの社会的罪」の一つに、「献身なき信仰」をあげています。信仰があっても、それだけで人を助けようとしないのであれば、それは「信仰」でも「宗教」でもないのでしょう。あのツーソンのデイル夫妻は、生活に行き詰って絶望しかけていた子供連れの中年婦人と、あたたかいクリスマス・ディナーを共にすることで、このガンジーの教えをそのまま実践していたことになるようです。



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  死ぬことによって永遠の生命へ目覚める  (2013.12.18)


 患者に対して無料奉仕活動を続けているアメリカの心霊治療家・M.H.テスターの本に、聖フランチェスコの祈りを紹介している文があります。「主よ、願わくば慰められるより慰める者であらしめ給え・・・・・」から始まって、「なぜならば・・・・・赦す者こそ赦されるものだからです。死ぬことによってはじめて永遠の生命へ目覚めるものだからです」で終わっています。(「学びの栞B」4-n) この「死ぬことによってはじめて永遠の生命へ目覚めるもの」というのは胸を打たれることばです。少なくともこれは、人間というのは、死ぬことがなければ、永遠の生命に目覚めることがなかなか容易ではないことを示唆しているのではないでしょうか。

 かつて、ターミナル・ケアの世界的な権威といわれたエリザベス・キューブラー・ロスは、医者として患者の治療に当たっている間に、患者の臨死体験の例を 2万件も集めて、「人間は死んでも死なない」ということを人々に説いてまわっていました。多くの本も書きました。しかし、それでもなかなか信じてもらえず、やがて、彼女は悟っていきます。そしてこう言いました。「わかろうとしない人が信じてくれなくても、もうそんなことはどうでもよいのです。どうせ彼らだって、死ねばわかることですから。」(武本昌三「生と死の彼方にあるもの」ほか)

 こういう場合、やはり頼れるのはシルバー・バーチの教えです。シルバー・バーチは生命にとって死というものはなく、むしろ「人間は死んで初めて”生きる”ことになる」と言っていました。次のようなことばもあります。「あなたがた人間こそ死者″です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で、立派な死者です。神の宇宙の美しさが見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。愛しい人たちはそこに生き続けているのです。」(「学びの栞A」2-zo)



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   原始のレベルで捉える生命の実相  (2013.12.04)


 生命科学者の柳澤桂子さんは『生きて死ぬ智慧』(講談社、2005年)のなかで、般若心経の「是諸法空相」に対応する部分を「あなたも、宇宙のなかで、粒子でできています。宇宙のなかの、ほかの粒子と一つづきです。ですから宇宙も『空』です。あなたという実体はないのです。あなたと宇宙は一つです」と書いています。彼女はまた、この本の「あとがき」に、真理を見抜いていくためには、自己と他者という二元的な見方をするのではなくて、一元的な見方が必要であるといって、つぎのように書いていました。

 この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。私のいるところは少し原子の密度が高いかもしれません。あなたのいるところも高いでしょう。戸棚のところも原子が蜜にそんざいするでしょう。これが宇宙を一元的にみたときの景色です。一面の原子が飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。

 これで思い出されるのは、むかし新聞で読んだ立命館大学・安斉育郎氏の「死生観」です。原子力科学者の氏によると、人間の体には、炭素原子が7キログラムほど含まれていて、死んで火葬されれば、それは二酸化炭素の分子になって空中に放出されていくのだそうです。注目すべきはその分子の数で、およそ350兆個の1兆倍というのです。この二酸化炭素分子が、地球全体に高さ10キロメートルまでの大気中に均等に拡散したとすると、世界中のどの地点でも、1リットルの風船に大気を封入したとき、火葬された一人に由来する二酸化炭素分子は、実に6万6千個にもなるのだと、氏は書いていました。(「朝日」2000.8.28)

