引き継がれていく「わだつみのこえ」 (身辺雑記 61) 「わだつみ平和文庫」(中村 徳郎・克郎記念館)エントランス (2008.10.25 筆者撮影) 日本戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』が1949年の秋に岩波文庫から刊行された時には、二十数万部のベスト・セラーとなって、当時の多くの人々に深い感動を与え続けました。その後、この本は、東京大学出版会や光文社からも、形を変え、続編として出版され、映画にもなりました。1997年の秋には、新版 『きけ わだつみのこえ』 が、同じく、岩波文庫として出版されています。 この『きけ わだつみのこえ』の出版に当初から関わってきたのが、甲州市の塩山で、産婦人科医として地域の医療に貢献してきた中村克郎氏です。この中村克郎氏の強い意志と献身的な努力がなければ、おそらく、累計百数十万部といわれる 『きけ わだつみのこえ』 も、世に出ることはなかったでしょう。中村克郎氏は、岩波文庫の旧版「あとがき」のなかで、本書が刊行されるまでのいきさつを詳しく書いていますが、そのなかに、小田切秀雄氏の次のようなことばを引用している箇所があります。 《……本書について語りたいことは尽きない。ここにおさめられたどの一つをとっても、そこには、日本軍隊とその侵略戦争という『死の家』に投げこまれて、やりばのない苦悩で傷ついている若い魂とその破壊された生活とがなまなましく裸身をさらしている。強い個性はデスペレートになり、しっかりとめざめた理性は「一切が納得が行かず肯定が出来ない」(中村徳郎)と言い切ったが、多くの者にとってその苦悩はただちに諦めへしいて自ら片付けてしまう以外にどうしようともないようなものにほかならなかった。》 この、「一切が納得が行かず肯定が出来ない」と書いた中村徳郎氏が、実は、中村克郎氏の実兄です。それは、昭和19年6月20日午前8時、「父上母上様、弟へ、門司にて、徳郎」と書かれた徳郎氏の最後の手紙のなかのことばでした。手紙の全文は本に掲載されていますが、そのことばの前後は、つぎのようになっています。 《・・・・・今の自分は心中必ずしも落ち着きを得ません。一切が納得が行かず肯定が出来ないからです。いやしくも一個の、しかもある人格を持った「人間」が、その意志も行為も無視されて、尊重されることなく、ある一個のわけもわからない他人の一寸した脳細胞の気まぐれな働きの函数となって左右されることほど無意味なことがあるでしょうか。自分はどんな所へ行っても将棋の駒のようにはなりたくはないと思います。》 (新版、250ページ) 旧制の第一高等学校を卒業して東京帝国大学へ入学したその日に兵役に服すことになった徳郎氏は、「一切が納得できない」この戦争に駆り出されることが、どれほど不本意なことであったことでしょう。知り合いの東大地理学科の辻村教授が心配して、徳郎氏を、戦車部隊の所属であったのを、死ぬ確率からいえば比較的安全な陸軍の気象班に移そうとしますが、しかし、徳郎氏は、「不正をしてまで自分の命を保とうとは思わない」と、辻村教授の斡旋を断ります。そして、この最後の手紙のあとは、しばらく音信不通が続いて、ご両親のもとへは、「昭和19年10月21日、比島(フィリピン)レイテ島において戦死せらる」の紙切れ一枚だけが入った骨壷が届けられたのです。お父上は、涙を流しながら、「徳郎のことだ、いつか帰ってくる」と言い続けて、葬式なんかしたら死んだのを認めることになってしまうからと、とうとうお葬式もしないままであったそうです。 弟の克郎氏は、七つ違いのこの兄・徳郎氏を深く慕っていました。その弟に、徳郎氏は、兵隊になってからも、「いま軍服を着て肩で風切っているやつらは、いまにきっと背広を着て肩身の狭い思いをして歩かなくちゃならない時代が来る。日本は敗ける。しかし自分はそれを見ることはないだろう」などと言っていたようです。克郎氏が兄の徳郎氏に会ったのは、1944年の6月7日、習志野の部隊での面会が最後になりましたが、その時に、そばに立会いの兵隊がいないときを見計らって、徳郎氏が上着の下から一冊のノートを取り出します。徳郎氏はそれを、「日本戦没学生の手記だ」と言って克郎氏に手渡しました。それが、徳郎氏が兵営内でこっそり書きつけていた手記で、後の、『きけ わだつみのこえ』の源流となったノートです。 