 これらの二酸化炭素は、光合成で野菜や牧草に利用され、それを餌にした動物の細胞になり、さらにそれを食べた人間の体を作り上げていきます。ところで、地球創生以来、原子の数は一定で「不生不滅・不増不減」ですから、私たちの体を構成している原子は、大昔からいままでもさまざまな人の体に使いまわしされてきたことになります。安斉氏は、これを「輪廻転生」が科学的に解釈されているようで面白い、と述べていました。しかし氏は、死後の世界や霊魂などは信じていないようです。これらの柳澤さんや安斉氏の原子的レベルでの見解は、それなりによくわかるような気がしますが、その原子の結びつきや働きも厳然とした自然の摂理によるものであって、実は、霊の世界とは裏腹の関係になっていることを科学者たちからも聞けるようになるのには、やはりまだ多くの時間がかかるのでしょうか。



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   宇宙創造についてのホーキング博士の見解    (2013.11.20)


 NHKの「コズミック・フロント」は優れた番組の一つだと思いますが、去る11月14日は、「宇宙に挑んだ天才たち」と題して、ケンブリッヂ大学のスティーヴン・ホーキング博士を取り上げていました。この中で、博士は、「人は信じることを選べます。物理学を信じる私にとっては、宇宙を創造した神はいない、私たちの運命を決める人はいない、というのが納得のいく答えです」と述べています。そのうえで博士はさらに続けて、「天国もないし、死後の世界もないでしょう。いまここにあるのは、宇宙の秘密をじっくり楽しむ一度きりの人生です。それが私にはうれしいのです」とも語っていました。

 ホーキング博士のことばの中で興味深く思われたのは、宇宙は神が創ったのかと聞かれれば、「その質問自体が成り立たない」と答えていることです。その理由は、「宇宙が始まる前には時間が存在しなかったのだから、神がその宇宙を創れる時間はなかった」からだというのです。それは、この丸い地球のうえで、この果てはどこにあるのか、と質問するようなもので、その答えはどこにもないのと同じ」というふうにも説明されています。そして、大切なことは宇宙には自然法則があることで、その「自然法則に耳を傾けることが、私たち自身の人生の意味を見つめなおすきっかけを与えてくれる」とも博士自身が述べていました。

 実は、宇宙には厳として「自然法則」があることを、何度も繰り返しているのがシルバー・バーチで、「神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです」(「学びの栞A」44-d)などと、この自然法則、あるいは自然の摂理が神であると教えてくれています。「神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております」ということばもありあます。(「学びの栞A」44-e) そして、全生命、全存在、全法則に宿っていて測り知れない大きさをもつ神の存在は、「ほんの小さなシミほどの知識」しか持ち得ない私たちには理解することはできないと、諭したこともありました。

 ホーキング博士のような天才が、ALS という難病で不自由な体になっても宇宙の真理探究を目指して真摯に努力している姿には敬意を払わずにはいられません。しかし、「天国もないし、死後の世界もない」というのは、やはり、科学者の限界を示していることになるのでしょうか。あるいは、「自然の法則」に対する認識では「神理」に近づきつつあると捉えるべきなのでしょうか。私が持っている 『ホーキング、宇宙を語る』(早川書房、1998年)の訳者の林氏が「訳者あとがき」のなかで、「ホーキングさん、あなたのような不思議な方がいて、こんな本を書かれたこと自体、神の存在の証なのですよ」とユーモラスに書かれているのが印象深く思い出されます。



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   始皇帝が求めていた不老不死の妙薬  (2013.11.11)

 
  「徐福展示館」の入り口。この左には「徐福展覧館」
   もあって、徐福の船団の西帰浦までの航路や上陸
   する様子などが描かれた絵や船の模型などがある。

   (2009.10.04筆者撮影)

 
 2,200年前に広大な中国統一の偉業を成し遂げ、絶対的な権力を誇っていた秦の始皇帝でも、死ぬことは恐ろしかったのであろうか。呪術、医薬、占星術などに詳しい「方士」といわれる徐福に命じて不老不死の妙薬を捜し求めさせたことが司馬遷の『史記』にも書かれているようである。徐福は東方のはるか海上に三つの神山があり、そこには仙人が住んでいて、不老不死の妙薬も手に入ると考えていたらしい。その三つの神山の一つが、韓国最南端の済州島に聳え立つハルラ山という説がある。