敗戦後、克郎氏は東京大学を出て産婦人科医になりますが、兄の遺志を受け継ぎ、『きけ わだつみのこえ』の出版に携わったほか、核兵器廃絶や平和運動に率先して関わるようになりました。前述の『きけ わだつみのこえ』の旧版「あとがき」で、克郎氏は、こうも述べています。 《個人であれ、国家であれ、武器によって古来平和がたもたれたためしがあるか。癌と軍隊は似ていて、癌は人間の個体をほろぼし、軍隊は人類をほろぼす。これは真理である。不信は不信をよびおこし、暴力は暴力を生み、怨みは怨みを買い、核兵器を含めて一切の軍備は相手を制圧しようとしてお互いにとどまることを知らない・・・・・不信や憎しみをなくさなければならない。一切の軍備は廃止されなければならない。そうしなければ、滴るような死でなく、絞るような死を死んでいった死者たちの霊は浮かばれまい。それが生き残った者たちの、あまりにも当然すぎるほど当然なつとめではないか。》 しかし、これを書いた克郎氏も、1970年から1993年までの23年間、すでに全国的な平和運動の組織になっていた「わだつみ会」の理事長をつとめたあと、1999年に交通事故で倒れ、83歳になったいまは重い病床にあります。その克郎氏の「戦争の否定と軍備の廃絶」の志をさらに引き継いでいるのが、ご息女のはるね氏です。はるね氏もまた、お父上と同じく産婦人科医になりました。銀座の「はるねクリニック」の院長として著名ですが、忙しい医療活動の合間に、多くのボランティアの方々とともに3年を費やし、甲州市塩山の中村医院を改装して「わだつみ平和文庫」(中村徳郎・克郎記念館)開設のために心血を注いできました。 先日、10月25日に、その「わだつみ平和文庫」の開館記念の式典とコンサートが甲州市の塩山で、数百人の人びとが集まって盛大に行なわれました。中村医院の建物は、いまでは10万冊を収容する「わだつみ平和文庫」となって、わだつみ資料室、戦争と平和を考える部屋、天皇に関する部屋、こどもと平和を語る部屋などに分けられ、一般に公開されています。この平和文庫の開館にあたって、中村はるね氏は、『はるかなる わだつみ』 と題する開館記念ブックレットやパンフレットを編集していますが、そのなかで、氏は、次のように書いて支援を訴えています。 《1944年6月7日、伯父中村徳郎が弟克郎に託した一冊のノート「日本戦没学生の手記」は、1949年『遥かなる山河に』から『きけ わだつみのこえ』となって海神の彼方より聞こえております。学業半ばにして無念にも戦禍で亡くなられた10万人以上の学生さん、いまだに世界中で戦渦に命を落とされている方々の冥福を祈り、父や伯父の集めた本や資料・その軌跡を展示致しました。父が産婦人科医師をしながら原稿を書き続けた場所が、今「わだつみ文庫」となってあらゆるジャンルの本一冊一冊に命を蘇らせています。 10万冊の図書の整理の大変さは世界平和を願う大変さでもありました。ドアをいっぱいに開いて学生さんはもちろん、お子様からお年寄りまでお待ちしております。 平和を願う皆様のお力でこの「わだつみ平和文庫」を育ててください。》 ***** わだつみ平和文庫(中村徳郎・克郎記念館) 〒404-0042 山梨県甲州市塩山上於曾1085 電話:0553-32-4525 E-mail: wadatsumi_peace@yahoo.co.jp 開館時間: 午前10時〜午後4時 定休日: 毎月第1-3-5の土・日曜日 祝日の翌日・年末年始 その月の最後の日 (2008.11.01) 二十五年の歳月 (身辺雑記 60) 稚内・宗谷岬高台に立つ「祈りの塔」 左側に犠牲者269名の氏名、右側に「碑文」 が刻み込まれている。少し離れて左端に 「事件概要」を和文と英文で刻んだ石碑が ある。 筆者撮影 (2003年9月) 世界史の転換点ともいわれてきた大韓航空機事件が発生して一年後、私は『妻と子の生きた証に』と題する追悼の書を出版したが、その本の「あとがき」を、つぎのように書き始めている。 《一九八三年九月一日午前三時二十六分、ソ連戦闘機のミサイルによって、富子と潔典はKAL〇〇七便の機体とともにサハリン沖モネロン島附近の海上に落ちていったらしい。今もなお、昨年八月五日の早朝、アメリカへ向かった時のままの東京の家の部屋に姿をあらわさないところをみると、どうも、そのことは事実のようである。 しかし、撃墜されてしまったためにこの二人がもう私のもとに帰ってくることはないというのは、いったいどういうことなのか。過去一年余の間、私は毎朝、目を覚ます度毎にこの問いを突きつけられながら、それに答えるのを、ひたすらに避けようとしてきた。そのために、目を覚ますのさえ恐れて、つい眠ってばかりいるようにもなった。私は今もその「事実」を真正面から全身で受けとめる気力はない。現実とは遊離した架空の世界を自ら作りあげ、その中に逃げこむことによって、辛うじて生きながらえてきたのである。》 これは、いま思い返してみても、苦しく、悲しい体験であった。私は、このまま眠り続けて目が覚めなければ、少しは楽になれるかもしれないのに、と思ったりしたぐらいである。しかし、妻と長男のために、追悼の本だけは、どうしても書かねばならなかった。私は、この「あとがき」を次のように続けている。 《そういう不安定な精神状態の中で、この本は「事実」を前提として作られていった。私にとってはほとんど耐えられぬ辛さで、これからも逃げ出したかったのだが、何しろ潔典は、今年の四月から、彼の好きであった東京外国語大学の四年生である。来年の春には卒業で、友人達とも離ればなれになってしまうから、作るのなら、そうなってからでは遅い。こういう時に本一冊作れず、架空の世界に身をおいたままでは、何が夫の甲斐性か、何が父親の愛情かというような声も頭の中をかすめたりする。私はもうこれ以上、富子と潔典に対して「罪」を重ねることは出来ないというような切羽詰った気持で、のろのろと作業を進めてきた。 あの時、ローリー・ダーラムの空港で見送った富子が、好きな本を読みながらくつろげるわが家にいまだに帰ることができないでいるのは、夫としての私の責任である。まわりの誰からも好かれながら有望な言語学者として育っていくはずのあの潔典を夷狄の手で散らせてしまったのは、父親としての私の無能である。それはどう考えても取り返しのつかない私の一生の不覚であった。私は、夫として父親として、その責任遂行能力を富子と潔典から信頼されてきたと思うが故に、自分のこの不覚を許すことができない。このような「事実」をもたらせたすべての者を私は決して許さないが、それと同時に、私は自分自身をも決して許すことができないのである。 「人間の命は全地球よりも重い」というようなことばは、おのれのためだけにとっておいて、国家とか軍とか防衛とかのしらじらしい名のもとに、他人の二百や三百のいのちなど、塵あくたのようにしか考えない不逞の輩が、ソ連にもアメリカにもいるということを、そしてKALのような粗暴な飛行機にはまかり間違っても乗せてはならないということを、私は何故今頃になってはじめてわかったように後悔していなければならないのか。「生きる」ということは、愛するもののいのちを守ることであり、「かくされた悪を注意深くこばむ」ことでもあったはずではなかったか。そのような思いが胸を去来する中でのこの本の編集は、私にとっては苦しくつらい一つの贖罪の行為であった。》 私は、悲嘆のどん底から這い上がれぬままに、ほとんどうめきながらこの本をまとめていった。富子と潔典の友人、知人、恩師などから、多くの追悼文が寄せられ、旧知の谷川俊太郎氏からも富子と潔典のための追悼の詩が届いた。私は、事件の翌年、一九八四年の末には、なんとか三五〇ページあまりの本をまとめあげていた。しかし、それで深く傷ついたこころが休まったわけでは決してない。続けて私は書いた。 《今この本をまとめ終え世に残すに当って、私の全身を突き抜けていくのは、すさまじいばかりの空しさである。いったい何がはじまり、何が終ったというのか。私の命にもかえがたいもの、私にとってのすべてが失われたあとでは、何ごとのはじまりもなく、終りもない。あるのは依然として広漠とした「無」の世界のひろがりだけである。私はこれからもまた、現実と架空の世界の中を行ったり来たりさまよいながら、惜しくもない余命を惰性的につないでいくことになるのであろうか・・・・・》 こう書いてきて、このあとで私は、いま自分で考えてもちょっと思いがけないようなことをつけくわえている。次のようにである。 《しかしそのような私に、富子と潔典が語りかける声がかすかに聞こえてくるような気がする。無明の闇の中にいる私には、まだその声は、はっきりとは聞きとれないが、五濁悪世のしがらみから少しでも抜け出て、私たちが異なった世界に生きはじめていることの意味を理解するように、教えてくれようとしているのかもしれない。