 徐福は、紀元前219年に大船団を率いて中国を出てから、その済州島南側の中ほどにある西帰浦にたどり着いたという。西帰浦からはハルラ山がよく見える。徐福がこの山へ登ったかどうか、大昔のことだから定かではないが、不老不死の妙薬などあるはずもないから、失望してつぎの目的地へ旅立ったに違いない。この時、徐福は、西帰浦の正房滝の岸壁に、「徐市過之」と書き込んだ。徐市というのは徐福の別名である。「西帰浦」という地名は、ここを徐福が通り過ぎて「西へ帰っていった」と伝えられることからきているという。

 西帰浦は、今では年間400万人以上が訪れる国際的な観光地で、リゾートとして人気が高いが、その正房滝の岩壁の近くに、石壁で囲まれて小公園のようにきれいに整備された徐福記念館がある。中には「徐福展覧館」と「徐福展示館」とに分けられた二つのかなり大きな建物があって、私も2009年に訪れたことがある。それらの中には、徐福が乗ってきた船や推定の航路なども大きな絵で示されていた。徐福の石像や「徐市過之」の古代文字のレプリカもあった。徐福の船団はその後、日本へも渡ったということで、佐賀県の佐賀市、三重県の熊野市、和歌山県の新宮市、鹿児島県の串木野市、宮崎県の延岡市などのほか、山梨県の富士吉田市や東京都の八丈島にも、徐福来航の伝説は残っているようである。

 しかし、徐福は不老不死の妙薬を手に入れることができずに、結局、莫大な資金を無駄にしたまま、始皇帝のもとへは帰るに帰れず、姿を消してしまったらしい。待ちわびていた始皇帝も、紀元前210年、5度目の中国全土巡行の旅の途中であっけなく病没してしまった。享年50歳であったという。私はふと思うことがある。不老不死の妙薬などあるはずもないが、たとえば、2,200年の時差はあるにしても、「シルバー・バーチの霊言」は立派な「不老不死の妙薬」ではないのか、と。そして、現在のこのホームページで紹介しているような『新樹の通信』などを、もし、始皇帝が読むことができたとするなら、果たして、大船団を送り出してまで怪しげな「不老不死の妙薬」を手に入れることに執着したであろうか、などと考えたりもする。



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   昨年の二度の手術とサボテンの開花   (2013.10.21)


 私が、かかりつけの医師から大腸がんを告げられたのは昨年6月中旬で、その頃、年に一回、数時間だけ花を開かせてきたベランダのサボテンが開花しました。ところがこのサボテンは、地元の病院で大腸がんの切除手術を受け7月17日に退院してきますと、2回目の花を開かせたのです。大腸がんの手術で腹部動脈瘤も見つかりました。サボテンの開花はその後も続いて、都心の大学病院で腹部動脈瘤の手術で入院するために家を出ようとした10月12日の朝、7回目の花を開かせました。その年に限って7回もの開花を繰り返したのが不思議で、霊能者のA師に聞いてみますと、「霊界の存在たちがあの世から生命力を送ってきていた」からだそうで、その生命力のお陰で私の二度の手術は無事に終わったということでした。

 その2箇所の病院へは、その後も2、3か月おきくらいに検査に通っていますが、大腸がんはCT検査などの結果、いまのところ異常はないようです。去る10月18日には都心のほうの病院へ行ってきました。腹部動脈瘤の手術からはちょうど1年が過ぎたことになります。心臓の血管の一部の流れがあまりよくないので、血液の流れをよくする薬を飲み続けているほかは、特に問題はないということでした。A師によれば、霊界からの支援はいまも続いているということですが、そのせいか、今年もベランダのサボテンは異常なほどの開花を繰り返しました。5月21日に最初の4個を開花させた後、9月11日に最後の4個を開花させるまで、数えてみたら11回で花の数は合計で29個になっていました。