それは次元を越え時をも超越した永遠の生命と真理のための語りかけでもあるのであろうか。これからの私は、少しずつ、そのような富子と潔典からの声をきちんと受けとめていくことができるよう「対話」のための勉強をしていかねばならないであろう。 それも私にとっては、おそらくもう一つの贖罪の行為であり、この世になお生き続けていくためには避けられない、ほとんど唯一の可能性の摸索でもあると考えている・・・・・》 当時の私は、霊魂とか死後の世界などという「非科学的な」事象については、少なくとも外面的には、まったく受けつけていないはずであった。霊的なことなどは口にすべきでないという浅はかな「大学教授の矜持」に惑わされてもいた。しかし、その私が、ここではこのようなことを書き始めている。 実は、この「あとがき」を書く少し前に、ふと思いついて、富子の友人のA女史を訪ねたことがあった。彼女は、札幌の北区でいまも運命鑑定などをしているすぐれた霊能者である。富子は、「私は運命鑑定など信用しないわよ」などと言ったりしながらも、時折彼女と会っては気のおけない話し合いを楽しんでいた。私が富子を車で彼女の家の前まで送っていったこともあるが、私自身はA女史とは初対面であった。私はそのときのことを、この追悼の書の翌年に出版した『疑惑の航跡』(潮出版社、1985、312-313頁)のなかで、こう触れている。 《「もうそろそろ、お見えになる頃だと思っていました」 と、私の顔を見るなりいきなり彼女は言った。 その時の私は、「溺れる者は藁をもつかむ」心境であったかもしれない。何でもいいから、こころの支えが必要であった。 A女史はそういう私の状況もわかっていたらしい。 ぽつりぽつりと語る私のことばに耳を傾けたあと、 「まだこれから三年は苦しまれるでしょうね」 と、私に同情を示した。 彼女は事件のあと、富子と潔典のために二週間の供養をしてくれたのだという。そして、霊界の富子とも潔典とも話をしたということもつけ加えた。 このことは私を驚かせた。 彼女は静かに語りだした。 「霊感を感じましてね、精神を統一していると清らかな雰囲気に包まれて潔典さんが現われたんです。私は最初それは富子さんだと思ったのですが、よく見ると潔典さんでした……」 私は内心の動揺を抑えながら黙って聞いている。 (そんなことが本当にありうるのであろうか) まさか、と思う。その時の私は、霊の世界については全く無知であった。 彼女は続けた。 「潔典さんはですね、はじめに『ありがとう』っておっしゃって、それから『楽しかった』と言われました。私が、『アメリカ旅行が楽しかったのですか』と聞きますと、潔典さんは『いいえ、アメリカ旅行だけではなくて、今までの生活がすべてです』と答えられました」 ここまで聞いて、私はこころの中で思わず「あっ」と叫んでいた。 これも直観である。 「ありがとう・・・・・楽しかった・・・・・今まので生活がすべて・・・・・」 これは潔典のことばだ。父親の私にはわかるのである。私は涙をぽろぽろと落としてしまった。 A女史の話はそれからもしばらく続いたのだが、聞いている私はもう上の空であった。 あまりにも不思議な気がして、三日後にはまた彼女を訪れ、その潔典のことばをもう一度確認したりしている。 その後何度か足を運んでいるうちに、富子からのことばもいろいろと聞いた。 「どうか、いつまでも悲しまないで下さい― 由香利に夢を、いつも明るい希望を・・・・・」 と、語りかけられたりした。》 私が「追悼書」の「あとがき」に、「富子と潔典が語りかける声がかすかに聞こえてくるような気がする・・・・・・」と書いたのは、この体験があったからである。私は、少しずつ聖書や仏典などを読みはじめていたが、それからは、ケネス・リング、レイモンド・ムーディ、モーリス・ローリングスの近似死体験に基づく死後の世界に関する研究書や調査報告などをひもとくようになった。霊界について書かれた本も、高橋信次や大川隆法のものなども含めて次々に読んでいった。 私にとって死後の生命は、信じるか信じないかの問題ではなくなっていた。私が生き続けていくためには信じなければならない絶対的条件になっていた。それに、もしかしたら、富子と潔典のこれらのことばは、私が少しずつ現世の「無知」から脱却していくための手がかりを与えてくれるかもしれない。そう思った私は、一九八五年の春に、長年勤めていた小樽商科大学を退職し、東京の私大に移ってからも、この「無知」からの脱却を試みる模索を続けた。 しかし、私が札幌から東京へ移ったのは、できるだけそれまでの人目を避けたいという思いのほかに、事件の翌年に、国会議員、航空専門家、弁護士、著述家、市民運動家などを中心に東京で設立された「大韓航空機事件の真相を究明する会」の代表理事の一人として、事件の真相究明活動を続けるためでもあった。苦しかったが、ここでもやはり、ほとんど呻きながら、真相を訴えるために、新聞に書き、雑誌や本に書き、テレビにも出た。前記の『疑惑の航跡』も、一九八五年春、東京へ移ってからまもなく、潮出版社から薦められて書いた本である。このなかの「あとがき」に、私は真相究明活動の経過にふれたあと、こう続けた。 《・・・・・一つだけ述べておきたいことがある。 昨年秋、遺族会総会の日に、大韓航空機事件を追って精力的な仕事をしておられた柳田邦男氏は、私たち遺族を前にして新しく出たばかりの『撃墜』(下)の内容をまとめてお話し下さった。 柳田氏が打ち出した仮説は『ナブ』切換えミスである。KAL〇〇七便は、出発時にINSのモード・セレクタースイッチをNAVモードにする前に機体を動かしてしまった。そのためにINSの現在地点のデータが狂い、結果的には五百キロ以上の航路逸脱を惹き起こした、というものであった。 この氏の仮説については、その後、十二月十四日の『朝日ジャーナル』で、杉本茂樹氏が航空技術者の立場から、「その論拠の核心部分において、信じられないような初歩的ミスを犯している」と反論しているが、ここで述べたいのはそういうことではない。 『ナブ』切換えミス説の解説が終わった時、私は、是非、柳田氏にも聞いておきたいと思っていた一つの質問をしたのである。「アメリカはこのようなKAL〇〇七便の大幅な航路逸脱を知っていたと思いますか」という質問であった。「知っていたと思いますね」と、ことも無げに柳田氏は答えられた。 つまり、柳田氏の事件のとらえ方は、「KAL〇〇七便はたまたま人為ミスでソ連領空を侵犯してしまったのだが、アメリカはそれを知っていても警告しなかっただけだ」ということになる。 しかし、それはそうではないであろう。 本書では一部の根拠しか述べていないが(より具体的な根拠については、「真相を究明する会」会員諸氏の『世界』一九八五年五月号、『宝石』一九八五年六月号などの論文をご参照いただきたい)、あのKAL〇〇七便はおそらくアメリカに強制されて故意にソ連の重要軍事基地の上空に侵入したあと、ソ連戦闘機の警告を無視して逃げようとし、そして、予想に反して撃墜されてしまったのである。 大韓航空機事件は、一般の航空機事故とは全く異質であって、あのブラック・ボックスが見つからなかったから真相の解明が困難だというものでは決してない。 真相ははじめからわかっていた。ただそれを、日韓を含めたアメリカ政府側がひたすらに隠してきただけにすぎない。そのことは、最近の防衛庁の資料で〇〇七便の意図的な領空侵犯が「証明」されてしまったいきさつからも、裏づけられているといえるであろう。 もっとも、そういう風に考えるようになっても、まだ隠された部分が多く残っているし、それだけで私たち遺族の真相究明の「悲願」が達成されたわけではない。私自身はむしろ、アメリカが好きであった妻や子のためにも、アメリカ政府の犯罪を確信することに一層の苦しみと悩みを感ずるだけなのである。 突飛な言い方になるかもしれないが、できればどなたか、確実な証拠と明快な論理で私たちの「確信」を突き崩していただけないものか。アメリカ政府は私たちの家族に対して決して犯罪を犯してはいなかった、ということを私たちに納得させて下されば、私たちもそれによって少しは救われるかもしれない。 本書を書き終えたいま、アメリカ政府の犯罪に確信をもちながらも、私はまだ苦しまぎれに、そのような「期待」さえ捨てきれないでいる。》 (337-339頁) この真相究明活動は、何年も続いた。理不尽な事件であっただけに、犠牲者の遺族として、その真相を究明することは避けて通ることができない義務である。真相究明こそが、犠牲者に対する何よりの供養であると私は信じていた。多くの有能な会員の方々によって、頻繁に、そして熱心に続けられた「究明する会」の活動に参加する傍ら、個人としても、「真相を究明する遺族の会」をつくり、ほとんど毎週のように、「APPEAL」と題する広報紙を発行して「犠牲者のために真実のことばを」「人道と正義のために真相の究明を」と訴え続けた。 