 このサボテンは12, 3年前に娘からもらったもので、その頃は15センチくらいでした。それが、いまは2メートル近くにまで大きく伸びています。何年もの間、開花はなく、私は花は咲かないものと思っていましたが、2010年の6月に初めて花を咲かせました。花の数は二つであったと思います。年一回、それも数時間でしぼんでしまうので、私はこの開花を見逃さないようにして写真に収めてきました。次の年、2011年には、7月2日に花が一つ開きました。ところが、昨年の2012年には、私の大腸がんと腹部動脈瘤の二つの手術にタイミングを合わせるように7回もの開花を繰り返し、今年は、それが11回にもなったのです。もしかしたら、これはサボテンの開花の珍しい記録になるのかもしれません。

    開花日と花の数(括弧内)
     5/21(4) 、5/22(4)、6/16(1)、6/19(7)、6/29(2)、7/22(1) 、
     7/30(2)、8/5(1) 、8/12(1)、8/27(2) 、9/11(4)  【11回=29個 】 



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   死の捉え方によって人生は変わってくる    (2013.09.16)

 
 この世の中に生きていくうえで、私たちは好むと好まざるにかかわらず、日常的にいろいろな課題に取り組まされ、それらの解決を迫られるのが普通である。時には、自分の力では克服できそうもない難問に遭遇することもある。そういうときに、一番大切な解決のための要点は、おそらく、死をどのように捉えていくかということかもしれない。だからこそ、古来、洋の東西を問わず、聖賢・覚者は、聞く耳を持つ者には折に触れて、死の意味を様々な形で教えようとしてきたのではなかったか。

 もしも死がすべての終わりであり、肉体も魂も完全に消滅してしまうと考えているのであれば、この短い人生を出来るだけ幸せに生きていくためには、何よりも金銭や地位名誉にしがみつくことが必要であるかもしれない。大きな家に住み、豪華に着飾って、他人からも羨ましがられることを期待する。死んでしまえば天国も地獄もないのだから、死後の安らぎなどあるはずもなく、因果応報の罪も罰もない。そして、死をなによりも忌み嫌い怖れるがゆえに、いま生きている間に、他人を押しのけてでも、自分だけは、さらに少しでも多くの財産を手に入れようと躍起になる。

 しかし、生命が永遠の存在であり、自分も死ぬことはないと知れば、ものの見方が全く変わってくるはずである。永遠の視野のなかでは、いま自分が抱えている「難問」も、取るに足らない些事の一つになってしまうであろう。金銭のみを追い求めたり、贅沢に暮らしている他人を羨ましがったりすることが、いかに無意味で愚かなことか誰の眼にも自明になる。だから、問題は重大ではあるが単純である。まず、本当に死はすべての終わりなのか、あるいは自分は死ぬことはないのか、を真剣に考えてみることが大切である。自分の理性で納得できるまで、考え続けていくことが求められている。それが、自分とは誰かを知ることであり、いま生きていることの目的を知ることにも繋がっていくのであろう。



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    30年ぶりに聞く長男の声           (2013.08.30)


 大韓航空機事件の翌年に出版した『妻と子の生きた証に』(北都出版、1984年)のなかで、潔典(きよのり)の札幌北高校時代の担任であった菊池隆先生が、つぎのように書いてくださっている箇所がある。

 ・・・・・・武本君に最後に会ったのは、かれが、大学1年の9月、本校の学校祭のときである。大学では、「テープコーダーを持って、街頭に出て、外人との会話を録音して来なさい」と、きびしくされていると話していた。
 最後のことばは、「また、来ます」だった。
 しかし、武本君とは、もうこの世では会えない。あの笑顔を見ることができない。あのはずんだ声をきくこともできない。昨年の9月、突如として、あのいまわしい事件が起こつたからである。(「武本潔典君を偲んで」258頁)

 このなかの「外人との会話を録音」したテープが遺品を整理しているうちに出てきたので、昨日、お墓詣りへの車の中で聞いてみた。銀座に近い路上で、ドイツから来たというビジネスマンと英語で話し合っている10分ほどの内容がテープに入っていた。そのドイツ人の英語は、英米人とほとんど変わらない。浅草の仲見世や浅草寺を初めて訪れた時の印象などを早口でしゃべっているが、潔典との会話を楽しんでいるようにも聞える。潔典が相槌を打ったりしながら話を誘導して、ドイツの下町風の街との文化比較などにも触れたりしている。