「真相を究明する会」の発足後四年を経て、一九八八年に会員諸氏による『大韓航空機事件の研究』(武本昌三編)が三一書房から出版された。これは、五百頁を超える大著で、多くの類書のなかでは、おそらく、事件の真相に迫るもっとも信憑性の高い研究成果と自負してもいいかもしれない。私個人の、広報紙「APPEAL」も、一九九〇年一月まで、二百七十二回発行し続けた。そのあとで、私は、ロンドンに長期滞在することになる。私の真相究明活動についてのかかわりは、ここで、一時、中断される形になった。 真相究明活動を続けている間、その一方で私は、霊的真実を学ぼうとして、霊界に関する本などをいろいろと読み進めていったほか、霊能者がいるといわれる複数の宗教団体にも度々足を運んでいた。霊界の妻や長男から、少しでも具体的で真実性の高いメッセージを受け取ることに執心していたからである。ロンドンへ行ってからも大英心霊協会で、それは続いた。かなり頻繁に大英心霊協会に足を運んでいるうちに、遂に、転機が訪れた。それが、一九九二年二月一一日の大英心霊協会でのアン・ターナーとの出会いである。(その時の模様はこのH.P.の「アン・ターナーと私」=プロフィールE= にも書いた。) いつまでも苦しみから抜けきれず、このうえは、東京に残していく娘にも、一人で生きていくことを教えておかねばならない、と悲痛な思いを抑えての渡英であったが、私はこの日、初めて、霊界の実在と、妻と長男の生存の事実を知ることができたのである。それは、ゆるぎのない確信であった。その後、帰国してからは、私は、自分の体験をもとに、霊界の真実について、書いたり、人前で話したりするようになった。そして、いま私は、事件後二十五回目の「九月一日」を迎えようとしている。 いま改めて、冒頭に引用した自分の文を読み返してみると、私は何故あれほどまでに苦しんだのだろうと思ったりもする。長年、大学で「真理の探究」に関わってきたはずの私は、最も大切な霊的真理については、あまりにも無知であった。「知らない」というのはどうしようもなく恐ろしいことである。いまは、しみじみとそう思う。しかし、そのような長い、無明の闇を通り抜けることも、やはり私にとっては、避けて通ることのできない試練であったのであろう。 北海道の稚内市には、宗谷岬の、眼前に事件現場のサハリンを望む高台に、「祈りの塔」がある。犠牲者を悼んで遺族会と全国からの浄財をもとに一九八五年に建立された鎮魂の塔である。その石の壁には、269名の犠牲者の氏名のほか、英文と和文の事件概要と和文の碑文が刻み込まれている。いづれも遺族の一人として、私が書いたものである。ただ、碑文のほうは、さまざまな政治的配慮が干渉して、私の「愛と誓いを捧げる」の原文は不本意な修正を受けた。「ソ連」「アメリカ」の国名は削られ、真相究明の誓いも弱められたうえで、つぎのような「無難な」ものにされてしまった。(そのいきさつを私は、「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」岩波書店『世界』1985年10月号で明きらかにした。) 愛と誓いを捧げる あなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは いま全世界の人々から糾弾されています 事件の真相はかならず近い将来にあきらかにされるでしょう わたしたちはあなたたちの犠牲を決して無駄にはさせません わたしたちは生命の尊さと武力のおろかさを ひろく世界の人々に訴えていくことを誓います 愛しい人たちよ安らかにお眠りください この最後の「愛しい人たちよ、安らかにお眠りください」は、私の原文のとおりだが、私は、いまでは、これは間違いであろうと思っている。「愛しい人たち」は、元気に生きていて、決して眠ってなんかいないのである。せめて、「安らかにお過ごしください」と書いておくべきであった。 事件のあと、まったく生きることに絶望していた私は、25年の歳月を経て、はしなくも、まだ生き続けている。九月一日には稚内へ行って、「祈りの塔」の前で行なわれる慰霊祭に参加する。私の妻や長男を含めて、269名の犠牲者 (本当は「犠牲者」ということばもふさわしくないのだが) のために祈りをささげるが、私のこころのなかには、もう、かつての悲しみや空しさはない。事件そのものも、大きな天の摂理のなかで見直すことができるようになった。私はただ、深く頭を垂れてこの事件で先に霊界へ還って行った乗客・乗員の安らかな生活を祈り、霊界からの多くの指導に導かれていまの自分があることへの感謝の気持ちも、こころを込めて伝えたいと思っている。 この25年の歳月は、大きな悲嘆と苦しみを通して、私に深い魂の癒しをもたらし、明るく希望をもって生きていくことの意味を教えてくれた。 (2008.09.01) 母からの最後の贈りもの (身辺雑記 59) 今春、身近な親戚の葬儀に出席して、菩提寺の「葬儀を縁にして」と書かれた文書を読み、『子供たちよ ありがとう』(宝蔵館、1990年)の著者、平野恵子さんのことを知った。平野さんは、1948年生まれで、飛騨高山市の浄土真宗・速入寺の坊守(住職の奥さん)であったが、39歳で腎臓ガンの告知を受け、病床生活2年の後、1989年、41歳の若さで他界している。 平野さんには、三人の子供がいた。長男の素行ちゃんは、親の手に負えないほどの腕白な子で、二人目の長女、由紀乃ちゃんは、脳性小児麻痺による重度の障害児であった。はじめの頃の平野さんは、そんな子供を持ったことに深い絶望感を抱き、いっそのこと子供たちを殺して自分も死のうとまで思いつめたこともあったそうである。ところが、ある日のこと、いつものように元気に遊んで帰ってきた素行ちゃんが、身動き一つできない妹を抱きしめて、「お母さん、由紀乃ちゃんはきれいだね。顔も、手も、足も、お腹だって全部きれいだよ。由紀乃ちゃんはお家のみんなの宝だもんね」と、言ったのである。 そのひと言が、平野さんの目を開かせた。「気づいてみれば、由紀乃ちゃんの人生は、何と満ち足りた安らぎに溢れていることでしょう。食べることも、歩くことも、何一つできない身体そのままに、絶対他力の掌中に抱き込まれ、一点の疑いなく任せきっている姿は美しく、まぶしいばかりでした」と、彼女は述べている。しかし、ガンに侵された彼女は、その由紀乃ちゃんとも別れなければならない。素行ちゃん、それに、もう一人、次男の素浄ちゃんにも、今生の別れを告げなければならなかった。それがどんなに辛いことか、察するに余りある。彼女は三人の子供たちにこう書いた。 《お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。でも、事実は、どうしようもないのです。こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげれること、それは、死の瞬間まで、「お母さん」でいることです。 元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、素直に動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。》 こう綴ってきて、彼女は、「そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への最後の贈り物になるはずです」と書いた。死が「最後の贈り物」だというのである。彼女はさらに、続ける。 《人生には、無駄なことは、何ひとつありません。お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいの、いや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。子どもたちよ、どうかそのことを忘れないでください。 たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。それがお母さんの心からの願いなのですから。》(18-19ページ) こう書いてきて、彼女は、この手紙を、「お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。本当に本当に、ありがとう」という感謝のことばの繰り返しで締めくくった。世の中には、私たちの知らないところで、壮絶に生き、壮絶に死んでいく人が、いくらもいるものであろう。もとより、どのような死であれ、それぞれに、意味のない死はない。