 私が潔典の声を聞くのは、1983年の8月30日にアメリカで別れて以来30年振りである。潔典が英語劇のなかで演技しながら台詞をしゃべっているヴィデオは持っているが、それは演技上の英語である。このように自然に英語を話しているのを聞いて、懐かしい気がした。今日、もう一度聞いてみた。やはり声が若々しい。このときの潔典はまだ19歳である。かすかに子供っぽい響きも残っているような気もする。そして、ちょっとはにかんでいるような表情を想像したりもする。その潔典の声を聞いているうちに、今日の2013年8月30日が、ちょうど30年前の、1983年8月30日であるかのような錯覚を、ふと覚えたりした。



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    アン ・ ターナーの命日に憶う           (2013.08.22)


 今日はアン・ターナーの命日である。彼女は2010年の8月22日に霊界へ還っていった。彼女のウェールズの自宅には、いま夫君のトニーがひとりで住んでいる。墓も近くの丘の上の墓地にあるらしい。私は毎年トニーに心ばかりのお花料を送って、この日にはアンの墓前に花を手向けてくれるように依頼してある。今日もウェールズの彼女の墓には、私からの花が飾られていることであろう。

 アン・ターナーとは、私はロンドンで会うべくして会ったことが、いまではわかっている。それは彼女の指導霊である Teacher Chang を通じてであった。Teacher Chang は中国古代の高位霊で、彼女は霊視で見えるその大先生の容貌を自分でスケッチして、それを祭壇の上に掲げていた。霊界では私の長男の潔典がこのTeacher Chang に依頼し、それを受けて大先生が、大英心霊協会でアンと私を逢わせたということのようである。

 その頃のアン・ターナーの家は、ロンドン郊外のロチェスターにあって、私の家からも近く、歩いて行くことができた。一度、そのアン・ターナーの家で、私はTeacher Chang から頭を優しく抱きかかえられたことがある。何年も苦しんできた私を憐れんでくれたのであろう。それはその時の感じでわかった。しかし、現実に私を抱きかかえているのはアンである。私はちらっとアンの目を見たが、それは深く沈んで空虚であった。霊界と交信している時のアンは、そのような自分の動作は何も覚えていない。そんな時に、仮に腕や足を切り取られたとしても、何の痛みも感じないだろうと、アンは目覚めたあとで言った。

 アン・ターナーは、Teacher Chang の指示があったからであろうか、私が霊的感性を高めていくように、実に熱心に指導を続けてくれた。私のために時間をかけて瞑想用のテープを作成してくれたこともある。霊界からのメッセージを受け止められるように、初歩的な練習もさせられた。しかし、私はまったく進歩しなかった。私の霊感はよほど鈍いようである。彼女からのメッセージを録音したテープは数十本にのぼるが、それらも、ごく一部をホームページや著書に載せただけで、大半はまだ未整理のままである。霊界にいる私の家族とともに、彼女はいまも私を見守ってくれていると思うが、近い将来、私が霊界へ還って行った時には、まず私は、自分の不勉強と鈍感さを彼女に詫びなければならないのかもしれない。



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   30年前のアメリカの暑い夏の日の思い出      (2013.08.07)


 1983年8月5日、30年前の昨日、私はノース・カロライナのローリーをその前日に車で出発して、留学生であった長女の由香利を乗せてニューヨークへ向かっていた。私はフルブライト上級研究員として二年目に入る滞米生活を送っていたが、当時東京外国語大学三年生であった潔典が母親と共に、その日ニューヨークに着くことになっていたのである。

 《ハイウェイを疾走しながら、ニューヨークの摩天楼群をはるかに遠望できたのはよかったのだが、どこをどう間違ったか、ニューヨーク市の郊外に出てしまった。
 引き返して、またさんざん道に迷ったあげく、午後四時、やっとケネディ国際空港にたどりつく。九年前に較べて道路が複雑になってしまっているようだ。
 駐車場に車を入れ、五時間近くも待って、KAL機で到着した富子と潔典に再会する。ニューヨークも二回目だから、特に感激はないのかもしれない。二人とも当たり前のような顔をして、気軽に出てきた》と、その日の日記に私は書いている。

 その日から8月30日まで、アメリカの東海岸を旅行したりローリーの自宅でくつろいだりして、私たちは一家団欒の日々を過ごした。その夏は、例年になく35度にもなるような暑い日々が続いていた。8月27日には、近くのアムステッド州立公園へ行き、木立の中でバーベキューをするのが最後の予定であった。その材料を仕入れるために、みんなでスーパーマーケットのウインディックスへ行った。私と潔典がいっしょにカートを押し、そのあとを、富子と由香利がゆっくりとついてくる。広い店の中はひんやりとして、冷気が心地よかった。

 バーベキュー用の牛肉が並べられてある所へ来た時、その中の巨大な、一キロ半はありそうな牛肉の塊を指さして、ふと潔典は、「こんなビフテキを、死ぬまでに一度は食べてみたいな」と言った。私は笑い出した。「死ぬまでに一度」と言ったのが、小さな影を落したが、その時の私には、気にとめるほどのことではなかった。「いくらお前でも、それは無理だ。こちらにしろよ」。私はそう言って、その半分くらいのを潔典用にえらんだ。潔典はにこにこしながら私に従った。天性の明るさと純情さで、彼はこんな時にも決して自己主張はしなかった。その3日後、富子と潔典は、ローリーを発ってまたニューヨークへ向かい、あの大韓航空機で帰国の途についた。しかし、富子と潔典は、日本へ帰り着くことはなかった。

 今年はそれから30年になる。いま東京で迎えている8月6日も朝から暑い。今日はまた、広島へ原爆が投下された日である。その後、長崎にも原爆が投下されて日本は無条件降伏したが、それからも、数えれば68年にもなる。大きな苦しみや悲しみもすべて呑み込んで、大河が滔々と流れるように歳月も間断なく流れてきた。これからも歳月はこのように、静かに、確実に流れていくだろう。そして、その流れを全身で受け止めていくには、気力も体力も要る。この30年の間にも、私は何度かアメリカの夏を体験しているが、もうこれからは、アメリカで夏を過ごすことは、多分、ない。日本でも今日の8月6日は、この日一日だけをとってみても、私にとっては、もうあまり繰り返されることがないであろう時間の重みがある。(2013.08.06)



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   なぜ真理のことばが受け入れられないのか    (2013.07.10)


 一昨日(2013.07.08)の「学びの栞B」(2-zd)には(あなたは死にたくても死ねないのである)とタイトルをつけて、「あなたは永遠に不滅なのである。永遠に生き続けるのである。死にたくても死ねないのである。この事実を受け入れさえすれば何もかもが一変する」というM.H.テスターのことばを引用した。彼はまた、次のようにも言っている。

 「永遠に生き続けるという視点から見ると、何もかもが違って見えてくる。かりに今一つの問題を抱えているとする。それを百年後に振り返ったらたいしたことに思えなくなっているであろう。まして二、三千年後に別の世界でのびのびと生活している時に振り返ったら、バカバカしくて話にならないことであろう。」

 テスター自身が、シルバー・バーチの教えも受けていて、患者から治療費を受け取らない心霊治療家でもあったが、このような重大な「真理のことば」は、私が「学びの栞」にまとめただけでも、シルバー・バーチのものを含めて、決して少なくはない。もしかしたら、少なくはないが故に、またかと聞き流されてしまうことも、あるのかもしれない。「何もかもが一変する」はずの、これほど重大な真理のことばであっても、一般にはなぜ容易には受け入れられないのであろうか。

 そんなことを考えたりしていると、ふと、『歎異抄』の第9条が頭に浮かんできたりする。「遠い昔から今に至るまでめぐってきた苦悩の多いこの世を去るのは嫌がり、何の心配もない安らかな浄土へは行きたいと思えないのは、よくよく私たちの煩悩が強いからに違いない」という親鸞のことばである。何よりも死を怖れながら、それでいて重大な救いのことばを聞いても、「飛び立つようなうれしさ」が感じられないというのも、やはり、深く身に染み付いている煩悩のなせる業なのであろう。



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