しかし、子どもたちの一人ひとりを精一杯に抱きしめながら、最後のことばとして天の摂理を教え、美しい大輪の花が散っていくように、従容として摂理に従っていく見事な死にざまを目の前にすると、私たちはただ、ことばもなく、強く胸を打たれるだけである。彼女は、死を前にして、子どもたちに次のような手紙も書き送った。 《由紀乃ちゃん、お浄土で待っております。あなたがその貴い人生を終えて、重い宿業の身体を脱ぎ捨てる時、お母さんとあなたは、共に風となり野山を駆け巡ることができるでしょう。梢を揺らして小鳥達と共に歌をうたうこともできるでしょう。》(36ページ) 《お母さんは“無量寿”の世界より生まれ、“無量寿”の世界へと帰ってゆくものであります。何故なら“無量寿”の世界とは、すべての生きとし生けるもの達の“いのちの故郷”そして、お母さんにとっても唯一の帰るべき故郷だからです。お母さんはいつも思います。与えられた“平野恵子”という生を尽くし終えた時、お母さんは嬉々として、“いのちの故郷”へ帰ってゆくだろうと。そして、空気となって空へ舞い、風となってあなた達と共に野を駆け巡るのだろうと。緑の草木となってあなた達を慰め、美しい花となってあなた達を喜ばせます。また、水となって川を走り、大洋の波となってあなた達と戯れるのです。時には魚となり、時には鳥となり、時には雨となり、時には、雪となるでしょう。・・・・・・・ “無量寿=いのち”とは、すなわち限りない願いの世界なのです。そして、すべての生きものは、その深い“いのちのねがい”に支えられてのみ生きてゆけるのです。だからお母さんも、今まで以上にあなた達の近くに寄り添っているといえるのです。悲しい時、辛い時、嬉しい時、いつでも耳を澄ましてください。お母さんの声が聞こえるはずです。「生きていてください、生きていてください」というお母さんの願いの声が、励ましが、あなた達の心の底に届くはずです。》(37-38ページ) (2008.07.01) 死ぬというのはどういうことか (身辺雑記 58) ロンドンの南東、電車で40分ばかりのところに、史跡の町として知られるロチェスターがある。この町の中心部には古城と大聖堂があって、チャールズ・ディケンズの小説にも度々登場してくる。ここの大聖堂の売店で、むかし私は、「智慧のことば」と銘打ったポスター状の書き物を手に入れたことがあった。B4版ほどのカラー印刷で、透明なプラスティックでパウチングされている。そこには、死について、つぎのように書かれている。 ***** 死ぬというのはなんでもないことです。私が、いままでいた部屋から出て隣の部屋へ移っていっただけのようなものです。私はいままでの私と同じですし、あなたも私にとって、いままでのままのあなたです。私とあなたとの間柄は、かつてと同じで、私が死んでからも少しも変わってはいません。 いままでのように、親しい呼び名で私を呼んでください。いつものあなたのように、気兼ねなく話しかけてください。私が死んだからといって、話しぶりまで変えることはありません。世間並みに深刻になったり、悲しみの気持ちを表したりもしないでください。私たちはお互いに、ちょっとした冗談にも面白がってよく笑ったものでしたが、あのように、これからも笑ってくれませんか。 遊ぶ時には気兼ねなく遊んでください、微笑を忘れないようにしましょう。そして、私のことを思い出したら、どうか祈ってください。よく私の名前を呼んでくれたように、これからも呼んでください。畏まったりすることはありません。悲しみの影を落とさないように、普通に私の名を呼んでくれればいいのです。 死んだからといって生活が変わるわけではありません。いままでと少しも違いはありません。こちらでも同じように生き続けているのです。だから、私が居なくなってしまったからといって、私のことを忘れてしまわないでください。ほんのちょっとの間のお別れで、どうせすぐまた会えるのですから。私はすぐその辺にいて、あなたと会える日を待っていますよ。悲しむことなんか何もないのです。 ***** これを書き残したのは、Henry Scott Holland (1847-1918) で、彼はロンドンのセント・ポール大聖堂のCanon(大聖堂参事)であった。死とはどういうものか、という重い命題について、100年も前の聖職者が語っていることばとして興味深いものがある。原文はこうである。 |
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